蛇神明王

 

序、確信の通達

 

武王の元へ赴いた北のタケルは、ツクヨミの言葉が嘘ではないことを思い知らされた。

御簾の向こうにいる武王が、明らかに気弱な言葉を吐いているから、である。女官達は何をしているのか。偉大な英雄である武王にも、人間としての弱みがある。だからこそに、最後には周囲にいる者達が、支えなければならないのに。

引退を表明したことも、この気弱な心が故だろうか。

「九州の戦況は、どうなっておる」

「は。 今の時点では、散発的な反乱を潰して廻っている状況です。 ただ、懸念されるのが、反乱が飛び火することにございましょう。 早めに手を打つ必要が生じてくると思われます」

「仏教を認めよと申すか」

「少なくとも、弾圧はしないと明言はした方がよろしいでしょう」

しばらく武王は考え込んでいたが、やがて頷いた。

この辺りも、以前とは反応が違う。今の武王は、自分の衰えを自覚しはじめている。

退出すると、すぐにツクヨミが来た。

屋敷に向けて歩きながら、話をする。

「跡を継ぐ王子達への引き継ぎは進んでいるか」

「ぬかりなく。 武王が引退しても、すぐに政務が執れるでしょう。 今の時点では、長男の考様が、有力候補にございます」

「それならば良い。 問題は、仏教徒どもだな」

奴らが凄まじい勢いで増えていることを、タケルは見せつけられている。

こうして都を歩いていても、時々坊主を見かけるのだ。連中が唱える呪文のようなもの、経とやらも、時々嫌でも耳にする。

何名か、仏僧とも話した。

悪い印象は、ない。ただしそれは今の時点では、だ。この凄まじい広がり方を見る限り、いずれ近いうちに、私欲で利用する者が出てくるはずだ。

仏僧も私欲を殺す生き方を旨としているようだが。それもいつまで続くかどうか。

仏教は利用できる。

利用し次第では、贅沢な暮らしと、権力を得ることが可能だ。

事実渡来人によると、大陸では権力に食い込んだり、好き勝手をする僧侶が相当数いるという。

やはり思想は、あくまで道具なのだ。使う人間次第で、どうとでもなる。

「締め付けは出来ぬが、監視にも気を抜くなよ」

「分かっています」

ツクヨミが一礼し、側を離れていった。

嘆息すると、タケルは自身の屋敷に急ぐ。先ほど、西のタケルから急報があったと、知らせが来たのだ。

使者は東北から此処まで馬を乗り継いで来たらしい。よほどに急いでいた、ということだ。

アマツミカボシがなにか暴れたのか。

それとも、蝦夷が仕掛けてきたか。

どちらも可能性は低い。だが、西のタケルの急報だ。ろくなことではないだろう。覚悟は決めておく必要がある。

屋敷に入ると、すぐに使者を引見。

書状を差し出されたので、目を通す。

其処には、怖れていたことが書かれていた。

「やはり、生きていたか……!」

死体を発見できていない時点で、生きている可能性があるとは思っていた。そして生きていたというのなら。

どれだけの暗躍を、奴はしていたことだろう。

夜刀。

もはや人外に踏み込んだあの者は、達人の域に腕を高めていたタムラノマロの孫を一蹴して、姿を消したという。

既に北のタケルは、自分の衰えを自覚しはじめている。もしも正面から戦う事になったら、奴に勝てない可能性が高い。少数精鋭での攻撃は、徒労に終わるだけだと、判断してよい。

兵を揃えるとして、千ではおそらく埒があかないだろう。

ツクヨミをすぐに呼びに行かせる。

総力戦態勢で、奴を葬るしかない。今からだと、準備できる兵力は、どれくらいだろう。九州と東北に張り付かせている戦力が、かなり大きい。畿内でも、機動軍として動かせる兵力は、そう残っていない。

これから編成する必要がある。

北のタケルの直衛部隊さえ、九州に置いてきてしまったのだ。何とかして、何処かで精鋭を確保しなければならないだろう。

東北にいる部隊は駄目だ。あれはアマツミカボシへの備えとして、絶対に必要となる。

かといって、各地の駐屯軍では練度が足りない。数を揃えれば倒せるだろうが、それでもどれだけの兵が犠牲になるか、見当もつかなかった。

しばらく悩んでいる内に、ツクヨミが来る。

ツクヨミも、青ざめていた。

「やはり、夜刀の神は生きていましたか」

「うむ。 それも、以前に比べて、更に腕を上げているようだ」

「由々しき事態です」

ツクヨミは、この時に備えて、山で暮らしている者達を探らせてはいたという。それによると、今山で暮らしている人間は、とうの昔に千を超えているとか。

それも、九州反乱の残党や、東北での離散農民などが加わっていることが、ほぼ確実だという。

それだけではない。

各地で、怪しい動きをしている村があるとか。

「もしそれらの動きに夜刀の神が関わっていたとなると。 このアキツの裏側に、情報の一大闇流通網が出来ていると考えて間違いなさそうです」

「それを奴がやったというのか」

「ほぼ間違いなく」

しかも、だ。

近年、武王の衰えに呼応するように、腐敗官吏が増えてきているという。

どうも東北から、正体不明の経路で黄金が流れ込んできているようなのだ。これが賄賂として使われているらしいと、ツクヨミは言う。

しかし、経路が巧妙で、腐敗官吏を告発しても、背後関係が分からないのだとか。

もしもこれも夜刀の仕業だとすると、恐るべき事が、今アキツで起きつつあるとみて良いだろう。

「まずは、奴の居場所を探らなければならないが……」

「影の者達を総動員しますが、しかし手練れは今、殆どが九州と東北にに張り付いています。 今手元には、手練れは殆どおりません。 不慣れな者達では、夜刀の神に肉薄することさえままなりません」

「九州の情勢は」

「南のタケル将軍が押さえ込んでいますので、反乱の活発化は避けています。 ただし、まだ根強く抵抗している反乱軍が幾つか存在しているので、軍を戻すのは危険と思われます」

タケルも、それに関しては同意見だ。

困った話だが、今、畿内は軍事の空白地帯となっている。守備に用いる軍は相応にいるのだが、此処から機動軍を編成するとなると、相当に骨だ。

夜刀の神が生存していることが確実になった今、どうにかして奴を捕捉して、殺さなければならない。

優先度は、極めて高い。

「居場所を割り出すのと、機動軍の編成を、同時に進める必要があるな」

「影の者達を総動員して動かしはしますが、少し時間が掛かるかと思います。 今やアキツ中の森と山が、奴の巣と同義でありますが故」

頷くと、北のタケルは、ツクヨミを下がらせた。

ここに来て、一気に問題が噴出してきた。

王子達の育成。

仏教勢力の台頭と抑圧。

そして兵力不足が露呈してしまった畿内の現況。

何より、夜刀の神の生存。

この全てを解決するのに、一体どれだけ時間が掛かるのだろう。頭が痛い問題だ。此処からは、忙しくなる。忙しすぎて、温泉に浸かっている暇も無いだろう。

もう一つ重要なことがある。

今度こそ、夜刀を確実に殺さなければならない。今まで、幾度も奴は、死線をくぐり抜けた。これ以上同じ事をさせると、文字通り人では手が届かない存在になり果てる可能性が高い。

文字通り、アキツを揺るがす、大邪神の誕生だ。

命に代えても、討ち果たさなければならない。さもなければ、必ずや、夜刀はこのアキツをひっくり返す事だろう。

今まで命を賭けて戦ってきた者達のためにも。それだけは、絶対にさせてはならなかった。

翌日から、北のタケルは畿内の指揮官達に書状を出し、余剰の戦力を提供させる作業を始めた。

機動軍を三千から五千集め、精鋭に鍛え上げる。

半年は掛かるだろう。だが、夜刀を殺すには、それくらいの戦力が最低でも必要だと、北のタケルは判断した。

ツクヨミにも、並行して影の者達を鍛え上げさせる。

それだけではなく、大陸から来た武人も、可能な限り集めた方が良いだろう。

同時に王子達の教育も進める。

毎日が、火を噴くように忙しくなった。だが、これが人生最後の仕事だと思うと、北のタケルとしても、気が楽ではあった。

此処で、勝負を決める。

必ずや、この世に害毒しか撒かなくなったあの邪神を、仕留める。

自身の命に掛けても。

 

1、決戦に向けて

 

佐安を東北に連れて行ったヤトは、肩が凝るのを感じて、何度も嘆息した。

奴は非常に苦手だ。

ヤトの行動を悪く言わない。いちいち良いように解釈して、夜叉明王のようだというのだった。

話を聞いたが、鬼子母神というのも、人を喰らう恐ろしい邪神が、改心した者だというではないか。

御仏は、常に救いの手をさしのべているのです。

そう佐安は、何の疑いもない様子でいうのだ。世の中の邪悪というものを一身に集めたようなヤトに、である。

本当に鬱陶しい。

ブチ殺してやろうかと何度か思ったのだが、此奴を殺してしまうと戦略が成り立たなくなる。文字通り、涙を呑んで我慢しなければならなかった。

とりあえず、東北まで佐安を届けた。

その後は、好きなようにするよう指示。護衛の部下を数名付け、更にアマツミカボシにも話を通しておいた。

アマツミカボシも、佐安は苦手な様子である。

しばらく東北に滞在している間に、何度かヤトの所に来た。その度に、げっそりしていた。

「あの坊主、本当に何者ですか」

「お前も苦手か」

「大変に」

お互いに、大きく嘆息する。本当に面倒くさい代物に、目をつけてしまったものだ。確かに仏教は利用するのにも便利だが。

心に思想を持った輩と話していて、こうも疲れるとは思わなかったのだ。

しかも、殺すわけにも行かないのである。

「で、信者は増えているのか」

「爆発的に。 仏教というよりも、あの佐安本人の信者が増えているとみて良いでしょうねえ」

本来であれば、そう言う状態になれば、嫉妬から反発する者が出てくる。

だが佐安は、アマツミカボシが庇護していることを広言しているのだ。東北で、アマツミカボシの恐ろしさを知らない者などいない。おそらく動物でさえ知っているだろう。その状態で、佐安を害そうなどという命知らずなど、いるはずもなかった。

とりあえず、作戦は順調に推移している。

ヤマトの連中には、これで体中に爆発物を抱え込ませることが出来る。仏教と迅速に折り合いを付けなければ、この国は文字通り滅ぶ。国家としての力を、殆どそちらに振り分けなければならないだろう。

そろそろ、蝦夷には退場してもらうときかも知れない。

その場合は、どうするか。

殺してしまうのか。ヤトが何気なしに問いかけると、アマツミカボシは、首をゆっくり振った。

最近は布で顔を覆い、目だけを見せているアマツミカボシだが。布の巻き方は、いつも違っている。

今日は首を振ると、布の切れ端が二本、ひらひらと舞う。

或いは、それがアマツミカボシにとっての、おしゃれなのかも知れない。まあ、ヤトにはどうでも良い事だ。

「蝦夷の王族は、近いうちに蝦夷島に行かせます」

「ああ、あの巨大だという噂の」

「はい。 本州ほどではないでしょうが、相当に広大で、なおかつ環境がとてつもなく厳しい島です」

まだ自身では足を踏み入れていないが、一度行ってみたい場所だ。

其処では、どうやら蝦夷と近い人間達が暮らしているらしい。生活はより原始的で、なおかつ人数もさほど多くはないようだが。

しかし、本州とは比べものにもならないほど巨大な熊がいるという話も聞く。是非、素手で手合わせしてみたい相手だ。

「なるほど、其処へ王族を逃がすことで、蝦夷を空中分解させるつもりか」

「もとより、蝦夷にはもう命数がありません。 それならば、適当な機を見て、空中分解させてしまった方が良いでしょう」

「なるほど、確かにそうだな」

蝦夷は。

いや、正確には蝦夷の民は。既に、蝦夷王族に心を寄せていない。

戦争は搾取と同義だった。多くの人を死なせ、結局ヤマトに勝てなかった無能な王族に、民はもはや期待していない。その程度の理屈は、ヤトにも分かる。

アマツミカボシのような、血に飢えた鬼神に必死にすがって、それで生きながらえようとしている民である。

そこに、仏教が入ってくればどうなるか。

ヤマトの軍勢は、統治のために進軍してきて、泡を吹くことになるだろう。其処にあるのは、想像を絶する、混沌だ。

仏教を取り締まるわけにも行かない。

かといって、村々を制圧しても、まるで泥に手を突っ込むような有様となるだろう。

苦労している内に、自分たちが何をしているのか、分からなくなってくる。

当初の戦略は、殆どそれだけで達成できる。

後は時々引っかき回してやるだけで、ヤマトの力は、大幅に削ぐことが可能だ。

「それで、お前はどうするつもりだ、アマツミカボシ」

「しばらくは貴方の真似をして、ヤマトを引っかき回しますよ。 蝦夷が瓦解した直後、ヤマトが一番苦労するでしょうし。 その頃を見計らって、部下を小分けにして、畿内や東海にでもばらまきますか」

