隙間からの到来

 

序、視線とは

 

私は、研究の結果知っている。

視線とは、存在しないということを。

神経過敏になっていると、見られていると感じる事はある。だが多くの場合、それは単に神経過敏になっているだけだ。

誰も見てなんかいない。

たまに、勘が鋭い人は、本当に誰かの追跡に気付くことはあるが。

それは視線だの殺気だのではない。

足音などの細かい情報を総合しての結果である。

つまり、勘ですら、結局は様々な情報を処理しての結果に過ぎないわけだ。

視線なんてものは、何処にも存在していない。

私はそれを知っているからこそ。

今回、それを研究しようと思った。

メールが来る。

共著している南雲からだ。

南雲は最近、どんどん化粧を落として、服も地味にしているらしい。

自分が迷走していたことを反省しての結果らしいが。

そこまで徹底しなくてもいいだろうにと、ちょっと思ってしまう。

まあ、それはそれか。

いずれにしても、メールを確認。その後、通話する。

「柳野先生、メールを見ましたが、視線の怪異……ですか?」

「近年だと隙間女とかが当てはまりますね」

「ああ、確かに」

隙間女。

タンスの隙間などから、誰かが見ているという怪異だ。近年生まれた怪異であって、ネットロアの一種である。

勿論実際に目撃したという人間もいないが。

これは「誰かに聞いた」という伝聞情報で拡がっていく。

さながらウィルスのように。

他のネットロアと同じで。

こういうのをなんといったか。

そうだ、友達の友達。FOAFだったな。

そんな風な経緯で拡がっていく物語性を持った噂話を、都市伝説というのだ。

いずれにしても、都市伝説だろうが、それは立派な怪異である。怪異というのは、そもそもそうやって生じる。

近年はネットで拡がったというのが可視化しやすいだけ。

古い時代は、伝言ゲームを狭いコミュニティでしていくうちに。最初は笑い話だったのが、いつの間にか怪異として根付いてしまったケースも多い。

そういうものなのである。

どこの土地であろうと。

色々と、視線関連の怪異を調べて見るが。

これが結構見つかるものである。

そもそも、「視線」そのものが怪異とも言えるだろう。

実際問題、視線を感じる何てのは気のせいなのである。

それを怪異と言わず、なんといおうか。

「分かりました。 デスクワークで資料を集めてみます」

「よろしくお願いします」

「ただ、フィールドワークはどうするんですか?」

「それは勿論、視線を集めて感じるかどうかやってみます」

絶句する南雲。

まあ、色々と意味不明なフィールドワークだから仕方がない。だが、視線について検証するにはそれが一番だろう。

勿論、視線を感じるはずがない場所をうろうろもする。それで視線を感じれば、もうそれは立派な怪異だ。

南雲の事を、私は信頼している。

だから、デスクワークは頼む。それだけである。

勿論、自分で出来る範囲は自分でやる。

単に得意分野が違うから、分担して作業をする。それだけの話だ。

通話を終えると、後は伸びをして。自分でも、視線の怪異について、色々と調べて行くことにする。

幾つか面白いものが見つかるが。

どれも、漠然とした恐怖から生じるものだなと思う。

音の怪と同じだ。

音の怪は、ただ音を立てるだけで、正体が分かっていなかっただけのものも多い。

私からしてみれば、それは主観に生じるもので。

やはり怪異そのものだとしか言えない。

いずれにしても、この視線の怪異も同じだろう。

しかし、視線を感じるという感覚がわからない。

調べながら、レトンに聞いてみる。

「かあちゃん。 視線って感じたことがある?」

「それは当然です。 周囲の人間が此方を見た場合、各種センサでそうだと判断する事が出来ます」

「ああ、そういう……」

「ただ人間の持っている生体センサ……いわゆる五感だと、正確にそれを知る事は難しいかと思います。 何かが近くに潜んでいるというのは、五感を駆使して察知することは出来るでしょうが」

冷静なレトンの意見である。

では、どうなのだろう。

「視線を確認できるとなると、今までに不可解な視線を感じたことはあった?」

「ただの一度も」

「それは、まあそうだよねえ」

「今回は視線の怪異という事ですが、私は少なくとも感じたことはありません。 そもそも今の時代は人間が少ないと言う事もありますので、余計に誰かが私を見ればすぐに分かります」

