「平成14年9月25日。」


久しぶりにSiteの更新に穴を開けてしまいました。
稚拙なSiteではありますが、いつも遊びに来てくれている方、
日記を楽しみにしてくれている方、
お詫び申し上げます。

最初は、こういう内容の文章を、果たしてSite上で公表しても良いものかとも思ったのですが、
隠すことでもないと思われたので、UPすることにします。

いつになく真面目な文体であるのは、そういう内容のためです。
ご了承ください。





平成14年9月25日午後1時52分、
かみさんの母親である義理の母が亡くなりました。
享年67歳、原因は乳ガンから転移した肺ガンでした。
十数年前に完治したはずだったガンが、数年前に再発、
そして少しずつ病に冒された体は回復することなく、
ついに寿命を終えたのです。
悲報というものは、何の前触れもなくあまりにも突然やってくるもんだと実感した次第です。


25日の朝、かみさん宛てに突然のTELがありました。
受話器を置くと彼女は急に泣き崩れ、事情を聞いても会話どころじゃありませんでした。
泣きじゃくる彼女を無理矢理説得し話を聞くと、前日の夜、
自宅療養をしていた義母の容態が突然悪化し、
救急車で病院に搬送されたとのことでした。
事態は相当切迫しているようでしたので、急いで支度をし、職場に休む旨のTELを入れ、
収容されている病院まで焦る気持ちを抑えながら車を走らせました。
病室に入ると義母はすでに意識はなく、酸素吸入器でかろうじて生命の糸と繋がっている状態でした。
数秒おきに大きく、そして苦しそうに体全体で呼吸を繰り返す義母。
目も口も指もつま先も、もはや動かすことは出来ないようでした。
元々痩せ気味だった義母の体は更に痩せ細り、元気だった頃の面影は微塵もありませんでした。
一週間前に会った時も、動くことは出来るものの、既に自宅で酸素吸入器を鼻に通していたので、
あまり芳しい状態じゃないとは思っていたのですが、
ここまで急激に容態が悪化するとは夢にも思っていなかったというのが正直な気持ちでした。
病室内は何の話も出来ないほど緊迫しており、義母の状態を聞き出すことは出来ない雰囲気でしたが、
先に病室に着いていたかみさんの兄弟達も、目を真っ赤にしているのが、
その時期がすぐそこまで近づいているのが無言の中、伝わってきました。
長兄はもう動かそうとしないその手を必死でさすり、声を掛け続けていました。
次兄はジッと母親の顔を見つめ、込み上げてくる感情を必死で堪えていました。
そして長年、夫として一緒に苦楽を共にしてきた義父は、黙って窓外の景色をじっと見ていました。

「もうちょっとでサヨナラだ。」

寡黙な義父が誰に言うわけでもなく、ポツリと漏らした言葉、
その言葉は、まるで自分自身にやがて来る現実を強引に納得させようとしているかのように聞こえました。
奇跡を信じたくても信じることの出来ない、認めたくないけれど認めざるをえないひとつの現実を、
受け入れなくてはいけないんだという意思表示にも感じられました。
窓外の景色は、高くなり始めた秋の青空が気が抜けたようにポッカリと広がっていました。


私は幸せなことに、過去に臨終の場面に立ち会ったことはありません。
勿論、通夜や葬儀に参加したことはありますが、
あくまでも「関係者」であって、「身内」じゃなかったのです。
葬式の場面で人目をはばからず泣いたこともあります。
でも、それは友人であったり、遠い親戚であったりはしたものの、
あくまでも血縁関係がなかったり、薄かった人達でした。
しかし、義理のではあるものの、母親という存在がこの世を去るという事実、
それがもはや目前にまで迫っていました。
どこか遠い別の次元の話が、急にリアルに私の中に迫ってきたのです。
私はこういう場面に初めて臨み、果たして何が出来るのであろうか、
私は果たしてどんな態度でいればいいのか、どんな声を掛ければいいのか、
そんなことをここに来るまでの車の中で、どこか冷静な自分自身がそう問い掛けていたんです。
どこかで信じたくないと思いつつも、その瞬間に立ち会うことになるかもしれないと、
心の中で準備をしていたのかもしれません。
病室で神聖な人の命というものが間もなく閉じようとしている紛れもない事実、
そして深く関わってきた家族達が最後の瞬間を必死に少しでも先送りにしようと抗っている行為、
今、この現時点で苦しそうに呼吸を続けるこの義母の肉体が、間もなく動かなくなるという現実、
そんな非日常的な数時間が、
少しずつ、少しずつ、私の記憶から忘れ去られようとしていた義母との関わりを思い出させ、
自然と胸の奥から込み上げてくる感情を否定することが出来なくなっていました。


