蛇神は滅びず

 

序、山の民と神

 

西暦2013年春。

東京都の某大学の講義室に、熱弁を振るう非常勤講師がいた。大学教授としての地位は持たないが、その学識から、いろいろな大学から講義依頼が掛かる有名人である。まだ若い民俗学者で、専門は山の民。

今だ分からない事が多い山の民について、独自の説を唱え、著書も何冊か自費で出している。

この大学の学生達は、あまり興味が無いのか。せっかくの特別講義にも関わらず、何だか頼りない印象の講師が、黒板に書いている事を、単位のために書き写しているだけの姿が目だった。

「サンカとも呼ばれる山の民は、明治時代の最初頃までは、各地の山にいたことが分かっています。 しかしそれから、忽然と姿を消してしまいました。 姿を消したといっても、何処か異世界に迷い込んだ訳ではありませんよ。 山を捨てて、それぞれが村や町に帰化した、というのが真相です」

黒板には、複雑な相関図が書き連ねられている。

だが、それを写している学生はいても。興味を持っている学生は、少ない。中には、携帯を弄っているものさえいた。

怪訝そうに、講師が視線を学生達の座る席に向ける。

彼の視線にとまるものがあったのだ。わざと気配を露わにしているのだから、当然であろう。

そこにいる筈がない存在。

まだ幼い、十歳かそこらくらいしかない年格好の女の子。しかも着込んでいる服は、神社の巫女が来ている千早だ。

黒髪を腰の辺りまで流していて、頬杖をついてはいるが、ルーズリーフに言われたことをきちんと書き取っている。

講師は小首をかしげながら、黒板に続きを書いていく。

「サンカはまだ分からない事が多く、研究者の中には、実在はしなかったという説を唱えている者もいます。 しかし僕は、様々な状況証拠から、存在したのは間違いないと思っています。 ただし彼らの正体がなんであったのかとなると、やはり仮説の域を出ないのが事実でしょう」

「せんせー、しつもーん」

「何ですか」

学生の一人、茶髪にしているいかにも頭が悪そうなのが、挙手した。

この大学の生徒は、お世辞にもレベルが高いとは言えない。実際その学生も、どうして大学にいるのか、良く分からないような幼稚な輩だった。

「前から良く分からないんですけど、そんないたかも分からないような奴らの事を調べて、何になるんすか?」

「この国の森について、君はどう思いますか?」

「はあ?」

「この国の森は少々特殊でしてね。 原生林が殆ど存在しないんですよ。 殆どの森に、人の手が入っている。 普通の国では、ある程度文明が発展すると、見境無く耕地開発のために森林伐採を行って、資源を台無しにしてしまうものなのです。 いわゆる四大文明と呼ばれた地域でも、例外ではない。 その結果滅びてしまった国は、枚挙に暇がありません。 この国では、ある程度文明が発展した後も、不思議とその行為が起こらなかった」

良く分からないらしく、茶髪の学生が固まっている。

講師は、更に続けた。

「つまり、誰かが森を大事に管理し続けていた、という事です。 森がある事が、如何に重要なのか、知っていた人達がいたんですね。 僕は最初、森林学が専攻だったんですけれど。 調べれば調べるほど、この国の森は、他の先進国とは構造が異なっている事に気付きましてね。 やがて、サンカの存在に辿り着きました」

「はあ、そうっすか……」

「昔生きていた人達を、別の世界の存在か何かと思っていませんか? 彼らが生きていた事で、今の我々が生きている。 今の社会の仕組みも、昔いた人達が生きていた結果なのです」

講義はまだ続いていたが。

残念ながら、興味を示す学生は、あまり多くない様子だった。その中で、やはり千早を着込んだ子供の姿は、講師の目を引くらしい。視線が時々飛んでくるのを感じていた。

ほどなく、四十五分の特別講義が終了する。

一礼すると、非常勤講師は、講堂を出て行った。殆どの学生は居眠りしていたり、携帯を弄ったりしていた。

講師の服の袖を掴む。

これは、是非連れて行きたいと思ったからだ。

「君は? どこの子だい?」

怪訝そうに言う講師。

気がついていないのか。影が、巨大なカラスの姿をしている事に。

「お館様がお待ちなの。 来て欲しいのです」

「ちょっと、お嬢ちゃん」

目を合わせると、困惑していた講師が、静かになる。

騒がれると面倒だから、暗示を掛けたのだ。そのまま手を引いて、連れて行く。周囲の学生達は、まるで其処には誰もいないように、気付いていなかった。

この大学は、奥多摩の近くにある。

今、丁度お館様が、奥多摩に来ている。話を聞かせるには、丁度良いだろう。お館様は退屈しているようだし、良い気晴らしになると思うから。

無言のまま、歩く。

通行人も、千早を着た子供が手を引く、ちょっと頼りない男という不思議な構図には、目もくれない。

時々、青信号を渡る時も、右折の車は、そこに誰もいないように突っ込んでくるので、それだけは気をつけなければならなかった。

山の中に入った辺りで、非常勤講師が正気に戻る。

自分がいつの間にか山の中にいたことで、流石に驚いた様子だった。勿論、手は離さない。

「こ、此処は!? 奥多摩じゃないか」

「もう少しなの。 おじさん、さっきの講義で民俗学は足で稼ぐって言っていたし、これくらいの野歩きは平気だよね」

「い、いや、そう言う問題じゃない! 君は誰だ! 僕をどうするつもりなんだ」

流石に青ざめてきた講師を、そのまま引っ張っていく。

此処奥多摩は、離島を除けば、東京で唯一飲める水が流れる土地。森も古くからのものが保全され、穏やかな生態系が維持されている。

だから、心地よく過ごせる。

ほどなく、洞窟が見えてきた。

「ど、どうして手が離せない。 勝手に歩いてしまうのは、君の仕業なのか?」

「ちょっとした暗示を掛けているだけなの。 お館様に、教わったの」

「暗示って、こんな強力な」

「此処だよ」

講師が、絶句した。

洞窟の入り口に立つと、辺りから見下ろす、無数の目。

お館様の眷属達だ。殆どは、カラス。梟。それに鳶。鷹も蛇もいる。中には、本来この国には存在しない、珍しい生き物たちもいる。

いずれもが、元の生物の範疇を超えた知能を得た、お館様の眷属達。この国では、八百万の神と呼ばれる事もある。

かくいう私もその一柱だった。

講師が震えはじめた。

「民俗学を調べているのなら、不思議な人ならぬ存在と出くわすこともあったんじゃないの? どうしてその程度で、震えているのかな」

「そんな、事。 世の中に、神や魔物なんて、存在、するはずがない」

「そうだね。 きっと貴男達が、万物の創世神とかを想像しているのなら、きっとそれは存在していないの。 でも、様々な事情で、摂理を外れてしまったり、或いは自分からはみ出した者は、いるんだよ」

洞窟の中に、講師を引っ張り込む。

途中、錦蛇の太助とすれ違ったので、軽く挨拶する。太助は講師を、丸呑みしたそうに見つめていた。

お館様に粗相を働くようなら、太助のエサにしてしまうのもいいだろう。

「太助、まだ駄目なの。 この人は、お館様に、面白い話をしてもらうんだから」

残念そうに、太助は舌をちろちろと出した。

既に講師は顔面蒼白。自分が一体どこに連れて行かれるのかと、震え上がっていた。手は離さない。

やがて、洞窟の最深部につく。

最深部は少し広い空間になっていて、なんと家がまるまる建てられている。中には電気が通っていて、テレビまである。衛星放送も、受信可能だ。

此処はお館様の別荘の一つ。

私は、その別荘と、この辺りの森を守る者。守神。

もっとも、守神になったのは、つい三十年ほど前だから。他の守神達に比べると、文字通りのひよっこなのだけれど。

玄関をノックする。

そういえば、昔はこれが上手に出来なかった。だって私は、カラスだったのだから。頭をごつんごつんとぶつけたり、色々苦労した。

「お館様ー!」

チャイムを鳴らすと、奥から声がした。

これはきっと、退屈して居間で寝ころんでいるんだろう。お館様を退屈させないようにするのも、守神の役目だ。

「何だ、瑠璃か。 で、その連れている人間は?」

「近くの大学の講義に呼ばれていたの。 少し前に話題になっていた、民俗学の教授」

さすがはお館様。

寝転んで、此方に注意を向けていないだろうに。家の外にいるのが、私だけではないと気付いている。

入って来いと言うので、ドアを開けて、中に。

お靴を脱いで、ぺたぺたと居間に歩く。一階にある居間はテレビと炬燵が完備されていて、本棚もたくさんある。

PCもあるが、それは二階。此処はあくまで、テレビと本のための空間としてしつらえてある。

退屈はしない空間だ。

ただ、作るのは大変だった。毎回工事業者に暗示を掛けて作業をさせて。土木工事の類は、だいたい此方で請け負った。皆人間離れしているとは言え、人間が持ち込む重機ほどのパワーは発揮できないし、苦労したのだ。

お館様は退屈そうに、ソファに寝転がっていた。左腕で腕枕をしながら、右手だけで器用に何か本を読んでいる。多分司馬遼太郎辺りだろう。

「それが、噂の民俗学教授とやらか」

「うん。 ええと名前は、平田敬三さん、だっけ?」

「平沼栄三です」

手を離す。

そうすると、暗示も解ける。

にんまりと笑みを浮かべると、私は言った。

「挨拶して。 こちらの方が、貴方が言うサンカの仕組みを作り上げた存在だよ。 夜刀の神様」

「夜刀の神……茨城に古くから伝わる、非常に強力な邪神ですね。 見た者を族滅するという。 角の生えた蛇の姿をしていると、僕は聞いていましたが」

「良いから、挨拶して。 何度も同じ事言わせるようなら、太助のご飯にしちゃうの」

「……初めまして。 非常勤講師をしている平沼です。 貴方が、本当に夜刀の神、なのですか」

そうだと、お館様は面倒くさそうに言うと、半身を起こした。

お館様は、千年以上も姿を変えていないと、私は聞かされている。着ているお服は千早に似ているけれど、少し違う。正確に言うと、より原始的な構造のお服らしい。ただ、この意匠が気に入っているとかで、滅多な事がない限り、違うお服は着ないのだ。お館様の、良く分からないこだわりの一つだ。

「私の配下が無理矢理連れてきてしまったか。 すまなかったな」

「にわかには信じられません。 貴方は人間に見える」

「これでもか」

手を少し動かしただけで、お館様の手に、平沼の顔から眼鏡が移動する。

視認することも出来ないほどの速度で、手を動かして、眼鏡を奪い取ったのだ。眼鏡を拭いて返すお館様に、目を白黒させる平沼。

もう一度お館様が手を動かすと、今度は平沼の頭に、眼鏡が掛かっていた。目より上の位置にだ。

「納得したか?」

「な、納得できるわけが……」

「面倒くさい男だな。 何なら素手でお前の首をねじ切ってやろうか?」

「はい、今納得しました!」

情けない奴。

ちょっと連れてきたことを、後悔する。

お館様が、席を勧めて座らせる。私が席を引いてあげたのだ。平沼は既に震えが止まらないようで、私が渡したコップを何度も落としそうになった。

お館様が、小さくあくびをした。

側に積んである本の山のてっぺんに、司馬遼太郎を乗せる。その様子を、死刑執行される寸前の囚人みたいな目で、平沼は見ていた。

「ぼ、僕は、どうすれば」

「そうだな。 せっかく来たのだ。 お前は民俗学の大学講師だと言う話だったな。 私の話を聞かせろ」

「貴方……夜刀の神について、ですか」

「そうだ。 私はこれでも日本における最古参の邪神が一柱だ。 妖怪扱いされる事もあるようだが、それは別にどうでもいい。 民俗学では、妖怪研究はもっとも重要な分野の一つの筈。 お前も私については、少しは知っているだろう」

