蛇神脱皮

 

序、空より迫る爪

 

いにしえより、蛇の天敵は鳥とされている。

これは主に天竺から伝わった思想だと、ツクヨミはタケルに説明した。

そもそも、天竺では。蛇は不老不死の象徴として、崇められる存在だったのだという。その蛇を平然と食べるものが、鳥。

故に、鳥は蛇の天敵に位置する存在として、崇められた。

このアキツでは、蛇を専門に貪る鳥はさほど多くない。蛇がそれほど生態系の上位にいないという事情もある。

ただし、今回ばかりは、事情が異なる。

タケルの目の前にいるのは、真っ白な鳥。それも猛禽だ。

種類は鷹に近いのだと思われる。

しかもこの鳥、完全に人間により調教されているのだという。

鷹を腕に乗せているのは、明らかに渡来人系の男である。目が細く、危険な光がある。おそらくは、タケルをみくだしているからだろう。

「挨拶せよ、劉礼」

「初めまして、英雄殿。 鷹使いの劉礼と申します」

「タケルだ」

「これはこれは、とても分かり易い名ですね」

明らかに馬鹿にした口調だが、今は此奴を怒っていても仕方が無い。咳払いすると、ツクヨミは、説明をはじめる。

解析を進めた結果、ヤトが操っている動物は、高確率で鳥。

それもカラスと梟である可能性が高いという。

それはタケルも感じていた。

ヤトは夕方に動きを鈍らせる。経験上、タケルも掴んでいたことだ。何故なのかは、今までは分からなかったが。

確かにカラスと梟から情報を得ているとしたら、頷ける。

行動時間の外、と言うわけでは無い。

梟は、カラスにとっては天敵。

かち合わせないようにするために、夕方を緩衝用の時間として、設定しているという事だ。

「其処で、まずはこの白鷹を用いて、カラスを狩ります」

「カラスを狩る、か」

「ご心配なく。 この白鷹は、カラスだけではなく、小型の猛禽さえも狩ることを得意としています。 ヤトとやらが躾けたカラスなど、瞬く間に刈りつくして見せましょう」

自信満々に言う劉礼だが。

タケルは、どうもおかしいと思った。

先ほど、ツクヨミが見せた切り札に比べて、これはあまりにも貧弱すぎる。渡来人を金に糸目を付けず雇ったとは言え、こんな輩を主軸に、夜刀を倒せるとは思えないのだ。

アキツでは、渡来人から技術を得て発展した歴史がある。勿論、それだけではない。得た技術を独自に練り上げて、開発もしてきた。製鉄に関しては、既に渡来人の持つ技術を、再現できているほどである。特に剣に関しては、もう少しすれば、渡来人が使っているものを上回る事が出来そうだと、タケルは報告を受けていた。

勿論、何も考えずに、渡来人の技術をありがたがる者もいるが。

タケルは違う。

劉礼を退出させると、ツクヨミは言う。

「気付かれましたか。 あの男は、囮です」

「やはりか。 それで、カラスを狩って、夜刀をおびき出すと言うことか」

「いえ、それも前段階に過ぎません。 そもそも、存在するだけの、抑止力として用いるかも知れません」

ツクヨミが言うには、カラスを彼処まで調教するには、相当な時間が掛かるという。つまり、白鷹とやらがカラスを減らすことだけでも、充分に意味がある。

更に。焦った夜刀が出てきたところで。

切り札を、投入するという。

其処まで上手く行かなくても、天敵が空にいるだけで、カラスは動きを鈍らせる。それに、カラスの位置を見つけられれば、夜刀の居場所もある程度見当がつく。

つまり、あの男はどうでもいい。大きな猛禽が、空にいるだけで、意味があるのだ。

「夜刀が使っている武器についても、調べ上げてあります」

弓矢については鹵獲品だ。後は、殆どの剣も。

問題は、奴が持っている、やたら切れ味の良い名剣。タケルも夜刀が五人を瞬く間に切り伏せるところを見ている。

凄まじい切れ味を持つ剣だ。

誰か兵士から鹵獲したのでは無いだろう。常陸にいた頃、オロチの一族が、夜刀に力を貸していた形跡があるのを、タケルは既に掴んでいる。オロチの者達が渾身を込めて打った一振り、というわけだ。

それらの説明を受けた後、ツクヨミが次の札を見せる。

姿を見せたのは、この国では考えられないほど巨大な犬だ。

狼よりも更に大きい。

しかも、それが十二頭。

「大陸の最北部に住むという狼との交配種です。 渡来人の話によると、寒い地方に行くほど肉食の獣は巨大に強くなると言うことで、犬や狼も例外ではありません。 この犬たちは、戦用として徹底的に鍛え上げた精鋭。 この国に種犬として持ち込んだものの子孫です」

「見事な犬よ」

一匹を側に寄せる。

非常に目つきの鋭い犬で、毛並みも整っている。側に渡来人がいない所を見ると、ツクヨミを主人として認めている事となる。渡来人に飼い慣らされているのではなく、既に朝廷側に技術が移行されているようだ。