「面白そうだ。 いっそのこと、私の部下とも混ぜるか」

「良いですねえ」

けたけたと笑いあっていたヤトとアマツミカボシだが。

黙ったのは、遠くで、あの妙な呪文が聞こえてきたからだ。多分佐安が、部下達にあの呪文、経とやらを教えているのだろう。

別に嫌ではないのだが、佐安にすっかり苦手意識がついてしまっているヤトは、その場を無言で離れた。

良くしたもので、アマツミカボシもげっそりした様子で、ヤトに着いてくる。

「そういえば、アマツミカボシ、お前はなんと奴に呼ばれている」

「何だかよく分かりませんが、大威徳明王だとか」

「私は夜叉明王だそうだ」

どっちも戦闘神にされているというわけか。まあ、戦闘が神としての仕事だとすれば、ヤトにもアマツミカボシにもあってはいるが。

呪文が聞こえなくなってきたので、腰を下ろす。

アマツミカボシが辺りを見回しているので、ヤトも気付いた。どうやら、影の者達が、近くに来ているらしい。

あの呪文が気になって、接近に気付かなかった。

「どうする、遊んでいくか」

「もう夜刀様は彼らに捕捉された、とみて良いのでしょう? 今更避けても、仕方が無いかと思いますけれど」

「そう、だな」

どうやってこの場所を突き止めたのが、今は気になる。

一匹か二匹、生かしたまま捕らえて、口を割らせるべきだろう。アマツミカボシが、無言のまま、気配を消して離れる。

かなり気配を消すのがうまい。

ただし、これに関しては、ヤトの方が上だ。

無言で、山の中を走り始める。

影の者達は、十名ずつ三組に分かれていた。一組が突出し、他の二組がそれを支援する陣形を取っている。

アマツミカボシは、それこそ蝮が兎の首筋に噛みついていくように、突出した囮へと近づいていく。

ヤトは其処から少し離れて、むしろ支援担当の組に近づいていった。

部下共も動員するべきかと、一瞬思ったが。

今は、止めておく。戦いが本格的になってきたら、状況に応じて使うべきだろう。それでいい。

不意に、影の者達が動き出す。

此方を察知できていた気配はない。全部の組が、全力で下がりはじめた。途中、甲高い音が鳴る笛を使っている。

思わず耳を塞いだのは、ヤトには少しばかり鋭すぎる音だったからだ。山の中で暮らして行くには、繊細な音を聞き分ける必要がある。あのように遠慮がない音では、鼓膜が痛んでしまう。

アマツミカボシも、深追いを避けた。

影の者達は森を出ると、集落に混じって消えていった。これは、一体何をしていたのだろう。

アマツミカボシが戻ってくる。

「ヤト様、どう見ますか?」

「専門家の意見を聞かせてもらいたいな」

「威力偵察のようにも見えますねえ。 まあ、私だったら、もっと大兵力を動員して、つり出したところを叩きますけれど」

影の者達は、戻ってこない。

一度、頷き会うと、離れる。何が起きているのか、見極める必要がある。

 

それから数日、東北の各地を調べて廻ったが。影の者達は、一度も仕掛けてはこなかった。

部下達も、影の者達を見ていないという。

接触もしていないし、姿さえ確認していないと言うことだった。

思わずヤトは唸ってしまった。

あの三十人は、かなり危険が大きい仕事をしていた。恐らくは、どうやってかは分からないが、ヤトとアマツミカボシの接近にも気付いていたはずだ。

敵の軍勢はどうしているのか。

部下達を動かして探ってみたが、此方も全く動きが見えない状態だ。駐屯地でおとなしくしているか、もしくは調練を繰り返している。此方に余計な手出しをしようというそぶりもない。

情報網を使って、畿内や、東海の様子も探らせてみるが。これは流石に、情報を得られるのが遅い。

カラスたちも梟たちも、それに鳶も最大限に活用しているのだが。

鳥の目をしても、異変は見つけることができなかった。

だが、あの影の者達の動きは何だろう。

単にヤトを困惑させるのが目的とは思えない。そのような事をするにしては、あまりにも危険が大きすぎる行動だったからだ。

かといって、他に論理的な解が導き出せるだろうか。

とにかく、ヤトは森に引きこもった。

仏教が広がるのは、ただ遠目に見ているだけで良い。それだけで、戦略は徐々に達成へ向け進んでいく。佐安を殺すようなことは、敵も出来ない。九州で何が起きたか、思い知らされているからだ。

しかし、何だろう。

この言いようが無い不安は。

ほぼひと月が経った頃、敵が動いた。

複数の場所に散っていた部下が、ほぼ同時に報告してきたのである。影の者達が、大挙して現れたと。

それだけではない。ヤマトの軍勢も、続々到着しつつあると言う。規模は数十から数百というのが大半だが、何カ所かで報告がある。順番に、大軍が集結しつつあるとみて良いだろう。

吉野は無事かと問うてみる。

意外にも、吉野ではなんら問題が起きていないと、報告もあった。

つまり、ヤトがいる場所を探し当てて、其処に兵力を集中しつつある、という事だ。一体どうやって、ヤトを探し当てているのか。

ほぼ同時に。アマツミカボシに備えていた東と西のタケルも、臨戦態勢に入ったと、部下達から連絡があった。

なるほど、どうやらこれは、総力戦態勢を敷くしか無いだろう。

状況を確認しつつ、次の手を読むべく、頭を働かせる。しかし、情報が今回に限っては、入ってくるのが遅い。

影の者達は、山をしらみつぶし、というような行動はしていない。

むしろ、人里を動き回っているようなのだ。

或いは此奴らは、仏教徒の動きを警戒しているのか。そう理解できたのは、敵が動き始めてから、七日目。

森を出て、人里をうかがっている内に、結論が出た。

連中は、仏僧を連れてきている。ヤマト側についた仏僧がいるという話は聞いていたが、正にそれだ。

仏僧は、仏教徒達に、なにやら話をしている。

有り難い経とやらも、唱えて廻っている様子だ。つまり奴らは、仏教徒の横やりが入るのを、避けようとしていると見て良い。不愉快だが、ヤトとしては、邪魔も出来ない。此処で仏僧を殺したりしたら、今度はヤトが狙われることになるからだ。むしろ仏僧が殺されないように、しっかり見張っておかなければならない。

部下達は忙しく山の中を移動させているから、今の時点では敵と交戦には到っていない。甲斐から余った部下を廻させはじめているが、それでも実際戦闘となると、百人も戦闘要員を準備できないだろう。

山になれている百人とは言え、手が足りないのは、事実だ。

なるほど、ヤトがどこにいるのかは、だいたい読んでいる。というよりも、戦略的な見地から、此処から動けないというのを分析済みなのだろう。

悔しいが、その通りだ。

今、ヤトは東北を離れる訳にはいかない。仏教を浸透させ、発火点として用意するという最大の作業があるからだ。

敵はそれを読んだ。

そして、最後の戦いを、はじめようとしている。

幾つかの敵砦に、兵が集中しはじめている。最終的に、戦力は三千、いや五千に達すると、ヤトは見た。

そうなると、来るのはあの北のタケルだろうか。

奴と戦いはじめて、もう何年にもなる。いい加減体にがたも来始めているだろう。これが、まともに戦える、最後の機会になる筈だ。

いつ、仕掛けてくる。

ヤトは、どうしてか、楽しみでならない。

 

2、老兵死す

 

チカラオは、懐かしいなと思った。

最近は、北のタケルの側で、直衛としての仕事ばかりをしていた。単独行動で、少数の部隊を率いて動くのは、本当に久しぶりである。

北のタケルが信頼してくれているから、この仕事を任せてくれた。

だが、それを素直に喜ぶには、チカラオは年老いすぎた。今はただ、静かに老兵としての仕事をして行くだけである。

勿論、老人と言うほど老けたわけではない。

だが、既に軍属としては、紛れもなく高齢。高位の将軍ではない人間としては、既に限界に近い年齢だ。

実際、チカラオの年では、孫がいてもおかしくない。

それでもチカラオは、小規模部隊の長として、指揮を続ける。その老兵としての力を、最大限に生かすために。

仏僧達に好きなように読経やら説法やらをさせながら、東北の村々を廻る。アマツミカボシの軍勢は、東西のタケル達が抑えてくれているから、今の時点では、夜刀の配下による危険だけを考えれば良い。

影の者達が、作業をしっかり守ってくれている今、その危険も小さいが。

ただ、どこから夜刀が見ていてもおかしくない。奴が現れた場合、手練れの部隊が総力で対応する必要がある。そうでなければ、瞬く間に全滅させられてしまうだろう。

チカラオも年老いた。

だが、この緊張感は、いつになっても体を高揚させる。先発隊としての、チカラオの任務は重い。北のタケルが来るまでに、チカラオは作業を全て終わらせておかなければならない。

ヤトは、間違いなく東北にいる。

あのツクヨミの分析だが、間違いないと思う。吉野や東海地方では、今の時点で仏教は問題を起こしていない。

ヤマト側についた仏僧に、戦を起こさないよう、説法させて廻っているからだ。大きな問題が起きるとすれば、東北。

そして東北で九州のような仏教の乱が起きれば、その惨禍は目を覆うばかりになるだろう。

二百の兵を連れて、東北の村々を見て廻る。

極端に貧しいという事は無い。非常にとがった屋根を持つ家が多いほかは、さほど畿内と生活水準は変わらない。半ば土に埋もれているような家が多いが、それは畿内も同じなのだ。

都以外の村は、だいたいどこも同じである。

先発していた部隊と合流。影の者達の部隊もいたので、中間報告を受けた。時間も惜しいので、そのまま馬上で報告させる。

視線の先では、仏僧が、なにやら呪文のようなものを唱えていた。

「現時点では、仏教系の勢力が問題を起こす様子はありません」

「夜刀の神は仕掛けてきていないか」

「今の時点では。 兵力の集結も、もうしばらく掛かります。 戦端は開かないように気をつけてはいますが……」

ただ、問題があると、影の者達は言った。

どうやら、蝦夷が、そろそろもたないというのである。元々長年の戦で疲弊していた蝦夷だが、どうやらそれが限界に達したらしい。村々からは既に怨嗟の声しか上がっておらず、王室もなすすべがないとか。

「此処で蝦夷が崩壊すると、収集がつかなくなります」

「皮肉なものだな。 あれだけ蝦夷を攻撃し続けていたというのに、今崩壊されると困るというのは」

「全くで……」

別の影の者が来た。

なにやら耳打ちしている。報告せよと促すと、少し躊躇った後、言った。

「夜刀の神を捕捉した模様です」

「何。 それは本当か」

「正確には、敵の動きから、いると思われる場所を判断しました」

今、東北地方に、夜刀の部下と思われる者達が流入してきているという。殆どは人里に降りてくることも無く、森の中にいて、近づくとさっと姿を消してしまう。だが、森の中で暮らしているだけあり、動きは俊敏で、捕らえるには到っていないとか。