昔は、お館様は、とても気が短かったと、私は聞いたことがある。

特に人間嫌いは筋金入りで、気に入らないことがあるとすぐに人間を殺して、ばらばらに切り刻んで見せしめにしていたのだとか。

でも、今のお館様は、まず人間に姿を見せない。何かあった場合も、人間を脅かすだけで帰してしまう。殺す場合も、最小限に済ませてしまう。

最古参の守神の中には、手ぬるいやり方だと怒っている者もいるらしい。でも、お館様に絶対服従なのはみんな共通。

みんな、お館様が大好きなのだ。

だから、良くして欲しいと、みんな思っている。

「貴方は、おそらく土着の森林生活者を題材にした妖怪だと、僕は思っています。 大和朝廷に抵抗する者達。 土蜘蛛と呼ばれる勢力の一角だったのではないのでしょうか」

「その通りだ。 私は人間だった頃、土蜘蛛の神子をしていた」

「神子……いわゆるシャーマンですか」

「そうだな。 今の言い方で言うとそうなる。 シャーマニズムにおける中心崇拝者にして、一族の指揮者が私だったのだ」

横になったまま、お館様は器用にカップを掴んで、お茶を飲む。

気が弱そうな平沼は、機嫌を損ねないように、一言ずつ選んでいる様子だ。

「貴方はとても苛烈な抵抗をして、朝廷に大きな打撃を与えたのではありませんか? 貴方の逸話は、あまりも強い恐怖に満ちている。 貴方が指揮官として優れていたのか、武人として優れていたのかは分かりませんが、敵を恐怖のどん底に落とすほどの活躍をしたのではないかと、僕は思うのですが」

「両方だ。 私は武人としても活躍し、指揮官としても敵の裏を掻いて戦った。 もっとも、最後の最後で、敵の物量に敗れたがな」

「おそらく三世紀頃ではないかと僕は思っているのですが」

「いや、今の基準で言うと、五世紀の半ばだったな」

そんなに遅かったのかと、平沼が驚きの声を上げる。

最初は疑っていたらしいのだが、どんどんお館様の話に引き込まれているのが分かった。この辺りは、本職だからだろう。

土蜘蛛について記した資料の中に、強大な土蜘蛛の名として、ヤトが上げられていると、平沼が言う。

お館様は無言で、それには是も非も言わなかった。

「しかし、常陸は当時辺境だったはず。 サンカの民の先祖は、蝦夷や土蜘蛛などの、朝廷に土地を追われた人々だとは思いますし、貴方が強大な指導者だった事は推察がつきますが、如何にしてサンカの民をまとめ上げたのですか」

「常陸で敗れた後、私は吉野に移った。 其処で、全国に影の情報網を作り上げることを考えた。 森を散々喰らった人間共を、この世界から放り出すためにな」

「そ、それは……農耕民への宣戦布告をするつもりだった、という解釈ですか」

「表向きはな。 だが私はこの頃には、既に自分の気持ちに気付いていたよ。 私は人間が大嫌いだ。 私の大事な森を汚す人間共は、いずれ皆殺しにしてやるとな」

そうだ。

だから、森の皆は、お館様を慕った。

暴虐を尽くす人間共をどうにかしてくれる、森の王。みんなは森を守ってくれるお館様に、希望を託したのだ。

それなのに、侵略者であり破壊者である人間共に。どうしてお館様は、手加減をするようになってしまったのだろう。

私には分からない。

お館様が大好きだから、面白い話が出来そうなのは連れてきたけれど。

「そ、それでサンカの民を、組織した、のですか」

「そうだ」

「ぼ、僕の仮説なのですが。 日本の全土に広がっている山岳信仰、たとえば修験道などは、サンカの風習が強く関与した存在だと思っています。 これにも、貴方の力が、及んでいるのでしょうか」

「修験道か。 仏教と、元々の土着信仰が混じって出来た思想だったな。 私は祭り上げられてはいたが、どうでも良かったから、好きにさせていたよ」

平沼は怖がったり興味を示したり、正直此奴の話よりも、此奴自身の方が見ていて面白いかも知れない。

不意に、平沼が、話の方向を変えてきた。

「それで……貴方の娯楽には、人間の文化が多く見られるようなのですが。 それは、どういう心境の変化、なのですか」

「さっきから質問してばかりだね。 あまりお館様を退屈させるばかりだと、本当に首をこきゃってやっちゃうよ?」

「瑠璃、良いといったであろう」

「だってぇ!」

むくれた私の頭を、お館様が撫で撫でしてくれる。

それだけで溶けそうになった。

カラスだった頃から、お館様の撫で撫では大好きだ。カラスがどうすれば喜ぶかを、知り尽くしている。

「私は今でも人間が大嫌いだ。 人間の姿を保っているのは、単に連中と余計な軋轢を起こさないためだ。 昔は兎も角、今では人間では無い姿も取ることが可能だが、この姿が不快というのなら、切り替えようか?」

「い、いえ、結構です!」

「良く分からぬ男だ。 それで、私について、もっと聞かせろ」

 

夕方近くまで喋らせる。

私はお館様に撫で撫でされながら、その側に横たわって溶けていたが。お館様が頭から手を離したので、我に返る。

「お館さまあ、もっとお」

「瑠璃、送っていってやれ。 ただし、此処での記憶は消せ」

「分かってます。 で、楽しかったんですか?」

「まあまあだな。 たまに民俗学をやっている奴と話すが、そこそこに独創的な説を聞くことが出来たよ」

私は平沼の手を掴んだ。すぐに暗示が掛かる。

お館様も、こうやって以前は、人間に狂気を叩き込んでいたらしい。私も、相手を操作するくらいのことは出来る。

「一方的だなあ」

「なんなら、大蛇のおなかの中に、一方的に突っ込んであげるの」

「ごめんなさい、生きて帰してくれれば、後は望みません」

「お館様あ、本当にこれ、生かして帰すの?」

泣きそうな平沼に、お館様も苦笑いだ。

とりあえず、連れ出した大学まで戻してやる。途中歩く過程で、平沼は不安そうに言う。

「君達が人では無いことは、よく分かったよ。 だけれど、人とこれからどう関わっていくつもりなのかい」

「お館様の話だと、人と戦うには、まだ力が足りないんだって」

「それは……そうだろうね。 君達がどれだけ強くても、水爆までもった人類を本気にさせたら、ひとたまりもない」

「だから今は、力を蓄えるんだって。 何だか、イライラしちゃう」

手を離す。

離す瞬間、強烈な暗示を叩き込んだ。

大学の講堂で、平沼はぽかんと立ち尽くしていた。今日、今までの記憶が、綺麗に全て消えたのだから当然だ。

勿論私も認識なんてさせない。

さっきまで此奴が私やお館様を見ることが出来ていたのは、気配を露わにしていたからなのだ。そうでなければ、特殊な技術でも持っていない限り、見ることなんて出来るはずがない。

私は手をはたくと、お館様の所に帰ることにした。

途中、人間などに気配は悟らせない。カラスの姿になっても良かったのだけれど。万が一を考えて、歩いて帰る。

お館様の別荘には、すぐに辿り着いた。

手を念入りに洗うのは。やはり、人間の臭いが、大嫌いだからだ。彼奴らの独善的な臭いを嗅ぐだけで、不愉快になる。

お館様は、相変わらず寝転がって司馬遼太郎を呼んでいた。

守神の中には、お館様が人間の本を読むだけで、悲しそうにする者もいる。だけれども、お館様はただの娯楽だと言って、改めない。

昔、お館様は、一度死んだって話を聞いた。

その時に、人間に対する焼き尽くすような憎悪が薄れたのだとも。千年以上掛けて、少しずつ妥協点を探っているのではないか、という話もある。だかれども、私には難しい話は、良く分からなかった。

「お館様、言いつけの通りにしました」

「今日は私のためにわざわざすまんな」

「お館様のためならば、火の中水の中なのです!」

「そうかそうか」

長い戦いの中で、お館様は、多くの配下も眷属も、失っていったとか。

眷属や守神という、動物の概念を超えた存在は、その過程で産み出したという。お館様の血肉を与えることで、高い知性と、お館様の力の一部を受け継ぐことが出来る。

少しは気晴らしになった事が確認できたので、お館様の別荘を出た。

千年以上も続いた戦い。

やはり、私には想像も出来ない。

既に、外は夜になっていて。

思わずそちらに飛んでいきたいほどの、綺麗なお月様が、お空に出ていた。

 

1、吉野その後

 

民俗学の講師が行った後、ヤトは昔の事に、思いをはせていた。

懐かしい話だ。

つい昨日のように思い出せる。

あれから、随分といろいろな事があった。

ヤトにとって、サンカの民と今呼ばれている一族は、自分が組織した配下達に過ぎない。だが、時々、本気で農耕民族を殲滅できないか、模索するために必要とする道具の一つだった。

一度死に、長い時を掛けてよみがえって。

それから日本中を旅した。

二十年ほどを掛けて、日本の隅から隅まで足を運んだ。九州も四国も歩き尽くした。琉球は、この時点では足を運ばなかったが。広大な蝦夷島も、全ての場所を網羅するほど調べたのだ。

蝦夷島にいた大きな熊たちは、実に面白かった。

その巨体は、本土の月の輪熊とは比べものにもならないほどだった。だが、ヤトの前には赤子も同然。

時々余っている個体を見た時には、素手で殺して、解体して食べた。あまり美味しいものではなかったが。

日本最強の動物と戦って、なおかつ素手で勝つという行為は。どうしてだろう。不思議な達成感をもたらすのだった。

日本に、足を運ばぬ土地は無しと豪語できる段階になった頃。吉野から、支援を求める連絡が来たのである。

それは、日本転覆の好機だった。

最初は、厩戸皇子の死から来た混乱を、大化の改新が収めるまでだった。厩戸皇子の死後、別に有能だからではなく、単に経済力があったから、蘇我氏が国政を牛耳ることになった。

だが、蘇我氏は、正確には蘇我氏の当主入鹿は、残念ながら国政を廻すには能力に欠けていた。人望もなく、それを補おうという努力もしなかった。蘇我馬子の代に、厩戸皇子の後ろ盾で、力を蓄えすぎていたのかも知れない。最悪なのは、それにも関わらず、極めて強引に権力闘争を進めたことだ。

混乱が巻き起こったのは、当然であっただろう。

介入の好機と、山の民は思ったのだろうが。残念ながら、ヤトが駆けつけて、指揮を執ろうとした頃には、とうに介入の機を逸していた。

それに、山の民も、動きが鈍かった。

蘇我側につくか、反対勢力の中大兄皇子につくか。どちらかで、どうしても揉め続けていたのだ。

蘇我を勝たせれば、明らかに混乱を持続させることが出来たのに。それさえ、判断がつかない者が多いようだった。

これは、駄目だ。

ヤトが思っているうちに、後に言う大化の改新は、決着してしまった。蘇我一族は暗殺と宮中クーデターにより壊滅してしまったのだ。

その後も、介入の機は幾度もあった。

天皇家が真っ二つに割れた壬申の乱。

長い間サンカの力を使って金品を運び、都に独自の人脈を造り、いつの間にか勢力を回復していた旧蝦夷による、アテルイの乱。そうそう、アテルイの乱では、ヤトを討った坂の上の子孫が、坂の上田村の麻呂という名前で、征夷大将軍として総指揮を執っている。坂の上田村の麻呂の温厚そうな顔を遠くの山から眺めながら、あの復讐に全てを掛けた若者の子孫が、とヤトは思ったものである。

だが、これらが起きた頃には、サンカも一枚岩ではなくなっていた。

派閥が出来、内部闘争まで起きるようになっていた。

時々ヤトが様子を見に行って、そのさんさんたる有様に頭を抱えたほどである。管理しなければならないのかとも思って、何度か大掃除もした。しかし、百年も経つと、また一枚岩ではなくなってしまう。

