飛翔する蛇神

 

序、朝廷の暗雲

 

北のタケルは、肩に受けた傷を無意識のうちに撫でていた。

和平は成立。敵は形式上とはいえ、降伏した。それだけではない。実際の戦いでは、敵の被害の方が遙かに多かった。

敵の主力は壊滅。

それなのに、どうしてだろう。勝った気がしない。アマツミカボシの率いる精鋭が無事だったという事も、それに拍車を掛けているだろう。

戦いの最中、前に出すぎていた北のタケルは、撃たれた。

あまり威力のある矢ではなかったから、おそらくは流れ矢だろう。毒も塗られてはいなかった。

矢そのものは即座に引き抜いて、戦いを続けたのだが。

戦いが終わった後、妙に傷が痛む。おそらくは、戦いの結果が、精神的な負担になり、それが肉体にも負荷を掛けているのだろう。

武王には、一度戦いの結果を報告しなければならない。

軍の再編成も進めなければいけないから、北のタケルは一度都へ戻ることとした。後の事は西のタケルに任せ、東のタケルがそれを補佐する。そしてまだこれは公式の発表ではないが、南のタケルは既に引退の意思を示している。弘子をそのまま南のタケルとするのか、それとも誰かを抜擢するかは分からない。近々、南のタケルは別の人間となる事だろう。

防衛線の一角である砦の一つに戻ると、タケルはまず近辺をよく知る部下に、温泉の事を聞いていた。

傷を治すには、温泉に限るからだ。

温泉は、あるという。

「この近辺には、多数の温泉がございます。 それぞれに効能が違いまして」

「ゆっくり浸かりたいところだが、それは武王に報告を行ってからだ。 今日は疲労回復と、傷の回復を促せる温泉にしておきたい」

「それならば、此方にございます」

部下が案内してくれたのは極めて山深い場所。近辺にも小さな村が一つだけ存在しているが、それだけのわびしいところだ。

ただし、温泉自体はかなり立派である。

湯量も温度も申し分ない。地面も非常に暖かくて、此処に小屋を建てておけば、熱で体を温める事が出来そうだ。

以前体を癒やした方法である。

部下に指示を出して、すぐに小屋を建てさせる。

そして、この近辺に留まる兵士達には、用いて良いと通告を出した。残念ながらタケルは、その湯を楽しんでいる暇が無い。

何名かの護衛を兼ねた部下と共に、さっと湯に入る。

かなり良い湯で、思わずあの激烈だった戦いのことを、忘れてしまいそうだ。

「他のタケルにも、書状をだしておけい。 これは良い湯だ」

「分かりました。 北のタケル様は、すぐに発たれるのですか」

「ああ。 武王に、このふがいない結果を知らせねばならぬからな」

南のタケルは、気に病むことはないと言ってくれた。実際敵の主力は叩き潰したのだ。蝦夷の軍事力は間違いなく致命傷を受けた。それだけではない。政治面での痛烈な打撃も与えている。神官長をしていた、ワテムルの死も確認しているからだ。蝦夷王は逃がしたが、既に腑抜けになっているようであったし、問題は無い。

ただし、アマツミカボシの無事が痛い。

奴だけは、どうしても仕留めておきたかった。激しい攻防の中、北のタケルは確かに見たのだ。

此方に狂気の籠もった視線を向ける、若い戦士を。

顔を殆ど布のようなもので覆っていたから、人相は分からなかった。男か女かさえも。男にしては小柄で華奢だったが、女かと断言できはしない。

しばらく、湯の中で、体と心を休める。

部下達も蕩けるような顔をしていた。

「良い湯ですなあ」

「猿も湯治に来るのだとか」

「なるほど、それはいい」

部下達がそれぞれ好き勝手な事をほざく中、北のタケルは思惑をまとめていく。やはり、アマツミカボシは、どうにかして屠らなければならない。

いずれにしても、此方の軍事力も打撃を受けた。

しばらくは防衛線で戦力を蓄えながら、蝦夷に致命打を与える機会を待つしかない。かろうじて敵は生き残ったという状態。無理につつかなくても、いずれ襤褸は出す。内乱か何かが起きれば、即座に介入できるだろう。

湯をたっぷり堪能してから、上がる。

小屋を作り始めているのを横目に、衣服を纏う。心なしか、傷の痛みが、少し薄れたように思えた。

舎に戻ると、横になる。

此処を出るまでの時間はないが、可能な限り体を休めておきたい。

しばらくは女も抱くつもりになれないほど、北のタケルは疲弊していた。というよりも、やはり年なのだろう。こうやって横になると、体の衰えが実感できてしまう。若い頃よりも、明らかに疲労の蓄積が早いのだ。

頭を切り換える。

不機嫌は、体に負担を与えることを、北のタケルは何となく知っていた。

此処を出るまでに、もう一度くらいあの湯に浸かる時間があるだろう。それまでは、一眠りだ。

あまり長湯すると、却って体に良くない。

ふと気付くと、眠ってしまっていたらしい。起きると、兵士達が仕留めてきたという猪の肉が用意されていた。

寝てばかりいたのに食べるのは申し訳ないと思ったが、兵士達はしきりに勧めてくる。

「タケル将軍がいたおかげで、あのおぞましいアマツミカボシとの戦いから生還できたのです。 これは我らからの礼にございます」

「これは猪の一番良い肉にございます。 是非是非」

酒も勧められた。

兵士達の気持ちは掴んでいる自信はあった。だが、それでも。

嬉しかった。

 

翌日の昼、北のタケルは軍勢を南に向けた。とはいっても、自身と数百名の兵士だけである。

兵士達の中には、チカラオもいる。少し前から、北のタケルの部隊に配置換えしたのだ。これから何度かに分けて、一万ほどの兵士達を南に向け、順次守備兵と交代させる。主に故郷の側の陣営に、兵士達を移すのだ。

今回はその作戦の一旦。

ただし、タケルが戻る事を兼ねているから、兵士達は護衛と直属が中心である。

その一方で、前線に残した兵士達は、西のタケルと東のタケルが中心となり、徹底的に鍛え上げる。

今までの常勝が、兵士達を驕らせた。

北のタケルが戻ったとき、アマツミカボシと互角以上に戦えるようにしておかなければならないと、皆の意見は一致した。

南のタケルは、間もなく空席になる。

其処に弘子が座るかは分からないが、彼女には西のタケルと東のタケルの補佐にしばらくは徹してもらい、経験を積ませる。

血統的にも武王に近い弘子は、政治的な面でも強みがある。今後指揮官としても有望な存在である。

今回は、敢えて北陸から行く。

途中で、兵士達の駐屯所を見て廻る。民にも話は聞いて廻った。

タケルの名は、この辺りでも知られている。この辺りの領主よりも上位の存在だと示しておけば、悪政や失政がある場合も、話を聞き出しやすい。

幸いにも、この近辺の政務は、そこそこに上手く行っている。

田畑の実りも悪くない。

早く蝦夷との戦争が終わらないだろうかと、嘆く声はあった。特に越後の辺りまで出向くと、豊かな穀倉が人を増やす反面、兵士に取られていく若手も多いようだった。

一刻も早く、豊かに。

少しでも多く、民が報われるように。

北のタケルは、そう願っている。

悪徳官吏の報を受ける事もあった。厳正に対処しながら、西へ。越前に入り、更に南西に進んで、やがて近江に。

都は間もなくだ。

途中、故郷の側を通った兵士達は、現地の守備隊の者と交代させた。兵を増やし減らしながら、結局の所、北のタケルは数百名を連れたまま、都に帰り着いた。丁度、前線を離れてから、一月半が過ぎていた。

都は安定しているように見えた。

特に問題も起きていないと、屋敷に着くと、最初に聞かされた。どうやらヤトの件は、取り越し苦労であったのだろうか。

だが、まだ油断するには早い。

やはり、嫌な予感が消えない。

武王に謁見したのは四日後の事である。

 

謁見の許可が出たので、王宮に出向いた。王宮の中では、何種かの珍しい木を植えていて、緑鮮やかな葉が陽に照らされ、不思議な空間を作り上げていた。手入れが大変であろうと思いながら、北のタケルは宮中に上がった。

侍臣達に軽く挨拶しながら、武王の御簾の前に出る。

既に報告は提出済みであったが。武王には、もう一度の説明を求められた。北のタケルは、求められるまま、すらすらと説明する。想定して、何度か暗誦しておいたのだ。

御簾の向こうで、武王は唸る。

「そなたほどの猛将が、結局押し切れなかったか」

「不覚にも。 アマツミカボシなる者、おそらくはこのアキツにいる中では最強の指揮官にございましょう」

「是非とも配下にしたいところだが。 しかし、そなたの話を聞く限りは難しかろう」

「御意」

北のタケルの見たところ、アマツミカボシはどちらかというと、畢竟の中にいる存在だ。正気とは縁遠い。

おそらくは、蝦夷も、アマツミカボシを制御し切れてはいないだろう。

「ツクヨミ、前に出よ」

「は……」

他の侍臣達の間から、ツクヨミが出る。

かなりやつれてはいるが、以前より多少はましになってきた様子だ。回復が、進んでいるのだろう。

「影の者達の人員規模拡張はどうなっておる」

「現在、有望な者達を訓練しております。 数ヶ月以内には、前線で働けるかと」

「聞いての通りだ。 何も武を振るうだけがいくさでは無い」

分かってはいる。

だが、離間策が、アマツミカボシに通用するとは思えない。或いは蝦夷の中で内紛を起こさせる手もあるが。

その場合、蝦夷を手に入れた後、相当に荒れ果てた土地を立て直さなければならないだろう。

徹底的にやるべきなのか、迷う。

蝦夷は、アキツに残る、最後の敵対勢力だ。奴らを完全に屈服させてから力を伸ばすべきなのか、それとも。いっそのこと放置して、富国強兵に邁進すべきなのか。どちらにしても、はっきりしているのは。

あまり時間を掛けると、大陸から迫る力があるということだ。

「判断は任せる。 蝦夷を潰せ」

「分かりました。 可能な限り、迅速に」

「うむ」

礼をすると、退出。

ツクヨミを招いて、別室に移った。

北のタケルの他にも、何名かの武官と文官が、そこに集まる。これから、蝦夷に対する戦略を、しっかり決めておかなければならない。

武王は、北のタケルに一任してくれた。

それならば、必ず勝たなければならない。

「意見を聞きたい。 忌憚なく申せ」

猶予は、一年。

来年の春に、決着を付ける。

それが、北のタケルが、自らに課した課題だった。

 

1、まがつぼし

 

疲弊した蝦夷の村々。多くの若者が戦死し、物資は税として取り立てられ、既に国家としては失血死寸前。

だが、それでも。

民の目から、希望は失われていなかった。

アマツミカボシの事が、知れ渡っていたからである。軍が来ると、喚声が上がる。アマツミカボシが、生け贄を欲する祟り神だと言うことは、民の間でも知られている。だからだろうか。

アマツミカボシの軍には、狐や熊、それに鹿が捧げられる。しかも、生きたまま、である。

兵士達はそれをふんぞり返って受け取ったりはしない。

いそいそと、何処かへ運んでいく。自分たちも、何かを怖れている、とでもいうかのように。

手をかざして見ていたヤトは、舌打ちする。

「森を知らぬくず共が……」

あのような獲物の取り方をしたら、森が荒れるとどうして分からない。アマツミカボシを怖れるがあまり、農耕民共は森を更に食い荒らしている。それには、農民も軍も関係がない様子だ。実際、森に入って、手当たり次第に動物を捕まえ、野草を貪り喰う輩も出ていた。

