5
「罪……」
このひと言が、まだ幼い少年イェースズの心にのしかかって離れなかった。今まで自分は何一つ悪いことはしていない、自分に罪などないと思っていたのである。だからこそ神様は、ほかの子供が持っていないような特別な力を自分に与えて下さったと思いこんでいた。自分が念を凝集し、それを言葉にして発すると、すべてがその通りになってしまったのである。
ところが、その力も、母のマリアには通じなかった。現象はことごとく自分に跳ね返ってきた。そして母から、自分にはとてつもない罪があったことを告げ知らされたのである……今はもう死んだ前の王様が、生まれたばかりのイェースズを殺すためにユダヤ中の赤ん坊を殺した。罪もない生まれたばかりの子供が、イェースズのために何万人も一斉に殺された……その事実は、イェースズの心の中では大きな衝撃だった。
それからというもの、イェースズは外に出なくなった。一日中薄暗い部屋に引きこもり、頭を抱えて過ごす毎日となった。かえってその状況を心配したマリアは、イェースズにとってはまた従兄になるヨハネを呼ぶことにした。
そして夏、ヨハネはエリザベツに連れられてカペナウムにやってきた。蒼白くやせ細った我が子に比べ、いかにも野生児という感じのするヨハネが、マリアの目にはたくましく見えた。
ヨハネは今は母親といっしょには暮らしておらず、塩の海の近くの洞窟でマセノという初老の僧といっしょに修行をしているという。マセノはユダヤ人だが長くエジプトの僧院で修養をし、ヨハネを気に入って引き取ってともに生活をしているという。
そんなヨハネが母とともにヨセフの家に着いた時、イェースズはいつもと同じように部屋に引きこもっていた。
さっそくマリアはヨハネに、イェースズを湖にほとりにでも連れ出すように頼んだ。ヨシェもいっしょに行きたがったがマリアはそれを許さず、イェースズのことはヨハネに任せることにした。
ヨハネがイェースズのいる部屋に入っても、イェースズは振り向きもしなかった。ヨハネは、その背中に軽く手を置いた。
「イェースズ、僕だよ。湖にでも行かない?」
「行きたくない」
やっとイェースズは、ぽつんとつぶやいた。
「せっかく遠くから来たんだから、湖くらい案内してくれたっていいじゃないか」
すると急に、イェースズは勢いよく振り向いた。
「僕は、罪びとなんだ」
不意をついたようなイェースズの言葉にヨハネは一瞬たじろいだが、すぐに、
「僕の先生のマセノが、罪のことをいろいろ言ってた」
と、ヨハネが言ったので、イェースズは身を乗り出してきた。
「何て言ってたの?」
「じゃあ、湖に行ってから。湖に行かないと話してあげない」
イェースズは仕方なくいうふうに立ち上がった。
それから数分後、二人の少年は湖の湖畔にいた。
「水が青いね」
驚いたような表情で、ヨハネはガリラヤの湖を見ていた。風が強い。ヨハネはその風を思いきり吸い込んだ。
「海に匂いじゃなくって、草の匂いがする。こんな青い海があるんだ」
「君の住んでいる所にも、海はあるんだろう」
イェースズは、会話にあまり乗り気でないという感じでぼそぼそと言った。ヨハネだけが、元気にうなずいた。
「あるけど、こんなに青くないよ。岸辺にはここのような木も草も生えていないし、水も白っぽくて塩が一面に浮いているんだ」
「塩?」
「うん。塩が柱のようになっている所もあるよ。ロトの妻っていうんだ、その塩の柱は」
ヨハネはもう一度、湖岸の景色を見回していた。湖岸は緑に覆われた牧草地かあるいは麦畑で、なだらかな丘陵となって湖を取り囲んでいる。それからヨハネはまた、沖に目を移した。
「船がいるね。漁師の船だね。ここには魚もいるんだね。僕の住んでいる所の海は魚もいなくって、人間が海に落ちてもプカーって浮いてしまうんだよ」
厳しさの象徴のような塩の海のほとりの荒野から、優しさの象徴のようなこのガリラヤに来たヨハネは、心がだいぶ和んでいるようだった。
その時、イェースズが口を開いた。
