追跡する側される側
序、夜道の背後に
この間の舟幽霊の調査は、レトンに大きな負担を掛けてしまった。それは良くない事だったと私も反省した。
というわけで、今回は比較的安全なフィールドワークに来ている。とはいっても、私は敢えて比較的薄着にしている。
この方が感覚が鋭くなると判断したからだ。
ショートパンツは少し前から愛用しているが。
これだけではなく、シャツも腕が出るようなものを選ぶようにしている。
足下はスニーカーを履いてほしいとレトンに言われたので、そうしているが。その代わり、歩いていて音が出る奴を選んだ。
理由としては、今回出現を確認したい怪異が、そういう存在だからだ。
通称べとべとさん。
背後からついてくる足音の怪異だ。
基本的に背後を振り向いても誰もいないが。歩き始めると、また足音がするという怪異である。
これについては20世紀にも遭遇例があるらしく。
中々にエキサイティングな怪異と言える。
勿論変質者が出た場合は……そんなものはここ一世紀くらい出ていない筈だが。ともかく出た場合に備えて、レトンがいる。
レトンは人間を傷つける事が出来ないが。
制圧するために押さえつけるくらいは簡単である。パワーが象を凌ぐほどなのである。人間なんて、どんなにごつくてもそれこそ一ひねりだ。
今日は、伝承が残っている場所を歩いて回るだけ。
レトンには負担を掛けない。
ただ。場所が里山を再現した田舎の道だ。
寄生虫とかの問題もある。
だから、スニーカー。それにソックスもできるだけと言われているので、両方つけているが。
その代わり腕や足はかなり露出している。
それもあって、肌寒いが。
別にそれは悪くない感触だ。
肌寒い、大いに結構。
それによって私は怪異をより感じやすくなる。肌に負担を掛けてしまうかも知れないが、それはそれだ。
風が吹く。
ささやかな風だ。
荒海で揉まれた経験が、私を更に図太くしている。レトンも自身のバージョンアップを今役所に申請しているらしい。
私がかなり厳しめのフィールドワークをするのが要因だろう。
いずれにしても、歩くのには慣れている。
今の時代は、家から出ない人までいるのだが。私は今までに日本列島全域くらいは普通に歩いて回っている。
それだけあって、足腰はとても頑丈だと言われる事も多い。
もっとも、別に体力があるわけでもないし。
筋力もそれほど体質的に多いわけではないそうだが。
まあ、同世代の他の人間に比べて、の話なのだろう。
黙々と歩く。
私は夜道を歩いて、耳を澄ませる。
今回は、特に危険な場所を歩くわけではない。ただ夜道だから、足を挫いたりはする事もある。
故に淡々と歩いて。
そのまま怪異が出現するかどうか、フィールドワークする。ある程度疲れる必要もあると判断している事もある。
フィールドワークに出る前に、トレーニングマシンで一汗も掻いていた。
さて、出るかな。
わくわくして歩いているが。中々出ない。
まあ、怪異はわくわくしているときには出ない事が多い。
本当に人間に害をなせる怪異がたくさんいるのなら、そういうのを倒す専門家が普通にたくさんいただろう。
だが、そういうのがいない時点で。
この世界の怪異は、あくまで穏やかな存在だと言う事だ。
それは分かっているから。
私は淡々黙々と歩く。
もしも怪異が実在したらいいなあ。
そんな風に思いながら。
怪異が実在するか。
民俗学者の私でも、それはデータを取ってみないとなんとも言えないとしかいえない。
目撃例遭遇例がある怪異でも、それが実際にはどういう存在なのかは、データがほしいところである。
何かしらの生物が誤認されたケースの場合。
それは生物学者が調査するべき話だ。
トラツグミの実物の声は、鵺の調査をするときにやったことがあるが。
鵺を想起させるような、それほど邪悪なものとは思えなかった。
或いは特定の条件で出すものなのかも知れないが。
それは、専門家が直に調べて。
そしてその専門家が出したデータをベースに、私が研究すべきだろう。
いずれにしても、今日は歩く。
既に日は落ちている。
それでいて、歩いていても。足音は私とレトンのものだけ。スニーカーの音はきゅっきゅっとちょっと気持ちがいい。
レトンの足音は、とても静かだ。
これらの足音は、敢えて特徴的にしてある。
三人目の誰かが現れたとき、分かりやすいように、である。
しかしながら、中々出てこない。
そういうものなのかなと、私は思う。
「複数で歩いている時に、出現例もある怪異なんだけどなあ」
「遠くでの物音を聞きまちがえたとかでは」
「確かに条件が揃うと、遠くの物音が至近で聞こえたりはする」
「いずれにしても、これは茶番ですね。 相変わらず茶番で無駄に時間を浪費していると思います」
ばっさり一刀両断するレトン。
まあ、レトンはこれでいい。
そして、レトンがこの間の舟幽霊調査のように、ぼろぼろにならないならそれで私は満足だ。
苦笑いしながら、夜道を歩く。レトンに引き留められたので止まる。前を狐が通っていった。
狐か。
今は人間に興味を持たないように色々と工夫して、そしてこういった野山でも見られる。
昔はエキノコックスという危険な寄生虫を媒介し。
そして様々な怪異の元凶とも勘違いされた動物だが。
今ではすっかりそれらの話は過去のものとなった。
理由としては、狐が飼育下で徹底的に研究されたからで。
狐火も起こす事は無いし。
高い知能で人間を化かす事もない。
むしろどちらかというと憶病で。
人間と化かし合いをしたりだの。
怪異の中でも最強に近い力を持っていたりだのと。
そういった事はないのだと、はっきり分かってきている。
そもそも狐に対する信仰や恐れは、印度から来たダキニ天信仰が源流にあるとも言われていて。
それを考えると、信仰によって勝手に実像が歪められてしまった、とも言える。
それに狐はそもそも豊穣の神として信仰を集めた経緯もある。
多神教あるあるの、多面性を持つ神格という奴だ。
これが余計に一神教圏の人間を混乱させる事も多かったらしいが。
まあ、私はそれに今の時点では関係がない。
少なくとも、足跡の正体は狐ではないだろう。
狐は歩くとき殆ど足音がしない。
少なくとも、人間と誤認することはないだろう。
それは実感できる。
ひょっとすると。
夜道を歩いていて。
とても怖がっている人間なら、小さな足音を誤認して恐怖に囚われる事はあるかも知れないけれども。
振り返ってもし狐がいたら。狐は大急ぎで逃げていくだろう。
餌をねだるような個体は昭和期以降にたまに見られるようになったが。少なくとも、怪異が多数伝聞にて出現していた時代には、そんな間抜けな狐はいなかっただろう。いてもあっさり狩られてしまったからだ。
いずれにしても、あれは違うな。
そう思って、歩く。
エキノコックスについての注意をレトンから受ける。
勿論分かっている。
狐に触る事は論外。
狐の触ったものにもできるだけ触らない方が良い。
エキノコックスは今でこそナノマシンで制御されているし、感染しても即座に分かるのだけれども。
昔は潜伏期間が年単位に及ぶこともあり、実害が出ても中々分かりづらいという厄介な寄生虫だった。
勿論今は怖れる必要はないが。
それでも。レトンに手間を掛けさせたくないというのが私の中にある。
私にとってレトンは「かあちゃん」である以上に、大事な存在だ。
だから、そんなレトンに必要以上の迷惑を掛けたくなかった。
「此処までが、入っていい場所だったね」
「そうなります」
「じゃ、引き返して様子を見よう」
「無駄だと思いますが」
里山の奧。
これから森、という所で引き返す。
この辺りの里山は、管理ロボットで制御されていて。生態系の一部を担うと同時に、いざという時のために様々な作物を実験的に栽培もしている。
無菌状態で栽培されている、最高効率で収穫できる作物にもしものことがあった場合を考慮しての事だ。
いざという時はこういった里山で、現在の人類を養うための物資を生産するためのセーフティネットにもなっている。
日本の里山はかなり小規模な方で。
北米や中華にあるこの手の管理された農村の残骸は、凄まじい規模を誇るという。
昔はそれらの作物を巡って、面倒な利権が絡んで鬱陶しい事が散々起きていたのだというのだが。
今では経済をAIが管理している事もある。
人間はやっとその無駄な争いから解放された。
その争いから解放されるまでも。
随分と血が流れたらしいが、それはもう400年も前の話だ。
帰路を行く。
やはり三人目の足音は聞こえない。
今回は純粋な主観視点の怪異と言って良いだろう。もしも三人目の足音が聞こえるような事があれば、それは世紀的な発見だ。
勿論私は、そんなことが出来るとは最初から思っていない。
ただ。フィールドワークで成果を積むだけである。
黙々と歩いていたが。
たまに色々とレトンと話す。
レトンは塩対応と言っても、無視するようなことは無い。
現実的な観点から、淡々と主観視点に囚われる事に対する弊害を述べてくる。
それでいい。
私はそれを参考にしながら、話をする。
主観視点を絶対正義とするような人間は、やがてカルトに墜ちる。
それを理解しているから、それでいいと思っているし。
主観で怪異と遭遇したとしても。
それを客観的に分析する事が、学者としての最低条件だとも思っている。
だから、レトンのような存在は必要なのだ。
ただ、レトンを本当に悲しませたりはしたくない。
AIが悲しむのか、というと悲しむ。
これについては、人間の感情くらいはとっくに再現出来ている、からである。
故に、私もレトンがやるなと言ったことはやらない。
レトンもその辺りは信頼しているらしく、余程の事がない限り私にやるなと言う事はない。
里山を戻って来た。宿泊施設の手前だ。
レトンは無言で次はどうする、と視線を向けてくる。
さて、どうするか。
