☆四国歩き遍路日記

 第一回 徳島から高知へ 2019(平成31)年3月

 




 一生に一回はやってみたいと思っていた四国の歩き遍路。いきなり通しで全部は無理だが、半月余り自由な時間が取れたので、区切り打ちで行けるところまで歩いてみることにした。振り返って思うのは、四国はやはり歩きやすい、特別な文化が残っているということ。それからいろんな人が沢山歩いているということ。老若男女、二十代の若者から七十代の年寄りまで、国籍も日本人だけでなく、欧米人から台湾人まで各国から来ているのが印象的だった。日本もまだまだ捨てたものではない。

3/6(水)曇り/雨 
 9:08伊那沢渡発の高速バスで名古屋へ。名古屋から新幹線で大阪。大阪から高松行きの高速バスで鳴門西下車。淡路島あたりから雨激しくなり、バス停で降りてから傘さして宿まで歩く。大麻比古神社参道沿いにある民宿観梅苑に17:30頃着。
 二十代のインドの旅以来、実に実に久々の一人旅である。見るもの聞くものが目新しい。新幹線の座席が横5列になっていることに驚いたりする。しかし名古屋も大阪も、東京の雑踏に比べれば人口密度が薄いと感じる。バスの窓から見る復興なったテクノポリス神戸の巨大ビル群に目を瞠り、本土と淡路島を結ぶ全長8キロの明石海峡大橋に圧倒される。雨に煙る淡路島。鳴門海峡の大渦も目にする。

3/7(木)曇り/雨
 6時半朝食。お接待のおにぎりをもらって7:15出発。同宿の若い女性も歩き遍路に来たという。
 まず大麻比古(おおあさひこ)神社に参拝。本当はこの奥の院にあたる大麻山に登りたかったのだが、昨日の雨で木の階段の多い山道は滑りそうで今回は諦める。それにしても出発が「大麻」とはインド以来の因縁を感じないわけにはいかない。ボン・シャンカ!と高らかに唱えて大麻比古神社を後にする。赤い大きな鳥居と樹齢千年を越す大楠のご神木のある立派な神社だった。


 一番寺霊山寺に着き、門前で用意してきた白衣に着替える。もうたくさんの参拝者がやってきている。本堂と大師堂で般若心経を唱え、納経所で御朱印をもらい、金剛杖を購入。「南無大師遍照金剛 同行二人」とある。鈴の音を響かせながら、二番極楽寺へ向かう。白衣姿の外国人がちらほら目につく。三番金泉寺から愛染院を経て四番大日寺へ向かう昔の遍路道はなかなかの雰囲気だったが、途中から天気雨。五番地蔵寺の境内でおにぎりをほおばり歩き始めたところで、本格的に雨となる。道の途中でリュックからポンチョを取り出し、すっぽりかぶって歩き出す。途中の神社で雨宿りしたりするが、一向に降りやむ気配なし。結局六番安楽寺までの5.3キロは初めての雨の移動となり、かなり消耗する。七番十楽寺に着くころには、ようやく雨も上がる。


 15時過ぎ、今日の宿越久田屋に到着。ドリップのコーヒーを飲んで、ひと息入れる。夕方、近くの日帰り温泉御所の郷まで車で送迎してもらい、夕食も済ませてくる。素泊まりの遍路宿だが、細かいところまで気づかいがあり、とてもいい宿だった。他に外国人バックパッカーが数名泊。
 初日の歩行距離、約20キロ。

3/8(金)晴れ
 朝、越久田屋を出て、八番熊谷寺へ。朝早いこともあって、静謐な山寺の本堂で納経を済ませる。鶯の声がこだまする気持ちのいい寺だ。九番法輪寺の門前では、白衣に菅笠をかぶったお遍路が荷物を横に置いてだみ声でご詠歌を延々と歌っていた。十番切幡寺までは狭い県道をのんびりと行く。今日は天気も良く、お散歩気分で歩行のリズムに合わせて歌が浮かんでくる。



 ♪のんびり行こう四国の道は のんびり歩こうお遍路の道
  昔々から歩いてた道 昔々から踏まれてきた道

 ♪風が吹いても 雨が降っても 弘法大師と同行二人
  白衣に杖の 鈴の音が鳴る

 切幡寺の三百三十三段の長い厄除け階段をしっかりと上り下りし、途中のうどん屋で昼食。リュックを背に出ようとしたら、観梅苑で一緒だった女性遍路とまた会う。(東京から来たSさんとは、その後もあちこちで顔を合わせ、高知市の三十番善楽寺を最後に別れる。彼女は二か月休みを取って通しで四国を回っている)。


 しかしここから吉野川の中州を渡って十一番藤井寺までの約9キロは結構な道のりで、リュックの重みもありバテ気味。15時頃着いた藤井寺では、いまから山越えをしようというバックパッカーのアメリカ人を寺の納経所の女の人が「エックスキューズミー!」と呼び止めて、それは無謀だと引き留めている。同行していたドイツ人男性が、「今日の宿は決まっているか? 一緒に連れて行って部屋があるか訊いてもらえないか?」と話しかけてくる。昨日は野宿したがかなり寒くて、今日はちゃんとした宿に泊まりたいという。「飛び込みじゃむりだと思うよ。町のビジネスホテルを探したら?」と適当にあしらっていたが、今日の宿・旅館吉野にたどりつくと、なんとさっきのドイツ人のおっさんが隣の部屋に入ってきた。自転車を二台借りて、町のコンビニまで二人で買い出しに行く。
 Sさんの他に、途中の休憩小屋で一緒だった岐阜から来た74歳のTさんも一緒。四国遍路は2回目で、これが人生最後の旅だといってゆっくりゆっくりマイペースで歩いてきた。トンカツなど豪勢な夕食を皆で囲む。隣のテーブルではビールを飲んでいる人もいたが、ぼくはここまでまだ禁酒。できるところまで頑張るつもりだ。

