〜アジア横断編〜

とりとめのない話(シンガポール)



 シンガポールという国の第一印象
 シンガポールは綺麗な国だ。マレーシアから陸路で入ると、海を渡る数 キロの堤を通って入国。その道がそのままハイウェイになる。片側2車線 に広い路肩、両側に背の高い街路樹が茂る。街路樹の幹には、たぶん人の 手によってくっつけられた着生植物が大きな葉を垂らし、木の根元の草は 芝のように短かく刈り込まれている。路肩と街路樹の間にはガードレール があるけれど、それを隠すように植えこまれた低木のおかげで生垣のよう に見える。高台を通る時に見える景色は、緑に囲まれたマンションやテニ スコート。パステルカラーのグリーンやピンク、ベージュに塗られた建物 には、無機質さを感じさせないようにと心配りがされているようだ。国全 体が丘のようになっているので、地形的なバリエーションもさほど感じら れないまま、そういう景色が何十キロも延々と続く。
 ハイウェイから下りると、これまた綺麗に街路樹の植えこまれた街道。 道沿いの一戸建住宅には白い門と白い壁、つやつやの高級車。通りの名前 が細かく決まった交差点を横切るにつれて、バスが増え、タクシーが増え 、一方通行の4車線道路が増えて、近代的な中心部へ近づいていく。
 バスに乗った。フロントガラスの上の表示板には、行き先の地名などな くただ番号が書いてある。これが市内循環だけではなくて、郊外にも出て いく。コンクリートで護岸された人工池とそのまわりの公園。不自然なほ ど生き生きと映える芝生と、あるはずなのにきれいに片付けられている落 ち葉。田んぼや畑は、どこにも見当たらない。
 もちろんシンガポールに限らず、どこの国でも大都市はそんなもんだと は思う。ひとは快適さのために、身の回りの自然を都合のいいように管理 しようとし、そのことが野生の生き物をせん滅していく。とはいえ、小さ な集落から自然発生的に大きくなった都市には、スキが残っている。ちょ っとした空き地の草むらや、社寺林、河の中州。鳥や虫はそいうところで 生きている。たとえ都市の中心部がコンクリートで塗り固められた砂漠だ としても、郊外に向かって走っていけば少しづつ野生を呼吸できるところ へ脱出できる。シンガポールは、違う。もともとジャングルに包まれた島 だったはずなのに、まるで地面から人の手で作って入植した人工島のよう にさえ感じさせるスゴ味がある。ガイドブックを開けば、都市部からずっ と離れたところに熱帯雨林の自然公園があって、鳥や虫たちはそこに生息 の場がちゃんと与えられていていることがわかる。わかってはいても、執 拗に命を排除した中心部の街並には、それが残っていることを感じさせな い冷徹さがある。
 東南アジアの鳥の図鑑を読むと、多くの鳥の“生息域”の欄には、“ Formerly Singapore (以前にはシンガポールにも)”と書いてある。今ではそのワケが少し わかる。シンガポールには、スキがないのだ。わかりやすく言うと「美容 整形」してある。美容整形してまで綺麗になることがいいことなのか、わ るいことなのか、あるいはヨシアシで考えるべきものなのかどうかさえ、 僕にはわからない。そもそも僕は外国人の旅行者でしかないから、考える こと自体、余計なお世話なのかも知れない。けれど、少なくとも鳥たちは 、この街が大っっっ嫌いだ。その証拠に、いるものと言えば、イエガラス にドバト、そして一番多いのが Javan Myna ・・・ こりゃ、だれかが無理矢理連れて来た“移入種”だ。
 入国した翌日、次の目的地インドの領事館へ、ビザの申請に行った。僕 は申請料金を持ち合わせていなかったので、待ち合いにいた中国系の女の 子に、近くにATMがないか聞いてみた。色白で、ショートカット、ショ ートパンツのアクティブな感じの子だった。もう書類を出し終わっていた 彼女は、ちょうど自分も出るところだからいっしょに行こう、と言ってく れた。
 僕らは整然とした街路樹の歩道を、旅の話をしながら歩いた。彼女は、 「この国、はやく出たほうがいいよ。何をするのにもお金がかかるし、見 るべきものなんてなんにもないわ。ショッピングするにしても、一番大き いデパートは、日本の Takashimaya だしね」という。その通りだった。僕は、きのうからうすうす感じてい ることをシンガポールで生まれ育った彼女に言い当てられたような気がし た。けれど、さっき会ったばかりの彼女に“そうだね”とも言えず、「マ ーライオンがあるよ」と答えた。彼女は、僕がその手のものを見に行く旅 行者じゃないことを見透かすように僕の目をのぞきこんでから、あはは、 とただ笑った。
 信号のある交差点をふたつ渡った所で、「じゃ、銀行そこだから。良い 旅を。」と彼女は言った。差しだされた右手をにぎると、彼女は僕よりず っと力強くぎゅっと握り返した。ほんの少ししか話さなかったけれど、彼 女らしいな、と思えた。(01.11.30、シンガポール)