少し時間が余った。
「もう少し、里山を歩いて見るかな」
「分かりました。 戻るべきタイミングになったら声を掛けます」
「よろしく」
そのまま、また里山を歩き始める。
淡々と里山を歩いていて、ふと思う事もある。
もう少し、不自由な方がいいか。
今は、ガチガチに少なくとも足首の辺りまでは守りを固めている。監視ドローンがついてきていて、蚊や虻も避けてくれている。
これについてはかまわないが。
例えばもっと暗い日を選んで、意図的に歩いて見るとか。
もしくは、物理的に振り返られないようにするとか。
少しなやみながら、歩く。
こうやって雑念を消しつつ歩いていれば。
やがて何か見えてくるかも知れない。
聞こえてくるかも知れない。
私が研究している怪異というのは、そういうものだ。
心の隙間に入り込んでくるのだから。
「そろそろ、引き返すタイミングです」
「もう? そっかあ。 この辺りの怖さを、もっと頭に叩き込まないと、多分べとべとさんは出て来てくれないね」
「主観でそれが出て来たとしても、ただ無意味に危険を冒しているだけに思いますが……」
「無意味じゃないよ。 主観でそれが見える人には見える。 聞こえる人には聞こえるのも事実なんだから。 それを解明しての学者だよ。 ただ、私の場合は怪異に実際に会いたいというのがそれに優先するのだけれども」
自分でも分かっているから、素直に認める。
レトンは呆れる。
それでいい。
私の行為は、呆れる人が側にいるくらいが丁度良い。
そしてレトンは、客観視点で何か生じた場合は、素直にそうだと即座に認めてもくれる。
鬼火の時も舟幽霊の時もそうだった。
だから私はレトンを信頼している。
怪異というだけで、即座に拒否反応を起こすような連中とは違う。
怪異がもしも発生した場合。
冷静に周囲を確認した上で、客観的に確認できるものであったらそうだと認めてくれる。それはとても貴重な存在だ。
黙々と宿泊施設に戻る。
レトンがチェックして、スニーカーや足首辺りまでを守っている靴下を確認。ヒルなどを取り除く。
許可が出たので、後は宿泊施設に入る。
自室に行くと、風呂に直行。
シャワーで軽く流した後、風呂に入って。リラックスする。
後は夕食にする。
レトンの夕食は、すぐに作れるようだが。レトンが敢えて、風呂などの時間も計算して出してくれる。
だから、ベストタイミングで、ベストの状態の食事を取れる。
まあ、今日のも美味しい料理だ。
黙々と食べていると。
レトンは少し悩んだ末に言う。
レトンが悩むと言う事は、相当な判断を重ねた上での事だろう。
「最近の主の、意図的に体を晒す事で危険度を増す行為は、どうにも賛成しかねます」
「……今までのフィールドワークでは、成果が上がらなかったでしょ」
「それは事実ですが」
「実際問題、肌を空気にさらす面積が増えると、それだけ原始的な恐怖を喚起しやすくなるみたいなんだよね」
今の服は優秀だ。
自動乾燥機能に、寄生虫やウィルスなどを全てシャットアウトする機能もついている。
それで人は、外で無菌状態を保つことだって可能だ。
私みたいに、ショートパンツをはいて外を歩き回っている奴なんて、ほとんどいないに等しい。
ましてや最近はシャツも、腕が露出するものを着ている。
最近の服にはエアコンの機能もついているから、別に薄着にする必要などはない。
汗なども全て服が処理出来るようになっている。
だから、私が無茶苦茶ラフな格好で外に研究に出ると、ぎょっとした様子で私を見る人間もいる。
事実、支援ロボットにあれは幽霊かと聞いている奴もいるそうだ。
こんな格好をしている奴、今の時代には殆どいない。
ましてや夜道に私とすれ違うと、それだけで昔の人間では無いかと勘違いまでするそうである。
勿論支援ロボットが、研究中の人間だと説明し。
即座に都市伝説の発生は抑えているそうだが。
「ただ、かあちゃんがいう通り、危険であるのは自覚もしてる」
「分かっているのならいいのですが」
「うん。 命に危険が直接ある場合はちゃんと話をして。 私も、それはきちんと聞くようにするから」
「それについては信頼感もあります」
レトンも、私が話を聞くことについては認めてくれているのだろう。
それは有り難い事だ。
ともかく夕食を終えた後、レポートに入る。
今まで書いたレポートには、相当なアクセスがあるようだが。
いずれもが、恐怖画像として見に来ている様子だ。
特に舟幽霊の検証画像については。
あらゆる意味でホラー映画より怖いと言う声が上がってきており。
それで別の意味で楽しむ人間が出て来ているらしい。
そんな目的で荒海に出たんじゃないんだけれどな。
そうぼやいてしまう。
レポートを書いていると、南雲から連絡がある。べとべとさんや類種。足音の怪について、かなりのデータをまとめてきてくれた。
有り難い話だ。
ざっと目を通しておく。
やはり近代は、妖怪から幽霊の仕業に、足音の怪が入れ替わっている様子だ。
足音だけする幽霊に追いかけ回された。
そういう証言もあるようである。
おかしなものだな。
そう、私は苦笑していた。
妖怪だとリアリティがなくて、幽霊だとリアリティがある。どうしてなのだろう。
元々日本では、妖怪よりも悪霊が怖れられたという特殊な状況もある。三大怨霊などは良い例だろう。
さて、レポートを仕上げよう。
そう、私は思った。
今の時代、名声も金も、社会的栄達も。
古くは多くの人間を狂わせたものは、過去の存在になっている。
私はそれらから解放された世界で。
淡々と、やりたいことをこなして行くだけだ。
1、迫る足音は
別に歩くのは里山でなくても良いだろう。
それは分かっているが。私は今回、この場所を選んだ。それに、べとべとさん以外の怪異が出るかも知れない。
それはそれで楽しいではないか。
かなり涼しいこともあって、蚊の羽音などは殆ど聞こえない。
鳥なども、かなり動きが鈍い様子だ。
夕暮れ時だと、まだかなりの鳥が飛んでいるものなのだけれども。今日はとても静かである。
それはそれで悪くない。
良い気分で歩いていると。
レトンに手を引かれていた。
「主、側溝に落ちます」
「おっと、危ない」
「やはりこんな時間に調査しなくても良いのでは」
「いや、欲を言えばやっぱりもっと遅い時間が良いよ」
遅すぎる時間になると、体に危険が増える。
何しろ殆ど視界が塞がれるのだ。
昔の人間は、松明だのを持って必死に走り回ったのだろう。何か事故だのがあった場合は。
それを考えると、こうやって歩き回るのに、殆ど危険がない。
それは茶番だと言われても、仕方は無い。
それでも私は、恐怖を喚起しようと四苦八苦している。
一度視界をアイマスクか何かで完全に塞ぐことも考えた事があるのだけれども。
やってみて、全くという程意味がないことを理解し。
以降は普通に夕方から夜に掛けて、フィールドワークをするようになった。
何で意味がなかったか。
環境が違ったからだ。
怪異が出たような時間帯とは、何もかもが違う。
日中は、人間以外の殆どの生物も活動を続けているのである。
そう考えてみると、視界を塞ぐだけではあんまり意味がないし。
そもそも耳を塞いだりしたら。それこそ自分の鼓動の音くらいしか聞こえなくなってしまうだろう。
ますます意味がない。
黙々と歩いて回る。
レトンも、落ちそうになったりしない限りは特に何も言ってこない。
近くに、かなり大きめの用水路があって。
それがごうごうと音を立てていた。
これは、中々に刺激的だ。
夜道を歩いている状態だと、死を想起させる。落ちたら今の時代でもかなり危ないだろう。
淡々と歩きながら、心地よい恐怖を肌で味わう。
レトンはそれが理解出来ない様子だが。
それは仕方がない。
AIはかなり人間の事を深く知っているが。それでも私みたいなイレギュラーを理解するのは厳しいだろうし。
そもそも人間だって、他人の事なんて理解出来ていない。
場合によっては、他人と自分の区別が付いていない個体も珍しく無い。
500年前には、そういった人間が社会の上層にいたりする事もあって。それどころか、ごく身近にいて。
そういう人間が親の場合は。
毒親とか言われる事もあったそうだ。
まあ、今の私には関係がない。
レトンは最大限私を尊重しつつ、私を理解しようと常に心がけてくれている。
私はそれだけで充分だ。
行き止まりだ。
そこそこ広大な里山だが、それでも此処一週間ほどで歩き尽くしてしまったように思う。役所から許可が下りている、調査範囲外に出る訳にもいかない。
一度道を引き返す。
足音は、しない。
すねこすりと同様、とても無害な怪異と勘違いされがちなべとべとさんだが。
実際に遭遇した人間の証言を聞く限り、とてもそうだとは思えない。
怪異は恐怖とともにある。
それはすねこすりも同じだ。
そもそも、夜道で何かしらの異常が生じる。
それだけで、昔は致命的だったのだ。色々と。
だから、恐怖とともにあればいい。
怪異はそれで現役でいられるだろう。
レトンと一緒に歩いていて、誰か三人目が現れないかなあと思う。
残念ながら、側を飛んでいる監視ドローンも、異常は報告してこない。
簡単に怪異に会えたら、いつもフィールドワークで苦労する事はない。こういうものだと、私は色々達観はしていたが。
それでも寂しいなと思う事はある。
やがて、道を途中で曲がって、別方向に行く。
特に問題は無い。
この辺りも、調査対象だ。レトンが側に来て、注意を促してくる。
「この先はすぐに行き止まりです」
「そっか。 無作為に歩いて見るかなあ……」
「私がついてはいますが、どうしてそう危険な事ばかりをするのか……」
「かあちゃんを頼りにしているからだよ」
そのまま、歩いて回る。
特にこれといった問題はないか。
無言で里山を歩いていると、カエルが鳴いているのに遭遇する。まだちっちゃいカエルだ。
