蛇神を縛る鎖

 

序、修練

 

屈辱を胸に、坂の上は滝の前で、剣を振るっていた。

吉野近くの山奥。其処に存在する村。

村の民は、夜刀の神の配下という噂もあるが、坂の上にはどうでも良かった。澄んだ空気の中、坂の上は剣に意識を集中し、振るう。

二度にわたって、一蹴された。

二度目に到っては、その絶望的な心身の差を、見せつけられた。一度目のように、実力で粉砕されるよりも、心への衝撃は大きかった。

実戦では、普通次はない。

だが、坂の上は、幸運にも、次の機会を得た。

だからこそに、必ずや次こそは、奴を殺す。北のタケルが奴と和議を結んだことなど、関係無い。この手で、このアキツに害なす邪神を、斬らなければならないのだ。

部下達も、この村で修練を積んでいる。

澄んだ空気と、美味い飯。

此処で修練をしていると、獣になったような気分となる。そして、夜刀の神がどうして強いのか、分かるような気がしてくる。奴に勝つためなら、どのような手段でも採らなければならない。そのためには、好悪などと口にはしていられなかった。文字通り必死の覚悟にならなければ、勝てない相手なのだ。

素振りを終えた後、滝の水を浴びて、強引に汗を流す。

部下達が用意してくれた食物を乱暴に頬張ると、近くに用意してある小屋に入って、眠った。

この間の戦いの結末は、許せるものではなかった。

軍を抜けようかとさえ思った。だが、タケルは言ってくれたのだ。腕を磨いておけ。いずれ、使う機会があると。

あの北のタケルでさえ、結末を予想できなかった戦い。

というよりも、夜刀の神さえ、結末は予想できていなかった様子だ。和議の席が片付いた後、奴は腑に落ちないという顔をしていた。あの和議は、一体何だったのだろうか。世の中には、分からない事だらけだ。

分かるのは、夜刀の神は、今ならばまだ殺せると言うこと。

そして、生半可な方法では、不可能だと言うことだ。

夜中に目が覚めた。

再び滝の前に立つと、剣を振るう。

実戦で腕を磨くにも、限界がある。自分の強さを極限まで突き詰めていかないと、恐らくは奴の領域には届かない。

部下達には、それぞれのやり方で、技を磨かせている。坂の上と同じ方法を採らせようとは思わない。

この方法では、おそらくだが。

最終的に待っているのは、不幸しかないだろう。

自分が地獄に落ちるのは、いっこうに構わない。だが、それを部下達にまで、強要することは出来なかった。

朝方まで、剣を振るい続ける。

既に筋肉は極限まで絞り込まれている印象がある。

だが、奴のように、成人男子の三倍もあるような猪を軽々担いで歩けるか。出来ない。訓練が不足していたとはいえ、十人以上の影の者に囲まれて、一蹴できるか。出来るはずがない。

今は、人としての技の極みには達している。おそらく、どんな達人とでも、互角に近い戦いが出来るだろう。大陸にいる武人でも、同じ結果の筈だ。渡来人の武人から、墨付きももらっている。

だが、まだ届かない。

それでは駄目なのだ。

奴がいるのは、それより二段、三段上の領域。

無心に剣を振るった後、飯を喰らう。ただひたすら、自身を戦闘兵器として、磨き抜いていく。

勝つ。

殺す。

呟きながら、剣を振るった。

奴は、陣で言っていた。祖父とは、狩る狩られるの関係であって、其処に介在する恨みはないと。

そんなものは、勝手な奴の理屈だ。

祖父は民を守るために、怪物、夜刀の神と戦う決断をした。奴には一体何の正義がある。森を守るのが正義か。

森が、人間の命に。民の暮らしに、優先するというのか。

優先するのだろう。奴の中では。

だからこそ、絶対に相容れない。必ず、殺さなければならない。奴は自分の考えを通し、欲望を満たすために、このアキツを好き勝手にしようとしているのだから。

あの和議の日から、何日経ったのかも、既に分からなくなっている。

だが、剣を振るう手を止めることはない。

無心に剣を振るっていると、足音が近づいてくるのが分かった。部下かと思ったが、違う。

対応可能範囲に入ったところで顔を上げた。

見覚えがある男だ。確か、ツクヨミの配下で、影の者をまとめている。確か、黒猿とか言ったか。

文字通り、猿のような顔をしている。

もっとも、今は自分も野人だが。落ちくぼんだ目と無精髭は、かって甘いと言われた顔立ちを、野生の猿もおののくものへと変えてしまっている。

「何か用か」

「ツクヨミ様からの伝言を持って参りました」

「見せよ」

書状を見る。内容は、夜刀の神の状況について、だった。

まだ手を出すことは許さない、ともある。

そもそも、このような修練に明け暮れていられるのは、北のタケル将軍が認めてくれているからだ。

本来であれば、軍属として動かなければならない。だが、夜刀に対する備えとして、同じように技を磨き、剣の研究をしている武人が何名かいるとも聞いている。和議など、かりそめのものだと、北のタケル将軍も考えているのだろう。

「相変わらず、奴は東北にいるのだな」

「ええ。 仏教徒に請われているようでして……」

「明王、か」

何が明王か。

反吐が出るが、其処は黙っていた。

仏教徒の事は嫌いでは無い。信仰に、土着の神を取り込むやり方は珍しくないとも聞いている。

だが、それにあの夜刀の神が該当するとなると、坂の上は心穏やかにはいられない。

「今の俺の腕では、夜刀の神には残念ながら届かぬ。 やはり、人の領域を抜け出なければ、駄目であろうな」

「いずれ機会が着たら、お知らせをいたします」

「頼むぞ」

黒猿は、きっと様子を見に来たのだろう。

無茶なことをしないように、釘を刺していったにも違いない。黒猿が去るのを見届けると、坂の上は、剣を鞘にしまう。

そして、少し前に作らせておいた、木刀を手にした。

並の剣の三倍を誇る重さを持つ武器だ。

これを自在に振り回せるようになったら、更に重い木刀を使うようにする。そして最終的に、夜刀斬り丸に戻す。

奴は恐ろしいまでに早かったが。その時には、辿り着く事が可能だ。

おそらく修練が終わった頃には、坂の上は、人間では無くなっている可能性も高い。だが、それが何だ。

奴を殺す。

坂の上には、それだけだ。

そして、それこそが。

人の尊厳だとも、信じている。

再び剣を振っているうちに、一日が過ぎていた。剣を振る事が出来る時間が、一日ごとに、確実に長くなってきている。

奴を討つ日は、近い。

そう信じて、坂の上は、剣を振るい続けていた。

 

1、上手にいる者

 

蝦夷が、解体されていく。

ヤトは山の上から手をかざして、その様子を見ていた。

事の顛末は半年前にさかのぼる。ヤトが、あの屈辱の和議をこなして、ひと月ほどしてからだ。

蝦夷の王室が、蝦夷島へ逃れた。側近達と、一緒に行く民を連れて。ヤマト側は、それを敢えて放置していた。

残ったは、独立性が強い村々や、それに小規模領主達。

彼らはいずれもがすぐにヤマトへ降伏を明言。ただし、ヤマト側も、恐らくは仏教勢力との軋轢や、何よりアマツミカボシとの交戦を警戒したのだろう。すぐに兵を進める真似はしなかった。

