「『堤中納言物語』は一つの完結した物語ではなく、十編の短編で構成されている。それぞれは作者も成立年代も異なっているが、平安末期以降の成立と見られる。『よしなしごと』に到っては、室町末期の作と考えられる。作者も『逢坂越えぬ権中納言』以外は不詳であり、『堤中納言物語』という名称の由来も、諸説あるが定説はない」
序の巻
教科書を読む先生の声が、右の耳から入って左の耳に抜けていく。授業中とはいっても、私はそれどころではない。ああ、もう、ちょーやな感じ! もう、イライラする!
「と、いうわけで今説明を読んだ『堤中納言物語』、前回も少し入ったけど今日はみっちりやっていくわよ。じゃあ、読んでもらおうかな。はい、じゃあ、小島美千子さん」
そんなこと考えてたら、いきなり私の名前を呼ぶヒステリーばばあ、あ、いや、先生の声。
「読んで」
え? そんな、急に読めって言われたって……。
「ねえ、どこどこどこ?」
慌てて私、隣の席のルンちゃんからページ数を聞く。
「小島さん、早く!」
「あ、はい」
立ち上がって教科書を開いたけど、何、これ? こんなの読めってか? いつも思うんだけど、古文って本当に日本語なの?
「早く!」
「あ、はい。えっと、テフメー……、えっと、つる姫?」
教室中がどっと爆笑。
「ちょっと待って」
オールドミスの声が、私をさえぎる。その声、ますますかん高くなってる。そして黒板には大きく、「てふ」と書かれる。
「これは『チョー』って読むんでしょ! こんなの、中学生の時に習ったはずよ! しかも、漢字で『蝶』って書いてあるのに」
んだったら、「てふ」なんてふりがなふるなよ……っていっても「蝶」なんて漢字、読めないけど。
そうしたら先生、黒板に黄チョークで「ちょう」と書いてた。
「あ、はい、分かりました。えっと『ちょーめずらしい姫君の、住みキューフ? カタハラに?』」
またもや教室は笑いの渦。先生は呆れたふうをして立っていた。
「もういい! あなたをあてたのがまちがいだったわ」
もう、そんな言い方しなくたっていいじゃん! もう、ちょームカつく! 教室の中、笑いが続いていて止まりそうもない。
「お座りなさい」
で、おとなしく座りかけたのに、
「もう。まったく、受験まで一年を切ったというのに」
なんて言われたら黙っていられない。だから、また勢いよく立ち上がった。
「ちょっと、先生! 私、理系なんですウ! 入試に古文なんか、いらないんですから!」
「はい、はい。そうでしたね、生物部の部長さん」
まったく、もう! へんな時にあてないでよ! こっちはそれどころじゃないんだから! 座ってからそう考えたら、ああ、また暗くなる。せっかくの第二土曜だからお休みの今度の週末、本当は生物部の部員たちと多摩の方へトビムシの群生と植生との関連について調査に行くはずだったのに、もう、うちの親ったら……! 部長の私が行けないんじゃ調査も中止よねえ。放課後になったらそのことを、顧問の山崎に言いに行かなくちゃなんない。あーあ、ヤダヤダ! ああ、ユーツ!
