戦慄
 
序、エンフィールドの闇
 
今だガス灯が配備されていない場所もある、先進的とは言えない街エンフィールド。大国とは距離があり、それが故に文明の流入も若干遅い。だが同時に争いは少なく、また大国に干渉される事も少ない。小さな、平和な都市国家である。
だが、完全に平和というわけではない。少し前には百人を超す無法者が街に乱入する事件も起こり、一時は緊張が極限まで高まった。また、街の外には少ないながらも古代文明の遺跡や魔物の巣があり、それらには人知の及ばぬ存在が潜んでいる可能性も否定出来ない。現に、街の自警組織(自警団)や(公安維持局)の仕事が耐えた事はなく、魔物との戦いで殉職者が出る事も年に数回あった。
そんな中、街の一部を、深奥の恐怖に陥れる事件が起こった。そしてそれは、複数の人の心に、拭いきれない恐怖と悪夢を植え付ける事となる。
破壊よりも、殺戮よりも、恐ろしい事は時に実在する。それは歴とした事実であり、この事件により実証された現実なのであった。
 
 
1,悪夢の始まり
 
自警団第一部隊所属第三部隊補助要員、アルベルト=コーレインは、現在自分の寮で妹と二人暮らしをしている。妹の名はクレア=コーレイン、お淑やかで保守的な性格の、今時珍しいほどの(貞淑)な女性であった。それからも分かるように、クレアは髪の色を除くと、豪放でがさつな兄とは完璧なまでに対称的な存在で、兄の身の回りの世話は今のところ全て彼女が行っていた。お陰で部屋はまるで新居同様に整理され、床には埃一つさえ落ちてはいない。これらの事項から、全く二人が似ていないと思う者も存在するが、それは事実ではない。この兄妹は、ある唯一の点が徹底的なまでに似ていて、それが故に実の兄妹だと言う事が明らかなのだった。
アルベルトと唯一彼女が似ているのは、一旦思いこんだら徹底的なまでに自らの道を貫き通す点である。アルベルトは尊敬する隊長リカルド=フォスターに忠誠の全てを捧げ、周囲からは狂信的な部分もあると評価される男である。一方で妹は、兄が迷惑しているというのに全く気づかず、(お兄さまのためになる)事を徹底的に行い、それに妥協の様子は見られなかった。根本的な意味で、二人は似たもの兄妹であり、だが歯車は見事なまでにかみ合っていなかった。
此処最近、アルベルトは妹の暴走ぶりに正直辟易していた。しかし、クレアの事を嫌いだと思った事は一度もない。もしクレアの身に危険が迫れば、彼は身を捨てて現場に駆けつけるだろう。そして妹を襲う相手が、例え最強の怪物エンシェントドラゴンであっても、その身を掛けてでも救出に向かう事は疑いない。
その日の朝、その事実は実証された。
 
「いやぁぁあああああああああああああああああっ!」
自警団寮に、悲壮を極める乙女の悲鳴が響き渡った。同時にガラスが割れるような音が響き、朝の日課である筋肉トレーニングをしていたアルベルトは文字通り飛び上がった。悲鳴は紛れもなく妹であるクレアの物であり、それは彼の理性を吹き飛ばすに充分であった。床を蹴ると、アルベルトは妹の部屋のドアを激しくノックした。
「おいっ! どうしたクレア! 何があった!」
ドアは開かず、代わりに嗚咽の声が響いてくる。アルベルトは最悪の事態を想像し、頭の中で爆発させた。賊が侵入し、クレアを陵辱したのではないかと思ったのだ。
「大丈夫か、無事かっ! うぉおおおおおおおおおおおっ!」
パワーだけに関しては、人類有数の勇者であるリカルドに次ぐと言われるアルベルトが、本気になってドアを押した物だから、たまったものではない。ドアは瞬時に木と金属の塊と化し、内側に蝶番ははじけ飛んだ。アルベルトはそのままクレアの部屋に乱入し、血走った目で妹を捜した。クレアは両手で顔を覆い、慟哭していた。床には、彼女が愛用している兎さんの模様がついた手鏡が転がり、無惨に割れていた。クレアがベットの上で半身を起こしている事、パジャマを普通に着ている事、窓硝子は割れていない事、等を確認したアルベルトは、最悪の可能性を頭からようやく除外し、内心で深く安堵のため息をついた。
「どうしたんだ、クレア、何があった」
「いや……お兄さま……私を見ないで……」
「大げさな奴だな、ニキビでも出来たのか? おおかた調子に乗ってケーキでも食い過ぎたんだろ」
クレアは首を振り、アルベルトは肩をすくめる。ドアをノックする音がするのは、恐らく騒ぎを聞きつけた同僚がドアを叩いているのだろう。アルベルトは朝早く起こされて機嫌の悪い同僚に(何かの勘違い)であった事を説明すると、そのままクレアに文句の一つでも言おうと彼女の部屋に戻った。そして見てしまった。
「く、クレア……」
彼の妹は、(それを見られた)ために硬直していた。アルベルトは剰りにもあり得ない光景を目の当たりにし、頭の中の地平線が上下に一回転する感覚を覚えた。彼は直視してしまったのである。
妹の口元に威風堂々輝く、蒼きカイゼル髭の姿を。
 