あのサイズだと、虫にもやられてしまうだろう。
そう思うと、頑張って生きてほしいとしか思えなかった。
程なくして、レトンの警告通り行き止まりに出る。幾つかのバリケードが作られているが。
動物の邪魔にならないように、空気によるエアバリケードだ。
勿論私にも分かるようにしてある。
嘆息すると、帰路につく。
この辺りは、昔は悪戯小僧が走り回っていただろうに。
今ではすっかりこの通り。
人間が農業をほぼやらなくなり、完全自動化して随分経つ。
そうして、里山は必要なだけ保全された。
その結果がこの場所だ。
べとべとさんをはじめとする足音の怪異は、そもそも人のいる世界の境界くらいに出てくる。
これは南雲の仮説だ。
深山などに入ると、もっと違う怪異が出る。
べとべとさんのような怪異の場合は、人がいそうでいないような場所に出てくる。
逆に言うと。
怪異を主観的に経験した人間が。
そういった場所だと自認しているから、出て来たとも言えるのだろう。
それならば非常にわかりやすい。
私としても、今は此処に二人しかいないと思っている。
だから、出てこいべとべとさん。
私に怪異として威を示してくれ。
怖がらせてくれ。
だが、その願いに、応えてはくれなかった。
時間切れになって、宿舎に戻る。勿論宿舎に戻る途中も、べとべとさんは出ることがなかった。
これで十日か。
十日と言っても、調査の過程でかなりの機材が動いている。私の主観データも全て確認している。
それでそれらしい音は確認できていないし。
勿論客観的データで、おかしなものも出ていない。
むくれてレポートを書く。
手応えがないなあ。
それは仕方が無い事だと分かっていても、愚痴が出る。
ここ最近、苛烈で激しいフィールドワークばかりやっていたから、こういう愚痴が出てしまうのだろう。
それも分かっている。
人間は刺激を得ると、それに慣れる。
刺激には中毒性があるのだ。
だから、私はどんどんチキンレースをしないか。自分でも時々不安になる。
勿論、レトンがそれを監視してくれてはいるが。
それはそれ、これはこれだ。
伸びをして、ベッドに横になる。レトンが部屋に入ってきて、静かに声を掛けた。
「もう休みますか?」
「もうちょっとダラダラする」
「そうですか、分かりました。 確かに今回は主観、客観ともに殆どそれらしいものが出ませんが、そういうときもあるのではないでしょうか」
「まあ、それは分かってはいる」
そもそも、怪異と会おうと思ってフィールドワークを始めた頃。
とにかく、全く何も出無かった。
その時は、落胆はあまりしなかった。
むしろ、次こそはと。条件を変えながら、伝承が残る土地に何度もアタックを繰り返した。
その過程で怖い目にもあったし。
死にかけもした。
それでもなお、私は今生きている。研究を続けている。これでも、少しは研究をして、経験も積んだ。
だったらそれを生かして、どんどんフィールドワークの熟練度を上げていくべきなのだろう。
レトンに言われずとも、それは分かっている。
勿論レトンの言葉を鬱陶しいとは思わない。
そう言ってくれることを、常に有り難いと思っている。これについては、全くの本音である。
私のもっとも大きな異常性は。
或いは此処なのかも知れない。
基本的に何でも受け入れる。
九割以上の人間は、諌言を聞く事が出来ない。歴史を調べてそれを知って。私はそうなりたくはないと思った。
それが出発点だったのだろう。
ベッドの上で、しばらくぼんやりする。
そして、時間が来たら、さっさと寝ることにした。
夢を見る。
今日の夢は、あまり良い夢ではない。
私が座っていると、人が通り過ぎる。怪異はいない。どれもこれも、「常識がある」と自認する人ばかりだ。
そういった人間が何をするか。
他人を貶め傷つけ、苦しむ人間を見てただひたすらに嗤う。
げらげら。
ひひひ。
その笑いを見て。
私は笑顔という奴がとことん嫌いになった。
最初に見たのは、なんだったっけ。
そうだそうだ。確かテレビ番組だ。
当時社会的に弱者とされていた人間の、大事なものを徹底的に蹂躙して。それで哀しみ怒る様子を、まるで珍しい動物が騒いでいるかのようにして扱う。
その時嗤っている連中の笑顔は、おぞましいまでに醜かった。
自分より下と見なした相手は、何があっても絶対に人間だとは認めない。
当時から、そういう人間は多数いて。
それが大きな社会問題になっているのに。肥大したプライドがそれを許さずに、絶対に解決はしなかった。
その結果、人類は一度滅亡しかけた。
その時人類が滅亡していたら、どうなっていたのかな。
ぼんやりと、私はそう思う。
私は、たまたま南雲という友人も得たし。
レトンという理解者も側にいる。
だが、そんな時代に生まれていたら。最悪精神病院に一生放り込まれていたのではないだろうか。
そうとさえ思う。
色々な人間がいる、か。
残念ながら、この時代、500年前は同調圧力で人間の価値が決められていた。一度価値が決められると、その人間が言う事は全て否定された。
どんなに客観的に正しくてもだ。
そして同調圧力がなくなった今。
人間性がない社会だとか、喚く人間もごく少数になった。
それは、とても不思議な話だ。
最初から、人間には。
人間性なんて、なかったのではあるまいか。
目が覚める。
全身に冷や汗を掻いていた。
なんというか、とても嫌な夢を見た気がする。其処には怪異はおらず。そして人間の心には一切の余裕もなく。
ただあるのは、同調圧力だけの、孤独な世界。
そんな世界には、私は住みたくないな。
そう私は思って。
水を飲み干していた。
レトンが来る前に、うがいや洗顔を済ませておく。
何度も溜息が出た。
私は、この生活をしていて、それで本当に満足しているのだろうか。そう思ってしまう事もある。
だけれども、満足はしている。
20世紀から21世紀にかけて。
人類がもっとも精神的に貧しく、物質的に豊かだった時代。
あの時代にだけは、行きたくはない。
そう、私は考えている。
夢の内容は詳しくは覚えていないが、きっとその時の夢。
私はあの時代に生まれていたら。
それこそすり潰されて、あっというまに命を落としていただろう。毒親に殺された可能性も高い。
そしてあの時代はいびつな母性信仰があって、子供を殺しても母親はほぼ罪に問われなかった。
つまり合法的に私は殺された、と言う訳だ。
無言で私は朝飯にする。
なんだこの不愉快な気分は。
昔、歴史を勉強したときに。21世紀の資料を見て、本当に不愉快な気分になった事を思い出す。
口ではヒューマニズムだの人権だの口にして。それらがデリケートな問題になるや否や、わらわらと蠅以下の連中が群がり、利権を貪り金に換えた。
結果として、人権という言葉は著しく価値を落とした。
ふうと、ため息をつく。
あの時、一度怪異は世界から消えたのかも知れない。
そして怪異を復権させるなら。
今しかないのかも知れなかった。
心に余裕がなければ、怪異なんてものは生まれ出ない。それは、第二次世界大戦後の様々な事実が物語っている。
怪異がいるということは、すなわち心に余裕があると言う事だ。
私は、それを。
無言になる。
レトンが、心配そうに見ているが。何も応えられない。朝飯がこんなにまずいのは久しぶりだ。
無論レトンに罪はない。
はあとため息をつくと、無理矢理朝飯を全て口にする。
そして、今日は時間ギリギリまで休むと告げた。
レトンは余程葛藤があると判断したのだろう。そのまま食事を下げて。そして、フィールドワークの時間まで、姿を見せなかった。
私は無言のまま。
ぼんやりと、不快感の海に浮かんだ。
夕方になって、ようやく心が多少落ち着いて。
スニーカーを履いて、外に出る。
少し、雨が降っているか。傘を差して、外に。カエルが昨日より多少元気に鳴いている。そして、レトンに注意を促された。
「用水路の流れが速くなっています。 落ちる事はないと思いますが、留意してください」
「わかってる。 ありがとうかあちゃん」
「いえ。 やはり、夢見が悪かったのが不調の原因ですか?」
「分からないよ。 夢の内容は覚えていないし。 ただ、何となく……ものすごく不愉快な夢だったのは覚えてる」
歩きながら、レトンと話す。
ちょっと話をしておきたかった。
「21世紀の漫才を見た。 本当に酷い代物ばっかりだった」
「貶し芸や素人弄りと言ったものが主体になった時期が、21世紀にはありました。 自分も資料には目を通していますが、これで笑う事が出来るというのは、余程心が貧しかった証拠でしょう」
「自分より下の存在を探して必死になっている人間には刺さったんだろうね。 愚かしい事この上ないけど」
「だから一度文化として漫才は死にました」
その通りだ。
21世紀の中頃には、漫才は完全に一度文化として死んだ。
テレビと文化として癒着していたと言う事もあるだろう。元々犯罪組織と関係が深かった事もあるのだろう。
何より、内輪向けの笑いというものが、決定的につまらなさを助長する要因となった。
おかしな話だ。
人を笑わせるもののはずが。
人を嗤わせ。
挙げ句貶め。
やる人間は自分を特権階級と勘違いし、意識まで高くなっていったのだから。
それは誰も見向きもしなくなる。そしてそんな風に、本来は娯楽だった筈の文化が堕落していった時代が21世紀だったというわけだ。
そんな時代には、心の余裕だってなくなる。
怪異がいなくなるのも、当然だっただろう。
邪悪は人間の専売特許になった。
それはそうだ。
どんな伝承の邪悪な存在でも、人間の邪悪さには到底及ばないと可視化されてしまったのだから。
地獄の魔王ですら、人間を見ればこんな生物と一緒にされたくないと言っただろう。
それについては、地獄の魔王と知り合いでもない私でも断言できる。
あれ、知り合いだったような。
それは、まあいい。
