深海からの呼び声

 

海の恐怖

 

水辺の怪異は危険度が高いものが多い。

これは国籍問わず同じ。基本的に昔は、水辺で簡単に人が死んだ。それもあるからだろう。

河童ですら尻子玉を抜いて人を殺す。

それが人々の認識だった。

勿論尻子玉なんてものは存在しないのだけれども。当時はそういうものがあると考えられていた。

川辺の怪異ですらそれ。

海の怪異となると、更に危険度が増した。

昔から、海のUMAは巨大な存在とされることが多かった。そもそも海の生物が、実際に巨大になるケースが多かったという事もある。

鯨やキタユウレイクラゲ、エチゼンクラゲを例に出すまでもない。

海でそういった超巨大生物に遭遇したら、それは驚いたことだろう。航海が命がけだった時代にはなおさらだ。

さて。

今日は私は、別の学者が復元した。戦国期くらいの船に乗って、海に出ている。側には救命用のドローンと支援艇。

私が相当にヤバイ奴だと判断しているのか。

手篤い警護だ。

レトンも船に乗っている。

今回のために、私はわざわざ着衣泳の資格までとった。

それで、わざわざ海に出て来て調べに来たのは。

舟幽霊である。

舟幽霊。

怪異としては、比較的有名なものだが。その実態は、船が突然止まって、衝撃で人間が海に投げ出されるという現象。

これに話に尾ひれがついて、海から手が伸びてきて、柄杓で船に海水を入れていくとか。そういう話がどんどん追加されていった。

実際問題、船から投げ出されるだけで死ぬ。

特に昔の鎧とか着ていたような武将とかが海に投げ出されたら、どうしようもなかっただろう。

特に火薬の技術が伝来してからは、焙烙という爆弾が戦場で普通に用いられるようになり。

どうしても状況的に軽装備を強いられた海の戦争では、とにかくこれが最悪の脅威となった。

船の上で、これをハンマー投げの要領で投げる技術も開発されたそうで。

現在は、実際に出来る事が証明されている。

文字通り巨大な火薬爆弾が飛んできたら、それこそ対処のしようがない。

信長が鉄鋼で装甲した船を作って、火薬爆弾主体の毛利水軍を破ったという話は有名だが。

それも現在では、どこまで本当か分からないそうである。

ともかく私は、今は船の上にいる。

この間から愛用するようになったショートパンツをはいているが、足下はスニーカーである。

サンダルなんて、海に落ちたら何の役にも立たない。

むしろ今回は軽装にしろと言われた。

勿論救命胴衣もつけている。

普段からもこもこになっている奴ではなく、海に接触した瞬間膨らむタイプだが。念には念だ。

これにくわえて、レトンはどんな荒波の中でも泳げる。

今のロボットは耐水機能くらい余裕でついているし。

何より記憶データはネットで常時遠隔保存している。

レトンにとっては、体を失う事くらいは、文字通り痛くも痒くもないのである。

ともかく、ガッチガチに守りを固めている状況だが。

船だけは、舟幽霊がたくさん出た時代のものだ。モーターボートでも遭遇は出来るらしいのだが、船が停止するほどの衝撃はないようだし、何より海の生態系に与えるダメージがある。だから手こぎの木船にしたのだ。

そして、それをあえて漕ぐ。

漕ぐのは私もやってみるが、手が一瞬でマメだらけになると言われたので、高性能の手袋で支援を受けながらやっていた。

手がマメだらけになると、ちょっとレポートを書くのが大変になる。

だからこれでいい。

黙々と、交代しながら、許可が出ている海域を巡回する。

この辺りは、許可が出るのは支援用のドローンが巡回しているから、だと一発で分かる。

基本的に海に投げ出されたら、素の状態の人間だったら100パーセント助からない。

鮫の餌、というのは違う。

人間を積極的に食いに来るサメは実際にはほとんど存在しておらず。強いていうならオオメジロザメやイタチザメくらい。有名なホホジロザメは、実際にはじゃれに来る程度である。大きすぎて、それだけで危険と言う事だ。