3/9(土)快晴
 朝6時朝食。今日は山の難所越えだから皆早立ちをする。さすがに三つの峯を登り下りする遍路道は、道中最大の「遍路ころがし」といわれるだけあってアップダウンもきつく、決して楽な道ではない。でもふだん山を歩き慣れている者には、さほど苦痛には感じられないのではないか。むしろ道沿いに林立する古い石仏や石像のおどろおどろしさが、時代を超えた昔ながらの遍路道の雰囲気を伝えていて好ましい。



 「早く歩くか ゆっくり歩くか
  なん日で廻るか なん回廻るか
  そんな事より しっかり歩け
  そして なにかを残せ」
  (所々で目にした貼紙)

 途中でトレイルランニングの人に追い抜かれていったが、しばらくするともう走り下りてくる。「どこまで行ってきたんですか?」と聞くと、「焼山寺の山頂まで」という。「今日は天気がいいから眺めが最高ですよ。剣山まで見えました」とニコニコしながら言う。凄い人がいるもんだ。刺激を受ける。


 5時間半ほどで、十二番焼山寺到着。昨日のアメリカ人青年やドイツ人らが、ベンチで休んでいる。納経を済ませ、横の茶店でうどんとおにぎりで昼食。食べ終わった頃、Sさんが入ってくる。
 まだ時間があったので、納経所にリュックを預け、山頂の奥の院までさらにひとりで歩く。途中、「大蛇封じ込めの岩」を過ぎて山頂まで片道1.4キロの山道。荷物を預けてきたから、楽に歩ける。40分ほどで奥の院に到着。山頂から遥かな山並みを眺める。標高こそ1000m足らずだが、徳島も結構山深いんだなとしみじみ感じる。西の方角に見える雪を頂いた山が四国最高峰の剣山(1955m)だろうか。ひと息入れて下り、今日の宿なべいわ荘へ。
 風呂に入ったら先客がいて声をかけると、台湾から来た青年だった。日本語は片言しかできないが、仕事を首になったばかりで、通しで四国を回るつもりだという。今夜も夕食はSさん、Tさん、台湾青年、それから遅れてやってきたオランダ人の中年女性などと取る。

3/10(日)雨
 朝起きると、もう雨が降っている。覚悟を決めてポンチョをかぶり、なべいわ荘7:45発。玉が峠への近道が見つからず、いったん引き返して山道を歩く。途中から舗装路と山道に分かれたが、山道の方を登る。凄い湿気の中、滑らないよう注意して歩き、峠の休憩小屋にたどり着いたときは汗でぐっしょりだった。でもそこから神山の谷を見おろしながら梅の花が咲く山の中腹を下っていく道は、雨とはいえ田舎の風情があって苦しくない。植村旅館のある鮎喰川の分岐点まで下ると、休憩場所でいろんな人形たちがお遍路を迎えてくれて微笑ましい。ずっと目にしなかった飲み物の自販機もついに登場する。


 ここから橋を渡って「へんろ道」の標識に従って左折。農家の前の道を行くと、畑の端でしゃがんで草取りをしているおばあちゃんの人形まで現れて笑ってしまう。そのまま山道を登り、駒坂峠とある小さな丘を越えてまた下り、人ひとりやっと渡れるコンクリートの橋を横断。ここで養鶏場の横を国道まで出ると、左方向に矢印があったので左折して国道を1キロほど歩く。やっと次の橋が現れたので渡ると、どこか見覚えのある風景の前に出た。「へんろ道」の標識に従って左折すると、なんとまたあのおばあちゃんの人形がしゃがんで草取りをしている畑の前に出ているではないか。えっ? 狐に化かされたような気持ちであたりを見回すが、雨で誰も外に出ていない。ポンチョを脱いでリュックカバーを外し、雨の中、地図を取り出すのも億劫だ。
 冷静に考えてみると、二番目の橋を渡って国道に出たところで道を間違えたとしか思えない。また国道を戻る気にはなれないので、そのままさっき通ったへんろ道を行き、駒坂峠を越え、再びコンクリートの小橋を横断。養鶏場の横を今度は右折して国道に出ると、やっと「→13番大日寺へ」の標識が出てくる。雨の中、同じ道をぐるっと一周して4キロ近く余分に歩いた計算だ。どっと消耗する。あるんだよな、こういうことが人生でも。これが歩き遍路というものさと自分に言い聞かせてとぼとぼ歩く。目指す大日寺まではまだ10キロ以上ある。


