〜アジア横断編〜

とりとめのない話 ネパール(その2)


非常事態宣言(その3)
  もし今、ネットサーフィンする時間がある方は、あとでこの事件の関連 記事をぜひ検索してみて欲しい。日本語サイトでも小さな記事が見つかるかもしれない。場所はネパールのカイラリ郡 Kailali District ラムキー Lamkhi。日時は2002年3月19日、夜10時過ぎ。
 その日の朝まで僕はロイヤルバルディア国立公園にいた。3日間泊まったコテージの連中は楽しいヤツばっかりだった。ガイドのラムGとボーイ のケショップを中心に、あと何人かの友達が集まっては、ギター弾きが来れば歌ったり、「先週“はじめて”だったんだけれど、相手はドイツ人の太った女の子で・・・」なんてゆう男臭い他愛のない話で盛りあがったりして、僕らは夜を楽しんだ。彼らの遊びの中に、よく使う英語のフレーズの語呂合わせというのがあって、例えば“What to do? Kathmandu?”とか“Why not? Coconut?”とか、こんなのを会話の中で作っていく。これが使い所をうまくすると結構笑える。というのは、“What to do? Kathmandu?(どうしろってんだ、カトマンドゥ?)”なんか にはこんなニュアンスがあるからだ。「カトマンドゥに行きゃ、何でもある。しゃれた服、きれいなねーちゃん、CDにステレオ、オートバイのニ ューモデル。でも、こんな西部の片田舎に住む安サラリーのおれたちなんかにゃ手も出ねえ。どうしろってんだ、カトマンドゥ!?」。
 昼前にバルディア国立公園を自転車で出発した僕は、ひとりではなかった。その日から休暇をとっていたケショップがいっしょだ。彼はボーイ業の片手間に専門学校に通う20歳。その夜僕が泊まる予定にしていたラムキーという町には彼の実家があって、自転車で里帰りするのでいっしょに走ろうということになったのだ。時には歌をうたったり、競争したりしながら、ふたりで国道マヘンドラ・ハイウェイを西へ向かう。わずか40キロたらずのサイクリングで、午後の早い時間には着いた。ラムキーは小さな町だった。商店街が国道沿いに500メートルほどと、あとはそのまわりの昔ながらの暮らしをする村。ケショップの実家は町の西寄りにあって、布生地屋をやっていた。僕はその向かいのホテルの2階に部屋をとり、夕方までケショップと町や村を見て回った。町の東の外れには変電所、西の外れには警察署があった。
 ひとりの僕に気を使ってか、夕食のあとケショップは家には泊まらず、ツインだったこちらの部屋に来た。そのくせ彼は昼間の自転車に疲れたと言って、早くから眠り込んでしまった。そして夜10時。日記をつけ終わった僕がそろそろ眠ろうかと手回りをかたずけ始めた時、突然の停電。部屋は真っ暗になり、天井扇がゆっくりと止まっていく気配がする。そして遠くから聞こえてきたのは、激しい銃声と爆破音だった。テラスに出ると町じゅうが停電していることがわかったので、僕は初め西側の変電所の方を見た。けれどあいかわらず続いている銃声は、東側の警察署の方から聞こえてきた。こりゃどう考えてもマオイストのテロだ。僕はケショップを起こして「警察とマオイストが戦ってるよ」と教えた。
 銃声が止んでしばらくすると、今度は真っ暗な中、人の声が西の方から聞こえ始めた。こんな時に道路を歩いて(あるいは走って、かもしれない)くるなんて、マオイスト以外には考えられない。僕とケショップはテラスから部屋に戻ってかぎを掛け、カーテンのすそから外の様子をうかがった。彼らはどんどん商店街へ近づいて来ているようで、そのうち「走れ!走れ!」とか、話していることがはっきりと聞き取れるようになった。彼らの言葉はもちろんネパール語だけれど、ケショップがリアルタイムで英語に通訳してくれるので、僕も雰囲気に乗り遅れることはない。テラスが邪魔になってすぐ下は見下ろせないのだけれど、向かいの商店の前をよく見ると、何人もの人影が動いていた。ただ、何をしているのかはよくわからない。なにしろ全身黒ずくめで、そのうえ今日は三日月だ・・・・・そうか、闇夜を狙ったな。
 やがてリーダー格と思われる男性の声が、住民に向かって叫ぶ。「この町は我々が占拠した! 警察官はもはやひとりもいない!だが、恐れることはない! 我々と戦おう! 戦争だ! 戦争だ! 戦争だ!・・・・・ (ケショップの英訳では、“Anybody war! Anybody war! ....”)」。そのあと聞こえてきた話し声から、彼らがこれから銀行を襲撃するらしい、とケショップが言う。どこにあるんだと聞くと、このホテルの棟続きで4、5軒西だという。めちゃめちゃ、ちけぇじゃん。