そういう危険なサメも、今は海中で基本的に支援ドローンが見張っていて、人間に害を為そうとする場合は防ぐように動く。

それが今の時代というものだ。

「さて、舟幽霊は出るかなあ」

「そもそもこんな古代の船で海に出る事が正気ではないと思うので、出るのではないでしょうか」

「ははは、手厳しいね相変わらず」

「流石に此処まで危険なフィールドワークだと、私も少々強めの言葉を使わざるをえません。 ただ……」

レトンは言う。

近年はそれほど観測例が出ていないものの、船が海上で急に止まるという現象があるのなら。

それをしっかり起きると解明しておくことで、事前に防げる事故があるかもしれない、と。

今も技術は発展し続けていて。

今では、海を直接進む船は減ってきている傾向にある。

船ですら、ホバーで飛ぶのが普通の時代だ。

これは、古い時代の船が、バラスト水やらスクリューやらで、色々と海の生物に迷惑を掛けてきたという歴史もある。

だがそれでも、個人用の船などは、話が違ってくる事もある。

だから、事前に危険を避けるためにも、検証実験は必要だというのである。

実際、船が大型化し。

サメなど屁でもない時代が来てからは、舟幽霊の類の体験談はほとんど出ていないという話である。

古い時代は小舟で海を行かなければならない事も多く。

そういったときには、大きな生物に遭遇するのは、文字通り致命的な事態だっただろう。だから恐怖も増した。

恐怖が増せば、当然怪異も出やすくなっただろう。操船のミスとかも、起きやすくなったかも知れない。

それに、小さな海流でも影響があった可能性だってある。

そして、船が急停止するような海流は。

それは、人間に対しては致命的になるだろう。

だったら、人間が素潜りする場合に備えて。

そういった海流についての危険性は、検証しておく意味もある。

現在では離岸流の存在は周知の事実で、その危険性についても知られているが。

レトンが言う通り、こういった船を一瞬止めてしまうような海流が観測されるのであれば、それについても確認はしておくべきである。

そういう意味もあって。

今回は体を張る価値があるフィールドワークになる。

勿論、実際に舟幽霊に遭遇できれば、の話だが。

それと舟幽霊の伝承には、必ずしも船が急停止するだけではないと思う。

例えば、漏水がいつの間にか起きていたりとか。

やはり海上で怪しいものを見たりとか。

そういった事も、関係しているのかも知れない。

いずれにしても、こうやって再現した昔の船だったら、それには大きな意味がある筈である。

船を沖合に出す。

勿論、出していい距離は決まっている。沿岸警備のドローンだって、国境の問題がなくなった今は自由に飛び交っているが。

それでも、沖合に出すぎると事故が起きた場合の回収が困難になるからだ。

昔の人間は、こんな小舟で沖合に出ていたのか。

そう思いながら、ぐらんぐらん揺れる船の上で、私は櫂を漕ぐ。

レトンが自分でやると言ったのだけれども。

こういった行動もある程度やる事で、舟幽霊は出やすくなるかも知れない。

それもあるのだ。

そして、夕方が来る。

陽が沈み始めると、海は全く違う姿を見せ始めていた。

おお、噂には聞いていたが。

確かにこれは中々に怖いな。

明るい内は、海岸の辺りはいい。

だが、すぐに深くなるような海岸だと、文字通り底知れない闇が足下には拡がることになる。

大陸棚という浅い海域があるが。

それでも深さは200mはある。

それだけあれば、海底に光は届かない。

非常に澄んだ海だったら話は別だが。残念ながらこの辺りはそうではない。ゴミの問題ではなく、生物の生息数や、海流の問題でだ。

しかも、それに空まで暗くなってくると。

本当に下も上も真っ暗になる。

ぞくぞくと、恐怖がせり上がってくるのがわかって心地よい。

これこそが、怪異の源泉。

其処にある恐怖だ。

人間は恐怖を持っていた方が良い。その方が、危険を避ける可能性が上がる。だが、過剰な恐怖はまっとうな判断力を鈍らせる。

故に私は。

恐怖を制御すべきだと考えるが。

自分のちっぽけな事よ。

宇宙空間で、窓から外を見たときも、こんな感じだった。

火星行きの船に乗っていると、地球なんてあっと言う間に砂粒のように小さくなる。周囲には、まともな構造物なんて見えない。

その時、星明かりはたくさん見えるが。

それも遠くにあると思うと。

ぞくりと、腹の底から恐怖が来たものだ。

そして、嬉しくもなった。

レトンは恐怖を喜んでいる私を見て、呆れていたっけ。前に火星に出向いたのは、もう三年も前になるのに。

そんな頃から私はそんなだった。

今でも、この間近にある底知れない闇を見て。

やっぱり私は、恐怖と歓喜を同時に感じていた。

レトンが声を掛けて来る。

「ドローンから警告がありました。 イタチザメが来ています。 遠ざけるそうですが、時間もあります。 そろそろ海岸に向かうように、と言う事です」

「おっけ」

「では、私が漕ぎます」

櫂を手に取ると、レトンが漕ぎ始める。ぐいぐいと、船が加速して、陸地に近付いていく。

波はそこそこ高くなってきている。波が来る度に、ぐうんと船が傾く。これは、中々にエキサイティングだ。

北斎の絵で、波が有名な「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」だが。

この絵では、あまりにも波が凄まじすぎる美しさと迫力を持つと同時に。

人間が船にへばりつくようにして、それをやり過ごしている様子もまた描かれている。

この絵を見て、私は波に感動すると同時に。

船に貼り付く人間の様子を見て、小さいなあと思った。

一時期の、人間が万能感を拗らせまくっていた時代と違う。

この時代では、まだまだ自然現象に人間はどうしても抗えなかったのだ。

だから、畏怖も生まれた。

その一部を、私は今経験している。

「ドローンによる警告です。 大きめの波が来ます」

「よし」

私は即座に、訓練通りに船にしがみつく。

ぐわっと、文字通り効果音が来そうな勢いで、船が揺れる。

波しぶきが散らばり。

私は剥き出しになっている足に、冷たい水がかかるのを感じて、ひゅうと口笛を吹いた。

この状況でも、驚異的……というかロボットだから当たり前だが。全く転ぶ様子もないレトン。

私は、ただ自然の脅威に振り回されるだけである。

船に飛び込んできた小魚を、無言で掴んで即座に船の外に放り出す。船に、かなりの海水が溜まってきていた。

海岸が見えてきたが、同時に雨が降り出す。

小雨だったのが、一気に本降りになっていった。

レトンが心なしか、焦るようにして櫂を動かしているのが見える。

まあそうだろうなと私は思って。

邪魔をしないようにして、船にしがみついて、この様子を確認する。船が止まるような事はないが。

それにしても至近で見る、海の底の暗さよ。

これは卓越した身体能力があっても、覗き込んだら恐怖で足が竦むかも知れない。

確かにこんなものを間近で見たら、それは恐怖で動けなくなるのも同意だ。怪異だって見てもおかしくは無い。

昔の人間は、とバカにする風潮も一時期あったようだが。

実際にこうやって一部だけでも昔の環境を経験してみると、今の人間が真似なんぞできない事が一発で分かる。

一時期はやったような古代文明の栄える異世界で好き勝手に振る舞うような作品は。

絶対に無理だ。

多分だが、メシを食っただけで腹をこわすし。

水を飲んだら生死の縁を彷徨う。

戦闘力が高かろうが関係無い。

更に言えば、当時の生活臭を嗅いだだけで、近代の人間なんか卒倒するだろう。

そんな風に思いながら、私は接舷。

船の作り主が、合羽を着込んでこっちに来ているのが分かった。

「無事でしたか!?」

「平気です」

「降りるときも危ないので、気をつけてください!」

「分かっています」

滑稽なほど、船の作り手はあわてている。

或いはドローン経由で監視していて、船が想像以上に波に翻弄されるのを見ていたのかも知れない。

自分が作った船なのだ。

それで人を死なせでもしたら、洒落にならないし。

見た感じ善良な感じの人だ。

船よりも、私を心配していたのだろう。

眼鏡を掛けた穏やかそうな雰囲気の女性だ。一時期は自立した女がどうのだので、ゴリラみたいな女がもてはやされた時代もあったらしいが。

そういった迷妄から解放された今は、みんな好きな格好をするようになっている。

私のように雑な格好をしていて平気な人間もいるし。

南雲さんのように激しく攻めたファッションをしている場合もある。

この人の場合は、穏やかな雰囲気であり。

そして、側には「気は優しく力持ち」という雰囲気の、大型男性ロボットがいた。支援ロボットを途中から男性に切り替える人はいるらしいと聞いている。

まあ、それぞれの自由だ。

用途などは、失礼なので勝手に想像しないようにする。

「肝が冷えました。 柳野さんは本当に勇敢ですね」

「いやあ、頭のネジが飛んでいるだけですよ。 それに、今日は試運転代わりですし、本命には会えませんでしたし」

「舟幽霊の研究でしたね」

「そうです。 こんな雰囲気の夜に船がいきなり止まったりしたら、それは昔の人はパニックになったでしょうね」

レトンが咳払い。

私がぐしょ濡れである事を責めたのだろう。

実際このままだと、風邪を引きかねない。

そして海水は、ちょっと乾くとすぐにべっとべとになるのだ。汗以上に。

「私は私で、この船の整備とレポートがあります。 今日はここで解散しましょう」

「了解しました。 明日もお願いします」

「はい。 それでは失礼します」

フォークリフトと一体化している自動装置が、船を引き上げると運んでいく。これから整備するのだろう。

貴重な生の木材を使っているのだ。

無駄には出来ないのである。

私は私で、舟幽霊の研究が出来るし。

あの人、村上さんといったか。村上さんは、自分で作った船の研究が出来る。どちらにとっても良い事づくめだ。

本物の事故さえ起きなければ、だが。

宿泊施設に入ると、すぐに風呂に入るように促された。

確かにあっと言う間に全身ベッタベタになる。

服を洗濯し始めるレトンを横目に、シャワーで海水を洗い流す。本当にベッタベタになるなあと、私は呆れながら風呂に入った。

まだまだ肌は水を弾く。

昔は神経質に手入れをしすぎて却って肌の老化が早くなったり。

それより昔はそもそも化粧品が安全ではなかった時代もあったりで。

肌の老化がとても早かったらしいが。

今はそんな事もない。

風呂から上がると、部屋の気温をレトンが調整してくれていた。最初はそこそこぬるく。やがて涼しくしていく。

これなら、風邪を引くこともないだろう。

夕食をレトンが用意する。

厳重に現在は個体数が管理されている魚介類だ。調理も完璧で、骨も取ってある。

「わ、これは美味しそうだね」

「今回は此処にいない南雲様も含めて、学者三人が関わっています。 支援用の物資なども充実していますので、こういった料理が出ます」

「普段予算とか考えなくて良い時代はいいね。 こういったちょっとした幸せがとても嬉しく思える」

「そうですね。 昔の学者は研究の予算にいつも気を遣わなければいけなかったらしいのですが、非常に非合理的だったのではないかと私も思います」

実際、レトンが作る料理だ。

私の舌にあわせているし、まずい筈もない。

しばらく夕食を楽しみ。

そして、寝る事にする。

なんだかんだでとても疲れた。

だけれども、あの腹の底を擦られるような恐怖。とても、個人的にはデリシャス極まりなかった。

うふふーと、寝床で声が漏れる。

レトンが呆れているのが分かった。

 

1、海流は気まぐれで

 