冬という事情もあっただろう。

ヤマトの兵は、雪に弱い。それを知っている蝦夷王は、敢えて一番厳しい季節に、蝦夷を解体することを、選んだのかも知れない。

ただし、それでも、蝦夷王室が事実上無くなってから半年すぎた今となっては、動きもそれなりにある。

村の一つが、ヤマトの軍勢の進駐を受け入れる。

ヤトは何もしない。

森に手を出されない限り、此方からは何も出来ないのだ。和議を此方から破れば、まずい事になる。

全身に巻き付いた見えざる鎖が鬱陶しい。

蝦夷側の砦や出城も、次々ヤマトに接収されている様子だ。ただし、軍勢は進駐しても、すぐに引き上げていく。

おそらく、常駐は無理と判断しているのだろう。

木を降りると、珍しい奴が此方に歩いて来るのが見えた。

千里である。

千里は、狐につままれたような顔をしていた。和議が成立したと、既に聞いているのだろう。

「おう、久しぶりだな」

「ああ。 息災か」

「問題ねえな」

千里は少し前に、妻を娶った。

とはいっても、通い婚が普通だから、妻の所に千里が足を運ばなければならない。ちなみに相手は、鵯が育てた百人管理者の一人だ。

元々賊の長をしていた頃にも妻はいたそうだが、組織間抗争の過程で失ったらしい。よくある話である。

ヤトの隣の石に、千里が腰を下ろす。

横目で見たが、少し傷が増えているか。ヤマト側との抗争は一段落したのだが、何かあったのかも知れない。

「ヤマトと和議をあんたが結んだって聞いたときには、気が触れたかって思ったが……考えて見れば、あんたは最初から気が触れてたな」

「ほう?」

「冗談だよ。 剣なんか抜くな」

「まあいい。 それよりも、此処に何をしに来た」

東北の状況は、今ヤトがアマツミカボシと一緒になって制御している。正確には、しようとしている。

ヤマトの力をそぐと同時に、いずれ管理能力を仏教から取り戻す。

ヤトは連中の手で、殺戮のみを為す破壊神から、守護者としての善神として切り替えられてしまった。

もはやそれに力であがなうのは不可能だ。

佐安は何を考えているのか、未だによく分からない。かといって、殺すわけにもいかない。

正直なところ、手詰まりだ。

「あんたの配下で、不満を口にする連中が出始めていてな」

「ヤマトと和議を結んだことをか」

「いや、それについては、吃驚するくらい反対意見が出なかった。 多分戦えるのは、事実上あんただけだってみんな分かっていたからじゃねえのかな」

鵯が不満を口にしたらしいが、それも今では黙っているという。

九州での出来事を忘れたいだろうに、どういう事か。個人的には、ヤマトを徹底的に憎悪していた千里が、文句を言わないことが気になる。

あれから、部下達の様子を確認しているが。

連中の間では、仏教が明らかに大きな比重を占めだしている。独自の思想を持っていた者もいたが、それも仏教に混ざり始めている様子だ。

やはり此奴らは、佐安とつながっていたとみるべきか。

「話してみて分かったが、あんたはやっぱり、この和議に不満なんだな」

「その通りだが、それがどうかしたか」

「実はな。 不満を口にしている連中は、山での生活だけじゃなくて、ヤマトと和議がなったんだから、郷にも降りたいって言ってるんだよ」

瞬間的に殺意がのど元まで来たが、我慢する。

今までも、交易などの目的で、郷にいる連中と接触は許してきた。だが、基本は山に住むように躾けてきたのだが。

しかし、やはり人間は所詮人間か。

ヤトがどれだけ恐怖で縛っても、本性は如何にして楽に過ごすかのみを考える。そして、ヤトが善神などという存在に「調伏」された途端、本性を現したではないか。

まだ、力が足りない。

ヤトが本気で怒っているのに気付いたか、千里は少し距離を取った。

苛立ちをどうにか押さえ込む。

今は、というよりもしばらくは、静かにしていたほうが良いだろう。それを理屈として、ヤトは理解していた。

「分かった。 良いだろう、限定的に許してやれ」

「おい……いいのか?」

「ただし、最低でも年の半分は山で過ごすこと。 それを守らぬなら、お前達が崇める夜叉明王が、鬼神としての本性をむき出しに、喰らいに行くと告げておけ」

「分かった。 多分、それで手が打てるだろう」

いずれ、配下の人間共は、山から追い出すつもりだったのだ。

それならば、山以外でも暮らすようにしておいても良いか。もっとも、それだと弱体化が進む。

ヤマトが弱体化してからこそ、戦力を保持していたヤトの配下達をこきつかって、一気にアキツを制圧するつもりだったのだが。

もはや仏教の浸透によって、その戦略は崩れた。

嘆息が零れる。

九州があっという間に動乱に包まれたと聞いたとき、ヤトがするべきは、それを利用する事ではなかったのかも知れない。

いずれにしても、今は手を誤った事を悔いていても仕方が無い。

ヤトの最終目的は変わっていない。

戦略の調整がいるが、結局の所、目的に違いはないのだ。

「時にあんた、一つ聞いて良いか」

「何だ。 用事が済んだのなら、さっさと戻れ」

「そういうなよ。 実はな、ついでだから、耳に入れておきたい事があるんだよ」

人間などと、あまり長時間関わりたくないのだが。仕方が無い。

面倒くさいので、さっさと話せと視線を向けると、意図を察して、千里は話し始めた。

「佐安の奴が、夜叉明王を祀る祭をしようと言い出しているみたいでな」

「ああ、小耳に挟んだな」

「あんたには、是非出て欲しいんだそうだが、どうする」

「状況次第だ。 気が向いたら、足を運んでやる」

好き勝手に此方の戦略を乱してくれた夜叉明王という呼び名には、いい加減苛立ちも募っている。

祭をするなら好きにすれば良い。

しかし、そんなものにどうして出なければならないのか。

本尊として飾られていろとでもいうか。

或いは、何か有り難い言葉でも、蛙のように平伏している連中にでも、かけてやればいいのか。

ヤトの意図を敏感に悟ったらしく、千里がおそるおそる言う。

「出た方が良いと思うんだが」

「何故だ」

「佐安と話したが、あいつ、あんたが人間を止めてるって、信じてないと俺は思うんだよなあ」

つまり、佐安は、神域に達したヤトの武力を何度か見ているにも関わらず、人間の一種だとでも思っているという事か。

やはり手当たり次第に仏教徒ごと佐安の糞坊主を殺したくなってくるが、我慢だ。

今、奴を殺すわけにはいかない。

「つまり、私を本尊として行う祭りを、信仰の形として完成させたい、そういうわけなのだな」

「そうだ。 あんたが死んだ後の事も、佐安はにらんでいるらしい」

「……そうかそうか」

今は、殺せない。

だが、いずれ機会を設けて、必ず殺す。この時、ヤトはそう決意した。

そのくだらない祭とやらにも、出てやらなければならないだろう。仏教徒共を手な付けるには、丁度良い。

大きく息を吐く。

ヤトが爆発寸前である事を、千里は悟ったのだろう。それではなと片手を上げると、そそくさと去って行った。

無言でヤトは岩肌の露出した壁面に足を運ぶと、全力で拳を叩き込んだ。

岩肌にひびが入るが、崩れるまでには到らない。

カラスたちが、怖がって上空を舞っている。大事な子供達を怖がらせてしまってはいけない。

ヤトは手を合わせて気を多少散らし、目を閉じて意識を柔らかく収めた。

それにしても、佐安というあの坊主。

一体どこからどこまで計算して行動している。

吐き捨てると、見つけておいた横穴に籠もる。そして、作り置きの燻製肉を、腹いせに満腹するまで、口に突っ込んだ。

 

ヤマトに進駐された山間の村を、ヤトは夜の間に見に行く。

この村には、丁度佐安も来ているのだ。奴が何をしているのか、しっかり確認しておく必要もあった。

夜の村は、隙だらけだ。

元々こういった小さな村では、人間共は陽が落ちると行動を停止する。陽が上がると、行動を開始する。

油そのものが貴重なのだと、最近知った。

或いは、下手なツチグモの方が、良い生活をしているかも知れない。冬の過酷さは、文字通り言語を絶するほどだ。

梟たちが、彼方此方で鳴き声を上げている。

だが今は、ヤトはそれを参考程度にしか聞いていない。気配は察知できるし、消す事も出来るからだ。

一番大きい家の屋根に降り立つ。

中では、あの忌々しい呪文が流れてきていた。どうやら佐安が、経を上げているらしい。

覗いてみると、死者を送る儀式をしていた。まだ子供だが、流行病にでもやられたのだろう。

普通は行動を停止する村の連中が、今日に限って起きている。ただし、大半の村の連中は、家の中で寝ていたが。

村長の所の子供だろうか。

やがて、なにやら垂れ流されていた呪文がとまった。佐安が話をした後、儀式をしている。

ミコであったから、ヤトもツチグモ式の死者の送り方は知っている。というよりも、何人も送った。

それとは随分違ったやり方だ。

見ていると、佐安が程なく、家から出てくる。ヤトは屋根の上を移動して、待ち伏せ、家の影から引っ張り込んだ。

佐安は恐れる事も無く、冷静にヤトを見て、手を合わせる。此奴のこの異様な落ち着きは、どこから来ているのか。

ヤトに気付いている気配はなかったし、戦闘能力も並の人間以下。体力はあるが、所詮それだけだ。此奴が何故、ヤトとアマツミカボシを良いように振り回すことが出来たのか、どうしても分からない。

「これは、夜叉明王様。 おいでであれば、声を掛けていただければ良かったものを」

「何でもいい。 死者を送る儀式か」

「仏式の葬儀にございます。 夜叉明王様が死者を悼んでくだされば、さぞや村の者達も喜びましょう」

「よく分からんが、私が来ていたとでも伝えておけ」

あんなよく分からない儀式に参加させられたらたまらない。

手をヒラヒラ振って、ヤトは参加を断ると、本題に入る。

「彼奴らは、元々神を持ってはいなかったのか。 どうして仏式の葬儀などを受け入れた」

「それは、彼らが移民として、此処に比較的最近移り住んだからです。 かって住んでいた土地を離れたときに、神の思想からは離れたらしく。 故に、仏の教えを、すんなり受け入れてくださいました」

なにやら分からない呪文を唱える佐安。合点はいったが、気味の悪さは増すばかりである。

此奴は、本当に何を考えているか分からない。

いずれにしても、丁度聞きたいことがあったのだ。此奴は得体が知れないからこそ、直接聞いた方が良いだろう。

「時にお前、私の力を疑っているか?」

「貴方が神域にいることを、拙僧は疑ってはおりませぬ。 ただ、夜叉明王といえる貴方様であろうとも、死からは逃れられません」

「どういう意味か」

「貴方が老いを超越しているらしいという事は、既に聞き及んでおります。 しかし、貴方自身が死なないことを、それは意味していない」

そして貴方はいずれ確実に死ぬでしょう。

佐安は、そう言い切った。

星明かりに満ちた空の下で、得体が知れない坊主は、ヤトに死の宣告を突きつけてきたのである。

殺されれば死ぬ事くらい、ヤトにも分かっている。

実際問題、怪我をすれば回復するのに時間が掛かる。睡眠が必要なのは、頭を休めるためだとも理解できている。

「貴方を祀る祭について、どこからか聞き及んだのでしょう。 私は、貴方が死んだ後の事も、その善神としての力が人々を救うよう、取りはからうつもりです」

「はっきり言ってくれるな……」

「貴方の力は、人の域を確実に超えている。 しかし、それでも。 人の生きるこの世で、死なないことは不可能。 そう言うことにございます」

手をあわされた。

そして、死者に手向けの言葉を与えて欲しいと、もう一度促された。

やはり煙に巻かれてしまった印象である。会話については、正直此奴の方が、私より一枚上かも知れないと、ヤトは思った。

何だか分からないうちに、葬儀の場に連れて行かれる。

ヤトのことを知っているらしい村人共が、蛙のように平伏する中。ヤトは言われるように、線香とやらを死者に備えてやった。儀式自体は簡単だったので、一度で覚えた。線香とやらの臭いが少し強くて難儀したが。まあ、我慢は出来る。

死者を一瞥した。

まだ幼い子供。

妙に安らいだ死に顔だ。ただ、なんと為しにわかる。これは、死後に、少し顔を弄ったのだろう。

笑顔になるように、何かしらの方法で、整えたというわけだ。

「夜叉明王様が来ていただいた以上、御仏に害なす悪は取り払われ、この子は極楽浄土へ赴くことでしょう」

佐安が言うと、本当に嬉しそうに村人達は涙する。

これが信仰による救いだとすれば。

吐き気がする。

だが、ヤトは黙っていた。弱者共が、こういった信仰による救いで団結し、ヤトを破ったのは、事実だったから、である。

敗れた以上、相手を馬鹿にするつもりはない。

本気で、いずれ潰すだけだ。

葬儀の場を後にすると、服の袖の臭いをかいだ。線香とやらの臭いが少しついていて、眉をひそめてしまう。

体が殆ど汚れなくなった今、服を洗う頻度は著しく減っている。袖の中で、蝮たちも騒いでいた。やはり、この臭いが気に入らないらしい。

佐安はまだ葬儀を続けているので、ヤトはさっさとその場を後にした。

山の中に入って、気付く。

自分が安心していることに。

得体が知れないものを怖れるのは、人の本能だ。まさか、ヤトは。得体が知れないとはいえ、あの佐安が如きに、畏れを抱いているというのか。

横穴に戻ると、燻製肉を全部食べてしまったことに気づき、地面に拳を叩き込んでいた。ドカンと凄まじい音がして、横穴が崩れて埋まった。

自力で埋まってしまった穴から抜け出したヤトは、憤怒の形相のまま、空に向けて叫んでいた。

いずれ、必ず。

ブチ殺してくれると。

何もかもが、急激に上手く行かなくなってきている。

ぶるぶると体を揺すって土を落とすと、ヤトはもう今日は何もしないと、決めたのだった。

 

気を取り直して、翌日は陽が高いうちから、幾つかの村を見に行った。

勿論姿を見せないまま、でだ。

仏教が全く浸透していない村も幾つかある。そういった村では、ヤトは山神や天狗として知られている。

怖れられている、という点では他と同じだ。

朝廷に対する戦略としては、成功している。しかし、これからヤトがしなければならないのは。

信仰として縛り付けられてしまった事の打破と、制御の奪回だ。

今回の件で痛感したが、人間全てを敵に回してしまっては、勝てない。恐怖で支配するのは良いのだが、やり方を間違えると、逆に取り込まれてしまう。

人間の信仰とは、何だ。

かってミコだったヤトも、それはおそらく分かっていなかった。いや、分かってはいたのだが、仏教や太陽神信仰を持ち込もうとしているヤマトは、それとも違う理屈から、信仰を管理しようとしている。

その先にあるものが、どうも見えない。

ふと気付いたのは、影の者達が、数名村をうかがっている、という事だ。

ヤトはわざと気配を出して、近づいていく。

慌てて飛びずさった影の者達。

「案ずるな。 和議を破るつもりはない。 貴様らが、森を侵さぬ限りはな」

「夜叉明王、夜刀の神……!」

「何をしていた」

「……話す事は無い」

鼻を鳴らすと、ヤトは行くように視線で促す。影の者達も、ヤトと戦う事は避けたいのだろう。すぐにその場から姿を消した。別に背中を撃つ事も無いので、そのまま行かせてやる。