再び朝の自警団寮に、けたたましい音が響き渡った。アルベルトが、第三部隊隊長であるレヴォルド=フリアイの部屋の戸を叩いているのである。やがてドアをレヴォルドの助手をしている魔法生物ヘキサが開けた。
「何だよ、アルベルト。 今日は朝からさわがしーな」
「レヴォルドはいるか……」
「……いるよ、いるいる、今メシ喰ってる」
ヘキサが気圧されたのは、アルベルトの目が完全に据わっていたからである。部屋の中にずかずかとアルベルトが入っていくと、街の中でも最高の変人の一人であり、現在彼の上司でもある第三部隊隊長が面白くもなさそうに朝食を取っていた。そして、そのまま眠たげな目を、アルベルトに向ける。アルベルトの目を見た後も態度が変わらないのは、彼女の胆力が並々ならぬ事を実証する事項であっただろう。ヘキサは案外根性がない事実を露呈し、既にレヴォルドの背後に隠れ込んでいた。
「何用だ、こんな朝から」
「単刀直入に言う、クレアに何をした?」
「何もしていない。 それだけなら、朝食中だ、さっさと出ていけ」
アルベルトは微動だにしなかった。その様子から、相手が納得していない事を悟ったレヴォルドは、卵焼きを飲み込むと続けた。
「……私は確かに奥義を良くお前達に仕掛ける。 だが、それはいつも何かしら相手のためを思っての事だ。 そして、奥義の発動者が私である事を偽った事は今までに一度たりとてないぞ。 必ず毎回名乗り出て、奥義の名前まで明かしただろう。 それは私の美学だ。 幾らでも覚えがあるはずだぞ? 故に、私はクレアに起きた何かしらの事に関して、完全に無実だ」
「言われてみれば、そうだな。 でもな……」
「何だ、さっきと同じく単刀直入にいえ」
「あんな凄まじいイタズラをする奴は、お前とマリアしかいないんだよっ!」
エンフィールドの火薬庫と言われる、魔力は強大だがそれを全く制御出来ないイタズラ好き娘と同列におかれても、レヴォルドは全く動じなかった。
「……何があった?」
アルベルトは首を振り、世にもおぞましい事に触れるかのように言う。
「それだけは、それだけはいえん!」
次の瞬間、アルベルトが見たのは、自分に向けて眠りの魔法を解放するレヴォルドの姿だった。
 
アルベルトが次に目覚めたのは、クレアの部屋であった。彼が破壊したドアは既に片づけられていた。アルベルトは、慌てて周囲を見回す。そして、目を真っ赤に泣きはらして口元を押さえたクレアと、隅っこにうずくまって痙攣しているヘキサ、それに椅子に座って考え込むレヴォルドの姿を順に確認したアルベルトは、次に自分が縛られている事に気づいて愕然とした。
「おい……レヴォルド……何のつもりだ」
「……お前を縛っておかなければ、マリアに何をするかわからん。 それにマリアが無実だと知れれば、街中をはいずり回って、ありとあらゆる者を疑い、街に不安と恐怖のタネをばらまくだろう。 血相変えたお前が町中で聞き込みを強行した暁には、街が不安と混乱に落ちるのは目に見えている。 大体マリアに何かちょっかいを出して見ようものなら、二時間後にはクレアに何かあったと街中の人間が知る事になるぞ」
それは全くの事実であったから、アルベルトには反論の言葉がなかった。それに冷静に考えてみれば、マリアは自警団のスポンサーであるショート財団の歴とした令嬢である。アルベルトが無茶をすれば、第三部隊は必ず面白くもない事態に陥るであろう。意気消沈して黙り込むアルベルト、レヴォルドはそれを見て満足げに頷くと、自信満々に言い放つ。
「それにクレアは、一週間以内に犯人が見つからなければ、手首を切って自殺する事が決まっている! そうすればこの事件は闇に葬られ、混乱は起きない!」
同時に吹き出すクレアとアルベルト。流石は兄妹、息のあったリアクションである。真っ青になって懇願するようにレヴォルドを見るクレア、唖然とするアルベルト。二人を見回すと、第三部隊隊長はいつものように言い放った。
「勿論これは冗談だ。 これぞフリアイ流暗黒武神剣術奥義! 自殺っぽい!」
「……」
もはや返す言葉もないアルベルト。そして彼の目の前で、心労がピークに達したらしいクレアは、白目を剥いてそのまま後ろにひっくり返ったのだった。二人が瀕死になったのを見届けると、何か非常に満足げにレヴォルドは頷き、痙攣するヘキサに言った。
「ヘキサ」
「ぷぐ、ぐくくくく、ふくくくふふくふくくくく、ひ、ひま、はなしか、ぷくくくくっ、はなし、くくくふ、かけるな、はなしかけるな」
「今話しかけるなと言っているのか? バカを言うな。 笑ってないで、ドクタートーヤを呼んで来てくれ」
どうやらアルベルトの手前もあり、ヘキサは笑いをこらえるのに必死の様子であった。レヴォルドは卒倒したままのクレアに視線をもう一度移すと、白けた様子で続ける。
「あれが何かの病気だったらどうする? お前も感染しているかも知れないぞ。 無論、私もな。 そしてあれが街中に広まり、エンフィールドは終わるかも知れない」
「ば、馬鹿野郎っ! 縁起でもねえっ!」
「お、おうっ! 分かった、すぐ行って来るぜっ!」
あまりなレヴォルドの言葉に、へキサの笑いは瞬時に収まった。真っ青になったアルベルトの抗議を完全に黙殺し、ヘキサはドクターの元へと飛んで行ったのだった。
 
