神事における「お祭り弓」の考察

 
ここでは愛知県東三河(豊川、額田、足助、鳳来、作手)静岡県遠州の神社の祭礼に古くから伝わる「お祭り弓」と呼ばれる神事に関する、
その発祥の起源、また、歴史的、文化的背景、庶民の生活との関わり、
さらに厳格な作法にもとづく執り行いかたに至るまでを考察し、記録として残す事にする。

1,発祥の起源
2,歴史的文化的背景
3,庶民の生活との関わり
4,「お祭り弓」の行いかた

    1、「お祭り弓」の起源

 ここでは「お祭り弓」と記したが、実際には「お祭り矢」と呼ばれる事が多い。
なぜ弓ではなく矢と言われているのか、その起源は明らかではない。
 神社に残る道場も射場ではなく矢場と呼ばれ、弓を引く順番も、弓順といわず矢順といわれる。
 近代弓道以前の弓がまだ飛び道具として機能した時代において、弓よりも矢に引く人間の意識の力点があったのであろうか。
男子の節句に飾り羽根の付いた矢(破魔矢)を飾って魔除けにする風習と共通するものがある。
 西洋医学の発達以前、古代、中世において疫病などの病の原因は鬼の仕業と考えられていた。

古代の日本人において弓矢は単なる道具というよりも、弓矢そのものに鬼を祓う霊的な力が備わっていると考えられていた。
 平安時代から伝わる、弓弦を鳴らして魔除けにする神事の原形が、お祭り弓の中にあるのではないか。

 鳳来町能登瀬の諏訪神社に、豊年満作を祈願する「鹿射ち神事」といわれる、興味深い神事が今も残されている。
 諏訪神社とは、天平年間(729〜749)に阿部利岐麿なる人物が能登瀬に来て住み、その子孫の阿部亀次郎作なるものが、信州の諏訪大明神の信仰厚く、
大同元年(801)に諏訪大社から大明神を勧請し、この地へもたらしたのが始まりである。

 祭りの名称は「氏神様のまつり」と言う。
「鹿射ち神事」は、「田作り・種取り神事」と一緒に行われ、祭りの重要な位置を占めている。
矢取り役二名、弓取り役二名により藁で作られた雄鹿と雌鹿を弓矢で射止める神事である。
儀式にしたがい射られた最後の矢が雌鹿を射抜くと、あらかじめ雌鹿の腹の中に入れられた丸餅を参拝者が奪い合う。
 丸餅を手に入れたものの家は、子宝にも恵まれ、家内安全、五穀豊穣が約束されるといわれる。
 豊年満作を祈願するこの神事は、諏訪大明神を祭る神社の多くで行われていたが、いまではこの神社だけとなり、
貴重な神事であるため昭和58年愛知県の無形民族文化財に指定されている。
 ここでは弓矢が戦の武器としてではなく、狩猟の道具として位置づけられている。
現在のお祭り弓のルーツともいえる神事である。

    2、歴史的文化的背景

 天正3年(1575)、武田信玄の後を継いだ勝頼は1万5千の兵で長篠城(鳳来町)を囲み攻撃、長篠城主奥平貞昌、5百の兵でこれを防ぎ、鳥居強右衛門の働きによって駆けつけた援軍織田信長(3万8千)、徳川家康(8千)連合軍が設楽原で合戦。武田軍1万の戦死者を出し敗北、この戦によって武田氏は没落し、織田、徳川の勢力は絶対的なものとなる。

 関ヶ原、小牧長久手の戦いと共に、その後の日本の歴史を変えてゆく事になる長篠の戦いである。
 現在、お祭り弓の残る地域(豊川、額田、鳳来、作手、足助、遠州)と、長篠の合戦当時における徳川家康の勢力圏とほぼ重ねあわせる事ができる。
 しかし、戦後市街化された地域に於いては、祭りそのものの変貌衰退と同時にお祭り弓も衰退したと考えられる。

 古くからこの地域では、「三河の張り弓」(弓の弦を張ったまま、いつでも引くことのできる状態で持ち歩くことが許可された地方)、「遠州の裸弓」(弦は張ることはできないが、弓を裸のまま持ち歩くことが許可された)、「尾張の袋弓」(袋に入れてなら弓を持ち歩くことが出来る)と言われ、徳川家康の時代から、この地方では百姓が弓を引くことや、張った弓を持ち歩くことが許された領地として知られている。