いずれにしても、文化として一度死んだものだ。復活させるまでは、相当に大変だろうな。
まあ悪いイメージしかないから、復活は難しいだろう。
問題は、そんなものに巻き込まれて。
多数の文化が消滅した、と言う事だ。
「私はさ、怪異に会いたいんだよ。 研究者として研究はしたい。 それと同時に、怪異そのものに会いたい」
「主観では怪異に何度もあっているではありませんか。 客観では茶番としかいいようがありませんが」
「良いんだよそれで。 研究者としての冷静な私と、怪異に会えて大喜びする私は、別の存在だ」
そうだ。それをしっかり確認しておきたかった。
人の多面性は、私の中にもしっかりある。
それを、もう一度確認しておきたかった。
何度も心の中では唱えていたが。
やはり口に出す方が、それは良いのだろう。
「そのような話を、どうして私に」
「かあちゃんを世界で一番信頼しているから」
「そうですか。 それは、嬉しいですね」
「……」
レトンも喜ぶ。
それは分かっている。
一番喜んだのはいつかは分からない。その感情で、任務を優先する事もないことも知っている。
だが今のAIは其処まで進歩している。
だから、それで良いのだ。
「足下には気をつけてください。 汚物などがある場合は、私が事前に警告します」
「分かってる。 ああ、やっぱりあるんだ汚物」
「これだけ生物がいると当然です」
「まあ、そうだよねえ……」
とにかく歩く。
スニーカーを履くようになってから、歩くのが更に楽に、気持ちよくなった。
ハイヒールを履くべきとか、そういう風潮が昔あったらしいが。
用途に合った靴を、その場で履けば良い。
そうでなければ、心の余裕なんて生じはしないだろう。
私は黙々と歩く。
雨の中、流石に周囲が真っ暗だ。懐中電灯の点灯を、拒否。可能な限り、最低限の灯りで歩く。
流石にこれはちょっと怖いな。
そう思っていた矢先だった。
三人目の足音。
確かに聞こえた。
足を止める。
周囲を見回しているのを見て、レトンはすぐに察したようだった。
「主観データを確認。 お望みの怪異が出現したようですね。 主観ではどんな誤認もするものではありますが」
「分かってる。 でも、やっぱりこれではっきりした」
「何がです」
「心に余裕がなければ、怪異は出て来てくれない。 そして心に余裕がない時代だから、怪異は一度滅びた」
「はあ、確かにその通りではあるでしょうが」
これは、個人的に満足すべき成果だ。
恐怖がトリガーになっているのは事実だ。やはり、もっと条件を悪くするべきなのだ。ただし、思想的な話をレポートに盛り込むつもりは無い。レポートに記載するときは、前後の会話データは削除するつもりだ。
「かあちゃん、今の主観情報。 後でもう一度検証するわ」
「分かりました。 それはそうとして、これ以上の危険は承認しかねます」
「逆に言うと、これが限界のラインと言う事だね」
「そうなります」
レトンは物わかりが良い。
こう言うときは、とても助かる。
そのまま、レトンと一緒に雨の降る夜道を歩く。
そして、帰路までに。
もう二度、足音を聞いた。
2、余裕と心
やはり、焦りがあったのだろう。
もう少し冷静に動くべきだった。
里山の夜道を、黙々と歩く。昔と違って、もはや人がほぼいない里山を。たまにくるのは農業学者。
後は管理ロボットだけだ。
管理ロボットは、私が調査のために来ている事を認識している。だから、行動を咎める事もない。
私はのびのびと、夜闇の中でどうしたら怖くなるかを考えながら歩く。
意図的に気候を操ることは流石に出来ないが。
今は色々な方法で、恐怖を味わう方法を考えては、順番に実践していた。
勿論天然の恐怖でないと意味がない。
今回は敢えて。
用水路の音がする地点の側を歩いている。
レトンは、危険な場所にまで踏み込んだら手を引っ張るように言ってある。だから、ギリギリを攻めることが出来る。
用水路は落ちたら当然危ない。
用水路は川とは違う生態系にしてある。一部は意図的に汚すことで、アメリカザリガニや雷魚などの、外来種を飼うこともしていた。
これは生態系を戻す行動の一端で。
いきなり在来種だけの状況にすると、環境の回復が上手く行かないケースがあったからだ。
ブラックバスやブルーギルなどの論外な生物は排除しなければならなかったが。
それ以外の生物は、環境を弄くった結果環境そのものがかなり変わっている事が結構あり。
それを考慮すると、色々な方法で環境を戻さなければならなかった。
凄まじい水音がした。
多分これは雷魚だろうなと思う。
だけれども、びっくりはする。
昔の人間が聞いたら、何かの怪異だろうなと感じたかも知れない。
いずれにしても、こう言う瞬間が怪異が出やすいのは事実。
それが主観であっても、だ。
黙々と歩く。
ぞくぞくと背筋に寒気が走る。
天然物の恐怖は、こういった音や視覚情報など、様々な要因から生じてくる。それは私に取っては、もっとあってほしいものだ。
ただでさえ、空気にさらす肌の面積を増やしているのだ。
色々起きて貰わないと困る。
ふと気付く。
やはり、足音が増えている。
うん、これだこれ。
そう喜ぶと、すぐ足音は消えてしまう。
満面の笑みを浮かべている私に、レトンが呆れている。
「かあちゃん、また出たよべとべとさん」
「主観情報ですね。 茶番に過ぎません」
「それは分かってるんだけど。 それでもやっぱり嬉しいものは嬉しいよ」
「そうですか……」
レトンも、危険にならなければ文句は言わない。
呆れるのも、私がそうしてほしいからだ。
とにかく、しばらく里山の中でも入り組んだ場所を歩く。
三つめの足音はなかなか来ないが。
たまに聞こえてくる。
監視用のドローンは基本的に飛んでいるので、足音は立てない。
故に、足音があったら私がすぐに気付く。
意図的に色々仕込みを入れているとは言え。
私自身でも、ちゃんと怖いように工夫は凝らしている。その結果、怪異は出て来てくれるのだ。
ただ、今日は時間だ。
引き上げる事にする。
引き上げながら、レトンはスニーカーなどをチェック。
ヒルやダニなどをチェックしてくれている。
もっと危険な寄生虫などもだろう。
レトンは人間の細胞などを肌に移植していないので、寄生虫がつくことはない。宿泊施設に着くと、すぐに処置をしてくれた。
「はい。 今日は少し多めでしたね」
「意図的に危ない所歩いたしね。 用水路の近くとかだと、やっぱり水分も多いからかなあ」
「それもあるでしょうが、単に里山の環境が、人間に寄生することや血液を欲している生物に都合が良いだけかと思います」
なお、里山には猪も熊も絶対に近寄らないようにしている。
これは現時点では環境を維持して、いつでも耕作地に戻せるようにしている里山が。いざという時に必要になった時のため。
更に言うと、ぬるい環境に猪や熊が適応しないようにするためだ。
同様にして、鹿なども出来るだけ入らないようにしている。
鹿などの獣害はかなり大きいのである。
一方で山の中には、人間が入る場合幾つも資格が必要になるように。
人間と他の生物は、今ではしっかり適切な距離を取ることに成功している。
その裏では、監視ドローンや管理ロボットの大変な苦労があるわけで。
私も、それに感謝しなければならないだろう。
なお、余った畜肉は、たまにこういった旅館で料理として出てくる。別に普通の牛肉や豚肉に比べて美味しいものでもなんでもないが。まあ、物珍しくはあるか。
昔誰だったかが言った事がある。
自然の環境で健康に育った肉が、養殖肉よりまずい筈がないと。
これは大間違いだ。
実際には、人間向けの味になるように調整された家畜の肉の方が遙かに美味い。
今の時代は、快楽なんて極めようと思えばなんぼでも極められる。
その結果、口を揃えて研究家が言っている事である。
今日の夕食には、そういうわけで猪肉が出て来たのだけれども。
食べて見て、普通の豚肉とそう変わるものでもない。
猪肉は食べる機会が比較的多い畜肉だ。これは猪が凄まじい勢いで増える生物だからである。
生態系の管理の一貫として、数をコントロールする必要があるのだ。
とはいっても、近年ではかなり珍しいものになっている。
昔だったら金にものを言わせて犯罪的なルートからこういう肉を仕入れたがったような輩が出て来ただろうが。
今はそれは出来なくなっている。
猪肉を普通に食べたあと、レポートに掛かる。
べとべとさんに関するレポートは。
流石に、超危険な中で得た情報で満ちていた舟幽霊のものほどアクセスはなかったが。別にアクセスがほしくてレポートを書いているわけではない。
私としては、淡々とレポートを書くことが出来れば満足だ。
作業を終えると、メールが来る。
南雲からだった。
幾つか、調べておいてほしい怪異についての情報だ。
流石に早いな。
そう思いながら、目を通しておく。
どれもよく調べられていて、感心する。
今の時代は、デスクワークはこれくらい出来ないと学者を名乗るのは厳しい。勿論支援ロボットの手伝いなどもあるのだろうが。
南雲は国会図書館などに足を運んでは、かなり古い資料に直に目を通しているようなので、これは労作だ。
幾つかのレポートに、情報を追加する。
デスクワークは私はどちらかというと苦手なので、南雲がこれを担当してくれるのはとても嬉しい。
別に私だけで研究をしたいとも思わないので。
こうやって支援者がいてくれるのは有り難い。
南雲もよくしたもので、そもそもフィールドワークは苦手だったと最近ぼやいて来た。
お互い苦手分野を担当できると言う事だ。
レポートを仕上げると、伸びをする。
良い感じだ。
そう思って、小さくあくびをする。
今の時点では、不満は無い。
出来れば客観情報でべとべとさんに出て来てほしいものだが。
中々そうはいかないだろう。