「君の先生は、罪のことを何て言ってたんだい? 罪をなくすには、どうしたらいいって? 羊や鳩を捧げればいいの?」
「そんな犠牲っていうものは馬鹿げてるって、先生は言ってたよ」
「だって、エルサレムの神殿とかでは、みんなするんでしょ」
「うん。見たよ、僕。先生は、僕をエルサレムに連れて行ってくれたこともあったから。そこでたくさんの動物が殺されてたから、不思議に思って先生に聞いたんだ」
「先生は、何だって?」
「神様は犠牲がお嫌いなんだって。動物を犠牲として殺すのはよその国から来たやり方で、そんなんで罪は消えないって」
「じゃあ、どうすればいいって?」
「罪って人間が自分で選んだ道なんだから、その道を引き返して自分の力で抜け出なさいって」
「よく分からないなあ」
「心を浄めるんだって」
「どうやったら、罪が許されるの?」
「罪って、神様から借金をしてることなんだって。だから借金を返し終わるまで、罪は許されないんだって」
「どうやって返せばいいの?」
人を苦しめた分、人を助ければいいんだって。自分の時間を自分のために使うんじゃなくって、ほかの人のために使うんだって。それが動物なんかじゃない、本当の意味の犠牲だって先生は言ってたよ」
「でも、神様は犠牲は嫌いだって、君の先生は言ってたんじゃないの?」
「えっとね、人間が本当の意味で犠牲を捧げたら、神様は犠牲が嫌いだから、その犠牲を犠牲でなくして何倍にもしてまた返して下さるんだって」
「うわあ。そうかあ!」
イェースズの顔が、急に輝きだした。
「なんだか力がわいてきた」
「神様からの借金は、ほかの人が代わってあげることはできないってことも、先生は言ってたな。自分の罪が許されるようにできるのは自分だけで、自分を救えるのは自分だけなんだって」
「ありがとう」
イェースズの顔に笑顔が浮かんだ。
「それから先生はね、神様は人間に『選ぶ』という自由を与えて下さってるとも言ってた」
「選ぶ?」
「選ぶことによって人間は神様の近くまで昇って天国にも入れるし、地獄に落ちることにもなるけれど、全部それは人間の自由なんだってさ。天国に行くのも地獄に行くのも、人間に自由に選びなさってことなんだってよ。だから、怠けていてはだめで、自分の力で努力することが大切なんだって」
「じゃあ、僕は何をすればいいかなあ」
「まず、勉強すれば? 神様の本も、僕の洞窟にはたくさんある。先生はね、それが読めるようにって僕に字も教えてくれた」
「そうかあ。僕の家にも、そういう本はたくさんあるよ。それを読んで勉強しよう」
「先生も僕のお母さんも、僕が大きくなったら、この世の闇を照らす光にならなきゃなんないって、いつも言ってる。いつか神様はメシアを使わされるから、そのための準備をする役目があるんだって」
「そうだね、勉強して、それからたくさんの人を助けよう。何しろ僕には……」
イェースズは自分の不思議な力のことを言いかけたがやめて、
「そろそろ帰ろう」
と、明るく言った。それはイェースズがここ数日間見せたことのない笑顔だった。二人はもと来た道を、湖をあとにして歩き出した。
「ヨハネはちゃんと、イェースズをうまく何とかしてくれるかしら」
マリアは心配そうにつぶやいていた。
「大丈夫さ。一生懸命修行しているっていうヨハネだからね」
と、ヨセフは笑って言った。エリザベツも、微笑んでいた。
「きっとイェースズは、うちのヨハネなんか追い抜いていくんじゃない?」
「そうだったらありがたいんだけど、あの子、最近おかしくて」
「どの子供だって、そんな時期があるんじゃなくって?」
「でも、あのこの場合は特別でね、急に神憑ったかと思えば、今のように落ち込んだりして。やはり、あの話をしたのはいけなかったかしら」
「王様の赤ちゃん殺しのことね」
「いや、そろそろ言うべきときだったと思うよ。いずれは知れることだし、いつまでも黙っておけるものでもないしな」
ヨセフが、そこで口をはさんだ。