口では喋らなかったが、影の者達の狙いはわかりきっている。わざわざ言わせるまでも無い。

連中は、怖れている。恐らくは、ヤトと同じように。

信仰の暴走を、だ。

故に、支配地に加えたはずのこの一帯を、念入りに監視して廻っているのだろう。むしろ軍隊を駐留させるよりも、その方がやり方としては正しいのかも知れない。

アマツミカボシは、今の時点では、ヤトの配下に部下を合流させ、自身は姿を消している。

何をもくろんでいるかは分からない。

それにしても。弱者がすがる信仰というものが、これほどの化け物だったとは思わなかった。

おそらく仏教の信仰は、今までツチグモがやっていたものとは、根本的に違うのだろう。神を怖れて、ひたすらその怒りを収め、豊かな実りを分けてもらうものだった既存の思想。それに対して、仏教は弱者の心に潜り込み、わしづかみにして行くような所がある。或いは、宗教としては、その方が進んでいるのかも知れない。ヤトが信仰しようとは絶対に思わないが。

今ではヤトだけではない。ヤマトも蝦夷の残党も、アマツミカボシも。みな、信仰という奇怪な実体のない代物を巡って争っている。

とんでも無い怪物が、このアキツに入り込んだのかも知れない。

そして、その怪物には。善意はあれど、悪意はないのだ。

村を見て廻っていると、興味深い所を見つけた。

仏教が入り込んではいるが、それが対立の種になっている。どうやらこの村は、元々の住民と、後から流れ込んできた連中が、半々に存在しているらしい。当然思想や信仰も真っ二つに割れている。

影の者達は、どうやら仏教が熱心に信仰されている村を、重点に見ているようだ。

ならば、ヤトは此方に比重を移す。

腰を据えて観察するとしよう。

そう思い、ヤトは近くの山に、横穴を確保。保存食を、運び込んだ。

 

2、増えゆく鎖

 

凄まじい言い争いが始まった。

目を血走らせて対立している村人達。駆けつけたらしいヤマトの軍勢も、止めようと間に入ったが、村人達が今度は兵士に食ってかかる。

「邪魔するな、よそ者!」

「そうだ! これは俺たちの村の問題だ!」

「お前達なんか、村人として認めるか!」

兵士達が間に入った事で、更に怒声が酷くなる。

ヤトはアケビをつまんで口に入れながら、その様子を目を細めて見つめていた。最初から見ていたから、全ての経緯を知っている。

やはり、丁度良い情報が取れそうだ。

事の発端は、些細な田畑の争いからだ。この村の連中は、小さな河に沿うようにして、小さな田畑を作って、其処で暮らしている。

問題は半数ほどの住民が、よそから流れてきている、という事。元々の住民達は、当然のように良い場所を独占し、残りはかなり実りが悪い場所に張り付いている。信仰も違う。元からの連中は、アルビヒコという神を信じているのに対して、残りは仏教徒だ。佐安が来て、1年ほど前に教えていったのである。

一応、しばらくはそれで上手く行っていた。

上手く行かなくなったのは、村に住民が更に増え始めてから。

蝦夷が瓦解して、離散した農民が、村に入り込んできたのである。そいつらを受け入れた結果、今までほそぼそとやってこれた村が、立ちゆかなくなったのだ。そして、蝦夷から来た連中が、仏教に傾倒したことで、元の住民達との争いが決定的になった。

豊かな田畑を独占している連中への憎悪。

後から来て、好き勝手な事をほざく連中への怒り。

それが、集団単位での怒りとなって、今ぶつかり合っていた。

ささやかながら、ヤトもこの争いに一枚噛んでいる。というのも、例の夜叉明王がどうのこうの、という話である。

日本武尊と夜叉明王が和議を結んだという話は、この村にも伝わっている。つまり、森を荒らせばどうなるか、村人達は知っている。特に仏教徒達は、酷く怖れている。

佐安に絵を見せられたが、夜叉明王とやらは凄まじい姿をしていた。腕が複数あり、目は憤怒につり上がり、牙は口からはみ出している。悪を喰らって善を救う仏だそうだが、戦闘神としての要素が滾って溢れているのだ。

結果、既存の田畑を用いるか、荒れ地を耕すかしかない。

そして荒れ地を耕すには、国の許可がいるのだ。

銅鑼が鳴らされる。

たまりかねた軍勢の指揮官が、威圧的に叩き鳴らしたのだ。

「代表者達に話を聞く。 お前、お前、それにお前」

指揮官が、順番に指さしていった。

ヤトは枝に寝そべったまま、なるほどと呟く。指揮官が選んでいるのは、頭に血を上らせて叫んでいた連中ではなく。後ろで、冷ややかに状況を見ていた者達だ。

兵士達に後を任せると、指揮官は何人かを連れて、村はずれの小さな家に入っていった。これは更にこじれるなと、ヤトはもう一つアケビを口に運びながら思う。こじれれば、素晴らしい。

人間共など、相争って、死に絶えれば良いのだ。

後の参考のために、連中が入った小さな家の近くに移動。此処までこじれている村は他にないので、大変に素晴らしい。

今後は、千里や他の部下達にも、情報を集めさせるとしよう。

家の中では、半刻ほど、話が続けられていた。程なく、指揮官が数人を連れて出てくる。顔は若干げんなりしていた。

ヤトが味わったげんなり感を、少しでも喰らえば良いのだ。

「お前達、状況については分かった。 国が幾つか手を打つから、しばらくは黙って農作業に精を出せ」

「しかし、お役人様!」

「よそ者共との同居は、もう耐えられねえだ!」

「良いから我慢しろ!」

指揮官が一喝する。

流石に実戦経験者の一喝は迫力があり、農民達は押し黙る。彼らが黙ったのを見回すと、指揮官は付け加えた。

「此処より豊かな土地が、南にはいくらでもある。 其処では人手も足りていない。 見ると、無理にこの小さな村に住み着こうとしていることが、大きな問題になっているようだな。 文官に掛け合って南にある村への移住を支援してやるから、望む者は申し出るように」

「そんな、まだ移動しろっていうんですか!」

「疫病や戦が怖くて、泣く泣く村を出たって言うのに」

「朝廷によってアキツが統一された今、むしろ辺境の方が危険だ。 関東の豊かな穀倉地帯に行けば、此処より良い生活も出来る。 話を付けてやるから、申し出ろ」

無理矢理に話を収めると、指揮官は一度戻っていった。

残った兵士達は心底嫌そうな顔で、まだにらみ合っている村人達の間に入っている。武器を構えたままなのは、そうしないと黙りそうにないからだろう。

ヤトとしては、実に興味深い状況だ。

数日そのまま見守っていたが、兵士達が張り付いていないと、村人はいつ殺し合いをはじめてもおかしくない。

実際問題、夜陰に乗じて、他の者の畑を荒らそうとしている者まで出ていた。兵士達がしっかり見張っているので、果たせなかったが。

興味深い。

此処では、仏教が、却って争いの原因の一つになっている。佐安の奴は敢えて呼ばない。放って置いて、そのままの流れに任せる。

時々山に戻って、部下に問題が起きていないか確認。

びっくりするほど、ヤマトは誠実に和議を守っている様子だ。たまに粗相をする奴もいるが、そういった連中は、元々いるヤトの部下で対応できるという。

或いはこれもヤマト側の手かも知れないと思ったが、敢えて黙っておく。今は、此奴らも信用していない。

元から信用はしていないが、更に信頼度は下げた。

村に戻って、観察を続ける。

此処のことは、敢えて誰にも言わない。ヤトの配下達も、気付いている雰囲気は無かった。

数日後、ヤマト側の指揮官が戻ってくる。

軍のものらしい食糧を、荷車に積んでいた。貧しい者達を呼ぶと、不満そうな顔をしている彼らに言う。

「これは支援用に、倉から出してきた食糧だ。 ただし、移住するなら提供する」

貧民達が喉を鳴らすのが分かった。

一番若くて、頬が痩けている男が、最初に挙手し、移住を申し出る。

男の妻らしい女は、もはや衰弱しきって声も出ない様子の赤子を抱えていた。あの赤子は、多分駄目だろう。

母親が栄養失調のため、声も出ないのだ。

彼が切っ掛けとなって、何名かが手を上げる。最終的に、十人以上が、村から出ることを同意した。

「案ずるな。 移住先に、良い土地を用意しておる。 我らも長く続いた戦乱で、人手不足には苦労していてな」

「山に住んだ方が良かったのかなあ。 山神様が助けてくれただろうに」

「聞いたけれど、結構過酷らしいぜ。 子供を育てられる確率も、こっちの方が高いらしいしな」

ひそひそかわされる会話が聞こえてくる。

貧民共は、此処までしてくれた指揮官を尊敬していない。むしろ、恨みが言葉の端々に詰まっていた。

ヤトに面倒を見てもらおうという浅ましい心については、むしろどうでもよい。

実際、今でも山に流れ込んでくる逃散農民は相応の数がいると話を聞いている。

配下の目標数は一万で、まだまだそれにはとても足りない。急激に増えすぎるのは問題だが、このまま自然の増殖に任せても、目的の数に達するにはだいぶ時間が掛かる。

食糧の提供が終わると、軍が移住を申し出た貧民達を連れて行った。

移住を望まなかった連中はどうするのだろう。

恨みがましい目つきで、大量の食糧を指をくわえて見ている、やせこけた餓鬼ども。連中は、今の好機をどうして蹴ったのか。

興味がより強くなってきた。

此奴らを解析しきれれば、或いは。

身に絡みついた鎖を、全て断ちきれるかも知れない。

 

黒猿と青鬼は、顔を見合わせると。常陸の国に来ている、ツクヨミの居場所に向かった。

山が死地でなくなってから、行動範囲が広がった。

夜刀は和議を守っている。山や森で粗相をしなければ、攻撃には晒されない。事実挑発的な行動を取った連中が数名消息を絶ったが、これは自業自得だ。夜刀は何も言ってこないが、煩わしいと感じているだけだろう。

黒猿は、青鬼と一緒に、訳が分からないものを見た。最初は半信半疑だったのだが、部下に言われて実際に確認してしまうと、それが真実だと認めざるを得なかった。

夜刀が人間を観察しているのだ。

いずれにしても、ツクヨミの耳に入れておいた方が良いだろう。

途中、配下の影の者と合流して、情報を交換する。

今の時点で、夜刀の配下達を追ったり、捕らえようとする事は、させていない。ただし、居場所は確実に掴むようにさせている。

何しろ朝廷と「単独個人」で和議を結ぶような化け物だ。奴が動き出したとき、数千の軍勢を動かさないと、対処が出来ない。

東西のタケルは、崩壊した旧蝦夷の民に睨みを利かせるので精一杯。動きが全く見えないアマツミカボシの事もあって、気をもんでいる様子だ。

数日駆けて、常陸に到着。

ツクヨミは、かって夜刀が根城にしていた森の近くで、駐屯軍の舎に籠もって何か調べ物をしていた。

黒猿が出向くと、既に白面の貴公子というには無理が出始めたツクヨミが、顔を上げる。老いは誰にでも平等だ。

ツクヨミは、今は武王の補佐を北のタケルに任せ、自身は夜刀とアマツミカボシの対策に全力を向けている。

周囲にある膨大な竹簡や木簡は、おそらく奴らの資料だろう。

「如何したのですか」

「は。 夜刀を陸中の寒村で見つけました。 小さな村で、流れ込んできた貧民と、元からの民が対立し、思想的にも発火寸前です。 其処でヤトは、何を思ったか、対立の経緯を見ているようです」

