蛇神四散

 

序、決戦の始まり

 

ヤトが顔を上げる。

近づいてくる気配に気付いたからだ。石の上に座ったまま、仕掛けてくるのを待っていたのだが。

いつまでも来ないから、少し退屈していた。

近づいてきたのは、坊主だ。

佐安ではない。確か此奴は、見覚えがある。佐安が連れてきた弟子の一人、確か燕雀と言ったか。

「夜叉明王様、此方においででしたか」

「白々しいことを。 何用か」

「実は、夜叉明王様に、折り入ってお頼みしたい事がございます」

「……」

しらけた様子のヤトに、燕雀は無言のまま、頭を下げる。ついてきて欲しいというのだろうか。

この周囲の山、それに森であれば。ヤトは完全に地の利を得ている。

戦う分には問題なし。奇襲を受ける心配もない。

カラスたちが騒ぎはじめた。

「それで、頼みたいこととは何か」

「はい。 救われぬ者達を、御仏の元へと誘って欲しいのです」

「……意味が分からぬ。 具体的に何をすれば良いというのか」

「すぐに分かります」

大勢の人間の気配がある。

丘に出て。それを見下ろして。ヤトは、絶句していた。

そこに蠢いていたのは、無数の病人達だった。老人が殆どだが、中には若い者も混じっている様子だ。

一目で分かる。

これは、流行病か、或いは何かしらの死病。

ただし、症状の多彩さから言って、同一の病気に感染した集団というわけではなさそうだ。

それで思い出す。変な動きをしていた仏教徒共がいた。あれは、この病人達を、集めていたのか。

「皆の者! 夜叉明王様が来てくださったぞ!」

病んだ無数の目が、一斉にヤトを見た。普通の人間であったら、悲鳴を押し殺して後ずさったか。

蠢いていた群衆が、一気に指向性を得た。そして、手を伸ばして、歩き出す。さながら、餌を見つけた、鼠の群れのように。

彼らは一斉に、絶望と、悲しみを、声の形で発した。

ああ。明王様。山神様。

この苦しみから、救ってください。

哀れな我らを、浄土へお導きください。

此処は、見渡しが効く丘。だからこそ、見えてしまう。その病人共は、長蛇の列となっている。

数は、百や二百ではきかない。

「彼らは、もはやどうしようもない死病に憑かれたり、或いは老いてもはや何ら希望も無くしてしまった者達なのです。 彼らを救う方法は、一つしかありません。 そう、貴方が一番得意としている、あの方法にございます」

「貴様、ら……!」

そのあまりにも予想を超えたやり口に、ヤトは発する言葉を持たなかった。

なるほど、初手がこれというわけか。

仏教徒共は、完全に坂の上らとつるんだと見て良いだろう。少なくとも、佐安や、此奴は。

「これより、師を呼んで参ります。 一刻も早く、彼らを救われぬ病理から、御解放ください」

すたすたと、何事もなかったように。

これから此処で行われる出来事を、何とも思っていないかのように。燕雀は、丘を降りていく。

ヤトは流石に青ざめた。

これを断るわけには行かない。仏教徒による一斉反乱という手札を用いている以上、ヤトはその依頼通りに動かざるを得ないのだ。

いうまでもなく、これは体力を削るため。それだけの戦術だ。勿論、幾つかの福次効果はあるだろうが。そのためだけに、これだけの人間を、殺すというか。さすがは人間。そう呟いても、今はむなしいだけだ。

ヤトは腰に目をやる。

ぶら下げているツルギは四本。その内一本は鬼だ。如何に技術が向上したとは言え、数百、下手をすればそれ以上の人間を殺した後、それらのツルギはどうなっているだろうか。いや、それだけではない。

斬るという行為に、そもそも相当な体力消耗が伴う。

集中力を駆使して、斬るべき点を見極める。

ツルギをそのままふるって、首を飛ばせるようなら苦労はない。鉄製の剣でも、それは同じ。

斬るべき点を、斬るべき時に通して、はじめて首を飛ばせるのだ。

急所を一撃で貫くことに関しても、違いはない。

「貴様ら。 死を、そんなに欲しているのか!」

「苦しくてたまりませぬ」

「もはや、生きることに、光の欠片も見いだせませぬ」

手を伸ばしてくる先頭の老人は、全身が黒ずんだできものに覆われていて、既に明日をも知れぬ命のようだ。

その老人を支えている老婆も、一目で分かったが。体内に無数の寄生虫がいて、手遅れとなっている。体力が落ちて、虫下しを飲めなかったのだろう。あれでは食べども飲めども、栄養など得られなかったに違いない。

続いて上がってくる若者は、頭に大きな傷があって、其処から血が流れ続けていた。既に何も考えることさえ出来ない様子だ。脳に損傷を受けているのだろう。

絶望。

悲嘆。

そして、極楽とやらへの希望。

それだけを考えて、此処まで歩いてきた。

呼吸を整える。此奴らを殺さずのたれ死にさせたら、仏教徒共は、全部まとめてヤトの敵に回るだろう。

悔しいが、初手は敵が此方を上回った。圧倒的な力を潰すために、暴力的な数を動員する。戦略としては、間違っていないのだ。

「いいだろう、そんなに死にたいのなら、殺してやろう……!」

「おお! ありがたや! ありがたや!」

「早く、早く苦しみから、解放してくだされ……!」

「極楽浄土が見える。 やはり夜叉明王様は、光を背負っておられた……!」

無言で両手にツルギを持つと、ヤトは先頭の老人の首を一息に刎ねた。

大量の血が噴き出す中、ヤトは前に進みながら、通り過ぎるようにして、順番に病人ややつれ果てた老人の首を、次々刎ねていった。

斬りながら、どれだけ力を温存できるかと思った瞬間。

周囲中から、聞こえ来る声。

仏教徒共。

奴らが、経とやらを、唱えている。あれが、一定の音律を作って、ヤトの周囲の空気を掻き回す。

その中には佐安もいる。経を上げる指揮を執っている様子だ。

集中が乱れる。

余計、体力が消耗させられる。

歯ぎしりする。

此処までするか。いや、これが人間のやり方という奴だったはずだ。順番に斬っていくうちに、手元が狂いはじめる。

絹服に、返り血が飛んできた。既に地面は屍山血河。歩きながらヤトは、どれだけ殺しても足りないと言うように、斬って斬って斬り伏せた。殆どは首を一撃で刎ねた。わずかな数だけ、頭を唐竹に割ったり、心臓をひと突きにした。

老病の者達は、周り中の人間が死んでいくのに、まるでおそれずヤトを目指して歩いて来る。

なにやら経を唱えている者もいる。

数珠を持って、手を合わせている者もいる。

「夜叉明王様に斬られれば、極楽浄土は間近だ。 皆、慌てずに進むが良い。 夜叉明王様は、必ずや皆を救ってくださるだろう」

燕雀とやらの声が、響く。その声には、何の疑いもない。いや、何の疑いも抱かないように、完璧に制御している。

思わず空に向けて咆哮したくなった。

あまりにも大量の血がぶちまけられているから、地面は既にぬかるみはじめている。しかも、丘に向けて、四方八方から、老病の者達は押し寄せはじめていた。文字通り、我先にという風情だ。

中には、もはや立つ事も出来ず、這いながら来る者もいる。

老人を此処まで背負ってきたらしい若者は。間近に親か祖父かを下ろすと、一礼して去って行く。

これは、或いは。

姥捨ての一種か。

農耕民の間では、役に立たなくなった老人を山に捨てるという噂がある。さては此奴らの家族は、厄介者を処分するつもりで、仏教徒どもの提案に乗ったな。それが分かっていても、どうにも出来ない。

どうにも出来ないのだ。

この老人共は、もはや不要となった、神話の時代の存在と同じ。ヤトと、境遇が似ているとも言えた。

しかし、ただひたすらに、殺し続けなければならない。

呼吸が乱れてきた。

百は軽く斬った。だが、それが何だとばかりに、その数倍の人数が、死体を踏み越えながら迫ってくる。

彼らは攻撃してくることもない。

ただ、殺されたくて、ヤトに迫ってくるのだ。

斬る。

斬り伏せる。

既に、体力の消耗が目に見え始めた。三百を殺した頃には、返り血を避けるのが、難しくなって来始めた。

大量に熱い血を浴びながら、ひたすらに殺し続ける。

五百以上を殺した。

ようやく、行列が途切れる。だが、今まで殺したくらいの数はまだまだいる。肩で息をつきながら、折れてしまったツルギを地面に突き立てた。そして最後のツルギを、鬼を抜く。

辺りは、地獄と言うにも生ぬるい有様だ。

首を刎ねられた死体が、文字通り山と積み上がっている。鮮血が流れ出して、川になっている。

血臭も凄まじい。

これだけの血があれば、池が作れそうだ。

それでも、年老いて、衰えた者達は、うめき声を上げながら歩き来る。そして、ヤトに首を刎ねられた瞬間にも、嬉しそうにしているのだ。

楽に死ねて良かったと。

おそらく、これが動物と人間の違いなのだろう。最後まで生きあがこうとする動物と、苦しみに耐えかねて死を選ぶ人間。

こればかりは、どうもこうも思わない。

ただヤトは、はらわたが擦られるような何とも言えない暴虐に、身を浸していた。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも憎んでいるのかさえ、自分でも分からなくなりつつある。

「極楽だか何だか知らんが、これでも来るか!」

既にヤトの全身は、赤にまみれている。飛び散った筋繊維や内臓、血管までもが、お気に入りの絹服の彼方此方に飛び散り、こびりついていた。

それだけではない。

丘からいつのまにか、平原にまで引っ張り出されていた。多数を斬って斬って歩いているうちに、誘導されていたのだ。

周囲で経を唱えている坊主共。

全部ブッ殺してやりたいくらいだが。しかし今は出来ない。これだけの仏教徒がいる中で背信行為を侵せば、待っているのは圧倒的多数による殲滅の未来だけだ。まだ可能性が残る方へ進み、罠を喰い破っていくしかない。

斬る速度が、落ちてきた。

手を合わせる老婆の首を刎ね飛ばす。

首から大量の血が噴き出して、辺りを泥濘に変えていく。もはや、立ち回ることも難しい。

これも、目的の一つだったのだろう。

ヤトの武器の一つは、速度だ。

それを、足場を潰すことによって、消す。

更に周囲で唱えられている経が、著しく集中力を奪い去って行く。今は、ただ殺されるためだけに歩いて来る老人達を斬るだけの作業だが。此処で、もし攻撃があったのなら。ヤトは、抵抗できるのか。

ついに、ツルギが鬼だけになった。

アオヘビ集落で戦っていた頃から、ずっとヤトの相棒を務めてくれていたツルギは。大量の血で濡れ、多数の人間を斬ったことにより、既にのこぎりのようになっていた。刃はぎざぎざで、血抜きには肉片が詰まっている。

ヤト自身も、既に真っ赤だ。

あまりにも大量の返り血を浴びたからだ。目に血を浴びることだけは避けたが、それでもからだが重い気がする。

言うまでも無いことだが、疲弊が激しいのだ。経によって精神を乱されている状態では、集中も出来ない。斬っていれば、力のいれ加減も、間違える。必然として、体力も削り取られていく。

既に八百は斬ったが。

まだ、百人以上の、文字通り亡者のような老人達が迫ってきている。その全てが、ヤトに斬られれば救われると盲信して、屍の山を乗り越えて歩いて来る。坊主共は、それを止めない。

