4
山々の木々が一斉に赤茶や黄色に色づく頃を過ぎると、山間のこの地方の気候は一気に冬めいてくる。そして吐く息も白く見えるようになれば、雪に閉ざされるのも時間の問題だ。
村はずれの山へそのまま続く斜面を登るイェースズの息も、白く凍る朝だった。村を囲む山々の木々は、もうすっかりその葉を落としている。
イェースズが故国より戻ってから紅葉、落葉、降雪、この廻りがもう何十回も繰り返された。さすがのイェースズももうすっかり腰が曲がり、木の幹を伝わっての登坂だった。
イェースズは久々にムータイン・コタンの自分の家から、イヴリート・コタン郊外のこの地を訪れていた。雪が降る前にどうしても、今年も詣でておきたい所があったのである。
ある程度傾斜を登って振り返ると、谷間に細長く延びるイヴリート・コタンが一望できた。移住者たちがここに来てこの村を開いてからもう三十年近くの年数がたち、もうすっかりこの国の村として定着していたし、今やこの土地で生まれたものたちが村人の中心となっている。村長だったスワヌチも今では長老となり、混血も進んで、子供などはほかのオピラやキムンカシのコタンの人々と顔の区別もつかなくなっている。ただ、伝統的な生活習慣だけは守っていた。
そんなイヴリート・コタンに目を細めたあと、イェースズはまた斜面を登りはじめた。そして山の斜面のわずかな平地に、彼は出くわした。そこには土饅頭のような塚が二つ、仲良く並んでいた。その下には、湧き水があった。
イェースズは二つの塚の間に立ち、まず右側の塚の前まで行って地に額づいた。それは母の骨像を埋葬した、いわば母マリアの墓であった。今ではもう、その面影すら定かではない。その墓の前でしばらく祈ったイェースズは今度は真後ろを向き、もう一つの塚に拝礼した。それこそ自分の身代わりの子羊になって十字架にかかった弟のヨシェ・イシュカリスの遺髪を埋葬した墓だった。その弟は、イェースズにとって決して忘れることのできない存在だ
った。イェースズはその墓の前で、無言でしばらく時を過ごした。
「大長老! やはりここに!」
イェースズの黙祷を遮ったのは、イヴリート・コタンの若い連中だった。イェースズは不快な表情もせず、振り向くとゆっくりと立ち上がった。
「何ごとかね」
イェースズの涼しい顔の前に、使いの若者は肩で息をしていた。
「大変ですよ、大長老! 今すぐムータイン・コタンに戻って下さい。うちの長老と村長も、召集を受けてそっちに行っています」
「誰が召集をかけたのかね?」
「オピラとキムンカシの長老様です」
ヌプとウタリだ。この二人が村長を召集するなど、相当の緊急事態に相違ない。
「何ごとが起こったというのかね?」
「とにかく大変なんです。ヤマトの、それもこれまでにない大軍勢が、この近くまで進んできているのだそうです」
「ヤマトがねえ」
この島国の西南半分を支配するヤマト人が、この土地に侵攻してきたのは一度ならずあったし、境目付近での小競り合いもしばしばだった。
「今度は、とにかく今までにない大軍なんです」
若者は興奮して、まるで自分で見てきたかのように言う。ヤマトとは、この島国の霊的な歴史を抹殺しようとするユダヤ十支族のエフライムの連中だ。
「分かった。わしも行く」
イェースズはゆっくりと若者たちについて、斜面を下って行った。
イェースズがムータイン・コタンについたのは、昼前だった。そこは、武装した若者でごった返していた。ただでさえ飯倉に冬の食料を貯蔵する目的で人々でごった返す慌しい時でもあった。それがまた、今は軍勢情報が人々の騒ぎに拍車をかけていた。
村の中央にある村長の住み家に四つのコタンの村長、そしてヌプやウタリも座っていた。
「これはこれはハチノヘ様」
入って来たイェースズにすっかり老人になったスワヌチは浮かない顔で目を上げ、席を勧めた。部屋の中央の炉には火が焚かれ、それを囲んでの車座だった。イェースズが座ると、今のムータイン・コタンの村長であるカフカが目を上げた。
「この冬支度の忙しい時にわざわざ来る、それがやつらの狙い目でしょうな」
「卑怯だ!」
