「山頭火の四国遍路」

 捨てきれない荷物のおもさまへうしろ(草木塔より)

 四国から戻って、山頭火の「四国へんろ日記」をゆっくり紐解いてみると、道中だぶる部分も多く、いろいろと気づくこともあった。それを少し記してみる。

 年譜を見ると山頭火は、生涯に二度四国の歩き遍路をしている。このうち昭和三年(46歳)の冬には四国八十八か所の札所を巡拝。二月二十七日には足摺岬の金剛福寺に拝登とあるが、この時の日記は後に焼却されたらしく残っていない。二度目は死の前年、昭和十四年(58歳)の秋、香川、徳島、高知の霊場を参拝して松山へと至る旅だが、この時は八十八か所全部の札所を回ったわけではない。高知を過ぎて行乞に疲れ果て、金策も尽きて遍路旅を断念、足摺岬を経ずしてまっすぐ松山へ向かっている。我々がいま読めるのはその時に綴られた「四国へんろ日記」である。

 冒頭は十一月一日から始まり「七時出立、徳島へ向ふ」とあるが、大山澄太の解説によると実際には十月二日に松山から遍路の旅に出ており、途中小豆島に渡って尾崎放哉の墓に詣でたりしながら、十月中は俳句だけ作って記していたらしい。
 そして「十一月二日 快晴、行程八里、星越山麓あさひや 早起早立。まっしぐらにいそぐ。第十八番恩山寺遥拝、第十九番立江寺拝登」とあるように、必ずしも律儀に全部の札所を回ったわけではない。一日に歩いた距離もだいたい八里前後で、一里=4キロ弱と考えれば約30キロ。ほぼ我々の遍路旅と変わらない。しかし山頭火の場合、履いていたのは地下足袋である。それもボロボロの。日記にはこうある。
「先日から地下足袋が破れて、そのために左の足を痛めて困ってゐたところ、運よくゴム長靴の一方が捨ててあるのを見つけた。それを裂いて足袋代用にしたので助かった」(11/7)。 
 おまけに旅銭を稼ぐため、所々で行乞もしなければならなかった。旅には米を担いでいった時代である。
「行乞二時間、銭四銭、米四合あまり功徳をいただいた。行乞相は悪くなかったと思ふ」(11/6)。 
 もっとも道の状態は、いまのように車の行き交う舗装路を延々と歩くことに比べれば、ずいぶんのんびりしていたのではないか。
「松原がつづく、海も日本晴れ、秋-日本の秋」という記述からもそれが伺える。

 面白いのは時代を隔てて同じような印象を記しているところだ。
「四国をまはってゐて、気がつくのは空家が多いことである。べたべたビラを貼られた空家が見すぼらしく沿道に立ちならんでいる」(11/7)。これは田舎道を歩いているからこそ目にする機会が増えるのだろうが、たしかに四国は空家(廃屋)が多いと私も感じた。しかもその状態が信州とは違って、いかにも南国らしく家中が蔦に絡みつかれてぐるぐる巻きになっているのが印象的だった。大都会を離れれば、どこも過疎なのである。


「寒い地方の人はまろい、いひかへると、温い地方の人間は人柄がよくない。お修行しても寒い所の方がよく貰へると或る修行遍路さんが話してゐた、一面の道理があるやうだ」。これも同感。徳島と高知だけ比べても、人の雰囲気が違うと感じたのは私だけではないと思う。

 それから当然お天気の話が出てくる。
「雨中出立、雨中行乞。 風で笠を吹きとばされ、眼鏡もとんで閉口してゐたら、通りがかりの小学生が拾ってくれた。ありがたうありがたう。雨いよいよしげく、風ますますすさぶ。ままよとばかり濡れ鼠のようになって歩きつづける。途中どうにもやりきれなくなり、道べりの倉庫の蔭で休んだ。着物をしぼったりお昼を食べたり、二時間ばかりは動けなかった」(11/4)。わかる、わかる。レインウェアやポンチョを着ていても、雨の日の遍路旅は辛い。辛いからこそ感じるところも大きい。そして晴れの日のありがたさが余計身に染みる。
「晴れてありがたかった。へんろの旅には何よりもお天気がありがたい」(11/13)。これは時代を越えて誰もが実感することだろう。

 もちろん宿がみつからなければ野宿もする。
「月夜あかるい舟がありその中で寝る」
 これなどましな方で、
「とっぷり暮れて越智町に入ったが、どの宿屋でも断られ、一杯元気で製材所の倉庫にもぐりこんで寝る。犬に嗅ぎ出されて困った。ろくろく睡れなかった、鼠に米袋をかじられた。=絶食野宿はつらいものである」(11/16)
 そんな折、川土手の下から呼びとめられ、貧しい善根宿に泊めてもらうが、
「板張、筵敷、さんたんたる住居である、そして夫婦のあたたかい心はどうだ! 子供六人、猫三匹、鶏数羽、老人、牛…、私はなけなしの財布から老人と主人とに酒を、細君と子供に菓子を買ってあげて、まづしい、しかもおいしい夕飯をみんないっしょにいただいたことである」(11/17)ということになってしまう。

 そんな遍路旅を続けた挙句、いよいよ行乞の貰いも少なくなり、知人への送金依頼も返事がなく、やむなく遍路を中止し、久万から松山へと急ぐ。そして四十四番・四十六番と拝して、十一月二十一日松山の知人宅に転げこむ。以後十二月十五日までは道後温泉の宿に長逗留、執筆、読書、酔生夢死の日々となる。そのまま知人らの紹介で、松山の寺境内の納屋を改造して「一草庵」と称して移り住み、翌秋死ぬまでここに暮らしたのはご存知の通りである。

2019年4月29日記