 現在も家康の幼名である元康の名で「弓の事」という書状が、各地の弓術の師匠に残されている。
それによると武士だけではなく、農、工、商に関わらず弓を引くことが許可され、又いったん有事の際には、戦の加勢に駆けつけるように、とも記されている。
三河百矢場と呼ばれてきたように、弓の師匠を各地の神社を中心に任命し、代々継承することで有事のために備えたのであろう。

 家臣による正規軍に対し百姓、町人が予備軍的な役割を担っていた。
お祭り弓に参加する弓士も、普通には「弓引き」と呼ばれている。

 武士ではなく百姓町人である事と、「弓引き」と俗っぽく呼ばれていることは深く関係するようである。
この地域の矢場では、お祭り弓とほぼ同じ形式にそった射会が月例射会などで行われている。
お祭り弓を継承、保存する上で有効に機能している。

 現在でも全日本弓道連盟の段、級に関わることなく、矢場を活動の中心におくものが多くいる。

    3、庶民の生活との関わり

 お祭り弓とは、神社を中心とするその村落共同体の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼に際し、金的を射止めることにより、その厄難を取り除くことにある。
 直径一寸八分の金的の裏には「鬼」という文字が刻まれ、悪霊とか災いを象徴的にあらわしている。
金色をしているために的が立派と思われがちだが実際には鬼の化身である。

 金的を射止めなければ厄払いが済まないという理由から、山車や行列が、神社の境内から出られず、祭礼が始まらないといった事態も起こる。

 古老の話によると、金的が落ちずに祭りが三日も延期されたという逸話が残っているほどである。
そのため甲矢で射止められなかった場合に乙矢では同じ大きさの金と銀の的を本金の下に三角形の形に置き、乙矢三鵠といわれる的中率を上げるという工夫がされる場合がある。

これもあくまで、公文(くもん)と言われる主催者の裁量権に委ねられている。
しかし、金的はあくまで鬼の化身であるため、
その際にも決して本金に手を触れてはならないと言い伝えられている。

 普通の的の場合、的を射抜いてはじめて的中だが、金的は射抜かなくても、かすって傷が付いたり、的が動いて落ちたりした場合でも的中とみなされる。
 又、塵払(じんぱ)と呼ばれる一度地上に落ちた矢でも構わないとされる。
そのため、串を使わずお奥行きの深い的をしっかり埋め込むようにかけることが必要とされる。

 金的の上には眉毛を模した杉などの小枝が掛けられ、御弊で囲われる。
古老たちは的の上をトサカ、的の下を喉という言い方をする。
これも、金的は競技のための的ではなく、あくまで神事であると考えられている証であろう。

 射止められた矢の刺さったままの的は神社の本殿で、神官によるお祓いの後、祝的(しゅうてき)といわれる矢を抜く儀式が行なわれる。
 その際、金的を射止めた者には主催者である神社から、額代と呼ばれる報奨金と褒美が出る。
この額代で翌年の祭礼に、何流の、誰の門人であるのか書かれた本人の名前の入った的中額を奉納し、神社の境内に長く掛けられることになる。
 これは弓引きにとって大変名誉なことである。

 通常、的中額を奉納し神社にかける事のできるのは、正規に伝わる師匠と、その門人に限られる。
又、競技会や観光協会などが主催する射会などの金的は、余興的といわれ、神事的とは区別されている。
 このような神社における祭礼に大勢の人々が集まり、江戸中期頃から見物料を取って大会が行われた。これを勧進的(置的)といい、
江戸時代の勧進相撲のように庶民の娯楽のひとつであった。

 神社仏閣は寺社奉行管轄であるため、町奉行(町方)は介入できず、そのため賭け弓も行われていたようである。
 特に三河七矢場と呼ばれる、賀茂神社、三明寺、砥鹿神社、豊川市八幡宮、富永神社、根古屋神社、小松原観音などは大変賑わい、現在も多くの奉納額が残されている。

 この地域の多くの神社境内には、弓の稽古に欠かせない矢場があり、日置流雪荷派、日置流印西派、大和流など、其々の矢場の師匠が代々継承し、その流儀にそって弟子を育ててきた。

師匠は、射術も然る事ながら、矢場の維持管理、弟子の育成、地域共同体との交流などのお祭り弓を含む弓の文化の継承という責任を負っている。
 弟子が、弓の技術、礼儀作法、お祭り弓を行なう上での必要な知識を身につけ、一人前であると師匠が判断すると、目録披露が行われる。
目録披露とは、近在の師匠、又その多くの弟子たちが一堂に集まる弟子披露のための射会である。