その山の民が、どう動いているかは、影の者達も把握はしている。

そしてその行動の中心点に、奴が。

夜刀の神がいる。

「現時点では、敵にも戦意は無さそうです。 彼方此方の村を見て、此方の動きを測っているように見えます」

「……」

妙に消極的だ。

というよりも、森のことしか考えていない夜刀にしては、知恵が回りすぎると言うべきなのだろうか。

今の奴は、広域戦略を使っているように思えてくる。

しかし、逆に。そうであるからこそ、かってのような怖さがないとも言えた。

チカラオは、様々な土地を廻って、いろいろなものを見た。

その過程で視野も広がったし、夜刀がどれだけ成長したのかも、まだ見てもいないのにある程度感じ取ることが出来る。

だが、成長したからこそ、怖くなくなった部分もある。

かってだったら、それこそまるで藪から飛び出してくる大蛇のような、どこから攻めてくるか分からない恐ろしさがあった。

しかし、手段を選ばなかった頃と違って、奴は様々な制約の中にいる。

だからこそに、チカラオでも、対応は出来るはずだ。

「しばらくは探り合いになるな。 油断だけはするな」

「分かっております」

「チカラオ様。 私は夜刀の神という存在と、戦ったことがありません」

まだ若手の影の者が挙手する。

力に溢れる若さと、それ故の無謀さを、溢れるばかりに持つ戦士。腕は良いようだが、世の中を舐めている節が見て取れる。

「本当に、そのように恐ろしい相手なのですか? どうも伝説だけが先行した、ただの盗賊に思えてならないのですが」

「……俺が戦った頃は、まだ奴は人間だったな。 だが、あのタケル将軍が畿内で戦った頃には。 もう、人間ではなくなっていたようだ」

「はあ……? 人間では無い?」

「これは比喩ではない。 既に奴は、どのような達人でも、人間である限り一対一では勝てぬ域にまで力を高めているとみて良いだろう」

「人間が、そのような存在になるはずがないでしょう。 どうやら高名なタケル将軍でも、もうろくするのですな。 おおかた討伐に失敗して、そのような苦しい言い逃れをしているのでは」

せせら笑う若い影の者。

相当な腕自慢のようだが、長生きできないだろう。長生きできたら、国を担う柱石ともなるのだろうが。

此奴は多分、腕を買われて影の者に入ったのだろう。

だが、此奴程度の腕前の影の者は、他にもいくらでもいる。現にチカラオも見た事がある。新入りの中では図抜けていたのだろうが、それは単に小さな集団内での事。典型的な、井の中の蛙だ。

「そうまでいうなら、夜刀の神と戦ってみるか? もしも倒せれば、褒美は思いのままであろう」

「出来るのですか?」

「今、奴は森の中で臨戦態勢に入っている。 ずかずかと足を踏み入れれば、縄張りを荒らされた大熊よろしく必ず出てくるだろうな。 ましてやお前が一人でいるのなら、確実にだ」

「チカラオ様!」

影の者の指揮官が慌てて止めようとするが、どうせこれは無駄だ。

けしかける気はない。だが放っておいても、どうせ軍紀を破って夜刀に喧嘩を売りに行くだろう。

ならば、今やらせるのがいい。

案の定、若造は野心に身を焦がすばかりである。舌なめずりさえしている。

「行ってこい。 ただし、条件がある」

「何ですか。 すぐにでも、行きたいのですが」

「勝てないと思ったら、すぐに逃げろ。 奴は野生の獣と同じ理屈で動いていると、北のタケル将軍に聞いている。 俺も、今思うとそれが正しいように感じる。 つまり、縄張りから出れば、それ以上は追ってこない。 死んでも森から抜け出せ」

「了解……。 手柄は俺のものだ!」

影の者が、姿を消す。

その場を飛ぶようにして離れたのだ。なかなかの身体能力だが、はてさて。生きて帰れるかは五分五分という所だろう。どのみち死地に行くのなら、制御できるようにしてやった方が良い。

カラスが騒ぎはじめる。

何となくだが、チカラオには分かった。もう、夜刀は彼奴を捕捉したのだ。或いは、敵意は捕捉していて、それが今戦意に切り替わったのかも知れない。敵意には敏感なところも、獣らしい。

「行くぞ」

「しかし、チカラオ将軍」

「捨て置け。 もしも助からぬのなら、どれだけ手を尽くしても同じ事だ。 それにどの路、あれでは一度痛い目に遭わなければ制御も効くまい」

そのまま、村を離れる。

もちろんだが、チカラオは、彼が夜刀を倒せるとはみじんも思っていなかった。

街道を北上し、前線に近い村にまで移動した。其処は駐屯地に近い事もあって、軍を目当てとした商人がかなりの数出入りしている。活気もあり、畿内ほどではないが、そこそこ大きな街になっていた。

駐屯地に入ると、東のタケル将軍が出迎えてくれた。

長身の東のタケル将軍は、数年間部下として世話になった事がある。輝くような軍才の持ち主であり、何度もその用兵には舌を巻いた。アマツミカボシを除けば、単純な軍才で言えばこのアキツ随一だろう。

東のタケルは、今精鋭部隊を率いて、アマツミカボシに備えていると聞く。

アマツミカボシとの軍才に差があるのであれば、兵力とその訓練で補えばいい。アマツミカボシは国力の問題で二千程度の兵しか手元に置けないが、此方はその数倍。戦いになれば、数で押しきれば良い。

そう考えていることは、チカラオも知っている。

「チカラオよ。 良くぞ参った」

「東のタケル将軍も、お変わりなく」

「そなたは少し老けたようだな」

東のタケルは、今タケルと呼ばれている者の中では、かなり若い方になる。まだ十代の南のタケルが就任する前は、一番の若手だった。正直なところ、チカラオは、若くて力溢れ、才覚も持っているこの東のタケルを妬ましく思った事もある。

だが、それも老兵と呼ばれる年になっては、過去の話だ。

舎に入って、話をする。

世間話はすぐに切り上げた。北のタケルから、書状を預かっているのだ。西のタケルにも、渡さなければならない。

すぐに書状を開封し、東のタケルは読み始めた。

見る間に眉間に皺が寄っていくのが分かった。ろくでもない内容だったのだろう。

「なるほど、ご懸念は解った。 すぐに此方からも書状を出そう」

「それでは、私はこれにて」

「いや、少し待て。 これからこの地に北のタケル将軍が来られるのであれば、私も協力したい。 書状の内容を見る限り、かなり難しいとは思うが、噂に聞く夜刀の神が倒せるのであれば。 この国の未来のためとなろう」

「それは有り難きお言葉にございます。 北のタケル将軍も喜びましょう」

外で、叫び声が上がった。

兵士達が、大慌てで走り回っている。東のタケル将軍が、チカラオと共に外に出る。其処には、見るもおぞましいものがあった。

兵士達が囲んでいるそれは、生首だ。

それも、腕力だけで投擲されて、此処まで飛んできたらしい。

首の切り口は凄まじいまでに鋭利で、傷口が収縮してしまったらしく、血も殆ど出ていなかった。

誰かは、言うまでも無い。

若さと自分を過信して、夜刀に挑みに行ったあの影の者だ。

「馬鹿者が。 だから、夜刀を侮るなと!」

影の者の指揮官が、絞り出すような声で言った。止めるべきだった、とは思わない。あの若者は、いずれ自分の力を過信して、周囲に大きな禍を撒いただろう。それならば、制御できる内にやっておくべきだった。

そして、引き際が理解できなかったことが、この若者の死因だ。

「此処のすぐ側にまで、夜刀の神が来ていたという事か。 すぐに軍犬をだせ!」

東のタケル将軍が、即座に陣営に飼っている犬たちを放つ。

獰猛な吠え声を上げながら、犬たちが陣営を飛び出し、近くの街道へと走っていった。どれもたくましくて強そうな犬たちだが。

チカラオは咳払いした。

「すぐに引き返させませ」

「そうもいかん。 此処まで近くに来ているのだ。 相手の出方と力を見ておきたい」

兵士達も、続いて出て行く。

相当な精鋭で、動きは疾風のよう。見る間に陣形を組んで、街道へ出て行った。

東のタケルは、決して部下に無理はさせない。しばらくすると、部下達が戻ってくる。伝令によると、軍犬たちは森に引きずり込まれ、姿が見えなくなったという。

その少し手前で、東のタケルの部下達は陣を組んだまま、しばらく矢を撃ち込んだが、手応えは無し。

チカラオは東のタケルに伴われ、現場を見に行く。

既に変わり果てた軍犬たちが、その場に散らばっていた。森の中で見つかったらしい。どの軍犬も、八つ裂きにされていた。

特に悲惨な犬は、頭から力尽くで左右に引き裂かれていた。おそらく奴は、剣も使わず、素手で犬を解体したのだ。

訓練した軍用犬は、容易く完全武装した兵士を食い殺す。熊でも猪でも、狩ることが出来る。それを五体、奴は苦にもせず倒した。力はやはり衰えるどころか、人外の域に達しているのだと、確認できてしまった。

東のタケルは一旦兵を陣営まで下がらせる。

商人達が、不安げに話し合っていた。

彼らの間にも、山にとんでも無い化け物が住んでいると言うことは、知れ渡っているのだろう。

東のタケルは犬たちの無惨な残骸を陣営にて調べさせる。山の中では、影の者の首から下も見つかった。死体の様子からして、真正面から斬り合って、一瞬で殺されたらしい。改めて首を検分してみると、かっと見開いた目は、絶望さえ宿してはいなかった。その前に、死んだのだ。

死体の様子を確認しながら、東のタケルは唸る。

「大陸から取り寄せた軍犬でも歯が立たなかったと聞く。 この程度の軍犬では、消耗するだけか」

「まずは北のタケル将軍を待ちましょう。 このような戦い方は、奴の最も得意とする所です」

「聞いている。 そなたは確か、最も最初に、夜刀の神とぶつかり合ったという話であったな」

その通りだ。

そして、殺されている犬たちを見て、確信する。奴は成長したが、改心などする余地はない。

殺すしかない相手だ。

「滞在している間に、少しでも奴の話をして欲しい。 北のタケル将軍が来られたときには共同戦線を張り、アマツミカボシを抑えると同時に、少しでも早くこの化け物を仕留めなければなるまい」

「分かりました。 私の経験程度でよろしければ」

実際には、東西のタケルには、アマツミカボシを抑えるだけの仕事をしてもらうと、北のタケルは出立前に行っていた。

だが、チカラオは思うのだ。

更に力を増しただろう夜刀を前に、北のタケルだけで対抗できるのだろうかと。

 

数日間、各地の村を見て廻った。

夜刀はやはりというか、この辺りの森全てを縄張りにしている様子だ。たまに森に入る狩人は手出しされないが、やはり空気が変わっていると、口を揃えて証言するのだった。森が、人間に敵意を持っているようだと。

狩人は、基本的に無為な殺しをしない。だから目こぼしされているのだろうと、チカラオは思った。

周囲の森は、確かにチカラオから見てもおかしい。

やたらとカラスを目にする。

夜には、梟がとても多い。

そういえば。

奴は動物を操ると聞いている。もしもあれらが夜刀の眷属だとすると、既に臨戦態勢に入っているという事なのだろう。

影の者達は危険を承知で、山を探ってくれていた。

そしてその過程で、被害が出始めていた。

倒されるときは、悲鳴も上がらない。新入りが、何度となく深入りしては、殺されていると、指揮官は無念そうに言った。

「手練れは殆ど九州に出向いてしまっています。 此処にいる者達は、まだまだ影働きとしては経験不足。 怪物の相手をさせるのは、厳しゅうございます」

「夜刀にやられた死骸を見せろ。 とにかく、奴の恐ろしさを見せつけて、慎重に行動させるのだ」

「……はい」

肩を落として、指揮官が消える。

また、新人がやられたのだ。首を棒に串刺しにされて、森の入り口に晒されていたという。しかも体の方はばらばらにされ、それぞれが棒に串刺しにされて、並べて立てられていたのだとか。