2,恐怖の拡大
 
ドクター・トーヤは街一番の名医であり、責任感ある良医でもある。彼は普段こそ常にむっつりとしていたが、その性根が優しい事は、彼の知人全てが知っている事であった。当然彼は急報を得て、すぐに自警団寮に駆けつけてきた。トーヤに情況を説明するレヴォルド、その説明は丁寧で的を得ていた。
「毛が無意味に生えているのは唇の上の僅かな場所のみ。 体の他の箇所も全て調べてみたが、特に体毛が濃くなった様子はない。 また、体温も特に妙ではない。 呼吸も乱れてはいない。 脈拍も正常だ。 とりあえず、これだけは確認した」
「お、お前いつの間にそんな事を!」
「お前が寝ている間にだ。 それに、女同士で何の問題がある。 では、ドクター・トーヤ、クレアを頼む」
「うむ、任せておけ」
何故か顔を赤らめたアルベルトの反論を封じ込むと、レヴォルドは髪を掻き上げ、部屋の外に出た。彼女は自警団の訓練で応急処置と簡単な治療を収得していたから、今の言葉は素人の戯言ではなく、トーヤの手助けになる言葉となった。レヴォルドは目を細め、舌打ちする。いい加減外の音が大きくなり始めており、それが示す事が唯一つである以上、対処が必要だったからである。レヴォルドと入れ替わりに、トーヤとディアーナが部屋に入った。
「ぶっ!?」
おそらく、吹き出したのはディアーナであろう。トーヤは全く様子を変えず、淡々と診察を開始したようだった。レヴォルドはそんな事には構わず、一旦アルベルトの寮室を出る。案の定其処には人だかりが出来ていた。これが拡大すると、余り面白くない事態に突入する事であろう。人だかりの中には、バイロン隊長もいた。彼はレヴォルドと形式的には同格の第二部隊隊長であるが、その経歴、実績共に、対等に口を利いて良い相手ではない。レヴォルドが頭を下げると、咳払いして彼は言った。
「レヴォルド隊長、何事だ?」
「バイロン隊長、何の事はない、盲腸です」
「盲腸?」
「はい。 何しろ医学の知識のないアルベルトが、妹の盲腸に取り乱しまして。 今、この様な混乱を招いた事を深くお詫びいたします」
一見事の責任をアルベルトに転嫁したようだが、実際騒ぎを大きくした責任はアルベルトにあるのだから別に問題ない。また、アルベルトが戦闘とおしゃれ以外はからきしだと言う事も、内外で良く知られている事である。故にその言葉には説得力があり、皆は納得したようだった。そして、バイロンはその言葉の裏にある真意をも察した。バイロンは決して無能な人物ではないし、レヴォルドが単なる変人でない事も良く知っている。おそらくレヴォルドが事を拡大せぬ為に嘘を付いた事を、すぐに洞察する事が出来たのであろう。彼は振り向き、部下や群衆達に言った。
「聞いての通りだ! 単なる盲腸で騒ぐ必要はない!」
「なんだ、アルベルトの野郎、大騒ぎしやがって」
「心配して損したわー」
レヴォルドの言葉に、バイロンが後押しした事により、急速に群集心理が鎮火していった。口々に不満を述べつつ去っていく者達を見送ると、バイロンは小さく頷き、その場を去っていった。群衆の中にいたレヴォルドの親友橘由羅も、一度振り向くと酒瓶を片手に去っていく。レヴォルドはそれを見届けると、一旦中に戻った。中では、トーヤが難しい顔をしており、部屋の隅ではヘキサとディアーナが縮こまって、壁に手をついて同じように痙攣していた。時々妙な音が漏れているのは、必死に笑いをこらえているからであろう。血に弱い事もあり、本当に今の時点では役に立たない助手であった。医師として力を付けるには、相当な修練がこの娘には必要となるだろう。
「これは、何とも奇怪な情況だな」
「と、いうと?」
「まず、お前の言った事は全て本当だ。 髭が生えた以外、クレアに異変はない。 ただし髭は間違いない本物だ。 そして、これはおそらく病気ではない。 採血も含めて様々な検査をしたが、身体に異常は発生していなかった」
レヴォルドは腰をかがめると、目を回しているクレアの顔をもう一度のぞき込んだ。となりでは、アルベルトが息をのんでその様を見守っていた。
「となると、魔法的なものか? 或いは特殊な薬品か?」
「あり得るな。 なににしても、感染のおそれはない。 問題は、この髭がどうして生えたかだが」
「クレアが起きたら、私が直接に尋問してみよう」
「今後どんな変化が生じるかも分からないからな、あまり乱暴な事はするなよ」
釘を差すトーヤにレヴォルドは頷いた。ふと彼女が時計を見ると、既に出仕の時刻を回っている。レヴォルドは数秒考えた後に、不意に剣を取りだし、アルベルトの縄を斬った。
「私はこれから出仕する。 アルベルト、お前には今日一日クレアの介護を命じる。 分かっていると思うが、ドクター・トーヤの邪魔だけはしないようにな」
「お、おう」
「それと、今日一日寮から出る事を一切禁じる。 これは隊長命令だ」
 