「土着の犬との交配は既に進んでおり、これは第二世代です。 今回、実戦投入をする事となり、武王陛下の許可もいただいております」

「うむ……」

頭を撫でると、犬は目を細めた。

戦闘犬として鍛えられているとは言え、感情はあるという事だ。タケルが好意を示しているのも、理解できているのだろう。

紀伊で少し調整してから、夜刀にとどめを刺すために用いると、ツクヨミは言った。勿論、そうでなくても、様々な使い道がある。

犬の弱点を知り尽くしている夜刀に対して、どうこの頼もしき犬たちを用いるのか、興味深い。

更に、ツクヨミが指を鳴らすと、数人の男達が入ってきた。

影の者達も鍛え抜かれているが、それともまた別物だ。

単純に強い。

それも、おそらくこの国の者では無いだろう。体格が、根本的に違っている。タケルに匹敵するほどの長身で、分厚い筋肉で全身を覆っていた。

肌も浅黒い。

「山越と呼ばれる、大陸では蛮族呼ばわりされていた者達の子孫です。 現在では大陸の南部にまで追いやられていますが、それは純血のみ。 実際には、大陸の主要な漢民族と交配して、血が混ざったというのが実情のようです。 我らアキツの民も、彼らの血を多く受けていると聞いています」

「見事な戦士達よ」

「渡来人の武術を身につけ、更に集団戦の知識も覚え込ませています。 彼らが、切り札となります」

良くもこれだけの準備をしたものだ。

戦士達を退出させるツクヨミに、タケルは頷いた。

「前も言ったが、一度だけなら、協力しよう。 飼い慣らせぬ猛獣であれば、殺すほかはないと、そなたも分かってはいるな」

「は……」

「何故、奴にそれほどこだわる。 人材として得がたいからか」

「それもありますが、この国はまだ表しかありません」

ツクヨミは、豊富な知識を披露するかのように言う。

本来、成熟した国家というものは、複数の流れによって成り立つのだという。金の動きだけではなく、政治も人の動きも。軍事などと言うものは、そのほんの一部でしかないとか。

この国にも、いずれ賊などと言うものではない。

裏側に、様々な流れが出来てくると言う。

「それを悪と論じるのではなく、国によって制御する。 私がもくろむのは、陰陽道という表向きの呪術的な、裏では現実的に情報を司る仕組みを作ることにより、この国を表からも裏からも制御し、より強くすることなのです」

「ふむ。 国家戦略に、あの夜刀の作り上げようとしているものを使おう、というわけだな」

「ご明察です」

「分かった分かった。 ただし、協力は一度だけだ」

ツクヨミのこだわりも、分かる。

おそらく夜刀は、今ツクヨミが考えている国家構想に、無くてはならぬものなのだろう。だが、それにしても、奴は危険すぎるのだ。

ツクヨミを下がらせると、奴が持ってきた作戦案に目を通しておく。

けちを付けるところは、今の時点では見当たらない。

流石の夜刀も、これだけ準備してある状況では、どうにも出来ないだろう。だが、捕らえられるかは、話が別。

ただし、痛手を与えることは出来るだろう。

いろいろな山に広がってしまっている夜刀の手足を切ろうとするのは、今では早計だ。実際には、殆どの者達が、夜刀の手足になっている事さえ気付いていない。ただ山で暮らしているだけの者に過ぎない。それを殺すのは、国家のありようでは無い。

元を断たなければならない。

タケルは暖かいかゆを作らせると、一気に口に掻き込んだ。

力をつけて、少しでも早く、戦えるようにならなければならない。確かに、医師が言ったとおり、傷の治りが若い頃に比べて明らかに遅くなっている。夜刀はもうとっくに回復しきっているだろう。

しかし急いては、それだけ敵を有利にさせるだけだ。

紀伊の地固めは、既に完璧だと部下から報告は受けている。勿論人間の世界に完璧などと言うものはないが、それでも賊には既に蜂起する力など残ってはいないだろう。奴らにとって、もう出来るのは、情報を撒くことくらいだ。

それでも面倒には代わりは無いが。

今の時点では、気にしなくても良い。

後は、伊賀や飛騨、それに四国など。朝廷の威光が届ききっていない地域を地固めするか、それとも。

いずれにしても、この次の戦いを、乗り切る必要がある。

タケルは横になると、肉を用意しておくように指示。かゆだけでは、そろそろ物足りなくなってきた。

体を強くするために、肉を食っておく必要がある。

一眠りして目を覚ますと、猪の肉が用意されていた。その場で焼いて、肉汁が滴るそれを喰らう。

人間も、所詮獣と、こういう点では同じだ。

だが、夜刀のように、知恵を持つ獣になってしまってはいけない。奴の生き方は、人間としてのあり方を捨ててしまっていると、タケルは思う。

肉を食べ終えると、タケルは再び横になる。

まだ、体は万全では無い。

動くには、少し早かった。

 

1、猛攻

 

