八雲紫心労で寝込む

 

序、「最強」の素顔

 

「忘れられた」者達が集う場所、幻想郷。日本のある場所に存在する此処は、結界によって外部からも内部からも壁を造り。一部の妖怪や神々を除けば出入りすることさえ出来ない。

明治時代頃に此処の仕組みは完成し。

現在は賢者と呼ばれる強力な妖怪数名によって管理され。

住んでいる人間達も妖怪もその仕組みを受け入れ。

妖怪は人間を襲い。

人間は妖怪を怖れ。

そして勇気をふるって退治する。

そんな仕組みが未だに生きている場所だ。

少なくとも表向きはそうで。

普通に暮らしている人間は誰も存在を知らない。

文字通りの理想郷。

そうなっている筈の場所なのだ。

その幻想郷の一角にある屋敷。誰も入れないようにしている其処の空間に、裂け目が出来る。

裂け目の両端にはリボンがついていて。

裂け目から出てきた女は、げっそりと窶れていた。

八雲紫。

幻想郷の賢者の一人にて。

事実上、現在幻想郷を運営しているただ一人の妖怪である。

他の賢者は幻想郷を作って以降ずっと寝ていたり。

自分で作った世界に引きこもっていたり。

幻想郷を管理する気が無かったり。

ほぼ全員が。

幻想郷の管理業務を、紫に押しつけている。

そのため負担は尋常なものではなく。

外では得体が知れない、最強の妖怪として振る舞っている紫だが。

家に戻ってくると。

どっと押し寄せてくる疲れにより、それこそ布団に直行してしまうのである。

へろへろになった紫が布団の上でぐったりしていると。

彼女の式神である八雲藍が来て、テーブルに茶を並べる。

彼女は式神だが。

なんと九尾の狐である。

最強の妖怪の一種である九尾の狐に、式神という鬼神を憑依させることによって、式神の人格で動かしているという存在で。

それだけで紫が如何に強大な妖怪か分かる、というものなのだが。

実際には九尾の狐は人間に退治される程度の妖怪に過ぎず。

つまるところ、力の限界は知れている。

西洋などでは、神の強力な敵対者が存在する上、その圧倒的な実力は人間が及ぶところではないと明言されている。

いわゆる悪魔の存在だ。

東南アジアなどでは、原初の恐怖が現役であり。

闇そのものの妖怪は未だに強い力を持っている。

だがこの国では違う。

元々天照大神という圧倒的な最強が存在し、それによって国が平定されて以降。神に対抗できる存在は神話的にも民俗学的にも存在してこなかった。

いわゆる祟り神の類も、基本は祀れば福を為す存在であり。

見た者を族滅するとまで言われているあの夜刀の神でさえ、神社に祀られている程なのである。

唯一天津神に対抗できた神はアマツミカボシくらいで。

それも神話によっては調伏されている。

つまり圧倒的な神々に、最初からこの国の妖怪は対抗できる状態にはなかった。古い古い時代からそうだったのだ。

幻想郷最強。

神に等しい力。

そう言われる紫だが。

実際にはそう言わせるように。

多大な努力をし。

周囲を怖れさせるために。

素の自分を常に隠しているのである。

「藍ー。 甘いのちょうだいー」

「お茶菓子は用意してありますが、食べてすぐ寝ると太りますよ」

「いいのよもう。 脳をこれ以上もないほど酷使してるんだから」

「情けない格好でそんな事を言わないでください。 貴方は蝸牛の妖怪ですか」

ぐだぐだと式神に文句を言われる紫だが。

布団の上でげっそりしている有様は。

確かに蝸牛のようである。

藍に助け起こして貰い。

適当に茶を啜って。

茶菓子にする。

げっそりしている紫は。

ある程度元気が出てくると、愚痴を言い始める癖があるのだが。

今日はその元気も無かった。

しばらくもそりもそりと茶を啜り。

適当に茶菓子を食べる。

なお人間を常食しているという噂がある紫なのだが。

勿論茶菓子は人肉などでは無く。

九州で有名なカステラである。電話番号が有名な方では無い。

カステラをゆっくりゆっくり超スローで食べ終えると。

紫はテーブルに溶けかかる。

紫色を基調とした服。

何故かいつも持ち歩いている傘。

空間のスキマ、正確には境界を概念も含めて操作する能力。

そして充分以上に美しい人間に似た容姿。

いずれも自分を「凄い妖怪」に見せるための小道具。

勿論妖怪としての実力はトップクラスなのだが。

残念ながらこの世界には、神々という妖怪より遙かに強い存在がいて。幻想郷に閉じ込められている妖怪との戦力差は絶望的だ。

既に信仰が廃れた神の中には、幻想郷に移り住んでくる者もいるにはいるが。

信仰が現役の神々には、いわゆる護法神と呼ばれる、人間を悪鬼の類から守る者も存在しており。

そういった連中に目をつけられたら。

それこそ幻想郷なんて、一日で潰されてしまう。

その事態を避けるために。

紫は毎日。

それこそカミソリで出来た綱の上を渡るような苦労を重ね。

心労をいびつな形に積み。

その結果、このように死にかけているのだった。

勿論神隠しした人間を喰いたい放題、などという事はしていない。

そんな事をしたら、一日で殺される。

勿論普通の妖怪や、大した信仰も得ていないような神々に負けるほどヤワでは無いが。

護法神の類は、あまりにも力が圧倒的過ぎるのだ。

そんな圧倒的な連中から、この閉ざされた小さな理想郷を守るため。

今日も紫は、心身を削り、だましだまし働いているのである。

藍が咳払いする。

「そろそろよろしいですか、紫様」

「んー、寝たい……100時間くらい」

「状況に変化がありました」

「……」

紫が上目使いで見るけれど。

少し紫より背が高い人型を取っている藍は駄目、と視線で告げる。

尻尾が九本生えていなければ。

九尾の狐だとは気づけないだろう。

基本的に幻想郷では、妖怪は人型を取る。

強大なものでも。

それに例外は無い。

大きくため息をつくと。

紫は自分の忠実な式に、報告をするように促した。

空間上に絵図が展開される。

術式によるものだ。

「現状の幻想郷の勢力図です。 現時点で人里の人間に被害は出ておらず、結界を通って迷い込んだ人間もおりません」

「それは知ってるわ。 続きを」

「はい」

この幻想郷は結界によって守られているが。

そもそも外の世界で存在を否定された者を守るために結界を張っているのである。

畏怖や信仰を失った妖怪も神々も。

外では生きていけない。

結界が張られたのは500年前。

更にこれが明治時代と外で呼んでいる時代に改良を加え、完成されたのだが。

結界そのものはかなり広域に展開しているため。

どうしてもほころびが出る。

迷い込んでくる人間や動物が希にいるのだが。

それは人里では「余程運良く人里か神社にでもたどり着けなければ妖怪に喰われてしまう」としている。妖怪を恐ろしいものと認識させるためだ。

実際には、結界を通った時点で紫か藍が感知。

人間が気付かないうちに外に放り出す。

実際、幻想郷にいる、特に下級の妖怪は人間を喰う者もいる。ただしそれはあくまで余程運が悪い場合は、であって。

実際には、そういった迷い込んだ人間が埋葬されているとされている無縁塚が非常に狭い事からも分かるように。

年がら年中人間が迷い込んでは。

妖怪に喰われて死んでいる、などという事は無いのだ。

勿論人里の人間には教えない話だが。

そうすることで。

妖怪は人間を常食していると思わせ。

恐怖を煽る。

その畏怖が。

妖怪の存在を維持するのだ。

咳払いをすると。

藍は続ける。

「現時点で活発に動いている勢力は二つ。 守矢神社と聖徳王の勢力です」

「問題が起きているのね」

「はい。 まず守矢神社ですが、積極的に山の妖怪に声を掛けて回っています。 元々山の妖怪の一部は天狗に対する反発から守矢神社にすり寄る傾向がありますが、山童と河童はもうほぼ取り込まれているとみて良いでしょう。 天狗の一部がそれを見て、きな臭い動きをしています」

「守矢の二柱は八咫烏の分霊を操作できるほどの存在。 本気になったら天狗じゃ勝ち目がないわね」

藍が頷く。

幻想郷にある山は、古くに姿を変えたと言われているある山なのだが。

此処は一種の聖域であり。

古くは鬼が支配権を握っていた。

その鬼達が、地上が退屈になったからか地下に去って以降。

主に天狗が山のイニシアチブを握ってきた。

第二勢力としては河童(川にいる場合は河童、陸に上がった場合には山童というが、性質は大差ない)がいたのだが、天狗と河童には大きな差があった。

組織を作る力、である。

河童は恐ろしいほど協調性が無い妖怪で、数だけはいるし、それなりに強い個体もいるものの。何しろまとまりがない。

これに対して天狗は、組織は硬直化しているものの、それなりに個々が強い上に一体がやられれば全部がまとめて報復に来る。

もしも戦いになれば結果は明白だ。

このため天狗と戦いたがる山の妖怪はおらず。

天狗も好き勝手をしていたのだが。

この状況に水を差したのが、外の世界から神社と湖ごと最近になって引っ越してきた守矢神社だ。

神話の時代から名を馳せる強大な武神二柱と、その力を借りた風祝。つまり現人神ともいえる巫女によって守られたこの守矢神社は、現状では天狗に不満を持っていた妖怪達を抱き込んで信仰を獲得しており、更に人里にも積極的に信仰獲得の手を伸ばしている。当然二柱の実力は圧倒的で、紫でも迂闊に手出しが出来ないほどだ。スペルカードルールというお遊びに乗ってくれなければ、幻想郷の最大戦力である博麗の巫女でさえ、手に負えないかもしれない。

