そこにある何もない壁
プロローグ、夜闇の道
人類の文明がある程度安定してから、だいぶ年月が経つ。一時期は第三次世界大戦の危機とか騒がれていたのだけれども。色々あって世界中で人間が減り始め。人口が三十億を切った辺りで、世界は安定し始めた。
それからは技術開発が主に行われるようになり。
破綻していた結婚制度も殆どが有名無実化。
人間は生まれた時には遺伝子データをバンクに登録し。それから無作為にAIが子供を一種の培養装置で作り。増えすぎないように全世界の統合遺伝子データバンクで管理しながら。子供は基本的に育児ロボットが世話をするのが当たり前になっていた。
こんなご時世でも結婚する人間もいるけれど。
私はそれには多分縁がないだろうな、と思う。
今私は、自分の育ての親であるロボットと一緒に、山の中を歩いていた。なおメイドの格好をしているが。
これはもっともスタンダードなタイプだ。単に私が、スタンダード型から変えていないだけである。
育児用のロボットは色々なタイプが開発されて。最初はとくに円筒型のものが人気だったのだけれども。
やがてそれが多脚型に代わり。
技術の発展に伴って、人型に変わっていった。
それぞれにメリットがあったのだけれども、結局の所人間も刷り込みからは逃れられない生物で。
人間を育てるロボットは、人間と変わらない姿がいい。
そういう理由で、結局私の親は今では私より年下に見えるメイドさんである。銀髪の美しい髪をなびかせているが、顔はとても童顔。
現状のロボットには、子供の成長に合わせて見かけの年を取らせたりも出来るのだけれども。
なんでも育児にはむしろ大人よりもある程度年齢が近く見える人間の方が向いているとかで。
その容姿で作られる場合が多く。
そしてうちの親代わりのロボットは、私の意向で見かけをそのままに固定している。
昔は技術的な問題でロボットの寿命は人間より短かった。
特にガワはどうしようもなかったのだが。
今では技術の進歩もあって、百五十年は稼働が保証されている。
それもガワだけであって。
中身をそのまま入れ替えれば、事実上無限に稼働が可能だ。
だから、少なくともこの親代わりのロボットが私より先に死ぬ事はない。
昔だったら、これを悪用してロボットに頭脳を移植しハイスペックの体で悪事をしようとする人間もいたかも知れないけれども。
貧富の格差もなくなり。
どこの国でも幸福度がとても高い今では。
そういう事は誰もしなくなった。今では年に数回、犯罪が起きれば良い方、くらいなのである。
貧すれば鈍するという言葉が、如何に正しいか。
それを今の時代は証明していた。
私自身は山道を歩くべく、ガチガチに手袋と分厚い登山靴で武装。肌なんか殆どだしていない。
顔も眼鏡と口元までの襟で武装。
頭も帽子をしっかり被る。
そうすることによって、雀蜂とかに襲撃されることを避ける。
この辺りには熊はいないが。
私の親のレトンRX77型は護身用の改造をされており。
護身が必要と判断した場合には、スタンガンで熊でも一撃昏倒させる事が可能である。
ロボットだから、色々と武装に無理が利くのだ。
繰り返すが、発展途上国が存在しなくなり。
誰もが豊かな生活を謳歌しているから。
犯罪はとても減っている。
故に、こうやって山を歩くのも。メイドロボット一人連れて行くだけで大丈夫。
流石に峻険な雪山とかを登山する場合は、監視用のドローンの随行が義務づけられているけれども。
此処はただの山だ。
私は歩き慣れているから、別にそれに困るわけでもない。
さて、この辺だな。
手をかざして、周囲を見回す。
もう少しくらい方が良いだろうか。
そう思って、レトンに話を振る。
「母ちゃん、この辺りに避難用の山小屋とかある?」
「あるにはありますが、少し距離があります。 目的地点からすると、殆ど反対方向になります」
「ああ、そうなると歩かないといけないか……」
「そうなります。 目的を達成するためには、少しばかり面倒な事になるでしょう」
レトンは良い親だ。
昔は親ガチャなんて言葉があったそうだが、今の時代はそれもない。
子供の特性はすぐに無数のデータバンクから取りだされ。育児用のロボットがしっかり教育を行う。
親によって教育のばらつきがあった事態はこれで解消された。
今は西暦でいうと2500年代だが、宇宙から人類は物資を調達できるようになっていて。アステロイドベルトに進出出来るようになってからは、完璧に資源の不足は過去の話になった。
そして富の不公正がなくなった今。
人類は、とても穏やかに過ごしている。
そんな中、マゾめいた行為をしている私はある意味ではなく変人だ。昔に生まれていたら、それこそ何を親にされていたか分からないだろう。
躾と称して暴行を加えられたり。
或いは捨てられていたかも知れない。
そう思うと私は幸せだ。
そういえば、私は左利きなのだが。
それも昔は矯正の対象だったという。左利きを矯正することを強制されて、性格が歪んだ子供も多かったそうだ。
今の育児用ロボットは、子供の特性を見極め、最大限まで能力を引き出すように育成する。
その結果十歳で博士号を取る子供もいるし。
十二でITの最前線で働いている子供もいる。
何の取り柄もないように見える人間にも、しっかり仕事は与えられているし。
どうにもならない人間も、しっかりロボットが面倒を見る。
そういう意味で、今は良い時代なのだが。
私は、そんな時代に。
こんな山奥に一人で突っ込んで、バカみたいな調べ物をしている。
昔、私みたいなのはこう言われていたそうだ。
民俗学者と。
私は今二十歳だが、十六の時に博士号を取っている。確か現時点では、四十年ほど前に八歳で博士号を取った人間がいるらしいので、それほど早い方でもない。
昔の教育は問題だらけだったのだが。
今は大量のデータから最適の勉強法が子供に対して行われるようになっていて。
私のようなのでも、一応博士号を持っているし。
逆に言うと、誰にでも公平にチャンスがあると言う事だ。
昔はコネも実力のうちとか抜かす輩が、アホみたいな経営をやって会社を潰すことが珍しくもなかったそうだが。
今では会社経営などはだいたいAIがやっていて。
基本的に富の極端な偏りは起きないようになっている。
それでいいだろうと思うし。
正直、今の時代に生まれて良かったとも想っていた。
それで、どうしてこんな山の中にいるか、だが。
伝承を調べに来たのだ。
これでも本職なので。
この辺りは、光の加減の関係や、森の植生の関係もあって、闇夜になると本当に一寸も前が見えなくなる。
だが、それが故に生じたのだ。
怪異の伝承が。
周囲を見回すと、かあちゃんであるレトンに言って、その辺りを歩いて回る。
本来だったら暗視ゴーグルとかをつけても良いのだけれども。此処は敢えて、人間の目で闇を体験する必要がある。
勿論レトンという命綱はあるけれども。
それでも、多少これは怖いなと思った。
原始的な恐怖の喚起。
それは、こういった闇の中では顕著になる。
彼方此方をふらふら歩いて見るが。確かに星の光もないようなこんな闇の中。
松明を持って歩いていたような昔の人間は、それは怖い思いをしただろう。
遺伝子データからニホンオオカミなども今では復元され、山の生態系はしっかり監視ロボットやドローンによって守られている。
私が歩いた後なども、後で監視ロボットやドローンがチェックして、生態系に影響があるようなものは注意深く排除するし。
また、いわゆる特定動物。
人間に危害を加えうる生物のデータはレトンと共有していて。
私が襲われないようにも、しっかり対応してくれている。
なお普段はドローンだけが動いていて、監視ロボットが出るのは余程の時だけだ。
遠くで鋭い鳴き声がした。
ちょっと驚いた私に、レトンが言う。
「あれはニホンザルですね。 恐らく狼に襲われたのだと思います。 詳しくは調べないと分かりませんが」
「そっか……」
「まだ調査を続けますか?」
「そうする」
しばらくうろうろするが。
もっと怖くしないと、これは駄目か。
この国の山岳地帯には、不定住民が明治時代前後くらいまではいたという。
サンカの民と呼ばれていたらしいが。
その数はおおよそ二十万ほどもいたそうだ。
明治時代に定住生活に移行し、急速に数を減らしてすぐに絶滅したそうだが。
サンカの民の文化は様々な形でこの国の歴史に残っている。
それはそれとして。
サンカの民は、こんな山の中で暮らしていたんだなあ。
そう思うと、ちょっと尊敬してしまう。
「む……」
思わず、手を伸ばしてみる。
これか。
ちょっと感動した。少し怖いなと思い始めていたタイミングだったから、起きたのだろう。
そう、それは人格を持った存在ではなく。
起きるものなのだ。
妖怪。
私は、それに会いに来た。
西暦2500年にもなって妖怪、と思う人もいるかも知れない。だが、妖怪は実は現役である。
ネットロアと呼ばれるようなものは、今の時代にも次々と産み出されているし。
現在では殆ど仮想空間に入り浸っている人もいるのだが。そういう人ですらも、怪奇現象を報告してくる事があるらしい。
妖怪は今でも、全然現役なのだ。
だからこそに、古い時代の妖怪を調べる事にも意味がある。
妖怪とは心の中に住む者だと誰かがいったらしい。
また、妖怪とは様々な事象が重なり会った結果、出来ていくものだとも研究があるという。
私の研究は。
そもそも人の心の中には妖怪の原型が存在していて。
それは特定条件で目を覚ます、というものだ。
「レトン、すごい。 見て見て」
「一応危険がないように観察はしていますが、何を認識しているのですか?」
「塗り壁」
「……」
呆れたようにレトンが黙る。
塗り壁。
日本に古くから伝承として伝わる妖怪だ。
妖怪としてはかなりメジャーなものの一つだろう。ある著名な妖怪漫画家が、あまりにも有名な金字塔とも言える妖怪作品で半レギュラーとして出していた事もある。
その実態は、こういった闇夜で、進めなくなると言う現象である。
そしてこのタイプの妖怪は、実の所日本だけに存在しているのではない。
その漫画家は、第二次世界大戦で最も過酷だった海外の戦域で戦争を経験し、片腕を失っているのだが。
闇夜の森を遭遇しているときに、この塗り壁に遭遇したと発言していたそうである。
この山には、塗り壁が出る。
そういう伝承が残っているのを記録から割り出したので、私は嬉々として会いに来て。そして、今会う事が出来た。
