§初期中山道を歩く
「木曽から牛首峠を経て小野へ」
2019年 5/29(水)雨のち曇り
四国の歩き遍路がきっかけで、これまでほとんどやらなかった街道歩きに関心が向くようになった。山道だけでなく、車の行き交う舗装路を歩くのも厭わないとなれば、歩く幅もぐっと広がる。まずは身近なところで、木曽路へ。前から気になっていた初期中山道の牛首峠を歩いてみることにした。
犬の散歩を済ませ、6時50分軽トラで出発。夜の雨はほとんど上がったが、空にはまだ重い雲が垂れ込めている。でも今日は涼しそうだ。何せ先週末は北海道で39度という季節外れの異様な猛暑がやってきたばかり。曇りの方がむしろ歩きやすい。
街道歩きにはふだんめったに乗らない電車も利用する(ただし犬は連れていけないのが残念!)。辰野で朝の渋滞に巻き込まれるが、小野8:01発の塩尻行きに間に合う。これを逃がすと、塩尻から中津川方面行きの鈍行は11時頃まで出ないのだ。わずか一駅10分程度のローカル線だが、善知鳥峠からトンネルを抜けて山沿いに走る眺めは、なかなかの雰囲気だ。
塩尻で中央本線の各駅停車に乗り換える。二両編成だが前方の車両は通学の高校生たちで一杯だ。後部車両の最後部に空席をみつけて座る。しかし電車が動き始めてアナウンスを聞いていると、下車するときは最前部の一ヶ所しか扉が開かないらしい。洗馬、日出塩と通り過ぎたところで、最前部まで移動。8:31贄川着。開閉ボタンを押して真っ先にホームへ出る。ここで降りるのは自分一人かと思ったら、自分の後に高校生たちがどっと降りてきた。そうかここに高校があったのだ。
ベンチで登山用のソックスに履き替え、駅の階段を登って行くと踊り場のタイルに「是より南 木曽路」のイラストがある。無人駅の駅舎を出ると、高校生たちはもう行ってしまって見えない。やはりリュックを背負った初老の男性が、地図を片手に横断歩道を渡って行く。ぼくはひとまず贄川宿の関所まで寄って、そこから歩き始める。雨上がりの曇り空は、意外とひんやりしている。国道19号を少し戻ると道標があり、旧道を行く。集落ごとに水場があり、山水が豊富に流れ出ているのは木曽路ではよく見かける光景だが、どれも好ましい。若神子の水屋を経て、国道19号に合流。ガードレールに沿って行き、明治天皇が立ち寄ったという桜沢茶屋本陣跡を過ぎたところで、山道の旧道に入る。石仏群があるからここで間違いはなさそうだが、昨夜の雨でぐしょぐしょにぬかるんだ林道はあまり人の歩いた形跡がない。さっき追い越した初老の男性も後から林道を登ってくるので、「どうもこっちじゃないみたいですよ」と言って引き返す。男性は中山道を塩尻まで歩いて行くとのこと。戻ってみると石仏の横にガードレールに沿って登って行く細い山道があった。川の手前でまた19号に降りる。道を渡ったところにモニュメントがあり、これが「是より南木曽路」の碑である。初期中山道はこの少し北から山に入り、牛首峠を越えて伊那谷の小野宿へ出、そこからまた三沢(小野)峠を経て岡谷・下諏訪へとまっすぐに続いていた。だからここ桜沢が本来の木曽路の起点になる。
慶長6年(1601年)、木曽の木材を直接江戸へ送ることを眼目に整備されたこの初期中山道は、距離こそ短いが峠を二つも越える難路で、集落も少なく伝馬も不便ということで、わずか二十年足らずで塩尻峠を越える現在の道筋に変更された。しかし伊那米を木曽へ運ぶ近道としては江戸時代を通じて大いに利用されたという。
解説看板を目印に19号を渡り、つぶれたモーテルの跡地(いまはリサイクルショップの倉庫になっている)の横の道を行くと「→初期中山道」の立札が見えてきた。車一台が通れる幅の細い林道が沢に沿って森の中を抜けている。びっしりと苔に覆われた側壁は、よく見ると昔の壁面工事の跡が時間とともに苔むしてきたものだった。鬱蒼とした森の中を沢沿いに登って行く。つづら折りの道はかなりの勾配で、車道とはいえ登山道といってもおかしくない。獣の気配も濃厚でリュックのポケットから熊除けの鈴を取り出して付ける。しかし雨上がりの森は清々しく、歩くには気持ちのよい道だ。