そして天狗は天狗で、非常に硬直化した組織が若い者と年老いた者の間に対立を産んでおり。

現状天狗の最大戦力である射命丸文に至っては、基本的に裏で何を考えているかまったく分からない有様である。

「今後も警戒を。 まあ天狗が潰されるのは別に構わないけれど、守矢があまりに勢力を伸ばしすぎると厄介よ」

「幻想郷を乗っ取られる、ですか?」

「そういうこと」

「分かりました。 注意を払います」

現在守矢の巫女はどこか抜けているところもあるまだ青臭い小娘だが。

小娘はいつまでも小娘では無い。

そもそも人間どころか、奇蹟を行使する半人半神とも呼べる存在であり。普通に空も飛ぶ。

幻想郷に来てからは、加速度的に戦闘経験を積んで成長している。

現状は武神二柱が守矢の主導権を握っているが、この巫女の成長次第では厄介だ。

次、と促すと。

藍が画像を切り替えた。

聖徳王。

いにしえの時代の伝説の王である。札になった事もあるほどの有名人だが。近年外の世界で存在を否定する言説が出たことで、なんと仙人化した本人が幻想郷に手下と一緒にきた。まあ具体的にはその過程で色々あったのだが、兎に角状況はほぼそんなところだ。

現在紫が一番警戒しているのは。

他ならぬこの聖徳王だ。

伝説と違い女性である聖徳王は、仙人として積極的に里に声を掛けており。

他の勢力の有力者や、力がありそうな妖怪にも積極的に粉を掛けて回っている。

何しろ頭が回る上に、非常に優れた政治手腕の持ち主である。

人里が望むなら。

自分が為政者として降臨しようと提案した事もある。

これが一番困る。

幻想郷のイニシアチブを握っているのは妖怪で無ければならない。

理由は簡単で。

究極的に見れば、人間にとって妖怪は「いらない」のである。

自分の天敵になる妖怪がすぐ身近にいる事を好まない人間は、幻想郷の人里でも珍しくはない。

そして人間の行動次第では。

大惨事が簡単に起こる。

例えば最近山彦という妖怪が壊滅的な被害を受けて絶滅危惧種になったが。

これは人里で、「山彦は迷信だ」という噂が流れたからである。

それだけで弱い妖怪は致命傷を受ける。

そういうデリケートな場所が幻想郷であって。

人間の扱いを最も心得ている聖徳王は、その本人の仙人としての実力も非常に高い事もあり。

今、もっとも目を離してはならない存在である。

「また人里で、数人の弟子を取った様子です。 妖怪の中にも、彼女の麾下に入るものがまた数名出ております。 影響力は確実に伸びていて、このまま勢力を伸ばすと面倒な事になるでしょう。 里に彼女が現れると、相談をしに行列ができる程信仰も伸びているようでして」

「……拡大政策を更に続けているようね」

「命蓮寺は人里をコントロールしようとしていないからまだ良いのですが、聖徳王はあからさまにそれが見受けられるのが問題ですね」

「そうね。 さてどうしたものかしらね」

頷くと。

今後も監視を続けるように指示。

一応人里の首脳陣は紫が把握しているが。

聖徳王の行動次第では。

幻想郷が一気にひっくり返りかねない。

人里には紫のスパイとなっている人間や、人間に有益な妖怪も住み着いているのだが。これらが逐一情報を知らせてくる。

少し前には、人間がイニシアチブを握る外の世界に憧れるあまり、幻想郷での支配者階級である妖怪になろうとした易者が問題になったが。

実際問題、大なり小なり、管理されている事を快く思っていない人間は珍しくもないのである。

後は細かい報告を幾つか聞いた後。

風呂に入って、ゆっくり眠る事にする。

紫は一日12時間以上寝るのだが。

これは心労が酷いからだ。

毎日のようにその気になれば一瞬で幻想郷を滅ぼせる外の世界の神々の動向に気を払い。

更に幻想郷の足りない物資も調達しなければならない。

パワーバランスの監視も必要だし。

かといって、平和になりすぎると色々と困ったことも起きる。

他の賢者達はお世辞にも仕事をしてくれるとは言いがたいし。

文字通りのやりたい放題をしている上、その気になれば幻想郷を滅ぼせる実力者も何人かいる。

こんな状況で。

心労が溜まらない筈も無い。

そして疲れ果てている時に見る夢が、良い夢である筈も無い。

起きた。

目を擦りながら、朝食を用意している藍に聞くと。

案の定うなされていたという。

さもありなん。

さて、今日も。

嫌で嫌で仕方が無いけれど、幻想郷の外にもお出かけして、色々としなければならない。

 

1、幻想郷の台所事情

 

八雲紫には幾つも噂がある。

人食いの妖怪だ。

神隠しをしては、たくさんの人間を喰らっている。

冬眠のために大量の人間をさらい、蓄えている。勿論冬眠するときに食べるためだ。

幻想郷にある紅魔館という建物に住んでいる吸血鬼のために、生きた人間を提供している。

等々である。

これらの噂は、実のところ全くの事実無根では無い。

昔は。夜が力を持っていて。闇を人間が怖れていた頃は。

妖怪はもっと大手を振って存在していた。

現在では、幻想郷の外では、神格持ちだったり、伝説になっている大妖怪くらいしか存在できない。

神々との力の差は圧倒的で。

昔のように振る舞う事は出来ないのが現実だ。

幻想郷を出ると。

紫は空間の境界を操作し。

ある病院に向かう。

この病院は。

幻想郷における食糧調達のために、絶対に必要な拠点の一つである。

まず第一に。

幻想郷では食糧を一とする物資が足りていない。

妖怪の数に対して、食糧が足りないのだ。

人間の恐怖を糧にするタイプの妖怪ならばいいのだけれど。

肉を食べないと死んでしまう妖怪もいる。

人肉だけしか受け付けない、という偏食家は流石にいないのだが。

それでも、たまには人間の肉を食べたいという妖怪もいる。

そしてここからが重要なのだが。

護法神の類は、そういった妖怪を絶対に許さない。

幻想郷にたまに査察に来る護法神は、人間を殺して喰らった妖怪がきちんと退治されたかどうかを、念入りに確認していく。

もしこれが出来ていない場合。

一柱でも幻想郷の妖怪が束になってもかなわない護法神が、群れを成してジェノサイドにやってくる。

幻想郷を作っている結界も、上位の神々の力の前には意味を成さない。

上位の妖怪でさえ、結界を通る事が出来る者がいるくらいなのだ。神々の実力を考えれば当然だろう。

結論からいうと。

護法神が納得する方法で。

合法的に人間の肉を含む物資を手に入れなければならない。

勿論人間が拒否するのも駄目だ。

其処で、紫が考えたのが。

このシステムである。

此処はとても評判が良い病院で、多くの患者が通っている。良心的な経営、腕が良い医者、献身的な介護。看護師達や医師の待遇もとても良い。此処に紫が出資しているのを知っているのは、一部の経営者と神々だけだ。

此処は薄暗い倉庫。

山のように物資が積まれている。

紫が音も無く姿を見せると。

今日来ることを知っていた経営者が一礼した。

まだはな垂れの頃から知っている医者だが。

今はすっかり頭のはげ上がった老人だ。

「いつも出資ありがとうございます、八雲様」

「いえ。 それでは物資の確認をさせてもらえるかしら」

「此方です」

頷くと。

紫は手に持ったリストと、薄暗い倉庫に積み上げられた物資を見比べ、チェックをしていく。

こればかりは他の者に任せられない。

紫は頭脳に関しては相応のものがあり。

幻想郷では意味不明な計算能力があるという事にしている。

実際にその辺のスパコン程度の能力はあるので、物資を確認しながら計算していくのは簡単だ。

チェック。

チェック。

またチェック。

主に此処に積まれているのは、病院に納入された後、本来は廃棄されることになった筈の物資だ。

病院では栄養面を考慮して、様々な食物が必要とされるし。

賞味期限が切れれば容赦なく廃棄もする。

だが賞味期限が切れても、食べられなくなる訳では無い。

此処にあるのは、そういう「病人には出せない食糧」である。

肉。

野菜。

魚。

いずれも加工されているものばかりだが。

栄養価は充分。

妖怪にしか基本的に回さないが。

それは人間が、この仕組みに勘付くと困るからである。

更に言うと、弱い妖怪は基本的に飢えている場合も多い。

人間の恐怖しか食べられないような偏食家はどうにもならないのだが。それ以外の妖怪には、紫が手を回して、こうして入手した食糧を引き渡す。

その正体を知らないまま妖怪達は、感謝しながら餓えを満たす。

そして紫に忠誠を誓う。

食品類は問題なし。

続いて消耗品類も確認する。

妖怪の中には、河童など、優れたテクノロジーをもっている連中もいる。

此奴らは独自技術で色々なものを作り出すが。

無から有は作れない。

病院で廃棄される道具類なども、全て紫が引き取り、これらの妖怪に渡している。その物資は、妖怪が色々といじくって、色々なものを作ったりするのだ。

少し前に守矢神社と人里をつなぐロープウェーが出来たが。

その材料や動力も。

こういった外からの物資が支えている。

そして、此処からだ。

段ボールを開けて取り出したのは輸血パックである。

輸血パックは鮮度の問題があり、あまり長期間保存することが出来ない。

これも破棄するはずだったものを。

紫が引き取っているのである。

本来破棄する筈だった血液だ。

引き取ることには何の問題も無い。言うまでも無いが、吸血鬼用の物資である。幻想郷に住んでいる吸血鬼の姉妹はとても小食で、これくらいあれば一月は充分にもつ。なおこの吸血鬼達、普通に人間が食べるようなものも食べられるので(なんと姉の方は納豆やらタラの芽の天ぷらやらが好物である)、本当に血液が必要なのかは甚だ疑問なのだが。この辺りは契約なので、律儀にやっている。契約を守らない存在は、信頼も得られないのだ。