暗視カメラとかの装備は身に付けていないが、五感を分析する装置や、脳波の測定装置など、そういったものはバリバリに仕込んでいる。
それだけではなく、レトンに客観的に私を観察もさせている。
最初、私が民俗学者になりたいと言ったとき。
レトンは様々な民俗学の資料を用意してきた。
最初は動画。
それらを楽しんだ後は、漫画などの分かりやすいもの。
更には、本格的に興味を持ったと判断した後は、国会図書館に連れて行ってくれた。その後は、其処で色々な資料を読みふけった。
大学の図書館よりも、更に資料が充実している文字通り本の楽園。
私は其処で、幼い頃を過ごしたのである。
今、私はわくわくして。
とても感動していた。
妖怪は恐怖によってその姿を現しやすい。
だから、恐怖によって私はその現象を経験した、というわけだ。
そして経験だけではなく。
今、客観的に分析する装置を多数身に付けている事で。その現象を更に分析する事が出来る。
妖怪はオカルトだが。
その根元には、何かしらのからくりがある。
今でも妖怪は産み出され続けているが。
決してそれは、「迷妄」と全否定していいものでもなく。
かといって「実在する」と全肯定していいものでもない。
こうやって分析して。
現象として調べる。
それが、正しい科学のあり方だ。実際問題、今私は塗り壁と遭遇して、それを経験したのだから。
恐怖がなくなったからだろうか。
塗り壁はもういない。
レトンは側にいてくれている。
「脳波などは正常値に戻りました。 帰りますか?」
「うーん、条件を変えて、何回かこの山を彷徨きたいなあ。 でも、山には入れる時間と場所は役所に決められてるし、仕方がないかなあ。 今日はこれで終わりにする」
「分かりました。 そのように」
「うん」
いずれにしても、今日は下山だ。あまりにも遅くなると、生活リズムが崩れる。
生活リズムを崩していると、簡単に人間は壊れる。
21世紀の頃。
一番人間が暮らしづらい世の中で生きていた頃には。
生活リズムを無茶苦茶にして。
それで体を壊してしまう人が後を絶たなかったそうだ。
今では、そういった仕事は禁止されている。
緊急性が存在する警察や消防なども、ロボットで充分にやれるようになっているから。人間は皆、健康的に生活が出来る。
そういうことなのである。
山道に出ると、ホバースクーターを遠隔操作でレトンが呼び出す。
なんだかんだで、自動運転のシステムは、22世紀になるまでほぼ実用化できなかった。21世紀の頃から技術は存在したのだが、事故ばかり起こして話にならなかったのである。22世紀になった頃に、やっと実用化された技術は。
現在はいわゆる陳腐化を経て、しっかりと定着している。
「馬にでも乗って下山したら、もっと雰囲気が出たかなあ」
「馬に乗るには色々な免許が必要ですが」
「ああ、そうだったそうだった。 ましてやこんな山の中だとなおさらだよねえ」
「そうなります」
冷静なレトンの突っ込みに、私はそう返さざるを得ない。
ホバースクーターに乗ると、後はナビにしたがって山道を降りる。
当然だが、レトンや山を管理しているロボットがいなかったら私は山の中で遭難して。
死の危険も大きかっただろう。
今の時代は、あらゆるものを様々なシステムが監視している。
だからこそ、こういう研究が出来る。
そのありがたみを噛みしめながら、私はスクーターを動かす。とはいっても、行くように指示するだけ。後は全自動で宿泊施設まで輸送されるだけだ。
後部座席にちょんと横座りに乗ったレトンは、周囲を常に警戒してくれている。
こういった山道には、動物が近寄らないように、様々な処置がされていて。
虫一匹飛んでいない。
「今日はとても興味深い研究が出来たなあ」
「主はいつもそうですね」
「興味深いものを見つけるのは、この時代だからこそ大事なんだよ」
「いつかもっと無茶をしないか心配です」
そっかそっか。
いいかあちゃんだな。
ちゃんと研究は手伝ってくれる。
研究のために散々色々な事だって準備してくれる。
最大限の補助もしてくれるし。
研究に理解もある。
その上で心配もしてくれている。
当たり外れがある人間の親なんかよりも、レトンの方がずっと私には有り難い。
私の遺伝子でどこかで子供がいるかも知れないけれど。
その子供を育てようとも思わない。
レトンのようなロボットがしっかり面倒を見てくれた方が。ずっと子供はよく育つだろうから。
いわゆる母性信仰が消えてからだいぶ経つ現在だけれども。
私はそれも、何か研究できるかも知れないと思っている。
程なく下山。だいたい予定通りの時間だ。ちょっと予定より早いくらいである。
借りておいた宿泊施設に入ると、レトンが様々なチェックをしてくれる。
「ヤマビル無し、危険な細菌などの持ち込み無し。 靴は私が預かります。 法の指定に沿って洗浄します」
「分かった、任せるね」
「出来るだけ早くお休みください」
「了解。 明日も夕方から山に登るし、生活のリズムは崩さないようにしないとね」
伸びをすると、私は休む事にする。
このお仕事は。
私の天職と言って良かった。
1、塗り壁
目覚ましに起こされる。
博士号を取った頃とかは、レトンに起こされることも多かった私だけれども。今は目覚ましで起きられるようになっていた。
親離れの時期、いわゆる思春期に支援ロボットが面倒くさくなる者もいるらしいが。
そういう人間は、支援用ロボットを思い切って円筒形に変えたりとか、色々な処置をするらしい。
ただ生活支援用のロボットは国から支給されているもので。
それを排除したがる者はいないそうだ。
まあ確かに便利だし。
何よりも、今の時代は基本的な労働はロボットが行って、収入も得てくれる。
人間は、それぞれ淡々と技術を開発していけばいいし。
そうでなくとも、それぞれにあった仕事をしていけばいい。
労働者を資本家が食い潰したり。
奴隷を専制国家が食い潰したり。
共産主義国家で、みんな貧しくなって一部の幹部だけが金を独占していた時代はもう終わっている。
政治を人間がやらなくなったのが一番大きいのかも知れない。
大きな金が絡むと、人間はその醜悪な本性を現し、どんな悪逆非道でも平気で行うようになる。
権力も同様。
それらから解放されて、人間はある意味でやっと自由になったのかも知れない。
今の時代をディストピアだと言う者もいるらしいが。
少なくとも、私は自由だと感じていたし。
同じように思っている人間の方が多い。
だから、それでいいのではないかと思う。
少なくとも政治に不安はない。
昔は選挙が殆ど罰ゲームに等しい代物だったと聞いているから。
基本的に無茶を強いてこない今の政治を担当しているAIは、私に取っても丁度良いものだった。
服なんかは昨晩の内にレトンがしっかり洗浄してくれている。
着替えを終えると、まずは昨日採取したデータを精査していく。
塗り壁。
しっかり会う事が出来た。
私は妖怪が担当であって、幽霊話とかはあまり興味がない。
無念を残して死んだ人間は今の時代、殆どいないということもあって。
ネットロアも、むしろ「得体が知れない何か変なもの」が主体になって来ているのが現在だ。
よくしたもので、北米は昔犯罪関連のネットロアが中心だったという話だが。
現在では、日本と同じく。「得体が知れないよく分からないもの」がネットロアの主役になっているらしい。
データを見てみると、ふうんと思わず声が出る。
塗り壁と私が遭遇した時の脳波データなどを見ると、明らかに異常が出ている。
夜闇の中で、やっぱり私は命綱があっても怖かったのだろう。
進めないという現象。
それも主観。
それがなんで起きたのかを、データを集めて客観的に調べて行く。
これが、実に面白い。
自分の身に起きたことだというのに。
私自身は、あの時明確に怖がっていたというのに。
その時の私を、今は客観的に分析している。
この辺り、私はちょっとサイコ気味なのかも知れないけれども。それでも、悪事とか働かずに生きていける。
それは、とても良いことだと思う。
淡々と資料を確認して、レポートを書いていく。
塗り壁については様々なレポートが今までにも書かれているのだけれども。それらも参考にしていく。
私の場合はフィールドワーカーだから、過去の資料を分析して云々というよりも。
実際に現地にいって条件を再現して。
それで起きるかどうかを確認するのが好きである。
更に都合が良い事に。
今はレトンのようなロボットもいるし。
自分を客観的に分析出来るシステムも出来ている。
これほどフィールドワークに適している時代はないと思う。
人類は当面絶滅しないだろうとも言われているから。
まだまだこの時代は続くだろう。
平均寿命も今は百四十まで届いているし。
なんなら、思考パターンをPCに移植して、そのまま精神だけ生きる事だって可能だ。ただクローンに意識を移植したり、ロボットに思考パターンを移植する事は厳格に法で禁じられている。
だから、あわてることは一つもない。
博士号を取ってから四年になるが。
私は、人生を焦ったことは、一秒もなかった。
レポートを書いているうちに、レトンが朝食を作って持ってくる。レトン自身は、幾つかのパーツを維持するためのナノマシンを口にしている。
幼い頃は、同じものを食べていると思ったのだが。
レトンが口にしているのは、パンのような見た目でもナノマシンの塊だったりして。後でそれを知ったときには、色々と驚いたものだった。
朝食自体は和食を中心としたもので。
当然ながら、レトンはプロのシェフ同然の技量を発揮してくれる。
おいしいので、満足して食べ終えて。
それで、また仕事に入る。
「主、今日の予定を確認しておきましょうか」
「うん」
「12時に昼食。 18時に夕食。 18時半から、事前に申請している地点から山登りをし、21時に下山します」
「分かった、有難う。 時間になったら声を掛けてね」
レトンは頭を下げると、部屋を出て行く。
食べ物を残すのはきらいなので、綺麗に食べ終えた。充分満足な朝食だった。
私は黙々とレポートにうち込む。
民俗学者に限らず。
昔は学者というのは冷遇されている仕事だったらしく。
食べて行くためには、副業が必須だったらしい。
今の私は、そんなものをしなくてもやっていける。
こう言う意味でも、良い時代に生きていると思う。
淡々と集中してレポートを続ける。あらゆるデータを分析しているうちに、何となく分かってきた事がある。