少し前に、王宮に出向いた。

生きたままの熊を引きずってきたヤトを見て、蝦夷の連中は驚愕した。アマツミカボシにあわせろと言うと、場所と時間を指定してきたのだ。熊はその場で生きたまま捌いて見せた。

悲鳴を上げながら失禁するほど、蝦夷の連中はヤワだった。

いずれにしても、こんな連中が、あのタケルを追い払ったアマツミカボシを、御しきれるわけがない。

蝦夷王など話にもならない。アマツミカボシに、やはり直接会わなければならないだろう。

だから出向いてやったのだが。

さっそくくだらない光景を見せつけられて、ヤトは怒りに腹が煮えそうだった。いっそのこと、こんな小さな村など、皆殺しにしてやろうか。そう思ったほどである。

しばらく見ていると、一人の武人が進み出てきた。

あれが、アマツミカボシか。

非常に小柄で、顔を布のようなもので隠している。見えているのは目だけ。その割には、重そうな鎧を着込み、手にしているのは、巨大な長刀だ。

返り血を大量に浴びている。

今、貢ぎ物で捧げられた鹿のものだろう。長刀にも、血がべったりとついていた。

何か話している。

農民は必死に這いつくばって、アマツミカボシを崇めていた。いや、あれは。自然災害か何かが、通り過ぎるのを祈っているかのように見える。事実、連中がアマツミカボシを見る目は、それ以外のものとは考えにくい。

様子を見ていると、兵士達の中に、アマツミカボシは戻っていった。

そのまま、軍は駐屯に移る。

そうなると、アマツミカボシは、単身、もしくは少人数で、この森の中に入ってくるとみて良いだろう。

今見たところ、アマツミカボシは強い。

だが、ヤトやタケルと単独で戦えるほどではない。あれはあくまで、作戦指揮を執るべき存在だろう。

勿論普通の兵士に比べれば、絶対的な力を有しているが、それ止まりだ。

ヤトのように、個々の戦闘力に特化した存在では無い、と判断して良いだろう。いずれにしても、使いがいはある。

あくびが出た。眠気が出てきたので、少し休む。

夕刻までぼんやりしていると、気配を感じた。目が覚める。どうやら、森の中に、アマツミカボシが入ってきたらしい。

まっすぐ此方に向かってくる。

気配を察知しているという事か。まあ、今は別に、気配を消してもいないが。微弱なヤトの気配を掴むくらいのことは、出来る様子だ。

もはや、身を隠していても仕方が無いだろう。

この近辺の山は十二分に把握している。二百や三百の軍勢であれば、襲われてもどうにかできる自信もある。

木から下りた。背中を木の幹に預けながら、腕組みする。

間もなく、夕闇に入ろうとする山の。

最後の朱の輝きを背負ったまま、奴が姿を見せた。そして、此処まで近づいたことで、ヤトにもようやくその正体が分かった。

「お久しぶりです、夜刀様」

「そうか、お前だったか、弥生」

別れ際に狂気を叩き込んでやった、蝦夷から来た巫女。

蝦夷に行動するためのくさびを打ち込むつもりの行動だったのだが。まさか、此奴の中にこれほど巨大な軍才が潜んでいて、なおかつその全てを引きずり出す切っ掛けになるとは、思っていなかった。

アマツミカボシが、顔を覆っていた布を取る。

思わず、ヤトは歓喜の声を上げていた。

其処にあったのは、穏やかで自己表現も出来なかった、内気な巫女の顔ではなかった。弥生の顔と同じ造作だったのに、根本的に違っていた。

にんまりと浮かんだ笑みは狂気に満ち、目には嗜虐と残虐が宿っていた。何よりも冷酷が、表情の全てから感じ取ることが出来る。

ヤトと同じ。

怪物になったのだ。

「夜刀様、貴方も立派になられましたね」

「タケルと激しく戦い続けたからな。 貴様は?」

「私も同じです」

ひひひひひと、品がない笑い方を弥生がした。自分の狂気を垂れ流すことを、全く怖れていない。

また、布で顔を覆い直す弥生。

さっそく、本題に入ることとする。此奴は今や、かってのひ弱な娘ではない。対等に戦える存在だ。

「共同戦線を張りたい」

「朝廷に対して戦うための、でしょうか」

「そうだ。 私は畿内一帯に現在勢力を確保し、広げつつある。 この情報網を、お前の軍事力と結びつけたい」

「ほう……」

弥生が、実に楽しそうだと、目を細めた。

畿内の裏側は、既にヤトの勢力圏にある。更に此処から、多くの情報を引き出すための、様々な工作をする。

具体的には、内通者を飼う。

朝廷とて一枚岩ではないだろう。特に、近年は技術的にかなり進んできていることもあり、大陸から来ている渡来人どもの立場がどんどん弱くなっている。それに不満を持つ勢力は、少なくない。

そういった連中を、取り込むことは、可能だ。

更にそれらの勢力を、蝦夷と結びつければ。朝廷も、決して無視できない強力な抵抗力を身につけることが出来る。

「いぃですねええ……」

「決まり、と判断して良いか?」

「一つ、条件が」

勿論、ただで終わるとは思っていない。

ヤトとしても、幾つか交渉のための札は用意してきてある。たとえば、製鉄の奥義とか、或いは朝廷の醜聞とかだ。

「何かな」

「蝦夷とではなく、私個人と同盟を結んでいただきたく。 蝦夷には既に未来がありませんでしてね。 私としては、好き勝手に暴れたいだけですので、利用しているだけです」

「素晴らしい。 ならばなおさら私としては歓迎だ。 ただし、長期的な戦略の元、行動しているのだろうな」

「それは勿論。 目先の欲にだけ駆られるようでは、これまで勝ち進むことなど、できてはいませんよ」

けたけたけた。

爆発するように、アマツミカボシが笑った。

ヤトもそれに吊られて笑う。

強烈な殺気と悪意が、辺りを蹂躙する。怯えきった森の動物たちが、悲鳴を上げながら逃げていくのが分かった。

やはり、そうであったか。

アマツミカボシは、殺戮そのものを自己目的化している。極限の狂気の中で、おそらくは人という種族存在そのものへ復讐しているのだ。

狂気の先輩であるヤトには、それが如何に素晴らしい事か、よく分かる。

泥沼の底のように濁りきった獰猛な邪悪が、ヤトの孤独を覚ますかのようだった。互いを利用し合う関係としては十二分。

不意に、アマツミカボシが動く。

ツルギを抜くと、閃光のように突いてきたのだ。

ヤトは笑いながら、残像を貫かせる。ツルギの背を指二本で掴み、肘で顔を打ち抜く。

がつんと、もの凄い音。

地面が一瞬遅れて吹き上がる。

反射的に対応したアマツミカボシが、開いていた左手で顔を守ったのだ。そして受けた打撃を、体を通じて地面に逃がした。

素晴らしい。

「流石! どうも最近、猪や熊でさえ、物足りなくなってきていたのです」

「私もだ」

思わず、満面の笑みがこぼれてしまった。

こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。

今度はヤトが半身を捻り、伸び上がるような蹴りを叩き込む。空気を抉り取るような一撃に、アマツミカボシは蛙のように伏せると、跳ね上がるように後方へ飛んだ。飛ぶ際に反転しながら、足先で此方の顎を蹴り抜きに掛かってくる。

わずかな差でそれをかわすと、ヤトは直上に跳躍。

アマツミカボシが此方を見失った瞬間。

その頭上に、踵を叩き込む。

地面に叩き込まれたかかとが、小さな円形の穴を作る。

左腕を上げて、叩き込まれた回し蹴りを受け止めつつ、飛ぶ。木を蹴って斜め上に跳び上がると、今の一撃をかわしたアマツミカボシが、満面の笑みで此方に跳んできているのを見た。

半回転しつつ、回し蹴り。

双方が、同じ行動を取る。

十字に撃ち込み合った回し蹴りが、双方を吹き飛ばす。

着地に成功したヤトは、面白すぎて笑いを殺せなくなっていた。アマツミカボシが着地に失敗するのを見ても、なおも笑っていた。

「素晴らしい! 腕を上げたではないか!」

「貴方こそ、想像以上の腕前ですねええええ!」

しばらく、無心で相手を殺そうと、刃を交わしあう。

ヤトの方が有利だが。

多少叩いたところで、アマツミカボシは壊れそうにない。半刻ほどぶつかり合ったあと、不意に二人とも飽きた。

ヤトが背中を向けると、アマツミカボシは意図を悟ったらしく、戦意を解く。

横穴に入れておいた、猪の燻製肉を引っ張り出す。そしてたき火を熾して焼き上げると、無心でほおばった。

「一つだけ、同盟には条件を追加する。 獣を無為に殺すな。 喰う分だけ殺せ。 森は荒れると、中々戻るのが難しい」

「ふうん……。 やはり貴方は、それだけおかしくなっても、森の守護者、なのですね」

「私は最初から、人間などは大嫌いで、森が大好き。 全ての森は私の森で、人間などにはくれてやらん。 それは変わってはいない。 森を虐げるな。 それが、同盟の最低条件だ」

「分かりました。 貴方と楽しく遊ぶためにも、今後は気をつけることとします」

しばらく、アマツミカボシに、森の動物の数を見極める方法を教える。あれだけ兵士達を怖れさせているのだ。命令するだけで、兵士共はすっ飛んで獣を取りに行くだろう。そう指摘すると、アマツミカボシは頷いた。

頭はヤト同様完全に狂っているが。

この娘は、おそらくは「正気」のままだ。狂気に浸されていても、精神は論理性を失っていない。

嘘もつくことはないだろう。

それが何となく分かる。狂気に全身を浸して、人間を止めてしまった者の同調から、だろうか。

追加の燻製肉を出してくる。

既に子供の体重分ほども食べているが、先ほどのじゃれ合いの消耗が大きかったから、だろうか。

たき火を囲んで、食べ続ける。

ぽつぽつと、アマツミカボシが、話し始めた。

アオヘビ集落から撤退した後、何があったのかを。

もっとも、狂気が決定的になるような出来事はなかった。ヤトに仕込まれた狂気こそが、弥生を、アマツミカボシへと変えたのだ。

軍事についての話は参考になる。

ヤトはやはり集団戦については、さほどの知識がない。アマツミカボシは、逆にこっちが本領だろう。

さっき戦って見て分かったが、アマツミカボシには、おそらく格闘戦の才能が不足している。

充分に強いのだが、それはあくまで論理的な動きによるもので、才能による閃きというものが感じられないのだ。

逆に軍才は目を見張るものがある。

これは元々持っていたものが、狂気によって覚醒したと見て良いだろう。

「タケルが再度侵攻を開始するまで、どれほど時間があると思いますか」

「今聞いたヤマト側の損害から見て、一年という所だろう。 勿論それまで、謀略戦は散々仕掛けてくるはずだ。 ヤマトにとって、アキツの統一はどうやら悲願のようだからなあ」