思うにこれは、仏教の思想ではないだろう。

あの燕雀とやらの発想か、それとも佐安の独断か。分からないが、いずれにしても。救済とは、何か違うような気がする。

まあ、人間のおぞましい思想などに、ヤトは興味が無い。

鬼を振るう。

最後の集団が、来た様子だ。

もはや、斬った数さえ、忘れた。

八百を超えてからは、覚えていない。手には、殺した者達の感触が、嫌でも染みついていた。

今まで、嫌と言うほど、殺してきたのに。

 

1、個に対する包囲制圧戦

 

ついに、最後の老人が斬り倒された。

となりにいるハヤタカは、顔色一つ変えていない。此奴は、やはり化け物だったと見て良いだろう。

坂の上は、嘆息する。

夜刀の事はにくい。どうあっても殺してやりたいと思っている事に、代わりはない。だが、この屍山血河を造り出したのは、明らかに夜刀以上の怪物だ。

助からないことが分かっていて、死にたいと感じている老人達とはいえ。本人達の望みを叶えてやっているとはいえ。燕雀も、佐安も、そして側にいるハヤタカも。とてもではないが、ヒトだとは思えなかった。

これだけの大量殺戮を引き起こして、それを戦術の一手と割り切ることは。坂の上には難しかった。

「作戦開始を。 兄様」

「分かっている」

夜刀は相当に疲弊している。

この機会を、逃す手はない。

空に舞い始める、無数の鷹。

夜刀が空を見ると、無言で弓を取り出そうとする。だが、其処へ、多数の犬が、同時に襲いかかった。

訓練された犬は、恐怖を殆ど感じない。飼い犬は人間と同じように惰弱に成り下がっている事もあるが、軍用犬は根本からして違うのだ。明らかに自分よりも強い相手に恐れる事なく、命を捨てて情け容赦なく噛みついていく。これは狩のために鍛え抜かれた猟犬でも同じだ。

「後、夜刀様の装備は、弓と、疲弊しきったあの剣だけです。 此処で勝負がつくと良いのですが」

「……総員、攻撃準備」

珍しくハヤタカが楽観論を口にするが、坂の上は同意できない。

いずれにしても、近接戦をやらなくても良いであろう事は、想定できたが。万が一の事もある。

退路は、徹底的に塞がなければならないだろう。

犬たちが、吼えながら、一丸となって夜刀に躍りかかった。

最初の一頭が、唐竹に斬り倒される。流れるように夜刀が剣を振るう。見える。疲弊が故に、剣の動きが、明らかに鈍ってきている。以前の夜刀の動きは、文字通り疾風迅雷というも生やさしい代物だった。

だが、今は坂の上でも見える程度の剣。

犬たちが、次々に、膾に斬り倒されていく。

しかし、ついに犬たちの執念が実を結ぶ。一匹が、躍りかかるように、背中から夜刀に飛びついたのだ。

夜刀が踏み抜く。

犬をはじき返す。しかし、踏み込んだ足を、一匹の犬が噛みついた。軍用犬の噛む力は、人間の骨など容易く砕く。

「決まりですね」

「いや、待て」

「! いや、まさか……」

ハヤタカが、驚きの声を上げていた。

足に噛みついた犬が、両断されて血の泥濘に沈む。噛みつかれた瞬間、夜刀が斬り伏せたと見て良いだろう。

吼えながら周りを回っている犬たちを、睨みつける夜刀。

飛びかかった一匹が、空中で何か得体が知れないものに、はじき返された。

袖から出ているのは。

非常識なほどに巨大な蝮だ。それも、一匹や二匹ではない。躍りかかる犬たちに、顔を見せた蝮たちが、片端から噛みつく。その動きは凄まじい。犬たちの悲鳴が上がる。夜刀は呼吸を整えながら、言っていた。

「余計な事をするでない! お前達、私が指示を出したときに動け!」

あれは、夜刀の飼っている眷属か。

しかし、その眷属が、身を呈して夜刀を庇っているという事なのか。まだ犬たちは十頭以上残っているが、明らかに攻めあぐねている。

ハヤタカが、嘆息した。

「そろそろでしょう、兄様。 犬たちでどうにかなると思ったのですが、そうもいかないようですね」

「……そう、だな。 弓隊、準備せよ」

これは戦いとは言えない。

狩だ。

更に、残っていた犬たちの一部を投入する。空に舞わせている鷹たちは、まだ動かさない。周囲では、坊主達が、凄惨な狩に何も文句を言わない。夜叉明王様とやらが攻撃されているのに。

連中にとっては、重要なのは、やはり夜叉明王などではない。その存在と、現象としての仏だった、という事だろう。

あれだけ偉大な相手と褒め称え、相対しては這いつくばっていたのに、実際には夜刀に頭を下げてなどいなかったのだ。

夜刀は更に迫り来た犬たちを見て、舌打ちした。

袖から干し肉を引っ張り出して、それを無心に食べ始めていた矢先の事だ。既に周囲に散らばっている肉片は、夜刀が斬り殺した人間達と、犬が混じり合って、訳が分からないほどにおぞましくむごたらしい代物になり果てている。それに血泥が混じっているのだから、最悪だ。

後で葬ってやらなければならない。

そう決めると、坂の上は、自らが歩み出た。犬たちを、残った体力を削り取りながら斬り伏せている夜刀。

凄絶な目で、坂の上を見た。

「和議を、破るつもりのようだな」

「いいや。 そのつもりはない」

「ほう……」

「これは我ら部隊による、私的な復讐だ。 軍も日本国も、この件には一切関与していない」

夜刀が、最後の犬を斬り伏せた。

鋭い悲鳴を上げながら、訓練された軍用犬が、血泥に沈む。既に夜刀の身は、血と肉片にまみれていた。

足も、犬に噛まれて無事とは言えないだろう。

夜刀が、目を一瞬だけ細める。

改良犬笛が吹き鳴らされたのだ。経によって頭が揺らされていた所に、これはかなりきつかっただろう。

「放て」

部下達に命じる。

五月雨に、夜刀に対して、矢が放たれた。

坂の上の部下達は、何も槍や剣ばかりを修練していたのではない。弓矢に関しても、鍛え抜いていた。

ハヤタカが、犬笛を吹く。吹き続ける。

驟雨のごとく、降り注ぐ矢。

その時、意外な出来事が、巻き起こった。

空から、無数のカラスたちが舞い降りたのである。そして、次々と矢を受けて、落ちていった。

「止せ、お前達! 私はこの程度の事に遅れなど取らぬ! 命を捨てるでない!」

カラスたちは、鷹を怖れてもいない。

それだけではない。鷹に襲いかかってさえいた。体格差が違いすぎて、本来は勝負にもならないのに。

無数のカラスに纏わり付かれ、悲鳴を上げる鷹たち。カラスは小型の猛禽とも言えるくちばしと爪を持っている。多数が同時に襲いかかれば、鷹でも簡単にはあしらえない。

カラスだけではない。

辺りの森から、昼間は動けない梟たちまでが飛び出してきた。必死の様子で、鷹に襲いかかり、爪を立てる。そしてヤトの身代わりになって、矢を受けて落ちていく。

鳶もその中には混じっている。

一回りも大きい鷹に、怖れず向かっていく鳶。鷹に対して、有利に戦っている。どれほど鍛え込んでいるのか、想像も出来ない。

だが、それらも、人間の放つ矢の前には。無力だ。次々、叩き落とされていく。

今までに無い凄絶な表情を見せながら、夜刀がとび下がろうとする。だが、ハヤタカが、叫ぶ。

「兄様! 逃がしてはなりません!」

「矢を放ち続けろ。 私に続け」

冷静に、声を肺からしぼりだす。

退路など、彼奴には存在しない。というのも、此処に引きずり出すのも、全て計算の末だからだ。

この場所で、奴を殺す。

無数の矢が、夜刀に襲いかかる。カラスが盾になって矢を防ぐが、それだけでは防ぎきれない。

夜刀が振り返った。

一閃した剣が、数本の矢をまとめて払い落とす。文字通りの神業だ。

だが、その隙に、数人が新しく投入した猟犬たちと一緒に、夜刀に躍りかかっていた。右左後ろ、それに前方から。

もらった。

わずかに遅れて、敵に迫った坂の上は、見る。

真上に跳躍して、弓を即座に構える夜刀を。まずい。だが、手を伸ばすが、間に合わない。

奴が、矢を放つ。

そういえば、北のタケルに聞かされていた。奴は剣以上に、弓矢を得意としていると。着地した夜刀の周囲には、今の一瞬で頭を打ち抜かれた坂の上の部下達が、倒れ伏している。

その死体を蹴り挙げると、飛んできた矢に対する盾にする夜刀。だが、視界がそれで防がれる。

跳躍。

大上段に振りかぶった坂の上が、斬りかかる。

斬った。

だが、斬ったのは、部下の死体だ。

夜刀は盾にしていた死体を放り捨てると、凄まじいすり足で血泥を跳ね上げながら下がり、更に四方から迫る此方に、怒りに満ちた目を向けた。

炎が吹き上がったのは、その時だ。

奴の退路。

森がある方に回り込んでいた坂の上の部下達が、油をぶちまけて、火を付けたのだ。囂々と火柱が上がる。

流石に、夜刀の神といえども。あの炎の渦の中、飛び込んで行くことは不可能だろう。背水の陣ならぬ、背火の陣というわけだ。

カラスたちが、ついに本能には逆らえず、更には炎が起こす上昇気流に翻弄されて、上空に舞い上がりはじめる。

鷹たちと、凄まじい死闘を繰り広げはじめた。

「カラスは捨て置け! 奴を撃て!」

「兄者の仇っ!」

槍を構えた若い戦士が、突貫していく。

夜刀は剣を無造作にふるって矢を叩き落としながら、突き込まれた槍を避けようとして、失敗する。

足が、泥に。

ぬかるみが、まるで無数の怨嗟を孕んでいるかのように、夜刀の足を掴んだのだ。残像を残して逃れる、という事も出来ず。凄絶な表情を浮かべた夜刀が、繰り出した槍を斬り伏せる。

槍を真っ二つにされてすっころぶ若い戦士。

だが、その時。

坂の上の少し後ろにいた、手練れの老戦士が放った矢が。夜刀の体に、吸い込まれていた。

肩口に、一本。

ついに、決定打になる矢が突き刺さる。

勿論鏃には、普通の人間であれば即死するような毒が塗りたくられている。動きが止まる。更に数本が、脇腹、足と、突き刺さる。

「……っ!」

「槍!」

槍を揃え、一斉に躍りかかる坂の上の部下達。

槍が、奴の体に、吸い込まれると見えた瞬間。

驚くべき事に、奴は自ら、炎の中に飛び込んでいた。槍の穂先が、空を斬る。冷静に戦況を見ていたハヤタカが叫ぶ。

「遠くには逃げられません! 追ってください!」

「分かっている! 無理に接近戦を挑もうと思うな! 矢を浴びせかけて、動きが止まったところを狙え!」

炎を迂回して、夜刀を追う。

カラスたちは凄まじい執念で、劉の鷹に決死の肉弾戦を挑んでいて、とてもではないが、空から敵を追うことは出来そうになかった。

無数の首が転がる中を、走る。

人間の血が、これほど大地に溢れたところを、坂の上は見たことが無かった。まるで此処は。黄泉の国か。

仏教で言うと、地獄とかいうそうだが。

死ぬとなれば、自分も其処に落ちるのだろう。弓を引き絞りながら、坂の上は走る。

強引に炎を突破した夜刀の後ろ姿が見えたからだ。

森の方には、別働隊が伏せていた。数十人の槍を見て、流石に方向を変えたのだろう。普段だったら、数十人など蹴散らすだろう夜刀だが、それだけ弱体化しているということだ。