夢のない話だ。

昔の剣豪ですら、レトンに比べたら子供同然の探知能力だっただろう。

優れた感覚で不意打ちを回避するような剣豪もいたかも知れないが。それでもレトンに比べれば。

とはいっても、レトンだって周囲にあるあらゆる機材と情報を共有してこの能力を得ている。

いわば街そのものがレトンであるので。

そのスペックも、ある意味当然だとは言えた。

「逆に言うと、今の技術で探知出来ない何かが私を見ていた場合、それを察知は出来ないかと思います」

「ああ、それはありそうだね」

「もしも実体のある怪異がいて、それが現在のセンサをだませるほど上手に身を隠せるというのであれば可能性はあります。 勿論そんな事は、まず起きえないとは思いますが」

「それについては同感だ」

そんな怪異がいたら。

恐らく人類の歴史は全く違うものとなっていたはずだ。

そもそも人類の手に負えない怪異が存在した場合。

それによって大量虐殺が何度だって起きていただろうし。

都市などには対策のための施設などが作られ。

そして田舎などの郊外には、軍が当たり前のように駐屯しただろう。

軍の装備だって、対人間のものから、対怪異のものへと変わっていただろうし。

それを考えると、色々とあり得ない話である。

この地球の歴史は、人間が誕生してからは。

少なくとも、人間の主観では、人間が動かしてきている。

実際にこの地球で一番数と勢力を誇っているのは、未だに節足動物、特に昆虫類であるのだが。

昆虫類は、世界を支配することには興味がなく。

人類が一番調子に乗っていた時代でも、我関せずと淡々と振る舞っていた。

ゴキブリや蠅は、今の人類のテクノロジーでも滅ぼすのは不可能。

そういう結論も出ている。

人間が滅びる可能性があった時代でも。

ゴキブリや蠅は、全くその気配もなかった。

そういうものなのだ。

いずれにしても、怪異は所詮怪異に過ぎない。

それを自覚できた今の時代だからこそ、私の研究は成立していると言える。

いずれにしても、私はまずは人気が多い場所を歩いて見ることにする。レトンもつれて、だ。

今の時代は、人気と言っても殆どないのが実情。

古い時代は人が多すぎて困り果てていた東京でも、実際問題として人はあまり見かけないのである。

それを考えると、むしろ視線を感じたときに、対応しやすいかも知れない。

いずれにしても、近場にある程度人がいる場所がある。

そこに出向いて、歩くことにする。

出向いたのは繁華街だ。

繁華街は潰れる気配もない。

まあ経済をAIがコントロールしているのだから当然だとも言えるが。

繁華街と言っても、実際には殆ど通信販売を請け負っている店ばかり。

中には、人が動かしていない店も珍しくない。

多種多様のロボットがいるが。

それですら、あまり数が多くない。

殆どはドローンだ。

たまに、レトロなアイテムのマニアがこの辺りをうろついていたりもする。だが、店の中にたまに人はいたが。

街の中を歩いている人など、殆どいなかった。

歩きながら、レトンと軽く話す。

「本当に人いないねえ」

「これでもかなりいる方ですが」

「……そうだろうなあ」

「視線は感じていないようですね」

うんと、答えるしかない。

というよりも、そもそも誰も今は他人に興味がない。

例えばだけれども。

夜道で私がフィールドワークをしているとき、ぎょっとした様子でみていく人間はいるが。

それも車の中から、である。

支援ロボットにまず話を聞いて。

それで私の正体は分かってしまう。

それで全ておしまいだ。

何も、それ以上問題が起きることはない。

今見て来た繁華街の中にいる人にも、必ず形は様々だが支援ロボットがついている。仮に何かに興味を持っても、支援ロボットにまず聞くのが最初だ。

「ひょっとして、これってフィールドワークに向いていない?」

「なんとも。 もっと人間が多い場所をリストアップしましょうか?」

「いや……どうしようかなあ」

「ご随意に」

私は、ある程度自分で判断をして行動をする。

実は、これが出来ない人間は今の時代でもかなり存在している。

古い時代から、人間は自分より優れた判断をしてくれる他者を求めていたし。それに身を預ける事が多かった。

今の時代も、それは変わらない。

どうしても自分で思考するのを放棄したいと考える人間に対しては。

支援ロボットがその人間の一生を掛けてでても、自立自尊の精神を教え込むのだが。

それも無理矢理やるのは逆効果。

時間を掛けて丁寧にやっていくしかない。

レトンに話を聞く限り。

一生自立自尊の思想を持てない人間はいるそうだ。

支援ロボットが、今は人間の思考を可能な限り支援してくれる。

犯罪を犯したいとでもいうような思考でもない限りだ。

今は技量に関係無く、どんな仕事でも出来る。

現実問題として、とんでもないド素人が、歴史に革命を起こすようなものを産み出すことはあるのだ。

そういった観点でも、プロフェッショナル集団だらけにしなくても、世界は回るのである。

だが、そういった事実を知っても。

なおも、自分の頭で考えると言う事が出来ない人間はいるし。

自分を律する事が出来ない人間もいるのが現実だ。

伸びをして、しばらく歩きながら考える。

繁華街を抜けて公園に。

殆ど誰もいない。

いわゆるジョギングが、ほぼ何の効果もないことがはっきりしてしまってから。

公園を走る人間は、ほぼ見かけられなくなった。

子供のうちに、公園で遊ぶものはいる。

今の公園は遮音機能がつけられているので。昔のように騒いでも周囲からクレームが来る事もない。

それに支援ロボットが遮音フィールドを発生させることも出来るので。

広い場所でダンスなどの練習をしたい、というような要望にも応えられる。

当然バックミュージックつきで、である。

故に、公園の方が繁華街より人が多い事すらあるのだが。

今日は出向いても、そういった様子はなかった。

公園の中に大きな蛇がいた。ゆっくりと蛇行している。大きさはどう見ても、七メートルはある。

本来だったら人間を殺し喰らう事が出来るサイズだ。こんな公園にはいてはならない存在だ。

おおと声が出たが。レトンが即座に言う。

「支援ロボットです。 主は彼方の方ですね」

「ふうん、あんなおっきな蛇型ロボットか」

「正確にはアミメニシキヘビ型です」

「確か世界最大の記録を持つ現存種だっけ」

頷くレトン。

アマゾンに棲息するオオアナコンダは更に大きくなる可能性があるらしいが、結局の所確かな記録に残っている最大種はアフリカにいるこの蛇だ。

最大記録で11メートルと、現在発見されている過去に存在した最大種であるティタノボアの15メートルには及ばないものの、相当な巨大種で。

このサイズになると、人も襲う。

勿論、今はそんな事件は起きない。

無言で、じっと相手を見つめる。

しばしして、蛇型はゆっくりと鎌首をもたげて、口を開いた。

「驚かせてしまいましたか? すみません」

「いや、別に平気。 主人によろしく」

「はい。 ご理解いただき有難うございます」

蛇型もといアミメニシキヘビ型の主人は、向こうで遊んでいる幼い子供だ。

どうしてアミメニシキヘビ型にしたのかは分からないが。本人の好みとか、そういうものなのだろう。

ずっとこの姿でいる保証もない。

いずれ、違う姿になる可能性は大いにある。

ただ、今はこの姿でいる。それだけだ。

歩きながら、周囲を見て回る。

最初はあの大蛇ロボットに吃驚する人もいるかも知れないが。それもすぐに支援ロボットに説明を受け、なるほどと思うのだろう。

ただ、蛇は生理的嫌悪感を覚える人間も多い。

そういう事もあって、あの大蛇ロボットは流ちょうかつ紳士的に喋る事が出来るのだろう。

しかし、あれはいいな。

少なくとも、最初に視線を集めることは出来るかもしれない。

そう思って、私は頭を掻く。

レトンが、側で呆れる。

「大蛇になりたいとか言い出さないでしょうね」

「お、どうして分かった?」

「別にかまいませんが、外で大蛇の姿を取るには非常に大変です」

分かっている。

レトンに説明されずとも知っている。それには幾つかの手段がある。

まずは立体映像だが。

これについては、問題としてそもそも生理的嫌悪感を覚える人間がいる、というのが課題になる。

研究のためとして大蛇のガワを纏って練り歩くにしても。

それはそれで、やはり役所の許可がいる。

あの大蛇型の支援ロボットだって。

多分あの子供の好みに合わせて、恐らくは役所とやりとりを重ねた上で、ガワを変えたのだろう。

それにしてもあのサイズ。

色々と思い切ったなあと、感心してしまう。

「立体映像の他には、ロボットを借りて思考をリンクする方法もあったよね」

「確かにありますが。 ごく希な例を除くと、ああいった支援ロボット以外では、まず許可が下りません」

「動物園とかだと、管理ロボットにいるんだっけ」

「はい。 しかしながら、あくまで管理ロボットです。 借りるのも、外にて動き回るのも、役所の許可をえないと」

後はレトンのガワを大蛇に変える手もあるが。

それはそれで、多分凄く時間が掛かるし、役所としても許可が簡単にはおりないだろう。理由は物資をたくさん使うから。それ以上でも以下でもない。

1%の人間が富を独占していたばかげた時代と、今は違っている。

そういった愚行は、出来なくなっている。

ただそれだけの話だ。

腕組みしながら考える。

いずれにしても、人間が集まっている場所に、変わった姿で出向くのはありだ。

あの大蛇は大きすぎるが。

それ以外の奇抜な格好は何かないか。

昔はハロウィンを定着させようとして、色々な催しが行われて。

その過程で仮装をする人間がたくさんいたらしいが。

それはそれ。

今は。もう誰もやっていない。

祭そのものは今でも存在はしているが。それはあくまで別の話である。

自宅に一度戻る。

レトンにコーヒーを淹れて貰いながら。色々と考える。

あくまで視線を集めるだけでいい。

勿論裸で彷徨くとか、そういう事は今も許されない。

まあ、流石に私も裸で外に出るのは嫌だが。

「すぐに出来て、研究として視線を集める格好はないかなあ」

「ご随意に」

「うーん……」

幾つか案を考えるが、どれもしっくりこない。

あの大蛇ロボット並みのインパクトがあって。

それでいて、すぐに支援ロボットがフォローしてくれる格好。

更に、私が自分で視線を感じなければ意味がない。

勿論わいせつであってもいけない。

幾つか案を考えている内に、南雲から連絡があった。

視線の怪異というものの内、日本ではそれほど有名なものはいないという。少なくとも視線そのものが怪異の主体となっているものは。それほど多く無いそうだ。

様々な現象を怪異として捉えるケースはよくある。

だが、視線は恐らくだが、そもそも人間のものとして認識されているのが要因だったのかもしれない。

海外でも視線の怪異はあるにはあるが。

それほどメジャーでもないらしい。

そうなると、むしろ怪異としては隙間女などの近代のものが、新しいのかも知れなかった。

私も怪異についてはそれなりの知識があるが、少なくともメジャーなものはない。

そうなると或いは、視線そのものが怪異なのかも知れなかった。

幾つか打ち合わせをした後決める。

不思議な格好をして、外を出向く。それで良いのかも知れない。格好は、その都度決めれば良かった。

 

1、自身が怪異になってみる

 

おお、視線が集まる集まる。

とはいっても、前にいる人間が見ているのが分かる、ただそれだけだ。

視線を集めるにはどうしたら良いか。

やはり、これが一番の手段だ。

私は今。

鬼になっていた。

背丈は二メートル強。正確には、247cmである。

鬼と言っても半裸は許されなかった。

そこで、強そうな鎧を身に纏ってみた。

これだと、鬼よりも「鬼神」が近いかも知れない。

近代的な意味での鬼神だ。

古くの鬼神は、「鬼」という言葉の本来の意味。つまり「幽霊的なよく分からないもの」の神。

つまり雑多で、よく正体が分からない神の意味だった。

それがなんか鬼がつくから強そう、という意味で鬼神になり。

今では鬼神はなんか強そうな神と言う認識になっている。

鎧を着た二メートル強の、肌が真っ赤で。鉄の金棒を持ち。牙とか乱ぐいで、目がうっすら発光。

そしてぼさぼさの黒髪の間からは、二本の角が鋭く伸びている。

これは、実に怖かろう。

そう思いながら、レトンと一緒に歩く。

人が多くなる時間帯を選んで、わざとこうやって歩いていると。

少なくとも、私の視界に入る人間は、此方を見ているのが観測出来た。あわてて監視ロボットに話しかけて、それで私の正体をしる人間も多いようであるが。

別にどうでもいい。

そのまま歩く。

レトンが呆れながら、ついてくる。

「空気にさらす肌面積を増やしたと思ったら、今度はこんな厳つい格好をして歩き回るなんて……」

「意図は分かっているはずだ……」

「キャラ作りも完璧ですね」

「然り……」

なお、声も滅茶苦茶怖くなるように、幾つかのサンプルボイスから選んでいる。

これも20世紀から21世紀に掛けて、傑出した技量の声優が多かった事から。当時の声優の声を再現して、素材として使っている事が多い。

ともかく、歩き回って視線を集める。

流石に通報する阿呆はいない。

支援ロボットに聞けば、実験だと言う事がわかるのだから。

しばらく金棒で肩をとんとんしたりしながら歩き回る。

立体映像だけだと重量感が出ないので、わざとギプスをつけた上で、更に重量感のあるSEも立てるように連動もしている。

雄叫びでも上げてみようかと思ったが、それだと冗談抜きに倒れる人間が出てくるだろう。

だから、このまま歩き回る事とする。

なお、せめて鎧だけでもと思って、鎧には凄まじい形相の虎を意匠してある。

そもそも日本の鬼のイメージが。角と虎の服というのには意味があり。

これは陰陽道思想の丑虎の方角から来ている。

丑虎の方角は鬼門ともいい、つまりそういうことだ。

牛のように力が強く、角があり。

そして虎のように獰猛である。

それが、鬼がこのような姿をしている理由なのだ。

今回は虎のパンツ1丁は許されなかったので。

仕方がないので、鎧を虎にしているのだ。

これはささやかな拘りだが。

拘りについて話したら。レトンは呆れた。

別にそれはまあ、いつものことだからどうでもいい。ともかく、鬼神の姿で街を練り歩く事とする。

繁華街を抜けて公園に出る。

子供が私を見て、ぎゃっと声を上げて。それで泣き出した。

この間の大蛇の支援ロボットの子供だ。

さっと大蛇ロボットが素早く子供の視界を体で塞ぐ。

そして、問題はありませんと話しているようだった。

ひょっとしてだが。

あの子供には、あの大蛇の姿がとても力強く見えるのかも知れない。

幼すぎてまだ見た目の性別が分からないが、それが故に強い姿を求めているのかも知れなかった。

まあ、今は親も子もない時代だ。

それもあって、ああいう不思議な強さを保護者に求める子供がいるのかも知れない。

そういえば、ヒーローの姿をした支援ロボットは一定数需要があると聞いている。

まさかな。

そう思ったが、まあそれはよしとするべきだろう。

公園も練りあるいた後、住宅街に出る。住宅街で、私を一瞥したおばさんがぶっと噴き出して、青ざめて固まるのが見えた。

さて、ここまで歩いて来て、思った事がある。

前にいて。

私を見ている人間から、視線はばっちり感じる。これについては、間違いない所である。

だが。背後などにいる人間が。

私を見ているかどうかは分からない。

これは私の勘が……というよりも。いわゆる五感がそれほど研ぎ澄まされていないのが原因だろうか。

ううむ、ちょっと調査がいる。

いずれにしても、360°の視界データは常時レトンが取っている。

街を練り歩いた後、家に戻ってそれでデータのログを確認し。

それでチェックをする。

恐らくだが、相当に後方の人間も私を見ているはずだ。

感覚が鋭い奴は、気付けていたかも知れない。

だけれども。私にはどうもぴんと来ない。

家で立体映像を解除。

その後、ログを確認すると。

やはり。後方にいた人間も、かなり私を見ているのが分かった。それにもかかわらず、視線は感じていない。

私は、感覚が鈍いのか。

それとも。

「ううむ、これはちょっとどう判断するべきなのか」

「主、気は済みましたか?」

「いや、むしろ不可解さが増したかな。 前にいる人間が、此方を見ているのは分かるんだけれども。 後方からぐさぐさ突き刺さっている視線は、まーったく感じ取ることが出来なかった」