周囲の村は恐慌に陥っていた。

夜叉明王様の怒りを静めなければと、怪しい儀式を始めた村人達もいる。彼らによると、今夜刀は、夜叉明王とか言われているのだという。

よく分からないが、仏教の戦闘神の一つだとか。

同輩を殺された影の者の中には、苛立ちを見せる者もいるが。手を出さないように、チカラオは明言。

仏教が「弾圧」に対していかなる反応を見せるかは、九州で嫌と言うほど味わった。

「とにかく今は、北のタケル将軍が大軍を率いて此処に到着するまでに、奴の情報、組織の情報を、可能な限り洗い出せ。 手出しは極力避けよ」

何度も影の者達に言い聞かせる。

チカラオだって、手をこまねいているようで、無念でならないのだ。同輩を殺されている影の者達の気持ちは嫌と言うほど分かる。

以前常陸で奴と戦ったとき、チカラオも部下を散々殺されている。

夜刀に対する憎悪は、忘れてなどいない。

森の中にいる民についても、少しずつ情報が集まりはじめる。

近辺には百名程度が潜伏しているようだと、結論も出た。そしてそのごく少数が、村の民と物々交換をしている事も。

内容は森の幸だけかと思ったのだが、これが意外である。

塩や絹まで、交換の物品に含まれているという。特に絹は、まだ朝廷がその生産の殆どを独占しているはず。

夜刀は、それにくさびを打ち込んでいるとみて良いだろう。

これはまずい。

噂に聞いているが、都の貴族に、今正体不明の金が流れ込んでいるという。今の時点では、朝廷の動きを制約するほどではないが。その内、腐敗は目に見える形になって、現れる筈だ。

こういう所でも、朝廷の専売特許が崩されるほど、夜刀は強力な流通網を握りはじめていると見て良い。

しかも、それを見せつけてきている。

仏教や、それに蝦夷と噛んでいるとなると最悪だ。夜刀はもはや、単独の怪物ではない。アキツの裏側に巨大な根を張る、邪悪な魔樹と化しつつある。

影の者達を、何度も都にやらせる。

可能な限り、情報を届けさせるのが、チカラオの役目だ。

しかし、走り回っていると、やはり体にガタが来ているのがよく分かる。疲れも取れにくくなってきていて、年を痛感してしまう。

探索をはじめて、ひと月と少し。

山間の村を視察している最中に、ようやく朗報が来た。

「タケル将軍が、都を出立した模様です。 兵力、およそ五千を連れている模様」

「うむ……!」

その兵力なら、駐屯軍から削らなくても、充分に夜刀を殺せるはずだ。

奴も怪物ではあるが、無敵ではない。

兵力で圧殺すれば、どうにでもなる。

不安要素もあるが、即時で倒してしまえば、それも解消するはずだ。とにかく、魔樹の根は早めに斬らなければ、このアキツにどのような悪影響を与えるか、知れたものではない。

チカラオは部下達を促して、東のタケルの駐屯地へ向かう。

急ぎだから、二百いるうちの一部隊、二十名だけだ。影の者も数名伴う。

調査の結果は、毎日逐一送り届けている。ぎりぎりまで、戦いが有利になるように、働いておきたい。

ふと、気付く。

周囲から、音が消えていた。

悲鳴が上がった。矢を横殴りに浴びて、護衛の兵士達が次々に倒れた。木陰に隠れろと、叫びながら自身も飛び込む。

だが、隠れた木陰も、死地だった。

影の者達が、矢を浴びて倒される。

これは、夜刀一人によるものではない。その配下達による襲撃か、或いは。派手に動きすぎたという事だろう。

想定していたことだ。

走れ。叫ぶと、チカラオは身を低くして、木々の間を縫って走る。半刻も走れば、東のタケルのいる駐屯地だ。

見たところ、矢の精度も、夜刀ほどではない。矢を斬り払って、味方を守る。いつの間にか、チカラオは殿軍になっていた。それだけ、体が衰えている、という事だ。

矢が、肩に突き刺さった。

足にも。

横転した。なおも、チカラオは叫ぶ。

「駐屯地まで逃げろ! そうすれば、援軍が来る!」

「いや、援軍は来ぬ」

背筋が凍るかと思った。悲鳴。顔を上げると、其処には。

味方の死体を踏みつぶすようにして。巨大な威圧感と共に。奴が立っていたからだ。

夜刀。

周囲には、既に息のある部下はいない。だが、歯ぎしりする前に、恐怖がわき上がってくる。

なんだ、これは。

強くなっていることは分かっていた。既に人間では無くなっているとも知っていた。途方もない達人になっているだろうとも思っていた。

だが、これは違う。違う。絶対に、このようなものが、いて良い筈がない。

今、チカラオの前で、絹服を着込んで立っている女は。いや、既に女でも無いはずだ。化け物、などという言葉では、現せない。

具現化した恐怖。

絶望がヒトの形をしたもの。

そして、その強さは。

人間どころでは無い。文字通り、神々のものだ。

「お前は確か、常陸で散々世話になったチカラオだな。 アオヘビ集落の戦いでは、貴様と随分遊んだな。 それにしても老けたものだ」

「お、おのれ……!」

「そうか、あの頃も今も私は闇の中にいるが。 光の中にいるお前達は、老けていくのだな」

今更ながらに、そんな事をいう夜刀。

いつのまにか、その手には、血まみれの剣が握られていた。いや、握っていたのに。夜刀の存在感が大きすぎて、気付かなかったのだ。

辺りには、チカラオの部下達の亡骸が、細切れになって散らばっている。それなのに、夜刀は一切血を浴びていない。それがどれほど途方もない技量による殺戮の結果かは、言うまでも無いことだ。

「北のタケルが来るのだな」

「そうだ。 貴様を斬るために」

「そうか。 何となくだが、人と戦うのは、それが最後になるだろうと、私は感じている」

足音が近づいてくる。

雑多な装備に、粗末な服装の者達。

恐らくは、この夜刀の配下だろう。いずれもが弓を持っている。此奴らが、奇襲してきたのだ。

夜刀のいる所に、追い込むために。

「今日は機嫌が良い。 遺言があるなら、聞いてやろう」

「糞喰らえだ、この化け物。 貴様には、未来永劫、追われる運命があるだけだと知れ」

「いい遺言だ。 では死ね」

ぱんと、鋭い音。

そして、その後。気付いた。

チカラオは、首を刎ねられたのだと。

ゆっくり、景色が廻っていく。夜刀は、既に剣を鞘に収めていた。

どうしてだろう。

悔しいとは感じない。それは何故か。調べられるだけのものを調べ上げて、北のタケル将軍に、残す事が出来たからだろう。

それに出会ってみて、よく分かった。

奴は、もはや人では無い。そして、その運命は、闇にしか通じていない。いずれ、ろくでもない末路をたどるのは疑いない。それならば、良いではないか。

末路を見て、嗤ってやることが出来ないのは残念だ。

チカラオの意識が、闇に溶けたとき。

どうしてか、その顔には、満足しきった笑みが浮かんでいた。

 

3、消えた命の先に

 

北のタケルは、駿河で凶報を聞くこととなった。

長年の部下であった、チカラオの死。しかも、その時チカラオが連れていた部隊は、一人も生き延びられなかったという。

戦死の前日まで、情報が緻密に届けられていたことを思うと、本当に口惜しい。夜刀に目をつけられた時点で、チカラオは引くべきだった。しかし、駆け引きで、夜刀が上回った、という事なのだろう。

死体の見聞は、東のタケルが進めてくれているという。

部隊の兵士達は、凄まじいまでに細切れにされていたそうだ。どの死体も、恐ろしい技で刻まれ、とてもでは無いが見られたモノでは無かったとか。

チカラオは、首だけ刎ねられていた。

死体は、いずれも駐屯地の側に、夜の内に届けられていたという。チカラオの胴体には、立て札が突き刺さっていた。その立て札には、遺言らしき罵倒が書かれていたのだとか。

「そうか、あやつめ。 最後まで、敵に屈しなかったか」

北のタケルは、何度も目をこすっていた。

昔から、多くの部下を失ってきた。チカラオより親しかった部下もいた。もっと悲惨な死に方をした部下も。

それなのに、何故涙が出るのか。

老いたのだ。指摘されなくとも、それは分かっている。

全軍を予定通り進める。チカラオは、夜刀について調べてくれた。それも、並の影の者では歯が立たないほどに。

ツクヨミは都に残る。

今回の戦いは速攻だ。ツクヨミが準備してくれた戦力は全てを活用し、一気に夜刀を葬り、そして都に戻る。

気弱になった武王を支える事が必要だ。

少なくとも、王子達が立派に国政を見ることが出来るようになるまでは。

相模に入り、海沿いを東に。武蔵を過ぎ、常陸に入る。

かって夜刀のいた辺りを通ったが、既に住民達の間では、夜刀は邪神以外の何者でもなくなっているようだった。

この辺りには、かって夜刀の部下だった者達もいるのに。

そういった者達まで、夜刀の名を出すと、怖れて口ごもる。あらゆる意味で、既にあの者は、人では無くなってしまっている。

兵は五千。

これに、駐屯軍の精鋭を加えて、六千。

アマツミカボシに、横やりは入れさせない。そのために、東のタケルと、西のタケルが、死力を尽くす。

夜刀は今の時点では、確実に東北にいる。

仏教の浸透が、戦略上重要になるからだろう。

奴は北のタケルが近づいてきていることを理解している。

実働兵力は六千だけだが、このほかに様々な戦力を、北のタケルは連れてきている。影の者の本隊がおよそ三百。

これに加えて、大陸から連れて来た武人が十二名。

更に、以前夜刀に愛鷹を殺された劉も来ている。アキツの鷹を数羽、鍛えに鍛え抜いて、連れてきていた。

必ず敵を取るのだと、劉は目を血走らせていた。

影の者達は先発していて、既に夜刀と熾烈な戦いを繰り広げているようだ。それだけではない。

既に存在が割れたと判断したからか、夜刀がかなり積極的に仕掛けてきていると聞く。

小さな部隊が幾つも既に壊滅させられ、三十名以上が命を落としているとか。

陣を北に進めている途中、来た者がいる。

タムラノマロの孫だ。今は坂の上と名乗っている。

「おう、息災であったか」

「おかげさまをもちまして」

坂の上の顔には、鬼相があった。髭はぼうぼうに生え、強くなるために全てを捨てた修行をして来たと、全身で主張している。

まずは体を清めてくるようにと、タケルは指示。

無言で、坂の上はそれに従った。

途中、温泉が幾つかある。

北のタケルも、既に長旅がつらくなりつつある。これはおそらく、次に引退するのは自分だろうと、北のタケルは思った。

温泉の一つは、以前も利用した場所だ。疲れを取ることに、抜群の効果を発揮する。温泉の側には小屋もあって、地熱を利用して体を温めることも出来る。

温泉を出ると、地熱で体を休める小屋に入る。其処では、体を清め終わった坂の上が正座して待っていた。

髭を剃り、髪を洗って出直してきたのだが。しかし、それでもなお凄惨である。頬は痩け、眼光鋭い。この若者は、かってはその美青年ぶりで都の女共を喜ばせたと聞いているが。今は、狂犬も同様の面貌だ。

「夜刀を殺すためだけに、其処まで腕を磨き上げたのだな」

「御意。 前回は不覚を取りました。 しかし今回は、必ずや」

「うむ、その意気や良し。 既に策は出来ておる。 そなたには、もっとも大事な場所を預けよう」

平伏すると、坂の上は、小屋を出て行った。

このようなところでは休めないというのだろう。その気持ちは分かる。そして、北のタケルは、坂の上を留めるつもりはなかった。

若い、とは思う。

だが、若い頃の北のタケルも、同じ事をしていただろう。今の北のタケルのことは、年老いてから理解すれば良い。

未来ある若者が、必ずしも理解していなければいけないことではなかった。

自身は二日滞在し、じっくり英気を養った。

その間、作戦の調整を行い続けた。二度、夜刀を殺し損ねたのだ。今度こそ、完全に殺さなければならない。

作戦の失敗は、許されなかった。

 