暖流や寒流といった、大規模な海流については誰もが知るところだ。

寒流にしか住まない、暖流にしか住まないというような性質を持っている海中の生物も存在している。

海岸近くになるとその影響は薄れるが。

私は、今手袋をつけて櫂を持ち。漕ぎながら、やっぱり色々と複雑だなあと思った。

手元に来る感触が、最初は重いだけだった。

手袋だけの支援だと厳しいとレトンが感じたのか、今は外付けの人工筋肉をレンタルしている。

人工筋肉と言ってもグロテスクな代物ではなく、ちょっとしたフワフワしたなんかビニール袋みたいな感触なのだが。

それでも、腕や足に沿ってそれがついていると。

ちょっと複雑だ。

これは救命胴衣の役割も果たし。

多少荒れている海程度なら、資格を持っているだけの私でも、十分生還させられる程のダイナミックな泳ぎも実現する。

レトンが申請して通ったのは。

私が想像以上にクレイジーな研究をしているのが理由だろう。

それはそれとして。

私は楽しく、今日も夕方近くから、海に出ていた。

こんな愉快な船を復元したにもかかわらず、村上さんは兎に角恐がりなようで、研究開始から四日目の今日も。とにかく気をつけてくださいと何度も私に念を押してくるし。

私が喜色満面で海から戻ってくると、ぐったりしているのだった。

まあそれはそれだ。

海にこぎ出して、そこそこ荒い波に揺られる。

途中からレトンに交代。

追随しているドローンとレトンは連携しながら、船を漕いでいるようだった。

「かあちゃん、それでどう? 何か怪しい海流とかは来ていない?」

「一応、立体映像で表示することは出来ますが、船がいきなり止まるような海流はありませんね」

「ふーむ……」

「ただ、海流はかなり複雑に絡み合っています。 船を急停止させるような海流が、至近で発生しても不思議ではないかと思います」

こういった曖昧なものいいをロボットが出来るようになっているのは、それこそ時代という奴なのだろう。

無味乾燥した言動を口にして、合理しかなかった古い時代のSFに出てくるAIと今のAIは違う。

500年で、人間はまるで生物としては進歩しなかったが。

AIは想像以上に進歩した、と言う訳だ。

そして多くの学者が懸念した、AIが人類を支配するようになると言う事象は発生しなかったが。

代わりに、そもそもAIは人間を支配する必要すらなくなった。

まあ、一時期テロを画策した輩が出たのも、仕方がなかったのかも知れない。

レトンと交代して、私がまた櫂で漕ぐ。

人工筋肉無しで漕ぎたい所だが。山歩きで慣れている程度の私では、はっきりいってすぐにばてるだろう。

腕が動かせなくなって、レポートを書けなくなったら一大事だ。

ただ、腰を入れて櫂を漕ぐようにと言われて。

そうするようにはしている。

元々足腰はきっちり鍛えていると言う事もある。

体全体を使って櫂を漕ぐことによって、ある程度スムーズにやれるということは分かってきた。

ただ、それも人工筋肉での支援あっての話。

私だけでは、とてもこんなにスムーズにはやれなかっただろう。

「主、海岸に近付いてください」

「ん、危険?」

「はい。 このまま進むと、早めの海流に突入します。 最悪ドローンと連携して船を引っ張り出しますが、それは主の望むところではないでしょう」

「了解、ちょっと戻るよ」

舵はレトンに任せて、海岸に向けて漕ぐ。

大回頭する船。

ちょっとした海戦気分だ。

そして、回頭を終えた瞬間。

それが来ていた。

がくんと、大きく船が揺れる。壁にでもぶつかったかのような、強烈な揺れだった。少なくとも私の主観では。

ぐらりと、私は揺らぐ。

これだけ揺れる船の上で、立っているだけでも驚異的なのである。

すっころべばどうなるか。

レトンが即応して、私の腕を掴む。

そして踏ん張って、海に落ちるのを防いでくれた。それでいながら、櫂も取りこぼしていない。

一緒に船にへたり込む。

心臓がばくばく言っているのが分かった。

「こ、これが……」

「海流もありますが、船を回頭させたのが原因でしょう。 確かに、船が急停止……いや、船に反発するように、一瞬だけ波が動きました」

「うん、舟幽霊だ」

「海流などのデータを全て記録します。 危険であると私は警告し、この研究を無人ですべきだと提案したいのですが……主はそれを望まないでしょう」

レトンが、後は自分が漕ぐと言う。

というか、海の方に雨雲が出始めている。ちょっと洒落にならないと判断したのかも知れない。

私は大人しく船に座り込むと、ちょっと身震いした。

武者震いというのがある。

あれは戦闘時になるものだが。

それに近い状態かも知れない。

実に心地よい昂奮が全身を満たしていて、ちょっと漏らしそうだった。多分獲物を目の前にした肉食獣の笑顔をしているだろう。

それでも別にかまわない。

私は今、無茶苦茶満足していた。

これが舟幽霊だ。

怪異としての舟幽霊に遭遇したのとは別なのかも知れないが。少なくとも現象としての舟幽霊にはリアルで遭遇できた。

レトンも客観的なデータを取ってくれている。

ひょっとすると、舟幽霊を殺してしまうかも知れないが。

しかし、それはまだ分からない。

これは、これから書くレポートが火を噴くだろう。

実に公開が楽しみだ。

学会とか言うクソ面倒くさい代物がなくなっている時代、というのも追い風になる。

私に取っては、実に良い事だ。

海が瞬く間に荒れ始める。風雨が激しくなってくる。レトンが警告してくる。

「主、出来るだけ態勢を低くしてください。 座っていると言っても油断はしないようにしてください」

「分かってる。 大丈夫」

「舌を噛むので、以降は返事はいりません。接舷までかなり揺れます」

「……」

レトンがそこまで言う程か。

だとすると、中々ハードにミキシングされるとみて良いだろう。

私は実にスリリングだなと思い。

むしろ舌なめずりしたいくらいだった。

海水が、容赦なく船に入り込んでくる。波が非常に激しい。

排水機能がない昔の船に乗っていた人は。下手をすると一人でこれを漕ぎながら、排水もしていたのだろうか。

そう思うと、敬意すら覚える。

私は黙々とセットしてある柄杓で、海の水を外に出す。

まるで舟幽霊とのいたちごっこだ。

舟幽霊も、たくさん手が海から伸びてきて、柄杓で海水を船に注ぐのだったか。そういう伝承もあるが。

こういう荒れた海で、柄杓で水を捨てている間に。

漁師はそう言ったことを考えついたのかも知れない。

雨も激しくなってきて。

至近で、背丈よりも高い波が爆ぜるのが見えた。

勿論派手に海水が船に入り込んでくる。ひゃあと、喜び混じりの声が上がる。レトンはかなり急いでいる様子だ。

「最悪の場合は、ドローンと連結して強引に接舷まで持ち込みます」

「任せるね!」

「それにしても、こんな荒れた海にどうして好きこのんで。 目的が分かっていても、どうしても愚痴が出てしまいます」

「愚痴が出るなんて、すごいAIだよ」

喋らなくても良いと返されたので、そうする。

いずれにしても、船が激しく上下左右に揺れ続け。レトンの神がかった……まあ当然だが。操船技術がなければ、簡単に転覆していただろう。

何度も激しい波が船を揺らし。

その度に、大量の海水を浴びた。

雷がなっている。

本降りになりはじめた雨が、更に冷たい海を荒れ狂わせる。

これだったら、怪異の二体や三体、出てもおかしくはないだろう。

そう、私は思った。

接舷。

同時に、陸地で待機していたフォークリフトみたいな大型機械が、船を引き上げる。

私が降りると同時に、レトンが備品を抱えて跳びだし。

船をひっくり返して、溜まっていた海水を海に戻す。かなりの量の海水が溜まっていて、あんなに溜まっていたのかと、私の方が驚かされていた。

村上さんが、青い顔をしている。

「い、生きた心地がしませんでした。 本当に柳野先生は勇敢ですね」

「いやあ、私のはネジが外れてるんですよ。 これは二回目になりますけど」

「主」

「分かってる。 それじゃあ、それぞれの役割を果たしましょう。 明日までに、また船を仕上げてください」

一礼して、その場を離れる。

レトンが、若干苦々しげに言った。

「村上博士は、激しい揺れに見舞われる船を見て、恐怖に一度目を回したようです」

「あれえ……そんなに」

「元々気が弱い方のようです。 船を作り上げる時も、主に材料集めや計算を主体にやっていたそうでして」

「でも、しっかり復元されて、転覆もしない。 これだったら、当時の船になれた船乗りだったら、大丈夫だったんじゃない?」

そう告げると、レトンはそうでもないと応える。

やっぱり海難事故は、この規模の船だとどうしても高確率で起きだろう、というのだ。

確かに、私も敢えて海難事故が多い地域での実験を提案。

それに、昔の船を復元することを専門にしている村上さんが乗ってきた。

前の鬼火のレポートも原因としてあったのだろう。

私は今、民俗学者としてそれなりに名前が売れ始めているのだ。

それによって、こういった+の副次効果もある。

雨が激しくなってきたので、レトンに急ぐように促される。

すぐに宿泊施設に戻り、服を真っ先に脱いでシャワーを浴びる。本当に海水でベッタベタだ。レトンがしっかり換えを用意してくれていて助かる。

湯船でゆっくりしていると、レトンが声を掛けて来る。

くつろいでいる時に、声を掛けて来るのは珍しい。

「今日は早めに休むべきかと思います」

「うん。 舟幽霊の主観情報と客観情報だけレポートにアップデートしたら、すぐに休むよ」

「そうなさってください」

「しかしかあちゃん珍しいね。 昔一緒に風呂に入ってた頃以来かな」

レトンは少し黙った後。

心配なんですと応えてくる。

レトンの計算によると、あの船だと海難事故の可能性が捨てきれないという。ドローンの支援があれば、私を生還させる事は出来る自信もあるそうだが。船はその時には失うとも。

「昔の人間は、そもそも日中に漁をしていて、それでも海難事故の恐怖からは逃れられませんでした。 こんな天候不順の状態の海にわざわざ出かけて。 しかも敢えて危険を測るというのは。 正直私から言えば、反対する以外の言葉が出て来ません」

「でもかあちゃん。 今回私達みたいな物好きがデータを取れば、それで誰かが助かるかも知れないのも事実だよ」

「それも分かってはいますが……」

「大丈夫。 私はかあちゃんを信頼している」

勿論、私も身を守るための最大限の努力はする。

だけれども、私は恐怖を大喜びする難儀な性格だ。レトンも、それは分かっていて不安なのだろう。

親ガチャなんて言われた時代もあったが。

レトンはちゃんと、相応の距離を取って私を教育してくれた。

それには、今でも限りなく感謝している。

風呂から上がると、用意されていたパジャマの袖に手を通す。

そして、急いでレポートを仕上げた。

舟幽霊との遭遇だ。

鬼火との遭遇も中々に激しくエキサイティングな経験だったが。今回の舟幽霊も、実にダイナミックな経験だった。

これぞ民俗学のロマンそのものである。

理解されなくてもいい。

私は今、生きていると感じているし。それが全てだった。

 

朝、起きだしてレポート確認。

アクセスがそれなりにある。

というよりも、困惑の声が相当に上がっているのが確認できた。

何故、こんな荒行をしているのか。

民俗学の研究とは、命がけの作業だったのか。

これは昔の苦行僧か何かではないのか。

そういう声も上がっている。

舟幽霊出現前後の映像を複数種類アップデートしている。レトンの視界、私の視界。それに監視ドローン全ての視界。海流の情報。

それらを見て、恐怖の声が上がっていた。

海ってこんなに怖いものなのか。

昔の人間は、こんな小舟で海に出て、漁で生計を立てていたのか。

正気の沙汰じゃない。死ぬ前に止めろ。

見ているだけで怖い。

見ていて怖くなって途中で視聴を辞めた。

船がいきなり停止するところで、小便を漏らしかけた。

そういった声が多数上がっているので、私としてはむしろ困惑してしまった。

最近、私のレポートが有名になって、アクセスがかなりあるというのは聞いていたのだけれども。

それでも、これだけ大量のデータを一緒に添付していると。そっちの方に興味が行くらしい。

そして実物を見て、恐怖すると。

良いのではないかなと、私は思う。

レポートの調整をしていると、レトンが朝飯を持ってくる。

かつかつと食べる。

今までになく激しい運動をしているからか、ちょっと食欲が増えている。レトンも無言で、量を増やしているようだった。

「反応は極全うかと思います」

「今の人が軟弱すぎるだけじゃないのかな」

「いや、主だって支援がなければ死んでいます」

「そんな事は分かってる。 私が勇敢だとか、そういう事は言ってないよ」

私は自分が優れているなんて、これっぽっちも思っていない。むしろ色々歪んでいるとすら思っている。

だけれども、研究に対する情熱は誰にも負けない。

これは事実だ。

いずれにしても、怪異に対する恐怖を皆が思い出すのは良い事だと思う。特に海の怪異は、条件さえ整えればこうやって出てくるし。

場合によっては容易に人間も殺傷する。

現象であろうが何だろうが、それは事実だ。

それが分かるだけでも、充分過ぎるくらいだろう。

いずれにしても、私は充分に満足して、朝食を終える。食事をレトンが片付ける後ろ姿を見送って、そのままレポートに手を入れた。

他のレポートも確認する。

鬼火に関する研究について、色々コメントが入っていた。

検証実験をしている学者がいるらしい。

実際にデータを確認した所、何かしらの物質が空気中で短時間燃焼……それも低温でした可能性が高いそうだ。

内容については詳しくは見ない。

私が目撃した鬼火は二つだったが、そのどっちもが違ったように見えたし。それの解明は他の人間がやればいい。

私は実地で目撃して、怪異に遭遇するのが。そして怪異の実物について研究するのが目的。怪異を殺す事は別に目的ではない。

だから、他人の研究に口は出さない。

500年で、やっと人間はまともな知的生命体になれたのだと私は思っている。

だから、その500年での進歩。

他人のあらゆる事にいちいち口を出さず、上とも下とも見ないという事について。実践できているならそれでいいと思うし。

それ以上は望まない。

それだけの話だ。

レポートを終えると、天気予報を確認。

今日はもう雨が降り始めていて、夕方からの調査の時間帯には本降りだ。メールが来ていた。

村上さんからだった。

今日は止めた方が良いのでは、という内容だったが。

問題が無さそうなら実施すると即答して、そのまま捨て置く。

村上さんとしても、一番厳しい条件の海で、きちんと船が動く事を確認した方が良いだろう。

本人がびびりなのは仕方がない。

本来だったら、あの気は優しくて力持ち系統の大男の支援ロボットが、船を漕いで沖合に出ればいい。

だけれども、それすら怖いのだとすれば。

私のような酔狂者が代わりにやるだけ。

そして私としても、それで舟幽霊に会えるなら万々歳である。これ以上、ああだこうだと言葉を重ねる意味はない。

色々と準備をととのえていく。

雷がドンと落ちたのが分かった。

近年のインフラは、雷程度でどうにかなるような柔な代物ではないので、気にする必要もない。

というか余りにも激甚な災害になりそうな場合は、そもそも気象を強引に変更してしまう。

巨大な台風に発達しそうだった熱帯低気圧を、今までに十四回消し去っているらしいが。

細かい気象の調整は、それ以上にやっている筈だ。

私は気にしないで、作業を続ける。

もしも問題がある場合は、行政から行ってくるはずである。

500年前に、通称DQNの川流れと呼ばれる事件があったそうだが。あれは行政が強制的に問題を起こす人間を排除しなかったから発生した。

あれは行政よりも問題を起こす人間の方が露骨に悪い事件だった。

今では行政はがっつり人間の行動を全て確認した上で行動する。

もしも問題があれば、中止の連絡が来るはずだ。

私は伸びをしてあくびをすると、時間まで外を確認することにする。

派手に降っていて壮観だ。これは、夕方以降海に繰り出せば、舟幽霊が出る可能性も上がりそうだ。

ふふんと喜ぶ私を見て、一緒に外に雨を見に来たレトンが、いつものように呆れた。

「この危険を、理解した上で楽しんでおられますね」

「うん」

「理解出来ません。 恐怖はきちんと感じているのも此方で感知しています。 同時にそれを喜んでいる」

「ふふん、本来は恐怖は制御するものだからね。 これが本当に自然な形なんだよ」

レトンはまた呆れた。

だけれども、それでいいのだ。

これで海に出れば。

また舟幽霊が出るかも知れないし。もっと違う海の怪異だって出てくれるかも知れない。

海の怪異には、現象であるものもおおいが。明らかにUMAだろうものも珍しくはない。アカエイという怪異は全長が50mにも達する。実際のアカエイとは違う存在だが、いずれにしてもそういった巨大海棲生物の伝承は日本にもある。