思うに、数が増えすぎただけが原因ではないだろう。

蝦夷と関係が続くうちに、あまりにも金を蓄えすぎたのだ。それで、一部のサンカは、腐敗官吏と結託して、贅沢を覚えてしまった。

昔ながらの山の暮らしをしているサンカとでは、溝が出来るのも当然であった、のかも知れない。

更に言えば、サンカの民は、既に山の民と言うには疑念を抱かざるを得ない存在になってもいた。

たとえば高名な陰陽師。呪術者として名高い彼らだが、実際には情報のスペシャリストの色彩が強かった。彼らが使っていた式神というのは、魔的な存在では無く、実際にはサンカの民の事である。

影の者達も、陰陽師とは深く結びついていた。

つまり、国側に傾くサンカの民が、その過程で出るのは、当然の結実だったとも言える。

こういった連中は、いわゆる二重スパイにもなり得るため、念入りに処理しなければならなかった。

ようやく大規模介入の好機が出来たのは、十二世紀になってから。

いわゆる平安の世が脆く崩れ、巻き起こった源平の大戦。

乱を予期していたヤトは、少し前から配下の整理を進め。そして、乱が起きたと同時に、介入を開始したのだった。

ヤトの大規模戦略は広域に渡った。

源氏の中でも特に武勇優れた源義経の抜擢はその一つ。監視役として複数の配下を、周囲に付けた。伊勢義盛を一とする出自が分からない武士達は、みなサンカから抜擢した武勇の者。武蔵坊弁慶もその一人だ。現在でも正体が良く分かっていない弁慶は、そもそも坊主でさえなかった。伊勢義盛が監視役だとすれば、弁慶はいざというときに、義経を殺すために、側に付けていた男である。

ヤトはこういうときのために、多くのコネクションを確保していた。人間共が和議を忘れ果てたのは明らかであったし、もし出来るのなら、試してみたかったのだ。人間を森に二度と近づけないようにするため、農耕民の抹殺は、この時になっても悲願だった。

元々義経は、ヤトが見いだした非常に素質がある若者だった。そうでなかったら、訓練などつけさせなかった。

後の世で、義経は天狗に修行を付けてもらったという伝説が出来たが、あれは嘘でも何でも無い。

ヤトが抜擢したサンカの精鋭が、あらゆる武芸を叩き込んだだけのこと。

更に、ヤトは東北で勢力を保っていた、蝦夷の残党。いわゆる奥州藤原氏とも連携して、本気で日本を潰すための工作を続けていた。

この時の事は、ヤトとしても思い入れ深い。久しぶりに本気になったのだから、当然である。

アマツミカボシを誘い込もうともしたのだが。後で知ったところによると、奴はこの時代の頃には大陸に渡って、そちらでより大規模な殺戮に手を染めていたらしい。久しぶりに会う度に、何十人どこで殺してきたと自慢げに言われるので、流石にうんざりしたのをよく覚えている。

ただし、一つ誤算が生じた。

おそらく、ヤトが生まれて初めてだろうか。

人間を、気に入ってしまったのである。

その後には、一度も無かった。源義経を幼いうちから引き取って、サンカの猛者達に命じて武芸を仕込ませて。

素質がある事が分かってからは、ヤト自身が技を叩き込んだ。

あまり背は伸びなかったが、義経はぐんぐんと腕を上げた。そのまま上手くすれば、人間を止めることも不可能ではなかっただろう。

だが、ある一点で、義経は言い出したのだ。

武芸ではなくて、もっと多くの事を学びたいと。

太平の世の中を作るために、政や、大規模な戦の事を知りたいと。

ヤトは良い気分がしなかった。

或いは此奴も、自分と同じようになれるかも知れないと、感じていたから、だろうか。

一度だけ、だから言った。

お前はこのまま腕を磨けば、神になる事も可能だと。

貴方のようにかと、聞き返された。

そうだと応えると、もう元服を済ませていた義経は応えた。

それならば、なおさらに。これ以上武芸を磨くことは出来ないと。

平清盛による政が失敗し、世の中が混乱しはじめると、義経はヤトの膝元を出て行った。多分、人間が言う愛していた、というのとは違っただろう。

おそらくヤトは、義経に、子供に向けるような愛情を注いでいたのかも知れない。具体的にそれが何だったのかは、今でも分からない。

膝元から出て行っても、ヤトは結局義経を支援した。監視役も付けたが、奥州藤原氏との便宜も図ってやったし、情報も惜しみなくくれてやった。

最強の指揮官に率いられた、最強の精鋭。

圧倒的に強かった。

敵など、いなかった。

周り全てが敵になるという事態が到来しなければ、義経は日本全域を、統一できていたかも知れない。

 

結論から言えば、義経は失敗した。

個人としてはあまりにも強く、戦でも負け知らずだった義経だが。皮肉なことに、ヤトと同じようにして敗れてしまった。

義経は、平家を葬った。

しかしあまりにも人望に欠けていたため、瞬く間に勝者の座を追われた。相談してきていれば、すぐに手を打ってやったのにと、ヤトは今でもこの時の事をふがいなく感じてしまう。

とにかく義経は、ヤトに一切頼ろうとしなかった。情報については受け入れてくれたが、それを生かせなかったのかも知れない。もしも助力を頼んできたら、何でもしてやったのだが。

都を追われた義経は、四苦八苦しながら、奥州藤原氏の所へ逃げ込んだ。

この時も、歯がゆかった。

言ってくれれば、山の中の路を通してやったというのに。

義経はあくまで地力で何事も達成することにこだわり続けた。自分以外の者を信用していない、というのとは違っただろう。

自分を信用しすぎていた、というべきか。

逃げ込んだ場所も、安住の地ではなかった。

奥州藤原氏は、その頃既に瓦解寸前。義経はその権力闘争に巻き込まれて死んだ。ヤトが付けてやった部下達も、ことごとく後を追った。蝦夷島に逃げ込めばまだ再起の可能性があっただろう。事実、そういった伝承も残っている。だが、実際に義経が死んだところを、遅れて駆けつけたヤトは確認した。

義経は逃げようとしたところを取り囲まれ、よってたかって槍で突かれて討ち取られた。これは、奇しくも、ヤトの死をそのままなぞるかのようだった。

鎌倉幕府を作った源頼朝は、恐らくはヤトのことに勘付いていた節がある。冷酷な一方、聡明な男であったから、無理もない話だろう。頼朝は側近に漏らしていた。自分の耳で確認したのだ。吉野に途方もない邪悪な大天狗が潜んでいると。流石にその正体が、常陸出身の夜刀の神だとは気付いてはいない様子だったが。

結局、頼朝は奥州藤原氏を潰すだけに留まり、ヤトにまでは手出ししようとしなかった。日本の裏側に全面戦争を挑むのと同じだと、分かっていたのだろう。

義経の討伐で混乱している時に、其処までの事はしたくなかったのだろうと、推察された。

義経の死は、今でもヤトにとっては痛恨の出来事だった。

上手く操作できれば、農耕民を二度と森に近づけないようにするための、最高の道具になり得た天才若武者。

或いは、自分を理解できる存在に、なったかも知れない戦士。

袂を分かつのも早かった。気がつくと、手の届かない状態になってしまってしまった。それでも、だ。

今でも、ヤトは源義経の事を思い出す。

死の間際くらい、弱音を漏らしても良かったのに。そうすれば、何をおいても助けにいったのに。

義経は結局誰も頼らず、孤独に死んで行ってしまった。

手元に積んでいる本の中には、近年に創作された多くの物語から、原本の平家物語まで存在している。いずれもその実情を伝えるにはほど遠いが。それらを読んでいると、自分が鍛え抜いた義経という若者を思い出して、懐かしいと思えるからだ。

鎌倉幕府は、あまり長くは保たなかった。

執権の北条氏が好き勝手に振る舞うようになって、源氏は瞬く間に傀儡と化した。鎌倉幕府自体は元寇による打撃よりも、その後処理に失敗して崩壊したが。その頃には、再びサンカの民を脅かす者はいなくなっていた。

それからは、ヤトは自身の実力を伸ばすことと、サンカの民の内部整理を続けた。数を無軌道に増やすのではなく、確度の高い情報を手に入れることを優先し、なおかつそれを如何にヤトに届けるか。

森を管理する作業を、如何に無駄なく行うか。

普段は別に良いのだが、緊急時のヤトに対する絶対服従は必須となる。それを、どうやって仕込むか。

鵯は、時々手伝ってやるくらいでいいと言っていたが。このままだと、サンカの民は自壊してしまう。

ある程度手を入れるだけでは駄目かも知れないと、ヤトは思い始めていた。

反対派は、容赦なく粛正した。

ヤトを狙う人間は、この頃にもまだいた。襲ってくる相手は殺していたが、配下であるサンカの民を殺したのは、これが結局最後になった。

サンカの民の綱紀は、鎌倉時代の終わりくらいには引き締まった。ヤトはどうしてだろうか、最小限の殺戮で作業が済んだことを、安心していた。昔だったら徹底的に殺して、全く顧みることがなかっただろうに。

それに何より、ヤト自身が、サンカの民の長に再君臨することはしなかった。自身が直接的に、権力を握ることにも、興味が失せていた。

むしろ眷属の者達を、いわゆる守神に変える技術に、この時期はより熱中していたほどである。

別にあやしの技術ではない。

ヤトの血肉を少量分け与える。それだけだ。

ヤトが育てることで、元の生物の平均寿命を大幅に超過した動物たち。彼らは、一様に強い忠誠心を持っていた。ヤトが死んだとき、命を投げ出したカラスや梟、蝮たちのように。とても長い年月を生き延びた者達を、眷属と呼んだ。そして眷属達に、力を与えて。ヤトの力の一部を継承した、守神としたのだ。

守神達は、ヤトにとっての非常に大事な手駒となった。多くの眷属を、守神にした。だが、結局、人間を守神にする事は殆ど無かった。

義経のことが、ずっと心に引っかかっていたから、かも知れない。

そうして、第二の機会が訪れる。

南北朝動乱である。

 

日本史上でも空前の出来事であった。南北朝動乱では、天皇家が二つ、互いに正当を主張するという事態が発生したのだ。

そしてこのうちの南朝に、ヤトは荷担した。

そのまま南朝側の天皇を吉野に引っ張り込むと、支援をしてやる代わりに、幾つかの事を約束させたのである。

勿論、ヤトも南朝が勝つとは思っていなかった。

元から劣勢だった南朝である。人材でも土地でも、北朝の方が圧倒的に勝っていた。ヤトが狙っていたのは、北朝側が手を焼いて、南朝を降伏させる際に、様々な条件を承諾すること。

つまり、以前に行った和議の再現だ。

ヤト自身は、人間への憎悪が以前に比べてぐっと薄れている事もあって、直接戦場に出ることは無かったが。それでもこの頃には、死んだときに比べて、圧倒的に力を増していた。