体の方は万全。ヤトは既に四百に配下が迫っているという報告を受けた後、山を見回りながら、考え込んでしまった。

タケルの動きがなさ過ぎる。

負傷をしたヤトに、徹底的な追撃をしてくると思っていたのだ。

だが、奴は全く動く形跡が無い。傷を癒やしているのだろうか。ヤトの実力を見ることが出来ただけで、今回は充分だとでもいうのか。

いや、違うだろう。

ヤトもタケルの実力は知っている。その性格も。

あの痛み分けで、満足するはずが無い。

気になるのは、影の者どもの動向もだ。あの後、何も動きが無い。或いは、ヤトの集落そのものに攻撃を仕掛けてくる可能性もあると考えていたのだ。そろそろ、ヤトの事を、把握していてもおかしくない。

その、振るえる力についても、だ。

千里が集めて来た人材の中には、鉄を直せる者もいる。

そいつに、鬼を研ぎ直させた。鬼を研いだ男は、こんな凄いツルギははじめて見たと言って褒めていたので、自分の事のように嬉しかったが。しかし、勿論それを顔に出すことは無い。

心配して、カラスたちが此方を見ているのが分かる。

大丈夫だ。問題ないと手を振って伝えると、カラスたちは散っていった。

あの子達に心配を掛けるようでは駄目だ。

敵が何をしてくるか、考えて、対策を練った方が良いだろう。

無言で木の上に。もしも何か仕掛けてくるにしても、先に察知すれば、対応方法など、いくらでもある。

それを見つけたのは、偶然。

いずれにしても、そいつらは。ヤトに見られた時点で、命運が尽きたと言って良かった。

渡来人である。

それも、明らかに、不良役人を一人連れている。護衛の兵士が五人。総勢で、七人だ。

「この辺りに、浮浪民が住んでいるとか。 本当か」

「ええ、それがどうかしましたか」

「奴隷として売る」

渡来人はケタケタと笑った。

そういえば、千里の部下に、何人か渡来人がいた。大陸ではいわゆる奴卑は珍しくないと聞いている。

人間を捕らえて、奴卑として売ることも、だ。

「最近、紀伊では奴隷を得ることが出来なくなって来たからなあ。 足をこんな山奥まで運ばなければならんのは面倒だが、仕方が無い。 此処なら、官の目も届かんだろう」

「奴卑として売るとして、誰に売っているんですか?」

「前は大陸に売り飛ばしていたなあ。 今では、大陸の方には買い手がつかなくなってきたし、朝廷も我らの行動を見張るようになった。 だから主に朝廷の目が届かない辺境の方に売るのさ」

辺境では、人手がいくらでもいるとか、渡来人はほざいた。

開墾に開発に、あらゆる作業で手が足りていない。

普通の農民を連れてきたり、或いはツチグモを帰化させると、税がかかってしまう。新しく土地を開発させる場合、どうしてもものがいるようになるのだ。其処で、奴隷を確保して、無償で働かせる。

ふーんと、ヤトは呟いた。

護衛の兵士とあわせて、七人。

無言で、ヤトがその前に舞い降りると。渡来人は、ぎょっとしたようだった。だが、その口が動く前に、ヤトが首を飛ばしていた。

すっ飛んだ首が血をまき散らしながら、山の斜面を転がり落ちていく。

更に一緒にいた役人を、唐竹に斬り倒す。

兵士達が剣に手を掛けた時には、既にヤトは至近。縦横無尽、剣が閃く。不意を突いたという事もある。

ツルギを振って、剣を落とす。

鬼では無いツルギだから、既にボロボロだ。これは打ち直す必要があるだろう。

七匹も一度に殺したのは久しぶりだ。兵士達からはヨロイを剥ぎ、服を脱がせる。ツルギも弓矢も全て奪った。

渡来人は、高級そうな服を着ていた。

良い触り心地。これは、今着ているのと、同じ素材。

確か絹だ。

今着ている絹も、丁度ぼろぼろになってきたところだ。鵯にでも縫い直させるとしよう。殺した相手が着ている服は、再活用するのが当然である。

全裸にした死体を、順番に解体していく。

内臓を出して肉を骨から切りおとす。首から上だけは、残しておく。卑劣なる奴隷商、山神の怒りに触れて首を刎ねられる。そう立て札でも立てて、その下に並べておくつもりだ。

勿論、文字など書けない。

文字を書ける配下が何人か、この間手に入った。主に紀伊から逃れてきた老人達と、それに鵯だ。今回は老人達にやらせる。

死体の処理があらかた終わったので、骨を砕いて焼き、そして埋める。

剥いだ皮はなめした後、何かに使うつもりだ。肉はカラスや梟たちに与える。大きくなってきた、蝮にも喰わせてやろう。

自分では喰わない。

人肉はまずい事を、何度か口に入れて知っているからだ。

作業を淡々とこなしていると、不意に拍手の音がした。

少し前から、此方を見ていることには気付いていた。だが、敵意は無いので、放って置いたのだ。

「七人を瞬く間に。 二人は戦闘力を有していないとはいえ、流石ですね。 山神、いえ夜刀の神」

「お前は、影の連中の長だな」

既にカラスたちは、周囲に散っている。

戦闘に備えているのだ。

ヤト自身も、何時でも戦う準備は出来ている。何より、此奴一人くらいなら、手にしている牛刀一本で充分だ。

がりがりと音を立てて、肉を骨からそぎ落としながら、ヤトは何の用だと、ぶっきらぼうに言う。

戦いに来たのでは無いことくらいは、何となく分かっていた。

「今日は挨拶に来ました。 私の部下達が、いつも世話になっていますから」

「面倒な攻撃ばかり仕掛けてくる奴らだな。 お前を殺せば、奴らは静かになるのか?」

「いえいえ。 私一人を殺しても、どうにもなりませんよ。 申し遅れました。 私はツクヨミと申します。 オオキミ、武王の配下で、政務を担当させていただいている官の一人です」