勿論何かの見間違えとか、大きく見積もったのだろうとか色々あるだろうが。

実際の所、とても大きなエイはとんでもなく巨大に見えるものなのだ。

誤認したとしても、超大型のエイを目撃したのだとすれば。それはそれで、とても夢があるではないか。

夕方まで待ちきれないが。

とにかく待って、それから海に出る。

青ざめている村上さん。

先に、南雲さんから連絡が来ていた。

「柳野さん。 本当に今日も海に出るつもりですか?」

「問題があるなら役所が止めているはず。 大丈夫、何とかします。 最悪の場合も自己責任だですよ」

「いや、それにしても……」

「無理だと判断したらレトンが無理に引き返す。 だから、心配しないでください」

そう応じると。

私は淡々と、海に出向く。

いきなり船がぐわんぐわんと揺れているので、テンションが実に上がる。

どうも私は船酔いしない体質のようなので、全く平気である。

「かあちゃん、問題はなさそう?」

「現時点ではどうにか操船出来る範囲です。 ただし、あまり沖合には出ない方針でかまいませんか?」

「それでいいよ。 最初は私が漕いでみていい?」

「それは許可できません。 多分一瞬で海に投げ出されます」

そうか、それなら素直に言う事は聞いた方が良さそうだ。

素直に操船はレトンに任せる。

沿岸でこれだけ船が揺れるとなると、さぞや古い時代の漁師は勇気があったか、レトン並みに操船が上手かったか。

そうでない者は海に投げ出されて死んでいたのだろう。

或いは、この辺りを避けて、別の海域で漁をしていたのか。

どちらにしても漁は農業と同じ。

基本的には、育てるものだ。

これは古くから漁師が考えていたと聞く。

無法に彼方此方の海を好き放題に荒らすような漁師もいたらしいが。そういった連中は、海賊と同じだ。

海に出ると、更に揺れが激しくなった。

船の脇を浮いているドローンまで波が届いているのが見える。船も、明らかにm単位で上下していた。

波が生き物のようだ。

これは、海坊主とかと誤認してもおかしくは無いだろう。

ひょおと、声が出る。

その度に、激しく揺れて。舌を噛まないように気を付けなければならなかった。

レトンが全力で操船をしているのが見えるので、出来るだけ無駄口を叩かないようにする。

陸から100mも離れた頃には、既にかなり危険な波に振り回されていた船だが。500mほど沖合に出ると、更にそれは苛烈になった。

雷も激しく海に落ちている様子だ。

忙しく操船しているレトンの技術は、神域に見えるが。

あれは過去の操船のテクノロジーを全て取り込んだAIの技だ。過去の人間が編み出した技術は全て、レトンの中に生きている。

「口を閉じて、船に全力で捕まってください」

レトンの声が飛ぶ。

言われた通りにする。強烈な揺れで、危うく船から放り出される所だった。

派手に波を被る。

既に船に、かなり浸水している。柄杓で水をくみ出すが、文字通り焼け石に水も良い所である。

「今のは三角波?」

「はい。 発生を予想し回避しました」

「喰らったら転覆するもんね」

「主は生還させますが、それ以外の全てを失うかと思います」

さらっとレトンは言う。

それでいい。恐怖を適切に感じなければ、怪異だって現れない。

そして恐怖以上に歓喜が持ち上がってくる。これを過去の人は直接味わっていたのだと思うと。

迷信だ何だと安全な場所から笑い飛ばしている連中の、なんと滑稽な事かと思ってしまう。

さあ、舟幽霊よ、来い。

私を怖がらせてみろ。

そう思って、私は船にしがみつき。雨に激しく打たれながら、荒波に揉まれ。ぎりぎりまで、踏みとどまるのだった。

 

2、暗い海底から

 

連日船にシェイクされて。私は流石に手足がボロボロになるのを感じた。

その間、二回現象としての舟幽霊に遭遇した。

船が、がくんと止まったのだ。

これはレトンも、監視用のドローンも、どちらも予測できなかった。

レポートに記載がはかどる。

船を作った村上さんは、すっかり頬がこけている。連日私が嬉々として荒波に揉まれ、目に見えてレトンすらが窶れて戻って来ているのに。私だけつやつやしているのを見て、胃が痛いやら怖いやらで、散々のようである。

村上さんはそもそもロストテクノロジー化していた戦国期から江戸期までの船を再現している人で。

似たような事をしている人は他にもいる。

村上さんは、そういった意味ではそれほど凄い事をしているわけではない。ただ、きちんと海に浮かび。荒波に耐えられる船を作ってくれているのだから。胸を張っていいと思うのだが。