と、キムンカシ・コタンの村長のシャルマインが吐き捨てるように言った。
「しかし、防備は万全だ」
スワヌチは居丈高だ。
「東、東南、西の三口は若衆で固めた。最前線にはイヴリートの若者を当てたよ」
イヴリート・コタンの人々とヤマト人の人種が同じだから、彼らもイヴリートを見ては手荒なまねはしないだろうという魂胆であることは、イェースズにはすぐに分かった。同じ民として愉快な話ではないが、だがそれはヤマト人の中でも大人と呼ばれる人々にとっての話だ。しかし軍勢の兵士はいわゆる下戸の可能性も強い。そうなるとむしろ、一般のコタンの人々の方が人種的には同じである。だがその場合、もっと有利だ。なぜならかの下戸にとって、こちらのイヴリートの人々の顔を見れば、それは自分たちの支配階級の大人と彼らの目には映るであろう。そうなると、手出しすらできなくなる。
だが、そのような戦術的な策略に、イェースズは関心がなかった。炉の中の炎がぱちぱちと音をたて、やがてイェースズは笑顔で言った。
「相手の大将を招いて、宴を開きましょうぞ」
驚きの声を上げたのは、皆同時だった。しかし、すぐにスワヌチが笑んで手を打った。
「なるほど! 相手を懐柔して油断させ、寝首をかくおつもりですな」
「おお」
皆のどよめきは、安堵と感嘆の声に変わった。イェースズは黙っていた。また、イェースズがそのようなことを考えるはずがないということをよく知っているヌプとウタリもまた、言葉を発せずにいた。果たしてイェースズの真意はこうであった。ヤマト人の大人はエフライムとはいえども、同じアブラハムの血を引く同胞である。今や契約の地のカナンからイスラエルの民はことごとく追われ、故国を失って世界に離散し、エルサレムの神殿も破壊されてローマに占領されている。そのような時に当たって、この地にもユダとベニヤミンの子孫がいる以上、同胞が相争っている時ではないことを説得するつもりでいた。必ず分かってくれると、イェースズは信じていた。だが、彼の霊勘は、それ以上の何かがあるということを彼に教えていたのである。
だがイェースズはこの場では、何もそのようなことは言わなかった。
宴に招待する旨を伝える使者には混血していない純真なイヴリート・コタンの者をたてた。やはり敵の軍勢の兵士の多くは下戸で、使者の鼻の高い赤ら顔を見て、一斉にひざまずいて柏手を二つ鳴らした。
宴はイヴリート・コタンで行われ、イェースズの言いつけで料理は熊の肉、そして餅を種なしパンのように焼いた煎餅、酒はさほど度の高くないものが選ばれた。
宴の準備も終りかけた頃に、使者が戻ってきた。だが、その使者の話が奇妙だった。言葉が通じなくて、身振り手振りで伝えてきたという。ヤマト人ならヘブライ語が分かるはずだから、言葉が通じないという状況はあり得ない。そうなると、使者が話してきた相手は、少なくとも大人ではないことになる。
準備も整った頃、イヴリート・コタンのすぐ南東まで軍勢はやってきて、供を十人ほど連れた武将が甲冑姿のまま村を訪れてきた。そしてその武将の姿に、誰もが驚いた。腰が曲がり、杖をつかねば歩けないほどの老人なのだ。このような老人が一軍の将が務まるものかと皆が訝ったし、またこのような老人を武将とすること自体に疑問を誰もが抱いた。ヤマトの戦意さえも疑ってしまう。彼らが長老と呼んでいるヌプやウタリと同じくらい老人なのだ。その老武将は四人だけ供をつれ、その供の者に体を支えられるようにして村長の家に入ったが、何か懐かしいものを見るかのようにあたりをキョロキョロとしていた。
兜を脱いだその顔を見て、イェースズも驚いた。大人ではなく、黄人種の、ヤマトではいわゆる下戸である。だがそれ以上にイェースズの目はその老将の老いた瞳に釘付けとなり、やがて自分の目に涙さえ浮かべはじめていた。老将の方もまたイェースズを見て大いに驚き、その場にひざまずいて柏手を二つ鳴らした。
「先ほどの使いの方といいあなた様といい、どうしてここには、大人様がおいでになるんで?」
「わしはもう六、七十年はここに住んでおりますよ。本当はずっとずっと西の国から来たんじゃがな」