しかし人間は、それを遙か超えるほどに、数を増やし、技術を増し、何よりも戦術を鍛え上げていた。

まだ、正面から戦うには、早すぎる。

ヤトが単独で人間を殲滅できるのなら、そうしていただろう。

だが、守神や眷属達を全て叩き付けても、せいぜい出来て一つの街を滅ぼす程度が関の山。

ヤト自身も、人間の力を取り込むべく、サンカの民達に情報を提供させて、研究を続けてはいたが。

結局今日に到るまで、人間の技術進歩速度に、追いつくことは出来なかった。

南北朝動乱は長引いた。

ヤトの思惑通り、手を焼いた北朝側は、ある程度条件を緩和して、南朝の降伏を受け入れた。

その時、ヤトは再び、森に手を出さぬようにと、密約を結ばせることに成功した。

各地の山に飼っていた配下のサンカ達を使って、山岳寺院や、情報を扱う者や技術者が集う郷を多く作らせていったのも、この頃である。

そのために必要な人間には、時に金を出してやることもあった。

少し時代はさかのぼるが、空海もその一人。

奴は手駒として使えると判断した。ただし、制御できるとも、最初から思っていなかった。

活動費を出してやったのはヤトだ。

ただし、佐安の時の二の舞を避けるために。結局、自身の姿を見せてやることは、一度も無かった。

やはりヤトとしても、仏教に良いように使われたときのことは、大きな課題として、残っていたのである。

ヤトは手元に積んである本の中から、妖怪について記されている本を幾つか抜粋した。

その中には、ヤトの守神が原型の一部になっているものもある。

妖怪は奥が深い存在で、様々なものが原型になる。あの民俗学者を瑠璃が連れてきたときは、良い話が聞けると思った。

実際、幾つか新しい説が聞けて、満足した。

結局、ヤトは表だって敵を殺戮する破壊者ではなく、裏側から人間に睨みを利かせる戒めの存在となっていった。

南北朝動乱が終わった頃から、その傾向は顕著だ。

妖怪についての記述を見ても、殆どの場合、どう人間を殺戮した、という話は載っていないのである。

人間を襲う凶暴な妖怪はいくらでも記述があるが、どこの誰がどのように殺された、という話はまずない。

あったとしても、目撃者が不明確だったり、その妖怪の仕業とは断言できないようなものばかり。

妖怪とされている者が、いわゆるコミュニティから阻害された、偏屈な老人である事も珍しくない。山姥の逸話などは、この典型だろう。

ヤトも、失敗については身に刻んでいた。

直接相手を殺して廻っていた、死ぬ前のヤトは。やはりあらゆる意味で、身を露出しすぎていたのだろう。

確実に人間を殺し尽くせる実力がつくまでは。

ヤトは、表に出るわけにはいかないのだ。

事実、南北朝動乱以降。ヤトは表には出ていない。

 

日本の裏側の権力を掃討することで、権力の一本化を図ろうとしたものは何名か出てきた。その一人は、織田信長だ。

忍び嫌いで知られた信長は、サンカの民にとって最大の敵の一人だった。天下統一を果たしていたら、日本中の山々に対して、浄化作戦を実施していた可能性もある。延暦寺の焼き討ちは、その先駆けに過ぎないと、必死にヤトに訴える者達もいた。だが、ヤトは手を出さなかった。

途中で失敗すると判断していたからである。

間違うこともあるヤトの判断だが、これについては適中した。信長は天下統一が確定するとみるや、大きな隙を身辺に見せるようになった。かねてから信長に大きな恨みと不満を抱いていた明智光秀が造反し、信長を本能寺で討ったとき。ヤトは、そうかとしかいわなかった。

その後に天下を取る有力候補であった秀吉も家康も、どちらかと言えば山の民に対する有力な味方だった事もある。

いちいち手出しをしなくても、ヤトは問題ないと、大局を見据えていたのである。

むしろサンカの民には日本中の情報を積極的に収集させ、自分の所に集めさせる事が必要だった。

そうしてヤトは、人間の情報を集め尽くす。

そして、奴らを超える力を、手にしなければならない。

江戸時代が過ぎて、明治になったころ。

ヤトはサンカの者達を、里に下ろさせた。

恐らくは時代的に、もはや山の管理をする人間がいても意味がないだろうと判断しての事だ。

最大の情報収集網であったお庭番衆もヤトの息が掛かった集団だったが、此方は形を変えて、潜伏させた。

今でも、多くの配下が、人間社会に潜伏している。

残念ながら、未だに人間共を皆殺しにするための力は足りていないが。それでも、まだ諦めてはいない。

今でも、人間共の情報は一手に集め続けている。

水爆さえ手に入れた人間を一掃することは無理かも知れないと、内心思うこともあるが。人間の文明が崩壊すれば、或いは好機が巡ってくるかも知れない。

眷属や守神の中には、生物兵器はどうだろうと言ってくる者もいる。

事実、エボラをアマツミカボシと共同開発した者もいた。

だが、使うのは最後だ。

人間を確実に殲滅できると判断するまでは、動くわけにはいかない。今の時代の人間を完全に敵に回した場合、勝ち目がないのだ。戦闘機一機でさえ、とんでも無い性能を持っている。

今のヤトは本気を出せば、近代兵器で武装した一個師団くらいなら真正面から相手に出来るが。逆に言えば、その程度の実力でしかない。

人間には、まだ勝てない。

人間への憎悪が薄れているのは事実だが、人間はまだ敵だ。いずれ滅ぼそうと思っている事に、代わりはない。

やるなら確実な手を取らなければならない。

だから、今でも、毎月のように部下達から最新の情報を提供させ、その全てを頭に入れている。

ヤトの記憶容量は、人間などの比では無い。その全てを記憶することも可能なのだが。それでも、人類殲滅には今だ及ばないのが事実だ。

敵対してみれば分かる。

人間ほど、面倒な敵はいないのだ。人間だけを滅ぼす手は幾つか思いつくのだが、それには大きな森へのダメージを伴ってしまう。駄目なのだ。そのやり方では。人間だけを滅ぼし、森は守らなければならない。

誰かが、戸をノックする。

護衛用に控えさせている守神が、様子を見に行った。ヤトは寝転んだまま、対応させる。気配からして、敵になり得る存在では無い。

側にいつもいるのは、線という名前を付けている、元は鳶だった守神だ。いつも黒スーツを着ていて、SPを意識した格好をしているが。これは単に本神が、黒が好きなだけらしい。性別はメスだが、容姿は中性的だ。

「お館様」

「何だ。 来客は何者か」

「それが……」

玄関の画像を、ハンディモニタを使って見せてくる。瑠璃と違って線は守神をやってかなり長い。

彼奴のように子供丸出しの性格ではないから、的確に仕事をする。

「中に入れてやれ」

「良いのですか?」

「かまわん。 暗示をかけ損ねたのかも知れん。 場合によっては殺せ」

ヤトが顎をしゃくって、そいつを中に入れるよう指示。

外にいたのは。

数日前、ヤトの所に連れてこられた非常勤講師。平沼だった。

瑠璃の奴には仕置きをしなければならないだろう。

長い歴史の中で、ヤトは自分を排除しようとする勢力と、何度となく戦って来た。今でも、その勢力は現存している。年に何度かは守神が襲われることもあるし、ヤト本人が襲撃され、相手を返り討ちにもしている。

そう言う連中に、此処を知られると面倒だ。場合によってはバンカーバスターを叩き込んでくるかも知れない。

アマツミカボシが大陸の方であまりにもやりすぎたせいで、ヤトも国際的な組織に目をつけられている。

勿論ヒットマンは全て返り討ちにして来たが、あまり率先して敵を呼び込みたくはないのも事実だ。

申し訳なさそうに入ってきた平沼は、折り詰めの寿司を手にしていた。

「あの、また来てしまいました。 これ、土産です」

「冷蔵庫に入れておけ」

「分かりました」

てきぱきと、線が処理する。

ソファの前の床に座るように促すと、ヤトは前とはうって違って、ぐっと冷え込んだ声で言う。

「どうして此処を覚えているのか。 瑠璃が半人前の守神と言っても、並の人間相手に暗示を失敗するはずもない」

「それはですね。 僕も何が起きたのか忘れていたんですけれど。 切っ掛けがあって、思い出したんです。 あ、他の誰にも言っていません。 本当です」

線はとっくに戦闘態勢に入っている。

とはいっても、いざというときには、この軟弱そうな男の首を刎ね飛ばすだけだ。例え此奴が銃器を持っていても、ヤトを殺せる確率は零。爆弾を抱えてきている場合は厄介だが、TNTを全身に巻き付けていても、ヤトは殺せないだろう。

「これを、見てください」

差し出されたのは、古文書だ。

珍しい、原紙のものである。見たことが無い題だが、中を見ると。

わずかに心が動いた。

筆跡に見覚えがある。

これは、義経のものだ。

「実家で見つけたものです。 僕の先祖は、どうやら源義経に仕えた郎党の一人であったらしく、これを隠し持っていたそうです。 理由は分からないのですが、これを読んでいたら、不意に思い出しまして」

そうか。

義経の記憶は、こんな所にも、根を張っていたのか。

どうしてだろう。既に死んだ我が子が、戻ってきたかのような気分だ。しばらく無言でいたヤトは、線に目配せした。

殺す事も無い。

「読んでも良いか」

「是非お願いします。 貴方が本物の歴史の当事者の一人であるのなら、内容についての助言もいただきたいですから」

「正体不明の人物の談話が、論文に役立つか?」

「いえ、これは純粋に、僕の好奇心からの行動です」

そう言うのなら、目を通すのも吝かではない。かってだったら、即座にこの青びょうたんの首を刎ねて、古文書を独占していただろうに。

自分も丸くなったと思いつつ。

ヤトは懐かしいと呟いていた。

九朗義経は、古文書の中で、絶対にヤトには漏らさなかった弱音を吐いていた。義経は、何度も弱音を、文書の中に綴っていた。曰く。

このままでは負ける。

大天狗様に、助けを求めるべきかも知れない。

大天狗様に助けを請えば、妻子は助かるかも知れない。だが、それは山の民として生きることになるだろう。

既に奥州藤原氏は駄目だ。内紛は、弱体化から来ている。奥州十八万騎などというのは、ただの噂に過ぎなかった。実際に用意できる兵は精々二万か三万。これでは本気になった鎌倉には、勝てる訳がない。

自分が指揮すれば、或いは望みはあった。

だが、奥州藤原氏は、義経よりも、頼朝を怖れてしまっている。猜疑心にも囚われて、いつ殺しに来るかも分からない。

嗚呼、もはや望みはない。逃げるべきか。

此処までついてきてくれた郎党達を死なせたくない。妻子を、死なせたくない。

自分の判断が間違っていた。あのような大狸に乗せられてしまった。

其処まで読んでから、ヤトは何となく、この古文書が隠されていた理由を悟る。義経は神格化が激しい武将の一人だ。子孫達が、このような弱音を吐く義経を、世間に晒したくなかったのだろう。

或いは、破棄しようとさえしたかも知れない。

青びょうたんをもう一度見る。

骨格などに、義経の面影はない。間違いなく、血はつながっていないだろう。だが、義経が死んでから、800年以上経って。このように思いが通じるとは。

「馬鹿な奴だな。 肥大した誇りに押し潰されて、結局武を使い切れなかったか。 まるで……」

私のようだと、ヤトは呟いていた。

そうだ。結局の所、義経は自分と同じだったのかも知れない。

だから親近感も得たし、何よりその死が悲しかったのだ。

残りも、全て読んだ。最後に、こう書かれていた。

大天狗様には申し訳が立たない。あの人は、私の第二の母だ。大天狗様に頼ればきっとどうにかなっただろう。でも、出来なかった。あの世で会うことがあったら、わびたい。

「今更遅い……」

あの世とやらがあったとして。義経が向かう先と、ヤトが行く先は、どうせ別だ。

目を擦ると、本を返す。柄にもなく、悲しく感じてしまった。同じようにヤトのことを考えていた人間などいなかっただろう。いや、鵯は心配していたか。鵯も、こんな気持ちだったのだろうか。

線を促して、青びょうたんを送ってやるように指示。別に暗示を掛けなくても、大丈夫だろう。

送ってやると言うと、青びょうたんは。平沼は言った。

「たまに、此処を訪れても良いですか」

「好きにしろ。 ただし他言は無用だ。 余計なことをよそで言ったら殺すぞ」

言い捨てると、線に連れて行かせた。

先ほどの古文書の内容は、全て頭に入っている。義経は、今でも。唯一の、ヤトが心を許した人間だった。

そして、今後も。それが更新されることは。きっと、無いだろう。

 