レトンを呼ぶ。
すぐにレトンは、姿を見せた。
「どうなさいました」
「ちょっと昼夜の食事を減らしてくれる?」
「分かりました。 体に無理が出ない範囲内で減らします」
「頼むよ。 まあ倒れたら、ちゃんと回収して運んでね」
こくりと頷くと、レトンはまた部屋を出て行く。
まあ、研究中の所に側にいられると、気が散るというのもある。
この宿泊施設には、他にも何名か泊まっているらしいが。その人達のロボットともすれ違う。
その中の一人は、親離れの時期に色々面倒だったらしく。
支援ロボットを円筒形にしていた。
まあそれでも機能を充分果たせるのだから、それでいいだろう。
中には成長すると支援ロボットをそのまま性欲処理用に使う者もいるらしいが。私はちょっとそれは遠慮したい。
昼。
レトンが昼食を持ってきたので、それに気付く。
もうそんな時間か。
私は、ちょっとぼさぼさの頭を掻き回していた。
「少しは化粧などすれば、それなりに綺麗になりますのに」
「そうなの?」
「主はそれなりに綺麗とされる容姿になります」
「そっか。 興味がないけれど」
結婚制度が破綻した頃から、人類は実物の異性に興味を持たないケースが増えていったそうである。
まあその頃はフェミニズムだのなんだののカルト思想が流行していて、それで異性に不信感を覚える人も多かったのだろう。
更に生活支援用ロボットが実用化した事もある。
その頃には、遺伝子データから人間を産み出すことが出来るようにもなっていて。
そもそもリスクだらけの結婚という制度は、なくなるべくしてなくなっていったというわけだ。
欲求に関しては別に抑える事も可能だし。
私としても、別に欲求で困ったこともない。
たまーに強めの欲求が来る事もあるが。
今時そんなもの、VRで幾らでも満たす事が出来る。
不健全だと反発する人間も一時期いたらしいのだが。
無作為に遺伝子データを組み合わせることで、非常に多様性のある遺伝子プールを実現できている事や。
何より、結婚制度がそもそも破綻していたこともあって。
人間至上主義的な思想は前時代的なものとなっていて。
やがて、反発の声も消えていったそうである。
そういった人間至上主義の時代の映画を幾つか私も見たことがあるけれども。
無理がある描写ばかりだったので。
今になって見てみると。どうしても小首を傾げてしまう。
一方で、昔の人からしてみれば。今の私達の方が異常に見えるのだろう。
だから、関わらないのが一番。
それだけの話である。
昼食は洋食スタイルだった。淡々と食事をする。
食事の時色々喋る人もいるらしいし。古い時代は食事を集まってするとか、同じメニューを皆で頼まなければならないとか。変な風習があったらしいが。
私は、静かに食事をしたい方だ。
故に、黙々と食事をする。
レトンも、私が食べているものと同じに見えるナノマシンの塊を、完璧なテーブルマナーで口にしていた。
「自分で言っていて何だけれど、ちょっと物足りないね……」
「今からでも増やせますが」
「いや、いい。 多分だけれど、体のコンディションが良くないほど、塗り壁には会いやすくなると思う」
「そうですか。 ただ、生命活動に問題が出るレベルになって来たら、私の方からドクターストップを掛けます」
頷く。
そして、食後にレトンは、私の診察をする。
今は触るだけで採血含めた様々なデータの確認が出来る。昔はレントゲンやらCTやらは本当に大変な手間が掛かったらしいのだが。
今はそれもない。
毎日丁寧に体の診察を支援ロボットがしてくれる。場合によっては調薬もしてくれる。
このため、古くは死因のトップであった癌は既に根絶された。
がん細胞が増えている場合には、即時で対応をしてくれるからである。
どんな年齢の人間でも、体内では一定数のがん細胞が存在していて。それを免疫細胞が排除してくれている。
排除しきれなくなると、体内で癌細胞が爆発的に拡大していく。そして生命活動を脅かす。
それが癌という病気なのだが。
そもそも支援ロボットががん細胞をがっつり確認して、問題があるようなら排除してしまうので。
今はその危険もなくなっている、というわけだ。
「概ね健康ですが、もう少し日光を浴びた方が良いでしょう」
「そういっても、しばらくは夜型に近い生活になるよ。 この手の研究は、どうしても数を重ねないといけないんだから」
「それは分かっています。 それでも可能な限り、日光を浴びてください」
「分かったよ。 かあちゃんがいうなら仕方がない」
レトンは一礼をすると、昼食を下げる。
レトンは自分がなんと呼ばれようと文句を言うことは無い。それは、私に取っても過ごしやすかったし。
多分それを見越した上で、レトンは行動しているのだろう。
伸びをすると、言われたままちょっと外を歩く。レトンも着いてくる。
寂れた街だが、特に治安が悪いというような事もない。
黙々とその辺りを歩いて、適当に土産を買ったりして、部屋に戻る。
少し曇っていたが。
それはそれで別にかまわない。
日光は浴びる事が出来たし。何より、良い気分転換にもなった。
部屋に戻って、レポートを書く作業に戻る。
そういうときは、一人にしておいてほしい。
それを前にレトンに話して。
レトンもしっかり理解してくれている。
故に、一人で黙々と作業に集中できる。レポートを書くのは、私としては楽しい作業なのだ。
今の時代は、誤字脱字のチェックなどにも支援ソフトが充実していて。すぐに修正をしてくれる。
昔はこの手の代物は、固有名詞があるだけでブーブー文句をいうような出来だったらしいが。
今の時代はそれもない。
チェックを進めて、問題なくレポートを書いていく。
塗り壁に遭遇できたのは大きい。
今日も、このまま塗り壁に会いたいものだ。
ちょっとおなかがなる。
少し食事を減らしすぎたか。
だけれども、まあそれも仕方がないと言えるだろう。
これから塗り壁に会えるかも知れない。
その楽しみの方が。
私としては、大きかった。
夕食を終えてから、山に向かう。勿論申請はとっくにしてある。今回は一月掛けて調査を行うのだが。
連日山に登って、塗り壁に会えるかを確認するのだ。
今回の研究では、初日から目的の妖怪に会えたので、私としてはうきうきである。
妖怪の中には、危険な自然現象などをそのまま妖怪として捉えているようなものもある。いにしえの時代の神々が、自然現象の擬人化だったことに近いだろう。
だが、私の専門はそういった妖怪ではないので。
別に気にする事もない。
スクーターで今回調査する地点近くまで行く。この手のスクーターは、殆どは国の管理品で、指定に応じてレンタルすることになる。
経済がサーキックバーストしていた時代と違い。
今はもう、金に対する執着が殆どの人間から消えている。
故に、この手のレンタルで、困るような事はほぼない。
山の中に入ると、今日も真っ暗である。レトンが側にいることは分かっているが、私もうきうきが消えて、実に怖い。
だが、塗り壁に会えるかも知れないと思うと、それはそれで嬉しい。
「レトン、ナビを頼むね」
「わかりました」
そのまま、進む方向を指定される。
山の中を行くが、一応熊や狼の縄張りは避ける。そういった生物には監視用のドローンもついていて。人間に近付かないように処置もされているが。それでも、無用の刺激はしてはならないのだ。
動物愛護ならぬ動物愛誤からは既に解放されている時代だ。
山の中の動物の数も、適切に管理されている。
このため、熊が里に下りてくるような事もなくなったし。
山の中では、食物連鎖が適切に行われるよう注意深く監視が常に行われている。このため、昔は大問題だった侵略性外来生物についても。今では殆ど問題はなくなった。各地の川からは既にブラックバスもブルーギルも、アメリカザリガニも排除されている。タガメやニホンザリガニは川に戻ってきているし。一時期はほとんど絶滅してしまったヘビトンボも見かける事が出来る。
一方で、日本住血吸虫などの危険極まりない生物は、人間に害を為さないように遺伝子改良された上で再度自然に戻された経緯がある。
そういう意味では。
まだまだ、人間は自然と仲良くやれているとは言い難い、のかも知れない。
目的地点に到達。
さて、すっかり周囲は真っ暗だ。
そうなる季節を選んで来ているのだ。当然の話である。
この山全域で、塗り壁を調査する。
塗り壁の伝承がある山を、わざわざ選んで来ているのだ。
塗り壁に初日から会えた。
その上、今は意図的にコンディションを悪くしている。さて、今日はどうだろう。黙々淡々と、辺りを歩く。
落ちている木の枝を踏み折ってしまって、パキンと音がした。
おっとと、声が漏れる。
ちょっと怖かったので、面白い。
幽霊の正体見たり枯れ尾花とか。
仁和寺の僧侶が飛びついてきた愛犬を人を襲う猫又と勘違いして大騒ぎしたとか、そういう話はあるが。
それらの話は、こういった夜闇が呼び出す人間の根源的恐怖から生じている。
いいなあ。
根源的な恐怖。
私はぞくぞくしながら、辺りを歩き回り。
そして、また進めないと感じた。
辺りの空間。
勿論何もないはずだが、さわさわしてみる。やっぱり進めない。おお、塗り壁だ。また会えた。
いいなあ。
一気に恐怖が、歓喜に塗り変わる。
そうすると、塗り壁が消えて、つんのめってしまった。
ああ、いなくなってしまった。
口を尖らせる私。
どうしても、怪異というのはデリケートだ。私は結構恐がりな方だが、それ以上に面白がりでもある。
だから、こういう怪異に実際に会ってしまうと、どうしても楽しさが勝ってしまい。怪異は消えてしまう。
やっぱり恐怖と怪異はともにあるんだなあ。
そう思って私は、頭を掻き回す。
「レトン、今のデータ採取した?」
「今と言わず、ずっと採取しています」
「そっか。 そうだよね」
「主、この現象が塗り壁なのですか? 見ていて茶番にしか思えないのですが」
レトンは毒舌だ。
かなり表情豊かに喋るロボットもいるのだけれども、それはあくまで主の趣味嗜好に沿ってカスタマイズされてそうなる。
私は他人にあまり共感とかは求めない。
幼い頃からそうだったらしく、物心ついた頃にはレトンはこうだった。
そして、私はむしろこれが心地よい。
笑顔をいちいち向けられても、疲れるというのが本音なのだ。私は実の所、人間と接するのに向いていないのかも知れない。
昔だったら多分暮らしづらかっただろう。