文字通りの、手負いの獣。

逃がすわけにはいかない。

小柄な馬に乗ったハヤタカが追いついてくる。坂の上はそちらを見ず、坂を駆け上がる夜刀に向けて、一矢放った。

振り返りざまに、夜刀が矢を斬り払う。

だが、即座に次をつがえる。

「兄様、第二段階へ」

言いながらハヤタカが矢を放ったが。やはり、急ごしらえの技では、無為だ。矢は大きく見当違いの方向へ飛んでいった。

夜刀は走る。

他の戦士達も、矢を容赦なく射かけて行く。

また二本、立て続けに矢が夜刀に刺さる。

足に突き刺さった矢は、肉に食い込んでいる。走る度に激痛が夜刀を襲っているはずだが。奴の速度は、衰える気配がない。

数人が、追いついた。

槍を繰り出し、剣を振るってとどめを刺しに掛かる。

だが、夜刀が跳躍し、着地した時には。

全員の首が、胴体と泣き別れになっていた。膨大な血しぶき。夜刀も着地して、脂汗を流しているのが分かった。

確実に効いている。

このまま押せば、殺せる。

「無理をするな! 遠矢をもっともっと浴びせよ!」

殺された戦士達も、何年も一緒に修行してきた同胞だ。いずれもが、夜刀を殺すために、己の才能の全てを磨き抜いてきた。

あれだけ弱体化させても、なおも及ばないのか。

しかし、此処からは、更に奥の手を準備してある。

「鏑矢を!」

矢を浴びせかけながら、坂の上が叫ぶ。

部下の一人が、音が出る矢を、打ち上げた。ほぼ同時に、凄まじい轟音が、四方八方から轟く。

巨大な銅鑼による、一斉射撃だ。勿論弾が飛ぶわけではない。暴力的な音による、心理に対する攻撃。

勿論、攻撃の機に、此方は耳を塞ぐ。

夜刀は明らかに、耳を塞ぎ損ねた。矢に対処していたからだ。呻いて、片膝を突く夜刀。

その隙に、数人が、一斉に弓を引き絞った。

放たれる矢が、奴の胸に突き刺さる。

血を吐く夜刀。

致命打だ。普通の人間だったら、もう身動きが取れないだろう。更に数本が、夜刀の体に、突き刺さった。

「とどめだ! 全員……」

「待って、兄様!」

地響き。

準備をしていたのは、此方だけではなかった、という事か。

近くの河から音がする。見ると、凄まじい土砂が、此方に迫ってきている。なるほど、こんな隠し球があったか。

だが夜刀は、忌々しそうにしている。

奴も、気付いたのかも知れない。

河は、夜刀と、此方を、遮らない。激しく流れてはいるが、氾濫するほどには、水量が到らないのだ。

言うまでも無い。

奴の部下は。既に、仏教徒達によって、かなりの数が占められている。更に言うと、燕雀には、今まで夜刀が用いた戦術に対する策を練らせてあった。

嚢砂の計は、封じられていたのだ。

具体的には、上流を堰き止めていた土砂の殆どが、仏教徒達によって、処理されていた。夜刀の命令を聞く配下達が土砂をのけても、この程度にしかならない、ということだ。

もはや奴には、味方する一人もいない。

いたとしても、この場には駆けつけられはしない。

「銅鑼を!」

血を吐き、片膝を突いている夜刀を囲むようにして、更に銅鑼からの音を叩き込んでやる。

人間を超えてしまっているがゆえに。こんな暴力的な音には、より敏感に打撃を受けることになる。

更に、ハヤタカが、連続して犬笛を吹いた。

音での暴虐が収まった後、一斉に皆が矢を放つ。片膝を突き、もはや身動きできぬかと思った夜刀だが。

その時、意地を見せた。

銅鑼を乗せた台車の一角に踊り込むようにして、跳躍したのである。矢を数本浴びながらも、包囲網に突貫。

わっと散った坂の上の部下達を追い払って、包囲網を抜けた。

手をかざして、その様子を見ているハヤタカ。

「追ってください。 この先にあるのは、鬼ヶ嶽です。 其処で勝負を付けます」

「……そうだな」

既に、この辺りは、血の泥濘に覆われていない。

奴は相応に、動く事が出来る。

だが、その体は、既に致命打を受けている。実際攻撃が効いている証拠に、血を吐いていたし、動きも鈍くなっていた。

「被害は」

「現時点で、十二名が斬られました」

「覚悟の上の死だ。 悼むのは、奴を殺して後にしよう」

「ははっ!」

兵士達が、駆け出す。

第三段階は既に準備が整っている。奴は、まだ遠くに行っていない。必ずや追い詰めて、殺す。

 

森の中にも、河にも、逃げ込ませない。

最初から、逃げ道は限定するべく、誘導した。

夜刀の血の跡を犬たちに追わせながら、坂の上は急ぐ。あれだけ傷つけても、まだ馬より早く走っているのではないかと思わされる。

途中、夜刀が体から乱暴に引き抜いたらしい矢が、点々と落ちていた。

「後七本は刺さっているはずです」

「数えていたのか」

「ええ。 足に四本、腕に二本。 胸に一本、腹に三本」

普通なら、即死している箇所にも、二本刺さっているのを確認している。その上あの劫火に飛び込んで、無事で済む筈もない。本当に奴は、化け物なのだ。

この先は、文字通りの、千尋の深さを誇る谷がある。

底には水が流れているという事も無く、周囲には身を隠す場所もない。銅鑼を台車に乗せたまま鳴らし、時々犬笛を吹く。

夜刀は、もはや自分がどう逃げているかも、隠せていない。その状態で気配など消せるはずもないが。

念には念だ。

「血の跡が、狭まってきています。 見てください。 血だまりです。 この辺りで、一度倒れていますね」

「ハヤタカ」

「はい、兄様」

「お前、ハヤタカではないな。 何者だ」

何を馬鹿なと、ハヤタカはくつくつと笑う。

だが、その横顔は、あまりにも化け物じみていた。此奴、一体。

点々と散らばっているのは、北のタケルの私兵達。既に息絶えている。殆どが首を刎ねられていたが、中には袈裟に斬り伏せられている者もいた。明らかに、夜刀の疲弊が原因だろう。

この辺りで待ち伏せていた者達だ。当然この辺りも、逃走経路として、先に兵が配置されていたのだ。

「兵士達とは関係無い血の跡があります。 剣を浴びたようですね」

「だが、奴はなお、歩いている」

「此方でしょう」

迷いなく、ハヤタカが指さす。

血の跡が一瞬絶えているように見えたが、岩を超えて、そちらに移動している。なるほど、一度戻って、脇道に逸れたのか。

確か、熊などが使う手だと聞いたことがある。

だが、人間を相手にしている事を、忘れてもらっては困る。いや、それさえ、考慮する余裕が無くなってきているのか。

既に、辺りはおぞましいまでに、地形が険しくなってきていた。

血の手形が、岩に丸ごと残っていた。

這い上がるために、岩を掴んだのだろう。坂の上も、部下達を促して、奴の後を追う。また、死んでいる兵士を見つけた。

一番奥で、北のタケルが、待っているはずだ。

如何に衰えたといえども、あの人なら、簡単に夜刀に倒されることはないだろう。だが、万が一もある。

急がなくてはならない。

また、矢が抜き捨てられていた。鏃には肉が絡みつき、周囲には血だまりが出来ている。強引に矢を引き抜いたのだろう。

そうすれば、痛みが倍加すると分かっているだろうに。普段ならば、そうだと判断できただろうに。

もはや、夜刀は、冷静ささえ失いつつあると、見て良かった。

 

2、積年の決着

 

森へ、逃げ込めば。

どうにか出来る。敵の数は、五十を超えていない。待ち伏せしている奴らは、そう大した腕でもない。

視界が、揺らぐ。

血が出すぎたのだ。

腕に絡みついている蝮の一匹が、既に息絶えている。先に、腕に突き刺さった矢から、ヤトを守ろうとしたのだ。

すぐ後ろにまで、敵が迫っている。

この険しい岩山の先には谷があり、それを沿って北上すれば。樹海と言って良いほど、深い森がある。

そこへ逃げ込めば。

何年でも戦える。

この体も、癒やすことが出来る。人間だったらどうあっても助からないだろうが、ヤトの体は違う。

休むという選択肢はない。もうすぐ後ろにまで、敵は迫っているのだ。

大きめの岩を、乗り越えたときだった。

「みすぼらしい姿になったものだな、夜刀の神」

完全武装して、その男は立っていた。

北のタケル。

アオヘビ集落を率いていた頃から、ずっと戦い続けてきた相手。既に老境に入っているのが、見て取れた。髪も髭も白いものがまざっている。

奴は一人、ではない。

周囲に、手練れらしい兵士達が、多数槍を構えているのが見えた。ヤトは呼吸を整えながら、足に刺さっていた矢を引き抜き、捨てた。

すぐ側に、崖がある。

文字通り千尋の高さだ。落ちたら、万が一にも助かることはないだろう。

後ろから、犬笛の音が追ってくる。もう、後ろの奴らが、追いついてきている事の証左だ。

おかしい。

手が震えているのは、何故だ。

恐怖など、感じてはいないのに。顔を乱暴に拭う。もう体中血だらけ。自分の血と、誰のものとも分からない返り血。

傷も治している余裕が無い。

最近は、傷が治るのが、実感できるほど感覚が高まっていた。だからこそに、分かるのだ。自分の状態が、どれほど深刻かは。

戦いを切り抜ければ、生き残る自信もあるのに。

どうしてだろう。

乾いた笑いが漏れてしまった。

「あまり話す事は無いな。 覚悟は良いか」

「和議はどうするつもりか」

「下の連中が言っていただろう。 これは日本国とは関係のない私闘だと。 更に言えば、私は軍をとうに退いた。 彼らは、個人的感情で、私についてきてくれた者達だ」

「そうか。 ははははははははは……へりくつで、人間はやはりどうしようもない高い次元にいおるな」

無造作に剣を振るって、後ろに回り込もうとしていた兵士の首を刎ね飛ばす。

鮮血が辺りにぶちまけられる音が、どうしてか、とても遠くに聞こえた。

先ほどから、散々耳をやられた。経も五月蠅かったが、あの銅鑼も、犬笛も。ヤトの耳をおかしくするには、充分だった。

聞こえにくくなれば、攻撃も避けにくくなる。

袈裟にもらった一撃も、それが故だ。

普通の人間なら、既に何回も死んでいるだろう傷が、全身に刻まれている。

「もう諦めよ。 山の民でさえ、そなたが死ぬ事を望んでいる。 仏教徒達も、それは同じだ。 お前は役目を終えたのだから、さっさと高天原でも天界にでも行って欲しいと、連中は思っているのだ」