 彼らがどういう方法で銀行をこじ開けるのか僕らには見当もつかなかった。もし大きな爆弾を使うとしたら、衝撃でこの部屋のガラスが割れて怪我をする、ということも考えられるので、とりあえず窓から離れた。真っ暗な中、壁を背に足を投げ出してそれぞれのベッドに座り込み、ふう〜、とため息をついた。そして僕らは口々に “What to do? Kathmandu?(どうしろってんだ、カトマンドゥ(=ネパール中央政府)?)” と言い合ってくすくすと笑った。
 やがて斧のようなもので鎖を立ち切る音がしばらく聞こえ、そのあと少しの銃声と、破裂音・・・小型の爆弾を使ったのかもしれない・・・が一度だけ腹に響いた。銀行強盗は30分もかからなかった。再び外からマオイストたちの話し声が聞こえ始めたので、僕らはまた窓から国道を見下ろした。気配から、すぐ下には10人ほどがいるように思えた。合言葉なのか挨拶なのか、時々「ダイ!」と叫びながら遠くから走って来る者もいる。何かを報告に来た、という感じだ。受け答えする声には、女性の声も混じっていた。やがて東の方からザッ、ザッ、ザッと規則正しい足音が聞こえ始め、50人くらいの黒ずくめの“兵隊”たちが隊列を組んで西へ駆け抜けていった。変電所か、別のもうひとつの銀行を襲撃し終わったグループなのかもしれない。そのあとも姿は見えないながら同じような足音が聞こえ、マオイストは次々に西へ撤収していった。突然の停電から1時間半足らず。彼らは実に手際よく作戦を遂行し、闇に消えた。僕はそれまでに読んでいた新聞記事などから、マオイストを“テロリスト”と言うよりは“軍隊”というイメージでとらえていたのだけれど、実物は想像以上に統制された組織だった。
 マオイストの引き上げた外は静まり返っていた。僕とケショップは充分に時間をとってから、テラスに恐る恐る出た。もちろん壁を背に影を消しながら。遠くに見える警察署は炎上してあかあかと夜空を照らし、変電所のあたりも明るかったので一部が燃えているように思えた。そしてひとつ差し迫ったことがあった。マオイストが帰り際、ガソリンスタンドに火を放って行ったのである。僕らのホテルの斜向かい、ケショップの実家の2、3軒西だ。ケショップによると、そのスタンドは政府の有力者が経営する石油会社の系列なんだそうだ。
 燃えているのは給油機だった。情けないことに、僕にはその火が地下に備蓄されているガソリンに引火する可能性がどれくらいなのか、もし引火したらどれくらいの規模の爆発が起こるのか、確かな知識が全くなかった。ただ思い当たるのはアクション映画のワンシーンくらいなものだ。もし周辺の家が倒壊するくらいの爆発が起これば無傷ではいられないだろうけれど、かといって朝までは外へ出るわけにもいかない。同じホテルの他の泊り客も心配そうにしていたけれど、僕にはマオイストが一般市民に大きな被害が出るようなことをするとは思えなかった。結局、その時僕らにできることは眠ることだけだった。朝方トイレに立った時には、すっかり鎮火していた。(つづく、02.03.26、サハランプール)
非常事態宣言(その4)
  翌朝早く外を見下ろすと、この小さな町にこんなにたくさん住んでいたんだ、と驚くばかりの人がいた。みんなゆうべマオイストに襲われた銀行やガソリンスタンドを見て回ったり、何人かがところどころに集まって話し込んだりしていた。眠っているケショップを部屋に残して階下へ下り、僕も銀行を見に行った。早々に出社した行員が中に入ることをとめていたので店内の様子はわからなかったけれど、持ちだされた書類が入り口に散乱していて、隣家のシャッターや壁には弾痕が残っていた。もうひとつの別の襲われた銀行を見に行った人の話では、店舗の前で書類を焼いた跡があったそうだ。町の人の表情はとくに悲壮な感じでもなくって、何がどうなったのか見ておこう、という冷静なものに感じられた。
 まもなくケショップが下りてきて、家族や近所の人の話を通訳してくれた。死傷者は警察関係者が全てやられているとしたら30人くらい、襲わ れた銀行は3つ、マオイストの数は数百人だろう、とのことだった。そして今日からしばらくは、この町は「警察のいない町」になるそうだ。ひと 通り話し終わったケショップは、“What to do〜? Kathmandu〜?”と言って少し笑った。立ち話をしている間に、軍人を荷台に乗せたトラックが何台か西の警察署の方へ走り抜けて行った。もし軍が検問でも始めたら面倒だと思い、僕は部屋に戻ってすぐに荷物をまとめた。そしてショップと家族の人にくれぐれも気をつけてと言って、マヘンドラハイウェイを西へこぎだした。ケショップが「また来てね、兄ちゃん。」と言って手を振った。