陰キャだのコミュ障だの言われて。
今では、特にそういう事を言われることは無い。
だから、昔は昔。
今は今だ。
「恐らくこれが塗り壁だね。 実際になんでも経験していないと分からない。 そして科学でしっかり解明して、初めてオカルトはオカルトではなくなるんだよ」
「人間の脳はどうしても主観に偏りがちだと聞きますが、このような現象、オカルトですらないのでは」
「それは今の様々な知識があるから言える事であって、昔の人にはこういう分からない現象は、なんでもオカルトだったのさ」
「ますます分かりません」
まあ中には「君子怪力乱神を語らず」なんて事を言った人もいたのだが。
実はその事を口にした人は、妖怪に結構詳しかったという逸話がある。
要するに、その人。孔子だが。孔子が言っていた「怪力乱神」とは、解明されていない妖怪(当時の主観で)の事であって。
当時は妖怪は、いて当たり前のものだったのだ。
実際史書の類にも、よく分からない妖怪だの鬼神だのの話はわんさか出てくるのが当たり前であり。
今だからオカルトと言えるものが。
当時はそうは考えられていなかった。それだけである。
古い時代は生物学などもいい加減で。
例えば蛇や百足は「長虫」として一つに扱われていた。
だから百足は足がある分蛇より強いと言う謎の思想が生まれ。大百足が龍の天敵として扱われるようになったのだ。
まあ事実40センチに達する大百足も実在し。
それを見たことがある人は、インパクトに驚愕するだろうが。
そういうものだ。
科学で解明されないと、想像からどんどん現実と乖離していく。
「長虫」なんて種族は存在せず、そもそも百足は節足動物で蛇は爬虫類。そもそも無脊椎動物と脊椎動物なのだが。
科学で分類できたから、今はこういう迷妄を根本から否定出来るのであって。
科学がまだ未発達だった時代は。
なんでも間違えるのは、仕方がない事だったのである。
だからこそ、解明しなければならない。
それが真実だ。
「それはそうと、今日はちょっともう無理かなあ。 塗り壁に会えて大喜びしちゃったしなあ」
「ならば戻りますか」
「私を怖い目にあわせられる?」
「また妙な事を仰いますね」
レトンが呆れている。
だけれども、私は大まじめだ。それも分かっているのだろう。ロボットだからこそ、人間の心理を的確に分析出来ている。
そうでなければ、色々もめ事があった時代はあったけれども。
今のように、ロボットと人間が一緒に暮らす時代は来ていない。
「私は役割上、この危険な場所で主から離れることも、嘘をつくことも出来ません。 こわがらせると言っても手段がありません」
「そっかあ。 困ったなあ」
「戻りますか?」
「うーん、もう少しうろうろしてみる」
分かりましたと、レトンは静かに従う。
黙々と歩き回って周囲を確認して見るが、やっぱり塗り壁はもういない。
心の中に妖怪は住むとは良く言ったものだ。
しばらく私は歩き回ると、時間を告げられ。
今日も下山することにした。
2、迷妄と恐怖
山の中を、またうろうろする。
今日は実験的に、日中の山の中を彷徨き回る事にする。
そうすることで、夜間との差を確認するためである。勿論これは思いつきでは無く、実際に事前に決めていたことだ。そもそもこんな深い山、事前に申請しないと入る許可など下りない。
なんだか塗り壁を調査しているというよりも。
塗り壁に遭遇する心理状態を調査しているかのような状況だけれども。昼間の森も、案外怖い。
それは中々に面白い発見だ。
私は怖い中、結構わくわくしていた。
勿論、本当に怖い目には今まで実は何回かあった事がある。
ある時は、崖際を調査していて、危うく転落しかけた。結構しっかり準備していたのに、事故はどうしても起きる。
レトンの伸ばした手が、嫌にゆっくり離れていくのが見えて。
あ、死んだ。と思ったが。
即座に監視しているドローンが私を捕まえて、崖下に落ちるのを防いでくれた。
あの時は、心臓が飛び出しそうになったし。
後で凄く行政に怒られたが。いずれにしても、本物の死の恐怖というのは知っている。
恐怖を知らない人間は無謀なことをして犬死にしがちだが。
それが事実だと言うことを、あの時知ったっけ。
昼の山の中は。
それはそれで、また薄暗く。そして、妙に静かだった。
夜の山の中の方が、まだ五月蠅かったくらいである。
レトンが手を掴んで、引き戻す。
かなり大きな百足が、目の前を這いずっていった。
これはこのまま進むと、どっちにも不幸な結果になったから。
百足は人間から見て気持ちが悪いから殺して良いなんて理屈は、もう今の時代では成立しない。
昔の人間は、有益な昆虫や蜘蛛まで見た目で判断して「不快害虫」などと分類していたらしいが。
そんな愚を真似する必要などない。
「足下まで中々気付かないね。 ありがとうかあちゃん」
「いえ。 それよりも、どうですか?」
「うーん……うろうろはしているんだけれども、どうしても駄目だなあ。 やっぱり闇がないと駄目なのかも」
「そうですか」
レトンの返事は素っ気ないが。
きちんと研究、つまり仕事に全力で協力してくれている。
勿論私が、この状態でも恐怖を覚えるのだったら、その時は塗り壁が出るのかも知れないけれど。
塗り壁を視覚的に確認して見たい。
そう思って、ちょっと私は興味を持ったが。
だが、そもそも闇の強みは視界を塞ぐ、もしくは限定的にする事にある。
だから、塗り壁を見る、というのはそれはそれで難しいのかも知れない。少なくとも私には、だ。
妖怪には出現に条件がある者が多い。
そして、妖怪が心の中に住む以上。
その条件は、人によって違うのだろう。
私の場合は、闇が必須条件なのかも知れない。そうでないと、恐怖を引き出せないと言う事か。
だとすると色々と難しそうだ。
「もう少しうろうろしてみる」
「この辺りは狼の縄張りです。 現在八頭が、既に此方に気付いていて、威嚇している様子です」
「あー、そっか。 それは好ましくないね」
「ドローンが抑えてくれていますが、あまり縄張りを荒らすと、狼たちは下手をすると縄張りを変えるかも知れません」
それはまずい。
この辺りは、人間の土地では無い。
だからドローンが注意深く管理している。
勿論狼を守るためだ。
今の時代、密猟だとか違法ハンティングとかする奴は滅多にいないが。たまにする奴はいる。
人間の身勝手な主観で情が掛かったりしないように。
動物の個体数の調整は、ドローンと接続したスパコンが自動的に行っている。
勿論狂犬病なども媒介しないように、定期検診も。
だから、私がする事はない。
警告されたなら、それに従うだけ。
そしてレトンは恐らくだが、ドローンからの警告通信を受け取って私に告げてきているとみて良い。
ゆえに、私は従うだけだ。
「どの辺りにまでさがれば良い?」
「本日の予定探索地点だと……」
「ああ、ちょっとこの状況だとどうにもならないし、誘導してくれる?」
「分かりました」
レトンが黙々と歩き出すので、着いていく。
その時の方が。
さっき自分で無作為にうろうろしていたときよりも、ずっと怖いと感じる程だった。
ふいに、足が進まなくなる。
ああ、これか。
でも、それですぐに好奇心が恐怖を上回って。
それで、進む事が出来る様になっていた。
ちょっとだけ、昼間に塗り壁に会えた。それはそれで嬉しい。
昔は狼よりもむしろ野犬の群れが危険で、山の中を歩いている人間は襲われてあっと言う間に骨、というケースが結構あったらしい。
狼は人間を狙うことは滅多にないのに対して、野犬は人間を怖れていないから、非常に危険なのだ。
今の時代は、野犬など一匹もいない。
犬を捨てるような飼い主は法的に罰せられるし。
基本的にペットを飼うのには免許だっている。更には、飼い主が飽きた場合でも、支援ロボットが世話をする。
結果として、昔のようなバカが捨てた侵略性外来生物が大繁殖して生態系を滅茶苦茶にするというような惨事はなくなっている。
それは、明確な進歩と言えた。
レトンがこの辺りで良いと言ったので、それで頷いてうろうろする。
狼も、既に縄張りから外れたことを察知しているようで、緊張状態を解いているようである。
一応研究で入る範囲の申請は事前にしてあるのだが。
これについては、後で行政に連絡を入れておかなければならないだろう。
いや、行政の方はとっくに把握しているだろうが。
反省文とかそういうのを書かなければならない、と言う事だ。
「どうですか、塗り壁は」
「さっき、狼の縄張りから抜けるときに一瞬だけ出て来てくれたんだよねえ」
「そうですか」
「興味なさげ」
私が口をとがらすが、レトンは無表情のまま。
そういう風に設定しているし。私がその方が都合が良いからレトンは無表情なだけであるのだが。
こう言うときに、そういう反応をされるとちょっと拗ねたくなる。
まあそれはそれだ。
私のデータは、レトンだけではなく、色々な方向から取っている。
脳波の動きや視界で捕らえた映像データまで。
だから、後で確認して、レポートにすればいい。
今の時代は面倒くさい学会での発表とかもなく。レポートも作る敷居がとても低くなっている。
そういうこともあって。
私のような、あまりレベルが高くもない学者が、それなりに好きな研究を出来るようになっていて。
皮肉な事に、それが多様な研究を自在に出来る時代を作りあげ。
人間の文明は、色々な技術やシステムの開発を、しっかり今の時代でも行う事が出来ている。
昔は科学者や研究者は変人扱いされ。サラリーマンだけがまっとうな人間みたいな謎の風潮があったそうだが。
今の時代では、そんな変な風潮はなくなっている。
そういう時代の娯楽創作を見ると、私はこの時代に生きていた人間は大変だったんだなと感じてしまう。
ともかく、またうろうろしてみるが。
二時間ほどで切り上げる。
途中、何度か蚊を追い払うために、レトンがスプレーを使っていた。
一応私も肌を殆ど露出しない格好でフィールドワークに来ているのだが、それでも蚊は来る。
こればかりは、仕方がない。
そして私では気付けない事も、周囲をドローンと連携して警戒しているレトンなら、気付くことが出来ると言うわけだ。
「とりあえず戻ろう」
「分かりました。 かなり予定より早いのですが、よろしいのですか?」
「これ以上は成果が上がりそうもないし」
「そうですか」
相変わらず無関心な様子だが。
それでもてきぱきとレトンは動いてくれる。