レヴォルドが出仕すると、既にリオが事務所にいて、所在なげに辺りを見回していた。自警団事務所は、彼のようなごく一部の例外を除けば大人の職場であるから、やはり小さな子供には居づらいのであろう。ましてリオは、とても、下手をすると内気な女の子以上に気が小さいのである。幼気な少年はレヴォルドとヘキサを見ると心底安心したように嘆息した。彼は声も小さく、どういう訳か他人との関わりも出来るだけ避けるようにしているため、孤立する事が少なくなかった。
「お姉ちゃん、良かった。 僕、凄く心配したよ」
「有り難う。 それよりも、アルベルトは今日出仕出来ない」
「何かあったの?」
「アルベルトではなくクレアにな。 まあ、後でおいおい話す」
喋りながらレヴォルドは帳簿を引っ張り出し、机の上に山と積んだ。最近第三部隊の経営は完全に軌道に乗り、もう何人か雇えるほどの余裕が出来ている。実際、何度か短期バイトを由羅やヴァネッサに頼んだ事もあるのだ。帳簿をつけているのはトリーシャとリオであり、リオは計算こそ遅かったが何度も丁寧に見直すために極端にミスが少なく、最近は帳簿の計算を任される事が少なくなかった。無論、リオが計算を終えた後は、必ずレヴォルドが目を通していたが。
「今日の仕事の予定は?」
「う、うん。 ええと、雷鳴山に魔物が出たらしいから、それの調査が一件だけ。 後は庭のお掃除が一件、鴉の巣の撤去が一件だけ」
「では、鴉と掃除をお前とヘキサに任せる。 分担は二人で決めて、事務所には必ず一人ずつ残るようにな。 それが終わった後は、トリーシャが合流するのを待ち、その後三人で帳簿の計算を頼む」
「お姉ちゃんはどうするの?」
即座にレヴォルドが三人に帳簿を任せて自分は何かするつもりであると悟る辺り、リオは単なる内気な子供ではない。引き出しから書類を引っ張り出し、リオの言葉が正しい事を確認しながら、レヴォルドは振り向きもせず応えた。
「クレアの事で少し調査をする」
「そんなに調子が良くないの?」
「乙女の貞操の危機、といっても差し支えはないな」
意味が分からずきょとんとするリオ、またクレアに生えた髭を思い出して吹き出し掛けるヘキサ。二人を無感動に見やると、レヴォルドはまたしても例の恐るべき持病の発生を告げた。
「それと、今日私は頻繁にメモリー不足に陥るはずだ。 何かあっても驚かないように」
「またかよ……」
「クレアに起きた事を推理するのに、頭の回転が手一杯になりそうなのだ。 そういうな」
「へいへい、分かりましたよ」
いいつつ、レヴォルドは大体必要な書類を出し終えた。そして愛刀を抜き、さび付いていない事を確認すると、簡単にそれの手入れをすませ、二人に断って事務所をでた。
 
雷鳴山はメロディと由羅の家のすぐ裏にある場所で、地形が険しく災害が起こる事が珍しくない危険地帯である。盗賊がでる事もあるし、魔物の生息も確認されている。故に一般人は立ち入る事が少なく、周囲の土地は安く、準危険地帯の一部などはタダで放棄されていたりもする。さほど収入が多いわけではない由羅が住む事が出来るのも、その辺が理由である。
レヴォルドはメモを持って雷鳴山に向かった、というのも途中三回にわたって任務の内容を忘れてしまったからである。一度忘れた時点で、任務の内容をメモして再出発し、道すがらそれを見ながら雷鳴山にたどり着いた。任務自体は簡単な物で、雷鳴山の、比較的安全とされる場所で魔物の目撃情報があり、それの確認を取る事であった。依頼はジョートショップを介して来た物で、現在、一番の働き手であるリーナスを欠くかの店では対応が出来ず、第三部隊に仕事が回ってきたのであった。
麓にある由羅の家を訪ね、来た旨を伝えると、昼間からもう酒が入っている由羅がご機嫌な様子で現れた。これは友人だからと言う事もあるが、危険地帯に入る以上必要な措置だという事情もあった。
「あらーん、レヴォルドちゃん。 一体どうしたのん?」
「簡単な調査を行いに来た。 雷鳴山に入るから、もし帰りが遅いようなら自警団に連絡を頼む」
「分かったわん。 リオ君は?」
「今日は別行動だ」
児童愛好者を自認する由羅は、リオの様な大人しげな少年が大好きで、いつもその後ろを追いかけ回していた。昔と違い、最近は大分相手の事を尊重するようにもなってきたので、以前のように怖がられる事もなくなってきたが、しかし褒められた性癖でない事も事実だった。
由羅と別れると、レヴォルドは雷鳴山に足を踏み入れた。問題となっている地点には小さな滝があり、以前も小物の魔物が現れた事がある。堂々と其処に足を踏み入れると、レヴォルドは大胆に周囲を見回り、念入りに辺りを調べ始めた。その直後、背後で物音がした。それが人工的な音である事は明白、レヴォルドは目を細めると、極めて迅速にそれに対応した。鯉口を切り、弾かれるようにその場から飛びずさる。そのまま確認している安全圏へと素早く移動し、後背からの攻撃に備えながら刀を抜いた。そして、木を上手く障害物にしながら、音の主を確認する。
「ふみゃあっ!?」
「メロディ!」
音は二つ、一つがメロディの立てた物である事は明らかだった。問題はその背後でなった音であり、突然獣のような動きを見せたレヴォルドに驚くメロディを、その発生源は羽交い締めにしていた。
元々強烈な幼児体験をした事があるらしい上に、精神的に幼い事もあり、メロディは極めて恐怖に弱い。青ざめてすくみ上がる彼女は悲鳴を上げようとしたが、後ろの影はその口に何か布を被せた。メロディが脱力し、意識を失うのと、レヴォルドが躍りかかるのはほぼ同時。空を走った刀が、伸び上がるようにメロディを捕らえた何かに襲いかかった。一撃は首筋を狙った極めて鋭い物で、影は脱力したメロディが想定外に重い事もあり、彼女を離してバックステップし、そのまま身を翻して闇に消えていった。訓練を受けた者の動きであり、またかなり大柄な襲撃者であった。体型からして男性である事は疑いなく、またあの大きさなら闇夜で遭遇すれば魔物と間違える可能性もあり得る。嘆息すると、レヴォルドは地面で気絶しているメロディを起こしにかかった。しかし、揺すったぐらいでは彼女はぴくりともしなかった。呼吸はあるし、脈拍は正常だが、どうしても起きない。
「……即効性の睡眠薬か」
それも極めて強力な、と心中で付け加えると、レヴォルドは舌打ちした。何にしても、この場にとどまるのはあまり安全とは言えなかった。油断無く周囲に気を配ると、レヴォルドはメロディを背負い、急ぎ足で山を下りた。
 
