閉じる蛇神の檻
序、時は来たれり
極限の修練に身を置いて、どれだけ時が経っただろう。既に今が夏なのか、冬なのかさえ、坂の上には分からなくなっていた。
ただ、己を武とする。
才能を極限まで絞り上げ、敵を倒すための剣となる。
剣を振るう。
その動作の全てを、坂の上は体に叩き込んだ。敵を殺すためにはどうすればいいか。徹底的に研究した。
部下達と、一週間に一度顔を合わせる。
その時にする話は、武についてのものだけだ。どうすれば更に強くなれるのか。技を見せ合い、更に磨き合う。
やがて、坂の上に、十五名ほどの戦士が合流した。
いずれもが、軍の中から選りすぐられた者達。そしてその多くが、個人的に夜刀への恨みを持つ者ばかりだ。
ぎらついた目。
煮えたぎった殺意。
全てが、坂の上と同じ。
雪が降り始めて、はじめて冬だったのだと分かった。既に気温など、体にはどうでも良くなりつつある。
顔を上げたのは、気付いたからだ。
最大の恩人が、到来したことに。
既に髭に白いものが増えた、北のタケルだった。平伏する坂の上の前にある岩へ、北のタケルは腰掛ける。
「腕を磨き抜いているようだな」
「おかげさまにて」
「近況を話しておこう」
顔を上げる。
俗世のことには興味がなくなりつつあった。だが、北のタケルの言葉である。重要な知らせなのだろう。
「いよいよ、このアキツ島に存在する朝廷は日本国となった。 それと同時に、タケルという称号は消滅することとなった」
「時が来ましたか」
「うむ。 神話の時代が終わり、人間の時代が始まったという事だ。 南のタケル、弘子が今は、九州を掃討した部隊を引き連れて、都に戻ってきている。 おそらく、彼女と東のタケルだったラセンが、軍を取り仕切ることになるだろう。 西のタケルだったソワカは、恐らくは後見役だな」
自分は引退すると、北のタケルは言う。
先代、偉大なる武王が引退した事により、長子が即位。以降は、この国の頂点にいる者を、天皇と称することとなった。
北のタケルは態勢が固まるまで待って、それで引退を表明。
武王は王位を退いてから急激に老け込んでおり、更にそれは北のタケルも同じだ。武王の引退は、文字通り神話の時代の終わりを告げるものだったのだ。
北のタケルは、神話の時代の人間。
それならば、これ以上権力にも武力にも、縁を持たない方が良い。そう判断して、引退したという。
寂しい話だが、頷ける内容だ。
坂の上も、祖父から話は聞いていた。いずれアキツは日本国になると。その時、神話の時代は終わるのだと。
大陸では、とっくに神話の時代は終わっているとも。
それならば、いつまでもアキツが遅れを取るわけにはいかないのだ。
北のタケルは、坂の上が話を理解していることに納得すると、頷く。その目の奥には、苛烈な光があった。
「だが。 引退後、悠々自適とはいかぬ。 ここに来た理由は分かっておろう。 神話の時代の邪悪を片付けてから、ようやく私は黄泉へ行ける」
「夜刀の神、にございますな」
「うむ……!」
おそらく、北のタケルにとっても、最後の機会だろう。
ただし、もう大軍は動かせない。
あの夜刀の神を、少数精鋭だけで討ち取れるのか。なにより、朝廷と奴は、和議を結んだのではないのか。
場所を移して、本格的な話をする。
部下達も、集めた。
彼らにも、話に加わる権利がある。いずれもが、夜刀の神に、何かしらの形で恨みを抱く者達ばかりなのだ。
滝の麓にある村の、一番大きな家に、皆で入った。入りきれない者は、家の外で、見張りをしながら話を聞いてもらう。
北のタケルは、皆の顔を見回しながら言う。
「奴を倒す好機は、おそらくただ一度。 そして、最後の一度だ」
「懸念されるのが、和議を破る事による、仏教徒達の一斉蜂起ですが」
「それならば、どうにかなる目処がついた」
北のタケルが指を鳴らすと、仏僧が姿を見せた。
それは佐安と呼ばれる、近年東北で活動している男ではない。もっと若い、鋭い目つきをした者だ。
「燕雀にございます」
「うむ。 貴殿から説明して欲しい」
「分かりました」
燕雀という若い仏僧は、はげ上がった頭を皆に下げると、北のタケルの左横に座る。気に入らない奴だ。
何というか、仏僧だというのに、欲望がにじみ出るかのようだ。或いは、仏教を利用して、成り上がるつもりでいるのかも知れない。
「夜叉明王様については、既にこの世での役割は果たされていると感じます。 罰を与える恐怖の象徴としては、充分に活動していただけました」
「つまり、裏切ると言うことか」
「いいえ。 入滅していただきます」
よく分からない。何が違うのか。
燕雀は、順番に説明していく。
そもそも、罰を与える存在として、夜叉明王と呼ばれるようになった夜刀の神は、十二分に活動したという。
事実。東北の民ならず、吉野の大天狗、大蟒蛇、山神といった存在は、アキツ中で恐怖の象徴となった。
それで充分。
これ以上余計な事をする必要はない。
後はただ名前だけを残して、夜刀の神という具体的な存在については、消えてもらいたい、というのである。
「我々が調べたところ、夜叉明王様は、どうも現状に満足なされていない様子なのですが、それでは困る。 悪人に罰を与え、仏教徒を守る存在として、その御心はあれば良いのです」
「つまり、実情の夜刀の神は、お前達には邪魔だというのだな」
「下世話な話をすれば、そうなります」
「ふん。 散々利用したあげくに、必要がなくなったら捨てるというか。 仏教とやらも、下劣さ加減では奴と大差がないな」
毒づいたのは、坂の上の部下の一人。
北のタケルがたしなめるが、燕雀はにやりと嗤うのだった。
「こう考えてくださいませ。 世俗の欲がある存在から、本物の仏へと昇華していただくのだと」
「ものは言いようだな。 それで貴様の見返りは」
「私個人としてはありません。 強いていうならば、確実に夜刀の神を入滅させること、にございます」
何となく、坂の上にも、事情が分かってきた。
夜刀の神は頭が切れる。だからこそ、理性が本能や怒りを上回る。今の時点では、論理的な動きをしている。
しかし、大きな不満は、やがて感情の爆発を産む。
このまま夜刀の神が不満を蓄えていくと、いずれ仏教徒に対して、大きな禍になるかも知れない、という懸念があるのだろう。
今、仏教を広める最前線にいるのは、あの佐安だが。奴はこの件を、知っているのだろうか。
坂の上は聞いてみるが。
意外な答えが返ってきた。
「師はこの件をご存じです」
「本当であろうな」
「はい。 師は以前から、夜刀の神様と接触をしています。 それが故に、分かるのでしょう。 かのお方が、年を重ねるごとに、大きな不満を蓄えていることに。 最近では、師に対する殺意まで感じるとか」
「それは最近ではあるまいよ」
げんなりした。
夜刀の立場に立ってみれば分かるが、散々利用されているも同然なのだ。もっとも、先に仏教を利用したのは夜刀だ。これについては、完全に自業自得だが。
いずれにしても、利用できるものは全て使う。
幾つか細かい打ち合わせをした後、一旦燕雀はその場を後にする。
軽く今のことについて話す。北のタケルは、黙って話している様子を、見守っていた。
「貴殿はどう思われる」
「何かの罠ではあるまいな」
「あり得ることだ。 しかし、仏教徒が完全に日本国に対する反旗を翻した場合、どうなのだ」
「おそらく鎮圧は可能だろう。 そうなると、罠にしても、和議そのものを利用したものではあるまい」
わいわいと、周囲は話している。
最年長である部下の一人が、咳払いする。皆が、押し黙った。
「おそらく、これが最後の好機となるだろう。 私はおそらく、もう長くは武勇を震えなくなっている。 体の老い以上に、心の老いも進んでいる」
「……確かに、いつまでも武勇を維持できる訳では無い。 私も、既に老いが見え始めた」
「ならば、罠があっても噛み破るつもりで事に当たるべきだ。 上手く行けば、このアキツ、いや日本全域の人間を敵に回した夜刀を、袋包みにたたける。 それに、今までの修練を、無為にしたくあるまい?」
議論が止んだ。
確かに、その通りだ。皆が、視線を交わし合っていた。
「決まりだな。 タケル将軍」
「うむ。 では皆は、これより同志だ。 奴を討ち果たすまでは、命の全ては私が預かる」
「おおっ!」
全員が、喚声を挙げて立ち上がった。
此処にいる全ての者が、夜刀を殺す事で、一致団結していた。
だが、北のタケル自身は、あくまで義務感の元行動しているように、坂の上には見えた。
翌日には、指揮系統が決まる。
北のタケルは、おそらく既に死を覚悟しているのだろう。女も遠ざけ、食事も最小限のものしか取っていない。
また、老いが進んだ体を鍛え抜くのは諦めているのか。それほど、修練もしているようには見えなかった。
タケルは、いろいろな人材を連れてくる。
以前見かけた、鷹使いの劉もその中にいた。鷹は既に十五羽以上に増えていた。弟子達も連れている。
それだけではない。
幾つも、珍しい道具が準備されている。大きな音を意図的に鳴らすように、工夫された銅鑼。とてつもなく大きく、台車に吊して運ぶ。
軍用犬も準備された。
大陸から連れてこられた大きな軍用犬でも歯が立たなかったと聞いているが、今回は戦術を変えるという。
何度か、説明が行われた。
「夜刀の神がいる山は特定できている。 東北地方の幾つかの山を動き回っているのだが、影の者達が常時捕捉している」
「以前とはまるで状況が違いますね。 和議がなったから、ですか」
「その通りだ。 影の者達によると、夜刀は森を傷つけたり、獣を無意味に狩ると、即座に殺しに来るそうだが。 それさえしなければ、何もしないという。 短い会話だったら、出来る場合もあるそうだ」
「にわかには、信じがたい話です」
そう言ったのは、左目を失っている男だ。
彼は以前、夜刀との交戦で、部隊を全滅させられた。その中には、兄もいた。左目を失うだけで済んだのは、他の部隊が乱入してきたからだ。その部隊も大きな被害を出し、生き延びた右目だけの男は、復讐を誓った。
戦いだからなどとは、思えなかったと、男は言う。夜刀はあまりにも暴力的な戦闘力を発揮して、部隊を瞬く間に壊滅させたという。まるで大熊と子ネズミの戦い。そのようなものを、対等な戦いだとは思えなかったのだと。
分かるような気はする。
坂の上は、挙手した。質問しておきたかったのだ。
「一つ確認したいのですが、よろしいでしょうか」
「うむ、何か」
「タケル将軍は、淡々と話を進めておられますが。 夜刀を恨んではいないのですか」
不意に、場に静寂が漂う。
タケルは、そんな事を聞かれるとは、思っていなかったという顔をしていた。
「おかしな事を聞くな。 相手を恨まなければ、戦えないのか」
「此処に集っている者達は、少なくとも夜刀に対する恨みを原動力にして、それで団結しています。 もしもタケル将軍がそうではないとすれば、結束にひびを入れる可能性がある。 私はそう思うのですが」
「はっきり言ってくれるな」
「勝つか負けるかの瀬戸際です。 今回は今までに無く有利な条件が揃っているとは感じるのですが、それでも奴は間違いなく人外の者。 どれだけ準備していても、不安要素を取り除いても、足りないという事はありますまい」