妙に慇懃な奴だ。

細いし、戦いが出来るとは思えない。だが、ヤトを恐れてもいない。

この自信、何か切り札でもあると見て良いだろう。

死体の処理が終わったので、カラスたちに肉を食わせる。骨は、さっそく焼きはじめた。土器に手を入れて、血を洗い落とす。

これは気持ち悪いから、などでは無い。

カラスたちが、梟も、嫌がるのだ。

「私が此奴らを殺しても、お前は何とも思わないのか?」

「それは、既に殺す事が決まっていた不良渡来人と汚職官吏です。 兵士達には気の毒なことをしましたが、どうせ今日殺す予定でした。 貴方が殺してくれて、むしろ手間が省けましたよ」

「ほう……私を利用するか」

「ええ。 私はあらゆるものを、このアキツ、いえ日本国のために利用します。 この国は、まだ表しか無い脆弱な国だ。 裏の頭領として、貴方という存在を、是非この国に迎えたい」

いきなり、面白い事を言い出す。

ヤトは牛刀を振るって血と内臓の汁を落とす。

「断ると言ったら?」

「勿論、今色よい答えが貰えるとは思っていませんよ。 貴方は、山や森に絶対の愛情を注いでいる人間だ。 我々は、貴方から見れば、侵略者以上でも以下でも無いでしょうからね」

「其処まで分かっていて、何故来た」

「顔を見に来たのです。 これから私は、貴方に戦を仕掛けます。 そして貴方は、私に屈服し。 この国の裏側を収める存在の要として、働くことになるのです」

ヤトが殺気を帯びたのに気付いたか。

ツクヨミとやらは、にこりと笑みを浮かべて、下がった。その気になれば、まだ充分殺せる位置だが。

カラスが知らせてくる。

影の者どもが来た。数は五十に達している。だが、その程度で、今のヤトを殺せるつもりか。

勿論真正面からやり合うという意味では無い。

此処はヤトにとって庭に等しい場所。あのタケルが、千余の屈強な兵を用いても、ヤトの庭では勝てなかったのだ。

如何に訓練を受けた者達でも、五十やそこらでどうにか出来ると思う方がおかしい。此奴は何を考えている。

余程の自信があると言うことか。

そうなのだろう。そうで無ければ、わざわざ出てこない。まだ此奴の力量は測りきれないが、油断できる相手では無さそうだ。

「今日はここまでです。 次は戦場で会いましょう」

「ふん、能書きが多い奴だ。 タケルとは、だいぶ違うな」

「タケル将軍は、堂々たる武人です。 大陸にも、あれほどの男はなかなかいないでしょうね。 しかし、だからこそに限界がある。 私は、その限界を埋める仕事をしているのです」

「……」

行けとヤトが視線で示すと。

無言でツクヨミは、その場を離れた。ヤトに背中を見せて堂々と去る様子は、中々に肝が据わっていると言えた。

同時に、影の連中も引き上げていく。

七匹分の肉を始末させると、ヤトは首をぶら下げて持っていく。千里が少し離れた山にいたので、立て札を作らせた。

そして、山の麓にある大きな街に、夜中の内にたてさせ、首を並べさせる。

七つの首を見て、まず最初にげんなりしたのが、千里だったのは面白い。首を並べ終えると、山道を戻る。明日、さぞや面白い騒ぎになっている事だろう。

「彼奴らは、見覚えがあるぜ。 確か渡来人の海賊と組んで、奴隷を売りさばいていた奴だな」

「お前も商売相手だったのではないのか」

「わりぃが、俺は奴隷商売には手を出してねえ。 紀伊のためを思って、これでも働いていたからな」

そのような輩が紀伊を牛耳っていたのであれば、或いはタケルに軍で制圧された方が、まだマシだったのでは無いか。

ヤマトや平原に住んでいる連中の理屈はよく分からない。

そんな状態が、望みだというのか。

千里と分かれると、ヤトは山の奥へ。今の時点で、敵は動いていない。根城にしている横穴の一つに戻ると、横になって丸くなる。

暑い盛りは過ぎて、既に涼しくなり始めていた。

そろそろ、動物は冬に備えて、餌を忙しく食べ始める時期である。この山にも熊がいるが、ヤトを見るとすぐに逃げていく。力の差を理解しているのだから、それでいい。ヤトとしても、縄張りを無闇に踏みにじらない。