そう、イェースズはヤマトの言葉で言ってから、大声で笑った。イェースズがヤマトの言葉を話したことで、また老将は驚いていた。先ほどの使者は、ヤマトの言葉を解しなかったからである。
間もなく、宴が始まった。相手の武将がヤマトの大人、すなわちエフライムでなかったので、せっかく用意した料理の意味がなくなってしまった。しばらく酒を酌み交わしたあと、誰よりも先にイェースズが、
「ご来意は?」
と尋ねた。
「はあ。ヤマトにまつろわぬ毛人を一掃せよとの命を受けてきましたがな、ああ、ここにたどり着きました。なんとも懐かしい。しかし、こんな所に大人様がこんなに大勢おられようとは、どういうことでございますかな?」
「御大将のお名前は?」
ヤマトでは人に名前を聞くことの重大性を重々承知の上で、あえてイェースズは聞いた。
「わしはコシの国のもので、宿禰と申します」
ヤマトでは、珍しい名ではない。だが、イェースズにとってその名は、ここでは重大な響きを込めていた。ほかの同席者はイェースズと宿禰と名乗った老武将との会話の言語が分からないので、黙って酒肴を口に運んでいた。
「お父上は屋主忍男武雄心皇子様とおっしゃいますね」
宿禰の手が止まった。目を見開いて、じっとイェースズを見ている。そして、ぽつんと、
「やはり……」
とつぶやいてから、慌てて首を横に振った。
「いや、まさか」
「あなたがこの地に来られたのは、本当は戦争が目的ではありませんね。日高見広しといえども、わざわざこの地を目指してこられたのでしょ」
宿禰は何も答えず、黙ってイェースズを見つめていた。
「わしはかつて、コシの国の呉羽の御皇城山におりましたがな」
宿禰はただ口を開けて、ぽかんとしていた。イェースズはスワヌチを宿禰に示した。
「この村の前の村長のスワヌチ。このものは、ミユの孫娘の婿じゃ。そしてこちら」
イェースズはヌプを示す。
「お忘れかのう。このお顔。そなたの義理の弟じゃ」
「おお」
宿禰はもう、何も言葉を発することができずにいた。自分の妹の婿が、目の前にいる。何十年ぶりの再会になるのか、ちょっとやそっとでは数え切れそうもなかった。何しろ互いに青年であった頃以来の再会なだけに、顔を見る限りでは初対面と変わらなかった。
「懐かしいのう」
と、イェースズは言って、声を上げて笑った。宿禰はもううつむいて、涙をポロポロと流しはじめていた。そんな宿禰に、イェースズは慈愛の目を向けた。
「よく、生きていたのう」
宿禰はようやく顔を上げ、涙声でたどたどしく、
「はい、あともう、二、三年で百に達します。あなた様こそ。こう申しては失礼だが、まさかまだ生きておいでとは」
イェースズがかつて自分の父の弟子であり、自分たちは妹ともにイェーズスを「お兄ちゃん」と呼んで慕っていたあの若者だということが、もうはっきりした事実として認識された。
「わしは百を六つも越えてしもうた」
イェースズは大声で笑ったあと、ヌプやその場に居合わせた人々に、この老将の正体を手短に話した。ヌプは驚きのあまり目を見開いて、じっと宿禰を見つめたあと、身を乗り出してその手をとった。
「おお、義兄上でござるか。お懐かしい」
妻ミユとの祝言の時以来の再会なのである。
「妻はとうに亡くなりました」
と、ヌプもヤマトの言葉で言った。
「そうでしょう。そのような気がしておりました。しかし、再び生きてこの地に巡り来れただけでも幸いですな」
もはや彼はここでは、敵の大将ではなくなっていた。それどころか、身内なのである。
「ところでお父上、ミコ様は?」
「息災でおります。コシの国で今でも御神宝を守っております」
その言葉に、イェースズはもう涙をはらはらと流していた。まだ生きておられたのだ。そうなると、長いこと沙汰もしないことの無礼を、イェースズは心の中で詫びていた。
「今にでも飛んで行きたいが、そうはいかぬ。もう、時間がない。そのような時に、宿禰、あなたが来てくれて本当に嬉しい。私はどうしても、あなたに来てもらわねばならなかった。それがこのように本当に来てくれたのも、すべて神のお引き合わせよのう」