「確定ではないのですね」

「奴の大まかな動きだけは捕らえられます。 何しろ人外の怪物、気配が極めて薄く、我々の技量でも捕捉が難しいのですが。 そうやって、わずかな時間だけ、奴の動きを見ました。 我々の目の前で、短時間だけ、そのような不可解な行動をしていたのは事実です」

夜刀が如何に人外でも。

どこにいるか、何をしているかは。地道な調査の結果、割り出すことが出来る。

そうやって居場所を探り出し、村に滞在している事を掴めば。後は、幾つかの傍証から、何をしているかは分かる。

ふむ、とツクヨミは唸った。

ツクヨミは、以前より更に、口調が柔らかくなってきている。それがどういう心境の変化なのかは、よく分からない。

既に黒い髪がなくなってしまった頭の影響だろうかと、黒猿はちょっと酷い事を考えた。

「私は、奴がクロヘビ集落にいた頃からの経歴を調べています。 もはや生きている者が多くないので、大変ではありますが」

「そういえばツクヨミ様は、夜刀の神が大規模反乱を起こした頃から、知っているのでしたね」

「そうです。 その頃はまだ奴は人間でしたね。 動物と意思疎通するという、人間離れした力を持ってはいましたが」

ツクヨミは徹底的な調査をしていて、今黒猿が報告したことも、手早く竹簡にまとめていた。

そして、説明してくれる。

「夜刀は人間を知りません」

「? どういうことですか」

「正確には、人間が普通に持っている、肉親や友人が掛ける情の類を知らないとみて良いでしょう。 クロヘビ集落にいた頃から、奴の周辺は無理解と拒絶だけだったことが、既に分かっています。 ミコ、巫女ではなく神子、に祭り上げられたのは、おそらく適任者が他にいなかったからでしょう。 容易くクロヘビ集落が落ちたのも、夜刀が警告していた危険を、誰も信じなかったことが原因の一つです。 もっとも、人心掌握が上手くいっていない以上、クロヘビ集落はじきに労せず落ちていたでしょうが」

その後も、夜刀の不遇は続いていると、ツクヨミは言う。

情を通わせる事を、誰からも学ばなかったのだろうと、ツクヨミは断言。あらゆる状況証拠、それに言動が、その事実を裏付けているとか。

夜刀が情を向けたのは、動物たちだけ。それに、彼らが暮らす森。

それ以外のものは、夜刀にとっては外敵だったのだ。全ての人間が、夜刀という存在に、負の感情を向けていた。

そしてそれは。

夜刀が力を得てからは、逆噴射した。

今まで浴びていたものを、夜刀は周囲に返している。殺戮、恐怖政治、人間を利用する方向でしかものを考えない。

「まるで、怪物……」

「いえ、本物の怪物です。 夜刀が此処までの怪物になったのは、人間が原因だと断言できます」

その結果、何が起きたか。

ヤト自身が殺した人数だけでも、下手をしたら千名に達するかも知れない。

夜刀が人間を越えてしまったという事実がなくても、それは百人を軽く超えていただろう事は疑いない。

「夜刀が被害者だと言うことは分かりました。 しかし、我々は、これからどうすれば良いのです」

「現時点で、夜刀の調伏には成功しています。 今、夜刀は自身を縛る鎖を解きほぐそうと必死になっている筈。 その鎖を、より強く、より太くしていけばいい」

黒猿は、流石だと思った。

ツクヨミは夜刀を被害者だと分析していながら、同情していない。と言うよりも、ツクヨミ自身が、ある意味怪物だ。

怪物同士の噛み合い、吼え合い。

夜刀とツクヨミの関係は、それに近いかも知れない。

「今、夜刀は己の最大の失敗である、弱者の信仰を利用した結果、逆に取り込まれてしまったという現状を解決しようと、信仰そのものを分析しているはずです。 それを上手く行かないように持っていけば良い」

「具体的には、どうするのです」

「簡単ですよ。 和議を結んだ以上、夜刀の組織は既に我らに対して開かれている。 夜刀の配下達を、どんどん取り込んでいくのです」

いたちごっこに持ち込むのだ。

仏教だけではない。信仰はそれこそいくらでもある。なくなれば、新しく作ってしまえばいい。

夜刀が解析できない人間の複雑怪奇な心理を上手く突いて、奴の得意分野である、狂気と暴力による解決を不可能な状況を、維持し続ければ良いだけのことだ。

そういうツクヨミの目に、狂気はない。

だが狂っているなと、黒猿は思った。

この男は、意図的に狂った結論を出すことを、まるで怖れていない。完全に、人の外側に位置してしまっている。

「具体的な手段については、これから指示していきます。 私の後継者達にも、同じように指示していくだけです」

「一つ、懸念が」

青鬼が、挙手した。

此奴はアマツミカボシの捜索を担当していた。顎をしゃくって、喋るようにツクヨミが促す。

咳払いすると、青鬼が言う。

「アマツミカボシは、姿を消しました。 今のところ捕捉できていませんが、如何いたしますか」

「いかなる手を用いても捕らえなさい。 或いは……」

ツクヨミが提示した手を聞いて、背筋に寒気が走る。

この男は、やはり夜刀に匹敵する怪物だと、黒猿は思った。

平伏して、ツクヨミの前から退出する。青鬼も、顔にびっしりと冷や汗を掻いていた。服の袖で拭いながら、青鬼はぼやく。

「人間離れして来ているな」

「以前は此処までではなかった。 夜刀に一度こっぴどく敗北したことが、ツクヨミ殿を育て上げたのだろう」

「……そう、だな」

ツクヨミは、根本的な所から変わったのだ。

恐らくは、夜刀の強い部分を、積極的に自らに取り入れた。そして、染まりながらも、自身を維持して見せた。

それに対して夜刀は、人間を超えて以降は、本質的に変わっていないように思える。

相も変わらずの化け物であり、武勇に関しては人間ではどうにも出来ない領域にまで到達してしまっている。

暗殺の類は不可能だろう。

遠くから姿をうかがうのが精一杯。しかも、向こうは黒猿に気付いていた。以前戦ったときとは、文字通り桁外れだ。人間の三倍もある猪を、平然と担いで来たと言うが、それにも納得がいく。

奴を殺すには、数千の軍勢を準備して、一度にぶつける、くらいのことをしなければならないだろう。

だが、心の方はどうか。

今更人間を観察している所からも分かるように、ある一点で堂々巡りしてしまっているのではないのか。

そこを、ツクヨミに突かれた。

「黒猿。 お前は、飲み込まれないようにしろ。 既にツクヨミ殿は、暗い世界の住人と化している。 特にその心は、既に人の世界から外れていると見て良いだろう」

「我らも歴史の影に生きる者だが……」

「その更に裏側だ。 ……思うに、この世界に人間が増えていくと、ツクヨミ殿のように考えられる存在が、必要になってくるのだろうな」

「……そう、だな。 そうかも知れん。 言われて見れば、その通りだ。 気をつけるとしよう」

青鬼の分析はぞっとしない。

しかも、それを否定しきれない自分がいる事に、黒猿は戦慄してしまう。

人間の作る世界とは、何だ。

むしろ、怪物とは。

人間の方では無いのだろうか。

外道に落ちる方が、むしろいっそ楽なのではないのか。

黒猿は身震いした。

青鬼と分かれて、自身の家に向けて歩き出してからも。戦慄は、収まることがなかった。人の闇に触れる仕事を続けていたからこそ。

世の中でもっともおぞましい怪物とは、人間であると。毎秒事に思い知らされて行くのだ。

黒猿は、徐々に人間が嫌いになって行く自分に気付く。

夜刀は幼い頃から、こんな感覚の中にいたのだろうか。そして、ツクヨミよりもずっと、闇のそのまた闇に落ちた。

それは、一体どのような怪物なのか。

今更ながらに、夜刀を恐ろしいと、黒猿は思った。

 

ついに殺人事件が起きた。

ヤトが高みの見物をしている先で、複数の村人が、まだ若い男をよってたかって棒で殴り殺したのだ。

夜闇の村での、一瞬での出来事。怒号も殆どわき上がらなかった。相手を人間だと見なしていないからか、殺戮には全く躊躇がなかった。

軍がいなくなってから、わずか半日後のことだ。

ただし、後始末はいい加減だった。

そのまま死体を河に放り込んで、おしまいである。

畑から、些細な作物を盗んだ。

それが、殺戮の原因だった。

すぐに下流で死体が発見された。死体の発見が早かったため、即座に身元も割れたのだろう。軍が来たが、村人達は犯人をよってたかって庇った。ヤトはアケビを貪りながら、犯人はこいつですと指摘してやろうかと思ったが。止める。此処は、狂気と正気の境目。何かの重要な解が得られるかも知れない。

好機だ。

人間の弱点を割り出せれば、或いは。

今、ヤトの体中にくくりつけられている鎖を、打ち砕けるかもしれないのだ。

貧民達は、犯人が誰かを、何となく分かっているようだった。

軍が引き上げた後、その日のうちに。

報復が行われた。

貧民達が、殺戮を行った男の家に、火を付けたのだ。中にいる女や子供達も、まとめて焼き殺してしまった。

どうやって犯人を特定したのかは分からない。

これもあっという間の出来事だった。貧民達は一瞬で事を済ませ、他の村人達が気付いたときには、もうたいまつのように家が燃え上がっていた。中の人間など、助けようがない状態だった。