「それだけではなくて、エジプトでわしらが勉強したことをあいつに伝えるころじゃあないかとも思うんだがね」
「だって、あの子はまだ六つですよ」
「ヨハネなんかは、とっくに修行に入っているって言うじゃないか。なあ、エリザベツ」
「うちの子の場合は、いい先生が見つかりましたから」
その時、入り口のドアをノックする音が聞こえた。
「あら? 二人が帰ってきたのかしら」
マリアが振り向いてつぶやいたが、ヨセフは首をかしげた。
「あの二人なら、ノックなんかしないで直接入ってくるだろう」
マリアはそれもそうだと、入り口の方へ言った。そして叫んだ。
「サロメ!」
エリザベツもその名を聞いて、思わずドアの方を見た。
サロメとの再会は、エジプト以来だった。かれこれ三、四年ぶりくらいになる。聞けば、サロメはエッセネ兄弟団の僧院幹部より、メシアの母候補であったマリアの生んだイェースズの養育係を言い渡され、はるばるガリラヤまで来たということであった。
「まあ、なんという神様のお仕組みでしょう」
マリアはついさっきのエリザベツや夫ヨセフとの会話を思い出して、ただ目を円くしていた。そこでマリアはイェースズとヨハネが帰ってくる前に、今までのイェースズの状況をサロメに話した。サロメは微笑んで聞いていた。
そこへイェースズとヨハネが帰ってきた。そして、
「お父さん、お母さん。今日から僕、一生懸命勉強するよ」
と、言ったものだから、ヨセフとマリアは最初はただ唖然として互いに顔を見合わせていた。そしてそのうち、マリアの目に涙が浮かんできた。
こうしてエリザベツとヨハネが帰っていってから、イェースズの猛勉強が始まった。まずは子供たちがみな学ぶようなことはもちろんとして、ヘブライ語、ギリシャ語などの語学も一人で身につけ、ヘブライ語で書かれた聖書を一人で何時間も読みふけることもあった。そして、約ひと月でモーセ五書といわれる部分を読破した。しかも、それらは冊子ではなく巻物になっていて読み返すのが困難であるにもかかわらず、ただ読んだというのではなしにほとんど暗唱に近いまでに熟読したのである。さらにはダビデ王の詩篇、ソロモン王の箴言(格言=知恵の書)も、彼は好んだ。
時には弟のヨシェが入ってきたりして、いっしょに詩篇を読んだ。同じ個所を二人で朗読することもあったし、別の部分を二人で同時に黙読することもあった。このようなときに、巻物は便利であった。特に兄弟二人とも詩篇の第二十二篇が好きで、ヨシェもすぐに覚えて二人で暗唱したりもした。そしてヨシェが内容についてイェースズに質問を発するたびに、イェースズは弟が納得のいくような回答をすぐに与えられるようになっていった。
朝は、ヨセフがイェースズに大工仕事を教えた。まずは農具の作製から始まり、すぐに簡単家具も作れるようにイェースズはなった。
建築の方はまだイェースズには早いとヨセフは思っていたが、イェースズがあまりねだるので外の建築現場にもイェースズを連れていくようになり、湖がよく見えるその建築中の家の屋根の上にイェースズは座って詩篇を暗唱したりしていた。
昼下がりは、サロメから教えを受ける時間だった。サロメはパリサイ人やサドカイ人がその存在さえも知らないであろう『ゼンダ・アベスタ』をイェースズに講義した。この書物をサロメは少年イェースズに一読させた後、内容を細かく解説してくれた。
イェースズは、ゼンダ・アベスタが好きだった。そこにははっきりと「神は光り輝く神」と記されている。イェースズが聖書で「神は『光あれ』と仰せになった」というほんの読みすごしてしまいそうな一行にぐっと重みを感じることができるようになったのも、こういったゼンダ・アベスタを読んでからであった。しかも驚いたことに、聖書に出てくるバベルの塔、ノアの洪水の話などが、そっくりそのままゼンダ・アベスタにも載っているのである。
はじめてこの書物を読んだ時、イェースズはサロメに、
「聖書と同じだね」
と、問いかけたものだった。
「それは、たとえ民族が違っても人類をお造りになった神様は御ひと方ですから、真実は一つなのですよ」