しばらく考え込むタケル。
軍の最高位にいた人間に、著しく非礼なことを言っていることは、坂の上も分かっている。だが、夜刀への恨みは、それを凌ぐのだ。
必ず、奴を殺したい。
今でも、少しでも気を抜くと。怒りが狂気となって、全身から噴き出しそうなのだ。
「結論から言ってしまえば、今の私は、奴を恨んではいないな」
「ならば、皆をまとめるのは難しいかと思われまする。 軍の司令官としてであれば可能でありましょうが、この程度の数の同志となってくると、やはり決まった思考を共有することで、ようやく一丸となれるのでは」
「愚かしいことを言うな」
「……」
タケルの声は静かだが、重苦しい怒りに満ちていた。
今では、既にタケルよりも強い自信があるのに。どうしてだろう。気圧される。
「私がここに来ているのは、このアキツ島に存在する日本国のためだ。 神話の時代が終わり、人の時代が来て、ようやくアキツは日本国となれる。 そして日本国となってからも、神話の名残があってはならないのだ。 あくまで神々は、人の心に住むものでなければならない。 そうでなければ、人がこの国を動かしていく事が出来ないからだ」
神々の力は強い。
渡来人の話によると、やはり大陸でも。神話の時代には、何らかの理由で人を逸脱してしまった存在が、たびたび現れたという。
そう言う者達は、未熟な社会を蹂躙し、良きにしても悪しきにしても、大きな影響を与えていった。
「私も、民から見れば、その神々の一人だ。 正確には、日本武尊と呼ばれた将軍全てをひとまとめにして、だがな」
「それは理解できます。 しかし、我々は」
「全員で、礎になろう」
あくまで、ゆっくりと。だが、押し殺すような重さと共に、タケルは言った。
礎。
この国の。
いや、新しく出来る日本国のか。
「夜刀の神を討ち果たすことが出来れば、既にアキツに神話の者は存在しなくなる。 我々は殆ど生き残れないだろう。 どれだけ準備を整えたとしても、奴は強大。 この中の何名が、戦いの後、日を拝めるか分からぬ。 だが、しかし。 我々の犠牲の先に、多くの民が、人間の時代を生きることが出来る」
それならば。
この怒りが、生きるならば。
いや、違う。
この恨みを、怒りを、生かすために。
「分かりました。 それならば、納得できまする」
「もう一つ。 よろしいですか」
挙手したのは、この中で一番若い男だ。坂の上よりも、更に四つも若い。彼は戦場で、四人いた兄を全員夜刀の神に殺され、母はそれを聞いて嘆死したという。父は既に亡くなっていたとかで、家族全員の仇である夜刀を付け狙っていた。軍に保護されて、此処に廻されてきたときは、冬眠を失敗した熊のような顔をしていた。
彼は、どうにか納得できたようだが。
それでも、疑念を抑えきれない様子である。
「何故に、奴への恨みを抱かずにいられるのです」
「私は夜刀の神という存在と直接接してきた。 この間は、短い間であったが、奴の心の奥底にある鬱屈にも触れた。 そして知った。 奴は邪神と言って良い存在だが。 その禍々しき力は、人によって造り出されたものなのだ」
「人に……信じられませぬ」
「本当だ。 元々の夜刀は、動物が好きな、少し偏屈なだけの娘だったのだろう。 だが、周囲の無理解と、拒絶が、奴を変えていった。 不幸なことに、ツチグモと我ら朝廷の争いが、それに拍車を掛けた」
奴を殺す事にためらいはないと、タケルは明言してくれた。
だが、坂の上には、やはり引っかかるところも出来た。タケルは、夜刀に同情しているのではないのか。
もしそうならば。
やはり、戦いの際に、それは見極めるしかない。
会議が終わり、全員で移動することが決定した。
夜刀に仕掛けるのには準備がいる。まずは関東まで移動して、其処で戦術を練り上げる。佐安、いやその弟子の燕雀とやらが、最大の機会を作るとき。
此処にいる全員の心を一丸にして、夜刀を討つのだ。
移動しながら、皆が技について、情報を共有する。見た事も無い珍しい技を隠している者も、まだまだいた。
同じ人数であれば、このアキツ、いや日本における、最強の集団かも知れない。
東へ行く。
タケルの名を出せば、どこの村でも宿泊は出来た。だが、誰もが村には入らない。一度人里に入ってしまうと、決意が鈍ると感じているのかも知れない。
影の者達が、何度か情報を運んでくる。
そして関東に到着したとき。
ツクヨミが、待っていた。
1、暗雲の訪れ
ふてくされて寝ている事が多くなったが。それでも、森を守るために、定期的に辺りを見回らなければならない。
もとより信頼など欠片もしてはいなかったが。近年ますます疑わしくなってきた配下の連中は、今のところおかしな動きを見せてはいない。ヤトがわざわざ口出しをしなくても、情報を流し、物資を移し、人数を増やすための活動を続けている。時々千里が来るが、鵯も一度だけ来た。
鵯が来たのは、三ヶ月ほど前。
四人ほど、女を連れていた。いずれも百人を管理する者の候補だという。アマツミカボシの配下を加えて、三千五百を超えていた配下は。既に四千に迫っていると、鵯は言う。百人管理者は、いくらいても足りないのだとか。
四人に、順番にヤトに挨拶させた後、鵯は吉野に戻っていった。
山の中の路は、ヤトが開拓し尽くした。
どこへ行くのも、既にやり方が分かっている。時間さえ掛ければ、鵯のように体力がない者でも、このアキツを東西に縦断できる。
だから別に不思議な事ではなかったのだが。
あれ以来、妙なことが続いていた。
ヤトはしばらく気分を変えようと思い、人間の村の観察を以前ほど熱心にはしていない。仏教徒になっている配下の者から頼まれて、色々とこなすことはあるが。それ以上、人間に関わるのを、意図的に避けてもいた。
だが、何となくだが、分かるのだ。
今日もカラスたちが騒いでいる。
木に登り、状況を確認。新緑の、どこまでも続く森の向こうに。数十人が、行列になって進んでいる。
連中が唱えているのは、あの忌々しい呪文だ。仏教徒どもである。
とりあえず、爆発的な増加には歯止めが掛かったらしい。元々仏教徒になる素養の持ち主だけがそうなり、他は静観している、という状況なのだろう。
関わる事も無いので、放っておく。
だが、ああいう数十の群れで動いている仏教徒共が、ここのところ、特に増えてきているのだ。
その日は、そのまま過ごした。
だが、翌日にも、そういった連中が、山の麓を横切っていった。佐安はいないが、別の坊主に連れられている。
流石に頻度が多い。何が起きているのか。
丁度、配下の者達が、今ヤトのいる森に来ている。呼びつけると、すぐに姿を見せた。
「山神様、何用にございましょう」
「数日前から、よく見かけるが、あれは何だ」
挨拶も面倒くさいので、要件だけ聞く。数人が連れ立って現れた部下達は、同じように手をかざして見ていたが、小首をかしげた。
この様子だと、此奴らも知らないのか。
「分かりません。 仏教徒達のように見えますが」
「他では、ああいう行動は取らないのか」
「見た事がありません。 坊主が信者達を護衛に出歩いているのはよく見かけますが、そもそも護衛も必要ないことが多いのが事実ですので……」
「護衛が必要ない?」
今度は、ヤトが小首をかしげてしまう。
彼奴らは、武芸を身につけている存在では無い。連中の修行は見ていて分かったのだが、殆どは精神修養だ。
うんざりしながら話を聞いたこともあるが、要するに精神を鍛えることによって、欲を捨て去り、それによって人間を超越する、というのが趣旨であるとか。
それ自体は分からないでもない。ヤトも、人間を止めてからは、欲求が著しく減少した。恐らくは、大陸にも似たような経緯で神になった者がいるのだろうと、簡単に推察できる。そして、神になったあとの状態も。
逆に言うと、連中は武を重視していない。
仏教徒どもが崇拝してやまない佐安にしても、その気になれば一瞬でくびり殺せる程度の相手に過ぎない。
それなのに、護衛が必要ないとは、どういうことか。
「仏僧を殺すと、地獄に落ちるともっぱらの噂でして。 それも、最悪の地獄に落ちるのだとか」
「なるほど、そう言う仕掛けか」
「え?」
「気にするな。 護衛が必要ないことは、それで分かった。 問題は、どうしてあのような行動を取っているか、だ」
部下達を散らせる。
自身は木の枝の上で横になると、連中を観察。見ていると、数十人が列になったまま、別の村へと移動しているようだった。
その翌日は列を見かけなかった。だが、更にその翌日、また列が姿を見せる。
やはりなにやら呪文を唱えながら移動している。嫌な予感が加速していくのを、ヤトは感じた。
ひょっとして。
連中は、ヤトの周囲で、あのように訳が分からないことをしているのではあるまいか。
念のためを思って、カラスたちを張り付かせる。
そして自身は、気配を消して、二つ隣の山に移った。其処から、列を監視する。丁寧に気配を消したので、誰にも見つかる畏れはない。しばらくはこうやって、状況を観察するべきだろうと、ヤトは思った。
案の定だ。
山に伏せて観察していたが。数日前までヤトがいた山の周辺で、仏教徒共が動き回っている。
今、ヤトが伏せている山の周囲は、ぴたりと喧噪が止んだ。
カラスたちを行き来させて、情報を探らせ続ける。梟たちも、夜は総動員した。それで、少しずつ分かってくる。
どうも行列は、村の間を行き来しているようなのだ。
ヤトが数日前までいた山を、それぞれ囲むように、線を書きながら。今はヤトがその外に逃れたが、何が目的なのだろう。
いずれにしても、何か怪しげな事を仕掛けてくる可能性が高い。しばらくは身を伏せていようと思ったのだが。
その矢先、鳶が手紙を足にくくりつけて飛んできた。
手紙を一瞥して、舌打ち。
ヤトを名指しで呼び出している。手紙を書いたのは、しかも佐安だ。
近くの荒野を耕すとかで、国の許可を得たから、一度見に来て欲しいのだという。戦乱で荒れ果てた野を田畑に変えて、行き場を無くした民を救うのだとか。まあ、それはどうでもいい。
元々荒野だった場所を、どうしようと、ヤトには知ったことではない。
「夜叉明王様が来てくだされば、民も大いに勇気づけられましょう」
問題は、最後のこの文面だ。
何が勇気づけられるというのか。ヤトは善人を救い悪人を殺す明王だとかではなかったのか。
荒野を耕すのと、それと、何の関係があるのか。
だが、面倒くさい話だが。仏教徒共を敵に回すのも面倒くさい。重い腰を上げて、向かう事にする。
件の村は、すぐ近くにある。
夜のうちに、気配を消して移動。まだ、ヤトがいた山の周囲を、囲むようにして妙な行列が動いていたが。それは完全に無視した。
佐安には、あの行列のことを、聞くつもりはない。
面倒だし、何よりやぶ蛇になりかねないからだ。佐安が何かをもくろんでいた場合、戦略を変更させてしまう畏れにもつながる。
いや、まて。
あれは最初から、見せつけるための行動ではないのか。ヤトの耳目をあれに引きつける事で、他に何かをする。
