水の島に眠った詩人・山尾三省さんのこと

    堀越 哲朗(*初出「COTO」Vol.3 2002年1月発行)

 山尾三省さんとは、二度だけお会いしたことがある。一度目は17〜
8年前、初めて屋久島を旅したおりのことで、ご自宅でコーヒーをごち
そうになった。彼に会う目的で屋久島にやってきたわけではなかったが、
ある日島を巡回するバスに乗ったら、人生相談のために三省さんのもと
をこれから訪ねるという若い読者の女性とたまたま乗り合わせた。
「ふーん、そんな相談にまで応じているのか…」
 とちょっと驚いたが、それならということで、彼女と三省宅まで同行
し、ぼくの方はそれから小一時間、周辺の林をぶらついてから戻ってき
た。するとそろそろ面談も終わるところで、「コーヒーでも飲んでいき
ませんか?」というお誘いにのることにしたのだ。
 その頃、東京で『作業』という雑誌を主宰されていた安田有さんから、
「もし三省に会えたら何かインタビューしてこないか?」と頼まれては
いたのだが、当時この詩人・哲学者に心酔していたぼくは、コーヒーを
ごちそうになりながら雑談をするだけで充分であった。
 前年南インドを旅したおりに立ち寄ったラマナ・マハリシのアシュラ
ムのあるアルナチャラという聖地のことが話題にのぼり、ラマナを自ら
の師と崇めながらもそこに行ったことのない三省さんは、さも秘密でも
聞き出すような口調で、
「で、水は流れていましたか?」
 と、えらくそれを気にしていたのを覚えている。水は、三省さんのあ
らゆる詩や思想の根源に流れているキイワードだが、残念ながら聖地ア
ルナチャラは赤茶けた南インドの大地に聳えたつ岩山で、屋久島のよう
に清冽な水は流れていなかった。
「あら、もうこんな時間? ヤギのお乳を搾らなくちゃ」
 という先妻順子さんの声をしおに席を立った。(まだ五十にもならな
いのにすでに白髪の方が多かった順子さんは、その数年後、クモ膜下出
血で急逝された)。

 二度目は昨年の六月、すでに三省さんが自らの末期癌を公表されてか
らあとのことである。一時間ぐらいなら会ってもいいという話で、ある
月刊誌の取材で屋久島まで飛んだのだが、はっきり言って気分は重かっ
た。このところあまりいい三省さんの読者ではなかったし、それよりも
死にゆく人を前にしていったい何を聞けばいいのか。まるで遺言でも聞
きに行くような役回りじゃないか。
 それでも屋久島へ着いた日はたまたま雨上がりの日で、空港から町へ
向かう道すがら、目にする山や丘の樹々からは緑が滴り落ちるようだっ
た。緑の濃さ、鮮やかさが違うのだ。ふだん伊那谷の山村に暮らし、樹
々の緑を見慣れている自分でさえそう思うのである。屋久島こそ水の聖
地と言うに相応しい。三省さんは生涯「ついの栖」にこだわった人だが、
この水と緑の島を自らの死に処と定め、自宅療養をしながら家族に看取
られて死んでいけるのなら、それは本望ではないかと思った。
 一湊という港町の旅館に一泊し、お宅には翌日、雨の中を歩いて出か
けた。白川山の集落まで、林道を4キロほどの距離である。着いてみる
と、つい直前まで枇杷の葉温灸を施されていたようで、狭い居間の中は
お灸のもぐさの匂いが充満していた。久しぶりにお会いする三省さんは
もともと痩せぎすの方だからか、思ったほどやつれてはいなかったが、
それでも病人特有のぎょろりと光る目が、ただものではない雰囲気を漂
わせていた。
 もうここまできて、ただでさえ貴重な時間をつまらない質問でつぶす
気にもなれなかったので、「老い・病い・死」とどう向き合うかという
テーマで語っていただくことにした。痛む背中を奥さんの春美さんにさ
すらせながら、三省さんもそういうテーマでならということで、一語一
語を噛み締めるようにしゃべってくれた。
 途中、どうしても訊いておきたいことがあって、少し話が脱線した。
それはぼくがかねてより禅の公案のように気に留めてきたラマナ・マハ
リシの言葉を、訳者である三省さんはどう思っているのかということだ
った。曰く、
「環境を変えることは何の助けにもならない。唯一の障害物は心である」
 と。
 もとより単刀直入な答を期待できるような問いではない。にもかかわ
らず、三省さんは真摯にそれに答えようとされ、「若い頃坊主になるか
どうか迷って、ついに出家しなかったのは、その辺の問いがあったから
だ」と明かしてくれた。「非僧非俗」が彼の選び取った生き方である。
病気がよくなったら、「家族のなかで人は死ねるか?」というテーマで
新しい家族のあり方について書いてみたいと意欲をみせていた三省さん
だが、とうとうこれが最後のインタビューになり、この世での再起は果
たせなかった。いかにも神田生まれらしい江戸弁の語り口が印象に残っ
ている。

(詩誌「COTO」発行所:キトラ文庫 〒630-0256 奈良県生駒市本町6-2)

なおインタビューの内容(月刊「望星」2001年8月号)は、こちらでも
 ご覧になれます。