さあ、これは展開が早くなってきた。

ヤトは山の中に戻ると、口笛を吹く。

近場にいる部下共を呼び集めたのだ。部下共はすぐに集まってきた。

「山神様、如何なさいましたか」

「監視の仕事だ」

「監視、にございますか」

「あの村を監視。 何が起きているか、逐一記録しろ」

そういって、竹簡を放る。

ヤトが今までの出来事はまとめておいた。文字が書ける奴が二人混じっているので、記録は問題ないだろう。

ヤト自身も観察するが、複数の目で監視した方が良いだろう。

それを告げると、一人が挙手する。

熱心な仏教徒だ。

「佐安様を呼びましょう。 酷い出来事が起きてしまってからでは、遅い気がします」

「判断は自由にしろ」

「はい。 すぐに取りかかります」

部下に、面倒なのが混じっていた。

舌打ちをしたい所だが、どうにか飲み込んだ。どうせこの様子では、破滅までそう時間も掛からないだろう。

試験的な例としては、もってこいだ。

ヤトは気配を消すと、再び村に戻る。

案の定、貧民達と村人達は、一触即発の状態になっていた。既にたいまつを持った村人達が見張りをはじめていて、武器も持ちだしている。

更に、貧民達も、同じように武器を持ちだしていた。

村長はと言うと、貧民を追い出すつもりの様子だ。このままでは、数に劣る貧民共が不利だ。

翌朝には、更に状況が悪化する。

村人の一人が、軍を呼ぼうと村の外に出て。

そのまま、槍で突き殺されたのだ。

貧民達の仕業かと思ったが、違った。ヤトは見ていたのだが、村長達が、子飼いの部下達にやらせたのだ。

そして、死体を持ち帰った村人が、泣きながら叫ぶ。

「彼奴らに殺された! 獣を殺すみたいに、慈悲がなかった!」

そいつも、村長に銭をもらった奴だった。

なるほど、興味深い。こんなふうにやると、一気に対立をあおれる、と言う訳か。情報戦とでも言うべきなのだろう。

村長は顔色も変えず、むしろ口の端をつり上げて、その様子を見ていた。貧民達は身を寄せ合って、蒼白なまま、武器を構えて村人達をにらんでいる。

見ていて分かったが、阿呆共に相手を残虐非道と思い込ませると、自分たちも残虐非道になれるらしい。

人間は、憎む相手に、簡単に同調できるわけだ。

訳が分からないが、特性は理解できた。そして、やはり皆殺しにするべきだと、ヤトは思うのだった。

村人達は、女子供まで武器を持ちだし、皆殺しの構えに出ていた。

木の枝の上で、文字通りの高みの見物を決め込んでいたヤトの側に、鳶が降りてくる。部下が書いた書状を掴んでいた。

「どうした。 どれ」

書状と言っても竹簡だから、すぐに見ることが出来る。

そして、見た瞬間に、今度こそヤトは舌打ちしていた。

「村人達は、明日には攻撃をする模様です。 貧民達は、皆殺しにされてしまいます」

「だからなんだ」

人間が一匹でも減れば、それはヤトにとって嬉しい事なのだ。

いっそのこと、此奴らが互いに駆除し合う所を、見物して腹を抱えて笑っていたいくらいなのだが。

部下がこのような書状を寄越したという事は。

既に、他の部下にも、事態が浸透しているという事。

つまりヤトがこの事態を傍観したまま終わると、後々に色々面倒な事になる。体を縛っている鎖が、軋みを挙げている音を、ヤトは確かに聞いた。

善神という縛りにヤトが落とされて以降、その行動に自由などはなくなっている。思えば、山神と名乗るようになってから、既にその傾向はあった。

手紙を竹簡に書いて、部下に戻させる。

そして自身は、大きく嘆息すると。

木の枝から降りて、高みの見物を止めることとした。

すでに、対立は致命的な所にまで信仰していた。

村人は地元と貧民に別れ、武器を構えたまま、にらみ合いに入っている。文字通り、村を真っ二つに割っての抗争寸前の状況だ。

ヤトは其処へ、まるで何事でもない。さながら、散歩にでも来たかのように、歩いて行く。

気配さえ露わにしていれば、ヤトの絹服は目立つ。

木綿を着込んでいる連中からして見れば、それだけで異世界の住民に見えるほどだと、以前鵯に聞いた。

今回は、それを活用する。

「山神様!」

「夜叉明王様だ!」

村人共が声を上げる。

同時に、畏怖の声が上がった。

ヤトの事は、仏教が広まる過程で知れ渡っている。ましてやここ東北では、戦っている姿を目撃した者も多いだろう。

それに、タケルとの和議の席。

其処には、かなりの東北の民を呼び集めていた。だから、ヤトを見た者は、少なくないはずだ。

だから、それ自体は、不思議では無い。

村長が、露骨にこびの色を浮かべて、駆け寄ってくる。それこそ、ゴマでも擦りだしかねない勢いだった。

満面の笑顔。

そういえば此奴、軍の指揮官にも、似たような顔を向けていた。

不快感で、昨日消化器以外丸ごと食べた兎が、胃の中で腐りそうだった。あれは美味しかったというのに。

ごちそうが台無しである。

「夜叉明王様、よくこのような貧しい村においでくださいました!」

「黙れ下郎」

「え……」

「全て見ておった。 最初に貧民を殴り殺した残りは、そなたら。 そして放火したのは、そなたら。 そして最後に、軍を呼びに行った者を殺させたのは……」

村長と、取り巻きを指さす。

一気に、周囲が殺気立つのが分かった。

「処刑するならば、そやつらだけにしておけ。 そやつらが死ねば、村の人数も適当な数に落ち着くことだろう」

「……! し、しかし、こ、これは……!」

村長が、見る間に青ざめていくのが分かった。

多分ヤトを買収する自信があったのだろう。だがヤトは、それこそゴミでも見るような目で、村長をみくだしている。

村人達が騒ぎはじめる。

村長が、見る間に顔を強ばらせていく。

嘆息したヤトは、剣を一閃させた。

今、名を告げた連中を、まとめて斬り伏せる。

武の修練を積んでいない人間などには、認識もさせない。

大量の鮮血が噴き出すと同時に、七人が死んだ。村長は体を十字に切り裂いて、その場で四つに分かれて散らばった。

一気に黙る村人共。

恐怖で、体が動かなくなっている。

今までの状況には分からない事も多々あった。だが、恐怖だけは、ヤトの専売特許だ。誰よりも上手に扱う自信もある。

「夜叉明王の名において、罪人を等しく裁く! 異論がある者は申し出よ! 悪人はその場で、夜叉明王が餌食にするものと知れ!」

茶番だと、ヤトは思った。何が悪人か。人間など、全部どれもこれも、悪逆の徒ではないか。それなのに、こんな寝言がすらすら出てきてしまったことが腹立たしい。

もう少し見ていたかったのに、部下共が余計な進言をしなければ、こうはならなかった。げっそりしてしまう。

どうしてヤトが、人間社会の安定などに、力を振るってやらなければならないのか。

裁きに納得したらしく、村人共が、等しく平伏する。

部下がこっちを見ているのが分かった。

もう一言、必要か。

「以降は全てを忘れ、仲良うせよ。 もしもこれ以上争うのであれば、村そのものに夜叉明王の怒りが、雷となって降り注ぐ!」

「夜叉明王様の仰せのままに!」

もう、その場で体中をため息にして消えてしまいたいくらいだった。

一体自分は何をしている。

手を打ち間違えたとは言え、どうしてこんな風に、森を食い荒らすゴミクズ共の調停をしてやらなければならないのか。

平伏した村人共が顔を上げると、其処にはもうヤトはいない。

気配を消して、飛び退いただけだが。

それで神威が生まれる。

人間共は分からない。

ヤトは山の中に戻る。部下共が、揃って頭を下げていた。

「見事なお裁きにございました!」

「後始末のために、佐安様が此方に向かっております! やはり山神様は、我ら民の味方にございます」

やめろ。

言いたくなったが、言えない。

此奴らも、いずれ山から追い出す予定なのだ。効率よくこれで管理できると、思えば良いのだが。

ヤトは割り切れない。

気付く。

また、自分をしばる鎖が強く、重くなっている。

このままでは、ヤトは本当に、善神として振る舞うほか無くなってしまう。何故、こんなくず共のために、善神として振る舞ってやらなければならないのか。

翌朝、村を覗いてみると、ヤトは全身を嫌気が走るのを覚えた。

殺された七人を無縁墓地に葬り、あげく夜叉明王によって罰せられた極悪人としたのまではまだ良い。

問題はその先で、夜叉明王に感謝を捧げる祭を始めようとか、村人共が言い始めていたのである。

怖いとは思わない。

ただ、思う。

此奴らとは、絶対に相容れない。ますます、何を考えているのか、分からなくなった。此奴らは、殺された同胞のことを、何とも思っていないのか。

ほこらが作られた。

其処に、供え物がされる。

隙を見て、供え物をかっさらってくる。隙を見てといっても、連中が祈っている一瞬の隙をついて、であるが。

それで、供え物は、部下共にくれてやった。

とてもではないが、自分でそれを食べようとは、思わなかった。

 

数日後、村に佐安が到着する。

佐安は村で色々と何かやっていたが、それから不意に、山の中に来た。ヤトを呼んでいる。

余計な事に、部下共が、鳶に書状を付けてこっちに寄越してきた。

カラスや梟たちは見張りだが、鳶はこうやって部下達がヤトの書状を出すときのための、伝達係となっている。

丁度色々疲れたので、横穴の中でげんなりしながら寝ていたヤトは、書状の中身を見て、更にげっそりした。

佐安が此方を呼ぶ声は、意図的に無視していたのだが。

部下共は気を遣って、丁寧にヤトに、佐安が来ている事を告げてきていたのである。

「ああもう!」

見えざる鎖に体が引っ張られる。

もはや、ヤト自身に、自由はないと言って良いが。それを嘆くことさえ、常態化しつつある。

元凶の一人である佐安に、全てを押しつけるわけにもいかない。

何しろ、此奴を利用したのは、ヤトなのだから。

阿呆なら、佐安一人に責任を押しつけて、のうのうと精神の安定を保つ事が出来ただろう。

冷静になって、ヤトは考える事が出来る。

此奴を利用しようとして、逆に利用されたのは、ヤト自身。ならば、佐安を恨むのは、筋違いだ。

いずれ残らずブチ殺す人間共とはいえ、自分の中で筋は通したい。

人間共と一緒になりたくはないからだ。

顔を見せると、佐安は礼をした。

「其処においででございましたか、夜刀様」

「ああ。 今起きたところだ」

佐安と一緒にいた部下共が、そそくさと火を熾す。

ヤトから、火を熾す楽しみまで奪うのか此奴らは。更に佐安と話すのが嫌になってきたが、我慢する。

我慢我慢我慢。

腰を下ろすと、昨日捕まえておいた兎を袖から出す。首を少し捻って、麻痺させておいたのだ。

腹を指で割くと消化器を取り出し、焼く。

「お前は仏僧だから、肉は食わないのだったな」

「はい。 野草と穀類だけで問題ありません」

そういって、佐安は何かを取り出す。

どうやら穀類を練って、固めたものらしい。準備が良いことだ。焼きはじめると、結構良い匂いがする。

だが、にっくき農耕民の餌だ。

わざわざ喰おうとは思わない。焼けてきた兎を、頭から囓る。頭蓋骨をばりばりとかみ砕いていると、佐安が相変わらず飯がまずくなるようなことを言った。

「村でのお裁き、見事にございました」

「あー。 そいつらに頼まれてな」

「村の者達には、夜叉明王様が悪人には怒りを、善人には慈悲をくださるお方である事を、説法しておきました。 いずれ、あの村では、御仏と同等に、夜叉明王様が信仰の対象として崇められることでございましょう」

その様子を思うだけでげんなりするが、言いたいようにさせておく。

足までむしゃむしゃ食べ終えると、もう一匹兎を袖からだす。こうなったら、今日はやけ食いだ。生態系に影響を出さない範囲内で、食えるだけ食っておこう。

蝮たちは満腹しているので、ヤト用の兎は食べない。そういうおいたはしないようにも、躾けてある。

「で? 私を呼びつけた理由は?」

「七人も切り捨てたのは、少しやり過ぎでありましたな」

「ほう?」

ならば、村人に私刑で処刑させろとでもいうのかと言うと、佐安は首を横に振る。

もう少し、死者が減る方法があっただろうというのだ。

此奴がこういうことを言い出したのは初めてだ。

ヤトとしても、ブチ殺してやりたい相手ではあるが。存在の大きさ自体は認めているから、好きなようにさせる。

「あなた様の力であれば、もっと死者を少なく済ませることも出来たはずです。 夜叉明王としての力を、さらなる多くの民を救うためにも、用いてくださると。 拙僧は嬉しく思います」

「考えておく」

兎を炙りはじめたヤトの前で、拝礼すると、佐安はその場を離れた。

部下共が戻ってくる。

めいめい、何かをたき火で焼きはじめた。たき火を囲んでいるとき、ものを喰って良いというのは、こういう場での不文律だ。

「佐安様の仕事を見ていたのですが、とても見事でした。 祭に関する助言も的確でしたし、仏像をお手づから彫られて、ほこらに祀られていたのです。 それに、山神様が斬り捨てた者達の遺族を連れて、別の村での生活を出来るよう、手配していました。 きっと、このむらには居づらいだろうとの配慮からでしょう」