途中で林道の分岐があり、倒れかけた看板を見ると、昔はこの奥に集落があったらしい(昭和43年に廃村となった旧桑崎集落)。ところどころで息継ぎをしながら、一時間ほどで牛首峠へ出る。(ここまでで出会った車は3台。しかしよくこんな道を車で通る気になるものだ)。手前に「お玉ヶ池ハイキングコースガイド」という立派な看板があり、見るとここから1キロ登ったところに峠の名の由来ともなった伝説の底なし沼と祠があるという。よく整備してあるとあったので行ってみたが、これがアカマツの倒木だらけの荒れた山道でえらく難渋した。玉ヶ池もただの小さな沼で神秘的には程遠い。それでもここが峠の奥の院である。祠に手を合わせて下る。
牛首峠から伊那側に入ると、とたんに空が開け明るくなる。木曽から伊那へ抜けるたびに思うことだが、伊那谷は開けていて明るい。「江戸より六十里」の一里塚を経て東屋にたどりつき、サンドイッチを広げる。眼下には小野の集落が途切れ途切れに連なっている。はるか向こうに雲を被って見える丸みを帯びた山は、ぼくの好きな蓼科山だ。
昼食を済ませ、石仏群を横手に集落の中を通る道を下って行く。木曽側とは違い、こちらではまだ人の住む集落が谷筋に延々と続いている。日当たりも良く気持ちの良い谷だ。過疎とはいえ、もちろん生活道路である。道幅も少しずつ広がり、昼時とあって何台も車とすれ違う。昔ながらの街道をデジカメを片手にすたすた歩いていると、「乗っていきませんか?」と声までかかる。五十九里の一里塚を過ぎて旧街道をさらに延々と歩き、小野下町から小野宿に出ると「ここより伊那街道」の看板があった。車の行き交う国道153号を少し戻り、軽トラを止めたコンビニの駐車場にたどり着いたのは午後1時半頃。山頂の玉ヶ池の往復では難渋したが、それ以外はなかなか気持ちの良いウォーキングだった。
世間では耳をふさぎたくなるような嫌な事件が相次いでいる。こういうときは昔ながらの道を、余計なことは何も考えずに黙々と歩くに限る。(次回はここから小野峠を越えて岡谷まで初期中山道の続きを歩いてみたい)。
「小野宿から小野峠を経て岡谷へ」
6/5(水)曇り
梅雨入り前の一日、前回の続きを歩いてみることにした。片道は電車になる。ローカル線の乗り継ぎで本数は限られているから、行きに乗るか帰りに乗るか迷ったが、やはり前回の流れでまず歩くことに決めた。
8時過ぎ小野宿発。車で塩尻や松本へ行く時、何度も通り過ぎている小野宿だが、木曽から牛首峠を越えて下りてきてみると、ここに宿場があった意味がよくわかる。いまだに昔の宿場の雰囲気を残す市街地から線路を渡り、山へ入る。公園の入口に「→初期中山道」の標識がある。むしむしと湿気はすごいが、やはり朝の山はいい。鳥のさえずりを聞きながら車道を登って行く。途中、左手に旧道が見えてきたが藪がひどいので、車道をそのまま行く。山道は人が通らなくなると荒れるのも早い。よほどまめに手を入れていないと、すぐ藪に埋もれてしまう。このところ箕輪の桑沢山とか前回の玉ヶ池とか、荒れた山道で難渋してきたから無理はしない。しばらく行くと、旧道が合流してきた。
その先、沢伝いにぐっとカーブしたところで木の樋を伝って清水が流れ出ていた。その昔、この水で顔を洗うと色白美人になると言われていたとか。顔を洗って口に含む。なるほど、冷たくて気持ちのいい水だ。伊那谷では結構あちこちに湧き水が出ていて、車にポリタンを積んでおいて汲んで帰ることが多い。この小野の近くでは、国道153号を少し戻ったところの辰野の徳本水がおいしい。水神様を拝んで先へ行く。林道と分岐するところで、楡沢の一里塚へ出た。森の中を見ると、草に覆われて大きく盛り上がった塚がたしかに左右一対残されている。ここが江戸から五十八里の塚である。すぐ奥で森林組合が伐採作業をしていた。