 ここで覚悟を決めて国道歩きに専念すればよかったのだが、風も出てきて、雨の中トラックが行き交う国道を歩きながらふと横を見ると、右へ登る林道の入り口に薄れた字で「へんろ道 →大日寺」とわずかに読める木の標識がかかっていた。旧へんろ道のことだな、よしこちらを行こうと横道に入る。ずんずん登っていくと、要所要所にへんろ道の石標があり、この道で間違いはなさそうだ。しかし500m余り登ったところで、倒れた石標が横になって竹藪の方角を指している。そこに石仏もあるからここがへんろ道であることは確かだが、道はもうほとんど藪に埋もれている。念のため林道をもう100mばかり登ってみるが、丘の上の果樹園に出るだけだった。どうやら旧へんろ道は廃道になっているらしい。
 やむなく諦めてどしゃぶりの道をまた引き返す。国道のトイレ休憩所まで行くと、すでに何人かのお遍路が休んでいった形跡がある。すっかり遅れてしまったが、ひと息入れてから川沿いの国道をひたすら歩き続ける。徳島刑務所の前を過ぎて、遍路休憩所でひと休み。今日はまだ昼飯も食っていないから、お接待のポンカンが腹に沁みる。
 しばらく行くと、とうとう見えてきましたよ、セブンイレブンが。今日初めてのコンビニである。ポンチョを脱ぎ捨て中に飛び込み、重いリュックを背負ったまま、サンドイッチとコーヒーを急いで腹に流し込む。十三番大日寺はすぐそこだ。ともかく参拝して納経を済ませ、隣接するかどや旅館で風呂に入る。履いてきた靴は防水加工だが、路肩の水たまりに入ったりしてもうグショグショである。古新聞を何枚も丸めて詰めて水抜きをする。夕食は初めての部屋膳で、さすがに今日は熱燗を一本頼む。雨の中、道に迷ったりしながら体力と気力の限界まで歩いた一日だった。歩行距離約25キロ。

3/11(月)晴れ
 なかなかうまい具合に次の宿の予約が取れず、今日は少しだけ歩いて休養日とする。朝、ゆっくりと9時前に宿を出て、近くの郵便局から綿入りのジャンバー・持ってきた文庫本3冊など、不要な荷物をゆうパックで自宅宛てに送る。これで少しはリュックも軽くなった(それでも6〜7キロはあるか)。
 十四番常楽寺〜十七番井戸寺まで打って、3時過ぎ早めに市内の「歩き遍路宿びざん」に入る。途中で福岡から来たお遍路2回目の人と一緒になる。3年前通しで回り、今回は高野山から熊野古道を歩き、そのまま四国入りして一番から回ってきたという。凄いピッチでぐんぐん歩くので、ついていくのが大変だ。


 さすがに昨日の雨中行軍の疲れが残り、宿でぐったりする。早めに風呂に入り、夕食は近くのファミレスでビールと定食で済ませる。宿は満室で、通されたのは隣のビルに接した窓のない部屋。でも逆に電気を消すと真っ暗になり、久々に熟睡できた。

3/12(火)晴れ/曇り
 朝6時宿で朝食。昨日の福岡の人と、北九州から来た人(なべいわ荘から一気に歩いてきたらしい)、それからカナダ人の中年女性二人。パンが食べたかったが、カナダ人が優先で、我々日本人男性は皆カレーライス。スープやサラダ・胡麻プリンなどごちそうが並ぶが、朝からカレーライスはインドでだって食べない。チャパティかナンならわかるけど。ご主人がパソコンのスライドを見せながら、いろいろと講釈してくれる。至れり尽くせりのいい遍路宿だったが、しかしさすがにカレーは残す。
 7時過ぎ出発。徳島市街地を国道55号に沿って10キロ以上歩き、十八番恩山寺へ。そこから4キロ離れた十九番立江寺まで打って、参道沿いの洋食屋で昼食。びざんで一緒だった北九州の御仁とSさんがいる。北九州の人は別格三番慈眼寺へ寄るという。
 昼食後、近くの民宿鮒の里へ荷物を預け、軽装になってから二十番鶴林寺の登山口までの10キロを歩く。途中の旧へんろ道は山道や人家の庭先を抜け、昔ながらの雰囲気が残っていて良かった。あとは車の行き交う国道歩き。登山口近くの道の駅まで行くと、Sさんが宿の車を待っていた。リヤカーを引いて日本中を歩いている人と道で会った話などする。ぼくも宿に電話して迎えに来てもらう。明日はここまで車で送ってもらい、歩くことになる。


 お遍路がたむろする民宿鮒の里は、囲炉裏端で一杯やりながら食事ができて人気の宿。今日も日本人お遍路の他に、坊主頭のベルギー人や初老のスイス人夫妻などで満室。ただし天井の横壁はないから隣室の明かりや話し声は筒抜けである。囲炉裏端から引き上げて休んでいると、隣室の中年女性二人連れがいろいろ話している。「ああ、ごしたい、ごしたい。諏訪湖を一周しても、こんなにごしたくならないもんね」。長野から来たおばさんたちだ。いつまでも明かりをつけたまましゃべり続けて寝ないので、よほど文句を言いに行こうかと思ったが、眠剤を半分飲んで我慢する。そのうち静かになった。

3/13(水)曇り/晴れ
 朝5時朝食! 6時車で出発。昨日やはり登山口まで歩いたという50歳位の男性と一緒。道の駅で車を降り、二十番の山寺鶴林寺目指してゆっくり歩き始める。さすがに我々が一番で、まだ誰も歩いていない。朝早い山道は清々しい。途中、霧のようなもやがかかり、しばらくして晴れてきた。ふと後ろを振り返ると、遥か下の市街地から向こうの谷へかけて太い虹が出ていた。まさに神の一筆書きだ。参道で虹を拝めるなんて、なんて有難いことだろう。


