音の怪は今も其処に
序、深山の小川
黙々と歩く。此処はかなり深い山の中だ。周囲の地形はかなり険しく。そして側をちろちろと小川が流れていた。
本当に小さな川だ。
水源が近いのである。
そして昔は天然記念物と言われた生物の宝庫にもなっている。今は個体数が回復して、天然記念物ではなくなっているが。
それも、500年の努力の結果。
今では全ての個体にナノマシンが仕込まれ。
しっかり監視されている。
山に入るのには色々な資格が必要になっていて。私も、こういった動物の存在を守るのが如何に大事か。
動物愛護と動物愛誤を間違えないことが如何に重要か。
それは理解していた。
時々それでも、レトンに手を引かれる。
小さな生物を踏み掛けるからだ。
この辺りは、特に生態系がデリケートで。私も肌を露出しないどころか、ガチガチに装備を固めてきている。
背中にあるジェットパックも時々使う。
そうしないと、どうしても重要な生物の群生地を踏み荒らしてしまう事になるかも知れないからだ。
それだけして、今は山に入る。
昔の人間が、如何にこの手の事に無頓着だったか。
ならず者が山を荒らして太陽光発電だのゴルフ場だのを作って、何もかもを滅茶苦茶にしていたか。
それらを元に戻すまで、三百年以上掛かり。
遺伝子データなどから復元した生物なども丁寧に管理して生態系を元に戻し。
こうやって資格制で入る人間にしっかり知識を与え。
装備も与えて。
それで研究が出来る。
色々と、山は大変な場所なのだ。
私はただ、山の生物を研究しに来た訳ではない。一緒についてきているレトンも、今日はメイド服にジェットパックを背負っている。
ドローンも同時に二機が着いてきている。
私が何かやらかさないように監視するためだ。
監視をしているのはAIによるもので、そこに不公正はない。
AIを組む際に誰かが悪意を持って行ったり。或いはウィルスなどを仕込んだりという懸念もあるのだが。
今の時代はAIが複数相互監視していて。
生半可な技術ではウィルスなんぞ仕込めないし。
仕込めたところで、一瞬で排除される。
AIを組むのだってパッケージごとにかなり多数の人間が関わっていて。しかもその仕事はそれぞれに精査される。
生命線なのだから当たり前だ。
そういうこともあって。
幸い、AIによる反乱は起きなかった。
SFものだと定番なのだけれども。
さて、私はそうやって山の中を歩く。私の支援ロボットであるレトンも、黙々と着いてきている。
この間、パーツの調子が良くないとかで、少し調整をしたのだが。
それも別にクリティカルな問題でもなんでもない。
今の時代のロボットは人間よりも長生きなくらいだ。
少し疲れてきたな。
周囲を見回して、こんなタイミングで出無いかなあと思う。
今日、私は山に研究のためにフィールドワークで来ている。
狙っているのは、怪異。
小豆研ぎだ。
小豆研ぎというのは、夜中に小豆を研ぐ音が聞こえるというもので。他にも多数の類例が存在する怪異、いわゆる「音の怪」である。
小豆研ぎそのものにも多数の亜種怪異が存在していて。
それらは各地に散っている。
また、音の怪は怪異の中ではかなりメジャーな存在で。
それこそ世界中に多数の音の怪がいる。
昔は、分からない音を出す存在はだいたい音の怪だったのだ。
沖縄に至っては、マーという音の怪がいる。
マーと鳴くらしい。
実に分かりやすい音の怪だが、そういう原初的な怪異が音の怪であり。
端から聞くと冗談にしか聞こえないかも知れないが。
例えば、山の中で孤立しているとき。いつ何が起きてもおかしくないとき。暗闇の中にいる時。
自分が知らない音がいきなり聞こえたら、それはどう感じるだろう。
ほぼ確実に恐怖を覚えるはずだ。
ちなみに、日本でも大妖怪として知られる鵺も実は音の怪である。平安の世を恐怖に陥れたとされているが。
その正体はトラツグミといわれる鳥であるという説が今の時点では名高い。
ただこれには異論もある。
小豆研ぎについても様々な説があるので。
私は今回、フル装備で調査に来ている、というわけだ。
なお、視覚補助、聴覚補助の装備はほぼつけてきていない。
私の経験上。
怪異は、人間の感覚が鈍っているときにこそ姿を見せる。
夜闇が一番良い例だろう。
人間にとって、もっとも大事な感覚器官である眼。
それを潰される夜闇は。
人間に、不必要なほどに恐怖を刺激させる。
理屈で理解していても、それはどうしてもある。私は怪異大好き人間だけれども、それでも其処に代わりはない。
だからこそ、私は自分を闇にて追い詰めるのだ。
「おっと、ごめん」
「問題ありません」
躓きかけて、レトンに手を引かれる。
レトンは私の動きをあらゆるセンサとかで監視しているから、余程の事がない限りこうやって対応できる。
それだけではなく、ドローンの支援もある。
ドローンの性能はレトン以上。しかもそれが二機もついてきている。
今回は深山で、幾つも入るのに資格がいるという事もある。
むしろ私の監視も兼ねて、ドローンは着いてきている。
役所としても、せっかく再生させた生態系を無茶苦茶にされてはたまらないと判断しているのだ。
こんな時代でも、悪さをしようとする奴はどうしてもいるし。
いわゆる魔が差すという状況になることだってある。
主観で可愛いと判断した動物を持ち帰ろうとか。
そういう事は、どうしても起きてしまうのだ。
ニホンカワウソがこの辺りにはいる。
一度絶滅した生物だが、今は再生されている。
カワウソはその飼育の難易度が非常に高く、一般人の手に負える代物ではないのだけれども。
とにかく愛らしいこともあって。更には毛皮が高く売れることもあって。
乱獲の憂き目に遭い、一度全滅した。
それを遺伝子データから再生している。
それだけではなく、何種類かの貴重な動植物もこの辺りにはいる。
今では想像もつかないが、一時期はエコエネルギー業者だとか称したタチが悪い連中が、この辺りは太陽光発電装置の開発のために一度勝手に更地にした挙げ句。
金だけむしり取って、挙げ句倒産して路頭に迷ったそうである。馬鹿馬鹿しい話だが、金が絡むと人間はどんな愚行でも平気でする。本当に、政治経済をAIが回すようになって良かったのだと分かる。
とにかく、川のせせらぎの辺りを歩いて行く。何度もレトンに手を引っ張られて。それで、この辺りの足場の悪さを再確認する。
それに非常に暗い。
これでは確かに、昔の人達が妖怪を誤認するのも仕方がない。
滅びた生物たちも戻って来ている。
これなら、怪異も帰ってきているだろう。
だから私は会いに来た。
一度酷い目にあわせてしまった相手だ。会ってくれるかは、とても不安だが。
前の方から、何か来る。
一瞬背筋が伸びたが。
何のことは無い、ただの巡回用ロボットだった。見かけは、おっとりした様子の女性型ロボットである。
普通は無機質なドローンを飛ばしている事が多いのだが、何かしらの理由で人型にしているのだろう。
人型ロボットの中には、肌などを人間の細胞と殆ど同じにしているものもいるらしいが、近くで照らしてみると違うタイプだと分かる。
人の細胞を使っている場合、こういう深山では色々問題がある。
それが理由だろう。
一瞬で、レトンやドローンと情報の交換をしていたらしい。
私に一礼すると、巡回用のロボットは去って行った。
「かあちゃん、あのロボットなんだって?」
「この辺りの生態系についてのデータをいただきました。 カワウソが数体、こっちを伺っているようですね」
「わお。 ニホンカワウソ」
「言うべきではありませんでしたか?」
いや、流石に。
確かに私もカワウソは可愛いと思う方だが。カワウソを法を犯してまで捕まえようとかは思わない。
仕事で狩猟をしている人はいるらしいが。
余程の事がない限り、ニホンカワウソやニホンオオカミは、ターゲットにはならないそうである。
まあ、カワウソが見ているくらいでは、この強烈な闇の恐怖は消えない。
周囲からはひっきりなしに何かの鳴き声がしていて、静かではないのだが。
それでも、小豆を研ぐような音らしきものは聞こえなかった。
季節が駄目なのか。
それとも場所が駄目なのか。
一度更地にしてしまったから、音の怪の原因がなくなってしまったのか。
いずれにしても、調査はまだ始めたばかりだ。
近くに腰掛けるのに丁度いい岩があると言う。
少し休むか。
一応こういった場所には来慣れている私なのだけれども。流石に此処まで夜闇が深いと少し疲れる。
座って、しばし休む。
レトンには会えて黙っていてと先に声を掛けた。
そうしなくても、レトンは黙っていてくれるのだけれども、念の為だ。
色々な鳴き声がする。
梟らしいのも鳴いている。
梟にとっては、今が狩りのタイミングだ。
音もなく夜闇を飛んで獲物を狙う極めて俊敏なハンターである梟だけれども。他の個体と情報をやりとりするために鳴く。
他にも虫の鳴き声らしきものも聞こえる。
しばらく音を聞いているが。
どうにも、小豆を洗うような音は聞こえなかった。
「うーん、やっぱり駄目かなあ」
「周囲の音は全て記録しています。 また、ドローンと連携して半径五百メートルほどに存在する全ての記録もしています」
「ありがとうかあちゃん。 それで何か面白そうなのはいる?」
「主が面白いという傾向から考えると、特には。 ニホンカワウソはやはり警戒して此方を伺っているようですね。 私のセンサー外ですが、ドローンとの情報連携でそれが分かります」
そっか。
そうなると、ちょっと駄目かも知れないなあ。
ちなみにだが。
小豆研ぎという妖怪は、たくさん類例が存在するにもかかわらず、どうにも音がはっきりしていない妖怪でもある。
元々曖昧なのが怪異という存在なのだが。
小豆研ぎは類種がたくさんいるにも関わらず、どうしてか小豆を研ぐ音とやらがどうにもはっきりしていない。
ショキショキだったりザッザッだったり。
ここに来る前に、私は当然だけれども、小豆を研いで来ている。
小豆をわざわざ取り寄せて、研ぎ方について勉強して。
そして自分で実施してみた。
といでいる時の音は、小さな豆をといでいる音、としか言いようがなく。特に印象に残るものでもなかった。
チャタテムシという生物の立てる音という説もあるらしく。
実際にそれを来る前に聞いてもみたのだけれども。
どうにもぴんと来なかったのだ。
だったらフィールドワークである。
