蛇神転生

 

序、追跡の犠牲

 

その辺りにいる。

其処まで掴めているのに、連中はヤトを探し出せていない。木の陰で腕組みしながら、ヤトはその様子を見守っていた。

少し前の事だが、山に入り込んできた賊を叩きのめした。ちなみにその時は、殺しはしなかった。

叩いたのは他でもない。ヤトの集落の者達を襲い、性欲を解消しようとしているのが目に見えていたからである。脅かして二度ほど追い払ったのだが、それで多分後には引けなくなったのだろう。三十人以上を連れて、押し入ってきた。

その時既に、山からヤト以外の人間は、全て避難していた。

正規軍だったら結果は違っただろう。タケルが率いている部隊なら、容易に探し出した筈だ。

だが、賊は。いまだ、ヤトを探し出せず、右往左往している。

そしてはぐれた奴を見計らっては、狩る。

後ろに回り込んで、心臓を刺し貫く。

或いは喉を掻ききる。

そうして、既に十五人を殺した。死体は敢えて放置してある。死体につけておいた武器は、後でゆっくり回収するだけだ。

「ち、畜生! どこにいやがるんだ!」

また部下を殺されて、賊の頭領が喚き散らす。

最初は部下だけが来た。山で暮らす女を、珍獣か何かと考えているようだった。浚っていって、好き勝手をするだけのつもりだったのだろう。

だが追い出される度に、人数が増えて。ついに頭目の登場だ。

どうやら此奴らは伊賀とやらから来たらしい。そろそろ、千里が来る頃だ。充分に此奴らで遊んだし、もう良いだろう。

木の上で、気配を露わにする。

数人がヤトを見つけて叫んだ。ちなみに、ヤトの右手には。今刈り取った二匹の生首をぶら下げたままだ。

「いたぞ!」

「ば、化け物っ!」

悲鳴が上がった。

ヤトは白い絹の服を着ている。袖などに朱をあしらっているので、とても鮮烈な印象を受ける良い服だ。

こけおどしには、これくらいでいい。

腰にぶら下げている鬼は、部下に磨き直させた。まだ本調子とは言いがたいが、この間の戦いから、何か一皮むけた。しばらく朝廷の軍勢と戦うのはやめだ。勢力を広げるのに、全力を注ぐ。

「貴様、何者だ!」

「山神」

「神だと!? ふ、ふざけ……」

「お許しください! 天狗様! 出来心です! どうか、お許しを! 山を荒らしたことは謝ります! だから命だけは取らないでくだせえ!」

頭以外の賊が、一斉に蛙のごとく這いつくばった。

良い光景だ。舌なめずりしたくなる。

本心から怯えきった此奴らは、山を喰らってきた者ども。それを屈服させるのは、実に気分がいい。

頭はわなわなと震えている。

必死に恐怖を押し殺している様子だ。だが、それも一押ししてやればおしまい。

首を、頭領の足下へ放り投げ、転がしてやる。

口にも目にも多数の笹の葉を突っ込んでおいた首が、月明かりに照らされるのを見て。小さな悲鳴を、頭領は上げた。ついに腰砕けになる。

そして、周囲に、千里が率いる戦闘部隊が姿を見せる。

「捕らえておけ」

命令を出すと、その場からかき消えてみせる。

単に速く移動しただけだが、それを見た賊の頭は、更に真っ青になって、泡を吹いていた。

これでいい。

賊どもは、これから取り込む。どうせ伊賀には、既にタケルが進駐している。放って置いても、賊はいずれ皆殺しにされる運命にある。

それならば、生き残りは可能な限り取り込んでおいた方が良いだろう。

猪を見つけたので、仕留める。

吊して捌いていると、千里が戻ってきた。丁度内臓を出している所だったので、作業を進めながら、ヤトは聞く。

「首尾は」

「指示通り、処理しておいたよ」

「そうか。 それでいい」

賊の頭をはじめ、殆どの人間は、これから部下だ。

わずかな数人は、わざと生かして返す。勿論、山の恐ろしさを喧伝させるためだ。森を喰らう連中は、どうも自然を舐めている節がある。奴らには、森の恐ろしさを思い知らせなければならない。

更に言うと、連中の仲間を更に配下に引き込む必要もある。

人数はいくらでも必要だ。

ヤトの行動範囲も広がってきている。既にヤマト中枢の周辺は全て抑えた。抑えたと言っても縄張りにして、山一つごとに数人を置いているだけだが、それでもヤトには充分だ。タケルが千以上の兵でも率いてこない限り、怖れるものは何一つない。

また、紀伊や丹波、丹後にも勢力を最近は広げはじめている。摂津はほぼ掌握したし、近江へも最近は足を運んだ。

このまま行けば、近いうちに畿内は全て抑えられる。

勿論、山だけの話だ。

だが、それがヤトの戦略では、大きな意味を持ってくる。

問題はあの戦い以来、タケルもツクヨミも姿を見せないことだ。確かに大きな損害を与えてはやったが、奴らがその程度で諦めるはずがない。ヤトが死んだと思っているのだとしても、少しばかり静かすぎる。

ヤトも、最近はヤマトの役人や兵士には手を出していない。

小康状態だ。いつまで続くかは、正直ヤトにも分からないが。

内臓の処理を進めていくが、千里はまだいる。

「どうした。 肉を分けて欲しいのか」

「一つ聞きたいんだが、いいか」

「何か」

「あんた、人間じゃ無くなり始めてるって、本当かよ」

無言で、内臓を入れた土器を抱え上げる。手伝うように、視線で指示。

舌打ちすると、千里も、別の土器を抱えた。

そのまま川へ行く。

腸や肛門は、糞を流した後、焼いて土に埋める。他の内臓は、全て食べる。川の流れに臓物を浸しながら、ヤトは応えてやる。

「私は元々山神だが。 しかし最近、更に人間から離れているように思えるのは、事実だな」

「どうりで化け物じみているわけだ」

「元からだ」

どういうわけだか分からないが、千里の憎まれ口は聞いていてもさほど不快にはならない。既に部下として、集落の手札として認めているから、かも知れない。

千里自身も、ヤトが弱っていると聞いても、側を離れる気配が無かったと、鵯が言っていた。

此奴、出自の割には。案外義理堅いのかも知れない。

「此処までやったのだ。 肉を分けてやるから、部下達と喰え」

「はいはい、ついでに手伝えってんだな」

「そうだ」

血抜きが済んだ猪を、解体しはじめる。

以前よりさらに速くなっているのは、分かるようになり始めたからだ。どこを切れば、簡単に関節を外すことができるか。前も知識で知っていたし、実際に出来たが。今はそれとは少し違う。

見えるというのか、なんというのか。

牛刀を振るうだけで、その切れ目を通すことが出来るのだ。これは猪をたくさん捌いたから、ではないだろう。

それに、明らかに筋力も上がっている。

それでいながら、体がたくましくなったという事は無い。以前同様、細いままだ。やはり、尋常なこととは違う作用が、体に働き始めていると見て良いだろう。

神などいない。

それがかっての持論だった。

だが、今は或いは、違うのかも知れないと思い始めている。

人間が考えるような神などは存在しないだろう。だが、考えているのとは違う神ならば、どうなのか。

それはおそらく。摂理を外れてしまった存在。ヤトは、自然の、人間の摂理を無視し、外れた者になりつつあるのだろう。

かといって、不死身ではないし、無敵でもない。

それは自分自身が重々承知している。だから、最近は特に、タケルとの戦いが生じないように、気を遣ってはいた。連中が静かなのは、その成果かも知れないとも思うのだが。他者に対する自画自賛は避けたい。

火を焚いて、肉を炙りはじめる。

脂がのった肉が、じゅうじゅうと美味しそうな音を立て始めた。食べない分は切り分けて、燻製にする。そうしないと、傷んでしまう。埋めておいて後で食べる手もあるが、ヤトはその全てを覚えているほど暇ではないし、取りにも行けない。だから、燻製にする方法を選んでいる。

千里と向かい合ってたき火の周りに座り、肉を食べ始める。

野草も取ってきて、それも口に入れた。肉だけでは、どうも体を維持できないらしいと、ヤトは誰にも言われず、知っている。

「食欲は、あるんだな」

「ああ。 だがどれだけ食べても太る様子が無いがな」

「以前は違ったのか」

「寝てばかりいると、体が重くなる感触があった。 今は喰った分だけ強くなっている感触だ」

薪を軽々へし折って、火にくべているのをみて、千里が目を見張る。

とくに腕力、それに握力がアオヘビ集落にいた頃とは比較にならない。今なら、達人が相手でも、力だけで押し切れるのでは無いかと、ヤトは考えている。

勿論そんな危険は犯さないが。

「其処に積んである肉は持っていってかまわん。 部下達と分けろ」

「残りはどうするんだ」

「蓄えておいて、いざというときに食べる」

「そうか。 じゃあ、有り難くいただくな。 何だか、山での生活も悪くねえ。 賊をやってた頃よりも、むしろ喰ってるものは良いくらいだ」

肉を食べ終えると、後は無言となった。油のついた手を拭いているヤトを尻目に、千里は肉を抱えて、山の奥へ消えた。

上機嫌のまま、さっき掘っておいた横穴へ。だが、どうしてだろう。穴の堀り方だけは、どれだけ練習しても上達しない。

今日も崩れてしまっていたので、落胆。

見つけておいた、天然の横穴に移動する。奥に燻製肉を隠すと、ころんと横になって、丸まった。

着実に、目的は進展しつつある。

千里の配下だけではない。使えそうな奴も鍛えて、相応に武芸を身につけはじめた。水練が得意な者どもも増えた。

そろそろ、作戦行動を実施できるだろう。

だが、念には念だ。

伊賀にいる賊共を吸収することで、配下の数は六百に達するという報告もある。鵯は女達の中から、記憶力に優れたものを見繕っており、百人ずつを管理させる予定だ。六百の内、百人ほどが戦士として使える。

この百人は、神出鬼没の戦力となる。

ヤマトの連中の村は何度も調べたが、その気になれば百人で充分壊滅できるものもある。そろそろ、試してみてもいいだろう。

だが、タケルとの戦いの苦い記憶は、ヤトをむしばんでいる。

不要な戦いは避けたいという気持ちが、まだ強い。感情が戦略に影響を与えるようでは、まだまだだとも思うのだが。

しばらく無心に眠った。

目が覚めてから、東へ。伊賀に足を踏み入れておきたい。

千里が賊の取り込みを進めているそうだが、粗相をする阿呆がまだ絶えないのも事実。実情は、自分の目で確認しておきたかった。

 

1、名将発つ

 

報告を受けたタケルは、兵を連れて急行した。

少し前から、伊賀に進駐したタケルは、兵力にものを言わせて、伊賀の浄化作戦を進めている最中である。

紀伊ほど酷い状態では無かったのだが、賊は相応にいたし、村々の中には好き勝手をしている連中もいたのだ。

そういった者達を或いは叩き伏せ、或いはなだめすかして、治安の回復に努める。そうすることで、地固めをする。

さほどの消耗では無かったが、夜刀との死闘で失った兵力も、その過程で補充していった。

だが、ここしばらく、おかしな報告が上がり始めたのだ。

賊が消えるというのである。

山などで好き勝手をしていた賊が、移動していくのを確認。その後、どことも無く、姿を消してしまう。

近くの村などに出向いてみても、賊がいるという報告は無いという。

賊の討伐で、兵を消耗せずに済むのは助かる。

だが、どうも嫌な予感がしてならない。

夜刀との戦いで受けた傷は、既に完治した。既に季節は冬。傷が痛まないのは、大変たすかる。温泉での湯治が効果を示している良い証拠だ。だが、タケルは忙しく走り回らなければならなかった。

