ライナーノート

出雲八重書

 私の古代史観については、コラムに記した通りですが、その大きな骨子として九州にヤマト(魏書では邪馬台と表記)があって日の巫女(同じく卑弥呼と表記)が君臨し、それに対抗する一大敵国クナト(狗奴と表記)が存在したということです。そしてそのクナトの国があった地点こそが出雲の地であると思料します。古代出雲の中心地は今の出雲大社の付近ではなく、東の松江市大庭地方であったようです。そして、出雲神話の中でもユニークなキャラクターとして登場するのがスサノオの命ですが、彼は天照大神(=卑弥呼)の実弟ではなく、補佐官的存在と考えられます。『三国志』「魏書・東夷伝・倭人の条」(俗にいう魏志倭人伝)では卑弥呼に「有男弟佐治国<男弟有りて佐(たす)けて国を治む>」とあります。しかし、もともと高天原の神のはずのスサノオの命がなぜか出雲神話に登場して活躍するのです。スサノオの命の正体とは……、牛頭天王や蘇民将来との関係は……、ヤマタノオロチとは……。サンカとの関係は……。
 安本美典、吉田大洋、佐治芳彦、酒井董美、安達巌の各氏からの示唆を受けて書き下ろした古代出雲の謎に迫る一作。「出雲八重垣」とは実は「出雲八重書」という掟文であるというサンカの伝承も、「八雲立ち」の歌の本当の解釈も、上記の佐治芳彦氏の紹介および研究によるものです。

 

出雲大戦

 上の「出雲八重書」と下の「出雲神宝」の間の時代を描く作品です。邪馬台国から大和朝廷に移行する間に起こった大事件が、出雲の国譲りでした。それは平和裏な移譲などではなく、血を血で洗う戦闘だったというのは、吉田太陽さんの研究でも明らかです。

出雲神宝

 『日本書紀』崇神天皇六十年秋七月己酉条がモチーフです(犯人がばれるので、この史料を先に読まないで下さい)。有名な太刀換え伝説で、古事記ではこの話は倭建命(ヤマトタケル)の話として伝えられています。どうも古代の出雲は神話の国という美称とは裏腹に、何かトロドロとしたものがその内情にはあったようです。つまり、出雲国造家とは、出雲帝国の正統な継承者ではなく、大倭の朝廷とてこの当時はすでに大陸からの征服王朝となっていたということも、その背景にあるようです。そんな古代の謎をベースに、サスペンスドラマの手法を取り入れてみました。

 両面宿儺

「下々の女」という小説の書き出しは、「飛騨は下々の国である」というものです。ところが飛騨は「下々の国」どころか、超太古においては「世界の神都」であったことを初めて世に広めたのは酒井勝軍という人です。その飛騨高山地方にはまた、超太古の歴史とは別に「両面宿儺」伝説があります。今でも丹生川の鍾乳洞の上には「両面宿儺の洞窟」があり、夏季のみ一般に公開されています。また、千光寺に伝わる円空仏の両面宿儺像は有名です。ところが飛騨地方に伝わる両面宿儺伝説と、『日本書紀』に登場する両面宿儺とのギャップには驚かされます。

 護るべきもの

藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が起こした反乱の背景は、歴史の教科書に述べられているような単純なものではありませんでした。日本の歴史の最大のミステリーともいえる「皇統」のあり方にも関連しているのです。さらにその後の女帝と道鏡の関係は……。決して世間一般でいわれているような道鏡巨根説などという薄っぺらなものではなく、民族としてもっと奥深い問題がそこには横たわっていました。

 The GENESIS Chapter 18 to 19

「これはSFじゃないか。これのどこが『歴史小説』なんだ」と多くの方が、いやすべての方が思われるでしょう。ところが、実は「歴史小説」なのです。もっとも、純粋な意味での歴史小説とは言い難いので、「空想・歴史小説(HF小説)」とでもしておきましょうか。この作品が歴史小説たるゆえんはタイトルにあります。ふつうにgenesisとつづれば、「起源、発生、始まり」という意味ですが、定冠詞の「The」がついて最初が大文字で「Genesis」となりますと、『旧約聖書』の「創世記」という意味になります。