事の次第と山狩りを第一部隊に要請すると、レヴォルドは一旦自警団寮に戻った。そして念入りに診察を行っていたトーヤにも事の次第を告げた。メロディが嗅がされたのは恐らく眠り薬だが、一応専門の医師の診察が必要だと思ったからである。それに、由羅はメロディが襲われた事を聞いて、一発で酔いも醒め果てたようで、冷静な専門家が側にいて太鼓判を押した方がよいだろうとも判断したこともあった。
由羅の話によると、メロディはレヴォルドを追いかけて山に登ったらしい。由羅とレヴォルドが友人である事を当然知っているメロディは、レヴォルドにとっても姪のように可愛い相手だ。無論、遊んでもらうつもりで追いかけてきた事は間違いない。である以上、犯人は許すわけには行かない。あの犯人の実力はかなりの物だが、レヴォルドは機会あれば必ず捕まえる事を誓い、忘れないうちにメモに付け加えた。
その足でレヴォルドはジョート研究所に向かい、最近の研究資料に目を通した。ここはエンフィールドの科学者が一手に集まる場所で、最新の情報も集まってくる。その中で幾つかめぼしい物に目を通すと、今度は魔術師ギルドへ足を向け、同様に資料を集めた。
ふと気づくと既に時刻は夕刻を回っており、クレアに事情聴取する前に一旦レヴォルドは事務所に戻る事にした。当然の事ながら、事務所へ戻った頃には日が暮れていた。そして、レヴォルドは新たな事件の発生を知る事となった。事務所に戻ると、トリーシャが飛び出してきて、レヴォルドに事件発生を告げたのである。
「レヴォルドさん、大変大変!」
「どうした、帳簿の計算を間違えたのか?」
「違う違う! シーラさんに、何か起こったみたいだよ!」
レヴォルドが視線を移すと、そこにはシェフィールド家のメイドであるジュディが蒼白な顔で立っていた。
 
3,暗幕
 
シェフィールド家と言えば、高名な音楽家として知られる家系であり、そこの令嬢であるシーラは自警団第三部隊や、ジョートショップとも関係が深い人物であった。天才音楽家とうたわれた両親のお陰で、シーラは裕福な生活をしていて、周囲の人間にも恵まれており、故に優しくおっとりした性格であったが、二年前にジョートショップの仕事を手伝ってからは視野も広がり、大きく人間的に成長を始めていた。最近は第三部隊に仕事を依頼してくる事や、手が空いているときは手伝う事もあり、関係は強固で深い物であった。
故に、シーラの異変が最初に伝えられたのが第三部隊とジョートショップであった。レヴォルドはしばし考え込むと、一旦事務所へ移り、皆の顔を見回した。
「帳簿は現在どういう様子だ? 昼の仕事は片づいたか?」
「ああ、大体終わったぜ? 巣の撤去も、掃除も、帳簿も片づいた。 報酬はそこにいれておいたぜ」
帳簿の最新部分と納入された金額の確認を行うと、レヴォルドは続けた。
「よし、ではヘキサ、リオ、二人は留守番だ。 時間が空いたら、翌日のスケジュールを練ってくれ」
「おう、まかせとけ」
周囲の皆の顔は一様に緊張していた。レヴォルドは目を細めると、実に堂々とした様子で言い放つ。
「これから私はジュディとトリーシャと共にシェフィールド家に向かい、魔王と化したシーラを暗殺する任務に就く! 乾坤一擲の作戦であり、失敗は許されぬ決死の戦いだ!」
レヴォルドの(冗談)を初めて聞いて石化するジュディと、計ったように同時に吹き出す他の者達。レヴォルドは満足げに頷き、そしていつものように言い放った。
「勿論今のは冗談だ。 これぞフリアイ流暗黒武神剣術奥義! 暗殺・昼と夜!」
強制的に場が和まされた事を確認すると、レヴォルドは事務所を出て、シェフィールド家に向かった。ジュディはまだ脳が痺れているようで、足取りが覚束なく、時々トリーシャに支えられていた。フリアイ流暗黒武神剣術奥義の破壊力を見せつける瞬間であっただろう。
レヴォルドが屋敷に入ると、其処は意外にも普通の雰囲気であった。おそらく一部の者にしか、シーラの異変は伝えられていないのであろう。第三部隊の者が来た事を知って困惑顔で現れた執事に、レヴォルドは真顔で言い放った。
「屋敷に住み着いた暗黒生物(X)を退治に来ました」
「あんこくせいぶつえっくす? な、なんですかなその恐ろしげなものは!」
「特殊な化学薬品によって阿波踊りが出来るようになったネズミです。 危険度SSの魔法生物で、通報を受けて私が捕獲に来たわけです」
実に説得力豊かなレヴォルドの説明は執事を納得させ、混乱の発生を未然に防いだ。そのままレヴォルドはシーラの部屋に向かい、ジュディに断ってトリーシャと一緒に中に入った。
シーラの部屋は天蓋付きのベットこそ設置されてはいなかったが、実にフリルとレースに満ちあふれた空間で、女の子らしい部屋であった。空間が兎に角広く取られている事、床にゴミ一つ落ちていない事、ベットは大きくゆったりとしている事など、穏やかで優しい性格を表すような事象がそこら中に転がっている。箪笥の上には無数のぬいぐるみが鎮座しており、その数は十や二十ではあるまい。
肝心のシーラは、ベットの上で顔を両手で覆い、泣き続けていた。まさかと思ったレヴォルドがシーラに近寄り、耳元に囁くと、結果は案の定であった。
「シーラ、私だ」
「レヴォルドさん? う、ううっ、私、私……」
「まさか、髭か?」
「いやぁあああああああああっ!」
何事かと思ったか、トリーシャがシーラの顔をのぞき込み、彼女が悲鳴を上げた瞬間見てしまった。シーラの口元に威風堂々たなびく、高貴なるカイゼル髭の姿を。
「ぶっ! ぷくぐっ!」
トリーシャはヘキサやディアーナと同じ反応を示した。そのまま部屋の片隅にダッシュで走っていくとうずくまり、自分の肩を抱いて痙攣している。おそらく笑いの発作を必死にこらえているのであろう。それを敏感に悟ったシーラは、ますますショックを受けたようで、泣き崩れた。
「ひどい、ひどいわ、トリーシャちゃん」
「ぷ、ぷくく、あははははははははっ! ごめんなさい、ごめんなさいシーラさん! でも、ボクおかしくって、笑いが、笑いがとまら……ぷくくくっ!」
「その辺にしておけ、トリーシャ。 ドクター・トーヤを呼んできてくれ。 自警団寮か、もしくは医院にいるはずだ」
口元を押さえたトリーシャが、ふらふらと部屋を出ていくのを見送ると、レヴォルドは幾つかの思案を高速で巡らせたようだった。そして、シーラに対して尋問を始めた。
「まず最初に、髭が生えたのはいつだ?」
「今日の夕方よ。 お夕食が終わって、部屋に戻って休もうとしたら、急に……」
レヴォルドはしばし考え込んだ。そして、次なる質問を発する。
「シーラ、昨日は何をしていた?」
「お昼前にお家を出て、セント・ウィンザー教会で小さなコンサートを開いたの。 これはアリサさんに頼まれてたお仕事よ。 その後図書館と公園によって、さくら亭でみんなとお夕食をとって、それからうちに帰って、ピアノの練習を三時間ほどして寝たわ」
「ふむ。 帰り道はどういうルートを通った? この地図で分かるか?」
「ええと、この通りをこう進んだわ。 いつも通るルートだから、間違いないと思う」
レヴォルドはエンフィールドを隅から隅まで把握しており、その地図は頭の中に完全にインプットされている。シーラは意図的に暗い場所や裏路地を避けて帰宅しているが、全て避けていく事が出来るわけでもない。その中の一カ所に目をつけたレヴォルドは、地図上の其処を指し示しながら言う。
「此処を通ったとき、どんな様子だった?」
「えっ? ええと……覚えていないわ」
「出来るだけ詳細に聞きたい。 ……まさかとは思うが、いきなり此処の壁に寄りかかって倒れてたりはしなかったか?」
シーラは数秒の思案の末、はたと思い当たったように手を叩き、レヴォルドの言葉を肯定した。レヴォルドは自分の考えを確信に変えたのだった。
 