今日も、タケルは部下の報告で、伊賀の西にある山へ急いでいた。

少し前まで、三十人ほどの賊が住み着いていたのだという。小さな山塞まで作って、好き勝手をしていたと言うことで、討伐の対象になっていた。

その賊共が、姿を消したというのだ。

山塞に、兵を連れて乗り込む。

確かに人の気配が全く無い。だが、人がいた気配は、確かにある。しかも、ほんの数日前まで、だ。

タケルは周囲を見て廻りながら、唸った。

明らかに痕跡が消された跡がある。それも、相当に手慣れている。だが、どうも違う。

最悪の場合、夜刀が生きていて、暴れたのかと思ったのだが。

これは違う。

痕跡の消し方が下手なのだ。それに、此処にいた連中は、多分皆殺しにはされていない。あの凶暴な夜刀だったら、全員を薙ぎ払うようにして殺してしまっただろう。賊など、生かしておくわけがない。

しばらく見て廻ってから、舌打ち。

いなくなった。それ以外には、言いようが無いのだ。

「念のため、兵をしばらく駐屯させよ。 その後、山塞は徹底的に破壊して、野に戻せ」

「分かりました」

兵を二百ほど残すと、タケルは山を下りる。

側にあった村によると、村長達が平伏して、礼を述べてきた。

「賊に好き勝手されていた村の娘達も、無事に戻りました。 これもタケル将軍の威光の故にございます」

「うむ……」

そう言われても困るのだが。一応、自分がやったように応えておく。

タケルが見たところ、賊共は何かに怯えるようにして移動した。逃げたのでは無いのだろう。

しかし、村の者達に聞いても、賊を怖れさせる存在など、知らないと言う。

タケルの軍に怯えて逃げたという線も、一応はある。だが、こういった僻地にいる賊は、朝廷の軍の恐ろしさを知らない。駐屯軍の緩んだ兵士しか相手にしていないからだ。

タケルの威光と言っても、僻地では届かないのが真実である。

故に、賊がタケルを怖れて逃げたとは、考えにくい。

確かに伊賀で、既に幾つかの賊は討伐した。凶悪な賊には厳罰を加えたし、そうで無いものは相応の罰を与えた。

しかし、その程度は、駐屯軍もやっている。規模がタケルの場合違うだけだ。

一体、何が起きている。

一度屯所に戻る。

伊賀でも、タケルは常に屯所で作業をしている。此処での駐屯はさほど長引きそうに無いので、側室は連れてきていない。

部下達が、毎日新しい情報を仕入れてくる。今日も最初は、まず新しい情報の確認であった。

問題は順番に片付けていかなければならない。

賊の処理は、間もなく終わるだろう。反抗的な村々は、既に抑えてある。後は、兵の数を生かして、山々の間に路を作ったり、開墾作業を手伝ってやったり。また、汚職官吏の摘発も怠っていない。

紀伊ほど酷い状態では無いので、間もなく作業は完了する。

来年までには、目処が立つはずだ。

問題はその後である。

ツクヨミの奴はまだ立ち直っていないようだし、もしも夜刀が生きていたら面倒な事になりかねない。

しかし、武王は東北への加勢が必要だと、周囲に漏らしているという。何を意図しているかは明らかだ。

そろそろ、この辺りに進駐するのを引き延ばすのも、難しいだろう。地固めの重要性は武王に何度も説明したが。しかし、武王はこのアキツを統一することの方に、より戦略の重点を置いている。

確かにそれは納得できる事だが。

しかし、夜刀は危険だ。死んだとはタケルも思うのだが、もしも生きていた場合。タケルがこの地を離れた時、何が起きるか予想できない。ツクヨミはこの地に留まるではあろうが。

悶々としているタケルの元に、書状が届く。

タムラノマロからだ。

書状に目を通していく。何ら問題が起きていないことを、わざわざ知らせてくれている。最近は襲撃も当然起きないし、警備も以前より更に強化しているという。確かにそれならば、不安は無い。

それなのに、どうして不安が消えないのだろう。

 

年が明けて、少しして。

タケルは伊賀を離れた。

伊賀にいた有望な若者数名を指揮官に加え、代わりに育ててきた者達を数名残した。その途中に紀伊に寄ったが、此方も問題は無い。タケルが離れてからも治安は維持されているどころか、目だって平和になっていた。

後は、人口が増えれば、発展へとつながっていくだろう。

都に凱旋する。

とはいっても、実際には伊賀も紀伊も、都とはごく近い。わずか一日少しで、辿り着く事が出来る。

途中山々を見たが、禍々しい感じは無い。

夜刀はやはり死んだのだろうか。だとすれば、何ら怖れるものはないのだが。

宮中に出向き、武王に謁見。

御簾の向こうにいる武王は、タケルが来たことを、喜んでくれたようだった。軽く挨拶した後、報告を済ませる。

「紀伊と伊賀については、安定しました。 後は四国、九州でも地固めをしたいのですが」

「いや、それは他の将軍達に任せよ。 タムラノマロ将軍は、既に相当な能力を得ていると、報告してきていたな。 ならば彼に任せるのも良い」

「しかし、懸念がございます」

「例の山神か。 死んだと聞いているが」

そういえば、ツクヨミの姿が無い。

奴はいつも武王の側に張り付いていて、それが悪評につながっていた。それに、この間の夜刀との戦いで、大きな被害が出たことも、それに拍車を掛けていた。恥じたのだろうかと思ったが。まあ、確認するのは後だ。

今は、もっと重要なことを、武王に納得させなければならない。

「死体は確認できておりません。 かの者は、既に人間では無いように私には思えますゆえに、死体を確認するまでは、安心できませぬ」

「ふむ、余を案じてくれるか」

「武王陛下だけにあらず。 この国の行く末を、私は案じております」

「うむ……」

武王は、納得してくれたか。

だが。

「ならば、タムラノマロ将軍に、この都の守護を任せよう。 彼に四千の兵を与え、中央守護の大任を任せれば、安心か」

「陛下……」

「今、東北の戦況は良くない。 他三名のタケルの猛攻にも、蝦夷は耐え抜いた。 戦線が膠着した今、打開はお前の力に掛かっているのだ」

やはり、駄目だったか。

タムラノマロは有能な指揮官に成長しているが、それでもあの夜刀が相手では、不安が残る。

しかし今、ついに武王から命令が出てしまった。

逆らうわけにはいかない。これ以上の意見の相違は、大きな問題につながる。君臣の亀裂を、自分で作るわけにはいかなかった。

それにしても、一国の戦略上の問題として上がる夜刀とは、本当に何者なのか。

元は人間だった。

しかし、これでは、まるで本物の邪神だ。実際問題、奴を捕らえた時、その能力は人間離れの一言では済まなくなっていた。もしもあの土砂から逃れたのだとすると、もはやなすすべは無いようにさえ思えてくる。

宮中から退出すると、意外な人物が待っていた。

やつれきっているが、間違いない。

ツクヨミである。

如何したのかと思わず声を掛けてしまった。あれほど嫌っていた相手だというのに。ツクヨミは疲れ切った笑みを浮かべると、自分の屋敷に来て欲しいと言う。

言われるままに、ついていく。

まだ建築途上の都だが、その彼方此方には、大きな貴族の屋敷が作られはじめている。ツクヨミの屋敷もその一つである。まだ作りかけの屋敷も多いが、ツクヨミは武王の股肱という事もあり、優先的に屋敷が作られたようだ。

そういう所が嫌われる要因なのだが。

この若い策士は、それに気付けていない。

応接のためにある間に通される。ツクヨミは深々とまず平伏した。

「紀伊、伊賀でのご活躍、耳にしております」

「どうにか安定は作り出せた。 本当は、四国や九州も、しっかり地固めしたかったのだがな」

「その辺りは、手を打っております」

「ほう?」

タケルが鍛えた指揮官達のうち、数名を抜擢、派遣するという。

たいした賊はいないし、人口もあまり多くは無い。さほど安定化は難しくないだろうと、ツクヨミは言った。

本当だろうか。

タケルの疑念を敏感に感じ取ったか、ツクヨミが付け加える。

「もし問題があるとすれば、あの夜刀にございます」

「そういえば、奴の組織を取り込むという策はどうなっておる」

「現在進めているのですが」

中枢が見えてこないと、ツクヨミは言う。

山に住まう流浪の民については、かなりの部分が把握できているという。接触も、さほど問題が無いのだとか。

しかし、問題はその先だ。

彼らがどうやって指示を出されているのか、上に立っているのが誰なのか、見当がつかないのだとか。

「夜刀がやはりいると言うことか」

「いえ、事はどうもそう単純では無い様子です」

「説明せよ」

「はい。 どうやら流動的に動く者達を、何者かが把握して、それぞれに指示を出している気配があるのです」

既に把握しているだけで、五百を超える数が、山の民となっているという。それを全て把握しているとは。

一体何者か。

それが見当もつかないから、ツクヨミは困り果てているのだろう。なるほど、憔悴するわけだ。

その上、死体が発見できなかった夜刀の件もある。

「いずれにしても、正念場だな。 全容の掌握と把握を急げ」

「其処で、一つご協力を願いたく」

「何か。 もうして見よ」

「一刻も早く、蝦夷を討伐してくださいませ。 それが一段落すれば、過剰な兵をある程度削減し、国の発展に廻すことが出来ます。 そうすれば、民の不満は更に減り、国の安定も増すでしょう」

何を馬鹿な。大陸の脅威から、この国を守るために、兵は必要であろう。

そう言いかけたタケルだが、ツクヨミはなおも続ける。

「此処で言う削減とは、民の数に対する割合の話にございます。 今は兎も角、人間の数を増やすことが第一です。 ある程度増えれば、何もかもに、選択肢が多くなります」

そうはいうが、タケルは不安なのだ。

今はまだ大丈夫だ。これ以上無秩序に増えていくと、米が作れない場合、民が餓死する事態になるのでは無いのか。

もちろん、人間が足りない事は分かっている。

渡来人達の話を聞く限り、大陸では此処とは一桁多い軍勢が戦っている。そのような軍勢が攻めてきたら、今のアキツでは抵抗できない。

「分かった。 可能な限り急いで、蝦夷とは決着を付ける」

「お願いいたしまする」

頷くと、タケルはツクヨミの屋敷を出た。

自身の屋敷に出向くと、正室達の挨拶もそこそこに、さっさと寝ることにした。どうも疲れが溜まっている。温泉で傷を癒やしていた時は、こうではなかったのに。或いは温泉では、体力も回復できるのかも知れない。

翌日には、タケルは中核になる五百だけを率いて、都を出た。

兵は途中で、駐屯軍から引き抜きながら増やしていく。最終的には六千にまで増やし、春に戦線への合流を目指す。

前線には、子飼いの部下達もいる。

チカラオはまだ前線で頑張っているという話だし、彼らが合流すれば、さらにやりやすくなるだろう。

心残りはある。

だが、ツクヨミが言うことに、頷けるのも事実なのだ。

それに、飛騨や信濃など、目を通すべき場所も多い。そういった所で治安維持を進めて行くのも、有意義だろう。

不安を押し殺すように。

タケルは言い聞かせながら、馬を進めた。

 

2、広がる侵食

 

影の者達が、山に来ている。

それは分かっているのだが。ヤトは敢えてそれを放置しておいた。影の連中は、まだ鵯の存在にまでたどり着けていない。千里の存在も、掴めてはいない。それならば、放置しておいて大丈夫だ。

ただ、監視は続ける。

配下の者達は、影の者達の尋問に応えているが。しかし、彼らにとって山神は信仰の対象なのだ。実際に存在する人間では無い。だから、話が食い違う。影の者達が、引き上げていくのを見送ると。

ヤトは手にしていた椎の実を潰し、焼いたものを頬張った。

秋から冬にかけては、これに限る。

山に住む者達は、そうしているヤトに気付いてはいない。気配を彼らには分からない程度に消しているからだ。

また、山での暮らし方についても、既に相当な所まで仕込んでいる。まだ仕込みが足りない者達は、終わっている者達と組ませている。だから、今の時点で、餓死者や、困窮している者は出ていない。