「じゃあ、聖書も本当はモーセが書いたんじゃなくって、誰かがヘブライ語に訳しただけなの?」
サロメはそれには微笑んだだけで答えず、
「どんな民族でも、御ひと方の天地創造の神様のみ手によって創られたのですよ」
と、だけ言った。イェースズは顔を曇らせた。
「じゃあ、どうして同じユダヤ人でも、宗派に分かれてけんかしたりしているの?」
「あなたが大きくなったら、あなたの手でそれを何とかして下さいな」
イェースズは小首をかしげた。
ローマの暦で年が明けて、イェースズは七歳になった。
太陽をもとに作られているローマ暦と、月の満ち欠けで一月を決めるユダヤ暦とでは日付は半月ばかりずれるが、一年の始まりは大きく違っていた。ユダヤ暦は春の過越の祭りを基準に一年が始まり、モーセによる出エジプトを記念するその祭りはユダヤ暦第一の月(現代ではニサン)の満月、すなわち十五日になる。それに対してローマ暦は冬至を基準としているので、過越の祭りはローマ暦では四月のこととなる。
そのローマ暦の新年五日、すなわちイェースズの誕生日にマリアの両親、つまりイェースズの祖父母であるヨナキムとアンナがヨセフ一家を夕食に招いた。同じカペナウムに住んでいながら久しぶりに会う祖父母にイェースズもその弟たちも大はしゃぎで出かけたのは、もう日も西に傾いてからのことであった。一年のうちでいちばん日が短い季節だが、これからは日一日と昼が長くなっていくはずである。
木枯らしが吹き荒れ、寒い夜だった。だが、弟たちはなぜかイェースズの手は温かいと、こぞってその手を握りたがった。
カペナウムはおおかた漁師と大工など職人の町だが、交易の中継地としても栄え、商人も多く住んでいた。だが、少し郊外に出ると、ずっと麦畑が続く。
ヨセフの家からヨナキムの家まで、いつも通る道順がある。一度湖畔に出て湖沿いに進み、再び市街地に入るコースだ。ところがこの日に限ってイェースズが、
「湖のそばは寒いよ。近道していこうよ」
と、言い出した。確かにいつものコースは、かなり遠回りになる。
「でも、なあ」
ヨセフはためらっていたが、そんな父をイェースズはまっすぐに見た。
「お父さんはパリサイ人のような偽善者じゃあないでしょう?」
「ま、まあな」
ヨセフがためらったのは、その近道は「地の民」の町を通ることになるからだ。イェースズに言わせれば偽善者であるパリサイ人などは、決して近づこうともしない町である。その町の方へ向かうヨセフ一行をすれ違う人々は皆、奇異な目で見た。「地の民」とは病気かあるいは極度の貧困のために律法を守れない人々で、その町とはいわゆる貧民窟なのである。だからパリサイ人やサドカイ人は彼らを「罪びと」と称して蔑視し、自分たちを律法に忠実な「義人」としていた。それが本当の意味での神への「義なる人」ではないことは、イェースズはゼンダ・アベスタによって知っていた。だから、イェースズはパリサイ人を偽善者といったのである。
ヨセフたちは、いよいよ地の民の町の入口に至った。普通の家ならそろそろ灯りがともり始める時間であったが、あばら家と崩れかけたぼろ小屋、あるいは石の積み重ねの状態の家が並ぶ町には、灯りがともる気配すらなかった。
ハンセン病患者特有の臭気が、ぷんと鼻を突く。その町にイェースズが先頭を切って入っていき、両親や弟がそれに従う形となった。どの家も、奥までまる見えだ。毛布にくるまって横になっているものが多く、狭い家に人ばかりがやたら多くうずくまっている。だが彼らは眠っているのではないようで、ヨセフたちが通り過ぎると誰もが顔を上げ、自分たちとは住む世界の違う一般市民が何しに来たのかというようなとろけた目を向けるのだった。だが、そんな貧民の中でも、子供たちだけはイェースズの姿を見て元気に飛び出して、イェースズに笑いながらあいさつをしてくるのだった。
どうにか町を通り過ぎてから、ヨセフはそのことをイェースズに聞いてみると、
「みんな、僕の友達だよ」