  ジュロンバードパーク Jurong Bird Park の鳥
 今まで「とりとめのない話」にいくつか書いてきた“×××××の鳥” というタイトルの文は、すべて野生の鳥についてのものだったけれど、今 回は違います。シンガポールの郊外にあるジュロンバードパークは、朝 早くから双眼鏡を持って出かける野鳥観察公園ではなくて、鳥の動物園。 世界から集められた鳥を飼って、見世物にしているところ。
 翼のあるものをカゴに閉じ込めるというのがどうもいたたまれないので 、今まで旅の中でこの手のアトラクションは避けてきた。けれど、この公 園については、ちょっと見てみようかなという気になった。理由はいくつ かあって、ひとつは、数日後に出発の飛行機を待つまでの間、時間を持て 余していたこと。シンガポールという国は、僕のようなタイプの旅行者に は、ほんとうにやることのないところなのだ。もうひとつは、旅の途中で 知りあったシンガポールに住む友達から、鳥を半野生の状態で飼っている 所で、けっこうおもしろいよと聞いたこと。そして何より、僕は鳥だけの 動物園なんて今まで一度も行ったことがなかったからだ。
 さて地下鉄とバスを乗り継いで公園につくと、入場券を買う前からゲー トの回りをアマサギが歩いている。近くにあるマクドナルドの前ではJa van Mynaが客の後をついて歩き、客が立ち止まると見上げながら笛のよ うな綺麗な声でさえずる。そうするとフライドポテトをひとかけらもらえ ることを知っているのだ。僕の前には、警戒もせずに巣立ち雛に餌をやっている親 鳥がいた。
 中に入るとまず小さな池があった。カモなどの水鳥がいたのだけれど、 なんと池の周りには低いフェンスがあるだけで、オリもネットもないのだ った。飛べないように風切り羽が切ってあるのかとも思ったけれど、伸び をする時に観察すると、そんなことはない。つまり、彼らは逃げようと思 えば逃げられる状態で飼われていることになる。いや、ひょっとしたら飼 われているんじゃなくて、彼らはこの公園に自分から入ってきて越冬して いる野生の鳥で、春になったら旅立って行くのかもしれないと思い、ちょ うど餌をやりにきた飼育係に聞いてみた。答えは、すべて捕まえてきたも の、だという。良い餌とすみかを与えておけば、逃げていかないのだそう だ。それどころか、中には公園内で勝手に卵を産んでは殖えていって、別 の鳥を飼っている池にどんどん進出していく種もいるという。たしかに順 路を進んでいくと、「アフリカの湿地」にも「熱帯雨林の川」にも「フラ ミンゴの池」にも、涼しい顔して入りこんでいるやつがいる。園内には落 葉常緑樹がよく生い茂り、ゴイサギやらコサギやらが時々頭上を飛んでは 木々を渡る。彼らは公園全体を囲うフェンスを十分越えられる高さを飛ん でいるのに、決して外へは行かなかった。“十分な食事と安全で快適な家 ”。人間にたとえた言い方をすると、彼らはここを出てもここより住みや すいところに行きつけないことを知っているのかも知れない。あるいは、 そう思いこんでいるのかも知れない。公園を取り囲むフェンスは、中の鳥 を逃がさないためのものではなく、イタチ類などの敵を外から入れないた めのものなのだろう。もっとも、僕はシンガポールではイタチどころか、 野良猫も野良犬も見たことはなかった。その上、爬虫類天国の熱帯のど真 ん中にありながら、車に轢かれたヘビの死体さえひとつも見ることはなか ったのだけれど。
 さすがに小鳥類は放し飼いというわけにはいかない。だからケージで飼 っているのだけれど、これがバカでかい。中にはちょっとした丘があり、 川が流れていて、落差30メートルもある人工の滝まである。お客はこの ケージの中へ入って歩きながら鳥を見る。植栽されたジャングルをめぐる 遊歩道は、ぶらぶら歩くだけでも30分くらいはつぶせる長さがある。餌 付けされた鳥はかなり近くまで寄れるし、とんでもなく個体数の密度が高 いうえ、アフリカの鳥もオーストラリアの鳥もクソミソに飛びまわってい て、野生からは程遠い。それでも中のコーヒーショップでお茶を飲んでい ると、ケージの内が「外」であるような気に少しだけなる。だって、時々 外を飛んで行くのは、鳥じゃなくてジェット戦闘機なんだもの。ここで飼 われている小鳥たちの方はといえば、別に金網にとまって外へ出たそうに しているやつがいるわけでもなく、高枝でさえずったり、巣箱に出入りし たり、飼育係を目ざとく見つけて餌台の回りに集まったりしていた。“十 分な食事と安全で快適な家”。このタカの入ってこられないケージの中で 、彼らはお決まりの顔ぶれと小競り合いや恋を繰り返しながら、ある種の 人間の価値観で言うところの「幸せに」、一生を終えていく。
 皮肉なことに、十分動き回れないほど小さな柵で囲われているのは、エ ミューやダチョウなど、飛ばない鳥なのだった。たぶんほっといたら、ど こまでも歩いていってしまうんだろう。あと、ワシやタカ、ハヤブサなど の猛禽類は、気の毒この上ない。足に皮のひもを結ばれていて、地上10 センチの止まり木でじっとしているしかない。あの冷徹なほど精悍な狩り や、大空を縦横無尽に飛びまわるディスプレイフライトをすることなんか 、望むべくもない。
 半日ほどかけて全体を見たあとの感想は、うまいこと飼っているなぁ、 だった。それぞれの鳥の習性を利用して、できるだけお客が鳥に近づける ように、あるものは緩く、あるものは厳しく管理されている。それともう ひとつ思ったこと。これは、飼われている野生動物を見るといつもそうな のだけれど、どうも人間社会に照らしてあれこれ思いを巡らせてしまう。 そうすることに論理立った意味なんかないことは良くわかっているのだけ れど、動物園というのはそういう気にさせるところだ。“十分な食事と安 全で快適な家”が手に入ったとき、人は、自分は、翼を開いて空へ飛び立 っていく心を忘れられるだろうか。(02.01.06、テツプール)

とりとめのない話 インド(その1)