そういえばと、手にしているものを見る。これは大陸で言う餅というものに近いと聞いた。

渡来人そのものはいないが、接していた者は何人かいる。

そいつらから仕入れた情報だ。

食べ終えると、ヤトは木の枝の上で横になる。木の枝の上といっても、周囲からは死角になる位置を厳選しているし、気配だって見せてはいない。事実ヤトがいる木の下で、山の者達は粛々と生活を続けていた。

「あの人達、どうして山神様にこだわるだ?」

「さてなあ」

「俺は聞いたことがある。 確か、前に山神様にこっぴどく戦争で負けたって話だ」

「そっかあ。 山神様に喧嘩を売るなんて、ばかげた話だな」

口々に言いながら、牧歌的な作業を続ける彼ら。

秋の内に作っておいた燻製肉を取り出し、土器に入れる。河から汲んできた水を入れて、似始める。

そうして味を付けるのだ。

野草は、冬でも生えているものがそれなりにある。

それらも入れて、雑炊のできあがり。

配下の者達の中には、ヤマトの連中と物々交換をして、米やその他の穀物を手に入れている者もいる様子だ。

そう言う連中は、野草では無く米を入れている。

良い匂いが、ヤトの所まで漂ってくる。幸いと言うべきか、もう満腹しているので、今更何とも思わない。

消滅したのは、性欲だけでは無い。

最近は食欲も、以前とは形が違ってきていた。

小さくあくびをしたヤトは、気付く。以前撃ち落としてやった白い猛禽が、空を旋回している。

身を起こして、じっと動きを観察。

鳥の、いや猛禽の視力は非常に凄まじいものがある。ヤトの居場所も、奴には見えている可能性がある。

それにしても、まだ生きていたか。

翼を打ち抜いただけだったから、生きている可能性は確かにあった。しかし、よほど丁寧に世話をしたのだろう。あの状態から飛べるようになっただけでも、奇跡に等しい。渡来人の技術はたいしたものだと、ヤトは素直に感心した。

鳥使いはどこにいる。

枝を移動しながら、探す。あの猛禽が見える位置にいるはず。いるとしたら、当然護衛もついているだろう。

しばらく探すが、なかなか見つからない。

鳥だけを勝手に飛ばしていたのか。いや、それにしては幾つかおかしい点がある。

たとえば、先ほどからあの鳥の視界に、野兎が何度か入っている。兎は冬にはごちそうになる。猛禽にとってはなおさらだ。

明らかに見えているにも関わらず、猛禽は見向きもしていない。それはつまり、食欲よりも上位の命令に従っている、という事だ。

念入りに、辺りを探していく。

この辺りの山は、ヤマトの集落とも近い。集落の中にいるとしたら、背が高い建物から鳥を操っているはずだ。

しかし見つからない。

結局分かったのは、夕刻になってから。あの猛禽も、結局鳥目という弱点からは逃れられないらしく、高度を下げて降りはじめる。

その先に、鳥使いはいた。

森の外縁部。厳重に偽装した、茂みのような外套をすっぽり頭から被って、隠れていたのだ。

なるほど、あんな隠れ方もあるのか。ヤトは気配を隠すことばかり考えていたが、これは盲点だった。

一つ勉強にはなった。

周囲には、同じようにして隠れている影の者達。合計で七匹。これは、下手に手を出さない方が良いだろう。

私は死んだのだ。そう、連中には、しばらく錯覚させておいたほうがいい。

「劉殿、首尾は」

「見つかりませんね。 私の白鷹は、人間とは比べものにならない視力を持っているのですが、あの蛮人は見つからないと言っています」

「では、この山も外れか」

「一度戻って、情報を整理しましょうか」

わいわいと、影の者達が引き上げはじめる。

ヤトは連中のすぐ上の枝で、見下ろしながらほくそ笑んでいた。嘘を言っているようには聞こえなかった。

つまり、しばらくはこの山にいた方が良いと言うことだ。

訓練されている此奴らでも、この距離で既にヤトに気付けなくなっている。勿論千以上の兵士に追いかけられたら、今の力量でも逃げ回るしか無い。数の暴力は、それだけの恐ろしさを秘めている。

できる限り、配下の者達にも、姿は見せない方が良いだろう。

偶然かは分からないが、影の者達はヤトがいる山を調査していたのだ。何かしらの情報をたぐって、此処まで辿り着いた可能性もある。敵を侮るのはあまり好ましくないと、この間までの戦いで、ヤトは思い知らされていた。

そのまま気配を消して、敵の集落に入り込む。

地面に降りて、影の者達の後ろから堂々と歩いて行くが。誰も気付かない。

この辺りのヤマトの集落では、周囲に柵も作っていないし、見張りもいない。何度か試したが、堂々と歩いていると、絶対に気付かれない。

最近は、顔にアオヘビ集落やクロヘビ集落の化粧もしていない。

それが原因とは言い切れないだろう。

或いは、絹の服を着ていると言うことが、警戒を解く一つの理由なのかも知れない。

劉と言われた渡来人は、集落を歩きながら、肩に鷹をとまらせている。相当に良く訓練しているのだろう。鷹は揺れを嫌がっていない。

「それにしても、あの蛮人、本当に生きているのですか?」

「死体は結局発見できませんでした。 それに、奴が残した山の者達の情報網を掌握するためにも、調査は必要なのです」

「ふん……あのような者ども、軍を動かして、一網打尽にすればいいものを」

「特に悪さをしている様子も無いのに、そのような事は出来ませんよ。 むしろ下手に刺激する方が、悪影響を及ぼすでしょう」

口々に言いながら、建物の一つに入っていく。ヤトは鼻を鳴らした。あまり大きな建物では無い。

場所は覚えた。

気配を消したまま、周囲を覚えるまで、見て廻る。

先ほどと同じ手は、二度と通用しない。それにあの白い鷹、早めに始末しておいた方が良いだろう。

夜を待つ。

そして、奴らが入った建物に、潜入した。

見張りはいたが、監視をくぐるのさほど難しくなかった。どうやら影の者達には、対抗できる勢力がいないらしいというのは、以前から何となく分かっていた。元々ヤマトが強力すぎる上に、他の国々に、こういった部隊を作る余裕が無いのだろう。もっとも、そんな風に考えられるようになったのは、鵯と話したり、配下に入った連中から、色々と聞いて覚えたからだ。

敵を叩き潰すには、敵を知るに限る。

これは良い収穫である。此奴らは、自分たちの住処に侵入されることを、それほど警戒していない。

つまり、反撃されることが、殆ど無かった、という事だろう。

初日は、住処の構造を探るだけ。

かなり広い家で、隠れる場所はたくさんある。というよりも、屋根が考えられないほどに平たく延々と連なっていて、家の中に幾つも板による仕切りがあった。それぞれの仕切りが四角い空間を作り出している。

これは何処かで見たと思ったら、以前、タケルの配下から奪い取った砦だ。あの中でも、こういう四角い構造体が、多数見られた。話を聞くと、それぞれが部屋というもので、生活単位になっているという。

なるほど、ヤマトの中枢近くになると、更にその形状に変化が出るわけだ。

面白いのは、地面の上に板を張っていること。

これにより床下を這い回ることが可能だ。何かしらの理由で、こんな空間を作っているのだろう事は、容易に推察できる。時々鼠が前後を通ったが、無視。相手にするのも、時間の無駄だ。

家の上に出てみると、屋根もまた板で出来ている。斜めにしているのは、きっと雨を流すための工夫なのだろう。

周囲の家を見回すと、此処まで大きなものはない。ただし、板で作られている家は、少なくなかった。

そのほかの家は、特に屋根が藁で作られている傾向が強い。半分地面に埋まったような形状で、板は壁だけにしか使っていない様子だ。

隠れて探り廻りながら、影の者達を観察して廻る。かってヤトと良い勝負をしたような奴も、此奴らの仲間にはいた。

だが見たところ、此処にはそうたいした奴はいない様子だ。気配を消すにしても、逆に探るにしても、てんでなっていない。

床下にずっと隠れていても気付かれないくらいで、正直拍子抜けしてしまった。

だが、四日目に来て、驚かされる。

不意に空気が引き締まったからだ。見ると、以前見かけた強い奴が何人かいる。そいつらの一人が、何か訓戒を垂れていた。

「好き勝手に潜入され、察知も出来なかったとは何事か! お前達は兵卒から選抜された精鋭だが、それが故に責任も重いという事を思い出せ!」

見ると、かなりの長身だ。身体能力はどうという事は無いようだが、頭がかなり切れそうである。

面白いので、気配を消したまま、近づいてみる。

床下から、だが。

「此処には劉殿も滞在なされている! 何かあったら、貴様らだけの責任ではすまされぬのだぞ!」

「青鬼殿。 その辺りで」

「黒猿、貴殿は甘いぞ」

「良いから。 いずれ、活躍にして、汚名は払拭すればよいのだ」

黒猿か。その声には聞き覚えがある。

谷に流れる河を泳いで逃れた時、一人だけ追いついてきた奴がいた。確かそいつが、この声だった。

この場で姿を現してやれば、どうなるのだろう。

勿論皆殺しにするのは容易い。

以前はかなり手こずったが、今の力量であれば、どうと言うことも無い。しかし、やめておいた方が良いだろう。

此処に駐屯している者達が皆殺しにされるような相手、という事で。ヤトの生存が、奴らに伝わる可能性が高い。

そうなれば、せっかくおとなしくなっている敵が、再び積極的に、ヤトを殺しに掛かってくるだろう。

対応が面倒では済まなくなる。

実際問題、前回はほぼ負け、という所にまで追い込まれたのだ。

此方も対抗策の準備は進めているが、まだ姿を見せるのは早い。此処は心を落ち着けて、退散する方が良いだろう。

勿論、ただではすまさない。

この家を探る内に、見つけたのだ。あの白い猛禽を飼っている部屋を。餌らしい小鳥も、かなり捕まえられていた。

そのまま殺すのでは、すぐにばれてしまう。

だから、ヤトは、白い鷹の餌をまず探した。其処に幾つかの毒草を調合したものを混ぜ込む。

あの劉という男は、餌に小鳥を使っている。だから、小鳥の羽毛の中に、毒を練り込む。小鳥は嫌がったが、毒は粘性が強い薬草を使っているので、剥がすことが出来ない。

捕食させる様子も観察した。

これは今育てている鳶を飼い慣らすための、参考にするためだ。

劉という男は冷酷極まりない言動で、人間と言うよりもこのアキツそのものをみくだしている様子だったが。

白い鷹に対しては、まるで自分の息子のようにかわいがっていた。見ているだけで、深い愛情を注いでいると分かるのだ。撫でる時はとても優しげに目を細めているし、ときには聞き慣れない言葉で話しかけてもいた。白い鷹も、劉という男を慕っているようだ。

なるほど、これは面白い。

家畜には、あまり興味が無い。

この鷹も、家畜に代わりは無い。

ヤトが管理していくべき存在は、山に住む動物たちだ。家畜では無い。家畜を無為に殺す事にも、あまり罪悪感は沸かない。

早い話が、どうでも良い。

白い鷹も、ヤトがすぐ側で、毒殺の準備をしていることなど、気付けなかった。

既にヤトの気配を消す技術は、動物でさえ。それも、野生の鳥を狩る訓練を受けた鷹でさえ、気付けないほどのものとなっていたのだ。

小鳥に仕込んだ毒が、少しずつ効果を示し始めたところで、ヤトは影の者達の屋敷を後にした。

もうあの白い鷹は助からない。

放っておけば死ぬ。

蝮草を中心に、幾つもの毒草を混ぜ合わせた。人間でさえ助からない毒を、腹の中に蓄えたのである。

それにしても、だ。

こういう殺し方もあるのだと、ヤトは学んで、とても気分が良かった。今までは武力を用いて相手を切り刻むことばかり考えていたが。相手の体内をずたずたにする方法も、これはこれでありだ。