「そのような事、どうしてこの私が聞き届けなければならん。 人間はいつでも勝手な生き物だな。 いくら何でも、不作法極まりないと思わぬか」

「お前とそれは同じだ。 お前も、身勝手な理屈で、どれだけの殺生を重ねてきたか」

「巫山戯るな。 同じにされてたまるか。 私は常に森のことを考えて生きてきた。 自分の事は二の次だ。 自分が一番可愛い人間とは違う!」

槍の穂先を揃えて、全方位から牽制してくるタケルの配下達。

タケル自身も、剣を抜く。

そして、全員が一斉に、襲いかかってきた。

跳躍して逃れた足下で、複数の槍が、一斉につきあわされる。一瞬遅れていれば、串刺しだった。

だが、タケルが跳躍して、真上に回り込んでいた。

タケルの老い衰えは、見たところかなり深刻。それなのに、かって以上の身体能力を、一度だけとはいえ見せた。

最後の力を振り絞っての跳躍とみた。

切り込んでくる。

此方も、切り上げる。

一瞬、視界が途切れた。地面に叩き付けられる。何度か転がって、立ち上がろうとした。其処へ、背中から、肩から、首筋から。

無数の槍が、突き込まれた。滅茶苦茶に突き刺され、血を吐く。

体が、もう動かない。

血だまりが広がっていくのが分かった。

「タケル将軍!」

「良い、慌てるな。 どうせ、もう数年も生きられはしなかったのだ。 それに私も夜刀と同じく、いる事を望まれない存在になり果てていた。 こうなることも、本望よ」

状況が。分かってきた。倒れたところに、地面へ、無数の槍で、串刺しにされたらしい。

刺された箇所は、胸も腹も首もある。いずれも背中越しだが。

呼吸が上手に出来ない。

気道も貫かれたらしかった。

何よりも、手にしている鬼は。タケルを斬ったとき、ついに最後の力を使い果たしてしまった。

手には、既に刃が半分以下になった、鬼の残骸しか残っていなかった。一撃を叩き込んだとき、へし折れてしまったのだ。

それに、もはや握力も何も無い。腕にも数本の槍が突き刺さって、蝮たちごと、ヤトを地面に縫い付けていた。

タケルが、覗き込んでくる。

どうしてだろう。妙に、目が優しいように思えた。そういえばこんな目を、ヤトに向けてきた人間は、いなかった。

タケルは完全武装の鎧の上から、逆袈裟に切り上げられ、明らかな致命傷を受けている。急速に、死に近づいているのも、見て取れた。

「すまぬな。 せめて私が、お前の側に生まれていれば。 お前が孤独に苛まれることも、ないようにしてやれたのに」

「いま、さら。 何を、いう……。 同情など、もはや、いらぬ」

「この化け物、まだ喋るか!」

「良いのだ。 ヤトよ、そなたはこれで死ぬ。 私はおそらくお前とは一緒の所には行けぬだろうが……せめて、私も此処で死ぬ事で、恨みを精算してやってはくれぬかな」

巫山戯るな。

血を大量に吐くと、そう言い返してやった。

ずっと恨むかどうか、決めるのはヤトだ。お前達に言われて、そんな事を決めるつもりはない。

「だが、そうだな……。 お前の事は、もうどうでもいい。 恨みもしてはいない」

「そうか……」

タケルが地面に胡座を掻く。

そして、その目から、急速に光が失われていくのを、ヤトは見た。

ずっと戦い続けた敵手の死。

そして、ヤトにとっても、これではっきり分かった。今、神話の時代は、本当の意味で、終わったのだろうと。

 

既に、ヤトが死んだと判断したのだろう。

タケルの部下達が、ハヤにえ同然の串刺しになっていたヤトから、槍を何本か引き抜いた。首を刎ねようか。そう言っている者もいる。其処へ、どやどやと足音を怒らせ、複数の人間が来る。

坂の上がいた。

もはや、戦う力など、欠片も残ってはいない。だが。ヤトは、最後に、決めていたことがあった。

残った力などない。

だが、その全てを動員する。

全力で、体を無理矢理地面から引きはがした。油断しきっていた敵の兵士達数人が、吹っ飛ぶ。

無理をした代償に、体の彼方此方の肉が引きちぎられた。

自慢の絹服も、もう台無しだ。縫ってもどうにもならないだろう。

「おのれ、化生っ!」

罵声を浴びながらも立ち上がったヤトは、ゆっくり後ずさる。

無数の視線が集まる中、ヤトは、既に穴が開いた喉を酷使するように、音を絞り出していた。

声が、喉の、首の後ろまで抜けた穴をも通って、漏れ出ている。

その様子が、どうにも滑稽だった。

「私は、決めていた」

「もう黙れ、邪悪なる蛇神!」

「黙らぬ。 私は、お前達などには、絶対に殺されない。 死ぬべき時は、自分で決めるし、生き残る可能性を最後まで追うとな……!」

繰り出される槍。

腹に突き刺さる。

もはや避ける体力も、動ける気力も無い。防ぐ筋肉もない。内臓にまで、素通りで刃が入った。

その内臓も、とっくの昔に、機能を停止している。

それでも槍の柄を手で掴むと、無理矢理に引き抜いた。槍を繰り出してきた兵士を、放り投げた。

兵士が悲鳴を上げながら、崖から落ちていった。

坂の上が、剣を抜いて、迫ってくる。

その足取りには迷いもなく。もはや体中を穴だらけにして、全身には朱しかないヤトを見ても、恐怖の色は目になかった。

あの小僧っ子が。成長したものだ。神殺しというのであれば、それくらいでなければならないだろう。

だが、殺されない。相手が神殺しであってもだ。

ゆっくり、下がっていく。

後ろにある、崖に向けて。

「報いを受けろ、夜刀。 貴様は、あまりにも多くの殺生を重ねすぎた。 そのまま死んで逃げる事など、俺が許さん。 苦しみ抜いて、のたうち回って、俺の目の前で、ゆっくり死んでいけ」

「貴様如き下郎に、許してもらおうなどとは思わん」

踏み込んできた坂の上が。容赦のない一撃を、大上段から叩き込んできた。わずかに剣の軌道から身をそらし、首筋から腹に剣を抜けさせる。

ぶちりと音がしたのは、きっと正中線に致命傷が入ったからだろう。

もう、体が。構造が、維持できなくなりつつある。どうして動いているのかも、良く分からない。

「夜刀斬り丸の切れ味はどうだ! 貴様を殺すためだけに鍛え抜いた最強の刃、とくと味わえ!」

首を刎ねようと、横薙ぎに振るってくる。首を傾けて、跳ばされるのは避けた。ただし、喉を盛大に切り裂かれる。

気力でどうにかなる問題でも無い。

既に摂理を外れているといっても。なおも、とっくの昔に、限界など超えていた。執念か、それとも。

後、一歩。

既に、傷口から、血も流れなくなりつつあった。

畏れを知らぬ所まで訓練されていただろう兵士達が、恐怖の声を上げる。これでもなお動いているヤトをみて、気付いたのか。本当に、ヤトが摂理を外れた存在になっているのだと。

ついに、最後まで来た。

そのわずかな歩が、どうしても動けない。既に頭にも槍を受けている状態だ。どうして、此処まで動いたのか、自分でも分からない。

「私は、私が思うように」

「いい加減に、あがくな! 潔く死ねっ!」

「いや、生きる」

崖から、足を踏み外す。

 

助かる見込みなど、ない事くらい。自分でも分かっていた。

仏教徒共の行動を見て、連中が根こそぎ造反し、ヤトを殺しに掛かった事は、すぐに分かった。

和議どころでは無い。

その和議の根幹から、既に崩されていたのだ。

既に仏教徒共は。以前言われていたように、ヤトなど必要とはしていなかったのだ。

嚢砂の計が潰されたとき、それを悟った。

罠を正面から破るために、他にも多数の仕掛けを準備していた。それらの全てがもう潰されているだろう事は、明らかだった。ヤト自身も、分かっていた。この戦いには、最初から、勝ち目などなかったのだと。いや、それは吉野から此方に来た時点で、内心では理解していた。

最後まであがこうと、自分で決めていただけだ。吉野で戦っても、結果は同じだっただろう。

それだけではない。

だが、ヤトは、どうしても人間には殺されたくなかったのだ。

怒号を上げながら、坂の上が手を伸ばしているのが見えた。助けようというのではあるまい。

死体を確保して、首を刎ねて焼くか。

犯して晒し、犬にでも喰わせるか。

どちらにしても、ごめん被る。

千尋の崖を落下していく。

妙に、ゆっくりと、落ちていく光景が見えた。光が徐々に弱くなっていく。これはもはや、かっての力があっても。生き残ることは無理だろう。

嗚呼、地面だ。

そう思った瞬間、ヤトはどうしてだろうか。

何も感じ入る事は無かった。

激突。

全身が、四散したのが分かった。

 

全身の血が、沸騰したかと思った。

夜刀が落ちていった崖に、そのまま飛び込もうとさえしていたほどだ。周囲の部下が、羽交い締めに、坂の上を止める。

「おのれええっ! 卑怯な! そのような逃げ方、許されると思うか! もっと徹底的に苦しみ、我らの怒りを浴び、その後惨めに死んでいけ!」

「兄様」

「五月蠅いっ!」

崖に向けて吼え猛っていた坂の上は、一度はハヤタカの手を振り払った。

だが、如何に崖に向けて叫んでも、応えるのは噴き上げてくる風の音ばかりだ。

少し遅れて、劉が来た。

凄まじい空中戦で、鷹は殆どやられてしまったという。カラスも梟も逃げ散ったが、無事な鷹もいなかった。

「考えられない事です」

劉が、糸のような目を細めて、顔を蒼白にしている。

普通、動物は、余程のことがなければ天敵には刃向かわない。子供を守ろうとする時などが、その顕著な例だ。

ましてやカラスや梟は知能が高い。

あれはあまりにも異常だと、劉は戦慄を声に含ませるのだった。

「あのカラスや梟たちは、心底から夜刀と言うあの化け物を慕っていたのでしょう。 梟共に到っては、恐らくは夜刀が止めているにも関わらず、死を賭して、普段の行動時間ではない昼間に、命をなげうった……」

「だからなんだ! 言って見ろ!」

「兄様」

ひんやりとした声。

見上げるようにして、前にハヤタカが立っていた。笑顔を浮かべているが。どうしてだろうか。

激情が、急速に覚めていくのが分かった。

「劉、死体の一部を鷹に取ってくるように、頼めますか」

「やってみましょう」

ズタズタになっている鷹の一羽を、劉が動くよう促す。

鷹は一声鳴くと、底も見えない崖に向けて、降りていった。こんな崖、埋めてしまえばいいと、坂の上は思った。

明らかな致命傷を多数受けながら、動き回っていた夜刀。

喉、胸、腹、頭。

どこにも傷があった。頭の一部などは、頭蓋骨が割れて、脳みそが露出さえしていたほどなのだ。

それで、この崖から落ちて、生きている筈がない。

例え、摂理を外れた存在であってもだ。

鷹が戻ってきた。

咥えているのは、血みどろの眼球だ。大きさから、先に落ちた兵士のものではないだろう。

夜刀はそれほど大柄な女では無かった。

血だらけの眼球をつまみ上げると、ハヤタカは上下左右から覗き込み、にんまりと笑みを浮かべた。

「間違いありません。 瞳の色も、夜刀様のものです」

「……」

「劉、鷹と話が出来ますか?」

「話は無理ですが、簡単な意思疎通なら出来ます。 狩りをするのには、必要ですから」

てきぱきと、ハヤタカが話を進めて行く。

何も出来ないでいる坂の上は、自分が情けなくなってきた。だが、憤りが、まだ体を焼くようだ。

崖の下に降りた鷹が見たところによると、死体は完全に潰れていて、散らばっているそうだ。

惨状は想像できる。

この谷は、文字通り千尋。

縄を使って降りても、下には何も無い、不毛の場所として地元でも知られているほどなのである。

「兄様。 流石に、これ以上は止めておきましょう。 崖下の死体を燃やすのは、非常に手間です」

「分かっている。 だが……」

「この崖の下には川も無く、死体は野ざらしになるだけです。 仮に夜刀が生きていたとしても、食糧も得られないでしょうし、何より谷から出られません。 戦いは、我らの勝利です、兄様」