東北に到着したのは、夏だ。

東北が、もっとも過ごしやすくなる時期。都に比べると気候が穏やかで、随分と暮らしやすい。

既に先発の部隊が布陣している。夜刀を逃がさないように、遠方からじっくり包囲していく陣形だ。

影の者達は、既に夜刀の居場所を掴むべく、死闘を繰り返している。

少なからず犠牲が出ているが。しかし、それで分かる事もあった。

北のタケルの本隊が到着。羽前の小さな山に陣を張った。

来たのは東のタケルのみ。

一礼すると、東のタケルは地図を広げて、周辺の説明をはじめる。北のタケルも事前に頭に叩き込んでいたから、全く問題なく、知識を共有することが出来る。

「おそらく夜刀の神は、この三つの山の何処かに潜んでいます」

そういって、東のタケルは、海沿いにある山三つを順番に指さしていった。この三つで、もっとも多く影の者達が戦死しているという。

夜刀は几帳面なのかそれとも流儀なのか、殺した相手を誰も知らない内に、陣営に捨てに来るという。

勿論見張りを立てているのだが、捕捉は全く出来ない。

奴は気配を達人級の武人以上に消す事が出来るが。その技術を用いているのかも知れない。

目の前で、同僚の死体が突然現れたと嘆いている兵士もいるという。

心の病を発してしまったその兵士は、今でも恐怖に震えているという事だ。

「夜刀の配下は」

「東北全域に、おそらく二百数十がいると見ていますが。 しかし、影の者達でも、それがただの民か、夜刀の配下なのか、見分けられていないようです」

「厄介だな……」

ただでさえ、下手なことが出来ない時期なのである。

九州での大反乱に手を焼いた北のタケルとしては。無為に全域を押し潰すような事は出来ない。

幾つかの村では、半農半猟の生活をしているともいう。

そういった者達が、夜刀の配下かどうか、見分けなど簡単にはつかない。

劉が挙手した。

北のタケルは、顎をしゃくって、発言を許す。

「私の鷹たちは、奇怪な気配には敏感に動くよう、鍛えてあります」

「貴様の鷹使いの腕は信頼している。 だが、相手は人外の化け物だ。 前回の教訓を活かせるのか」

「勿論危険は覚悟の上です。 今回は、私の可愛い鷹たちを、失う覚悟もしております」

なるほど、特攻覚悟という訳か。

ならばこれ以上は何も言うまい。

「影の者達に、話はしておく。 連携して動け」

「は……」

立ち上がった劉は、一礼すると、陣を出て行った。

歩調には、隠しきれない興奮がにじんでいた。無理もない。文字通り、怨敵との戦いなのだ。

すぐに指揮官達を呼ぶ。

今回は、千名ずつ、兵士達を指揮させる。いずれもが、鍛え抜かれた歴戦の将軍達だ。まずは夜刀を包囲して、じっくりと絞り上げる。奴に兵糧攻めはおそらく無為だろうから、銅鑼や笛を使って、神経から傷つけていく。

三つの山を中心として、夜刀が潜みそうな場所を、徹底的に包囲。

包囲そのものには、用意した六千だけではなく、駐屯軍の部隊も用いる。そう言う意味では、動員兵力は一万を越えていた。

たった一人の。

いや、一匹の大蟒蛇を倒すために、一万の動員。

乾いた笑いが漏れてくるが、奴がやってきた事、そして今の実力を考えれば、妥当な戦力だ。

選んだ指揮官達は、いずれもが夜刀との戦いに連れて行った者達だ。

誰も、奴を侮ることはない。

「速攻で決めるとは言え、数日で勝負がつくとは、私も思ってはおらん。 焦りは禁物だぞ」

自分に言い聞かせるように、北のタケルは言った。

東のタケルは、アマツミカボシに備えるため、直衛を連れて陣を離れる。

長期戦になると、おそらく仏教徒共が騒ぎ出すだろう。連中の間で、夜刀は夜叉明王とか言われていることが分かっている。

負けるわけにはいかない。

これ以上奴を増長させては、この国が終わる。

今回は、奴の死体を確認するまでは、絶対に戦いを止めるわけにはいかなかった。

 

ヤトが手をかざし見ている先で、軍勢が動き出す。

一千の兵士達が束になり、それが六つ。

やはりどうやってヤトの気配を割り出したのか分からないが、包囲されていた。配下の者達は散らせて、その包囲の外に出してある。

これから連携して、敵を引っかき回していくことになる。それだけの訓練は、充分に積ませた。

さて、ここからが本番だ。

この動員兵力、敵は短期決戦を挑んできたとみて良いだろう。

北のタケルは、出てきている。気配で分かる。この間殺したチカラオの言葉もあるし、これが最後の戦いになるとみて良いだろう。

勿論ヤトは勝つつもりだ。

そのための戦略も、今回は練ってある。

空には、鷹が数羽、舞い始めている。側に舞い降りてきた鳶が戦いたそうににらんでいるが、今はまだだ。

血気盛んな鳶よりも、一回り大きい相手だ。複数を同時に相手にするには、少々厳しいだろう。

カラスたちも、今は伏せさせている。

不意に、銅鑼の音が響き渡る。

かなり激しく、山を囲んで叩き鳴らしているのは。おそらく、ヤトを心理的に削るためだろう。

だが、これは以前の戦いで、受けたことがある攻撃だ。

対策は練ってある。

無言のまま、ヤトは既に確保してある洞窟の一つに潜り込んだ。まずは、影の者どもが来るのを、此処で待ち構える。

この洞窟は複数の出口があるそこそこに大きなもので、敵もまだ構造を完璧に把握していない。

特に出口の一つは、河のすぐ近くにある。

その気になれば、河を使って、一気に下流に出ることも可能だ。それを想定して、泳げる部下を多数、連れてきてもある。

今回は、ヤトの方が敵よりも準備をしているくらいだ。

戦略でも、戦術でも、遅れを取るつもりは無い。

そして、機を見て、策を発動する。

そうなれば、北のタケルは終わりだ。勝算無くして、このような場に、もはやヤトは臨まない。

しばらく、洞窟の中で、銅鑼の音を聞き流す。

そろそろだろうと思っていると。伏せさせていたカラスたちが、鳴き声を上げた。どうやら、来たらしい。

十人ほどの小部隊が、幾つかにまとまって、風のように迫る。影の者達だ。

連中は煙を大量に出す特別なたいまつを持ってきているようで、穴を見つけては手当たり次第に放り込んでいる様子だ。

なるほど、山については調べてきているか。

この山は以前噴火したことがあるらしく、洞窟が幾つも存在している。煙で出入り口を封じて、じっくり叩くつもりなのだろう。

だが、そうはいかない。

堂々と真正面から、ヤトは姿を見せる。

愕然とした影の者達が、それぞれ笛を取り出し、吹き鳴らす。だがその時には、懐に入り込んだヤトが、敵の首を刎ねていた。一つ、二つ、三つ。うそぶきながら、次々と首を斬り飛ばす。勿論敵も案山子ではない。反撃してくるが、どの一撃も遅い。

此奴らの練度はさほど高くない。足音を聞いている時点で、ヤトには分かっていた。影の者の最精鋭であれば、こうはいかない。

これだけ増えているのだ。

質は維持できないだろう。無理も無い事だ。

最後の一人の前で、ヤトはツルギを鞘に収めた。奇声を上げて飛びかかってきた一人。だが、ヤトは身を沈めると、抜き手を叩き込む。

手先が、敵の腹を貫通した。

手を引き抜きながら、腸を引っ張り出す。

絶望と恐怖の混じった悲鳴を、影の者が上げる。

大量の鮮血が噴き出す中、ヤトは敵の腰からツルギを奪い、首を刎ね飛ばした。

最初の小隊はこれで片付いたが、敵が寄って来る気配がある。

この山にいた百名ほどの影の者達が、一斉に来た。

恐らくは、軍勢も時間をおかず、動き出すことだろう。ツルギを振るって血を落とす。使えそうなツルギは、皆奪っておく。

敵は均一に包囲陣をひいて迫ってきているが、だがまだまだ甘い。

この程度の敵ならば、正面から削り取る。

飛来する矢。

無言で最初の一矢を、首を少し傾けるだけでかわす。二本目の矢は手で掴み取り、敵を見る。

別の小隊が来ていた。

笛を吹き鳴らしている。此処にいるぞと、知らせてきているのだ。

敵の軍勢が来るまでに、影の者達を三十くらいは削れそうだ。ヤトは冷静に分析しながら、山の中で、音もなく行く。

敵が、驚きに目を見開く。

気がついたときには、歩法を工夫して迫っていたヤトが、至近にいたのだから、当然だろう。

ツルギを抜こうとするが、遅い。

その時既に、ヤトが敵のツルギを抜いて、首に突き刺していた。

さっと、他の影の者達が、ヤトを囲む。

先の小隊よりは、練度が高そうだ。

だが、それでも、たいした差は無い。

一斉に斬りかかってくる。一度に、連携して攻撃する訓練を散々積んできただろう事は、動きを見れば分かる。

しかし悲しいかな。

数が増えた分、質は維持できていない。最初に斬りかかってきた奴の腕を、無造作に斬り飛ばしながら、懐に潜り込む。

そして胸ぐらを掴むと、回転しながら、振り回した。

囲んでいた影の者達を、まとめて吹き飛ばす。

遠心力で、全身の骨がへし折れている影の者を放り投げると、思わぬ一撃を受けてたじろいでいる包囲構成者共に、斬りかかる。

不意に、後ろから矢を受けたのは。

その小隊を、片付けた瞬間の事だった。

残像を抉らせる。

自身は、木の幹を蹴り、枝の上に上がっていた。

目を細めたのは、そこそこ出来るのが出てきたからだ。どうやら影の者の中に使えるのを混ぜていたか。

おそらく大陸から来た武人だろう。

身の丈ほどもある剛弓を、引き絞る大男。見た事も無いヨロイを着て、カブトには羽の飾りを付けていた。

「いね、化け物!」

再び、矢が放たれる。

影の者達も、わらわらと集まりはじめていた。

 

「稲山にて、夜刀の神と接敵! 交戦開始!」

伝令が来た。

北のタケルは、意外だなと思った。今回のヤトは、かなり積極的に戦闘を仕掛けてくる。被害は大きくなるだろうが、奴も体力が無限なわけでもないし、攻撃を全て避けられるわけでもない。

