最初にして究極の怪異
序、火星へ
シャトルで衛星軌道上に上がって、そこからバスに乗り換える。バスと言っても地上を走っているものではない。
惑星の間を航行するものだ。
人類は現在、三十億の数を保ちながら、火星と金星への進出を果たしている。残念ながら火星はまだコロニーを作ってその中で暮らす状態。金星はコロニーも希で。殆どが衛星軌道上のステーションに暮らしている状態だが。
更に木星でも幾つかの少人数を載せた資源開発衛星が動いており。無人のものに限定されるが、アステロイドベルトでも資源回収用の人工衛星は動いている。
人間は、いちおう太陽系内で少しずつ自らの領域を拡大しているのだ。
AIにより政治経済が管理されているから、それぞれの惑星で内乱とかが起きていないし。
無意味に人口が増える事もない。
もしそうでなければ、宇宙で散々殺し合いが続いていたかも知れない。いや、続いていただろう確実に。
それを褒め称える事は。
実際に地獄絵図で殺戮される覚悟がある人間だけがしていい。
そうでない人間は、それをするべきではない。
私は、バスの中でぼんやりとそう思っていた。
ほどなく、バスが動き始める。
現在地球の衛星軌道上には何機かマスドライバが設置されていて、これとスゥィングバイを利用して、一気に加速。そして火星へバスが向かう。
光速は流石に出ないのだが、光速の1%くらいまで加速する事も、現在では理論的に可能だそうだ。
いずれにしても、加速して一気に火星に向かい。
途中で減速用のマスドライバを利用して減速する。
そうして、火星に着くまで今では一週間ほど。
その間、個室が貰えるので、寝ていてもいい。
或いは、好きな事をして過ごしてもいい。
超光速通信技術が実現している現在では、地球のネットワーク環境にここから接続する事も出来る。
だから私は、航行が落ち着いたタイミングで、南雲に連絡を入れていた。
「此方柳野。 火星に向かう航路に乗りました」
「お疲れ様です。 火星に行くのは何度目かですか」
「何度目かです。 フィールドワークに出向きます。 その間に、今回のレポートの資料を集めてください」
「了解しました」
軽く南雲と話をした後、私は自室のベットに横になる。
デスクワークはあまり得意ではないが。
火星で拡がっている話については、聞いておく必要がある。だから、今のうちに調べておくのだ。
都市伝説だとしても。
いずれ、それが怪異になる事はよくある。
というよりも、そもそも都市伝説そのものが怪異と言って良い。
今、火星で誕生しようとしているもの。
現在の始祖の巨人は。
充分に、怪異と言えるものだった。
やはり、直接の目撃例はない。
火星が急速に発展していることは事実だ。各地にドームを作って宇宙放射線を防ぎ、其処で入植作業を進め。
同時に耐放射線の機能を装備したロボットで、火星の各地を整備している。
水などはアステロイドベルトにある星などからキャプチャしたりして、どんどん火星に供給し。
更には、火星の自転速度を上昇させる試みも行われている。
惑星の引力というのは、惑星そのものが持っている重力と、惑星の回転が生じさせる遠心力の合計である。
回転速度を上げることによって、火星の重力を向上させることが可能だ。
そして火星には、大気を作らなければならない。
火星の最大の問題は、大気が殆ど失われてしまっていることで。
今の課題は、それを可能な限り回復させる事だ。
それら幾らでも課題がある中。
その人物の噂は膨らむ一方だ。
もし実在しているなら会いに行って話を聞きたいが。そもそも今の時代、直接取材なんて受けてくれる人間はいるだろうか。
データを調べて一段落。
レトンがいつも通りコーヒーを淹れてくれる。
このバスも、擬似的に重力を発生させているので、コーヒーは普通に飲める。有り難い話である。
宇宙ステーションの初期時代なんて、無重力状態で人間は任務が終わるとボロボロになっていたそうだが。
今は勿論、そんな事はない。
火星の入植者は、半分の重力に最初随分苦労するそうだが。
筋力が落ちないようにパワードスーツが用いられる。
これは私も同じようにパワードスーツを用いた事があるので知っている。
事実火星に以前滞在し、地球に戻った後も。パワードスーツによる強制的な運動のおかげもあって、生活に支障はなかった。
移動しながら、レトンと軽く話す。
「かあちゃんはどう思う?」
「最近負担が大きいフィールドワークをしていたこともあって、こういう特に負担が無さそうなフィールドワークをしてくれるのは私としては嬉しいです」
「ああ、そういう視点……」
「ただ、それでも危険は覚悟してください。 地球に比べると、どうしても火星はまだまだ事故が起きる可能性が高い環境にあります」
スラムや貧困街は既に過去の産物となっているが。
それでも、事故というのは確かに開発中の街では起きやすい。
人災は起きない時代になったが。
それでも、やはり自然災害のリスクはあるのだ。
今後、更にリスクは高まるだろう。
火星という星を、根元から変えようとしているのだから。
「それはそれとして、やはり茶番を好むのですね主は」
「そりゃ、おいしそうな怪異の方が私は好きだし」
「その辺りがもはや意味不明な思考なのですが、個人の自由であるので尊重はします」
「うんうん」
呆れながらも、尊重してくれるレトン。そこがいい。
だからこそ、私はレトンを尊敬できる。AIを積んでいても、レトンはちゃんと私のかあちゃんだ。
レトンのAIは、膨大なデータから元に最適解をくみ上げているが。同時に、擬似的な人格システムも搭載している。
だからレトンは自分より私を優先するし。
私を根本的な部分では信頼もしてくれている。
私もそれを知っているから、「正論には言い方がある」だの、「正論しかいえない」だの、21世紀のバカが抜かしていたような事を言うつもりは無い。
正論を聞けなくなったら人間は終わりだ。
歴史を学べばそれが分かるし。
少なくとも、偉人もそれが聞ける年齢の内はしっかり偉人をしている事も理解出来るからだ。
私は偉人ではないが。
歴史に学ぶことは出来る。
不愉快であっても相手が正しい場合は、しっかり聞かなければならない。
逆に言うと。
そんな事すら、人間は意識しないと出来ないし。
場合によっては自分を正当化して、正しい事を目にしようともしなくなる。
誰も彼もがそうなったから、21世紀に人間は滅亡の危機を迎えた。
だから、私は。
それを繰り返さないように。
自分だけでも、21世紀の頃にいた連中と一緒にならないようにしている。それだけの話である。
火星に行く途中に、暇な時間を利用して幾つか調べておく。
南雲との連絡もあるが。
事前に、火星での出来事なども精査していく。
火星の開発が始まったのは、地球での混乱が収まったその少し後くらいから。それからも惑星間の航行技術は進んでいき、最初は一年かかった火星への旅路も、今では一週間程度で片道をこなす事が可能だ。これもじきに更に速くなるだろうと言われている。
それと比例するように火星の開拓も進んでいるのだが。
やはり、比較的最近。
火星にすごい開拓者がいると言う噂が流れ始めた様子だ。
膨大なデータを辿ってみるが、誰かが悪意を持って噂を流し始めた形跡はどうもないようである。
勿論、記録されないプライベートの範囲で、誰かがそういう計画を立て。
そして単に善意で流し始めたと言う可能性もあるのだが。
どうにもそういった人為的な工作の気配は、見ていて感じ取れない。
腕組みしながら、資料を南雲にも送り、共有しておく。
レトンに意見を聞きながら、データを調べておく。
私も何でもかんでも出来る訳ではない。
特に電子関係の細かい知識はそれほどある方ではないので、その辺りはレトンに支援して貰う。
いちいち様々なデータの解析をし。
場合によってはレトンに補助して貰ってデータを検証しながら。
暇な時間を少していく。
まだ、かなり時間は長く感じるな。
私も二十を超えてそれほど時間も経っていない。
これが三十になるとあっと言う間。
四十を超えると凄まじい速度で時間が経過していくというのだから。今、出来るうちにやれることをやりたい。
そういう気持ちは強い。
無言で作業をし。
時々休む。
こういった火星行きの船というと。昔のSFだと奴隷貿易船みたいな書かれ方をすることもあるが。
現実に26世紀になって乗って見ると、ただのバスだ。
それも乗員全員に個室が用意されていて、レトンもしっかり私の胃の様子を見ながらコーヒーや紅茶を淹れてくれる。
時にはココアも。
私は殆ど酒は口にしない。タバコは吸うつもりはない。
その辺りはレトンも心得ていて、酒などを勧めてくることもなかった。
淡々と作業をしていく内に、火星が近付いてくる。
さて、そろそろだ。
いったん作業を停止する。
バスが減速用のマスドライバを利用して、何段階かで速度を落としていく。この技術も、いずれバスの航行能力が上がれば、必要なくなるだろう。
昔の人類文明だったら、技術の刷新が行われれば、古いものを無計画に捨てていたものだが。
現在の文明では、宇宙にデブリは殆ど存在しなくなっている。
この減速用マスドライバも、いずれ改修されて。それでも役目が終わったら分解され、資源に戻る。
或いは部品ごとに再利用される。
それが、今の時代だ。
人間はどうしても、地力ではこれが出来なかった。
そういう意味では、それが人間の限界だったのだろう。
人間の可能性について無責任に無邪気に論じていた時代があったらしいと聞くと、私は少し寂しい気持ちになる。
こうやって、現実を見てしまうからだ。
やがて、火星が大きく見える位置に来る。
窓から直接見なくても、今は色んな手段で見る事が可能だし。そもそも窓は流石に小さくて、あまり其処から火星は見えない。こればかりは安全からだ。
ただし、レトンはそれでも、話はしてくれる。
「三十七秒後に一度、窓から直接火星を見る事が出来ます」
「よし……」
窓に貼り付いて、確認する。
火星が、見えた。
昔は真っ赤な星だったらしいが。
今では、彼方此方にコロニーが見える。それくらい、コロニーが大きいと言う事だ。
流石に緑にはなっていないが。
まず殺菌作用がある土壌の改良からと言う事で、多数のロボットが頑張っているのだろう。
少しずつ、土壌が茶色に変わりつつあるのが見えてきていた。
「前に来たときより、確実に発展してきているみたいだね」
「進捗は相応に進んでいます。 何回か事故もありましたが、人命に問題は発生していません」
「ロボットは犠牲になったの?」