今の時代、人間は他の人間と面倒な関わりを持たなくていいので。それぞれ好きに支援ロボットは姿を取る。
前に、触手だらけのロボットを見た事があるが。
あれも、何かしらの意図があるのだろう。
私には分からないし。
個人の自由だから、好きにすればいいと思うだけだ。
スクーターがすぐに来るので、乗って下山する。自動運転なので、特に途中で私がする事はない。
雀蜂が飛んでいるのが見えた。
あれもあれで、大事な生態系の一部だ。
そしてあれだけ強力な、昔は熊なんかよりよっぽど人を殺していたらしい生物だけれども。
普通に天敵はいるらしく。
雀蜂を専門に狩る生物は、何種類かいるらしい。
それはそれで、面白い話だが。
私とは、研究分野が別だ。
だから、いるなあと、移動しながら思うだけだった。
下山すると、後は部屋に篭もって、寝るまでにレポートを書いて仕上げるだけである。靴などの処置は、レトンに任せる。
黙々と借りている部屋でレポートを書いていると、隣の部屋で何か騒いでいるのが聞こえた。
防音処置を起動させる。
私は、静かな方が好きだ。
手元にある携帯端末でも、音量を絞ってエンタメ用の動画を見たりする。あまり大きな音は好きではない。
逆に、鼓膜がどうにかなりそうな音が好きな人間もいるようだが。
それはそれ。
基本的に支援ロボットが遮音フィールドを張って、外に音が漏れないようにする。
この技術があるため、今の時代は「防音室」というものは姿を消した。
私の指示を通じて、レトンからこの宿泊施設の方に情報が行ったのだろう。すぐに遮音フィールドが展開された様子だ。
私が作業している端末の隅に、遮音フィールド展開の情報が入る。
それでいい。
まあ、あの手の大きな音をまき散らしている連中は。いわゆる示威行為でそれをやっていたケースもあるらしいのだが。
私には知った事では無い。
黙々と、レポートを仕上げる。
やがて、今日分の作業が終了したのと同じくらいのタイミングで、レトンが夕食を運んできていた。
「隣の客、変わった?」
「はい。 音楽家らしいですね。 一応音には注意していたらしいのですが、それでもやはり主以外からも防音装置の作動があって、それで遮音フィールドが結局展開されたそうです」
「音楽家かあ」
どちらかというと前衛音楽のようだった。
まあ、別に好きでやるなら好きでやればいい。今は何でも仕事に出来る。ただし、真面目に取り組むことが必須条件だ。
音楽家をやる場合は、どんなものでもいいから作曲をするようにと言うノルマが課せられる。
創作は面倒なジャンルで、創作のペースは人によって違うらしいのだけれども。
それでも怠ける事は基本的に許されず。
また、創作から別の仕事に移る場合も勉強して、色々な資格を取らなければならないらしい。
煩わしい話だが。
私もそれは同じ。
もしも研究分野を変えようとした場合は、また色々資格を取り直さなければならないだろうし。
下手をすると、また何年か大学相応の授業を受けて。
博士号を取り直さなければいけなくなる可能性もある。
今日も朝昼の食事は抑えめにしてあるのだが、その分夜の食事は少し量を増やしてバランスを取っている。
これは健康に悪影響があるとレトンが判断したからなのだろう。
私は黙々と食事をする。
食事が終わるまで、レトンは何も言わなかった。
夕食はちょっとがっつり目で、それで充分に満足。夕食のお皿やらをレトンがお片付けする。
それを横目に、私はレポートの続きをどうするか、考えていた。
こういうのは、データの量が大事だ。
本当なら、年単位でデータを集めるべきなのかも知れないが。
今の時代は、一度の調査で得られるデータの量が、昔とは文字通り桁が違っている。
それこそ統計というのは十万くらいデータがなければ話にもならないのだが。
一度の調査で、現在は昔の千倍くらいのデータを取ることが出来るので。この短期間で、昔だったら年単位の研究が必要だったデータを取得できる。
故に、問題は無い。
黙々と、レポートの続きについてああでもないこうでもないと考えていると、レトンが来る。
そうか、就寝の時間か。
小さくあくびをすると作業を中断。
今日は日中歩き回った事もあるし、健康的に疲れている。外を確認すると、真っ暗である。
いい感じの夜だ。
これだと、塗り壁以外の妖怪も出そうだけれども。
それはそれで、また別の機会に研究したいものである。
ベッドに潜り込むと、私は寝ることにする。
レトンが一礼して部屋を出て行こうとするが、背中に声を掛ける。
「かあちゃん。 ちょっと聞いて良い」
「何でしょうか」
「私の研究、どう思ってる」
「主観でという話であれば、前も言ったとおり茶番としか思えません。 ただ、それに価値があるかどうかを決めるのは主です。 ですから、私はその支援をするだけです」
ロボットらしい答えだ。
もっとも、それを嫌がって、もっと人間に近い答えをする支援ロボットにカスタマイズする人間もいる。
私はこれでいい。
余計な人間的感情など、サポートには不要だ。
それでいて、今でも支援ロボットをかあちゃんと呼んでいるのだから、それはそれでおかしな話でもある。
人間は矛盾に満ちた生物だ。
私も、それは同じである。
部屋の電気を消して寝る事にする。私は体力がそれほどある方ではないから、眠るのはそんなに苦にならない。
昔だったら無茶なシフトで働いて、体がボロボロになっていたかも知れないな。
そう思って、苦笑いする。
昔は激務だった仕事は、現在は殆どが自動化されていて。それで体を壊す人間はいなくなっている。
それに関しては。
人間の文明は、進歩していると言えるのかも知れなかった。
翌日は、早朝から山に向かう。
朝食だけを取ってから、山の中で。
膨大なデータを取りながら、山の中をうろうろする。思ったよりこういう山の中は歩きやすいものだ。
その一方で、下手をするとマムシを踏んづけたりするので。
レトンは私にしっかり目を配っている。
なんかの鳥が飛んでいった。
まあ、どうでもいい。
黙々と歩いていると、周囲の木がみんな同じに見えてくるし。ぐるぐるとその辺りを回っているようにも感じる。
朝ご飯を減らしてきたこともある。
やっぱり、これは山の中で昔の人間が「妖怪」にたくさん出くわしたのも納得だなと感じた。
昔の人間は、今の人間に比べて栄養が足りていなかった。
ビタミンとか色々な栄養が不足した結果、山の中で急に動けなくなって、そのままあの世行きなんて事もあって。
それはヒダル神と呼ばれる悪神の仕業として怖れられた。
ただ、ヒダル神については、いずれ私も研究したいと思っているので。それはあくまで定説だと考えておく。
タイムマシンの開発まで視野に入りつつある今の時代。
研究できることは、結構多いのだ。
今、定説に身をゆだねてしまうのでは、ちいと色々もったいない。
木を見上げる。
昔は黒いダイヤなんて言われたオオクワガタがいる。
飼育方法が確立するまでは、文字通り天文学的な値段がついたらしい。今ではすっかり、そういう事もなくなった。
また一時期は、バカが捨てた侵略性外来種の海外のクワガタも跋扈していたり、交雑種まで出ていたらしいが。
それらは既に駆除が終わっている。
今いるのは、純粋種のオオクワガタで。
しばし、ぼんやりそれを見つめていた。
頭を振って、またしばらく辺りをフラフラする。
雑念がどうしても入る。
時々レトンに手を引かれるが。動物の糞を踏みそうになったり、マムシがいたりと。理由は様々だ。
その度にレトンに礼を言って。また山の中を歩く。
大きめの鳥が私を見て、鋭い威嚇の声を上げた。
多分何かの猛禽だろう。今の時代は、何処の山にも猛禽が戻ってきている。昔は猛禽は絶滅危惧種だったらしいのだが。個体数は、現在ではすっかり回復しているのだ。
「離れようか?」
「それがよろしいかと」
「分かった、そうするわ」
「此方へ」
案内された方へさがる。
猛禽はさっとデータを見るとイヌワシらしい。あれがイヌワシか。中々に迫力があるなあと、感心する。
オオワシは更に大きいらしいのだが、そっちは魚食性で、獰猛に兎やらを狩る生物ではないそうだ。
駄目だな。
私は見切りをつける。
怖くなる要素がない。
霧でも出たらそれはそれで良いのだが。ざっと見た感じ、今日は霧なんか出そうにない。
というか、この辺りは霧なんか基本的にどの季節でも出無いそうだ。
21世紀の頃が、一番気象の異常が酷かったそうだが。
今の時代は、長年の努力の結果、地球の環境は安定を取り戻している。だから夏は暑いし冬は寒い。
朝靄とか、朝の霧とか、そういうものも場所によっては出る。
ただこの山は、それほど高地にあるわけでもなく。
いい感じの川が近くに流れているわけでもなく。
霧が出るには、条件が整っていない。
霧が出ると、それはそれで怖そうで面白いのになあ。
そう思って、私は頭を掻き回していた。
はあと、溜息が出る。
私は結構頭を掻き回すので、爪は丁寧に処置している。一時期はネイルだとかで爪をなんかデコレーションするのが流行ったらしいが、それは流石にする気にもなれない。
やはり恐怖が塗り壁出現のトリガーなのだと思う。
かといって、狼とか雀蜂とか熊とかに追われた人間が、塗り壁に会うという話もまたおかしな事だ。
夢中で逃げ回って、多分それどころではないだろう。
道に出たので、スクーターが来る。そのまま、帰路につく。
宿泊所で、昼食を早速取る。
今日はもう減らす必要もないので、以降は普通の分量で頼む。黙々と、レトンが食事を運んでくる。
途中、なんだか素っ頓狂な髪型にしている女の子を見かけた。いわゆる縦ロールというやつか。
そんなの、昔の漫画でしか見た事がなかった。実際にやっている奴がいるのか。
ほっぺに星のペイントなんかしていて。
しかもいわゆるゴスロリスタイルの格好である。
なんというか攻めていたが。
あれが昨日騒音を流していたのかなと思ったら、違うとレトンに言われた。
「あちらの方は、主と同じように研究のために来ているようです。 研究の内容は分かりませんが」
「ああ、それはいいや。 他人に干渉する理由がないからね」
「分かりました」
研究の内容が同じだったら、いずれまた会うこともあるだろうし。
全く研究の内容が違うのだったら、それはそれだ。
それにしても凄い格好だったな。
私は自分の格好に無頓着すぎるとレトンに時々言われるが。