「時に研究者は、自分の意にそぐわない研究結果が出ると、結果を無視してねつ造までする事があるのですが。 素直に結果を受け入れる事が出来る主は、その点ではとても立派です」

いつも痛烈な正論をぶつけて来るレトンだが。

こう言う所はしっかり褒めてくれる。

それは、とても有り難い。

コーヒーを飲みながら、ログを確認する。

じっと此方を静かな目で見ている子供がいる。

一応確認して見るが、ちゃんと人間だ。

近所に住む子供だが。

支援ロボットが四苦八苦している相手だそうである。

「特に強い精神的な失陥はないのですが、何にも興味を持たないそうで、今試行錯誤を繰り返しているそうです」

「何にも興味を持たない」

「人間は基本的に、余程社会に問題がない限り、色々な事に興味を持ちます。 興味を持つ対象は、人間の数だけありますが……」

レトンも困り果てた様子で言うが。

これは恐らくだが、リンクしたその子供の支援ロボットの困惑が移っているだけだろう。

なるほどね。

そう思って、冷たい目の子供を見た。

一見すると、冷たい目をしていても、何かに興味を示しているケースはなんぼでもある。これは支援ロボットが、どんな「親」よりも育児経験を蓄積していて。その支援ロボットであるレトンから聞いた話だから事実とみて良い。

だが、これはかなりレアなケースだとか。

支援ロボットが人間を面倒みるようになってから、既に300年くらいが経過している。

その間に蓄積された記録は全て平衡化されており、巨大なデータバンクとして記録もされている。

人間が幾ら三十億まで減ったと言っても、それでも三十億だ。

今ではその全員が、支援ロボットと共にあるし。

幼い頃は面倒を全任していたのだ。

それだけの凄まじい育児経験値を蓄積している支援ロボットが例外というのであれば、そういうことだ。

「でもその子、私に興味を示していなかった? 私と言うよりも、鬼神の姿に」

「それについては分析中です」

「……もっかい、この姿で街を練り歩いて見るかな」

「はあ。 しかし実験の主旨と外れていませんか?」

毎回同じ姿で練り歩いても、驚きはその度に薄れていく。

私もそれは知っているから、あまりその行動には乗り気では無い。

ティラノサウルスとか目を引く生物で歩き回ろうとも思っていたのだが。役所からは、変わった格好で出歩くという事を告げて、それで許可を得ている。

今回は特にフィールドワークの性質が特殊だと言う事もある。

それで許可が下りたのだ。

昔だったら、絶対に許可が下りなかっただろうが。

なお、市街地以外も同じようにして練り歩くつもりである。

視線の怪異がいるならば。

きっと見て来るのは間違いないだろうから。

でも、人間の視線すら感じ取れなかったにぶちんの私である。

人ならぬものの視線なんて、感じ取れるだろうか。

そういう不安もある。

だから、ある程度データを集めて、先に分析をしておきたい。それが、まずは理由としてあるのだった。

「とりあえず、もっかい今日の姿で彷徨いてみる。 あの子供の反応が、ちょっと気になるんだよねえ」

「分かりました。 支援ロボットと連携しておきます」

「よろしく」

中に誰かがいる、ではなく。

研究のために行われている、という事が告げられている。故に、通報をするオバカはいない。

ただ、それは他人の事情。

私は、今回は視線を集めるという実験をやっているので、それとは別に行動を決める必要がある。

レポートを書く。

また、奇っ怪なことを私がしている。

そう嗅ぎつけた輩が、さっそくレポートに集まっているようだった。

南雲が連絡を入れてくる。

「柳野先生、この姿は何かの鬼神ですか?」

「実は最初は鬼で出歩こうと思ったのですけれど、虎のパンツ1丁は鬼でも駄目って役所にいわれたんです。 それで妥協案として」

「ああなるほど。 虎を象った鎧は、せめてもの抵抗と言う訳ですか。 実にロックな姿ですね」

「そう言って貰えると恐縮です」

南雲にとってのロックは、最高の褒め言葉を兼ねている。

だから、素直に喜んでおく。

人によって、何が褒め言葉になるかは違う。

何が相手に対しての友好的な意味を持つ言葉なのかも違う。

コミュニケーションとやらが、人間の間では実際に全く機能していなかった理由である。

だから支援ロボットが、場合によってはフォローを入れる。

今はそれで、人間関係が円滑に回るようになっている。

「それで実験はあまり上手く行っていません。 今後彼方此方を似たような方法で練り歩こうと思っていますが……」

「それはまた、随分とロックな話ですね」

「そう言っていただけると助かります。 今後の計画については……」

軽く打ち合わせをする。

既に南雲は私の作業ログに目を通している。時間等倍で目を通すとはっきりいって時間がなんぼあっても足りない。

故にこう言うときはVRの世界にて意識を潜らせ。

其処で時間を加速して、ログに目を通すのが普通だ。

昔のPCの性能ではこんな事は出来なかったのだが。量子コンピュータが実用化してから、出来るようになって来た事である。

「時に、また騒いでいる人達がいるようですが」

「ガン無視で問題ありません」

「さいですか……」

「放っておけばじきに飽きるでしょう」

私としても、UFOの時に騒いだ連中の事を思い出すと、正直うんざりである。

有益な情報でももたらしてくれるならともかく、そうでないならガン無視確定である。

そのまま、打ち合わせを終えて。

そして一度休む事にする。

さて、明日は多少ルートを変えるが、また練り歩く事にする。鬼神の姿は、個人的には結構気に入った。

鬼神ぽく喋るのも、これはこれで面白そうだ。

結構ご機嫌な私は、多分寝付きが悪いと判断したのだろう。

レトンは無言で、睡眠導入剤を処方してくれた。

 