一旦自警団事務所に戻ると、リオとトリーシャを家に帰らせて、レヴォルドはヘキサと共にもう一度シェフィールド家に戻った。トーヤが来た事で困惑する執事にレヴォルドは、(暗黒生物X)がシーラに噛みついた事、怪我はたいしたことはない事、もう(暗黒生物X)は退治した事、しかしその子孫がいるかも知れないため後で見回りに来る事、等を告げた。無論最後のは、最終的な処置をするための布石である。
夜はもう大分更けており、外は真っ暗だった。トーヤの話によると、クレアの時と同じ症状であり、命には全く別状無く、感染のおそれはないとの事であった。レヴォルドは礼を言うとそのまま自警団寮に戻り、クレアへの尋問を開始した。隣では、アルベルトが憮然とした様子で、尋問を見守っていた。
「まず昨日、朝はどうしていた?」
「お兄さまを送り出した後、いつものルートで買い物に向かいましたわ」
「どのルートを通ったのだ? この地図だとどうなる?」
「ええと、此処を通って、このお店に」
地図を頭の中で再生し、レヴォルドは幾つかの地点を指さしながら言った。それらはいずれも人気がないか、近くに暗がりがある場所であった。
「この辺りで、不意に記憶が飛ばなかったか?」
「え? ええと……」
「例えば、此処に不意に倒れかかっていたりとかはなかったか?」
クレアはシーラと同じように、はたと気づいて手を打った。レヴォルドは満足げに頷き、そしてアルベルトに言った。
「良し、犯人を恐らく捕縛出来るぞ」
「本当か? よし、早速リカルド隊長に……」
「うむ、隊員を五人ほど借りてきてくれ。 後はパティに声を掛けてきてほしい」
「おう、何でパティなんだ?」
パティは自警団も世話になっている食堂さくら亭の看板娘で、ジョートショップを手伝った経験も持つボーイッシュな女性である。優れた肉体能力を持ち、ジョートショップで働いていて、今は一時的な旅に出ているリーナスの手ほどきで格闘技も収得している。目を爛々と輝かせ、今か今かと次の言葉を待つアルベルト。レヴォルドは余人が聞いたら吹き出すような言葉でそれに応えた。
「うむ、囮だ。 犯人を引っ張り出すためのな」
「ふんふん、て、なんだとおっ!」
「クレア、シーラ、それにメロディ。 今まで被害を受けた、或いは受けかけた者は、皆定期的に人気のない場所を通る妙齢の女性だ。 犯人が何を考えているかは分からぬが、朝ジョギングをしているパティは狙われている可能性が非常に高い。 故に、危険を承知で彼女に協力して貰う」
「……もし、パティが傷物になったらどうするんだ? 第三部隊は解散、程度じゃすまないぞ? 自警団自体が、存亡の危機にさらされかねん」
アルベルトの言葉はいつになく真剣であり、クレアも隣で息をのんでいた。レヴォルドは瞳に自信を宿らせ、そして傍若無人に言い放つ。
「案ずるな、その時は団員全員に無理心中をしてもらうだけだ! これぞフリアイ流暗黒武神剣術奥義! 虚偽心中強制!」
クレアが心労から卒倒した。しっかりしているようで、案外免疫のない娘であった。
 