それから数日後。

鬱陶しく飛び回っていた白い鷹が、不意に墜落。

落ち方からして、間違いなく死んだ。

劉という男が、絶叫して、周囲に取り押さえられていた。髪を振り乱し、白目を剥いて、悲鳴に近い声を上げていた。

お前達が、いつも森に上げさせている悲鳴の方が、更に大きい。

ヤトはうそぶくと、今後ももっとこのやり方を試してみよう。そう思った。

 

春が来た。

既にヤトも、タケルが東北に向かったことは掴んでいる。蝦夷ももう終わりかという声もあるようだが、ヤトにはあまり関係が無い。

山の状態を確認しながら見て廻り、本格的に春が来た頃には、畿内は全て縄張りに収めた。

全ての山を、ヤトが網羅した事になる。

隠れるのに良い山も見つけたし、逃げ回るのに適した場所もあった。一番良いのは、吉野と呼ばれる場所。

意外にも、ヤマト中枢のすぐ南である。

近くには、幾つも拠点を作るのに適した場所もあるし、何より人を集めるのに、極めて都合が良い。

既に配下の人数も六百を超え、一部は山陰や東海にも、勢力を伸ばしはじめていた。

戦略としては、後はもう、これといった事は無い。

人数だけをひたすら増やすのは当然だが、このアキツの全域を支配地域にするには、まだ人間が必要だ。

最終的には山から追い出すことは決めているが、それでも今はもっと多くの配下がいる。効率よく増やすには、幾つか手っ取り早い方法がある。

掌握している山を、増やすことだ。

肌寒い風も吹かなくなったその日、ヤトは鵯と千里、それに主な部下を集めた。老人と若者が半々程度だが。

これほどの数の部下を掌握したことは、今までには無い。

六百の部下の内、無意識でヤトの配下となっているものは半数ほど。ただし、どいつとも、何らかの形で一度は顔を合わせている。

流石に名前までは覚えていないが、鵯に説明されれば思い出すほどには、分かっているつもりだ。

鵯は七人、直接の部下になる女を育てている。

鵯より若い者が五人、年上が二人だ。いずれも文字の読み書きが出来るだけでは無く、交渉ごとも仕込まれている様子だ。

一方、千里は鵯と相談しながら、戦闘部隊の選抜を続けている。

現在、百名ほどが戦える状態だという。伊賀の賊をかなり取り込んだことが大きいのだとか。

彼らは輪を作っていろいろな話をしていた。

鵯はどうやら、一部の賊崩れが問題を起こしていることが気に入らないらしい。千里もそれを聞くと、眉をひそめていた。

「分かってる。 俺が教育しておく。 実際放っておけば、彼奴に殺されるからな」

「大事な頭数です。 それに腕っ節が強い人は、それだけで重要なものです。 あまり無体なことをしないよう、しっかり言っておいてください」

「ああ」

ヤトが姿を見せると、全員が息を呑む。

まるで、輪の中に突然現れたように見えたからだろう。

実際には気配を消して枝の上から近づき、彼らの真ん中に降りたのだ。そして、降りてから少ししてから、気配を現した。

それまで、この場にいる誰もが。

ヤトがいるのに。見えているのに。

気付いていなかったのである。

「ふむ、仕上がりは上々か」

「化け物ぶりに、拍車が掛かってやがるな……」

早速千里が憎まれ口を叩くが、それは別にどうでもよい。むしろ、千里の仕事は、それだとも言える。

鵯もあまり好意的では無い。

ただし、他の面子は。ヤトに気付くと、即座に平伏した。千里の部下も、鵯が育てている女達も、それに変わりは無い。

まず、報告を受ける。

鵯は自分の手足となる女達の育成を進めている。これはいずれ、如何に鵯でも全員の動向を監視しきれなくなるからだ。百人ずつに一人、監視と管理のための人員を置く。その百人を監視する者達の頂点に、鵯が入る事になる。

ヤトはそれらの中途に時々割って入って、確認をする。そして問題がある者については、千里に更正させる。

更正しないようなら、削除する。

仕組みとしては、それでいい。ヤマトのように、それこそ何十万という人間を管理するわけではないのだ。

アキツの広さから言って、山に住む民は、最終的に数万が限度だろう。今の増加する速度からして、おそらく千は今年中に軽く突破する。数年以内に、万にも達するだろう。いずれ管理するのには、もっと効率的な仕組みが、必要になるかも知れない。

最近ヤトはわざわざ配下の前に姿を見せなかったが。

今後は、形を変えながら、配下に影響力を与えていく必要がある。

千里からも報告を受ける。

精鋭と言って良いところまで、五十名を仕上げたと千里は言う。

「もう朝廷の精鋭にもおとらねえよ。 あんたを追い回してた影の者とやらも、互角に渡り合える筈だぜ」

「そうか。 では今度集めよ。 私が直接仕上がりを見る」

「へいへい、了解……」

その五十人を核として、今育てている百人を鍛え上げる。

配下の数が千五百を越えた頃には、二百人を仕上げさせたい。そう戦略を支持すると、頭を掻きながら千里は言う。

「で、そんな兵力を、どうやって使うんだよ」

「決まっている。 ヤマトと戦う」

「正気か」

「まだ戦うには早いが、そろそろ活躍させる状況も、出てくるだろうな」

最初の相手は、先ほど話題にも上がった、影の者達になるだろう。或いは、山間で好き勝手をしている賊の類になるか。

そういうのを、いちいちヤトが叩き潰して、配下に加えるには、そろそろ縄張りが広くなりすぎている。

近場にいるときは、当然ヤトが対処する。

そうで無いときには、別に動けるものが必要となる。

どちらにしても、今までヤトだけが担ってきた戦力を、此奴らにも負担させる。ただ、今すぐでは無い。もう数年もすれば、少しくらい死んでも、問題は無くなってくるはずだ。その頃にやらせる。

後は、自然に増える人間についても確認が必要だ。

「今、子供はどれくらいいる」

「全体の一割ほどです。 昨日も二人生まれました」

「良い傾向だ。 子育てが上手な女を集めて、生まれた子供を出来るだけ育てやすいようにしろ。 食い物も可能な限り廻せ。 多く産む女より、多く育てる女の方が立派だと、皆が考えるように仕向けろ」

「……」

色々言いたいことはあるようだが。

鵯は頷いて、それに従うそぶりを見せた。鵯が育てている女達については、最初から心配していない。

そもそもそいつらは、ヤトを同じ人だなどとは思っていない。神の類と考えている。だから従うも何も、「従わなければならない」なのだ。

他にも幾つか打ち合わせをしておく。

伊賀の辺りでは、まだ逃げ回っている賊がいるという。タケルが連れてきた軍勢が全域に目を光らせていて、とてもではないが人里に降りられる状態では無いらしい。

「ならば丁度良かろう。 その育てている五十名を使って、捕縛しろ。 その後は、私の所に連れてこい」

「出来るだけ、殺さないでくれよ。 苦労が無駄になる」

「ああ、可能な限りは、そうしよう」

その次は、この集まりで、もっとも重要な件についてだ。

縄張りを、東に進めるか、西に進めるか。

東に縄張りを進めれば、いずれ蝦夷と接触する。蝦夷はヤマトに対向している、最後の勢力だ。

西はヤマトに反抗した者達の生き残りが多くいる。手っ取り早く数を増やすには、西もいいだろう。

意見を聞くが、半々という所だ。

意外に鵯は、東に行きたいと言う。以前過去に復讐したいといった事に、関係しているかも知れない。

いずれにしても、保留か。

どう重点を置くかについては、ヤトがいずれ考える。今日は、意見が割れたことだけ、覚えておけば良い。

後、幾つかの指示を出し終えると、集まりは解散となった。

この集まりはなかなか便利だ。いずれ制度化して、運用するとしよう。ヤトにとっては、何もかも動かすのに、脳を全て使いたくない。

鵯は最後まで、一人残った。

「服に返り血がありませんね。 殺していないのですか?」

「いや、殺している。 だが、返り血を浴びなくなってきたな」

「予備の服も作ってあります。 時々着替えてください」

「どれ、さっそく試してみるか」

鵯がものかげから、全く同じ絹の服を出してくる。

どこから絹を調達したのか、少し気になった。物々交換だとすると、ヤトが知らない内に、ヤマトの連中と接触していたことになる。

一つの山に数人だけで暮らす場合、物資にはかなり余裕が出る。ただし、それが山で無理なく養える、限界の人数だ。

その人数で生活するための物資は、さほど多くは無いから、余剰分を物々交換する事は不可能では無い。

さっそく服に手を通す。

以前と全く同じものだ。着心地も悪くない。

むしろ、驚きの声は、鵯の方から上がった。

「これは……」

「どうした」

「洗ってはいますか」

「ああ、時々な。 それがどうかしたか」

汚れが少なすぎると、鵯は呻く。

そういえば、昔はかなり服が臭ったらしい。というのも、ツチグモと農耕民族では、洗濯や清潔に関する概念が根本的に違ったからだ。

しかし今では、農耕民から見ても、清潔そうに見えるというのだ。

勿論水浴びはむかしからしていた。

そういえば。

冬に水浴びをすることが、最近ではまるで難儀ではなくなりつつある。冬の河に入っても、さほど体に負担が掛かっている感触が無いのだ。

どうやらヤトは、垢やその他の老廃物も、極端に少なくなりつつあるらしい。服も汚れぬほどに、だ。そればかりか、体が生物から離れはじめているとみて良いのだろう。毛皮を持つ生物でさえ、冬場は河に入りたがらないのだ。それなのに、毛皮が無いヤトが河に入って、平気というのは。どう考えてもおかしい。

それはそれで良い。

千里の言う所の、ますます人間離れに拍車が掛かっている、と言う奴だ。

「もう何着か、作っておけ。 同じ服がいい」

「分かりました。 ただ、今の状態であれば、数着もあれば充分なのでは」

「そう、だな。 まあ、戦いになれば、すぐに駄目になる。 新しい服も、必要となるだろう」

新しい服を着たからか、妙に機嫌が良い。

しばらくくるくると廻って感触を確かめた後、ヤトはその場を離れた。どうもこの朱と白の服は着ていると気分が踊る。

或いは、気に入っている、という奴なのかも知れなかった。

さて、気分が良い所で、幾つか手を打っておく必要がある。

今の状態では、ツクヨミが飼っている影の者どもとやらとの戦いが避けられない。いずれ連中も、ヤトが生きている事を掴むだろう。その時では遅い。もう少し、今のうちに手を打っておきたい。

ツクヨミとやらを、殺すか。

それはそれで危険が大きい。どうやらタケルがいなくなったらしい今の状況を、もう少し活用しておきたい。

しかし紀伊も伊賀も、タケルがしっかり地固めしていったとかで、手の出しようが無い状態になっている。

下手な手を打つと、自滅につながる。

適当な横穴に入ると、丸まって考えをまとめる。

やはり横穴の中は落ち着く。無言で思惑を巡らせるには、これ以上の環境は無い。静かにしていると、今まで思いつかなかったことも考えつく。

幾つか、いい手を思いついたのは、翌日の事。

横になって眠っては起きて、起きては眠ることを繰り返す内に、ふと気がついたのだ。影の者達がやって来たことを、此方を仕返ししてやれば良いのでは無いかと。

まずは鉄だ。

連中の生命線に、効率よく打撃を与える。

その後は、絹が欲しい。

ヤトは今まで、武具以外に物質的な欲望を抱いたことはあまりなかった。それは性欲などは一応人並みにあったつもりであるが、それでも自分で抑えることは出来ていた。今は更にその傾向が強まっている。

この絹という素材、欲しいとヤトは感じ始めていた。

それだけではない。

作り方などを覚えた場合、役立てる事が出来るかも知れない。以前鵯にも弥生にも聞いたのだが、この絹、相当な高級品であるそうだ。もしも作り方を理解できれば、或いは、ヤマトの持つ力に、一打を与えられる可能性もある。