レポートを書き上げる。

アクセスは、鬼火の時より増えている程だった。

連日、命がけで海に出かけて、体を張って舟幽霊にあってくる。

そんな事をしている私に、皆恐怖しながらも注目しているらしい。まあ、それは別にどうでもいい。

そして舟幽霊と言えば、海面下の温度差で、そういった海流が出来る云々の学説が広く流布されていて。

長く信じられていたが。

今回膨大な客観的データが取れたことで、それがどうにも怪しいのでは無いか、という話も出始めている。

迷妄を科学的に見える更なる迷妄で上書きするのは、最悪の悪手だ。

勿論迷妄はいずれ科学できちんと打破できるのだろう。

そうやって再現実験の結果、解明できた怪異は存在している。

だが、一見それっぽい事を口にして、エセ科学で上書きするのは最悪の悪手だ。

科学的という説明で思考停止して、以降の検証などをしなくなってしまう。

ましてや、科学者が我田引水な実験をした挙げ句、解明した等と口にするのは最低の悪手である。

実際には現地で再現実験をしてみて、それで成功しなければ話にもならないだろう。

今私は。

フィールドワークで、とにかく徹底的に実データを収拾している。

それも、主観的データではなく、不正をしようがないAIと連携して。あらゆる角度から、である。

それを否定するには。

更なるデータが必要だ。

レポートを現時点の分まで書くと、私は伸びをする。

悪くない感触だ。

船酔いには強い体質らしく、私はのんびりしている。レトンは手の調整をしているようだった。

食事で取っている調整用ナノマシンでは足りないようで、修復用のパーツを取り入れている。

手首ごと変える事も、この仕事が終わった後に検討するらしい。

負荷を掛けているなあ。

そう思って、レトンにはちょっと悪いかなと思うけれども。

しかしながら、レトンはそれについては文句は言わない。

平然と無茶苦茶をやっている私に対しては正論は言うが。この検証で、実際に現象としての舟幽霊が出ているというのが大きいのだろう。

南雲さんから資料が送られてきた。

各地の舟幽霊についてだ。

舟幽霊は、かなり後世まで伝承が残っていて。現象としての舟幽霊は当然として、それ以外の舟幽霊。

幽霊話としての舟幽霊は、多数が残り。

20世紀でも普通に存在していたようだ。

海難事故が発生すると、その近辺の陸上にまで進出することがあったらしく。

よくある船の窓に手形が、とか。

水死した人間がタクシーに乗ってきた、とか。

そういった話は、多数あるのだそうだ。

タクシー幽霊は都市伝説の基本で、それに舟幽霊がミックスした形になるのだろうが。

悲惨極まりない事故が起きれば、それはそういった噂が経つのも納得出来るとはいうものである。

ただ、それらの話は残念ながら私の専門の外である。

南雲さんには、出来れば現象としての舟幽霊の情報を集めてほしいと思うのだが。

しかしながら、これらの伝承が舟幽霊と関与していないとは言い切れない。

故に共著という形で、レポートに載せていく事になる。

本来は数年がかりで行う検証実験とレポートになるのだが。

今はそれが、一月もあれば膨大な検証用のシステムを用いて出来てしまう。西暦で26世紀ともなって。

人類はそれだけに関しては、進歩していると言えた。

淡々とレポートを仕上げると、私はもう一度伸びをした。

今日も船に揺られてシャワーを浴びて、そして寝る前のひと作業だ。夕飯ももうとった。

その時にレトンの手がボロボロなのを見て、ちょっと罪悪感が湧いたが。

別にそれはそれ、これはこれだ。

「かあちゃん、今日はここまでにするよ」

「分かりました。 予定より少し早いですが、それでもいいのですか?」

「うん。 時間を開けるから、かあちゃん好きなようにしてよ」

「……了解です」

レトンはすぐに寝るための環境に調整してくれる。

この宿泊施設は、別の部屋に村上さんも泊まっている。彼女は実は私よりも少し年下である。

南雲さんといい、人の見かけと年齢は全く一致しないのが今だ。

南雲さんより四つも年下だとは、とても思えないが。

見かけで全てを判断する人間という悪癖が。

やっと26世紀になって克服されようとしているのだから。それを喜ぶべきなのだと私は思う。

眠る。

夢を見た。

船で、沖合に出る。様々な怪異が、船の横を通り過ぎていく。

レトンはいない。

夢にレトンが出てくる事は、滅多にない。

これはどうしてなのか分からない。夢は記憶の整理だと言う事は分かっているのだけれども。

舟幽霊も当然出る。

船ががくんと止まると、たくさんの手が海上から伸びてくる。薄く透き通っていて、とても長い。

柄杓をよこせ。

そう言ってくるので、伝承通り底が抜けた柄杓を渡す。

そうすると、必死に舟幽霊はそれで水を汲もうとする。どの手も、底が抜けた柄杓を手にしている。

それが一生懸命海水を汲もうとしているが。

どうにもならない。

やがて疲れ果てて、舟幽霊が去って行く。それを見ていると、側に来たのは、巨大なぬっとした影だった。

海坊主だった。

海の怪異としては、恐らくもっとも著名なものだろう。

「無情なことをするのう」

「おお、海坊主さんですね」

「そうだが……」

「柳野千里といいます。 お見知りおきを」

知っていると言われた。

これは、山ン本さんに聞いたのかも知れない。海坊主は見上げるほどのぬっとした塊で、何となく坊主の頭のようにも見えなくはない。

だがそれ以上でも以下でもなかった。

「舟幽霊が嘆いておったぞ。 何をやっても怖れる様子がないと」

「いいや、怖れていますよ。 それ以上に、あまりにも嬉しいだけです」

「いや、お前さんは海そのものを恐れてはいるが、舟幽霊に会ってむしろ喜んでいるだろう」

「うーん、ちょっと違うんですよねえ」

海坊主が、何が違うと聞いてくる。

若干苛立っているのが分かる。

海坊主は、よく分からない怪異だ。

というよりも、坊主や入道という怪異は何処にでもいる。それだけ古くから日本とともにあった仏教は、様々な腐敗とともにあり。

仏教徒が多かったこの国の民でも、影口を叩きたくなるほど、腐敗坊主が多かったという事だろう。

勿論真面目な学僧だっていただろうが。

実際に死後生臭坊主が妖怪化したという設定の怪異は、なんぼでもいるのだ。

側を、女性の頭のようなのが泳いで行く。

波間に残る泳ぎの痕からして、巨大な蛇のような姿をしている。

あれは磯女か、或いは濡れ女だろう。

海の怪異は危険度が高く、襲われるとまず助からない。

それは、海がそれだけ昔は危険で。

海にはたくさん危険な怪異が住んでいると人々が考えたからだ。

血の気が抜けてしまった水死体は、昔の人はたくさん見たのだろう。

だから、吸血をする妖怪がたくさん昔はいると考えられた。あの濡れ女か磯女だかも、そうだ。

「あれだけ危険な怪異を見ても、そなたはむしろ嬉しそうだ。 そなたを怖れさせる事はどうにかして出来ぬものか」

「怖れてるんだけどなあ」

「いーや、こうなったら意地でも怖れさせてみせる」

「ひょお!」

思わず身を乗り出す。

それを見て、海坊主がむしろ引いた。

「ど、どうやって! まさか伝説の怪異である貴方が、至近に出て来てくださるんですか!?」

「い、いやそのだな」

「楽しみにしてますっ!」

「ああ、そうだな……」

遠い目をする海坊主。

目が覚める。

私はよだれを拭う。相変わらず、夢の内容は覚えていなかった。だが、とても幸せな気分だった。

歯を磨いて顔を洗う。

随分とすっきりした。

また荒海に出る準備をする。それには、しっかり栄養を取っておかなければならないだろう。

今日は、昨日に比べるとだいぶ風雨も落ち着くようだが。

それでも波浪注意報が出ている。

ならば期待できそうだ。

私は、レトンが運んできた朝飯を、がつがつと食べる。みるとレトンも、いつもより食べている。

体内調整用のナノマシンを大量に摂取する必要があるのだろう。

まあ、分からないでもない。

「んー、おいしいね」

「今日は昨日ほど海は荒れないようです」

「うん。 でも、色々な条件で舟幽霊との遭遇をデータとして取りたい。 だからいっそ凪の海でもかまわないよ」

「それなら、次に海に出るときは荒れない海を選びませんか」

レトンが呆れ気味に言う。

今の時点では、考えておくと応えて。

綺麗に朝飯を平らげる。

外に出る。

この辺りは、天候も荒れ気味で。海もかなり荒れる。それを理解しているから、外で雨が降っていても、なんとも思わない。

村上さんが、裏手のドッグで、早くから作業をしていた。

かなり大きな音がするらしく、遮音フィールドを張って船を調整している様子だ。私が外に出たことを、あの大男の支援ロボットに言われたのだろう。無線で連絡を入れてくる。

「柳野先生、今日は夕方からの調査だと思いましたが」

「はい。 気分転換に外に出て来ただけです。 レポートは順調ですので、問題ありません」

「分かりました。 此方では予定時間には動くように船を調整しておきます」

「よろしくお願いします」

少し悩んだ後。

村上さんは言う。

金時を貸そうか、と。

金時とは、あの大男の支援ロボットだ。言う間でもなく、もとのネタは金太郎だろう。

型番でそのまま呼んでいる私と違って、支援ロボットにも名前をつける者はいる。それは南雲さんも同じらしい。

南雲さんは結構欲望が強いそうで、擬似的な逆ハーレムを構築した上で、支援ロボットにも名前をつけているらしい。

それで、この個人的な栄達が難しい世界で。強い欲求を抑え込んでいるのだとか。

何というか、昔だったらすごく野心的な生き方をしていた人なのだろうなと思う。

いずれにしても、支援ロボットへの接し方は人それぞれだ。

私は少し悩んで、それでレトンに聞いてみる。

「どうする? ドローンの支援もあるけれど、専門家に船に乗って貰う?」

「今リンクして情報を共有しています。 ……金時と言う名の村上博士の支援ロボットのスペックは私とあまり変わりません。 そもそも現在利用している船は一人で操船する事を基本としており、二人船頭は必要ないかと思われます。 それよりも、精神的に不安定になる村上博士の側にいてあげたほうがよいでしょう」

「なるほどね。 分かった」

あの支援ロボットは、あからさまに村上さんの伴侶役だ。

勿論面と向かって聞く事はないが、セクサロイドの機能も持っていても不思議ではない。

だから、ある程度言葉を選んで丁重に断る。

失礼があってはならない。

共同研究者だからだ。

「分かりました。 それでは今日も、柳野博士とレトンさんで海に出ると言う事で理解しました」

「時間通りに仕上がれば何の問題もありません。 それではよろしくお願いします」

「はい、此方こそ」

船には基本的に改良は加えられていない。

というか、そもそも木という材料を使い、漁民が扱える範囲内では、最高の船と言ってもいい。

勿論後の時代に出て来た、プラスチックやFRPで作られた船の方が性能は数段上だけれども。

戦国や江戸期の人間はこれで海に出ていて。

それで充分に生活出来ていた。

そして性能に限界が非常に見えやすいが故に。

怪異にも遭遇しやすかったのだ。

私に取っては理想的な船だとも言える。

そのまま、気分転換に海岸部にまで出る。普段はこの近くにある港から海に出るのだが。海が荒れるため、一qも沖合に出られない。

それはそれで少し寂しい話だ。

早い時間帯から沖に出て、霧にでも遭遇できれば最高なのだが。

舟幽霊が出る時間帯は、どうしても夕方から夜が多い。

そういった時間帯は漁もはかどる。

当然海に落ちればまず助からない。

昔の漁師は、危険を承知で海に出たのだろう。命を落とす者も多かったはずだ。そして、必死に漁をした。

漁村が豊かだったという話はあまり聞かない。

上半身裸の女性が、地引き網に参加したりと。とにかく非常に粗野だった印象の方が強い。

村ぐるみで海賊をしている村や。

船を灯火で誘き寄せて、ノコノコやってきた船を襲って皆殺しにするのを専門にしていた盗賊村。

それに、落ち武者を騙して殺戮したような村とか。

昔の村は、血なまぐさい伝承に満ちあふれている。

だがそれはそれだ。

歩いて、史跡を見て回る。

この辺りは荒々しい海に相応しく、かなり後まで荒々しい風習が残っていた様子だ。物騒な逸話も幾つもある。

だが、それらも明治期になると急速に落ち着いていき。昭和になった頃には殆どなくなったそうだ。

今はただ、完全に人間がいなくなった村と。

生態系が完全に回復した海。

そして荒れ狂う波と風。

それだけが此処にある。

手をかざして、波を見守る。彼処に出ると思うと、恐怖と同時にぞくぞくと歓喜がわき上がってくる。

それでいい。私は、怪異が大好きだ。

恐怖がなければ、怪異と会う事も出来ない。

そして恐怖がなければ、危険をそうだとも認識出来ない。

怪異が好きという感情と同時に。

危険を察知する恐怖がなければバランスも取れないし。

怪異だって出てこないだろう。

現象としての舟幽霊は大好きだが。

それはそれとして、柄杓を持って海から出てくる舟幽霊だって会ってみたいのである。

そんなものは迷信だと言うものもいるだろうが。

或いは主観的には出てくるかも知れない。

それならば、それを実際に観測したい。

それだけだ。私の望みは。

「風に吹かれていると風邪を引きます。 そろそろ戻りましょう」

「ん。 かあちゃん。 手の方は大丈夫?」

「負担は大きいですが、まだまだ大丈夫です。 最悪の場合は、換えのパーツを申請済みなので、それを取り寄せます」

「迷惑掛ける」

本当ですと、レトンが真正直に応えるので。

私はちょっと恐縮してしまった。

宿泊施設に戻る。この辺りは水軍と呼ばれる武装海上組織が戦国期にいて、それの伝承について伝えている。

水軍は海賊とかなり違っていて、性質は海上を縄張りにした武装勢力であり。多少大名などの陸上の武装勢力とは性質が違っていたが。欧州の海賊のような残虐非道な集団ではなく。

多少荒々しいものの、武装勢力以上でも以下でもなかった。

これはこれとして海賊も別におり。

いわゆる倭寇となって、大陸の沿岸部を荒らすことになるのだが。

それはまた別の話だ。

荒々しい伝承について、映像で流れている。まだ幼い子供に見える人が、同伴の親に見える支援ロボットと一緒にそれを見ている。邪魔をしては悪いなと思って。私は自室に戻った。

レポートは仕上げてあるので、夜に向けて少し昼寝をするとする。

その方が、レトンも調整をする時間が取れるだろう。

昼寝をすると告げると、レトンは頷いて一時間後に起こしてくれると言う。

その後に、昼食も作ってくれるそうだ。

今日もどうせ調査は過酷になる。

今のうちに、出来るだけレトンにも休んで貰った方が良いだろう。

私は自室で昼寝をすることにして。

そのまま、あくび混じりでベッドに飛び込むのだった。

 