「そういう事情なら、仕方ないな」
生物室の奥の生物科準備室と兼用になっている生物部の部室で、顧問の山崎先生は白衣姿で優しく言ってくれた。少しはホッ! だからこの先生、好きさ。
「エーッ、京都で着物のショーのモデル? すっごいじゃん」
部員でもないくせに勝手についてきた長刀部のナギ――長刀部員だからそう呼んでいる――が、訳も分かっていないくせに長刀じゃなくて横槍を入れてきた。
「冗談じゃないよ、ナギ! こっちの身にもなれってよ。もう、親に無理やりになんだからね」
「ミッコのおばさんって、着物学院の学院長なんだよね。で、さあ、ショーでどんなん着るの?」
「なんか、平安時代の十二ナントカだってさ」
「え? それって、十二単じゃない? 渋い!」
「おお、いい勉強になるじゃないか」
「ていうか先生! あいつが一緒なんですよオ!」
「あいつって?」
「隆浩」
「ああ、C組の佐々木か。おまえ、あいつと仲がいいじゃないか」
「いいえッ! もう、ちょっと、やめてください! ただの幼なじみですウ! うちの親が勝手に気に入ってて、今回のショーのモデルを頼んだだけですから!」
「そうかあ? 本当かあ? 本当は彼氏なんじゃないのか?」
もう、なに、にやけてんのよ、この先生。
「違いますウ! もう、ちょーやな感じ! だいたい恋愛なんて、生物学的には種の保存本能が脳を刺激して持たされている感情にすぎないんだから、そんなのに私、振り回されたくはありません!」
いつしか私、ムキになっていた。先生は笑ってる。何を笑ってるんだろう。
「ま、気をつけて行って来い」
「だからあ、行きたくないんですってば! 多摩に行きたかったあ! 私の研究には蝶の幼虫が少なすぎるんだもん、この生物室」
「あ、本当は小島。トビムシの調査は二の次で、蝶の幼虫の採集が目的だったんだろう」
「あは、ばれてる。でもねでもね、先生。文化祭の口述発表の『アカタテハの幼虫の羽化過程について』に私、青春をかけてるんだから」
「大げさだな。でも、京都なら東京よりも自然があるぞ。古都保存法というのがあってだな……、あ、行くの、今度の土曜日って言ってたよな。何日だ?」
「十一日」
「え? 今は確か一九九四年だよな。九四年の六月十一日……」
笑顔だった先生の顔が、急に強ばった。ため息すらもついている。
「どうかした? 先生」
「あ、いや……。なあ、小島。どうしてもその日に、京都に行かなきゃなんないのか?」
「どうかしたんですかあ? 急に。そりゃ行きたくはないけど、でもねえ、親が……」
自分から「しっかり行って来い」なんて言ってたくせに急にそわそわしはじめた先生は、真顔になって、
「くれぐれも気をつけてな」
と、それだけ言って部室を出て行った。
私の母親と隆浩のお母さんは下りの「ひかり」博多行きの車内、私たちの前の二人がけの席で話に夢中。二人とも着物なんか着ちゃってさ。で、なんで私は、隆浩なんかと隣同士の席に座んなきゃなんないのよ。せめて窓際なら景色を見てすごせるのに、隆浩ったらさっさと先に窓際の席とって……。前の二人はいいわよね。中学校以来の親友同士だってさ。でもどうしてそのそれぞれの子供同士までもが、こうして一緒にいなきゃなんないのさ。もう、冗談じゃないって感じ。やだやだ。ちょームカつく!