2、旅先の光景

 

気分を変えようと思い、ヤトは別荘を出た。年に何度か、旅に出ることはある。ただし、人間の交通機械は使わない。

車も飛行機も、用いない。自分で作り上げた、山の路を歩くのだ。

これは体の調整を兼ねている。ヤトは基本的に無駄を好まない。歩くときでさえ、自分の体がどれくらい動くのか、確認を常にしているのだ。人間を単独で滅ぼせるようになるまで、まだまだ力を付ける必要がある。

少なくとも、今の力量では、手段を選ばない攻撃には、対抗できない。

海外に出るときは、流石に飛行機を使う。偽造パスポートくらい、簡単に作れるノウハウがある。

もっとも、海外に出たことはあまりない。

アマツミカボシに頼まれて、助っ人に出たことはある。とはいっても、やり過ぎて脱出できなくなった所を、救出しただけだが。彼奴は頭が良いし要領も心得ているが、ときどきとんでもない初歩的なミスを犯す。

勿論、今回は海外には出ない。

守神が何柱かついてきた。その中には、瑠璃も混じっている。

最年長の黒は、元々が蝮だった。とは言っても、錦蛇大にまで成長していたが。その黒は、年老いた男性の姿をしている。黒スーツをしっかり着こなしているのは、意外と近年からだ。

線に影響を受けたのだと、本人は言っている。

他の面子は、だいたい格好もばらばらだ。人間に見られたとき面倒がないように、人間の姿になっていることだけが共通している。

「夜刀様、どこへ向かわれますか」

「そうだな、四国へでも行ってみるか」

「了解しました」

昔は、淡路島を経由で船を使うか、或いは水軍に頼むしかなかった。

だが、今はその気になれば、徒歩で四国にまで渡れる。瀬戸大橋という便利なものがあるからだ。

勿論、気配は消して、こっそり渡るのだが。

四国には、殆ど思い出がない。

ただ、サンカの民には重要な土地だ。

四国では、狸の伝説が多数残っている。その幾らかには、サンカの民が発生に関わっている。

ギョウブという男などは、特にそうだ。

サンカの中でも、もっとも野心が強かった男。ヤトが看取った。権力抗争の果てに、己の野心で自らを焼いてしまった男だ。

ヤトが育てた戦士の中では、さほど強くもなかった。ただ、組織をまとめる事に関しては、天性の勘を持っていた。

別にヤトは、あれだこれだと、サンカの民の人事にまでは関係しなかった。だから、四国にギョウブが行くと分かったときには、そうかとだけ応えた。

問題はその先だ。

自分の派閥と反対派で、一大抗争を始めたと聞いて、流石にヤトもまずいだろうと思った。

それが土着の豪族達まで巻き込んで、合戦にまで発展してしまえばなおさらだ。

ヤトは配下の者達に促されて、やむなく四国に出向いた。

其処で見たのは、血の海と、死体の山だったのである。

「懐かしい光景だ」

瀬戸大橋の欄干の上を歩きながら、ヤトは手をかざす。

四国には、あまり多く出向いたことが無い。ただ、ギョウブの一件の時は、水軍の力を借りて、この方向から四国に出向いた。淡路島から泳いで行く事の方が多いのだが、その時はたまたま九州に出かけていたのだ。

橋を渡りきると、其処はもう四国。

山陰よりも、更に山深い。

日本には秘境と呼べる場所がまだ多く残っている。特にそれが多いのは北海道だが、四国も中々負けてはいない。

この辺りは、ヤトにとっても好みの森が広がってはいる。ただ、主要行動範囲からは、離れているので、中々足を運ばない。それだけだ。

「花を適当に買ってこい」

「分かりました」

ゴールドのクレジットカードを守神に渡すと、ギョウブが息絶えた山へ向かう。

ギョウブもまた、ヤトと同じような考え方の持ち主だった。結局の所、自分しか信用していなかった。

武芸も出来たが、それ以上に体が大きかった。

だから、大半の人間は、暴力でどうにでも出来たのだ。

ギョウブは四国に乗り込むと、サンカの民を強引にまとめ上げていった。長老達は皆殺しにされたと、後から聞かされた。

権力が、欲しかったのかも知れない。

山にいたサンカ達をまとめ上げると、今度は平野に侵攻を図った。

当時は鎌倉時代。御家人と呼ばれる武士達が、幕府の与えた土地に、それぞれの勢力を張っていた。

其処へ無理矢理割り込もうとしたのだ。

しかも、ギョウブは戦に関しては、図抜けて強かった。

多くの御家人を殺し、討伐軍を二度にわたって壊滅させた。

だが、山から下りてきたギョウブを、民が受け入れるわけがない。そして、ギョウブは逆らう民に、無差別の殺戮を行った。

山を歩く。

ギョウブが死んでいたのは、この山の中腹だ。

日差しが木々に遮られ、暖かな風が吹いている。今はこれほどに穏やかで美しい森なのに。あの時は朱にまみれて、臓物の臭いがしていた。それ自体は別に構わないが、殆どが人間の、だというのが嫌だった。かってはどれだけ人間を森の中で殺しても、気になどならなかったのに。

小さなほこらがある。

刑部狸を祀ると地元で言われているものだ。

おそらく、ギョウブは人間だとは思われていなかったのだろう。山から突如現れた、恐るべき災厄。

ただ、鎌倉幕府の対応は冷静だった。

サンカを通じて、ヤトに対処を依頼してきたのである。

影の部分でつながりがあるから、こういうことも起きる。勿論ヤトに直接、というわけではない。

サンカのもめ事は、サンカで解決しろ。それが、幕府の考えだった。

それで、仕方が無く、ヤトが出向いたのだ。

ギョウブに武芸を教え、一人前に育て上げたのはヤトだった。面倒くさいが、其処で拒否すれば、サンカの連中がそっぽを向く可能性があった。

そして、四国へ来たのだが。

守神が花を買ってきたので、備えておく。

人間の風習を何故なぞっているかというと。ギョウブが、野心そのものの男だったからである。

ヤトとしても、思うところがあるほど、ギョウブは欲望まみれだった。

ヤトが四国に到着したときには、サンカの中の反対派が、ギョウブに反旗を翻していた。

おそらく、鎌倉幕府が工作を仕掛けたのだろう。このままだと、幕府の大規模な討伐軍が来るとでも。

それに対して、ギョウブは四国を統一し、鎌倉幕府に属さない独立王国を作るつもりらしかったと、後から残党を絞ったときに聞くことが出来た。そのためには、逆らう者は皆殺しにして、従うものだけを生かす態勢にするつもりだったという。

サンカの強みは、神出鬼没な所にある。

だが、ギョウブは真っ向勝負を受けてしまった。部下達が、反発するのも、無理はなかっただろう。

その上、夜叉明王と呼ばれる前のヤトも真っ青なジェノサイド政策である。想像を絶する恨みが、ギョウブを縛っていくのが、見えるほどだった。

助けることは出来ないかも知れないと、四国に上陸したときには、既に諦めていた。最初にヤトを出迎えたサンカの者は、ギョウブのことを殺しに来てくれたのだと勘違いして、大喜びしたほどなのだ。

ヤトがギョウブを探しているときには、奴の配下から逃れてきたサンカの民を、散々保護しなければならなかった。

もはやギョウブは、同胞からさえも、化け物扱いされていたのだ。ついていけない。そう言って、ギョウブの下を離れた者達は、そろってヤトに許しを請うほどだった。

ヤトがギョウブを見つけたときには。

既にその体は冷たくなっていた。

反対派の者達に、よってたかって刺されたのだ。白目を剥いて虚空をにらんでいるギョウブの亡骸を見て、ヤトは大きく嘆息した。

ヤトに似ている者は、義経と言い、此奴と言い、だいたい非業の最期を遂げる。

後始末をするのが、大変だった。

御家人達は、目を血走らせて山狩りをしていた。

良くしたもので、この時にはギョウブは既に妖怪扱いされていた。狸の妖怪だという噂が流れていたらしい。

だから、山狩りの連中は、動物とみるや片端から殺していた。

此奴らを皆殺しにしていても、噂が拡大する一方。だからヤトは、拳を振り上げず、ギョウブは死んだという噂をまず流さなければならなかった。そうしなければ、人間共は、四国の森を全て焼き払いかねなかった。

一度サンカの民は、四国から全て退避させたほどである。

このため、四国で狐と狸の大戦争があり、狐が敗れた、などという伝説が出来た。山が空っぽになった事を見て、人間共がそのように考えたのだろう。

百年ほどしてほとぼりが冷めてから、サンカの者達を四国に戻した後。しばらく此処には関わり合いたくないなと、ヤトは思った。

今でも、四国のサンカ関係者とは、あまり話す事も無い。

迷惑を掛けられたから、ではない。

失敗した自分の姿を、拡大して見せられた。そう感じたからだ。

ギョウブは獰猛な男で、なおかつ卑怯だった。ヤトに稽古を付けられているときも、不意打ちだまし討ちは上等だった。

一緒に訓練している戦士達からも煙たがられていた。

それでいながら、不思議と女にはもてた。後、乱暴だというのに、どうしてか周囲には、人がいつもそれなりにいた。

人間的魅力には、恵まれていたのだろう。

だから、ただの乱暴者では終わらなかった。

人間が考える魅力は、ヤトには分からない。

問題は、ギョウブが何もかも中途半端だった、という事だろう。武力を極めるなら、ヤトから一本取るくらいまで自分を磨き抜けば。或いは、暗殺されることも、無かったかも知れない。

ギョウブのほこらに花を供えると、その場を後にする。

四国に来たのだから、美しい森をしっかり管理しておきたい。最近は森を守る事と、ほったらかすことの区別が付いていない人間が多い。ざっと見て廻ってから、この地に派遣してある守神を呼び出す。

かってこの地にいた狸を眷属にして、守神にした。

まだ百三十年ほどしか生きていないが、それでも長い時を経て、立派に森を守る存在になっている。

ふくふくとした好々爺といった風情だが、この狸。最初にヤトが拾ったときには、暴れて大変だったのだ。

大概の動物は、即座に懐かせる事が出来る自信があるし、意思疎通も出来る。だが、元々の性質が凶暴すぎたのだろう。

他に狸の守神はいないので、そのまま狸と呼んでいる。

ある意味、四国には相応しい守神だ。

「これは、夜刀の神様。 四国へおいでいただき、有り難き幸せ」

「お館様といえ。 何故貴様だけ、そのように呼ぶ」

「良いではないか」

不機嫌そうな黒を、適当になだめる。

そういえば、狸は。随分と、眷属になるにも、守神になる資格をえるまで成長するのにも、時間が掛かった。

まるまるとした外見と裏腹に、狸は凶暴な動物だ。或いはこの穏やかそうな容姿も、元の戦闘的な性質を抑えるためのものなのかも知れない。

「少し森の管理が足りぬな。 サンカの末裔共はどうしている」

「それが、高齢化が著しく。 若者は仕事を継がずに東京に出てしまいますので、老人だけでは山の管理をさせるのは、難しいのが実情です」

「それをどうにかするのが、そなたの仕事ではないか。 お館様の呼び出し以外には応じぬし、少し怠慢なのではないか」

「黒、よせ」

おそらく、黒は相当に、狸に思うところがあったのだろう。

実際狸も、黒にこれだけがみがみ言われているのに、平然としている。ヤト以外の何者も、怖れていないのかも知れない。

それはそれでいい。

ただし、他の者の足を引っ張られては、困る。

「何名かいる他の四国の守神からも、そなたへの苦情が何件か届いておる。 あまり私も多くは言いたくは無いのだ。 もう少しは、仕事を工夫せよ」

「分かりました。 夜刀の神様が、そう言うのであれば」

「……」

血管を額に浮かび上がらせている黒は無視して、狸は飄々とそう応えた。

守神同士の争いは御法度だ。

そうしないように、ヤトが徹底的に命じている。

だが、あの狸は扱いにくいかも知れない。齢千年を超えている黒は、ヤトの最古参の守神にして配下の一柱だ。当然実力も狸とは比較にならない。だが、狸は、どうしてあれだけ強気でいられるのか。