「そういう事もありました。 同じ事故が起きないように、次からは改善を必ずしています」
レトンがそう淡々という。
レトンを犠牲にしたくはないな。
そう、私は心中で思った。
やがて、衛星軌道上に到達したバスにシャトルが接続。何回かに分けて、シャトルで火星に下りる事になる。
観光目的が四割。
残りは仕事で火星に来ている感じだ。
私も、昔だったら遊んでいるも同然とか揶揄されたかも知れないが。役所も認めてくれている仕事で来ている事になる。
20世紀の頃からしばらく、「サラリーマン以外は仕事では無い」というような奇っ怪な風潮が流行った事があったそうだが。
幸い、今はその手の噴飯ものの馬鹿馬鹿しい偏見はなくなっていた。
まあ、それは良い事だろう。
降りるタイミングまでに、荷物などをまとめておく。
そしてシャトルと接続したら、スムーズに降りる。降りるのも、支援ロボットがサポートしてくれるので、列がこんだりすることもない。
シャトルはバスよりだいぶ小さいが、それでも特に狭いとは感じないし。
減速とか加速とかで、死にそうになることもない。
これは地球の大気圏外に出るシャトルも同じだ。
今は既に。
宇宙に出ることは、とても簡単で。ローコストで出来る事になっているのだ。
シャトルは窓もなく、そのまま地上に向かう。
これは流石に、大気との摩擦など色々問題があるからだ。何より火星はまだ其処まで安全では無いと行政のAIも判断しているのだろう。
それに、シャトルに乗る時間はそれほど長くもない。
程なくして。
火星のコロニーの一つに、シャトルは到着していた。
コロニー内は、18℃1気圧に保たれ、重力が軽い以外は地球と殆ど変わらない状態になっている。
低重力環境での行動については、私も前に経験がある。
パワードスーツが若干煩わしいが。最悪の場合パワードスーツについているスラスターや、レトンの支援があるから怪我もしないだろう。
生体認証をして、それで火星へ入る手続きは完了。
地球も火星も同じ行政AIが回している。
人間がやっていたら、最悪火星が独立運動とか、或いは地球から搾取とかされていたかも知れない。
距離が離れれば、それを利用して悪事を考える人間は出てくる。それも決して少なくない数が。
だから古くは、多くの国家は地方に多数の自治区を作り。
それを中央がやんわりと管理する、程度の事しか出来なかった。
国家が瓦解するときは、それらの制御が出来なくなった時だった。
今は、それもない。
超光速通信が実現し。
AIが政治も行政も回している今は。
恐らく、もう人間がつけいる隙もないだろう。
今のAIは、あのノイマンでも上を行くのは不可能だろう。
この間調査した、実験国家のような場所だったら悪さは幾らでも出来るだろうが。
そこから出てしまうと、AIも一切容赦をしないのである。
まずは宿泊施設に向かう。
火星のコロニーはそれなりに大きいとは言え、やはり地球に比べるとかなり小さく感じてしまう。
空も近いし、何より町並みがミニマムだ。
コロニーだから、空は人工のもの。
町並みも、現状は此処までしか広げる事ができないのだ。
まだ大気がしっかり出来ていないから、宇宙放射線が降り注ぎ放題。
安全を確保するまでは、がっちりと作って。
あらゆる危険から、人間を保護しなければならない。
AIはこの辺り、同じ人間を奴隷にしたくて仕方がない人間よりも、ずっと人間に好意的だ。
おかしな話である。
ディストピアに一番近かったのは、21世紀の中頃だったと言われていて。
それはAIなんか関係無く、人間による統治の結果だったのだから。
SFで予見されていたディストピアは。
AIなんかではなく。
人間が結局作り。AIによる統治は、それとはかけ離れた真逆のものとなったのである。
皮肉此処に極まれりだな。
低重力の中を行きながら、私はそう思う。
そして、宿泊施設に到着。
いざという時に備えてか、非常に頑強で重厚な建物だ。此処は避難所も兼ねているらしく、シェルターもあるらしい。
基本的に地上部分は少なく、地下に伸びる構造。
それが火星のこういった宿泊施設の特徴で。
それは私が前に火星に来た時も、変わっていなかった。
ここは、進歩するまでまだ時間が掛かりそうだな。
そう私は考えながら、宿泊施設の中に。重力は軽いが、それでも生活出来ない程でもない。
荷物などをばらして、ここで暮らす準備をする。
一月は此処を拠点にして生活するのだ。
私に取っては、とてもとても楽しい時間の始まり。
やはり私には、研究は天職なのだと思う。
そう思って、うきうきで私は荷物をばらし。レトンと一緒に、研究の準備を始めるのだった。
1、始祖の巨人を探して
始祖の巨人の伝承は世界中にある。
ある妖怪研究家が、世界中に名前だけ違う同じ妖怪がたくさんいると言ったことを裏付けるように。
日本で言うダイダラボッチと同じ性質を持った偉大なる開拓者。
北欧のユミル。
中東のティアマト。
ギリシャのガイア。
そして北米のポールバニヤン。
みな、始祖の巨人と言える存在だ。
特に北米のポールバニヤンは、かなりの近代にもかかわらず生じた始祖の巨人である。個人的にはそれがとても興味深い。
始祖の巨人には、幾つか決まったことがあるが。
世界を新しく作り。
用事が終わったら表舞台から消える。
それが大まかに決まった役割である。
消え方は様々で、殺されたり色々あるのだが。日本のダイダラボッチのようにいつの間にか消えてしまうパターンもあり。
そういったパターンでは、むしろ英雄として扱われていることが分かる。
古い時代の英雄は、用が済んだら消えるものだ。
「めでたしめでたし」という言葉と共に。
その後のことは書かれない。
それはそうだろう。
巨大すぎる力を持った英雄なんて、その後周囲の人間から歓迎されることなどないのだから。
私はその基礎知識を復唱しながら、まずは街に出る。
この火星での始祖の巨人らしき人物の足跡を辿ると、どうもこの辺りが怪しいのである。
火星の彼方此方に様々なその「偉大なる技術者」の足跡が残っている。
どこの峡谷での開拓で、めざましい成果を上げた。
どこの氷河を。他の人間の何十倍の速度で開発し、水へと変えた。
電力供給が出来る範囲を著しく拡げた。
そういった抽象的な話と裏腹に。
「偉大なる技術者」の、妙に具体的な話が残っているのが。このコロニーなのである。
いわく。このコロニーにて天井の板を一日で他の人間の三十倍以上の効率で張った。
上水の発生装置を組み立てて、すぐに水が飲めるように工夫した。
AIよりも早く作業を行って、支援ロボットが驚嘆した。
そういった話に、どうしてか此処のコロニーの名前が出てくる。また、ここのコロニー特有の話が出てくる。
つまり。発生源は此処ではないかということだ。
なお、それらの事績は半分以上がただの噂だと言う事がわかっている。
火星にきた開拓者の中には、それぞれ熱意がある者達が多くいた。
それらの熱意ある開拓者は、努力の末にめざましい効果を上げていった。
レトンと南雲と一緒に調べたのだ。
それらの結果、多数の事績が彼方此方で起きていて。
だが、その偉大な事績を達成したのは、別の人物だと。
それも、何倍も成果が誇張されている。
そういうものなのだと。
始祖の巨人も、実際にはそうだったのかもしれない。
各地で、開拓などで偉大な実績を上げた人がいた。
それらの実績が、いつの間にか一人の偉大な人に集約された。
始祖の巨人では無いが、類例は幾つもある。
例えば日本で言うならば日本武尊だ。
日本武尊は、エピソードごとに人格があまりにも違い過ぎる。事績もあまりにも広範囲にわたりすぎている。
だからその事績を見ると、サイコパスか多重人格者のようにも見えてくるが。
これを冷静に分析すれば、実際には多数の人物の事績を集約した事が分かってくる。
だからエピソードごとに性格も人格も違う。
当たり前の話だ。
元々違う人間の事績を、一つにまとめているのだから。
私は何人かに当たりをつけている。
この火星に、かなり長く居着いている開拓者。それが狙いだ。
今ではもうないのだが。初期の開拓時代は、支援ロボットと一緒に、宇宙服を着てコロニー外で直接作業をしていた事があったらしい。
その生き残りも、何名かこの辺りにいる。
AIによる管理でなければ、むしろ酷い扱いをされて、火星から追い出されたり。或いは殺されたりしていたかも知れない。
だがAIが行政と経済を管理している今の時代。
真面目に働く人間は、それだけ報われるようになっている。
昔は、ズルをして如何に隙間を突くかだけが重視され。
実際にそれで稼いでいる人間が、優秀な人間を自称して。真面目に努力している人間を踏みつけて利益を吸い上げていたという醜悪な現実があったのだが。
現在ではそれもなくなり。
実績を上げた人間は評価され。
生活も権利も保障される。
保証されないのは度を超した財産を持つ事。権力を振りかざして、他人を屈服させること。
こういったことは、AIが絶対にさせない。
だから無為な権力闘争も起きなくなった。
一時期は、政治というものは、利害だけで回る時期があったが。
その愚かしいパワーゲームもなくなった。
皮肉極まりない事に。
結果として、努力する人間は成果を古い時代よりずっと上げるようになったし。名前も残るようになった。
ズルばかりして金を周囲からむしり取っていたような連中は、例外なく針のむしろに座らされている。
幸福度は、確実に上がっている。
人間は政治と経済を手放して、やっと古くにいった「人間らしい生活」を手に入れたのだ。
火星の狭苦しいコロニーを移動。
既にアポを取り付けてある。
懸念していた取材の拒否はなかった。というよりも娯楽が少ないから、取材を皆面白がるのかも知れない。
やがて、路地を曲がる。重力が小さいので、ぽんぽんと飛び跳ねるように移動しながら。
重力が小さくても慣性はあるので、調子に乗りすぎると大けがをするが。
それを防ぐために、パワードスーツを着けている。
低重力環境による運動不足を防ぐためだけのものではない。
こういった、普段とは違う環境で生活するため。
そういう意味も、この装備にはあるのだ。
程なくして、ちょっとこじんまりとした建物が見えてくる。カフェである。
カフェだが、あくまで本体部分は地下にある。
これは、火星コロニーでは当面基本となる構造だ。
まだまだ宇宙放射線や、事故の懸念もある。
AI制御のロボットが毎日管理をしてくれているが、それでも、である。
開拓中の星で、環境を根元から造り替えているのだ。