私はとりあえず、持ってきたコミック本を開いた。今、はまっている「風の戦士エリス」。それをのぞきこんで隆浩ったら、
「それ、女が読むマンガかよ?」
だって。女の子だって十分に読むマンガだと思うけど。
「まあ、女だてらに生物部の部長だもんな」
何、その差別的発言! 許せない! だからもうあとは隆浩なんか無視して、コミック本に没頭した。この「風の戦士エリス」って、アニメ映画として公開された時は私はまだ小学校二年生だったから見ていないけど、中学生の時にテレビでやってたの見てすっかりはまっちゃった。私が虫の研究に没頭しようと思ったのも、主人公のエリス姫の影響。世界の秘密を知るために生きているとまで言う好奇心旺盛な女の子。穢海の植物にも巨大な蛾虫にも愛情を注いで、虫の声も聞けるし、一つ一つの生命とのかかわりを大切にする。その真剣に粘性菌を研究する姿にまいっちゃって、高校に入ったらすぐに虫の研究のために生物部に入ったんだ。今年の三月に久しぶりにまたテレビで見て、思いきってコミック本七巻、春休みのバイト代はたいて買っちゃった。あの映画って、第二巻までしか映画化してなかったんだってことも知ったし、三巻以降はどんどん映画にはない状況があって、深い作品だったんだなって思う。その七巻目の途中までだったから持ってきたけど、着く前に読み終わっちゃった。でもなんか、映画の時ほどの感動じゃなくって、なあんか後味悪いなあって感じ。あんまり感情移入できないのよね。
隆浩の方もずっと私を無視して、小さな暗記カードをのぞいて、めくったりして見ている。その向こうの窓の外に、駅が流れた。車両の前の方のドアの上の電光掲示板には「ただいま新富士駅を通過中」という文字が横に流れている。コミック本は読み終わっちゃったのに、まだまだ先は長いみたい。
「何、見てんの?」
暇だから、隆浩に声でもかけてみた。
「日本史の勉強」
ぶっきらぼうに答える隆浩の向こうの窓の外には、工場がすごい勢いで流れていった。
「ちょっと貸してみ。問題出したげる」
「おお、何でも来い」
隆浩の手から暗記カードを受け取り、適当にめくってみる。
「いい? いくよ。エット、オーテン門って読むの、これ? その、応天門の変」
「八六六年、伴善男が応天門に放火して、失脚した事件」
「すげ! あってる。じゃあ、エット、カタナイ? トウイ? イリカン?」
「はあ?」
のぞきこんだ隆浩は、呆れた顔。
「刀伊! 刀伊の入寇」
「じゃ、その刀伊の入寇」
「一〇一九年、女真族の刀伊が博多に上陸した事件」
「エーッ、何でそんなこと知ってんの?」
「何でっておめえ、入試に出っからだよ。おめえなんか、入試に日本史ねえからいいだろうけどな」
「じゃあ、保元の乱」
「一一五六年、崇徳上皇と左大臣藤原頼長が起こした反乱。左大臣側が敗れて上皇は流され、左大臣頼長は戦死」
「すげ。じゃ、次はね」
「もういい、返せ」
隆浩は私からカードをひったくると、また一人きりの世界に入っていった。私は退屈で仕方なかったし、今朝が早かったものだからそのうちウトウトしはじめて、とうとう熟睡してしまった。
「着くぞ」
隆浩につつかれて目を覚ますと、窓の外は暗かった。
「え? もう夜?」
「ばーか、トンネル。それよりおめえ、どうでもういいけどよオ、口あけて寝んなよな」
「やだ、もう! 口なんかあけて、寝てません!」
「とにかく着くぞ、京都に。このトンネル出たら。早く仕度しろ」
仕方なく立ち上がって、網棚の荷物を下す。隆浩ったら知らん顔。男だったら手伝ってよねって感じ。
「ティンティリリンティン、ティンティリリン」なんてメロディーのあとに京都到着を告げる車内のアナウンスが流れると、新幹線はパッと明るさの中に飛び出し、すぐに高架の下に町が広がるのが見えた。アナウンスはまだ続いていて、京都からの乗り換え列車の案内なんかしてる。