イェースズはそう言って、目を閉じて念を発し、神界に感謝の波動を送っていた。それから、目を上げた。
「しかし、まさかヤマトの軍勢といっしょに来ようとは」
そう言ってイェースズは、少し笑った。宿禰もまた、苦笑しながら言った。
「ほんの短い間だけでしたがかつて暮らした村、そして妹をおいてきてしまった村を死ぬ前にひと目もう一度見たくて、この国に遠征することをヤマトの大人に進言して、その大将にしてもらった。ただ、それだけですよ。
だが、イェースズの目は真剣になっていた。
「私はこの世でしなければならないことの、すべてをもう果たした。それは三十年も前に終ったのだよ。それからというもの、この静かな村で余生を送ってきた。しかし最後の最後にもう一つしなければならないことがあって、そのためにはあなたが来てくれなければまずかったのじゃ」
「先生!」
少しはヤマトの言葉が分かるヌプやウタリが目をむいた。
「最後にって、どういうことですか」
「今は分からなくてもいい。あと、二、三ヶ月もすれば分かる」
イェースズは再び目に涙をためて、ヌプやウタリを見た。
その晩、宿禰ともにイェースズは晩酌をしながら告げた。
「軍勢を帰らせてくれ。もうじき冬で、このあたりは雪に閉ざされる」
宿禰は、穏やかにうなずいた。
「分かり申した。私の目的は達しました。軍勢はもういりませぬ。本当は私のヤマトへの面子は立ちませんが、構いません。なんとか言いつくろってヤマトに帰しましょう」
イェースズは静かに、宿禰に頭を下げた。
軍勢は帰し、宿禰は単身イェースズの住むムータイン・コタンへ移り、そこでイェースズとともに暮らした。
ついに、雪が降り始めた。そしてやがて本格的な降雪の時期を迎えた。気候が寒くなるにつれ、イェースズは暖炉に火をともした部屋の床の中にいる時間が段々と長くなった。彼は日一日と時間が進むたびに、何かをサトっているという様相を呈しはじめた。
しかし、その日は突然にやってきた。
夜中に、同じ部屋で眠っている宿禰をイェースズはそっと起こした。
「わしはいよいよ自分の生涯と、この世の人々のこれからについて述べなければならぬ時が来た。最後の仕事じゃ。その聞き役を、あなたがしてほしい」
突然のことに途惑っていた宿禰も、イェースズの笑みを含んではいてもただならぬ形相に、身を引き締められる思いで起き上がった。暖炉に火がともされた。
「ここ数日、わしは自分の一生を振り返ってみたんじゃよ。この世に降ろされてからわしがしてきたことは何だったのかと、そして後世の人々にとってどのような力があったのかとな。わしは十分にわしが言いたいことを伝え得なかったし、また今の時代ではそれも許されなかった。このわしの最後の言葉を、わしがもっともっと愛したかった人類への遺言としたいし、あなたが代表してそれを聞き、また父山のあなたの父上、ミコ様にもお伝え願いたい。ミコ様のお手で、わしの遺言状として書き記して頂きたいということも、お伝えしてくれ」
「そんな、遺言だなんて。テンクウ様にはまだまだご健在でいて下さらねば」
はじめは冗談かと思って聞き流そうとした宿禰だったが、あまりにもイェースズの表情が厳しいので思わずその笑みを引っ込めた。そしてイェースズが、
「この世の仕事だけが、わしの仕事ではない。わしの仕事は、神霊界にまで拡がっておる」
と、とピシャッと言うので、宿禰はもはや言葉を発することができなかった。
「わしはこの胎蔵、月神統治の水の世に、日神系統のみ霊としてこの世に降ろされた。そしてすべてを神様に委ね、み意のまにまに生きてきた。今は物が主体の世じゃ。わしはそんな世にあって人々の想念があまりにも正神より離れすぎぬため、歯止めの役を仰せつかった。来るべき岩戸開きの世まで、この世を持ち堪えさせねばならなかったのじゃ。わしの教えは水の教え、ヨコの教えとして物の文明盛んなユダヤやヨモツ国に広がるじゃろう。それでもいい」
イェースズは目を伏せた。宿禰は何も言う言葉はなく、やがて目を上げたイェースズの顔が暖炉の炎に照らされて赤く輝くのを見た。