それよりと、ハヤタカが袖を引く。

満足そうな表情のまま、事切れている北のタケルを見て。坂の上は申し訳ない気持ちで一杯になった。

それに、麓の平野には、死んでいった老病の者達が、野ざらしのままになっている。倒れた同胞達もだ。

兵士達の話によると、北のタケルは満足して死んでいった風だったという。

何か夜刀に話しかけていたが、聞き取ることは出来なかったと。ずっと北のタケルと一緒について戦って来たという兵士は、涙ながらに言った。

涙が零れてくる。

物資の調達にしても、軍への話についても。そして仏教徒達との打ち合わせ、それにツクヨミから借りた知恵。

いずれも、北のタケルがいなければ、出来ない事ばかりだった。

勝てなかったのだ。自分たちだけでは。

「北のタケル将軍を、このような邪神の墓所にいつまで座らせておくつもりですか。 この崖は、立ち入りを一切禁止する。 以上で良いではありませんか」

「……そう、だな。 皆の者、北のタケル将軍を、このようなところに葬ることは断じてならぬ。 勇者の凱旋に相応しい態度と表情を作れ! 我々は、北のタケル将軍のおかげで、勝つことができたのだ!」

喚声が上がった。

皆、殆ど無事とは言えない。

あれだけ有利な条件にも関わらず。夜刀の振るった暴虐的なまでの武勇によって、多くの戦士が傷ついた。

谷に、夜刀の目玉を捨てるハヤタカを一瞥すると。

坂の上は、呟く。

「此処に、後でほこらを建てた方が良いだろう」

「作るにしても、麓にしましょう。 どうせ誰も祀らないでしょうから」

「……」

笑顔で、冷酷なことを言うハヤタカ。

勝ったのに。

戦いは、文句なしの結果だったというのに。

どうして、こうも気が晴れないのだろう。神話の時代の終わりを自分で見届けたという達成感は、何故ないのか。

仇を取ったというのに。どうして、祖父タムラノマロは喜んでくれているように思えないのだろう。

もっと手酷い化け物に、この国を好きにさせているように思えてならないのは、何故なのだろう。

タケルもぼやいていた。

自分も立派な化け物の仲間入りだと。

まず、どうしよう。

北のタケルを葬って、それから。自身は軍に復帰することになるだろう。今後の配属先はは九州か、もしくは東北か。東北に睨みを利かせる関東だろうか。いずれにしても、この武勲だ。配置先は激戦地区になる可能性が高い。それならば、自分は東北に行きたいと嘆願し、万が一の事態に備えた方が良いだろう。

とりあえずは、都に戻る。

今は何も考えたくないというのが、坂の上の本音だった。

誰に対しても、武勲を誇れない行軍が続く。神話の時代を終わらせたというのに。歓喜の声で民が迎えてくれるわけではない。

駐屯所で、一晩休んだ翌朝。

ぽかんとしている様子で、ハヤタカが立ち尽くしているのを見かけた。

「あれ……? 私……此処は、どこですか?」

「お前は、ずっと俺の軍師として、夜刀の神を討つために活動していた」

「……? 私が? そもそも貴方は……誰?」

小首をかしげるハヤタカ。

だが、不思議には思えなかった。やはり、この娘には、何か魔的な者か、或いは神でもとりついていたのかもしれない。

もう、どうでもいい。とりあえず、まずは都に戻ろう。そして祖父の墓前で、全てを報告して。ツクヨミにも、結果を話さなければならない。それに、タケルの遺族にも、わびなければならない。

ぐるぐると、するべき事が浮かんでくる。

それらを全て果たし。

後の事を考えるのは、それからだった。

 

3、谷底の闇から

 

ただ、闇だけがあった。

何も認識する事ができない。

ただ、何となく覚えていた。自分は、崖から落ちて死んだのだ。文字通りの木っ端みじんになって、全てが終わってしまった。これではどうあっても助かりなどしない。するはずもない。

自分の名前も分かっている。ヤトだ。

なんだか疲れてしまった。

戦いに敗れた事は覚えている。それまでにも、何度か戦いには敗れた。だが、今回のは、完敗と言える内容だった。

手も足も動かせない。

崖下の岩に叩き付けられて、爆ぜて散ったのだから当然だ。

何も見えない。

何も感じない。

そうか、この闇が。ヤトに与えられた結末なのか。そう思うと、何処か不思議で、それでいて面白いとさえ思えた。

彼奴らは、どうなっただろう。

千里も鵯も、きっと山を上手に運用している事だろう。ヤトがいなくても、問題は無い状態が来ているとか言っていた。

文字通り、生きた現象となっていたヤトが死んだところで。

もはや人間は困りもしない。

むしろ喜ぶ。

だから、仏教徒共は、ヤトを殺した。

怒りは沸いてこない。自分の失策が招いた結果なのだから。結局の所、自分以上の化け物を利用しようとしたことが、全ての間違いだった。

自嘲しようにも、喉さえない。

しばらくすると、何となく、体が集まりはじめているのが分かった。

完全に力尽きていたヤトの体が、そんな機能を有しているはずがない。飛び散った体は、もはや修復不可能で、かさかさに乾燥した後は、虫たちの餌にでもなるしかなかったのだ。それでもいい。

自分で選んだ死に方なのだから。

生きようとは思う。しかし、死んでも、もはや悔いはないというのが本音だ。

やはり、少しずつ、体が集まってくる。

爆散に等しい状態だった体でも、少しずつ肉が集まれば、回復に転じる。ヤトはそれだけ、摂理に外れた存在になっているからだ。

辺りは適度にひんやりしていて、水分もある。

そして、肉が集まっていくと、自然に虫を避ける分泌液を出し始めていた。更に言うと、誰かが蠅や、他の虫の卵を、丁寧に取り除いてくれていた。

音も、まだ聞こえない。

光も、見えない。

手足を動かすなど、もってのほか。

おそらく、外では季節が何度も変わっているはずだ。肉が全て一カ所に集められている事は分かった。

誰がやったのだろう。

わかりきっている。

カラスたち、梟たち、それに鳶。蝮たちは、ヤトと一緒に肉塊になってしまった。だから生き延びた鳥たちが、ヤトの肉を、集めてくれたのだ。

此処は、どこなのだろう。

きっと森の中だろうか。或いは、洞窟の中か。森の中だとすれば、恐らくは土に半分埋もれている。湿気から、そうだと判断できる。

時間が、過ぎていく。

土からゆっくり栄養を吸収していくヤト。体を再構成して、回復させていく。森は、どうなっただろう。

大丈夫だろうか。

大丈夫の筈がない。ヤトが死んだことを、朝廷は掴んでいるはずだ。和議など当然無視して、森を侵しに来るだろう。

口惜しい。

だが、どうすることも出来ない。

肉を少しずつ可変させて、周囲の栄養物を取り込んでいく。体の中に、内臓を作り上げて、機能をわずかずつ増やしていく。

面白い事に、構造は文字通りからだが覚えている。内臓を作るのも、骨を再構成するのも、苦労はしなかった。

これでも神だから、だろうか。

何となく、自分が土の中にいることは分かった。これは確か、昔渡来人の部下に聞いたことがある。

太歳とかいう名前が大陸では付けられているという話だが。今の自分も、似たような姿だろう。

正直な話、人間の姿形などに、未練など欠片もない。

だからどんな形になろうと全く構わない。

渡来人が言う印度の神々のように、手を六本も八本も生やして、首を四つも五つも増やしてみようか。

背中に羽でも生やして、空を自由に飛べるようにしてみようか。

いや、止めておこう。

ヤトが最も戦闘に習熟した形態は、手足一対ずつ、頭一つの、人間型だ。一番嫌いな生物だが、連中に紛れ込むためにも、その形の方が良い。

どれくらい、時が過ぎただろう。

主要な内臓器官は再生が完了した。目も出来た。どちらの眼球も、土に埋もれていた頃には、駄目になってしまっていたのだ。だから一度肉の最小単位に戻して、其処から再構成した。

光が、見える。

ゆっくりと、空を見上げると。

舞っているのは、カラスたち。

それに、梟たち。

やはりそうだった。あの戦いで生き残ったヤトの家族達が。肉片を、一カ所に集めてくれたのだ。世代を重ねながら、守り続けてくれたのだ。

嗚呼。

家族が此処にいる。

ヤトにとっては、森こそが家族だ。

そして、命でもある。

泣くことが出来たのなら。泣いていただろう。

 

体に受けた打撃は、本当に大きかった。

だからすぐには再生できるものではなかった。鏃には当然毒が塗られていた。剣もそれは同じ。槍も。

だから、まずは体の維持を行いつつ、毒素を出していかなければならなかった。鍛え抜いた体が、文字通り細切れになってしまったのは悲しいが。戦術については頭に叩き込んでいる。無駄にはなっていない。

カラスたちは、ヤトの中に死んだ同胞を運んで落とすようだった。

ヤトと一つに、という事なのだろう。

梟たちも、それは同じ。

彼らの栄養も、ヤトの中に混じっている。

ヤトの中に混じっていると言えば、蝮たちもだ。あの崖からの落下で、蝮たちもヤトと一緒になった。

あれだけ粉みじんになったのだ。

もはや人間の肉も、蝮の肉も、見分けがつかない。

眼球を再生してから、覚えているだけで少なくとも三十回以上、季節が変わった。ヤトが死ぬ前に、一番若かった世代のカラスも、既に次の世代に交代している。ヤトが教えた技は、カラス同士で引き継いでいる様子だった。