「わ、山がある! 京都って、こんな近くを山に囲まれてんだ!」
何だかそれだけで、私はわくわくしてしまう。でも、虫篭を持って来ればよかったなんて、今頃後悔しても遅いね。もっともそんな暇はないかもしれないけど。着いたらすぐに明日のショーのためのリハーサルだって、お母さんは言ってたし。
新幹線を降りて、在来線の乗換え通路の方を通って改札を出て、京都タワーに見下ろされながらタクシーを拾って、ショーの会場の東山文化ホールに直行。そこにはもうわんさか人がいて、お母さんに着物学院の関係者に引き会わされるたびに何度ぺこぺこと頭を下げたことか。「あーら。小島先生にこんな大きなお嬢さんが?」とか、「まあ、お母さんにそっくり」とか、それに「あら、ミキコちゃん、お久しぶりね」なんて、こっちが全然覚えていないおばさんから懐かしがられたりして。
「あのう、ミキコじゃなくってミチコです」
「あーら、ごめんなさい。オホホホホホ……」
何がオホホホホホよ、もう。いいかげんにしてって感じ。でも顔はニコニコ笑ってなきゃなんないから、そこがつらい。でもここへ来てから、先生、先生と呼ばれながら忙しそうに走り回っている母の姿を見た時は、お母さんって偉いんだって再認識してしまったりもした。
お弁当が出て、それ食べたらさっそくリハーサル。今日は普段着のまま。私たちの出番は割と早かった。私はかぐや姫だという設定で、隆浩はいい気味、下人の役だってさ。
役とはいっても別に演技をするわけでもなく、ただ舞台の上を歩き回って、月に帰って行くということになるみたい。歩くのが速いって、演出のお兄さんに何度も注意された。そして最後はライトが後ろの壁に作った月に向かって、階段を昇っていって終わり。これがまた急な階段。しかも本当はない階段だから、黒く塗ってあってよく見えない。
「速い、速い! 本番ではな、もっと重い衣裳を着るんやで」
演出のお兄さんは、さらに叫ぶ。
「そしたら下人たち! 階段の下まで駆け寄って! かぐや姫を見上げて!」
下人役は何人もいるけど、階段の脇のすぐ下にいるのは隆浩。見上げてって、今日は普段着のミニスカートのままなんだから、そんなところから見上げられたら、やだ! パンツ丸見えじゃない! こんなのがあるなら、お母さん、先に言ってよ、もう。そうしたらGパンで来たのに。
「見んなよ! ひとのパンツ!」
思わず私は、隆浩に叫んでいた。
「よそ見したらあかんて。落ちる!」
お兄さんの叫び声がまた飛ぶけど、そうなのだ。本当に狭い階段なのだ。
楽屋に戻ってから私は、当然のこととして隆浩に食ってかかった。
「だって、仕方ねえだろ。見上げろって言うんだから。だいいち、おめえのパンツなんか見たかねえよ」
「ほんとオ? 本当に見なかった?」
「ああ、白に青のストライブだなんて、見てねえから」
「あッ! 信じらんない。もう、この、スケベ!」
笑いながら逃げる隆浩を追いかけていると、お母さんが入ってきた。
「さあ、もうあなたたち終わりだから、京都見物でもしてきなさい。五時までには戻ってらっしゃいよ」
「え、二時間だけ?」
「そう、貴重な二時間。明日からは朝からまたリハーサルで、午後の本番が終ったらすぐに帰りだからね」
「え、お母さんは?」
「私は駄目よ。まだ出られないわよ」
「えーっ、京都なんてよく分かんない。どこに何があんのか」
「山代君が、車で連れて行ってくれるって」
山代さんっていうのは、着物学院の若い事務の男の人。時々東京にも来るから、私も知ってる。何だかいつもお母さんの下でこき使われているみたい。今日だって連れて行ってくれるなんて言ってるけど、本当はお母さんが命令したんでしょ。
その彼は、すぐに現れた。
「時間ないし、ほな、さっそく行きましょか」
隆浩のほかに、隆浩のお母さんも一緒に行くことになった。