「そうかそうか。 それは大した物だ」

此奴らが佐安に心酔しているのは知っているし、仏教徒である奴も混じっている。だから、好きに言わせておく。

そして不快なことに、更にヤトの身に纏わり付く鎖は、増えていく。

今回も、最終的には失敗してしまった。もっと人間を詳しく知っておかなければ、更に鎖は増えていくだろう。

やがて、身動きが出来なくなる。

姿を完全に隠したアマツミカボシの判断は、正しかったのかも知れない。

既にヤトは、「調伏」されてしまっているのだろう。

だが、このままでは終わらない。

人間共に、ヤトの存在をこれ以上好き勝手されてたまるものか。必ずや奴らを森から追い出し、農耕民共を皆殺しにするまでは。ヤトの戦いは終わらないのだ。

乱暴に兎を口に放り込んでかみ砕く。

もう一匹食べようと思って、袖から取り出した。

 

3、深淵で眠る者

 

意外に、あの人は要領が悪い。

アマツミカボシは、部下達を夜刀の配下達と混ぜると、さっさと蝦夷から姿を消した。自身は山を渡り歩きながら、畿内を目指していた。

今後も夜刀と対立する気は無い。

同盟は維持するつもりだし、夜刀自身を軽蔑もしてない。夜刀の単純な戦闘能力は凄まじいし、何よりその精神は、壊れてしまった弥生の心には、むしろすがすがしいほど気持ちが良いものだ。

ただし、今後は戦略の見直しが必要にもなる。

夜刀と違って、アマツミカボシの目的は、戦乱と殺戮だ。

手を血に染めたいのである。

そのためには安定は不愉快である。いずれ崩す必要がある。

蝦夷、というよりも東北にはすぐに戻るつもりだが、畿内の様子は確認しておいた方が良い。九州、四国も見て廻る必要があるだろう。

何処かで、大反乱を起こせる下地はないか。

それらを見て廻って、いずれ乱を起こすときの武器とする。そして自身はあくまで姿を見せず、影働きに徹するのだ。

必要ならば、ヤマトを何度も苦しめた、アマツミカボシという名前を捨てることさえ、厭わない。

殺戮。

手を血に染める。

内臓を掴む。

首を刎ねる。

全身に、返り血を浴びる。阿鼻叫喚の中、歓喜の雄叫びを上げる。

それらの喜びを知ったアマツミカボシにとって、平和は忌むべき敵だ。人間は楽しくアマツミカボシに殺されていれば、それで良いのだ。勿論、アマツミカボシを殺そうと襲ってくる事もかまわない。楽しく返り討ちにするだけなのだから。

だからこそに、努力を惜しまない。

楽しむためには、苦労が必要なのは当然の話なのだから。何もせず、アマツミカボシも人間の領域を外れたのではない。

散々苦労を重ねた上で、ようやく人間の枠組みから外れたのだ。今後も努力は重ねていく。

ただ、夜刀とは違う方向で、努力をする。

それだけのことだ。

足を止めたのには、理由がある。

この辺りは、甲斐か。夜刀の部下達に言われて、教えられた山中を通っていたのだが。不意に、囲まれたのである。

相手は影の者達。

数は十五人。かなり多いが、今のアマツミカボシの敵ではない。ただ戦意は無いようだから、戦う事、暗殺が目的ではないだろう。

「何用ですかぁ? こちとら、暇ではないんですけれど」

「あなたが、アマツミカボシ様ですね」

「……ツクヨミですか」

すぐに正体が分かった。

白髪の、やせぎすの男。漢服を着込んでいて、すぐにひねり殺せるほどに弱々しい。顔を覆っている布の隙間からも感じる。

この男、どちらかというと、精神的には。夜刀やアマツミカボシに近い、彼岸の彼方の住人だ。

「貴方ほどの武人に知られていて光栄です。 アキツ最強の武将、アマツミカボシ」

「ご用件は? 暗殺、という様子ではありませんが」

「貴方と話をしに来ました」

「ほう……?」

アマツミカボシの個人的な情報が漏れるとは考えにくい。蝦夷の王族は、王子に連れられて、既に蝦夷島に去った。かっての同僚だった巫女達も、あらかたそれに従った。

弥生としての肉親ももう生きていないし、周囲にいた連中は、そもそもアマツミカボシの正体についてさえ知らないだろう。

まあ、これだけ目立つ格好をしていれば。兵士達から聴取は可能だろう。

しかし、どうやってアマツミカボシの居場所を突き止めた。

ツクヨミが来ていると言うことは。かなり確度の高い情報を得ているという事になる。

「貴方にも良い話の筈ですが、どうでしょう。 ご足労願えませんか」

「で、その護衛はどういうことですか?」

「見ての通り、私は武芸に自信がありません。 身を守るために、こういった山奥では、備えをせねばなりません。 熊や猪は、貴方たちにとってはただのごちそうかもしれませんが、私にとっては大きな脅威なのです」

言われて、くすりと来た。

夜刀は熊や猪を、山に配慮しながら狩っている。見つけ次第ごちそうとして喰うとでも此奴は思っているのだろうか。アマツミカボシも、それに準ずる考え方だ。

ヤマト最高の知将にも、こういった抜けたところと、おかしな認識がある。

「分かりました。 良いでしょう。 ただし飽きたら皆殺しにして去るだけですよ」

「そうはならないでしょう。 此方に」

言われたまま、ついていく。

一瞬、影の者達が殺気だったが、それこそどうでもいい。

アマツミカボシは、蝦夷にいたとき、剣を一振り打たせた。蝦夷が潰れる前、かってオロチにいた人物にやらせたのだ。

腰につけている剣がそれ。

無銘だが、この人数くらいなら、さくさくと斬り伏せる事が可能だ。それだけの性能を持つ剣である。今のアマツミカボシなら、この程度の敵ならものともしないが、この剣があれば更に作業もはかどる。

本来剣は、大勢を斬る事が出来る武器ではない。

しかし、技量が加われば、それは不可能ではなくなるのだ。

やがて、山の中に村が見えてきた。

小さな村だが、周囲の警戒が異様に強い。おそらく、影の者達が作った、偵察用の拠点だろう。

「この村は、和議の条件の一つとして、山に住む者達を監視する目的で作りました。 此方へどうぞ」

「別に聞いていませんがね……」

村の周囲は柵で覆われ、見張りの塔まで作られている。

また、村の中には女子供がいない。

いずれこれを村とするとしても、今の時点では監視用の砦というのが近いだろう。中には影の者達が十名以上詰めているようだが、いずれも実戦経験者に思える。まあ、だからといって、どうともならないが。

此方に対して、敵意の視線が複数飛んできている。

アマツミカボシにとっては、塵芥に等しい。舌なめずりしながら、ツクヨミの後を追う。此奴も、余程自信があるのだろう。全く此方に対して、警戒するそぶりを見せなかった。

一度此奴が、夜刀にこっぴどく敗れたことを、アマツミカボシは知っている。

その時に、色々と変わったのだろう。

だが、敗れたのは、夜刀に対して。

アマツミカボシのように、狂気に両足を掴まれて、腰まで浸かっているような存在には、遭遇した経験があるのか。

それを見せてもらうとしよう。

一番奥に、小さな舎が作られていた。

中はそこそこに広く、備えもしている様子だ。案内されたので、堂々と入る。別に外を囲まれても、脱出する自信はある。

敷物が出てきたので、座る。

「まるで物怖じしませんね」

「それはそうでしょう。 蟻を相手に、物怖じする熊がいますか」

「違いありませんね」

ツクヨミは笑いながら、書物を広げる。

大きな竹簡だ。巻物の形にされていて、横に長い。ざっと目を通すが、これは面白い情報だ。

影の者は、このアキツ最大の諜報組織。

こういった情報も、出てくるというのは頷ける。

「貴方が調伏され、仕組みに取り込まれるのを避けるため、姿を消したことは分かっています。 それならば、いっそ我々と同盟を結びませんか?」

「同盟、ですか」

「我々としても、邪魔な者はいくらでもいます。 貴方が目的としているのは殺戮の筈で、残念ながらそれでしか解決が図れない問題も、アキツには多数存在しているのです」

巧妙に偽装しながら、海賊をしている村。

賊を多数輩出していながら、のうのうと良民を気取っている者。

高官に賄賂を送り、自身の非道を目こぼしさせている連中。

いずれもが、アキツには不要。しかし、表だって殺して廻るには、手が足りない。そう、ツクヨミは言う。

特に村単位となると、軍を動かすしか、対処法がない。

そこで、アマツミカボシのような、闇のまた闇にいる、邪悪な存在とも手を結ぶ必要がある。

そう、ツクヨミはまとめた。

「貴方が求めているのは、大動乱でしょう。 死体の山を築きたい。 それが欲求となっている。 違いますか?」

「よく分かりましたね。 その通りです」

「それならば、ある程度の素材は、此方から提供しましょう。 その代わり、我々の目が届かない所ではおとなしくしてくれていれば、言うことが無い」

アマツミカボシは、腕組みした。

此奴は筋金入りの殺戮狂であるアマツミカボシを、本気で制御しようとしている。それが出来ると思っているから、此処に話を持ち込んできた、と言う訳か。

アマツミカボシとて、無敵ではないし、不死身でもない。

夜刀が警戒していたように、数千の軍に攻撃されれば死ぬ。夜刀より武力が落ちるアマツミカボシなら、千名以上の敵に襲われるだけで致命的だろう。

それでも、此奴ら相手なら、相応の被害を出せる。

ツクヨミは、その被害を避けるために。

敢えて狂鬼と手を結ぶことを選んだか。

しかも、己の手駒とすることが出来れば、一石二鳥と言うわけだ。

「もう少し、条件に色を付けられませんか?」

「うかがいましょう」

「仕事で殺すほかに、気に入らない相手を手当たり次第に殺せるようにして欲しいのですがね」

周囲が色めきだつ。

事実上の、無差別殺戮の容認になる。

そのような事は入れられないというのだろう。実際問題、アマツミカボシも、入れられるとは思っていない。

無理難題を口にすることで、相手の反応を見るだけだ。

「流石にその条件はのめませんね。 貴方のことだ。 武王陛下や、その家族と言いだしかねませんから」

「ならば対価は?」

「強欲ですね、貴方は」

「これでも自分の欲望には忠実な自覚がありましてね。 頭の枷が外れてからと言うもの、なおさら拍車が掛かっています」

これが、性欲や、物欲だったら、まだよかったのだろう。

アマツミカボシの場合は、殺戮欲とでもいうべき、普通の人間ならまず抱く事がないものだ。

「それならば、こうしましょう。 大陸へ行く便宜を図って差し上げます」

「ツクヨミ殿!」

「大陸にある幾つかの国では、このアキツとは比較にならないほど、激しい戦乱の嵐が吹き荒れています。 そしてアキツでは、まだ統一がなったとはいえ、国内の体制が固まりきっていない」

なるほど。

徹底的に大陸の情勢を乱してこい、というわけか。

殺戮し放題の状況を用意すると、ツクヨミは言っている。それに、アマツミカボシは、乗っても良い。

しばらく考え込んだ。

それにしても此奴は、アマツミカボシと同等か、それに近い次元の狂人となっている。今までの提案は、大量殺戮を基本的に容認するものばかりだ。アキツの平和のためなら、殺戮もやむなし。そう認めている事となる。