あっちはあっちで、外に出るにもメイクだの何だので滅茶苦茶時間が掛かる事だろう。大変そうだな。
そう思って、私は色々苦笑していた。
両極端な話である。
ただ今の時代は、支援ロボットの手助けもある。自分で面倒なメイクなどは、必要ないだろうが。
それに、時間も殆ど掛からないだろう。
化粧水だのなんだのの面倒な作業は。
だいたい支援ロボットが全部やってしまう事も多いらしいと聞いている。
今の時代、自分の手で料理や化粧をする人間は。それを仕事にしている人間か、マニア中のマニアだけだ。
今日は午後が丸ごと開いたので、レポートを書くのを優先したあと。
夕方から、この辺りの街を歩いて回る。
一応、ここに来る前に、全てのデータは集めて来ている。色々な妖怪話があるようだが。塗り壁以外は、余所から入ってきたような妖怪話で。あまり興味がそそられるものはなかった。
だから、適当に土産物を買って。
それで、家に郵送しておく。
今の時代は、世界の人口は。宇宙に出ている分も含めて三十億。
皆、土地は多く持って余っている。
私も例外ではない。
だから、多少土産物を多めに買っても。
痛むものでなければ。気にする必要はなかった。
3、怪異の先にあるもの
今日はギリギリの遅い時間を攻めることにしてある。
だから、今はかなり粘って、遅い時間の夜の山をうろうろしていた。灯りも最小限にしている。
故に、レトンに何度も手を引かれた。
危ない事が、山には満ちている。
この時間帯は、百足なども活発に活動している。
マムシが積極的に動くのは夕方の方が多い。
これは何故かというと、体が大きい分、獲物になる生物よりも体熱を蓄える事が出来るからだ。
変温動物は、基本的に陽光で体熱を蓄えて活動するのだが。
体が大きい変温動物は、日中はゆっくり体熱を蓄えて。
夕方以降に動く事が多い。
体熱を使い切る前に、自分の有利な土俵で狩りをするためだ。
ただ、この時間帯になると流石に小型の毒蛇であるマムシはもう寝床に戻っている事が多い。
アオダイショウなどは、鳥の巣を狙ってまだ活動していたりするのだが。
ちょっとそれには肌寒いかも知れない。
私は肌を露出しないようにガチガチに固めてフィールドワークをしているのだけれども。それでも、少し寒いなと感じていた。
また、手を引かれる。
「主、その先は斜面です。 滑り落ちます」
「おっと、ありがと。 ……此処でレトン以外が手を引いたりしたら、それはそれで怖いんだけどなあ」
「周囲には人間は主だけ。 支援ロボットは私だけです。 確かに手を引いたら、それは怪異なのでしょうが」
「心霊スポットとかいったんだっけ。 昔は幽霊が出る場所をそんな風に呼んでいたらしいね。 そういう場所だったら、手を引いたり足首掴んだりとかしてくれたかなあ」
私は妖怪が専門なのでそういう場所には行ったことがないが。
今の時代でも、やっぱりその手の話はまだまだあって。
出所不明の情報で、足を引っ張られたとかそういう話が出てくることは多いのだとか。
まあ別にそれはそれで良い。
レトンの手を引く感じは、私にはよく分かる。
昔から、よく手を引かれて引き戻されたし。
私よりも小さいけれど支援ロボットなだけあって、レトンはとても力が強い。熊くらいなら、電気ショックで沈黙させることが出来るし。他にも自衛手段は色々持っている。
幽霊とレトンが戦ったらどっちが強いのかなあ。
そんな事を思いながら、その辺をうろうろするが。
もう時間だ。
梟が鳴いている。
梟も、昔は殆どの山で姿を見なかったそうだが。今はすっかり、各地の山で生息数を回復している。
いずれにしても、関わる事はないだろうが。
今日は、塗り壁に会わなかった。
研究を開始してから、数回遭遇したが。それ以降は、殆ど遭遇する事がなくなってきている。
これはそろそろ、研究自体を切り上げるタイミングかなあ。
そう思った瞬間、レトンに手を引かれる。
だが、同時に思い切り、木の根につんのめりかけて。結果として、尻餅をつくことになっていた。
下は腐葉土だ。
だから怪我をするようなことはないけれど。
あいたと、思わず声が漏れていた。
立ち上がって、木の葉と土が混ざり合っているものを払う。手は軍手で固めているから、毒虫に指されることはないが、ヒルが危ない。
「かあちゃん、ヒルとか大丈夫?」
「確認中。 数個体がついています。 今、取り除きます」
「ああもう……」
山の中だから当然だが、やっぱりヤマビルが出るか。
すぐにレトンが取り除いてくれる。
ヤマビルは病気も媒介するから厄介なのだ。今の時代はナノマシンによって病気の媒介は防がれているが。
それでも、万が一もある。
レトンはこの暗闇の中でも、私の全身……体内も含めて、全て見えているのだろう。文字通り見える世界が違う、と言う奴だ。
丁寧にヤマビルを処理した上で。何カ所かにスプレーを噴いていた。
或いは、もっと厄介な。細かい病原菌とか、そういうのが付着していたのかもしれない。それもレトンには見えている。
「終わりました。 時間が迫っています。 急いで戻りましょう」
「うん。 ……!」
「どうしました?」
塗り壁だ。
今ので、多分怖いと感じたからだろう。
進めない。
無言で、しばらく四苦八苦していると、やがてふっと抜けた。
面白いとおもう余裕が今はなかったのだ。
だから出た。
そういう事で良いのだろう。
おおと、歓喜の声を上げてしまう。
また出て来てくれたか。しばらくぶりだから、ちょっと感動してしまう。私が大喜びしているのを見て、レトンが言う。
「また塗り壁ですか?」
「うん! これだよこれ! 怪異に遭遇する感覚!」
「相変わらずですね」
「分かってる。 戻ってレポート書かないと」
もしも、塗り壁に人格があったら。
脅かしがいがない相手だと、呆れていたかも知れない。
だが、私は怖がる事が塗り壁の出現トリガーだと分析もしている。だとすれば、怖がってはいる。
だが、塗り壁に怖がっている訳ではない。
そういう意味では、塗り壁は順番が違うと怒るのだろうか。
しかしながら、塗り壁というのは怪異であり、しかも現象としての怪異だ。人格なんてあるとは考えにくい。
かの有名妖怪漫画家の塗り壁のような楽しい奴だったらいいのだけれども。まあ、そんな事もないだろう。
スクーターで戻る。
レポートは明日の日中だ。今日はかなりギリギリまで粘ったこともあって、戻ったらすぐ眠るように指示が出ている。
帰路で、レトンと話す。
「もっと怖い目に会ったら、多分もっと強烈な塗り壁に会えそうなんだけどなあ」
「熊が近くを徘徊していました」
「ええ……もっと早くそれを知りたかった」
「主に気付いていたようですが、ドローンが接近を阻止していました。 熊の方でもドローンが餌のありかを教えてくれたりする事を知っているようなので、基本的に言う事を聞くようですね」
熊が近くにいたということが分かると、確かにちょっと怖い。
この辺りにはそれほど大きな熊は出ないが、それでも熊は熊だ。
月の輪熊でも、私くらいだったら殺すのに充分な力を持っている。そういうものなのである。
ああ、この情報があればスリリングで、もっと怖かったのになあ。
そう思って、がっかりしてしまう。
帰路はそういう意味でしょんぼりだったが。
体というのは正直なもので。
夕食を食べると満足した。
レトンは基本的にいつもうまいものばかり作ってくれるわけではないのだが。やはり怖がって夜道を歩き回って。
それなりに体は栄養がほしかったらしい。
がっつり夕食をおなかに入れると、体はそれで満足して。
後は、寝るだけだった。
そろそろ、研究のためにとった時間が終わろうとしている。
それを、私もしっかり理解していた。
だから、もう少しがっつり塗り壁と会いたい。
そうも、思っていた。
夢を見る。
昔々の日本。
サンカの民がまだいる時代だ。
山の中で暮らす不定住民は、やはり麓の人間とはあまり折り合いが良くなかった。河童や天狗のモデルともなったサンカの民は、信仰からして独特だった。
修験道などの信仰は、大きくサンカの民の影響を受けている。
だが、だからといって。
多くのサンカの民が、山の支配者だった訳ではなく。
殆どの場合は、ほそぼそと麓の人間と関わりを持ち。それで生きていくのが普通だった。
そういった時々里に下りてくるサンカの民が、いずれ妖怪のモデルとなっていくのだが。
私はそんな昔の日本の山の中にいた。
レトンは当然いない。
昔の日本は、どこも豊かな自然に満ちあふれていたわけでもない。時期によって大きく違う。
今は、どうも山が荒れていた時期らしい。
そういえば、山が荒れるから木材の切り出しをどうするか、というような問題で。一揆8にまで発展したケースもあったらしいな。
そう思いながら、薄暗い山の中を歩く。
木が少ない。
だから動物も少ない。
狼も熊もいない。
みんな、里の者達が狩ってしまった。この山には、サンカの民ももう住んでいない。住んでいられないからだ。
木がないから、空が近く感じる。
同時に、それはとても寂しいものだとも思った。
妖怪は、夜闇に潜むものだが。
こう木も生えておらず、人間の脅威になるものがいないようなはげ山では、妖怪なんかでようがない。
出るとしたら、もっと別のもの。
それは、一体何なのだろう。
ぼんやりと、その辺りの斬り倒された木の切り株に座る。
夢だと分かっていても、やたらとリアルな触感だった。まあ、それについては別にどうでもいい。
見上げていると、星々は綺麗だが。
その光は、あらゆる意味で虚しいものだとしか思えなかった。
これでは、妖怪も出ないな。
そう思う。
妖怪は、頭の中に住む。正確には心の中に住む。それについては、私も異論がないところだけれども。
しかしながら、この有様では。この荒れ果てた山のように、人間の心も荒れ果ててしまっている。
一時期の日本のように山が杉だらけという事態はそれはそれで問題だけれども。
この荒れ果てた山は、それよりも酷い。
妖怪の中には危険なものも多い。
山で言えばヒダル神なんかは特にそうだが。
それでも、妖怪が全く出ないような山の方が、より危ないのかも知れない。私は、そう感じた。
人類は21世紀に、危うく滅びるところだった。
当時、どうやって滅びを回避したかは諸説があるのだけれども。いずれにしても憎悪の連鎖が重なって、やがて第三次大戦が起こりかけたのは事実。いや、第三次大戦は核兵器こそ飛び交わなかったものの、起きていたという説もあるそうだ。