「ならば、蝦夷など滅んでも別に構いませんしぃ、その後の事を考えておきますか」

「それが現実的だな」

もはや、此処には人の世界を憂う存在などいない。

邪神と、凶神が、無心に肉を頬張っているだけだった。

 

割り符など、情報交換についてのやりとりを終えると、ヤトは一度その場を後にする。

一旦畿内に戻るのだ。

既にアマツミカボシと確認しあっているが、ヤマト側も一年から上手く行けば二年ほどは、兵力の再編成に時間を要する筈だ。その間に、此方も情報網を、アマツミカボシとつなげなくてはならない。

ヤト自身は、裏方に徹する。

どちらも目的は共通しているのだ。

ヤトは森を全て支配する。

アマツミカボシは、単純にたくさん殺したい。

利害は一致している。森を全て支配した暁には、ヤトはそれを維持するだけでいい。アマツミカボシは思うまま、農耕民共を虐殺して廻れば良いだろう。殺しが好き、というのは、分からないでもない。

ヤトも殺しをしている時には、相応に楽しいからだ。

もっとも、ヤトはあくまで森が一番大事。

人間なんぞ、森を喰らう存在で無ければ、それこそどうでもいい。死のうが生きようが、知ったことではない。

互いを利用し合う関係。

だからこそに、一番信用できるとも言える。共闘の条件が整っていれば、の話であるが。

今度はいっそのこと、北陸を行くことにした。

冬は雪深く、地獄と化す北陸だが。この季節はむしろ過ごしやすく、森も大変に豊かだ。無言で木々の枝を渡って進みながら、森と山の状態を確認していく。河も魚が多く、森の中で生活するには困らない。

問題は、背丈ほども雪がつもること。

冬場で、この辺りで生活しようとは、流石のヤトも思わない。冬眠をしないと、生き延びるのは難しいだろう。

幾つかの山を見て廻る。

もし、此処で暮らすとしたら。

洞窟を見つけた。中を覗いてみる。ひんやりとした空気が心地よい。かなりの数の蝙蝠が、天井に巣くっていた。

入り口さえどうにかすれば、内部はかなり暮らしやすいかもしれない。

食糧を相応に蓄えれば、冬中を過ごすことも可能だろう。ただし、大人数は過ごすことが出来ない。

また、小さな洞窟でも無理だ。

相応に大きくなければ、内部に生活空間を作り上げることは、まず無理だろう。

少し興味が出てきた。

こういった山で生きるには、どうするべきなのか。

しばらく見て廻る。

ちょっとした寄り道だが、戻るまでにはまだ余裕がある。アマツミカボシとの交渉が、想像以上に早く終わったからだ。

この辺りは、冬場には人間を遠ざけるという意味で、最高の隠れ家になるかも知れない。多少人間共が工夫したところで、大雪の猛威には叶わないだろう。山に来れば来るだけ、凍死するだけだ。

それならば、こういった洞穴は、隠れるための最後の砦になり得る。

北陸を西進しながら、四つほど、的確な洞窟を見つけ出した。中に潜むには工夫がいるが、面白い場所だ。

アマツミカボシと、これから本格的に共闘に入る。当然情報をやりとりする過程では、絶対的な秘匿が必要になるものもあるだろう。

そういった絶対的秘密を隠すには、この手の人間が入りようがない場所は、非常に適している。

洞窟の一つは、かなり奥深くまで続いていた。

内部にはとがった石が無数に存在しており、水が天井からしたたり続けている。暗闇だが、所々光っているのは何だろう。調べて見ると、苔が輝いているのだった。

面白い空間だ。

真の闇かと思ったのだが、そうでもない。

この辺りは、冬でも外の影響を殆ど受けないだろう。食い物さえあれば、暮らしていくことは難しくないというわけだ。

此処を、ヤトの拠点の一つとしよう。

タケルに敗れて、どうしようもなくなったとき。此処に数百年も潜めば、人間共はヤトを追うことが出来ないだろう。

幸いヤトは、今では喰わずとも、当分は動ける。

人間共と違って、此処に潜むのは難しくない。そうだ、アマツミカボシにも、今度出会った時に、教えてやるとするか。

此処は良い。

見回すと、闇の中に、光の点が無数に浮いているかのようだ。

自分の姿が浮き上がっているかのようで、実に楽しい。

闇の中だと、わずかな光源が、星明かりのようである。人間にこんな場所をくれてやるのは惜しい。

森と同様、ヤトが守り抜かなければならないだろう。

洞窟を出た後、ヤトは入り口付近を工夫した。手持ちの種を幾つかまいて、入り口がわかりにくいようにしたのだ。

何年かすれば、立派に育った木が、この洞窟の入り口を隠すことだろう。それでいい。人間共を入れなければ、この洞窟は守られるのだ。

それからは、無心に西へ。

一週間ほどで、北陸を抜ける。

ヤトはこうしている内にも、確実に領域を広げつつあった。

吉野に到着。

既に春は終わり、初夏になっていた。

 

ざっと領地を見て廻るが、あまり大きな動きは無い様子だ。

まず最初に見に行ったのは、鵯の所。

鵯はヤトを見ると、流石に驚いたようだった。予定よりかなり早く戻ってきたのだから、無理はない。

予定通り、何名かの管理用の人材を育てていたらしい鵯は。わずかに開けた山の中で、たき火を囲んで数人を集め、管理のコツを教えている所だった。

「構わない。 続けろ」

頷くと、鵯は講義に戻る。

輪になって話を聞いているのは、殆どが女ばかりだ。数人は男もいるが、それは護衛のようである。

多分、千里が派遣してきた人員だろう。かなりの荒くれらしく、相応の戦闘経験を積んでいることが、見て取れた。

鵯がしている話は、記憶について。

人をどう覚えるかが、中心になっていた。人の覚え方のコツを、鵯が説明しているのを聞いているが、どうにもぴんとこない。

ヤトは人間を、かたちで覚えている。特に自身が人間を止めてからは、その傾向が強い。

それに対して、どうやら普通の人間は、顔で相手を認識しているようなのだ。

顔なんぞに、何の意味があるのだろう。

昔はヤトも、顔について気にしていたような覚えがある。そういえば、顔の火傷はどうなったのだろう。

講義が、次の段階に入った。

複数の人間を、どうやって動かしていくか。位置の把握を暗記する術は。

聞いていて、参考になる。

神業のような裁き方だと以前から思っていたのだが、全部論理的な方法でやっていたのか。

クマソの巫女だったという鵯は、おそらく何かしらの形で、教養を得る機会があったのだろう。

此奴に誰がこんな技術を教えたのか。

ちょっと其処にだけは興味があった。

講義が終わる。

ヤトに一礼しながら、散っていく鵯の部下共。居住まいを正す鵯。

たき火の向かいに、ヤトが座ると。鵯は咳払いをした。

「随分と早いお帰りですね」

「何だ。 私が帰らなかった方が良かったか……と、聞くまでも無いか」

くつくつと笑うヤトに、鵯は冷たい目を向けてくる。もっとも、そんなものは、文字通り痛くもかゆくもない。

しばらく、情報を聞く。

既に部下の数は750を越えているという。新しい面子に関しては、後でまとめて居場所を教えてくるそうだ。

「千里さんが、貴方が戻ってきたら知らせて欲しいと言っていました」

「分かった。 すぐに向かう」

「東北で、アマツミカボシという方と、接触できたのですか?」

「これだけ早く戻ってきたのだ、それが上手く行った以外に理由があるのか? 同盟を組んで、なおかつ共闘の具体案まで作成してきたわ」

鵯は黙って聞いているが。

ヤトがかって、常陸で戦っていた頃。

蝦夷が派遣してきた部隊の、名目上の代表だった弥生という巫女が、その正体だったと告げると、流石に驚いたようだった。

ヤトの狂気を浴びて、完全に精神の平衡を崩し、同時に軍才を覚醒させた様子だと聞くと、一言。

「可哀想に」

「そのままでいれば、どうせ蝦夷はヤマトに蹂躙されていただろう」

「……」

抗議の視線を向けられる。

まあ、蚊ほどにも感じないが。

一通り話を済ませると、ヤトは皆を集めるように指示。可能な限り、東への情報連絡網を、急いで作る必要がある。

これから、本格的にヤマトと戦う。

そのためには、そろそろヤトも、本気で国家という奴と、渡り合うための仕組みを作らなければならない。

楽しくなってきた。

タケルをはじめとして、ヤマトのくず共を皆殺しにするときは近い。そう思うと、心も躍るというものだった。

 

2、作り上げられる路

 

移動計画に沿って、ヤトは人員を移動させる様子を見守る。現在、700を越えている配下を数人ずつまとめて、東に向かわせるのだ。

既に東の山々の多くは、ヤトが把握している。地図は必要ない。そのまま頭の中に入っている。

人間の顔などどうでも良いが。

森の形は、ヤトにとって最重要事項だ。

山の形も、それと同じく。

千里がぼやく。

「あんた、森と山に関しては、鵯並の記憶力だな」

「それはそうだ。 私にとってもっとも大事なものだからな。 ときにお前は、部下の顔とやらを、全部覚えているのか?」

「当たり前だ。 今、戦闘要員として鍛えている奴らは、細かい経歴まで言える」

「それと同じだ。 戦闘要員は、お前に任せておくぞ」

とりあえず、最初の日は、三十人を六組に分けて移動させる。そうやって、まずは二百人を東に。順次これを追加していく。

この三十人は、男女それぞれに、山での暮らし方を叩き込んだ者達だ。数人、戦闘をこなせる者も混ぜてある。

そして重要なのだが、狼煙を使う方法を教えてある。

狼煙についての技術は、元技術者だった部下の一人が知っていた。それを解析して、実用化したのだ。

実際問題、自然素材だけで、狼煙は充分に作る事が出来る。

この狼煙を用いることで、情報伝達を高速に行う事が可能だ。それこそ、一日で、東北まで送る事が出来るほどに。

馬など問題にもならない。

山と山の間を、ひと跳びで情報が駆け抜けるのだから、当然だろう。

勿論、ヤマトの側も、同じようなことをしているだろう。つまり、これでようやく、対等の所まで立てたのだ。

問題は、此方がヤマトの中枢に、戦力を抱えていること。

敵の動きを、いち早く相手に伝えることが出来るし、何より連携しての破壊活動も可能となる。

良い事づくめだ。

「ときに、適当な場所に賊はいないか」

「今、交渉中のが三組。 一つ、山陰に大きな賊がいる。 人員は五十名を越えているだろうな」

「半分くらい殺せば、残りは配下になるか?」

「頼む、止めてくれ。 俺が交渉して、全部配下にするから。 あんたが出張ると、本当に半分死んでしまうだろう」

本当も何も、半分くらい殺せば早いような気がする。

どうせ山林に巣くう賊など、森を食い荒らす人間の最たるものだ。何回か接触したが、本能のままに森を食い荒らし、弱者を踏みにじる、人間の見本のような生き物ではないか。ブチ殺して何が悪いというのか。

まあ、千里がそう言うなら。

「それならば、期限を設ける。 二週間以内に配下にしろ。 そうしないと、私式のやり方で配下にする」

「あまり急ぐと、碌な結果にならんぞ。 これだけ配下が増えて、ただでさえ管理が難しくなってるんだ。 あんたのことを恨んだままの奴だって、紛れていても不思議では無いって、分かってるか? 気をつけないと、笑顔で近づいてきて、後ろからズブリってやられる」