そういうわけで此処まで。かなりの山深い土地まで来たのだが。
どうにも手応えがない。
この間の塗り壁の時は、実際に遭遇できて嬉しかったし。
遭遇した時に歓喜を覚えたほどだったのだけれども。
今回は、外れだろうか。
周囲から聞こえる音は、どうしてもこれといってそれらしいのはない。普通の動物の鳴き声だったり、川のせせらぎの音だったり。
まて。
固定観念を抱いていないか。
音の怪の正体は、動物の鳴き声だけとは限らない。
自然現象かも知れない。
だとすると、やはりギリギリまで色々歩いて探してみるしかないだろう。私は休憩を止めて、そしてまた夜闇を歩くことにする。
立ち上がったタイミングで、レトンが服や靴をチェックしてくれる。
特に危険な生物や病原菌などは付着していない様子だ。
「時間は限られています。 周囲を探索するにしても、時間となったら下山に移ります」
「うん、それは分かってる」
「主はその辺りはごねないので、役所から苦情が来た事はありません」
「そっかあ」
役所にはいつも理不尽なスケジュールと、後でがみがみ怒られたりするのだけれども。意外とレトンの視点ではそれほどの苦情は来ていないという訳か。
私みたいなフィールドワーカーそのものが珍しい時代だし。
そもそも人間と切り離された場所に来ている、と言う事もある。
それで、どうしてもAIで回っている役所も、五月蠅くなるのかも知れなかった。
月が出ているのが見えた。
おおと、思わず声が出る。
雰囲気があっていい。
これは、月が狂気の象徴とされたり。
それに、何より不吉なものとして空から地上を見下ろすものとされたのも、何となくわかっていい。
妖怪が出そうだなあ。
そう思って、兎と思われていた形を見る。
今ではクレーターやら何やらだと言うことは分かっているが。
昔の人達は、そうは思わず。奔放な想像力を駆使して、色々なものだと考えたのである。
それがカルトにならなければそれでいい。
しばし風情のある月を見て。
そして、深山を歩いた。
結局時間が来て下山。
宿泊所に戻って、それで音などを確認する。
私が気付いていないだけで。何か変わった音を拾っているかも知れないからだ。
だが、それらしい音はなし。
今回もフィールドワークをしているので、何カ所か探索場所は取ってある。
だから、今日は見つからなくても、まだまだ時間はある。
まだ焦る時間ではない。
靴とかは、レトンがクリーニングのために持っていってしまった。こう言う山に入る時は、最悪現地で専用の服をレンタルして、それで入る事すらある。
資格試験で学ばされた事だが。
化学繊維なんて、何らかの間違いで山の中に落とすなんてのはもってのほかだという話である。
まあ、それもそうだろう。
音を聞き終えて、私はがっかりする。
なお、小豆研ぎは寺などに怪異として伝わっている事もある。
家の中などもある。
そういう事もあって、古民家や古寺などでもフィールドワークを今回はする事にしているのだけれども。
今回は幸先が悪いので、ちょっと不安だった。
音を聞き終えて、ぼんやりとしている。
小豆を研ぐ音、聞こえないかなあ。
そう思うが、聞こえない。
そもそも私は静かにするのが好きだから、パーソナルスペースは静かにするようにしている。
今回は隣で騒ぐ宿泊者もいない。
だから、至って静かなものだった。
レトンが戻ってくる。
かなり遅めだが、夕食だ。
今回はわざわざ深山まで行ったこともあって、帰る時間を想定しても、遅くなるのは仕方がない。
その分、栄養を考えた食事にしてあるのだろう。
黙々と、ハンバーグを中心とした定番の洋食を食べる。
味は申し分ないが。
これはレトンが私の好みに合わせてくれているだけだ。
本当に美味しい料理も実際に存在するらしいが、舌の好みはどうしても人によって別れる。
この辺りは、支援ロボット様々だ。
子供の頃から世話をしているから、私の事は隅々まで知り尽くしているのだ。文字通りの意味で。
「相変わらずかあちゃんの料理美味しいねえ」
「主の好みに合わせています。 ただ、栄養などを抑えめにしてあります」
「その分明日の朝の栄養を増やす感じ?」
「明日は昼からフィールドワークに出ると言う事もあるので、朝の食事は少し多めにします」
まあそうだろう。
ともかく美味しい夕食を残さず平らげると。さっさと寝る事にする。
小豆研ぎが出るのは、だいたいの場合夜だ。
だが、古民家などではひょっとすると昼に出るかも知れない。
今回は、せっかく山奥にまで来ているのだ。
宿泊施設周辺にも、古民家や既にシステムが全自動化されている古寺も存在している。
今も仏教は存在しているが、基本的に余程の事がない限り、特定宗教に沿った葬式はないし。
勿論檀家から金を巻き上げるシステムも存在していない。
故に文化保存の為に寺は存在しているが。
余程の物好きでない限り、住職になる人間はおらず。ほぼ観光地と化している。
これは、どの宗教の施設も同じである。
まあ、見て回るには良いだろう。私は、早めに眠って。明日以降に賭ける事にしていた。
1、小豆を研ぐ音とはなんぞや
古民家で過ごす。
実の所、古民家と言ってもそれほど古いものではない。
例えば藁葺き屋根などは、彼方此方ではかなり近代まで全然現役だった。板葺きの屋根は、贅沢品だったほどである。
場所によってはかなり後の方まで竪穴式住宅が健在だったほど。
今の時代の家なんて、それこそ近代に出来たものであって。
古民家と言っても、千年も歴史があるものはまずない。
たまに残っている古民家は、基本的にロボットが管理している。
今、訪れている古民家は。
日本人形みたいな着物を着た女の子のロボットが管理していた。なんというか、座敷童みたいだ。
座敷童に代表されるいわゆるハウスメイドと呼ばれるタイプの怪異も、いずれフィールドワークするつもりだが。
多分このロボットで、此処の管理は充分なのだろう。
まあ見た目よりもずっと性能が高いのが支援ロボットだ。
ましてや専門の管理ロボットとなれば。恐らくリアルタイムで24時間のデータ全てを把握していて。
火事とか地震とか、全ての問題に対応できるだろう。
しばらく、黙々と古民家で過ごす。
此処まで何も聞いてこない客は初めてだと、管理ロボットに言われた。
まあそうだろうなと思う。
今は音の怪に会いに来ているのだ。
五月蠅くしていたら、聞こえるものも聞こえないだろう。
後で音を調べて見て、実は聞こえていたとかだったら、悲しくて言葉もない。
怪異に、直に会いたいのだ私は。
それが心の中に住む者なのだから。なおさら一期一会である。
横になって寝ていると。
程なくして、何か変な音が聞こえた。
きしりきしりと音がしている。
これは、家鳴りか。
家鳴りは古い時代からもう解明されていた怪異で、家の中で変な音がするというものである。
解明されてしまうとそれは怪異ではなくなる。
いずれにしても、今会いたいのは家鳴りではない。
小豆研ぎだ。
解明されてしまった怪異はとても可哀想だと言える。
もう誰にも怖がって貰えないのだから。
ただ、別のとはいえ怪異には会えたのだ。それはそれで、可とするべきなのか。
頭を掻きながら、体を起こす。
管理ロボットが来た。
「今、丁度家鳴りがありましたが、驚かれましたか?」
「いや、別に。 家鳴りが起きる様な状態を維持しているということ?」
「そうなります。 この家は家鳴りが起きる条件が整っていますので」
「そっかあ。 家鳴りは家鳴りで一応怪異なんだけれども、今日会いに来ているのは違うんだよなあ……」
溜息が零れる。
管理ロボットは呆れた様子である。
レトンも呆れているのが分かる。
「なんなら、この辺りの怪異について……もう調べてあるのですね」
「これでも民俗学者だからね。 一応来る前に、あらかた頭に入れてる」
「そうですか。 それでは、ごゆっくりしていってください」
「そうさせてもらうよ」
いろりの側で、また横になる。
レトンがお茶を淹れてくれたので、有り難くいただく。
紅茶の方が好みなのだけれども。
お茶はお茶で、これはこれで嫌いじゃない。
リラックスしていると、あんまり怪異は出ないだろう。いや、音の怪の場合は話が別だろうか。
小豆研ぎの中には、人格を持った妖怪として出現する場合もある。
人を襲う伝承もある。
そういうものは、都市伝説と流れが同じなのだろう。
小豆を研ぐ謎の音、という現象があって。
それが当時の人達には解明できなかった。
そうなってくると、想像力がどんどん怪異に具体的な設定を付け加えていく。
流れは都市伝説と同じだ。
口裂け女が、どんどん訳が分からない能力を獲得していったのと同じで。ただ音を立てるだけだった筈の小豆研ぎが。
人を襲う怪異として、怖れられていったと言う訳だ。
そうなると、或いはだが。
小豆を研ぐような音というのも、具体的に分からないのも。
或いは後から、恐ろしい妖怪として伝わった結果。
なんだかそれっぽい音を聞いただけで、恐怖から誤認したというケースが考えられる訳か。
厄介だなあ。
そう思う。
こっちはせっかく、小豆を実際に研いでみるような事までしたのだ。勿論研いだ後は、レトンがちゃんと料理に使ってくれた。
だが、こんな風に論理的に考えていると、恐怖には結びつかないし。
むしろ怪異の方が、へそを曲げるかも知れない。
色々失敗だったかな。
そう思っていると、また家鳴りが起きる。
元気な家鳴りだな。
そう思って。私は苦笑いする。
「これくらい、小豆研ぎも自己主張してほしいなあ」
「家鳴りも怪異に間違いないでしょうに」
「そうなんだけれど、今回会いに来たのは家鳴りじゃないんだよねえ。 自分でも面倒くさい事を言ってることは理解してる」
「いつもながら茶番ですね」
レトンは辛辣だが。
そうしてあるのだから、これでいい。
人は客観性を失ったらおしまいだ。
それを私は、歴史を学ぶ過程で知っている。だから、とことんまで辛辣なくらい客観的にものをいう存在がいてくれる方が良い。
勿論、耳障りが良い言葉だけを支援ロボットに言わせる人間もいるらしいのだが。
それは、私とは相容れない。
それで全てだ。
時間が来た。
座敷童みたいな管理ロボットに礼を言って、家を出る。
ぺこりと相手も一礼するが、なんとも可愛らしい。
多分管理ロボットして、色々な客の様子を見て。最終的にこのガワにしたのだろうな。そう思う。