私は、何なのだろう。

ヤトに、多くの生き物が混じり込んだ存在、なのだろうか。

もしそうだとすると、ただのヤトではもはやないのかも知れない。

少しずつ、皮膚も作っていく。

骨も。

熊や狼、野犬にかぎつけられると面倒だ。もっとも、現時点で、充分に野犬くらいなら撃退可能な状態にはなっていたが。

そういえば。

視界の隅に、さび付いた鉄の塊が転がっている。

あれは、そうか。鬼の亡骸だ。鬼も、最後の最後まで、ヤトと一緒によく頑張ってくれた。

人間の事は、今でも世界一嫌いだが。

ヤトは、世界そのものを、憎んではいない。

土に半ば埋もれたまま、じっくり体を再生していく。だんだん、思考もはっきりし始めていた。

この分だと、後数年以内に。人間の形を、再現できるかも知れない。

そうなったら、まずは絹服が欲しい。

ヤトは誰にも教えていない場所に、いざというときに備えて、絹服を幾らか蓄えていた。まずはそれを着ることになるだろう。問題は、その後だが。

いや、服のことは、まだ後だ。

今は、体を治すことが最優先。

絹服のことは、後でも良いではないか。

おそらく、脳が再生してきているからだろう。少しずつ、物事をしっかり考えられるようになっていた。

肌も骨も内臓も出来てきたので、少しずつ元の形に押し込んでいく。

カラスたちに、それに伴って、少しずつ栄養価が高いものを運ばせた。肉。木の実や魚、植物。虫。

以前は土の中から栄養を摂取していたが、それでは足りなくなりつつある。

あらゆる栄養を、貪欲に取り込んでいく。

以前と同じでは、意味がない。

遙かに強く。対応力を高めて、そして復活して、ようやく意味がある。

一からやり直すことは、ある程度覚悟していた。まだはっきり計算はしていないが、死んでから随分と年月が流れたことは、疑いない。

ふと、懐かしい気配に気付く。

視線を動かす。

そこにいたのは。

昔のままの、アマツミカボシだった。

「おや、これはまた。 随分手酷くやられましたね、夜刀様。 まるきり噂に聞く太歳じゃないですか」

「お前は、息災のようだな」

声も、少し前から出せるようになっている。

もう少しで、出歩けるようになるだろう。

「お前が出てきているという事は、このアキツにまた戦乱が訪れたのか」

「まあ、そんなところです。 もっとも私は、実は貴方の死に、少し関わっているんですけれど、ね」

「……あの娘だな」

「その通りです。 もっとも、貴方の真似事をしただけですが」

やはり、そう言うことだったか。

坂の上の側に、情け容赦ない戦術を使う妙な女がいたのだ。どうも人間離れしているなと思っていたら。

つまり、ヤトの力が、巡り巡って。終いにヤトを刺したと言うことか。

アマツミカボシが言うには、ツクヨミと同盟を結んだときに、試してみたのだそうだ。奴が差し出してきた実験材料の娘に、狂気を叩き込んだ。

ヤトのようにはいかなかったという。

狂気を叩き込まれた娘は、極めて冷酷かつ合理的な思考が出来るようになったが。頭の根本は壊れなかったそうだ。

「余計な事をしてくれる」

「だって、楽しかったんですもん」

いけしゃあしゃあとほざくアマツミカボシ。

此奴は変わっていない。結果よりも、その場の楽しさを優先した、という事だ。刹那に生きる快楽主義者らしい行動の結果である。

腹立ちが募るが、此奴に悪気がないことは分かっている。本当に面白半分で、ツクヨミに言われるまま、実験台に狂気を叩き込んだのだろう。勿論その結果、自身が死んでも、此奴は後悔しなかったに違いない。

此奴はそう言う奴だ。

そして、そう育ててしまったのも、ヤト。回り回って、因果がヤトの所に戻ってきたのだ。そう考えれば、怒りも抱きようがない。

自業自得というのは、こういうことに対するために存在する言葉だ。

「……それで、何をしに来た」

「そりゃあ、恩師を助けるためですよ。これでも、申し訳ないことをしたと思っているんですから。 まず、これです。 そのまま裸で歩き回るわけにも行かないでしょう。 貴方の配下の子孫達から、お服を受け取ってきましたよ。 その辺に、油紙に包んでおいておきますから、出てこられるようになったら使ってください」

まさか此奴が、親切のために、わざわざ出向いてくるはずが無い。

さては、ヤトの無惨な姿を、笑いに来たか。

それでもいい。自分でも笑いたくなるほど、悲惨な姿をしているのだから。

「時に、私が死んでから、どれほど時が過ぎている」

「話を聞く限りでは、百三十年ほど。 正確には、百三十八年ですね」

「百……三十年か」

それは、随分とまた、時が過ぎたものだ。最初は吃驚したが、あれだけ季節がめまぐるしく変わっていたのだ。意識がはっきりしてきてからも、かなりの年月が過ぎていた。肉塊状態の時、どんな風に時が過ぎていたかを考えれば、無理もない。

アマツミカボシが、色々と話してくれる。

日本国になってからも、アキツでは彼方此方で小競り合いが続いた。ヤトが死んだ後くらいでは平和だったが。その二代ほど後の天皇の時代、ついに大規模な内乱が起きたのだという。

物部と蘇我の、一大勢力同士の内輪もめだとか。

「四年ほど争った後、今は小康状態になっています。 ただ、近いうちに、また殺し合いに発展するでしょうね」

「仏教と、太陽神信仰の諍いか」

「表向きはそうですけれど、実際には二大勢力の覇権争いですよ。 この日本も、大陸同様平和になると内輪もめが始まるのは避けられないようですね。 今は実力伯仲ですが、天皇家に厩戸皇子という切れ者が出ましてね。 彼が蘇我に荷担しているので、おそらく仏教勢力の勝利に終わるでしょう」

「ふん、仏教か」

これだけの時が過ぎれば、もはや夜叉明王がどうのこうのと、ヤトを追いかけ回してくる事も無いだろう。

勿論、ヤトも己を神として、連中と関わるつもりはない。

流石に懲りた。

「連中、予想以上に厄介ですよ。 私も結構攻撃を受けましてね。 まあ、全部返り討ちにしてやりましたが」

「遊ぶのは適当なところでやめておけよ」

「分かっています。 貴方の轍を踏むのはごめんですからね。 それと、蘇我が勝っても、国教が仏教になることは無いでしょう。 仏教の普及を自由にさせるというくらいでしょうかね。 蘇我も、権力には興味があっても、仏教に国を乗っ取らせるつもりはないようですから」

「賢明なことだ」

それから、色々と話す。

アマツミカボシは今までに二回目覚めて、好き勝手に殺戮をしたという。一度に百人くらい殺しては、そのまま眠って。また、血の臭いを嗅いでは目覚めて、殺しまくったそうだ。

「それでも、やりづらくなっていましてね。 まあ、理由は外に出れば良く分かりますよ」

「分かった分かった。 他の用事は」

「つれないですねえ。 まあ、そんなところです。 私もそろそろ眠るつもりですから、この辺りで失礼させていただきます」

また貴方の所に来ると言い残し、アマツミカボシは去る。

唾を吐きたいところだったが。まだ、体が其処まで再生していない。

それにしても、奴はどうして、そのような事を言いに来たのだろう。ヤトに、日本を攻撃させるつもりか。

いや、それには無理がある。

ヤトが以前の戦いで、実際より更に数倍の強さを得ても、日本そのものを相手にしては勝てなかっただろう。

事実として、対策を完璧にされてしまった前回の戦いでは、文字通り手も足も出なかったのだ。

しばらくは、土の中で、考えをまとめていく。

そもそも、アマツミカボシの奴は、単独行動しているのか。それとも、ツクヨミとかわした契約が、まだ生きているのか。

そろそろ、外に出てみよう。

体も、もう間もなく。再生を完了する。

 

土の中から、体を引っ張り出す。

久しぶりに、人間の形態に戻った気がする。アマツミカボシが訪ねてきてから、更に三年が経過していた。

泥まみれの体。まずは近くの清流に歩いて行き、体を綺麗にした。

カラスたちも、梟たちも。そして増えた鳶たちも、嬉しそうな声を上げている。森の王が生き返った。森の守護者が、また姿を見せてくれた。

全ての個体は、把握している。ヤトは皆に礼を言う。一羽一羽手元に呼んでは、丁寧に毛繕いし、頭を撫でて。

それから、服を着た。

蝮たちも、育てたい。これから股肱となる動物たちを、また増やしていくのだ。

アマツミカボシが持ってきた絹服を着込む。油紙に包まれていた事もあって、虫には喰われていなかった。

以前と完全に同じ意匠。

やはり絹はいい。

流石に全裸で歩くのは嫌だ。余計な問題を、周囲から呼び込みやすいからである。何よりすーすーする。ツチグモだった頃のヤトでも、素っ裸で歩き回るのは嫌だと拒否しただろう。

しばらくは手足を動かして、感覚を確認。

以前と同等か、それ以上には動ける。百四十年ほども眠って、力を蓄えたのだから、当然だ。

武器についても、今の時点ではいらない。ただ、鬼の朽ち果てた残骸に関しては違う。いそいそと、懐にしまい込んだ。この武器は、ヤトの一部。一緒に戦い抜いた、盟友と言っても良い存在なのだから。

まず、外がどうなっているのか。

山々は、森は無事なのか。

見て廻らないといけないだろう。

うすうすは勘付いていたが、ヤトが眠っていたのは。あの落とされて死んだ谷の近くにある森だった。

木に触って、確かめてみる。

栄養は申し分なく行き渡っている。良い森だ。少し冬に雪が降りすぎるのが難点だが、それさえなければとても過ごしやすい。

無心で、歩いてみる。

ヤマト、いや日本の軍駐屯所は、以前とはだいぶ場所が変わっていた。山々にある森も、それほど酷く侵されてはいない。

ほこらを見かけた。

おそらく、私のものだろうなと、ヤトは思った。

南下して、吉野に向かう。

その途中諏訪に寄った。諏訪の連中は、相変わらず己の信仰を守っている様子で、生け贄の儀式も行っている。

ただ、近くの街から、人買いを介して子供を得て、それを生け贄にしているらしい。

まあ、ヤトにはどうでも良いことだ。

どちらにしても、人間には気配など悟らせない。

南下していくうちに、気付く。

人間共が、恐ろしいほどに増えている。森はさほど侵されていないが、平野部は殆ど田畑に切り替わっていた。

人間共の数は、三倍、いやそれ以上にはなったのではあるまいか。

農耕民族共は、本当に野ねずみのように増えるのだと知って、ヤトは絶句する。しかも見ていると、軍以外にも、鉄の道具が行き渡りはじめている。農作業を行うための道具類などには、かなりの量、鉄を使っている様子だ。

軍の規模も、以前より更に多い。

ヨロイやツルギにしても、かなり造りが違う。一度兵士を物陰に引っ張り込み、気絶させて調べたのだが。

以前ヤトが持っていたツルギとは、完全にものが違っていた。

片刃なのだ。それも、強度が以前とは別物。切れ味も鋭い。ヤトが使うのであれば、鬼よりも更に効率よく、人間を間引けるだろう。

技術は、百年だかで、これほど進歩したのか。

森の中で、時々山の民を見かけた。

まだ声は掛けない。

既に、独自の生活をしているのが、確実だったからだ。まとめて追い出すにしても、一度掌握し直さなければならないだろう。

そして、どうしてだろう。

以前あれほど激しく燃え上がっていた人間への憎悪が。不思議と薄れている。

勿論、森に粗相をする人間を見かけたら許さない。徹底的に脅かして、恐怖で失禁するまで追い詰め、追い回して森からたたき出した。

それを何度かやったが、その後ふと我に返る。

どうして殺さず、追い出すだけで許している。

自分はそんなに甘かったか。

そんなはずはない。以前であったら、容赦なく斬り伏せて、殺していたはずだ。切り刻んで、さらし者にさえしていただろう。

何故だ。

人間への憎悪が、無くなったはずは無い。今でも、奴らのことは、嫌いでしょうがないのだから。

タケルの死にでも、感銘を受けたのか。いや、そんなはずはない。奴に対する憎悪は、もう死の時点ではなかったが。他の人間とは、関係がないはずだ。どうしてこのように考えるようになっている。