翌日もすっきり目が覚めて。そして朝早くから鬼神の姿で外に出る。

今の時代。

育児は、支援ロボットがするのだが。

まずやるのは、面倒を見ている子供が何に興味を示すかの調査だ。

それによって未来が決まってくる。

勿論、後天的にやりたいことが変わるケースもあるが、好きを調べるのはそれ以上に、人間性に大きな影響をもたらす。

人格形成は幼児期に行われ。

それ以降は、人間ははっきりいってあまり変わらないのだ。

だから人間にとって最も大事な時期を駄目にしないためにも。

支援ロボットは、面倒を見ている幼い子供に対して、とにかく徹底的に様々な事をする。

勿論虐待の類はしないが。

それはそれとして、幼い内に面倒を見ている子供の自我の形成のために、ロボットは最大限の努力をするのだ。

私は妖怪に興味を示したので、割とすんなりいったらしいが。

レトンの話によると、幼い頃から精神的な問題行動を繰り返す子供は当然いるらしい。

私自身もそれなりに問題があるらしいのだが。

それはそれとして、レトンとしては呆れながらもこのフィールドワークには賛成だそうである。

あの子供。

本当に、何にも興味を示さない。

確かにログで見たが、死人みたいな目だった。

それが、じっと鬼神の私には視線を向けていた。

或いは、だが。

妖怪の中でも特に特異な存在。

鬼には、興味があるのかも知れなかった。

実際問題、子供が強さに憧れる事は、珍しくもないのである。

だからあの子供がもしも私の(見かけに過ぎないが)強さに興味を持ったのなら。

其処から、何かを引き出せるかも知れない。

つまり、育児に対する協力も兼ねる。

そう考えると、確かに悪くないかも知れない。

また、鬼神の姿で街を練り歩く。今日は金棒ではなく昔の武将が持っていそうな長柄を手にしている。

刃物は勿論立体映像だから問題は無い。

この手の長柄というと、三国志の登場人物が有名だが。

彼らが手にしていた長柄は、実は後世の創作である。

当時はあれらを作れる冶金技術が存在しなかったのだ。故に、話半分にそれぞれの武将達が持つ武器については考えた方が良い。

私は今鬼神の姿をしていて。

故に、手に持っているのは長柄だ。

これがまた、実にそれらしくて良いではないか。

そう思う。

歩いていると、ひいっという声を上げるご老人。見かけはそうだが、中身については分からない。

支援ロボットは孫のような姿だ。

支援ロボットが、問題ありませんとなだめているのが見える。

背が高い状態に無理矢理感覚をあわせているので、立体映像を纏いながらも、感覚が不思議だ。

普通に見ている筈なのに。レンズなどの効果を使っていて、視点が高い。

老人を見下ろしている感覚というのはあまりない。

私も南雲よりだいぶ背が高いけれど、あくまで常識的な範疇での背丈だ。

ここまで人を見下ろす感覚は初めてである。

昔流行ったバスケットボールという競技は、長身の人間が花形として活躍したらしいのだが。

そういう人達は、こんな感じで人々を見下ろしていたのだろうか。

そう思う。

ふと、気付く。

例の子供だ。

今日は、前から出て来た。じっと私を見ている。

私は、ドスが利いた声で話しかける。

「童……我に何用か……」

「肩車して」

「ほう。 我を鬼神と知ってのことか」

「……肩車」

びくりとふるえてから、それでもせがんでくる子供。

そうか、ならばいいだろう。

立体映像を待とう際に、色々と工夫している。勿論、肩車も出来るようになっている。

そういう意味では、ただ映像だけを纏っているのではない。

かなり先進的に着ぐるみを着ている、というのが近いかも知れない。

そのまま、子供を背負う。

声を聞いて分かったが、女の子だったのか。

見かけがまだ分からないくらいの年頃だし。今は服なども男女であまり変わらなかったりする。

そういう事もあって、私でも見分けがつかなかった。

プライベート情報は、レトンは教えてくれないし。

子供を肩車して、支援ロボットを二人連れて歩く。支援ロボットは、別に心配している様子はない。

私の映像の中に潜っている無音飛行の監視ドローンが、肩車の質感を作り出しているので、何の問題もない。

感覚の再現だけではなく、あらゆる意味でハイテクな立体映像なのだ。

街をのし歩くと、子供はしばらく頭にしがみついていたが。やがて興味深そうに周囲を見つめ始めた。

「きしんさんは、ふだんはなにをしてるの?」

「我は怪異を探しておる……」

「かいい?」

「妖怪ともいう」

今の時代は、妖怪が人間と適切な距離を取ることが出来た。

だが、だからといって妖怪が栄えているわけでは無い。

妖怪を探し出し。

調べるのが仕事だ。

そういう事を、幼児に分かるように四苦八苦しながら説明する。なお、レトンが途中で何度か支援してくれた。

助かる。

「すてきだね」

「そうか……」

「わたしもそんなふうにおっきくなれるかな」

「なりたいならなればよかろう……」

子供がくしゅんと咳をする。

支援ロボットが、そろそろ降ろしてほしいというので、そうする。残念そうにしていた子供だが。

それでも、支援ロボットが風邪を引くというと、素直に従った。

喋っているときに、少し感情があった。

それは私も感じた。

私を見上げる子供は、少しずつ、目に光が宿っているようだった。

そのまま、フィールドワークを続ける。

レトンが、見上げながら言う。

いつも以上に背丈に差があるので、非常に大変そうである。

「よくやってくれました。 これであの子も初期教育に突破口が見いだせるかも知れません」

「別にかまわぬ。 我は鬼神として、あるべき事をしただけだ」

「ノリノリですね」

「ふむ……」

まあ、ノリノリというか。

こうしなければ、しっかり視線も集まらないだろう。

しばらく周囲を練り歩いて回るが。

ふと気付く。

子供について見ていたからだろうか。

前よりも、視線がとげとげしくないのが分かった。

これは、どうなのだろう。

ちょっとまずいかも知れない。

いずれにしても、残念だがこの姿でこの辺りを歩き回るのは最後だな。それだけ、私は思った。

帰宅して、偽装を解除。

ちょっと機嫌が良くないかも知れない。

子供の未来に大事な事をした。それについては、誰にでも誇れる。

だが、それはそれこれはこれ。

私の研究は、その結果上手く行かない。

もっとこう、畏怖の視線を集めないと意味がない。

そのための実験だったのに。

むすっとしている私に、レトンが無言で紅茶を淹れてくれる。胃に優しい奴である。

しばらく紅茶を飲んで落ち着くと。

レトンが顛末について話をしてくれる。

「あの子は、主の話をしきりにせがんでいるようです」

「ん? 私の?」

「勘が鋭い子のようでして、主が鬼神ではなく、中に人間がいることを理解していた様子でして」

「うーむ、それはちょっと、興味があるかな」

なるほど、レトンは私の興味のツボを心得ている。

レポートを書き、ログを精査しながら話を聞く。

どうもあの子供、最初に私を見た時点で、既に中に私がいて。なんでこんな格好をしているのかが疑問だったらしい。

元々知能の発達がとても早い子供で、それが逆に問題だったそうだ。

知能の発達があまり早くない子供は、支援ロボットも面倒を見るのがそれほど難しくはないそうだ。

その逆はむしろ苦手分野で。

幼い頃から、かなり個性的に発達する子が多いので。たまにこういう蓄積してきたビッグデータでどうにもならない子供が出てくるらしい。

ただ、そちらにしても例外中の例外になるレアケースではあるそうだが。

「主に感謝の言葉を伝えてほしいと、支援ロボットから言われています」

「そっか。 だとすると、鬼神さんに会いたいと泣くこともないかな」

「おそらくは」

「それは良かった。 今後怪異に興味を持ってくれると嬉しいな」

中身を見透かされていたことは別に何とも思わない。

人間は、幼児期から殆ど変わらない生物だ。

五歳児くらいは犬と同じ程度の知能しかないという言葉もあるが。実際の所、そういう人間は大人になっても犬と同じ程度の知能しかない。

大人になれば人間は変わるなんてのは幻想である。

大量のデータが、それを裏付けている。

学者になるような人間でも、人間性は幼児期と殆ど変わらないのだ。

そういう意味で、あの子供は将来が期待できる逸材かも知れなかった。

「それにしても、ますます分からなくなったな」

「視線について、ですか」

「うん。 かあちゃんさ、あの子は何を見て、鬼神の中に私がいるって気付いたんだろうね」

「それは、総合的な生体センサを活用しての結果かと思われます」

そうなんだろうな。

だけれども、細かい部分までそれで説明がつくのだろうか。

それに、中に人間がいると思ったとしても。それでどうしてそうだと言わなかったのだろうか。

不可思議な話だな。

私は、紅茶を飲み終えると。思索に入るのだった。

 

2、視線の不可解さ

 