ロボットの方でも、色々に判断をしてガワを変える事がある。
特に、支援ロボットではなく。明確な上位者がいないこう言う場所の管理ロボットはなおさららしい。
ともかく、宿泊施設に急ぐ。
がっかりして、本当に気が抜けたその時。
なんか、変な音がした。
それは、何か乱暴に流すような音だった。
思わず足を止める。
そして、周囲を見回す。
今の時代。こんな山奥、宿泊に来る人間は殆どいない。ロボットは音を無駄にたてる事もない。
たまにドローンが飛び交っているが。
昔のドローンと違って、殆ど音は立てない。
この音を立てないドローンというのは。元は戦争で開発された技術らしいが。ともかくドローンはほぼ無音に近い静かさだ。
用途にもよるが。
今の音は、なんだ。
「かあちゃん、今の音」
「記録はしています。 後で精査するとよいでしょう」
「そうだね。 とりあえず宿泊施設まで戻ろう」
「またわくわくしていますね」
うんと、満面の笑みで応える私である。
レトンが露骨に呆れた。
「私の方でも音は記録していますが、小豆を研いでいた時の音に近いものは記録されていません。 意識内でバグとして何かを誤認したのでは」
「だとしても、多分あれが小豆研ぎだ。 やっと会えた!」
「本当に嬉しそうですね」
「嬉しい」
いやっほうと跳び上がりたいほどだが。
同時におなかがなる。
そろそろお昼の時間である。
宿泊施設に戻ったら、レトンが昼食を作ってくれるだろう。その時に、私の意識内で聞こえていたデータなども含めて、全てを精査する。
ひょっとするとだけれども。
小豆研ぎは明確に聞こえる怪異ではなく。
心の中に住むタイプの音の怪なのか。
最初に何か変な音を……当時は解明されていなかった音源の何かを聞いた人がいて。
それが元になって情報が拡がるうちに、どんどん恐怖が追加されていって。
それらしい音を聞いた人が、小豆研ぎと誤認した。
だとすると面白い。
心の中に生まれた恐怖が伝染して、文字通り心の中に住む小豆研ぎという妖怪が生まれた事になる。
もしそうだと、最初の小豆研ぎと後の小豆研ぎは別の存在、別の怪異という事になってくるが。
それはそれで、とても楽しい。
スキップしそうな勢いで宿泊施設に戻る。靴とかレトンに預けて、すぐにPCに接続。あらゆるデータを精査する。
気付いていなかっただけで、何かそれらしい音を拾っているかも知れない。
VRの技術も利用して、時間を加速して調査をしていく。
その過程で、面白い音が何か拾える可能性だってある。
無言で色々調べている内に。
レトンが、昼食を持ってきた。
一度調査は中止だ。
流石に食事を取らないとレトンに怒られるし。
どんな料理だって。一部の例外を除くと温かいうちが一番うまいのだ。
昼飯を食べる。
食事時は静かだ。
食事を終えると、片付けを始めるレトン。それを見やって、不意に疲れがどっと出て来た。
昼寝でもたまにはするか。
そう思って、横になる。
一時間ほどで起こしてと、レトンに言う。頷くと、レトンは部屋を出て行った。
昨日の疲れ。
今日の何も起きなさぶり。
それらが疲れとなって、心に隙を作り。
そこに小豆研ぎが入り込んだのだとすれば。
思った以上に、私は疲れていたのかも知れない。疲れていた状態で、小豆研ぎが出てくる可能性が上がるのだとすれば。
アプローチを変えるのも、良いかも知れなかった。
横になってしばらく寝ていると、レトンに起こされる。
礼を言って起きだすと、そのまま研究に入る。どうも、あの時聞いた音は、どうにもよく分からない。
あの、私が聞いた瞬間にしか。
類似する音は入っていないし。しかもレトンには聞こえていない。
そうなると、やはり音の怪というのとは、小豆研ぎは少し違うのか。
それとも、私がまだ遭遇していないだけで。他に小豆を研ぐ音に誤認される音を出すものがいるのか。
どっちにしても、私は興味深い。
心に住んでいようがそうでなかろうが、怪異は怪異。
人に害を為す怪異がいるとして。
殆どの場合は、何かしらの変死体が上がったあと、それは怪異だったと認識されるのが普通だ。
夜まで、集中して調査を続ける。
その結論としては、私の意識内で聞こえていた音以外。
あの時、不審な音は拾っていない。
それだけだ。
軽くレポートにまとめておく。
私が小豆研ぎを意識していたことも、聞こえた要因になるのだろう。だとすれば、それはそれで価値のある研究成果だ。
あらゆるデータを客観的に拾える今の時代だからこそ。
レポートに出来る。
これは、とても有益なことだと、私は思う。そして、夕食をレトンが持って来たのを見て、今日の作業を終えていた。
翌日。
今度は古寺に向かう。
古寺に人影はなく、此処は円筒形のロボットが行き来して、管理をしていた。天井近くの掃除もしていて。
埃を吸い込んで、周囲に舞わないようにもしている。
このため、古い古い寺の筈なのに。
木材もなんだかつやつやして見える程だ。
たまに悪さをしようとする客がいるらしいが。そういう場合は即座に取り押さえて資格の停止。
更には色々なペナルティもある。
人間が見張っていた時代よりも。
明らかにこういう観光用の寺は安全で。なおかつ、過ごしやすく。そして綺麗になっているのだった。
寺、か。
仏教は誕生地のインドでは振るわなかったが、中央アジアを経て中華にいたり、そして日本にもかなり早い段階で流入していた。
どの宗教でもそうだが腐敗とはやはり仏教も無縁ではいられず。
初期の日本で有名な遷都。平安京だとか平城京だとか。
あれらの遷都事件は、だいたい腐敗僧侶が権力に食い込んでいたのを避けたのが理由、という説もある。
完全に独立武装勢力となった仏教勢力も多く。
石山本願寺を本拠地とした一向宗が、あの織田信長を苦しめ続けた逸話については。戦国時代をミリでも囓っていれば知っている事である。
今は、宗教施設はただの遺跡に近い存在になっている。
私も、仏教哲学は面白いと思うことはあるが。
仏教を信仰しようと思った事はただの一度もない。
とりあえず、あちこち見て回る。
此処のお寺は、毘沙門天がご本尊か。
毘沙門天は元々はクベーラというインドの神格で、本来は宝を守る神様だった存在だ。
それが中央アジアを経て中国に渡る間に、仏教にも武神が必要とされたり。色々と変な風に伝承が伝わったという事もあるのだろう。
宝を守る神から軍神へと変貌していった。他にも仏教における戦闘神格明王が、この過程で信仰対象に成り上がっている。
毘沙門天などの「天」と最後につく仏教系の神格は、元はインド神話の神々であり、クベーラも同じ。他にも帝釈天とか色々な信仰対象がいる。
毘沙門天はあの戦国の軍神上杉謙信も信仰していたことで、日本では有名だし。
日本では七福神信仰という謎の代物が出来たのだが。
その七福神の一人になっている。
この七福神は、日本産、中国産、インド産の神々がごったになっている面白い代物なのだが。
まあその辺りの知識はあくまで余技だ。
私は小豆研ぎに会いに来ている。
円筒形の管理ロボットが、厳しく監視している中。私は寺の中を歩いて見て回る。床を踏むと。きゅっきゅっと音がする。本当によく管理されているんだなあと、感心した。
此処は禅寺とかではないが。
ともかく静謐な雰囲気だ。
この時代まで残っていると言う事は、此処で住職をしていた人はずっと厳しく寺を管理していたのだろう。
腐敗僧侶も多かった中。
真面目な学僧もいたと言う話は聞く。そういう人だったのかも知れない。
かの織田信長も、ああだこうだ屁理屈をこね回して蓄財と政争ばかりしているようなクソ坊主は大嫌いだったようだが。
学僧には敬意を払い、普通に接していた。
要するに信長が嫌いだったのは仏教ではなく、腐敗した生臭坊主だったのだが。
まあ、それも小豆研ぎには関係無いか。
周囲の音がよく聞けそうな場所に移動。
少し休みたい。
というのも、昨日の反省も踏まえて。今日はここに来る前に。VRのソフトを使って無茶苦茶運動してきたからである。
私も普段は適度に運動はしているし。山歩きとかもしているが。
それでも疲れるように設定を弄って、結構ハードに運動をしてきた。
その結果、フラフラである。
どうだ。これなら心に隙も出来るだろう。
そして隙が出来れば、妖怪が出る余地だって出てくる。
怪異は心に住むのだ。
だったら心に隙を無理矢理作ってやるだけの事である。
この話をしたとき、レトンが呆れていた。
勿論呆れてくれていい。
フィールドワークというのは体を張って行うものであって。私はそれに沿って行動しているだけ。
今の時代はストレスフリーの権化みたいなものだが。
私はそんな事は関係無い。
怪異に会えるのなら、それこそ無茶な運動でもなんでもしよう。ただそれだけである。
良さそうな場所を発見。
多分来客用の間だ。
庭には、そこそこ樹齢がありそうな木が生えている。何の木かは良く知らない。とにかく、来客用の間に、ささっと監視ロボットが用意してくれた座布団に座ることとする。普段は此処まで、観光に来た人間を案内するのだろう。
今はこういった文化財の管理には、金が政府から出ているし。
政府はAIが回しているので、利権も何もない。
その結果、逆に高品質のサービスが出てくる。
皮肉という他なかった。
さあ、小豆研ぎ、カモン。
そう呟きつつ、座布団でしばらく座って待つ。疲れているので、やっぱり色々と頭の動きが鈍い。
此処まで来るのに、自動運転の車両やらを乗り継いで来ている。
それもあって。それだけで金銭の流動が生じている。その金は、適切にAIが管理して回している。
私は、こうやって。
体を張ってフィールドワークすればいい。
庭の木が、風に吹かれて揺れている。
そういえば、なんとか入道という妖怪はわんさかいるが。入道というのは早い話坊主の話だ。
ストレートになんとか坊主という妖怪もたくさんいる。
寺は、実の所。
妖怪と相性がとても良い場所なのかも知れない。
それに、仏教哲学を真面目に学んでいるような学僧なら兎も角。
妖怪同然、怪異そのものの化け物のような生臭坊主がたくさんいたのも事実だ。だから、それらを人々は会えて皮肉ることで、妖怪に採用していったのかも知れない。
疲れきった私がぼんやりしていると、しゃきしゃきと音がした。
顔を上げるが、レトンはすぐにそれに気付いたようだった。管理ロボットが入れてくれた、支援ロボット用のナノマシン入りのお茶を飲み終えると聞いてくる。