幾つものセーフティネットを貫通して、どんな天変地異が起きるか知れたものではないのである。
故に、何があっても被害を小さく出来るように地下に建物を作り。最悪の場合は重機以上のパワーを持つ管理ロボットの支援を待つ。
地下では、埋まってもしばらくは生活出来るように物資が備蓄されているし。
建物も、簡単には潰れないようにAIが設計している。
そういった、半地下生活をするのが火星式。
恐らくだが、金星も地表にコロニーが増えたら、同じようになっていくだろう。
現在は金星の衛星軌道上のコロニーに、人が殆ど住んでいて。
衛星軌道上コロニーと言う事もあって、むしろ高層建築が多い。
古くだったらそれが対立の要因になったかも知れないが。
今は、別にそれが対立を産む事もなかった。
カフェに入ると、地下ながら相応に証明とかを工夫していて、いい雰囲気だ。周囲には、火星の未来の開発予想図も出ている。
アフリカ大陸程度の広さしか確保できないとも言われているが。
それでも美しい翠の森と湖が拡がり。
そして鳥も飛んで。虫もたくさんいる。
いい光景だ。
百年やそこらでは実現できないだろう。だが、それでもいずれは実現できる時が来る筈である。
そう思うと、目を細めて見やってしまう。
先に席に着いて待つ。
やがて、老人が来る。
昔は男性なら髭を蓄えた老人が多かった。そういったお約束が色々あったが。今はそんな事もない。
気むずかしそうな顔をしサングラスをした老婆は。まだ若い、孫のような姿をした若い娘の見かけをした支援ロボットに支えられて。
向かいの席に着いていた。
軽く礼をして、名刺を見せる。
今は電子式の名刺が当たり前だ。
相手も鼻を鳴らすと、同じように名刺を提示。
もうこの人は、充分に働いた。だから、今更苛烈な仕事は求められない。
ただ、経験に基づいたアドバイスをたまに求められ。AIにそれで応じている様子だ。
そういったアドバイスは、AIに蓄積され。
AIを更に進歩させていく。
こういった老人からのアドバイスは、時にAIも驚かされるらしい。レトンがたまに、そういう話をしていた。
「それで、民俗学者様が何の用だね。 幽霊だの妖怪だのを探しに来たんじゃあないんだろう?」
「妖怪のご先祖様を探しに来ています」
「それだったら見当違いだね。 地球の遺跡でも漁りな」
「それが見当違いという訳でもないんですよ」
にこにこで私が応じる。
相手の顔が不機嫌そうだろうが、知った事ではない。
私としては、こういった相手から聞ける含蓄のある話は大好物だ。含蓄がなくても、何かの糧にはなる。
民俗学をやっている学者なのだ。
あらゆるデータから、様々な答えを導き出せるようになるべきだ。
私はそう自分に言い聞かせている。
可能な限り実践もしたい。
私は、プロフェッショナルとして活動しているのだから。
ただし、完璧にこなす事は不可能だろう。
人間なのだから。
故に、常に自分を戒め続ければならないのだ。
人間は驕ったときに。
破滅するのだ。
丁寧に、始祖の巨人について説明する。老婆は。しばらく話を聞いていたが。やがて、鼻を鳴らしていた。
「なるほどねえ。 結論から言うとあんたも知っている通り、このコロニーで昔頑張ったのは私だよ」
「やはりそうでしたか」
「だけれども、それはみんな同じだ。 中には私がやったんじゃあない事まで、私がやったことにされているようだね」
やはりそうだったか。
それについても想定済だと話すと、すっかり年老いているこの街の母とも言える人物は。ふんと鼻を鳴らしていた。
「学者さんだけあって、先手先手は打っていると」
「今の時代は、別に頭が良くないと学者になれない訳ではありません。 それでも私は、専門家になりたいと常に考えています。 誇りを持てる専門家に。 だから、徹底的に事前に調べてから動きます」
「ああ、そうかい。 まあ、その辺りは認めてやるさ」
「それで、幾つか聞きたいことがあります」
順番に話を聞いていく。
側にいる支援ロボットの様子から見て、多分まだ疲れ果てる事はないだろう。
途中でレトンが紅茶を運んできて淹れる。
老婆の好みも、当然知っている様子だし。
体調に配慮もしている。
これは老婆の連れている支援ロボットと、既に通信してやりとりしているからなのだろう。
「少なくとも私は自分がやったことを誇ったことはないね。 そもそも支援ロボットがいて、初めて私らは死人を出さずに開拓を出来た。 そうでなければ、大勢死んでいただろうさ」
「あー、やっぱり現場からはそういう意見も出ますか」
「このコロニーは何度か拡張しているんだがね。 最初はもっと小さかった。 安全圏を確保して、その外側に宇宙放射線を防ぐための外殻を作っていく。 資源はアステロイドベルトから運ぶし、使い終わった外壁は撤去して再利用する。 行政と支援ロボットがいなければ、そんな事を上手にはやれない。 大量に無駄なゴミが出て、それが悪い影響を与えていただろうさ」
実際に火星の開拓最前線で働いた人の言葉だ。
重みがある。
頷きながら、録音しておく。
メモに取る人もいるらしいが。この辺りの情報を全て後で書き起こすには、メモでは不十分だ。
人間の記憶力はいい加減。
メモだとどの道伝言ゲームになる。
それだったら、この周囲の全てを記録しておくべき。
それが一番、誠実だろう。
古い時代の記者みたいに、自分に都合がいい部分だけをピックアップという外道行為をするつもりはない。
私は、あくまで学者として公正であろうと考えている。
これは、始祖の巨人が誕生する過程として貴重な資料になる。
やがて、幾つかの話をした後。
核心に入る。
「一つ確認しても良いでしょうか」
「なんだい」
「貴方を崇拝していた人はいましたか」
「迷惑な事にいたね。 だけれども、どうでもよかったかな」
今の時代は、遺伝子プールが存在していて。そこから無作為に子供が作られる。私の子供も、何処かにいるかも知れない。
この人の子供も。
無論、昔ながらの結婚をする人も例外的にいるらしいが。
ほぼ上手くは行かないそうだ。
「忙しくて暇もないのに、結婚を申し込まれたことは何回かあったよ。 だけれどもね、現実を突きつけると基本的にみんなすぐに醒めていった。 一度だけ、結婚をした事もあったっけね」
「それはまた、今時珍しいですね」
「三年ももたなかったよ」
「そうでしょうね……」
結婚制度は。
既に破綻しているシステムだ。
確かに今の世界になれてしまっていると、どうしても欠点ばかりが目立ってしまうことだろう。
昔の少女漫画に描かれたようなロマンチックな愛など実在しない。
若い頃に発情期で何だかよく分からないうちに盛り上がることはあるけれども。あくまで発情期は発情期に過ぎないのだ。
恋愛が神聖視されていた時代ですら。
恋愛の賞味期限は三年なんて言葉すらあった。
そういうものなのである。
「そういった崇拝者が、貴方の事を大きく語ったことは」
「私は知らないね。 そもそも火星での労働を嫌がって、此処を離れる奴は多かったし、そういう連中の事まで覚えてはいないよ」
「なるほど……」
「三年の結婚の間出来た子供も、上手に育てられなかった。 あの子も今はどこで何をしているやら」
ふっと、寂しそうに笑う老婆。
戻って来ていないということは、まあそういう事なのだろう。
そして今は、子供は親がいなくても。
支援ロボットが支給されるし。
立派に育つ事も出来る。
社会がAIによって管理されるようになってから、理不尽な差別もなくなった。そして今の状況。
それが全てだ。
人間は人間が思っているほど強い生物ではなく、可能性もなかった。
それが現実として、ここに提示されている。
「分かりました。 幾つかの質問、ありがとうございます」
「それにしても怪異の始祖を調べたいとは、また奇特な話だね」
「人間の中には、アーキタイプというものがあるという説があります。 世界中に似たような性質を持つ、名前が違う怪異が存在しているんです。 地球だけではなく、火星にすら」
「そうかい。 学者であるあんたがそういうなら、そうなんだろうさ」
老婆も分かっているのだろう。
怪異が発生する原因となったのが自分だと。
後は、軽く雑談をして切り上げる。
充分に実りある時間だった。
帰り際にレトンに話を聞く。
「プライベートに抵触しない範囲で、あの人の子供がどうなったか分かる?」
「残念ながら既に故人です」
「そっか……」
今の時代、安楽死を選ぶ人間もいる。
年齢的に事故にあったとも考えにくい。
ただ、安楽死を選んだ可能性が高く。それは要するに、それだけ人生に何もなかったという証拠なのだろう。
ただし今の時代。
遺伝子データが保存されることにより。その子が死後も産まれる可能性もある。
この辺りは、ある意味神話的だ。
ふっと私は笑う。悪意の笑いではない。ただ、単純にその不可思議な輪廻が面白かった。
「一度戻ろう。 次の取材までする事があるし」
「寄り道をなさるつもりでしたか?」
「そんなつもりはないけどさ。 あくまで区切りをつけるための呪文か儀式みたいなものかな」
「そうですか。 相変わらず主は茶番が好きですね」
レトンの辛辣さは変わらないが。
それでいいと、私は思うのだった。
何人か、古参の労働者に話を聞いていく。やはりというべきか、分かってきた事がある。一つずつ、丁寧にまとめていく。
レポートに、話の様子を全て記載する。
本人のパーソナルデータなどは、プライベートが漏れない程度に記載するように加工する事が可能だが。
会話はそのままレポートに入れて行く。
かなり、レポートの注目度は高い様子だ。
最近は「環境映像」だとか、「炎上御用達」とか言われて、悪い意味でも注目されていた私の用意する資料だが。
今回は純粋に、火星の開拓史における重要資料として、注目している人間が多いようだった。
「火星では初期には事故が起きまくって、大勢死んだって聞いてたが……所詮噂だったんだな」
「行政が隠蔽してたって話もあったんだが、実際に現地にいた人間の言葉を聞くとどうにもな。 所詮は無責任な噂は噂って事か」
「記憶がいい加減な代物で、正確に覚えていない事も多いのは事実だが……それでもこの人達は覚えている範囲で、誠実に答えてくれているようだな」
「これが始祖の巨人がどうのこうのとかいう訳が分からない話でなければなあ」
余計なことをほざいている奴もいるが。
人間は相互理解なんて基本は出来ないものだと私は知っているので、別にどうでもいいと感じる。
「コミュニケーション」とやらは。結局強者のルールを他に押しつけるものにすぎなかった。