「そしたら、どこ行きます?」
助手席をしっかり占領した私に山代さんが聞いてきたので、この際後ろのシートの隆浩親子の意見は無視しよう。
「うん、どこがいいですか」
「この近くやったら平安神宮とか知恩院とか。足をのばせば清水もあるけど、どこがよろしいかな」
「あ、ていうか、お寺とかには興味はないんで、できたら山の上とか」
「何言ってんだよ、おめえ!」
後ろから隆浩が身を乗り出してきて文句言ってるけど、無視無視! 山代さんは笑ってる。
「山?」
「ほら、あのホールの上にあった山」
「ああ、東山ね。あの山やったら車で登れますよ。ドライブウェイもありますし。そやけどやっぱ先生のお嬢さんは、目をつけはるところがちゃいますわ。もしかしてツーやったりして」
「いいえ、京都は初めてです」
「修学旅行は?」
「中学の時は東北で、高校は去年、中国の上海」
「そうですか。最近では、修学旅行で海外に行くところも多いみたいですな」
「ええ、そうみたいですね」
その後もうしろの席の母子は無視し続けて、私と山代さんは二人で盛り上がっていた。
道は山の中を蛇行していたが、結構立派な道だった。登りきったと思われる所に駐車場があり、山代さんはそこに車を入れた。駐車場の隣は公園。空はよく晴れていた。山の上とはいってもずいぶん文明化されていて、家なんかも建っていたりする。ちょっと期待はずれかなあなんて思いながらしばらくアスファルトの道を歩いていくと、展望台みたいになっている所があった。
「うわっ!」
思わず私は、小走りに走っていった。京都の町が一望。手前には川が左右に横たわり、その向こうには箱のような低いビルがぎっしり。
「うわー、ビルばっかし。町全部がビルじゃない」
「そやけど、高いビルはないでしょ。京都には高いビルを建てたらあかんいう法律があって……」
「あ、古都保存法」
「よう、知ってはる」
「先生が言ってたから」
山代さんは、右前方を指さした。
「あそこの大きな四角い緑の部分。あれが京都御所で、その向こうの小さな四角が二条城」
「へーえ。でも町中はビルばっかりでも、みごとに回りは山に囲まれてるんだ、京都って」
建物がぎっしり並ぶ町の向こうは山が割りと近くに横たわっていて、それと今自分たちのいる山との間に挟まれて町がある。
「もっとよう見える展望台があるし、そこへ行きましょう」
私と山代さんを先頭に、隆浩とそのお母さんが後からついて来る形となった。来た道を少し戻って別の方へ行くと、やがて小さなお寺の門に出くわした。それをくぐる。駐車場からここまでの道も、結構人は多かった。みんな観光客みたい。
「あ、なんかある」
隆浩が、前を指さした。行ってみると立て札があって、「将軍塚」と書かれてあった。それに続いて説明も書いてあるけど、そんなの読む気はしない。しかし隆浩だけは、熱心にそれに見入っている。その後ろには、大きな石が二、三個あるだけ。その上の楓の木が、緑の枝を覆いかぶらせていた。
「えっと、なになに? 将軍塚は八世紀の末、桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ八尺……」
声を出して読み始めた隆浩のそばに、山代さんは笑いながら近づいていった。
「これがそうちゃいますよ。ここは説明だけ」
「え、これじゃないんですか? じゃあ、本物の将軍塚は?」
「あのお寺の庭ですわ」
すぐ近くには、小さなお堂程度のお寺があった。庭には、そこの脇から入っていくみたい。
「じゃあ、行こう」
「えーっ、お寺なんてやだって言ったでしょ」
私が隆浩に抗議すると、山代さんがまた笑って言った。
「さっき言うた展望台は、この中なんですけどな」
「じゃあ、行く」
みんなして本堂の方へ行くと、隆浩は突拍子もない声をあげた。