「聞こえたんですか? 小豆研ぎとやらの音が」
「うん。 ちょっと疲れてるから、どうにも曖昧だけど。 前に聞いたのとは、かなり音が違うみたいだった」
「私にはそれらしい音は聞こえていません」
「やっぱりかあ……」
レトンにも聞いてほしかったなあ。
そう思ったが、どうしようもない。
どうやら、小豆研ぎは思った以上に手強いらしい。私は妖怪も怪異も大好きで仕方がないのに。
どうしてこう怪異の方はいけずなのか。おっと、これは死語だったな。
お茶をぐっと飲み干す。
疲れきった様子で寺に来たことを不審に思っているのか、管理ロボットがしっかり此方を監視している。
人型ではないから、視線とかは感じないが。
比較的近くにいるから、不審に思って警戒度を上げているのかも知れない。
レトンは恐らく無線で毎秒数千とか数十万とかの単位で情報を管理ロボットとやりとりしている筈だ。
それでも、魔が差して変な事をする奴はいる。
下手をすると、結構重いペナルティを喰らう事になる。
頭を振って私は、疲れきった視線を庭に向ける。
本当に、朝からあんなに本気で運動しなければ良かったと言う後悔もあるが。会えない可能性も高いと諦めかけていた小豆研ぎにこうやって会えている。
それは主観だが。
妖怪も怪異も基本的に心に住む。
元になった何かがあるとしても。
基本的には、それは同じだ。
眠くなってきた。
また、しょきしょきと音がする。
おお、小豆研ぎだ。
眠気が一瞬で吹っ飛ぶが、疲れまでは飛ばない。流石に其処まで脳内麻薬がドバドバ出無いし。体の方は正直だ。
多分、流石に無理があると判断したのだろう。
レトンが珍しく、撤退を促してきた。
「主、今日は此処までにしましょう」
「かあちゃん、もうちょっと。 今も出た」
「茶番はいつものことですが、その疲労ぶりだと明日の研究を無駄にしかねませんよ」
「……それもそうか」
明日もスケジュールを、ここに来る前からとってあるのだ。
それに、疲れているから小豆研ぎが出ると言うのは本当か。他に条件があるかも知れない。
今、二度も小豆研ぎが出たけれども、他にも条件がないのか色々確かめておきたい。
大量のデータを取らないと、統計というのは成立しない。
条件もいちいち変えた方が良い。
疲れている状態では出やすいことは分かったが。それが全てかは、まだ分からないのである。
やはり闇夜の恐怖が要因で出るかも知れない。
とにかく私は博士号もとっているのだ。
学問が何かは理解しているつもりだ。
小豆研ぎを解明まで出来るとは思っていない。そこまで私は傲慢では無い。そもそも完全に解明したらその時怪異は死ぬ。
それは、はっきりいってやりたくなかった。勿論、研究の結果きちんと怪異を死なせる事になったら、それはそれで供養になるとも考えているが。
レトンに促されて、帰る事にする。
宿泊施設に戻ると、昼ご飯が出てくるが。今まで食べたどの昼ご飯より美味しかった。
本当に疲れていたんだな。
そう思って、私は自分ながら呆れた。
とにかく体が栄養をくれとねだっている感じである。無意味な運動を無茶苦茶な負荷でやった結果だ。
運動での消耗を加味してか、レトンがかなりカロリーを増やしていたのだろう。
普段と同じの筈なのに、とにかくおいしい。
子供の時以来だろうか。
随分とがっついて食べてしまった。
そして満腹になると、非常に眠くなってくる。体が健康な証拠だ。
無理をすると、心身を壊す。
産業革命の頃から、21世紀末くらいまで、人間はずっと無茶苦茶な労働負荷をかけ続けて。
その結果、心身を崩壊させる人間が続出した。
それらによって生じる病気に対する無理解も酷く。
甘えだとか精神論で片付けようとする輩も多数存在していたのが事実だ。
今、こうして労働は人道的なものになっている。最悪労働しなくても生きられる人間すらいる。
私は、だから健康的に生きるし。
そうやって、人権が保障している生活を、行う事にしていた。
2、やはり見えない条件
翌日は朝からすっきり起きる事が出来た。今日は夕方から同じような場所を回るようにスケジュールを組んでいる。
だから、朝の内はレポートだ。
昨日残した仕事ではあるが。夜遅くなったり、疲労がひどい場合は別に翌日に回しても問題ないようにレポートは書いている。
朝食も昼食も、いつもと同じ味だった。
レトンは昨日だって、味なんか変えていない筈だ。
私の体の状態は完璧に把握している筈で。
それで栄養量などは変えているだろうが、私の好みに合わせて料理を作っている。
昨日は無茶な疲れを無理矢理重ねて。それで料理が美味くなった。
それだけ。
私は無意味に体を鍛えるようなことには興味がない。
美味い料理は食べたいとは思うが。
そのために、あんな無茶な負荷を体に掛けたいとは思わなかった。
レポートを書き上げて、ある程度進めると。
そのまま、フィールドワークに出る。
フィールドワークもそうだが、学者の仕事は基本的に地味だ。
製薬のお仕事とかしている人に至っては、自分の細胞を培養して、それでひたすらに実験をする事を繰り返しているようなケースもある。
私の仕事は、21世紀だったらスポンサーなんかつかなかった可能性が高い。
そうなると、学者でありながらよく分からないバイトとかをして、稼がなければ食っていけなかった可能性もある。
おかしな話だ。
技術がなければ、サラリーマンなんか木偶に過ぎない。
それなのに、日本……いや他の国でも。サラリーマンが一番偉いという謎の風潮があった。
それがやっとどうにかなったのは、22世紀の半ばだったという話もある。
ある意味それは。
現在の迷妄とでも言うべきものだったのだろう。
一種の信仰。
それもタチが悪い淫祠邪教の類。
優生論とかと同じだ。
いずれにしても、今私が生きている26世紀は、そういう迷妄はどうにか根絶できている良い時代だ。
だから。私はその時代で、研究をする。
それだけである。
レトンと一緒に出かける。
ふと、気付いた。
また、前に見た派手なルックスの子を見かける。ほっぺの星のペイントが強烈な印象を残している。髪型もあいも変わらずの縦ロールである。
向こうも気付いたのだろう。
お互いにぺこりと一礼。それだけ。
今の時代は、同じ人間と長期間に渡ってずっと関わると言う事はほぼ滅多にない。
だから、不幸なことも減っている。
相手が行ってから、歩きながらレトンと話す。
「あの人、またいたね」
「どうやら同一人物のようです。 今確認しましたが、たまたまいる場所が被っただけのようですね」
「この辺りで研究しているって事は、生物学者かなにか?」
「プライバシーの検索は出来ません。 もしも興味があるのなら、相手と話をしてみては如何でしょうか。 もしも仲良くなったら、その時は教えてくれるかもしれませんよ」
いやあ、それは。
そう返す。
人間と関わるのが煩わしいのは、私も同じだ。
何処の会社でもコミュニケーション能力がどうのこうのと喚きながら、基礎研究や技術開発をする人間を疎かにし。「社会人として立派な」人間だけを異常厚遇。
結果として体育会系と言うイエスマンだけを侍らせて、何処もかしこもが駄目になっていったのが21世紀の序盤だったか。
その狂熱の時代が終わってみると。
人間は、すっかり他人と密接に関わるのを止めるようになっていた。
それはそうだろう。
その時代はストレスの時代だった。
暮らしづらいことこの上ない時代だった。
今は様々な資料で、その時代のことを見る事が出来るのだが。はっきりいって、こんな時代に生きていたら速攻ストレス死していただろうと思う。
だから、余程の事がない限り。
私も、人間と密接に関わる気はない。
一応、ネット上などでやりとりしている相手はいるが。
それも、必要以上に関わるつもりはなかった。
さて、寺に着く。
夕方になると、雰囲気があるなあ。
そう思う。
管理ロボットは、今日も来る事を知っているので、別にまた来たと言うような顔はしない。
雰囲気が出て来た寺を、軽く見て回る。
毘沙門天の象も、日中と違って夜になると、なるほど確かに迫力が出てくる。
これが明王などになると、恐ろしさは倍増していただろう。
宣教師が悪魔の像か何かに違いないと勘違いするのも頷ける。
だが、私は別にこれでいいと思う。
この手のものは、悪しきものを怖れさせるために会えて怖い形相や姿をしているという存在だ。
だから、怖がってくれるのはそれで相手も満足だろう。
勿論、仏教の神格を象った像に人格があれば、だが。
床を踏むときの、きゅっきゅっという気持ちの良い音も、夕方になってくるとかなり雰囲気が違う。
一通りみて回った後、客間に通される。
そして同じようにお茶を出されたのだが。
恐らく昨日ので、私の好みを学習したのだろう。
味が露骨に向上して、私好みになっていた。
良い感じだ。
リラックスして、周囲を見る。
前とは全く違う条件。さて、小豆研ぎは出るだろうか。
この寺は曰く付きの場所で、色々な怪異話がある。小豆研ぎの話もある。ただ、小豆研ぎではなく、類種だが。
小豆研ぎは類種が多い怪異で、正体について考察しているケースも多い。
タヌキや狢、狐が正体になっている事もある。
ややこしい事に、狢というのは地方によって穴熊だったりタヌキだったり両方だったりするので。
どっちにしても、わからんものはよくわからん生物の仕業にしてしまおうという心理が働くものなのだろう。
足をぱたぱたとしながら。出無いかなーと思って待つ。
この寺は条件が悪いらしく、家鳴りは出無い。
その代わり、他の怪異は出るかも知れない。
ただ。それはそれこれはこれだ。
もう一杯お茶を口にした頃には、少しずつわくわくも消え始めていた。
だが、経験上だが。
わくわくしているときは、怪異は出無い。
「かあちゃんさ」
「どうしましたか」
「出無いねえ」
「私は一度も未解明の怪異というものを経験も理解も出来たことがありません。 主が出たと喜んでいるのを見ている時もです」
レトンは相変わらず辛辣だ。
だが、それでいいのだ。
私は苦笑いする。
「どうしても怪異は主観によるからね。 仏教の根幹思想の唯識論ってのは、ある意味正しいと言える訳だ」
「全ての認識対象は無実体、でしたっけ。 確かにそれぞれの主観によるものは、全てが違っているというのには同意できます。 しかしながら、客観的に全てが共通するものも世界には多数存在しているのも事実です」