これに関しては動物以下の能力しか人間は備えていなかった。
だから言葉を作り出そうが。
社会システムを作り出そうが。
簡単に瓦解したし。
長続きしなかった。
人間は他者と意思疎通なんて出来ていない。今でも、支援ロボットを介さないと出来ない。
それを私は知っている。
出来る人間もいるのかも知れないが、それはあくまで特殊な個体だ。実際問題として、古くから人間は思考停止して絶対者に全てをゆだねることを選んで来た。それが歴史的事実。
愚かしい、人間の真実だ。
だからこそ、理解出来ないものには恐怖する。
それが怪異になる。
ある意味、私自身が怪異に近付いているのかも知れない。そうなると、私は自分を美味しそうと思うのだろうか。
否。
まだまだ、全然足りない。
私が怪異になるのには、全く足りていない。
私はレトンに紅茶を淹れて貰う。少し、気持ちを冷やしたかった。
南雲から連絡が来る。
南雲が最近、私を明確に怖がり始めているのを知っている。だが、ビジネスパートナーとしては、互いの感情なんてどうでもいい。
私も、南雲もそれを理解していると思いたい。
「始祖の巨人について、データを更に追加しておきました」
「ありがとうございます。 此方のデータは何か役に立ちそうですか?」
「柳野先生は仮説を立てる事を好まれませんでしたね」
「ええ」
理由は簡単。
人間の大半には、仮説と言う概念は理解出来ないからだ。
というか、人間の大半は、殆どのものごとを理解すらしていない。それで生きていけるからだ。
これは21世紀の頃の、しっかり教育を受けていた人間ですらそう。
教育を受けていない人間は更に無能だ。
だから、私は人間には一切合切期待していないし。
見ていて美味しそうだとも感じなかった。
「それならば、怒らないで聞いてほしいのですが。 仮説が私の中で立ちつつあります」
「聞かせてください」
「……始祖の巨人は、やはり伝言ゲームで出現したものだと思います。 そして基礎的な伝言ゲームで出現した始祖の巨人は、やがて政治的な意図で神話に組み込まれた」
ふむ。
確かにそれは、説としてはありそうだ。
そもそも殺されなかったタイプの始祖の巨人は、やがてどことも知れぬ場所に去って行くし。
そうでない始祖の巨人は、明確に後から来た連中に殺される。
場合によっては新しい天地の肥やしにされる。
それを考えると。確かに宗教が支配の道具として成立していく過程で。古き信仰よりもより強い神が支配者になる事で。、政治的に始祖の巨人の信仰より上と示した。そういうクソどうでもいい事情が見えてくる。
今回火星に誕生しようとしている始祖の巨人は、どちらかというと殺されないタイプの始祖の巨人だ。
やがて噂が一人歩きして、偉大なる一人として集約していくのだろうが。
政治経済がAIに握られている今。
それは最早、殺される必要はないのだ。
崇拝する個人は出るかも知れないが。
それが徒党を組んで、政治活動をする事はなくなるし。
また徒党が政治的な影響力を持ち。
支配にはそれが邪魔になる事もないのだから。
それを話すと。
南雲も納得した様子である。
「はい、そういう見解で私も一致しています。 実際に始祖の巨人が誕生する過程をリアルタイムで追いたかったのですが、流石に少し出遅れましたかね」
「いや、リアルタイムで追っていると思います。 今は始祖の巨人はまだ形を為していません」
「ふむ?」
「今は、伝説的な技術者達の活躍が、噂になって一人歩きを始めている段階に過ぎない」
そう。
ここから、始祖の巨人が生まれるのだ。
その過程を、まだ見ているだけ。
それに過ぎない。
だからこそ、私は沸き立つ。もしも始祖の巨人が生まれるならこれからで。その誕生に立ち会えるかも知れない。
怪異を扱う民俗学者として。これ以上に嬉しい事はあろうか。いやない。
私は、情報を集める。
情報を歪めるつもりも、情報が拡散する過程を邪魔するつもりもない。
一応仮説はあるが、それを公開するつもりもない。
なぜなら私は。
フィールドワークの専門家だからだ。
仮説を作るのは別の人間がやればいい。
今の時代は、昔のように何でも一人で全部こなせる人間なんて求められる事はない。
ただ、それだけの話だった。
2、形為す巨人
世界中に巨人の伝承は存在している。
日本だって同じ。
他の国だって同じ。
だからといって、巨人に何かモデルがあったと考えるのは早計だし。
何よりも、巨人が当たり前のように闊歩していたと考えるのは、更に早計と判断していい。
巨人は昔存在していた大型類人猿であるギガントピテクスが伝承として残ったもの、などという説もあるが。
それはあまりにも、安易に怪異に実体を求めすぎだろう。
怪異は実体があって、そういう生き物がいたから残ったのではない。
河童にしても、カワウソや水死体などの見間違いもあるが。何よりその生態がサンカの民をモデルにしていることが色濃く出ている存在で。
「河童」という存在がダイレクトにいた訳ではなく。
様々な事象が重なり会って、河童が最終的に作りあげられている。
一時期流行った鬼の正体が漂着した異国の民、等という話も同じ。
「鬼」という言葉の語源や。
様々な研究から考えても、それはあり得ない。
仮にあったとしても、「鬼」の存在のごく一部を為したに過ぎず。
やはり「鬼」の事実は、「得体が知れないもの」がやがて怪異となっていった。それだけに過ぎないのだ。
巨人もそうだろう。
私は、火星のコロニーで彼方此方を回って、アポを取り付けた相手と順番に話をしていく。
今の時代、火星生まれだからと言って地球に移住できないかというとそんな事はまったくなく。
火星から地球に行きたければ、ある程度の年齢になれば自由に赴く事が可能となっているし。
その逆に、地球から火星に移住することも容易だ。
政治経済をAIが回しているから、利権が存在せず。
定住も起こりにくい。
何より人口が三十億程度で固定されていることもあって。そもそも人類全部が一箇所に押し寄せても誰も困らないのだ。
ただ、そういう状況だから、危険と言われている開拓の地。火星もそうだし、今だと最前線は木星だが。
そういった場所に行きたがる民はいないし。
逆に言うと。
火星に定住している人間は、相当に強い使命感を持っていると言える。
そういう人間が、それなりの実績を上げるのは。
使命感からではなく。
根気よく物事に向かい合って。
その結果として、実績を上げるようになった。
ただ、それだけと言える。
カフェでまた人と会う。
重力が弱いのにも体が慣れてきている。パワードスーツもしっかり筋肉の補填をしてくれている。
レトンも、蛋白質を多めに食事に入れてくれているようだ。
SFものであったような、惑星間の生活格差はない。
少なくとも私は、実際に足を運び。コロニーを隅々まで見て回って。そう感じ取っていた。
カフェに来たのは、くたびれたおじさんだ。
見かけはおじさんだが、年齢は八十を超えている。
頑張ってアンチエイジングしているという事だ。
もっとも、今はその気になればもっと若く見せる事も可能だし。
いっそのこと、意識だけコンピュータに移してしまうことも出来る。
そうしたいと思う人は、ほとんどいないらしいが。
名刺を見せて、軽く挨拶。
録音などの装置をセットする。
相手は、最初にインタビューした老婆と同じく。この火星で、ずっと開拓をして来た人物だ。
とはいっても、親子代々とかそういうのではない。
ただ遺伝子操作で他の人と同じように誕生した。
それだけである。
また、この人の出身地は火星では無く。
生まれてからある程度経過してから、火星に移住したらしい。
プライベートの話は殆ど封じられているが。
そう言ったことは開示されているようで。レトンも淡々と事前に説明をしてくれた。
「火星にわざわざ何のようかね、学者先生よ」
「今の時代、別に学者が偉いわけでもありませんよ」
「そうだったな……」
昔は、頭が良い人が学者になっていた。まあ、それは当たり前だろう。数学学者なんかは、とてもではないがボンクラには出来ない。
だが一方で、一時期の社会ではいわゆる体育会系の人間が幅を利かせた結果。
学者や、高学歴の人間が排斥されるという謎の現象が発生した。
「何か知恵をひけらかしてむかつく」とかいう、ふわっとした理由からだ。
こういった事からも、人間は幼児の頃から脳みその中身が変わっていないことがよく分かるし。
相手の「お気持ち」を最重視する文化が、如何に有害かもよく分かる。
「お気持ち」で人材を放り捨てているのだから当然だろう。
そしてそれをやった連中は、どれだけの社会的損失を出しているか、理解も出来ないのだから。
軽く巨人について説明する。
おじさんはコーヒーを啜りながら、嘆息していた。
「巨人ねえ」
「大きな業績を上げた人にインタビューをしています。 貴方はコロニー外でのテラフォーミング作業で、大きな実績を上げていますね」
「ああ、そんな事もあったな」
ふっと、おじさんは笑う。
この人は調査によると、コロニー外にあった氷河を恒久的に湖にする作業でかなりの活躍を見せている。
火星も一部の地域には氷河が存在しており。
大気がない故に全く気温が安定しない火星でも、ずっと氷になって残っている。
いうまでもなく、それは極めて貴重な水だ。
しかしながら、火星は重力が弱く、その結果大気も水もあまり保持できなかったという現実もある。
そこで、テラフォーミングの過程で、まずは水を得るとしても。
複雑な行程で、水を保持することも考えなければならなかった。
そこで幾つかある氷河地帯を丸々ドームで覆ったのだ。
これは万が一の場合……。
例えば、未知のウィルスだの細菌だの、或いは古細菌だのが氷河の中に存在していて。
それが致命的なバイオハザードを引き起こす可能性も想定しての行動でもあった。
主にアステロイドベルトから運んだ資源を活用して、ドームを作りあげる作業は、一番大きなコロニーを作る作業以上に手間暇と、資源を要した。
そんな作業で活躍したのがこの人だ。
支援ロボットが連日制止するまでギリギリで仕事を続け。
行政のAIと連携しながら、最前線で働き続けた。
勿論巨大な氷河のドームを作りあげられたのは、この人だけの努力があったからではない。
だがこの人は、何かに憑かれたかのように作業を続け。
著しく、ドームの完成に貢献したのである。
その後は燃え尽きてしまい、数年は黙々と言われた作業だけをしていたようだが。
今でも主にコロニーなどの外壁修理で活躍しているそうだ。
軽く、調べた事について話をすると。