無言で森の中を歩く。

歩くときの格好は、鬼神の格好にしている。

これがどうにも気に入ったのである。

昔だったら、大騒ぎになったかも知れないが。まあ今だったら、別に問題は一つもないし。

更には、入るのに免許なども必要な森の中だ。

生物の数は、管理ロボットが管理している。

たまに狩猟をするために来る人間もいるが、それも支援ロボットが適切に支えて、それで何の獲物を狩るか徹底的にコントロールしている。

要するに誤射をされる恐れは全く無いし。

仮に誤射されても、管理ロボットやドローンがガードに入ってくれる。

というわけで、私は鬼神の姿を立体映像で纏い。

森の中を練り歩いていた。

「雄叫びでも上げてみるか……」

「それは別の日に行う予定です」

「ああ、そういえばそうであったわ。 我としたことが、迂闊であった」

「ノリノリですね」

レトンがいつも以上に呆れているのが分かるが。

個人的には、これくらいしっかり鬼神になっておかないと、視線は集まらないと思うのである。

虎の鎧は、更に威圧的にした。

そして二メートルを超える背丈と分厚い胸板、太い筋肉。

熊と猪以外は、見た瞬間警戒するだろう背格好である。

北極圏などにいる狼は、今の姿と遜色がないガタイを持っていたりするのだけれども。DNAから再生されたニホンオオカミはどうしてもそれに比べるとだいぶ小柄だ。

この姿の鬼神に仕掛けてこようとは、考えないだろう。

無言で歩き回り。

レトンはそれについてくる。

しばらく歩き回って、それでデータを集めておく。というか、視線は更に感じなくなっていた。

人間の視線以外にも、神経過敏になっている人は視線を感じたりするらしい。

それが気のせいらしいということは分かっているのだが。

主観情報でも、それらしいものは全くというほど感じないのである。

そういえば、座敷童を調べているとき、それらしいものを感じたことがあったっけ。

でも、それとはちょっと今回求めているのは違うのだ。

無言で起伏がある程度ある森の中を歩き回る。

もちろんだが、木などは絶対に傷をつけてはいけない。

大型の肉食獣などが、マーキングをして縄張りを主張しているケースもあるし。

何より素人が触ると、それだけで生態系を乱しかねないのだ。

「主、足を止めてください」

「うむ……」

前に、大きな糞。

ハンターだったら、一気に警戒しただろう。

一体の動物の糞だ。

恐らくは熊か猪。管理ロボットから、瞬時に情報が来た。

この森にいる月の輪熊のものらしい。

この森は、実家からはかなり離れている。本州でもかなり北の方に位置していて、それで住んでいる月の輪熊も大きい。

軽くレトンから聞くが、体重は二百キロと、月の輪熊では最大級らしい。

当然、その気になれば人間を殺せるサイズである。

「警戒させないように、糞は避けてください」

「うむ、分かっておる」

踏むと汚いのもあるが。

こういった糞尿は、縄張りを示すものとして意図的に排泄されている事が多いのである。

熊の場合、天敵は人間や同種だ。

ヒグマやホッキョクグマが共食いをする事はそれなりに知られているが。

熊にとって、交尾相手や育成時期の子供以外の熊は敵である。交尾相手だって、交尾の時期以外は敵と判断して良い。

だからこういった糞をおくことで、威嚇しておく。

人間に対しての威嚇にもなる。

まあ接近しなくても、動物は臭いで熊がいると理解するし。

人間だって、こんなでっかい糞があれば、危険な動物がいると即座に理解する。理解出来ない個体は死ぬだけ。

それが本来の、熊の知恵だ。

まあ、私も森の環境を乱すつもりは無い。

なお相手の熊は此方に気付いていない。

管理ロボットが、私の痕跡をしっかり消しているからである。

この森の管理ロボットは六メートルもある巨大な蜘蛛型で。鬼神の後をついてきている様子はさながらプチ百鬼夜行だった。

昔の人間が見たら、多分伝承にある牛鬼とでも勘違いしただろう。

それはそれとして、面白い話ではあるのだが。

いったん熊の縄張りを抜ける。

そして無言で歩き回るが。

やはり、どうあっても視線を感じることはなかった。

森を抜ける。

同時に立体映像を解除していた。

伸びをする。

レトンが靴などをチェック。

最近はショートパンツを使うようにしているが。こういう森に入るときは、靴下と専用のスニーカーを履いている。

それでもやっぱりヤマビルがつく。

人間が入る事を前提にしていないので、ヤマビルなどの個体数は適切になるように管理ロボットが目を光らせているのだ。

私もそれに従う。

当たり前の事で、プロフェッショナルの言う事には従うのが道理である。だから、そのままされるままに処置を受ける。

一時期は、反ワクチンとか言うカルトが医療に対して反発する愚かしい行動を見せる事があったらしいが。

今の時代、そんなばかげたカルトはこの世からなくなっている。

まあ、なくなってよかったのだろう。

あれは後からの調査で、人権屋が金儲けのためにバカを先導していたことがはっきりしているのだから。

人権屋にとっては、文字通り誤った情報で人がどれだけ死のうとどうでもいいという事である。

そういう連中が人権屋をしていたのであって。

同情は一切する必要がない。

個人資産が基本的に禁止され、経済がAIの手に移ってから。

それらの情報は、全て一般公開されている。

今の人間は、人権屋が如何に邪悪な連中であったかよく分かっているし。

私も例外では無かった。

無論、人権屋の真似をして稼ごうとするようなサイコ野郎も今でも時々出てくるらしいが。

幼い頃から本性は見透かされているので。

支援ロボットが厳重に監視して、行動はさせないそうだが。

「処置完了。 やはりかなりヤマビルがついていますね」

「ありがと。 それにしても、やっぱり視線はまーったく感じないなあ。 動物はこっちをみていなかったの?」

「かなりの数が見ていました」

「ああ、そうかあ……」

ちょっとガッカリする。

武術の達人になると、背中に目をつけるなんて事が出来るらしいが。それはやはり、五感を研ぎ澄まして周囲に何がいるかある程度察知できたという事なのだろう。

いずれにしても、山道で車を呼び。

後は帰ることにする。

今日はかなり夜遅くまで鬼神になって歩いていたのだが。

まあ帰路はすぐだ。

車の中で、幾つか話をしておく。

「かあちゃんさ、何か他に面白そうな姿は思いつかない? 視線が更に集まるような、それで犯罪にならないような姿」

「そのようなものは分かりかねます」

「うーん、そうかあ。 阿修羅にでもなって見るかなあ」

「あまり衝撃的な姿を取るのはお避けください」

レトンの苦虫を潰したような顔。

表情もある程度作れるレトンだ。

まあ、こういう反応をされるのも、当然と言えば当然だろうか。

ともかく、家に戻ると。

さっさと夕食をかっ込む。

それで風呂に入って疲れを取る。

歯を磨いている時に、南雲から連絡が来る。メールだったので、目だけを通しておく。

視線の怪異についてのデータを集めて来たらしいので、ざっと目を通す。

あまりメジャーな怪異は見当たらないか。

まあ、それはそれでかまわない。

共著として、データを乗せておいてください、と頼む。

後は、軽くデスクに向かい。

今日取って来たデータを、レポートに記載しておく。

それで終わりだ。

後は寝ることにするが。

幾つも、不満や不安が頭の中に浮かんでいた。

とにかく手応えがない。

やはり自分を追い込むしかないか。

そう判断する。

今の時代、様々な姿のロボットが街の中を彷徨いている。鬼神型はほぼ存在しないので、見た人々は驚いたようだったが。

あの六メートルはある大型の蜘蛛型だって、元は支援ロボットだった可能性がある。

勿論調べて見ないとそうだとは断言できないが、そういうものなのである。

だから、私としては、やはり姿を変えて視線を集めて回るしかないだろうと結論が出てくる。

むしろ人間の姿でうろつき回って、視線を感じて見るのもありか。

だが、そもそも私はショートパンツに腕が露出するシャツを着て歩き回っている。空気にさらしている肌の面積はそれなりに多い。

おなかが出るようなシャツもいいかなと思っている。

そう考えると、これ以上肌面積を増やしても、あまり意味がないのでは無いか、と思えて来る。

一応、レトンに確認しておく。

「鬼神のガワを纏うとして、中身はビキニとかあり?」

「また意味がわからないことを。 駄目です」

「どうして?」

「今後しばらくは森の中でのフィールドワークが続きますので」

現実的な観点から駄目だった。

街の中でのフィールドワークは、しばらくやらない。

確かに、レトンの立場からすれば。

監督責任は絶対だ。

私に、無茶な格好はさせられないだろう。

「いや、森の中ではやらないよ。 街に出た時の事」

「それでも感心できません。 肌を直接晒していると、転んだときなどに怪我をするリスクが高まります」

「ああ、そういう」

「下が砂地などの安全な場所であれば、水着は別にかまわないでしょう。 しかし人間の肌は脆弱で、ちょっと引っかけるだけでも簡単に一生ものの傷が残るほど柔らかいものなのです」

その通りだ。

街の中の危険物は、今は管理ロボットがしっかり見張っている時代だが。

それでも、万が一はある。

それに私は、ただでさえばかでかいガワを纏って、不安定な状態で歩き回っているのである。

レトンの懸念は当然と言えた。

「今回のフィールドワークでは、ビーチとかでの行動はないものね」

「そう言った場所であれば、別にビキニを着ることに反対はしません」

「うーん、実利的だ」

「それが私の仕事です」

その通りだ。

だから、私は文字通りぐうの音も出ない。

ため息をつくと、伸びをする。

さて、どうしたものかな。

やはり自分を追い詰めるしかないか。ただ。結構深い森の中をフィールドワークで回っている。

怪異が出るなら、そういう場所の方が適切な可能性が高いからだ。

食事を減らすのは、危険が高いか。

しかし、危険を承知で飛び込まなければ、フィールドワークに成果なんて出てこないだろう。

困った話だが、それが現実だ。

「よし、食事減らそう」

「またいつもの方法ですか」

「少し自分を追い詰めないと、怪異は出て来てくれないからね」

「はあ、分かりました。 しかし、くれぐれも無茶は避けてください」

それは、分かっている。

ともかく、これで少しはマシになると信じたい。

自分自身に隙があるほど、主観的な怪異は出やすい。

それは今まで散々フィールドワークをしてきて、出ている結論なのだから。

 