昔の怪異の伝承だと、べとべとさんは呪文を唱えないと消えなかった筈だが。
今主観情報で遭遇しているものは、出た、と思うと消えてしまう。
恐怖が足りないのか。
それとも。
私に取っての恐怖体験を思い出しておくべきか。
いや、それはあまり意味がない。
結局養殖ものの恐怖になってしまう。
恐らくだが、里山で直に味わえる恐怖でないと意味がない。この地方で伝承になっているべとべとさんだ。
これだけ条件が整った里山になら、出て来てくれるはず。
そう思いながら、どうすれば恐怖を味わえるか考える。
時間が来た。
レトンに促されて、寝ることにする。
規則正しい生活は必須だ。
ただでさえ、べとべとさんは深夜では無く夕方近辺に出現例が報告されている怪異である。
だったら無理をして、真夜中に出歩く必要はない。
さて、どうすれば怖くなるかなあ。
私は、そう考え続けていた。
翌日に、私は日中から外を歩くことにする。レトンは若干それに対して、難色を示していた。
「その格好で、外に出るんですか?」
「別に誰もいないでしょ」
「いえ、里山ですからそれは当然そうなのですが。 蚊や虻は、今の季節は日中の方が活動が積極的です。 監視ロボットによる負担が増えます」
「ああ、そういうことか……」
それならば、スクーターで出る事にして。
それで許可を貰う。
調査のためではなく、気分転換のためというと。
役所は少し情報を精査した後。
スクーターでは無く、ホバーの自動車を回してくれた。
まあ、このくらいが妥協点か。
そもそも里山を巡回しているロボットは、元々人間がいない事を前提に管理作業を行っている。
里山にとって、既に人間は異分子なのである。
もしも今後、農作物などが足りなくなる事があったら。
その時は、里山などを農業地帯として復活させなければならない時が来るかも知れない。
だがそれはそれ。
今の時点では、里山の環境管理がロボット達の仕事で。
彼らにとっては、里山に人間が入るのは迷惑な行動なのだ。
まあ、そういう事もあり。
排気ガスを一切出さない上、そもそも地面にも触れず。蚊も虻も排除しなくていいホバーカーは、見て回るには良いだろう。
先に、里山をこれで見て回る。
用水路の近くは、結構ガチガチに固められていて。万が一にも落ちそうにない。見て周りながら、それを知る。
管理ロボットが行き交っているが。
人型だけではない。
かなりの型式のロボットが、彷徨いているのが見て取れる。
中には大きな百足型もいる。
百足型はロボットとしてはもっとも安定した形状と言われているが、どうしても支援ロボットとしては人気がない。
それでもたまに、支援ロボットが百足型として作られることはあるらしい。
そういったロボットもお役御免に……つまり支援するべき主人が死ぬと。
こういった場所に、仕事場を移すことがあるそうだ。
今の時代は事故死などはまずないので、寿命で主人を亡くしたのだろう。ここのロボットの幾らかは。
今ではロボットの方が人より長生きする。
そしてAIは感情も備えている。
すぐに次の人間の支援をしたいと思わないロボットもいるのだろう。そういったロボットには、政府が次の仕事先を持ってくる。
レトンを見ていても分かるが、支援ロボットの性能は非常に高い。
それこそやろうと思えば何でも出来る。
だから、ああして里山の管理をしているというわけだ。
場合によっては山の管理を行う事もあるだろう。
この間、一緒に仕事をした村上さん。
あの人の支援ロボットだった大男のロボットなどは。そのまま山の管理ロボットになってもおかしく無さそうだ。
まあ、百年以上先の話になるだろうが。
「うーむ、どの辺りが良いかな」
「この里山は、全域が調査対象ではありますが。 流石に田畑に入ることは許されませんよ」
「それは分かってる。 田んぼに入ることは私でも止める」
「それならばよいのですが」
田んぼのシミュレーターは私も経験している。
そして、素人が勝手に田んぼを弄くることの意味を理解している。
それは田んぼを管理している者だったら、殺意を覚えるほどの行動だ。
よくしたもので、昔の戦争では。城に篭もった兵士達の前で、田畑を荒らすという行動をやってみせる事があったらしい。
農民兵が主体だった時代は、それだけで兵士達が噴き上がり。
籠城側が、打って出ることがあったそうだ。
「この辺りは、堤?」
「そうです。 かなり厳重に管理されている地帯ですね。 用水路などよりも、管理のレベルは高く設定されています」
「……この辺りを今日はうろつくか」
「分かりました。 堤そのものに触らなければ大丈夫でしょう」
レトンも、多分先に今のやりとりを役所に情報として送信しているのだろう。
管理ロボットも、それに沿って動く。
こういったやりとりがあるから、学者が行動して、役所がそれは知らなかった、と言う事は起きなくなる。
事故もなくなる。
昔は役所を人間が回していたから、いい加減な業務は普通に起きていたし。
場合によっては怪しい業者とかが好き勝手を行い。
役所は袖の下を貰っていたりと、腐敗が横行していた。
今はそんな事もない。
やはり政治はAIの手に移って良かったのである。
宿泊施設に戻る。
夜に備えて、作業をしておく。レポートを黙々とやりながら、時々レトンが持ってくる物資について確認。
堤防は基本的に上ったりする予定はないが。
もしもの事がある。
幾つかの物資を見て、確認はしておいた。
それが終わった後、昼食にする。
夕方まで、意外にあっと言う間だ。わくわくが来ている。だが、わくわくするだけでは駄目だ。
今日も一緒に感じなければならない。
外に出ると、わおと声が出ていた。
真っ暗だ。
そういう時期だとは言え。かなり良い雰囲気である。しかも曇っているから、星明かりもなし。
これぞ、いい夜である。
実際には夜と言うには少し時間が早めだが、これは絶好の好条件と言える。
今は時期的に虫もあまり鳴いていない。
そういう事もあって、かなり条件は整っていると言えた。
勿論、怪異が出やすい条件は、だ。
こう言うときに、何らかの理由で外に出た人間が行方不明になって。松明を持った村人が必死になって探す。
そして、用水路とかで靴の片方だけとかが見つかるのだ。
それを思うと、ぞくぞくと心地よい恐怖が来た。
ひゃっほうと声が上がりそうになったが。
咳払いして、それは抑える。
まだだ、まだそれは抑えろ。今喜んでいては、べとべとさんは出て来てはくれないだろう。
だが、つい鼻歌交じりに歩きたくなってしまう。
抑えなければならない。
それは分かっているのだが。
どうしても、業が深いものである。
レトンが呆れているなか、堤防に進む。勿論この状況だと、方向は殆ど分からないので、レトンにナビをして貰う。
昔の里山だったら、こんな風にろくな灯りもなく歩くのは自殺行為だったのだが。今はきちんと支援ロボットが。私の場合はレトンが支援してくれるから、何の問題もない。
畔を踏んだりしないようにしながら、黙々と歩く。
管理ロボットは、普通に活動しているようだが。私の視界内には入らないように配慮はしてくれている。
空に浮かんでいる監視ドローンは、ほとんど音を立てていない。
つまり、気にしなければいいくらいの異物だ。
周囲はとても静かだ。
たまに山の方で獣が鳴いているのが聞こえるが。
それ以上でも以下でもない。
ぴいっと鋭い声が聞こえたが、多分これは鹿の断末魔だろう。一時期は鹿が増えに増えたそうだが。
今では鹿の天敵になる狼が復活していることもある。
鹿が増えすぎる事はないそうである。
今の悲鳴は、鹿のものだと分かっていてもそれなりに怖かった。中々に心地よい体験である。
頷きながら、夜道を行く。
やがて、足音が重なって聞こえた。
おおと、声を上げる。
レトンは眉をひそめるのだった。
「今日は早めですね」
「うん。 でもやっぱりすぐに消えちゃうなあ」
「そもそも客観情報ではそのような足音は聞こえていません」
「そうだろうねえ」
それも分かっている。
レトンを促して、堤の近くまで来た。
この先には、里山の水源になっているそこそこ大きめの川が流れている。たまに資格を持っている人間が、夜釣りに来るそうだが。
夜釣りは兎に角危ないので、基本的に支援ロボットが監視ドローンと管理ロボットと一緒につくそうだ。
それはまあ、そうだろう。
昔は立ち入り禁止と書かれているような、足でも滑らせたら即座の死が待っているような場所に入り込む釣り人が多くいて。
それで事故が絶えなかったと聞いている。
それだけ夜釣りは危ないのである。
私も、今の行動はかなり厳重に監視されているとみて良い。
というか、用水路の比では無い音だ。
人間が入る事がないから、水については管理ロボットが豪快に管理している。あの大きな百足型も、管理をしているのかも知れない。
だとすれば、激しい音も道理である。
中々に心地よい音だなと思いながらも。
それでも、何処かで恐怖が足下を這い上がってくる。
この感覚。
音以上に心地が良かった。
粛々と歩いて回る。ごうごうという水の音に混じって、ちょっと違和感がある。それが、足音だと気付いたが。
敢えて放っておく。
少しの間だけ、足音が聞こえていた。私はにやにやを噛み潰すので、本当に必死になった。
一瞬だけ聞こえれば良い方だった足音が。
こうも長く聞こえるとは。
実に素晴らしいではないか。
そう思っても、口には出さない。すぐに怪異は逃げてしまうだろう。私に対しておっかなびっくり近付いているのが分かる。
勿論主観情報だが、怪異は心の中に住むのだから、それは当然だろう。
やがて、堤の側を離れると、音は消えた。
多分私の中から、恐怖が薄れたからだと思う。
はあと、溜息をついた。
是非呪文を唱えて、先にべとべとさんを行かせてやりたかったのだけれども。残念ながら、そうはいかなかったか。
「また聞こえたんですか?