概ね間違っていないと、おじさんはいう。
「よく調べたもんだな、こんな老いぼれの事を」
「そう卑下なさらず。 貴方のやった事は、あらゆる意味で立派ですよ」
「立派なものかよ」
「……何か理由があったんですか?」
おじさんはいう。
単に、証明がほしかったのだと。
「俺は妙な衝動があってな。 良い女を見ると、首を絞めて殺したくなるんだ」
「ほう……」
「たまにいるサイコ野郎の一人さ。 アンタは綺麗だが俺の好みじゃない。 俺の支援ロボットが、面会を許可してくれた理由だよ。 俺は若い頃は随分悩んだ。 実際、VRでは女を殺すものばかりをやっていて、それで欲求を発散していたくらいだ」
随分とデリケートな話題だが。
別に隠すことでもないと思っているのだろう。
それに今の時代。
そういった欲求があっても、支援ロボットがとめる。
そうでなくとも、行政が手を回して管理ロボットがとめる。
それだけの話だ。
「サイコ野郎の俺でも、何かを残したかった。 だから一生懸命仕事をした。 ただそれだけの話だよ」
「かくいう私もキュートアグレッションの傾向がありましてね」
「……」
「今の時代、誰の脳内にも精神の病気がある事が分かっています。 何も、それを気に病む事はありませんよ」
それは勿論相手も分かっているだろう。
だがこの人には。
それが強い強いコンプレックスだったのだ。
それもよく分かる。
だから、それ以上は、この件については話はしない。それと、レポートにこの部分は載せるべきではないだろう。
プライベートに抵触するからだ。
「そうか。 あんたも悩みを抱えてるんだな」
「まあ私の場合は、怖がられても隠すつもりはありませんけどね」
「あんたは強いなあ」
「いえ。 単になにかが壊れてるだけです」
苦笑すると、インタビューを続ける。
幾つか質問をしたあと、具体的な話を聞いていく。そうすると、妙な事が分かってきた。
「俺が真面目に仕事をしている頃、俺の事を指さして笑っている奴の方が多かったな」
「それは本当ですか?」
「ああ。 俺の支援ロボットが、しっかり記録もしている。 俺はそれは当然だと思って甘受したが」
「……」
なるほどな。
この人は強いコンプレックスがある。自分の中に住んでいる化け物を、誰よりも憎んでいたのだろう。
自分の中に化け物がいる。
それは精神医学的に当たり前の事なのだが。
それを受け入れられない人は、どうしてもいるのだ。
この人はそうだった。
症状が重かったから、かも知れない。
そして症状が重くて、それを自覚もしていた。
だから笑われても当然と思ってもいたのだろう。
そういえば、支援ロボットも女性型ではないな。典型的な蛇型である。火星などの危険地域では、安定して動ける蛇型が人気だと聞いているが。
話を総合する限り、この人が蛇型の支援ロボットを使っている理由は、別にあるのだろうな。
そう私は判断していた。
「笑っている連中が、どういう理由で笑っているかはどうでもよかった。 俺はとにかく、化け物を押し殺そうと思って必死に働いた。 働いている間も、化け物は俺の中で暴れ続けた。 俺の仕事は、化け物との戦いだったのさ」
「続けてください」
「やがて俺を笑う奴はいなくなった。 こいつが……支援ロボットが手を回したんだろうな」
「恐縮です」
流ちょうに喋る蛇型ロボット。
元々主人が、コンプレックスから自分を痛めつけるように労働をしている事に、心を痛めていたのだろう。
レトンもそうだが、支援ロボットには心がある。
エゴはないのだが。
だからこそに、そう行動できた。
行政の側でも、差別が生じる事は好ましくないと感じたのだろう。
区別ではなく、この場合は明確な差別だ。
これだけ環境が整備されても、それでも人間は自分より下の存在を作って安心しようとする。
そういった現実を思うと。
私は大きな溜息をつきたくなる。
「いつの間にか、俺の仕事は称賛されるようになった。 ただ、俺の中の化け物はいなくならなかった」
「……」
「俺は極地のドーム作成作業でいつの間にか誰よりも実績を上げていて、知識も増えていた。 時々行政のかなり上位のロボットが、俺に相談に来るくらいにはな。 俺はいつの間にか、誰も介入しなくても嗤われなくなった。 だが、俺は……乾いたままだった」
それでか。
それだけ働いても、いなくならない怪物。
だが、そのサイコな気質は、恐らくだが生来のもの。
どうあっても、何をやっても。
どうせ消える事はなかっただろう。
そう思うと気の毒な話だ。
この人は、己の中の怪物と必死に戦い続けた。
だが、それは己そのものだった。
それでは勝てる訳がないし、もし勝っても己が歪むだけだ。
苦しかっただろう。
どれだけのセラピーだのなんだのを受けても効果がなかったという事は。それだけこの人の内部に住んでいる狂気が強かったと言う事。
そしてそれは、別に誰もが持っているもので。
消せるようなものでも無いと言う事だ。
「俺は疲れた。 行政側も、俺の仕事を認めて、それに俺の苦悩もある程度理解してくれていたのだろう」
「それは、AIが行政を回している強みですね」
「ああ。 昔だったら俺は若いうちに女を本当に縊り殺すか、或いは精神病院で一生監禁されていただろうな」
ふっと、おじさんは笑うと。
コーヒーを啜った。
今回はプライベートに関わる部分が多いな。
そう思いながら、話を聞く。
この人は、相応の実績を上げた偉人だ。
だが、それでも。
やはり、苦悩とは切っても切れない関係にあった。
それだけの話が、酷く重く感じられた。
「貴方の業績が一人歩きしている節はありませんか」
「そういえばそんな話は聞いたことがあるな。 行政がプロパガンダでもしているのかと思った事はあるが。 今の行政は、そんな事はしないんだったな」
「人間が政治を回しているのであれば、プロパガンダは行われたでしょうね。 しかしそうではない。 ただそれだけの話です」
「確かに俺の業績がやたらと拡大されて話に上がっているのは聞いたことがある。 だが俺は、そもそも自分がやった事には興味がない」
というか、分かる。
この人は、意図的に他人との関わりを避けてきている。
それは、逃れ得ない業を自覚していて。
それによって人を傷つけないためである。
この人は殺人鬼の特性を色濃く持ちながら。それでいながら、サイコ野郎になりきれなかった。
人間社会で暴れ回り被害を出すサイコ野郎の条件は、他人の痛みや苦しみをどうにも思わない事が必須となる。
21世紀で言う所のブラック企業やその幹部達が典型だろう。
際限のない自己正当化を出来ること。
それが怪物の条件なのだ。
この人は、人殺しの素質はあったが、自己正当化をできなかった。そういう意味で、サイコ野郎にはなりきれなかった。
そういう意味では、非常に辛かっただろう。
苦しみ続けた人生だったのだ。
このくたびれた姿も、或いは。
何かしら同情した人間が、寄りつかないように意図してやっているのかも知れなかった。
「誰か噂を拡げている人に心当たりは」
「さあな。 俺は他人に興味がない。 俺が働いているときに俺を揶揄している連中の言葉が最初の頃は聞こえた。 最後の方は、凄い人がいるとか言っているのが聞こえた。 だが、いずれにしても勝手な他人の発言だ。 俺は知らん」
「なるほど、分かりました。 ありがとうございます」
「いいさ。 俺なんかの事が、何かの役に立てばいいんだが」
礼を言うと、次の人の所に向かう。
今日は、もう何人かのインタビューをするつもりだ。
かなり忙しいが、スケジュールはレトンが管理してくれている。
それにしても。
ちょっと、今の人は気の毒だったなと思う。
「かあちゃん、さっきの人……」
「恐らくあの方の言っていた罪業は本当です。 あの方はずっと私の首を見ていました」
「そっか。 自分でもそれが分かっていて、苦しかったんだろうね」
「色々苦悩した挙げ句に、自傷行為までしていたようです。 既に生殖機能を失っていますが、それも……」
そうか。
生殖本能と人を殺したいという欲求がつながっていると思ったのだろう。
支援ロボットもとめたのだろうが、長年苦しみ続けて、ついに色々と体を損じてしまった訳か。
なんだか気の毒だな。
そう思う。
そしてああいう人は、昔だったらサイコ野郎の一言で斬って捨てられて。
あの人が言った通りの結末だっただろう。
ただでさえ、昔の人間は病人を揶揄することを何とも思わなかったという記録がある。それは明確な差別だが。正しい差別だなどとおぞましい自己正当化を普通の人間が行っていたのだ。
それは明確な外道の歌だが。
それを自覚すら出来なかったし。
そうであったとしても、何かしらの形で自己正当化をしただろう。それが普通の人間だったのだから。
とことん反吐が出るな。
そう思いながら、別の場所に到着。
今度は公園だ。
低重力で出来る、「ハイバスケ」と呼ばれる競技をしている人間がいる。
普通のバスケットボールに比べて、ゴールが三倍も高い。
重力が地球の半分強の現在の火星では、これくらいないとバスケットボールが成立しないのだ。
火星で働いている人間の一部が、時々こうして楽しんでいるらしい。
なお、レトンによると、あの中で人間は一人だけ。
他は管理ロボットと支援ロボットだそうだ。
ふうんと思いながら。待ち合わせの人を探す。
今度は若々しい女性だが。実年齢は私の二倍以上である。
ただ。今までにインタビューした人達に比べると、かなり若い。
今の時代は、そうやって年齢を誤魔化せるのだ。
挨拶をした後、名刺を出す。
相手も名刺を出した。
ある程度、事業に関わっている人物らしい。
ただし今の時代。事業に関わったところで、その金をちょろまかしたりはできないのだが。
事業家とかは存在しているが。
保有資産は他の人間と変わる事はない。
経済を握っているのはAIで。
それが人間の利害を調整し。貧富の格差を拡大させない最適解だと誰もが知っている。
一部、それに不満をもつ人間もいるようだが。
実際問題、悪い事をしたわけでもないのに搾取されてガリガリにやせ細った人間を。悪い事をしまくっているくせに真面目に働いている人をゴミでも見下すようにしている富裕層の映像を何度も見た身としては。
こっちの方が正しいとしか、言えない。
「私の行った開拓作業の話でしたね」
「はい。 詳しくお願いします」
ブランコがあるので、並んで座って話を聞く。
レトンが絶妙な加減で押してくれる。
なお、事業家の女性もレトンとおない年くらいに見える女性型の支援ロボットを使っていて。
しかも無茶苦茶可愛いフリルだらけの服を着せている。