3、荒れ狂う波の中で

 

今日はまた激しいな。

そう思いながら、波に揺られる。揺られるというような表現は生やさしいか。

昔、元寇で攻めてきた元の人間が証言を史書に残しているが。波、山の如しだそうである。

流石に山とまではいかないが。

波が来る度に、それこそ船が坂を滑り降りたり。一気に持ち上げられたりするようにして上下する。

レトンが神がかった操船で必死に転覆を避けているが。

これはこの地方の漁師は大変だっただろうな。

そう、私は思いながら、必死に船にしがみつく。専門の手袋でしがみついているが。今日もぐしょ濡れだ。

「! 来ます!」

「よし来たっ!」

私は船に貼り付く。同時に、ガンと凄い衝撃が来る。

船が一瞬停止して、かなり傾いていた。

ドローンが体当たりして、船の転覆を食い止める。レトンもそれに連携して跳躍。踏みつけるようにして、船の態勢を無理矢理立て直していた。

舟幽霊だ。

確かにこれは船乗りも怖れる。

こんなのに遭遇したら、もし生き残っても舟幽霊が出たと周囲に喧伝して。それが恐怖とともに伝わっただろう。

船が無理矢理態勢を立て直すと同時に、激しい揺れで私は何度もシェイクされた。

ひょおっと声が漏れる。

歓喜9割。

だが1割はしっかり恐怖を感じている。

ドローンに向けて叫ぶ。

「データ取れてる?」

「問題ありません」

「よしっ!」

「出来るだけ喋らないでください」

レトンが必死に操船して、波間をかいくぐる。

至近で、波が砕けて炸裂し。波濤の中で水しぶきが盛大にぶちまけられる。本当に木の葉が翻弄されているようだな。

そう思って、私はぞくぞくして大喜び。

それを見て、村上さんが通信を入れてくる。

「沖に出すぎです、戻ってください!」

「どうやらその方が良さそうです。 行政の調査許可範囲が狭まりました」

「あー、そんなに天候が荒れてるのか」

「いったん海岸に寄せます」

レトンが素早く櫂を漕いで、船を動かす。波は凄まじい勢いでぶつかりあっていて、彼方此方で三角波が出来ている。

それだけじゃあない。

海に生じているのは、あれは渦か。

あんなものまで出来る程、海が荒れているというのは、流石に凄いなあ。

私は感心して、見えるもの、聞こえるもの、全てを記憶に焼き付けるべく最大の努力をする。

何度も感心して隙が出来、激しい揺動で手を船から離しそうになる。

波しぶきが炸裂して、船の中に海水が大量に入ってくる。その度に、必死に私は柄杓で海水を捨てた。

船が、持ち上がる。

空に投げ出されるかのようだ。

どうやらレトンは、三角波を避けるのは不可能と判断。

そのまま、船が三角波を避けた結果、これだけ激しく持ち上げられたらしい。

転覆を避けるように、上手にレトンが波を滑り降りる。

自然のジェットコースターだな。

そう思いながら、強烈な滑り降りを経験する。

至近の海は真っ黒。

常時激しい波濤が牙を剥いている。これは放って置いたら転覆するな。そう考えると、昂奮して小便が漏れそうだった。

「主!」

激しく揺れる。

勿論、即座に船に捕まる。

大丈夫、放り出されるようなへまはしない。

人工筋肉と救命胴衣もある。仮に放り出されても、死ぬような事はない。

ただ連日、シャツはスッケスケである。

これだけの激しい海水を浴び続ければ、まあそうなる。

別に見られて困るような相手もいないし、どうでもいいが。これは何となく。昔の漁村の女性が、上半身裸だったのも分かるような気がした。

今のは、舟幽霊ではなかったな。

そう思って、海水をせっせと船から捨てる。

海岸が見えてきた。村上さんが手を大慌てで振っている。早く戻って。そう言っているのだろう。

正直村上さんの方は、心配しないで見ていればいいのだと思うのだけれども。

いずれにしても、これは確かに調査どころでは無いなあ。

そう苦笑しているとき。

私は、波間に何か見た。

あれは、波か。

それにしては、何か巨大な人の頭のような。

それも、一瞬だけ。

レトンに、ああだこうだいう暇もなかった。

時計だけ見て、今の時間だけ覚えておく。

主観データは、後で確認することが出来る。今見えたのは、何だか分からないが、ひょっとして。

伝説の海坊主か。

だとしたら、実に興味深い。素晴らしいではないか。

波が収まってくる。レトンが、操船を続けて、ぐいぐいと船を港へと運んでいく。このパワー。

どれだけ屈強な戦国の武人や船乗りが束になってもかないっこないだろう。

ロボットなのだから当然だ。

私よりレトンは頭一つ小さいが、体内に詰まっているのは人工筋肉で、そのパワーは象を凌ぐ。

これだけの馬力が出るのも、当然である。

接舷。

私も流石にくたびれた。

すぐに船から下りる。船が、フォークリフトっぽい機械で運ばれて行く。村上さんが気絶しそうになっている。

むしろ私はつやつやだったが。

「ふう、今日も最高の調査でした! 良い船を有難うございます!」

「み、見ているだけで心臓が飛び出しそうです」

「そうだ、一緒に乗り心地を堪能しませんか?」

「無理です! 死にます!」

半泣きの村上さん。

情けないなあ。

今の時代は、名字も名も自分でつける。だから、この人の名字がかの有名な水軍と同じなのは偶然だ。多分だが、血縁もないだろう。天文学的な確率であるかも知れないが。

いずれにしても、この人は船を大まじめに復元することは出来たが。それに乗る事は出来なさそうである。

エンリケ航海王子のようだなと、私は思った。

大航海時代を支えた立役者の一人である大スポンサーだが、船酔いが酷くて本人は船に全く乗れなかったという逸話の持ち主である。

まあ流石に村上さんはエンリケに比べると小粒だが、それはまあ仕方がない。

ともかく、ぐったりしている村上さんは金時が連れて行く。

私はそのまま自室に戻りながら、レトンに確認する。

「大丈夫、手とか他にも体の方は」

「ナノマシンを大量に消耗しました。 後三十分もあの海の中にいたら緊急用に貯蓄しているナノマシンを使用しなければいけなかったでしょう」

「おっと、それはごめん」

「別にかまいません。 ただ、実地での再現実験のために、これだけ命を張る理由がよく分かりません。 私だけが乗るのでも別にかまわないのですが」

それでは意味がないと、私が言うと。

レトンは目に見えて呆れる。

ともかく、レトンは現時点では問題ないと言うので、そのまま急いで雨の中、宿泊施設に。

私は海水を散々浴びて、更に雨の中で。ぐっしょぐしょ。宿泊施設の入口で服を絞って、水を少しだけでも落とす。

レトンが、何か操作して。

服を透けないように調整した。

流石にこのままだと猥褻物陳列になるからだろう。宿舎にはいろんな人が泊まっていて。私の裸に近い格好なんぞ見たくない人だっている可能性が高いのだ。私の方でも配慮はいる。

そのまま自室に。

私はシャワーに直行。レトンは錠剤になっているナノマシンを、そのまま飲み下していた。

シャワーを浴びながら、あれは相当に切羽詰まっていたんだなと感じて、本気で罪悪感を感じた。

レトンがああやってナノマシンを直に嚥下しているのは、殆ど見た事がない。

体内に保存している緊急用のナノマシンは、基本的に本当に最後の最後の手段だと聞いている。

レトンは普通に過ごしている分にはナノマシンをほぼ消耗しないし。

そもそもナノマシンも、使用後は分解されて有機物になり。そのまま下水で分解される仕組みだ。

レトンが普通にトイレを使うのも、この消費後のナノマシンを排泄するため。

だが、普段はそこまでは消耗しないのである。

ベッタベタになっていた体を洗うと、パジャマを着込んでドライヤーで頭を乾かす。多少は化粧云々と言うレトンだが、今日は流石に何も言わない。ドライヤーで髪の毛を手入れ終えると、後はレポートだ。

そろそろ良いだろうと思って、話をする。

「海坊主、見たかも知れない」

「主観データを検索。 なるほど、確かに客観データには無いものが見えていますね」

「うん。 ああいうときに、見えるものなのかもね」

「今回の研究は、現象として発生する舟幽霊を確認するのには大いに意味があると思いますが、海坊主の方は茶番かと思います」

手厳しい。

だが、それでいい。

レトンはいつもの調子であってほしい。

私はむしろ満足して、うんうんと頷き。

レトンはそれを見てますます呆れた。

「それで、どうするのですか」

「後一週間か。 結構な回数、舟幽霊に遭遇したね」

「明日は出来るだけ海に出ないようにと役所から通達が来ています。 海に出られる範囲は、あの港から半径三百メートルです」

「たったそれだけか。 それだけ激しく海が荒れるってことだね」

夕食をてきぱきとレトンが用意する。

ただ、動きがいつもより鈍い気がする。

手も足も、体中彼方此方にダメージが見えるし。何よりメイド服も彼方此方傷ついている。

こんなにボロボロのレトンは、いつぶりか。

前に崖際の調査で私が滑落しかけた時も、多少泥まみれになったが、それくらいである。

かなり無理をさせている。

それは、自省しなければならないだろう。

「分かった、その範囲で調査しよう」

「あまり意味があるとは思えません」

「どこで舟幽霊が出るかは分からないからね。 何しろ、まだまだデータがほしいんだから」

「分かりました。 村上博士には、私が通達しておきます」

村上さんが倒れそうだなと思ったが。

そっちには別に罪悪感は感じない。

というのも、自分の作った船だ。それであんなに人が乗るのを怖がっていたら、それこそやっていけないだろう。

経験を積む為には必要だ。

実際には、本人が乗るべきだと思うが。

あの心臓の小ささでは厳しいか。

ともかく、主観データで海坊主に遭遇した事は記録しておく。ただ、レポートに書くのはまだ後だ。

雑多な記録に残しておく。

何となくで、主観的なデータを取ってあるケースは他にもある。私はなんだかんだで。結構怪異には遭遇しているのである。

夕食も終えて。

レトンが早めに休むようにと念押ししたので、そうする。

レポートをざっとまとめると、それだけで私も力尽きたのだろう。

布団にくるまると、すぐに眠気が来た。

そして、朝まで目が覚めなかった。

目が覚めると、夢は多分見ていないなとも判断する。

夢の内容は全く覚えていないが、見た場合はそうだと何となく分かるのである。いずれにしても、朝日は差し込んでいる。

どうせすぐに曇って大雨だろうが。

多分、今日が最も激しい海に出る事になるだろうな。

そう、私は思っていた。

 