たとえば、ヤトが山を移動した後、気付いていないと思い込ませる。
いや、考えすぎだろう。影の者達でさえ、ヤトが移動したことを捕捉出来はしないはずだ。カラスたちを追ったにしても、無理がある。自然にどれだけのカラスが存在していると思っているのか。
ヤトの配下をしているカラスだけを、探し出すのは不可能だろう。
だとすると、何が目的か。
いずれにしても、佐安は底がはかれない。奴が本当は何を目的にしているのか、未だによく分からないのだ。
仏教徒共が修行の先に目指すように、神、いや連中の言葉では仏か。仏になろうとしているのか。
或いは、他の何か目的があるのか。
考えているうちに、件の荒野に着く。今の時点では、周囲に危険は感じ取れない。見るからに貧しい格好をした者達が、一心不乱に鍬を振るっている。まずは土を耕し、水を引き、田畑にするというのだろう。
兵士達の姿も見える。
軍も、作業に協力している様子だ。佐安もいた。なにやら呪文を唱えながら、時々人間共に指示を出して廻っている。
荒野に出るのは気が進まない。
荒野は森が人間に食い尽くされた結果出来るものだと、ヤトは考えている。つまり人間という種族の排泄物に等しい。
人間が嫌いなヤトが、何故好きこのんで、そのようなものに近寄らなければならないのか。
田畑を耕すという行為には、別に興味が無い。
森を傷つけなければ、山を痛めなければ、それでいい。
しばらく気配を消してみていたが、妙な行動は特に見られない。兵士達も、平穏すぎてあくびをしているほどだ。
佐安が、指揮官らしい男に呼び止められる。
「時に御坊は、このようなことをして何が得たいのか」
「仏の道に民を導く事が最大の目的ではありますが、それと同時に、民の暮らしも安らかにする必要があるのです。 民の生活を安寧にするために、荒野を耕し、河を整備し、森の幸を管理し、そして最後には寺を作りたいものですね」
「テラ、とは?」
「仏の屋敷とでも言いましょうか。 我ら仏僧がよりどころとする場所です。 大陸に行けば、そこかしこにあると聞いています」
ぞっとしない話だ。
佐安のような奴がうようよいて、そいつらが巣のように集まっている場所が寺。そんなものには、絶対に近づきたくない。
夕方になると、作業は一旦中断。
佐安は自ら食物を貧民に配りはじめた。見たところ、この食糧が目当てで、働きに来ている者もいるようだ。
貧民の中には、寝泊まりをしている者もいる。
その多くは、佐安を慕っている様子が分かった。梟が鳴く。警戒しているのだ。人間が群れていて、怖いのだろう。
梟たちもそうだが、カラスたちも、一羽一羽全て名前を付けている。どのカラスも個性が違うように、梟も同じ。鳥は想像以上に知能が高い。場合によっては、猿よりも賢い場合もある。
梟は猛禽だが、しかしその反面繊細な心を持っていることが珍しくない。
人間に酷い目に遭わされた者は、やはりこういう場所を嫌がる。
手元に来るように招くと、梟が喜ぶ箇所を撫でてやる。そうしてしばらく緊張をほぐした後、偵察に戻るよう促した。
ヤトは嘆息すると、闇の中、木陰から身を出す。
兵士達が、不意に現れた絹服のヤトを見て、驚いて武器に手を掛けるのが分かった。その中には、露骨に殺意を見せる者もいる。
「夜刀の神……!」
「招かれてここに来たのだがな。 躾がなっていない犬は早死にするぞ」
「おやめなさい、貴男達。 夜叉明王様、よくぞおいでくださいました。 此方に」
佐安が出てきた。
最近、此奴の目が、いつも笑っていない事に気付いた。人間の顔など興味を無くして等しい。だから、筋肉の動きで気付いたのだ。
人間はむしろ筋肉や骨格を見た方が、見分けやすい。
此奴も、それに代わりはない。
最近は、顔などの細かい筋肉も見ることが出来るようになってきている。それだけ能力が向上したのだ。
それなのに。
此奴は、底が知れない。一体此奴の力は何だ。信仰か。しかし、それは弱者がすがるもののはずだ。
佐安に案内されて、壇に赴く。
尊厳もなく這いつくばっている弱者共に、佐安が振り返りながら言う。
「有り難くも、夜叉明王様がおいでくださったのです。 これより、この土地は豊かになる事でしょう。 皆の努力は報われます」
「おお……!」
「我々も、村を持てるのか!」
「夜叉明王様、皆からの捧げ物にございます。 血を吐くような努力をして、作り上げた作物です」
作物なんぞ、喰いたくも無い。
だが、佐安は、此方を見越したように言う。
「此処は、是非食べてくださいませ。 皆はそれを望んでおります。 夜叉明王様が食べていただけるのであれば、苦労は報われる事でしょう」
「……分かった」
自分ながら、冷え切った声だと思った。
壇上に積み上げられたものを掴むと、口に入れる。穀物を練り上げたものに、火を通したのだろう。
塊状になったそれは、ほんのりと甘い。
次に食べたのは、串に刺された何か。大きめの穀物を輪切りにして、火を通したものだろう。
丁度良い辛味があった。
掛けてあるたれに秘密があるのだろう。
農耕民の食物は好きにはなれない。これらの食い物も、何というか、軟弱になりそうでいやだ。
しばらく無心に食べていたが、多分佐安は顔色に気付いたのだろう。
敢えて貧民共に顔を上げさせないよう、なにやら説法をはじめた。ヤトは聞くに堪えないと思ったが、我慢する。
人間を全部敵に回すことは出来ない。
更に言えば、その起爆剤になり得るのは、間違いなく仏教だ。
とにかく今は、此奴らに対する抑え方を、我慢してでも学んでいくしかない。ある程度は傀儡扱いされるのも、やむを得ないだろう。
そうやって妥協している自分に気付いて、げんなりする。
いずれ此奴らに押し切られて、善神とやらにされてしまったら。農耕民に餌付けされ、その走狗になった連中と同じではないか。
文字通りの犬。
今すぐ、此奴らを全部殺して済ませることが出来るのであれば、どれほど楽か。
いつの間にか、全て食べ終えてしまった。
その辺りを見計らって、佐安が説法を終える。帰りたいと思ったが、ばかげた茶番はまだ続く様子だ。
なにやら、佐安が呪文を唱えはじめる。
経とやらだ。
間近で聞いていると、どうやら同じような言葉をつなげることによって、頭を揺らすような効果があることが分かってくる。
なるほど、これは考えて作られている。
たとえば、同じ意味の言葉を淡々と言っても、あまり効果はないだろう。しかしこれは、一種の音楽のような効果を持っている。
ずっと聞かせていると、思考力が落ちてくる。
そうして、言われるままに、話を聞いてしまう、というわけだ。
仏教とやらが、大陸で流行っている訳が。そして、このアキツで、爆発的に広まった訳が分かる気がした。
これは、あらゆる意味で。
愚民共に心地よい代物なのだ。弱者どもをやる気にさせ、奉仕させる。それを徹底的に考えて、作り上げられている。
洗練すれば、このアキツにある宗教の類も、同じように出来るのだろう。
しかし、ヤトはぞっとしない。
此奴らは本当は、この世の全てでも支配しようとしているのではないのか。そんな考えが、頭から消えてくれない。
経が終わる。
ヤトはつきあっていられないと思い、佐安に声を掛ける。
「私はこの辺りで引き上げる。 それでは、失礼するぞ」
なにやら感謝の意味を持つらしい呪文を、佐安が呟いたので。ぞっとするのを、押さえ込むのに苦労した。
森の中に入り込むと、服をはたく。
腹の中に入ったものをはき出そうとさえ思ったが、それはやめておいた。何度も、ため息が零れた。
体に、無数に絡みつく鎖。
その全てを引っ張っているのは、あの蛙のように平伏していた弱者共だ。
そして、少しずつわかりはじめてきた。
仏教は。
いや、おそらく人間が練り上げてきた力とは、その弱者をまとめて、大きな力にするものなのだろう。
ヤトは、本能的に気付いてしまっている。
その暴力的な力の前には、どれだけ鍛えても、及ぶことはないだろうと。だが、戦いを止めるわけにはいかない。
この和議も、人間に屈するためにはじめたものではない。
今日は、わずかながら収穫もあった。これならば、或いは。反撃の糸口が、掴めるかも知れない。
ヤトは翌日、早くから起き出した。基本睡眠時間は極小だから、夜明け前の少しだけ寝た、とでも言うべきかも知れない。
昨日分かったが、仏教は弱者を支配する効率の良い仕組みを、幾つも作っている。それはおそらく、仏教だけではない。人間の作り上げる組織の、多かれ少なかれの共通点だろう。
ヤトも、そう言う意味では、同じ事をやってきたのだ。
それならば、同じ事を、して行けば良い。ただし、仏教のやり方は、類を見ないほどに巧妙だ。
佐安が意図的に弱者を支配しに掛かっているかはわからない。ただ、ヤトが見たところ、支配されている側は、望んでそうしていると見て良いだろう。何故支配されることを喜ぶのか、良く分からない。だが、両者の利害は一致している。
ひょっとすると、家畜の理屈だろうか。
考える事も、生きることも。強い者に任せてしまう。
そうすることで、安寧が得られる。
ヤトには良く分からない。逆に言うと、良く分からないからこそ、周囲から拒絶され、今人間を敵と認識しているのかも知れない。
腕組みして、考え込んだ。
理屈は、分かってきた。
後は、どうやって、仏教のやり口を解析し、それを崩す方法を見つけ出すかだ。
ただしそれには、学習がいる。
佐安は理想的な見本だろうが、問題は奴の考えが読めないことだ。他の仏教僧を捕縛して、考える事を覗いておきたい。
人間の思考を直接覗ければ、それはそれで素晴らしいのだが。
残念ながらヤトには、そんな技能はない。
出来たとしても嫌だ。
人間のおぞましい頭の中なんぞ、頼まれても覗きたくない。連中の強みは学習したいが、それこそ糞の山に手を突っ込むようなものではないか。人間の思考に、ヤトは価値を見いだしていない。
仏僧でなければ、学者でも良い。
幸い、狂気を叩き込んでやれば、だいたいの人間は考えている事を垂れ流すようになるものだ。
山の中で、行き倒れになっている奴ならば、なおさら。
ヤトはカラスや梟を、彼方此方に放つ。
これは時間との勝負。適当なのが見つかれば良いのだが。機を逸すれば、単に行き倒れてしまうだろう。
いきなり成果が出るほど、話は甘くない。
それは、ヤトも覚悟している。
袖の中で、蝮たちが騒いでいるのが分かった。近距離では、蝮たちは、ヤトよりも臭いに敏感だ。
何か近づいてきている。ヤトに害意を為す者が。
気配を、極限まで断つ。そして念のため、木の上に逃れた。木登りはもはや、ヤトにとっては息をするように容易く出来る。
しばらく状況をうかがっていると、カラスたちが近くの枝にとまった。
そして、近づいてきている害意の正体に気付いた。
空に、大きな鷹が舞っている。
しかも数羽だ。
あれは確か、覚えがある。劉とか言う男の鷹。前回もあれで、カラスたちの動きを封じられた。
見たところ、七羽が現時点で飛んでいる。
和議がなった後、此処まで露骨にヤトを探りに来たのは初めてだ。あの男、まだヤトを狙っているのか。
個人的な恨みだとすれば、別にどうでもいい。