これは、ある意味歪んだ愛情だな。
そう、私はちょっと思った。
この女性自身は、バリバリにスーツを着て、しっかり化粧を決めている。昔に存在したようなビジネスの最前線にいる感じなのだが。
この辺り、素の人間性が透けて見えるのが面白い。
勿論、そんな事を口にするつもりはない。
「今は事業そのものを動かす側に廻っていますが、もう少し若い頃は実際に手を動かして、火星の農業プラントの設立に関わりましたね」
「話に聞いている通りですね。 どのような作業を為されましたか?」
「私が行ったのは、土地を改良する実験段階の行動です」
火星の土には殺菌作用がある。
これはどういうことかというと、長年宇宙放射線をダイレクトに浴び続けた結果だ。
これが判明してから、火星には生物は恐らく存在しないだろうという結論が出て。火星に生物がいるかも知れない。上手く行けば火星人もいるかも知れないと言う議論は、一気に下火になっていった。
そういう意味では、とても残念な話ではあるのだが。
私としては、まずは順番に話を聞いていくだけである。
「これだけ強力に殺菌されている土壌だと、そもそも作物も動物も育ちようがありません」
「そうでしょうね」
「そこで、土そのものを研究して、どうにか栄養を作り出せないか工夫しました」
最初は細菌から。
それから原始的な植物を用い。
少しずつ、土の改良を行っていった。
非常に強力な繁殖力を持つ植物でも、根付かなかったそうだが。
長年苦労して少しずつ成果を上げ。
やがて。放射線を遮るドーム内のプラントの土とは言え。
ついに作物を芽吹かせることに成功したと言う。
とはいっても、丁寧に丁寧に手を入れて。それでやっとの結果だ。
これを自動的に生物がやっていけるようでなければ、話にならない。
火星では、時間を掛けて重力を増やし。
そして大気を作り出す作業を行っている。
まだまだ当面……少なくとも私が生きている間には出来ないだろうが。それでもテラフォーミングは確実に進んでいる。
確かにこの人のやったことは、始祖の巨人が行うような大地の開拓そのもの。
そしてこの人は、淡々と実績を上げたのである。
「土にまみれて仕事をする。 素敵ですね」
「うちの支援ロボットも、別に私がやらなくてもいいとは言ったんですけれどね」
「そうでしょうね」
苦笑する。
多分だが、レトンも同じ状況なら、そう言っただろう。
わざわざ人間がやる意味がない。
だが、この事業家の女性は自分でやらなければ意味がないと思ったそうだ。
なぜなら、人がこれから暮らすのだ。
人が実際に手がけて。
それで育ててみないと、何が起きるか分からないと。
完璧な滅菌能力を持つ支援ロボットなら、確かに計画通りの作物を育てることが可能だろう。
だが、それでは人間に何かトラブルが起きるかも知れない。
人間はナマモノなのだ。
そういう意味では、自分を人身御供に捧げたようなもので。
本当に始祖の巨人めいていた。
バラバラにされて世界の材料にされた始祖の巨人。ユミルやティアマトの事を思い出す。
この人のような、未来を信じて自分を犠牲にした人が過去に存在していて。
それが後の人間に都合が言いように政治的な考えもあって悪役にされたのだとしたら。何というか、あらゆる全てが救えない。
だが、それもそれで人間だと思うと。
いや、それもまた救えないか。
私は頭を振ると、続ける。
「それで、その後はどうなったんですか?」
「基礎的な研究を終えた後は、支援ロボットが一通り引き継ぎました。 私で必要なデータは取れたという事で」
「なるほど……」
「実際はこの子の差し金のようですけど」
無言のままの事業家の支援ロボット。
そうだろうなと、思う。
レトンだって、そんな聖餐じみたものに、私がなろうとしたらとめるだろう。いずれにしても、今の時代では。
過去のような事は、起きなかった。
それが全てだ。
始祖の巨人は犠牲の塊なのかも知れない。そう私は思い始める。
何か巨大な事業を為すときに、進んで何かを為していった人達。
だけれども、その人達の業績は、後からきた連中の利害には邪魔だった。
だから、業績ごと消された。
後は始祖の巨人という存在にされて。
そう考えると、天を仰ぎたくなる。これこそ、邪悪の極みではないのだろうかと感じてしまう。
だが、これこそが人間だという事も分かっている。
私は、認めなければならないのだろう。
これが人間で。
この醜悪さを認めてこそ、初めて研究が進展する。
怪異は人間の心に生じるもの。
だとしたら。
その原初たる始祖の巨人は。文字通り、人間のもっとも深く闇濃い業が正体なのではないだろうかと。
勿論、その仮説を口にするつもりはない。
レポートに載せるつもりもない。
ただ、この人も。
他の人も。
もしも人間がそのまま政治経済を握っていたら。業績を歪められてプロパガンダに使われるか。
後からのうのうと来て、利権だけ貪ろうとするカスどもによって存在そのものを抹消されるか。
いずれかだったのだろう。
「……その後は」
「やる気もなくなったし、事業家に転身したの。 確かに私は無理をしすぎていた。 使命感を持つ事は大事だけれども、それを私だけがどうして背負わなければならないのか」
支援ロボットが、泣きながら訴えたそうだ。
これ以上、聖餐になるのを見ていられないと。
それを見て、思ったのだとか。
確かに、その通りかも知れないと。
それで、事業者に転身か。
それもまた。ありなのだろう。
幾つか話を聞いた後、レポートに載せる事にする。今までの話も、全て載せている。プライバシーに関与する部分は、レトンに切り抜きを任せる。
それで、全てが綺麗に収まるだろう。
ただ、私は色々と思う事もある。
このまま行くと、特に最辺縁などで、人間がAIによる政治と行政の管理をよしとしない状況が来るかも知れない。
人間の生息域が拡大したら、それも充分に起きえることだ。
そうなったら。
また、もとの木阿弥になるだろう。聖餐としての人々を食い潰しながら、カスとサイコ野郎が好き放題に振る舞う社会の再来だ。
そうなってしまえば、今度こそ人間は終わる。
それを思うと、私は帰路で、何度も溜息をつかざるを得なかった。
「急いで戻りましょう、主」
「うん……。 もっとも楽しみなはずの研究だったのに、どうしてこんなに悲しいんだろうね」
「精神が不安定になっているのなら、多少の暴言や暴力も甘受します」
「かあちゃん、そういうことは言わないで」
余計に悲しくなる。それでは聖餐となるのはレトンになるだけだ。
私は。愚かしい連中とだけは一緒になりたくなかった。プライドの問題では無い。知識の問題からだ。
始祖の巨人を私自身が作り出したくは無い。
ただ、それだけの事だった。
3、帰還
50人ほどに取材をして、地球に戻る。火星からのバスも、問題なく航行している。帰路は、口数が少なくなった。
私は、色々と闇を見過ぎたのかも知れない。
だけれども、それはそれこれはこれ。
研究者なのだ。
学者なのだ。
私の個人的感情と、客観は区別しなければならない。そう、考えていた。
インタビューした人間には、どうしようもない人も存在していたが。
それ以上に、責任感を持って仕事をした人もいた。
昔だったら、全く評価されないか。
表向きは褒められながらも、裏では使い潰される。
そんな人達だった。
特に、「代わりは幾らでもいる」とかいう愚言がまかり通った時代は。これらの人が評価されることは絶対になかっただろう。
サラリーマンでなければ人で非ず。
そんな価値観がまかり通っていた時代が実在して。
そういう時代では、確定で無能の烙印を押されていた人ばかりだった。
帰路で、私はぼんやりとする。
ちょっと頭を使いすぎたかも知れない。
最近は夢も見なくなっている。
夢の内容は覚えていないが。
いずれもが、楽しい内容だったのは事実なのだろう。
よだれ塗れになっているのだから。
レトンは心配そうにしていたが。流石にレトンに心配をこれ以上掛けるわけにもいかないだろう。
私は無言で作業に戻り。
始祖の巨人に関するレポートを、細かい所でどんどん調整していった。
今回も、仮説の類は一切乗せない。
それは私の仕事ではないからだ。
私の中では結論はある。
だけれども、それを口にするつもりはない。
私は怪異を美味しそうと感じる怪人。
レポートを見ている人間には、それくらいの認識で別にかまわないのである。
そうでなければ、私を変な風に持ち上げるかも知れない。
いずれにしても、私は。
あまり人間には期待していないし。逆に期待されても困るとも考えていた。
南雲から連絡が来る。
時々連絡を取っていたが、今回のフィールドワークは特にきつかったこともある。メールでの連絡が主体で。
しばらくは、立体映像で話す事はなかった。
「柳野先生、少し痩せられましたか?」
「そう見えますか?」
「は、はい。 なんというか……」
「ちょっと疲れが溜まっているかも知れないですね」
自嘲する。
多分触れてはいけないと思ったのだろう。
メールでやりとりだけしていても、分からない事は結構あるものだ。
南雲も、それは同じであったらしかった。
ともかく、咳払いする南雲。
そして、打ち合わせを幾つかしておく。
レポートの精査は二人でやっている。それで別にかまわない。共著のレポートなのだから、別にそれでいいのである。
今回は、かなり品質の高い資料を取る……或いは「撮る」事が出来た。
後の時代の民俗学者が垂涎の資料になるかも知れない。
だが、それは自画自賛だ。
だから、それを口にするつもりはない。
いずれにしても、今回のレポートには満足している。これ以上もないほど、しっかりフィールドワークした。
しかも、怪異研究家だったら絶対に触りたいもの。
始祖の巨人そのものに対しての研究だ。
それが出来たというのに。
どうして私は、窶れているとまで南雲に言われる程。そしてそれを自覚できている程、疲れているのだろう。
楽しいはずの事なのに。
それがとにかく、悲しくてならない。
「此方で出来る事は全てしたかと思います。 信頼性の高い一次資料は可能な限り集めました。 後は書籍についての引用ですが、これについても可能な限り客観性が高いものを集める事が出来たかと思います」
「いつもありがとうございます。 後は調整をして、終わりですね」
「はい。 地球に柳野先生が帰還為されるまでにやっておきましょう」
「そうします」
少し悩んだ後。
気付く。
南雲は、色々「落ちて」いる。悪い意味ではない。良い意味でだ。憑き物が落ちたようにすら見える。