更にこの吸血鬼姉妹は戦闘能力の観点でも幻想郷での一翼を担う重要勢力でもあるし、あまりないがしろにも出来ない。

幻想郷のパワーバランスを考え。

こういう仕事もきちんとする。

それが大変なのだ。

そして、一番重要な所に入る。

いずれもが。

破損したり。

腐敗しかけたり。

酷く病損している臓器や筋肉などだ。

冷凍保存されているが。

いずれも、カルテと、どのようにして破棄されたか、などが記載されている。

これらが。

幻想郷で、どうしても人間の肉を必要とする妖怪の腹に収まる物資である。

病院では献体という制度があり。

特殊な病気で亡くなった人間を本人や家族同意で調査する場合がある。

その際、基本的に調査した後の遺体は全て丁寧に縫い合わせ、元に戻すのだが。

破損が酷い箇所や。

病損している場所などは。

衛生的な観点から、破棄するケースがある。

今回引き取るのは。

その破棄する筈だった人体の一部だ。

本来は焼却処分するのだが。それを焼却しないで有り難く活用するのである。

勿論献体の時点で本人が納得しているし。

そもそも遺体から掠めた訳でもない。

カルテと状態をチェックして。

念入りに確認をしていく。

これらも護法神が目を光らせていて、もしもちょろまかそうとしたりしたら、何をされるか分からない。

故に不正がないように。

紫の方が、必死に目をこらして、チェックをしなければならない程なのである。

幻想郷の大妖怪が。

実際にはこんなちまちました仕事をし。

神々にも人間にも滅茶苦茶気を遣い。

どちらにも失礼がないようにしながら。

どうしても必要な物資を、誰もが納得する方法で入手するために頭と胃を痛めている。

こんな事実は身内以外には知らせる訳にはいかないし。

知った場合は忘れて貰う事になる。

具体的な方法としては、境界をいじる事になる。

まあ相手が紫以下の実力者だったら、これくらいは難しくない。

「ありがとう。 今回もリスト通りの物資がしっかり揃っているわ」

「いえ。 此方こそ、八雲様の支援で本当に医師も看護師も、患者のみなさんも笑顔でいられます。 あれほどの金額の支援が無ければ、助けられない患者の方も多いのです」

「お互いに利があるのが一番よ」

書類にハンコを押すと。

物資もろとも紫は移動。

幻想郷の物資保存に使っている場所へと移った。

誰も周囲にいなくなると。

嘆息。

此処は一種の氷室で。

棚が多数並んでいて。其処に物資を格納していく。

なお作ったのは河童だが。

河童は中に入れない。たまに好奇心から中に入ろうとする河童は手酷く仕置きをしている。此処はある意味で、幻想郷の最アンダーグラウンドとも言える場所なのだ。何とも情けないアンダーグラウンドではあるが。何も血なまぐさい場所がアンダーグラウンドとは限らない。

寒い中、白い息を吐きながら。

紫は黙々と一人で陳列作業を行っていく。

物資をある程度整理し終えたら次の病院に。

紫はこういう物資補充用の病院のスポンサーになっているのだが。大学病院が二つ。宗教法人系が一つ。大型の総合病院が四つ。それぞれに資金援助をしている。

これらは全て目的が違っていて。

大学病院には献体に用いられた人体の破棄部分が多く集まるし。

宗教法人系は色々と面倒な患者が入りやすい。

面倒な分、丁寧な医療と親切な対応を心がければ、患者も大いに感謝する訳で。その分色々と融通が利きやすい。

大型の病院の場合は、兎に角物資がたくさん集まる。

なお金の出所だが。

ある方法で文字通り金を生み出すことが出来るので。

別に気にしなくても大丈夫だ。

更にいえば、別に経済に影響を与えるほどの金を生み出せる訳でも無いので。

外に迷惑を掛けている訳でも無い。

次の病院でも似たような作業を終えると。

てきぱきてきぱきと得た物資を収納していく。

それが終わった頃には。

丁度今日の仕事が完了していた。

 

藍には、基本的に結界と幻想郷内部の監視を任せている。

実のところ、幻想郷を守る壁としての結界の管理者としては、幻想郷の東の端にある博麗神社と博麗の巫女も関わっているのだが。

此奴は戦闘モードになると鬼神のように強い(正直紫でも本気でやり合ったら勝てるか分からない)のに対して、普段はぐうたらで怠け者なので。時々結界を怠けて緩めたりもする。

それも含めて藍には常日頃から監視態勢と、紫への連絡体制を構築させており。

勿論紫が幻想郷にいる間はその仕事を手伝いもするのだが。

普段殆ど眠れない、ブラックな労働を藍にはさせてしまっている。

勿論妖怪だから人間とは体力が比較にならないとはいえ。

代わりがいないブラックな労働のため、いつもうつらうつらしている(しかも無能呼ばわりされている)可哀想な紅魔館の門番と同等か、それ以上の苦労を藍はしていると言える。

物資の回収が終わって幻想郷に戻ってきた紫は。

手に息を掛けて温めながらテーブルに着く。

さっそく藍が茶を出してくれる。

「橙は?」

「特に何も感じないので、問題は起きていないと思います」

「そう」

テーブルで溶けている紫は。

疲れ切った表情のまま茶を啜った。

橙は藍の式神、つまり式神の式神であり。いわゆる猫又に式神を憑依させた存在である。

藍の実力不足を示すように能力はどうということもなく。知能は子供程度で、まあ良くも悪くも無邪気で害が無い存在だ。

一応人間型を取ることは出来ているが、猫としての性質の方が強く出てしまっていることや。

何より能力不足もあって、八雲の姓を名乗ることは許していないが。

藍はたいそう可愛がっているので。

その内に力がついてきたら、八雲姓を名乗ることを許そうかとも思っている。

部下に苦労を掛けているのは、紫が一番良く知っているのだ。

「他の賢者の方々が、少しでも働いてくれれば良いのですが……」

「こればかりは性分よ」

「はあ……」

紫は昔から。

陣頭指揮を執るタイプだった。

遙か前。

月に住んでいる神々に、全盛期の妖怪を引き連れて、喧嘩を売りに行ったことがある。通称月面戦争である。

結果は神々の圧倒的過ぎる力を見せつけられまくって惨敗することになった。妖怪では何をやっても勝てないと、思い知らされることになった。

その当時から、紫はこの国の妖怪の頭領格で。

護法神に勝てる訳も無いのに粋がって悪さを働き、ゴミ掃除のように退治される妖怪達を見て頭を痛めていた。

やがて同士が色々考えた末。

幻想郷に妖怪を集め。

外との軋轢を減らす方法を考えたのだが。

しかしながら、昔の同士も今は事情が違う。結局でーんと構えているだけの奴とか、幻想郷を作った後は寝ているだけの奴とか。自分勝手なことをしている奴とかばかりになり。今でも最前線でせっせと働いているのは紫だけである。

アラームが鳴る。

食糧の配布の時間だ。

食糧の配布そのものは、配下にしている妖怪にやらせるのだが。

此奴らが不正をしないかは。

紫自身が監視している。

更に物資をあの氷室から出すのも紫自身だ。

というわけで、負担は多少減るものの。

結局監視はしなければならない訳で。

苦労は絶えない。

よろよろと腰を上げると。

空間の境界を操作し。スキマを作って、移動する。

藍が何か言いたそうに此方を見ているが。

此奴と同格くらいの式神が十人くらいいたら。

或いは楽を出来るのかも知れない。

しかしながら、それはそれで幻想郷のパワーバランスを崩すし。

何より式神達の監視をする必要も生じてくる。

藍は良く出来た式神だが、万能では無い。

九尾の狐+αだから超凄いかと思えるかも知れないが、やはり所詮は人間に退治される程度の妖怪なのである。

時々おっちょこちょいもやらかすし。

失敗をして折檻をする必要が生じる事もある。

スキマを出ると。

紫は、既によそ行きの。

うさんくささ全開で。

得体が知れない表情を作っていた。

控えているのは、古くから紫に仕えている妖怪達だ。いずれも古い時代の妖怪で、中には具体的な伝承が失伝してしまった者もいる。名前と形だけが残って、正体がよく分からない妖怪は、もはや幻想郷でしか存在できないのだ。