「わしが教えを広めたのは、長い人生の間のわずか三年じゃ。そのあとで使徒と別れる時にも言ったが、わしはこの世の終りには再び戻ってくる。その時までに人類は悔い改めないと、時すでに遅しとなる。とんでもない状況になるのじゃ。だから霊智に、置き手に背かないでほしい。これがわしの、人類に対する切なる願い、人類に対する祈りじゃ」
イェースズは、ひとつ咳払いをした。そしてゆっくり立ち上がって、部屋の隅から何かを持ち出してきた。
「これはわしの母の骨像じゃ。これをあなたに託すから、どうかお父上のもとに届けて、皇祖皇太神宮に納祭してほしい。わしの墓などはどうでもいいから、この地にある母と弟の塚だけは後世まで守り伝えてくれよ」
骨像を宿禰に渡すと、イェースズはそのまま床に入った。
「いささかくたびれた。少し休ませてくれ」
床の中からそう言ったかと思うと、すぐに寝息が聞こえはじめた。宿禰はイェースズの母の骨像を胸に、いつまでも涙が止まらず泣き続けていた。
それから、五日後のことであった。
オピラ、キムンカシ、イヴリートの各村の長、そして長老たちは、突然ことごとくムータイン・コタンに呼び集められた。呼んだのは宿禰だった。イェースズの容態がおかしいというのだ。
皆が集まると、イェースズは床に横になって目を閉じていた。しかし苦しそうな様子は全くなく、顔つきも健康そのもので、しかも微笑んでいた。人々は、何が容態の急変だといぶかしく思ったくらいだった。しかし宿禰だけはイェースズがもうすぐ帰ることを知っていたし、だからこそ人々を呼び集めたのだ。
一夜明けたがそのままイェースズは眠り続け、夕刻になってやっと目を開けた。
「先生!」
まず、ウタリが詰め寄った。ほかのみんなも一斉にイェースズの床を囲んだ。
「先生、お気分は?」
ヌプの問いに、イェースズは微笑を見せた。誰もがそれを見て安堵した。だが次の瞬間、イェースズの言葉は皆の体と心を硬直させた。
「わしは、帰るぞ」
それから、イェースズはゆっくりと上半身を起こした。
「そこの窓を開けてくれないか」
窓が開けられると、真冬の刺すような氷の空気が一気に室内へと乱入してきた。外は黄昏時だった。西に面したその窓からは山並みの上に真っ赤な夕焼けが、すでに日が没した後の空を鮮やかに染めているのが見えた。
その中に、ひときわ明るく光る星があった。イェースズはしばらくその星を凝視したあと、ゆっくりとそれを指さした。
「あの星は、わしが生まれた夜に大きく輝いていた星じゃ。そしてわしは今、あの星に帰るんじゃ」
人々はイェースズの言葉の真意が分からず、黙って聞いていた。イェースズは話し続けた。
「あの星は今は宵の明星じゃが、来たるべき天の時には、暁星となって輝くのじゃ」
人々はやっとイェースズの言わんとしていることを察し、口々に、
「先生!」「テンクウ様!」
と叫んで、イェースズのそばに寄った。イェースズは微笑を絶やさずに、さらに話を続けた。
「わしの現界でのみ役は、とりあえず終わったよ。じゃが、わしの存在そのもののみ役は終わらぬ。今もいつも、世々に至るまで」
「そんな。先生! いつまでもわしらとともにいて下さい!」
ウタリがそう言うと、またイェースズはニッコリと笑った。
「私はどこにも行かない。ここにいる。ただ、ものは言わなくなるがな。そしてわしの魂は、これからも活動を続け、あなた方を見守る。いつもあなた方とともにいる」
イェースズがさらに一段と微笑んだ時、西の空の明星から、一条の光がスーッとイェースズ目がけて差し込んできたように、誰もが感じた。
その瞬間、イェースズは目を閉じた。百と六年の波乱に満ちた生涯は、ここで終った。
「先生!」「大長老!」「テンクウ様」
皆一斉に、イェースズの体にしがみついた。その時誰もが、
「私は死んだのではない。私は今もいつも生きている。あなた方のそばにいる」
というイェースズの声を、はっきりと胸の中で聞いた。
そしてイェースズの遺体は静かに床に寝かされた。
翌日、不思議なことが起こった。イェースズの死に顔はいつまでも赤く、微笑み続けていた。そして遺体は翌日の夕方になっても軟らかいまま、ぬくもりがあるままだったのである。