翌日は、食事をごっそり減らして、それで昼の後に森にフィールドワークに出る。

かなり山深い森だ。

最近愛用しているショートパンツだが、レトンが管理ロボットと連絡を取った後、難色を示した。

この森は茂みが多く、足は出来るだけ晒さない方が良いと言うのである。

上着もシャツは反対だと言う事を言われた。

まあそうだろうな。

そうとしか言えない。

というわけで、久々にジーンズを履いて出ている。

普段ショートパンツで肌面積を増やして、それで感覚を鋭敏にしていた事もある。普段よりも、何というか全身が重く感じた。

ただジーンズを履くだけでこれだ。

今鬼神のガワで纏っているような重厚な鎧とか身に付けていたら。

重くて多分動けなかっただろうな、と思う。

何十sもある西洋鎧は、実は普通に着込んで動けるという話もあるのだけれども。

それでも、やはり重いと感じるだろう。

動いて見て、憮然とする私。

ショートパンツが、いつのまにか無茶苦茶馴染んでいた訳だ。

それに、そもそも食事を減らしたことで、その分気分が色々アレなのかも知れない。

自分でやった事とはいえ、結構影響がある。

だが、これでこそだ。

これくらい自分を追い詰めていた方が、体にエラーを起こしやすいし。

何より自分に隙を作りやすい。

怪異がつけ込んでくるとしたらそれだ。

視線を感じたら。

それはそれで、中々に面白そうだった。

森の中を歩く。

無言で歩いている内に、落ち葉がたくさんある場所に来た。重厚な動きを再現するために、立体映像は色々工夫をしている。

歩いている鬼神を見て、あからさまに驚いて逃げる動物も見える。

遠くで、狼が遠吠えをしているのが分かった。

異物が入り込んで来た。

それを理解して、警戒しているのだろう。

無論、縄張りを侵さなければ何もしてこない。

それでいいのだ。

そのまま歩いて回る。

日が遠くで落ちるのが分かった。一気に周囲が暗くなっていく。暗い森の中で、今の私に正面から人間が出くわしたら、腰を抜かすかもしれないが。

今、この森に人間はいない。

それが全てだ。

無言で歩いている内に、やがて目的地点に到着。

森の中に出来た、わずかな空間である。

周囲に木々がない。

沼などがある場所にこういった空間が出来るケースはあるが。此処には沼もない。

なんだかいう成分が多くて、植物の育成には適していないらしい。地層が露出してしまった場所で。

自然現象として地層が露出したため、敢えてそのままにしているのだそうだ。

なるほどねえ。

そう思いながら、空を見上げる。

月だ。

狂気の象徴ともされた、地球の大きすぎる衛星。

灯りがかなり激しくて、今までの森の中とは別世界のようである。

今日は雲が殆ど出ていない事もあって、凄まじい月光が降り注いでいて、かなり明るい。同時に、今が夜ではないかのような錯覚までさせる。

面白いな。

そう思って、しばし立ち尽くす。

レトンに促されたので、そのまま帰路に。

帰路を歩いていると、ぴりぴりと嫌な感触を覚えた。

そういえば。これが。

ゆっくり振り向く。

何もいない。

レトンが咳払いする。

「視線を感じましたか?」

「恐らくは……そうだ……」

「今主を見ていた生物は十三種ほど。 それについては、後でリストアップします」

「頼むぞ……」

そのまま、森を抜ける。

森を抜けて山道に出ると、既に車が待っていた。レトンとしても、今日はかなり遅くなることもあって、先手を打って車を手配していたらしい。

まあ家に帰ると、ほぼ残った時間はない。

規則正しい生活までは譲れない。

それがレトンの本音であるらしい。

立体映像を解除。ドローンが離れていく。レトンが靴などをチェック。ジーンズも。

今回はブッシュを抜けた事が何回かあった。

それもあって、やはり細かいダニ類なども、ジーンズに付着していたようだった。

「やはりジーンズにして正解でした。 出来れば腕の方も、もう少しガードをした方が良かったのですが」

「そうはいってもなあ」

「もう少し駆除に掛かります。 お待ちください」

スプレーを噴かされる。

レトンは幾つかの器具を丁寧に使って、本当に細かく処置をしていた。ダニなども、生きて森に戻せる個体はそうしている。

ただ少しでも人間の血を吸ったりした場合はその場で駆除。

そうしないと、生態系が乱れるからだ。

季節的に、蚊が出ないのは救いか。

無言で処置をしているレトンが、私の腕を掴むと、幾つか触診をしていた。

それで、厳しい表情をする。

「やはり、明日からは長袖を着てください」

「何かまずい病気貰った?」

「いえ、それは大丈夫なのですが。 さっきのスプレーで駆除した中には、やはり肌の露出を敏感に察知してついた寄生虫がいましたので」

「あー……」

寄生虫は、どこにでもいる。

人間の顔にも、顔ダニというダニがいる。

これはどんなに清潔にしていても存在していて。眉などの毛穴に棲息している。

現在でもこれは同じで、どうしても駆除はできないものらしい。健康被害もないので、放置しているようだ。

人間に対する寄生虫は、そんな感じで別に珍しくもない。

ただ寄生虫といっても、そもそも人間をターゲットとしている場合と。人間に何かの間違いで入り込み、そのまま健康被害を出す場合がある。

今、レトンが問題視しているのは後者らしい。

後者の場合は非常に危険度が高い。

というのも、本来の宿主に入った訳でもないので、どういう行動をするか分かったものではないからだ。

それらの説明を医療的観点から受けて、私は頷く。

「じゃあ、仕方がないか」

「ただ、これらについては、素肌で意図せずに触れるものが多い森に限ります。 明日調査する森では長袖を着てください。 以降は私が、危険度を判断して判定します」

「分かった、そうするよ」

私もレトンを困らせるつもりはない。

呆れさせるつもりは大いにあるが。

困らせることは、それは良くない行動だとも思う。

そもそもレトンは、普通の人間の親なんぞとは比べものにならない良い親だ。今ではパートナーだ。

親ガチャなんて言われ、外れが大きい親と違うし。

好みを押しつけたり、嗜好まで自分の趣向でねじ曲げようともしない。行動を尊重し、きちんと適切な距離を取ってくれる。

そんなレトンには、私も感謝している。

今後も呆れて貰おうと思ってはいるが。

困らせるつもりはない。

ようやく帰路につく。

しばらく無言でいて。気がつくと、家についていた。

風呂にさっさと入り。

そして夕食にする。

相変わらずの烏の行水だとレトンは呆れたが。それについて責める様子はなかった。別に健康的に被害が出るわけでもないからだ。

そもそも長風呂こそ、あまり健康に良くないことが長年の研究ではっきりしている。それに、熱すぎたりする風呂もである。

そしてシャワー。

凄まじい水を無駄にすることも分かっている。

はっきりいって、贅沢極まりない代物で。それでいて、別に体にいいものでもないのだから。

夕食を終えると、軽くレポートを書く。

南雲からのメールもチェック。

そして、レポートの添付資料も、チェックしておいた。

南雲はやはりデスクワークの達人だな。そう、添付された資料の内容の豊富さに感心する。

ほどよく疲れたので、今日はよく眠れそうだ。

伸びをすると、あくびが出た。

レトンが、寝るための準備をしてくれている。

それに私は。

甘えて、早々に眠る事とした。

 

3、少しずつ感じる視線

 

今日は、渓谷を歩く。

川が長年掛けて地面を削り、谷になった場所だ。昔は怪談話が絶えない場所だったらしい。

それもそうだろう。

この辺りは水害の名所で、特にこの渓谷にいるときは、鉄砲水がいつ来てもおかしくなく。

巻き込まれたら命はなかったからだ。

この辺りは河童をはじめとして、水辺の怪異の伝承が山ほど残っていて。

危険極まりない濡れ女などの怪異の話もある。

水辺の怪異は軽率に人を殺すが。

それは、順番が逆で。

水辺では昔、あり得ない程簡単に人が死に。

それを怪異の仕業として、子供などが迂闊に近付かないように、周囲で警戒する必要があったからである。

今は勿論、鉄砲水など起きない。

ダムが作られ、川の水量は完璧にコントロールされている。

そして仮に鉄砲水が起きても問題ない。

今、私の側にいる監視用ドローンや管理ロボットが、最悪の場合は安全圏まで私を抱えて飛ぶ。

というわけで、文明の利器に守られつつも。

私は今、また鬼神姿で歩いていた。

今日はショートパンツに半袖である。

此処は、素肌に何かが触れる事はなく、寄生虫もつかないだろう。

そう、レトンが判断した結果だ。

後方から歩いて来ている監視ロボットは。まんま河童の姿である。

どうもこの辺りに昔住んでいたのが、河童の伝承に魅入られた人らしく。

その人は支援ロボットを六体、全て河童で揃えたそうだ。

しかも江戸時代以降の更に水かきがあって甲羅を背負っている奴から、中華から伝わったばかりの水虎といわれる原始的な姿の河童まで、それぞれ六体。

今私の手伝いをしている管理ロボットはまんま江戸時代以降の河童だが。

それでも口の中には鋭い牙があって。

この支援ロボットを使っていた人が、相当な拘りを持っていたのが伺えるのだった。

河童は凶暴でなければならない。

そういうイメージがあったのだろう。

ただ、本人というか支援ロボットは。特にそういう意図はなく。

主が老衰で亡くなった後は、河童らしくこの川の周辺で管理ロボットをしようと考えたらしい。

今も、丁寧に管理ロボットとしての仕事をしてくれている。

AIを搭載したロボットも、色々である。

歩いていて、ふとやはり何か感じる。

足を止めると、レトンが側で説明してくれる。

「今、主を見ていた生物は二体です。 一体は後方から」

「承知……」

「……」

呆れるレトン。

鬼神のガワを被っているときは、やっぱりこの口調が落ち着く。

そして、今背中の方に視線をはっきり感じた。

だけれども、レトンが告げてきた動物は、非常に小柄な生物だった。

レトンくらいのセンサがあると、周囲全域がレトンの目であり耳であると言っても良い。

そんなレトンが生物の視線を全てカバーしているのだから、まあ間違いはないだろう。

私を見ていたのは、ごくごく無害な小さな生物。

それを思うと、今の視線は。

やはり怪異とみて良い。

心の中に住まう怪異。

それはそれで、私も嫌いでは無いのだ。

また、無言で歩き出す。

しばらく歩いていると、日が落ちる。

渓谷と言う事もあって、日が落ちると一気にすとんと暗くなった。

このひりひり来る緊迫感。

たまらない。

側にある谷川は、日が照っていたときと全く違う顔を見せてくる。轟々としている川の音は。

そのまま、死に導く恐怖と早変わりである。

これだこれ。

これこそが、怪異を呼ぶ、隣り合わせにある死だ。

こう言う場所だからこそ、誤認だって起こす。

それでいいのである。私は無言で、ぞくぞくしながら渓谷を歩き続けた。

やはり視線を感じる。

畏怖の視線も多いが。

それ以上に、興味の視線もある。

これらの主観情報は、後でログとして残しておく。もっと危険地帯を歩いて回るべきだろうか。

そう思う。

そして、こういった環境では。

むしろ、ガワを纏わない方が良いのではないのか。

しかしながら、今までのフィールドワークでは、それで視線を感じたかというと、そうでもない。

色々ターゲットにしている怪異らしきものを主観的に見る事はあったけれども。それ以上でも以下でもなかった。

ふむ。

やはり、このやり方は間違っていないな。

そう結論する。

私は谷川を遡上して、ある程度のタイミングで足を止めた。

ガワを解除。

後は、帰路につく事にする。

レトンが、黙々とスニーカーをチェック。靴下までチェックしている。やはりヒルがいるのだろう。

こればかりは、仕方が無い事だ。

「ヒルの排除完了。 他の寄生虫も、全て駆除しました」

「事前にヒル避けはしてるのにね」

「それくらい、長距離を歩いていると言う事です。 それに体質的に、ヒルや蚊を呼び寄せやすい人間はいます」

暗に私がそうだと告げられているに等しい。

確かに蚊は特定の血液型の人間にあつまりやすいとかいう話は聞く。

まあ、それも間違ってはいないのだろう。

無言で車を待つ。

夜闇の中、すっと飛んでくるホバーカー。

後は、乗って帰るだけだ。

河童の姿をした管理ロボットに礼を言う。

管理ロボットも、一礼すると戻っていった。河童の姿をしていても、一日中川の中にいるわけでもないのだろう。

ただ、管理ロボットになった時点で、性能を底上げしたり、ガワを変えたりするロボットは多いらしい。

そうなると、あのロボットのもとの主は。

支援ロボット達と、かなり良い関係を構築できていたのかも知れなかった。

そう思うと、あの背中は。

寿命の違いで、大好きな人を見送らなければならなかった存在の背中にも思えて。

ちょっとだけ、切なかった。

 

夢を見た。

無言で霧の中を歩く。

今日は、いつもの愉快な怪異が出てくる夢じゃないな。

そう思っていると、空に何かもの凄いのが見え始めた。あれは、黒い太陽、だろうか。

ああ、なるほど。

20世紀末に不意に出現した怪異、空亡か。

元々は百鬼夜行の絵にあった、空亡という言葉が出展。それがあるテレビゲームでラスボスに取りあげられてから、有名になった怪異。

テレビゲームが出展というのが、20世紀の怪異らしいといえばらしい。

それまで日本には、凶悪な怪異が少なかった。

強い力を持つ怪異もいたにはいたのだが。九尾の狐や酒呑童子を例に出すまでもなく殆どが封印されたり倒されたりで、魅力的なヒールがオカルトの世界にはすくなかった。ぬらりひょんというのもいたが、どう考えても武闘派の妖怪ではなかった。

