几帳布筋(のすじ)

源氏物語と霊障

平安京は、怨霊で塗り固められた世界であった。人々はその怨霊への恐怖におののきながら暮らしていた。それは、平安京が数々の流血を基礎に築かれた都だからである。現代の京都人でも、「京都は血生臭い町や」と言った人もいた。具体的に怨霊とは、桓武天皇の皇太子で廃太子となって遠流(おんる)先で憤死した早良親王、反乱の罪で幽閉されて自害した桓武帝夫人の藤原吉子とその腹の伊予親王、そして平城太上天皇の反乱(薬子の乱)の片棒を担いだ藤原仲成などである。これらの怨霊を鎮めるために、貞観五年(845年)からは神泉苑で御霊会(ごりょうえ)が執り行なわれるようになった。
  ところが源氏物語の時代(執筆時代ではなく、作中の時代)における最大の怨霊は菅原道真の怨霊である。そして落雷はその怨霊のせいであると考えられた。だから雷がなると、人々は「ここはあなたの荘園であるから、ここには雷を落とさないでくれ」といった意味をこめて、かつて道真の荘園であった桑原荘の名を「くわばら、くわばら」と唱えたのである。
  そもそも、平安時代の人々は、霊の実在とその霊障について、現代人以上によく把握していた。そうでなければとてもできない具体的でリアルな描写が、源氏物語の随所に見られる。例えば有名な「葵」の巻の六条御息所が、「葵上」に憑依し浮霊した場面である。少し長くなるが、引用しておく。
  「『何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ』
  と、慰めたまふに、
  『いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける』
  と、なつかしげに言ひて、
  『嘆きわび空に乱るるわが魂を
  結びとどめよしたがへのつま』
  とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。『いとあやし』と思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。あさましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出づることも、聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見す見す、『世には、かかることこそはありけれ』と、疎ましうなりぬ。『あな、心憂』と思されて、
  『かくのたまへど、誰とこそ知らね。たしかにのたまへ』
  とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。人々近う参るも、かたはらいたう思さる。

  (現代語訳《渋谷栄一氏の「源氏物語の世界」より》;『何事につけても、ひどくこんなに思いつめなさるな。いくら何でも大したことはありません。万が一のことがあっても、必ず逢えるとのことですから、きっとお逢いできましょう。大臣、宮なども、深い親子の縁のある間柄は、転生を重ねても切れないと言うから、お逢いできる時があるとご安心なさい』
  と、お慰めになると、
  『いえ、そうではありません。身体がとても苦しいので、少し休めて下さいと申そうと思って。このように参上しようとはまったく思わないのに、物思いする人の魂は、なるほど抜け出るものだったのですね』
  と、親しげに言って、
  『悲しみに堪えかねて抜け出たわたしの魂を
  結び留めてください、下前の褄を結んで』
  とおっしゃる声、雰囲気、この人ではなく、変わっていらっしゃった。『たいそう変だ』とお考えめぐらすと、まったく、あの御息所その人なのであった。あきれて、人が何かと噂をするのを、下々の者たちが言い出したことも、聞くに耐えないとお思いになって、無視していられたが、目の前にまざまざと、『本当に、このようなこともあったのだ』と、気味悪くなった。『ああ、嫌な』と思わずにはいらっしゃれず、
  『そのようにおっしゃるが、誰とも分からぬ。はっきりと名乗りなさい』
  とおっしゃると、まったく、その方そっくりのご様子なので、あきれはてるという言い方では平凡である。女房たちがお側近くに参るのも、気が気ではない。 )」

  また、同じ「葵」の巻には、「もののけ、生すだまなどいふもの多く出で来て、さまざまの名のりするなかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、片時離るる折もなきもの一つあり。(現代語訳《同上》;物の怪、生霊などというものがたくさん出てきて、いろいろな名乗りを上げる中で、憑坐にも一向に移らず、ただご本人のお身体にぴったりと憑いた状態で、特に大変にお悩ませ申すこともないが、その一方で、暫しの間も離れることのないのが一つある。すぐれた験者どもにも調伏されず、しつこい様子は並の物の怪ではない、と見えた。 )」という描写もあって、憑依霊が複数で憑依することがあるという事実も描写されている。
  さらには「手習」の巻の「浮舟」に憑依していた僧侶の霊の浮霊の場面もある。
  「夜一夜加持したまへる暁に、人に駆り移して、『何やうのもの、かく人を惑はしたるぞ』と、ありさまばかり言はせまほしうて、弟子の阿闍梨、とりどりに加持したまふ。月ごろ、いささかも現はれざりつるもののけ、調ぜられて、
  『おのれは、ここまで参うで来て、かく調ぜられたてまつるべき身にもあらず。昔は行ひせし法師の、いささかなる世に恨みをとどめて、漂ひありきしほどに、よき女のあまた住みたまひし所に住みつきて、かたへは失ひてしに、この人は、心と世を恨みたまひて、我いかで死なむ、と言ふことを、夜昼のたまひしにたよりを得て、いと暗き夜、独りものしたまひしを取りてしなり。されど、観音とざまかうざまにはぐくみたまひければ、この僧都に負けたてまつりぬ。今は、まかりなむ』
  とののしる。
  『かく言ふは、何ぞ』
  と問へば、憑きたる人、ものはかなきけにや、はかばかしうも言はず。