彼らも人型を取っているが。

それは幻想郷でのルールだから、である。

物資とチェック表を渡し。

誰にどれだけの物資をどう渡すかを、その場で確認する。

流石に最低でも数百年、或いは千年以上生きている妖怪達だ。

それくらいは出来る。

勿論此処に積んでいる食糧にしても物資にしても、幻想郷では貴重なものばかりだ。

紫の配下だと分かっていても。

襲おうとする妖怪はたまにいる。

そういうときのために、渡している荷車には監視の式神もつけている。

「物資の輸送を開始しなさい。 念を押すけれど、紅魔館の事実上の主は本当に厳しいから、注意するように」

「分かりました、紫様」

「それでは行きなさい」

傘で地面をついたまま。

紫は表情を変えず見送る。

まあ何かあった場合も。

殺すまではやらない。

とても怖い目にはあわせるが。

其処までだ。

実際問題、こんな状況で、「気に入らないから」などという理由で部下を殺すのはただの阿呆である。

流石に長い時を経ている紫だ。

その愚行が、如何なる代償をもたらすか位は熟知している。

妖怪達がいなくなると。

後は監視の式とのリンクを保ったまま、屋敷に戻る。

そして、布団に倒れ込んだ。

藍が苦言を言うが。

胃がきりきり痛い。

「永遠亭印の胃薬をちょうだい」

「またですか。 彼処に借りを作るのはあまり……」

「いいのよ。 利用できるものは何でも利用しないと」

呆れた様子で藍が粉薬をもってくる。

腹立たしい事に。

彼処に住んでいる奴は、無茶苦茶良く効く薬を作る。

何となく紫の苦労も知っているようで。

たまに様子を見に行くと、形容しがたい笑顔をされる。

大変ね、と。

少し負担を減らす方法を考えたらどうかしら、と言われた事もある。

だが正直な話。

そんな方法があるのなら。

紫の方が教えて欲しいくらいである。

粉薬を飲む。

死ぬほど苦くて涙目になるが。

文字通り良薬口に苦しである。

耳に甘い言葉があまり良い効果を及ぼさないように。

甘くて体にも優しい薬は、当然効きも悪い。

またテーブルで溶けていると。

藍がプリンを持ってきた。

「さぞやお疲れになったでしょう。 外のコンビニで発売された最新製品らしいですよ」

「あら、コンビニの品とは思えないほどの豪華さねえ」

「山の仙人が面白がって買ってきました」

「……そう」

山の仙人は、聖徳王とは別人で、別の意味で大変厄介な存在なのだが、まあそれはおいておく。

この間(多分)あいつのせいで、セイヨウタンポポが幻想郷で繁殖しかけて大変な事になりかけたのだが。

その時も、紫が泣きながら一本一本全部駆除し。

更にそれとなく噂を流して日本タンポポの一部ごとセイヨウタンポポを必死に駆除するという涙ぐましい努力を行った。

このプリンは確かにおいしいが。

このくらいでは代わりにはならないだろう。

まあでも美味しいのは事実だ。

少し機嫌も治ったし。

おなかがいたいのも少し収まってきた。

丁度良いので。

眠る事にする。

普段はころんと眠れるのだが。

心労が酷すぎる場合は眠れなくなるので。

睡眠導入剤を使う。

勿論永遠亭印なので。

藍にくどくど文句を言われるので、余計にストレスが溜まるのが悲しくてならない。

そして当然のことながら。

見るのは悪夢だ。

また誰かが何かやらかして。

幻想郷が崩壊しかける。

紫は奔走してやっと犯人を突き止め。

コタツで茶を啜っている博麗の巫女に犯人を教える。

後はすっ飛んでいった博麗の巫女が、犯人をぶん殴るのを見ていれば良いのだが。彼奴は兎に角やり過ぎるので、見ていて冷や冷やする。しかし幻想郷のルール上、妖怪を退治するのは人間であるのが好ましいため、黙って見ているしか無い。紫が直接手を貸すのは、余程の事態の時だけだ。

博麗の巫女が犯人に拳骨をくれた後も油断は出来ない。

実際問題、やらかす奴は。

反省なんて簡単にしない場合も多い。

以前幻想郷を文字通り潰し掛けた不良天人に至っては。

退治されるのを面白がっていたばかりか。

最後は幻想郷を丸ごと遊び半分で倒壊させようとしかけた。

そういう事もあるので。

心配だから後始末まできっちりやらなければならない。

これが面倒くさい事この上ない。

起きる。

全身にびっちり冷や汗を掻いていた。

散々悪夢を見たのだろう。

藍が遠い目で此方を見ていた。

「夢の中でまで、異変解決に奔走なさらなくても良いのでは」

「またそんな夢を見ていたのね……疲れが取れないわけだわ」

「もう少しお休みになられては」

「いいえ、流石に十二時間寝たし充分よ」

のそのそと起きだす。

今日も紫は。

眠った分は、働かなければならないのだ。

例え疲れが一切取れていないとしても。

 

2、天秤

 

藍に状況説明を受けてから。

幻想郷の彼方此方に、見落としが無いか様子を見に行く。

とはいっても、重要地点と必要がある場合以外では、紫自身は直接姿を現さない。

彼方此方の境界を操作し。

のぞき見するのだ。

とはいっても、紫自身の力には限界がある。

例えば守矢神社の二柱のテリトリーは、強すぎる神の力が充満しているため、紫の力でもスキマをこじ開けることは出来ない。他にも何体か、紫の干渉を受け付けないくらい強い奴が幻想郷にいる。

そういう場合は。スキマ以外の手を使う。

いずれにしても、監視は常に怠れない。それくらい此処は問題児が多いのだ。

幻想郷は。

一時期平和になりすぎた。

良い意味でも悪い意味でも争い事を好む鬼達が、皆地底に去ってしまったほどに、平和になってしまったことがある。

それはそれで良い事なのだが。

其処を外来種である妖怪、吸血鬼に隙を突かれた。

通称吸血鬼異変である。

この際、現在山で最強を気取って好き勝手をしている天狗達を含めて、平和ボケした妖怪達は殆ど吸血鬼の軍門に降ってしまい。

あと少しで幻想郷は吸血鬼の支配下に置かれる所まで陥った。

その時、仕事をしない他の賢者にかわり。

吸血鬼にきつい仕置きをしたのが紫である。

結局の所、吸血鬼を倒した後、紫は痛感したのだ。

幻想郷には複数の拮抗した勢力が必要で。

それぞれが仲良くしすぎず。

争いすぎず。

小競り合いや問題が適度に起きる程度が好ましいと。

だが、そのために、様々な勢力を取り込んだ結果。

幻想郷は逆にカオスになりすぎた。

今、湖畔で、帽子を被った女の子が釣りをしている様子を確認。

丸い帽子には桃がついていて。

腰には尋常では無い力を持つ剣を帯びている。

通称不良天人。

比那名居天子である。

元々聖人や修行をした人間が招かれる天界に。何の苦労もせず、単に仕えていた一族が功績を評価されて天界に招かれたという理由で、一緒に天界に迎えられた者の娘。人間時代は地子という名前だった。

