秋の町  

写真を撮った人=John  Rabitan

平安神宮大極殿        相撲の節会
平安神宮大極殿(平安朝の大極殿を模した???)                                    平安神宮で開催された相撲(すまい節会(せちえ)                        

紫式部公園
越前(福井県)武生(たけふ)にある紫式部公園。
紫式部が父の赴任に同行して暮らしたといわれる地

几帳布筋(のすじ)

平安朝内裏の跡地

承明門跡現在の京都御所は、平安時代には平安京の北西かどの貴族の邸宅が軒を連ねていた場所に当たる。では「源氏物語」の舞台となった平安時代の内裏はというと、京都御所よりずっと西の、上京区千本丸太町の交差点の北西部一体である。現在、そのあたりは民家が密集して、発掘調査は望めそうもない。だが、平安朝大内裏の役所のあったらしい場所の町名が、その役所名で呼ばれていたりする。例えば中務省のあったらしい場所は今でも中務町、民部省の主税寮があった所は今でも主税町なのだ。そしてこの地がもし発掘できたとしても、二重の困難がある。それはこの地が平安時代の内裏跡であると同時に、豊臣秀吉の聚楽邸の跡地でもあるからだ。写真(左)は紫宸殿正面の承明門跡推定地

清涼殿跡    藤壺跡    桐壺跡

紫宸殿跡  
        写真・上(左)=平安朝内裏清涼殿跡(推定)
        写真・上(中)=平安朝内裏飛香舎(藤壺)跡(推定)
        写真・上(右)=平安朝内裏淑景舎(桐壺)跡(推定)
        写真・右=平安朝内裏紫宸殿跡を裏側の北の方から望む(推定)

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須磨・明石

光源氏が赴いた須磨の海岸(左)(平家物語で有名な一ノ谷の古戦場もこの近く)と、明石の浜から見る淡路島(右)。
須磨        明石

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現在の京都御所


京都御所の正面の建礼門。平安時代も同名の門が内裏の正面の門だった。

年中行事屏風        滝口

清涼殿現在の京都御所で平安時代を偲ぼうとすれば、清涼殿を見る以外はない。清涼殿だけが平安朝の内裏の清涼殿をほぼ忠実に再現している。自余は紫宸殿を始め、みな江戸末期の松平定信の時代の建築様式だ。だから平安時代を偲ぼうにも、江戸時代の臭いがぷんぷんしてしまって、実に興ざめである。それでも平安時代には清涼殿の全面、すなわち紫宸殿の背後には仁寿殿の屋根がそびえていたはずなのに、今はそれもなくてただ渡り廊下があるだけだから、今昔の感は免れ得ない。
写真・上(左)=清涼殿南側の「年中行事屏風」。
         この向こう側が殿上定が行われた「殿上の間」
写真・上(右)=清涼殿北側の、滝口の陣付近。
写真・右=清涼殿正面
写真・下(左)=紫宸殿の東の左近の陣。陣定が行われた所。  写真・下(右)=左近の陣と、平安時代の公卿の詰所の宜陽殿。

左近の陣  左近の陣


上述の左近の陣を中庭から。


清涼殿全景を東側から。平安時代はこの場所に仁寿殿があったので、このアングルで清涼殿を見ることはできなかった。


京都御苑内。平安時代の都大路を彷彿とさせる。

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神泉苑跡平安時代の神泉苑は二町に渡る広大なものだった。現在でも神泉苑と称する申し訳程度の小さな庭園があるが、そのような所で平安時代の神泉苑を偲べるべくもない。それでは、平安時代の神泉苑を偲びたいなら、二条城へ行くとよい。二条城の南東部分が平安期の神泉苑と重なっている。写真は二条城本丸石垣上から平安期の神泉苑跡を臨む。この城内の内堀の本丸に向かう橋のちょっと南が、頭中将が百鬼夜行を見た二条大宮の「あわわの辻」で、観光客が必ず見る二の丸御殿の、その北側の苑林が冷泉院の故地である。

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葵祭
葵  祭

大原三千院        宇治川

大原三千院。源氏物語とは直接関係ないが「宇治十帖」の「小野の里」をイメージするにはいい。(左)    宇治川の風景(右)

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