 ジウスドラの船

これもなんで「古代」に入っているんだと、誰もが疑問を持つでしょう。どう見ても現代か、あるいはもしかしたら未来の話かもしれないとお思いになると思います。しかし、読まれていくうちに、段々と見えてくるはずです。ああ、古代なのだな、と。しかし、途中でネタわれした方も、安心してはいけません。サイトでは公開していない最後の部分に、あっと驚くどんでん返しがあります。

 養老美泉

私が『続日本紀』の養老四年六月己酉条をはじめて見た時、森鴎外の「最後の一句」を思い出しました。ところがこの『続紀』の記事には、子が身代わりとならなかったために流罪となった秦犬麻呂なる人物も登場します。彼には子がなかったのか、それとも……。私は庶民の反抗という点では共通しながらも、実は「最後の一句」の裏返しを書いてみたくなりました。これを執筆中に、おりしも中国侵略に関する歴史改竄の教科書問題が浮上しました。

 人間・キリスト

キリストの名は日本では一般に「イエス」、カトリックでは「イエズス」と呼ばれています。英語では「ジーザス」ですね。では、本当はどうだったのでしょう?  当時の公用語だったヘブライ語では「ヨシュア」で、実は旧約聖書にも同名の預言者が登場するほどユダヤ人の中ではポピュラーな名前だったのです。ところが、なぜそのポピュラーな名で残らず、「イエス」になったのか。それは当時のユダヤでは公用語のヘブライ語とは別に、口語としてアラム語が話されていたからです。そのアラム語では「イェホシュア」、そして当時の地中海地方の公用語だったギリシャ語で「イエス」に近かったようです。で、この小説では……。イエスの名の言霊は伊勢の「五十鈴」に通じるものがあるということで、「イェースズ」にしました。この作品は、イエス・キリストの生涯を小説でつづる長編です。

 

 

虫愛づる平安京女子高生

 平安時代から室町時代にかけて書かれた短編集の『堤中納言物語』の中に、平安末期の成立と思われる「虫愛づる姫君」という短編が収められています。ある貴族の姫君が眉も抜かず、顔も真っ白に化粧せず、髪を耳はさみして、歯も黒く染めず、おまけに蝶を愛するのではなくその幼虫である毛虫を好んで飼育しているという話です。こういったことから当時としてはこの姫君は奇人変人扱いされるのですが、もしこの姫君は現代なら全く普通の、理系で生物学を研究する女性ですね。つまり、平安貴族の姫がもし現代に来たらその化粧から「お化け」にされてしまうであろうのと同様、現代の女性が平安時代の、それも貴族の世界に行ったら奇人変人になってしまうことは明白です。そこで「虫愛づる姫君」って、もしかして……と考えたのです。
 また「タイムスリップもの」で一応に見落とされているのが、「言葉」の問題です。当時は今でいう古典文学作品の中の「古文」が「口語」だったわけですから、まず言葉が通じるはずがありません。場所が京都なのですから、アクセントも今の関西弁に近かったはずです。そういった意味で、作品の中のカタカナで書かれたセリフは、登場人物にとっても「分からない言葉」なのですから、無理に分かろうとしなくてもいいのです。
ちなみに、蜂飼大納言とは実在の人物で、エピソードは『今鏡』、『古事談』、『十訓抄』などにも出ています。『尊卑文脈』の系図によると、その大納言には若御前という謎の娘がいたとか……。
 まあ、この小説は「歴史小説」ではなくSFですが、平安時代の実態を描いたという点であえてここに入れさせてもらいました。

 