鉄については、作り方を知っているが、今はヤマトから奪う方が早い。兵士を適当に殺せば、すぐに鉄なんか手に入る。それに配下の者達には、生産技術を持つ者がある程度いる。物々交換で、古い武具などを手に入れれば、鍛え直してきちんとしたものに仕上げ直せるのだ。

いずれにしても、ヤトが死んでいると、連中が思っている内が好機。

今のうちに、情報戦で、ヤマトの上を行く。

そうだ。ヤマトの首魁の顔を見ておくのも良い。

今のうちに、いくらでもやっておきたい事は浮かんでくる。ヤトは身を起こすと、まずは鉄からだと、呟いていた。

 

3、潜入する大蛇

 

前は、全く隙が無い警備だと感じたのに。

改めて観ると、まるでザルだ。勿論ヤト以外の存在に突破は無理だろう。だが、ヤトにして見れば、自分だけ突破できれば、それでいい。

山の周囲に、無数に張り巡らされた柵。

たくさん作り上げられた軍事道路。

そして、林立する見張り塔。

死角無く敵を監視するための、仕掛けの数々。そして森を喰らって、なおかつ毒の煙を流し込み続ける人間共。

許しがたい。

森は共にあるものであり、同時に育てる存在だ。

森にいる生物たちは有限であり、とても緻密な組み合わせと、少し崩せば戻らない繊細さの上にいる。

木々とて同様。

それをこうも侵略し、略奪し、なおかつ破壊し続ける事は、ヤトにとって許しがたい悪逆だった。

以前環境を利用した罠を使ったときでも、極力森を傷つけないよう苦心していたのに。此奴らは好き勝手に森を痛めつけ、そして喰らう。

やはりヤマトの連中は殺し尽くさなければならないと、ヤトは思った。気配を消したまま、抜けるようにして、軍用路を堂々と歩いて行く。時々兵士とすれ違うが、此方を見ても、すぐに視線をそらす。

注意力を、引かないのだ。

以前千里達で試してみて、はっきり分かった。どうやら気配を極限まで消すと、見られていても見られない。

勿論、それには限界がある。

相手の技量によっては見抜かれるし、何よりこの絹の服は鮮やかすぎる。遠くから見ると、不信感が募るかも知れない。

ある程度遊んだ後で、立ち枯れた森の中に引っ込む。

そして、猛毒の煙を吐き続けている呪われた山へ向け、歩き始めた。

前よりかなり多い兵が警備している。ざっと見たところ、二千はいるだろう。しかも駐屯していない兵は、更に多いとみて良い。

まずは木に登って、状況を確認。前だったら発見されてしまっただろうが、今は違う。多少隠れていれば、まず見つからない。

働いている連中は殆どが半裸。

大半の連中は男で、泥を布で包んで運んでいる。ガン、ガンと凄い音がする。どうやら土で、鉄の元を伸ばしたり、砕いたりしているようだった。

「六班、休憩に入れ」

「やれやれ、やっとか」

数十人の半裸の男達が、文句を言いながら、ぞろぞろと一方に向かう。

どうやら休憩と、それに食事も出る様子だ。この臭い、酒も出ているのだろう。男達は体を削りながら働いている。それに報いるというわけだ。

見ながら、覚えていく。

そして、徐々に木を移して、近づいていく。

ほどなく、山をすっぽり覆っている、分厚い壁に辿り着いた。上には竹で組んだらしい鋭い柵があり、迂闊に踏むと切り裂かれそうだ。壁自体は土か何かで出来ているようで、非常に重厚。

それに、見張りの塔も多い。下手に入ろうとすれば、即座に見つかる。今の状態でも、無理をすれば危ないだろう。

夜を待とうかと思ったが、止める。

息を大きく吸って、止めると。壁の幾つかある穴から出ている、煙の中を一気に突っ切った。

いきなり、強烈な熱気が全身を包む。

どうやら煙を出す穴は、鉄を作成する場所のすぐ上にあったらしい。そのまま穴から飛び出していたら、焼けた鉄に真っ逆さまだった。

多数の金床。

振るわれる槌。そして、叩いて伸ばされる鉄。金属音が規則的に響いている。時々する凄まじい音は、熱した鉄を水につけているのだろう。

気配を消したまま、壁を這って降りる。

かなり疲れてきた。隠れる場所が欲しいが、もう少し頑張ろうと、自身に言い聞かせる。働いている男達は殆ど全裸。腰布だけを付けているのが殆どだ。そして、気付くのだが、片目だけになっている老人が散見される。

これは、あのオロチの頭領と同じだ。

しかも、片足だけが萎えている。同じ特徴である。

見ると金床を足で固定し、片目だけで見ながら、ひたすら叩いている。鉄が出来ていく行程が、彼方此方で実演されている状況だ。おそらくこれは、ヤマトにとって技術の中枢だろう。

ほくそ笑む。

此処はかなり広い部屋になっている。外に出ると、やはり煙が充満していて、咳き込みそうになる。

勿論咳き込んだりしたら、一発で見つかる。そうなれば、流石のヤトでも危ないだろう。

口を押さえたまま、身を低くして歩く。

時々、咳き込んでいる働き手を見つける。複雑に入り組んだ土壁の通路の中、大量の荷物を背負って歩いているのだから大変だ。

ひょいと跳躍して、土壁の上に。

わざと土壁は入り組んだ構造にしている様子だ。上から見ると丸わかりだが、他の人間ではこうはいかないだろう。

土壁の間にも、見張りの塔が建てられている。

これは実に偏執的な警備だが。

これくらいしないと、鉄の秘密は守れない、という事だ。ヤマトにとって鉄がどれだけ重要か、間近で見ればよく分かる。そして、其処に一撃入れたヤトが、どれだけ警戒されているかも、だ。

行き交う人間達を観察する。殆どが土や石を運ぶ半裸の男達と、それを見張る兵士達だ。それも重要だが、たまに違うのがいた。

渡来人らしい奴がいる。

同じような服を着たなよっとした奴と話しながら歩いている。丁度、ヤトが見ている前を、通り過ぎていく。

「まさかこれほどの鉄を作っているとは思わなかった」

「オロチの技術を吸収できたのが大きい。 これなら、大陸の鉄とも、見劣りしまい」

「鉄だけならな」

憎まれ口を返す渡来人だが、もう一人はにやにやしている。もう、鉄を整形してツルギにする技術でも、そう劣ってはいないと、顔に書いてある。話しながら二人が行くのを見送った後は、兵士達の動きを観察する。

土壁の上を這っていって、見張り塔の影に。

そこで、やっと深呼吸した。

毒の煙が流れてきていない。かなり重い煙らしく、この高さには流れ込んでこない。兵士達が熱心に見張るわけだ。いい加減な作業をしていたら、下の曲がりくねった通路の見張りをさせられるのだろう。

ヤトはしばらく其処で呼吸を整える。

まずは、此処の指揮官の顔を見ておくのが良い。この間の鷹のように、毒殺できるのなら、そうする。

山の奥へ奥へと入り込んでいく。

反射的に身を引っ込めたのは、かなりの使い手がいたからだ。相手の力量によっては、ヤトが如何に気配を消していても見抜かれる。

山の中腹には、幾つも大きな穴が開いていた。まるで蟻のように、人間が其処から出入りしている。

その大群を見張っている奴が、妙に使える。

腰にツルギを付けている長身の男で、目つきが非常に鋭い。まだ若いようだが、相当な修羅場をくぐっているのが、すぐに分かった。

タケルの配下で、鍛え抜かれた兵士だろうか。

顔にはすごい向かい傷がある。殆ど髭を蓄えていないということは、それだけ若い事を示しているのだが。

体から感じる迫力は、若さなど関係無い。圧倒的な経験と、それに裏打ちされた自信、何より実力を示していた。

老人が来る。

かなりよさげなヨロイを来ている事からも、そいつが此処の指揮官だろう。

「タムラノマロ様、わざわざご足労、恐れ入ります」

「何、しっかり見張るのも、将の役目じゃて」

タムラノマロと呼ばれた老人は、何度か咳をしたが。足腰はしっかりしているようで、雰囲気も落ち着いている。

あれが此処の指揮官とみて、間違いなさそうだ。

迫力ある若者とタムラノマロはしばらく話し込んでいた。若者は峠と呼ばれていた。おそらくそれが名前だろう。

雰囲気が随分親しい。或いは親子かも知れない。

確かヤマトでは、親子であっても、立場の違いがある場合、特に仕事場などでは敬語を使うことがあるという。

「鉄の生産は、順調でしょうか」

「今のところはな。 だが、この山でも、いつかはとれなくなる。 むしろこの国では、金の方が豊富であると報告があるようだし、いずれ大陸から素材としての鉄を輸入するために、金に比重を置き換える必要があるかも知れぬな」

「なるほど。 いずれにしても、それはまだ未来の話でありましょう」

「うむ。 今はこの山を守る事が、我らの役目じゃ。 中央守護に関しては、タケル将軍が鍛えてくれた将達にある程度任せられるが。 この山だけは、どうしても守り抜かねばならん」

彼方此方を見回しながら、タムラノマロが言う。

岩陰に隠れているヤトに、何処かで気付いているのかも知れない。居場所を特定できなくても、だ。

たまに、そういった勘が働く奴がいることを、ヤトは知っている。

だから別に驚くことは無い。気配を消して、話を聞き続けるだけだ。タムラノマロは咳払いすると、若者を促して、移動をはじめる。

山の斜面に沿って掘られた、土の壁の間の路を歩き始める。歩きながら、修行は進んでいるかとか、母は元気かとか、聞いている様子だ。やはり親子とみて良いだろう。

「剣術については、師に並びました。 そろそろ新しい師が欲しいところです」

「ほう。 大陸から来た武人に並んだか。 しかしあの男以上となると、タケル将軍くらいしか思い当たらぬな。 タケル将軍はご多忙の身であるし、難しい所であるな」

「師からは、自分なりに技を磨くようにと言われています。 やはり実戦に出るのが一番でしょうか」

「あまり戦を安易に考えるな。 どれほどの達人でも、戦場では簡単に死ぬ。 タケル将軍でさえ、手傷が絶えないことを忘れてはならぬぞ」

山の斜面に、幾つかの建物が作られている。

あまり大きなものではないが、斜面で傾かないように、土台となる場所がまずあり、それに載せられるようにして建てられていた。

二人は其処へ入っていく。

どうやら、彼処が住処か。

一瞬、峠が、此方を見た。ひょっとすると、気付いているかも知れない。そうなると、仕掛けるのはまだ早いか。

とりあえず、今日は居場所を特定できただけで充分だ。

夕暮れを待って、一度鉄の山を出る。

森に入ると、何度か咳き込んだ。既に準備しておいた清水を口に含んで、何度もうがいする。

とにかく汚れた空気だった。これでは木々が枯れ果てるのも納得である。あんな所で働いていては、長くは生きられないだろう。槌を振るっていた老人達が、異形とも呼べる姿になっていたのにも、納得がいく。

あれは、生物がいる場所では無かった。

穴の中でしばらく横になって、思惑を巡らせる。あのタムラノマロという老人、相当な指揮官だ。

偏執的な、隙が無い布陣。

ヤト一人が入り込むのは別に問題が無い。しかしヤト一人では、出来る事も限られている。

殺した方が良いだろう。

だが、方法が問題だ。

あの峠とか言う若者、相当な使い手だ。以前戦った影の者、黒猿と呼ばれていた奴と同等か、それ以上と見て良い。

近くでうろうろしていたら、確実に見つかる。

しかも、だ。

鳥と人間とでは訳が違う。毒を喰わせるにしても、簡単にはいかないだろう。食い物についても、毒を入れられないように、かなりの工夫をしているに違いない。或いは、気付かれずに飲ませることが出来る毒もあるかも知れないが、そんなものを、ヤトは知らない。或いはこうなれば、ヤトが生きている事がばれることを覚悟で、殺すか。