「聞こえていた、かな」
「主観情報を確認。 なるほど、それなりの長時間聞こえていたようですね」
「うん、これこそ後をついてくる足音の怪異だよ」
そうですか、とレトンは塩対応。
だが、それで客観情報にそんなものがないという事が分かる。
とりあえず、戻ろう。
そう促して、一緒に宿泊施設に戻る事にする。
帰路で、足音はしなかった。
帰路は全く怖くなかった。
それが要因なのかも知れない。
日中に、この辺りの地形は把握した。それで、危険な場所がない事を理解していたからかも知れないが。
それ以上に、そもそもだ。
さっきの堤の側のような、炸裂するような音の威圧感がなかったからだろう。
宿泊施設の入口で、靴についているヒルやらを取って貰う。
余韻はあっと言う間に消えた。
だが、これほどの長時間、足音が聞こえていたのは素晴らしい進歩だ。せっかくだから、呪文も言ってみたいなあ。
よだれを思わず拭う。
こんなだから、怪異も怖がって近付いてこないのだろう。
そう思うが、どうしても。
よだれが出るのを、止められなかった。
3、里山を隅まで
折り返しを過ぎる。調査を進めていく。
やはり、怖いと思える場所を歩いて回るのが良いだろう。そう判断した私は、日中の内に巡回ルートを決める。
用水路から初めて、田んぼの中の道を通り。
そして堤の側を通って、宿泊施設へと戻る。
その結果、最大級の恐怖を味わう事が可能である。それこそが、今やるべき事だとも思う。
私に取っては、恐怖は甘露だ。
それに、怪異を誘き寄せるための最高の餌でもある。
怪異は残念ながら、私が今いる世界では、実体も持たないし怪しい妖術の類を使うことも出来ない。
なんか自分ルールを押しつけられる世界を展開したりとか、邪悪な術を使うとか、そういう事も出来ない。
ただ、人々の心の中に漠然と存在し。
或いはよく分からない現象が物語性を帯び。
そして最終的に怪異という存在として、語り継がれるようになっていった。
そういうものでしかない。
信仰もそうだった。
信仰の対象が人を殺すことなどはなく。
信仰に捕らわれた人間が人を殺した。
怪異も同じだ。
怪異が原因の集団ヒステリーが起きることはよくあり。そしてそれで人が死ぬことはあった。
だがそれは、怪異では無く人が殺したのだ。
怪異は残念ながら、心の中に住んでいるものなのであって。だからこそに、心の中に出て来てくれるように、お膳立てが必要なのである。
無論だが。
この仮説が違っている可能性もあるにはある。
人間も宇宙の全てを解き明かしたわけではないのだから。
だが、それはあくまで極小の可能性だ。
私は淡々と主観情報と客観情報を研究して、学者としてやれることをする。
その過程で、怪異との接触を楽しむ。
それだけしか、出来る事はないのだった。
さて、今日も出る。
夕方になって、外に出ると、少し明るめだ。雲がかなり少ない。ベストコンディションではないな。
そう思って、ちょっと舌打ちした。
そこで、多少環境にゲタを履かせることにする。
すっとつけたのはサングラスである。
これで暗さを更に増す。
今の時代の眼鏡は、基本的に実体を持たないことが多いのだが。今身に付けているサングラスもそう。
つけて見ると、あら不思議。
かなり光が減って、暗さが三倍増しになった。これで、怪異も出て来やすくなるだろう。
歩いていて怖そうなルートを、丁寧に回っていく。毎日里山を歩いているが、山を歩くよりもずっと楽ちんである。
故に、足も軽やかだ。
スニーカーの音が、きゅっと鳴って気持ちが良い。
鼻歌が出そうだが、そんな事では怪異は出て来てくれない。視界をある程度塞いだのである。
是非とも、私を脅かしてほしいのだが。
そう思っていると、まずは最初のサラダともいえる用水路の側に到着。
この辺りをしばらく歩く。
今日はある程度灯りがあるからか、虫もそれなりに鳴いている。これが一斉に黙ったりしたら、逆に怖かったりするのだが。
特にそんな事もない。
若干落胆してしまうが、この里山はかなり自然に近い状態に、管理ロボットがしてくれている。
だったら、それを受け入れるしかない。
此処の主役は人間では無い。
それを自覚した上で、うろうろと歩き回る他はないのだ。
しばし歩き回っていると、レトンに手を引かれた。
おっとと、声が漏れる。
ちょっと用水路に近付きすぎたらしい。どうしても視界が阻害されているし、これは仕方がない。
ばっしゃばしゃと、激しい泳ぐ音。
雷魚だな。
そう思って、ひゅうと口笛を吹く。気が弱い人間だったら、夜道でこれを聞いたら足が竦むだろう。
私は、雷魚くらい別になれているので、気にせず進む事にする。
農道に以降。
畔を踏まないように気を付けるので、こっちはこっちで怖い。別方面の怖さを追求するためのルートだ。
レトンはこういった、自分を怖がらせるための仕組みを聞いて、どう反応して良いのか分からないと言う感じで呆れていたが。
それでいいのである。
他の人間が聞いたら、気が狂っていると素直な感想を口にするだろう。
実際、レポートでどうしてこのルートを通る事にするのか、素直に書いた所。
狂っているという素直なコメントが多数寄せられていたようだ。
それでかまわない。
狂っているくらいでなければ、怪異だって寄ってこないかも知れない。
とっくに伝承が死んでいる怪異ならなおさらだ。
それくらいしないと、目を覚ますことは無いだろう。
畔の間の農道を歩ききる。
べとべとさんは出てこない。
残念だなあ。そう思いながら、サングラスを取って周囲を一度見る。こうやって、環境を切り替えるのも大事だ。
いきなり明るくなったので、目が吃驚する。
だけれども、それが恐怖を呼び起こす程でもない。
若干ガッカリしながら、サングラスをつけなおす。私はため息をつくと、軽くレトンと話す。
疲れたからではない。
気分転換である。
「雷魚が用水路で元気に暴れてたね」
「はい。 あの生物も、どうして持ち込まれたのか経緯がよく分かっていないそうです」
「どうせ馬鹿な自称釣りマニアでしょ。 ブラックバスとかブルーギルとか広めまくったのも自称釣りマニアだったみたいだし。 今の時代から考えても当時の基準でも恥を知らない連中だ」
「雷魚についてはちょっと断言はできませんが。 いずれにしても、考え無しに持ち込まれたのは事実でしょう」
自分のエゴのために、どんな犯罪でも平気で行うのが人間だ。
日本中の湖や川がブラックバスやブルーギルで汚染されたのもそうだ。
挙げ句の果てに、強い生物が弱い生物を淘汰するのも自然の摂理云々と口にする阿呆までいたそうである。
そんな連中は、病気になっても病院に行く資格はないだろう。
病気に淘汰されるような弱い生物は、そのまま死ねば良いのだから。
環境に病気を拡げるのも同然の行動をしておいて、それを悪びれる事もない。
まさに恥知らずの所業である。
ただ、ばらまかれた生物そのものに罪はない。
それに、既に駆除も終わっている。
今するべき事は、過去の愚行を繰り返さない。
それだけだ。
「じゃ、いこうか」
「分かりました」
また、歩き出す。
堤の側は、やはり迫力がある。すぐ側に川が流れていて。その川に落ちたりしたら死ぬ。それが分かっていると、やはり怖い。
「ふう、この恐怖、心地良いねえ」
「恐怖にそんな言葉を使う人間は主くらいかと思います」
「そんな事ないよ。 だってジェットコースターとか、その最たる例でしょ」
「それについては何とも。 ただあれは刺激を楽しんでいるのであって、恐怖を楽しんでいるのでしょうか」
レトンの疑念の声がまたちょっと面白い。
レトンは正論をしっかり口にするが、分からない事は分からないと素直に認める。それもまた、私が望んでいる事だ。
機械的に、「科学的な」ことを正しいというのではポンコツも同じ。
客観的な観測事例をベースに、ものごとを話す。
それこそ、AIらしい思考というものであり。
私としては、学者としてそうあってほしいと思っているものだ。
私自身は、どうしても肉の体をもった生物だから、どうしても主観が前に出てきてしまう。
だが主観最優先の思考回路が、どうしても弊害になる事も歴史から学んでいる。
人間の迫害は、最初は見た目から始まるし。
そうでなくても、何か気に入らないと思うだけで、それがやがて相手の死までつながるような迫害へとつながる。
そんなものなのだ。人間のオツムなんて。
主観なんて、その程度のものにすぎない。
一時期の人間に対する異常な持ち上げ。万物の霊長論などというものを持ち出すようになってから、人間はおかしくなった。
それが人間の社会をより効率よく管理するために作り出された宗教の影響だとしてもだ。
今は、宗教はやっと人間を支配から手放している。
故に、私はこうやって思考を動かす事が出来る。
宗教にガチガチに捕らわれていた時代だったら、こう考えるのはどうしても難しかっただろうし。
考えただけで殺された可能性だって低くない。
そういうものなのだ。
さて、足音だが。
聞こえないなあ。
私がもう計算の末に、恐怖を楽しんでいることを理解してしまったのかも知れない。だとすれば、怪異からしても、私は異物にしか思えないだろう。
出て来てくれないかあ。
何かトラブルでも起きればなあ。
そう思っていると、何か起きてくれれば幸運だ。
残念ながら、今日はそういうラッキーイベントは起きなかった。背筋が凍るような出来事をラッキーイベントと口にしてしまう私の頭のネジが外れていることは、百も承知であるが。
それはそれ。
宿泊施設について、丁度時間になる。
私は、残念だと思った。
翌日も、朝からホバーの自動車で周囲を見て回る。
昨日歩いた辺りを重点的に見て回る。
やっぱりなんというか、安全を考慮するばかり平坦な道を行っているような気がする。もっとこう、トラブルがほしい。
そう考えている私に、レトンは呆れた。
「主、やはり私は心配です」
「分かってる。 どんどんチキンレースみたいになってる、でしょ」
「それが分かっていながら……」
「でも、ギリギリを攻めたいんだよ」
そうしなければ、怪異は出てこないだろう。
よく人間の世界と、そうでない世界の境界という言葉が出てくる。
まあこの言葉自体が極めて傲慢極まりない言葉だが。
それはそれとして、人間がどうにも出来ない、理解も出来ない世界というのは、昔には存在していた。
夜の闇が最初にそうだったし。
海の底や、空の向こうもそうだった。
最初は、時間が境界となった。