 その先のベンチでは鮒の里から一緒にやってきた川崎の御仁がリュックを下ろし、ひと休みしていた。虹を見なかったかと聞くと、「いや見ていないです、それは仁徳ですね」との返事。結構辛そうに歩いている感じだった。鶴林寺を過ぎて、下の谷に降りた休憩所でもまた川崎の人と一緒になる。
「さっき虹を見たかと聞かれて、すごく気持ちが楽になりました。実は自分は十二番の焼山寺へ雨の中登った時、足を痛めてしまい凄く辛い思いばかりしてきたんですよ。今日も足を引きずって歩いていたんですが、虹を見たりしながら歩いている人もいるのかと知って、気が楽になりました。今回は二十三番の薬王寺まで行ったら電車で帰る予定ですが、いやな思い出だけを引きずって帰らなくて済みそうです」。
 那賀川にかかる橋を渡り、再び二十一番太龍寺への山道に入る。小川に沿った道をゆっくり登っていく。川のほとりのベンチで休憩。水の流れる音と鶯の声だけが聞こえる。静謐な森。木漏れ日を仰ぐ。有難いことだ、こうして旅ができるということは。一生に一度の機会なのだ。感謝、感謝。


 最後はかなりの急坂で休み休み行く。太龍寺からは弘法大師の像が岩場から海を凝視する舎心ヶ獄を経て、復活した新しい遍路道が山の中を通っている。よく手入れされた気持ちの良い山道だ。途中、竹林を横に見ながら歩いていると、風にしなう竹があちこちでピシッピシッと割れる音が響く。こんなに竹ってよく割れるものなのかと思っていたら、あとで聞いたところではちょうどこの時間、徳島で震度4の地震があったという。


 二十二番平等寺まで、今日は山道をしっかりと歩いた。これでもう当分山越えはない。平等寺横の民宿山茶花に泊まる。夕食時、途中何度も一緒になった人たちが一杯飲みながらお遍路談義に花を咲かす。

(宿着いてメールを開けたら、家からこみいった事情のメールが3通も届いている。旅先でこういう連絡を受け取るときほど、白けることはない。しかし放っておけない事情だけに家に電話。翌朝、米国に住む親戚にも電話を入れて事態の収拾をはかる。夕食時、自棄になって飲んだ焼酎のおかげで眼は痒いし鼻は詰まるし、重い気持ちで、よく眠れぬまま朝を迎える)。

3/14(木)晴れ
 朝、重い気持ちを引きずって歩き始めるが、歩いているうちに少しずつ気分も軽くなってくる。二十三番薬王寺へはトンネルを越える旧道の山側ルートと海岸に降りて海沿いに行くルートがあるが、気分を変えたくて海沿いのルートを行く(しかし実は海沿いルートの方が5キロも長かった)。途中国道から迂回して弥谷観音に立ち寄る。無人の観音堂に参拝。ほとんど車の通らない路端で、米国の親戚からのメールに返信を書く。
 11時過ぎ、国道から田舎道に入って、山茶花のお接待でもらったパンを食べていると、Sさんと大阪から来たI青年が連れ立ってやってくる。彼らはずっと早く出発したはずだが、トンネルで道を間違えて何キロも行ったところから引き返してきたという。実際このルートはわかりにくい。


 峠をひとつ越えて下っていくと、ついに待望の海へ出た。穏やかなたたずまいの由岐漁港が目の前に現れる。しみじみ海と対面するのも何年ぶりのことか。ほっとした気持ちになる。今日泊まる予定の民宿ゆき荘が港のはずれに見えたので、荷物を置いていこうと寄ったが誰も出てこない。まあいいか、とリュックを背負い直して薬王寺への道に戻る。
 しかしここからの10キロが結構長かった。遍路道は海岸沿いからいったん山道に入り、山座峠を越えてまた海辺に下る。昔ながらの雰囲気の残るいい道だが、日和佐の町を抜けて薬王寺にたどり着いたときは、もう16時近くになっていた。民宿に電話して、車の迎えを頼む。穏やかなたたずまいの日和佐の町と海がとても印象に残った。
 ゆき荘の泊り客はお遍路3人。一人は例の北九州からの御仁。もう一人は三年ぶり2回目の歩き遍路にやってきた福井の親父さん。一杯飲みながら、話がはずむ。一度通して四国を歩くと、あんな辛い旅二度とするものかと思っていても、何年かたつとまた行きたくなる。だから何回も繰り返し歩く人が多い。これを「四国病」という。何か昔のインドの旅と似ているなと思う。


 部屋の窓から漁港の夜景を眺めながら眠りにつく。今日も結局25キロ以上歩いた。

3/15(金)晴れ
 宿の若主人に薬王寺まで車で送ってもらい、そこから歩き始める。話好きな人で、漁村で生まれ育っていながら趣味はスノーボードで、白馬にはよく友人たちと行くという。おまけに全然泳げないというからおかしい。
 いくつかトンネルを抜けたり迂回したりしながら、ひたすら国道55号を歩く。昼前、道沿いに手作りパン屋を発見。ずっと民宿のご飯ばかり食べていたからパンに飢えていた。おかずパンを買って、近くのお遍路用の休憩ベンチに戻り昼食とする。パン屋からベンチに戻る途中、ふと道の向こうを見たら山頭火の石碑が立っている。さっき通ったときには気がつかなかった。「山頭火宿泊の長尾屋跡」とある。