現在、幻想郷でも上位に食い込む力がある存在の一人で。

面倒事を大喜びで引き起こし。

更に何の反省もしない最大の問題児である。

天界は基本的に極めて平和で、歌って踊って毎日を過ごすくらいしかやる事がなく。

人間として普通の感性のまま天人にされたあげく。

不良天人と一方的に言われ続けたこの娘は。性格が歪みに歪んでいる。

根は素直な子だというのは分かっているのだが。

自分とは何の関係もない所で運命に翻弄されたあげく。

不良呼ばわりされて孤立したら、それは年頃の娘だったら性格だって歪んで当然だろう。

その上天界には神の食物に等しい仙果(帽子についている桃である)が生えており。

これを食べるだけでもの凄く強くなる。

普段から遊んでいるだけなのに。

桃を食べているだけでクソ強い。

そんな存在が。

幻想郷でも受け入れられる筈も無い。

退屈な天界を飛び出し。

幻想郷にいついた天子は。

かくして誰からも嫌われ。

誰からも理解されず。

地震を自由自在に起こすという凶悪な能力を振り回し。

更に本人も生半可な妖怪では手も足も出ず、下手をすると紫でさえ勝てるかかなり怪しい実力をもてあましながら(実際前に本気で仕置きしたときはかなり危ない勝負だった)。

何か面白い事がないか探しながら。

幻想郷をふらついている、という超危険分子と化している。

こんな危険分子が、一度本気で幻想郷を滅ぼそうとしたのだが。

その時でさえ紫は殺さず許した。

外の神々でさえ、此奴を殺す事には文句を言わなかっただろうが。

それでもやらなかった。

実際には天子が極めて孤独で、しかも本人の責任外で性格が歪みに歪んだことや。

こんな奴でも一応心配しているお目付役(※血縁者ではない。血縁者は殆ど腫れ物扱いしている)がいる事。

更には、幻想郷に適度に問題を起こす存在として有益だと言う事から。

紫は現状監視に止めている。

なお天人は釣りが趣味であり。

天子もそれには変わりが無い。

もっとも、釣りをしていても。

釣れている様子は全く無いが。

嘆息する天子が。

周囲に誰もいないのを確認してから、目を拭うのを紫はスキマから見た。

まあそうだろう。

あれの不幸な点は。

周囲に翻弄されて。

望まずにこんな状況に置かれてしまった、と言う事だ。

かといってやって良い事と悪い事があるわけで。

監視は続けなければならない。

まああの様子だと、しばらくはもめ事も起こさないだろう。

別を見に行く。

次は吸血鬼の姉妹が住んでいる紅魔館だ。

すぐに気付いたこの館の事実上の主。

メイド長という事になっている十六夜咲夜が姿を見せる。

この咲夜、一応人間と言う事になっているのだが。

時間を停止させる能力を持っている他。

空間をある程度弄る力まで持っており。

更にたかだが人間の筈が。

主の吸血鬼姉妹(500歳前後)に全権を一任されており。

むしろ主達が幼い事を理由に。

事実上紅魔館の全てを取り仕切っている。なお名前も与えられたものらしい。出身も幻想郷では無い。そもそも紅魔館そのものが幻想郷の外から来た建物なのだが。

いずれにしてもこの謎のメイドが本当に人間なのか。素性はどうなのか。この辺りは紫も知らない幻想郷の不思議の一つだ。

昔色々あったから紅魔館とは幾つかの契約をしており。

血液や食品の譲渡などもその一つ。

この館には、主人である吸血鬼姉妹の他にも、寿命を捨てた魔法使いや、拳法を極めた門番など、当然人間の寿命では測れない存在が何名もいるのに。

どうして咲夜が全幅の信頼を置かれ。

此処を取り仕切っているのかは、最大の謎とされている。

更に言うと、此処の吸血鬼は咲夜に全幅の信頼を置いており。

咲夜も絶対の忠誠を誓っているため。

むしろ色々契約している以上、利害の一致もあって話はしやすい。

軽く庭の隅で話をする。

咲夜は一応十代後半から二十代前半くらいの銀髪の女性に見えるが。

メイド服の着こなしも完璧で。

立ち振る舞いにもまるで隙が無い。

完璧で瀟洒、などと呼ばれているらしいが。

それもまあこの立ち振る舞いの前には頷ける話ではある。

「血液の提供をいつもありがとうございます。 お嬢様方も満足しておいでです」

「何か問題は起きていない?」

「特には。 紅魔異変以降、妹様も驚くほど落ち着かれましたし、命蓮寺の住職が時々来るようになってからは、自主的に外に出ることも増えたようです」

「そう」

吸血鬼姉妹は、色々と便利だ。

姉の方、レミリア=スカーレットは性格がアグレッシブで、社交性が強く、人里とも比較的積極的な関係を持っている。

人間相手のイベントを行い。

人を集めて儲けたりしている時点で。

人里から此処に人が来る事を意味しており。

吸血鬼らしく人間を襲い。

自らのしもべとしてしまうような事を、今は此処の吸血鬼が行っていないことを示している。

事実必要な血の量はごくごく少なく。

輸血パックの量で不満を零された事は一度もない。B型が好みだとか文句を一度言われた事があるが、それくらいだ。

更に紫との契約の結果。彼女は異変解決時の実働戦力として、咲夜もろとも出る事もある。

元々の地力が高いため、そうなると博麗の巫女だけでは対応が難しいような事態でも。

手数を増やして対応出来る。

問題は、妹の方。

フランドール=スカーレットだ。

此方は持っている能力が危険極まりない上。

精神が不安定で。

昔はそれを自覚していたからか。

殆どこの屋敷から出ず。

半ば軟禁されていた、という噂もある。

以前この紅魔館が殆どお約束通りに問題を起こしたとき。

まとめて博麗の巫女が解決したのだが。

その時以降少しずつフランドールの状態は改善しており。

最近は立場が弱い妖怪に手をさしのべる事を教義にしている命蓮寺の住職が、レミリアに招かれてフランドールと接している事もあり。

自発的に外に出たり。

或いは自分の不安定な精神をどうにかしようと、努力を続けているそうだ。

ただ、咲夜の言う通り、今の時点では問題が起きていないと言う事は。

特に何も無いだろう。

そういえばこの紅魔館だが。

人里では爆発事故が絶えないという噂がある。

なんでそんな噂が流れたのかは紫も知らないのだが。

咲夜から、爆発事故が起きたという話は聞いていないし。

実際に起きたとしても、此処には多数の実力者が存在している。

大した問題にはならないだろう。

幾つか話をした後視察もする。問題は無し。

話を終えたところで、別を見に行く。

今度は竹林だ。

この竹林の奥には。

永遠亭と呼ばれる場所がある。色々と困った場所なのだが、行かないといけない。

この竹林には、ある特殊な能力持ちの妖怪が、強力な能力を展開しており。

下手をすると神々でさえ近づくことが出来ない。

これには色々と理由があるのだが。

現在では永遠亭は幻想郷で中立の立場を維持。

人里で病人が出ると、此処の管理者が出て手術をするし。

薬を良心的な値段で売って、人里にて大変好評だ。

また、昔はこの竹林ではある理由から戦闘が絶えなかったのだが。

今では比較的静かで。

戦闘を行っていた片割れは。

人里の方に住処を半ば移し。

其処で自警団員に技や術を教え、鍛えている。

竹林にスキマを開けると。

それほど時間をおかず。

姿を見せた人影がある。

外の世界で言う、女子高生の制服のような格好の女の子。

長い髪の毛が綺麗だが。

頭から生えているウサギの耳が印象的だ。

長い名前の持ち主だが。

通称鈴仙とだけ呼ばれている。なおレイセンと読む。本名については非常に長いのだが、色々ややこしいので、割愛する。

ちなみに彼女は人間では無く。

月に住んでいる玉兎と呼ばれる種族である。今は月に住んでいないので、地上に住んでいる妖怪兎、とでもなるのだろうか。

在来種である地上の妖怪兎とは出自からして種族が違っているのだが。

現在では地上で暮らす努力をしていてかなり馴染んでいる。変装して人里に出向き、仕事をすることもあるようだ。

ただ玉兎とはいえ、元々色々とストレスに弱い「兎」である事には代わりは無く。

しかも様々な理由から永遠亭には絶対服従。

更に此奴の形式的な部下は上司の言う事なんか絶対に聞かない上に、幻想郷でもトップクラスの腹黒。とどめに年齢も実権限も圧倒的に上。

これだけでもストレスが激甚なのに。

本人がもと軍人で。

戦闘力が高いという事もあって。

永遠亭が異変に関わった場合は。

実働戦力として「一人」かり出される。

彼女のストレスは耳に出るのだが。

いつもくしゃくしゃになっている様子から。

紫は此奴が自分と同レベルの苦労人で。

いつも悲惨な目にあっているのだなと。

何となく臭いで分かるのだった。

「何用ですか、幻想郷の賢者」

「ふふ、賢者は私だけではないのだけれどね。 何か問題は起きていない?」

「問題……」

黙り込んだ鈴仙。

しばらくぶるぶるした後。

遠い目で、横を見た後。

やっぱりくしゃくしゃの耳で答えた。なお表情がなく、目に光もない。

「外の方に言うような問題はあまり起きていません」

「大変そうねえ」

「朝から劇辛のまんじゅうをあいつに食べさせられるわ、落とし穴に落とされるわ、お師匠様にあいつが生意気な口を叩いたりするわ、私がそれで教育がなっていないって怒られたりするわ、言うことを聞かないあいつをどうやって教育したらいいか分からないわ、いきなり貴方が現れたりするわ、それくらいです」

「……胃薬調合して貰ったら?」

このままだと泣きそうだなあと思ったので、切り上げるとする。

それにしても相当溜まっている。

幻想郷では、夢を司る存在がいて。夢の世界が存在していて。

抑圧された人格がそこにいたりする。

一時期、この「夢の自分」が現実に出てくるという事件が起きたことがあったのだが。

その時に出てきた夢の鈴仙は、獰猛で凶暴で。

普段の鬱憤を晴らすように、手当たり次第に暴れまくっていたという。

そういえば。

山の方で、一時期山彦が、夜雀という妖怪と一緒に、世に不満のある妖怪を集めてゲリラライブをしていた事があったのだが。

その時積極的に顔を出し。

一緒に酒も入れながら大騒ぎしていて。

近所迷惑の通報を受けた命蓮寺の住職に、山彦と夜雀もろともげんこつを貰い。

首根っこを掴まれて、永遠亭に連れて行かれたとか言う話もある。

ちょっとばかり、不満を解消できる要素を準備しなければならないかも知れない。

不満を抱えている妖怪は。

何も彼女だけではないのだから。

そして不満が爆発すると。

大きな問題に発展することも多いのだから。

他に軽く話をし。

アドバイスまでしてから、その場を離れる。

スキマを閉じると。

そっとスキマを開け直して、様子を見る。

誰もいない場所で、さめざめと鈴仙が泣いていた。

あの娘は脱走兵だ。

更に元々仕えていた月の民、つまり神は。

自分と同じ名前をつけた玉兎を部下にして、可愛がっているという話もあると言う。

命からがら此処に辿り着いて。

罪悪感に苦しみながら。

逆らいようが無い上司と。

言うことを聞いてくれない部下の板挟み。そして本当の意味で帰る場所も無い。

更に最近は、あらゆる意味でやばすぎる存在に「気に入られた」という話もあるとか。

色々な意味で。

紫は同情してしまった。

勿論そんなそぶりは見せない。

紫はあくまで、冷静で残忍で、得体が知れない妖怪で無ければならないのだから。

続いて天狗の様子を見に行く。

正確には天狗では無く。

現在天狗の中でもっとも注意するべきだと思っている相手。

鴉天狗の射命丸文の様子を、だ。

普段は三流パパラッチの射命丸だが。

幻想郷最速を自負する高い身体能力と。

天狗に対して支配者階級だった鬼にさえ、ある程度洒落臭い口が利ける実力を有しており。

更に風を自在に操る強力な妖怪である。

紫が知る限り、天狗の長である天魔と同格の実力者で。

スペルカードルールでの決闘ではなく実戦を行った場合。

経験が豊富な射命丸の方が強いかも知れない。

滝の側に立っていた射命丸は実力者らしく。

紫の到来にすぐ気付いた。

「あやや、幻想郷の賢者様が何用です。 取材を受けてくれるのですか?」

「良いでしょう」

「ではでは」

にこにこと、機嫌が良さそうなアルカイックスマイルを作り、メモ帳とペンを取り出す射命丸。カメラは既に首から提げている。

行者スタイルの格好をしているが、一応女の子の姿をしている、幻想郷の妖怪らしい妖怪である。

笑顔を作るとそれなりに可愛らしいし。

書く文字も相応に可愛い。

何度か取材を受けたことがあるが。

此奴は現状に対する不満と自身の野心を。

自分でも三流と自覚している新聞を作ってばらまく事で。

発散している節が見受けられる。

実際取材をしているときは楽しそうだし。

此奴がマジギレするのは、取材を邪魔したときだ。

つまるところ、相手が嫌がっていようがどうであろうが、取材は此奴にとっての精神的な安全弁であり。

それによって、現状の不満をある程度解消している、と言う所なのだろう。

適当に質問を受けたので。

当たり障りがないように答える。

逆に幾つか質問をするが。

流石に老獪。

尻尾は見せない。

だが、此奴が、隙さえあれば天魔の首を掻こうと狙っていることは、紫も把握している。時々様子を見に来るようになった事の意味も、老獪な此奴は理解している筈で。敢えて無言で圧力を掛けているのも分かっている筈だ。