灯りの発達によって時間が曖昧になってからは、場所が境界になり。
それもなくなると。
やがていつの間にか、境界とされるものは力を失っていったのだった。
だから、境界を作るしかない。
自分で、だ。
感覚が、追いつけないほどの急変化を生じさせる。そうすれば、デリケートな怪異も出て来てくれるはず。
そう思って、私が自説を蕩々と語ると。
レトンは大きなため息をついた。
「やはりチキンレースですね」
「それは否定しない」
「実際にやると、チキンレースは衝突して両方とも死んでしまうものです」
「それも分かってる」
何かの映画であったなそんなシーン。
チキンレースを映画でいつもやっているキャラクターが、現実に出て来て。
同じようにチキンレースをやったら、真正面から互いに衝突してしまう、という奴である。
実際問題それは当然だと思う。
恐怖に負けて逃げるという行為は、どうしても一瞬の判断では出来ないだろう。意地を張った挙げ句に、両方とも正面衝突死。
それが関の山だ。
レトンが言っているのはそういうこと。
そのまま行けば、エスカレートした挙げ句に死ぬ。
それは私も分かっている。
そして分からなくなった時が、学者の止め時だろう。
「もしも、どうしても致死的行為を止められなくなったら、かあちゃんが止めてよ」
「分かっています。 その時は、何があっても」
「うん。 お願いする」
「今回は、まだ致死的とまでは言えません。 ただ、今後は出来るだけ……もう少し無理がない範囲で研究をお願いします」
それも分かっている。
そう応じると、私はルートを確定させる。
そして、後は。
夕方を待つ。
夕方までは、レポートを書いて過ごす。ひたすらにクレイジーなフィールドワークを続けているが。
それくらいしなければ、怪異と遭遇する事は出来ないだろう。
だが、それでいいのである。
私はどうあっても、怪異と会いたいのだから。
私に取っては、それは原初の欲望である。
夜道に出る。
今回は、更に自分の感覚を狂わせるようなスリリングなルートを行く事にする。レトンはそのルートを暗記しているので、全く問題は無い。
天候は。
わりと悪くない。
この天気だったら、多分いけるだろう。
そう思って、私は夜道に踏み出す。
複雑な経路を通る。
空は。雨が降り出しそうだ。湿度が高くなっているのが分かる。カエルが積極的に鳴いている。
これは、降るな。
そう思った矢先、レトンが傘を差しだしてくる。
頷いて、傘を差す。
今回は、敢えて傘を使うことにしている。場合によっては監視ドローンに傘をやってもらうのだけれども。
今回はレトンと二人で大きめの傘に入って、それで雨の夜道を行く。
いいなこれ。
雰囲気が更に増している。それに、川音が遠くから聞こえるほどだ。雨が短時間でかなり降っている。
川が増水もしていると言う事だ。
うん、素晴らしい。そう思いながら、黙々と歩く。そして、堤近くにさしかかった所で。足音が、した。
三人目の足音。
ひょおっと声が出る。
これだこれ。
足音が消えない。そのままついてきている。レトンがあきれ顔で、後ろを見ていた。念の為に確認しているのだろう。
そして、結果は敢えて聞かない。
レトンの様子からして、誰もいないことは明らかだが。それでもかまわない。私が、主観情報で。
それでも聞こえているのに、意味がある。
雨はある程度の激しさで落ち着いたが、降っている事に変わりはない。
それが、どうしても感覚を阻害する。
それが、心地よい恐怖を刺激する。
夜道で感覚が阻害されている状況が。
怪異を呼び起こす。
ああ、これだ。私はよだれを何回も拭う。怪異は心の中に住まう。今私は、快感以上の恐怖が心を掴んでいて。
それが私の中に大きな居場所を占めている事を理解していながらも。
それ以上の主観が、怪異を作り出していることに歓喜している。
主観はあくまで主観だ。
そんなものに価値なんぞない。
特に他人に主観を押しつける事は最低最悪の行為だと言っても良いだろう。
だが、自分の中にあるものが主観で生じた場合は。
それを大事にするのは悪い事ではあるまい。
勿論その主観が他人に害を為すような場合は論外だし、問題外だと言えるが。
川の音が更に激しくなっている。
レトンが何も言ってこないと言う事は、堤防は大丈夫とみて良いだろう。まあ、この程度の雨でどうにかなるような柔な造りではあるまい。台風が来ても特に問題は起きないらしいから、それだけしっかりした堤と言う事だ。
無言で歩きながら、しばらくついてくる足音を楽しむ。
捕まえて、頭から囓って食べたいなあ。
そう思うくらいである。
いわゆるキュートアグレッションという奴だ。
やがて、足音は消えた。
もう、宿舎の近くだ。宿舎までついてきてくれれば、そのまま連れ込んで頭から囓ったのにな。
そう思っている自分に気付く。
キュートアグレッション極まれり。
これでは、怪異が怖がって逃げるのも仕方がないかも知れない。
とんでもないのについてきてしまった。
そう考えていてもおかしくは無さそうだ。
ふうと、よだれを拭う私。
全身がほてってる。
多分だが、どんなイケメンのアイドルを見てもこうはならないだろう。てか、イケメンのアイドルなんぞどうでもいい。そんなもの、この怪異の圧倒的おいしそうさに比べたら。文字通りゴミだ。
はあと、声が漏れる。
実に甘美な体験だった。
レトンが呆れかえって、そのまま足下のチェックをしている。
ヒルはやはりついているようだった。
適切に処理をしていく。
処置が終わったレトンは、雨に濡れていることを指摘。
「うん、知ってる」
「昂奮しすぎでしょう」
「いや。 私に取っては至福の時間」
「……さいですか」
レトンが此処まで時間を開けて答えるのは実に面白い。それだけ私の昂奮っぷりが衝撃的だったのだろう。
すぐにシャワーを浴びる。
雨の中を歩いてきたのだ。どうしても雨水に濡れる。興奮が醒めれば、風邪の要因ともなるだろう。
それにしても、いつも怪異は楽しいが。
完璧な計算の上で、此処まで呼び出せるとは。
神秘体験を簡単にできる一部のヨガとかは、危険性が高いと言うことで色々と批判されているようだが。
私はそれを地力でやった。
これは、それなりに評価されるべきだと思う。
それにしても、本当に美味しそうだったなあ。あの足音。いや、足音を立てている、心の中の怪異。
ものすごく変な事を考えているのは分かっている。
だが、この欲求は事実だ。
勿論この欲求に対する理解を求めてもいけないし。ましてや他人に押しつけてもいけない。
それは私も分かっている。
それはそれとして、私の主観情報を見た奴は、泡を吹くのではあるまいか。
ちょっと考えるべきだが。
まあいいか。
もしも問題があるようだったら、それはそれでAIがレポートに言ってくるだろうし。
行政に噛んでいるAIは、表現を規制したりしない。
どんなえぐい表現でも、平然と受け入れる。
昔の動画配信サイトだと、肌色の比率で動画を勝手に削除するポンコツAIが存在していたらしいが。
現在は個々人の感性を優先するし、そもそも性犯罪が出来ないように支援ロボットが見張っている。
故に、そういった規制の類はない。
実際問題、私のレポートは見ていて怖いとまで言われている代物だ。
それがAIによって文句を言われないと言う事は。
多分大丈夫だろう。
るんるんうきうきしながら、風呂に入って。湯船でゆっくりする。
しばらくリラックスして気分を落ち着けたあと、レポートに取りかかる。体も温まったので、丁度良い感じだ。
そのまま、夕食までレポートを書き。
健康的に夕食を食べた後は。
寝るまでレポートを書く。
書くと言ってもテンプレに基本は収めるだけなので、殆ど苦労はない。これも昔は、色々な職場やら学会やらで意味がわからないローカルルールが横行していて、それを覚えるまでは一苦労だったと聞いているが。
今は誰が書いてもレポートは問題がないようにテンプレが用意され。
それにそって文を書き、資料を添付するだけだ。
このため、裏付けとなる資料のないレポートは、非常にそうだと分かりやすくなっているうえに。
金勘定やらスポンサー探しやらで苦労させられた昔の学者と違って、今の研究に全力投球できる学者が。
それぞれレポートを精査して、客観的に公平性を担保できるようになっている。
私も他人のレポートを時々確認して。
それらのデータが正しいか、チェックする事がある。
ただ私の場合はチャットツールなどを使う事はなく、普段のテンションと裏腹にごくごく冷静に指摘する。
文章では人格が変わる人は時々いるが。
私は多分、そのタイプなのだろう。
温厚な言動で知られる映画評論家が、評論文では別人のように攻撃的であったことなどの例もある。
まあ、私はそういう意味で。
ネットではわりかし、波風を立てないタイプなのかも知れなかった。
「主、そろそろ寝る時間です」
「あ、もうそんな時間か……充実していたから、気付けなかった」
「充実して仕事をするのは良いのですが、しっかり睡眠と食事を取らないと健康を維持できません」
「分かってる。 かあちゃんのそういう言葉は有り難い」
伸びをすると、レポートを書くのを停止。
更新ぶんまでをアップデートして、それで今日は終わりにする。
さて、今日の狂気じみた主観視点情報は、何かまた騒ぎになるかも知れないが。それはそれだ。
怪異を見る人間の精神状態が、どうなっているのかの良いテストケースになるかも知れない。
自分が実験台になる事は。
私には、別に何の問題もないことだった。
翌朝。
早い内に、今日の巡回コースを確認しておく。
朝食を終えて外に出ると、そこそこに雨が降っていた。
この雨は、夜まで続くそうだ。
良い感じである。
里山の方では、管理ロボットが動き回って、日中に出来る作業をしている。様々な草の選別などもだ。
現時点では里山の管理は、あくまで将来的な稲作や農作のための保全という感じで。里山に住む生物を優先している。
だが、それも最悪の事態の場合には、此処で農作物を作ることになる。
故に、管理ロボット達は能力を少し過剰気味に与えられている。それだけ、農作業は重労働なのだ。
手をかざして、里山のコンディションを確認。
軽く歩いて見るが、かなり足音が重く響く。
これはいいな。
とても分かりやすい。
もしも足音が聞こえたら、すぐに判別できるだろう。ただ雨が激しくなりすぎると、それも聞こえなくなりそうだが。
「良い感じだ」
「朝食にしましょう」