と、家はけろっとして言った。
やがてヨナキムの家に着くと、孫たちを見て老夫婦は大喜びだった。
「しばらく見ないうちに、またみんな大きくなったな」
「本当に、子供が大きくなるの早いわねえ」
アンナはそう言って喜んでいたが、やはり主役は生まれたばかりの末の子のユダであった。
やがて食事が始まった。幼いヤコブは、まだ祖父という存在がよく分かっていないようだが、それも無理はない。ヤコブの母方の祖父のヨナキムとヤコブの父のヨセフは、年はそういくらも離れていないのだ。
食事をしながら、そんなヨナキムは慈愛の目をイェースズに向けた。
「わしらは君に何か贈り物をしたいのだが、何がいいかな? 何でも言ってごらん」
イェースズはしばらく答えずに、テーブルの上の料理に目を落としていた。ヨセフもマリアもイェースズが何を欲しがるか興味があったので、黙って我が子を見守っていった。
「僕、何もいらない」
「え? 何もいらない?」
「でも一つだけお願いがあるんだ。このご馳走を、僕の友達にも分けてあげたいんだけど」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て。イェースズ。まさかさっきの、『地の民』の子供たちじゃあないだろうね」
慌てて制するヨセフに、
「そうだよ」
と、イェースズはけろりとしていた。それでもヨナキムは、ヨセフに目配せをしてからイェースズに言った。
「いいだろう。この近くにいるのかね?」
「うん、呼んできてもいい?」
「いいとも。呼んでおいで」
イェースズスズは一目散に外へ駆け出した。ほかの弟たちは、ご馳走を目の前にお預けの形となった。ほどなくイェースズは、五、六人の子供を連れて帰ってきた。やはりそれは、地の民の子供たちだった。
「さあ、いつもおなかがすいているだろう。お食べよ」
イェースズの言葉に、地の民の子供たちは一斉にご馳走に飛び付いた。
食事も終わり、子供たちも帰った後、食事の片付けをしていた脇にイェースズが立った。
「お母さん。僕も手伝いうよ」
「ありがとう。でもお母さん、びっくりしたわ」
貧しい人に施しをしたからとて、それが慈善行為なるような時代ではない。むしろ律法を守らない罪びとである地の民と同じ屋根の下で食事をともにするなど、それ自体がまた罪とされた時代である。
「あなたがあんなこと言いだすなんて」
「だってみんな食べ物がなくて、おなかをすかしているんだ。あの子たちを呼んだからって、怒るような偽善者じゃないもんね、お母さんたちは」
「もちろんよ。よその子のお母さんだったら、怒るかもしれないけどね。でもどうしてそんな気になったの?」
食事の片付けをしながらマリアは、イェースズを見ることもなく尋ねてみた。
「だってヨハネがこの間、自分の罪を許してもらうには人を救うしかないって言うんだもの」
「ヨハネがそんなこと言ったの?」
「うん。本当はヨハネの先生がそう言ってたんだって。それで僕、いろいろ考えたんだ。自分に何ができるのかなって。でも今までずっと分からなかった。そこでいろんな本を読んだけど、それでも分からなかった。そして今日、おじいちゃんに言われて、これだって思ったんだ」
「それで思いついたのね。いくら本を読んでいい話を聞いても、自分で本当にやってみなければ何にもならないんですものね」
「そうだよね。僕もいちばん弱い人や苦しい人のために何かしてあげるのが、神様のためになると思うんだ。神様がどうすれば喜ぶかなって考えて、その通りするのが本当の義ってものじゃないかなあ」
「そうね。律法とか戒律を細かく守るのが義だっていうのは、お母さんもちょっと違うと思うな」
「みんな同じ神様の子供だものね」
マリアは思わずイェースズの顔を見た。わずか一、二年前にはとても考えられなかった我が子の変わり様に、思わず抱き上げて頬擦りをしたいような衝動に駆られた。