それはそれで素晴らしい。

特に、大陸へ行く便宜を図るという考えについては、アマツミカボシもいろいろな意味で感動した。

殺戮し放題というのは、大変に魅力的な提案だ。

「そうですね。 少し考える時間をもらいましょうか」

「別室にご案内を。 茶を淹れます」

これも想定していたのだろう。

ツクヨミが、別室を用意していた。其処はそこそこに広く、横になって寝転がるには充分だ。

まだ若い男が、茶を運んできた。

臭いを嗅ぐが、毒は入っていない。

「此方としても、あまり時間は用意できません。 できる限り早めに、判断をお願いいたします」

「女子を急がせるものではありませんよ」

「……」

ツクヨミは何とも言えない笑みを返すと、部屋を出て行った。

横に転がると、茶を口に入れる。

あまり美味い茶ではない。

一つ、気に入らないことがある。制御される、という事そのものだ。

ツクヨミにとって、夜刀が無力化できた今、最大の問題はアマツミカボシという事なのだろう。

事実その通りだ。アマツミカボシが、九州にでも行き、鎮火しつつある反乱を煽りでもしたら、統一したアキツが全てひっくり返るのだから当然だ。

かといって、確実に殺せるとは限らない。だからこそに、首に縄を付けたいというのは、理解できる。

しかし、アマツミカボシは。犬になった自分を想像すると、ぞっとしないのだ。

というよりも、そもそもだ。

誰かの言うことを聞いて、その通りに動くという事自体が、気にくわない。アマツミカボシは、思うとおりに暴れ回りたいのである。

しばらく考え込む。

だが、名案は浮かばない。あくびが何度か出た。横になっている内に、眠くなってきた。敵地ではあるが、今の力量なら、眠っている所を攻撃されても対応できる。周囲にいる程度の連中なら、多少余裕もある。

しばらく思考を廻したが、一つ良い案を思いついた。

身を起こす。

影の者達が、一気に緊張するのが分かった。

ツクヨミが、すぐに部屋に戻ってきた。

「結論は出ましたか?」

「ええ。 これから私は、数十年から百年ほど、眠ることにします」

「はあ……?」

既にアマツミカボシは、加齢を感じていない。夜刀とそれに関しては同じだ。

冬眠のような状態で、洞窟などに身を伏せれば、それで充分だろう。何十年でも、平然と生きられるはずだ。

今のアマツミカボシであれば。或いは。

千年、それ以上眠っていても、体に変調はきたさないかもしれない。既に生物ではなくなりつつあるのだから。

「何、アキツの情勢が面白くないのでね。 これから貴方の犬になるのも、安定しつつある状況をひっくり返すのも、何だか興が乗らない。 それならば、何十年かして、平和がひっくり返ってから起き出して、面白おかしく殺して廻る方が楽しそうだ」

「……貴方は、どこまで殺戮が好きなんですか」

「さあ? ただ、私が好きな殺戮は、自分で考えて、行うものだという事です。 おそらく其処には、飽きが来ることはないでしょう」

しばらく、ツクヨミは無言で考え込む。

アマツミカボシは、数十年ほど、おとなしくしてやると言っているのだ。その代わりに、眠る場所を寄越せと。

ツクヨミはそれに対して、平和を維持しなければならない立場にある。

この場で交渉が決裂すれば。

ツクヨミは、総力でアマツミカボシを殺さなければならなくなる。その時はタケルに頼んで、数千の軍を動かし。大きな被害を出す覚悟が必要となる。

「分かりました。 貴方が眠るに丁度良い洞窟などを準備いたしましょう」

「ほう……?」

「ただし、条件が一つ。 殺戮をしてまわるのは良いとしても、戦乱を加速させる方向では、動かないでいただきたい」

そうか、そうか。

条件としては悪くない。アマツミカボシとしても、本気でヤマトが潰しに来たら、かなわないのだ。

この辺りが、手の打ち所だろう。

アマツミカボシも、犬に成り下がらずに済む。

ヤマト側も、戦乱が発生した場合、それを収めさえすれば、アマツミカボシを警戒しなくても良いのだ。

「良いでしょう。 交渉成立とします。 さっそくですが、眠るのに相応しい洞窟を準備していただきたく」

「山陰にある滝穴はどうでしょう。 渡来人によると、大陸でも中々ないほどの、巨大な洞窟だと言うことです」

「案内を」

「お前達、すぐに準備を」

ほっとした様子で、影の者達が立ち上がる。

アマツミカボシという特大の災厄を封じることが出来たのだから、当然か。鼻を鳴らすと、アマツミカボシは立ち上がる。

「そうそう、先ほどの書類をもう一度見せてください」

「どうしたのですか」

「何、眠る前の腹ごしらえに、道中の村を一つか二つ、いや三つくらいにしましょう、潰して行こうと思いましてねえ」

顔中に巻き付けた布を揺らして、アマツミカボシは嗤う。

それくらいは、条件の一つとして認めろと。自分でも残虐だと思う邪神は、条件を突きつけたのだ。

「あなた方にとって邪魔な村なら、潰しても構いません、よね?」

「……分かりました。 手配します」

「そう来なくては。 そうそう、この剣では、ゴミを斬るのに用いるには惜しい。 武器はそちらで用意してもらいましょうか」

頬を引きつらせるツクヨミ。

これでいい。

どちらの立場が上か理解させれば、アマツミカボシは満足なのだ。ヤマトが調伏できなかった、最強の邪神。

夜刀でさえ、調伏されたのだ。

だが、ヤマトと対等に渡り合い、屈辱的な条件までも呑ませた。これだけやれれば、充分である。

気は晴れた。

さて、眠るために、旅をするとしよう。

 

それからアマツミカボシは、二月ほど旅をした。

途中で、三つの村を皆殺しにして、合計七十人ほどを殺した。大変に殺戮の感触が素晴らしかった。

そして満足したので、山陰の滝穴という洞窟で、以降は数十年ほど、眠ることとしたのである。

滝穴を見たのは当然初めてだが、覗いてみて満足した。

これは、実に素晴らしい。

監視役についてきていた影の者達に振り返る。

「もう帰って良いですよ。 私は数十年、いやそれ以上かも知れません。 この洞窟に引きこもっていますから」

「信用できるか」

短いが、殺気が籠もった返答。

そういえば、此奴。アマツミカボシが、面白おかしく逃げ回る子供と鬼ごっこをしたとき、飛びかかってきそうな顔をしていた。

勿論見つけた子供は八つ裂きにした。

そして、全部見つけた。

その程度の事で、何を怒るか。

アマツミカボシは、東北で散々見てきた。その比では無い殺戮が、何度も起きるのを。巫女だった頃から、幾度も幾度も。

アマツミカボシがやった殺戮など、些細なものだ。

個人が出来る殺戮には限界があると。その時に、なんと為しに理解は出来たのだ。

次に目を覚ましたときには、最低でも千匹くらいは人間を間引こう。そう、決めてもいる。

それならば、夜刀に並ぶことも、出来るはずだ。

「入り口に、鈴か何か、付けておきなさい。 私が起きたときに、鳴らすことにしますよ」

この洞窟が気に入った理由は、幾つかある。

その一つは、とにかく広いことだ。当然出口も複数ある。眠っている間に、洞窟を埋め立てられることはないだろう。

それに、中の雰囲気が良い。

静かで、何より美しい。

この静寂な闇の中で、人間共を殺すために眠る。

良いではないか。

邪神と呼ばれる存在に、相応しい寝所だ。

憤懣やるかたない様子の影の者達を背に、アマツミカボシは闇の中へと踏み込んでいく。次に起きたとき。夜刀は起きているだろうか。

起きているならば、その時に眠ったときに見た夢の話でもしたいものだ。

くつくつと嗤う。

後ろから、まだ殺意の籠もった視線が飛んできている。

だが、それも。

やがて、闇の中に完全に入った頃には。消えていた。

いつの間にか、周囲が薄明るくなっている。どうやら発光するものが、周囲にあるらしい。

その明かりが、星明かりのようで綺麗だ。

とがった槍のような石が、辺りには無数に生えている。その中の一カ所。眠るのに丁度良い、台座のような場所を見つけた。体感温度も丁度良い。もっとも、「寒い」くらいで、もはやアマツミカボシは死ぬことが無いが。

横になると、顔に巻いていた布を取る。

ついでに服も脱ぐと、側にあった水たまりで、綺麗に体を清めた。

それから服を着直したが、顔に布は巻かない。

次に布を巻くのは、起きてから。

殺戮を楽しむ時だ。

眠りに入ろうと目を閉じる。夢かうつつか、遠くで歌声が聞こえるのに気付いた。

まだ、弥生だった頃。

アマツミカボシは、穏やかな心の持ち主だった。自分でも、おとなしすぎるくらいだと、何度も不安になったほどだ。

この歌を聴いたのは、いつのことだっただろう。

思い出せない。

もう、人間だったときのことは。遠い日の夢、そのものとなっていた。

 

滝穴の入り口で待っていたツクヨミは、部下達が戻ってくるのを見て、大きく嘆息した。悲しみの結果ではない。肩の荷が下りた事によるものだ。

これで、懸念事項は、一つ片付いた。

「アマツミカボシは、眠りましたか」

「眠ったところは確認できていませんが、少なくとも眠ると言って、滝穴の奥へと潜っていきました」

「……念のため、近辺にしばらく千名ほどの軍を展開しておきましょう。 約束を破る可能性も、考慮しなければなりませんから」

「眠っている所を見つけ出して、斬りましょう。 あのような輩、生かしておいたら、それだけ災厄が撒かれるだけです」

ツクヨミは、部下の提言に、首を横に振った。

そうしたいのは山々だ。だが、危険性を考えると、避けたい。既にあの者は、摂理を外れた化け物だ。

殺そうとして、本当に出来るかは分からない。それならば、数十年は眠らせておいた方が、ずっといい。

一番ツクヨミが怖れている事態は、あのアマツミカボシが、反乱勢力を率いることである。

幸い、奴は今では、戦乱と殺戮に興味の比重を置いている。

それならば、平和さえ来れば、奴はおとなしくなる。制御自体は、どうにか出来ると見て良い。

次に目覚めたときにも、対策はしておく。

今は、それでいい。

それよりも、これで土台は整った。これから、やらなければならない事がある。

「畿内に戻り、そして準備を始めます」

「いよいよ、アキツが日本国となるのですね」

「そうです。 オオキミは天皇となり、そして神話の時代が終わります」

おおと、影の者達が、歓喜の声を上げた。

神話の時代が終われば、平穏が来るというわけではない。しかし、とっくの昔に、大陸では人間の時代が来ている。

軍神である日本武尊達には、それぞれ相応の地位を与え、人間として将軍となってもらう。

人間の時代に、神の代理として現世にいるのは、天皇だけで良い。

神話を編纂させる準備も始めている。

ただし、それらの作業が終わるには、ずっと長い時間が掛かるだろう。アキツはどうにか統一できた。

しかし、この国が大陸に対抗できるだけの力を得るには、まだまだ時と、国力が必要となる。

民を増やさなければならない。

田畑も、豊かにしなければいけない。

物資を増やして、大陸と交易し。武器の技術を高め、戦闘の知識を仕入れ。国中で、情報と物資が流れるように、路を作らなければならないのだ。

人間同士で、争っている場合ではないのだ。

九州の戦乱は、既に鎮火の傾向を見せている。後数年で、跡形もなく収まることだろう。南のタケルは、苦労しながらも、大軍をよくまとめてくれている。

最大の懸念だった夜刀は調伏の餌食となり、右往左往している。

そして次に危険だったアマツミカボシも、今、期限付きとはいえ、おとなしくさせることに成功した。

勿論、アキツを日本国に、一瞬で生まれ変わらせることは出来ない。それ自体にも、長い時間と、努力が必要になるだろう。

ツクヨミは、自分が表に立とうとは思わない。

表に立つのは、タケル達、輝く経歴を持つ英雄達で良いのだ。

自分の仕事は、此処まで。

ヤマトを脅かす闇を、制御する。この国の裏側を、しっかりしたものとする。その過程で邪魔になるものは眠らせ、排除する。それが、影の者達を統べる、ツクヨミの仕事だ。

都に戻る。

既に秋も深まりつつある。

長らく頑張ってくれた武王も、そろそろ引退の時が近い。その時に備えて、ツクヨミは幾つでも、手を打っておかなければならなかった。

 