頭を振って、雑念を追い払う。

まずは、吉野へ行く。

そして、人間共の、都とやらの状態を、確認しなければならない。

その気になれば一日で吉野まで行けるが、やめておく。いまは、どんな人間にも、気配は悟らせたくない。

吉野に出た。

山の民は、完全に代替わりしていた。鵯の子孫らしい女達も見かけた。百人管理者の制度は、上手く動いている様子だ。

ならば、今の時点では、手を付けなくても良いだろう。

少し北上して、ヤマトの中枢があった地域へ赴く。

そして、山から見下ろした。

穏やかな風が吹き、雲が静かに流れていく空の下、ヤトは絶句していた。

何という規模の集落だ。行き交っている人間共も、数が知れない。

見た感じ、戦の直後のようだ。

アマツミカボシが言っていた、蘇我と物部の内戦だろう。ヤトでさえ戦略に組み込んでいたのだ。かなり規模は大きかったに違いない。

それなのに、どういうことだ。この物資の充実ぶりは。

総力戦をやった後とはとても思えない。ヤトがいた時代とは、根本的に国家の規模が違ってしまっている。

負けたのだ。

改めて、ヤトは思い知らされる。

本当に、神話の時代は終わったのだ。これは人間が制御している時代の光景。ヤトが体を回復するのに百年以上掛けている間に、人間共はこれほどまでに数を増し、力を付けていた、という事なのだ。

これでは、アマツミカボシとヤトが組んでも、どうにもならない。

アマツミカボシが、好き勝手に出来ないと言っているわけだ。余程の大戦乱になっても、これは人間の圧倒的な力の前に、影で動くしかない。あの派手好きなアマツミカボシが、そんな事を喜ぶとは思えなかった。

これでも、眠っているうちに、力は増したのだ。

それでも、及ぶ気がしない。

人間は、ヤトが思うより遙か先にまで、力を蓄えていた。それは武器だけの話ではない。人間の数も、何より底力も。

乾いた笑いが漏れてきた。

本当に負けたのは、殺されたときではない。

百四十年という時が、ヤトを敗者に追いやったのだと、今更に思い知らされていた。ただでさえ、戦いに負けたときには、奴らの進歩の早さに戦慄していたのだ。これほどの時を経て、なおもつけいる隙があると考えるのは、虫が良すぎるというものであっただろう。

何も、する気になれなかった。

その場から、負け犬のように。尻尾を巻いて、退去するしかなかった。

 

4、鵯からの手紙

 

山の民達を観察して、長を見つけ出すのに、四日かかった。

以前見た、鵯の直系子孫らしいのは、どうも違うらしい。吉野にある洞窟の一つが、山の民にとっての本拠となっていて、そこに長がいたのだ。

直系ではない様子だが、鵯の面影がある。千里もだ。骨格や筋肉などから、そう判断できる。こうしてみると、一匹一匹の人間は、そんなに強くなっていない。強くなっているのは、奴らの技術と、国家組織だ。

山の民そのものも、数は軽く一万を超えているようだ。

森を守りながら、日本国と争わないようにし。一方で、流通や、影の部分では、関わりを持っている。

ヤトが作り上げた路も健在で、独自の勢力として、山の民はたくましく生きている。

神としての存在はもう必要なくなると、鵯は言っていたが。

さて、本当はどうなのだろう。

ヤトが姿を見せてやる。

今まで気配を断っていたから、いきなり姿を見せたヤトを見て。洞窟の中に集っていた山の民は、驚きに目を見張った。

「あ、あなた様は! どこから現れなすった!」

「まさか、伝説に残る、山神様にございますか!?」

「そうだ。 仏教徒共からは、夜叉明王と呼ばれてもいた」

「おおっ! 山神様のご帰還じゃあっ!」

年老いた山の民がおののき、ひれ伏すと、他もそれに習う。

何度見ても、むなしい光景だ。

こうやって蛙のように這いつくばる人間共を見て、嬉しいと思った事は、そういえば一度もなかったか。

長は、ひれ伏さなかった。じっとヤトのことを見ていたが。やがて、決まっていたことのように、喋りはじめた。

「貴方が、夜刀様ですね」

「そうだ」

「今まで、何をなさっていたのですか」

「こっぴどく負けてな。 一度死んだ。 体を再生するのに、百年以上も掛かってしまった」

目を細めた様子は、鵯に驚くほど似ている。髪は鵯と違ってかなり長く保っているが。

名前を聞くと、鵲(かささぎ)と言うそうだ。ちなみに、鵯の息子と、千里の娘の、玄孫に当たるそうである。

それで両者の特徴が見て取れた、というわけか。

絹服を着込んでいるが、その意匠はヤトのものによく似ている。歴代の指導者は、そうすることで、権力を保ってきたのかも知れない。

「此方においでください」

言われるまま、洞窟の中を案内される。

こんな大きな洞窟があったのか。いや、これは。鍾乳石などもないし、人工的に作った要塞であろう。

吉野を根拠地にする事で、山の民は日本に対して、侮られない程度の力を手にすることに成功した。

後は歴史の裏で暗躍することを選んだ。

そう、鵲は説明しながら、前を歩く。

「貴方が作り上げたこの仕組みには、感謝しています。 実際大陸からきた渡来人に話を聞いても、これほど巧みに影に潜り込んだ一族は、向こうにも存在しないという事です」

「ふむ、そうか。 仏教徒どもは、まだ多く紛れているのか」

「今では、元々の信仰と融合して、元の仏教とは違うものに変わりつつあります。 いずれ、まったく別の信仰へ変わっていくことでしょう」

見ていて、気付いた。

腹はまださほど膨らんでいないが、どうやら鵲は妊娠しているらしい。それを指摘すると、うつむく。

「我々長は、子孫を確実に残す事を求められます。 男の場合は、もっとも山の民の中で知恵がある女を。 女の場合は、山の民の中でもっとも武勇優れた男を。 娶ることを決められています」

「強き長を作ろうとするのであれば、当然であろう」

見たところ、鵲はその仕組みが気に入らないようだが。

ヤトはそのような仕組み、作っていない。繁殖して数を増やせとは命じたが。おそらく、ヤトが死んだ後に出来た風習だろう。そのような事で、ヤトを恨まれても困るというものだ。

鵲が足を止めた。

ほこらがある。蛇をかたどった巨大なものだ。

おおと、思わず声が漏れていた。ヤトが蛇を根本的に好んでいる事に、気付いているものがいたのか。

木のしっかりした造り。彼方此方に、蛇をかたどった意匠がある。しばらく彼方此方から見ていると、咳払いされた。

「伝承では聞いていました。 冷酷残忍な山の神であると同時に、まるで無垢な子供のような所のある方だと」

「無垢! 子供!?」

「絹服に対する妙なこだわりについても変わっていないようですね。 それに、蛇に対するその目の輝かせよう。 本当に、子供みたい。 貴方は殺戮と恐怖の化身であると同時に、他者の愛情を受けないまま育ってしまったのですね」

若干の哀れみを込めてそう言われると、少し驚く。

見透かされていたのだなと。

鵯の奴は、あれで。ヤトのことを、冷静に見ていたのかも知れない。戦いに生き残るためには、ヤトの武力と知恵が必要だった。だから、黙っていたのか。

もっとも、今では人間の愛情など、受けなくても別に良かったと想っている。連中を恨んでいるのは、ヤトにとって大事なもの。

森や山を、侵す存在だからだ。

鵲が、ほこらの奥から、手紙を出してくる。

紙で書かれた立派なものだ。竹を裏に貼ってあるのは、形を保つためだろう。

「山の民の初代長である、鵯様の手紙です。 もしも貴方が姿を見せたら、読ませるように、という事です」

「どれ。 見せよ」

受け取った手紙に、目を通す。

鵯の奴は、どうやら。ヤトが負ける事も。その後、発展した人間におののくことも。更には、此処にまた来る事も、見越していたようだった。

順番に、内容を見ていく。

鵯はあの後、山の民の中から優秀な戦士を見繕って婚姻。長に収まると同時に、何人かの子供を産み育てたという。

同時に、千里にも右腕として活動してもらった。

日本は、ヤトとの和議を守った。

森を無闇には侵さなくなったし、山を好き勝手に切り開くことも減った。勿論、開墾の過程で森が傷つけられることも多かったが。それでも、以前よりも、明らかにその頻度は減ったという。

山の民は、ツクヨミが組織した影の者達とも協調し、彼方此方に隠れ里のような村を作ったという。

人員支援は、和議の際に提示された条件の一つだった。

山の民も、それを守った。

要するに、ヤトが殺されたことは。鵯も千里も知っていた。勿論日本も、坂の上の報告で知っていただろう。

その上で、和議は守られたのである。

ヤトは現象としての神となった。だから、それで充分だった。

仏教徒達は、多くが山を下りて帰化の路を選んだという。それでも残った山の民の中の仏教徒達が、元々の信仰と混ざり合って、独自の思想を作り上げていった、という事か。

手紙を読み進めていく。

千里の子と鵯の子が婚姻した頃には、状況もだいぶ変わっていた。

完全にヤトは祟り神であり、罰を与える存在であり、自然の守護者でもある者になっていたという。

名前さえ変わり、様々な神として、分化して解釈されていったそうだ。

其処には、ヤトという、地獄の中を生きてきた一人の人間など必要なかった。人格など、無用だったのだ。

神に人格が要求されるのは、それは神話だから。

人間の時代の神は、現象でさえあればいい。

ヤトを見た者でさえ、その流れに呑まれていったのだと、鵯は書いている。これはひょっとして、或いは。鵯の奴は、どうしてか、ヤトを心配でもしていたのかも知れない。別に嬉しくも無いが。

ため息が零れる。

どうしてだろう。理由は、自分にも、良く分からなかった。

やがて、山の民の状態は安定。

千里は先に逝った。

人生の裏街道を進んだ男にしては珍しく、孫達に囲まれての、静かな死だったという。最後まで皮肉ばかり言っていたそうだが、それでも周囲には人望もあり、孫達には優しい祖父だったという。

鵯も、いつの間にか、老婆になっていた。

孫達は優秀な者も、そうで無い者もいた。この手紙を書こうと思ったのは、ヤトが戻ってくるかも知れないと考えたから。

そして、戻ってきたとき。

自分の事を知っている人間がいたことで、きっと何か意味が出るだろうから。そう考えたのだと、鵯は手紙を結んでいた。

手紙を書いたのは、引退してから。五十年も山の民の長を努めたそうだが、それが限界だったという。

利発な孫娘に座を譲ると、以降の山の民についても訓戒を残した。

手紙を書いた後、永くは生きられないだろうと、鵯は書いてもいた。

そうか。

此奴は。結局、最後の最後まで。ヤトを、少し力が強い人間、程度にしか考えていなかったのか。周囲が山神だ夜叉明王だと騒ぐ中で、ヤトを冷静に人間と考えていた、数少ない存在だったという事だ。

ヤトの行動に心を痛めていた節もある。

「貴方は、山の民に再び君臨するつもりでしょうか。 ですが、もう山の民は、既に形としてできあがっています。 勿論歴史の裏に暗躍するとき力を欲するでしょう。 そういったときに、貴方は少しだけ力を貸してあげる、程度で丁度良いと思います」

「好き勝手な事を言ってくれるものだな……」

ヤトは忌々しいと思ったが、手紙を破り捨てようとは思わなかった。

お小言の類が延々とかかれでもしていたら、手紙を破り捨てていたことは間違いない。鵯の奴は、その辺りでも、ヤトの性格を見抜いていた、と言うわけだ。

鵯の字は、長い間を生きてきた、重みを感じるものとなっている。字そのものが、とても重厚になっていた。

見ていて、感じたのは、それだけか。

読み終えて顔を上げると、鵲が此方をじっと見ていた。

「私のおばあさまが、良く聞かされていたそうです。 鵯様は、貴方のことをずっと心配していたようだと」

「手紙を読めば分かった。 どうして私を心配などした」

「貴方は強さの中に、危うさがあるからでしょう。 貴方が千を超える兵を相手に何度も立ち回り、多くの人をあやめ、日本国と単独で和議を結ぶという離れ業を演じたことは、山の民の中でも伝説になっています。 しかし貴方はその桁外れの強さの一方で、誰かに頼ることも、弱音を吐くこともなく、対等の友達を作ろうともしなかった。 ……そんな、貴方の痛々しい孤高を、きっと鵯様は心配していたのでしょうね」