「その通り。 だからこそに、怪異は興味深い」
「理解しかねますね」
レトンは茶を啜る。ナノマシン茶を。
私も、茶を啜る。さっと管理ロボットが来て、また茶を淹れてくれた。次はいらないというと、円筒形の形状の一部を動かして一礼し戻っていく。
外で虫が鳴いている。
何か、とても鋭い鳴き声だ。
威嚇とかではなくて、メスを探すのに必死なのだろう。
昔は人間も似たような感じで異性にアプローチしていたのだろうが。
人間が「文明を構築した存在」になってからは。
動物とは明確に変わった。
それが大きなバグを作り出していき、ようやく解消できたのはつい最近。色々と人間の歴史は紆余曲折と殺戮と無駄を繰り返して来たのである。
「こういう鋭い音の中に、音の怪が混じっていないかなあ」
「願望を持つのは自由ですが、それはあくまで願望の領域に過ぎません」
「その通りだよねえ。 理論的にまとめてくれるといつも助かる」
「それを主は求めておいでですね。 私はそれに応じるだけです」
黙々と、茶を啜る。
やはり、体を無理矢理疲れさせないと駄目か。そう思っていた矢先だった。
ざっざっ。
また、例の音がする。
あわてて周囲を見回した。だが、レトンは小首を傾げるばかりだった。
「また出ましたか?」
「うん。 聞こえた」
「……データ確認。 なるほど、私には聞こえませんでした。 主の耳よりも、あらゆる音域の音を客観的に取得できているはずなのですが」
「やっぱり頭の中に音の怪も住んでるのかなあ。 だとすると、色々な意味で近代には出無くなるわけだわ」
小豆研ぎの記録は、近年では殆ど存在していない。
迷信の一言で斬って捨てられたこともある。
おかしな話で、幽霊話は21世紀になっても大健在だった。
どうしてか、此方は不思議な説得力を持っていたのだ。
怪異と幽霊と何が違うと言うのか。
私はそれをどうしても理解出来ないが。ともかく、オカルトと言えば幽霊話であり。妖怪をはじめとする怪異は隅に追いやられた時代もあったのだ。
とはいっても、そんな時代でもネットロアは存在していた。
結局の所、ネットロアも昔から伝わる妖怪話と、同じだったのではあるまいか。
面白おかしく誰かが話して聞かせて広まったものも。
何かしらの現象で人が死んで。それが妖怪の仕業で起きた事に違いないと勘違いしたケースもあるだろうが。
腕組みして、小首を傾げる。
今回は疲れてもいないし、心に隙だってなかった。
いずれにしても、これは分析を専門とする別の人間がデータを調べるべきなのかも知れない。
私は伸びをすると、お茶を飲み干す。
しばしして、時間が来ていた。
「満足そうですね」
「うん。 また会えたから」
「それにしても妙ですね。 そうなると、疲れていなくてもその小豆研ぎという妖怪は出ることになります」
「そうなるね。 一体どういうことだろ」
ともかく、宿泊施設に戻る。
今の時代は、レトンだけではない。様々な周辺装置で、人間が主観的に見ていたものなどを全て分析する事が可能だ。
それらのデータは、全てレポートに盛り込む。
小豆研ぎが出た瞬間だけでは無い。
私が小豆研ぎを研究しているフィールドワークの最中、全てのデータを盛り込むのが基本。
そうすることで、何かしらの事が分かるかも知れない。
ただ私は、色々な怪異に遭遇はしてきているが。
しかしながら、それの正体を解明できたことは無い。
完全に解明されて、殺されてしまった怪異は既に研究もされていない。
だから、或いはだが。
迷信だと言い捨てられて。うち捨てられた怪異くらいしか、今の時代は生きる事が出来ないのかも知れない。
それも、私みたいな変わり者の頭の中でしか。
それはそれで、悲しい話だった。
忙しく感情が動く中。
私は淡々とレポートを仕上げる。
レポートを仕上げて、それで適当な所で寝る。
明日は古民家の方に夕暮れ時に出向く予定だ。
それはそれで楽しそうである。
それからは、山とか川沿いとかを色々歩き回って。色々、反応をみていくしかないだろう。
寝る事にする。
レトンが寝るための環境を整えてくれるので。
私が苦労する事は、ほぼなかった。
私が苦労するのは、怪異に会うための四苦八苦。
今は幸福度が高い時代だ。
だから、それだけでも充分だった。
夢を見た。
古い古い時代だ。
私は、ぼんやりと歩いていた。そうしたら、人の声が聞こえる。いや、人の声ではない。これは、伝承にある小豆研ぎの声だ。
「小豆をとぎましょか。 人を取って食べましょか」
そんな風な声。
そうそう、小豆研ぎの言葉だ。
こんな風に小豆研ぎはいいながら、人々を恐怖に陥れた。そういう怪異という伝承が伝わっている。
とはいっても、最初はただの音の怪だった。
これは後になって出現した、人格を持った小豆研ぎの声だ。
ひょっとしてだが。
ただの変わり者が、周囲を驚かそうとして、こういうことをした可能性もある。
勿論それはあくまで可能性。
妖怪の正体は、各地にいた変わり者、などという説もあるが。
これに関しては、私は違うと思っている。
それでは一切合切説明がつかない妖怪もたくさんいる。
それが現実である。
良い夢だな。
そう思いながら、私は歩く。
いつの間にか、たくさんの妖怪が私に着いてきていた。足下をちょこちょこ歩いているのは、手足が生えた小物達。
いわゆる付喪神だ。
空を舞っているのは布。
ただの布だ。
一反木綿というやつか。
進めなくなる。
塗り壁である。
これも、また楽しい経験だ。なお、塗り壁もタヌキだったり狢だったりが正体にされることもあり。
昔の人達は、分からない事を必死に説明しようとしていたのが分かる。
遠くに鬼火が燃えている。
そういえば、一時期あれはプラズマが原因だのという話があったっけ。
実際には単に人体要するに死体に含まれるリンが燃えているだけという話もあったが。
その割りには、再現実験の類は殆どなかった。
科学というのは、100%再現出来て初めて科学になる。
そういう意味では、リンが原因だのプラズマが原因だのと勝手に言い合うのはいいのだが。
それならまずは100%再現してから言って欲しいものだ。
鬼火、綺麗だなあ。
私はそう思って、手をかざしてうっとり見やる。
怪異達は、私をしばらく囲んでいたが。
呆れたのか、そのままぞろぞろと去って行った。
それはそうだろう。
怖がるどころか喜んでいるのだから。
怪異にとっては、相手を怖がらせることが仕事みたいなものだ。それに、やはり恐怖の中に怪異は住むのだと思う。
怖がらない人間なんて、それこそ怪異にとっては客でもなんでもあるまい。
ちょっと去って行く怪異達を見て、寂しいなと思った。
最後に、威厳のある老人が来る。
これはひょっとして。
「貴方は、山ン本五郎左衛門さん?」
「いかにも」
山ン本五郎左衛門。
ある文献において出現したとされる、「魔王」である。
百人の人間を驚かせるべく怪異をけしかけるという悪戯をしていた東日本の妖怪の長という設定の存在であり。
魔王と言う禍々しい肩書きの割りに、やっているのは人間を驚かせるだけという。無害極まりない行動。
そして怪異の本質とも言えるような存在だ。
西日本にも似たような「魔王」がいたらしいが。
それはそれ。
ともかく、怪異好きなら垂涎の相手だ。
ぬらりひょんや一時期は怪異の頭領とされていた見上げ入道。またはいわゆる日本三大妖怪などと並ぶ。大人気スターだと言える。
ひょおっと、私は思わず声が出ていた。
アイドルの至近距離に出られたファンの心境だったかも知れない。
老人は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
ここまで脅かしがいがない人間は初めてだ、と顔に書いていた。
天狗でも狐狸の類でもないと名乗ったらしいので、この国の平和な怪異らしい怪異なのだろう。
同じ怪異でも、中華や東南アジアでは兎に角怪異は凶悪そのものの性質を持っていたりするのだが。
個人的には、それは文化的な違いであって。
実際問題、別文化圏でも、怪異に殺された人間なんてのは……余程吃驚しすぎて足を滑らせて川に転落とか。そういうケースを除けばないのではないかとも思っている。
「時代と言う奴か。 お前さんは本当に何をけしかけても驚く様子がないな」
「だって、未知って素敵じゃないですか!」
「そうかそうか。 根っからの学者というわけだ。 しかも、未知の正体を暴いて未知を殺そうとも考えていないと」
「それは私情という奴です。 全部暴いたら、怪異は死んでしまいますし。 でももしも怪異を殺すときには、それは供養だとも考えます」
でも、研究はする。
その研究をベースに、誰かが怪異を暴いて殺すかも知れない。私が殺すかも知れない。
だがそれはそれ。
その矛盾こそ、私だ。
そして矛盾があるからこそ。私は怪異と相性が良いのかも知れないと思っている。
「これが夢だって事は分かっていますが、色々話聞かせてください。 貴方、どういう存在なんですか? 魔王と言うのは知ってますけど! 日本神話系? 仏教系?」
「そういったものとは関係無いな。 儂は夜の闇の権化、人の心が作り出す闇の中の闇に住まうもの。 本来だったら凶悪極まりない世界を食い尽くすものにでもされただろうが、この国の民は結局怪異を真剣に怖がる事がなかった」
「そうですねえ。 そうなると、夜魔の一種に分類されるのかな……」
「分類などどうでもいい。 そういった分類こそが、怪異の力を弱める事になる。 儂等は「訳が分からない存在」でかまわない。 それ以上でも以下でもないし、お前さんが言ったとおり怪異は正体を暴かれたときに死ぬのでな」
そうかそうか。
メモを取りたい。
しかし、夢の中だ。メモなんか、とりようがない。
それにこれはあくまで夢だ。
今、話している山ン本さんはただの私の心の中に住む者。
いやまて。
そうなると、私の頭の中は、山ン本さん程の大物が出る程、怪異と相性がいいという事では無いか。
夢はそもそも記憶の整理作業だ。
そう考えてみると、私としては嬉しい事がたくさん山盛りである。
「怪異を研究するのはいい。 だが、儂らはもう昔ほどの力もない。 まあ新参は今の時代にも出現はしているがな」
側を通って行くのは、あれはくねくねか。
ネットロアの代名詞とも言える、見たら発狂するとかなんとかいう存在。
遠くに見えるのはきさらぎ駅か。