ただ、カラスたちを殺して恨みを晴らす、というのであれば許さない。無言で森の外を探る。
劉は、小高い丘の上にいた。
灌木が茂った場所で、奴は此方のいる森を見据えている。どうやって、此処まで正確に、ヤトの居場所を割り出した。
仏教徒どもの動きと言い、どうも嫌な予感が加速していくのを感じる。
ひょっとしてヤマトの連中は、和議を破るつもりか。
それならばそれでいい。此方としても、そうするつもりなら、手段を選ばない。しかし、ヤトから和議を破る事は出来ない。敵に口実を与えてしまうからだ。
アマツミカボシが、さっさと状況から逃れてしまったのが、こうなると痛い。
奴は既に洞窟の中で高みの見物を決め込んでいるが、ヤトには同じ手が使えないのが、これまた痛いところだ。
しばらく様子を見ていると、劉の奴は、近くにかなりの数の鷹を侍らせている。数は十を超えているだろう。
前回でさえ、十には届いていなかった。
これは、本気でヤトを殺しに来ていると見て良い。カラスを押さえ込むための実験をしているというわけだ。
しかし、そうなると、軍が出てくるのだろうか。
劉の奴を殺すべきか。
いや、安易に動くのは危険だ。
もう少し、様子を見た方が良いだろう。ただでさえ、行き倒れを探すという目的が、頓挫してしまったのだ。あれでは、カラスたちを飛び回らせることも出来ない。
劉に歩み寄る人影。
どうやら、近くの駐屯所の兵士の様子だ。数人が武装している。一番偉いらしい男が、声を掛けた。
「劉様、此処におられましたか」
「ああ、どうしましたか」
「主がお呼びです。 今日はもう切り上げて、来て欲しいと」
「分かりました。 鷹たちは、これからが調子が出るところなのですがねえ」
劉がなにやら笛を取り出し、鳴らす。
思わずヤトは耳を塞いでいた。犬笛のようだが。かなり、強烈に耳に来た。じんじんと耳の奥で音がしている。
劉も兵士達も平気なのは、どうしてだろう。
そうか、これは普通の人間には聞こえにくい音だ。ヤトの能力が向上したため、強烈な刺激になってしまっているが。しかし、普通の人間にとっては、全く無害な音、という事なのだろう。
これは厄介だ。
以前も、銅鑼や鉦はかなり鬱陶しいと思っていた。
あの強烈な音、繊細な音を聞き分けられるようになっているヤトにとっては、暴力的だったからだ。
しかし、今度の奴は、また違う。
高すぎるヤトの能力を、逆手に取った攻撃手段とでも言う所だろうか。
劉の周囲に、鷹が集まっていく。
全部で十五羽。
なるほど、あれだけの数を鍛え上げたのか。それならば、鷹どもを利用して、カラスたちの分布を調べられる。
そしてヤトがいそうな場所を、割り出せるという事か。
面倒な事になりつつある。
近くの駐屯所を見に行く必要があるだろう。もしもヤマト側が和議を破ろうというのなら、早めに手を打たなければならない。
駐屯所に出向く。
驚いたことに、昼間から酒が出ていた。
これもヤトにとっては、苦手になりつつある。特に、人間共が作った酒は、臭いが強すぎるのだ。
遠くからでも、強烈に響く。
それを、大量に消費しているのである。
精神の負担を緩和し、箍を外して話し合うためだというのは分かるが、ヤトにとっては単なる迷惑行為だ。
昔は、これほど嫌ではなかった。
配下の者達と酒盛りをした事もある。ヤトは殆ど酔わないので、部下達が気味悪がっていたが。これは酒を分解する能力が、人間よりもずっと強いからだ。たとえば、ザルだという話の千里でも、ヤトが平然としている横で、酔いつぶれていたくらいだ。
だが、近年は、聴覚だけではなく、嗅覚も発達しすぎた感がある。遠くで酒を飲んでいても、届くくらいなのだ。
駐屯所のような多くの人間が群れている場所で、大量の酒が出回ったりすれば、それはヤトにとってはあまりにも面倒くさい事になる。たとえば、一人がどれだけ酒を飲んでも、多寡が知れている。
だがこの人数になるとどうか。思わず口を押さえたヤトは、近づきたくないと思ったが。
しかし、感情を優先していては、勝てるものにも勝てない。
泣く泣く、駐屯所に、気配を消して忍び込んだ。
何の祝いだろう。
見ると、将軍達は既にべろんべろんに酔っているでは無いか。余程大きな祝いがあった、とみていい。
部下達からは、まだ報告を受けていない。
何があったというのか。
それは、すぐに分かった。
「しかしめでたい!」
「オオキミが天皇陛下になり、この国が日本となった! 今まではアキツともヤマトとも呼ばれていた我が朝廷が、日本国となる事で、諸外国とようやく並ぶことが出来た事になる!」
「今日は祝いだ! 呑め!」
「そんなに飲めませぬ! だが飲む! 今日は話が別であります故! 今日の私の胃袋は、鯨にも勝りますぞ!」
とんちきな事をほざきながら、酒を大量につぎあっている男達。
なるほど、そう言うことか。
少し前から、噂には聞いていた。近々この国は、ヤマトではなく、日本国になると。勿論、それだけではただの虚名に過ぎない。
これからこの国を、諸国に並ぶものとするという、意思表示だ。
実際問題で考えれば、日本国になって、急に何かが変わる訳でも無いだろう。しかし、アキツ全域が統一されたことも示すし、何より所属している者達の意気も上がる。
そう、鼻の穴を膨らませて話す男を、少し前にヤトは見たのだ。
正直、どうでもいい。
調子に乗って伸張した所を叩き潰してやりたいところだが、そうもいかない。今のヤトは、自身の力に絶対的な自信を持ってはいる反面、人間の力に疑念を生じ始めている。もっと、戦いはじめた初期は、簡単だったのだ。
恐怖を操作する事で、何でも上手く行った。
しかし、此奴らは何だ。
佐安だけではない。
人間とは、これほど得体が知れない怪物だったのか。仏教徒共の様子を見ていると、いつも戦慄を覚える。
いつかヤトは。
いや、それがいつになっても、おかしくない。
ほぼ完全に気配を消したまま、駐屯所の中を歩く。今のところ、ヤトに疑問を持つ者はいない。
だがそれは、すぐに過去のものとなった。
奥の間を覗いた瞬間。耳に苛烈な痛みが走ったのである。
笛だ。
「やはりこの笛の音で、貴様の動きを一瞬でも止める事が出来るようだな。 しかも、対策することは出来まい」
周りが、怪訝そうにヤトを見る。
そして、一番近くにいた男は、ぎょっとした様子で後ずさった。今まで存在しなかったヤトが、いきなり現れたのだから、当然か。
顔を上げて、その男を見る。
坂の上。
以前、和議の席であった時から、数年が経過したが。まるで別人のように、体を絞り上げていた。
「しかし、見張りに付けていた軍犬は、お前に気付けなかったか」
「何だ、今のは」
「犬笛と言ってな、渡来人から伝わったものだ。 犬にしか聞こえぬ音を鳴らす。 お前は、あまりにも人間を超越しすぎた。 この笛は、普通の人間には、何の音にも聞こえないが、お前には別だ」
お前を殺すためだけに、この笛を造り出した。
そう、坂の上は言い放つ。
鼻を鳴らしたのは、ヤトの方だ。だからなんだと、ねめつける。正直な話、坂の上はかなり技量を上げたようだが、それでもヤトには叶わない。
なによりヤトが何もしていない以上、人間側には手を出す事が出来ない。この中には、仏教徒もいるのだ。
ヤトに人間側から手を出したと知れば、それこそ此方の思うつぼだ。
「坂の上殿」
「分かっている。 今日は、顔を見に来ただけだ」
「私に喧嘩を売るためだけに、ここに来たというか」
「そうだ。 お前のような狂神に、この先の日本で生きる場所などない。 それを思い知らせてやろうと思うてな」
坂の上の袖を、誰かが引っ張る。
まだ若い女だ。
年齢がだいぶ離れている所から言って、娘か。或いは、年が離れた妹かも知れない。似ているのだ。
というよりも、骨格や筋肉などから、だいたいヤトには分かる。後は体臭からも。恐らくは、肉親とみて良いだろう。
「兄様。 其処までに」
「ほら、妹もそう言っているぞ。 とっとと去ね」
「去ぬのは貴様の方だ。 まだ、状況が分かっていないようだな」
次の瞬間だった。
周囲の全方位に、気配が出現する。床下までに。
ヤトも、此処までに接近を許したのは、久しぶりだ。全方位から、同時に来られたからである。
これほどの使い手が。
このような数で集まるとは。
勿論、一匹単位で見れば、大した相手では無い。だが、こう数が集まると、厄介だった。既にヤトは、戦闘態勢に入っている。
だが、赤ら顔の男が、酒臭い息を吐きながら、言う。
「どちらもそれまでに。 此処はめでたい席ぞ」
「そちらにおわすは、確か夜叉明王様。 貴殿の武勇について、聞かせいただきたい」
半ば無理矢理、間に大勢の人間が割って入ってきた。
ヤトは触ろうとする手をはねのけたが、それだけだ。下手なことをすれば、和議が台無しになる。
いま、それはまずいのだ。
上座に据えられたヤトの所に、散々酒と肴が持ってこられた。
どれもこれも、見たことが無いものばかり。出来れば口を付けたくはないのだが。
見ると、坂の上達も、此方をにらむようにして、酒を飲み始めている。
普通だったら、酒宴どころでは無いだろう。
だが、今回は余程のめでたい席ということか。騒ぎはすぐに戻り、陽気な宴が再開されたのだ。
ヤトの元に、兵士らしいのが、次々来る。
武芸のコツを教えて欲しいとか、どのように育ったのかだとか。酒をつがれる。適当に応えていると、若い兵士が来た。
「どのようにすれば、貴方ほどの力が得られるのですか、夜叉明王様」
「人間を止めてしまえば良い」
「生憎、その方法も分かりません」
「私にも正直良く分からぬ。 ただ、普通の生活をして、普通に生きている分には、絶対に無理であろうな」
恐らくは、思考的な意味での枷が外れる事。死線を、散々にくぐること。そして、大量の殺生に手を染めること。
この全てが、人間を止めることの最低条件だろう。
これに加えて、何か条件があると思うのだが。ヤトにも分からない。知っていても教えないが。
ただし、人間を止めても、万能にはならない。
人間を止めたからと言って、大軍を一人で圧倒できるわけでもない。
「むしろ不自由なことが増えるのではないのか」
「なるほど、参考になりました」
兵士が下がる。
此奴。話しているときは笑顔を浮かべていたが、下がるときにわずかに殺気が漏れた。恐らくは、坂の上の部下か。
まあどうでもいい。
今教えてやった条件を満たしたところで、人間を超越できるとは思わない。それに、超越したところで、対処の仕様はいくらでもある。面倒だし、しばらく酒宴に腰を据えることとした。
程なく、駐屯所がわっと沸く。
どうやら、半裸の女達が舞い始めたらしい。
そういう事をして、生活している女達がいる事は、ヤトも知っている。別にどうでも良いので、ちびちびと酒を飲んでいると、更に騒ぎが酷くなってきた。
既に周囲には、目を回すようにして潰れているものも少なくない。
見るに堪えない。
やはり、こんな奴らは滅ぼさなければ。そう思い、腰を上げかけると、さっと周囲に人間共が来た。
「せっかくの席に来てくださったのです。 もう少し、お願いいたします」
「貴方の武勇を敵ながら尊敬していたのです。 是非御一献お受けください」
