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  私の夢の中に、イエス様がお出ましになりました。
  「なんだ、夢の話か」と思われた方もいると思いますが、夢にも単に肉体的な「雑夢」と高次元からの「霊夢」があるといいます。
  夢の中でイエス様が言われたことは辻褄が合う整合性のとれたものでした。しかもきれいな極彩色の夢で、今でも鮮明に覚えています。
  「 あんたの潜在意識が見せたんじゃないか」と言われる方もおいででしょうが、実はそのメッセージの中の一部に、自分が今まで思ってもいなかったことで、聞いてびっくりしたことが一つあったのです。(それが何かについては、メッセージ本文の後に述べます)。
  信じる信じないは自由ですが、このメッセージは私の作文ではないことは断言しておきます。

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イエス様からのメッセージ

 今のキリスト教は、私を崇めてしまったことが間違いの始まりでした。
 (そのあとしばらく、私への個人的なことなので省略)
 さらにキリスト教の誤りは、植民地主義と結びついたことです。私の伝え方が間違っていたと思います。
 イスラム教徒の方が素直であった。白人種といった人たちはペテン師だぞ。ほとんどがそう。それにだまされたのだ。
 そして、私を裏切った。裏切った者たちは勢力を伸ばしていった。それに歯止めをかけることができなかった私は『神様』から叱られてしまいました。
 だから、「天の父」と呼んだ私の言葉を無視をして、イエス・キリストと言って私の名前を呼んで、私を彼らは本当はさげすんだのです。だから、私がはりつけになっているあのような不様ぶざまな姿を長きにわたって皆のものに見せてきてるだろう。あれは私をないがしろにするためのものだったのだ。
 あの姿は私ではない。そのようなことを私は断じて行ってはいない。『神』に対してはどこまでも私自身は忠実であった。それをあの者たちはあのような形にして辱めをしたのだ。
 磔になったのは私ではない。私はあのような格好では死んでいない。私は普通に天寿を全うしました。それだけは訴えさせてください。
 かつて日本は、どこまでも私を温かく迎えてくれました。しかし、この地のキリスト教とやらは落ちぶれていってしまいました。なぜか分かりますか。この地のキリスト教徒というのは、言葉でのみ理解をして心がない。心のないものばかり、冷たいものばかりがやっているからです。言葉のみ、心は一つもない。だからどこを見てもみな暗い感じがするであろう。そこを何とかしたいと思って私が世話になったから努力をしてまいりましたが、この地の者たちは耳を貸さなかった。
 そこにひとつ加えてほしい。私が崇めていた「天の父」というその『神』を、決して忘れない。そのことをしっかりと思い出してほしいということを付け加えて下されば私は幸いでございます。
 私たちはいろいろな立場におる者がいますが、一番上のところにいる枢機卿という名前がつけられているものは、ふんぞり返っている。私の名のもとにその者たちをしっかりと指導してまいります。
 私は『吾らが天の御父』から任務を戴きました。しかし、壮大な任務となってまいりました。行ってまいります。

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 私が思いもよらなかったことで、聞いて驚いたというのは十字架像のことです。十字架に掛けられたキリスト像を作り、それを祀り、それを拝むということを、イエス様は実に嫌がっておられるということです。本当に意外でした。びっくりしました。そこで、調べてみると、キリストの磔刑像というのはそれほど古くはなく、初期教会にはキリストが磔になっている像は全くないとのことなのです。十字の形そのものはイエス様の時代よりもずっと古くから、『神』のシンボルマークとして使われていました。つまり、「火」と「水」を縦横十字に結んだ姿で『神』を表しているのです。
  しかし、死刑の道具である十字架にイエス様の人間としての姿を磔にした像は、なんと693年の教令によるものだそうです。つまり7世紀の最後の頃に、初めて登場したものなんですね。
  考えてもみれば、宗教が自分の教祖様の死刑になっている姿をシンボルにするというのもおかしな話です。キリストは死に打ち勝って復活したというのがキリスト教の教義の礎なら、むしろ「復活した姿」をシンボルにすべきでしょう。
  それをなぜわざわざ死刑になって絶命したところをシンボルにするのか……今まで考えたこともなかったのに、このメッセージによってハッとさせられました。おかしい。そしてそれは、白人種がイエス様を貶めるためにわざとやっていたことだったというのです。たしかに、イエス様を十字架にかけたのも、この教令が出たのもローマ、すなわち白人種によってです。(イエス様本人が属した当時のユダヤ人は白人ではなく、人種的には今のアラブ人と同じ系統です)。しかも、十字架にかかっているのは、イエス様本人ではないとのこと。(実はこのことは、イスラム教の『コーラン』にもはっきり書いてあったことでした)。そうなると、十字架にイエス様が磔になっている像を飾り、それを拝むなどということは、なんと御無礼なことだったのでしょうか。御無礼を働いて自分が叱られるならまだしも、その行為がイエス様ご自身を苦しめていたのです。
  私はその翌日、慌てて家の中に飾ってあった十字架のイエス像をすべて撤去しました。
  そしてイエス様といちばん因縁の深い国である日本のキリスト教が、最初に真のイエス様のみ意に目覚めることを祈らせて頂きました。我われ人類が真に祈るべきはイエス様に対してではなく、『吾らが天の御父』すなわち『天地創造の神様』なのです。

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