そんな事は、誰の目にも明らかだ。

「第一隊、第二隊を向かわせろ。 包囲網に、兵力を追加」

北のタケル自身も、坂の上を連れて、陣を前進させる。

包囲網は一重ではない。突破された場合に備えて、何重にも展開する。今回は、奴に好きなようにはさせない。

すぐに被害報告が来た。

影の者の小隊が、二つ全滅。現在、大陸から連れて来た武人の一人が、奴と交戦しているという。

「行かせてください、タケル将軍」

「待て。 敵の動きが積極的すぎる。 何かある」

如何に腕が向上しているとは言え、軍勢を真正面から相手にして、勝てる訳がない。奴は何かをもくろんでいると見て良い。

しかし、地形を利用した罠は、張れないと既に結論が出ている。

戦いを開始する前に、充分に調査したのだ。

更に言えば、夜刀の配下も、恐らくは包囲陣の外に展開しているはず。どうしかけてくるかは分からないが、好き勝手にはさせない。

続報が来た。

山に突入した一隊が、夜刀を捕捉。交戦を開始したという。

千名ほどの兵士達がいる部隊と、正面から戦いはじめたというのか。一体奴は、何を考えている。

交戦が行われている山を、見下ろせる位置に来た。

手をかざすと、今正に戦っている様子が分かった。千名ほどの兵士が、喚声を挙げている。

坂の上が、身を乗り出した。

その表情は、獲物を前にした猛獣そのものだ。

北のタケルは、腕組みした。何かがおかしい。これはひょっとすると、何かしらの罠にはまっている可能性もある。

「伝令!」

「どうなっておる!」

「敵を見失いました! 現在、捜索中です!」

怪訝な話だ。

今、喚声が上がっているのは、どういうことなのか。

銅鑼を叩き鳴らさせる。ひょっとすると、味方の部隊が、混乱に陥っているのかも知れない。

原因は分からないが、まずは落ち着くことだ。敵を見失ったのであれば、冷静にならなければいけない。

しばらくすると、稲山に展開していた部隊は、静かになった。

すぐに追加の伝令が来る。

「ご報告いたします!」

「うむ」

「夜刀の神、我が隊と交戦後、不意に姿を消しました! どうやら、稲山にある洞窟へ、身を隠した模様です!」

「炙り出せ」

奇をてらう必要はない。

最初から、そう来る事は、想定の範囲内だ。山全てを焼き払うつもりで、煙が良く出るように調整したたいまつを準備してきてある。

影の者達を、即座に行かせる。

稲山から、奴を生かしては出さない。

「私にも、行かせてください」

「いや、奴はまだ余力を残している。 もう少し追い詰める」

気が逸っている坂の上を抑える。

北のタケルの元に、板に乗せられた武人が運ばれてきた。夜刀と交戦していると伝令にあった男だ。

袈裟に深々と斬られていた。

まだ息はあったが、これは助からないだろう。

「無念に、ございます……」

「戦った感触はどうであったか」

「噂に違わぬ化け物にて。 既に人間では無いというも、納得に候」

「そうか。 そなたの事は無為にせぬ。 奴は必ず討ち取る故、安心せよ」

北のタケルがそうやって目を閉じると、満足したのか。武人は、荒い息を一つつくと、息絶えた。

稲山は、全てが丸焼きになるほどに煙を上げているが。

まだ、夜刀は燻し出されていない。そうなると、洞窟を通じて、包囲網を抜けようとしているのか。

包囲の範囲を広げさせる。

このまま、逃がすような真似だけはしない。

伝令が来たのは、包囲している稲山にいる部隊からではない。後方に展開している部隊から、だ。

「伝令にございます!」

「如何したか」

「はい。 それが、近隣の村々から、住民達が嘆願書を持って、押し寄せて参りました」

「何……っ!」

坂の上が目を剥くのが分かった。

とにかく、仏教の大反乱の事を考えると、無碍には出来ない。非常に面倒な事になった。まさか、このような手を使ってくるとは。

陣に住民達の代表を招き入れる。

数珠を持っている者が何名かいた。此奴らは、間違いなく仏教徒だろう。

「武名高い日本武尊将軍にお目通り叶い、光栄にございます」

「今は戦場にて、忙しい。 要件を述べよ」

「はい。 夜叉明王様との戦を、取りやめていただきたいのです。 我らは山の富を得て生きている貧民にございます。 山の神である夜叉明王様は、偉大な仏でもあると聞いておりますれば、我らにとっては命の支えでも、心の支えでもあります」

「要は神罰を受けるが怖いと申すか」

平伏する代表者達。

ただし、完全に従順な様子は無い。此方の出方を見に来た、という雰囲気が、漂っている。

北のタケルとしても、あまり高圧的には出られない状況だ。

此奴らが下手に出ているうちはいい。しかし、この状況下で放置すると、蜂起につながりかねない。

だが、この事態も、ツクヨミは予知していた。既に、どうするかは、決めてある。

ならば、事前の打ち合わせ通り、行動するのみである。

「それならばそなた達が、その夜叉明王を連れて参れ。 そうすれば、和議の席を設けてやろう」

「夜叉明王様は、戦いを好む仏にございます。 我々が呼びかけたとしても、出てくるかどうか……」

「出てこぬのであれば、和議など結びようがない。 奴が朝廷に対して、様々な不利益となる行動をしているのは事実なのだ。 もしも和議の余地があるとすれば、一度話をして、棲み分けについて確認しておきたい」

勿論、話など載るはずがないと、北のタケルは判断している。

隣でわなわなと体を震えさせている坂の上には、視線を飛ばして、抑えるように指示。怒りはもっともだが、此処で夜刀が阿呆な行動に出れば、一石二鳥の結果が得られるのだから。

代表達が一旦引き下がると同時に、包囲網は維持したまま、山から兵を引き上げさせる。

我慢できなくなったらしい坂の上は、不満を顔中に貼り付けて、食ってかかってきた。

「何を考えておいでですか! あのような怪物と、話し合いの余地など、ある筈もないでしょう!」

「それが狙いだ」

「どういうことなのです」

「さっきの村人達を見ても分かっただろうが、あの者達は夜刀を本物の山神で、なおかつ自分たちの守護者と考えている。 その守護者が、現実にどのような存在か理解すれば、どうなるか」

坂の上が押し黙る。

基本的に夜刀は猛獣と同じだ。自分に友好的な民かどうかなど、考えもしないだろう。山に入ってきただけで、敵対の対象。問答無用で従わなければ、その場で八つ裂き。そして、死体は此方に送り返してくる。

まずしい生活をしている民草が、夜刀に救世を期待する気持ちが、目を曇らせている。仏教の浸透も、それが原因の一つ。夜刀自身が考えたのか、或いは配下に頭が良い奴がいるのかは分からないが。得体が知れない恐怖を、信仰にすり替えることで、夜刀は今までに無い力を得たのだ。

しかし、少し交戦して分かった。

夜刀は善神になるどころか、本質は更に邪悪になっている。

民草が、残虐凶暴な邪神である事を、代表者達の死という形で理解すれば、どうなるか。一気に、民草の蒙昧な夢を、晴らす事が出来る。

そして此方は、後顧の憂い無く、夜刀に全戦力を叩き付けることが可能だ。

戦いはまだ序盤も序盤。

戦死者も、今までの戦いに比べて、非常に少ない。此処で決定打になる手を打っておけば、勝ちは確定する。

今までとは動員戦力の規模が違うのだ。

如何に夜刀が圧倒的な戦闘力を手にしていても。アマツミカボシと同盟関係を結んでいたとしても。

此方の勝ちは揺るがない。

北のタケルとしても、チカラオを惨殺した夜刀を許す気は無い。確実に、此処で仕留めてしまうつもりだ。

仮に、夜刀が和議に乗ってくるとしたら。

その場合にも、手は打ってある。

話を終えると、なるほどと坂の上は頷いた。だが、やはり気にくわない部分もあるようだ。

「深慮による行動であることを理解せず、無礼な事を申しました」

「いや、かまわん。 若者は、それくらい元気な方が良い」

はははと、皆が笑う。

恥ずかしそうにした坂の上だが。また、表情を引き締めた。

「ただ、武人としての活躍が、北のタケル将軍の武名を引き上げるのではないのかと、私は思うのですが」

「「タケル」の武名は、必ずしも戦いによって得られてきたものばかりではない。 クマソのだまし討ちに代表されるように、戦いである以上、汚い手も用いられる。 ましてや今回は、相手は人間並みかそれ以上の知恵を備えた猛獣だ。 いかなる罠を用いても、恥ずべき事ではないだろう」

其処までと、話を打ち切らせる。

そして、民草の代表達に通達。

三日、待つと。

三日以内に夜刀を連れてこなかったら、総攻撃開始だ。

 

だいたい予想通りの動きだと、ヤトは木の上で手をかざしながら思った。

敵の前衛と適当に遊んだ後、不意に敵が兵を引いた。包囲網の外に廻していた部下達が、予定通りに動いたのだ。

次の手は、ほぼ間違いない。

民草の代表が、ヤトに和議を持ちかけてくることだろう。

勿論此処からは、ヤトにとっても白刃を渡るような難しい状況だ。手を間違えれば、その場で死ぬ事になる。

敵の前衛との戦いで、ヤトも無傷ではなかった。

たとえば、左の二の腕は、矢が擦っている。既に持ってきている予備の布で止血をしてはあるが、まだ傷は当然癒えていない。

他にもかすり傷は相応に多い。

首を刎ねられれば死ぬ。腹に槍を突き込まれれば死ぬ。ヤトはおそらく不老にはなっているだろうが、不死には遠いのだ。

洞窟に入ると、投げ込まれたたいまつを処理。それから、蓄えておいた干し肉を取り出して、囓る。野草とあわせて、胃を満たす。

岩陰に腰を下ろすと、腕組みして、目を閉じた。

カラスたちの鳴き声にも、耳を澄ませる。

そして、自身の気配も、極限まで薄くした。袖の中で、蝮たちが動いているのが分かった。兎を食べたいらしい。今は我慢しろと、何度か腕を動かして伝える。それだけで、意思疎通が可能だ。

傷を癒やし、意識を研ぎ澄ませておく必要がある。

和議の席が、おそらくタケルとの、最後の勝負になるのだろうから。

その先は、一気にアキツを崩すか。それとも。

いずれにしても、タケル次第だ。もっとも、ここから先のヤトの手を、タケルが読み切っているとは思えないが。

主導権は、まだ此方にある。

一晩を、そのまま明かす。

最近は横にならなくても、眠れるようになってきている。

夜明けと同時に、行動を開始。兎を数羽捕ると、自分でも食べ、蝮たちにも与えた。カラスたちも、梟たちも、さほど疲弊はしていない。空には、相変わらず三羽の鷹が舞っているが、放っておけば良いだろう。

山の中に、人が入ってくる気配。

どうやら、来たようだ。

年老いた数人の男達が、銅鑼を鳴らして歩いて来る。なにやら背負っているが、それは夜叉明王を褒め称えるもののようだ。

「夜叉明王様! お話しがあります! どうかお姿をお見せください!」

「是非、お姿を! お慈悲をください!」

「我らに害意はありません! お話しをさせてください!」

喧しい。

カラスたちもうるさがっているのが分かった。嘆息すると、腰を上げる。さて、ここからが、本番だ。

ヤトにして見ても、仏教などはどうでもいい。むしろ鬱陶しいと感じるようになりつつある。

だが最終的な目標に到達するには、これを利用するのが最善の道だ。

面倒くさいからやらない。嫌いだから近づかない。鬱陶しいから利用しない。そんな考えでは、大半の人間共と同じになってしまう。森を全て我が物とし、人間共を森から追い出すには。

嫌いなものも、利用しなければならない。

夜叉明王と言われて信仰の対象となるのなら、そうなってやらなければならないだろう。無論改心など欠片もしないが。

殺気を放ち、辺りの雰囲気を変える。

森に入り込んできた連中が、一気に押し黙った。

ヤトが姿を見せると、口を魚のようにぱくぱく開いていた連中が、慌てて平伏する。こうしないと、自分がヤトである事を、凡百の連中には理解させられないだろう。だから、わざわざ、こんな面倒な演出をした。

「夜叉明王様!」

平伏する連中。

此奴らは、ヤトの本名など、それこそどうでもいい。信仰に基づいて、自分たちの知っている名前を、勝手に呼んでいるだけだ。

別に人間がヤトの事をどう思おうと知ったことでないが、不快感はある。思えば、山神と名乗ったりと、ヤトの本名は、人間と関わるようになってから、どうでもよいものとなりつつある。

ヤトにとって、人間がどうでもよい存在であるように。

「日本武尊将軍との諍いを、どうかお納めください! 我ら民一同の、心からの願いにございます!」

「日本武尊将軍は、和議の席を用意してございます! 是非、お話を!」

「分かっている。 無為な戦いは私も本意ではない。 すぐに出向く故、そう日本武尊に伝えよ」

「おおっ!」

実際には人間を皆殺しにしたくてたまらないくらいだが、心にもないことを敢えて言わなければならない。反吐が出る。

祭をするとか。捧げ物をするとか。老人共はほざいていた。まるで蛙のように、腐葉土に這いつくばりながら。

此奴らには、獰猛な殺気を放つヤトが、神々しい光を放つ仏にでも見えているのか。

認識の差は、こうも人間に違う姿を見せるのか。

アオヘビ集落の戦士達は、徐々に人間離れしていくヤトを怖れていた。クロヘビ集落の人間達は、そろってヤトを軽蔑していた。

吉野に移ってから配下にした連中は、ヤトを人間だとは最初から思っていなかった。鵯は違うようだが、奴だけだ。

勿論、ヤトも自分を人間だとは思っていないが。

それにしても、認識とは面白くもあり、おぞましくもある。

老人共に山から出るように促し、自身は大きく嘆息しながら、最後の戦いの準備をする。少し前に、目をつけておいたものがある。

洞窟の奥に、それは転がしておいた。

白い大猪。

おそらく、生物として異常な状態で生まれてきたのだろう。普通こういった目立つ個体は生き残ることが滅多にないのだが、これは例外だ。ただし、ヤトにして見れば、白かろうが黒かろうが猪は猪。

此奴は人間の三倍ほども体重があり、猪としては最大級の大きさだ。

ヤトを見ると、猪は動けないまま、恐怖の悲鳴を上げた。

この猪は、数日前に、近くの山で見つけた。大量の野草や木の実を貪り喰っていたから、駆除することに決めたのだ。もとより猪は、あまりにも繁殖率が高すぎる。狼や熊が適切に駆除できている地域は良い。だが、人間が、具体的には農耕民が出張っている地域では、熊も狼も数を減らし、結果猪が好き放題をする事が多すぎる。