イェースズは現界を神幽ったのは、後の西暦で百三年のローマ暦(ユリウス暦)で一月二十日、ユダヤ暦で11の月二十四日、そして霊の元つ国の暦では十二月二十五日のことであった。
それから彼の遺体はムータイン・コタンを見下ろす日来神堂のトバリ山の山頂で、木に吊るされた。いわゆる鳥葬であって、これはイェースズが生前望んでいたことだった。
そして一ヶ月ほどたって、村人たちはあらためてイェースズを葬るために山に登った。そして彼らが見たのは、信じられない光景だった。本当なら、一ヶ月も立てば遺体は鳥が食べるか腐乱して、白骨のみが残っているはずなのである。しかしイェースズの遺体はそのままで腐乱どころか生きている時と変わらず、その顔は目を閉じている今でもまだ微笑みを続けているかのようであった。
やがて夏が終る頃、ようやくイェースズの遺体は白骨化した。そしてその遺骨から骨像が一体彫られ、ほかの遺骨は分骨され、半分がトバリ山の北東の三つの峰を持つ高い山に、もう半分はトー・ワタラーの近くのオンコの山と呼ばれている山に葬られた。これもイェースズの遺言で、自分の肉体は父母から頂いたものだから、半分は父なる山に、半分は母なる山に返し、その魂は神より頂いたものだから骨像にして皇祖皇太神宮にて祭祀してほしいということだった。死してもなお父母を思うイェースズの心に、誰もが打れた。その父なる山は、イェースズにちなんで後にイヴリートの山と呼ばれる。
さらにイェースズの遺言は、自分の母と弟の墓である二つのツカを、子々孫々まで村人で守ってほしいということだった。もう一つの遺言は、母と自分の骨象、そしてはるか昔にミコから授かった「アマグニ・アマザ」の二つの宝剣を、ミコにお返ししてほしいということだった。そして自分の生涯をミコにつづってもらい、それも皇祖皇太神宮に奉納するというのもまた遺言の一つだった。
春の雪解けを待って、三人の老人はイェースズの遺言を成就させるための旅に出た。一人は宿禰、そして後の二人はヌプとウタリである。そして初夏の頃にようやく父山の御皇城山にたどり着き、事の次第を宿禰がまず父の武雄心皇子に告げた。ミコはただ涙を流してそれを聞くだけで、次にヌプの手から二つの骨像、そしてアマグニ・アマザの宝剣が手渡された。ミコはイェースズの骨像を抱き、さらに涙するばかりで、イェースズのもう一つの遺言であったその生涯の記録のためにミコが筆をとるまでには少し時間がかかった。
ある満月の夜、ミコと宿禰、そしてヌプとウタリの四人はかつて赤池白龍満堂があった池の中の島で、車座になって座った。ようやくミコが筆をとるというのだ。ミコは昔からのも時を何種類も知っていたが、文字を持たないヌプたちの民のためにイェースズ自ら作り、弟の名をとってイシュカリス文字と名づけたその文字をミコは使うことにした。ただ、言葉だけはこの地方の、いわゆるヤマトの言葉で、いわばイェースズの遺言状ともいえる文をミコは記しはじめた。それは、数十夜に及んだ。主に宿禰が語るところをミコが聞き書きにするという形で進められたが、またミコの記憶のあること、ヌプやウタリの話もそこには加味された。
ノコシブミ
アマグニノコトバニテフミス
ナンヂアヂチクニ ユダヤカルバリノオカニワザワヒニアフ ナンヂガオトトイスキリ ナンヂニカハリテミソヂミトセシス イスキリスワウイカイミカヘリテヨミカヘリス
ヤウカイハク アヅカリゴトス
イロヒトヨフ イマノサキノヨチヂココモモミソイトセヨリアメノシタツチウミトミダレ スベルスメラミクニアリ ナンヂガアマグニヘカヘル ナンヂガアマグニニキタリテムソムトシメ ナンヂガミヅカラニツクリシカタ カムミヤへヲサメマツル
ナンヂガタマシヒ イマヨリサキヨカナラズオホカムミヤヌシマゴマゴノヨ カムヌシニマツリネガフコト カムヌシタケオココロミコヘノコシゴトネガヘテ ナンヂガミヅカラニアマグニノコトバニテフミシ スミオヤスミラオタマシヒタマヤヘヲサメマツル
シハツツキコモリイヒ モモムトセイスキリスクリスマスカムサリ カムヌシタケオココロミコフミス