それぞれの秋

 平清盛、西行法師、文覚上人とその父……同時代の人であることは知ってはいても、彼らの互いの結びつきについてはなかなか思いがいかない人が多いのではないでしょうか。私も吉川英治氏の「新・平家物語」を読むまでは、彼らが竹馬の友ともいえる同僚であったことは知りませんでした。しかし三人が迎えた人生の結末は、天と地ほどの開きがあります。私はこの点をクローズアップして作品を書きたかったのです。そんな折、ふと耳にしたアリスの「それぞれの秋」という曲が、彼ら三人の人生とオーバーラップしました。

 

長篠城の落日

O家の人々は週に一度50本の注射を打たねばならない奇病や、一家が病弱で、また夫婦仲もうまくいかず浮気に走る息子とかもいて、不幸現象いっぱいでした。ところが霊査によって判明したのは、今から400年前の戦国時代末期の、ある有名戦国武将の霊が一族に憑依して霊障を起こしていたからでした。この御霊を諭すには一ヵ月半かかり、「まさか織田家の子孫に救われるとは思わなかった」と言って霊が離脱すると、O家の障害はあれよあれよと解消していったのです。

 

リヴァー渡来記

 子供の頃に絵本で読んだ『ガリヴァー旅行記』ですが、あれは決して子供のために書かれた童話ではありません。れっきとした大人向けの作品です。ですから大人になって絵本ではなく原作(またはその翻訳)を読むと、実に風刺に満ちた作品であるという違った見方ができます。そして、ガリヴァーというとイメージとしてついつい「小人の国」を思い出しがちですが、ガリヴァー氏は他にもいろいろな国に行っています。そしてなんと『ガリヴァー旅行記』の中で、ガリヴァー氏はわが日本にも来ているのです。年代がはっきり書いてありますから、ちょうど六代将軍家宣の時代のことだと分かります。『ガリヴァー旅行記』にはいろいろ不思議な国がたくさん出てきますが、その中で唯一実在する国が日本なのです。スイフトにとって当時鎖国していた地球の裏側の国の日本は、小人の国や巨人の国と同じような不思議な国だったのでしょうか。ちなみに私の作品ですが、主人公の横山とガリヴァー氏以外の登場人物は、すべて実在の人物です。

 

新選組脱走録

 新選組といえばついつい土方歳三や沖田総司というスター的存在に目が行き、しかも彼らをヒーローとして扱いがちです。かつては「人斬り集団」としか見られていなかった新選組のイメージが人々の間で大きく転換したのは、司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」からではないでしょうか。それに宝塚公演や劇画「天まであがれ」などが拍車をかけたのでしょう。ところがそういったヒーロー的幹部に対し、一般の隊士はどうだったのでしょうか。恐らく隊務の中で恐怖におびえていたのではないかと思います。特に百姓あがりの隊士は、なおさらだったでしょう。彼らにとっては、後世の我々から見たらヒーローである土方や沖田も、恐怖の対象以外の何者でもなく、当然脱走を企てる者も多かったはずです。子母沢寛の「新選組始末記」などではごくわずか脱走に成功した人の例も出ていますが、それはごく特異なケースで、実際はほとんどが連れ戻されて処刑されたようです。その代表が山南敬助ですが、どうも脱走してつかまった人は発想が単純だったような気がします。騒ぎを起こしてどさくさにまぎれてという苦し紛れの策でもなく、この作品の主人公が考えたような奇抜なアイデアで脱走計画を立てた人がいたら、あるいは脱走が成功したかもしれません。しかし、歴史の流れ、あるいは運命というものはもっと過酷だったりします。

 

高台寺党始末

 この話は実話です。そう言っても、「新選組の、しかも高台寺党のことを書くんだから、元になっている話が実話なのはあたりまえだろう」と思われた方もあると思いますが、実はそれとは違った意味で実話なのです。つまり、この作品の中の出来事は、私の身近で数年前に起こったことなのです。ケースがあまりにも新選組の高台寺党事件に似ていたので、かこつけて小説にしてしまいました。ですから近藤や会津侯などのセリフは、私のまわりの人が実際に言った言葉そのままです。