化粧は攻めていないし、格好もかなり地味になっていた。指先の爪も、マニキュアを塗っていない様子だ。
服装はゴスロリファッションだが、それでもロックと言える程の代物でもない。
何か心境の変化があったのだろうか。
「南雲先生、だいぶ地味になられましたね」
「気付かれましたか。 色々心境の変化があって、過剰に着飾ることを止めようと思いました」
「そうだったんですね」
「柳野先生は……心配です。 この間の研究から、どうも体を削っているように思えてしまって」
南雲は相応に鋭いな。
確かに、レトンが心配するくらい負荷が大きい。
これは低重力下で過ごしたのが原因ではないだろう。
「あの、提案です」
「どうしましたか」
「フィールドワークで主に人と接してきたのは柳野先生です。 後のまとめは、私がやりましょうか」
南雲はそんな事を言う。
私は、大丈夫と言おうとしたが。
レトンが、肩をぐっと掴んだ。
レトンは何かいいたそうだ。私は。ため息をついていた。
「分かりました。 お願いしても良いでしょうか」
「お任せを」
「苦労を掛けます」
「いえ、最近柳野先生は本当に無理をしていたと思います。 だから、少しでも手伝わせて貰えますか」
少しだけ、嬉しかった。
最果ての時代を経て、人間はあらゆる意味で社会性というものをクラッシュさせたのだと思う。
本来はその時点で滅びてしまうべきだったのかも知れない。
だが、こんな風に言える人間もいるんだな。
そう思って、私はちょっとだけ嬉しかった。
少しだけ、休みの時間が出来た。
ただ、南雲だけだとどうしても校正などでミスが出る可能性もある。
レトンがため息をつく。
「行政には、少し余裕を持って仕事期間を取って貰っています。 自身で推敲の仕上げを為されるつもりなら、地球に戻ってからでも時間があります」
「ありがとうかあちゃん。 なんだか迷惑掛けるね」
「迷惑はいつものことです。 でも、私は主が楽しそうにしていてほしいです。 どれほど呆れる内容であっても」
「そっか……」
レトンは多くの子供を持つ人間よりも、ずっと親をしているな。
そう思って、本当に嬉しくなる。
実際の血縁なんてものが、ろくでもないことは私も良く知っている。
だから、私は。育ての親がとても立派で、とても嬉しいのだった。
地球に到着。
自宅まではすぐだ。
今の時代、重力を振り切るのは実に簡単である。
そういえば何処ぞの有名漫画……いやアニメで、地球に魂を引かれた云々があったっけ。皮肉な話で、宇宙に実際に人間が出て見ると、そんなものはなかった。ただ、AIが行政を管理していなかったら、そうなっていたかも知れない。
ただし、そもそもAIが政治経済を管理するようになったから人類は絶滅を免れたのである。
いずれにしても、机上の空論だな。
そう思う。
自宅に到着すると、レトンが既に遠隔操作で風呂を沸かしてくれていた。まずは風呂に入って溶ける。
本当に溶けるかのようだ。
疲れがじっくり取れて。その後はレトンがマッサージチェアを使ってくれた。体をほぐして。それで一日眠った。
その翌日は、すっきり目が覚める。
まだ体が若いとは言え。
精神にも大きな負担が掛かっていたのだろう。
それで、今回は色々と参っていた。
そういうことだ。
起きだすと、レポートに向き合う。南雲とメールで連絡を取りながら、推敲を進めていく。
意見が対立することもある。
それは視点が違う人間なのだから当然だ。
昔はこう言うとき、それそのものが派閥になる事もあったらしく。結果として派閥の力が強いほうの意見が通ることも多く。
真実が闇に屠られるような事も多かったそうだ。
事実電力は、普及する際にエジソンのごり押しで危うく直流が主体になる所だった。もしそうなっていたら、大変な事態になっていただろう。電気の父とまで言われるエジソンだが、そういう致命的ミスもしているのである。偉人ではあるが、くだらない政治闘争が絡むと偉人でもそんな低レベルなミスはするものなのだ。
勿論今は、政治闘争が絡まない。私もそんな馬鹿な事はしない。
私も南雲もそれはわきまえているし、支援ロボットもついている。
そういえば、南雲は円筒形の支援ロボットを連れていたが。なんだか姿が変わっているように思う。
たくさんセクサロイドを家に置いていると聞いていたが。
南雲が連れているのは、スポーティな雰囲気の活発そうな女の子型の支援ロボットである。
意見の交換の間に、その話に触れる。
南雲が咳払いして、話してくれた。
「その、笑わないで貰えますか?」
「笑いません」
「……ようやく、自分と向き合うことが出来たように思います。 今までは、連れて歩く支援ロボットを、どんな姿にしても自分の性癖を見られるようで怖かったんです」
笑わない。
私も、人間がどれだけ業が深いかは理解している。
南雲はニンフォマニアだと言っていた。性欲があまりにも過剰なタイプだ。だからたくさんイケメンのセクサロイドを置いている。そういう業を抱えているからだ。
そして、南雲は今までその業がどうしても受け入れられなかったのだろう。
だから、連れ歩く支援ロボットは円筒型の班用タイプにした。
昔の支援ロボットのガワは違っていたはずだ。
そう思うと、南雲も苦悩していたことが分かる。
「最初の母の姿です。 霞、挨拶してください」
「霞です。 よろしくお願いします」
「いえ、ご丁寧に」
スポーティな格好をした女の子は、ぺこりと頭を下げる。ただ、人間ではない事が分かるように、額からは角が生えていたが。
鬼の子、か。
昔だったら色々と悪口になる言葉だっただろうが。
今の南雲は、民俗学のデスクワーク専門学者として、それをむしろ誇りに思えるようになった、ということだろう。
これは負けてはいられないな。
私は、素直にそう思った。
「推敲を続けましょう」
「分かりました」
二人で調整を続ける。
やがて、両者納得が行くものが出来る。意見の交換は冷静に行われ、違えることはあっても喧嘩になる事もなかった。
本来それが正しい調整なのだろう。
それが相手のお気持ちがどうの、正論の言い方がどうのこうのという話が出てくる方がおかしいのだ。
どうしていちいち相手の顔色を窺って、機嫌に寄り添っていかなければならないのか。
そんなだから、人間という生物は万年何も進歩しなかったのだろう。
私はそう思う。
そしてこれに関しては、極めて客観的な事実だ。
レポートが仕上がる。
レポート作成の過程は、他の人間も見る事が出来る。
今回は、かなりの学者も見に来ているようだった。
「おお、完成したらしいな。 ただ、フィールドワークの資料は一通りみせてもらっているから、あくまで一区切りだろうな」
「仮説を出さないと言う事だが、惜しいなあ。 別に出してもいいと思うのだが」
「それは思うところあっての事だろう。 それに怪異の研究者となれば、その原初となる原初の巨人発生の段階を見られるのは冥利に尽きる。 このレポートは労作だし、完成に祝福の声を送りたい」
そうか、色々な学者から好意的な声が出ているか。
それは有り難い話だ。
一方で、民俗学以外の学者も興味を示しているようだ。
「火星の開拓史における貴重な資料だ。 後から探す事も出来ただろうが、先にやってくれた人がいるのは助かる」
「まだ火星は開拓の途上ではあるが、確かにその通りだ。 初期の開発における活躍した人間に、じかにインタビューしてくれているのはとても助かるな。 支援ロボットなどのメモリから記録を後で取りだすことも可能だが、役所の申請など色々と面倒で、かなりの手間が掛かる」
「取材という観点からもこれは有り難い。 プライベートに関わる部分は消しているが、それ以外はあらかた生のままの取材を載せている。 消した作業もAIがやっているから、人間の記者が恣意的にやるよりも遙かに公平性を確保できている」
「これでは新聞が絶滅するわけだ。 自分を特権階級と勘違いした挙げ句、客観性を一切担保できなくなったのだからな。 今では素人が対談するだけで、これだけ公正な記事が飛んでくる。 それは新聞記者なんて、もう何の役にも立たないな」
幾つかのコメントを見て、私はそれ以上止めた。
これ以上見ていると、天狗になる可能性があるし。
何よりも、精神衛生上良くないと感じたからだ。
人間が堕落するのは。
自分が偉いと錯覚した時からである。
それは私も。
色々な人間の資料を見て。接して。
そして何より、この間の「常識」の調査で思い知っていた。
ふうと嘆息する。
今は、レポートの完成を喜ぶべきなのかも知れない。
そして、原初にして究極の怪異を調査したからと言って。
私のフィールドワークは終わる事はない。
ただ、それだけだった。
一週間ほど調整期間をおいて、体を休める。
やはりかなり緩和されているとは言え、低重力環境での生活はそれなりに体に変調を与え。
普段通りになるまで、それなりに時間は掛かった。
それでも一週間ほどの調整でどうにでもなったのだから。まだ体が若いという事だろう。それはそれで、いいことだ。
私は、アンチエイジングをしようかなと思っている。
フィールドワークは体が資本だ。
だから、そのためである。
流石に十代にまで体の状態を戻すつもりはないし、今すぐするつもりもない。
だが三十路に掛かったら、二十代半ばくらいで体を固定するのもいい。
そう、私は思っていた。
調整期間が終わったので、外に出る。
怪異は世界に満ちている。
それは、当然だろう。
現象が元になっている怪異は当然今もいる。
解明されていればそれはそれで怪異は死ぬが。
そうでなければ、まだ当たり前のようにその場にいるものなのだ。
そして心に住まうタイプの怪異は、人間がいる限り無くなる事はないだろう。
ましてや私は、この間のフィールドワークで。
人間はたまたま現在の環境でまともになっているだけで。
枷が外れれば、即座に野獣以下に成り下がる事を思い知った。
だったら、怪異だっていなくなるはずがない。
今後も新しい都市伝説が流れ。
その度に、新しい怪異が生まれ出てくるだろう。人間の心に住まう怪異は、そうやって生まれ。
ブームが去れば消えてしまう事もある。
さながら雪のようだ。
雪のように儚い。
だが、豪雪によっては人を殺す事もある。
悪しき常識がそうであったように。
春が来ている。
注意深く管理ロボットが整備した森などでは、虫も鳥も、他の獣もしっかり生態系を確保している。
たまに人間に興味を示す獣もいるが。
それは管理ロボットがしっかり面倒を見ている。
人間と獣の接触は不幸な結果を生むだけだ。