 昭和14年11月3日、山頭火はここに滞在した。「しぐれて ぬれて まっかな柿 もろた」「よい宿が見つかってうれしかった。おぢいさんは好々爺、おばあさんはしんせつで、夜具も賄いもよかった。風呂に入れて三日ぶりのつかれを癒すことが出来た。御飯前、数町も遠い酒店まで出かけた。酒好き酒飲みでないと、たうてい解るまい」(四国遍路日記)とある。実感としてわかる。いかにも放浪の俳人が滞在していたと感じさせるひなびた村のたたずまいだ。
 そんなことに思いを馳せながらパンを食べていると、向こうから菅笠をかぶったSさんが歩いてくる。「ぼくがパンを食べているといつも会うね」と言うと、「ああよかった。今日は道で誰にも会わなかったから、ほっとしました」と微笑んで通り過ぎていく。
 腹ごしらえを済ませ、牟岐の町を通過。薬局があったのでバンドエイドと幅広のテーピングテープを購入。足指にできた豆はすでに一度つぶして処置してあるが、足の裏にも豆ができかかっている。いまのうちにしっかりテーピングしておけば、なんとかなるだろう。
 そこからしばらく行くと、四国霊場別格四番鯖大師に出た。今回、八十八寺以外の別格の寺を通るのは初めてだ。鐘をついて本堂と大師堂に参拝を終えると、先に来ていたSさんが「中に入れますよ」と呼んでいる。靴を脱いでお堂の入り口の仏足香で足を清め、1円玉が二百枚入った袋を購入。そこから全長88mに及ぶ洞窟にずらっと連なる四国霊場八十八ヶ所と別格二十寺、計百八の寺のご本尊の石仏に一円玉をひとつずつ捧げながら参拝していくのである。


 砂絵の曼荼羅を踏みながら、暗いローソクの明かりに浮かび上がるひとつひとつの石仏に対面していくうちに、だんだんあの世に足を踏み入れて行くような気持になってくる。今回の旅は一昨年亡くなった母の供養も兼ねての旅である。四十番ぐらいまで進んでいくと仏の顔があまりに生々しく感じられ、熱いものがこみあげてきてとまらない。嗚咽をこらえながら奥へ行くにしたがって、右を見ても左を見てもローソクに照らされた仏の姿がずらっと立ち並んでいるばかり。チベット密教のいう死後の中有の世界に入りこんでしまったかのようだ。
 圧倒される思いでようやく百八のご本尊の参拝を終え、その先の護摩堂に入ると薄暗い中、正面の不動明王がこちらを見おろしている。ローソクと線香を献じ、床に額を擦りつけてひれ伏した。こんな気持ちになったのは、若い頃インドのサルナートで仏陀の初転法輪の像にひれ伏した時以来である。凄いお寺があったものだ。これだけでもお遍路に来た甲斐があったと感じる。すっかり感動して鯖大師を後にする。ここにはきっとまた来るだろう。
 16時過ぎ、今日の宿遊遊NASAに到着。今回初めて泊まる観光ホテルだが、シーズンオフとあって、お遍路さん特別プランで2食付き8000円ほど。オーシャンビューの部屋からは、遥か水平線を行く白い船が見える。
 夕食時、時々遍路道で出会う横浜から来ている初老の女性と一緒になった。数年前旦那を亡くし、六十何番までしか行けなかった彼の遺志を継ぎ四国を一周。今回は四回目の区切り打ちで回っているという。たぶんぼくより年上のはずだが、菅笠をかぶって飄々と歩いていく姿はまだ若い。
 夜、この先の宿の手配がなかなか決まらず、よく眠れない。

3/16(土)晴れ
 今日で徳島は終わり、いよいよ高知に入る。室戸岬を目指して途中の宿は限られているから、今日はいままでで最長の30キロ以上を歩かねばならない。足裏と指にしっかりテーピングして、覚悟を決めて歩き出す。途中、道端の自販機の前に日本語と英語の立札があった。「注 ここ最終自販機 この先10q給水ポイント無し! Warninng : next vending machine in 10km!」。


 海沿いの国道55号を延々と歩いて32q。途中の岩場でホテルでもらったおにぎりをほおばり、「お遍路さん!」と駆け寄ってきた地元のおばさんから菓子パンをもらったりしながら、16時頃民宿ロッジおざき着。7:15にホテルを出て、約8時間歩いた計算だ。しかし天気には恵まれ、ほとんど風もなく快晴で、歩いていて気持ちがよかった。おかげ様です。感謝、感謝!
 夕食時、例のごとくにお遍路たちで食卓を囲む。何度か一緒になった北九州の御仁は、なんと鯖大師から40q歩いて17時頃宿に到着。凄いですねと話していたら、真っ暗になってからリュックにシュラフを担いだ40歳ぐらいの若い人が到着。彼は鯖大師よりもさらに5キロ向こうの牟岐町から歩いてきたという。上には上がいるもんだと皆で呆れる。

3/17(日)晴れ


 ついに室戸岬を越える。岬先端の丘の上にある二十三番最御崎寺(ほつみさきじ)まで民宿から約15キロ。他のお遍路たちと所々で抜きつ抜かれつしながらやっと着いたときには、お寺そのものより岬の先端までたどり着いた感動の方が強かった。灯台の下に立つと、岬の西側では強風が吹き荒れている。これまでの東側の穏やかな海の表情が嘘のように波も荒い。

 

 参拝もそこそこにスカイラインを歩いて下の国道へ下る。ちょうど昼時だったので食堂を探すが、一軒あったうどん屋は日曜で休み。旧道の街並みを物色しながら歩いていっても、食堂もコンビニもない。先を行くSさんもどうやら地図をみながら考えこんでいるようだ。雑貨屋のおばさんに聞くと、この先の市場の近くの道の駅ならレストランがあるという。岐阜のTさんはこの雑貨屋で食料を物色している。
 おばさんに言われた方角に行くと、たしかに海沿いに「海の駅とろむ」があった。しかしレストランに入ってみると、日曜日とあって車やバイクで乗り付けた観光客で満杯。ウエイティングリストに名前を書いて待たねばならない。そんな流暢なことをしている気になれず、売店で饅頭など買って、あとはカロリーメイトを齧って済ませることにした。風の吹きすさぶ外のテーブルで食べていると、Sさんがやってきた。車の人に道を訊いたら間違った道を教えてしまったことに気づき、追いかけてここまで車で送ってきてくれたという。レストランの混雑状況を話すと、それなら私もと売店で何か買ってきて外テーブルで食べ始めた。