主に狙うのは、鹿や猪。

特に、鹿はこの時期、数がかなり増えている。その上良く太っているので、食べるには悪くない。

明日は何を食べようかという考え。

それに、敵を撃退するには、どうするべきかという思惑。二つを同時に進めて、処理していった。

目が覚めると、朝。

昨日殺した連中の血の臭いは、もうしない。河まで降りて、顔を洗って、手も綺麗にする。

そして木の上に上がって、見た。

空を、なにやら白い鳥が舞っている。非常に大きな鳥で、カラスたちが木々の間で怯えきった声を上げていた。

あれは、鷲よりも、更に大きい。

じっと目をこらすが、形状は同じだ。或いは、渡来人が持ち込んだ、特殊な品種の猛禽か。動きはゆったりとしているが、翼の長さが尋常では無い。その上、胴体も、かなり大きい。

空のかなり高い地点を飛んでいるが、それはすなわち、縄張りを誇示しているという事だ。

鳥はそれぞれが飛ぶ高さを決めている。縄張りは、高度によってガチガチに決められているものなのだ。

あの鳥は、昨日までいた鳶の縄張りを蹂躙して、其処に我が物顔に居座っている。見た限り、何も怖れていないという風情だ。

気に入らない。

撃ち落としてやろうかと思った。無言のまま、弓を引っ張り出す。矢をつがえた。

外から持ち込まれた動物など、森を荒らす侵略者に他ならない。弓を引き絞り、狙いを定める。

高度があるが、落とせない位置では無い。

しかし、その時。

ヤトは察知した。横っ飛びに離れて、木の幹に突き刺さる複数本の矢を回避。地面に着地すると、数度転がって勢いを殺し、飛び起きる。

今、ヤトの探知範囲の外から、攻撃してきたというのか。

攻撃してきた地点を見るが、もういない。

矢を放った後、移動したという事である。何者か。それほどの奴を、タケルは雇ったのだろうか。

そして、カラスたちが鳴き声を上げる。

森の四方八方から、人間が迫ってきている。数は、千、いやそれ以上だろう。それも、敢えて包囲網を開けるようにして、迫ってきているのだ。

露骨すぎる罠だが。

しかし、ヤトは悟る。

あの優男の言葉、嘘では無かった。これから、戦いが始まると言うことだ。

今回は、ヤトも準備をしてある。既に紀伊方面から人員の引き上げは終わっているし、これから敵を引っかき回すことも難しくは無い。

問題は、今、矢を放ってきた奴だ。

後方に、殺気。

また、矢。飛来した矢を掴み取り、反転しつつ矢をつがえる。人影。放った矢が、人影を追うが、木に突き刺さって、高い音を立てた。

空気が、びりびりと震える。

ヤトは舌打ちすると、実を低くして走る。走る先は、包囲が開いている方では無い。敵の一角。

西から迫っている、三百以上の敵に向けて、だ。

おそらくだが、ヤトの見たところ、空いている方に逃げれば、今狙撃してきた奴と同等か、それ以上の相手が複数待ち構えていると見て良い。そいつらと戦いながら、後方から迫る千余と戦うのは、無理だ。

ならばその逆を突くほか無い。

跳躍し、ツルギを抜く。昨日奪ったばかりの、新しい一本。

敵兵の至近に出た。

いきなり姿を見せたヤトに、ぎょっとする暇も与えない。先頭の一人の首を刎ね、着地と同時にもう一人を袈裟に切り伏せる。体を旋回しながら、一人の頸動脈を割り、もう一人の顔の真ん中を二つに抉ってやった。

跳躍を続けて、森の中を走る。

まさか自分たちのど真ん中に飛び込んでくるとは思わなかったらしい敵の中央を、無理矢理突破。

わっと押し寄せてきた敵に対して、何度か矢を放つ。顔面を射貫かれた兵士が横転し、他の兵士が足を取られて転んだ。

だが、敵の士気は高い。

隊形を崩さず、追ってくる。

 

ツクヨミは、作戦の推移を見つめていた。森の中に置かれた机には、戦図が配されている。

その上では、夜刀を示す蛇の駒が、先ほどから移動を続けていた。

状況を連絡してきているのは、影の者達である。

「夜刀の神、平津隊を突破。 追撃をいなしながら、逃走中」

「ふむ、予想通りに来ましたか」

追撃する味方が、夜刀の背後にぴったり張り付いている。突破された平津隊も、指揮を失ってはいない。

幾つか予想していた内の一つ。

此方の包囲の中で、一番厚そうに見える場所を強行突破。其処に罠が無いと判断しての行動。

だが、ツクヨミは。

そう夜刀が動く事を、読んでいた。

正確には、予想を立てたのはタケルだ。作戦の立案に関しては、タケルにも協力をしてもらった。

専門家の意見を、きちんと取り入れてある。

そういった意味でも、ツクヨミは手を抜いていない。

実際問題、知恵には限界がある。ツクヨミはタケルを尊敬している。嫌われているとしても、その敬意に嘘は無い。第一、この国、いや大陸でも通用する指揮官であるタケルの意見をないがしろにしていては、勝てる戦いも勝てなくなる。