人間を全部森から追い出せば、全ては解決するのだが。それまでは、自分で森を歩いて、猪を間引くしかないのだ。

というわけで、狩をした。急所に拳を叩き込んで、体の動きを奪ってから、今回のことを思い出した。

ヤトは自分より遙かに重い猪を担ぎ上げる。

さて、仕上げだ。

悲鳴を上げてもがく猪に殺気を叩き込んで黙らせる。

そして、山を歩き、北のタケルが待つ陣に向けて、歩き始めた。

 

4、二柱の人神

 

ヤトは巨大な白猪を担いだまま、歩く。

今では、この程度の重量、苦にもならない。お気に入りの絹服にちょっと汚れがつくが、まあその程度はどうでもいい。同じ絹服はいくらでも作れるし、鵯の所に持っていって縫ってもらえばいい。

最近知ったのだが、ヤトはどうも裁縫にも才能がないらしく、鵯の真似事はどうしても上手には出来ない。

兵士達の姿が見えた。

どよめきが上がる。

ヤトは殺気を放ちながら、悠々と歩く。槍を向けている兵士達が、青ざめたまま、ヤトが歩いた分下がる。

「夜叉明王、見参。 路を開けよ!」

夜叉明王などと名乗るのは本意ではないが、まあ此処は仕方が無い。

兵士達が悲鳴を上げて飛びずさり、一部は本陣へ向けて走っていった。ヤトの到来を告げに行くのだろう。

それにしても。

今回は、戦術ではなく、戦略が全てだった。

今までは、個人としての武勇が、ヤトの武器だった。しかし今回は、ヤトは広域戦略を駆使して、此処まで事態を誘導した。

実のところ、此処まで事態を加速できたのは、偶然仏教が入ってきたからだ。

単独でも、此処までの状況に持って行ける自信はあったが。しかし、時間は最低10年は掛かっただろう。

巨大な猪が、悲痛な鳴声を上げる。

これから、自分が何をされるのか、悟っているのだ。

陣にはいると、屈強そうな連中が、目を怒らせてヤトを見ていた。その中には、面相が変わった坂の上もいた。

あれから、更に壮絶な訓練を続けたのだろう。少しはマシになったようだ。

ただ、気になるのは。此奴には、半年は動けないような怪我を負わせてやったはず。どうして動いているのだろう。

人間を止めたようには見えない。もしも何かしらの手段で内臓への打撃を癒やしたのだとすれば、興味深い。

「化け物……! どの面下げて、此処に来た!」

「道を空けよ」

「巫山戯るなよ、この……!」

「和議を結びに来た者と戦う気か? 周囲を見よ愚か者」

予定通り、陣の周囲には、仏教徒共が山と押しかけている。

ヤトが部下達に煽らせたのだ。

下手なことをすれば、此奴らが周囲に、和議会談での不義を吹聴して廻ることだろう。そうなれば、九州以上での規模で、仏教反乱が起きかねない。しかも其処にアマツミカボシの精鋭部隊が加わればどうなるか。

朝廷が守るべき民が、今は足かせとなってしまっているのだ。

そもそも此処を決戦場に選んだのは、周囲に仏教が極めて高密度に広まっているからだ。佐安が布教する過程で、この近辺を根城にしたという経緯もあるのだが、ヤトが見たところ、要は民が心酔する信仰が存在しなかった、というのも大きいだろう。佐安に何度か話を聞いたが、土着の信仰が根強い場所では、仏教もあまり広まらないという。

顔を真っ赤にし、此方を睨み殺す勢いであったが、それでも坂の上は道を空けた。

白い猪が、怖がってあえいだくらいである。

「ときに貴様、どうやって生き延びた」

「祖父が守ってくれたのだ」

「それは嘘だな。 そもそも貴様の祖父と私は、対等の立場で狩りあっただけだ。 其処には恨みなど介在する余地がない。 もっとも、人間は勝手に恨みを抱き合って、殺し合う種族ではあるが」

「貴様……っ!」

周りの者達が、坂の上に飛びつき、抑える。

抑えろ、抑えろと、必死に言い聞かせているのを鼻で笑うと、ヤトは猪を担いだまま、陣の奥へ。

坂の上とは、この程度の男か。

このままであれば、どれだけ武芸を磨いたところで、ヤトの敵ではないだろう。もしも此処から更に精神を磨き上げて、人間を止める覚悟で鍛錬を続ければ。或いは、敵手になるかも知れない。

「おお、山神様だ!」

「あのように巨大な猪を担いでおられるぞ! おなごに見えても、やはりその本性は、夜叉明王様に間違いない!」

「ありがたやありがたや」

民がぎゃあぎゃあと騒いでいる。

どいつもこいつも、阿呆ばかりだとヤトは思う。

クロヘビ集落にいた頃は、人間だったから、このような手は用いることが出来なかった。

あの時、ヤトが人間では無かったのなら。

いや、それは無意味な過程だ。

蝮が、袖の中で騒ぐ。陣を歩いていると、どうやらその最深部についたらしい。床几に、むっつりとした顔で、タケルが腰掛けていた。周囲には、奴が呼び集めたらしい、手練れの将軍達。

今回は、おそらく総力での戦いを挑んでくることは分かっていた。

だからこそ、ヤトも準備していたのだ。

目を怒らせているタケルの前に、白猪を下ろす。

ずしんと、凄い音がしたのは。わざとそう音を立てたからだ。

「土産だ。 受け取れ」

「虚仮威しをしよるな」

「何、それはお互い様だ」

何なら此処で捌こうかと言ったのだが、タケルは不要と一言ではねつけた。

そういえば、此奴と最初にあったのは、アオヘビ集落での攻防戦。あれから何年も時が流れた。

そしてその時は、タケルの顔にも体にも、老いと皺を刻んだ。

それにたいして、ヤトはただ強くなり、そして人間では無くなった。対照的な事だ。

おそらくタケルは、人としての健全な生を送っている。

それに対して、ヤトは摂理から外れてしまった。もはや人では無いし、生物でもないかもしれない。

ヤト自身はそれを悪いことだとは思っていない。

求めるのは、森の覇権だけだからだ。

野外用の椅子が出されたので、遠慮無く座ることとする。しばらく無言で向かい合っていたが、最初に口を開いたのは、タケルだった。

「随分と好き勝手をしてくれたものだ。 朝廷に此処まで単独で刃向かったのは、貴様くらいだろう」

「そうか。 伝説に聞くナガスネヒコでさえ、私よりは面倒でなかったか」

「ナガスネヒコは超人的な武勇の持ち主だったが、それでも人間であった。 貴様のように、摂理から外れた怪物ではなかった」

「それは重畳。 今の私は、ヤマトを苦しめ続けたナガスネヒコ以上の怪物と、認識されているわけだな」

タケルの周囲の将軍達の反応は様々だ。

ヤトが人間の娘にしか見えていない者もいる。反応では分かる。こんな小娘が、これだけの被害を軍に対して出させていたのかと、驚愕を顔中に湛えているからだ。

一方で、ヤトが全身から放っている異様な気配に、驚きを隠せない将軍もいた。

反応は様々だ。

「貴様の要求は」

タケルが切り出した。

ヤトは出された湯を口にしながら、さらりと返す。

「アキツ中の森と山から、出て行け。 そして二度と侵すな」

「そのような条件、飲めるはずがない。 このアキツは、まだまだ発展途上だ。 これから食糧の生産効率を上げ、民の数を増やし、国力を強化せねばならぬ。 そうせねば、大陸から迫る脅威に対抗できぬ」

「であろうな。 それで此方からも、譲歩案を用意した」

「何……!?」

おそらく、此処で交渉決裂を期待していたのだろう。

ヤトとしても、強攻策ばかりをとるばかりではない。ただし、タケルの反応を見る限り、向こうもまだまだ手札を隠している様子だが。

タケルに何か耳打ちする将軍の一人。

まだ若い男だ。ツクヨミが付けている参謀かも知れない。

「聞こう、夜刀の神」

「森を一方的に荒らすのではなく、保て。 そうすれば、私は祟りを為さぬ」

「森を、保つだと?」

「そうだ。 森から搾取し、切り開くだけでは、やがて全てが荒れ地と化すだろう。 お前達も、それは本意ではあるまい。 それに農耕も、そもそも畑を作るために、土をまず豊かにするところからはじめていると聞いている。 それと同じ事を森に対して行うのであれば、私は民に害を為さぬ。 ただし、森をただ荒らすのであれば、末代までも祟りを為すと此処で明言しよう」

頬を引きつらせるタケル。

ヤトは無茶苦茶な事を言っているのでは無い。

森に暮らす者だから分かるという点もあるが、それだけではない。森を荒らせば、いずれ全てが荒れ地と化すのは、事実だ。

これについては、渡来人の部下からも話を聞いている。

無計画に森を切り開き、森を食い荒らした結果、滅びた国は幾つもあるという。事実大陸では、そのようにして森を食い荒らし続けた結果、荒野になった土地が多数存在しているという。

勿論、これは方便。

ヤトは、人間が森と共存できるなどとは思っていない。実際問題、部下を森に住まわせてやっているのも、単に手足として用いるために必要なため。機を見て追い出すつもりなのだから。

さて、このような話、聞くはずが無い。

ならば交渉決裂。

向こうから和議を蹴ったと、首を伸ばして見ている仏教徒共に、印象づけることが出来る。

そうなれば東北で大規模反乱発生。

収拾がつかなくなる。

タケルは挙手すると、一時の打ち合わせをするべく、席を立った。まあ、無論だろう。ヤトは地面に転がされたまま泡を吹いている白猪に視線を移すと、鼻を鳴らした。

さて、勝つのはどちらか。

それにしても、互いの手札を晒しながらの交渉というのも。武器を持って殺し合うのと劣らない、なかなかに激しいものだ。

 

二刻ほど、待たされた。

ヤトは腕組みして目を閉じていたが、その間一切警戒は解いていない。これだけの人数が見ている中、ヤマト側がいきなり仕掛けてくるとは思わないが。それでも、警戒を解くには早すぎる。

ふと、足音に気付く。

できる限り無理矢理に作っただろう笑顔を浮かべて、坂の上がいた。

「何か」

「まだ会議は長引きそうですが故。 退屈しのぎに、剣舞でも如何でしょう」

「私は構わぬが、タケルの許可を取ってからにせよ」

必死に維持している笑顔が、凍り付くのが分かった。それでいながら、意地悪くヤトは、背中を向ける。

今の此奴の力量は、足音だけでだいたい分かった。

此奴がもしも仕掛けてきたら、それだけで和議は終了。しかもヤトの力量ならば、そう無理せずともかわせる。

和議終了となれば、ヤトに有利だ。さてはて、どうする。

感情を優先して、アキツの未来を棒に振るか。

無表情を保っているが、ヤトにして見れば、人間などそれこそどうなろうが知ったことではない。

必死に後ろにいる坂の上が、感情を抑えている様子は「痛々しい」のだろうが、どうでもいい。

「そう言わず。 貴方の実力を見たいという武人も多うございましょう」

「坂の上殿……!」

周囲の何名かが、見かねて止めに入る。

振り返り際に、目を細めた。

「まあ、貴様如き、後ろから斬りかかられても対応は難しくないがな」

「……っ!」

「悔しかったら腕を磨いておけ。 剣舞をやってやってもいいが、その時はお前の首が飛ぶときだ。 何だその未熟な剣気は。 あくびが出る」

歯をぎりぎりと噛む坂の上が、他の連中に引きずられていく。

ヤトは再び腰を下ろすと、本当に寝てやろうかと思った。少し待たされる時間が長すぎる。

ほどなく、タケルが戻ってきた。

「待たせて済まぬな。 何かあったのか」

「何、血気盛んな子ネズミを多少あしらっただけよ」

「冷酷な事よ。 貴様は人を傷つける事を、何とも思わぬのか」

「思わんね。 お前達が私を傷つける事を、何とも思わなかったのと同じ事だ」

タケルは少し押し黙った。

何か不思議な事でも言ったかと、一瞬悩んだが。タケルは咳払いすると、目に理解の色を浮かべた。

「なるほどな。 ようやく貴様という人間が、少し理解できた気がする」

「私は既に人では無い」

「そうかも知れないが、根底にあるのは人だ。 さて、先の交渉について、だが。 朝廷としては、話を聞いてやらん事も無い」

そう来たか。

当然、条件付きとなるだろう。

もっとも、冷静な判断力があれば、そう動くのは見えていた。実際問題、山に畑を作っても、収益は知れている。

「ほう。 それで条件は」

「お前の配下を提供してもらおう。 影の者達を育成するのは色々と手間でな。 山で育った生存能力の高い部下がいれば、随分と有用だ」

「……」

「どうした。 勿論すぐに全ての森や山から、今住んでいる民を立ち退かせる事も出来ん事くらい、貴様も理解しているはずだ。 それならば、摩擦を起こしながらも、妥協点を探っていくべきではないのかな」