 そこからまた国道55号に戻り、二十五番津照寺の手前まで来るとデイリーストアがあったので、外の椅子に腰掛けてサンドとコーヒーをほおばる。津照寺を出て、二十六番金剛頂寺の登り口の遍路休憩所では、昨日牟岐町から延々と歩いてきた青年と一緒になる。「シュラフを担いでいると何かあったとき、こういうところで泊まれるからいいよね。それが本来のお遍路の姿だよね。三日先の宿の手配を考えて歩くなんて本当に疲れるよ」などと話す。
 しかし今日の宿、お遍路たちに人気の金剛頂寺の宿坊は観光ホテル並みのきれいな宿だった。十畳の和室からは過ぎてきた室戸岬が一望できる。おまけに夕食のグリルのテーブルには大きなカツオのたたきを初め、海の幸がずらっと並び、デザートまでとても全部は食べきれないほど。アルコールも好きなだけ飲めて自己申告。今日は日曜の夜で団体客もおらず、スイス人カップルも交えた歩き遍路たちだけでテーブルを囲んだ。これで6500円は安い。
 せっかくの大ご馳走の後だが、部屋に戻ってからは天気予報もにらみながら、これからの予定をあれこれ考えて不眠気味。ずっとこういう晩が続いている。

3/18(月)晴れ
 朝6時半お勤め。般若心経など住職とともに唱え、講話。帰り、少し戻ることになるが空海が修行した不動岩に是非立ち寄っていくように言われたので、車の通れない遍路道をたどって不動岩を見学。波打ち際の洞窟が祠になっている。横に宿泊もできる遍路会館を建設中だった。ようやくお遍路グループから離れて一人で歩けるようになったようだ。自作のお遍路ソングを口ずさみながら、ゆっくり歩いて行く。
 途中の郵便局から、妻の誕生日のプレゼントをレターパックで発送。局員が言うには、室戸岬からこっちではこの三日ほど強風が吹き荒れていたという。今日は比較的穏やかだ。羽根から国道をはずれて旧道の中山峠道に入る。地図には海岸道より1.2キロ短いとあったが、結構きつい登りが続き、時間的にはかなりかかった。でも雰囲気のある遍路道だった。奈半利町のはずれまで来たらコンビニ風の店があったので、おにぎりなど買って店の中のテーブルで食べる。外をお遍路が何人か通り過ぎてゆく。


 ここが始発となる電車とバスの時刻を確かめようと奈半利の駅に寄ったら、さっき言葉を交わしたばかりの東京から来たお遍路のご婦人が高知行きの切符を買っているところだった。この先の二十七番神峯寺はもうきついから諦めて、このまま高知から特急で帰るという。一度は通しで回っている人らしく、若い時にフランス語圏に海外青年協力隊で行っていたというから語学も達者で、金剛頂寺の宿坊ではスイス人カップルの通訳を務めていた。


 民宿とうのはまに15時過ぎ着。通されたのは窓のない一階の部屋。文句を言うと、お遍路だけでなく工事関係者なども沢山泊っていて満室なのだという。個室をもらえただけでもありがたく思えという口ぶり。早めに風呂を済ませ、今後の予定を熟考。結局、高知市まで出たら今回は切り上げて、帰りは電車とバスを乗り継いで鯖大師に一晩泊って帰ろうという結論になる。当初の予定より数日早いけれど、宿に着く度に先の予定・先の予定を考え、スマホでチェックしては宿の予約を取っていくのにさすがに疲れた。足腰の疲労よりも、その精神的な消耗の方が大きい。

3/19(火)雨
 明け方、疲れる夢を見て目が覚める。6時半、工事関係者に混じって朝食。宿代を払うとき、昨夜の熱燗の分が勘定に入っていない旨を言うと、お酒はお接待ですとの返事。つっけんどんな対応の女将だったが、決して悪気があったわけではなさそうだ。徳島に比べて、高知の方が人の対応が荒い感じ。だからといって人が悪いというわけではない。
 雨の中、山の寺神峯寺(こうのみねじ)までポンチョをかぶって出発。ふつうに歩けば片道2時間弱の距離だが、勾配はかなりきつく、未舗装の遍路道は雨で滑りやすい。それでも、こんな日に国道を延々と歩くよりはましだと言い聞かせて登る。