私の家庭だけではなく、義理の兄夫婦にも小さな子供がいます。
勿論、子供達には人の死というものを理解したり、病院の雰囲気というものを察することは出来ません。
怒りにも近い感情を吐露してみても空しいだけ、物珍しい周囲の環境にはしゃぎ回る子供達を外に連れ出し、
あまりにも牧歌的な病院の外で、ふと束の間の安堵感を感じつつ、義兄と無邪気な子供の様子を眺めていました。
病院の周囲には、ごく当たり前の日常が繰り返されています。
暑くもなく寒くもない、ごく普通の秋の一日。
間違いなく病院の外は、単なる午後の昼下がりに違いないのです。


突然、義理の姉が病室から飛び出してきた姿が目に入ったのは表に出て数十分後のことでした。
その悲壮感に満ちた表情は、その瞬間がやってきてしまったという事実を雄弁に物語り、
ある覚悟をさせるに充分な要素に満ちていたような気がしました。
まだ遊びたがる子供達を無理矢理抱え、なかなかやってこないエレベーターに憤りを感じつつ、
静かな廊下を駆け抜けて病室に戻ると、事態は先程までと一変していました。
かみさんが、義兄が、義姉が、泣き叫んでいました。
先程まで苦しそうに呼吸をしていた義母は、既に呼吸をやめてしまっていました。
病魔との闘いに疲れた顔はそこにはなく、ただ静かに横になっているだけでした。
ほどなく医師と看護婦が駆けつけ、聴診器を胸に当て、固く閉じた瞼を開き、
その事実を確かめていました。
そして医師は腕時計を一瞥すると、その時刻を読み上げ、義母の人生の終焉を告げたのでした。
現在の人の平均寿命からすると、あまりにも短い67年の人生の幕を閉じたのです。


目の前で静かに横たわる義母の亡骸。
見る見るうちに血の気が引き、あまりにも白くなってしまった顔、首、手。
もう二度と動くことがないその体には、
ほんの数分前まで血液が流れ、脈打ち、呼吸をし、心臓が動き、脳が活動していたはず。
しかし、もう全てが停まってしまったのです。
目に見えない命というものがひとつ、この世からなくなってしまったのです。
その瞬間の前と後のあまりにも大きな差異が、私は不思議でなりませんでした。
ほんの一瞬の境目で、人は終わってしまっていいものなんだろうか。
ほんの一瞬の刹那で、人はその存在が無くなってしまっていいものなんだろうか。
未来永劫に流れ続けるはずの時間という概念が、義母には終わってしまったというこの事実が、
私にはピンと来なかったのです。
もう義母の存在は、私には記憶の中でしか存在しないのです。
目の前にいるというのにもかかわらず。
それでは、ここにいるのはいったい誰だというのか。
ここに存在する老女はいったい誰なのだろうか。
きっと私に宗教というものがあれば、それに救われたのかもしれませんが、
人の死という概念は、私を混乱させるだけでした。
ただ、人が神や仏という無形のものにすがりたくなる想いというものを、
なんとなくぼんやりと感じたような気がしたのでした。


かみさんは止める義兄の手を振り払い、義母の亡骸にすがりつき、離れようとしませんでした。
事態が飲み込めず、ただただ周囲の雰囲気に飲み込まれ、
動くはずのないその手を必死に動かし、子供達も訳はわからないものの一緒に泣いていました。
ただひとり、妻に先立たれてしまった義父だけが、数歩ベッドから離れ、
黙って静かに目を閉じて何かを想っていました。
その姿を見た瞬間、私も今まで抑えていた感情を堪えることが出来なくなったのでした。


一往に皆、泣き腫らした目をこすりながら、それでも少しずつ時間の経過と共に落ち着きを取り戻し、
義母を自宅に連れて行くための準備に追われ、
考える暇がないという慌しさが、何か救いのように動いていました。
動くのをやめ、考える時間が出来てしまうのを皆、怖がっているようにも感じました。
「ただいま」と言うことのない無言の帰宅をしなくてはいけない切なさを、
どこかで認めたくないと思いつつ、それを受け入れなくてはいけない現実を強引に消化しているようでした。
私達はこれから執り行われる葬儀の準備や宿泊の準備をする為に、いったん自宅に戻ることにしました。

「・・・最後に話をしたかったな。」

帰りの車内、かみさんがポツリと呟いた一言が、
いつまでも耳にこびりついて離れませんでした。
それまで惰性で流していた賑やかなラジオ放送が、ふいに疎ましく感じたのでした。





人は死から逃れることは出来ません。
一歩一歩確実に、間違いなくその時はやって来てしまいます。
義父も、実父も実母も、そしてかみさんや私にも、やがてその時が来るのです。
その時が来るのを怖がっていても始まらないし、
かといって、無視するわけにもいきません。
残された者の悲しみが大きければ大きいほど、
幸せな人生を送ることが出来た証なのだとすれば、
なんだかそれもまた悲しく感じてしまうのは、我がままというものなのでしょうか。
改めて自分の人生の終わりというものを、真摯に向かい合ってみたいと思うのでした。