4,光が差すとき
 
街の裏路地に、三つの影があった。一つは小柄な老人、一つは大柄な男。そして最後の一つは、地面に倒れ、残りの二つから見下ろされていた。
老人はにいと口元をゆがめると、懐から瓶を取り出す。瓶には骸骨をあしらったラベルが貼られており、中には液体がなみなみと詰められていた。大柄な男は、老人のすることよりも、周囲に気を配っているようで、無言であった。老人は瓶を開けると、刷毛を取りだし、舌なめずりをした。
「これで……これで我が野望は果たされる!」
老人の両目から、涙が流れ落ちた。それを拭うと、老人は粘つく液体を刷毛にたっぷりと塗りたくった。そして、倒れている娘に、それを塗ろうとした瞬間、大音声が彼に被さった。
「そこまでだ、凶悪犯・グレイド=ロック博士!」
「な、何やつじゃっ!」
「自警団第三部隊隊長! レヴォルド=フリアイ!」
「むう、街でも評判の変人だな! おのれ、どうして此処が分かった! それに、何故儂の正体が分かった!」
大音声の主が、後光を背負って現れる。そして、数人の自警団員が、路地の前後から現れ、退路を塞いだ。
 
姿を現したレヴォルドの背後には、倒れているパティを心配そうにみやるリオと、唇を噛んで大柄な男と博士を睨むトリーシャ、後二人の自警団員がいた。一方で、奥で退路を塞ぐ方は、アルベルトと、彼が指揮する三人である。レヴォルドは困惑する犯人を見据えると、実に威風堂々と言う。その手には、ショート科学研究所から持ちだした論文があった。
「このところの事件傾向を調べた所、犯人はいずれも妙齢の女性、しかも真面目で決まったルートを通る者を襲っている。 よって、何人かの候補を割り出し、パティ以外の全員に事情を説明してルートをかえて貰った。 そしてパティには監視をつけ、貴様が現れるのを待っていた、という事だ」
「む、むうっ、おのれっ!」
「続いてこの論文を読ませて貰った。 (最強の効果を持つ毛生え薬の研究)」
「毛生え薬っ!?」
その場にいたレヴォルドと、ロック博士、更に隣にいる大男以外の全員が同時に吹き出した。レヴォルドはあくまで冷静に、敵に問いただす。
「何故才能未来ともにある博士が、この様な無体な悪事を働いた! 返答次第では、絶対にゆるさん!」
「だ、黙れっ! 貴様に、貴様などに、儂の苦労が分かってたまるか!」
対し、ロック博士は目に凶熱を宿していた。口のはから泡を飛ばし、彼は叫んだ。隣の大男は、むっつりとただ黙り込んでいる。
「儂のようなフリーの科学者が、研究費を如何に苦労するか分かるか? 儂のような天才が、儂のような天才がじゃぞ、くだらぬ拝金主義者の金持ち共に頭を下げて金を工面しに走り回らねばならん! その上、奴らの言う事を聞き、くだらん発明もつくってやらねばならんのだ! それが如何にプライドを傷つけるか、分かるかっ!」
「分かる。 だが、それが何故この様な凶行につながるのだ!」
「男の夢とは何か知っているか!? 教えてやろう、何年経っても衰えぬ、緑なす美しき髪の存在だ!」
そう叫ぶ博士の頭には、年齢には似つかわしくないほど豊かな髪が茂っていた。うんうんと頷くリオを除く自警団男性陣一同の前で、ロック博士は演説を続けた。
「にもかかわらず、儂の発明したこの究極の毛生え薬(竹中次郎さん)は、さっぱりうれん! 何度も街頭で効果を見せておるのに、愚民どもめ、皆やれ(インチキ)だの(やらせ)だのとほざきおり、我が魂の結晶をバカにしおった! これが相応の評価を受ければ、儂は研究費を自腹から出す事が出来るようになる! そうすれば、儂のような天才が、拝金主義者の呆けジジイ共に頭を下げずにも良い新しい世界が来るのだ!」
「なるほど。 で、それが何故妙齢の女性を襲う事につながる」
「知れた事よ! 我が毛生え薬に不可能はない! そう、女の子に髭を生やす事も可能なほど強力な毛生え薬! この事実が世に知れ渡れば、我が毛生え薬は確実に売れるのだ! そうすれば、我が野望はなる!」
「しれ者が。 その毛生え薬が強力なのは分かったが、同時にその事実が知れ渡れば、お前も逮捕されるのが分からないのか?」
レヴォルドのもっともな言葉に、だが博士は屈しなかった。周囲の者達は、もう既にあまりに世間を超越しきった台詞にさらされ続けて、半分思考停止していたが、この二人は全く思考を乱していないようである。
「些細な事だ。 一度や二度、国家権力に拘束される事など、苦ではないわ! むしろ、その苦は儂の魂をさらなる高みへ昇華させる試練! 喜んで受けよう!」
「そうか、では大人しくお縄につけ」
「断る! モニターが二人では少なすぎる! 最終的には、この街の女性全てに威風堂々たるカイゼル髭を生やしてくれよう! そうすれば、儂の名はこの地の歴史に偉人として永久に刻まれる事になるのだ!」
「いいかげんに……」
博士の下からにゅっと手が伸び、襟首を掴んだ。意識を無くしているかと思われたパティが両目に炎を宿らせ、手を伸ばしたのである。既に睡眠薬の成分はトーヤが分析済みであり、パティは既に解毒剤を飲んでいたのだ。そのまま彼女は隣にいる大男が制止に入る暇もなく、博士を背負い投げしていた。
「せんかあっ! このヘンタイ身勝手男があっ!」
「うがあああああああっ!」
「今だ、全員突撃!」
レヴォルドが生じた隙に乗じて、攻撃を指示し、自らも愛刀を抜きはなって攻撃陣に加わった。
 