「それなら、心配はない」

ヤトを見た時の反応で、だいたいそれは判断できる。

顔を見ているだけでは、分からないだろう。

他の体の部分で、人間は雄弁に語るものなのだ。むしろヤトにとって、顔などどうでも良くなりつつある。

というよりも、並の人間など、後ろから近づいてこられたところで、対応は可能だ。

千里は、ヤトの自信を悟ったのだろう。

そもそも、ヤト自身と戦ったことがあるのだ。更に言えば、あの頃よりも、更にヤトの力は向上している。

「分かった。 分かったよ。 ただ、三週間待ってくれ。 今、交渉が難しい所に入っているんだ。 あんたの恐ろしさは、相手にも伝わってる。 どうも畿内の山には、人間を好んで喰らう大蟒蛇の化身である魔物か、人知を越えた力を持つ大天狗がいるらしいって噂は、もう九州にまで届いているそうだ。 今、配下に入れるための、最後の交渉をしている所だから、それが済んだら何とかなる」

「本当だな」

「嘘なんかつくか。 というよりも、ついたところで、バレバレだろ。 一応、相手には、畿内の大天狗が怒り始めてるって伝えておく。 そうすれば、多分いちころだから、たのむな。 もう少しだけ、待ってくれ」

次の三十人が出立する。

ヤトは装備などを確認したが、問題ない。千里に後は任せて、影から初日出立の六十人を護衛する手はずになっている。

今の時点で、ヤマトはこの動きを掴んでいない。

影の者達は、姿を見せていないからだ。

かって配下に潜り込んだ影の者達は逐一駆除したし、今の時点では、不安要素はない。

一月以内に、信濃にまでは到達したいが。

はてさて、上手く行くか。

信濃の辺りには、かなり面白いツチグモがいる。ヤマトに降りながらも、面白いやり口で半独立を保っている連中だ。そいつらも、この機会に、配下にしておきたいものだ。

「じゃあ、俺は行く。 交渉を急がなければならないからな」

「成果を期待しておくぞ」

「分かってる……」

千里を見送る。

千里の配下達が、さぞや恐ろしいものを見る目で、ヤトを見つめていた。そういえばそいつらは、以前ヤトが殺戮して、生き残った賊の者達だ。

目の前で、訳も分からない内に同胞が殺されていく光景をみたのだ。ヤトを怖れているのは当然。

それでいい。

もっと怖れれば、充分になる。人間など、恐怖で支配しておけばそれで良いのだ。

ヤトも、その場を発つ。

進捗は、順調だ。

あくまで、今の時点では、だが。

 

夏も真っ盛りになると、移動作戦は順調に進展し、一部は関東にまで達した。もう少し進ませれば、狼煙を使って、蝦夷と近畿を結ぶことが出来る。

ヤトは一旦信濃まで戻る。

この辺りは、冬が雪深い。冬でも情報を伝達できるようにするには、かなりの工夫が必要だからだ。

中枢の鵯や千里を動かすわけにはいかない。

鵯が育てた管理者を、数人、此方に回すことになる。一カ所の山には定住しない。影のように、森の中で生きる者達と為す事で、余計な摩擦を避ける。そして気付いたときには、全てがヤトのものとなっているのだ。

急ぎすぎかも知れないと、千里は言っていた。

確かに、無理が散見される。

山々に散った配下の者達を管理するのは大変だ。もっと人員が欲しいと、どこの山でも言われた。

後ろから順番に回してきてはいるのだが、それでも足りない。

ただ、ツチグモの残党を見つけては、力尽くで何度か屈服もさせた。そうやって、ヤト自身でも少しずつ人員を増やしている。千人を超えた頃には、多少は人手不足も解消されるはずだ。

畿内の本隊では、繁殖活動も順調に行わせている。

農耕民族のやり口を取り入れることで、大人まで育つ子供も、以前に比べると多少は増える見込みだ。

もっともこれは、まだ十年以上先の話だが。

信濃に入ったのは、夕暮れだ。

このアキツでも、もっとも山が深いと言われる土地。何度かタケルをはじめとする将軍が遠征して、どうにか屈服させたらしいが、まだツチグモの力は大きく、したたかに生き抜いている。

ただし、ヤトとは安易には相容れない連中だ。

奴らは森を捨て、自分たちの存在そのものを守った。森と生きることを止めることで、ヤマトと妥協したのだ。

情報は得ている。

近辺では、旅人を捕らえて、生け贄にする風習があるのだとか。

勿論ヤマトには禁止されているらしいのだが、誰もそんな事は聞かず、風習は残り続けているという。

しかし、ヤマト側も証拠を掴もうにも守りが堅く、なおかつ閉鎖的な風習もあって、簡単にはいかないのだとか。

これらの話を何故知っているか。

当然、体に聞いたからだ。

以前抑えた、影の者。そう、配下に潜り込んできた連中。

そいつらを、じっくり尋問した。

勿論、その中には拷問も含まれた。

普通だったら、ヤトでも簡単には吐かせることが出来なかっただろう。しかし、既にヤトは、搦め手を覚えている。

人間の心は。

とても簡単に、壊れるのだ。

狂気を注ぎ込み、心の箍を外し。じっくり、話を聞きだした。ヤマトの高官の醜聞や、様々な反乱の芽についても、知っていた。

その中に、影の者がヤトや蝦夷の次に危険視している存在があった。

それが、信濃だ。

夕暮れに染まる山々はとても美しい。

だが、ヤトは信濃に入った辺りで、気付いていた。此方を狙う影がある。ヤマトの、影の者達ではない。

どうやら、情報は本当だったらしい。しかも、かなり鍛えている連中だ。

ただし、鍛えていると言っても、たかが知れている。人数も、精々十名ほどだ。ヤトは気付いていないふりをして、堂々と山の中を歩きながら、峠に出た。

陽が、山の向こうに消える。

この辺りの山は、とにかく鋭い。大量の雪が、毎度降り注ぐからだろう。山肌もそうなのだが、山そのものが連なっているにも関わらず、どうにも鋭いのだ。さながらのこぎりか、或いは狼の歯のように。

わざわざ気配を漏らしながら歩いていたのだから、食いついてきて当然だ。

さて、さっさと仕掛けてこい。

呟きながら、黙々と路を歩く。

不意に、前後に躍り出てくる追跡者ども。見かけは普通の農耕民。前に五人、後ろに四人。

一人、隠れている。

「絹服を着た女、とまれ」

「こんな所で何をしている」

勝手な事をほざきおる。

ヤトが鼻で笑ったのを憤慨した後ろの一人が、問答無用で飛びかかってきた。だが、至近の地面に飛びつくようにして、動かなくなる。

何のことはない。

飛びついてくる途中、目を合わせ、狂気を叩き込んだのだ。これだけの近距離、正気を失わせるには充分。

他の者達が唖然としている中、ヤトは音もなく、前に出た。五人の中に入り込むと、ゆっくり体を旋回させつつ、打撃自体は高速で叩き込む。

どっと、五人が倒れた。

手をふるって埃を落としながら、ヤトは吐き捨てる。

「相手の力量くらい見極めろ。 とりあえず殺しても良いか?」

これから交渉する相手だから、一応生かしておいてやったのだが。対応がいちいちまずくて、ヤトは苛立ちを隠しきれなくなっていた。

「ま、待て! 貴様あやかしの類か!」

「畿内に住まう山神と言えば分かるかな」

「!!」

後ろにいた三人が、息を呑む。

そして、隠れていた一人が、姿を見せる。

非常に長身の、細面の男だ。農耕民は背が低いことが多いのだが、此奴は違う。周囲から見ても、頭一つ半大きい。

しかも目が異常に大きくて、ある種の魚のようだった。

「諏訪に何用か、吉野の大天狗」

「貴様は?」

「タケミカヅチ様の神官に仕えるものだ」

それは嘘だなと、ヤトは口中でうそぶいた。

この信濃では、信仰を守るために、様々な面白い事をした。かっての神にかぶせるようにして、最初はタケミナカタ。そしてタケミカヅチという神を、信仰したというのだ。一皮剥いてみると、其処にあるのは。

ツチグモの信仰の中でも、特に先鋭的。

生け贄を必要とする、禍々しき神だ。

「確かお前達の主神は、ミジャグジというのではなかったか」

「どこまで知っている」

「お前……立場が私より上だとでも思っているのか?」

まだ立場を理解していない阿呆に、いい加減苛立ちが抑えきれなくなった。そのまま、足を振り下ろす。

まだ半殺しにして生かしておいてやっていた一人の頭が、熟れきった柿のように潰れ、吹き飛んだ。そこそこに勢いを入れたから、頭蓋骨は瞬時に木っ端みじん。脳みそは辺りに派手に飛び散った。

そして、路に、ヤトの足跡の形がくっきり残っている。

雷鳴のようなとどろきが、辺りを蹂躙していた。

後ろにいた一人が悲鳴を上げて、ひっくり返った。ようやくヤトの力を、理解できたのか。

五人を瞬時に倒した時点で、理解して欲しかったのだが。

「質問に答えろ。 お前達など、私がその気になれば、瞬く間に首をへし折れると知れ」

「わ、分かった」

「お前達の主神は、ミジャグジと言うはずだな」

「そ、そうだ。 タケミカヅチというのは、ヤマトに対する表向きの神。 本当の神は、ミジャグジ様だ」

足をふるって、血と脳漿を落とす。

そして、地面で動けずにいる五人の、もう一人の頭の上に足を載せながら、ヤトは言う。

「この諏訪での最大権力者は、そのミジャグジのミコでよいのか?」

「ミコ。 そうだな、古い言い方では、そうなる。 オオマミチ様がそうなるが」

「そのものの所へ案内せよ」

即答しなかったので、もう一人の頭を、そのまま踏みつぶした。

息を呑む阿呆共に、もう一度だけ、ヤトは言った。

「早くしろ。 もたつくようなら、集落に下りて、お前達の同族を片端から殺すぞ。 十匹や二十匹、即座に殺せると、まだ分からぬか? そうしないと案内しないというのなら、すぐにでも実施するが?」

どのみち、ヤトにとっては人間などどれも同じだ。

敵か味方か、道具として使えるか使えないか、その程度の差でしかない。多少の悪態くらいは利用価値次第では許すが、そうでなければこの通り。

今では、ツチグモだろうが、元ツチグモだろうが、代わらない。

「わ、分かった。 此方だ」

四人は蒼白になりながら、案内をはじめる。ヤトは後ろから、黙々とついていく。

途中、質問を何度かした。

オオマミチという男は、ヤマトからは諏訪という名を与えられているらしい。ただし、仲間内で、その名を使うことはないそうだ。

幾つかある集落は、農耕民の暮らしをしている。しかしこの辺りは雪深く、生活のためには様々な工夫が必要なのだそうだ。

厳しい自然の象徴。

それが、ミジャグジという神を形作っている。

特徴的な形状の柱が見えてきた。

男性器によく似ている。

「あれが神体か?」

「そうだ。 生命の源であるからな。 命を司る神の象徴として、これ以上に相応しいものはあるまい」

「……そうだな」

ヤマトは、太陽を神として根付かせようとしていると聞いているが。

しかし、山々や、それに森を見れば分かる。この辺りの環境は、厳しいなどと言う次元の存在では無い。

太陽の実りよりも、冬の恐怖の方が、この辺りの民には印象強いのだろう。

だからこそに、生そのものである神が崇められる。そう言うことか。

集落に着く。

あまり大きなものではない。諏訪の湖とやらの端と端に作られている、その一角だ。何でも冬になると、この湖では、氷が一直線に割れるのだという。それを神の行いとして、崇めているのだとか。