いや、それでは危険と利益が釣り合わない。

身を起こす。

此処は、発想を転換した方が良いかもしれない。

あれほどの指揮官が、今は鉄の山に貼り付けになっている。それならば、ずっとそうしてもらえると助かる。

タケルだけではなく、あの老人も来ていたら、以前の戦いでは負けていたかも知れない。そう思わされるほど、有能な人物だった。

ほぞをかむ気分だ。

思った以上に、ヤマトには出来る奴がいるのかもしれない。人間の数の差というものだろう。絶対数が多いから、そもそも優秀な奴もいるというわけだ。

しばらく悶々としていた。

中々、良案が出てこない。実際に足を運んでみて、情報を得るのはとても重要だと、今更ながらに思い知らされた気分だ。

 

タムラノマロは、報告を聞いて、唸る。

峠によると、どうも誰かが潜んでいるらしい。それも相当な使い手が、だ。しかし、警備が緩んでいた部分は無い。

影の者達にも、以前来てもらって、警備は確認した。

人間に突破は不可能と、全員が断言していたほどなのだが。つまり此処に忍び込んだ奴は、人間以上の力の持ち主という事か。

ふと、この間ツクヨミが仕留め損ねたという夜刀の神の事を思い出す。死体は発見されていないと聞いて、直感的にタムラノマロは悟ったのだ。ああ、逃がしたなと。二百人以上の犠牲を出し、大陸から連れて来た狩猟犬や武人まで失ったと聞いている。噂にその人外ぶりは聞いているが、もしも奴であったなら。

いずれにしても、まだ推測の段階に過ぎない。

もしも忍び込んでくるとしたら、狙うは間違いなくタムラノマロの首だろう。

他の可能性も、ある。

たとえば渡来人系の勢力。大陸には、相当な腕前の武人もいると聞いている。達人になれば、人知を越える力を見せるとも言う。

最近タケル将軍が主導で、渡来人系の海賊を討伐したり、汚職管理を処断したりしている。

逆恨みした連中が、日本国内でおかしな動きをしても、不思議では無いだろう。

いずれにしても、手を打っておく必要がある。

孫である峠を呼ぶ。

まだ若々しい武人だが、技量といい判断力といい、間違いなく一流だと、師匠達がそろって太鼓判を押している。いずれタケルの元に推挙しても良いし、自分の後を継いでもらうことも考えている。

どちらにしても、この国の柱石になる武人だ。

次代のタケル候補としても、恥ずかしくは無いだろうと、タムラノマロは考えていた。

「もう一度忍び込まれた場合に備えて、罠を張りたい。 何か良い手は」

「忍び込んできた経路を確認したのですが、その途中に、必殺の罠を仕掛けるのが良いと想います」

「どうしてそう考える」

「此方が、相手に気付いていると悟らせれば、油断しないからです。 相手を油断させるため、敢えて何も気付いていない用に装い、その途上で敵を仕留める。 それが最上であるかと」

理想的な答えだ。

タムラノマロも途中までは、同じ考えだった。

だが、今は違う結論を出す。

「そなたが奴と立ち会って、勝てる見込みは」

「4に1かと」

「いや、儂が見たところ、10に1もないだろう」

峠は挫折を知らない。

それに対して、もしも侵入してきている者が夜刀だとすると。身体能力が五分であっても、勝ち目は薄いだろう。

ましてや、多数の兵士に、存在を悟らせないような者だ。

その力量は、今やタケルをも凌ぐかも知れない。

峠はタムラノマロの言葉に、眉を一瞬だけ跳ね上げたが、一礼して部屋を出て行った。さて、罠を張るには、場所は一つしか無い。

此処だ。

夜刀も獣。であれば、一番の隙が出来る場所は、一つしか無い。

それは、獲物に牙をかける瞬間。

タムラノマロは老いた。もしも夜刀がここに来ているのであれば、手段を選ばずに仕留めておきたい。

何人かの忠実な部下達に指示を出す。

それを聞いた部下達は、いずれもが驚きに目を見張った後、平伏して此処を出て行った。タケルに書状を何通か出した後、タムラノマロは山の裏手にある小さな温泉に出向く。此処の湯は絶品だ。一度、タケルにも馳走したかった。毒ばかりばらまいている山だが、こんな恵みも存在しているのだ。

しばらく湯に浸かって、気力を充実させた後、舎へ戻る。

既に準備は整っていた。

峠は既に遠ざけた。タムラノマロは食事を済ませると、布団に入った。しばらく無言でいると、何となく分かった。

奴が来た。

なるほど、これは凄い。気配は全く無いのに、どうしてか分かるのだ。まるでこのくろがね山が、大蛇に締め潰されているかのような、凶悪な圧迫感がある。それでいながら、どこに相手がいるのかは、分からない。

もしも策が失敗した場合、話してみる時間くらいは、あるだろう。

寝床で半身を起こして、相手を待つ。

唐突に、声が後ろからした。

「ほう。 私に気付いていたか」

声は思った以上に若い。そして、どうやら策が失敗したらしいことを、タムラノマロは悟る。

相手の声に艶はない。まだ若い娘だと聞いているのだが、色気とはまるで無縁の、冷え切った声だ。

聞いて受ける印象は、邪神。

闇より這い上がり来た、常夜の世界に住まう者。人間は、奴にとっては、獲物でしかない。

「そなたが、夜刀の神か」

「いかにも。 私が夜刀である」

「タケル将軍との死闘を生き延びていたか。 予想はしていたが」

「生き延びたというのとは、少し違うな。 私はあの時、確かに死んだ。 だが、神となってよみがえった。 それだけだ」

揶揄するような響きは、声には無い。

この者は、本当に自分を神だと信じている。神に近い、ではない。事実その能力は、既に人間を超越している。ならば、神だと考えるのも、不思議では無い。傲慢ではあるが、実力に裏打ちされたものだ。

「何故に、ヤマトに害を為す」

「森を喰らう悪しき者であるがゆえに」

「人である以上、自然を虐げることはある程度仕方が無い。 人の世の理屈は、人の傲慢によって成り立っているものなのだ。 だが、それはそなたにも、当てはまるのではあるまいか」

静かに、気配が怒気を纏っていくのを感じる。

お前は人だ。

しかも、ヤマトの住人と同じだ。そう指摘したのだから、当然であろう。その間も、タムラノマロは、相手の気配を探っていた。どこから話してきているのか位は、確認しておきたい。

だが、その時気付く。

その場には、誰もいないことを。

背筋に冷や汗が流れる。ひょっとして、今まで幻聴を聞いていたのか。いや、違う。これは。

強烈な嘔吐感が来た。

激しく咳き込む。部下がなだれ込んできた。

「タムラノマロ将軍!」

「奴はいない。 仕掛けを取り払え」

「しかし……」

タムラノマロは、自分が分からなくなった。

今のは、幻聴だったのか。

もしもそうでないとすれば、一体何だ。タムラノマロも歴戦をくぐり抜けた将軍だ。人間の限界くらいは把握している。もしもそれを突破できたとしても、論理的にあり得ないものなど、笑って否定出来る、その筈だった。

この部屋の周囲には、油をしみこませた藁を積んでいたのだ。

そして奴がタムラノマロを手に掛けた瞬間、もろともに殺す気だった。しかし、聞こえてきたのは声だけ。

雰囲気から言って、タムラノマロは奴が既に罠に気付いていると思った。だから、人となりを知ろうと思ったのだが。

違う。

何かが、根本的に。

峠が来た。咳き込むタムラノマロを見て、慌てて側に来る。

「如何なさいました!」

「分からぬ……」

一体、自分は何をされた。

 

考えて見れば、毒など盛る必要は無い。

昨日、厳重な警備に守られた敵地を視察した後、ヤトは一晩考えた。そして結論を出した。

丁度試してみたいことがあったのだ。

そして翌日の夜。ヤトは冷静に、敵の中枢に忍び入った。途中、昨日見かけた峠という若者がいたが、無言で隣を通り過ぎた。勿論気付かれなどしない。直接正面から殺りあった場合の勝率は、こちらが100の向こうが1という所だろう。勿論、それはあくまで一対一の話。周囲に敵兵が何十人かいれば、一気に此方の勝率は地に落ちる。

敵地の中枢へ到着。

幾つかある見張り塔の影から、念入りに確認。

いる。しかもこの臭いは油だ。なるほど、周囲に油を伏せておき、もろともに死ぬつもりか。

舌なめずりしたヤトは、それでも堂々と、罠の中に踏み入った。

そして、見つける。

此方を見てはいないが、寝所で半身を起こしているタムラノマロ。ヤトには気付いているようだ。ただし、どこにいるかまでは、把握できていない。

ヤトはすぐ後ろに立つと、少しずつ狂気を流し込んでいく。頭に触って、ヤトの中で蠢く、理不尽なまでに濃い狂気を、移していくのだ。以前は目を直接見ることでそれを実施できた。

今は少し触るだけで、それが出来る。

以前は、ヤトの狂気に染まった目を見せることで、恐怖を介して狂気を叩き込んでいた。今は体がその仕組みを覚えている。だから、おそらくは振動や体温を使って、狂気を相手に移すことが出来ているのだ。

勿論、生半可な技では無い。

使用していると、疲弊も激しい。

それでも、試す価値はある。毒殺はどうしても証拠が残ってしまう。このやり口ならば、全く何も残らないのだ。これ以上の暗殺は、他に無いとも言える。

タムラノマロは会話していると思っている様子だが。実際には、口をぱくぱくしているだけ。

適当な分量狂気を流し入れると、ヤトはその場を離れた。

無言で歩いている内に、タムラノマロが正気に戻る。叫びはじめる哀れな老人。周囲に伏せていた兵士達が、一斉にタムラノマロを助けようと飛び入ったが。其処には、無論ヤトはいない。

自分の肩をもみながら、ヤトは成功したなと、ほくそ笑んだ。

翌日も、同じように、タムラノマロのいる舎に忍び込む。

半身を起こしている老人の後ろに立つと、狂気を流し込む。

「う、ああ、ああああう、うああああ」

タムラノマロが、意味を成さない呻きを挙げた。

おそらく、今回も、タムラノマロは、ヤトとの会話を己の脳内だけでしているのだろう。何となく分かるのだ。「何となく」ではあるが、既に人間を超越しているヤトにとっては、直感ではあっても根拠の無い判断では無い。

さてさて、どんな会話を私としているのやら。ほくそ笑みながら、充分な狂気を流し入れる。

適当に狂気を流し込んだところで、その場を離れた。

タムラノマロが絶叫しているのが分かった。無理もない。年老いると、人間はまず心が弱くなる。

そんなところに、ヤトの純度が高い狂気を直接流し込んでやったのだ。心がぶっ壊れないだけでもたいしたものだ。

翌日、タムラノマロは、露骨に衰弱していた。

全身から冷や汗を掻いている。当然だ。ろくな夢を見ていないだろう。ヤトが流し込んだ狂気は、心をむしばみ、精神の平衡を崩す。

峠がつきっきりでついているのが見えた。

なるほど、ヤトが来ている事はほぼ間違いないと判断したか。罠は既に取り外されているし、数人だけを殺して逃げるのもありかも知れない。だが、それは最終手段としておきたい。

触って相手を狂気に陥れることが出来るのだ。

声を使っても、おそらくは行ける。

だが、今の時点では、それはやらない。気配を消したまま、またタムラノマロの側に。そして、厠に峠が立った所を見計らい、再びタムラノマロに狂気を流し込んだ。

さて、後何日もつか。

この老人は、長年戦い続けた、古豪と呼ばれる人物の筈だ。ヤトの配下にいたら、さぞや使いでがあった事だろう。

だが、使えないのなら、殺す。

それだけだ。

充分な狂気を流し込むと、その場を離れる。

さて、敵はどう出る。峠はまだ所詮若造。それに、誰も姿を見てさえいないのだ。鉄壁の守りの中にいるタムラノマロが、狂気を発しただけにしかみえないだろう。ヤトがいると叫んでいるのが聞こえた。