「なんだあ、金、とるんだあ」
私は鼻で笑う。
「高校生二百円でしょ。けちけちすんじゃないよ、男のくせに」
「おふくろ!」
隆浩は母親の方へ目をやった。さっきから借りてきた猫のように黙って微笑んでついてくるだけだった隆浩のお母さんは、結局私の分や山代さんの分までも拝観料を払ってくれた。山代さん、ずいぶん恐縮してたけど。
本堂の脇には屋根のついた抹茶席があって、修学旅行の中学生の女の子たちが抹茶を飲んで騒いでいる。貸し切りタクシーの運転手が、彼女らのカメラのシャッターを押させられていた。それを横目にちょっとした芝生の広場を抜けると、すぐに鉄骨で組まれた巨大なステージが見えてきた。その右にまた「将軍塚」の立て札があって、今度は説明はなく、後ろには木の柵で囲まれた中に土が小高く盛られていた。塚の下の方は少しだけ石垣で、塚全体はそう高さはないけれど結構大きくて、上には松を中心とした雑木が何本も植えられていた。
「すげえ。平安京が造られた時からの塚なんだぜ、これ」
隆浩が勝手に目を輝かせている間に、山代さんは鉄骨のステージを指さした。
「あれが、さっき言うた展望台」
実はステージではなく、展望台だったんだ。左右に階段がついている。その前でふと、私は立ち止まった。
「隆浩、先に行って」
「なんで」
「だってあの折り返しの下で、また下からパンツのぞかれたら困る」
「おまえのパンツなんか、見いひんて」
「何それ、その下手な関西弁」
「山代さん京都弁のがうつってもうてな。おれ、すぐ環境に順応するタイプやさかい」
「やめてって! もう」
山代さんも笑って、
「まあ、ほんまもんの京都弁は、もう今ではあまり聞かれへんなってしまいましたな。伝統的な京都弁いうたら舞妓さんくらいしゃべってるものくらいですけどな、その舞妓さんやってほんまの京都の人違うし。ほとんど大阪弁と同化してしもうてますわな。そやけど、まだやはり京都と滋賀、大阪、奈良、神戸と、それぞれ微妙に違うんですわ。大阪でも、河内弁というのが独特ですけどな」
と、そんな解説していた。
鉄骨の上の展望台は木に邪魔されていないだけ、さっきよりずっと京都の町が一望できた。確かに周りが全部山に囲まれている。左の方だけ山が切れているけど、そちらの方のまるで一本だけぽつんと立った爪楊枝のような白い京都タワーが眺められた。
「箱庭みたい」
そうつぶやいた私だったけど、実は関心は京都の町よりも、目の下の木々が茂っている森だったのだ。
「短い時間しか京都を見られへんさかいここへ来たいって言わはった美千子さんは、やっぱどう考えてもツーやわ。短い時間で京都を全部見られるとこ言うたら、ここか京都タワーしかあらしまへんしな」
山代さんのそんな言葉にも、私の視線は足下に釘付け。
「ちょっと先に行っていいですか」
「え、どこへ?」
「あの森」
「でも、ここからは行かれへんですわ。柵がありますし。一度お寺の外へ出んと」
それなら早く出ようと、まだ文句を言っている隆浩をあとに、展望台から降りる階段の方へと私は向かった。
はじめにくぐった小さなお寺の門を出ると、右側に森へと入っていく有刺鉄線沿いの細い土の道があった。その道へ私は一人で入って行った。私はとにかく、自分の目的である山の中へ入ったのだ。でも……
なんだ、がっかり! 完璧に人工の植林。公園の植え込みと変わらない。しばらく歩いてみたけど、虫の子一匹いそうもない。木と木の間はただの土。草一本生えていないじゃない。この道は自然歩道になっているみたいで、町を歩いているのと変わらない服装をした人々が下の方からはどんどん登ってくる。自然はといえばカラスの鳴き声が聞こえるくらいで、そよりも山の下の町中の方から聞こえてくる車の音や、宣伝カーの声の方がうるさかったりする。これならば絶対に、多摩の方がまし。またもや期待はずれ!