嫌だと言おうと思ったが。
しかし、次から次へと酒を持ってくる。
ヤトは身動きが、本当に取れなくなった。
ようやく解放されたのは、明け方近く。
酔いは感じていない。
しかし、体が少し重かった。あまりにも大量に飲み食いしたからである。袖の中で、蝮たちが不機嫌そうに体をすりつけてくる。ヤトの体から出る酒の臭いを、嫌がっているのだろう。
すまないと心の中でわびながら、森の中へ。
まさか、あのような方法で、気配を露わにさせるとは。考えてもいない搦め手だった。戦いの際に、あれを使われたら危ない。
しかも、坂の上が言っていたように。対策の方法が無いのだ。
耳を塞ぐわけにはいかないし、更に感覚を鋭敏にして行けば、あの笛の音でどんな打撃を受けるか分かったものではない。
舌打ちしたヤトは、木陰に座り込む。
静かな山の風だけが、ヤトを優しく包んでくれた。自然は、格別に優しくはしてくれなかったが、対等に接してくれた。
それだけで、ヤトには充分だった。
昔もそうだったし、こういうときには今でもそうだと思う。
あれだけのらんちき騒ぎをしていたのに、既に駐屯所は死んでいるかのように静まりかえっていた。
ヤトは、本当に死んでしまえば良いのにと思ったのだが。
そのような願い、叶ったためしがない。
しばらく待ってから、移動する。
この山にいるのは、どうも据わりが悪い。先ほどの宴に、坂の上が現れたのは。しかも、あれだけの数の部下が一緒にいたのは、偶然とはとても思えない。恐らくは、ヤトが人間に対する対抗手段を測っていると知った上で、しかもこの山にいることを察知していて、ああ動いたに違いないのだ。
もはや、ヤトはどれだけ強くなっても、追いつかないかも知れない。
敵の対抗手段開発が早すぎるのだ。
あの笛はどうやって対応して良いか分からない。それに、ヤトの居場所を割り出している方法も、見当がつかない。
少なくとも、もたついていると、捕捉される。
和議がなったとは言え、ヤマト側も、ヤトを殺したくて仕方が無いはずだ。隙を見せれば、危ない。
いっそ、東北を出るかとも思う。
たとえば諏訪の近辺であれば、非常に山深く、手足として使える村も幾つか確保している。
あの辺りであれば、簡単に敵に遅れを取ることは無い。
吉野まで戻れば、更に勝率は上がる。年に何度か足を運んで状態を確認しているが、既にあの辺りはヤトの要塞だ。山の中は完璧に熟知していて、敵を翻弄することは難しくない。
逃げるようにして。
いや、実際に逃げているのだろう。敗走だ。
二つの山を越えた。
夕方まで掛けて、ゆっくり移動したのは。気配を厳重に消したからだ。
この技術も、既に極限まで磨いた自信はあるが。それでも、昨日のように、ちょっとした切っ掛けであっさり破られてしまう。磨き抜いたが故に、繊細な部分も浮き彫りになってしまったとみて良い。
適当な横穴を見つけたが。
思わず眉をひそめた。
中に、人間の臭いがあるのだ。配下の者達ではない。連中には、ヤトが横穴を好むことは伝えてある。
しばらく探ってみるが、毒の類は散布されていない。
埋まるような仕掛けも為されていない。
だが、これは動物が、糞尿を使って縄張りを主張するのと同じ。つまり、奴らは。ヤマトの連中は、こう言っている。
此処で休もうとしていることは、分かっている。
休めると思うな。
いつでも、見ているぞと。
おのれ。思わず呟いて、歯がみしてしまう。最後の聖域まで、侵そうというのか。不快感に胃をわしづかみにされたまま、ヤトは移動。別の斜面に横穴を掘った。横穴を掘るのが下手なヤトの事だ。きっと穴は一晩くらいで、跡形もなく崩れてしまうことだろう。それでも、今日だけ休めれば、それでいい。
既に、昨日取り込んだ酒は、分解し尽くした。
途中、適当に取った木の実を頬張る。
兎を囓ろうかと思ったが、近辺の山の兎は、余っていない。食べるのであれば、少し足を遠くへ伸ばさないとならない。
幸い袖の中の蝮たちは、腹を減らしていない。
何より昨日、少し食べ過ぎた。大きめの肉の塊は、蝮たちにも与えた。嫌がっていたが、それでもヤトが食べるようにと出したものは、食べてくれた。
本当に申し訳ないが、食べ物を無駄にすることは、もっと許せない。
無言のまま静かにしているうちに、ヤトはいつの間にか、眠ってしまっていた。こんな風に、眠りを制御できなくなったのは、本当に久方ぶりだ。
ひょっとすると、それだけ気疲れが、溜まっていたのかも知れない。
2、追い詰める鎖
夜刀に対する宣戦布告の後、坂の上は北のタケルに状況を告げる使者を出すと同時に、動き始めていた。
奴は相当に追い詰められている。
叩き潰すならば、今をおいてない。決戦場に考えている場所も、この近くだ。東北は、夜刀にとってまだ不慣れな土地。戦うには適している。地元の民とも話をして、地の利も既に得ていた。
劉と話し合い、既に夜刀の移動については、掴んでいる。
奴の気配はもはや達人でも追い切れないほどに薄くなっている。だが、追う手段など、いくらでもあるのだ。
特に劉が使っている鷹たちによる追跡により、夜刀が眷属としているカラスや梟の移動は、完璧に把握している。
その結果、夜刀の居場所は、把握できる。
今までは奴を守っていた動物共が、今度は奴にとっての足かせになっている。しかも、夜刀はそれを分かったところで、どうにも出来ないだろう。
森を守ると言うことが本能化している以上、配下の動物共を切り捨てることなど、出来はしないのだ。
夜刀の居場所を捕捉。
自慢げに言う劉に、坂の上は釘を刺すことを忘れない。
「鷹たちに、深追いはさせるなよ。 奴の弓の腕は、以前目撃しているだろう」
「分かっています。 ただし、今回は、鷹たちを相応の数準備してきています。 ある程度の被害は、覚悟の上です」
「そうか、すまないな」
「いえ。 何度も煮え湯を飲ませてくれたあの化生には、復讐しなければ気が済みませぬが故に。 私の可愛い子供達を殺してくれた礼は、死以外ではあがなえぬのだと、思い知らせるだけにございます」
劉はそう言って、暗い笑みを浮かべる。
この男は昔から、鷹だけに人生を費やしてきたという。大陸から渡ってくる前から、そうだったらしい。
向こうでも筋金入りの変人として知られていたそうだ。
今でも、鷹のこと以外には興味も無い。妻どころか、愛人さえ持つつもりはないそうだ。
徹底している。
だが、それくらいの方が良いと、坂の上は思っていた。
皆で夜刀を追って移動する。
既に先発隊が、予想移動経路に待ち伏せしている。奴の心を痛めつける策も、着実に実行中だ。
奴が横穴を好むことは分かっている。其処にわざと入ったり、蓄えられている肉などを荒らす。
和議の項目に、夜刀の穴をどうこうする、というものはなかった。
それを逆手に取った嫌がらせだ。
勿論嫌がらせの域を超えていない行動だと言うことは、坂の上も分かっている。だが、昨日の宴席で夜刀と接してみて、良く分かった。奴は嫌でたまらない人間の食い物を食べて、酒の席に出てまで、分析を進めようとしている。
それはつまり、それだけ追い詰められているのだ。
仏教徒との関係は、相当に夜刀に負担を掛けている。夜刀がこの国と単独で和議など結ぶ切っ掛けになった手妻の種だが。しかしその種は、巨大な毒草を咲かせ、奴をむしばんでいる。
ざまあみろと、坂の上は思う。
北のタケルは夜刀が気の毒な存在だと言っていたが。坂の上は、そうは思わない。地獄の底まででも追い詰め、必ず殺してやる。そう決めている。だから、神経に負担を掛けるために、嫌がらせを続ける事には、大いに意味を感じている。
向こうが堪忍袋の緒を先に斬れば、此方のもの。
先発隊が戻ってきた。
「夜刀はかなり早く移動しています。 ただし、東北からでるつもりは、今の時点では無い様子です。 今、何名かが追っています」
「まだ仕掛けるなよ」
「分かっています」
すぐに、また先発隊が行く。
気持ちが逸ってしまってはまずい。あくまで、夜刀の動きを予想しながら、行動しないと、敵に口実を与えてしまう。
決戦の日まで、被害を出すわけにはいかないのだ。
その日は、坂の上は野宿をした。
駐屯所に行っていては、夜刀を取り逃すと判断したからである。他の部下達と共に、街道の脇で野営する。準備はしてきてあるが、それでも流石に寒さが体にこたえる。昼間でも少し底冷えしたが、夜になるとひとしおだ。鍛えている坂の上は良いが、部下達はどうだろう。まだ修練が足りていない部下は、案の定かなり参っている。
わかっていたが、東北の冬は、かなり痛烈に寒さが来る。
あまりもたついていると、夜刀を取り逃がす。
たとえば、雪山に籠城された場合、人間では奴に迫れなくなってしまう。
一応、冬が本格的に到来する前には、奴を追い詰めることが可能だと、試算は出ているが。
不安そうにしている部下達を見ていると、気になる。
奴の前に出たとき、全力を出せるのだろうかと。
数日間、北上した。
途中駐屯所で、食糧を補給。この辺りは、旧蝦夷の治安確保のため、軍を長征させることもある。
故に、食糧も、耐寒具も、豊富に取りそろえられていた。
北のタケルも、別の路から夜刀を追っている。夜刀も、そろそろ坂の上に、何かしらの反撃を仕掛けてきてもおかしくはないだろう。
しかし、その手の内も、読めている。
北のタケルが言っていて、坂の上も納得していることなのだが。奴は自由な条件下であったなら、最強最大の力を発揮できるのだろう。事実常陸での戦いでは、碌な装備もないツチグモの戦士達を率いて、タケルの率いる精鋭を散々苦しめた。
吉野の戦いでは、準備をした末での攻撃を撃退。
その時も、あらゆる手管を使い、此方の裏を掻き、鬼神が如き暴れぶりを見せたという。
東北での戦いでも、当初はそれに近かった。
だが奴は、最大の失敗をした。
既に夜刀のあり方は、仏教に取り込まれてしまっていると言っても過言ではない。打つ事が出来る手は、その枠内に収まってしまう。
先発隊が戻ってきた。
けが人が出ている。
手当をしながら、状況を確認。どうやら野犬に襲われた様子だ。
「夜刀にやられた……わけではなさそうだな」
「申し訳ありません。 不意に、十頭を超える群れに襲われて」
「……」
このけが人は、山歩きになれた戦士だ。山間の村の出身で、軍に徴発された兄を夜刀に惨殺され、見るも無惨な屍に変えられた。
母はそれを見て卒倒、そのまま命を落とし。
復讐のため、男はこの部隊に加わったのだ。
山間の村で生まれ育ったから、森にも山にも詳しい。普通であれば、野犬に襲われるようなへまはするはずがないのだが。
股を噛まれていて、しばらくは走れないだろう。優秀な戦士である。此処で捨てていくのは惜しい。
「まだ夜刀と戦うまでには時間がある。 しばらくは静養しろ。 肉を喰らって、力をつけろ」
「お言葉に甘えさせていただきます」
「体が回復したら、すぐに復帰しろ。 お前の力は必要だ」
駐屯地の兵士達に、男を引き取ってもらう。
しばらくは、この近所にある温泉にでも浸かるほかないだろう。
もう一人の男は軽傷だ。
そして、興味深い証言をしてくれた。