おお、あれは。
姦姦蛇螺ではないか。
腕が六本もある蛇女みたいな妖怪だ。強烈な呪いがあるとかなんとか。でも、あくまでネットロアの産物だ。
実際にそれが出現したという話は聞いたこともない。
それらが、私の側を通ったり、遠くに見えたりしている。
私の専門ではないけれど。
これらは20世紀や21世紀に生まれた怪異達。
とても素敵だ。
「かろうじて、あれら新参の力もあって、我等怪異は滅びずにいる。 だが、それも人間の意識が根本的に変わったら滅びてしまうのだろうな」
「滅びないでください! なんなら私が研究しつづけますので!」
「はあ。 まったくわからん奴だ。 儂は行くぞ」
「またいつでも来てください!」
手を昂奮してぱたぱた振ると。呆れたように山ン本さんは去って行く。
ふと。目が覚める。
よだれがたくさん出ていたので、拭う。
夢は全部忘れていた。
でも、なんだかとても幸せな夢を見た気がした。
3、音を探して
機嫌が露骨に良いのを見て、レトンがまた呆れる。いつもレトンは呆れているが、それでいい。
私は自分で何となく分かっている。
調子に乗ると駄目なのだと。
だから、側で呆れることによって、私をたしなめる存在がいてくれるくらいが丁度良いのである。
だからレトンは今後もどんどん呆れてほしい。
「良い夢みた気がする」
「良い夢ですか。 一応記録は取ってありますが……」
「いや、それは教えなくていい」
「そうですか」
私はまあ変わり者だ。良い夢というと、どんなのが良いかは、人によって変わってくるだろう。
昔はなんでもたくさん食べられる夢が、良い夢だった時代もあったそうだ。
だからもう食べられないという寝言は、良い夢の代名詞だったとか。
まあ、そんな夢は。飽食の時代には過去のものとなった。
海外の小説などでは、魅力的な異性と生殖行為を行う夢がいいものとして頻繁に出てくる。
本当に好きなんだなと思って呆れてしまうが。
逆に、そういう夢が好きな人からしてみれば。
多分妖怪が夢に出て来たら大喜びしてインタビューとか始めるような私の夢を見たら。それこそ理解出来ないものを見ている顔をして、後ずさるか逃げるだろう。
別にそれでかまわない。
理解し合えない人間は多い。
そして今は、そういう人間が無理に理解しあえなくても良い時代が来ている。
それが全てなのだから。
今日は古民家に来ているが。家鳴りは結構あるし、外で虫は散々鳴いているのだけれども。
小豆研ぎは出無い。
機嫌が良すぎるのが原因だろうか。
やっぱり疲労がある程度影響しているのか。
いや、お寺ではそれとは関係無しに小豆研ぎが出たではないか。やっぱりそれは原因の一つに思える。
脳波のパターンか何かが原因か。
いや、それも分からない。
色々なデータから、分析していくしかないだろう。
この辺りは。私はやっぱり学者としての脳みそをしている事になる。怪異は大好きだが、それはそれとして分析したい欲求も強い。
実際にリアル妖怪がいる世界に生まれていたら、どれだけ幸せだっただろう。
だけれども、そんな世界があったとしたら、危険な妖怪も多かっただろうし。私はあっさり殺されていたかも知れないな。
そう思って、苦笑いする。
古民家では、結局小豆研ぎは出てくれなかった。
嘆息すると、がっかりして宿泊施設に戻る。レトンは側を着いてきてくれている。周囲には、虫の鳴き声がたくさん。
目の前を、大きなバッタが飛んで過ぎていった。
おおと、喜びの声が漏れる。
こういうのも、怪異と誤認されやすい。特に夜闇の道では。
もしもこれが怪異と誤認される要因だったらと思うと、ちょっと嬉しい。その前に一瞬だけ驚きもしたが。
「ショウリョウバッタですね」
「いや、おっきいねえ」
「海外にはもっと大きな品種もいます」
「うん、そうだろうね」
そんな事を話ながら、宿泊所に到着。
仕事柄、田舎ばっかり回っているので。宿泊所に着くと、まずはレトンが靴から何からチェックをする。
ヤマビルが数匹ついていたらしい。
恐らくだが、帰り道で付着したのだろう。ただ肌に食い込んでいたわけではなく、靴についていただけだ。
レトンが手際よくひょいひょいと外に捨てていく。
如何にナノマシンを使って病原菌の管理とかしているとはいえ、危険な事に代わりはないのだ。
「移動中についた病害虫については、私が後でレポートを役所に入れておきます」
「よろしく。 この辺りも自然に関しては管理が徹底しているね」
「一時期無頓着過ぎただけかと」
「それもそうか」
後は、夕食を取って、それから。
そういえば。
宿泊施設の類で、自分に都合が良い環境を作ると。
ほぼ怪異が出る確率は絶無だ。
いわゆる幽霊屋敷だの、事故物件だのといわれるような代物は21世紀でも結構健在だったらしく。
いわゆる「見える人」は、自分のテリトリである筈の家でも怪異に遭遇するケースが多かったらしいが。
私は散々曰く付きの場所に足を運んでいるのに。
そういった怪異と自宅で遭遇した事は一度もない。
よく幽霊を連れて帰ってくるとかそういうような話があるらしいが。
それなら、怪異がどうやってでも脅かしてやろうと、私についてきて家にいついてもおかしく無さそうだし。
この辺りの宿泊施設なんて、どれだけの怪異の縄張りと重なっているか知れたものではない。
それなのにリラックスした環境では怪異は出無い。
いや、私のテリトリでは、だろうか。
この間の寺での小豆研ぎ。レトンは認識出来ていなかった。あの時、私は結構リラックスできていた筈だ。
それなのに小豆研ぎは出た。
私のテリトリでは無い。
それが重要なのか。
少し、考え込んでしまう。
そういえば、今までフィールドワークをしていて、色々な怪異と主観的に遭遇してきた。
レトンはとにかく皮肉屋だけれども、同時に絶対に嘘はつかない。だから、レトンとの話をすれば、それが主観的なものなのかは一発で分かる。
これはレトンらしいというか。レトンに私が求めている特徴だ。嘘をつくロボットも今はいるらしいが。
それはあくまで主人が求めている場合に限る。
私は嘘が大嫌いである。
怪異を作った人間を嘘つきという人間もいるかも知れないが。それはちょっと違うとも考えているが。
いずれにしても、悪意を持って嘘をついたのなら、私は其奴が嫌いだ。
関わり合いになりたくもない。
いずれにしてもだ。
私のいまいる場所が、テリトリだから怪異は出無いのか。
そうなると、私は怪異のテリトリに出向いて。そうだと認識しているときに怪異に会っているのではあるまいか。
だが、それは仮説だ。
もっとたくさんのデータを積み重ねていかなければ分からないだろう。怪異ほど、主観的な存在はいないのだ。
幽霊と同じく、見えない人には一切見えない。
そういうものである。
頭を掻き回す。
怪異は好きだが。
頭から存在を信じている訳でもない。
怪異は好きだけれども。
自分のテリトリに怪異が出たことは一度もない。
私は矛盾の塊で、それを自覚もしている。
怪異も私を多分好きでは無いだろう。だけれども私は好きだ。愛情は要するに一方通行である。
それに愛情を向けているにもかかわらず、怪異に実体があるとは一切考えてもいない。
この辺り私は、色々な意味で歪んでもいるのだろうなと思う。
とにかく、レポートを書き上げる。
内容については、自動で色々添削してくれるので、それに任せる。誤字脱字も、ほぼ出ることはない。
一通り、今日の作業を終了。
伸びをすると、私は次の日に備える。
別に良い夢を毎日見る訳でもない。
翌日は、ごく普通に起きて。
レトンが朝食を持ってきて。スケジュールを確認して。そして、指定されている時間に出かける。
それだけだった。
山奥に再び入る。
今日は日中だ。
日中の山奥は、思ったよりも静かである。ドローンが二機、私をしっかり護衛しつつ監視もしている。
この辺りは猪が出るらしい。
猪は日本でも最大二百sくらいにまで成長する上、凄まじい突進力を誇る。雑食性という事もあって、危険度は月の輪熊と大して変わらない。
また、猪の足は強力なブレーキを備えていて、曲がることも簡単にこなす。曲がれずに木にぶつかって即死とか。ひらりと回避とか。そういう事は絶対に出来ない。
人間とか言う低スペック生物と違って、そもそもの戦闘力が次元違いなのだ。これは熊も同じである。
猪は繁殖速度が速い事もあって、ドローンは状況を見ながら数を間引く作業をしているそうである。
そして間引くと、猪は雑食の恐ろしさを発揮する。
雑食の動物は特にその傾向があるが。
死んだら親兄弟子供関係無く餌に早変わりだ。
ドローンは間引き作業をする際には。猪には基本的に認識出来ないようにさっと特殊なレーザーなどで処理するそうなのだが。
間引かれた猪は、あっと言う間に他の同類によってムシャムシャと骨まで食われてしまうそうだ。
猪と近縁種……というか家畜化した猪である豚も、ほぼ同じ性質を持つ。
生物としての性能もそうだが、顎の強さも凄まじい。
人間なんか、骨ごとそのままバリバリと食ってしまう。文字通り、何も残さず。
このため古くでは、犯罪組織が死体の処理をするために、豚を利用していたという噂が後を絶たなかった。
そしてそれは、概ね真実だったのである。
というわけで、山に入る資格を取るときに、猪の危険性については散々叩き込まれた。
人間が生理的に怖がる蛇や蜘蛛なんかより、猪の方が遙かに危険だと言う事は、私も知っていて。
だからこそ、山に入る許可を得ている。
レトンは勿論、ドローン二機も周囲全域をカバーして警戒してくれているが。それでもどうしても危険はあるかも知れない。
小川のせせらぎが聞こえる。
この辺りは、完全に資格持ちが、短時間研究のために入る以外は許されない場所だ。映像などは、ドローンが撮影したものを誰もが楽しめるようになっている。基本的にあり得ないが。ドローンが墜落した場合は、他のドローンが即時で回収する。
逆に言うと、全てがAI操作の機械が管理し、細心の注意を払って生態系を維持している場所であり。
人間は異物なのだ。
それを理解しながら、川の側を上がって行く。
石がだんだん大きくなっていく。
川にある石というのは、下流に長い長い時間を掛けて転がりながら、徐々に削れて丸くなっていく。
この辺りにある石が大きく形もそれぞれ尖っているのも当然だ。
踏むと、時々足首を捻りそうになる。
そういう場合は、すぐレトンが手を伸ばして。私の手を引く。