或いは、四国という土地の、気風なのかも知れない。

人間の気風ではない。

いや、ある意味人間の気風か。

ギョウブが死んでから、人間達はその存在を怖れた。化け狸の頭領としてその存在を持ち上げ、祀ることで祟りを回避しようとした。

それが、山にも伝染した。

あの狸の言動は、おそらくその影響を受けている。守神としてサンカの末裔達と話をする立場にいるのだ。それも当然だろう。

他の守神達とも会って、話を聞く。

だいたいの者達は、狸のことを良くは言っていなかった。唯一褒めていたのが、大鷲の守神である。

「あの若者は、自分なりの考えで、物事を進めてみたいのでしょう。 年老いた風貌はしていますが、我らの中でも一番若いのです。 それくらいは、したい年頃なのではないでしょうか」

「お前は、あの暴虐を、若さ故の過ちと認めよというのか」

「職権を侵害された場合は、私に言え。 それ以外の場合は、ある程度は自由にさせてやれ。 多少は痛い目に遭っても、幸い大丈夫な立場だ。 あまり協調協調言わずに、好きにやらせてやるといい」

「お館様まで、そのような。 甘やかしすぎでありましょう」

苦笑いすると、ヤトは四国を離れることにした。

せっかくだから、九州も見に行くとしよう。

九州は、ヤトにとっては因縁の土地。

あの仏教が渡来してから、全てが変わってしまった。ヤトにとって、その生における最大の失敗こそ、仏教を利用しようとしたことだろう。

口惜しいことに、今でも失敗は後を引いている。

サンカの民と、仏教は斬っても斬れない関係だったのだ。延暦寺が山の民と関係が深かったのは言うまでも無いことであり。他にも山の民の支援を受けていた仏教勢力は、いくらでも存在している。

今回は、自分に対する戒めだけではない。

もう一つ、しておくことがあった。

 

瀬戸大橋を渡って、本州に戻ってから。九州へ行くまで、半日ほどかかる。それだけの速度で移動しているのだ。

関門海峡を渡った後、佐賀の山奥まで移動し、其処で一晩休憩。

ヤトも情報端末は持ち歩いているが、この辺りだと電波が届かない場所もある。だから緊急用に、軍用のトランシーバーを持ち歩いている。

別荘の一つは、山の中。

洞窟の中に作られている。これも、奥多摩と同じように、業者に暗示を掛けて作ったものだ。

流石に別荘の中は電波が通じている。

滅多に使わない別荘だが、守神がハウスキーピングしているので、過ごすのには何ら問題も無い。

それに何より、ヤトは別荘で過ごさなくても平気だ。山の中で寝泊まりする事を苦にしていない。

蚊くらいは皮膚からの分泌物質と殺気で追い払えるし、虫だってみんな同じようにして処理できる。

千年以上、そうやって過ごしてきたのだ。

守神達は、こうやって各地に別荘を作ってくれてはいる。ものを保全するには便利だから用いているが。

人間をこの世から葬ったら、別荘も使わないようにするのが一番だろう。

黒が、酒をついでくる。

本当はいらないのだが。黒はこういうときに、妙に気を利かせようとする。仕方が無いので、グラスで焼酎をストレートで呷る。

「お館様、九州に来たのは、やはりあの墓に行くためですか」

「そうだ」

「何か準備をしておきましょうか」

「花はいるか。 まあ、それくらいだろう」

墓とは、他でもない。

佐安のものだ。

結論から言えば、今のヤトは、佐安のことを恨んではいない。奴はヤトを徹底的に利用したが、逆に言えば。ヤトも、佐安が隙を見せれば、徹底的に利用しかえしていただろう。利害関係で言えば、人間の方が、一枚上手だった、ということ。

上を行かれたことを、ヤトは今更根に持っていない。

勿論、死んだ前後は憎んだ。

しかし、千年以上も時が過ぎると、あれは自分も隙を見せたのがまずかったのだと、自然に思えるようになっていた。

一晩休んでから、別荘を出ることにする。

ヤト自身は、休憩などほぼ必要なくなっている。脳に当たる部分は、半分ずつ交互に休ませることが出来るからだ。海豚と同じやり方である。筋肉なども、同じようにして、休憩させつつ動かすことが出来る。

勿論フルパワーで稼働させる場合は話が別だが。幕末に、明治政府が差し向けてきた刺客達と戦ったとき以来、フルパワーは出していない。フルパワーで戦う時は、死の危険があることを考えれば、それだけ立ち回りが上手くなってきた、という事だ。

休憩は、守神達のために取っている。

彼らまでもが、ヤトと同じ事を出来るわけではないのだ。

ハウスキーピングは完璧で、ベッドにもソファにも埃一つ無かった。元の姿に戻って、家の外で蜷局を巻く黒を見送ると。ヤトは眠るように皆に指示。

自身はベッドに入ると、半分だけ起きながら、新しく入った情報を吟味していった。

 

九州南部。かって大隅と呼ばれた地域に、佐安の墓はある。

それが佐安の墓だと知ったのは、四百年ほど前の事。死からよみがえった後、しばらく興味を無くしていたのだ。

佐安の墓に出向くが、寺の敷地にある訳でも無い。無縁墓地でもない。

山の中に、ひっそりと石積みがあるだけだ。非常に深い山の中なので、そうと言われなければ、墓だとさえ気付かないだろう。

これは後から聞いたのだが。

佐安自身は、偉大な坊主として、名を残すのを避けたのだという。故に仏教史に、その名は無い。

仏教を広げるための、汚れた駒に徹する。

それが佐安の覚悟だったそうだ。

ヤトを夜叉明王として持ち上げたのも、その一環。

これらの事情を知ったのは、佐安の子孫に、配下のサンカが接触したからである。上納された古文書は佐安直筆のものだった。

あれほど鉄の意志力を誇った佐安であっても、晩年は心が脆くなっていたらしい。弱音を吐いた古文書が、残されていたのだ。

鉄人、聖人として名を残した者も、晩年には心の箍が外れてしまう。

ヤトは間近で、それを見て知っていた。

だから、笑うことはせず、むしろ納得してしまった記憶がある。

石積みを、部下達に掃除させる。

奴のことは、とにかく苦手だった。得体が知れない。人間の底知れない恐ろしさを、体現しているような輩だった。

良くも悪くも、人間を侮っていたヤトが、その甘い認識をたたき直される機会になったのは。明らかに、佐安という存在がいたからだ。

花をいそいそと添える守神達を横目に、苔むした石の山を見つめる。

佐安は、地獄とやらに落ちたのだろうか。

遺書にも等しい古文書には、自分は地獄に落ちるだろうと、佐安は書いていた。ヤトを無理矢理入滅させたこと、そのために多くの犠牲者を出させたこと。布教の過程で、多くの人々を救えなかったこと。

人の欲につけ込んで、多くの悪事に妥協したこと。

それらは、鉄の心を持つ佐安を、少しずつ確実にむしばんでいたのだ。

病床で佐安は、弟子達に囲まれながら、死にたくないと何度も呟いていたという。だが、正気に戻る事もあり、その時は悄然と死を受け入れていたそうだ。

酒でも墓石に掛けてやろうかと思ったが、止めた。

じっと見ていると、掃除が終わった。

守神達が、座るのに丁度良い石を持ってくる。

席を外すようにと命じて、彼らをその場から遠ざけた。

佐安の墓を見つけてから、時々こうして語らいに来る。佐安のことは、今では自分のためになったと思っている。

佐安を恨んで、憎しみだけを募らせるような存在になっていたら。

きっとヤトは、現在までには今度こそ完膚無きまでに滅ぼされていたことだろう。この時、ヤトは反省した。

反省させたという意味で、佐安はヤトにとっては、生の教師の一人だった、という事だろう。

隣には、燕雀の墓石もある。

燕雀は、仏教の勢力が安定した頃、佐安によって殺された。正確には、佐安の手が掛かった山の民達の手によって、崖から突き落とされたという。奇しくもヤトと、死の状況は似通っていた。

燕雀はあまりにも権力欲が強すぎたのだと、佐安はぼやいていた。

長期的に見れば、確実に仏教のためにならないとも。

故に、殺さざるを得なかったのだそうだ。

これも、佐安にとって、心の枷になっていたらしい。仏教のために人生を捧げた男は、一体どれだけの絶望を、身に抱え込んでいたのだろう。

以前のことになるが、墓石の下にあった骨を少しだけもらって、解析した。

佐安は生粋の日本人である事が分かっている。千里によると、佐安の師は渡来人だったという事だから、此方に来てから取った弟子だったのだろう。

「佐安よ。 地獄でのんびり拷問を受けているか」

ヤトを見て、佐安が怯えるとは思わない。

むしろ、手を合わせて、経を上げるだろうと思える。

佐安はヤトのことを、内心では救われぬ孤高の者と思っていた様子だ。本来は、こういう存在をこそ、救わなければならないのだとも。

しかし仏教のために利用したあげく、死なせてしまった。

「前も言ったが、私はお前を憎んでも恨んでもいない。 それは昔は恨んだがな、今では特に何とも感じていない。 まあ、お前自身が自責で地獄に身を置くことを、止めはしないがな」

佐安はどう返してくるだろう。

仏教については、だいたい頭に入っている。だが、今ある仏教は、佐安の時代にあったものとは、どの宗派もかなり異なっている。

やりとりを考えるだけでも、面白い。

佐安も、そう思うのではあるまいか。

腰を上げると、手を叩く。守神達を呼び集める。

せっかく旅に出たのだ。

最後にもう一カ所、廻っておきたい所がある。それはヤトにとっても思い入れ深い、第二の故郷。

吉野だ。

「吉野に向かわれますか」

「そうだ。 分かってきたな」

黒に言われて、頷く。

そのまま、九州を出る。吉野まで、急げば今日中につけるだろう。守神達にあわせても、充分可能だ。

 

吉野は、今ではただの山深いだけの土地となっている。

南北朝動乱の際には、南朝の本拠が置かれたこともある、人間風に言えば由緒正しい土地なのだが。

それも今は、ヤトにとっては心地よい、緑深い静かな山だ。

此処は、サンカの民の根拠地。

ヤトが、一番長く、滞在した場所でもある。

だが、明治が来てから、サンカは解散させた。後はヤトを中心とした、緩やかな情報収集網だけを残した。

此処には、重要な墓が、三つある。

その内二つは、鵯と千里を祀ったもの。

サンカの民は、かなり時代が降るまで、通い婚の風習を残していた。妻の元に夫が通う形式の婚姻で、平安時代くらいの貴族は、これを踏襲していた。ただ、それ以降は乱世が到来したため、男性の権力が強くなり、通い婚の風習はほぼ存在しなくなった。母系社会にとどめを刺したのは、仁義無き殺し合いの時代である。