 警察署の方からは大勢の町の人が歩いて帰ってくるところだった。手振りで教えてくれたところによると、警察署の様子を見に行ったのだけれど近づけない、ということらしい。行ってみると警察署の前は軍に封鎖され、10台ほどの長距離トラックがエンジンを止めて開通を待っていた。その中ほどにアサルトライフルを持った数人の軍人がいて、しつこい野次馬がそれ以上警察署に近づかないように時々声を荒げていた。あたり一帯の田んぼでは軍隊が横一列で歩きまわり、生存者の捜索をしているようだった。僕は野次馬よりトラック1台分前へ出て、いちばん階級の高そうな上官風の人にここで待たせて欲しいと伝えた。彼は1時間ぐらいで済む、と返事をした。
 軍の町の人に対する態度は粗暴だった。11月から出っぱなしの非常事態宣言と、毎日どこかで起きるテロ。軍人はみんな、緊張と多忙のせいで 精神的にも肉体的にもかなり疲れているということは察しがつく。彼らにとって野次馬の整理など、いちばんムカつく仕事だとは思う。でも、だからといって銃を振り回して野次馬を引き下がらせ、帰れと言いながら彼らの自転車を蹴散らしていくのは見ていて気持ちのいいものではなかった。野次馬と軍人たちを背に、僕はひとり道の真ん中に立って黒焦げの警察署の方をぼんやりと眺めていた。このテロリズムが、これからネパール社会を作っていく世代、20歳のケショップの目にはどう映ったんだろうか。彼は別れ際、僕に言った。「ひょっとしたら5、6年後には、ネパールの政治はマオイストが動かしているかもしれない。」。僕はネパールが共産主義国になってほしくないと思う。共産主義社会では、体制によってたくさんの人が殺されることは旧ソビエト連邦で実験済みだし、今の中国のチベット政策なんか見ていても酷いもんだ。けれど、町の人たちはみんな僕と同じものを見ているはず。ゆうべの厳格に統制のとれたマオイスト軍テロリストと、今目の前にいる乱暴な国軍兵士。表面だけを見る限り、人を殺すことのできる銃を持つ組織のあるべき姿は、国軍よりもむしろマオイストの方だと感じる人がいても不思議ではないように思われた。
 幸い30分もしないうちに通行止めは終わり、上官風が行っていいよと僕をうながした。僕はやっとエンジンをかけはじめたトラックの列を追い 抜いて一番前へ出ると、まだ涼しい朝のさわやかな空気を胸に受けながら、死体が転がる田んぼの中の一本道を、自転車で西へ向かった。(02. 04.06、ポンティアン)
これからネパールへ行くバードウォッチャーへ
 これから書く話は、バードウォッチャーではない人には、あまり関係がありません。また、バードウォッチャーであっても、パッケージツアーを買えるお金持ちの人には、あまり関係がありません。もちろん、非常事態宣言下のネパールになんか行かない、という人には、まるっきり関係がありません。この話は、僕のように1泊100〜300円くらいのホテルにひとりで泊まって、自分で移動しながら、ネパールでこれから鳥を見ようという、ごく限られた人のためのものです(そんな人が僕以外にいるかどうかわからないけれど)。
 まず、観光地や国立公園内以外の場所で双眼鏡をぶらぶら首からさげて歩くのはやめましょう。これはとても危険な行為です。双眼鏡というのは、軍用品でもあることを忘れないで下さい。かばんの中に双眼鏡を入れて歩く場合は、鳥の図鑑もいっしょに携行して、警察や軍の荷物チェックを受けたときにセットで見せられるようにしておきましょう。実際には外国人とわかればほとんどノーチェックですが、ネパール人バードウォッチャーの場合は双眼鏡を持っているというだけで事務所へ連れて行かれ、30分ほど尋問を受けることがあるといいます。
 また、鳥に限らず野生動物を見に行く時は、アースカラーの服を着るのが基本ですが、迷彩服にブーツなどの軍服に見えるものは絶対に避けてください。ちなみにネパール国軍は青色系の迷彩服、ネパール警察は紺色の無地の制服。マオイストは闇夜に見ただけですが、黒か紺のかなり暗い色の制服ように見えました。もしそんなものを着て双眼鏡をぶらさげ、鳥を見ながら山を歩いていたら、場所によっては敵方に狙撃されるかも知れません。国軍側ともマオイスト側ともつかない格好は、両方から襲われる可能性があるでしょう。ネパール人にはチベットの方から来たモンゴリアンの血がかなり混じっているので、あなたの顔は少し日焼けすればネパール人に見えてしまいます。髪を金髪のドレッドヘアーくらいにしておけば、大丈夫かもしれません。
 何はともあれ、現地での危険情報の収集をお忘れなく。では、ご安全に!(02.03.26、サハランプール)

とりとめのない話(日本)