「助かりました。 最近記事のネタに困っていましてね。 賢者様への独占インタビューなんて、新聞記者としての腕が鳴りますよ」

「下手な事を書いたら許さないわよ」

「この清く正しい射命丸、自分の筆が汚れるような事はいたしません」

嘘つけ。

まあいい。

腹の探り合いを此奴としても意味がないし。

まだ此奴は紫の掌の上にいる。

後は、博麗神社か。

スキマを開けて見に行くと。

彼女は。博麗の巫女は縁側で、退屈そうにまんじゅうを頬張っていた。

赤いリボンが鮮烈な印象のある、紅白で構成された巫女服を着込んだ彼女は。普段は極めて怠け者だ。

その代わり戦闘モードに入ると容赦が無く。

その実力、幻想郷の治安維持要員としての博麗の巫女としては、歴代最強とも言われている。

当然、紫が来たことにもすぐに気付いた。

「何か異変でも起きたの、紫」

「いいえ、定時見回りよ」

「それなら賽銭箱に少しは入れて行きなさいよ。 ただでさえ妖怪神社なんて言われて、誰も来ないんだから」

「生活には困っていないでしょう?」

不機嫌そうにしている博麗の巫女は。

顔の造作は良いし。

普通にしていれば可愛い女の子だ。

妖怪にさえ怖れられる圧倒的な戦闘力と。

戦闘モードに入ったときの情け容赦ない見敵必殺ぶりで怖れられてはいるが。

それでも普段はぐうたらさが目立つくらいで。

其処まで恐ろしい奴じゃあ無い。

ただこの子の心は孤独で。

絡んでくる人間や妖怪には相応に接するが。

去って行く相手にもまったく興味を見せない。

実のところ、誰も友人と思ってはいないのではないか、という藍の分析も聞いた事があるが。

紫はそうは思わない。

言動や戦闘力は人間離れしているが、この娘には相応に人間らしい所もあるのだ。

なお貧乏なことで知られる博麗神社だが。

それはあくまで賽銭が入らないから。

博麗の巫女本人には、妖怪退治人としての最強戦力として、里からある程度の補助金が出ているし。

妖怪や人間としての友人(本人がどう思っているかは別として)が、色々とものを持ち込んでもくる。

故に自由に出来るお金はあまり多くは無くても。

相応に豊かな生活をしているのが事実だ。

「ほら、少し入れておいたわよ。 でも自分でも賽銭箱が満たされるような努力は少ししなさい」

「いやあよ、努力なんて」

「そう」

博麗の巫女は努力を好まない。

というか、努力を殆どしないでこれだけ強い。

此奴が努力をし始めたら、どれだけの戦闘力になるのか、見当もつかない。

或いは幻想郷を単独で滅ぼせるくらいに強くなるかも知れない。

いずれにしても、彼女は問題を起こすことは無いだろう。

見回りを他にも何カ所かすると。

屋敷に戻る。

屋敷に戻ると、藍が茶を用意して待っていた。

「見回りお疲れ様です、紫様。 何か問題はありましたか?」

「いいえ。 明日は神々の所に出向かなければならないから、そっちの方が余程大変ね」

「……そうですね」

「レポートのチェックをもう一度しておきましょうか」

茶菓子を頬張った後。

まだ少し熱い茶で胃に流し込む。

そして刷り上がっているレポートをまたチェック。

徹底的にチェックし終えると。

容赦なく数時間が経過していた。

ため息をつくと。

テーブルに溶ける。

藍が、布団で寝るようにと言ったが。

生返事で返した。

どいつもこいつも。

幻想郷のバランサーとして、もう二三人賢者が働いてくれればいいのに。

他にも賢者はいるのに。

どうして紫ばかりがこう苦労しなければいけないのか。

平和すぎてはいけない。

かといって人里に危険が発生するようでもいけない。

最近幻想郷に来た新しい住人の中には、紫の手に負えないような奴も珍しくはないのである。

これを制御するのが。

どれだけ大変か。

いうまでもないというのに。

藍が布団を用意してくれたので。

有り難く休む事にする。

心労は止まることが無い。

そして今日も。

案の定悪夢を見た。

 

3、カミソリの上を渡る

 

幻想郷には存在を否定された者が来る。妖怪や、いにしえの信仰が断絶してしまった神々など。時には動物が来る事もある。

古き時代。

決定的に神々と妖怪の力の差が開いた。

神話の時代には、もうこの関係は決まっていた。

ただ、神々に妖怪を残さず処理するつもりはないらしい。

それは神々が、妖怪を殲滅せず。

ある程度は残しておいた方が良い、という思想を持ったから、でもある。

西洋の一神教でも。

神は人間を試すために悪魔を残して誘惑させるとか言う思想があるらしいが。

此方の場合は少し違い。

負の意味での神々。

つまり妖怪を少しは残しておかないと。

正の方の神々にも。

良くない影響が出る。

それが原因であるらしかった。

ともかく紫は。

時間通りに指定の位置に出向く。

京都の山奥の一角。

ある寂れた神仏習合した神社。

そのお堂で。

複数の神格が待っていた。

仏教系の神格の内。

天部と呼ばれる者の中から数名。

有名な毘沙門天もいる。

毘沙門天は、その関係者が幻想郷にいる事もあって。

こういう場では比較的温厚に振る舞ってくれることが多いのが救いだ。

一方、仏教における軍神の立ち位置になる明王も。

一人来ている。

不動明王。

悪鬼を調伏し。

正義を推奨する明王である。

仏敵を討滅するために、敢えて恐ろしい形相をしている不動明王は、西欧の宣教師が悪魔に違いないと勘違いした存在だが。

悪を倒すためには敢えて悪に近づかなければならないという発想は。

世界中の何処にでも見られる。

くだんの一神教でも。

例えば天使メタトロンなどがこれに該当し。

残虐で圧倒的な力を持つ、暴力の権化のような存在として描写されている。

これなどは、神は一つしか無く。

本来では多神教で他の神々が請け負う仕事を天使に分散している一神教ならでは、の概念だろう。

本来は軍神がやる仕事が。

天使に受け持たされている、というわけだ。

更に、である。

分霊だが、日本神話の神々も何柱か来ている。

月に住んでいるのとはまた別の、各地の大きな神社にいる強力な分霊だが。

本体と知識を共有している、強力な存在だ。

いずれにしても。

此処で会合する神々の一柱でも怒らせたら。

幻想郷は終わりだ。

少なくとも妖怪は皆殺しである。

そもそも天部の一柱にしても、いわゆる悪鬼羅刹を配下にしている程で。

鬼より数段格上の存在なのである。

圧迫面接のように。

会話が始まるかと思えるが。

お堂の中で、紫は孤立無援の一方。

行われるのはむしろ事務的なやりとりである。

幻想郷が出来た頃や、月でのいざこざがあった時期などは、色々と胃に穴が開くようなやりとりが行われたこともあった。

だが近年では、紫の努力の成果もあって。

むしろ事務的に、淡々と事態を進める事が出来るようになっている。

薄暗いお堂の中。

印刷してきたレポートを、全員に配る。

その全員が、レポートをチェックする。

質問が幾つか来るので、それに答える。

やる事は、以上だ。

「病院からの搬入物資の中で、牛肉がかなり増えているが、これはどういう理由からか」

「これは地底の妖怪が、肉をたくさん食べたい、という要望を出しているからです。 人間に対価を払い入手した牛肉で、消費されている分もレポートに記載しております」

「ふむ。 なるほどな」

質問は幾つか飛んでくるが。

やがて不動明王が、質問を発する。

「先月の妖怪による人間への襲撃回数は百と二十七回。 死者は無しか」

「里の人間に威を示すのは妖怪の義務として、襲撃はしてもいいが命に関わる手出しはしないように、というのは幻想郷の不文律です。 それぞれが妖怪の威を示すための襲撃を注意深く行います。 中には人間を殺さずにはいられない妖怪もいますが、それらは地底に縛って監視をしています。 代替案も用意し、実践させています」

「妖精が悪戯をして致命傷を受ける者が出る、という話は」

「最近では注意をし、人間には気を付けるように、妖精の側には人里近くに監視要員を置いています。 最悪の事態になるまで手出しはさせませんが」

不動明王は。

彼方此方で見られる、恐ろしい形相のままである。

だがどちらかというと、不動明王にしても毘沙門天にしても。

その怒気は悪を倒すためのものであって。

弱き者には手をさしのべる存在でもある。

此処では。

それを利用する。

勿論相手がそれを理解している上で、だ。

妖怪は今や。

幻想郷でしか、一部を除いて生存できない、儚いものなのだ。

その中で、できる限り上手にやっていく。

それが紫に出来る精一杯である。

その辺りを毘沙門天は理解してくれているのか。

同情的に見てくれることもある。

こんどは日本神話の神々の一柱が質問をしてくる。

「幻想郷を出たいと欲する人間が、問題を起こしたことがあったな。 対策についてはしているか」

「あの事件については、里の長老達と話をし、対策を徹底しております。 何しろ知能犯による長期計画でしたので、簡単には防げないものではありました」

「対策をしているのなら良い。 いずれにしても、例え異境であっても人間が住みやすい場所にするように。 妖怪がもはや幻想郷にしか居場所が無い事も理解した上で言うが、あまり不平等がないようにな」

「分かっております」

幻想郷の中では。

紫の力は、神に等しいという噂も流れているが。

実情はこれだ。

此処にいる神の誰にも紫は勝てない。

いずれもが現役で信仰を得ている神々であり。

その戦力差は歴然。

紫の能力も、幻想郷の内部でさえ限定的なのだ。

意図していない所で、スキマから引っ張り出された事もあるし。

スキマを開けられない場所さえ、幻想郷内部にもある。

だから。

ただでさえ限定的な力をこれ以上落とさないためにも。

こんな姿は、他の妖怪には見せられないのである。

ただ、神々は昔に比べて傲慢では無い。

彼らは人間を守る存在ではあるものの。

人間も問題を多く起こすことを理解しているから、なのだろう。

咳払いした後。

毘沙門天がまとめた。

「いずれにしても、問題は無いようです。 異変と呼ばれる問題は発生してはいるようですが、少なくとも人間に対して多大な被害が出ている様子は無いですし、人間を喰らった妖怪は例外なく退治されています。 人間の肉をどうしても欲する妖怪のためにも、巧妙な仕組みで救済策を用意している彼女の努力は並大抵ではありますまい。 我々としても、度量を示して行くべきでありましょう」