ヤトは黙っていたが、それは即座に肯定も否定も出来る話ではないと思ったからだ。タケルの反応からして、何か妙だ。

これは、既に此方の手札を読んでいた、とみて良いか。話し合っていた時間は、今後の展開について、協議するためのものか。

それならば、何かしら策を講じているとみて良いだろう。しかし、和議をヤトから蹴るわけにはいかない。

これは見たところ、さほどの無理難題ではないからだ。

下手に断ると、逆に敵に対して、大義名分を与えることとなる。

席を立つと、手を叩く。

農民にしか見えない部下が一人、そそくさと歩み寄ってきた。

「これを例の場所に」

「分かりました」

すぐに、部下が飛んでいく。もう一度腰を下ろすと、ヤトはタケルに対して、咳払いした。

周囲の群衆に部下が潜んでいたことに、タケルは驚いていない様子だが。まあ、この程度は当然だろう。

この状況下で、部下が周りにいないと思っている方がおかしい。そんな相手だったら、ヤトも楽に叩きつぶせたのだが。

「少し時間をもらおうか。 即答するは難しい」

「手紙を手配したのは、アマツミカボシか」

「その通りだ。 此方も連携して動いているのでな。 貴様が、ツクヨミと相談しながら行動しているのと、同じ事だ」

今度は、ヤトがタケルを待たせる。

じらし戦術は、交渉の手の一つだ。だがタケルも慣れたもの。というよりも、恐らくは、想定の範囲内なのだろう。落ち着いている。

人間は年老いると、感情の制御が難しくなる。

此奴は、どこまで手を読んでいる。

むしろ、追い詰められているのは自分か。もしそうだとすると、この先に何があるのか、見極めなければまずいだろう。

一刻ほどで、アマツミカボシの書状が戻ってきた。

タケルは驚いたようだが、当然の話だ。アマツミカボシは、この近くで、精鋭百人ほどと待機している。いざというときの後詰めをかってでてくれたのだ。ヤマト側の警戒網など、文字通りアマツミカボシの精鋭の前では塵芥に等しい。

書状にざっと目を通す。

アマツミカボシは、罠だろうと言っていた。それは同感だ。

問題は、これにどのような罠があるのか。

部下を提供させることで、奴らは此方に対し、何を仕掛けてくる。部下を削る事だけが目的とは思えない。

結局アマツミカボシも、罠の正体を分析しきれなかった。

それならば、条件付きで受けるほかないだろう。

「良いだろう。 ただし、提供する部下の扱いについては、此方に事前に知らせてもらうぞ」

「分かっている。 曲がりなりにも、此方は貴様を対等の交渉相手と認めているのだから、それくらいは呑んでもらわないと困るな」

「では、和議は成立という形で構わないな」

「良いだろう。 細かい取り決めについては、これより書状を幾度かやりとりして決めるとしよう」

酒の入った瓶を、突きだしてくるタケル。

同じ酒を飲むことで、約束の証とするらしい。酒はあまり好きな方では無いのだが、此処は仕方が無い。飲む分にはなんら問題は無い。

臭いを嗅ぐ限り、毒は入っていない様子だ。

色々と気にくわない点はあるが、ヤトは酒を一気に飲み干した。周囲は喚声を挙げている。

これで平和が来る。

英雄と神が合意した。

これでアキツは安泰だ。

日本武尊将軍万歳、夜叉明王様に光あれ。

ぎゃあぎゃあと騒ぐ空虚な声に、ヤトはうんざりしながらも。結局敵の策を読み切れなかったことに、腹の底が炙られるような不快感を覚えていた。

手を差し出されたので、握る。

喚声が、より大きくなった。

 

4、狙いの果て

 

北のタケルが都へ凱旋したその日に、ツクヨミが屋敷にやってきた。

既に書状を出してあるから、経緯は知っている筈。アキツの頭脳とも言える者達全員で、策について考えたのだ。

これで上手く行かなかったら、どのみちこのアキツは、統一など出来ないだろう。

今回は、賭けに勝ったのだ。

「大勝利、おめでとうございます」

「……ああ、そうだな。 腑には落ちんが」

北のタケルは、どっかと腰を落とすと、侍女達に酒を持ってこさせる。部下の死者は数十名に抑えることが出来た。チカラオを失ってしまったが、これからヤトが好き勝手にはできなくなる事を思うと、得られたものは大きい。

酒を呷りながら、不満をぶちまける。

「これが、調伏という奴か」

「ええ。 おそらく夜刀の神は理解していないでしょう。 かのものは、今回戦略に仏教徒を組み込みました。 そして、それがかの存在に、致命的な失敗となっています」

以前、ツクヨミは言ったのだ。

夜刀の神を力尽くで滅ぼすことは難しい。それならば、多くの宗教がやってきたように、調伏して善神にしてしまえばいいのだと。

奴が本能のまま暴れ狂うような輩だったら、むしろ討伐は容易だった。

そうではない以上、打つ手は限られていた。それにしても、一つの国家を相手にこれほど立ち回るとは。確かに、調伏しか、手はなかったのやもしれない。

この世界には、神などいない。

しかし、神がいると信じている民は大勢いる。

奴はそれを利用した。

だが、いつの間にか、自分がその信仰に、取り込まれてしまっている。それに、まだ気付けていない。

奴は賢いから、行動を選ぶ。

その結果、自分が信仰から外れる行動は出来なくなっている事に、いつ気付くだろう。

つまり今後は、朝廷としては。

奴を夜叉明王として祭り上げる民を制御していけばいい。それは、山や森に大軍を送り込んで、夜刀の神という化け物じみた武勇の持ち主を討伐するよりも、余程簡単なことだ。

「アマツミカボシも、似たようにして処理します」

「蝦夷の支援は外せるのか」

「今まで、何もせずにいたとお思いですか。 既に蝦夷を瓦解させる事はいつでも可能になっています。 ただし、アマツミカボシが仏教勢力と結びついているのは調べがついていますから、兵を進めて統一という形には出来ないでしょう」

「気に喰わんが、それ以外に方策はないか……」

武勇をもって、敵を押さえ込む。

それこそが武人のすべきことだと、北のタケルは思っていた。だが、敵を戦わず、被害を出さずに無力化できるのなら。その方が良いかとも思う。

だが。このまま夜刀を、無害な善神のままにしておけるのか。

約束を破れば、奴に大義名分を与えてしまう事になる。既に奴の部下との書状をやりとりしていると、ツクヨミは言う。

「悪いようにはしません。 タケル将軍は、以降は国内の不満分子の押さえ込みと、富国強兵のみをお考えください」

「分かった。 しかし私の最後の戦いが、このような形に終わるとはな」

「まだ、最後の戦いとは決まっておりますまい。 それに、アキツの武の象徴であるタケル将軍が無事で良かったではありませんか」

ツクヨミは後幾つかの打ち合わせをすると、屋敷を出て行った。

横になると、北のタケルは何度もため息をつく。

ツクヨミが言っていたことが、正しいことは理解できる。だが、何だろう、このわき上がる不快感は。

未消化の食い物が、胃を圧迫しているかのようだ。

目を閉じると、大きく嘆息する。

これで良かったのだ。

自分にそう言い聞かせても。どうしても、不快感は張れなかった。

 

「しまった……!」

和議がなり、礼を言いに来た佐安を見送った後、ヤトは思わず呟いていた。

ようやく理解できた。

連中は、ヤトを罠に掛けるつもりなどなかったのだ。ヤトはとっくの昔に罠にはまっていた。

しかも、それはヤマトが作った罠ではない。

いうならば、仏教徒共が作り上げた罠だ。

意図して作った罠ではないだろう。佐安辺りは意図しているかも知れないが、それも「悪意」によるものではない。

拳を側の木に叩き付けようとして、止める。

木は大事だ。

無為に傷を付けてはならない。

ヤトは仏教を利用しているつもりだった。だが、いつのまにか、仏教徒共の信仰に取り込まれ、がんじがらめになってしまっていた。

ヤマトがやったのは、ヤトが入っている罠の出口を閉めること。

善神になるつもりなど、端から無かったのに。いつの間にか、勝手にヤトは夜叉明王という善神にされてしまい、なおかつその動きが全て封じられてしまっている。

袖の中で、蝮たちがヤトの焦りを感じて、さわさわと蠢いている。

鳥たちが、不安そうに、何度も鳴き声を上げていた。

文字通りヤトは臍をかんでいた。落ち着こうと思って石に腰掛けるが、どうしても心が騒ぐまま、止める事が出来なかった。

まさかとは思うが、部下共は全員ぐるか。

可能性はある。鵯はヤトを内心嫌い抜いていたし、千里だってそれは同じだ。

このままヤトが、法則さえ守れば無害な「森の守護者」になってしまえば、部下全員にとって都合が良い。

頭を抱えたヤトの元に、ゆらりと気配が現れる。

アマツミカボシだった。

「やられましたね、これは……」

「お前も気付いたか」

「はい。 私も近いうちに、貴方と同じように、「善神」として調伏される事でしょう」

それを防ぐのは、事実上無理だ。

佐安の奴、まさか全て考えた上で、行動していたのか。いや、それはない。だが、これは、一体。

アマツミカボシが、一気に場を血塗らせた。

「人間を、舐めすぎていた。 そう言うことではないのでしょうか」

時が止まったかと思った。

あまりの屈辱、それに怒り。息をするのを、しばらく忘れていたくらいである。

「あのような愚物共に、私が辛酸を……煮え湯を浴びせられたと……いうのかっ!」

それだけ吐き捨てるのが、精一杯。だが、辛酸を舐めさせられているのは事実。

そして下手な動きをすれば、朝廷どころか、急激かつ爆発的に広まりつつある仏教徒全てを敵に回すことになる。

今まで作った組織は全部やりなおしだ。

思わず叫んで大暴れしたい気分だが。必死に自分の右手を左手で掴んで押さえる。わなわなと、全身が震えるようだった。

アマツミカボシは無言だ。

「お前、この状況を、楽しんでいるな?」

「まあ、仕方がありませんから」

「……。 それも、そうだな」

ならば、この新しく体中に巻き付けられてしまった制約の鎖の中で、どう動くかを考えて行かなければならない。

むしろ良い方に考える事も出来る。

森に入ることを、信仰を利用して禁忌と化せば。

だが、そう簡単にはいかないだろう。

「今回は、負けとみるべきか」

「そのようで」

ため息が漏れた。

今回は、タケルもヤトも、仏教徒にいいようにされたとみて良い。そしてアマツミカボシさえも。

だが、このまま好き勝手にはさせない。

させるわけにはいかないのだ。

これだけの屈辱を味あわせてくれた礼を、せずにおくべきか。

ヤトは立ち上がると、今更ながらに気付く。

アマツミカボシが着ているのは、恐らくは鵯が縫った絹服だ。

意匠は、今ヤトが着ているものとよく似ている。違うのは、白地に所々青が入れられている事か。

「似合いますか、夜刀様」

「……中々だ」

ようやく、それで心が少し落ち着いた。

反撃は、これからすればいい。

少し話をすると、山中で分かれる。このまま、ヤトは信仰に好き勝手させるつもりはない。

必ず制御を取り返してくれる。

そう誓うと、ヤトはまずは考えをまとめるべく。山の奥に籠もろうと思った。

 

(続)