「野犬たちは、本気ではなかったようです。 もしも最初から本気で襲ってきていたら、逆に対処が楽だったでしょう」
「それは俺も感じていた。 殺気を察知できれば、逆に不意を突けたかもしれん」
「其処なのです。 或いは野犬たちは何かに襲われて、我々に遭遇し、危険を感じて攻撃してきたのやも」
「考えられる話だ」
既に、野犬の群れは殲滅済みだという。
死体は処理してしまったとかで、もう調べることは出来ないが。しかしそうだとすれば、犯人は分かりきっている。
「なるほど、向こうも搦め手を使って来たな」
「同じような手を使ってくることもあり得ます。 今回は野犬でしたが、熊や大きな猪を使われると、死者が出る怖れも」
「対処を考えておこう」
けが人を下がらせると、北のタケルに付けられた娘を呼ぶ。
自分を兄と呼んで慕う娘だが、血縁は遠い。いとこの姪に当たる。かなり前に、タケルが世話をした事で、縁が出来たそうだ。
「ハヤタカ、何か良い案はないか」
「敵に察知される前に動くしかないと思います。 それ自体は難しくないでしょう。 ただ……」
「何か懸念か」
ハヤタカは目が覚めるような美少女で、身内の中では将来一番の器量よしになるとさえ言われている。
小首をかしげていると、特に可愛いのだが。
本人は、男所帯で暮らしてきたせいか、あまりそれに気付いていないらしい。いずれ良い婿を探してやりたいものである。
「夜刀様という方とこの間お会いして、思ったのです。 あのお方は、ただの人なのでは無いのかと」
「何を言っている」
「いえ、兄様の思いを否定するつもりはありません。 ただ、神様というのは、もっと超越的な存在を想像していましたから。 事実あの方は、我々と同じ土俵で勝負をしてくださっています」
誰に対しても、敬意を込めたしゃべり方をするハヤタカ。
此奴は、どうしてこんな、心がすさんだ復讐者の群れに飛び込んできたのだろう。確かに家が家だから、英才教育は受けている。軍についての知識も豊富だし、知恵袋としての活躍にも期待出来る。
「もっと簡単に考えることは出来ないのでしょうか」
「意味が良く分からん。 分かり易く言え」
「そう、ですね。 あの方の単純な力が、人間離れしていることは見ていて良く分かりました。 この国最強の精鋭と戦い、多くの被害を出させただけの事はあります。 しかし、心はどうでしょう。 人間に対する興味があるようには思えませんでしたし、誰か友達が欲しいようには思えませんでした。 しかし、それには人間らしい理由があって、ああいう心の持ち主になったのでは」
それは。
確か、北のタケルが似たような事を言っていた。
ハヤタカが部隊に合流したのは、その後だ。
ただし、ハヤタカはタケルのように、夜刀に同情していなかった。同性だからだろうか。よりえぐいことを言い出す。
「もしも詳しいことが分かれば、ある程度動きの先読みがしやすくなります。 お兄様、あの方を挑発して、もっといろいろな言葉を引き出して貰えませんか? 今は嫌がらせの応酬が行われている状態で、命の危険はないでしょう。 兄様が呼びかければ、襤褸を出すのではありませんか?」
「大胆なことを言う。 だが、やってみる価値はあるかも知れん」
ただし、危険だ。
たとえば、その場に夜刀が殺し尽くせる人数しかおらず、なおかつ殺した方が良いと判断した場合。
奴は坂の上を殺しに。更に言えば、ハヤタカを消しに来る可能性が高い。
今の時点では、和議というものが奴を縛っているが、その鎖の隙間から手を伸ばせる状態になった時。
狂鬼としての本性を、奴は見せるだろう。
勿論、此方から、和議の条件を破るわけにはいかない。
いずれ殺すと宣言したのは、それが最低限の条件に抵触しない内容だったからだ。ただし、夜刀は今、追い詰められている。それを考慮しないと、突発的な攻撃に遭う可能性もあった。
「お前は余計な事を喋るな」
「分かりました。 側で控えて見ています」
「それより、夜刀をどうやって呼びつけるかだが」
「簡単です。 大まかな居場所は分かっています。 それならば、近くの森に、大勢で踏みいるだけで大丈夫でしょう」
まだ幼さを残した顔に、艶然と笑みを浮かべるハヤタカ。
此奴を敵に回したくないなと、坂の上は思った。
部下達も納得している。
それならば、早めに作業を済ませた方が良いだろう。先発隊も、翌日呼び戻す。そして、全員で、森の中に分け入る。
森を傷つければ、夜刀に攻撃の口実を与える。
実際、影の者は、既に何名かが殺されているという。勿論和議の後の話だ。夜刀を怒らせるような事を、森の中でやったのだろう。
円陣を組んだまま、森の中を行く。
ハヤタカをすぐ側に置いているのは、危険を避けるためだが。
しかし。
奴の力は、想像を超えていた。
「おい。 何をしている」
いきなり、耳元に飛び込んでくる声。
全員が、飛び退き剣を抜くと。円陣のど真ん中に、不機嫌そうな夜刀がいた。気配を消して、近づいてきていたのだろう。
それにしても、機嫌が悪いだけで、なんと威圧感が違う事か。空気が重くなったと思えるほどだ。
下手をすると、いきなり戦いになる事も覚悟してきた戦士達が、皆蒼白になっている。巨大なうわばみの怒りを買っているのだと、言われなくても理解できる状況だ。
「戦うつもりなら、和議は破棄か? それはそれで構わんが?」
「いいや、そのつもりはない」
剣を鞘に収めてみせると、夜刀は眉をひそめる。ハヤタカが、側で耳打ちしてきた。
あれは、かなり苛立っています。
攻撃を受けない程度に、話をしてみてください。
夜刀はその様子を、しらけた目で見ている。或いは、全て聞き取られているのか。可能性はある。奴の怪物じみた能力から考えれば、不思議では無い。それに今の言葉、わかりきったことを、わざと言っている。
ハヤタカは策士だ。
夜刀は近くの木を蹴ると、軽々と枝の上にまで身を運んだ。
周囲には、夜刀だけではない。
無数のカラスの気配も充満している。
その全てが、敵意に満ちた視線を此方に向けていた。これは、ひょっとして。この森全てが、夜刀も同然という事か。
「戦わないというのなら、何用だ。 他者の領域に土足で踏み込むのは感心しないが……そうかそうか、お前達人間の理屈では、人間以外のものは好きに蹂躙して良いのだったな」
「お前も人間だろう」
「私が?」
夜刀が鼻で笑うのを見て、ずっと坂の上の袖を掴んでいたハヤタカが、目を細める。
もっと話すようにと、促しているのが分かった。
「神だというのなら、もっと神々しい姿にでもなれないのか、この化け蟒蛇」
「生憎、元が人間なのでな。 時間を掛ければなれるだろうが、今はそんな事をしている余裕が無い」
「いや、違うな。 お前は自分を変えることを、怖れているだけだ」
「何を言っているのか理解できないな。 私は物事を学習する度に、柔軟に思考を切り替えてきたが。 お前達こそ、自身の感情に基づいて動くだけの、肉で出来た木偶ではないか」
殺気立つ周囲の部下達。
坂の上が喋っているから、何も言えない。だが、好き勝手な事を喋られて、口惜しいのだろう。
中には、一秒でも早く、あの化け物を黙らせたい者もいるはずだ。
だが、今は駄目だ。
準備が整っていない。
「夜刀様。 お会いするのは二度目ですね。 私はハヤタカと申します」
「それがどうかしたか」
しばらく続いた沈黙を大胆に破ったのは、ハヤタカだった。
どうしてだろうか。
坂の上は、妙な寒気を感じた。ハヤタカの声に、いつもよりずいぶんと寒々しいものを感じたからか。
「貴方が、森をそうまでして守るのは何故ですか? 森を守る事によって、死ぬような目に何度も遭ってきたはずです。 普通、動物であったら、その時点でもう守る事を放棄して、逃げる事に専念するのではありませんか?」
「それは私が森の守護者だからだ。 守護者である以上、責任も背負っている。 生物を超えることにより、神になった今では、なおさらな」
「なるほど、良く分かりました」
「……」
夜刀の目が、一段と冷ややかさを増す。
ハヤタカも、それに冷然と応じていた。これは、武器を使った争い事よりも、恐ろしいかも知れない。
袖を引かれた。
戻ろうと、ハヤタカが告げている。
言われるまま、全員で森を出る。悔しそうにしている部下達もいたが。準備が整っていない以上、戦えない。
ならば、これは当然のこと。
夜刀も追っ手は来なかった。少なくとも、追ってくる気配はなかった。
駐屯地にまで戻ると、ハヤタカはおもむろに、改良犬笛を吹く。そうすることで、夜刀が気配を消して追ってきていても、対応できるというのだろう。
笛を吹き終わると、ハヤタカは妙なことを言った。
「神は不自由なものですね」
「お前、彼奴が神ではないと言っていたでは無いか」
「それは精神面の話です。 あの方は、摂理を外れてしまった分、法則に縛られています」
ハヤタカが言うには。先ほどの話で、結論できたという。
夜刀の言葉には、まるで迷いがなかった。というよりも、そう答えることが決まっているという風情さえあったという。
「たとえば、あの方が人間らしい要素を精神以外で残していたのなら、応える必要はないと言って、私の質問をはねつけていた可能性もありました。 いえ、もしも逆の立場でしたら、私はそうしていました。 おそらくあの方は、私が探りをいれるために、声を掛けたと気付いていたからです」
「ほう……」
「あの方、思ったよりもずっと頭が良いですよ。 多分私やツクヨミ様よりも。 常陸や吉野で、北のタケル将軍が手を焼いたというのも、当然だと思います。 大陸の伝承に残る名将達に、勝るとも劣らない力がある筈ですから。 ただし、神になった事で、様々な枷が掛かってしまったようですね。 これならきっと勝てます。 弱点も、見えてきました」
仏教徒と組んだことが、体に巻き付く鎖を爆発的に増やす最大の要因になったのだろうと、ハヤタカは言った。
駐屯地の中で、部下達を解散させる。
舎の中に、坂の上は入る事にした。ハヤタカに、もう少し話を聞いておきたい。
「他に、何か気付いたことはあるか」
「あの方が森を守っているのは、消去法からですね。 ツクヨミ様の分析を聞きましたが、間違いないと私も思います。 人はあの方に、一切情を向けなかった。 だから、対等に接してくれる森に、あの方は心を開いたのでしょう。 そして動物は基本的に、極めて利己的な存在です。 自分が生きるのに都合が良いから、あの方に従っている」
「辛辣だな」
「あの方は、間違って神になってしまった、哀れな子供にすぎません。 あの方の理屈を理解しますが、それはただあの方を打ち倒すためだけの行動。 一つ気になることがあるとしたら、本当にあの方を殺せるか、ですが」
ハヤタカは、少し言葉を切った。
茶が運ばれてきたので、口にする。
しばらく話を休んだのは、どうしてだろう。ハヤタカと話していて、気が進まないからだろうか。
武人達と話しているのは気が楽だが。
此奴はどうも異質な生物のように思えてくるところが、時々あるのだ。
坂の上も女を知らないわけではないのだが。此奴はいろいろな意味で、別格なのかも知れない。