「ふむ……」

「それでは、会合は終了といたしましょう。 八雲殿、今回も大変であったな」

毘沙門天が立ち上がると、神々はレポートをもったまま、消えていく。

昔の傲慢な神々と違い。

きちんと自分の立場をわきまえた上で。

無理難題を言わないように、向こうも工夫しているのが分かる。

だが、それ故に。

不正があったら、糾弾されるのは紫だ。

毎度レポートを造る時が一番緊張する。

誤字脱字くらいなら構わないのだが。

問題はレポートのタイミングで、解決できていない問題がある場合だ。

巧妙に人を食った妖怪が逃走中、というようなケースは近年殆ど発生していないのだが。

一度それがレポートの時期に発生した事があり。

不動明王に三日以内に解決しろと怒られて。

胃に本当に穴が開いた。

紫自身が出向いて、その妖怪は退治し、封印したのだが。

あの時は本当に生きた心地がしなかった。

既に長い長い時を生きている紫だが。

それでも自分より圧倒的に強い存在達が多数いるこの世界で生きると言う事は。

冷や汗とは無縁でいられないのである。

後片付けをして。

火の不始末などが無い事を念入りに確認。

外の様子もチェックし。

人間に見られていないかも確認。

勿論結界を張っているが。

実は外の世界にも、強力な超能力者は普通に存在しているし。

結界を破れるような奴もいる。

それらの痕跡が無い事をしっかり確認してから。

スキマを介して幻想郷に戻る。

屋敷につくと。

藍が橙を膝の上に載せて、撫で撫でしていた。

ごろごろと喉を鳴らして甘える橙は。

文字通り猫かわいがりされていて。

人間の子供の姿に近いとは言え。

やはり猫又としての要素が強い。

「お帰りなさいませ、紫様」

「おかえりなさいませー!」

無言で頷く。こっちが命を削る思いでレポートを出しているときに、橙で遊ぶとは。

色々とけしからんが。

まあ橙の屈託が無い笑顔を見ると、多少は腹の虫も収まるか。

咳払いすると、藍は橙と一緒に台所に行き。

用意していたらしい食事を出してくる。

橙が満面の笑顔で言う。

「藍様、紫様が帰ってきてからみんなで食べましょうって、ごちそうを用意していたの!」

「そう、感心ね」

「有難うございます。 外の世界のレシピを手に入れたので、少し気合いを入れて作って見ました」

確かに色々な種類の珍しい料理が並んでいる。

菓子ばっかり食べていると体に悪い事は分かっているから。

野菜も肉もバランス良く食べなければならない。

これは人間だけではなく。

妖怪でも同じだ。

おいしいおいしいと無邪気に喜ぶ橙は、尻尾をぱたぱた揺らしていて、大変に愛くるしい。

この子は式神としては実力不足だが。

藍は敢えてそうしているのではないか。

そう疑いたくもなる。

へたに知恵を付けるよりも、この方が橙は幸せかも知れない。

実際、後から妖怪になる者はいる。

幻想郷では、自然の力の象徴として、妖精という存在がいる。

妖精も力がついてくると妖怪になる事があるのだが。

享楽的に暮らしていればよかった上、「ほぼ」死ぬ事もないし、死んでもすぐに蘇生する(その代わり弱い)妖精は、気楽なのに対し。

妖怪になると人間の畏怖を集めなければ生きていけないし。

今まではある程度悪戯を笑って許してくれた人間も。

場合によっては本気で殺しに来る。

妖精から妖怪になって、上手く行かずにすぐに悲惨な事になった者を、紫は何人も知っている。

動物が妖怪になる妖獣についても同じだ。

妖怪になると、適者生存の動物世界からは外れるものの。

より複雑な別のルールに縛られることになる。

妖獣は身体能力が極めて高い反面。

このルールの急激な変化について行けず。

退治されたり、悲惨な目にあう者も多い。

特に山の妖獣は、なりたての頃に人間を襲い、そのまま返り討ちにされたり。

逆に人を食う事に成功はしても結果として退治され封印されたりと。

動物のまま天寿を全うした方が良かった、と本人達が嘆きたくなるような結末を迎えることも多いのだ。

愛くるしい橙は。

あまりものを考えず。

ただ八雲の式神、というだけで恐れを受けていられる立場にいる。

だがこの子が知恵を付けたら。

あまり良い結末になる未来は見えない。

文字通り橙を猫かわいがりしている様に見える藍だが。

そういう深慮遠謀があるのかも知れない。

まあ見ている分には。

文字通り猫かわいがりすることが本当の目的にも思えるが。

いつのまにか、皿は全て空になっていて。

藍が橙を促して片付けを始める。

今日が大変な日で。

紫が非常に疲弊していることは、二人も気付いているのだろう。

静かに寝やすい状況を作るべく。

その場を離れてくれた。

親切な対応に甘えて。

眠る事にする。

いつからだろう。

こんなに毎日長く眠るようになったのは。

大妖怪と持ち上げられ。

妖怪達の顔役として、いつも胡散臭い顔をして畏怖を集めるようになっていた頃には。

既に心労で色々酷い目にあっていた。

人間だったらとっくに発狂していたかも知れない。

いや、或いは。

精神攻撃に脆い妖怪だからこそ。

これほど今、酷い目にあっているのかも知れない。

紫は自分のオリジンを他の誰にも話さないが。

それは底が知れるのを防ぐためもあるし。

窮状を知られる訳にはいかない理由もある。

いずれにしても、布団に入ると。

すぐに眠くなった。

でも、寝ていても。

悪夢しか見ない。

今日は複数の勢力が、一斉に異変を起こすという悪夢のような、というか悪夢を見た。

どいつもこいつも幻想郷を滅茶苦茶にする行為を同時に行い。

しかも博麗の巫女が最初にぶん殴りに来たのは紫だった。

こんな大規模異変。

起こすのはお前くらいだ、というのである。

誤解だといっても信じて貰えず。

思いっきりぶん殴られた。

触ったときの手応えが妖怪なだけに普通の人間と違うと言われる紫でも。

博麗の巫女に全力で殴られて無事で済む筈も無い。

見ると、藍と橙も頭にこぶをつくり、煙を上げながら意識を手放して転がっている。

胸ぐらを掴まれてぐらんぐらん揺らされながら、さっさと異変を停止しろと恐ろしい形相で言う博麗の巫女に。

紫は泣きながら私じゃないと弁解するしかないのだった。

目が覚める。

頭が痛い。

勿論殴られたからじゃない。

心労で悪夢を見たからだ。

というか、心労で頭が痛かったから、こんな夢につながったのか。

そういえば。

最初に異変を調査し。

博麗の巫女をたきつけるようになったのは。

こうやって、真っ先に疑われて、殴られるのが嫌になったから、だったような気がする。

勿論幻想郷のルールとして。

妖怪は人間を怖れさせ。

人間は妖怪を怖れ。

そして恐れを克服して退治する、というものがあるのだが。

それにしても。

今の博麗の巫女は兎に角強い。

修行していなくてもあの実力だ。

そして紫は。

あまりにも胡散臭い得体が知れない言動をする事で、本当の自分を秘することで。

結果として、あらゆる意味で何もかも黒幕であるかのように思われるようになってしまった。

時々、こっそり異変としては処理出来ないような案件を片付ける事もあるが。

その場合、異常な勘の良さで嗅ぎつけてくる博麗の巫女に。

殴られて私が犯人でしたと泣いて謝る事で、むしろ上手く済ませることもたまにある。

勿論痛い。

すごく痛い。

だけれども、幻想郷の維持のためには仕方が無いし。

それに、この間死んだ目で色々呟いていた元玉兎ほど悲惨な状況でもないので。

我慢するしかない。

酒でも飲もうかな。

そう思ったが。

今日もスケジュールが山のようにたまっている。

いずれも紫にしか出来ない。

以前、勝手に動いている強力な妖怪を勧誘したことがあったが。

断られた。

上手く行けば、右腕として動いてくれるかと思ったのだけれども。

どうも紫の行動が邪道に思えるらしく。

生真面目なそいつは。

絶対に貴方とは一緒にならない、とまで言った。

孤独だ。

どこまでも。

藍が来たので、スケジュールを確認。

今日もまた。

カミソリの上で綱渡りをするような。

スケジュールをこなさなければならない。

いずれも失敗は許されない。

大規模異変が解決したとき、博麗神社では大体宴会が行われたりするものだが。

その時くらいしか。

酒を飲む余裕は無いし。

そもそもその時ですら。

裏では色々な問題を処理するために。

紫は走り回っているというか。

スキマを飛び回っていることが多いのである。

「目の下に隈ができていますよ紫様。 そろそろ永遠亭に一度診察を受けに行ってはどうでしょう」

「今は違うとは言え、月の神相手に? いやよ」

「薬はもういただいているではないですか。 それにあの人は、きっと貴方の苦悩を理解してくれますよ」

「絶対に、いや!」

我が儘だが。

それでも、弱みを人に見せることだけはしない。

藍に見せているだけでも冷や汗ものなのだ。

この子は裏切らないとは分かっているが。

それでも、何かの拍子で口を滑らせるかも知れない。

いつの間にか疑心暗鬼の塊になっている紫は。

ある意味。

博麗の巫女以上に。

実際は誰も信じていない。

いや、信じられない体質になってしまっているのかも知れない。

化粧をして目の下の隈を誤魔化す。こういう技術ばかり上がる。

「今日は地底の視察ね。 彼処の妖怪は、隙あれば本当に人間を喰おうとしたり、殺そうとしたりする者がいるから厄介だわ」

「怖いもの知らずだから、紫様に喧嘩を売る者もいますしね」

「相手にしていられないわよ」

地底は荒くれや、嫌われ者の住む場所だ。

幻想郷におけるスラムと言っても良く。

強力な妖怪も多い。

此処を監督している妖怪の姉妹もまたくせもので。

厄介な能力を持っている上に。

更に放任主義が過ぎるときている。

さて、それでも。

いかなければならない。

面倒な場所だからこそ。

紫が実際に目を通して。

実態を確認しなければならないのだから。

気を付けて、と藍に言われるが。

頷くだけ。

よそ行きの顔を作ると。

紫はスキマを開けて。

今日の、また面倒極まりない仕事に、出向くこととした。

 

4、苦労は絶えず悪夢も絶えず

 

