漫画家・坂口尚について。

 この世で一番偉大な漫画家と訊かれたら、あの人を思い浮かべます。
 この世で一番尊敬する漫画家と訊かれたら、別のあの人を思い浮かべます。
 この世で一番好きな漫画家と訊かれたら、また別のあの人を思い浮かべます。
 この世で一番人生を変えられた漫画家と訊かれたら、またまた別のあの人を思い浮かべます。
 でも、この世で一番とっておきの漫画家と訊かれたら・・・
 私は「坂口尚」と答えるでしょう。

 坂口尚という漫画家を初めて知ったのは、もうはっきりと思い出せないほどの昔のことです。しかし私が14か15の年だったのは間違いありません。13歳で手塚治虫の漫画を小遣いで買い始めて、14歳の時に手塚治虫が他界しました。それから手塚漫画の収集熱に加速がかかり、結果あちこちの古本屋に出入りする様になって、ある日突然「坂口尚作品集」全三巻(双葉社)と出会ったのでした。
 それまで、手塚治虫の『ブッダ』の宣伝ページに載っていた『石の花』や『12色物語』の絵を見て、魅力的な絵を描く人だとはずっと思っていました。しかし、あの頃は坂口尚の漫画を入手するのは困難な時期だったこともあり、実際の作品に接するまでには至らなかったのです。
 そんな時に出会った作品集でした。入手するのにためらいは全くありませんでした。そしてこの作品集は期待以上の素晴らしい物だったのです。

 坂口尚の漫画の魅力は何ですか、と問われた事があります。私は「やはり、絵です。」と答えました。もっと細かくいうと、描線のぬくもり、これに尽きると思います。なにげない線の一本にすら宿っているぬくもり。たとえそれがたった一コマの絵にすぎなくても、そこには物語が住んでおり、哀しい表情は優しい線で見守られ、明るい表情には命の力強い線が弾んでいました。その決して長いとはいえない生涯のうちに、坂口尚は絵柄を変え続けましたが、そのぬくもりは常に宿っていました。

 その作品集は、初期作品から中期作品のうち短編を中心に編んだものでした。坂口尚の真骨頂ともいうべきSF短編の宝庫だったのです。好きな作品名だけでも紹介したいと考えたのですが、目次を見ているとまるで選ぶ事なんて出来ません。全てが好きで、全てを紹介したいのです。いや、それ以上に実際に読んでもらって、その一作ごとに語り合いたいというのが正直な気持ちです。(同じ頃に米国の幻想作家レイ・ブラッドベリに心酔していた私ですが、似たような気持ちを抱いています。)

 坂口尚の漫画と出会ってから数年後に、坂口尚は講談社の漫画雑誌「アフタヌーン」で『あっかんべえ一休』の連載を開始します。これは当時としては驚きでした。これまで連載を「コミックトム」誌くらいにしか掲載していなかった氏が、メジャー月刊誌に新作を発表し始めたのですから(後に、コミックトムでは掲載できないので、あちこちに交渉して回ったという話も耳にしました)。
 その頃、ちょうど私はアフタヌーンを購読していたので、喜びもひとしおでした。これから毎月、坂口尚の新作が読めるのだと。新潮社版の『石の花』に予告されて以来、発表を待ち望んでいた『狂雲子・一休』がこの『あっかんべえ一休』にほかならなかったのです。

 『あっかんべえ一休』を長期連載し終えた1997年の師走に、坂口尚氏は急逝しました。

 次回作への意欲も風の噂で伝え聞き、心待ちにしていた矢先のこの報。
 私はただただ頭が真白になり、言葉を失いました。

   その後、東京の阿佐ヶ谷にあるコミックボックスという漫画評論雑誌の編集部で、坂口尚の追悼展をするという告知がアフタヌーン誌に小さく載りました。私はそれを読んで、すぐに阿佐ヶ谷へ向かいました。季節は冬でした。現在はザムザ阿佐ヶ谷というミニ映画館の場所にあったギャラリーで、その展示が開催されていました。
 坂口尚の原稿を見た時に、悲しみよりも先にその美しさに圧倒されてしまいました。見覚えのある漫画の一コマが一枚の絵画として成立しているのは、不思議な気持ちでした。何度も小さなギャラリーをぐるぐる回って、そこにある坂口尚の世界から去りがたかったことを覚えています。

 坂口尚はどんな物語を描いたのでしょうか。あえて抽象的に云いましょう。ある時は、憧れや冒険心といった未知の何かに引き付けられる想いをはつらつと描き、またある時は、傷心や過去への悔悟といった捨てきれない想いを美しく描き、はたまたある時は、理不尽な存在に対する怒りと権力を打ちのめす機転とを鮮やかに描いているのです。
 一言でいうならば、「人間の意志」への讃歌だと思うのです。意志には力があり、それが高邁な意志であろうと、あるいはたとえ愚劣な意志であろうと、その力には人間を引き付ける何かを持っているという信念を感じます。だから坂口尚の描く漫画の世界には善悪で断罪されることがあまりありません。善にもほころびがあり、悪にも滑稽さが共存しています。そこでは意志と意志のぶつかり合いが人間と人間の生の営みを紡いでいるのです。
 あるいはそれを「人間の想い」と云っても良いでしょう。人の生は過去の想いで作られ、現在の行為に結びつき、未来へ続いていく。この永遠ともいえる繰り返しに対する尊敬を感じるのです。

 今世紀に入って再び新たな『坂口尚短編集全五巻』(チクマ秀版社)が発行されたのです。収録作品も格段に増え、幻ともいわれた作品も多数含まれていました。

 爆発的な人気とは残念ながら至らなかったようですが、それでも多くの人々の目に坂口尚の漫画が触れていったことに、未来への道のりが垣間見えたような、そんな気がして嬉しかったのです。


坂口尚氏の小部屋
漫画家・坂口尚氏の公認FCのさとぴーさんのページ。こちらのファン魂にはいつも圧倒させられております。故・坂口氏の情報ならほとんどすべてここで見ることができます。