残念。そこにはもういない。

ヤトはうそぶくと、山を後にする。さて、もう二三回だ。それで、決定的に、タムラノマロの心を壊すことが出来るだろう。

完全に心を破壊してしまえば、この山の守りも壊れる。

そうすれば、もはや何一つ、恐れる事は無い。ただし、それはそれだ。一段落と判断して、絹を調べる作業にも入りたいから、次に移るべきだろう。

そして、翌日。

ヤトは今日もやってやろうと思って、タムラノマロの舎に足を運ぶ。

周囲に罠は、なし。

正確には、油をしみこませた藁束はつまれていない。また、タムラノマロを守ろうと配置されている兵士達もいない。

ヤトは目を細めた。

どうもきな臭い。この状況で、いきなりこうなるのは、何故か。峠の奴も、どうしていきなり監視を放棄する。

頭がおかしくなったと見なされて、守りを放棄されたのか。

可能性は否定出来ない。

実際、遠目にも、タムラノマロはやつれきっている。十歳は老けたかのようだ。そして老人は、心身の平衡を一度崩すと、一気に衰えることが珍しくない。壮健だったタムラノマロも、そうなったと見なされたか。

だが、違う。

ヤトは判断した。これは罠だ。

無言で周囲を見て廻る。誰もいない状況にしたのは、何故なのか。油断は一切していない。

しばらく観察していたヤトだが。

タムラノマロの周囲には、体調を確認する医師や、食事を用意する女以外の人間は、確認できなかった。

腕組みして唸る。

何を企んでいる。それが分からない。

「そこにいるのだろう」

不意に、タムラノマロが話しかけてきた。ヤトは目を細めた。居場所が分かっているとは思えない。実際声を発しているのは、ヤトとは全く関係が無い方向だ。

それでも、一瞬だけ、身を竦ませるには充分だった。

「どうやら、知恵比べは儂の勝ちのようだな」

「ほう……」

まさかこの老人。

今までのは、全て布石だった、とでもいうつもりか。

はと思い当たり、近くにある木の上に。周囲を見回して、ようやく気付いた。やられたと、呟く。

山が、完全に閉鎖されているのだ。

しかも、今まで使って来た進入路は、全て防がれている。

なるほど、獣に使う罠を応用したのか。タムラノマロは、自身を餌として使った。何度も好きにさせておいて、相手が油断したところで一気に罠の口を閉じる。大物を捕らえるために、用いる罠の一つだ。

思わず、笑いが漏れる。

タケルとは違う、別の意味での大がかりな作戦だ。かなりの人数の兵士達が、既に周囲に展開しているのも、ヤトは察知していた。

「どうした。 儂を殺さぬのか」

「悪いが、そのような事をしては、私の実在を裏付けてしまうだろう。 今ならば、貴様の繰り言、で片付けられる」

勿論、その会話は成立していない。

うそぶくタムラノマロに対して、口中で呟いただけだ。

というよりも、おそらくだが。ヤトはもう、人間に対して、会話をするつもりがないのかも知れない。

自分でもそう思う。

一方的に何かを求められる。一方的に何かを与える。

それは会話とは言わないだろう。

悲観は実のところ、していない。此処はヤマトにとって生命線ともいえる場所だ。完全な閉鎖など、何日もは出来ないだろう。見ると、今日に限っては、働いている者達もいなくなっている。

今日中にヤトを見つけ出して、倒す心づもりなのだろう。

悪いが、そのような手には乗らない。

知恵比べでは、確かにタムラノマロに、上を行かれた。

だが、力比べではヤトの方が絶対的に上だ。

敵が探し始めるのが分かった。だがヤトは気配を消したまま、入り口の近くまで、堂々と歩いて行く。

殺気立っている兵士達は血眼になっているが、ヤトは無視。

側を峠が通り過ぎた。

足でも払ってやろうかと思ったが、そのまま放置。幾つかある進入路を、順番に確認して廻る。

かなり厳重な封鎖だ。

しかも、である。

眉をひそめたのは、それらの全てに達人と呼べる技量の持ち主が張り付いていること。それだけではない。

棘のある実がばらまかれていたり、毒の煙が周囲に充満しているのだ。

なるほど、気配を乱させる工夫をしている、という事か。

兵士達が、槍で彼方此方を突いて廻っている。此方が気配を消せることを承知の上で、対策を練ってきているという分けか。

なるほど、出来る敵だ。

いきなり銅鑼が叩き鳴らされたので、ヤトは少し驚いた。空気がびりびりと振動するかのようだ。

「気配は察知できたか!」

「感じ取れません!」

「もう一度!」

また、銅鑼。

なるほど、ヤトを本気であぶり出すつもりか。だが。

壁の一角に、視線を止める。

気配を漏らすことになるが、仕方が無い。呼吸を整えると、何度か腕を回して、力を充填する。

兵士の一人が、其処を通りかかった、瞬間。

ヤトは走った。

跳躍。

更に、兵士の一人の肩を蹴って、更に高く跳ぶ。悲鳴が上がるが、放置。壁の一角を蹴り、それこそ鳥のように舞い上がった。

土壁の上に植えられている無数の竹を抜け。

そして、山の外縁に着地する。

足に来る衝撃は、すぐに消えた。普通の人間だったら、足を複雑骨折していただろう。振り返る。

「後一歩だったが、惜しかったな」

あれだけの傷を精神に与えたのだ。タムラノマロは放置しておいてもいずれ死ぬ。再び気配を消すと、森の中にヤトは消えた。

 

騒ぎを駆けつけて、杖を突きながら来たタムラノマロは、息を呑んでいた。

人間の背丈の四倍から五倍の高さだろうか。土壁に、足跡が残っている。兵士の一人が、証言した。

「肩に、何か触った感触がありました。 一瞬だけですが、何かが陽光を遮ったように思います」

「他に、それを見た者は」

「わ、私が……」

青ざめているその兵士に、聴取する。

正直立っているのもつらい。頭の中に、渦巻く訳が分からない言葉が、ずっと体を苛んでいる。

杖を突く手が、震えているほどだ。

「何を見た」

「分かりません。 黒い影状のものしか分かりませんでした。 あの辺りから跳んで……」

指さしたのは、見張り塔の影。

すぐに峠が探る。

其処にも、足跡が残っていた。しかも親指の長さほども、硬いはずの地面に、食い込んでいる。

どのような脚力で、其処を蹴ったのか。

「影のような者とは、どのような姿をしていた」

「一瞬でしたので、何とも。 ただ、鳥のようにも、人のようにも……いや、あの黒い何かは、蛇の鱗に思えました」

「分かった、もう良い」

警備を解除させる。

タムラノマロは咳き込むと、主な部下を集めるように指示した。おそらく敵は、もう此処には来ないだろう。

今回はっきり分かった。命がけで試してみて、良く理解できた。

夜刀は、人間と言うよりも、獣に近い思考回路を持っている。知能は恐ろしく高いが、集団社会性を持つ人間では無く、基本は自分と、その手足のみを頼る獣の思想だ。だからこそ、この山を大がかりな罠にしたとき。まずは安全を確認し、そして中枢であるタムラノマロに狙いを絞った。それも安易に命を奪おうとするのでは無く、念入りに調べ上げた上で、此方の存在を察知させないように、暗殺を企ててきた。

そして、今。

罠が閉じられたことを確認した後は、二度と其処へ寄りつかないだろう。

書状をしたためる。

まずはタケルに。今回の一件について。タケルや、次代のタケルには、夜刀への対抗策を知る義務がある。

相手が知能が高いが、獣である。それが理解できれば、どうにでも対処がある。身を切った意味があった。

そして武王に。

武王には、夜刀の危険性を知らせなければならない。奴が武王を危険視したら、おそらく宮中に直に乗り込んでくる。タケル不在の現在、奴を止められる戦士はいない。ツクヨミが精神に傷を受け、今は療養中と聞くから、なおさら危険性は大きい。

部下達が集まった。

いろいろな部下がいる。既に跡継ぎは峠に決めていた。これも随分悩んだのだが、他に適任はいない。

これからタムラノマロは事実上の隠居に入る。

その後は少しずつ武王に申請して、峠に権限を移す。峠というのも何だ。そろそろ、名字を作るのが良いだろう。

「峠よ。 そなたに姓を与える。 坂上と名乗れ」

「坂の上、にございますか」

「そうだ。 峠故にな」

「謹んで拝承いたします。 それならば、名を漢名で名乗りたく」

中々に面白い返しだ。

タムラノマロは、結局名に漢字を当てることが無かった。次代から漢風の名を得られるのなら、それも良い。

「うむ……。 早めに考えておくように」

病床につく。

既に、精神がまともではなくなりつつあるのが、嫌と言うほど分かった。夜刀と話していたのでは無い。

おそらく側に夜刀がいて、ずっと何かをされていたのだろう。

兵士達に聞くと、ずっとタムラノマロは繰り言を呟いていたと聞く。タムラノマロは、ずっと実直だけを売りにして来た。今更に精神の闇が噴出してきたとは考えにくい。混濁した記憶の中で、夜刀と会話していたことは覚えている。夜刀は会話しているつもりになっているタムラノマロを、じっと見ていたのだろう。

口惜しいが、それ以上に。

今はその怪物を、どうにかしなければならない。

気がつくと、眠っていた。

再び部下達を呼ぶ。彼らの心配する様子がよく分かる。それだけタムラノマロが衰弱している、という事だろう。

仕事を順番に分与していく。

皆に、一人ずつ訓戒を与えていった。勇敢だった者には、健勝を。知恵が巡る者には、その栄光を。皆に丁寧に分けていった。

最後に峠が来た。

深々と、峠は頭を下げる。

「一つ、お願いがございます」

「何だ。 老い先短い身だ、あまり無茶はいうでない」

「奴を。 夜刀を倒した時に、お名前をいただきたく。 私の代で奴を倒せるかは分かりません。 しかし、坂上家は、夜刀の神を滅ぼす事を目的に、これから動きます。 奴を倒した者が、タムラノマロ……田村麻呂の名を襲名することにいたしたく」

「良いだろう。 ただし、復讐に狂うと、目を曇らせる。 努々、復讐だけに気を取られるではないぞ」

礼をすると、峠は下がった。

それから数年がかりで、タムラノマロは己の権限を分け与えていった。冷静に死期を見定めた上での行動を、誰もが絶賛した。

そして彼が永遠の眠りについたとき。

坂上家は、朝廷における重要な武門の一族として、名をはせるようになっていたのであった。

 

4、東へ

 

タムラノマロには致命傷を与えた。

これで色々と、動きやすくなる。そうヤトは判断したが。それは間違いでは無い事が、すぐに分かった。

しばらく鉄を生産する山を監視していたが、露骨に動きが悪くなったのだ。

兵士達も右往左往しているし、明らかに以前とは雰囲気が違う。これは或いは、簡単に崩せるかも知れない。

それにしても、だ。

ヤトは腕組みして考えてしまう。頭を潰すと、こうも組織というのは動きが鈍くなるものなのか。

これは或いは、ヤマトの中枢を、直撃するのが一番かも知れない。

ヤマトの中枢には、オオキミと呼ばれる存在がいることは分かっている。ただし、当然のことながら、その周囲には尋常ならざる技量の武人達が守りを固めている事だろう。探りを入れるのは面白いかも知れないが、はてさて。