「亮、千、仲。 行け」

間近に控えている、山越の戦士達に指示。

彼らは頷くと、狼もかくやという速度で、山の中に消えた。あの山越戦士達でも、今の夜刀に及ぶかは分からないが。

それでも、盤面を進める事は出来る。

戦況を見るために、ツクヨミは高台に出た。三つの部隊が、夜刀を追って森の中を猛然と進んでいる。

夜刀はかなり素早くそれから逃げ回りつつ、追いついてきた者を斬り伏せ、矢を放って打ち倒していた。

此方を、夜刀が見た。

動いたのは、側に控えさせている権という武人だ。両手を合わせるようにして、飛来した矢を受け止める。

だが、受け止める際に、手に怪我をしたらしい。

血の臭いが、ツクヨミの所までした。

「一瞬で私に気づき、狙撃してくるか。 凄まじい怪物だな」

「次は防ぎきれるか、分かりません。 もう少し、お下がり、ください」

「分かっている」

たどたどしい言葉で、権が忠告してきた。

頷くと、ツクヨミは少し下がった。夜刀はまだ、此方に狙撃をするだけの余裕があると言うことだ。

面白いのは、カラスを可能な限り低空飛行させて、森から出さないようにしている事か。空の白鷹が此方の戦力だという事に気付いている、のだろう。

ツクヨミは、冷静を可能な限り保ったまま、指示を続ける。

夜刀は反撃を繰り返しながら下がっていたが、やがて不意に移動経路をずらした。谷へと逃げ込む。

普通だったら、自身を追い込む行為だが。

奴に関しては違う。

「崖に行かせるな」

部下達に指示。

潜ませていた三百五十ほどの兵力を、先回りさせて、崖の前に展開させる。

夜刀は接敵前に気づき、また方向転換した。今度は都濃という男の部隊がその前に立ちふさがろうとするが、突破された。

此処で、山越の戦士達が、夜刀に追いつく。

夜刀自身は既に、腰にあるツルギを使い尽くしている様子だ。弓矢に関しても、ほぼ在庫が無くなっているだろう。

突破を好き勝手に許しているように見えるし、事実その通りだが。

その過程で、奴を消耗させてもいる。

三人の山越戦士が、同時に夜刀に躍りかかった。

不意に、夜刀の姿が消える。

何が起きた。

木の上に、夜刀の姿。木の幹を蹴って、枝の上にまで躍り上がったらしい。猿が舌を巻くような凄まじい身のこなしだ。

崖から踊り降りて、無事に底まで辿り着くとか言う話は嘘では無いと言うことだろう。しかも、枝の上に隠しておいた矢を、掴んだらしい。

遠目でそれを確認したツクヨミは、それでも。

まだまだ、予定の範囲内と、呟いていた。

実際、此処までは、まだまだ予定の範疇を抜けていないのである。タケルが予想したとおりの展開から、一歩もはみ出ていない。

夜刀の化け物じみた能力については、事前に調べ上げてもある。

「大陸でも、あれほどの化け物は、そうそういまい」

「滅多に、いません。 ただ……」

「聞いたことがあるのか」

「闇に生きる者の中に、希に現れるとか。 人間である事を放棄して、化け物になってしまうものが、いるとか」

権の言葉に、思わず唸る。

信じがたい事だが。しかし目前に、その実例がいるのだ。認めざるを得ない。それにしても、恐ろしい奴だ。

だが、猛獣は猛獣。

必ずや、飼い慣らしてみせる。そう、ツクヨミは決めている。

この国のためにも。

裏側の流れを作ろうとしているあの夜刀は、必ず掌中に収めなければならないのだ。

 

ヤトは舌打ちしていた。

三人の手練れが、しつこく追いすがってくる。他の兵隊と違って、中々引きはがせない。隠しておいた矢の場所までたどり着けたのは良かったが。既に敵は千数百までふくれあがり、追撃しながら容赦なく矢を放ち来る。