 弟子は御矢代と呼ばれる飾り羽根の付いた矢尻のない矢と、弓の奥義の書かれた目録という巻き物を師匠から授かる。
 御矢代には、その流派、師匠の名前、弟子本人の名前が書かれた紙が矢の先に小さく巻かれ、
これが身分証明になり、どこのお祭り弓に参加することも可能となる。いわば通行手形兼身分証明書の替わりである。
 ちなみに、師匠は名前の書かれた紙が矢の中央に張られていることで弟子と区別されている。
これらの制度は弓道連盟の審査による段、級とは関係がなく、段、級による上下の関係は基本的に無い。
あるとすれば師匠と弟子という関係だけである。
又、門弟に於いては一日でも早く入門したものが兄弟子となり、これは終生変わることはない。

    4、「お祭り弓」の行いかた

 先に触れたように、その発祥の起源が家康という戦国時代の歩者系の弓術であるため、現在に於いても目録披露などの射会における礼射は、あくまで斜面打起し、
日置流雪荷派に於いて乙矢は蹲射、印西派に於いては甲矢が蹲射をもって正式とされる。

 正面打ち起こしは小笠原流の騎射を原形とする射術であり、道場や平時なら良いが、戦場では敵の矢の標的になり易いという欠点を伴なう。

 正面打ち起こしは、騎乗という特殊な条件から必要上うまれた射術であり、
歩射系弓術の伝統はあくまで斜面打ち起こしが本流である。
小笠原流、武田流などの騎射系弓術は流鏑馬という形で現在も残っている。

 離れにおいても、現在「大離れ」というと両手を一文字に広げる。右手の肘が直角くらいでは小離れと呼ぶ、
騎射なら別であるが歩射の離れは江戸時代までは拳が2、3寸開く程度である。5寸で「大離れ」、8寸の離れはする必要がないといったくらいである。

 日置流では大的と小的(尺二寸)の区別があり、十五間の近的の稽古に小的が使われてきた。
また、的の模様も現在日本弓道連盟の採用している霞的以外にさまざまな的が稽古の状況に応じて使われてきた。

 さらに、お祭り弓では8寸または5寸8分(ゴハチ)の的が使われ、金的の後にかけられる3番的は通常この寸法以下である。
江戸時代に於いては、日置流諸派が諸国に栄え、小笠原流は江戸において幕府の庇護の下に栄え、武田流なども一部に行われた。
また、あらたに江戸時代後期に大和流なども起こることになる。

 徳川家は旗本の武科として弓術を保護したため、武家において盛んであった。
しかし、幕末になり、文久二年(1862年)幕府講武所の科目から除かれることとなる。
この命令により、弓術は武家必須の公認武科ではなくなり、遊戯性を持つことになる。
明治以後弓術は武士階級から一般階級に移行し、遊戯化し娯楽化した。

 その後、混沌とした弓道の状態を正そうと、明治28年4月17日(1895年)大日本武徳会が京都で設立され、
歴代の総裁に皇族、会長には陸海軍の大将、また、民間の有力者も役職に就くといった官民一体の団体として設立された。
 大東亜戦争の敗戦により大日本武徳会は解散するが、昭和24年4月あらたに「全日本弓道連盟」の結成とつながり現在に至る。

近代弓道が信、善、美の追求といった、人間性の向上を中心理念に持つのに対して、お祭り弓に於いては、あくまで的中が優先される。
射形という観点から優れた射であっても金が落ちなければ厄払いが済まないといった、現実的要請が神事に含まれるからである。
したがって、残身は基本的にあまり重視される事は無い。

 このように、お祭り弓に残る伝統は昭和24年武徳会を中心に発足する全日本弓道連盟の近代弓道とは一線を画する。
お祭り弓は、あくまで庶民の弓であり、日置流などを祖とし、勧進的を源流とする弓術である。

(追記)
弓術の各流派において射技、射術を含むその教えは門外不出を守り、あくまで口伝による師弟相伝を原則としてきた。
そのため言い伝えという不確かな根拠をもとに調べてゆくという方法をとらざるをえない。

現在、各流派に伝えられている数少ない古文書を調べてみたが、やはりよく解らないというのが本音である。
口伝による知識や資料をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ御教授願いたい。

                                  日置流雪荷派  山本良輔
                                     門人  渡辺二朗

      愛知大学 河野 眞研究室気付 三河民俗談話会 発行 『三河民俗』 六号 収録

                                   






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