「帰ろ」
隆浩たちのところまで戻った私は、こころなしか不機嫌になっていた。
夜はホテルから歩いて、仕方がないから隆浩を誘って新京極へ行ってみた。母に勧められたからだ。アーケードの下にお土産物屋さんが軒を連ねてはいるけど、東京にもありそうな喫茶店やゲーセンがあったりして、何だかつまらない。やたら修学旅行生ばかりだし。今の時期はほとんどが中学生だけど。
早々に引き上げることにしたホテルまでの帰り道、ふと夜空を見上げてみた。東京の空と変わらないくらいにしか、星は見えなかった。こんな山に囲まれていても、やはりここは都会なんだとつくづく思った。
「奉祝・平安建都千二百年」
やけに大きな横幕が、東山ホールの入口に掛けられていた。ショーは午後からだけど、着付けと最終リハーサルのために私たちは朝からホール入りしていた。
それにしても、なんで隆浩と同じ控え室なんだろう。お母さんはそのへんのところには無頓着で、「あんたたちのおしめ、二人いっぺんに取り替えたこともあるんだから」とか言って、私たちを兄妹くらいにしか思っていない。そのうち学院の講師に人たちによって、着付けが始まった。さすがにその時は隆浩とは別かと思ったら、なんとこのまま一緒にこの部屋でだってじゃない。もう、信じらんない!
なんとか隆浩とは背中合わせに立って、下着だけになる前に一番下の着物――小袖っていうんだって――を羽織ってうまく隠したけど。でも次に赤い袴をつけたときは、もう隆浩の方の着付けは終っていた。
「やーい、巫女さん、巫女さん」
そう言って、隆浩がからかう。
「ほっといてよ。あんたなんか下人のくせに」
隆浩が着ているのは、直垂っていうらしい。だけど私の着付けは、まだ終らない。いったい何枚重ねるの?
「昔の人って、本当にこんなに何枚も重ね着してたんですかあ?」
着付けをしてくれている和服姿の着物学院の先生に、思わず聞いてしまった。
「ええ。でもね、これは晴れの衣裳でね、普段着の褻の衣装の小袿っていうのは、もっと簡単なものなんですよ」
よく分からないけど、いつもこんなの着ていたわけじゃないって聞いて少し安心。次はメーク。まずはヘアメークから。私、結構髪は長い方で、それを御姫様のように真ん中で分けて、そしてかつら。と、いってもすっぽりかぶるものじゃなく、部分的にピンで止めて私の本当の髪と絡ませるもの。でも、長いんだあ。立っても足元まで届く長い髪になっちゃった。そして顔は真っ白に。
「本当はね、眉は全部抜いて、おでこに眉墨っていうのをつけて。歯もお歯黒っていって全部黒く染めてたんですよ。そうしてみますか」
冗談ぽく笑うメークの人に、
「結構です!」
と、私は激しく言っていた。
いよいよ本番! オープニングは学生たちによる振袖舞い。あっちの方がよかったなあ。隆浩ったらまた暗記カード出して、こんな時にまでのぞき込んでる。
「またやってんの?」
「こんな格好で覚えたら、リアルな感じで覚えられるじゃんかよ。あ、でございます。姫様」
なんか姫様なんて言われると、エリス姫になったみたい。でも、格好がぜんぜん違うけど。
「出番でーす」
と、そこへ声がかかった。隆浩は暗記カードを懐に入れて立ち上がった。一人でさっさと行くなって。私は長袴で歩けないんだから。
あー、どうしよう。緊張してきた。胸がドキドキ。説明役の先生が、十二単の解説を始める。ゆっくりと私は、出て行かなければならない。ここはもう、度胸を決めるしかない。
ライトがまぶしい。観客の視線が私に集まっている。とにかく重い! そんな重い衣裳に押さえつけられながらも、何とか転ばないようにと私は必死。
「かぐや姫、月に帰ります」
ここで方向を変えて、観客に背を向けて階段を上がる。階段のうえの壁には黄色い月が、ライトの光で作られて映っている。下人たちが走ってくる。一歩、一歩、私は階段を踏みしめて上がっていく。階段の下に隆浩がいて、見上げている。今日はパンツをのぞかれることはないけど、昨日のことを思い出して急にいらいらしてきた。もう一度、隆浩を見下ろしてみる。目がくらむ。長袴で思うように階段が上れない。布がすべる。あっと思った瞬間には全身が傾いて、慌てている隆浩の顔に向かって倒れ込んでいた。
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