一方でサンカの民は、その秘匿性も原因となって、かなり遅くまで通い婚の風習が残っていた。

ヤトが持ち込んだ母系社会の風習が故にである。

もっとも、サンカの者達は、そうだとは気付いておらず、単に不思議な風習だ、くらいに考えていた様子だが。

その風習が故に、墓の形式も少し特殊だ。

ヤトが運んだのは、かってサンカの本拠の本拠があった、洞穴。

その最深部は、今でも掃き清められていて、墓もある。この周囲には守神も配置してあって、ぶしつけな人間が土足で踏み込まないように、監視している。

洞穴の一番奥にあるのが、墓である。かってヤトの社があった、更にその奥になる。この社には、時々戻って暮らしたこともあるので、思い入れも深い。

社の奥にある狭い通路を抜けて、腰をかがめながら進むと、広い空間に出る。其処が、全て墓所になっている。

大きな石があるが、これは全て歴代の長達を収めたもの。鵯を筆頭に、歴代の党首達が、皆入っている。

サンカの長の魂は死ぬと、全てこの石に帰るという思想だ。石の中で一つになって、子孫達を見守るという。

これ自体は、日本の古い思想と同一である。

ただ、日本人の面白いところで、この墓にも時々神主だけではなく坊主を呼んで、供養のための経を上げさせていた。歴代党首の中には仏教に傾倒した者も少なくなく、近隣の仏教寺院との関係も深かったから、こういうことも起きた。比叡山延暦寺の坊主に到っては、サンカとのつながりが強く、ヤトがしらけた目で見ている横で、経を上げに来たことが何度もあった。

これは、比叡山が苦しい時代ほど顕著だった。

仏僧の神頼みというのもおかしな話だが。それも、日本人ならではの、良くも悪くも柔軟な宗教観から来るものだろう。

大きな石の左右には、小さな石が点々としている。

これは歴代長の伴侶の墓石だ。

勿論言うまでも無く、歴代長の中には、伴侶の傀儡だった者もいた。長く続いたサンカの歴史である。そういった事も、頻繁に起きた。

この中に、例外的にぽつんと置かれているのが、千里の墓だ。

千里と鵯は婚姻することもなく、性的な関係もついに持たなかったようだが。サンカの民の中では、その影響力と貢献度を考えて、彼を神の一柱などと考えるものが、少なくなかった様子だ。

そこで、元は外にあった墓が、後々に此処に移設された。

ヤトは墓を清める部下達を横目に、持ち込んだ花を供える。そして墓石に、一つずつ水を掛けてやった。

いずれは山から追い出そうと思っていた連中。

だが、鵯がヤトのことを、本気で心配していたことは、後々に知った。千里も、不思議な事に、ヤトのことを心配していたらしい。

あれほど、目の前で、信念と反する行いをされたのに。

理由は良く分からない。

鵯については、そう言う意味で。今でも、微妙な心持ちである。素直に感謝するとは言えないが、それでも邪険に扱うつもりも無い。

ヤトにとっては、数少ない。

大事な人間の一人であったのかも知れない。

源義経もそうだが、根本的に嫌いな人間の中で、例外がこうして考えると、ごく少数だけいた。

義経のように、今でも死なせてしまったことが訓戒になっている者はほぼいないが。それでも、鵯は、それに近い存在だったのだろう。

守神達が、気を遣って席を外した。

ヤトは墓石の前に座ると、しばらく無言でいた。鵯はヤトに文句ばかり言った。だが、奴が作る絹服は、いつもとても丁寧に縫われていた。

千里も皮肉ばかり言っていた。

ヤトのことを怖れてもいたようだ。一度徹底的にたたきのめしたのが、その原因だろう。だが、千里の事も。今ではそう悪くは思っていない。

目を閉じると。

今でも、千数百年前の事を、思い出すかのようだ。

ヤトは人間を止めてしまった今も、心の類まで無くした訳では無い。

吉野を根拠地に定める前後の事は今でも印象深い。アオヘビ集落と部下を全て失って、逃げてきたヤトにとって。一番苦しい時期だった。

まだ部下が殆どいない時期に、タケルに発見されていたら、まず助からなかったことだろう。

この時の教訓もあって、ヤトは部下を常に作るようにしている。

守神を作る技術を手に入れてからも。今も、結局人間の部下は、社会の彼方此方に潜ませているのだ。

「夜刀様」

たしなめる声が、聞こえるようだ。

鵯はいつも、ヤトをたしなめた。

酒を置いていく。麓で買った中では、かなりの高級品だ。死後の世界など信じてはいないが、鵯は多分地獄には落ちなかっただろう。

それならば、酒をくれてやっても、損にはならないだろう。

千里は、分からない。

少しばかり、悪さをしすぎたことだろう。

だが、酒をやるのは気持ちからだ。

別に、損をしたとは。ヤトは感じなかった。

 

根拠地の穴を出てから、守人達を伴って、麓に。

これから出向くのは、山の中には無い墓だ。ヤトのことを芯から心配していた者は、もう一人いる。

皮肉なことに。死の瞬間まで、相互理解する事は出来なかった。

タケル。

正確には、北のタケルだ。

タケルを祀った神社は、日本中彼方此方にある。ただそれは、神話の英雄としてのタケルであって、生きた人間としてのタケルは、むしろその存在を葬られてしまった。英雄とするには、その方が良かったからだろう。

ヤトの時と、同じだ。

神に具体的な人格など、必要とされない。

後々の物語を見る限り、日本武尊と言う存在は、日本国に都合が良い英雄以外の何者でもない。人格は物語の端々で違い、言動は支離滅裂。狂気に満ち、或いは残虐で、或いはおろか。

無理もない事で、日本国の統一に貢献した幾多のタケルの業績を、一人にまとめたのだから。矛盾が出るのも当然だ。

佐安にヤトがされたような事を、タケルも日本国にされたのだ。後から調べたが、タケルは死後英雄とされることを、好まなかったらしい。

だからこそに。

こんな、誰の者とも分からないように、墓を偽装したのだ。この時代の貴人の場合、古墳に葬られるのが、普通のことだというのに。

見上げた先にある墓は、墓碑銘も刻まれていない。それどころか、分からなければ、墓とさえ認識できないだろう。一見すると、ただの土盛りに見えるからだ。ヤトも、いろいろなつてで此処を探し出すまでは、そうだとはとても思えなかった。

ヤトと殺し合い、命果てた後。北のタケルは、相模で火葬された。そして灰と骨を、此処に埋葬されたという。

当時は土葬が普通だ。

恐らくは、痛んだ死体を運ぶことを、本人が望まなかったのだろう。

この規模の古墳では、殉死した者も存在しなかったはずだ。

当時は奴隷や親しい人間を、貴人と一緒に葬ることもままあったはずだが。それも、タケルは好まなかったのだろう。

色々と、当時の常識から考えても、破天荒な奴だったのだ。

何も残さず、周囲の悲しみを抑えるためだけに、墓に入った。そして親しい人間が死んだ後は、ただ消えていく。

戦に天才的な技量を持っていたタケルらしい、独創的な終わりだった、という事だ。

気配を消して、土盛りの前に立ち尽くす。

此処は住宅街のど真ん中。

どうしてか、此処だけは、宅地造成されず、そのまま残されている。最近調べて知ったのだが、ずっとタケルの意志を継いだ一族が、此処を開発されないように、目を光らせているのだとか。

千年以上も続く、忠義。

墓を守るために、連中は何でもしている。噂も駆使している。此処に家を建てると、不幸が起こるという噂は、地元では有名だ。幽霊話の類も、積極的に広めている様子である。

勿論、タケルが望んだことではないだろう。

それだけ強い人望があった、という事だ。

タケルと最後に殺し合ったときのことを、今もヤトは忘れていない。ヤトのことさえ、タケルは心配していた。

そして、その影響は。

明らかに、ヤトにも及ぼされている。

「久しぶりだな。 来てやったぞ」

返事がないことを承知で呟く。

幾度もタケルとは刃を交えた。一度として、楽に戦えた事は無かった。最初の頃は、互いに激しい憎悪をぶつけ合った。

だが、憎悪を先に引っ込めたのは。タケルだった。

今では、ヤトも。タケルを恨んではいない。自分の死を、決定づけた相手だというのに。

「何も残らず、業績さえ歪められて。 お前はそれで満足なのだな……」

生前は、むしろ欲が強い男に思えたのだが。

死んでからの業績を追うと、晩年は心に違う考えでも生まれたのだろうか。後で調べたのだが、北のタケルの家系は、すぐに絶えた。正確には長子が婿養子になる形で他の家に吸収されて、現存していない。

血そのものは、現在にも脈々と継がれている。

ただそれだけだ。

「私は、結局今でも人間が嫌いだ。 機会があれば、滅ぼそうという考えも止めてはいない」

雨が降り出した。

だが、タケルが怒っているようには、ヤトには感じられない。

黙々と、傘をさす。

「だが、それは当分先になりそうだ。 今のところ、人間共はまだ技術を磨き続けているからな」

また来ると言い残すと、ヤトはその場を離れる。

こうやって墓を見て廻るのは、ヤトの旅路における恒例行事となっている。タケルの墓を見るのは、最後の最後。

この墓も、いつまで残るのだろう。

墓守をしている連中も、多分これがタケルのものだとは、既に忘れてしまっているだろう。

誰か、貴い人を守っている。

それを、代々継いでいる。

それだけの事が、現在まで続いただけで、奇跡的だ。そしてタケル自身の願いは、消えてしまう事の筈。

家臣達の忠義と裏腹に、この墓が潰されても、タケルは何とも思わないだろう。

住宅地の外で待っていた部下達と合流。

そのまま、奥多摩の別荘に戻ることとする。途中、黒が、分かっていない事を言った。

「あのような墓、不快とあれば、すぐに潰してしまいますが」

「余計な事はするな」

「は。 しかし、分かりません。 お館様の死に直接関わった者の墓を、どうして見舞いに行くのですか? 佐安にしてもこの者にしても。 お館様は、恨む権利がありましょうに」

「佐安に関しては、当時は恨んだ事もあったがな。 今になってみれば、奴がどれだけ真摯に信仰を追っていたかは良く分かる。 それにタケルは、私と終始対等の敵手であって、怨敵ではなかったと思っているよ」

今であれば、酒盛りに誘われたら、喜んで受けるかも知れない。

いや、それは流石にないか。

結局後の時代、ヤトの対等の敵手になりうる存在はでなかった。唯一、サンカの影響力を歴史から排除しようとした信長は、あれ以上伸張した場合、ヤトが直接殺しに行ったかも知れないが。

その信長が、部下を大事にしなかった結果、自滅。それで、ヤトが手を下しに出る必要は、勝手に消滅してしまった。実際の所、明智光秀が何を考えていたのか、ヤトにさえ良く分からない。しかし光秀が、本能寺の変前後で信長に著しくまずい待遇を受けていたことは事実だ。信長の保有していた五軍団の一つの長であり、真面目で強い上昇志向を持つ男であった事を考えると、冷遇は失策だったことに違いない。或いは天下統一を目前にした事で、信長も己の感情を噴出させて、勝手気ままに振る舞うようになってしまっていたのだろうか。全ては闇の中だ。

いずれにしても、この国とヤトが一番対立したのは、信長の時期が最後だ。

江戸時代は、むしろサンカと幕府は上手くやっていたことを考えると。

ヤトはそれからも、人間への戒めとしての存在になり。がんじがらめの鎖で個としての存在がしばられなくなった代わりに、歴史からははじき出されてしまったというのが正しいだろう。

「私は、死んだときに、完全に人間では無くなった。 奇しくも、だが。 タケルの奴も、それは同じだったという事だ」

「親近感があると言うことですか」

「そうなるかも知れんな。 いずれにしても、似たもの同士だ。 これ以上憎んでも、詮無きことだろうよ」

納得がいっているのか、いないのか。

それ以上、黒は何も言わなかった。

その日の夕方には、別荘に着く。

部下が集めて来た情報が、既に山積していた。未開封の電子メールも、かなりある。一つずつ、片付けていかなければならない。

しかし人間を止めてから、記憶力はほぼ際限が無くなったし、速度もしかり。見れば、覚える事が出来る。

膨大な量であっても、頭に叩き込むのは、そう難しくない。

ヤトにとってのルーチンワークは、人間の進歩を追うことに、今ではなりつつある。

まずは核兵器でも死なない肉体を得る必要がある。そのためにも、多くの情報をかき集めているのだが。

まだ、見通しは立たない。

一通りデータに目を通す。やはり、まだ核兵器をどうにかする方法はない。小規模国家程度であれば、ヤト単独で制圧できる力は備わっているのだが。米軍を相手にして勝てるとは思えないし、何より人類を片付けた後の核汚染をどうにかしなければ、森を守る事が出来ないのだ。