  (現代語訳《同上》;夜一晩中、加持なさった翌早朝に、人に乗り移らせて、『どのような物の怪がこのように人を惑わしていたのであろう』と、様子だけでも言わせたくて、弟子の阿闍梨が、交替で加持なさる。何か月もの間、少しも現れなかった物の怪が、調伏されて、
  『自分は、ここまで参って、このように調伏され申すべき身ではない。生前は、修業に励んだ法師で、わずかにこの世に恨みを残して、中有にさまよっていたときに、よい女が大勢住んでいられた辺りに住み着いて、一人は失わせたが、この人は、自分から世を恨みなさって、自分は何とかして死にたい、ということを、昼夜おっしゃっていたのを手がかりと得て、まことに暗い夜に、一人でいらした時に奪ったのである。けれども、観音があれやこれやと加護なさったので、この僧都にお負け申してしまった。今は、立ち去ろう』
  と声を立てる。
  『こう言うのは、何者だ』
  と問うが、乗り移らせた人が、力のないせいか、はっきりとも言わない。」

  霊障とは決して平安時代の物語の中における創作でもなければ、その時代に限られた現象でもはない。現代でもピチピチと生きある霊界からの働きかけが、この世の人々のあり方を大きく左右しているのである。例えば、再近の家庭内暴力などの青少年犯罪は、そのすべてが霊障に起因する。あの、バスジャック事件とてそうだ。また、多重人格も、ずばり憑依霊現象なのである。現代においても、いかに霊障によって苦しんでいる人が多いか。現代人の80%の人は、表面にこそ出ていないが、何らかの憑依霊がついているといわれている。浮霊したりしなければ、本人には自覚がない。現代における霊障の実例として、例えば私の「歴史小説フリマ」に収録している「信玄謀殺」という作品のライナーノートをご覧頂きたい。ジャンプしてもらうのもお手数なのでここに引用すると、「O家の人々は週に一度50本の注射を打たねばならない奇病や、一家が病弱で、また夫婦仲もうまくいかず浮気に走る息子とかもいて、不幸現象いっぱいでした。ところが霊査によって判明したのは、今から400年前の戦国時代末期の、ある有名戦国武将の霊が一族に憑依して霊障を起こしていたからでした。この御霊を諭すには一ヵ月半かかり、『まさか織田家の子孫に救われるとは思わなかった』と言って霊が離脱すると、O家の障害はあれよあれよと解消していったのです。」というものである。これは実話である。霊査によって判明したその霊障のもととなった話を小説にしたのが、「信玄謀殺」である。また、霊に関しては「ぼくは守護霊様」や、霊界のほんの入口である中有界を描いた「超空間の黄昏」などの作品も是非お読みいただきたい。
  また六条御息所のような生霊についての現代における事例としては、下に書名を挙げる小山高男さんの体験だが、自分の奥さんにある御霊がかかったので霊査したところ、それはまだ在命中だが入院して意識も朦朧としている叔父の生霊だった。叔父の生霊は小山さんの奥さんの口を借りてその叔父さんでなければ絶対に知っているはずのない事を語ったという。生きている間に霊が肉体を離れても(幽体離脱という)、肉体と霊・幽体との間に霊波線がつながっている限りは、死んだことにはならないのだ。だから六条御息所のように、生きている間に霊が幽体離脱して他の人に憑かり、霊障を起こすことは現実にあり得るのだ。
  このような話をすると、「なぜ、そのようなことがいえるのか。証拠は?」という声もあがろう。実は万人にもたやすく霊の実在と霊障の恐ろしさが手にとるように分かる、誰にでもできる(わざ)がある。太古神道では「奥の座」といわれた業だが、今それをここで紹介するのはこのHPの趣旨から離れるので控える。ただ、その業によって霊障を解消し、不幸現象がなくなって、救われたという実例が山と詰まれているのは事実である。知りたい方は私にメールを頂きたい。返事は必ず差し上げる。また、次の書籍をお読みになることをお勧めする。
  1、八坂東明著「最後の(あまの岩戸開き」「天意の大転換」「霊主文明の暁」
     三部作。各1300円。リヨン社
  2、(アニメ脚本家)小山高生著
「霊もピチピチ生きている」。971円。
     リヨン社。
  3、(宮崎大学教授)狩俣恵常著
「霊性に目覚める若者たち」。1600円。
     ハート出版。

  これらは書店の書棚にはないかもしれないが、注文すれば取り寄せられるので、ぜひご一読を強くお勧めする。
  以上、私が言いたいことは、霊の実在や霊障について、平安時代の人は実によく実相を知っていたということである。それは決して古代人の空想の産物でもなければ、物語上の創作でもない。今やこの科学時代にあって、かえって人々の目には真実が見えなくなってしまっている。霊の実在は決して「迷信」ではない。科学で証明できないから「ない」という考え方こそ「科学迷信」であり、むしろ霊の世界も解明できないような今の科学の方が「幼稚な科学」なのである。いずれ科学がもっと進歩してエクトプラズマの世界に足を踏み入れれば、霊の世界が科学で解明できる日が必ず来る。「厳として実在」する霊の世界や霊魂を、「ない」という考え方こそが「迷信」であると私は断言しておく。

几帳布筋(のすじ)

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