「分かった。 そうしよ」
すぐに朝食にする。
昨日の消耗が凄まじかったからか、朝食がうまくて仕方がない。なんというか、腹が減るというか。
強烈に体が栄養を求めている。
食事はあくまでその補填という感触で。
栄養がほしいから、結論として飯が美味くなっている、という感じだ。
レトンのつくるご飯はいつでもうまいけれど。
それはそれとして、関係無しにこれはうまい。
がつがつ食べていると、レトンが珍しく苦言を呈してくる。
「昨日の消耗が激しかったのは私の方でもチェックしていますが、このペースで食べると太りますね」
「ちゃんとその辺はかあちゃんが工夫してくれるんでしょ?」
「勿論そうしますが……」
「今日もべとべとさんが出て来てくれるとは限らないからね。 いずれにしても、昨日の分は補填しておかないと」
充分に食べると、すぐにレポートに取りかかる。
昨日の作業の続きをして、他の人のレポートも見ようかと思った。
そうしてレポートを見ていると。
自分の所のレポートに、アクセスが殺到しているのが分かった。
これはひょっとすると。
何処かしらで話題にでもなったか。
今の時代は荒しは存在しないので、安心して内容は確認できる。
案の定、何処かしらのSNSで話題になっている様子だ。
レポートよりも、私の主観視点の資料が話題になっている。
内容を見て、恐怖している声が目立つ。
「これは妖怪なんかよりずっとこええ……」
「この人、妖怪を捕まえて頭から囓って食べそう……」
「おっかねえ。 民俗学者って、みんなこんななん?」
「いや、そんな筈はないと思う」
あからさまに引いている声多数。
怖い者見たさで、多くの人間が見に来ている様子だ。まあそんな雑音はどうでもいい。専門家の意見はないだろうか。
見ていると、あるある。
「これはちょっと珍しいケースだ。 怪異が出る場合、人間は怯えきっていて、情報を誤認したり、脳が誤作動するケースが多い。 その仕組みは今後も解明する必要があるが、この人は僅かな恐怖と、残り全てが歓喜で満ちている」
「怪異が本当に好きなのが伝わってくるな。 だがそれ以上に、冷静に恐怖と向き合って、怪異が出たことを喜んでいるこの精神性は……色々と常人離れしている」
「下手なホラー映画より怖いと話題になっているが、まあそう取られるのも当然だろうなこれは。 人間の方が怪異なんぞより余程怖いという証明になるかも知れない」
「今後この人の持ち出すデータは研究対象として面白いものとなりそうだ。 この人自身が怪異だな」
そっか、私が怪異か。
専門家の話の筈なのに、こんな内容が出てくるとは。
まあいい。
ともかく見ていて、充分に参考になったし、元気も出た。今日もフィールドワークを頑張ろう。
連絡が来る。
南雲からだった。
「おはようございます。 柳野先生、また随分とロックンロールな資料を載せていますね」
「ああ、見たんですね。 なんかホラー映画より怖いとか言われていてちょっと困惑している所です」
「いや、声が嬉しそうなんですが……」
「昨日、意図してべとべとさんを観測出来たのが今も嬉しいだけですよ。 ただ、私が遭遇したのは、或いは昔の人達が遭遇していたべとべとさんとは別かも知れませんが」
それを聞いて、南雲がすーっと息を呑むのが分かった。
なんだ、あんなパンクで攻めた格好をしているのに。
ひょっとして、意外と怪異に対して結構怖がるタイプか。
「今度二人で調査しますか? フィールドワーク」
「い、いや流石に。 私はデスクワークに徹します」
「分かりました。 共著という関係上、質が高い資料の提出をお願いします。 いつものように」
「努力します」
通信を切る。
さて、残りの日数で、出来るだけべとべとさんに遭遇しておきたい。
そして、この感触を忘れないようにしないといけない。
怪異は、じつに美味しそうであること。
これを忘れたら、もう怪異に遭遇できないかも知れない。
怪異がむしろ私を怖がるくらいでいい。
それくらいの精神状態でいたほうが、怪異は出やすいだろう。勿論、それはそれとして、冷静さも保たなければならないが。
鼻歌交じりに自室に戻る。
準備を整える。
今日も怪異に会うぞ。そう、気合いを入れながらも。とても今、私は充実していた。
4、新しい怪異の誕生
デスクワーク専門の民俗学者である南雲夏鈴は、あまりにも衝撃的な主観的情報による怪異の観測を見て、冷や汗が止まらなかった。
元々欲求が強い事を自認している夏鈴である。
この個人的栄達が望めず。
名声欲も満たせない時代。
それでも、色々と反抗したいと思って攻めた格好をしているが。それはそれとして、世の中には天然で凄まじい攻めた行動をしている人がいる。
柳野千里もその一人。
夏鈴としては、驚くべき相手だった。
周囲には複数の支援ロボットを置いている。稼ぎが出るたびに、増やしているのだ。
疑似ハーレムを形成して楽しんでいるのだが。
実際には、ハーレムなんてものとはほど遠い事も知っている。
今夏鈴の周囲にいるのは、都合が良く言うことを聞く支援ロボット。
それも、機嫌にあわせてそれぞれが行動する。
此奴という気分の時には其奴が来るし。
一人にしていてほしいときには一人にしてくれる。
昔、「都合が良い彼君」とかいう怪異が存在していた。その怪異の残滓は、今でもネットのログで見る事が出来る。
古い時代のアーカイブには、ありもしないその怪異が結構残されているが。
今、擬似的に再現している「都合が良い彼君」は、はっきりいって下手をすると一瞬で人を駄目にする。
それを理解した上で、そのままでいる支援ロボット達は。
この環境下で、自分が駄目にならない夏鈴の性格を見切っていると言えるし。
ある意味、分かった上でやっている訳で。
怪異に囲まれているのと同然だった。
それはそうとして、だ。
この支援ロボット達よりも凄まじい怪異が柳野だ。はっきりいって、あの精神状態は理解不可能である。
SAN値チェックに失敗した気分である。
そして本人と軽く話してみて、すごく楽しそうだったのでなおさら息が止まるかと思った。
すーっと血の気が引く音が聞こえた気すらした。
怪異探しのフィールドワークは元々苦手だった。
手続きは殆ど支援ロボットがやってくれるとしても、だ。
だが、ここまで狂った精神性を持っていた上で。
更にそれを楽しめるくらいでないと怪異と効率よく遭遇できないのだとしたら。正直、私には無理っぽい。
そう思って、夏鈴はげんなりしていた。
デスクワークは得意だ。
この格好をして外を歩くと、かなりの人数が振り向く。
だから、もとはアウトドア向けの人間なのだろうと夏鈴は自認しているが。
しかしながらフィールドワークに適性はない。
それが何となく、分かってしまった気がする。
数日間悶々として過ごす。
そうこうしている内に、デスクワークの依頼が来る。柳野が次の研究にターゲットを絞っている。
それについては話を聞いている。
次に見たいものは目目連だそうである。
いわゆるバーゲン錯視と呼ばれる目の錯覚が原因とされる現象で。古くから目撃例が多くある。
ただ危険な怪異ではなく、ただ目がたくさん障子に浮かぶというだけのもの。
しかし古くは障子なんて珍しくもなかった。
それで何処の家でも目撃されなかったということは、バーゲン錯視と言うだけでは説明がつかないだろう。
有名な資料を集めるだけでは芸がない。
実際の目撃記録を集めた方が良さそうだ。
そう判断して、夏鈴は気分を入れ替える。
そして、支援ロボットを何名か見繕って、図書館に出かける。
夏鈴はどういうわけか、電子書籍よりも本そのものが好きだ。特に近年の、保存状態が管理ロボットによって完璧に保たれている本は大好きである。ただし、近年本は貸し出しされず。
基本的に図書館で読むものとなっている。
黙々と膨大な資料に目を通す。
なお、こういった作業に連れて行く支援ロボットは、基本的に円筒形の実用重視のものである。
人型のはセクサロイドとして使ったりしているので、何となく外には連れて行きたくないのである。
この辺りは、他人にいうつもりはない。
誰でも、心の奥には隠し事の一つや二つはある。
目目連の情報を色々調べて、全てをコピーさせる。それらを精査して、あからさまに嘘を吐いているものは全て削除していく。
程なくして、それなりの量の資料が集まる。
全てをまとめた後、支援ロボットにデータを持たせて、家に戻る。
その後は、自分なりに再チェック。
図書館でチェックしたときはそれほど目立たなかった粗が、こうやって落ち着いた状態だと見つかる。
メールを出した後に、誤字に気付くようなものだ。
支援ロボットに資料を出させて、徹底的にチェックする。
誤字脱字を一発でチェックできる人間もいるらしいが。
夏鈴には無理だ。
資料の妥当性も同じく。
特に図書館ではざっとだけしか見ていないので、露骨におかしいものしか排除できない。
いかにも話を作っているのは、それだけで一発で分かるものだが。
厄介なのは、巧妙に創作した話で。
こういったものは、ものによっては都市伝説になって広まったりもする。
一時期匿名掲示板では、そうやって無数の怪異が作り出されたのだ。
新しく怪異を作り出そうとして、それをやるのは別に勝手にやればいいと夏鈴は思うが。自分でやるつもりはないし。
荷担するつもりもない。
淡々と作業を進めていき、やがて納得が行く資料だけを抽出する。相当数の資料が、削り取られていた。
後はまとめの作業だが、これは支援ロボットにも手伝って貰う。
黙々とそれを進めて、最終的に仕上げると。
肩を叩いて、ため息をついた。
此処までで数日かかるのだ。
デスクワークも大変なのである。柳野も大変だろうが、夏鈴も結構消耗する。
更には、夏鈴は消耗すると食事が細くなることもあるので。
支援ロボットは、どうにか栄養を取らせようと必死になる。
それが痛々しいと思うので。
夏鈴もいつも苦労していた。
資料を柳野の所に送る。
柳野は今回の調査で、三十回以上べとべとさんに遭遇したと、大喜びしている。
主観情報で、と先に断っているので。客観的には何も起きていないことは承知の上で、だ。
怪異は心に住むもの。現象としての怪異は、ただの現象。
そう割切っている心の内が何処かで透けて見えるが。
同時に怪異は怪異として大好きであり。
その愛情は恐ろしいまでに歪んでいる。
それも分かってしまうので。
夏鈴は相容れない化け物を見るような目でレポートを見るしかないのだった。
(続)
|