だから、それをさせないように管理ロボットが動く。
支援ロボットもそれを補助する。
それだけである。
私は街を歩く。
昔はたくさんの人が溢れていて。その多くに悪意があった。
今の時代は人が極端に減ったが。支援ロボットの助けもあって、悪事は行えなくなっている。
それでいいのだろう。
「それにしても主、まだ肌寒い時期なのに、ショートパンツで大丈夫なのですか」
「私は平気だね。 むしろ肌面積をある程度確保しておかないと、感覚が鈍るし」
「まあ別にかまいません。 水着で外を歩こうとかしたら、その時はとめますが」
「問題を起こしている場合は遠慮なく頼むよ」
レトンと軽く話ながら、辺りを見て回る。
怪異を探すためだ。
今も怪異はいる。
それは別に物理的な実体などともなっていない、ただの現象だったり、心に住まうものだったりするけれど。
人間の心がいい加減な以上。
怪異は当たり前のようにいるものなのである。
だから私は探す。
おいしそうだし。
興味もそそられるからだ。
無言で歩き回っていると、南雲から連絡が来る。デスクワークを漠然としているが、次のレポートはどうするか、という相談だった。
私は歩きながら、ボイスオンリーで南雲と話す。
今は、手とか使わなくても、そうやって会話が出来る。会話中を示すマークが頭上に表示されるようになっていて、
周囲もそれで、注意できる仕組みになっていた。
「南雲先生も、やっぱり学者ですね」
「え?」
「究極の怪異のレポートを書いた後でも、やっぱり怪異のレポートを書きたいと思っている。 それは怪異に関わる学者だからですよ」
「は、はい。 そういう意味では確かに私も学者かも知れないです」
南雲はそんな風に、気付かされたように言う。
南雲はずっと学者だった。
だから、私はそれに関してああだこうだと言うつもりは無い。自分の強すぎる欲に振り回されて苦労しているかも知れないが。
それは学者としての格を下げるものではない。
そこが共通していて。
私は嬉しかった。
さて、家に戻るとしよう。
学者の仕事を始める時間だ。
まずは、調べる怪異の題材を探す。
今度は何が良いだろう。
無言で家に歩く。途中で様々に考える。
人間は考える葦だという話もあったな。そんな事も考えながら。
エピローグ、怪異は今もそこにある
私は山奥を訪れていた。管理ロボットと、管理ドローンが近くを滞空している。当たり前の話で、この辺りには熊も出る。
私自身が痕跡を残さないように気を付けなければならないし。
何よりも熊も、万が一の場合は遠ざけなければならないのだから。
かなり腐葉土が深く積もっていて、森は栄養に満ちている。
見栄えがどうという観点で言えば、良くはないかもしれないが。
そんなものはどうでもいい。
人間が見て見栄えがいいかどうかなど、森にとってはそれこそどうでも良いことなのである。
それに人間が気付くまで……いや、まだ気付けてさえいないか。
AIは即座にそれに気付いたのだから、むしろ立派だと私は思っている。
無言で山の中を調査して回る。
下手に音を立てることそのものが、今は山に悪影響を及ぼす。だから、私は静かに山の中を行く。
レトンも周囲を警戒してくれている。
それが、心強い。
ほどなくして、目的地に着く。
山の中にある、祠だ。
これは撤去しなくても生態系に影響がない。そう判断した管理ロボットが、その場に残している。
影響があると判断したものにかんしては、管理ロボットが別の場所に移し、博物館で管理する。
今はそうやって、遺跡は基本的に残るようになっている。
これもその一つである。私は今回、サンカの民が残したこの祠を見に来ていた。
勿論、祠そのものは、先達が散々研究をしている。
だから、それを研究するつもりは無い。
問題は、この辺りに住んでいた住民に、天狗伝説があったこと。
天狗は様々な信仰が混ざり合った結果生まれたものだ。
元は中華から入ってきた概念だが、それは元々天の狗。彗星などがモデルとなった怪異で、スケールも桁外れだった。
それがいつの間にか鼻の高い妖怪だったり。
或いは鴉天狗だったり。
そういった、日本人に馴染みが深いものとなっていったのである。
鴉天狗などは、インドのガルーダ信仰が原典にあるとも言われていて。
一方で天狗は人をさらう事が多い妖怪だという話にもなっている。
それはサンカの民だけではなく。
恐らくは修験者が天狗のベースになっている部分も多く。
山から訪れた修験者がそれだけ神秘的なイメージで。
更には、逆の意味で忌まれ。
人攫いなどの責任を、押しつけられていた。
そういった側面もあったのだろう。
私は無言で祠に手を合わせる。
管理は管理ロボットが完璧にやってくれている。管理ロボットには一目も二目も山の動物たちも置いている。
それはそうだろう。
あからさまな最強だと認識しているのだろうから。
それでいて、獲物を奪うこともない。
ある意味、現在に生じた。本物の山の神こそ管理ロボットなのかも知れなかった。
山で様々な動物たちを従え剛力を得たと伝承がある金太郎のようだな。
そう思って、私は苦笑い。
そして、一度山を下りる事にする。
山道に出ると、伸びをする。今日は、いったんここまでだ。今回は、天狗研究のためにフィールドワークに来ている。
勿論天狗なんていう存在が実在……物理的な生物やらとして存在する等と、私は思っていない。
江戸時代には天狗にさらわれたとされる人物が戻ってきて。そして手記を残しているのだけれども。
それはその人物の空想が凄かったのか。
或いは、天狗とされた連中……恐らくは人攫いか何かとの思い出が、心の中で不思議な化学変化を遂げていただけではないのかとも思う。
いずれにしても、天狗は実在しない。
ただし、ベースになったものはわんさか存在しているし。
その幾らかは修験者や人攫い。そしてサンカの民だ。
それについては分かりきっている。
私は、天狗が出るというのはどういうことなのかを、身を以て知りたいと考えている。だから、天狗伝説が残るこの土地に、わざわざ足を運んでいるのである。
レトンがてきぱきと、靴についたヒルを撤去してくれている。
礼を言うと、車が来るのを待つ。
ちょっと足に痛みが走った。ヒルが皮膚についていたらしく、レトンが焼いて駆除したのだ。
すぐに消毒やら何やらも済ませてくれる。
今回は、勿論スニーカーだけではなく、しっかり靴下も履き。更にはジーンズで足下を固めて来ている。
だから、それでもヒルがついてくる事に、驚かされるばかりだった。
「終わりました」
「ありがとかあちゃん。 さて、いったん戻るとして……」
山の方を見る。
鬱蒼とした山だ。時代によって荒れたり鬱蒼としていたり。人間の都合に振り回され続けた山。
今は、そんな人間の都合から解放され、生き生きしている。
そこは人間がそのまま暮らすには危険すぎる場所で。
夜などに足を単独で踏み入れたら、生きては帰れない。
だからこそ敬意を払うべきだし。
怪異だって出る。
そうやって、喜ぶべきだった。
車が来たので、戻る。
自動運転だから、私が手を動かす必要がない。いざという時はレトンも支援するから、事故の可能性もない。
日本三大妖怪とされる事もある天狗のいる山だ。
そこを見て回るのは、個人的には嫌いでは無いし。
帰路にじっくり考えられるのは、嬉しい事だった。
「この間は対人の取材をしたと思ったら、また茶番に戻ってしまうのですね」
「かあちゃんは相変わらず辛辣だなあ。 天狗はいないというのは同意だけれども、何かそれに関連するものがみつけられたとは思うんだよねえ」
「多くの誤認から生まれた怪異は、あくまで誤認の塊。 それを暴くでもなく、ただフィールドワークで経験しに行く。 それも美味しそうだから。 それでは理解が得られないのも当然かと思います」
「うん」
そんな事は分かってる。
レトンはそれでも、きちんとフォローは入れてくれる。
「それでも何も気にせず、フィールドワークに出向く姿勢は素晴らしいですね」
「ありがと。 まあ、今の時代でないとできない事だろうね」
「私も毎回苦労しています」
「そういえば、かあちゃんにどうすれば報いられるかな。 母の日にカーネーションでも送ろうか?」
もうとっくに廃れた風習を口にすると。
レトンはしばらく考え込んだ。
そうか、人間とは比較にもならないスペックを持つAIでもそんなに考え込むんだ。
ちょっと意外だな。
そう思って、私は面白くなった。
勿論、レトンはそんなことはどうでもいいだろう。
「そうですね。 出来れば行政に負担が掛かり、命に危険が及ばないフィールドワークを選んでください。 今回は管理ロボットがしっかり見張れば命に影響は全くありませんので、こういうものを以降もやってくれれば、それだけで私は充分です」
「そっか。 子供が危ない事をすると心配?」
「血縁はありませんが、そうなります」
「血縁なんかどーでもいいね。 私のかあちゃんはレトンだけだ」
レトンは、少し小首を傾げるようにしていたが。
そうですか、と感慨深くいった。
それだけで私は充分だ。
さて、今回は天狗をフィールドワークする。実はこれは初めてでは無く、前にもやっている。
そしてこれといった成果が上がらなかった。
だが、今回は南雲との共著である。
デスクワークの支援があれば、或いは何か違う進展にたどり着けるかも知れない。私としては、それでかまわない。
私は研究を独占するつもりは無い。
怪異を暴いて殺すつもりもない。
ただ、よだれが出るほどおいしそうな怪異に遭遇して。
その遭遇を楽しみたい。
ただ、それだけだ。
歪んでいるかも知れないが、これが私であり。そんな私のあり方がゆるされるのが今の時代だ。
だから、全力で歪んでいく。
それだけの話である。
私の物語は、年齢的にもまだ始まったばかり。
私そのものが怪異だといっておののく人々もいるが、それは願ったり。
私自身が怪異だなんて、民俗学者としてはこれ以上もない褒め言葉である。
昔だったら怪人として恐怖されたかも知れないが。
今はそれで恐怖されようが実害の一つもない。
だから、どうでもよかった。
さて、明日のスケジュールを確認しておくか。
またしばらく、山を歩き回る事になる。
行政と連携し。
南雲とも連携し。
調査を続けて行くのだ。
私は怪異が大好きだ。恐らく一生大好きだろう。
だからこうして、怪異と会おうと。
フィールドワークを今後も続けていくのだ。
(何も起きない伝奇物語、伝奇オブYOUKAI、完)
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