翌日一行は帰宅し、その夜ヨセフはイェースズを呼んだ。そして弟たちが入ってこないように部屋の扉を閉め、ヨセフはイェースズに五つの巻物を手渡した。胸一杯に抱きかかえられた巻物を見下ろすイェースズに、ヨセフは言った。
「もうそろそろおまえにそれを渡してもいいんじゃないかって、お父さんを思ったんだ」
「これは?」
「『エッセネの書』だ。律法とも聖書とも、またゼンダ・アベスタのような異国の書とも違って、われわれナザレ人のいわばいちばん大切な本だよ」
「これを僕が読んでもいいの?」
「もちろん。そして分からない所があれば、お父さんやサロメに何でも聞くんだ」
その書物のそれぞれの巻には、『エッセネ兄弟団の戒律』『詩篇』『戦いの書』『ハバクの書』『創世の書』というようなタイトルがついていた。
それからイェースズは、毎晩それを読みふけった。これまでの聖書やゼンダ・アベスタで得た知識をさらに深くしてくれるこれらの書物に、イェースズの興味は尽きなかった。特に『詩篇』は聖書の詩篇のように神を賛美するばかりのものではなく、身も凍るような将来の世界の終末をうたった内容もあり、また『戦いの書』も壮烈なる光の子と闇の子の戦いが予言されていた。また『創世の書』は聖書の創世記ともう少し違ったふうに書かれており、何よりも目を引いたのはヘブライ語ではなく自分たちが普段使っているアラム語で書かれていることだった。
毎晩それらの書物に読みふけるイェースズのもとに、ある晩ヨセフがやってきた。
「おまえがまだ小さいころ、みんなでエジプトに行っていたことはお母さんから聞いているだろう」
「うん」
「その時父さんと母さんはサロメたちもいっしょに、向こうでこの『エッセネの書』についていろいろ勉強したんだ。そしてガリラヤに帰る時、あちらでの先生が父さんたちに、ただガリラヤに帰るんじゃなくて、ガリラヤに遣わすんだって言われたんだよ」
「遣わすって?」
「エジプトで始まったエッセネの教えを、ユダヤに伝えなさいってね。今ではユダヤでもナザレ人はずいぶん増えてきたけど、まだ少ないからな。昔はエッセネの教えはユダヤでは禁止されていたんだけど、百年くらい前にマーヘナムという人が出て、その人のお蔭でやっとユダヤの王様はエッセネを認めてくれたんだ。パリサイ人とかサドカイ人とかに分かれてお互い争っているユダヤ教を改革して、すべての人に共通のお一方である神様に向かって、目を開かせるのがエッセネの教えなんだ」
「お父さんが、それをやるように言われたの?」
「でもなあ、父さんはこの年だし、いつまで生きられるか分からないだろう。だからイェースズ。おまえがそれをやるんだ。これからは、おまえたちの時代だ。父さんたちは去り行くだけなんだから、あとのことはおまえたちにしっかりと頼んだぞ。これからの時代を担うのは、おまえたちなんだ」
そのようなこと言われ、思わず照れてうつむくイェースズだった。
「エッセネの書」も、イェースズはふた月で読破した。しかも、ほとんど暗唱してでだ。読み進むうちに、かなりの点でこれまで両親やサロメが自分に教えてくれたこと、そしてヨハネが語ってくれたことと内容が重なることにイェースズは気がついた。
そして、気になることがあるたびに、彼はかつて読んだ「ゼンダ・アベスタ」を引っ張り出してきては再読してみたりもした。彼の中で、「エッセネの書」と「ゼンダ・アベスタ」と聖書が三つどもえに重なりかけていたある日、昼下がりに外で父の叫び声を聞いた。
ちょうど、サロメと『エッセネの書』のうちの戒律について問答していた時だ。それは、
「ヤコブ!」
と、いうものすごい父の叫びだった。イェースズは、思わず外へ飛び出した。
外へ出てみると、家の壁のところで幼い弟のヤコブが倒れ、ヨセフがそれを抱き起こしていた。周りには通行人が集まりだし、一人の男はヨセフに背を向けて地面を木の棒でたたいている。そして、たたかれた地面の上を一匹の蛇が逃げていくのをイェースズは見た。弟が蛇にかまれたのだという状況を、イェースズはすぐに察した。
「お父さん、ヤコブがかまれたの?」