そして、信仰の中心として、諏訪があると。

一人が先に集落に行き、話をつけて来るという。少しだけ待ってやるというと、蒼白になって駆け込んでいった。

間もなく、オオマミチという男の所に案内される。

見ると、集落にある家の形状が独特だ。

どれも非常にとがっている。屋根が三角形をしていたり、錐になっていたり。それだけ、雪を落とすには、工夫がいると言うことだ。

そういえば森に生えている木も、横に広がるものではなく、どちらかと言えば鋭くとがった形状のものが多かった。

集落の形状そのものも変わっている。

雪を処理するための工夫だろう。彼方此方に、細かい工夫らしきものが見て取れた。もっとも、機能しているとは思えないものもある。

これは或いは、ツチグモから農耕民に乗り換えたのではないのかも知れない。

元々、この厳しい環境では、この辺りに住むのは困難だった筈だ。農耕民が押し寄せてきて主導権を握り、その後ヤマトに降ったというのが真相なのではないのか。

一番大きい住居も、やはり屋根が鋭い。

中に入ってみると、強い藁の臭いがした。数人の男が、武器を手にしたまま、此方を見ている。

そこそこ荒事には慣れているようだが。

奥には、正座をしている小柄な老人。

ひ弱そうだが、目には強い光があった。クマのミコと同じような人種だろう。此奴が、オオマミチか。

正面に座る。

後ろにも左右にも、武器を持った奴らが座った。

「吉野に住むという大天狗が貴様か」

「そういうお前がオオマミチでよいのか」

「そうだ」

「私は山神。 世間的には天狗と言われている様だが、そんなものはどうでもいい。 人間ではないと思ってもらおうか」

老人の声には威圧感がある。当然の話だろう。

いわゆる領民などではない。道行く者やよそ者を襲っては儀式の贄に捧げ、ヤマトに対しても半独立を保つやり手だ。まっとうな存在である筈が無い。人間としては、最大限に練り上げられた邪悪と言っても良いだろう。

眼光は鋭く、刺さり来るそれは狼の牙を思わせる。

だが、ヤトにはそよ風も同じだ。

「大天狗がまだ若い娘だと言うことは聞いていた。 だが、その実力は噂半分だと思っていたのだが」

「認識したのなら話は早い。 これから私は、吉野と蝦夷を路でつなぐつもりだ」

「路……?」

「そう、情報の路だ。 それに協力してもらう」

何を巫山戯た事を。叫んだ一人の首が、音もなく落ちた。

その場の全員が、ようやく気付く。

ヤトがツルギを抜き、切り払い。そして、今、鞘に収めている事に。

「この集落の人間は、精々百数十だな。 私の配下は既に七百を越えている。 しかも、私が鍛えた七百だ」

大量の血が噴き出す。

もがいていた、首から下が、前のめりに倒れて。

そして、冗談のように、生首が落ちてきた。何度か跳ねた後、いろりに転がり当たってとまる。

「それに何より、お前達、私を生け贄にするつもりだったな? 喧嘩を売ったと判断しても良いのだが」

「何を、勝手な……」

老オオマミチは、呻くので精一杯だった。

実のところ、ヤトが集落の人間と交渉するのは、これが初めてだ。支配の仕方は、今までに散々経験を積んできた。

だから、それを応用するだけで出来ると思ったのだが。

色々と、どうも難しい。

もっと分かり易く、ヤトの圧倒的な力を見せるべきなのだろうか。だとすれば、少し煩わしい。

「お前達にも損は無い話であるのだがな」

「どういう、事だ」

「蝦夷の珍しい品を取り寄せられるようにしておく。 お前達の大事な銭に変えれば、相応の利益を生もう。 更には、これから作る路に、塩を載せれば良い」

そう。こういった山奥で、何より大事なものは、塩だ。

海の近くまで出れば、塩などいくらでもあるし、簡単に作れる。だが、山奥で、特に冬ともなると、それは難しい。

「何を、すればいい」

「蝦夷と吉野の中継地点として、この集落を活用する。 人員が来た時は、湯を用意し、燻製肉などの持ち運びしやすい食糧を渡す。 勿論、ヤマトに追われている場合はかくまう」

「そのような事が」

「出来る。 しかも此処は、丁度良い中間地点だ。 ヤマトも半ばお前達を屈服させることは諦めているようでもあるな」

今更、どれだけ毒を追加しても同じ事だ。

ヤトが言うと、オオマミチは冷や汗を流しながら、うつむいた。考える時間をくれと、ヤトに言う。

鼻で笑い飛ばした。

魂胆が、目に見えているからだ。

「少し前、私はヤマトの軍勢千余と戦い、その内の二百を殺した。 それも、タケルが率いていた精鋭を、だ」

大きく目を見開いたオオマミチ。

ついでだから、とどめを刺しておこう。

「人間が嘘をついているかどうかも、だいたい分かる。 人間を止めるというのは、そう言うことだ。 私や、その配下をヤマトに売ろうとしたら。 この集落にいる人間は、どこにいようと皆殺しだ。 三日と生きていられると思うなよ」

少し考える時間をやる。

そう言い残すと、ヤトは家を出た。わざとらしく、側の山に行くと言い残して。

これから、想像を絶する混沌が、オオマミチの家で繰り広げられるだろう。しかも、ヤトの暴虐は、数人に敢えて見せてある。

ヤマトの軍を呼ぶにしても、埒があかない。

逃げようとすれば、即座に皆殺しにされる。

そう思い込ませれば、ヤトの勝ちだ。

ヤマトを手玉に取ってきた連中だ。相応以上に頭が切れるようだが、所詮は狼の影に隠れる子ネズミだ。

ヤトは自分が人間を止めていることを、最大限に活用するつもりである。実際の戦闘力は、さっき申告したほど過大ではない。軍が来たら逃げるしか無い。事実、タケルの軍勢との戦いでも、逃げながら少しずつ敵を削ったのだ。

しかし、山奥に暮らしている連中に、あの身体能力を見せつければ、どういう事になるか。

もっとも、連中がそっぽを向けば面倒くさい事になる。

軍を呼ばれた場合は最悪だ。

集落の奴らを皆殺しにすることは難しくないのだが、その後の隠蔽がまず無理になるだろう。

しかも蝦夷とヤマトの戦いは、今一段落してしまっている。

タケルが数千の兵を率いて攻めこんできたら、もうどうしようもない。逃げるしか選択肢はなくなる。

ヤトは人間を止めたが、無限の力を手に入れたわけではないのだ。

また、ヤトは自分が万能でも全能でもないことは、良く理解している。穴掘りが苦手なこともその一つに入るが、人間との接し方も同じだろう。もしも何でも完璧にこなせるのなら、今回のように四苦八苦はしていない。

恐怖と利権でだいたいの人間は飼い慣らせると判断したヤトだが。しかし、それはあくまで理屈上の話。実際に農耕民と接した経験が少ないから、出来るとは断言できないのがつらいところだ。

山に入ってから、カラスたちと、梟たちを集めて、集落を監視させる。

自分は巨木の枝に登ると、もいできたアケビを頬張りはじめた。たまには甘いものも良い。

カラスたちの鳴き声を解析する。

やはりというかどうやらというか、相当に荒れているようだ。

怒号がひっきりなしに響き続け、中では喧嘩をしている雰囲気まであるという。面白そうなので、敢えて長時間放っておく。

勿論、村から脱出しようとする奴については、監視しておく必要があるが。それ以外は、どうでも良い。

農耕民を意図的に苦しめても、別に見ていて面白くない。これは自分でも意外だった。連中はいずれ皆殺しにしてやろうと思っていた位なのだ。苦しむのを見て面白いかと思ったのだが。

それで、何となく分かった。

ヤトは農耕民を心底嫌っている。そのため、嫌いを通り越して、連中の生死に無関心な所まで行ってしまっているのだ。

ただ、今は状況を楽しんでいるだけだ。

しばらく見ていると、不意に静かになった。どうやら話がまとまったとみて良いだろう。

カラスたちを周囲に展開。梟も同じように処置する。

奇襲を受けたときに、対処させるためだ。

集落に入ると、敵意まみれの視線の中、オオマミチが現れる。座っているときは気付かなかったのだが、左足が悪いらしく、びっこを引きながら歩いていた。

「大天狗よ、結論が出たよ」

「ほう。 それで」

「従う。 ただし、条件がある。 まず第一に、我々は今後もヤマトには従う。 お前達にも、従うと言うだけだ」

なるほど、それは面白い。

ヤトとしても、忠誠心など求めてはいない。最初から、信用できないのであれば、むしろそれくらいの方が丁度良い。

「別に構わん。 他は?」

「第二に、我らの信仰を侵害しないこと。 我らにとって、ヤマトの神の名をかぶせたミジャグジ様は、大事なものなのだ」

「私の配下を贄にしないのならば勝手にしろ」

「そうか。 今後は、気をつけるようにする」

別に他人の信仰など、それこそどうでもいい。

森を喰らう農耕民族の信仰など、それこそ知ったことか。いずれヤマトを潰したら、此奴らもまとめて皆殺しにするだけなのだ。信仰なんぞ、どうなろうと構わない。勿論生け贄を使いたいなら、好きにすると良いだろう。

「ならば、此方も条件を付け加える」

「まだ、何かあるのか……」

「お前達の集落で、余った人間が出たら寄越せ」

顔を見合わせるオオマミチと、その部下共。

ヤトも知っている。

農耕民の集落では、邪魔者とされるような輩が必ず出る事を。そういった者達は居場所もなく追い出され、全ての悪事の責任を追い被され、なぶり殺しにされる。もっとも、知ったのは最近のことだ。

そういった、人間が邪魔と見なした人間を、拾っておけば。後で何かしら、使い道があるだろう。

更に言うと。

言うまでも無いが、人質の意味もある。

「分かった。 此方も、異存ない」

「首がつながったな。 後で交渉専門の人間を連れてくる。 そうそう、この周囲は常に監視しているからな。 もしもヤマトに訴え出たりしたら、その場で皆殺しにするから、そう思え」

さっそくヤトは、オオマミチの八歳になる息子と、十一歳になる娘を要求。

青ざめるオオマミチだが。意図くらいは、最初から理解しているはずだ。していないのなら、首を飛ばすだけである。

「そ、そんな」

「他にも子供はいるようだし、二人くらいはどうでもよかろう? 何しろ迷い込んできた人間の命を、どうでも良いとして処理しているのだ。 私を捕らえて、生け贄にしようとしたようにな」

「ま、待ってくれ。 まだ二人は幼くて。 それに、この村の未来を担う、重要な人材なんだ。 後生だから、この二人だけは」

駄目だと、一蹴。

見る間に涙を流しはじめるオオマミチは放って置いて、次へ行く。

他にも、幾つか手を打っておかなければならないのだ。

 