人間が滅んでいたら、妖怪も共倒れだったのだろうな。
そう考えると。
この荒れ果てた光景は、とても悲しかった。
目が覚める。
何だか、悲しい夢を見た気がする。
目を擦って、小さくあくびをした後。歯を磨いて、うがいをして。
それで、ふうとため息をつく。
カレンダーを確認。
後三日。
それで、研究に設けた時間は終わりだ。
これで研究をいったん終えて、データを提出する。塗り壁に遭遇は出来た。正確には塗り壁と当時の人達が考えた現象に、だ。
それが怪異と言うべきものなのかは分からない。
まあ、怪異と言えば怪異。
錯覚と言えば錯覚だ。
だが、心が貧しくなっていけば、そんなものすらも人は見なくなる。そうなったら、何もかもがおしまいだろう。
身繕いを終えると、レトンが様子を全て把握していたのだろう。朝食を持ってくる。
朝食は、予定通り少なめにしてある。
黙々と食べ終えた後、片付けているレトンに聞く。
「私うなされてなかった?」
「うなされていました。 夢の内容について確認しますか?」
「いや、止めておくよ」
「分かりました」
前に一度、夢の内容を確認したことがある。そうしたら、クトゥルフ神話も真っ青の狂気そのものの内容だった。
夢は記憶を整理するものであって、それが論理的なものでは無いことは知っていたのだけれども。
特に明晰夢ではない場合。
ああも狂った光景が現出するのかと、色々驚いてしまった。
いずれにしても、夢にかまっている暇はない。
今日も夕方から出て、夜まで山を彷徨く。山の探索範囲は毎日変えているが、今日はちょっと斜面が多い場所だ。
このため、監視用のドローンがついてくる。
それだけ、危険性が高いと言うことだ。レトンだけでは、支援できない可能性があるほどに。
いずれにしても、危険な場所に行くことに対しては、それほど嫌悪感とか恐怖は感じないけれども。
塗り壁にもう会えなくなると思うと。
それはちょっと、悲しい話だった。
思った以上に歩きづらい。
そう感じる。
この辺りは、もっとも危険な場所と言うことで、最初の内に研究しようかとも思ったのだけれども。
役所の方から指定が来て。
今日にこの地点を研究しろと言われたのである。
スケジュールのすりあわせは、研究の前に当然行う。ましてや私のようなフィールドワーカーはなおさらだ。
と言う訳で、今日に来たのだが。
どうしてなのだろう。
そう思っていたら、遠くでスクーターの音がする。ひょっとすると、この山に別の研究者が来ているのか。
まさか、妖怪関係の調査ではないだろう。
この山には殆ど妖怪の伝承がなく、塗り壁が有名なくらいである。
そうなると、夜行性の動物に関する調査か。
だが、動物の調査は今はドローンが殆ど全ての個体単位で行っている。わざわざ足を運ばなくても良い筈なのだが。
どうしても自分で確かめないと気が済まない変わり者だろうか。
だとすると、私のような変人と言う事だ。
まあ変人なのは自覚している。
いずれにしても、そいつについてはどうでもいい。
とにかく、私は淡々と調査をする。
今日はドローンが着いている。
昔の無機質なプロペラだけがついているようなものではなく、近年のドローンはプロペラなんかつけていない。
浮遊するためのテクノロジーは反重力では流石にないが、なんだかジェットとか言う150年くらい前に開発されたテクノロジーで。
それが更に錬磨された結果、色々な形をとる事が出来る様になっている。このため搭載できる機能も多彩になっており。動物にあわせて様々なドローンが開発されるだけではない。
密猟者などを追い払うための高度な電子戦機能を備えたものや。
今の私の側に着いている、命綱代わりのものまである。
なお、私の側に着いているドローンは、なんというか風船みたいな姿をしているが。ロボットアームが数本伸びている。
これの反応速度はレトンをしのぎ。
前に私が滑落事故を起こしそうになった時。
凄まじい反応速度で、危うく死ぬ所だった私を助けてくれた。その時の同型だから、とても心強い。
で、それが却ってまずかったらしい。
心強いのが側にいると分かりきっているので。
さっぱり怖くないのだ。
一応、険路である事もある。
四苦八苦しながら降りたり登ったりしてうろうろするのだが、塗り壁はさっぱり出てこない。
いや、塗り壁という現象には遭遇しない。
頭を掻き回す。
これは失敗だったか。
兎に角、それでも怖い思いを出来ないか、彼方此方うろうろして見る。警告が飛んできた。
「雀蜂のテリトリに入ります」
「ああ、ちょっとそれはまずいね。 ナビしてくれる?」
「分かりました」
レトンが手を引いて、連れ出してくれる。ドローンは基本的に、クリティカルな危険がない限り何もしない。
雀蜂は、確かにまずい。
熊なんぞよりよっぽど人を殺してきた生物だ。
ハブがたくさんいた頃は、ハブが一番日本で人を殺してきた生物であったらしいのだけれども。
ハブがある程度駆除されて被害が落ち着いた後は、雀蜂がその後に取って代わり。
毎年人間をたくさん殺すようになった、ということだ。
とはいっても、千人も二千人も殺されていたわけではないそうだが。
特にオオスズメバチは、どこの国でも猛威を振るった経緯がある。
北米にも何処のバカだかが持ち込んで、とんでも無い事になったとか。
ともかく、雀蜂のテリトリを離れる。
生態系豊かな山だが。
こう言うときは、それを有り難いとは思えないのが色々と口惜しい。
ともかく、危険地帯を脱出。
だけれども、やっぱりドローンの存在が安心を助長してしまっているのだろう。こんなに夜闇が深くて、地形が色々とアレなのに。
塗り壁は出てこない。
はあと、溜息が出る。
塗り壁、出ないなあ。
出てほしいなあ。
そう思って、辺りをさわさわして見るが、空をきるだけだ。辺りをうろうろして見るが、ただうろうろするだけだ。
「塗り壁出ない……」
「私には最初から最後まで茶番としか思えません」
「そうだよねえ。 かあちゃんにはそう見えるよねえ。 だって人間とはセンサから何からして、性能が違い過ぎるもん」
「人間の生物的なバグだとしたら、改善が必要な項目でしょう。 確かに調査する価値はそういう言う意味ではあるとは言えます。 バグは改善しなければならないものですので」
夢も何もあったもんじゃないレトンの言葉に、私は更にげんなりする。
とりあえずどうしようかなあと思う。
空を見上げるが、この辺りは森が深くて、殆ど星の光は差し込んでこない。空が晴れていると、スクーターでの帰路は星明かりが綺麗だったりするのだけれども。
何か、獣が争っている声が聞こえる。
多分狼の群れと熊がぶつかったな。そう思う。
熊と言っても月の輪熊だ。狼の群れだったら、充分に相手を出来る程度だろう。特にこの辺りだと、熊もそんなには大きくならないし。
どっちにしても、人間には害を及ぼさないように。
更には森の生態系に影響が出ないように。
ドローンが監視している。
そもそも私が通った跡だって、ドローンがチェックしていて。髪の毛一本だって、残留物を残さないようにしているし。
私が使っているスニーカーとかだって。
同じように、残留物を残さないように徹底的に配慮しているものなのだ。
それらは森に入るときにとる必要がある資格などで、徹底的に仕込まれるし。
今の時代は死に資格にならないように。
催眠学習なども用いて、学んだ事は忘れないように処置もされている。
21世紀頃までは、人間の生物としてのスペックは原始時代から落ちる一方だったという話がある。
だが、それはこういったシステムが本格導入された22世紀頃から覆り。
今では人類は、支援ロボットという犬以上に有能なパートナーを手に入れて。
却ってスペックを挙げている。
ただ、レトンが指摘したように。怪異が人間のバグによって生じるものであるのだったら。
それは改善しなければならない。
しかしながら私は。
その考えにはロマンがないと思う。
勿論ロマンで学問を考えてはいけない。
それもまた、当たり前の話である。
だからこそ、私はあがくのだ。
こうやって、徹底的にフィールドワークを行い。実際に怪異と触れあう事によって。
顔を上げる。
今日は駄目かも知れない。
だけれども、まだ二日ある。
その二日で、もう一回か二回くらい、塗り壁にあっておきたい。
それに、今日だってまだ時間はある。
もう少し、諦めずに動いておきたかった。
まあ、本当に物理的に妖怪塗り壁がいるのならそれはそれで嬉しいのだけれども。それはあくまで怪異というもので。
流石に私も、そこまでは高望みはしていなかった。
時間だと、レトンに告げられる。
かなり危ない場所を回っていることもある。大きな溜息をつくと、私は帰路につく。
どれだけ葛藤しようが、出ないものは出ない。
むしろ今まで何度も遭遇できている事が、奇蹟に近いのである。
帰る事にする。
再現性がなければ、それは科学とはいえない。
多分まだまだだが、完璧な再現性を塗り壁という怪異に求める事は出来ないだろう。
科学と怪異は別ではない。
怪異を完全に解明したとき。
それは、科学で怪異を説明できることになる。
再現性が出ていない以上、私の研究はポンコツに過ぎない。そんなことは、はっきり言って分かっている。
それでもだ。
私の研究では、今までの時代の研究とは、比較にならない程のデータを取ることが出来ている。
それが後続に道を作る事が出来るかも知れないし。
もう一度二度塗り壁に会うことが出来れば。
それを更に拡げられるかもしれないのだ。
結局、帰路に到着。
無慈悲にスクーターが来ていた。
遠吠えが聞こえる。
この様子だと、勝ったのは狼の群れなのだろう。熊は殺されたか、それとも逃げていったのか。
一時期は馬鹿な動物愛「誤」団体のせいで個体数が激増していた熊も、今ではこうやって生態系が元に戻ったおかげで、数が安定している。
場合によっては間引かれる。
最悪の場合も、ドローンが人間との接触を避ける。
森は、こうして平穏を取り戻した。
私はスクーターに乗ると、そのまま帰路につく。色々ともやもやを抱えているが。それでも、今は。
残り二日に、賭けるしかなかった。
最終日が来る。
役所による指定。山に入る研究の許可が下りている最後の日だ。
役所を頭が硬い役人が回しているなら兎も角。
今は殆どがAI管理である。
故に文句も言いようがない。
此奴らには不公正という概念がそもそもないのだから。
昨日は駄目だった。