だから三大怨霊が人気だったし。

妖怪や邪神よりも、怨霊の方がメジャーで怖れられるという、不思議な国になっていたのである。

そんな中、妖怪のヒールとして空亡が出現し。

21世紀には、それなりにヒールとしての地位を確保していた。

あれが、そうだ。

人工的な妖怪だが。

そもそも怪異というものが、人間の奔放な想像力が産み出したものである。生まれ方がどうだろうが、怪異は怪異。

怪異の元となった現象はあるかも知れない。

だが、それに肉付けをして。

人格のある存在として仕上げていったのは、人そのものなのだ。

手をかざして見ていると、空亡はじっと此方を見る。

此方を認識したか。

にやりと笑うと、空亡は何もせず、すっと去って行く。

そうだろうな。

あいつもかなり危うい怪異だ。

そもそもとして、空亡そのものは21世紀にその「創作性」を指摘され。人気は一時的なものに過ぎなかった。

日本の神話の神々、特に天津の神々は非常に強く、力で征服できなかった存在は唯一アマツミカボシくらいしか存在していない。

それも結局の所懐柔されて屈服しているので、この国では魅力的なヒールがいなかった。そこに滑り込んだ、そもそも創作で求められていたヒール。

それに過ぎない。

だから本当に空亡を怖れる者なんていなかったし。

フリー素材さながらに、好き勝手に使用されるというのが実情だった。

手をかざして見ていると、霧の中を多くの怪異が行く。

いずれもネットロアばかりだ。

私を一瞥はするが、それだけ。

恐ろしい姿をしている者もいるが、ただそれだけである。

これ以上も無い程に、虚仮威しの怪異達。

実際に危険な場所が存在して、それが故に産み出された怪異は。人の死などがきっかけになって出現している。

だがこのネットロアの怪異は、いずれもが面白おかしく創造された者ばかり。

誰もが存在を本気にしていない。

怖がるという行為を楽しむために作り出された存在。

だから、殺傷力などないのが当然だ。

ただ、怪異のあり方は時代によって違う。

ある程度、怖がってくれる人がいればそれで充分。

そうこの怪異達は思っているのだろう。

私は、正直どうでもいい。

ただぼんやりと、見ているだけで良かった。

やがて、最後にずるずると巨大な蛇のような姿。姦姦蛇螺が行く。これにしても、もとのネットロアでは殺傷力がこれでもかと強調されているが。

当然、そんな怪異は元々いないし。

邪神としても、信仰されていた形跡もない。

だから、ぼんやりと見送るだけだった。

霧が晴れてくる。

なんだかつまらないなあ。

もっと驚かせてくれないかなあ。

そうため息をつく。

空亡は当然もういない。

私の夢の中の霧も晴れて。いつの間にか、私は孤独になっていた。

 

目が覚める。

なんだか、寂しい夢を見た気がする。

ため息をつくと、布団にもう一度潜る。二度寝したい気分だが、そうもいかないだろう。

部屋の環境は、活動に適した状態に調整も終わっている。

起きだす以外に、道は無かった。

仕方がない。

起きだす。

そして、うがいをして歯を磨いて。顔を洗っている内に、レトンが朝食を持ってくる音が聞こえた。

一緒に卓を囲んで食事にする。

私が凹んでいるのに気付いたのだろう。レトンは、夢のせいだろうとは分かっているのだろうが。

それでも、ただ仕事の話を振ってきた。

「今日のフィールドワークを考えると、午前中にレポートを仕上げた方が良いでしょう」

「うん……」

「紅茶を淹れます。 甘いのを」

「そうしてくれる?」

ジャムを頼むというと、こくりと頷いてレトンは紅茶を淹れると言ってくれた。

まずは食事を終えて、デスクに向かう。

レポートに向き合っていると、質問が来ていた。

以前のUFOについてのレポートに関してだ。

「何々。 UFOを宇宙人の乗り物ではないとする根拠は何ですか? まーだこの手のがいたのか……」

「どうなさいますか?」

「この間、処置をしたと思ったんだけどなあ」

頭を掻く。

無視してもいいのだが。一応返事をしておく。

「UFOの正体については、一切言及していません。 そもそも言及できるだけの資料がないからです。 UFOというのは未確認飛行物体の略で、正体が分かっていたらUFOではありません」

これくらいでいいか。

さっと書くと、返信しておく。

これで面倒くさく絡んでくるようだったら、その時はしかるべき処置を執るが。以降、再返信はなかった。

或いは、面白がって悪戯をして来ただけかも知れない。

いずれにしても、面倒なのはレトンが先に処置をしてしまうので、私の所まで来たと言う事は。

まあ、よく分からないが、危険は無い相手だったのだろう。

無言でレポートを仕上げていく。

やはり視線そのものが怪異である可能性が高いという事をフィールドワークを元に記載をしていくと。

不可解そうな反応をしている者が目立つ。

確かに店などでは、視線や導線が重要になってくるが。

それはあくまで主観的な視線の話だ。

自分が感じる視線というのは、明らかにあり得ないとみて良い。

漫画などでは、当たり前のように手練れのキャラクターが視線や殺気を感じて対応しているが。

そんなものは、現実ではないということだ。

私も色々試してみるが、どうも的外れな方向で視線を感じている。

武術をこれから習得して、五感を磨き抜いても同じ事だろう。

そういう意味では。

あまりにも夢がない結論になってしまっているが。

現実はそういうものだ。

フィールドワークをしている民俗学者がこういうのもなんだが。

やはり、現象としての怪異はどこまで行っても現象。

主観的な怪異は、心に住んでいるのだと思う。

そう考えると、私はあまりにも無体なことを言っているのかも知れないと感じてしまうが。

だが、それが現実というものだ。

頭を掻く。

そして、溜息を一つ零していた。

 

フィールドワークを続ける。

鬼神のガワを被って、訪れたのは山奥の廃道だ。

廃道は雰囲気があって、怪談話の主役にもなりやすい。そしてそれが有名になると、地元の不良がわんさか押し寄せたりして、悪逆の限りを尽くしたりしたそうだ。

あくまで昔の話である。

今では、廃道はしっかり管理ロボットが見張っていて、悪戯に入る事は不可能である。

この間知ったのだが。くだんの姦姦蛇螺そのままの格好をしている管理ロボットがいるらしい。

ある意味、怪異が現実になってしまった訳だが。

この姦姦蛇螺は何の問題もない存在で、自然と人間の適切な距離を取るためにいるだけの者。

ロボットではあるが、調停者に近い。

理不尽な災厄をまき散らす邪神とは、別の存在である。

というわけで、死にかけていたネットロアが、変な形で怪異祓いされた、といえるのかも知れなかった。

無言で廃道を歩き続ける。

鬼神なのだから、怪異が勘違いして寄ってきても良いんだよ。

そう内心で呟きながら、淡々と歩く。

勿論怪異は寄ってこない。

ただ、やはり今日も食事を減らしていることもある。

視線は感じた。

感じる度に、レトンに確認する。

そして、特に動物にすら見られていない、と言う事。見られていても小動物が見ているくらいである事。

それを確認して、フィールドワークを続ける。

視線、か。

このフィールドワークもそろそろしまいだ。

これだけ彼方此方、こんなに目立つ姿で出歩いても、視線は来ない。視線は来たとしても主観的なものだ。

街の中も歩いたが。

結局、人間の視線を背後から感じる事は出来なかった。前にいる人間が、私を見ているのは分かるが。

それは、相手が見ているのを。こっちも見て確認しているからだ。

今日のフィールドワークも終わる。

そろそろ今回の調査も終わりだな。そう思って、偽装を解除。鬼神の姿、結構気に入っているのだけれども。

これは結局、視線を集める以上の効果はなかったな。

何だか狸か狐になった気分だ。勿論妖怪としての、である。

体を膨らませて現実と違う存在になる行為が、こんなに虚しいのかと思う。

これを虚しいと思えないと更にまずいのだろう。

なんとなく、器では無い地位に就いたり、金を持った人間が狂う理由がわかる気がする。

それに、だ。

身の丈に合わない力や姿を得た所で。

こうも虚しいのだなと、色々思ってしまった。

鬼神の姿を纏った私は、擬似的に一時期流行った「異常な強力すぎる能力を手にして異世界転生」みたいな状態にあったといえる。

まあそれほど極端ではないが、ほぼそれに近い。

だが、それがこれほど空虚だったとは。

色々溜息をつく。

車が来るまでに、レトンがヒルなどの処理を済ませてくれていた。私は、空を見上げる。今日はあいにくの曇りである。

だから、月も星も見えず。

兎に角周囲は暗かった。

「終わりました」

「うん、ありがとうかあちゃん」

「相変わらず浮き沈みが激しいですね」

「まあね。 ちょっと考えちゃってさ」

内容はレトンに筒抜けではあるのだが。レトンはその辺りはプライバシーと考えるので、藪蛇をしない。

車が来た。

後は、無言で車に乗って、その場を離れる。

別に鬼神のガワを纏う行動そのものは恥ずかしくは無かったが。

そんな事よりも、とにかく膨れあがった力を持つことが、とにかく虚しいと感じていた。

自宅まで、一言も喋る気になれなかった。

フィールドワークはそれなりの成果を出せている。

腹も減っている。

それなのに、饒舌にもならないし。何かを口にしようとも思わない。

それに、だ。

レポートには記載しないが、視線というのはやはり怪異だと判断して良さそうだ。これは勿論、見ていない範囲で視線を感じる、というものについてである。

私は、結論を出す人間ではない。

フィールドワークで、実験する人間だ。

これでも学者だから、データを集めてなんぼである。

決定的な証拠を掴んだ訳でもない。

今後、人間の精神により深く潜って行く学者が出たら、それで決定的な証拠を掴めるのかもしれない。

その時私のレポートが役に立つかも知れないが。

それはまた、別の話になる。

私は、何もかも暴こうとは思わないし。

他人が暴くことも止めない。

学者として、フィールドワークをするだけ。それが、私に出来る唯一の事だから、である。

自宅に着いた。

後は、風呂に入ってメシを食べて。

レポートに実験結果をアップデートして。歯磨きして。寝る。

たくさん歩いたが、別にいつものことだから何とも思わない。無言で寝に入ると、レトンが部屋の環境を完璧に整えてくれる。

加湿器が動いている様子を見ると、恐らくだが部屋が乾燥気味なのだろう。

目を閉じて、そのまま眠りに入ろうとするが。

中々寝付けなかった。

「かあちゃん、聞いてる?」

「はい。 聞いています」

レトンが側にいる訳ではない。

私のバイタルなどは睡眠時も観測されていて、異常時は即座に治療を行うためである。このため幾つかのデバイスが、ベッドに仕掛けられている。その中の一つを介して、レトンが返事してきた。

それだけだ。

「今日さ、分かってると思ったけど。 すっごい虚しくなったんだよ」

「明らかに大きすぎる力、ですか。 それを得て調子に乗る人間もいるなか、主は虚しくなったようですね」

「うん。 視線を感じるってのもそう。 人間ってのは、本当に自意識過剰というか、調子に乗る生物なんだなって思って、とにかくばからしくなった」

「10000年以上前と比べて、人間は何も変わっていません。 むしろスペックは落ちる一方です」

それは分かっている。

これでも学者だからだ。

良くいる馬鹿な優生論者。その手の輩が、淘汰は当然の事だとか。優秀な血統から優秀な子供が生まれるとか抜かしていたが。

それらは全て大嘘である。

歴史に残る偉人の子供がボンクラ揃いなんてのは幾らでも例があるし。

そもそも淘汰なんてのは人間の主観。

優秀というのも同じく人間の主観。

人間の見た主観から優れている人間と、生態系に適応出来る人間は別問題だし。人間から見てみにくく劣っていると感じる存在が、強力な何かしらの適性を持っていることは珍しくもない。