案の定。

昼近くから荒れ始めた海は、私が三時に港に出たころには、凄まじい有様になっていた。

この港に停泊しているホバー船も、皆上空に退避している程である。上空で防御用の空気シールドを展開して、それで風雨を凌いでいるのだ。

海上にそのままいたら、散々波を喰らって、最悪転覆する。

判断としては間違っていないだろう。

船を降ろす。

もう海岸で、波が炸裂している。

消波ブロックにぶつかって多少は緩和されている筈だが、それでも波しぶきが凄まじい勢いで飛んでくる。

わーお。

私がそんな風に声を上げると、村上さんがもはや恐怖混じりで私を見るのだった。大人っぽくて、優しそうな人なのだけど。その素敵さが歪む様子は。

なんだろ。

ちょっと見ていて、舌なめずりしたくなる。

ともかく、変な趣味が目覚める前に、さっさと仕事だ。

海に私は手慣れて降りる。どんだけ船が揺れていても沿岸だ。これくらいだったら、もう慣れっこ。

レトンが乗り込むと、ぐっと櫂を漕いで海に出る。

先に告げてある。

無理と判断したら、レトンの判断で戻って良いと。

私はどうせ、柄杓で多少入ってくる海水を戻すくらいしかできない。だったら、実際に操船しているレトンが判断して良い。

レトンは分かった、と応えた。

この辺りの海は、昔からかなり荒れやすいのだけれども。

それにしても、この一月はあまりにも凄まじいのだとか。

統計的に見て、これほど荒れているのは80年ぶりだとかで。海岸の一部では、資格をたくさん持ったサーファーが屯しているという。

つまりこの海に、直に入ると言う事だ。

正直私よりいかれているような気がするが。別にそれは資格を取った上で、役所の許可を得てやっている事である。

私には関係がない。

海に進み出ると、早速船が持ち上げられ、海上に叩き付けられる。

ジェットコースターも吃驚の激しさである。私は盛り上がって来たなあと思いながら、油断しないように船にしっかり捕まる。

レトンは凄まじい櫂捌きで波をいなしているが、周囲のドローンの情報から波の動きを見て、秒間数万の判断をしつつ櫂を動かしている。

勘だけで動かしていた昔の船乗りとは其処が違う。

更に、古今の様々な操船技術も取り込んでいる。

それに加えて、レトンの象をも凌ぐ身体能力が加わるのである。

鬼に金棒どころか。

鬼が巨大化して世界を焼き尽くす雷霆を手にした、は流石に言いすぎか。

いずれにしても、凄まじい波だ。

「村上博士が気を失ったようです」

「また!? 随分早いな」

「ここのところ心労が続いていましたので」

「船造りやめないといいけど」

村上博士も、決めたことなのだから。最後までしっかりやり遂げようという意思を持ってほしいものだ。

いずれにしても、激しい波の中を、レトンが櫂を振るい。

あらゆる海流も利用して、海を行く。

何かが泳いで行くのが見える。こんな荒海の中でも、すごいものだなあ。そう感心する。

「かあちゃん、あれ……」

「リュウグウノツカイです」

「おお、あれが……」

「あの個体は全長五メートル半という所ですね。 最大で十メートルになるので、まだ小さい方です」

深海魚は環境が近い港にはかなり姿を見せると聞いているが。

リュウグウノツカイもいるのか。

そういえば、一時期地震の前にリュウグウノツカイが打ち上げられるという都市伝説が流行ったが。

あれは単に港やその近くに住んでいた個体が、何かしらの理由で死んで打ち上げられただけではないかと思う。

ともかく、指定の限界地点まで行く。

そこでしばらく漂う。

ごっと、風が吹いてきた。風はある程度以上まで行くと、人間を吹き飛ばしてしまうほどになる。

空気の流れが風なのだが。

空気というのは、結構力があるのだと、それで分かる。

私も資格取るときに、暴風の恐ろしさを体感すべく訓練を受けたことがあるが。その時並みだ。

台風でも来ているのかと疑いたくなる程の凄まじい風である。

思わず吹き飛ばされそうになるが、必死に船に捕まる。それで、何とか尻餅をつく程度で済む。

手袋していなかったら、指の皮がズル剥けていた可能性が高い。

人工筋肉も、AIの支援でフルに私を助けてくれている。だから、レトンの手を患わせないで済む。

「これ以上は進めません」

「うん、分かってる」

「戻りますか」

「可能な限り、この辺りで調査する!」

この風の中だ。

レトンが聞き取れるのは分かっていても、どうしても大声が出てしまう。私は船にしがみつきながら、必死に凄まじい嵐の海を見る。

海の底が見えないこの真っ暗さ。

文字通り、深淵の上に浮いているようだ。

これは怖い人は耐えられないだろう。

海洋恐怖症というのがあると聞いているが。

気持ちはわかる。

ただし、私が怖いと思うかは話が別だ。むしろ、これを怖れる人がいただろうなと思って。わくわくしてしまう。

怪異が此処から現れるような底知れなさが。

私をむしろ昂奮させる。

舌なめずりする私。彼方此方から襲いかかってくる波を、レトンが上手にいなしていくのが分かる。

そして、来る。

「来ます!」

「分かった!」

ぐっと船に捕まるが。

体が浮くのが分かった。

投げ出され掛けた。

手袋と、人工筋肉の支援で、どうにか船に捕まる。船が傾くが、レトンが無理矢理立て直す。

その手際が凄まじく、アニメでも見ているかのようだった。

跳躍して、ロケットブースターつきで船を踏みつけて、ひっくり返り掛けたのを無理矢理立て直したのである。

その分衝撃も凄まじく、私は船に叩き付けられた。浸水していた海水が多少クッションになったが、痛い。

だが、これは必要経費の痛みだ。

存分に満足。

「舟幽霊、サービス満点っ!」

「主、そろそろ船にダメージが来ています。 引き上げましょう」

「おっと、船がもたない?」

「何度か無理に立て直しています。 次の船を使うようです」

なるほど、そうか。

確かに本来だったら転覆する状況で、無理矢理立て直し続けているのだ。それは船に無理も出るだろう。

船がもたないなら仕方がない。

私は別に良いけれど、船が壊れてしまったらレトンだって今の比ではない負荷を受けるだろう。

レトンがボロボロになっているのを見ると、ちょっと私としてはそれは看過できなかった。

船がスムーズに沿岸に近付いていく。

また、ぐわっと持ち上げられる。強烈な波が来ているということである。その波さえ利用して、レトンがどんどん船を沿岸に向けていく。

波が砕けるのが見えた。

文字通りの意味だ。

何かしらの理由で、波が崩壊したのだろう。おおと、声が上がってしまう。自然の神秘である。

これだけ激しく風雨が乱れる海でならば。

これくらい、激しく波も弄ばれるというわけだ。

最高だな。

そう私は思う。

恐怖と昂奮のミックスが、最高潮に達している。もしも、昔の人が此処にいたら、怪異をたくさん見ていただろう。

それは恥ずかしい事でも、文明が遅れているからでもない。

現在の人間が近付かなくなった場所に、古くは人が行かなければならなかったからである。

それが、体で分かる。

故に火照る。

これほど楽しい事があるだろうか。

これなら怪異がでてもおかしくない。それが、肌で分かる程なのだから。

勿論大半の人間は、顔を歪めて船にしがみつくのが精一杯だろう。最悪次の瞬間には転覆するのだから。

私が異常なのは理解している。

だけれども、異常だからこそ。

この経験を楽しむ事が出来る。

そして、怪異と向き合うことも出来るのだ。

接舷間近。

一際大きな波が来る。消波ブロックで、激しく砕けて波が噴き上がるのが見えた。

数メートルは、船が持ち上げられたかも知れない。レトンは、捕まるようにと叫んだ。ドローンが支援して、船を引っ張り上げるのが分かった。

これは、多分陸に数メートルの波が叩き付けられまくっているのだろうな。

そう判断して、衝撃に備える。

だが、衝撃は来なかった。

港に上陸したあと、ゆっくりドローンが原理は分からないが、船にホバーの能力を付与したらしい。

或いはいわゆる牽引をドローンから空中で行っているのかも知れないが。

私は、専門外なので分からない。

船が静止して、そしてゆっくり港の奥まで運ばれる。そうしないと、波でさらわれる可能性があると判断したのだろう。

それに、船も壊れる寸前だ。

激しい風雨の中、ひょいと顔を出す。

流石にこの大荒れの海だと、歴史の中で使われてきただろうこの船も、もたないというのは仕方がない。

かなりの数のドローンが来ていて、打ち上げられた魚や他の生物を、せっせと海に戻している様子だ。

行政も全力で対応しているとみて良い。

これは、舟幽霊の調査どころではないという感じだ。

確かに此処まで海が荒れるのは、滅多にないだろう。

レトンが、手を確認しているのが見えた。全身の人工筋肉もフル活用して、操船していたのは確実だが。やはり手に一番ダメージが来ていたのだろう。でも、レトンは私がきちんと指示に沿って動いていたこともある。

普段のように、鋭い舌剣で刺すこともなかった。

だがやはり罪悪感もある。

高揚感と色々な感情が混ざり合って。非常に複雑な気分だった。

さっき以上の波が砕けているのが見えた。

確かにこれは、避難しないとレトンの操船技術でも転覆は避けられなかっただろう。そうなると、他のドローンも私を救援するのに必死になった筈。下手をすると、レトンの体は一度ロストするのを覚悟しなければならなかったかも知れない。

レトンの判断は妥当だった。

こういった判断力は。既にAIの方が、人間を上回るようになって久しい。

村上さんは。

そう思って周囲を見回すが。

レトンが先に言う。

「村上博士は貧血を起こして、今手当てを受けています」

「線が細いなあ」

「いや、主が色々とおかしいだけです」

「それは自覚してる」

医療用の支援ロボットが来る。こういう実用最優先のロボットは、基本的に人型をしていない。

監視用などのドローンと同じだ。

一時期は昆虫型ロボットが普及することに嫌悪感を覚えた人間がかなり多かったようだが。

今では昆虫型どころか、完全に人間と違う形状のロボットが多数世界に出回っていて。

それらのロボットは、皆受け入れられている。

この医療用のロボットもそれは同じ。

蜘蛛型である。

蜘蛛型は非常に姿勢安定がしやすい事もあって、更にロボットアームを展開する事によって、あらゆる状況に対応できるだけではない。二足歩行にリソースを割くこともないため、あらゆる医療活動を迅速に行える。