 本堂で参拝を済ませ、さらに400mほど上の神社まで足を延ばす。深い森の中、参道の入り口に樹齢900年の大楠が根を張っていた。四国はとくにお寺と隣接する神社のたたずまいに素晴らしいものがある。神社から降りて、途中の休憩所に入ると茶髪のまだ若い女の子がリュックの荷を入れ替え、ビニールカバーを付けて、懸命に雨支度をしていた。横のトイレからは、やはりカッパを着た白人の女性お遍路が出てくる。皆、雨の中必死の移動である。
 ふもとの民宿に預けておいたリュックを背負い、再び国道55号を行く。途中「バイキング食堂」というのがあったので入ると、さっきの女の子もいた。先に800円払って、ご飯と味噌汁の他、唐揚げや炒め物やサラダや好きなものを大皿から取り分けてゆく。ほぼ満員である。お遍路の女の子は店の人からレジ袋をもらい、それを靴に巻き付けてまた出て行った。
 そこからしばらく行くと海岸沿いに道の駅があり、コーヒーを頼んで休憩。さっきの女の子がやってきて今日はどこに泊まるのかと聞くので、隣の安芸市のビジネスホテルだと答えると、「私この先の伊尾木から電車に乗って、今日は大日寺の通夜堂に泊めてもらおうかと思って」と思い詰めた表情で言う。「うん、それもいいかもね、こんな天気だから、そういうやり方もあるよね」と返事するとにっこり笑って去っていった。売店で買ったばかりのスポンジケーキをひとつ分けようと思って後を追ったが、もう雨の中をスタスタと歩いていく後ろ姿が見えるばかりだった。
 トイレから戻ったら、今度はさっきの食堂でも一緒になった仙台から通し遍路にきているOさんが現れる。団塊の世代の人だ。女の子の話をすると、「本当にきつそうだったものね、あの子」と同情する。防波堤歩道を通って再び国道に出、安芸市のビジネスホテルに16時頃着く。
 安芸市には何軒もホテルや旅館があるが、阪神タイガースの春のキャンプ地ということもあって、この季節はどこも満室。このホテルも電話で歩き遍路だと言ったら、やっと一部屋空けてくれた次第。しかしたまにはビジネスホテルもいい。4階の窓からはヤシの木の庭なども見えて、南国高知という感じが濃厚にする。コインランドリーでたっぷり洗濯をして、その間、スマホで徳島から大阪行きの帰りの高速バスの予約までする。ホテルの食堂で夕飯を済ませ、早寝。



3/20(水)晴れ
 昨日の雨とは打って変わって風もなく、穏やかな好天。海岸沿いの自転車道を延々と歩く。途中、芸西村の琴が浜で砂浜に座って土佐湾から遥か太平洋を眺める。横を見ると地元のおばあちゃんも黙って海を眺めている。こんなにのんびりと海を眺めるなんて、若い頃の南インド以来のことか? ゆるやかに寄せては返す波の音を聞きながら、昨日の女の子は無事大日寺までたどりついただろうかと考える。


 海沿いの善根宿を通り過ぎ、しばらく行くと道の駅に出た。なんとインド人がコックをしているインド・レストランがあったので、ためらわずに入ると、Oさんがカレーを食べているところだった。高知に入ってから、ぜいたくにも刺身には食傷気味となっていたから、久々のマサラ・カレーはありがたい。チャイまで飲んで満足して店を出る。
 再び遍路道を探して歩いていると、どこからか「おーい!」と呼んでいる声が聞こえる。振り向くと道の柵の向こうからSさんとI青年が駆け下りてくる。また道を間違えて戻ってきたところらしい。今回は高知市で打ち止めにして帰ることにしたというと、それは残念、寂しくなるわとSさん。彼女とは一番寺の民宿から何度も一緒になっているから、ぼくも心残りである。名前と住所を書いた納め札をそれぞれに交換する。Sさんには途中まで一度歌って聞かせたお遍路ソングが3番まで完成したから、メルアドがわかれば書いて送るよと言うと、携帯のSMSにとの返事。それじゃいっそのことここで歌ってしまおうということになり、即席でアカペラの路上ライブとなる。

「お遍路の道」

♪のんびり行こう 四国の道は
 のんびり歩こう お遍路の道

 昔々から 歩いてた道
 昔々から 踏まれてきた道 

 いろんな人が この道を通り
 いろんな願いが こめられた道 

 風が吹いても 雨が降っても
 弘法大師と 同行二人
 白衣に杖の 鈴の音が鳴る

♪のんびり行こう 四国の道は
 ゆっくり歩こう お遍路の道

 峠を越えて 丘をくだり
 トンネル抜けて 海辺を歩く

 寺から寺へ 八十八の
 札所をめぐる 旅は続く

 風が吹いても 雨が降っても
 弘法大師と 同行二人
 白衣に杖の 鈴の音が鳴る

♪のんびり行こう 四国の道は
 のんびり歩こう お遍路の道


 西から東から 海の向こうから
 四国をめざし 人はやってくる

 名も知らぬまま すれ違いゆく
 お遍路たちの 思いはひとつ

 風が吹いても 雨が降っても
 弘法大師と 同行二人
 白衣に杖の 鈴の音が鳴る
 白衣に杖の 鈴の音が鳴る


 歌い終わって、柵の向こうの彼女らとは別れてどんどん先に進む。途中、古本を置いてある雑貨兼骨董屋を冷かして、高知黒潮ホテルの前を通りかかったら「足湯 無料」とある。せっかくだからリュックを置き、靴とソックスを脱いで、足を湯に漬ける。ところがこれがえらく熱い湯で、一分と浸しておれない。ここでどう方角を間違えたのか、地図の通りにたどってきたつもりなのに、「→大日寺」の標識が出てこない。物部川にかかる大橋に出たところで地元の人に尋ねると、大日寺は1キロ以上手前を曲がらなければいけなかったことが判明。足湯をしてかえって疲れが出てきた足を引きずりながら来た道を戻り、念のためタクシーの運転手にも道を確認しながら、16時過ぎ二十八番大日寺着。何とか納経を済ませ、近くの遍路宿遊庵にたどり着く。
 1年8か月振りに再開したという古くからの遍路宿だが、宿賃4500円でなんと夕食・朝食はお接待。アルコール類も一律200円。今夜の客はOさんと大阪のI青年とぼく。女将さんも話の輪に加わり、宴会となる。
 高知に入ってからは、どこにでも津波避難タワーが設置されているのを目にしてきたが、仙台のOさんは3.11の経験者。ライフラインがすべてストップした中で、薪ストーブがあったから凌げたという話をする。しかもその薪ストーブはぼくの住む伊那の隣・駒ケ根市のファイヤーサイドの製品で、妙なご縁があるなという話になる。I青年は、お遍路に来る人は「信仰・健康・観光、そして反抗」のどれかの理由があるのだという。3年ぶりにまた回っているが、一度こういう旅をしてしまうとふつうの観光旅行などもうする気になれなくなる、と。
 今日も道に迷ったりして結局25キロ以上は歩いた。