だから、今日が最後だ。
とはいっても、今日は日中の探索で。特に怖いような場所を調査するわけでもないのである。
別に霧が出る訳でもない。
殆どハイキング同然の有様だった。
「これじゃあ、会えそうにないなあ……」
私は山の中を歩きながらぼやく。
おなかは減らしてあるのだが、それにしてももう少し色々と何とかならないものか。もっと多角的なデータがほしい。
研究者なのだから、そう考えるのは当たり前だ。
研究者は、基本的には客観的にものを考えなければならないし。
起きた現象については、そういう現象が起きたことを認め。それを冷静かつ正確に分析しなければならない。
頭に固定観念を抱えていては、絶対に何かを見誤る。
だから側にレトンがいてくれるのは、私には有り難い。
レトンをこんな性格にしているのも、私が原因だと判断して良い。私自身がもっと客観的にものを見られる性格だったら。
レトンはもっと明るい性格だったり。
朗らかな性格だったかも知れない。
山の中を無心に歩く。
無慈悲に時間が過ぎていく。
空を何か猛禽が飛んでいった。多分、この辺りを縄張りにしているイヌワシがまた飛んでいったのだろう。
一瞬だったので、そうだとは確認できなかった。
塗り壁は、無慈悲な話だが。
最後の最後まで、出てこなかった。
肩を落とす。
だが、今回の調査では、数回遭遇する事が出来た。
それで、可としなければならないだろう。
山を振り返る。
今までも、色んな場所で怪異の研究をしてきた。それで、色んな怪異に会ったり会えなかったりしてきた。
私の研究は現象としての怪異だ。
だから、何かしらのものが妖怪化したような河童とか天狗とかは研究の対象外になっている。
故に、そもそも遭遇できなければ何の意味もないのだ。
色々がっかりして、スクーターに乗る。
後はレポートをまとめたら、帰宅だ。
何度か、スクーターの上で、溜息が漏れていた。
スクーターの後部座席から、レトンが話しかけてくる。横座りだが、いざという時は一瞬で私を救助できる。
それくらいのスペックを備えているのだ。
「主、宿泊施設に戻ったら、レポートを」
「分かってる。 あーあー、最終日くらい会いたかったなあ」
「今日の探索条件では遭遇できない。 それが分かっただけでも、研究の成果としては充分でしょう」
「それも分かってる」
そう。
「この条件なら発生しない」。
それを突き止めるだけでも、充分過ぎる程の成果だ。それが学問であり、科学というものである。
それは分かっている。レトンに諭されるまでもなく、である。
しかしやっぱり認めざるを得ないが、私は怪異が好きなのだ。だから、塗り壁に会えたときは大喜びしたし。
すぐに消えてしまった時にはがっかりした。
もっと、怖がる事が怪異には大事なのかも知れない。
そう思うと、日頃から怖がる訓練をする必要があるのかも知れなかった。
「とりあえず、帰ったら怖がる訓練をしないとね」
「はあ。 そんな訓練をするのですか。 物好きですね」
「感情をより豊かにすれば、それだけ怪異にも会いやすくなると思う」
「感情を豊かにすれば、それだけ見るものに色眼鏡が掛かります。 科学者としての適性は下がるかと思います」
まあ、レトンの言い分も正しい。
かあちゃんは、相変わらずだなあ。
そう言って、私はメイド姿のレトンに苦笑い。
スクーターは容赦なく自動運転で、私を山の下に運んでいく。
ふと、道をすれ違う。
人間がすれ違う事そのものが、今の時代では減っている。ましてや。こんな山道である。しかも相手は、あの一度だけ会ったゴスロリっ子だった。
「あの子、山に用があって来ていたんだ」
「そのようですね。 プライバシーに干渉する事は出来ませんから、目的を調べる事は出来ませんが」
「いいよ別に。 怪異研究をしている学者は私以外にもいるし、他の研究でも別に全然かまわない。 フィールドワーカーが増えるなら、それはそれに越したこともないし」
勿論研究では無く、娯楽で来ているのかも知れないが。
それでも別にかまわない。
今は、山の中で無法をする事はできなくなっている。最後にテロが起きたのが100年以上前。
それくらいの精度で、現在は重大犯罪を防止できるし。軽犯罪だって、殆どの場合は未然に防げるのだから。
成果はあった。
それで満足するしかない。
ひたすらに地味な作業の繰り返しだが。
それが、私の。
民俗学者の仕事だ。
今回は、これだけしか成果が上がらなかったが。私のあらゆる精神状態やら、環境やらのデータやらを分析した上でレポートが完成する。そのデータは、年単位での調査に匹敵する。
これでも足りなければ、また申請して調査に来れば良い。
ただ、それだけだった。
4、地味な仕事はいつまでも
自宅に到着する。
それなりに広い家だ。
ディストピアだという声もある現在だが。基本的に誰もが一軒家に住むことが出来るようになっている。
そういう意味では、歴史上もっとも豊かな時代である。
宇宙に進出した人も同じ。
火星ではかなりコロニーが拡大していると聞いているし。
金星では衛星軌道上に大きめのコロニーが次々に作られているという話だ。
アステロイドベルトにはどんどん無人掘削機が送られて、人間がいる場所に資源を送り込んでいる。
何より人間が減り。
大量生産大量消費の時代も終わり。
良い意味で経済の格差もなくなった今。
各自の人間は、もっとも平穏に生きる事が出来ている。
それが客観的な現実だ。
勿論今の時代が気に入らなくて、反発している人もいるけれど。私は好きに研究が出来る今を、好きだった。
自宅に戻ると、まずは書いたレポートを最終精査して。
その後は、学会……現在は巨大なデータバンクだが。そこにアップデートする。
塗り壁に関する研究は幾つもあるが、その中でも実際に塗り壁にどうやったら遭遇できるかの研究データだ。
世界中からアクセスが自由に出来るし。
問題があったら指摘だって飛んでくる。
勿論主観による指摘はその場で弾かれる。
昔のネットでは揶揄が飛び交っていたらしいが。現在ではそういうような事もない。ちゃんと学習をした人間が、冷静な議論が出来るような場が作られている。
21世紀くらいのネット環境は。ソドムとゴモラそのものの場所だったらしいが。
今の時代は、それもなくなった。
これも進歩とみて良いだろう。
レポートのアップを終えたので。数日休日をとる事にする。
大きく伸びをすると、レトンが手際よく手入れをしてくれたベッドで横になって、寝ることにした。
しばらく無心に寝てから起きだす。
それで、疲れは取れるのだから。
色々現金な体だ。
後は、少しゲームをやったりする。
今の時代のゲームが良いかと言うと、そういう事もなく。
私自身は、いわゆるレトロゲームが好きである。
体感型のゲームしか認めない人間もいるが。
それは人によっての好き好きである。
誰も、他人の好き嫌いを侵害できないし。
好き嫌いを押しつける事も出来ない。
それが、今の時代である。
適当にゲームを遊んでいると、レトンがイヤホンに割り込んで声を届けてくる。
「後二時間ほどで食事にしましょう」
「もうそんな時間? そういやおなかすいてきたなあ」
「昼を抜いているのだから当然です。 あまり寝てばかりいると、生活リズムが崩れますよ」
「それは困る」
セーブ機能を使って、ゲームを止める。
いつでも、その気になれば幾らでもゲームは出来る。
更に言うと、VRを使う場合、時間加速の機能もあるので。その気になれば実時間一時間ほどで、五十時間ほどクリアに掛かるゲームを攻略する事だって可能だ。そうやって、今は時間を更に有効活用出来る。
中には一日で千時間分相当のゲームプレイをするマニアもいるらしい。
私は其処まではしないが。
夕食をレトンと一緒に取る。
レトンが食べているナノマシンを、幼い頃に口にしてみて。あまりのまずさに辟易したものだ。
だが、レトンの体を維持するにはこれが必要だと言う事は分かっているし。
ナノマシンを口にしても、きちんと排出されるようにもなっている。
見た目だけは同じ食事を、レトンと一緒に済ませると。
後は寝るようにと言われた。
レトンが淡々と家事をしている。
ものの位置を動かさないで家事をしていく神業だが。支援ロボットだからこそ出来る事なのだろう。
こう言う分野ではロボットは明確に人間より上だ。
私は横になりながら、色々と考える。
昔の研究者は死ぬほど忙しかった上に薄給だったそうだが。
今はそんな事もない。
そして、おかしな話だが。
その方が、色々な研究の効率も上がっているのだった。
「次はなんの怪異を調べにいくのですか?」
「いわゆる音の怪かな」
「殆どの場合は、何かしらの動物の鳴き声を誤認しているというあれですか」
「そうそう」
次は小豆研ぎを調べに行こうと思っている。
ただ、今回の調査で、塗り壁へのアクセスは消化不良だった。できれば、また伝承が残る地域に出かけて調査したい。
「主の知能だったら、もっと建設的な研究も出来ると思うのですが」
「私に取っては、充分建設的な研究なんだけどなあ」
「人間という生物の生体機能におけるバグとりと言う意味ではそうかも知れませんが」
「……」
そうじゃないんだよ。
レトンに話をしたいが。多分レトンの方が口論では上だ。
だから、別に反論はしない。
反論しても意味がないし。
何よりも、レトンには今の性格でいて貰わないとこまる。客観性をもっと担保するには、レトンのような存在が必要なのだから。
それにレトンは私の大事なかあちゃんだ。
今は、そうだと断言できる。
相手がメイドロボットだろうが知った事か。
遺伝子上の親に神話を抱く時代はとっくに終わっている。私のかあちゃんはレトンしかいないし。
父親なんていらない。
だから、こう辛辣な事をいうレトンで良いのである。
寝ると告げると、レトンが環境を整えてくれる。
私は黙々と、どう小豆研ぎの研究をするか。どう研究場所に赴くか考える。
ふと、メールを受け取っていた。
「柳野千里様。 貴方に質問があります」
「……」
ぼんやりとメールの内容を見る。
どうやら以前書いたレポートに対するものらしい。
内容は結構鋭く、辛辣だったが。実地で丁寧に検証していることを評価してくれてもいた。
ふっと笑うと、私は寝る事にする。
そして、すぐに眠りに落ちていた。
(続)
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