23世紀の頃には、優生論はあらゆる観点から否定されたが。

今でも密かな信奉者がいる。

そういった人間は、優秀では無い人間を殺すべきだとか。

老人はもう死ぬべきだとか。

好きな事をほざいている。

私は、その歴史を知っているから、より虚しく感じる。

仮にその手の阿呆が「優秀」だと思える力を手に入れても、明らかに不幸な事態しか招かない。

自分にとっては幸福なケースもあるだろう。

だが周囲全てが不幸になる。

自分自身すら幸福にならないケースだってある。

それが、私の感じたあの時の感触だ。

何事も実際にやってみないと分からないが。私は鬼神のガワを被ってみて、実際に体験できた。

そして分かったこの事は。

決して間違ってはいないだろう。

「人間の精神は、幼児期からまず成長しない。 何かの切っ掛けで変わる事がある人はいるけれど、あくまで例外。 それは何度も聞かされたね」

「はい。 私は人間のデータをあらかた閲覧できますが、その通りです。 創作の世界では、何かの切っ掛けで大きく変わる人間が良く描写されますが、あれは例外中の例外という事実があります」

レトンが見ているデータは1000億では足りないくらいだろう。

だから、その言葉には重みがある。

私はベッドの中で身じろぎすると。

また一つ、ため息をついていた。

「私は、このまま変われそうにもないなあ」

「主は現実を生きている人間です。 簡単に変わる事は不可能です」

「分かってる……」

「だから、そのまま長所を伸ばしましょう。 何でも出来る人間を安易に求めていた時代と今は違います。 苦手分野は我々支援ロボットが補います。 だから、長所だけを伸ばせばいいのです」

まあ、その通りだ。

短所を補強するのもそれはそれで意味がある行為だが、限度がある。

努力しても無理なものは無理なのだ。

昔の迫害のデータを見た事がある。

顔が気にくわないなどというのは朝飯前。

中には「物理的な意味での声が大きい」だとか。病気による差別だとか。そういったものが、幾らでもあった。

それを努力で直せるとでもいうのか。

いちいち相手の好みに合わせて顔を整形したり、喉を病院で弄くらなければならなかったのか。

仮にそれらをやっても、相手の要求は際限なく大きくなっただろう。

それが人間。

私も含めて、愚鈍極まりない生物だ。

視線を研究していて、大きな結論に到達してしまったが。

別にそれは悪くないと思っている。

この結論じたいは、どうでもいい。

私がその結論を、表に出すことはないからだ。

ただ、あまりにも虚しい結論だと思う。自分でやってみて、自分を過大に大きくしたり。急に変化させる無意味さを理解したからである。

人間はゴミだな。

そう私は考えて。AIに政治経済を握らせたのは、やはり正解だったんだなと苦笑していた。

そうでなければ人間はそもそも地球で資源を使い果たして滅びていただろうし。

仮に宇宙に出た所で、そこでも永遠と殺し合いを続けていたのだろうから。

「眠れないな。 かあちゃん、何か良い音楽でも流してよ」

「分かりました」

静かで優しい音楽が流れてくる。

良い音楽だ。

実は、現在でも子守歌というのは有効で。支援ロボットの子守歌でも、子供は刷り込みもあって聞きたがる。

そういう研究がある。

今流れているのは子守歌ではないリラクゼーション用の音楽だが。どこか、子守歌に近いメロディだった。

何かに見られているような気がする。

勿論、何かに見られている筈がない。だが、この視線の正体は分かる。

私が感じている。あまりにも浅ましい人間という存在への羞恥が産み出しているものだろう。

音楽の効果は強力で、もう眠くなってきている。

私は、うとうととしながら。

夢に落ちる寸前。

天井に、無数の目があるのを見た気がした。

にやりと笑う。

おいしそうだなと、私は思った。

 

4、視線の果てに

 

伸びをして、私はフィールドワークの終わりを楽しんでいた。

これで、一通り終わりだ。

帰ってご飯にしたい。

そう感じていた。

レトンがヒルだのを処理するのを待ってから、車にのる。後は、帰路で南雲と軽く話をしておいた。

それだけの余裕が出てきていると言う事だ。

腹は減っているが、集中力が落ちても別に怒りっぽくなったりはしない。私は基本的に、殆ど怒らないと言われている。

だからといって、私が優しいわけでもなんでもない。

それは、私自身が一番良く理解している。

妖怪を美味しそうと思い、実際によだれも出る変人だ。

それは充分に自覚しているし。

自分が優しいなんて、絶対に思わなかった。

「視線の魔術に関するデータもデスクワークで集めておきました。 レポートに記載しておきます」

「ありがとうございます南雲先生。 視線の魔術というと、やはり古代からの由緒正しいあれですね」

「はい。 視線そのものの怪異よりも、恐らく魔術的な意味での視線の方が重要でしょうね」

一神教にはサリエルという天使がいる。

魔術を司り、月を管轄する天使だが。時代が降ると、天使信仰というものが生じ。一神教内での権力争いから、天使信仰で人気があった天使は、「堕天使である」という解釈を下された事がある。

サリエルはそれに巻き込まれて堕天使にされた存在だ。

まあそれはともかくとして、サリエルは邪視……つまり視線を使った魔術を特異としていて、それで有名だったりする。

昔の人間も、視線は重視していたし。

恐らくは、何処かで視線を感じるとも考えたのだろう。

研究した結果、そんなものは多分ないだろうなと私は内心結論しているのだが。或いはだが。

武術の達人が同じように実験をしたら。結果は変わるかも知れない。

まあその時はその時。

ちなみに今でも、武術の達人は存在している。

というか、支援ロボットが古今のあらゆる武術のデータを取り込んで最高効率で教え込んでいるので、はっきりいって適性がある場合は史上最強だろう。

武術は才能に依存するものだから、強さはどうしても鍛錬より才能に依存してしまう。

だから今、適性がある人間がいればいいのだが。

ちょっと思考が脱線したが。

ともかく、視線の話を南雲とする。

「とりあえず、此方も最後のフィールドワークが終わりました。 データは帰り次第レポートに記載します」

「ありがとうございます。 これでまた、一つレポートが仕上がりましたね」

「此方こそ、デスクワーク助かりました。 苦手分野を互いに補いましょう」

「ええ」

他にも、幾つか話をしておく。

私は、実はある事を調べたいと思っている。

怪異が世界中で似る。人間の中に怪異が住む。

だったら、出るかも知れない怪異がいる。

それは、始祖の巨人だ。

出るとしたら、開拓がどんどん進んでいる火星だろうなと思っている。金星はまだ開拓の途上……いや開拓の段階に入っていない。金星は衛星軌道上のコロニーに住んでいる人が主流で、今必死に大気の二酸化炭素を酸素に切り替えている状態だ。酸素を増やした後は、二酸化炭素を分解して更に色々と様々な物質に変えていくらしいが、最終的に人間が住めるくらいまで大気を改造するのに、一万年は掛かるらしい。

火星はそれに対して、まだ大気は駄目だが、各地に大きなコロニーが作られはじめ。様々な開拓作業が行われている。

もしも、始祖の巨人の話が生じるならそろそろの筈だ。

当然、調べるなら現地での調査になる。

何、火星に行くのに今はそれほど時間も掛からない。

金星にも火星にも行ったことがあるから知っている。

ただ、それはあくまで最終目標だ。

怪異の中の原初の怪異。

原初の巨人が相手になると。

多分私以外の民俗学者も動くだろう。

それを軽く南雲に話しておく。南雲も少し考え込んでいた。

「原初の巨人とは、また大きく出ましたね」

「恐らく、私に取っては最高の研究になるかと思います」

「分かりました。 その時には全力でバックアップします」

「よろしくお願いします」

通信を切る。

さて、次だ。

次に研究する事も、また普通の怪異になるだろう。私は別に、大きな怪異ばかりを狙っている訳ではない。

ただ、分かってきている事がある。

現象は現象。

怪異は怪異。

現象に肉付けして設定を増やしても、所詮は怪異。現象に殺される人間はいても。怪異に殺される人間はいない。怪異は人の心の中に住んでいる。

研究すればするほど、その結論は硬くなる。

勿論、例外を見いだしたい気持ちもある。

どこかに本物の怪異がいたら嬉しいなと、今でも思っている。

だからこそに、私はフィールドワークにこだわる。

本物の怪異を見つけたら、飛びかかって食うかも知れないが。逆に食われるかもしれない。

その時はその時。

まあ、本望である。

自宅につく。

後はレポートを仕上げるだけだ。

黙々と私は作業をする。

今日はフィールドワークを早めに仕上げたので、時間的にも余裕がある。食事をする時間も少し先だからだ。

レトンも、別に私が腹を減らしても、早くに飯を食べたがる訳ではないことを知っているし。

何も言ってくる事はなかった。

腹が減って多少集中力が落ちても、ミスをするような仕事でもないし。ミスをしたとしても、サポートのソフトがリカバリしてくれる。

今はそういう時代だ。

人間は誰だろうがケアレスミスをする。

それをどうしても理解出来ない人間もいたが。今は統計から、ケアレスミスの存在は可視化されている。

故に、誰もがこういったサポートソフトを使う。

実際には、AIがすべてをやっても問題ない仕事も多いのだが。

こうして、人が好きな仕事を出来る環境を作る。

それが大事な事を、AIは理解している。

その分、人間の政治家よりもずっとマシなのだろう。

皮肉な話だが。

作業が終わったので、伸びをする。

そして、私は次の仕事の事を考える。

休みよりも、仕事が楽しい。

少なくとも、そう思える時代に。私は、生きているのだった。

 

(続)