4、溶けぬ鎖

 

東北の状況は、安定したとは言えない。

崩壊した蝦夷は、群小の村々が好き勝手をしている状態で、必ずしもヤマトの完全な統治に組み込まれたわけではない。

その過程で、無数に起こる諍い事。

ヤマトも全面的な介入を避け、ある意味傍観に徹してさえいる状況。

本来は、好機の筈なのに。

ヤトはほぞをかむ。

身動きが取れない。失策のつけが、ずっとついて廻っていた。

少し前に、アマツミカボシがツクヨミと和議を受け入れたという話を聞いた。それ自体にも驚かされたが。もっと驚いたのは、その内容である。

アマツミカボシは、既にこの状況をひっくり返す事を、諦めた。

それが、ヤトには分かったのだ。

狂気に囚われてからというもの、アマツミカボシは極端な快楽主義者になった。その快楽は殺戮というものに限定されているが。その一方で、殺戮の質にはこだわる所があった。故に、かも知れない。

だが、ヤトには朗報とはいえない。

これで、アマツミカボシと連携できる線は断たれた。

アマツミカボシとは、根本的に目的も違う。森を山を守るためには、数十年眠っているというわけにはいかない。

人間共を監視するためにも。

ヤトは、眠ってはいられないのだ。

とにかく、今は観察を続ける。そうすることで、ヤトに絡みついている、この鎖を解かなければならない。

身動きが取れないのは、あまりにも問題だ。

この間は、部下達に任せたから、失敗した。

今度は、部下にも知らせない。

問題が起きている村は、少し前に目星を付けた。徹底的に問題がこじれる様子を、しっかり分析していけば。

必ず、体に絡みついている鎖を、外す切っ掛けになる筈だ。

カラスたちが集まってきた。

血の臭いがするという。

好都合だと、ヤトはうそぶいた。どうしてだろう。武力は更に向上している。既にあの北のタケルでさえ、ヤトには叶わないだろうと思うのに。それなのに、不安がわき上がって仕方が無い。

人間にはかなわないと、思い始めているのか。

いや、そのような事は無い。

走りながら、迷いを払拭する。

既にこの身は、人を超越した。

どうやら、問題が起きたらしい。すぐに現場に駆けつける。袖の中で蝮たちが騒いでいるから、多分かなり大きなもめ事だろう。

現場に到着。

八十人ほどの、そこそこに大きな規模の村だ。

この村は、以前佐安が仏教を広めようとして、上手く行かなかった経緯がある。土着の神に対する信仰が極めて強いのだ。

それだけではなく、蝦夷とヤマトの間をかいくぐって、人さらいまでやっていたらしい。これは部下による調べだが、ヤトも調べた。今はもうやっていないようだが、色々と後ろ暗いところがある連中なのだろう。

揉めているのは、隣の村と、だ。

蝦夷が崩壊して、隣の村がこの村に対して、浚った子供を帰せと言ってきたらしい。勿論、鼻で笑った村の連中だが。

収まりがつくはずもない隣の村は、何度となく襲撃した。

それで数人が死んだ。

ヤマト側に色々と後ろめたい事がある村の連中は、訴え出ることも出来なかったのだろう。実際、人さらいをしていたのであれば、相手側の村の話を聞いたヤマトの軍が、どう動くか分からない。

こういう村だからこそ、御仏の教えを広めなければならない。

そう佐安は言っていたが。

それが上手く行かなかったからこそ、ヤトはじっくり見定める必要がある。此奴らを観察して、人間を分析しきれれば。

或いは、この身に絡みついた、調伏というヤトにとっておぞましい鎖を、断ち切ることが出来る。

何が善神か。

何が救いか。

木の枝に上がると、状況を観察。

人間共は顔を歪めて、互いに罵り合っていた。

娘を帰せ。

息子を帰せ。

叫ぶ声に、村の連中は言いがかりだ、嘘だと、わめき返している。だが、周囲から押しかけてきている連中の方が、明らかに多い。村の人数は八十程度だが、その三倍は押しかけてきている。

これは、誰かが石を投げはじめれば、即座に殺し合いに発展する。

捕まえてきた兎の首を折ると、まだ暖かい内臓を捨てて、口に入れる。ばりばりと頭蓋骨をかみ砕きながら、様子を見守った。

これは、使えるかも知れない。

やがて、予想通り、投石が始まった。投石は充分な殺傷力がある。勿論、やられるほうも、黙ったままではない。

そして、すぐに武器を持った殺し合いに発展する。

悲鳴と怒号。

かたや荒事と裏家業で生計を立てていた村だが。しかし、蝦夷の他の村だって、戦乱に晒されていたのだ。

数の差は三倍。

個々に大した差がない以上、囲まれてしまえばおしまいだ。兵力差が三倍なら、見る間に勝負がついてしまう。

一方的な暴力が始まった。

家が押し潰される。中に隠れていた女子供、老人が引っ張り出され、棒で袋だたきにされた。

流石にこれだけの騒ぎになれば、軍が出てくるだろう。

子供を呼ぶ声がする。

断末魔の絶叫。取り囲まれているのは、村長だろう。血走った目をした暴徒達が、一斉に武器を村長に振り下ろした。

ヤトは兎の足をもみもみと噛みながら、ぼやく。

「馬鹿な連中だ。 せめて聞き出してから殺せば良いものを」

暴れている連中は、根こそぎ家を引き倒し、潰し、中にいた者達を片っ端から殺して行った。

これでは浚われていた子供がまだ此処にいたとしても、助かりはしないだろう。

既に目の前が見えていない。

暴虐が目的化していて、何をしているか分かっていないのだ。

身を乗り出して、状況を確認する。

だが。その時。余計な事が、また起こってしまった。

佐安が姿を見せたのである。

奴には此処の状況を伝えていないはず。どうして、此処を突き止めたのか。ヤトの部下達には、情報を確認した。此処の状況を知る者はいなかった。そうなると、佐安は既に、ヤトの配下だけではなく、独自の情報網も持っていると言うことになる。

「喝!」

佐安が一声発すると、狂乱がふいに止んだ。

今まで暴力に酔っていた連中が、動きを止める。そして、罪悪感に満ちた目で、佐安を見るのだった。

何だ、これは。

佐安の周囲にいるのは、ヤトの配下ではない。連中は、何だ。村の連中を手なづけて、部下にしているのか。

「さ、佐安上人!」

「このような真似、御仏が許すとお思いか! 代表者達は前に出よ!」

「し、しかし」

「はようせい!」

雲行きが怪しくなってきた。それにしても、佐安はこのような激しい口調で喋ることもあったのか。

兎を飲み下すと、ヤトは気付く。袖の中にある、麻痺させた兎を、いつの間にかもう一匹出してしまっていた。

腹も減っていないのに。

仕方が無いので、袖の中にいる蝮たちに与える。

佐安は、土下座した村の代表者達に、話を聞いている。生き残った、襲撃された側の連中も、同じように土下座していた。

「なるほど、この村では、人さらいをしていたと」

「へえ、間違いありません!」

「お前達、どうなのだ。 人さらいは地獄に落ちる大罪だ。 だが、もしも罪を告白するのであれば、多少はマシな地獄へゆけるかも知れん。 お前達が浚った子供達を救えば、或いは御仏がお許しになるかも知れぬぞ」

「……っ。 そ、それが……」

傷だらけ、煤だらけの男は、観念したように言う。

浚った子供は、既に売ってしまったと。奴隷としての需要は、どこにでもある。人手が足りない豊かな村などでは、特にだ。

殺気立つ村人達を、佐安が一睨みで押しとどめる。

此奴は、本当に。一体、何者か。

佐安を殺すわけにはいかない。

しかし、あの利用できると思った狂乱が、此奴の一喝で瞬時に鎮火してしまった。此奴が、特別に能力が高い事くらいは察しがついている。

だが、それでも。

ヤトは戦慄を抑えきれない。やはり此奴がいる限り、ヤトはこの、忌まわしい鎖から逃れられないのではないのか。

失策、それも最大の。

恐らくは、常陸を離れてから、今に到るまでの。

「ならば、そなた達は、今までのつてを使って売り払った子供達の行方を捜し、そして金品を使い果たしてでも取り戻せ。 もしも皆を救い出せたのなら。 そなた達が、地獄に落ちることは避けられるやも知れん」

「……っ、仰せの通りに、いたします」

「お前達も、聞いての通りだ。 これ以上の暴力は、御仏の許すところではない。 この者達がこれ以上の不義を働けば、待っているのは阿鼻地獄だ。 この佐安の顔を立てると思い、今は引いて貰えぬか」

兎を丸呑みにした蝮たちが、もっともっととねだっているのが、分かった。

だが此処までだ。

これ以上此処にいると、ヤトはまた、夜叉明王だの何だので、利用されかねない。事実、今も佐安は、言っている。

「もしも嘘をつくようであれば、地獄に落ちるだけではなく、夜叉明王様の怒りに触れよう」

「ひっ……!」

「三日と生きることは叶うまい。 分かったら、すぐに罪を注ぐべく、あがくのだ」

人さらいの村人達は、さっと闇夜に駆けていった。

今までの行動に罪悪感を感じていたのか。いや、これは。救済と懲罰をともにちらつかせ、上手に心を動かした、という事だ。

ヤトは無言で、その場を離れた。

おそらく佐安は、既にヤトの配下だけではなく、この東北全域に網を張っている。である以上、ヤトが彼奴らを見逃しでもすれば、即座に面倒な事になる。ヤトは最悪なことに、連中の顔を覚えてしまった。

以降は、不真面目に動いているのを目撃したら。その場でブチ殺さなければならない。

頭を掻く。

また、鎖が増えてしまった。

どうしてこう上手く行かない。どんどん身を覆う鎖が、増えていく一方だ。もはやヤトには、未来もなければ、希望も無いのか。

自業自得。

不意に、そんな言葉が、脳裏に宿る。

だが、そんなものは人間の理屈だ。

横穴に戻る。まるで、逃げ帰ったようだった。

ああ、どうすればいい。

自分で全て考えなければならない。このままでは、森を守るという機能は残るだろうが。だが、もはや其処には、思考も何も無い。

四方八方からつながった鎖に引っ張られて、その度に動かなければならない。良く言っても悪く言っても、単なる木偶だ。

いや、まて。

ひょっとして、佐安が言っている仏というのは。

首を横に振る。奴はおそらく善意によって動いている。邪悪の塊と自認するヤトが見ても、同類とは感じないのだ。それは間違いない。

だが、形のない善意が、これほどまでにヤトを苦しめるのは、何故だ。

頭をかきむしる。

もはや、アマツミカボシのように、洞窟にでも籠もって寝るべきなのか。いや、そういうわけにもいかない。

このままでは、森さえ守れなくなってくる。

何度、ため息を零したか分からない。

いつの間にか、ヤトは横に転がって、丸い月を見上げていた。

どうしたらいい。

自分の言葉に、返答はない。

月は黙りこくったまま、中空に浮かび続けていた。

 

(続)