なお登って行くと、右手に異様な姿の栗の木が群生している場所に出た。小野のしだれ栗自生地だ。突然変異によって生まれた日本特産の変種で約800本が自生しており、大正九年国の天然記念物に指定された。江戸期には「天狗の森」と呼ばれ、近隣の村人は恐れて近づこうとしなかったという。初期中山道はこういうところを通っていたのである。その先の公園でひと息いれてから車道をずんずん登って行くと、「→展望台」と標識があったので右手の林道に入る。10分ほど歩いて、山頂の展望台に出る。鉄塔の下にはバイクが止めてあり、すでに先客がいた。螺旋状の階段を登って上に出る。「霞んでいてあんまりよく見えないですよ」との声。360度の眺望だが、たしかに雲に霞んでいる。それでも前回歩いた牛首峠などが遠望できる(晴れていれば御嶽まで見えたというから残念)。
展望台を降りると「→250m三郡の辻」という標識があったので、森の中を下りて行く。今日初めて歩く山道だ。下りきったところで林道と出会い、横に「旧中山道 小野峠」の石碑があった。左手には車道が見える。前方にまた山道の階段があり、登って行くと「三郡の辻」に出た。伊那郡、諏訪郡、筑摩郡の三つの郡が接する峯で、それぞれの方向に浅間神社の祠が建てられている。諏訪の祠には御柱まで立てられていて、なかなかの雰囲気だ。
さてここまでは順調にきた今日の街道歩きだったが、ここで道を間違える。この「三郡の辻」からまっすぐ車道に沿って山道が続いていて、それもよく手入れされた山道だったので、これが初期中山道だとばかり思って口笛など吹きながら歩いて行った。1kmほど先で車道に抜け、その先の展望台でサンドイッチをつまんでひと息入れた。向こうに見えるのは、あれは車山高原だろうか。そして前方にはよく整備された車道がずっとうねって続いている。いや待てよ、ひょっとしてこれは新しくできた塩嶺王城パークラインではないかとはたと気がつく。初期中山道はほとんど車も通れない林道のはずだ。このまま車道を歩いて行っても塩尻側へ下りるだけではないのか。そういえば、さっき「三郡の辻」の手前で林道を渡ったが、あの林道こそ岡谷へ下りる初期中山道だったのではないのか?
念のため車道を少し先まで歩いて行ってみたが、林道らしき道は出てこない。ネットから引いた簡易なパンフレットだけで、きちんとした地図を用意してこなかったことを後悔する。おまけに今日は岡谷から小野に戻るローカル線の時刻に合わせて歩いてきたので、予定の昼の便を逃がすと次の電車まで一時間半以上待たねばならない。時刻はそろそろ10時半。急いで元来た山道を戻る。三郡の辻から階段を下り、再び林道に出る。初期中山道を示す標識は何もないが、小野峠の石碑をよく見ると「右をの 左みさは」とあるではないか。「みさは」こそ目指す岡谷の旧三沢村のことだ。やれやれまたやってしまったよ、とため息が出る。電車の時刻に合わせて山を歩くなんて、もうやめよう。気を取り直して林道を岡谷側に下って行くと、「←三沢峠から三郡の辻」という古びた看板が出てきた。そこで林道は二手に分かれていた。まっすぐ下りて行く道は車両通行止めとなっていたが、どうやらこちらの方が廃道となった初期中山道の旧道であるようだ。少し迷ったがここを行くことにした。リュックに熊除けの鈴を付け、草だらけの荒れた林道を沢伝いにひたすら下って行く。やがて大きな堰堤に出て、そこから一部舗装路になった。なおしばらく行くと道端に大岩が祀ってあり、その辺まで来ると岡谷の市街地と遠くに高速道路が見えてきた。林道をどんどん下りていくと、ついに高台の集落に出た。ここが旧三沢村だ。簡易地図を見ると、ここから三沢の一里塚を経て鶴峯公園に出ることになっている。しかし電車の時刻も気になり、道沿いに住宅地をどんどん下りて行くと見覚えのある鶴峯公園下の国道に出た。岡谷駅まではまだかなり距離がある。いつも車で通っているところを歩いて行くと、時間の感覚がうまくつかめない。高速の高架橋の下を通ったときに、本来の初期中山道はここに出てくるはずだったことに気がついた。ずいぶん手前で国道に降りてしまったわけだが仕方がない。三沢の一里塚はそのうちまた寄ってみることにしよう。
国道歩きですっかり疲れ果てて岡谷駅にたどりついたのは11時40分。まだ電車の時刻には間があったので、駅前の食堂でランチにする。いろいろと反省の多い今日の街道歩きだった。