続いてやっておきたい事がある。

それは、絹についての調査だ。

思い立ったら吉日である。すぐにヤトは、部下達を集めた。数日で、主な部下達が集まる。

今回は試す必要も無い。

だから、最初から堂々と、姿を見せた。

会合の場は、山の奥。

丁度十数人が輪になって座り、たき火を囲んで話をする。ヤトは準備として、大きな猪を持ち込んだ。既に捌いてある。

肉を振る舞いながら、皆に話を聞くのは、こういうときに口を軽くさせる工夫の一つだ。

伊賀の方で、賊の残党を吸収していた千里は、そろそろ成果が上がらなくなってきたと報告してくる。

「もうめぼしい奴は全部拾った。 これ以上は、もう有象無象しかいねえよ。 勿論頭数としては大事だが、残りは部下に任せるつもりだ」

「そうか。 他に部下を増やせそうなのは?」

「四国か、山陰か。 どっちにしても、もう畿内じゃあ、これ以上の爆発的な増加は無理だろうよ」

「そうか。 ならばお前の思うとおりに動け。 成果さえ上げれば、私は関与しない」

千里は頷くと、次に鵯に発言させる。

鵯はここしばらく、配下になった者達から聴取することで、ヤマトの絹について調べていた。

何名か、絹について生産の場に立ち会った者がいた。

「絹はまだ、九州から山陰にまでしか普及していません。 他にあるとすれば、都の一部で、試験的に作っているだけのようですね」

「ふむ、都か……」

「以前から、蚕とよばれる虫が絹を作る事は分かっていました。 ただ、我々も、まだ実物は見た事がありませんでした。 しかし、彼女が育成の現場に立ち会ったそうです」

鵯が促した。喋りはじめたのは、髪が長い女だ。丸っこい顔をしている。どうやら都では、こういう顔が美人とされるらしいと、鵯には聞いた。

彼女は頷くと、話し始める。

「蚕は蛾の一種で、その幼虫が蛹になるとき、繭を作ります。 その繭から、絹を作ります」

「ほう。 これは虫の糸で出来ているのか」

「おいおい、そう聞くと、気色悪くなってくるだろうがよ」

「何を言う。 虫は貴重な栄養源だ。 服にも出来るのであれば、なおもいい」

千里に返しながら、ヤトは続きを促す。

女は頷くと、絹の具体的な製造工程に移った。

基本的に蚕は極めて脆弱な生き物で、自然では生きていくことが出来ないという。人間が餌となる桑を与え、手厚く保護することによって、かろうじて命を支えているのだとか。これは美しい糸を出すものを選りすぐっていった結果だという。

それは歪んでいると、ヤトは思った。

ただし、蚕の原種らしき存在は、野山にも存在しているという。桑子と呼ばれる虫がそれだ。しかしこれは糸を取るには向いていないという。

「蚕は大陸でこのような存在になったと言われています。 それが近年、此方にも伝わり、技術も発展しはじめました」

「ふむ、なるほどな……」

この服は大変よいものだと、ヤトはそれを聞いた後も思う。

或いは、農耕民族共が造り出した、唯一の美かも知れないとさえ考えるほどだ。実際、農耕民共をこの世から滅ぼした後も、絹の技術だけは残しておきたいくらいだ。

蚕は繭を作るが、それを煮て、糸をほぐして束ね、糸にするのだという。

繭は基本的に一本の糸で作られており、もしも羽化させてしまうと、糸が寸断されてしまう。このため、糸にするためには、蛹の内に煮ないと行けないのだという。

話を聞いていると、色々と面白い。

「で、それをどうするつもりだ」

「桑は入手もむずかしくない。 自生しているものを使えば充分だ。 更にいえば、絹は価値がある。 作っておいて、損は無いだろう」

「おい……」

「鵯、蚕を手に入れる方法は。 更には、育成が出来る場所も作っておく必要があるな」

虫が嫌いらしい千里は放っておく。

実際、話をしている最中も、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。だが、そんな事よりも、ヤトの絹の方が大事だ。

「俺はそんなのいやだからな。 虫なんか死んでも触るか」

「お前に虫を触れとは言っていないさ。 お前は自分の仕事をこなせばそれでいい」

「へいへい、それは有り難いこって。 まあ、そこはあんたの良い所だな。 生き方は兎も角、自分の趣味は押しつけないしな」

よく分からないが、褒められているのだろうか。

咳払いすると、鵯に指示。蚕を入手する必要がある。

頷くと、鵯は人については宛てがあるといった。

ただし蚕については、まだ朝廷でも秘中の秘であるらしく、育成している場所がかなり限られるという。

「場所さえ分かれば、私が取ってこよう」

「乱暴に扱うと死んでしまいます。 蚕はとても弱い生き物だと聞いています」

「面倒だな。 では護衛の連中を私が皆殺しにするから、扱いを知る者が運び出せ」

流石に青ざめたが。鵯は、頷く。

それにしても、どうして蚕を育てるなどと言う華やかな場から離れたのか。興味が出たので、女に聞いてみた。

「蚕については、かなりまだ無理をして育てている部分があります。 家畜である以上人の思うままに生きるほかはありませんが、それでももっと、蚕に良い環境を作ってやりたいと、前から思っていました」

「ほう。 それで」

「色々と試していたら、どうやら放逐されそうになったので、さっさと場を離れました」

蚕は貴重品だ。

それを妙な実験で駄目にされてはたまらない、というのだろう。なるほど、ヤマト側の言い分も何となく理解できる。

確かに実験段階の育成をしている家畜を、思いつきで駄目にされてはたまらない。だが、ヤトとしては、それもまた面白い。

「良いだろう。 実績さえ上げれば、何をしても構わん」

「本当、ですか」

「ああ。 その代わり、ヤマト以上の品質の絹を作れ」

その絹服を着ることを思うと、ヤトは気分が高揚するのを感じた。これ以上の肌触りとなると、素晴らしいという他ない。

不意に、千里が挙手した。

「話は変わるが、提案がある」

「何か」

「実は、少し前に、俺の所に若い男が駆け込んできた。 どうも蝦夷でヤマトの軍勢が苦戦しているらしくてな。 あんたの話を聞かせたら、興味を持ったらしい」

それは興味深い。

ヤトはアオヘビ集落にいた頃、蝦夷との共同作戦経験がある。もしもまた蝦夷と共同戦線を張れるのなら、色々と面白くなりそうだ。

それに、この辺りでは、出来る事に限界も出始めている。

山から人間共を追い出すには、もっと兵力が必要だ。勢力を広げつつ人間を増やしていくのと同時に、此方の意のままに動く戦力が欲しいのも事実。

それに、これは探索の最中、噂に聞いたのだが。

蝦夷で、タケルに匹敵する英雄と、持ち上げられはじめている者がいるという。確か名前はアマツミカボシ。

もしもそんな奴がいるのなら、是非手合わせしたいものだ。

配下に出来るのならば、いい。

共同作戦が取れるだけで充分。

「よし、此処で広域戦略を発表する」

皆が、姿勢を改める中、ヤトは立ち上がる。

そろそろ、決めておくべきだろう。

「千里は、人数を増やしつつ、西へ勢力を広げろ。 私が足を運んだ山ならば、鵯に情報を渡す」

「分かった」

「鵯は絹の生産を行っている場所を突き止めつつ、後継の育成。 百人を管理できるものを、最低でも十名作っておくように。 人数の増加に追いつけ、なおかつ何かあった時の代替用としてだ」

無言で頷く鵯。

相当な反発を、今の言葉に対して覚えているのだろう。だがどうでもいい。仕事さえすれば構わない。

「私自身は、これから東へ勢力を広げる。 蝦夷と接触したときに、動きやすくするためだ」

「蝦夷と共同で、ヤマトを叩くのか」

「状況次第だな」

使えるだけ使う。それがヤトの本心だ。

勿論共同でヤマトをつぶせるのなら、最大限活躍してもらうし、手だって貸す。囮にしかならないようなら、その程度。対応は軽いものとなるだろう。

いずれにしても、蝦夷も農耕民族である事には変わらない。敵の敵は味方という理屈で共同するだけだ。

近いうちに、蝦夷に直接足を運ぶ必要がある。

ヤトが留守にしている間、この辺りはしっかり固めておく必要がある。そのために、この仕組みを完成させたといっても構わない。

今、多くの山に、人間が散っている。それも少数ずつ。

更には、仲が悪い鵯と千里が、戦闘力と生活力をそれぞれ束ねている。どちらがいなくても、生活はなりたたない。なおかつ、配下の者達の大半は、ヤトを神だと本気で信じている。

つまり造反は成り立たない。

いずれアキツを覆い尽くしたとき、ヤトはヤマトに戦いを挑む。どこから現れるか分からない敵を相手に、振り回されるヤマトを思い浮かべると、今から高笑いがとまらない。そしてその準備は、今最終段階に入ろうとしていた。

蝦夷を観察し、場合によっては配下にしてしまう。

それで一気に形勢はヤトに傾く。

都合が良いことに、この辺りの警備を担当していた首魁であるタムラノマロは暗殺したも同然。ツクヨミも、しばらくは身動きが取れないだろう。

ヤトの組織をどうこうできる輩は存在しない。

全ての山は、ヤトのもの。

そして全ての森は、ヤトのものだ。

「二ヶ月ほどで戻る。 絹の件、任せるぞ」

「分かりました」

「千里は冒険的な行動は避け、最低限の事だけしかするな。 ヤマトを潰す機会は先にある。 下手な動きで、兵力をすり減らすなよ」

「ああ、任せておけ。 さぼるのは得意だからな」

それぞれに指示を出すと、ヤトはその場からかき消えるようにいなくなった。残像を残して、その場を飛び離れただけだ。

だが、こういう人間離れした動きを見せておけば、それぞれの心にくさびを打ち込んでおくことが出来る。

彼奴には、かなわないと。

 

坂上の姓をもらった峠は、鍛冶場に足を運んだ。充満する煙。過酷な労働。その中で、敢えて鍛冶士達に頼む。

最強の剣を作れと。

それこそ、神をも斬る事が出来る剣が欲しい。

このままでは済まさない。

祖父の心を破壊し、致命傷を与えた化け物は、必ずこの手で殺す。老いによる繰り言だったのでは無いかと言う噂も流れたが、違う。

あの壁の足跡。

達人と呼ばれる者を見てきた峠だから分かる。あれは、人間を完全に超越した存在が残した、極限の武芸の痕跡だ。

自分の代で達成できるかは分からない。

だが、いずれ奴は倒す。

山神だか天狗だかは知らないが、必ず殺す。そして殺したとき、タムラノマロの名を引き継ぐのだ。

祖父は、自分の目標だった。

だからこそ、許せない。

血を吐くような願いだったが。鍛冶士達は、快く引き受けてくれた。話を聞いてみると、数打ちばかりを打たされて、滅入っていたのだという。少しでも気晴らしになるのなら、それは良いことだ。

祖父の部下達を集める。彼らが息を呑むのが分かった。峠の雰囲気が、根本的に変わったからだろう。

「これから俺は、いや私は。 神殺しとなる」

殺すべき神は、夜刀。

部下達に、もう一度、峠は言った。

「既に人間を超越した相手だ。 神と呼んで差し支えないだろう。 だが、必ず殺す事が出来る。 なぜなら奴は、包囲から逃れた。 もしも無限の力を持つのなら、この場にいた全員を殺していただろうからだ。 殺せる。 私はそう信じて、奴を追う。 皆には、ついてきて欲しい」

喚声が上がった。

祖父の人徳が故だ。

だが、峠はそれに甘えるだけではならない。この喚声を、背負うに相応しい武人とならなければならないのだ。

数ヶ月後、剣が届く。

祖父はもう寝たきりだが、剣を見て、素晴らしいと言ってくれた。意図は悟ったのだろう。

「剣に名を付けたか」

「は。 夜刀斬丸と名付けようと思います」

「うむ……」

剣を抜く。

珍しい片刃の湾曲したものだ。最大限に刃物の切れ味を生かす工夫をしているのだという。血抜きの溝と、刃に浮かび上がった模様が美しい。そして、これならば。神であろうと、斬れる。

後は、自分の腕さえ磨き上げれば。

あの化け物にも、届くはずだ。

「必ずや、仇討ちをいたします」

祖父に宣言すると、峠は寝所を出た。

この時峠は、武芸優れた若者ではなく。

一人の修羅となった。

 

(続)