パティが隙をついて博士を無力化したが、どうもボディーガードらしい大男は圧倒的な強さであった。つっかかってきたアルベルトを余裕を持って投げ倒し、剛椀を振るって周囲の自警団員を殴り飛ばす。そのまま博士を掴んで逃走しようとする大男の前に、レヴォルドとパティが立ちふさがった。
「にがさん。 悪いが、ここでお縄について貰う」
「……どけっ!」
言葉みじかに大男は言い、手近な自警団員を蹴り飛ばして武器を強奪すると、そのままレヴォルドに打ちかかった。武器自体は標準的な長槍だが、この大男が振るうとそれは魔神の鍛えた武器のようで、その鋭さは周囲を圧倒した。弾かれ、蹈鞴を踏むレヴォルド。
「むうっ!」
「せあっ!」
タイミングを合わせて、側面に回り込んだパティが回し蹴りを叩き付けるが、男には有効打にならない。僅かに蹌踉めいたが、すぐに体勢を立て直して槍を叩き付けてくる。間一髪でそれをかわしながら、パティは叫ぶ。彼女は実戦を豊富に経験しており、その蹴りはただの格闘技マニアのふぬけた蹴りではない。
「うそっ!? 脇腹にクリーンヒットしたのに?」
「パティ、どけっ!」
レヴォルドが叫ぶのと、パティが横に弾かれたように飛ぶのは同時、そして男から死角になっていたパティの背後から飛来した二つの魔法弾が、ガードポーズを取り遅れた男を直撃した。流石に悲鳴を上げ、片膝をつく巨漢。改めてみると、アルベルトに匹敵するほどの大男である。今の魔法弾はトリーシャとリオが息を合わせて放った物で、そのまま攻撃部隊は一気に畳みかける。立ち上がった自警団員が縄を取りだし、アルベルトが男に捨て身のタックルを仕掛けた。体勢を立て直しきっていない大男は、今度は逆にはじき飛ばされ、壁に叩き付けられくぐもった息を漏らした。
「この人数相手に、これだけ戦えるのは大したものだ。 だがこれ以上やるなら命の保証は出来ないぞ。 降伏しろっ!」
「……博士、ここは俺がくい止める。 先に逃げろ」
「けほ、けほっ、すまんな!」
レヴォルドの言葉に、大男は冷静に言った。博士は這うようにして、裏路地へ消えていく。アルベルトが舌打ちして追おうとするが、大男が立ちはだかった。その目には、消えぬ信念の炎があった。
「悪いが、博士は捕まえさせない」
「あんなヘンタイ博士を、どうしてそんなにかばうんだよっ!」
「……恩人だからだ」
トリーシャの言葉に、傷だらけの男は即答して見せた。レヴォルドは嘆息すると、構えを直し、一歩、二歩踏み出した。
「そうか。 だが私も、親友の被保護者を貴様らに傷つけられた。 貴様らを、私は許すわけにはいかない。 行くぞ……」
腰を低くし、そのままレヴォルドは地を蹴った。男も槍を構え直し、一気に地を蹴る。二つの影は閃光を発して交錯し、無限とも思えるときが流れた。
レヴォルドが膝をつく。そしてその背後で、男が崩れ倒れた。刀を振るい、鞘に収めると、レヴォルドは言う。
「フリアイ流暗黒武神剣術奥義……ある晴れた日、旅立つ先は墓地」
「恐るべき奥義だな……俺の負けだ」
男は戦う力も尽きたようで、そのまま無言で縛られ、連行されていった。ぼろぼろになっているアルベルトが、レヴォルドに言う。
「逃げられちまったな」
「いや、まもなく捕まるはずだ」
「あん? どういう事だ?」
「何故この場にヘキサがいなかったか、気づかなかったのか?」
レヴォルドが言葉を終えると、クラッカーの音が近くで鳴るのはほぼ同時だった。それと同時に、もう一つに分けられていた別働隊が、縛り上げた博士と共に現れる。ヘキサはいざというときのため最初から姿を消し、博士のすぐ側でその居場所をしらせる役を担当していたのだった。
 
5,解決
 
博士の持っていた解毒剤は実に強烈な効果を示し、クレアとシーラはすぐに元に戻った。また、博士にはショート財団がスポンサーになる事が決まり、それ以降は特に問題も起こしていないと言う。やはり貧困は人を狂わせる、それを示す事項であっただろう。
第三部隊は平常業務に戻り、街には平和が戻った。今回の件で得られた物はさほど多くなかったが、もし解決出来なければ失った物は少なくなかったはずで、少なくとも第三部隊にとっては大きな経験となる事件であった。
この事件について、自警団にそれほど大きな影響はなかったが、一つだけプラスになる事があった。
「おう、レヴォルド」
「アルベルト、どうした。 今は計算中で忙しいのだが」
「アレ見ろよ、あれ」
アルベルトの言葉に、レヴォルドが顔を上げると、博士のボディーガードをしていた男が、団員達に剣技を教えていた。この男は相当に腕が立つ傭兵だったらしく、戦場から瀕死で逃れてきた所を博士に救われたらしい。現在はあの圧倒的な実力が買われ、出所後は訓練不足が目立つ新米隊員達の訓練に当たっているようだった。何にしても真面目で律儀な男なので、訓練は厳しく、リカルドも満足げにその様子を見守っていた。
「今度リオやトリーシャも鍛えて貰うとしよう。 必ず為になるはずだ」
「お前、良く平然としていられるな。 彼奴はクレアやメロディに」
「罪を憎んで人を憎むな。 特に自警団員である以上な」
さらりと言うと、レヴォルドは計算に戻った。この隊長が単なる変人なのか、それとも大いなる傑物なのか、未だに判断に苦しむアルベルトは、頭をかき回すとその場を去っていった。
 
……第三部隊はこの後、更に成果を積み重ね、エンフィールドでの評価を、徐々にだが確固たるものへと固めていくのだった。
(続)