時々反撃しながら逃げ回るのだが。

既に、傷が増えつつあった。如何にヤトでも、これだけの人数からの追撃を、避けきれるものではない。

着地。

落ち葉を巻き上げながら、また走る。

前に立ちふさがった、筋骨隆々たる大男。上半身はむき出しの裸で、入れ墨を多数入れている。

手にしているのは、見た事も無い槍。尖端に刀のような刃を突けている。

「シャアッ!」

叫びと共に、撃ち込んでくる。

ヤトはそれを紙一重で交わすと、手で柄を掴んだ。動かなくなる。

にやりと笑うヤトと、壮絶な表情を閃かせる大男。次の瞬間、大男の顎を、ヤトが蹴り砕いていた。

吹っ飛ぶ大男の歯が、陽光を反射してきらめく。

だが、更に前に、二人が立ちふさがる。

どちらも見たことが無い長柄を手にしている。気合いと共に撃ち込んでくる二人。ヤトは横っ飛びに逃れると、気付く。

誘導されている。

そして、後方から迫る敵の陣容が、ぐっと厚くなっている。

これ以上の突破は、おそらく無理だ。

にじり寄ってくる二人。

ヤトの息も、乱れはじめていた。これ以上逃げ回るのは、難しいか。しかし、足を止めてしまっては、あっという間に袋だたきだ。

倒れていた男も、顎を押さえながら、起き上がる。

首を刎ねておけば良かったか。

直上に飛び上がり、枝を掴んで更に体を上に運ぶ。木の上に出ると、周りを見回した。やはり、そうか。

地形的に、見覚えがあった。

この少し先に、大きな河がある。

おそらく川の中には、敵の水練上手が待ち伏せているだろう。ヤトは其処まで上手には、泳げない。

更に、だ。

後方から聞こえ来ている足音に、人間以外のものが混じっていることを、ヤトは敏感に察知していた。

この足音は。

犬か、それに近い生物だ。走り方からして、狼では無いだろう。

呼吸を整えながら、ツルギを振るう。放たれた矢の内、当たるものを弾いたのだ。この辺りの地形は熟知しているが、戦闘用に鍛えられた犬は強い。人間の比では無い。しかもこの足音、明らかに生半可な大きさでは無い。

更にヤトが危惧しているのは、このまま行くと、追い詰められる一方だと言うことだ。

ならば、手は。

限られている。

此方も準備はしているが、まだまだそれが効果を発揮するまでには時間が掛かる。もう少し、持ちこたえなければならないだろう。

敵のかなりの数を有する部隊が、追いついてきた。

距離を取るつもりだが、敵の手練れがそうはさせてくれない。此方の行く先の枝に、いちいち的確に矢を放ってくる。

矢を撃ち返すが、身を木に隠して、回避された。

甲高い音がしたのが、木に当たった証拠。

いちいち頭に来るが、戦闘で頭を冷やさなければ死ぬ。ましてや、圧倒的多数に囲まれ、逃げながら戦っている状況なのだ。

追いついてきた犬が見えた。

信じられないくらい大きな奴だ。おそらくあの犬も、大陸から連れてこられたものなのだろう。

これは、色々とまずい。木から落とされたら、その場で組み伏せられると見て良い。しかもその犬が、全部で五頭もいる。

手を抜いている余裕は無い。

ヤトは、そう判断した。

不意に加速する。あまりやりたくは無かったのだが、全力で動く。敵が、ヤトを見失って、怒号をばらまくのが分かった。

最大速度で移動する場合、気配を消すことが難しくなる。だから、敵の奇襲を受けると、かなりまずい。

呼吸の乱れが、酷くなってくる。

筋肉の負担も、露骨に分かるようになってきた。

ヤトはそれでも走る。程なく、自分の前に敵はいなくなったが。後方からは、犬を先頭に、敵がついてきている。それだけではない。空を旋回している白い鷹が邪魔だ。彼奴はおそらく、ヤトについてきているカラスたちを見ている。

それは、細かい指示を出せない今。

ヤトの居場所を、常に敵に教えるのと、同じ事だ。

完全に手を読まれている。

どうやらあの優男、ヤトを倒すために、相当な準備をしてきた、という事だろう。これは相応の返礼が必要だ。

今回の戦いに関したものではないが、反撃の準備は別の所で既に済ませてある。

いつまでも、手足となる道具を増やしているだけだと思ったら、大間違いだ。

犬が後ろで、五月蠅く吼えている。苛立ちを覚えたので、一頭の頭を射貫いた。手応えが鈍いが、鋭い悲鳴を上げた犬の一頭が飛び上がり、地面に落ちて動かなくなる。これは、急所を外すと、多分骨に弾かれる。

敵、人間は、かなりの距離を稼いだ。

ならば、各個撃破の好機だ。

ヤトはわんわんと五月蠅く吼えている犬たちに、もう一矢。更に一頭を打ち抜く。犬は態勢を低くして唸っている。残り三頭。

矢をつがえようとして。

気付いたのは、偶然。おそらく、ほんのわずかに視界がずれていたら、そのまま射貫かれていただろう。

伏せたヤトは、矢を取り落としてしまった。

木の幹。今まで頭があった高さに、矢が突き刺さって振動している。

そして、視線の先には。

最初刃を交えた、大柄な敵の戦士がいた。もう、次の矢をつがえている様子だ。これはまずい。

何がまずいというのかというと、あの男が此処にいると言うことは。

つまり、ヤトの逃走経路が、全て読まれている事の証左に他ならない。つまり、掌の上で、転がされているに等しい。

次の矢を、軽く首を捻って避ける。

不意で無ければ、こんなものは喰らわない。如何に剛弓といえど、遠矢だ。

だが、問題はそんな事では無い。

幹に突き刺さった矢を引き抜きながら、ヤトは跳ぶ。

この位置はまずい。

おそらく、もう時間は残っていない。それに、ヤトが知っている山なのに、どうしてこうも敵が先を越せるのかが気になる。

考えろ。

考えて、敵の裏を掻け。

自分に言い聞かせる言葉が、むなしく流れる。

 

