1983年に出たナナオサカキの最初の詩集『犬も歩けば』には、詩の末尾に、書かれた年月と地名が記されている。ざっと拾っていけば、
「グランド・キャニオン上空はるか 1969・9」から始まり、
「めぐり会い 1970・11 ビックスビー キャニオン」
「ウナ電 1973・5 ダンカン・スプリング」
「消えちまったんだよ 1974・10 武蔵 国分寺」
「サンシャイン オレンジ 1975・9 知床半島」
「砂絵 1976・2 西表島 星立」ときて、
その後に絶唱「ラブレター」が「1976 春」とあり、
「はたらき 1977・1 信州 岩殿山」
「淑女ならびに紳士諸君 1978・4 信州 生坂村 清水平」と続く。
放浪の詩人ナナオの行動半径をよく物語っているが、この最後の「生坂村 清水平」は70年代後半から80年代半ばまで、ナナオが家族とともに珍しく長居した場所だった。
二番目の詩集『地球B』(1989)のあとがきに、
暫くの間、信州の山の村に腰を据えた。そこでよく唇にのぼる言葉”振りかえれば 峯”
とあるように、目の前は小川をはさんで太古の地層が露出する土壁の崖だった。藁葺屋根にトタンを被せた谷間の一軒家で、電気・ガス・水道なし。囲炉裏と沢水とランプの暮らしである。夏には河鹿ガエルがホロホロと鳴き、冬にはアカゲラが家の壁を突いた。崖に面した南向きの縁側に座って、この崖の向こうにはいったい何があるのか? 半径100m向こうには森の中の畑があり、半径1q向こうには岩殿山が聳え、さらに半径10q行くと…、とあれこれ想像しながら「ラブレター」という傑作は書かれたに違いないと思っている。
この清水平では子供も二人生まれ、フリークたちも集い、ひょっとして終の棲家となりえたかもしれない場所だった。だからここで書かれた詩には詩人の定点というか、山の暮らしに根ざした安定した眼差しが感じられる。「ラブレター」の他にも囲炉裏を謳った「はたらき」や「十一月の歌」、窓拭きをユーモラスに描いた「酢で」など、個人的には一番好きな詩が多い。
(2022年11月撮影)
国道19号を車で行くと松本と長野の中間、山清路を右折して差切渓谷に向かうトンネルの手前で未舗装の林道に入る。あるいは篠ノ井線を坂北駅で下り、日に5本出ている村営バスの終点中込で下車。その奥一帯が入山(いりやま)という限界集落だった。沢沿いに1qほど行った分岐を左に折れると、どんつきが清水平。そこから森の上の廃校に至るまで崩れかけた廃屋が次々と現れたが、分岐を真っすぐ登っていくと2qほど上に小谷田(こやんた)があり、80年代後半までは2軒の老人所帯が健在だった。
その内の1軒、池田実さんはナナオたちにも、その後に移り住んだ都会出身で何も知らない我々にも大変親切にしてくれた。切れなくなった鋸の目立てなど、何度教わりに行ったことだろう。
戦中派同士だったせいかナナオもことのほか池田さんとはウマが合ったようだ。いまでも忘れられないのは、農閑期の冬にナナオの「廃屋」という詩をあしらって実さんが手すさびで描いた山水画のことで、それを長髪に髭もじゃのナナオがニューヨークに持って行ってエンパイアステートビルの屋上で掲げて写真に撮り、それをまた大伸ばしにして額に入れ実さんにプレゼントしたのである。この写真を実さんは家宝のように大事にしていて、ふだんは押入れの中に仕舞っていて、特別のときにだけ御開帳して見せてくれた。その後心臓を悪くして山を降りた実さんもすでに亡くなった。あの写真はいったいどうなっただろうか?
この「廃屋」という詩には実に簡潔に入山の谷の風景が描かれていて、実さんが気に入ったのも頷ける。とくに森の上にあった廃校の庭には、春になると真っ先に福寿草が咲き乱れ、それが廃校とコントラストをなして異様なまでに鮮やかだった。
廃校から尾根筋に森を歩いて行くと、丸山という牧場の跡に出た。ここは谷底の清水平とは違い、陽当たりも良く、正面には岩殿山も望まれて、ナナオも気に入っていた。結構程度のいい管理小屋が空き家になっていたので、あるとき清水平にやってきたナナオが借りられないか実さんに相談に行ったが、村の所有とかでやはり駄目だと残念がっていた。
清水平の家の方は、ナナオとしう子夫妻の後、たまたま移り住んだ我々が3年ほど過ごして大家に返した。周囲の木が伐られ沢は荒れて鉄砲水が出るし、雨漏りもひどく、もうこれで最後だろうと思っていた。ところが後年、詩の朗読会で会ったナナオから、「いや、まだ誰か住んでいるらしいぞ」と聞かされて、一度見に行ってみた。すると舞踏をやっている女性が借りて見事な道場に仕立て上げていた。本人には会えなかったが、ここは妙に人が居つくところなんだなと感心した。しかしそれから十年くらいたって訪ねてみると、かつての面影はなく、竹藪に覆われた廃屋と化していた。
長野オリンピックがあり、豊科から麻績へ抜ける高速道が開通し、19号沿いの生坂村近辺はすっかり取り残された。「人去って 十年」とあるが、すでにこの詩が書かれてから四十年。入山集落もいまでは山全体が完全に人のいない廃村である。
(2023年4月記)
*「ヒッピーという生き方 部族降臨」富士町高原のミュージアム 2023.4/8〜5/7
に寄稿
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