幾つかの村で交渉をした後、美濃にまで戻る。

途中、千里と落ち合った。

諏訪での交渉をするために、急いで信濃に行っていたのだ。ヤトはというと、もう少し先。北陸の近くまで、配下の者達の護衛のため、足を運んでいた。

既に季節は夏真っ盛りである。

これだけ長距離を歩き回っていれば、当然か。ヤトは疲弊を覚えてはいないが、千里はかなりしんどそうにしていた。

少し前に、千里が五十名ほどの賊を一度に降伏させた。

その交渉を終えて、人員を鵯に引き継いですぐである。行く路来る路でずっと不平を口にしていたそうだが。

ヤトを見ると、更に千里は不機嫌そうになった。

落ち合ったのは。美濃の山奥にある、小さな廃屋。誰も住んでおらず、会合などに使うにはもってこいの場所だ。

まずヤトが入り、千里が数人の部下と一緒にはいる。

状況はと言うと、良くないと答えが返ってきた。

「元々海千山千の連中だ。 今までも色々大変な連中はいたが、今回は筋金入りだな」

「子供らはどうしている」

「ああ、人質の。 鵯がかわいがってるらしいぜ。 彼奴、そういうの大好きだからな」

そういうの、か。

ヤトが行う非道を、千里はまとめて「そういうの」とくくっている。もっともこの場合、ヤトの行動による犠牲者、を意味しているが。

実際問題、人質くらい取らなければ、あの諏訪の連中が言うことなど聞くわけが無い。機会を見て、すぐに裏切りにかかっただろう。連中を制御するには、おなじ穴の狢にさせることだ。

そんな理屈を知っているだろうに、鵯は子供達を心底かわいがっている、というわけだ。ヤトには理解しがたい。

他にも幾つかの村を、補給拠点として使う。

どれもがヤマトの主要な集落からは離れていて、単独では立ちゆかないものばかりだ。様々な方法で、配下にした。これらの人員は合計で百五十を越えていて、全部を配下とは数えられないが、相応の力にはなる。千里がせっかく側に来たので、交渉は任せてしまう。諏訪の所で色々と、ヤトは交渉ごとの面倒くささに懲りていた。

「それで、だ。 いつ頃、蝦夷と吉野がつながる」

「最低でも、後一月はかかるだろうよ」

「何か問題が起きたのか」

千里が言うには、影の者達が動き出したそうである。

それも、相当な規模で。確かにこれだけの人数が東進しているのだ。気付かない筈がない。

対処は各自に任せるとして。そろそろ、ヤトも何かしらの形で、配下を助けて廻らなければならないだろう。

地図を広げる。

それぞれの場所の状況について、知っている事を情報交換した。分かったのは、この手のことに向いている鵯がいないと、時間が倍は掛かる、という事だろう。

路が、間もなくつながる。

だが、その「間もなく」が、存外に広く、時間も掛かる。

物事は、動かしてみないと分からない事がたくさんある。これなどは、最たるものといえそうだ。

話し合いが終わり、ヤトを追うようにして、千里が廃屋を出てくる。

これからあと三つの集落で、交渉ごとが控えている。既に決めたことを守れないと言い始めた村が一つあるほか、二つでは作業についての見解相違が出てきており、千里の意見が求められていた。

それらも、任せてしまって良いだろう。

とぼとぼと歩いて行く千里は、何だか疲れ切っているようにしか、見えなかった。この男は放っておくと過労死するかも知れない。そう、ヤトは思ってしまった。まあ、過労死したところでどうでもいいが。

道具が使えなくなるのは困る。

千里は今の時点では、まだヤトにとっては有用な道具だ。使い潰してしまうのは、何とも惜しい。

何か、手を打つ必要があるかも知れない。

千里の方の配下として、育てるのに適切な人間はいるか。

探しておく必要がある。そう、ヤトは思った。

 

3、暗闇の蛇

 

ヤトは演習の様子を、じっと見ていた。

狼煙を打ち上げる。

最初の山から狼煙が上がり、次に引き継がれるまでの時間を、脈に手を当てて調べる。そうすると、練習の成果が如実に上がり始めていた。

この間鵯に言われたのだが、ヤトの脈は異常に安定していて、人間のものとは思えないという。

それならば、なお使いやすい。

現時点では、甲斐まで狼煙を通せるようになった。

何度かの練習の末に、内容の暗号化にも成功している。ただし狼煙の場合、周囲から見えてしまう問題点がある。

情報を急いで伝えたいとき、少数だけ使う。

それ以外には、使わない方が良いだろう。

丸一日がかりで、狼煙を使って、甲斐へ情報伝達。戻ってきた情報を確認すると、精度は充分なものに達していた。

とりあえず、現時点では、問題が無い。

後は東北まで、情報伝達網をつなげるだけだ。

山を下りて、集落に足を伸ばす。

此処は諏訪。

少し前から、ヤトが見張りも兼ねて、足を運んでいる場所だ。ヤトが姿を見せると、畏れと恐怖が、集落を満たす。

いつでも、見ているぞ。

此奴らには、そう恐怖をすり込んでおかなければならない。

オオマミチの所へ行くと、老集落長は、血走った目を向けてきた。恨みが視線に籠もっている。

平和な生活を乱したヤトを憎んでいる、という事だろう。

勝手な話だが、ヤトとしては人間とはその程度の存在だと認識しているので、別にどうでもよい。

「狼煙の製造は順調か」

「今、上げていたではないか」

「今上げた分に関しては充分だった。 これから使う分は」

不快そうに、オオマミチが視線を向ける。

狼煙は、藁や薪に、様々な成分を混ぜることで造り出す。単純に燃えやすいものを使ったりする。

煙の種類を変えることで、簡単な文章を作る事が出来るのが魅力だ。

もっとも、それほど複雑な文章は作れない。

正確な情報を伝えるのであれば、やはり使者が出向くほか無い。これに関しては、ヤトが自分で行っても良い。

作ったという狼煙の質を確認する。

見たところ、問題は無い。これらを包んでおいて、いざというときには組み合わせて用いる。

この近辺には、狼煙の材料があらかた揃っていることもあって、製造には適していた。

勿論、見返りは用意してある。

塩は優先的に此方に流しているし、ヤマトの情報も幾らか分けてやっている。今の時点で、互いに憎み合ってはいるが、関係自体は悪くない。利害が一致しているからだ。

「蝦夷とヤマトは、また戦をするのか」

「もしぶつかり合うとしたら、来年の春以降であろうな。 何か情報は得ていないか」

「山深い村だ。 情報など、入ってくるわけもないだろう」

「ならば得る努力をしろ。 私でさえ、この近辺では路を行く旅人が襲われると聞いているほどだ。 信仰は結構だが、生け贄のために旅人を襲うような事はやめて、交易に都合が良いよう村を作り替えるのだな」

無言で押し黙るオオマミチ。

ヤトがこんな提言をするのはおかしな話だ。ただ、ヤトとしては合理的と思える事を口にしただけで、別にそれを実行しろとか、これからやるべきだとか、そんな事はつゆほども思っていない。

ヤトが此奴らに求めるのは、人数の提供と、情報伝達の際の中継だけ。

それさえこなせば、集落ごと老いさらばえようが、近親交配で弱体化して滅びようが、知ったことではない。

山から、数人が来る。

千里が鍛えている部下だ。

一人が交渉役で、中肉中背の、若々しい男だ。残りは塩を詰めた荷を背負っている者と、護衛らしいのが半々だ。

ヤトを見ると、一礼して、オオマミチと話を始める。塩のやりとりについて、のようだ。

ヤトの配下達は、塩を独自で作成している。

大陸では、塩の作成には非常に五月蠅いらしく、税やら法やらで保護しているという話だが。

まだアキツでは、ちょっと貴重なもの、くらいの認識でしかない。

ヤマトが塩に税やらを掛けたという話はまだ聞いていないから、この時点では特に問題も無い。

「少し高いな。 我々も大きな犠牲を払っているのだ。 もう少し値を下げてくれないだろうか」

「これでも十分利益は出るはずだが」

「しかし、我らの犠牲を考えると」

「多少、色を付けてやれ」

ヤトが横から口を出すと、配下の者達は少し困った様子だったが、結局わずかに色を付けて、交渉を終えた。

話が終わった後、配下の者達は言う。

「山神様、この辺りは、我々に任せていただきたく」

「今は、甘い汁を適当に吸わせてやれ。 変に暴発されると、いちいち殺さなければならんから、面倒だ」

「分かりました。 そう仰るのであれば」

「それよりも、千里はどうなっている」

千里について聞くと、部下達は皿に困り果てた様子で、眉をひそめた。

甲斐の辺りで手こずっていると聞いていたのだが、また何か問題が起きたか。

「実は、東北の手前辺りで、朝廷の軍勢が砦を盛んに作っています。 蝦夷に反撃された場合に備えているか、或いは監視のためでしょう。 かなりの数の人夫が出入りしていて、迂闊に近づけないのだとか」

「迂回は出来ないか」

「今の時点では難しいという事です。 情報だけを通すのであれば問題は無いのですが、繋ぎ狼煙は基本合図以上の事は出来ません」

「お前、名は」

「え?」

そこそこに論理的な話が出来る。

だから千里に、此処での交渉ごとを任されているのだろう。元賊に、このような男がいたとは意外だ。

「ツグホと申します」

「出身は」

「都です。 両親が建設のためにかり出された人夫だったのですが、たまたま連れていた子の私が渡来人に目をつけられまして。 学問を教えてもらいました」

渡来人に、どういう形で目をつけられたのか。

喋るときの内容で、何となくは分かった。そういえば、そんな事があると行っていたか。

渡来人の男の中には、まだ子を産めない子供や、場合によっては男を性欲の対象として考える者がいるという。

此奴は体も小柄だし、そういう連中に目をつけられるのに条件は整っていた、という事なのだろう。

「お前、使えそうだな。 千里に話を付けておく」

「ええと、それは……」

困った様子のツグホだが、ヤトは話を切り上げると、山に消える。

最前線が面倒な事になっているのであれば、目を通さないといけないだろう。早めに処置をしておく必要がある。

まだ、路は完全には出来ていないのだ。

それから数日、東進する。

普通の人間だったら通ることが出来ない崖や山を敢えて通ることで、追跡を防ぐ。もっとも、ヤトの行く路を、今の時点で単独の人間が防げるとは思えないが。

その日のうちに甲斐に入る。

千里の顔を見ておこうかと思ったが。部下に接触してみると、どうやら千里も、東北まで足を運んでいるらしい。更に北上する必要がある。

甲斐には、ヤトの配下が百人を超える数で集まっていた。

此処で立ち往生、というわけだ。

ただ、元々甲斐は山が多く、森も豊かだ。今はツチグモも殆ど刈りつくされてしまったし、却って住むには都合が良くなっている。

この辺りに、大きな拠点を作っておくと、色々と便利だろう。

こうして何度も行き来していると、様々な発見がある。

アキツは本来、とてもヤトにとって住みやすい環境であったのかもしれない。人間が容赦なく踏みにじっていったが、そうでなければ。

とはいっても、昔はヤトも、その人間の一匹だったのだ。

立ち往生ばかりでは芸がない。

この辺りで、長期で滞在し、なおかつ拠点も作っておくよう、指示。山での生活で鍛えておいたから、むしろこの辺りでの生活は苦にならないはずだ。

状況を見た後、更に東北東へ進む。

前線の状況を、見ておかなければならない。

 