戦いは、続く。

歴史からはじき出されたヤトだが。近年は人類の森林侵略が進んでいることもあって、休むわけにも眠るわけにも行かない。

「お館様」

マサチューセッツ工科大学の論文に目を通していると、声が掛かる。

顔を上げると、黒が深刻な面持ちで立っていた。

「お館様の故郷の森を守護している守神から連絡がありました。 開発計画が上がっている様子です」

「潰せ」

「分かりました。 直ちに動きます」

もしも開発計画を潰せないようであれば、ヤト自身が出向くほかあるまい。

神はとうの昔に死んだ。

ニーチェが殺す前に、とっくに歴史の上からは滅ぼされていた。神は死に、その機能だけが必要とされたのだ。

しかし、此処には、その亡霊がいる。

亡霊とはいえど、力はある。

あまり好き勝手を出来るとは思うな。そううそぶくと、ヤトは出かける準備を始めるのだった。

 

エピローグ、神は死すとも滅びず

 

開発を中止させるには、幾つか方法がある。

計画そのものを頓挫させる。

開発計画に携わっている会社自体を潰す。

地元で、祟りの噂を流す。このやり口は、現代社会でも充分に有効で、ヤトとしてももっとも手っ取り早い。

今回ヤトは、その全てを行った。

計画を立てた会社の事務所に夜忍び込むと、PCを全てクラッシュさせてやった。更に顧客情報の流出を引き起こした。

計画を推進していた会社幹部を、二人闇夜に紛れて殺しもした。

それだけで傾くようなヤワな会社ではなかったが。

しかし、強行しようとした工事の最中に。気配を消したヤトが、あらゆる妨害をしてやったことで、工事は間もなく中止となった。

決め手になったのは、運び込まれたブルドーザーを、ヤトがひっくり返した事だろう。

重機をまとめて引き上げていく工事会社の様子を、ヤトは故郷の森から見つめる。多くの動物たちが、ヤトの左右には集っていた。

結局、あの頃と。タケルと戦っていた頃と、ヤトの動機は変わっていない。森だけが全てだ。

人間がヤトを受け入れることは、幼い頃から無かった。

集落の長になってからは、その傾向は更に加速した。

森だけがヤトの家族。

そして、ヤトの守るべきものだ。

黒が、側で深々と頭を下げた。

「お見事にございます」

「余計な連中は動いていないだろうな」

「今のところ、政府関連の人間は動いておりません」

完全勝利と言っても良いだろう。

だが、全ての森を守りきれる訳でも無い。日本全土で、無軌道な開発は日夜行われている。

ヤトの手は、その全てを守るには、小さすぎるのだ。

人間と真正面から交戦することになっては、勝てない。だから、影から動くしかない。ヤトも人間に随分負け続けたことで、今の戦い方を身につけた。そして、落としどころについても、適当な地点を測れるようにもなった。

早く、人間を正面から殲滅できるだけの力を手に入れたいものだ。そうすれば、こんな苦労はせずともよくなるのに。

戦いが終わった後は、歩いて別荘へと戻る。

途中、人間共の街を通る。どうしても、人間の街を通らないと、行けない場所も多いのだ。

むせかえるような排気ガスの臭いは、以前より少しはマシになったが。それでも不快な事に変わりはない。

ジャングルよりも過酷な都会の環境。

それが便利なことは分かっている。だが、人間が求める譲歩は、際限を知らない。環境破壊で、滅ぶような脆弱な生物が悪い。そう広言する人間は多数いるし、それが文明レベルでの基本的な考えだろう。ハンティングが面白いからと言う理由で、アメリカリョコウバトは地上から消し去られた。似たような理由で、焼き払われた森は多いし、滅びた動物は枚挙に暇がない。

ならばヤトの力が人間を上回った場合、滅ぼされても何ら文句を言う資格もあるまい。その時が来たら、何ら罪悪感もなく、皆殺しにする事が出来るだろう。

途中、大きな建物があったので、外側から這い上がってみる。

壁を伝って、上に上に。

最上部に到ると、人間の作り上げた巨大な町並みを、一望することが出来た。それは、墓石の群れのようにも。

或いは、石で作った森のように見えた。

行き交う膨大な車には、一つ一つに人間共が乗っている。

目を細めた。

今まで刃を交えたり、配下にした人間達は、この光景を見たら、どう思うのだろう。ヤトにとっては、滅ぼすべき対象。

これから、乗り越えなければならない存在だ。

柵に腰掛けると、改めて、人間の作り上げた巨大な文明を見つめる。

世界最大のメガロポリスの一つである東京。まさか、このような島国に、これほど巨大な都市が出来るとは、古代には誰も思ってなどいなかっただろう。

多くの過去の人間達が、血のにじむ努力を続けた結果だ。

故に今もヤトは。この国を。

いや、この文明を滅ぼすことが出来ずにいる。

行き交う無数の人間は、文明にとっての血肉だ。その血肉を支えるために、人間は森を喰らう。

だからこそ、ヤトにとっては、排除しなければならないものだ。

千数百年も前から。

それは変わっていない。

神としての機能だけが、ヤトには求められた。その神の機能さえ必要とされなくなった現在でも。

ヤトは、此処に存在している。

徐々に、力を増しながら。

目を細めた。

風が強くなってくる。

思わず呟く。

「神話の時代は終わり、歴史が始まった、か」

ヤトが死んだとき、神々の時代は終わった。少なくとも、この国においては、歴史は人間が主体で動かすようになった。それは事実だ。

後で、タケル達が、そう言っていたことを知った。確かに、神話はあの時に終わったのだと、ヤトも思う。

オカルトに関する話は、それからも歴史の隅々には登場する。だが、神々が主体になって、全てを進める時代は、もはや終わっていた。

だが、闇に葬られた者は存在する。

ヤトのように。

アマツミカボシのように。

世界中で好き勝手にしているアマツミカボシによると、ヤトのような存在は、他の国にもいるという。事実、遭遇したこともあるそうだ。

それはそうだろう。

歴史の闇に葬られた者は、どこにでもいるはずだ。

その全てが死んだわけでも無い。

飛行機が空を征く。

あれも文明の象徴だ。まさか、あれほど巨大な物体を飛ばすことが出来るようになるとは。

宇宙にさえ、人間は行くことを可能とした。

ヤトの耳には、此処は少し音が多すぎるかも知れない。

ひょいと無造作に飛び降りると。体重がないかのように、柔らかくコンクリートの地面に着地した。

街を歩く。

誰もが、ヤトには気付かない。いや、気付けないのだ。

その気になれば、此処で大量虐殺をすることも可能だが。そんな事はしない。その程度で、人類を滅ぼすことは出来ない。

電車が、けたたましい音を立てながら、鉄橋の上を通っていくのが見えた。

海の上を行くのは、巨大なタンカーか。

人間の文明は、この瞬間も、進化を続けている。

 

奥多摩へ戻った。

森が残る、東京の秘境。しばらくぼんやりと、静かに森の中で過ごす。こうしている事こそが、ヤトの安らぎだ。

木の上で手をかざし、遠くを見やる。

出来れば、この視界の全てを、森にしたいものだ。

「お館様!」

配下の者が呼んでいる。

適当に応えてやると、すぐに姿を見せた。まだ若い守神だ。そうなる前は、確か鼬だったか。

「ここにおいででしたか、お館様」

「どうした、何か問題か」

「放射性物質の半減崩壊を加速する、画期的な方法が開発されたそうです。 技術の入手に向けて、今全力を尽くしています」

「そうか」

もしもそれが本当ならば、核兵器に対する策が、一つ出来る。

後は単純な破壊力に、どう耐え抜くかが課題になるだろう。特に水爆は、破壊力が大きすぎる。

ヤトがいる場所が特定されれば、その瞬間に勝負が決まってしまう今の状況を、緩和しなければならない。そうしなければ、そもそも戦いにさえならないのだから。

気化爆弾くらいなら耐え抜くことは出来るようになったのだが。

水爆の壁は、まだまだ厚かった。

そのためには、人間の造り出す技術を、吸収することもやむを得ない。

もっとも、人間が反物質爆弾を造り出したり、本格的に宇宙進出をはじめたら、更に戦略を切り替えなければならないだろうが。

タケルが、笑っているような気がする。

人間の技術は、進歩が早いだろうと。

ヤトはそれを受けて、苦笑いするしかない。

そうだな。

だが、人間が進歩を止めるときが来たら。

その時は。覚悟してもらおう。

ヤトが見ていると、人間共は技術が進めば進むほど、怠惰と快楽に身を浸す。破綻した文明は、調べて見るとその傾向がどこも極めて強かった。

やがて人間は、大人になってもゆりかごに入って過ごすようになる可能性もある。此処で言うゆりかごとは、文字通りの意味ではない。

自分に都合の良い環境だけを造り、その中で惰眠を貪りながら過ごすことだ。

自分の好きな食い物。

勝手に出来る状況。

周囲には、自分にとって都合が良いことしか言わない者。或いは物。

そうなれば、人間は進歩を放擲するだろう。

その時こそ。

ヤトが、ついに歴史を取り返す時だ。人間を歴史から蹴落とし、森を守るために、駆逐する。

今の人間共を見ていると、その未来が決して遠くないように思えてくる。

髪を掻き上げると、ヤトは爛熟しきった文明に浸された、世界最大のメガロポリスを見つめる。

誰もが、世界一でなくても良いではないかとか。

どうせ〜なのだから、努力なんてしなくてよいだとか。

努力なんて無駄なのだから、怠惰に生きていればよいだとか。

そんな風に言い出す社会は、ヤトとしては大歓迎だ。

文明レベルの技術進歩は、天才だけが造り出してきたものではない。多くの人間が切磋琢磨することによって、技術は磨き抜かれて、実用化に到る。今の人間共は、それを忘れ果てようとしている。それがヤトには好都合。

文明が一気に停滞し、ヤトが追いつくことが出来る。技術の進歩を捨てた人間など、服を着た肉の塊に過ぎない。一気呵成に叩き潰して、地球上から全て駆除する事が出来るだろう。

まだ、その時は来ていない。

だが、待つことは。決して無意味ではないように、ヤトは考えていた。

木を降りると、手を無造作に動かして、兎を捕らえる。

数は充分にいるから、食べても問題ない。

首を折って静かにさせる。腹を割いて、消化器を取り出し、捨てると。ヤトはそのまま、兎を頭から囓りはじめた。

殆ど時間を掛けず、兎を綺麗に食べ終えてしまうと。

ヤトは、血塗られた指先を舐める。

やはり、喰うのは、新鮮な肉に限る。

もう一度、ヤトは東京を見つめた。

今は、繁栄の惰眠を貪るがいい、人間共よ。

だが、その惰眠が、停滞を産んだときには。必ずや、私が貴様らを滅ぼしてやる。闇に葬り去られた者は、決して消えたわけでは無いことを、思い知るが良い。

身を翻すと、ヤトは別荘へ戻ることとした。

ヤトは、進化を続けるつもりだ。

いずれ、人間を滅ぼす、その時まで。

諦めるつもりはない。

なぜなら。

ヤトには、守りたい森があるのだから。

森を喰らう生物には、負けるわけにはいかないのだ。

 

いにしえの神話の時代の者、夜刀の神は。今も人の目が届かぬ闇の世界にいる。

そして、虎視眈々と、人間が技術の進化を放擲し、惰眠に身を伏せる日を、待ち続ける。

さながら、森に潜む、大蟒蛇のように。

夜刀の神は、存在しているのだ。

 

(古代小説やとのかみ奇譚 完)