イスキリスクリスマスフクノカミハチノヘタラウテンクウカム イロヒトヘノコシフミナンヂガカラダノモト アマグニノコトバニテフミス アマグニシバツツキタツヒ
ニ アヂチクニニナンヂガタミノタメニオホキナルワザワヒニアフ ナンヂガタミヲスクフタメニ オトトイスキリ ナンヂガイスキリスノミガハリニタチテ ミソヂアマリミトセ ユダヤクニカルバリノオカニナリツケスシ
ナンヂイスキリス ミソジアマリナナトセ シバツツキタツイヒ イミカヘリテウマレイデテ タツアラハレタソ
ヤウヒニイロヒトヘアヅカリゴトシ ナンヂガアマグニノカミノヲツゲ イロヒトヲスクヒタスクル ミチビクヲスベシ イノチヲタスクルゾヲトゾ ヲツゲアリ
ナンヂアヅカリゴトヲ イロヒトマモレヨフ イマサキノヨチココノミソアマリイツトセヨリ アマグニニアラハレメルマムリゾ
ナンヂガアヅカリゴト カタクマムレヨウ
アマグニノコトバデウタヲナンヂガイロヒトヘ
イスキリス アマグニニユクチクマゴネ
ニテイロヒトノ スベルヲマムル
イロヒトヨ アマグニノカミカミヌシニ
ソモクトツブレ ミダルルシヌル
イロヒトヨ カミタカラムツ カミヌシニ
メイクウゲムル トコエアンスル
イロヒトヨ アマグニスミラミコトカミニ
ソモクトミダルル トハニカハラジ
イスキリス イロヒトヲメテイルマムル
ウタガフナヨフ マガルトシヌル
アマグニトヨロヅクニイロヒトスベルノオヤカミオモヤ スミオヤスミラオタマシヒタマヤ コトオヤオホカムミヤノミタマシロ カムタカラアヅカリヌシ カミヌシ ヒダリノマタニヨモツクニ エビス アジツチノカタノアヤヲモテ ウマルアラハルカムヌシアル
カナラズイロヒトヨ ソムナヨフ ソムクトミノホドシラズ ツブルルゾ ホロブゾ クサルゾ クニミダルルゾ シヌルゾ
ナンヂガアヅカリゴトシテ アマグニニユク
イエスキリス ナンヂガチチハハノホネニテカタヲツクリ
ナンジガタマシヒフタタビイクルヨニ イロヒトノスベルノヨ アマグニノカミ ナンヂガイスキリスノホカニカミナシ ナンヂガイスキリスクリスマス
イマヨリアマグニヘカヘルゾ
アミン アメマツリクニマツリタミ ワゴヲワザワヒノゾキマムル
アミン
イスキリスクリスマスワウゾ アミン アミン アミン
アマグニノカミヌシ イエヨリマモリ
ミニツケヨ イスキリス
アミン
ナンヂイエスキリス トコヨクニヲメグル トコロノシルシ
……ジフニミツレテキタリ テングトナヅケル
イスキリスハチノヘタラウテンクウクリスマス アマグニチチノク ハチノヘノミナトヘツク ケサリヅキコモリムヒニ オホウナバラフネニノリ ハチノヘニキタリヘライニスム
――□
アミントライボウカミ
ナンヂイスキリスクリスマス
ノコシゴト
イロヒトヨフナンヂアマグニチチノオク タネコノハチノヘ ヤレコノトネコノミナトヘ マツガサキニアガリ
ケアリツキコモリムヒ タネコノ ハ ヤレコノミナトアガリ イスキリトマル カイクラヤドル
ウベコツキコモリイヒ ヘライノミヤマヰル アヒライトバリミツトマヰル
マユタヘラ ニミエノキノマエニコモル ハヤレツキコモリヒムヒマデ アマグニノカミマデネガヒヲル
ナヨナヅキマドヒトヒ アメノコヤネナカヒミヒダカミノクニ タカチオミジンオチシロミヤ ヒラチカムアカミヤ アカイケウエツミヤ スミオヤスミラオタマシヒタマヤ コトオヤオホカムミヤニヒゴトマモリカミ ミソミカミヘマヰリ カミヌシヘマデネガフ
カミヌシタケオココロノミコヨリ ワケミタマヲタマフテ クレハノオヘラニスム アマグニノコトバフミヲナラフ トライノオホカミテンクウトイフ
ウベコツキヨリ アマグニ スベテマワリ シャクナギヲメス
ミチノオクヘライニスム
サナヘツキタツヤウヒ スデニアメノコシネナカヒミヒダカミノクニ スミオヤスミラオタマシヒタマヤ コトオヤオホカムミヤニマヰリコモル カミヌシタケオココロノミコトマミユルヲネガフ
イスキリス ナンヂガノコシゴトネガフ ナンヂガチチハハノホネノカタヲツクリ ナンヂガタマシヒトシ オホカムミヤヒオサメマツルヲネガフ カミヌシミコトノリタマフテ