レトンに礼を言いながら。周囲を見て回る。
ドローン二機はずっと無言。
基本的にAI管理だ。
私が民俗学研究のために来ている事を、主観でどうこう思う事もなければ。スケジュール通りに行動していれば、特に文句も言わない。
思わぬ研究が、思わぬ技術を生み出す例は枚挙に暇がない。
だから、AIとしても何一つ文句は無いのだろう。ましてや私は、動植物をくすねようとか考えもしない。
AIからして見れば上客だ。
かなり山を登ってきて、結構疲れた。
周囲を見回す。
空気がうまいという感覚は、もう今の時代は失せている。川は綺麗だが、私はフィールドワークで散々こういう所に来ている。
だから、今更である。
まあ綺麗だと思うし。
いいなあとは思うが。
それ以上に怪異に会いたいのだ。
この辺りにも小豆研ぎの伝承はある。だが、普通は夜になって出てくるものである。しかしそれは、固定観念ではないか。
一部の古い文献を鵜呑みにする輩と一緒になってはならない。
こうやって実地で調べる事も、とても大事だ。
一度、石に腰掛けて休む。
近くに、猪がいて、此方に警戒している。
そうレトンに告げられる。
動いた方が良いかと聞き返すが。首を横に振られた。まだ猪は、縄張りに人間が入ってきた事で、警戒しているだけの段階。
これ以上近付くと、警戒から攻撃に態度を移行させるそうだが。
今の段階では、相手が警戒しているだけだ。
私としても、猪に警戒されているくらいで丁度良い。
ほどよい緊張感が、多分小豆研ぎを呼び出しやすくする筈だ。
無言で、その場で待つ。
しかし、あのしょきしょきとかざっざっとかいう音は、聞こえなかった。
残念だが、駄目か。
やっぱり怪異は気まぐれだな。
とにかく、殆ど狙って出せない。
だが、それがいい。
下山を促されたので、そんな時間かと思いながら山を下りる。ドローンが恐らく告げてきたのだろう。
レトンが、猪について聞くと応える。
此方には分からないだけで、レトンとドローン二機は、毎秒凄まじい量のデータをやりとりしているのだ。
「既に猪は警戒を解きました。 此方には興味を持っていないようです」
「そっか、それはよかった」
「あの猪は、子供を半分ほど間引かれた直後だったそうで、かなり気性が荒くなっていたようです。 無理に近付けば、かなり危険だったでしょう」
そうか、それは可哀想な話だが。
しかしながら、これも山に入る時に資格を取って頭に叩き込まれる。
人間の主観で生物を決めつけてはならない。
どんな生物も、人間以外は基本的に生態系を構築するパーツになっている。この星の生物は、基本的に食べないと生きていけない。
植物ですら、人間にはぱっと見では分からないだけで、苛烈な生存競争を行っているのである。
それから脱して、人間はやっと文明を構築する事が出来た。
逆に言うと、人間はだからこそ環境に介入してはならない。
それだけの話だ。
山を下りる。小川もかなり流れが速くなっていた。この辺りは結構涼しいが、21世紀の頃は異常気象でかなり暑かったとか。
それは、この小川に住む生物も色々大変だっただろうな。
そう思って私は。小川を後にしようとして。
そして、不意にそれが聞こえた。
ざっざっ。
思わず振り向く。
レトンが、怪訝そうな顔をしていた。
「その様子だと、出たのですか」
「うん。 今の時刻は?」
「日本時間で11時37分ですね」
「そっかあ。 夜に出るという訳ではないか。 うーん、いずれにしても山の方でも出るのは確認できたか。 問題はやっぱり出る条件だなあ」
ぶつぶつ呟く私だが。
レトンは咳払いする。
「時間が迫っています。 分析はレポートを書きながらにしてください」
「ああ、分かってる。 まあ、会えただけで幸運だと思わないとね」
「会えた、ですか」
「そう、会えたんだよ」
それで充分に満足だ。
私は黙々と、川を離れる。ドローンは私が入るのに資格が必要な場所から抜けると、すぐに戻っていった。
私がいた地点などを調査して、もしも異物などがあるなら回収。場合によってはその場で処理するためだ。
髪の毛などは落ちないように帽子を被ってきているのだが。それでもどうしても気を付けないと何か落ちている可能性もある。
ドローンの行動は、適切だと言えた。
道に来ると、ホバースクーターが来る。自動運転のそれで、レトンと一緒に宿泊施設に戻る。
比較的今回の研究は順調だ。
なんだかんだで小豆研ぎには会えている。
二種類の音があるが。
それについては、分析をして後で調べれば良い。
今の時代は、一瞬の気のせいを、記録して留めておくことが出来るようになっている。主観を客観的に分析出来る、ということだ。
これはとても大きい。
昔には出来なかった技術だ。
主観を別の主観で分析する事しか、昔は出来なかった。
今は脳波を含めて、あらゆるデータを分析出来る。故に科学的に、主観を分析出来るのである。
宿泊施設に戻る。
やはりというかなんというか。自分に都合が良い環境を作ると、其処に怪異は出現しなくなる。
どうしてなのだろう。
ひょっとして、レポートを書いているときの客観的状況も、レポートに載せるか。
レポートを書いているとき、怪異が出て狂喜乱舞という事は今までなかったし。必要ないと思っていたのだが。
レトンは部屋に常にいる訳ではないが、私の状態そのものは常時監視している。
今までのデータも全てとってあるから、レポートに追記することも可能だ。
色々考えながら、レポートを書く。
私は光学式キーボードを使って、空中で打鍵しているけれども。
今では脳波で直接文字を書き込んでレポートを書く人も珍しくは無いとか。
まあ、それは人によるやり方次第だ。
黙々と、打鍵をしていると。
やがて、時間が来て。
レトンが夕食を運んできた。
「レポートの調子はどうですか」
「ちょっと悩んでてね。 そういえば私、家で怪異に遭遇した事とか、こういう自分に都合良く改良した場所で怪異に遭遇した事、ないんだよねえ」
「そもそも怪異に遭遇という現象が、主観の極みであって茶番にしか思えませんので、何とも言えません」
「そうなるよねえ」
一応、今後レポートを書いているときの状況とかもレポートに載せようか考えていると話すと。
更にレトンは呆れたようだった。
「プライバシーに干渉するつもりはありませんが、何もかもさらけ出すようなものなのではありませんか」
「良いって別に。 何も見せて恥ずかしいものなんてないし」
「その発言、聞いていて心配です」
「おっと、かあちゃんでも心配になるか。 確かに露出狂に近いのかも?」
既に存在しなくなった犯罪の名を口にすると。
レトンは無言になった。
ああ、これは一番呆れている奴だ。
冗談だと言うが、レトンは見抜いている。
多分ある程度本気で口にした事に。
まあ、私は別に困る事は全く無いので。それでいいのだけれども。
ともかく、夕食を終えると。
適当な所で切り上げるようにと釘を刺される。
分かっていると応えて、執筆を続ける。
淡々と執筆を続けて。アラームに促されて。作業を一旦停止する。
どうせ何度も推敲作業を兼ねて目を通すのだ。
推敲は専門のソフトがやってくれるので、ほぼ変なミスとかは出無いけれども。それでも一応レポートを書くときには、書いた者の責任としてしっかり推敲はする。
少し悩んだ後。
やはり。通常時の精神状態と、怪異に遭遇した時の精神状態。ある程度、データを並べるべきだと判断。
レポートを書いている時では無くて、リラックスしている時の精神状態をある程度抽出して。
それでレポートに載せるべきだろうと判断した。
まあ私もまだ肉体の方は若いし、確かに他人に見せられないような精神状態の時はあるにはある。
全部さらけ出したら、それはそれで確かにレトンが呆れるような露出狂に近いかもしれない。
なお、そういった性癖の人は今でもいるが。
VRなどで欲求を発散することで、犯罪を起こさないように工夫が為されている。
欲望を無闇に抑えるのでは、一神教でガチガチに戒律を固めていた頃の欧州や、般若湯やらと屁理屈をこねる仏僧と同じだ。
欲求発散の手段が陰湿化するだけである。
だから今では、どうしても欲求が強い人間は。それを仮想空間で発散する手段が確立されている。
シリアルキラーになりうる人間も、綺麗に発散できるようになっているため、問題はほぼ起こさないらしい。
そういえば私は、自分の客観的分析を見た事があるが。
なんとかいう項目がかなりヤバめだったらしく。レトンがたまに変なVRをやるように指示してくるっけ。
まあ興味がないし。もし必要があったら、それも乗せるだけ。
誰でも、心の庭には闇がある。
それは恥ずかしい事でも何でも無いし。
それが研究に必要なのだとしたら、出すのは私としても吝かでは無い。それだけの話である。
とにかく、今日は寝ることにする。
レトンもすぐに対応してくれて、眠るのに適した環境にしてくれる。
21世紀の一番気象異常が酷かった頃は、この国は体感的に世界一暑い国の一つであったらしいのだが。
今はそんな事もなく。
そこまで気合いを入れて空調を調整しなくても。
私は眠ることが出来ていた。
あれよあれよと言う間に、最終日が来てしまう。
調査は事前に役所と打ち合わせした上で、資格も加味して見る事が出来る場所なども決まってくる。
資格は散々学者になる時に取ったけれども。
それでも足りない事があって。
調査地について事前に調べているとき、資格が足りない事に気付くと。あわてて催眠学習などで資格を取ることがある。
こういった現地調査は、一月ほど滞在するのが普通だが。
その一月の前には、準備を色々しなければならないのである。
幸い今は、お金の問題は誰もしなくて良い。
それだけが、救いだろうか。
昔は何もかもが金だったから。
研究者の中にも、金に困った挙げ句。腐った企業の御用学者をして、研究費用を稼ぐような輩もいたらしい。
恥ずかしい話ではあるが。
やはり人間、貧すれば鈍するのだろう。
学者としての最低限のプライドと、研究が出来ないという現実を天秤に掛けると。どうしても落ちてしまう人は出て来てしまう。
自由経済とは名ばかりの無法経済は。
そうやって芽を摘んでいったわけだ。
最終日は、何度か足を運んだ深山に出向く。
今日は真っ昼間から、夕方に掛けての調査だ。本当だったら一日中いたいくらいなのだが、役所から許可が下りなかった。