「勝てると言っていたでは無いか。 殺せないとは、どういうことか」
「様々な角度から検証しましたが、おそらくあの方は本当に神となっています。 神は調伏する事が出来ても、恐らくは滅ぼせないとみて良いでしょう。 首を刎ねた後、死体を全て焼き尽くす、位のことをすれば、何とかなるかもしれませんが」
「作戦に抜かりはない。 恐らくはそれくらいのことは出来るだろうが」
「気をつけてください、兄様。 既に人間では無い肉体を持っている以上、あの方は首を刎ねた程度では死なないかも知れません。 それだけは、きちんと頭の片隅に、入れていてください」
礼をすると、ハヤタカは舎を出ていった。
彼奴の方が、むしろ夜刀より恐ろしいのではないか。
一瞬だけ、坂の上は。そんな事を考えてしまった。
いずれにしても、ハヤタカが夜刀を殺すための切り札となる事は確実だ。これからも、意見は聞いていかなければならない。
ただ。気になったこともある。
ハヤタカは、何者だ。本当に、聞いたとおりの経歴の持ち主なのか。それにしては、どうもおかしな点が散見される。
北のタケルが連れて来た以上、信頼出来る。
それに、ハヤタカという遠縁の娘がいたことも事実だ。
幼い頃に会ったきりだったから、今のハヤタカと同一人物なのかは、どうも判然としないが。
一体何だろう、この違和感は。
雑念を追い払う。
そして、訓練所を借りて、剣を振るった。
部下達も同じように集まってきた。今日、感じた力の差は、あまりにも大きい。決戦の日までに、少しでも埋める努力が必要だった。
3、千切れる紐
一度吉野まで戻ったヤトは、幹部達を集めて、近況を聞くことにした。アマツミカボシの配下を加えたことで、既に四千を超えている配下である。はじめて見る幹部も数名いた。以前のように、配下を全て覚えている、と言うわけにも行かなくなってきている。というのも、ヤトに接触する機会がない配下も、増えてきているからだ。
山の中で、たき火を囲む。
既に人数的にたき火を一重には囲めない。二重三重にたき火を囲み、話すときにヤトの前に出てくる形式となっていた。
佐安も来ていた。
面倒だが、此奴にも話を聞いておきたいことが、幾つかある。正直な話、姿を見るのは嫌で仕方が無いのだが。そのような事を言っていたら、敵に勝つことなどできない。ただでさえ、きな臭い状況が続いているのだ。
「なるほど、影の者どもは、接触に重きを置いてきているか」
「殆どもめ事に発展することはありません。 時々、たき火を囲んで、共に談笑する事さえあります」
「分かった。 次」
部下の話を、一人ずつ聞いていく。
今の時点で、ヤマトがヤトを殺そうとしている雰囲気は無い。そうなると、坂の上の独走か。
いや、そうとは思えない。
笑顔で近づいてきて、後ろ手に隠した刃物で刺す、という考えだろう。
「絹の量産に成功しました」
「お……。 見せてみよ」
以前から、数名の部下達で進めていた絹の生産。半年前に、最初の絹が出来たのだが。横流しで手に入れたものにくらべると、ぐっと質が劣っていた。それから人員を増やし、鋭意努力を続けさせていたのだが。
差し出された絹を手に取る。
目を細めたのは、やはりこの絹というものが好きだからだろう。ただ、まだまだヤマトが作っているものにくらべると、質が低い。
「流通には乗せられるが、まだ質が劣る。 もっと質を上げよ」
「分かりました。 努力を続けます」
「人員を追加する。 結果を期待しているぞ。 次」
千里と鵯は、ずっと黙っている。
少し前に千里は息子が生まれたという報告をして来ていたが、それきりだ。鵯は部下を鍛えるのに忙しすぎて、最近は顔を合わせることが珍しい。
一通り報告が終わる。
千里が、ヤトの前に座った。
「流れ込んでくる人員が、安定したみたいだ。 この分だと、十年で目標の一万には達するだろうぜ」
「そうか、朗報だな」
「出来るだけ新入りはあんたの所に顔を出すようにはさせるが、東北に張り付きっぱなしだと、そうもいかないだろ。 もう少し吉野に顔を出してくれねえかな」
「東北の状況が落ち着いたらな」
千里は頭を掻きながら、付け加える。
先ほどから、何かを告げたいらしいのだが。どう言葉を選ぶべきか、迷っている様子だ。千里は子供が出来てから、雰囲気が少し柔らかくなった。元々人間の中でも底辺をさまよっていた男だ。
きちんと育てられる子供が出来た事で、何か変わるところがあったのかも知れない。
「良くない噂を聞いたんでな。 あんた、狙われてるんじゃないのか」
「それは昔からだろう。 私に恨みを抱く者など、いくらでもいる」
「前であったら確かにそうなんだがな。 この国と和議がなった今は、むしろ警戒すべき事だろう。 和議を相手が反故にする事も念頭に動いた方が良いかもしれないぜ」
「分かった。 考えておく」
そうか、千里の所には、情報が入っていたか。
鵯に話を変わる。
鵯は少しやつれたか。ここのところ、激務が続いていると聞いている。百人管理者をまだ五人は育てなければならないということで、毎日遅くまで仕事をしている様子だ。吉野からも、出られないらしい。
「今の時点では、大きな問題は起きていません。 急激に膨張した人員を管理するので、手一杯ですが」
「百人管理者の育成は」
「順調ですが、まだ手が足りません。 経験を積んだ者から順番に、後進を育成させる予定です」
「ならば、そのようにさせよ」
鵯には、後で絹服について聞いておく事がある。
少し予備を増やしておきたいのだ。
絹服を扱える人間は、まだまだ部下の中でも少ない。しばらく東北に行くこともあり、更に向こうがきな臭いという事情もある。
予備は、いくらでも確保しておいた方が良いだろう。
さて、最後は佐安だ。
佐安はたき火の前に座ると、呪文を短く唱えた。
「夜叉明王様のご威光により、多くの民が仏教を受け入れました。 約束された浄土に民を導きくださり、感謝の言葉もありません」
「そうか。 それで」
「東北では、戦乱に疲れた民が、多く仏教に改宗しております。 彼らとの連携が、今後は重要になって行くことでしょう」
何か引っかかる。
佐安の割には、当たり障りがない。此奴は以前から、この手の時は、もっと熱情的に仏教の普及を訴えていたような気がするのだが。
まあ、それはいい。
問題は別の所にある。
しかし、此処でそれを口にするつもりはなかった。
佐安は既に、敵勢力と思った方が良いのかも知れない。ヤトの配下に増えている仏教徒も、此奴の影響下にあるとなると、極めて面倒な状況が到来しかねない。
「時に、私の配下の中で、仏教徒はどれほどいる」
「およそ千五百ほどかと」
「千五百……」
なんと言うことだ。
既に三割が汚染されていたか。
東北で、多くの人員が流れ込んだことで、それは仕方が無い事だったのだろう。だが、それにしても、半年で数百は増えている。
やはり仏教は、今まであった宗教とは別の存在だと考えた方が良さそうだ。ヤトにとっては、間違いなく有害である。
一度、会議を切り上げる。
闇の中にめいめい散っていく幹部達。鵯は疲れているようで、自分の肩を揉んでいた。此奴は、仏教には興味が無い様子だが。
「鵯。 私の絹服はどうなっている」
「幾つか、しつらえておきました」
「見せてみよ」
連れて行かれた先は、小さな小屋。
中では絹を加工している。布から作れるようになったのは、大きな進歩だ。クルクル廻る何か良く分からないもので、絹を糸にして。更にそれを四角い格子状のもので、布にしている様子だ。
ざっと見ている内に、仕組みは分かった。
働いているのは女ばかりだ。布を扱うのもそうだが、何より色の配置や、その扱いには、女の方が向いているのだろう。
働いている女達は、ヤトにはあまり好意的な目を向けてこない。
此奴らに仕事をくれてやったのはヤトなのだが。
「山神様」
「何か」
不意に、不機嫌そうな声。
声を掛けてきたのは、かなり年配の女だった。目じわも手じわもかなり深い。体から言って、数人は子供を生んでいるか。
「どうして吉野を放って置いて、東北にばかり行っているんですか」
「しの!」
「構わん。 言わせてやれ。 今、東北は難しい状況でな。 私が直接判断しなければならない事も多いのだ」
「鵯様がどれだけ貴方のために身を削っているとお思いですか。 大事なことか何か知りませんが、もう少し吉野に戻ってきてください!」
言いたいことだけ言うと、しのと呼ばれた女は、ぷりぷりしながら仕事に戻っていった。別に殺すようなこともない。
鵯は一言だけ謝ると、奥から絹服を出してくる。
白地に、彼方此方に赤を入れた同じ意匠のものが三着。これだけあれば、今の時点では充分だろう。
後は。いつもよりも大胆に赤を使った絹服。
特に下半身を覆う部分は、大胆に赤を取り入れている。
「ふむ、これは面白いな」
「お気に召しましたか」
「受け取っておこう。 東北に持っていく」
絹服は今でも、心が動く数少ないものだ。いそいそとしまい込むヤトに、鵯は小屋の外に出るように促す。
何か言いたいことがあるのか。
「貴方のことを心配したくはないのですが、千里さんが言っていたことは本当です。 おかしな動きがあるようですから、気をつけてください」
「どういう風の吹き回しだ」
「小屋の中で働いている女達の中にも、仏教徒がいますから」
そうか。
此奴も、気付いていたか。
ヤトにしのが食ってかかっている間。此方を見て見ぬ振りの奴が何名かいた。そのくせそいつらは、耳をそばだてていたのだ。
「時にお前は、私が死んだらどうする」
鵯に向けて、言葉の爆発物を投げつけてみる。
鵯は露骨な抗議を視線に乗せてきた。
「私は貴方のことが嫌いです。 ずっと昔から。 しかし、山に暮らしていた虐げられた者達にとって、山での生き方、強い者からの逃げ方を教えてくれた貴方には、確かに恩があります。 だから、貴方のことが嫌いでも、いなくなって欲しいとは思いません」
「そうか」
「貴方がいなくなっても、既に山の民は、瓦解することはないでしょう。 というよりも、もはやこの民の集団に、頭はありません。 貴方は頭という点から外れて、文字通りの神になってしまっています」
ヤトが驚かされたのは、その先の言葉だ。
鵯は、何ら恐れる事も無く、言う。
「貴方はもう、あらゆる意味で神なのです。 死んでしまっても、生きていても、その存在は、山の民にとって、変わるものではありません。 死んでしまったところで、誰も困りはしないでしょう」
「……!」
「この国と和議を結んだ時点で、貴方は神として完成してしまったのでしょうね。 私には、それが気の毒でなりません。 貴方が一つの個性として、尊重されることは、もう未来永劫ないのでしょうから」
「そうか。 違和感は、それだったのか」
どうりで、あの宴席で。
坂の上以外の連中は、ヤトに話を聞きたいだの、酒を飲ませたいだのと、絡んできていた筈だ。
山の民にとっても同じだが、連中にとっても同じ。
調伏された荒神は、もはや無害な存在。
悪行を行わない限り、身に危険はない。それを、肌で察していた、という事なのだろう。