驚かされる。

藪に伏せたヤトの眼前を行進しているのは、かって戦ったタケルの配下以上の精鋭だ。数は三千から四千という所だが。その緻密な動き、個々の能力の高さ、いずれにしても尋常では無い。

冷や汗が流れた。

これは、まともに戦える相手では無い。

「な、いっただろ」

隣に伏せている千里が、しらけた声で言う。

ヤトが前線に出向いたとき、まだ無理だと、千里は言った。実際に、目で見てみるまでは、その言葉を信じてはいなかった。

だが、まさかこれほどとは。

「彼奴らだったら、どれくらいまで同時に相手に出来る」

「精々数百だな」

「ほう?」

「それ以上になると無理だ。 森の中に引きずり込んで、ようやくそれと戦うのが、精々という所だ」

ヤトとしても、見栄は張っていられない。

まさかこれほどの精鋭が、育成されているとは。以前見たアマツミカボシの精鋭も練度が戦った。

だがこの部隊は、それを遙かに凌ぐ精鋭だと断言できる。

指揮をしているのは誰か。

どうもそれらしいのが、通り過ぎる。かなり大きな馬に跨がった武人で、分厚いヨロイを身につけている。

全体的に筋肉質だが、細い。

細い体を、良く鍛えている、という事なのだろう。

「あれは西のタケルだな」

「よく知っているな」

「あのツラは有名だからな。 何でも、クマソを倒したタケルの子孫らしいんだが、奴の親だった先代のタケルが目が覚めるような美人だったらしくてな。 ただ、軍才はなかったらしい。 だけどタケルが部下頼りってのも情けないだろ。 其処で、その息子を幼い頃から英才教育して、立派な軍人に育てたんだとよ」

「美人というのはよく分からんが、興味深い話だ」

子供が配下にはかなりの数いる。

そして、配下達の中には、専門知識を備えている者も、相当数がいる。それならば、一カ所に集めて、専門知識を片っ端から叩き込めば。

実に有意義だ。

敵の軍勢の中には、女もいる。

千里は気付いていないようだったので、指さす。

背丈はヤトとあまり変わらないくらい。小柄だが、鎧を着込んでいて、顔も隠していた。

「あれは?」

「しらねえな。 確か南のタケルは爺さんだって話だし、東のタケルは雲を突くような大男らしいしな。 北のタケルは、あんたが一番詳しいだろ」

「そうなると、どいつかの妻か?」

「いや、基本的にヤマトの武人は、妻を戦場には連れてこないらしいんだ。 理由は良くしらないがな」

そうなると、あれは指揮官の一人である可能性が高い。

通り過ぎていった軍勢は、二手に分かれて、平原に布陣する。

木の枝の上に上がって、観察。

千里は四苦八苦しながら、登ってきて、隣に座った。

カラスたちが近づいてこない。千里が側にいるからだ。千里の部下達も、周囲の藪に潜んでいる。

「片方の指揮官は、あの女か」

「おい、此処から見えるのかよ」

「造作もない」

「バケモンだな……」

両軍が、進み始めた。

戦の練習をしていると見て良いだろう。実際の武器は使っていないようだが、凄まじい喚声が此処まで響いてくる。

見ていると、西のタケルの軍勢が、もう片方を崩しはじめた。

だが、もう片方は粘り強く攻撃を受け止め、じわじわと反撃に出る。不意に、わずかな兵が飛び出して、西のタケルの軍の背後に回る。

鮮やかな手並みだ。

殆ど一瞬の出来事だった。

西のタケルは前面に総攻撃を仕掛けるが、後方からの追撃が凄まじく、相当数の兵を削られる。

叩き鳴らされる銅鑼。

両軍が、一度引いた。

陣から離れたのは、戦死判定を受けた者達だろう。

どちらも実力伯仲。だが、西のタケルの方が、少し被害が小さい。少し休憩した後、また両軍がぶつかりはじめる。

凄まじい駆け引きが、此処からでも確認できた。

「おいおい、あれはまずいんじゃないのか」

「問題ない」

「蝦夷の惨状は、俺だって見てきた。 軍勢は殆ど全滅状態だし、村なんかも無理に税をとりたて続けたせいで壊滅寸前だ。 いくらアマツミカボシとか言う奴が強くったって、蝦夷が保つとは思えねえ」

「保つなどとは、最初から私だって思っていない」

愕然とした千里に、ヤトは続ける。

まだ、眼前では、二つの軍勢がぶつかり合い続けていた。

「あの女の方、やるな。 西のタケルには及ばないが、かなり頑張っているでは無いか」

「おい、どういうことだ」

「蝦夷は滅びるだろうな。 だが、その後に、いくらでも手立てがある。 東北と吉野をつなぐことには、大きな意味がある。 だまって作業を続ければいい。 此処を突破できないようなら、情報の路はここまでで良い」

「おいおい、分かるように言ってくれよ……」

途方に暮れた様子の千里。

しばらく面倒なので黙っていたが。ヤトは、また勝利したらしい西のタケルの軍勢から、ぞろぞろと脱落していく兵士達を見ていた。

様子を見る限り、犠牲だけなら、西のタケルの方が多かった様子だ。

ただし、その軍勢は中央突破を果たして、敵軍の指揮官にまで届いていた。そのまま潰走、壊滅という所だろう。

北のタケルとも良い勝負が出来そうな優れた武将だ。

今日の戦いは、それで終了したらしい。

戦士判定した兵士達も、陣に戻った。そして、陣容をまとめると、それぞれ路を戻っていった。

砦にでも駐屯するのだろう。

そう思っていたら、かなりの兵士達が陣から離れて、巡回を開始する。

なるほど。

影の者達は、おそらく此方の動きに気づきはじめている。狼煙を散々上げていたのだし、無理もないか。

おそらくは、情報の路を、最初からこの辺りで寸断するつもりだったのだろう。

「とにかく、此処までの路を、完全にすればいいんだな」

「そうだ。 私はこれより東北に出向き、アマツミカボシと協議を行う。 この様子では、一旦蝦夷が滅ぶのは避けられまいし、その辺りを詰めておく必要があるからな」

ヤトが見たところ、蝦夷の壊滅は、今訓練していた軍勢だけで充分だ。

二千がアマツミカボシを抑えて、残りが前線を蹂躙する。

蝦夷側に優秀な外交官がいれば話は別なのだろうが、そんな事は望めないだろう。今回の和平も、アマツミカボシの軍勢が無事だったのを見て、タケル達が大事を取った結果なのだろうから。

「どちらにしても、はっきり分かったことがある」

「何だよ」

「今後、このアキツは、ヤマトの手に落ちるな。 ただし我々には、相応の戦い方がある」

農耕民のやり口で、一番大きな問題がある。

それは人間があまりにも多くなりすぎることだ。

はじき出される人間も多数出てくるし、そいつらがこちら側に流れ込んでも来る。更に言えば、こちらが人間の海の中に隠れ潜むことも、さほど難しい事ではないだろう。

蝦夷が潰れた後は、更にやりやすくなる。

アキツに敵がいなくなったことで、ヤマトの兵士共はどんどん弱体化していくことだろう。

タケルのような英雄がいるから、今はヤトでさえ、好き勝手には動き回れない。農耕民共が作った仕組みの裏側で動くのが精一杯だ。

しかし、タケルのような英雄が消えたときには。

その時には、ヤト達の世界が来る。

路が出来るまで、後一歩。

最終的には、九州にまで、四国などの島にも路を延ばして、全ての情報を接続する。そうすることで、ヤトの力は、このアキツの全域に及ぶ。

その時。

ヤマトは、もはやヤトには、抵抗も対抗もできないのだ。

いずれにしても、状況は必ずしも悲観的では無い。敵がこのアキツを統一するというのなら、山への恐怖を保たせるだけの作業を維持し続け、最終的に敵が弱り切ったところで、表に出れば良い。

以上の事は、千里にも言わない。

ただ、一つはっきりしている事は。

これからは、十年、二十年を、戦略単位として考えて行く必要があるだろう。

とりあえず、ヤマトの力を、できる限り蝦夷との戦いで削り取る。

全ては、其処からだ。

千里の側から降りると、ヤトは藪の中に移動。ついてくるように、千里をはじめとする部下達に促した。

近辺の山で、拠点に出来そうな場所を教えておく。

敵を見張りやすい場所。

隠れるのに適している場所。

今はまだ、手駒として必要な連中だ。だから、手を抜かず、教えておかなければならなかった。

 

4、蜂起

 

東北にいる西のタケルから、使者が来た。

まだ南のタケルの後任が決まらないのか、というものだ。弘子の指揮能力が予想外に高く、なおかつ成長も早いという。

アマツミカボシを倒せるほどではないにしても、充分にその軍勢を抑えることくらいはできそうだという事であった。

北のタケルは、書状を読み終えると、唸る。

かなりの賭けになるが。

弘子を南のタケルに任命するべく、武王に進言するのも良いだろう。兵士達の士気は上がるだろうし、味方の指揮官を一気に若返らせることも可能だ。

実は、都に戻ってから、北のタケルは弘子を嫁がせるに相応しい若手の指揮官を探していたのである。

だがどの指揮官も、目だった短所があり、何より経験が浅い。

蝦夷との戦いで弘子が見せた実直かつ隙が無い指揮は、相当な才能から来るものだ。あれに釣り合う指揮官となると、相当に難しいだろう。

悩んだ末に、北のタケルは武王に奏上。

武王は御簾の向こうで、しばらく考え込んだ後に、逆に聞き返してきた。

「タケルよ。 では余から聞くが、弘子はどう思っていると、そなたは考えるか」

「よう分かりませぬ。 ただ、夫婦のつきあいというものは、始まる前から全てが決まっているものでもありますまい」

どちらかが一方的に強い関係の場合は、話が違ってくるだろう。だが、弘子の場合は、そもそもが王族の血を引いている上に、タケルの娘という、交配を重ねて強く強く育てた馬のような存在だ。

能力的に釣り合う相手であれば、弘子はおそらく嫌だと言わないはずなのだが。

ちなみに、東のタケルも西のタケルも、いずれも正室がいる。どちらも王族を妻に迎えているので、彼らが弘子を新たに正室にすることは不可能だ。王族を側室にするわけにもいかないし、選択肢としてはあり得ない。

「ならば、無理に夫婦となる事もあるまい。 好き勝手な相手を見つけて、夫婦になるのが良いのではあるまいか」

「よろしいのでありますか」

「王族として生まれた時点で、自身を国の駒として活用しなければならないのは、自明の理であろう。 弘子は充分以上に駒として活躍しておる。 これ以上は、好き勝手にすれば良いだろう」

「さすがは陛下にございます」

そう言うのであれば、北のタケルとしては、何も言うことは無い。

一度屋敷に退出する。

何通か書状を書いた後、ツクヨミの屋敷に行こうとしていたところ。向こうから、屋敷に押しかけてきた。

影の者を伴っていないと言うことは、状況分析の中間報告という所であろう。

客間に通して、適当に挨拶をした後、ツクヨミはまとめた書類を出してきた。

「現在、蝦夷の王族は、大きな問題を抱えています。 蝦夷王の嫡子を除く子息達にはこれといった人材がおらず、当の蝦夷王が非常に無気力化しているため、朝廷との和平がなった今、問題が表面化したようです」