幻想郷には、根っからの悪人はあまり多く無いのだが。

例外が何人かいる。

一人は聖徳王の所にいる邪仙。

聖徳王が仙人になる切っ掛けを作った原因であり。

タチが悪いことに、息をするように他人を不幸にし、何らそれを反省もしない。

典型的な、自分を悪と認識していない悪であり。

聖徳王の所で多少は大人しくはしているが。

もし放置されたら大変な事になるだろう。

もう一人は天の邪鬼。

とんでもない異変を、しかも純真な存在を騙して引き起こさせた上。

全ての責任を押しつけて逃走するという、超ド級の悪党である。

此奴は仕置きとして。

わざと色々なインチキ道具を渡した上で。

幻想郷中のストレスが溜まっていたり、新しいスペルカードを試したい者をかき集めてハンティングの対象にし。

此奴がインチキ道具を駆使して必死に逃げ切ったところで。

実はみんなで遊んでいただけで。

お前にはみんな楽しませて貰ったと告げた。

天の邪鬼という妖怪は、基本的に価値観念が真逆で。

他人に喜ばれることを何より嫌う。

実際問題、スペルカードルールでなければ、天の邪鬼なんて一瞬で殺せる猛者だらけなのが幻想郷で。

わざわざスペルカードルールで遊んでやっている時点でお察しなのである。

それを告げられた瞬間、膝から崩れ落ちた天の邪鬼は。

今では半ば廃人とかして。

地底で死んだ目のまま膝を抱えている。

一人が遊んでいたならともかく。

幻想郷中の妖怪が自分で楽しんでいた、となれば。その精神的ダメージは文字通り激甚。

妖怪は精神攻撃に弱く、場合によっては本当の死を迎える。

その場で消滅しなかっただけマシだ。まあ当面まともに歩くことも出来ないだろう。

この二人が悪意で問題を起こす筆頭だが。

今日見てきた感じでは。

二人とも大人しくしている。

他の奴も概ね大人しい。

まあいいだろう。

どちらにしても、本気で問題を起こすようなら。

その時はもっときつい灸を据えるだけ。

それに問題を起こす奴がいる方が。

幻想郷は長期的には安定するのだ。

地底では案の定。

現在は山から地底に移り住んでいる鬼に絡まれた。

鬼は最上位の妖怪という事もありプライドが高いが。

酒呑童子の退治の逸話をみるように。

結局は他の妖怪同様、人間に退治される存在でしか無い。

更に言うと、元々の鬼と現在の鬼は、仏教での獄卒の概念が混じってからぐちゃぐちゃになっており。

文字通りよく分からない存在になり果てている。

今日絡んできた鬼は、かなりプライドが高い奴で。紫を対等な友人だと思っているようなのだが。

此奴はフットワークが軽く。

今でも地上に出てきて、面白そうな相手に絡んでいく珍しい鬼である。博麗の巫女の所にも、面白がって遊びに行くようだ。

問題もたまにしか起こさないが。

此奴は言うだけあって実力も強烈。

起こすときは幻想郷でもトップクラスの力が問題を制御不能にするケースがある。

酒を飲もうと誘われるが。

断る。

鬼は酒が大好きで。

紫だって酒は大好きだが。

今は仕事中だ。

察しろと視線で言うと。

口を尖らせたその鬼。

伊吹萃香は。

ぶちぶちと文句を言うのだった。

「まったくお前は本当に本音を口にしないな」

「賢者として、小さいとは言え幻想郷という世界を回すというのはそういう事よ」

「……今のは本音だな」

「そうなのよ」

嘆息した紫を見て。

多少は他人の心も分かる萃香は、もう絡むのもやめた。

それに鬼は嘘をつくことが出来ない。

その分、他人が本当のことを口にしているかは分かるものなのだ。紫の窮状を察してくれたのだろう。

自称友人である以上。

情を優先した、と言う訳だ。

此奴も昔は人間をさらって喰らう鬼だったのだが。

何度も退治され。

此処に追いやられてからは。

随分と丸くなった気がする。

あとは話を軽くして、地底の様子を聞くが。

みんな仲良く喧嘩したり。

仲良く酒盛りしたり。

仲良く暴れたりしているとだけ聞かされ。

文字通り頭を抱えたくなる。

此奴らの仲良くするの概念は明らかにおかしい。

地上であり得ない問題を起こすわけだ。

だが、地底で大人しくしてくれている分には別に構わないので。

後は適当に視察して、戻る事にする。

時間が少しだけ余ったので。

氷室に出向き。

在庫の調査。

次の外での物資調達の際。

何が必要かのリストを調整しておく。

現状余っていても。

いつの間にかなくなってしまうような物資もある。

寒い中、リストのチェックをすませ。調整も終わらせる。

パソコンなんて必要では無い。

自分がスパコン並みの能力を持っているから。

機械に頼る必要がないのだ。

だがそれでも。

外付けの支援装置が欲しいとも思う。

今度河童に頼んで、外から流れ着いたパソコンでも改良して貰おうかなと思ったが。

あいつらに頼んだら。

どんなパソコンを作るか。

文字通り知れたものでは無い。

いわゆるバックドアでも仕込んで来かねないし。

やはり自分でやるしかないか。

仕事が終わったので。

屋敷に戻る。

藍がうつらうつらしていたので。

そのままにさせておく。

結界の事なら自分も分かるのだし。

此奴も働きづめなのだ。

数時間ほど、リストの調整と、今後のスケジュールを自分で練っている内に。

藍も起きた。

「こ、これは紫様、申し訳ありません」

「いいのよ、休みがないのだし、妖怪にも限界はあるのだから」

「はい……」

「それでは、このスケジュールに問題が無いかチェックしておいて」

書類を渡す。

だが、書類を受け取った藍は。

渋い顔をしていた。

「見なくても分かります。 いつもスケジュールはギチギチ。 紫様のお体が心配でなりません」

「貴方も今居眠りするくらい疲れていたでしょう」

「私はまだ此処に常駐して、結界を常時監視し、監視している幾つかの要注意勢力の動きを遠隔で見るくらいですが……紫様は」

「いいのよ。 これに関しては、私にしかできないのだから」

少し予定より遅れたが。

眠る事にする。

さて明日は。

監査をしなければならない。

これもまた大変なのだ。

いつもの、海千山千の妖怪共と、渡り合うときと同じ程度には。

 

スキマを開けて。

紫は人里の、大きな屋敷の中に出た。

此処は稗田家。

絶対記憶能力を持ち。

転生しながら幻想郷の事を書き記している、稗田一族の屋敷である。

此処で記録した妖怪の情報は公開され。

幻想郷で、妖怪がどういう存在なのか。

人里に知らしめる役割を果たしている。

実際に妖怪に遭遇する人里の人間は、山に出かけたり、人里を離れて遠出したりする者だったり。

或いは、人里に来ても問題が無いような無害な妖怪を見るだけ、という場合に限られてくる。

そこで、こういった。

妖怪の恐怖を知らしめる媒体が必要になる。

天狗達は新聞を作って人間にばらまいてもいるが。

これは当の天狗達でさえいい加減な新聞と認めるほどの代物で。

人間達も信用していない。

これに対して。

稗田の資料は、何しろ絶対記憶能力の持ち主という事もあり。

ある程度は信用されている。

実際には稗田家当主の阿求の性格の悪さや。

今紫が資料を確認して検閲している事からも分かるように。

悪意に塗れた資料なのだが。

「阿求」

「はい」

「ここ、もっと恐ろしげに追記しておいて」

「分かりました」

阿求は三十前後までしか生きられない。

能力と。

転生の代償だ。

それもあって、性格が歪んでいるのだろう。

転生する稗田の当主はみんなそうで。

利害が一致しているから紫と上手くやっていけているが。

逆に冷遇したりしたら。

何をしでかすかわからない。

その辺りは聖徳王と同じ意味で危険だ。

「この妖怪は、もう少し恐ろしく書いて頂戴」

「分かりました」

ちょっとした説明だけで。

阿求は充分にそれを理解して、記してくれる。

人里に近寄らない強大な妖怪の中には。

こうやって阿求が記述を山盛りに恐ろしくすることで。

人間の畏怖が勝手に集まるようにするようにしている者もいる。

その結果、本来の性格とは全然違う、邪悪の権化か大魔王かのごとく書かれ。自分以外の存在を殺戮する事を何とも思わない、みたいな無茶苦茶な書かれ方をしている妖怪もいるのだが。

それについては、人間の畏怖がなければ生きていけないことを妖怪も理解しているので。

良い気分はしないが受け入れる、という姿勢を保ってくれている。

「だいたいこんな所ね。 貴方から見て、変わった事はあったかしら?」

「特にはありませんね。 博麗の巫女が時々食べ物を無心に来る位ですか」

「普段は怠けていても、有事は幻想郷を守る最大戦力よ。 少しは良くしてあげなさい」

「それは分かっています。 ただ良いものをあげすぎると、たかりに来る頻度が増えるものでして、それは困っています」

確かに困りものだな。

少し説教がいるか。

博麗の巫女には、むしろ苦手としているし、ある程度言う事も聞く奴に覚えがある。

そいつに頼むか。

どうせハイハイと二つ返事では引き受けてはくれないだろうが。

利害を説けば理解はしてくれるはずだ。

それにしても最大戦力からしてこの有様。

紫の苦労は絶えない。

そもそも今日にしても、資料のチェックは凄まじい速度で、一通り、というだけで相当な労力を要するのだ。

しかも不正がないように、膨大な資料に全て目を通さなければならない。

楽な仕事の訳がない。

屋敷に戻ると。

紫はまたテーブルに溶けかかる。

「藍−。 甘いのー」

「はいはい、今用意します」

「すぐにねー。 うちも信頼出来るメイドでも雇おうかしら」

「メイドはくせ者揃いですよ」

藍が苦笑するが、そんな事は知っている。

紅魔館のにしても正体がよく分からないのだ。

嘆息すると、甘味と茶が来るまで紫はぼんやりと思いを馳せる。

私が壊れるのと。

幻想郷が制御不能になるの。

どっちが先なのだろう、かと。

 

(終)