相手は人間では無いから、不正はないし。
だからこそ、文句を良いようにも拳の振り上げどころがない。
それに環境調整を行っている監視用ドローンの負荷や、後で私の行動の跡地を調査して、環境に影響が出ないように丁寧に作業をすることもある。
それらの機械の負荷を考えると。
私としても、文句は言えない。
こういう思考が出てくるのも、しっかり事前に資格を取るときに勉強をしているからであって。
だからこそ、理屈で殴られて何も文句は言えなくなる。
そういえば、21世紀の人間んは、正論を言われる事を極端に嫌っていたのだっけ。
確かに私も気分は良くないが。
正しいから正論というのであって。
それを聞けないのは、単に脳が衰えたからだったり。或いはその人間の器が小さいだけである。
山の中を歩きながら、小豆研ぎを探す。
小豆研ぎ−。出ておいでー。
そんな風に声を掛けて歩きたい位だけれども、しかしながらそういった大声を深山で出す事は禁止されている。
当たり前の話で、環境に悪影響を及ぼす。
遺伝子から再生されて、生態系を担っている生物の中には、憶病な者も珍しくはない。大声を出して練り歩いたりしたら、縄張りを変えかねない。
不意に、レトンに腕を引かれた。
「カワウソが威嚇までして強く警戒しています。 止まってください」
「おっと、それは良くないね」
毛皮などからDNAを抽出し、再生されたニホンカワウソがこの辺りにいることは知っているけれども。
向こうは気付いているか。
ならば、仕方がない。ガイドに沿って、歩くだけだ。
深山だといって、別に歩きにくい訳でもない。
着いてきている二機のドローンも、丁寧にナビをして。それがレトンにほぼリアルタイムで伝わっている。
護衛としても、レトンだけで充分なくらいだ。
だから私に危険はない。
ただ、もうちょっと危険なくらいで怪異は出やすくなるだろう。
小豆研ぎは、当然出てこない。
私としての理想は、小豆研ぎという怪異が実体を持ってバーンと出て来てくれることだけれども。
まあそれは流石にないだろう。
私だって、実体を持った怪異がいるとは思っていない。
もしいたら即座にサインをねだっている所だ。
相手がレトン同様に呆れるのが、今から分かってしまってなんともはや。
かなり暗くなってきた。
今の時期は、暗くなるのも早い。
私は会えて、ライトは最小限にして歩く。
結構雰囲気があるが。
小豆研ぎはどうも恐怖がトリガーにはなっていないらしい。
結局、どういう経緯で出てくるのかがよく分からなかったけれども。レポートに出すには、それはそれでかまわないだろう。
なおレポートには、チャタテムシなどの出す音もしっかり聞いて確認をしているのだけれども。
どうしてもそれが小豆を研ぐ音には、私には聞こえなかった。
最終日は、あんまり成果が出ない。
私の研究のジンクスだ。
今日もジンクスは当たった。
程なく、完全に日が落ちて。怪異がいかにも出そうな雰囲気が来たにもかかわらず。怪異は出なかった。
最悪河童でも妖怪としてのタヌキでも何でもいいのになあ。
そう思って歩いていたのに、周囲は普通の動物の鳴き声。虫の鳴き声。それに木々のざわめき。
小川のせせらぎ。
怪異とは無縁の、今は完璧にドローンが生態系を維持している深山そのものだ。
それが分かってしまうから、冷めてしまう。
怪異だって、これでは出てこないのも仕方がないかも知れない。
まあいい。
今回のスケジュールでも、数回小豆研ぎは出た。
法則性は理解出来なかったが、レポートは出せる。
そしてこのレポートを元に、いずれもっと才能がある人間が、小豆研ぎの真相に迫ってくれるかも知れない。
怪異が殺されるのは悲しい事だが。
もしも何かしらの法則があるなら、知りたいと考えるのも研究者。学者としての本音でもあるのだ。
だから、私は実際に小豆研ぎにあって。
その時の状況を全て記録してレポートに出せるのだから、可としよう。
下山の時間を告げられる。
私は頷くと、黙々とガイドに従って山を下りる。
遠くで何かが大きな声で鳴いている。
多分鳥だろうが。何の鳥だろう。
まあ、興味もない。
山を下りて。そしてレトンに靴とかチェックして貰う。かなりの数のヤマビルがついていたようだ。
全部取り除く。
着込んでいる服や靴がしっかりしているから、肌にまでは食い込まれていない。
この山はかなりヒルが多いな。
そう思うが、別にどうでもいい。生態系としては、それが自然と言う事なのだろうから。
スクーターで宿泊施設に向かう。
後はレトンと一緒に後片付けをして、家に帰るだけだ。
レトンが黙々と片付けをしているのを、のたのた手伝う。大きめの荷物は宅配してもらって。
後は、これも自動運転のレンタルカーで、私達ごと家に運ぶだけだ。
電車を使うケースもあるのだけれども。
今回は家から車を使って来ている。まあ自動運転なので、レトンがいざという時の支援につくくらい、だが。
「今回も小豆研ぎに会えた。 だから、最終日は会えなくてもよしとするべき何だろうね」
「主の思考回路はよく分かりません」
「自分でも分からないからそれはいいよ。 それに自分の深奥を覗き込みすぎると、多分覗き返されるし」
「はあ、そうですか」
後は仮眠を取ると言うと、レトンが家に着いたら起こすと言ってくれる。
だから、遠慮なく助手席で眠らせて貰う事にする。
夢は見なかった。
夢の内容は基本的に覚えていないのだけれども。
それでも、何か夢を見たことは覚えているので。それはちょっと寂しいなと、家について思った。
4、真相は遠く分からず故に怪異
レポートを仕上げて提出する。
各国に民俗学者は今もそれなりの数がいるらしい。中にはシミュレーターを組んだ上で、大規模な実験をしている者もいるらしいが。
こういった実験は、ワールドシミュレーターの構築段階の試験と内容が被っているとか。
いずれ超精密なワールドシミュレーターを作る事で。なんだかいう技術の前段階にするらしい。
そのために、民俗学者も出ているというのは、それはそれで面白い話だった。
ともかく、レポートを出したので、しばらくぼんやりすることにする。
研究でフィールドワークしている時は、とにかくわくわくしたりがっかりしたりで、感情がめまぐるしく動くけれど。
普段は怪異の文献を読みあさったり。
怪異が出てくるゲームを遊んだり。
或いは面白いレポートを探したりで。フィールドワークの前段階になる行動をしている事が多い。
まあこの時代に生まれて、私は幸せだったのだろう。
一番人類が大変だったらしい21世紀前半に生まれなくて良かった、と思うだけである。
レポートが終わったので、ちょっといいものでも食べに行こうとレトンに提案。今の時代も、外食店はある。
中には人間が料理をしているマニアックな店もあるが。
料理には色々な免許が必要で。
基本的には支援ロボットの方がどうしても料理の技量は上になる。
家でもだいたい昔の名店の味くらいは出てくる時代だ。
よって、余程の特殊な調理行程を経ているとか、そういう料理をする店だけが今は残っているのが現状だ。
で、そういう店に出向く。
当然、変わり者ばかりが来ている。
頭が鶏冠みたいな客がいたので、攻めてるなあと感心する。
あれはモヒカンだったか。
本来は一度絶滅した髪型らしいのだけれども。
今はまた、ああしてそれが復活している。
そう考えてみると、文化が復活する事もあるんだなあと。ちょっと感心していた。
そういえば、パンチパーマも一部の人間がやっているらしい。
まあ、髪型は自由にするのが普通の時代だ。
ドレスコードとか言う巫山戯たものもとっくに過去の遺物になっているし。
別に店で何を着ようが勝手。
流石に全裸とかで出歩くのは禁じられているが。
料理を黙々と食べる。
此処にある設備を使った石焼きだとかのハンバーグだが。まあ確かにいつものレトンのより美味しいような気がする。
黙々と食べる。レトンはレトンで、いつものナノマシン入りのを食べていた。
「そういえばかあちゃん」
「如何なさいましたか」
「次の研究はちょっと遠いんだけれども、何か気を付けることとかあるかな」
「まあそれが主の仕事ですから、別にかまいませんが。 基本的な準備作業は、私が言われたら全てやっておきます」
そっか。
まあそうだよなあ。
家事能力とかが私は壊滅的なので、レトンにその辺りは頼む事になるが。
そもそも今の時代は、支援ロボットが家事は殆どしてしまうのが普通。
家事に使うような労力は、人間が別の事に使う。
「それで、次は何を研究するつもりですか」
「ハウスメイド」
「ああ、日本で言うと座敷童ですか」
「そうなる」
ハウスメイド系統の怪異。
世界中に類例がいる、家に居着く怪異だ。
次はまた一月くらい時間をとって、東北の方を調査する。今回はフィールドワークといっても、古民家を中心に回ることになるから。あんまり歩くようなことはないだろう。
現在東北は無人地帯も多く。
そう言った場所は。監視ロボットが監視して回っている。
一時期はこう言う場所に勝手に住み着くホームレスやら。留守にしている間に好き勝手をする輩が耐えなかったらしいが。
今は警報装置云々以前に、人間なんぞよりも遙かに感覚が優れている監視ロボットが巡回しているので。
悪さなんかしようがない。
監視ロボットと泥棒のいたちごっこは22世紀まで続いたらしいのだが。
23世紀頃には監視ロボットのテクノロジーが完全にあらゆる泥棒の技術を凌駕。
今ではすっかり泥棒は絶滅した。
というわけで、場合によっては民宿とかになっている古民家を調べて回ることになる。
これはこれでいい。
古民家の類には、ハウスメイド以外にもいろんな怪異の伝承が残っているのだから。
「次も楽しみだなー」
「それはそうと、少し分量が足りませんね。 この価格としては……」
「いいよ料理店とはそういうものだし」
伸びをすると、切り上げて帰る事にする。
なんだかんだで、今回も怪異に会えた。
怪異に会えるのは、フィールドワーク専門の学者の特権だ。
私は怪異が大好きだから。
この仕事も大好きだ。
後の時代に変人として嗤われるかも知れないが。
知った事ではない。
私が楽しければ良いし。
それで誰かに迷惑も掛けていない。
ただ、それが全てなのだから。
(続)
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