 

海 猫

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」には土方歳三の恋人として、架空の人物のお雪が登場します。しかし、佐藤cさんの「聞き書き新選組」によると、土方歳三には実在の許婚がいたとのことでした。当時ご在世だった佐藤さんに私はもっとそのお琴さんの史料がほしいと頼みましたが、「聞き書き新選組」に書かれているのがすべてだという回答でした。そこでお琴さんを描くには、ほとんどの部分を空想で埋めるしかありません。私は彼女の家が戸塚村の三味線屋であったということから、今の早稲田の近くの面影橋のそばに設定し、「おもかげ橋」というタイトルの長編を書きました。今回提供するのはそのお琴が故郷の宮古(これは私の創作です)へ帰った後の「第五章・海猫の章」を短編という形にコンパクトにまとめたものです。

 

鬼子兵

 日中戦争時の日本側の史料で「日本軍がいかにひどいことをしたか」というのはいくらでもありますが、「日本軍にいかにひどいことをされたか」という中国側の史料はは、日本ではなかなか手に入りません。そこで「中国Yahoo」で中国のホームページを検索したところ、かなりありました。また筆者は中国滞在中にも中国側から見た史料や中国側の観点で描かれたドラマなどを目にしましたが、その中に出てくる日本兵は全く血も通っていないまさしく「鬼」そのものとして描かれていました。中国ではテレビをつけると、日本軍の中国侵略時の残虐行為を描いたドラマがかなりやっていて、中国の子供たちはそのようなドラマを繰り返し見て育っており、「日本鬼子(リーペンクイツ)」という言葉はどの子供でも知っています。だが日本軍の残虐行為には、日本軍の一兵卒たちが軍隊という苛酷な環境の中に置かれているという特殊な状況下にあったこと、命令の絶対性や集団心理という要素などもその背景にあったことでしょう。決してそれで日本の軍部の罪が許されるはずはありませんが、筆者はとにかく日中双方の視点からあの戦争を見つめる作品を書く必要性を感じたのです。

 
 

南京は恐怖の雨

この話は戦後間もなく発生した実話です。物語では主人公は女子大生になっていますが、実際の体験者はとある大正時代の総理のお孫さんで、当時は日中友好と国交回復運動に挺身していたその男性が南京で体験した話がベースになっています。

 


 いちご畑の歌

  その日ぼくは松田聖子のコンサートを見に、中野サンプラザへ行っていました。朝から並んでいたので、その事件を知らず、司会者からそのことが告げられた時、会場じゅうがどよめきたちました。昭和55年12月8日(日本時間では9日)――ひとつの時代が終わりを告げました。一発の銃声とともに……。ぼくは「いちご畑の歌」を、すべてのビートルズ世代に贈ります。『旧約聖書』「イザヤの書」第五章から翻案した詩を添えて。

 

 ぼくは守護霊様

  世の中には表と裏があります。古来日本語では、「裏」は「うら悲しい」などのことばが示すように、「心」と同義語として使われていました。そして「心」のさらに奥に、「霊(魂)」の世界があります。ぼくは「いちご畑の歌」の「裏」の世界を描きました。そのunseen(不可視)の世界こそ重要で、実相の世界だったりします。この作品はフィクションですが、裏の世界の実在はフィクションではありません。

 

 風去りぬ

何の変哲もない学園ものの小説のようにお思いでしょうが、「歴史小説フリマ」に入っているくらいですから、もとの話があります。「近代」よりも先に「近世&幕末」を開いた方なら、もとの史実がお分かりでしょう。

 

超空間の黄昏

この話のベースは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。『銀河鉄道の夜』を読んだとき、これは単なる空想の童話ではないと直勘し、『銀河鉄道』で宮沢賢治が描こうとした世界をもっとリアルな形で描きたいと思いました。それがこの作品です。執筆に当たっては、丹波哲郎さんの研究書やスウェーデンボルグの著書も参考にさせていただきました。

 
 

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