「乱の兆しか」

「ある意味では。 どうやら、現在の王を退位させるべきだという声が、大きくなっているようでありまして」

蝦夷王は、北のタケルも見た。

非常に臆病そうな人物で、タケルの視線を浴びるだけですくみ上がっていた。相手が王でなければ、しっかり背筋を伸ばせと怒号を浴びせていたかも知れない。

臆病である事は、決して悪くは無い。

だが、王族は剛胆であった方が良いだろう。少なくとも今の蝦夷王に、王たる資格があるとは思えなかった。

「それで、どうなりそうだ」

「蝦夷王の嫡子であるリルイは勇敢さ、自覚、能力、あらゆる点で英才の名が高く、彼を後継という声が高い様子です。 ただ問題が一つありまして」

「ほう。 いかなる事か」

「はい。 それが今の蝦夷王も、若い頃にはリルイのような優れた人物であったそうなのです」

なるほど、未来も同じになるのかという懸念があると言うことか。

更に、神官長だったワテムルが、決戦で戦死したこともある。嫡子を後継にするという一事が、なかなか決まらずに進んでいるのだとか。

「如何しますか。 王子を暗殺すれば、蝦夷に致命傷を与えられましょう」

「出来るのか」

「蝦夷は王宮も小さく、潜入は難しくありません。 王子は相応の武勇を有していると言うことですが、暗殺であれば、手段はいかようにも」

手段は選ばないつもりだが。

タケルが見たところ、もう蝦夷は国家としては保たないだろう。自壊するとみて良い。手を貸して崩壊を加速させるよりも、これはもう、放っておいた方が良いのではないのか。むしろ下手に暗殺など試みると、失敗したときが面倒である。

しばらく悩んだ後、タケルは保留を指示。どうも気が進まない。

このまま兵を進めれば、勝てる状態だ。蛇に足を足すような真似をしても、却ってまずい結果を生みかねない。

それならば。確実に勝てる手を、更に積んだ方が良いはずだ。

説明すると、ツクヨミは頷いた。

気がついたのだが、ツクヨミの髪は既に真っ白になっている。どうやら、よほど心身に負担が掛かっていたらしい。

これは、活動は陰謀にとどめさせ、前線には出さない方が良いだろう。

此奴は思うに、線が細すぎたのだ。今度夜刀のような輩の狂気を浴びたら、命に関わる。気にくわない奴だが、これからの朝廷には必要な人材だ。死なせるわけにはいかない。

「他に何か、蝦夷に関する報告はないか」

「アマツミカボシは不気味なほどに沈黙を保っています。 ひたすら兵の訓練を続けているという報告もあります」

「此方も、同じように兵を訓練し続けよ。 決戦の際、奴の軍勢を押さえ込むことさえ出来れば、それでいい」

「分かりました。 そのように伝えます」

この和平は、かりそめのもの。

蝦夷の国力を回復させてしまっては意味がない。勿論、蝦夷もそれくらいは理解しているはずだ。

当然のことだが、蝦夷が全面的な降伏をし、完全な形で朝廷に降るのならば、それで良いのだが。

アマツミカボシを筆頭とする明確な軍事力がいる以上、蝦夷にその選択肢はない。

或いは英明な君主がいるのであれば、話は別だろう。しかし、だ。今の蝦夷に、それは望めないことだ。

話を詰めた後、ツクヨミの屋敷を後にする。

この近辺には、不愉快なことに温泉がない。体を休め、傷を癒やすには温泉が一番なのだが、それが望めない。

屋敷に戻ると、タケルは横になった。

冷たい。

あの暖かい、温泉の側の小屋が、恋しくてならなかった。

 

翌日。

宮中から呼び出しが掛かった。かなりの早朝に、である。

急の呼び出しとなると、出なければならない。タケルに対する呼び出しである。何かの緊急事態が起きた可能性が高い。

すぐに屋敷を出る。

外はまだ暗い。馬は準備されていたが、此処は歩いた方が良いだろう。護衛を数人つれて、そのまま宮中に出向く。

早足で歩きながら、隣を半ば駆け足で来る使者に聞く。身長差がかなりあるので、此方が早歩きでも、他にはそうではないのだ。

「何が起きたか、聞いてはいないのか」

使者は首を横に振るばかり。

普通、軍事関係の事であれば、だいたいはタケルの所にまず情報が来る。それなのに、いきなり宮中からだ。

政治的な問題だろうか。だとすると、タケルには対処できる事が少ない。

途中、慌てて屋敷を出てきたツクヨミにばったりと出会う。

並んで早歩きしながら、そちらにも聞くが。

ツクヨミも、何も知らないと言うことだった。ツクヨミは逆に、政治的な問題に関しては、殆ど全て知らされているはず。それがこうも知らされていないと言う事は、何が起きたのか。

宮中に到着。

高官は、軒並み出そろっている。

これは容易ならざる事態だ。

九州地方に出向いている将軍が、何人か見かけられる。だいたいは南のタケルが鍛え抜いた精鋭達だが。

北のタケルとも、交流が深い。

彼らの表情は、一様に青ざめている。このような場所で、時間を浪費したくないと、顔に書かれていた。

「何が起きたのか」

「北のタケル様。 反乱にございます」

「何っ……!」

「クマソの残党が、ブツドなる教えにより勢力を増やし、九州にて乱を起こしました模様です。 現時点ではさほどの勢力ではありませんが、彼方此方で呼応する乱が起きておりまして」

ゆゆしき事態だ。なるほど、それならタケルが呼ばれるのも無理はない。

それにしても、ブツドとは何か。

渡来人の高官がいたので、捕まえて聞いてみる。

「ああ、それは印度より来た思想にございます。 大陸でも、三国時代に入り込んできまして、以降は少しずつ信者の数を増やしてきました。 この国風に言うならば、仏教とでも言うべきでありましょう」

「印度の思想か」

聞いたことがある。

印度とは、高度な学問を誇る地域で、漢人達よりも更に遙か西に住まう者達だという。朝廷が取り入れている神々の中にも、印度を源流とするものは多いのだと、ツクヨミが付け加えてくれた。

なるほど、学問、それに思想の源流地か。

「その仏教とやらは、危険なのか」

「本来は、慈悲深き仏の下、多くの哀れなる民を救うという思想にございます。 ただし、こういった思想が先鋭化すれば、大きな乱を引き起こし、危険な事態を呼び起こすのは、周知の事実にございましょう」

困ったタケルがツクヨミを見ると、頷かれる。

なるほど、知識人の間では、周知の事実と言うことか。それにしても、そのような事になっているとは。

武王が来たことが告げられる。

御簾の前に集まる。先頭に座ったタケルが平伏すると、御簾の後ろに、武王が来た気配があった。

儀礼的な挨拶の後、武王が言葉を発する。

「由々しき事態が起きた。 九州にて、乱が勃発した。 仏教なる思想によるものという事だが、後ろで糸を引いているのは、間違いなくクマソの残党だ。 一刻も早く対処しなければならぬ」

現地では、将軍達が指揮をつづけ、被害の拡大を防ぐために必死だそうである。

ただし、現時点では、将軍達が勝手な動きをすれば、混乱を加速する可能性が高い。誰か高官が出向くまでは身動きしないようにと、指示が出ているそうだ。

九州は、朝廷に激しく抵抗したクマソの根拠地だ。

ツチグモとしても勢力が非常に大きく、ナガスネヒコに次ぐ敵であったとも、タケルは聞いている。

朝廷としても、絶対に放置は出来ない相手なのだろう。

徹底的に根絶された今となっても、残党が蠢動するほどなのである。更に言えば、朝廷としても、その名を二度と表に出ることを許せない相手だ。

「北のタケルよ」

「ははっ!」

「そなたには、悪いのだが。 蝦夷討伐のために編成していた精鋭を率い、即座に九州に向かって欲しい」

やはり、そうなるか。

蝦夷は、正直な話、他のタケルだけで戦線の維持は出来る。それに、戦闘の再開の主導権は、此方にある。

それならば、北のタケルが出向くべきは、今広がりつつある乱だ。

何人かの将軍達が呼ばれた。

全員、相応の実績がある者達だ。

更に、弘子を此方に戻すと、武王は言った。同時に、新しい南のタケルに任命するとも。

まだ実績は足りていないが、軍才は北のタケルが太鼓判を押すほどの逸材だ。此処で使うしかない、ということだ。

「分かりました。 私は五百の精鋭と共に、即座に九州に向かって、状況を把握いたします。 そなた達は、残りを率い、おいおい後を追うようにせよ」

「分かりました」

将軍達が礼をするのを見届けると、これ以上は無意味と、タケルは立ち上がった。

すぐに、宮中を出る。

精鋭の中から、長距離移動を得意としている者達を選抜。皆を把握しているからこそ、出来る事だ。

五百を選び抜くと、すぐにタケルは、都を発った。

海路で行くのも良いのだが、此処は確実性を重視して、陸路だ。九州までは、ほぼ一月掛かる。

反乱の規模は、一カ所ずつではさほどでもないと聞いているが。

何より、報告が来てから、時間も経っている。最悪の事態も、想定しておかなければならないだろう。

途中で馬を二度変えた。

進軍の速度は、限界に近い。備後を過ぎた頃には、兵士達もかなり疲弊していた。駐屯部隊の兵士達は、後から来る部隊と合流するように指示を出しておく。これで、九州に本隊が到着した頃には、一万を越える軍勢になっているだろう。

だが。

これで、今年中の蝦夷壊滅は不可能だ。

しばらくは陰謀攻勢で、内部崩壊を引き起こすように働きかけるしかない。今の時点ではそれも上手く行っているのだし、ツクヨミに任せるほか無いだろう。

非常に悔しいが、こればかりはどうにもならない。

周防に着いたのは、都を出てから二十日目。

兵士達は疲れ切っていた。

この辺りになると、流石に反乱についての情報が入ってきている。港に出ると、かなりの軍船が集められていた。

司令官に面会する。

浅黒い肌の、屈強な男だ。状況を聞くと、顔中に向かい傷がある男は、にやりと笑うのだった。

「反乱は最低でも十カ所以上で起きていて、何カ所かでは討伐軍を撃退して、勢いに乗っているようですな」

「それはいかんな。 敵の兵力は」

「分かりませんが、多い場所でも千はまだ超えていないようです。 まだ、ですが」

頷くと、船を用意するよう指示。

太宰府辺りまで行って、現地の指揮官と合流する。

全てはそれからだ。

一瞬、夜刀のことを思い出したが。流石にそれは無いだろう。奴が仮に生きているとしても、其処までの事が出来るはずがない。

影の者達も、何人か今回は借りてきている。

現地に到着したら、やってもらう事がある。

タケルが来た。その情報を、ばらまくのだ。烏合の衆は、それだけで離散するだろう。そうしないとなると、かなり厄介だが。

船に乗る。

急いで準備した船だから、小さい上に揺れも激しい。

東北地方の制圧は、お預けだ。

それにしても、まさかこのようなことで、アキツの統一が遠のくとは。やはり、あまりにも、統一を急ぎすぎたのかも知れない。

波が高い。

甲板に出たタケルは、腕組みしたまま、向こう岸を見つめた。

反乱の討伐には、時間が掛かる。

おそらく、今年中は。

歯ぎしりしながら、北のタケルは誓う。

必ずやこの反乱を起こした連中には、落とし前をつけさせるのだと。

 

(続)