人ごみをかき分け、イェースズは弟のそばに近づいた。
「まむしだよ!」
ほとんど絶叫に近い声で、ヨセフは言った。まむしといえば毒蛇だ。かまれたら、十に一も助かる見込みはない。
「農具の材料の木を束ねて家の中に持っていくよう言いつけたら、その木を束ねているうちにヤコブはまむしにかまれたんだ」
「医者だ、医者だ!」
と、叫んで、通行人の一人が駆けて行こうとした。
「ちょっと待って!」
と、その人を慌ててイェースズは呼び止めた。
「お医者さん、呼ばなくてもいいよ」
そして、父に抱かれ、腕を抑えて苦しんでいる弟をイェースズは見た。
今までいろいろな本を読み、知識だけではだめだと、「地の民」の子供たちと交わってきたイェースズだった。しかし、こんなことが本当に人救いなのだろうかと、常々疑問に思っていた矢先である。そして今、忘れかけていたあることを、イェースズは苦しむ弟を見て思い出した。かつて突然自分に与えられたあの力である。以前は人々を懲らしめるため、自分の思い通りにするためにその力を使ってきた。そして自分の誕生時の話を母親から聞かされ、それ以来は自制して全く使うことがなかったのだ。しかし、今もまだあの力があるのなら、苦しむ弟をそれで救えないだろうかとイェースズは考えたのだ。だからこそ、医者を呼びに行くのをとめたのである。
「何で医者を呼びに行っちゃあ、いけないんだよ!」
「ちょっと待って。神様にお任せしてみようよ」
「なに馬鹿なことを言っているんだ。まむしにかまれたら、ほっておけば死ぬに決まっているじゃないか!」
走り去っていこうとする男イェースズはもはや呼びとめもせず、小さな手を合わせ、声を出して祈った。
「神様。どうか弟を救うために、僕のお使いください。僕の力を通して、弟を救って下さい」
イェースズはいつものように強く念じた。そして、自分の掌をヤコブがまむしにかまれた傷口に置いた。
その瞬間、ものすごいパワーがどっと彼の 身体 に衝突した。全身が熱とエネルギーで満たされ、パワーがどんどんと体内に入ってくる。神様とは宇宙の根本のエネルギーで、そのエネルギーが今は自分に注がれているという実感が彼にはあった。
彼は心を無にし、自分の想念を大いなる宇宙エネルギーである神の波長と合わせようとした。そうすればそうするほど、自分の掌を通してエネルギーはどんどんヤコブの身体へと注がれる。
最初の五分くらいは、ヤコブは足をばたつかせ、イェースズが当てている手の上から自分の手を重ねて苦痛に顔をゆがめ、何度もうめき声を上げていた。
「ヤコブ、ヤコブ、しっかりしろよ。今、お医者さんが来るからな」
ヨセフさえ何かしているイェースズをよそに、医者だけに気を取られている。
そのうち、ヤコブはフーッとため息をついた。そしてしっかりと眼を開いいて周りを見回してから、ゆっくりと立ちあがった。
「もう、大丈夫だよ」
イェースズが、優しくヤコブに言った。
「おい、ヤコブ、どうしたんだ。もう痛くないのか?」
慌てて尋ねるヨセフに、けろっとした顔をヤコブは向けた。
「うん。治った。ちっとも痛くないよ。お兄ちゃんがお手々を当ててくれたらすごく熱くなったけど、スーッと痛くなくなった」
そこへ、医者が息を切らして駆けてきた。 「まむしにかまれた子は、どこかね」
肩で息をしながら小太りの医者は、あたりを見回した。
「はあ、この子なんですが、それが……」
ヨセフがなんら変わったこともなく普通に立っているヤコブを示したのを見て、医者は目を丸くした。
「え? この子? だって、なんともないじゃないか」
「えー、それがですね……」
ヨセフは事のいきさつを手短に説明した。
「そんな馬鹿な。ちょっと見せてごらん」
医者はヤコブの腕をとり、まむしにかまれたというあたりを見た。
「ちっともなんともない。かまれた跡すらないじゃないか。いいかね、忙しいのに人をからかうのもいい加減にしてほしい」