普段はまだ敵意を隠せない者もいるようだが、酒を飲めば本音も出る。今や大半の者にとって、ヤトは荒神ではなく、まがつ神でさえない。
ただの、「現象」になっている。
ようやく理解できた。
そして、この時。
ヤトは、己の運命も悟った。
ヤトの存在が神となったのなら、生きているヤトを必要とするのは、文字通り森だけだ。いや、森さえも。
森に生きている者達さえも。
今後は、ヤトという「生きた神」は必要としない可能性が高い。
つまり、既にヤトは。
用済みという事だ。
勝つための策が、用済みになるための、最悪の手になってしまった。体に巻き付いた鎖は、今ヤトを締め潰そうとしている。抵抗しても、全身をずたずたに切り裂かれるだけ、という事か。
くつくつと、笑いが零れる。
そうか。
アマツミカボシは、これを想定していたか。だから、とっとと寝ることを選んだのか。
だが、簡単に殺されてやるほど、ヤトは甘くない。
「鵯。 私が戻らなくなったら、千里とお前で、山の民どもをまとめろ」
「覚悟を、決めたのですね」
「決めるかそのようなもの。 だいたい、私が、人間共などに遅れを取ると思うか」
「……」
鵯の視線に、哀れみを感じる。
今の言葉が嘘だと、分かっているからだろう。
鵯はもう、ヤトが死ぬものと、決めたようだ。思えば、常陸でクロヘビ集落が滅ぼされてから、随分時も過ぎた。
普通の人間のままであったなら、子を産んで、育てている年だ。
鵯も、はじめてあった時に比べて、随分年を重ねた。そろそろ、子を産みたいと思っているかも知れない。
忙しすぎて、それどころではないのだろうが。
「私は東北へ出向く」
「死地に行くようなものですよ」
「わからんか。 その死をはねのけたとき。 私はこの国にて、絶対の恐怖をまき散らす、最強のまがつ神となる」
むざむざとやられるつもりなどない。
勝算だってある。
敵の罠があるのは確実だが、そんなものは噛み破るだけのこと。
ヤトを殺そうとしている勢力があるのは確実。それには、おそらくこの国も噛んでいる。当然の話だ。
ならば、ヤトがその罠を喰い破ったとき。
最強のまがつ神として、人間共に絶対の恐怖を与え、そして森を完璧に守り抜くことが出来るではないか。
これはむしろ好機だ。
そう、自分に言い聞かせる。
そのまま、ヤトは、吉野を離れた。
次の戦いが、最後のものとなる可能性がある。もう少し、自分が力を蓄えた吉野を見て廻っても良いのだが。
だが、ヤトは頭を切り換えた。
此処で死ぬつもりは無い。
死んでたまるか。
ずっと昔から、そうだった。ヤトに対等に接してくれたのは、森と、其処に住まう獣たちだけだった。
勿論甘くはなかった。
だが、対等に接してくれたのだ。
唯一の、存在。
それを守り抜くと決めることが、悪いというのだろうか。いや、そのような事は無い。もしあるとしたら、それは。
ヤトの敵の理屈だ。
吉野を離れると、ヤトは全速力で北に向かう。
東北で、どのような罠が待ち受けているかは分からない。
だが、その全てを、正面から喰い破ってやる。
もはや人間を探るような、哀れな真似をしない。鎖が締め付けてくるのなら、それごと敵を皆殺しにしてくれる。
森を走りながら、ヤトは笑う。
どうも滑稽な事をしていたようだ。もとより、ヤトは自由な場面で、最大の実力を発揮できた。
自由がなくなったというのなら。
その枠組みの中で、新しく自由を作れば良い。
そして、今度こそ。
森を焼き払い、喰らってきた人間共に。徹底的な報復をして、鉄槌を下してやるのだ。
翌日には、ヤトは東北に到着していた。
さあ、仕掛けてこい。
山の頂上部にある石に腰を下ろすと、ヤトはうそぶく。
いつでも、相手になってやる。
ただし、何かするのなら、相応の覚悟はしてもらわなければならない。
それが、神を相手にするという事なのだから。
4、滅びへのひととき
鵯が嘆息した事の理由を、見抜いた者がいた。
千里だ。
鵯が絹服の生産場に戻ろうとした時、後ろから声を掛けてきたのだ。振り返ると、千里が、腕組みして、ヤトの去った方を見ていた。
「彼奴、死ぬな」
「ええ。 あの人は、ついに最後まで、孤独だったままでしたね」
鵯は、内心では、ずっとヤトを人だと思っていた。
確かに人間離れした力を持っていた。人間の社会そのものを嫌い、種そのものさえも否定していた。
きっと、ツチグモの一族達にさえ、同じ感情を向けていたのだろう。
しかし、その奥底にあったのは。否定と拒絶に対する反発。
彼女を受け入れる人が、ただの一人でもいたのなら。このような大量虐殺者を、世に出すことは無かったのだろうに。
ましてや、その存在が神となるという悪夢を、誰もが見なくても良かっただろうに。
「最後まで、誰も頼ろうとはしなかったな」
「東北の戦いでも、利用する事はあっても、頼ろうと言うことは無かったのでしょう?」
「ああ。 だから佐安みたいな化け物に、つけ込まれた。 俺には彼奴よりも、佐安の坊主のほうが、余程化け物に見えるぜ」
「同感です」
ついに、ヤトは、他人と心を通わせなかった。
一方的な感情を叩き付けられ、否定されてきた者の悲しい末路。それがヤトだ。せめて鵯は、自分が面倒を見る者達に、そのような事はしないと決めている。
「思うに彼奴、強すぎたんだな」
千里は、無念そうに言った。
鵯も同感だ。
弱さのある人であったなら。助けも求めただろう。誰か、自分を理解してくれる者を欲しただろう。
だが、ヤトにそれは無かった。
恐らくは、子供の頃からずっとそうだったから。他者に何も期待していなかったのだろう。
故に自分を磨き抜いた。
その果てが、この結果だ。何にも屈せず、負けても立ち上がり。強く強く、ただ強くあった結果。
ヤトは、もはや勝ち目がない戦いに、出向こうとしている。
鵯には、ヤトがどうなるのか分かる。
大勢に包囲され、よってたかって八つ裂きにされるのか。
それとも、どうにも対応しようがない兵器をぶつけられるのか。
いずれにしても、此処まで事態が進展したら、もはやどうにもならないだろう。大陸にも超絶的な武勇の持ち主と伝えられる武人が、様々な戦術で殺されたことが伝えられていると聞く。
どうして、ヤトだけが例外になろう。
神であっても、それは同じ事だろう。
ヤトは殺される。
「なあ、どうすれば良かったんだろう」
「あの人は同情なんて喜びません。 かといって、引き留めることも、無理だったでしょうね」
「……」
それ以上、言葉はなかった。
決して好きな相手では無かった。何度も、酷い目に遭えば良いとさえ思った。だが、それでもその確実な死を目の当たりにして、悲しいのは。
きっと、ヤトという存在が抱えていた、深淵の闇よりも深い孤独を、鵯が知っていたからだろう。
せめて、安らかな最後があれば良いのだけれど。
そう、北東の空を見ながら、鵯は思った。
準備が整った。
坂の上が駐屯所を出ると、其処には燕雀が待っていた。いかにも利発そうな僧は、両手を広げて言う。
「いよいよ戦いの時が来ましたね。 皆が幸せになれる結末は、すぐ側に来ています」
「皆が幸せ、か」
反吐が出そうだ。
仏教は嫌いではない。だが、此奴は。
此奴の立てた策については、少し前に聞いた。絶句した。部下達も、皆同じ反応をしていた。
勝つためとはいえ、其処までしなければならないのか。
だが、奴は戦いの度に、何度となく逃げおおせている。常勝というわけではなかったのだ。そして、死んだと判断されたこともあった。それなのに生き残った。
必ず殺し、その死体を確認しなければならない。
「兄様、雑念を追い払ってくださいませ」
駐屯所から出てきたハヤタカは、軽装だが、武装していた。弓を手にしている他、頭に細い布を巻いている。
集中力を得るための工夫だという。
ただ、此奴は、武芸はてんでだめだった筈だ。弓など持っていても、役には立たないだろう。
「良いのか、おぞましいものを見ることになるぞ」
「戦場に出てきたときから、覚悟は決めています」
「……」
ハヤタカは。
燕雀の、おぞましい作戦案に乗った。
更に言うと、それに乗る形で、具体的な作戦を立案した。そして、北のタケルも、それを承認した。
武人としてだけ振る舞える者は、ある意味幸せなのかも知れない。
勝つか負けるかの世界に、法などは無い。
ハヤタカも燕雀も、正しいことは分かっている。だが、納得がいかないのも事実だ。
坂の上は、何度もため息を零しそうになる。
どうして、夢にまで見た仇討ちが近づいているのに、こうも気持ちは沈んでいるのだろう。
高揚で狂気さえ感じるほどだろうと、前は思っていたのに。
鎖に絡め取られているのは、奴だけではないのかも知れない。或いは、坂の上も。ならば、鎖をたぐっているのは、誰か。
先発隊から、連絡があった。
数日間、見失っていた夜刀を発見。
作戦を実行する準備は、全て整った。これから、ヤトを殺すか、此方が殺されるかの、戦いが始まる。
「みな、聞け」
皆に言い聞かせるため、坂の上は立ち上がった。
此処にいる同志達は、ヤトへの復讐で、かっては心を一つにしていた。しかし今は、この国の未来のために、心を束ねている。
だが、それなのに。
どうして、こうも心は寒いのだろう。
「これより、夜刀の神を討つ」
「おおっ!」
「相手は、多数の兵を幾度となく撃退した、化け物の中の化け物だ。 奴の手に掛かった者は、千を超えるとさえ言われている! 首を刎ね、死体を燃やし尽くす程度の事はしなければ、討ったとは言えぬ。 確実に追い詰め、死体を確認するまでは、油断するでないぞ!」
喚声が上がる。
物資を確認。全て、準備は整っている。これから、夜刀を討つ。
そして、この戦いに。
終止符を打つのだ。
平然としているハヤタカ。此奴は、本当に何者だろうと一瞬だけ思ったが、其処まで。此処からは、戦いだ。
作戦通りに手を進めても、勝てるかは分からない。
ましてや相手は夜刀。
知力においても、人の上を行く存在だ。あらゆる手を、全て試して。確実に殺さなければならない。
生きて帰れると、最初から坂の上は思っていなかった。
途中で、数十名の精鋭を連れてきた、北のタケルと合流。季節は既に秋。長期戦は許されない。
今日で、終わらせる。
「これより決戦だ。 覚悟は良いか」
「はい。 タケル将軍」
「もうその呼び名は良い。 と言いたいところだがな。 正式に、国より通達があったよ」
北のタケルは、寂しそうに言う。
軍を退いた彼に、何かあったのか。
「私の功績を核に、軍神とも言える、日本武尊と言う存在を一本化するそうだ。 複数の将軍を業績でまとめて、一人の英雄を作り上げる、というわけだな」
「おめでとうございます。 名誉なことではありませんか」
「名誉なものか……」
これで私も、立派な人外の者。
あの夜刀の苦しみが、分かるような気がすると、北のタケルは吐き捨てた。
戦場までは、間もなくだ。
全てが終わるまで、上手く行けば。昼まで。上手く行かなくても、夕方までには片付けたい。
最後の戦いが始まる。
戦場で、最後まで立っているのは誰なのか。坂の上にも、分からない。
(続)
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