もしもこのほこらで静かに暮らすなら、準備は出来ていると、鵲は言う。確かに、中には、ヤトが暮らすくらいの空間は充分にある。

山の民は、人格のない力の象徴として、ヤトを見ている。そして、ヤトも。今では、そうされることに、抵抗がない。

不思議と、怒りがわき上がってこないのだ。

本当に神話の時代が終わったのだと肌で感じているし、何よりどうしてだろう。ずっと死んでいたから、だろうか。

今まで、力の根源になっていた、恨みと怒りが霧散しているのだった。

現象としてヤトは固定されていて、森を侵す者への恐怖としての神格を既に得ている。その桁外れの武勇が、多くの人間を殺したという実績が。畏れとなって森を守っているのだ。

常陸の、アオヘビ集落に掛けた呪いと同じ事だ。

ならば、ヤトが今までのように、人間共を手ずから殺して廻ることもない。

「しばらく、考えるとする。 このほこらはそのままに。 それと、私が組織した者達のよしみだ。 力が必要なら、私に声を掛けよ」

伝令用に、鳶を一羽、この地に残していく。

そう告げると。

「夜刀様であれば、そう言うだろうと、鵯様は言っていたそうです」

余計な事を、鵲は言ったのだった。

 

流石に木綿を着ている者が中心だが。人間の都とやらにも、絹は相応の数、普及しているようだった。

ヤトが堂々と歩いていても、大丈夫かも知れないと、思えるほどだ。

勿論気配を消している。

見ると、坂の上という表札がある。中を覗いてみると、かってヤトに対する復讐に全てを掛けた男の子孫とは思えない、温厚そうな老人が、孫らしい子供をあやしていた。かってだったら、族滅にしたかも知れない。だが、今は。そのまま引き下がった。坂の上本人にも別に恨みはないし、今更子孫を殺して何になろう。

ツクヨミの屋敷はどうなのだろう。

まあ、あの男も、流石にもう生きていないだろう。彼方此方探して覗いてみたが、ツクヨミの屋敷自体が分からない。大きな屋敷に当たりを付けて覗いてみるが、見た事も無い者達が住んでいた。骨格からいって、ツクヨミとは関係も無い様子だ。

天皇の宮殿は何処か。大きな路の、行き着く先にあるのがそうだろう。路の左右には、ものを売っている場所が、林立していた。とはいっても、大半は御座を引いて、その上で主に食物を売っている。

衣服はかなり個体によって差があるが、それでもヤトが生きていた時代よりは格段にマシだ。

堂々と、真正面から天皇の宮殿にも乗り込む。

内部では、なにやら大勢の人間が話し合っていた。朝廷というのは、朝に政務をするからだとか、渡来人が言っていたか。恐らくはそれだろう。

話している奴は、相当な知識を秘めているのか。目に強い光がある。

「隋は威勢強大。 大陸の最新文化をいち早く吸収するためにも、多くの若者を送り、現地の状況を知る必要があるでしょう」

「厩戸皇子、しかし隋に船を送るとなると、国家規模の事業となりますが」

「それなりの価値がある行為、という事です。 大陸に統一国家が出た以上、ぐずぐずはしていられません。 当初の目標兵力は幸い達成できています。 簡単に侵略など出来ない事を見せつけ、なおかつ可能な限りの文化を吸収する。 拡大してきた経済を補うために、大陸で流通している古銭を購入することもまたよし。 とにかく、今は一刻も早く、現地の状況を確認することです」

都で歩きながら話を聞いていたが、なるほど相当に切れる男のようだ。

蘇我と物部の争いを収め、今この日本国の勢力を更に強大にするべく、粉骨砕身活躍している。

あれを殺す事は。出来る。

周囲にはかなりの腕利きが控えているが。殺す事は可能だ。そして、そのまま生還する事も。

だが、止めておこう。

面白そうなので、側で話を聞く。

厩戸皇子とやらは、てきぱきと話をまとめていく。奥の御簾の向こうに控えているのは、女か。

女天皇と、辣腕の皇子。面白い組み合わせだ。年若い女であれば、黄色い声を上げて喜んだかも知れない。

論理的な厩戸皇子の言葉に反論できる者はおらず、話し合いは終わった。

でっぷり太った、いかにも偉そうな鯰髭を蓄えた男が、厩戸皇子に話しかけている。あれが都で噂の、蘇我馬子か。

どうも厩戸皇子の後ろ盾という事だが。

零れてくる二人の話を聞く限り、どう見ても良いように使われているだけだ。

ただ、厩戸皇子も、体が強そうには見えない。

厩戸皇子が早死にした場合、この国はまた乱れるかも知れない。

ただ、それでも、ヤトには好機があるかどうか。

「其処の方」

ふいに、ヤトに声を掛けてきた者がいる。

厩戸皇子が、此方を見ている。気配を漏らした覚えはないのだが。周囲に人間はいない。気付かれたと見て良い。

「神霊の類と見ました。 もしもよろしければ、語らいませんか」

「やれやれ。 私の気配を見抜くとは」

気配を現すと、周囲にまだ残っていた者達や、護衛の兵士達が、ぎょっとした様子でヤトを見た。

前言撤回だ。

此奴を暗殺するのは、難しいかも知れない。

蘇我馬子は、青ざめて此方を見ている。或いは、ヤトのような存在を見るのは、はじめてなのか。いずれにしても臆病な男だ。むしろこの男が、厩戸皇子の後ろ盾で、勢力を伸ばしたというのが真相ではなかろうか。

「神聖なる朝廷の場に何用でしょう」

「その前に聞かせよ。 どうやって、私の気配を見破った」

「私の遠い先祖より、受けついでいる技術です。 闇に生きる者達を統括したその先祖が、暗殺をさけるために、気配を消す技に対する返し技を、開発させました。 私もその技術を受け継いでいます」

そうか。

それくらい、出来ていないと困るというものだ。百年以上も前の技が、現在で通じるのであれば。

都の威容に驚かされた事が、無駄になってしまう。

ただし、やり方については理解した。更に巧妙に気配を消す技術を、これから磨き抜いていけばいい。

また、今の問答で分かった。此奴は、あのツクヨミの遠い子孫というわけだ。どこで天皇家に血が混じったのかは良く分からないが。確かに骨格や筋肉には、ツクヨミと共通する部分が見て取れた。

御簾の向こうの女天皇が、距離を取るのが分かった。女官達が、守って遠ざけたのだろう。

ヤトは武装していないが、当然の措置である。だから、不快には感じない。

「まあよい。 私はヤト。 まつろわぬ神として、お前達に調伏された者だ。 長い時間を掛けてよみがえり、今の世を見て廻っている所よ」

「や、夜刀の神っ! 殺戮の限りを尽くし、見た者を族滅するという常陸の邪神か! 滅ぼされたと聞いているに、化けて出たか!」

露骨に蘇我馬子が逃げ腰になるが、まるで引いていないのは厩戸皇子。

兵士達も必死の形相で、ヤトに槍を向けている。

「聞いています。 遙か昔に、暴虐の限りを尽くし、手を焼いた日本国と和議を結んだ後、それをよしとしない派閥に討伐された山の神ですね」

「言ってくれるな。 だがその通りだ」

「ここに来たのは、恨みを晴らすためですか?」

「いや。 どうしてだろうな。 百年以上も眠っているうちに、人間への恨みはどうしてか、枯れ果てたらしい。 ここに来たのは、今の世がどうなっているのか、見聞している過程での事よ。 まあ私を生かして此処から出さぬと言うのであれば、相手をしない事もないが」

厩戸皇子は、首を横に振る。

ならば、もう此処には用も無い。

「私が生きた時代より、この時代は遙かに進歩しているようだな。 これでは、私が好き勝手を出来る余地もない。 それに、お前達は、なんだかんだで和議を守ろうとしているし、それで良い。 お前達が和議を守る限り、私も無為に手は出さぬ」

「そうですか。 貴方はこれから、どこへ行くのですか」

「勿論、お前達が隙を見せるのを待つ。 人間を信用していない事は今も変わっていないからな。 お前達が和議を破るようであれば、いずれ滅ぼしてくれる。 だが、今はその隙も無いようだ。 静かに山野を巡って、苦労のすえによみがえったこの体で、楽しむとするさ」

ひらひらと手を振ると、ヤトは宮殿を出る。

間、ずっと兵士達に槍を向けられていたが。

そのようなもの、恐ろしくも何ともなかった。

 

宮殿を出てから、都の周囲を少し歩いた。都の周囲は河と田畑に囲まれているが、多くの人間を養うには若干貧弱に見える。この様子だと、飢饉になると、多くの死者が出るかも知れない。冷静に状況を見ていると、人間には弱点が増えていることも分かるのだった。

都は、もう充分だ。これ以上、此処にいる必要もないだろう。

見て廻ったが、タケルの屋敷は存在しなかった。称号をなくすという話は何処かで聞いていたが、タケルとして戦った者達は、普通の将軍にされるか、或いは神に祭り上げられていったのだろう。皇族に取り込まれたのかも知れない。いずれにしても、ヤトから言わせれば、用済みという事で処理されたのだ。

ずっと戦って来たタケルを思い出す。

最後、ヤトに語りかけて、武人として死んでいったタケル。奴に対する恨みは、もう無い。子孫がいたとしても、殺そうとは思わなかった。勿論、ヤトに敵対するのならば、話は別だが。

山に向かう。人間の群れの中を歩くと、やはり違和感がある。森こそが、山こそが、ヤトの場所だ。

森に入ってから、速度を上げる。

気配を消して、一気に加速。鼻先をヤトに通り抜けられた熊が、驚いて飛び退いた後、左右を見回していた。

山に入り、岩を蹴って、木の枝の上に。

後は、枝の上を伝って、ただ山の頂上を目指していく。途中、二度口笛を吹いた。カラスや梟たちに知らせるためだ。

山の頂上に、丁度良い石があった。足を止めると、其処へ腰を下ろす。

周囲にカラスたちが集まってくる。

しばらくは各地の山を見て廻り、荒れている場所があれば山の民に命じて管理を進めるとしよう。

一度も足を運ばなかった九州や、四国へも行ってみたい。

蝦夷島に行くのも、面白そうだ。

そしてその過程で、力を蓄える。ずっと平和な国などある筈もない。この国が乱れたときに、もしも連中が、和議を破るようであれば。それを口実に、奴らと戦う。その時には、さらなる力が必要なのだから。

風が心地よい。

目を細めると、ヤトは。

信頼出来る部下達に、促した。

「まずは九州へ向かうか。 それから、四国へも行くとしよう」

幸いにもというべきか、不幸にもと言うべきか。

ヤトという存在が、一度消え。現象としての山神に信仰が移行した今。ヤト本人に対する制約はなくなった。

体をしばる面倒な鎖はまだ残っているが、それも最小限だ。

意気揚々とヤトは歩き出す。

まずは、まだ未開発の地域へ、足を運び。力を蓄える切っ掛けにしよう。最初は其処からはじめるべきだ。

そう、ヤトは思った。

 

(続)