イスキリス ヨロヅクニイロヒトヨ コノオホカムミヤヘオサメマツルナンヂガツクリカタヲ ナンヂマツリオモヒヨフ イマヨリサキノヨ カナラズチココノミソアマリイツトセヨリ ナンヂガカタヒフタタビウマレイデテアラハルヨナルゾ
ナンヂガナ トウライバウカムタラウテンクウトイフ イロヒトヨクトナフベシ
カムタカラアヅカリカミヌシワウトノヨヨノマゴ カナラズナンヂガタマシヒカミヲマツリネガフ カミヌシトタカラミタマシロヲステオクト スメラオヨビクニタミアヤブシ アヤブシ アヤブシゾ
カミヌシヲ イロヒトヨクマモレヨフ
スメラ カナラズイロヒトスベルヲスルゾ
カミヌシワウノココロニソムクナヨフ
イロヒト ヨクナンヂガイスキリスクリスマスカミミテイゾ
イスキリス ナンヂガアマグニヘ ユダヤソワウモセスワウ タマシヒニ ムサシオノアフリカノカミニアヒシ
コシネノオトハウタツミツツカ モオゼロミユラス ロオマヒメ タマシヒニアヒシ シンムイニテシャカニウライニアヒシ タマシヒイハク アヅカリゴト カミヌシオイヘノシャクナギ フラウヲノムベシトアル ナンヂモノミシ イロヒトヨフ カナラズカミヌシイヘノシャクナギ フロヲノムベシ ヨロヅクニノワザワヒ、ヤマヒノゾク ナホシナホルゾ カミヲオロガメヨフ カクレヨノサキマデマゴマゴモ トミトサキワヒクルゾ カミヌシタケオココロノミコ アハレニオモヒ ヒガタヲオサメマツルコトニサダム
イスキリス ヨロコビテツクリカタヲ アマグニヘキタリテムソムトセメニ ナンヂガミヅカラツクリカタ カムミヤニオサメマツル
イスキリスクリスマス ナンヂガタマシヒゾ スミオヤスミラオタマシヒタマヤ コトオヤオホカムミヤカミヌシイヘマツル
チヂオクヘライノツキハカドコタテニ イスキリスガ ナンヂガカラダヲハウムルトコロ
オシエコニタノム
トガリタラウダイテンクバウ ナンヂガハカトコロヲサダメ ナンヂガタマシヒイデタラ イロヒトヨフ カナラズソムクナヨフ
ソムナヨフ
ソムクトシヌルゾ
カミヌシソムクナヨ
ナンヂガメテイルゾ
ナンジガミガハリイスキリ
ジウライボニカウベノカミ ミミヲハウムル
ナンヂガアパハカゾ
イスキリスクリスマス ノコシゴト
ヘシ
タケオココロミコヘ
ノコシゴトツカハシ
アミン
シハツツキコモリイヒ クレムツトキモモムトセ ヘライニカミサリ トライニハウムル トライツカトイフ
カミヌシタケオココロノミコ ミヅカラフミシ
書きながらも、何度ミコは涙にくれたか分からない。金笠太郎、大平太郎のヌプ、ウタリも話を聞きつつ、イェースズ・クリーストス・八戸太郎天空坊の波乱の生涯を思う時、畏敬と恋慕が今さらながらに湧いてきて、彼らの目を涙で潤したのである。
この遺言状とイェースズの骨像を皇太神宮に奉納する儀が終り、そのままヌプとウタリはその足で諸国漫遊の旅に出た。その後の彼らの消息は、全く知れない。いつ、どこで死んだのかも分からない。ただ、金笠太郎天空と大平太郎天空の一文字づっとった「金平」宮が讃岐に祭られているから、四国まで行ったと思われる。
その四国の海岸の波打ち際で夕方、彼ら二人の老人が旅の疲れを癒していた。
その時である。西の空には太陽が沈んだばかり、赤いトバリがあった。その脇にひときわ明るく輝くいちばん星が、ヌプたちの目で確認された。それは、イェースズが「帰る」と称した所である。
二人の老人は、磯に腰をおろして、じっと海とその星を見つめた。いつまでも、見つめ続けた。足元に打ち寄せる波の音も聞こえないくらい、黙ってその星を見つめた。どこまでもイェースズを慕い、その面影を彼らは星に見出そうとしていた。
またもや二人の目に、涙があふれてきた。小さな点の星の光の中に、イェースズの顔を二人ともがはっきりと見た。そしてその星の中からイェースズの声が、最初はゆっくりと、そして確かに彼らの胸に響き渡った。
「見よ。私は世の終りまで、いつもあなた方とともにいるのである」
(「人間・キリスト」 おわり)
完