ささっと私の状況を確認するロボット。

雨の中だが、センサとかが鈍っている様子もない。

「外傷など複数ありますが、すぐにシャワーを浴びて、殺菌すれば問題はないでしょう」

「ありがとうございます」

「すぐに宿泊所に戻って処置をしてください」

「了解しました」

そのまま引き上げる。

流石に私も、この海を見ると、これ以上調査しようと思わない。

これでは怪異も出ないだろうし。

レトンが心配だ。私の体の無事なんて、懸念する最後の事項である。

宿泊施設に戻ると、レトンがナノマシンの錠剤を入れる。かなりきつい状況で働かせているな。

そう思って、やはり罪悪感が膨らむ。

早めにシャワー浴びて、風呂に入って。負担を少しでも減らしてあげないとな。そう思った。

 

風呂から出る。とにかく体中海水でベタベタだったが、それも何とかすっきりした。レトンは右手首を外して、交換していた。普段は人と見分けがつかないから、そういう行動を取られると、ちょっと驚かされる。

「それ、負担が限界だった?」

「ダメージが集中するように途中から処理を変えました。 下手をすると、体中にダメージが飛び火する可能性があったのです」

「それは、ごめん」

「かまいません。 行政の指示通りの範囲内で主は動きました。 それであれば、内容が如何であろうと、主の目的をかなえるのが私達支援ロボットの仕事です」

レトンも、こういう正論をこう言うときもきっちり言う。

だからこそ、信頼出来るとも言えた。

夕食はデリバリーで頼もうかと提案するが、レトンは作ると言ったので任せる。

なお、金の心配はいらない。

昔だったら、上役とか、研究のスポンサーとかパトロンから散々絞られただろう案件だが。

今の時代は、そういうのは気にしなくてもいい。

それに荒海の中での人を守りながらの操船なんて、実データは中々取れない。

むしろ、AIで動いている政府は全て万々歳と考えているかも知れない。

AIの思考回路は、正直私にも理解出来ない事がある。

だから、それで別にかまわない。

夕食は嫌みな程美味しかったが、これは体が栄養を大量に求めているのが理由なのだろう。

レトンも心なしか、普段より食事が早いように見える。

多分だけれども。

体に来ているダメージが、それだけ洒落にならなかった、と言う事だろう。

綺麗に夕食を食べ終えると。

レトンが話をしてくれる。

今日が悪天候のピークであり。明日以降は、かなり天候が落ち着くという。

そうなると、舟幽霊が出るのも今日がラストかも知れないな。そう思うと、ちょっと残念である。

ただし、あくまで落ち着くのは今日に比べて、であり。

海に出るのが危険な事には、あまり変わらないそうだ。

しばらくは、サーファーも波を求めて近くの海岸に来るそうで。

行政もまだまだ忙しそうだという話である。

「私達はもうすぐ引き上げるし、行政の負担はちょっとは減るかもね」

「そうですね。 それにしても、これだけの目にあっても、まだ海に出るつもりなのですね」

「うん、それはそう」

「好きにしてください」

レトンが呆れているが、いつものことだ。

大きな負担ばかり掛けて済まないなとも思うし、同時にどんなに狂気じみたフィールドワークにもしっかりつきあってくれるのは本当に有り難い。

レポートに今日のデータをコピペすると、もう休む事にする。

レトンに、これ以上無理な負担を掛けたくないと思う事もあったし。

何より、私でも疲れきっているのは、認めざるをえなかった。

 

夢を見る。

いつものじゃないな、と私は感じた。

普段は妖怪が出てくる楽しい夢だが。

今日のは純粋な悪夢だ。

無理をし続けた結果、レトンが私の身代わりになって体を失う。手を伸ばして悲鳴を上げる私。

落石に巻き込まれて、グシャグシャになるレトン。

それでも、そもそも毎日外部バックアップを取っている頭脳部分からサルベージして。復旧したレトンは文句一つ言わない。

それが。

ひたすらに辛い。

だけれども、私は一時期は落ち込んでも、すぐに次の研究に取りかかる。それにレトンは抗議一つしない。

それがレトンらしいというか、AIらしくもあり。

人間的ではない所でもあった。

私は自分自身が嫌いになりそうだと思うが。

同時に、やっぱり怪異が大好きな自分を自覚もして、板挟みに遭う。

そして、目が覚めた。

夢の内容はあまり覚えていなかったが。

あまり良い夢で無かった事は分かる。

普段だったらすごい多幸感に身を包まれるものなのだが。

ただ、腹の中が腐るかのような、不快感だけが存在していた。

溜息が漏れる。

とにかく、後数日だ。

昨日がピークだったとしても、今回は。というかすねこすりの時から、より体を張るようになってから。

フィールドワークに大きな成果が出るようになってきている。

だとすれば、まだ舟幽霊に遭遇する可能性が高い。

朝確認すると、村上さんから謝罪のメールが来ていた。肝心なときに目を回していてすみません、と。

私は問題ないと返事をすると。

レポートに取り組む。

昨晩はデータを張っただけで、あまり文章などに手を入れていなかった。それらを軽く調整する。

早めに目が覚めたこともあって、朝食が来るまで時間もあった。

レトンも朝食を終えると、いつもの調子で戻っていく。

さて、散々無理をさせたんだ。

せめてしっかりしたレポートに仕上げないとな。

そう、私は思い。

黙々と、レポートに取り組むのだった。

 

4、フィールドワークの限界

 

最終日。

そこそこに荒れた海に出て、そして調査をする。今日は荒れていると言っても、其処まで酷くは無かった事もある。

船の限界まで、レトンの限界までやることもなく。更には行政の指示で、調査範囲が狭まることもなかった。

それでも散々、船に塩水は浸入してきたが。

それはそれだ。

沖合に出て。しばらく調査を実施する。それで、特に舟幽霊は現象としては起きなかった。

舟幽霊には発生する原因に諸説があるが。

多分その原因を満たさなかったのだろう。

いずれにしても、幽霊の類は出なかった。少なくとも私が主観で目撃することはなかった。

それが全て。

後は、レポートを仕上げるだけだ。

最終日も、村上さんはあまり体調が良く無さそうだったけれども。

それでも、何とか最後の仕事が終わると、崩れ落ちそうになる。そこを、支援ロボットが支えていた。

本当に心身が弱いなあ。

そう思って、ちょっと同情した。

私の場合は、何があっても倒れそうにないし、レトンが塩対応しても全くこたえることがない。

神経が鉄で出来ているから。

別に問題ないのだろうか。

そんな事もないだろう。

私のせいでレトンが酷い目にあっているのを見て、今回のフィールドワークでは色々思うところもあった。

レトンは別に気にしていないのが分かるから、余計神経に来るのだ。

ともかく、戻る事にする。

今回は機材の宅配などを、私が手配する。レトンには、他の雑務をして貰った。

最後のレポートは。特に舟幽霊も出なかったし。帰路でレンタルした自動車の中ででも、適当に書けばいい。

どうせ自動運転だ。

風呂を終えると、帰るための作業を進めて。

寝る前には終わらせた。

レトンが夕食を持ってくる。

二人で卓を囲んで食べて、それで今日はおしまい。

後は、寝て明日を待つ。

夢は、見なかった。

翌日には、すっきり目が覚める。

多幸感もなかったし、夢は見なかったことが分かる。それで別にかまわない。私はなんだか夢に愛されているのか、それとも。

まあいい。

淡々と作業をして、片付けを終えると。

後は、静かに車が来るのを待つ。

程なく最初の宅配用の車が来て、そのまま機材を運んでいった。何回かに分けて、精密機械を運び出し。

そして最後に私達が出る。

これは機材にトラブルがないように、見張る必要があるからだ。

今では必要ない事も多いのだけれども。

慣例として、人間用の荷物を運び出すときは。人間が立ち会うことになっている。

この慣例は、500年でなくなることがなかった。

車が来る。

ホバーの上自動運転だ。今はそもそも、家から一生出ない人すらいると聞いている。車の交通量は、500年前とは比較にならない程少ない。そもそも地球にいる人間は10億前後で安定している。

それもあって、殆ど車は見かけない。

車が音もなく発進するのを確認してから、レポートを書く。

レポートを書いていると、レトンがちらりと此方を見たのが分かった。

「どうしたのかあちゃん」

「いえ。 今回のフィールドワークも、相応の成果が出たようですね」

「うん。 ごめんな、色々無理させて」

「それについては別にかまいません。 茶番に呆れる事はありますが、主を守るために体を張るのは私に取っては誇りです」

そっか。

レトンはどこまでも真面目だな。

私とは偉い違いだ。

私はどうしても好奇心や欲求を優先して動くところがある。

実際問題、怪異に会いたいという気持ちの方が研究者としての行動に先行することも珍しく無いし。

時々、自分に呆れる程だ。

それでも、レトンはずっとフィールドワークにつきあってくれている。

それを思うと、レトンは大事な、得がたい存在だ。

そして、思うのだ。

苛烈なフィールドワークを続けるのはちょっと考えようとも。

勿論、自分の体を張るのは全く問題ない。

だが、レトンもそれにつきあわせて、体を破損させるのはちょっと気分が悪い。

それについては、ちょっと考えておこう。

そう私は、帰路で漠然と思った。

レポートを仕上げてやる事もなくなったので、後は寝ることにする。

自宅まで少し距離があるし、寝ていても問題ない。

どうせ自動運転だ。

船を漕いでいると、何度か落ちて。

その度に短い夢を見たようだ。

夢の内容はどれも覚えていない。

だが、良い夢ばかりではなかったようだ。

きっと、自分の罪悪感が、あまり良くない夢を見せているのだろうな。

そう私は、冷静に分析していた。

分かっているなら、改めれば良いのに。

だけれどもそうできないのが自分の業だとも分かっていた。故に、それについては諦めてもいた。

自宅はもうすぐだ。

自宅でしばらく態勢を整えたら、すぐに次のフィールドワークに向かいたい。

そう思う自分と。

少し慎重になるべきだと考える自分がいて。

それには苦笑する他なかった。

 

(続)