3/21(水)春分の日 雨
 また朝から雨である。しかもしっかり降っている。ポンチョに傘をさして、遍路宿を出発。5キロほど歩いたところの松本大師堂で休憩。OさんもI青年もいる。今日はお彼岸だから、お萩にお茶をふるまわれ、昼のお弁当までお接待で持たされる。雨の日にこういうお接待は有難い。そろそろ腰を上げようとしたら、ポンチョに菅笠をかぶった女性が歩いてくる。Sさんだ。また会いましたねと挨拶。その後から大日寺で一緒だったという初老の男性も。席を譲って、二十九番国分寺へ。
 国分寺からは田んぼのあぜの遍路道を行く。晴れている日ならいいが、雨の日はもう靴がグショグショになる。5〜6キロ歩くと三十番善楽寺の手前に遍路小屋があり、Oさんとひと休みしていたら、さっきの初老の男性が現れた。雨具と菅笠を取ると精悍な表情をしている。ちょうど昼時だったので、お接待のお弁当を食べながら話す。
 愛知から来たこの男性は、60歳の定年のときから毎年春に四国を通しで歩くようになり、もう十回もまわっているという。道理で雰囲気が全然ちがうわけだ。インドならさしずめ、年季の入ったヒンドゥー教のサドゥーというところだ。落ち着いた口調でぽつぽつと語る話はどれも興味深い。ぼくが今回は今日で打ち止めで、明日帰ることにした、仕事も家族も待っているしと話すと、自分の場合、四国遍路から帰ったら1週間くらいは車の運転をしない。しばらくはぼーっとしていて、歩く感覚にすっかり慣れているから、いきなり車の運転は危ない。我々はこうして二本の足で歩いているだけだが、白衣を着てただ歩いている人間をこんなに尊敬してくれるところなんて四国以外にないよ。やっぱりどこかふつうでないことをしているんだな、と覚めた意見を言う。
 三十番善楽寺を参拝して出ようとしたら、遅れてやってきたSさんとI青年とまた会う。宿や遍路道やお寺で何度も出会ってきたが、顔を見るのもとうとうこれが最後だ。握手して別れる。彼らはこのまま明日からも通しで四国を回るのだ。無事歩き終えて、結願することを祈る。
 いよいよ高知市街に入り、また道を間違えて戻ったりしながら歩いていると、ビジネスホテルに荷物を置いてきたOさんとまたばったり。結局一緒に三十一番竹林寺まで歩く。雨はもう上がっている。高知市郊外の牧野植物園の中を通る遍路道は雨で滑りやすい。でも不思議なことに何だかすっかり荷物も軽く感じられ、ぐんぐん歩いていける。竹林寺の参道では桜が咲き始めていた。Oさんと桜をバックに記念写真を撮り合い、お別れする。
 今日は市街地のビジネスホテル泊。これで今回の歩き遍路の旅は終わった。

 



3/22(金)晴れ
 朝、荷物をまとめていると窓から白衣にリュックを背負ったお遍路が歩いていく姿が見える。もう当分ああして歩くこともないのかと思うと、なんだか寂しくなってくる。
 タクシーでJR土佐一宮駅へ。今日からふつうの旅人に戻る。御免駅から土佐くろしお鉄道に入る。終点の奈半利駅まで約1時間50分、昨日まで歩いてきた道を逆にたどっていくのも面白い。奈半利からは路線バスで室戸岬を回って、終点の甲浦駅まで約2時間の道のり。バスの車窓からは金剛杖を持った白衣に菅笠・リュック姿のお遍路たちが次々に現れては消えてゆく。「お、みんな歩いとるな、がんばれよ」と声援を送りたくなる。


 荒々しい運転の高知のバスを降り、甲浦駅から再び電車に乗る。案内板には高知県最東端の駅とある。乗車すると、天井にはイルミネーションがぎっしり煌いている。なんだろうと思ったら、この阿佐海岸鉄道阿佐東線は2駅ほどひたすらトンネルばかり抜けていく電車だった。
 海部駅でJR牟岐線に乗り換え、鯖瀬下車。今回の寺巡りで最も印象に残った鯖大師を再訪。ゆっくりとそれぞれのご本尊の真言を唱えながら砂絵の洞窟を巡り、護摩堂に参拝。すぐ横の丘の上に登ってみると頂上から海の絶景が広がっていた。この眺めはどこかで記憶にあるぞと思ったら、若い頃インド・コバラムの丘から見たアラビア海の眺めだった。ここで二十代のインドの旅と還暦過ぎた四国の旅がつながったと実感する。


 宿坊に荷物を置き、5時から夕食。6時から護摩堂で護摩供養のお勤め。般若心経の太鼓に合わせて茫々と燃えあがる炎が、四国霊場の本来の姿を映し出していた。

(自宅へ戻って一週間経っても、夢では毎晩まだ歩いている)。

→次回、高知から松山へは、来年3月の予定 (堀越哲朗)