怒って医者はその場に背を向けた。人々もどよめきを残しながら三々五々に散っていった。ただ一人その場に残ったのは、服装から教師と分かる若い男一人だった。
今までの一部始終を目撃していた彼は、イェースズに、
「ちょっと、会堂まで来てくれないか」
と、言った。親のヨセフが何も言わない前に、イェースズは教師について歩いて行ってしまった。
会堂の薄暗い部屋でろうそくもともさず、教師はイェースズを椅子に座らせた。
「君はいつから、あんな力を持ったんだ?」
「二年ぐらい前からです」
「どうして、医者を呼ぶのをとめた?」 「だって、どうして人が苦しんでいるときに、お医者さんだけを頼るんですか? 僕は、ただ神様だけを頼ればいいと思ったんです。だって、いつも神様にお祈りしているくせに、どうして大変な時だけ人間である医者に頼るんですか?」
「いいかね。神は医者というものを通して、その力を表される場合もある。医者のすることも、神の定め給うたことだよ。いたずらに医者を遠ざけなくても、神に背を向けたことにはならないと思うがね」
「そりゃ、お医者さんって悪い人じゃあないでしょう。でももっと早く確実に助けられるのに」
「あの、君の力でかね? それほど自信があったのかね」
「僕の力じゃあない。神様の力なんです」
「なぜ、そう言えるのだ?」
「だって、弟は治ったじゃないですか。まむしにかまれたが、たとえお医者さんが来ても助からないのに、それが治ったじゃないですか」
教師はしばらく考え込んでいたが、ゆっくりと口を開いた。
「君はさっきから、神、神って言っているけど、神が定め給うた十の戒律、知っているかな?」
「モーセの十戒でしょう。もちろん知っていますよ」
「ほう。その年では珍しい。では、その十戒のうち何がいちばん大切かな?」
「いちばん大切なものなんてありません。ただ、十戒全部をまとめてひと言でいう言葉を、僕は知っています」
「それは?」
「愛です」
「ほう、何という先生が君にそんなことを教えたんだ?」
「知りません。真理は一つですから」
こうして夕方近くになるまで、二人は会堂の中で話し合っていた。
その夜、イェースズは母マリアに語った。
「今日、先生と会堂でお話ししたよ」
そのことはヨセフから聞いていたし、そのいきさつが気にかかっていたマリアだけに身を乗り出してイェースズを見た。
「どんなお話をしたの? お母さん、ぜひ聞きたいの」
「いろんな話。でもね、先生の話は、僕、嫌だ」
「どうして?」
「だって、ゼンダ・アベスタもエッセネの書も知らないんだもの」
「パリサイ人だから、それはそうよ。あなたはこの家に生まれたから、それを読めるのよ」
「ほんとォ? 最高だね。あの人たちそれも知らないから、話が律法や聖書のことばかりだよ。それはそれでいいんだけどさ。まるで神様はすごく不公平でユダヤ人ばかりえこひいきしているように言うし、それでいいんだなんて言うから、僕、頭に来ちゃった」
「そこで、怒っちゃだめよ。よくお話を聞いてあげた?」
「うん、聞いてあげたよ。ユダヤ人はどんな人々よりも、神様のお恵みがあるんだって。でも、そんなのおかしいよね。神様ってそんな不公平な方じゃあないでしょう? だって、そうじゃない。ギリシャ人もローマ人もそしてサマリア人も、みんな神様の子供でしょう。ユダヤ人って、自分さえよければいいんだね」
「昔はあなたも、そう思っていたくせに」
マリアが笑うと、イェースズも苦笑を漏らした。
「それ、言わないでよォ。とにかく、ユダヤ人って、ほかの人たちも神様から見ればみんな大切なんだってこと知らないね。僕、そんなの嫌だから、よそに行きたい」
「よそへ?」
「うん。ユダヤ以外の国へ行って、いろんなユダヤ人じゃない人と会いたい。特に、ゼンダ・アベスタの国に行って、もっといろんなことを勉強したいんだ」
「うん、大きくなったらね。今のあなたじゃあ、まだ無理よ。もう少し大きくなったら、お行きなさい」
「大きくなったら?」
「そう。それまで、もっとしっかり勉強して」
マリアはろうそくの火の前に頬杖をついた。