大陸から取り寄せた犬が二頭、倒された。

しかし、既に夜刀は籠に入ったも当然の位置にまで、誘導されている。後はとどめだ。ツクヨミは立ち上がると、周囲に言う。

「狼煙を」

「分かりました。 直ちに」

これで、とどめだ。

夜刀はおそらく、此方の戦力を引きはがすつもりで動いていただろう。だが、それはそう思い込まされていただけだ。

影の者達に、この近辺の地形は、徹底的に調査させた。

更に奴が使っている動物による斥候は、空にいる鷹が完全に封じている。

なおかつ、人間離れした速度も、訓練された戦闘犬の前には無意味。犬の脚力は、人間の比では無い。夜刀もそうだろうが、逆に言えば。

夜刀でも、容易には振り切れない。

位置を変える。

夜刀が見えた。木の枝を飛び渡りながら、地上を行く以上の速度で、北に逃れている。とんでも無い奴だ。

兵士達が、おびえの声を上げる。

「本当に奴は、天狗なのか……!?」

「天狗だとしても、人の方が強い」

それが、ツクヨミの持論だ。

この世には不思議なことは、あるかも知れない。人間の知識など、所詮はたかが知れたものなのだ。

人間の知恵が及ばない存在がいても、おかしくは無いだろう。

だが。

地上にいる生物で、そんなものはいない。

獅子や象でさえ、人間の群れの前には叶わないのだ。その上を行く生物がいたとしても、結果は同じだろう。

この世は。

人間のものだ。

狼煙が上がると同時に、罠が閉じられる。

今まで闇雲に追っていたと思われる兵士達が、ぱっと散開して、所定の位置についた。既に何度も訓練をした、鉄壁の防御陣だ。兵士達の多くが、長い槍を手にしていて、木の上でも逃げ場は無い。

更に犬たちが、夜刀の居場所を完璧に捕捉している。

犬だけではなく、白鷹もだ。

夜刀が苦手としている河が西に。しかも、川の中には、水練を鍛え抜いた兵士達が、手ぐすね引いて待っている。

北には、姿を露骨に現すことになる、衝立のような崖。

そして東と西には、分厚い兵士達の壁。それだけではない。夜刀は今頃、舌打ちしている事だろう。

タケル将軍が、既に其処まで来ている。

肩の傷はまだ癒えてはいないが、指揮を執る事は出来る。更に言えば、右腕一本だとしても、夜刀が相手に、そうそう遅れは取らない。

終局だ。

後は、徹底的に追い詰めて、弱らせ、捕縛すれば良い。

矢はすぐに尽きる。

ツルギも、一本辺り数人を斬れば、使い物にならなくなる。

夜刀の動きが止まった。どうやら、自分が良いように誘導されたあげく、籠に入ったと気付いたらしい。

奴は知恵のある獣だが。

人間は、その上を行く知恵を持っているのだ。

「じっくり追い詰めて、捕らえなさい」

「ただちに。 指示を出します」

「三刻から、四刻という所でしょうかね……」

今までの動きでも、充分に超人的だが。さらなる底力を見せることも、ツクヨミは想定していた。

少なくとも、敵に上は行かせない。

そういうつもりで、今回の罠を組んだのだ。奴の手札は、完全に封じた。そして、この罠を抜けられたとしても。

いや、その時は、即座に殺すべきだろう。

流石のツクヨミも、タケルが今回協力してくれていることが、どれだけ貴重かはよく分かっている。

それに、元々夜刀が作り上げた構想をいただくつもりであったのだ。最悪の場合、夜刀自身はいらない。惜しいが、それが合理的な判断、というものだ。

ツクヨミは腕組みし、戦況を見守った。兵士達が、槍で夜刀を突き始めた。枝の上を飛び回りながら、夜刀は矢を放って反撃しているが、すぐに矢は尽きる。尽きるまでに十人以上の兵士が倒されたが、それは必要な犠牲だ。

兵士達が、枝そのものを突き始める。

枝と言っても、槍で突かれれば、それなりに傷つく。傷つけば、夜刀が踏んだ時、折れてしまう。

夜刀ほどのものであれば、一目で踏んだらまずい枝は判別がつくだろう。無論落ちてきたら、その場で捕らえることが出来る。そうで無くても、それだけ移動の選択肢を削ぐことになる。

夜刀の機動力は、やがて封じられる。

戦略では勝っているのだ。

後は、戦術でひっくり返される場面を、潰して行けば良い。

地面に落ちてきたら、それで最後だ。犬たちに襲わせる。それでも捕らえられなくても、山越の武人達がいる。

夜刀が、太い枝の上に移動して、其処で止まった。

槍が届かないらしく、兵士達が下で罵声を張り上げているのが分かった。相当に疲弊してきたか。

何かがおかしい。

ツクヨミは、慢心すれば負ける事を知っている。

だからこそに、悟る。

夜刀は、まだ諦めずに、何かを狙っていると見て良い。じっくり攻めるのは当然だが、何かとんでも無い奇策を用意しているのか。

「念のため、哨戒を」

影の者達に命じて、敵の伏兵などを調べさせる。

さて、どうでる。

ツクヨミにとって、戦いは作業だ。実戦指揮をしたこともあるが、楽しいと思った事は、今まで一度も無い。

確実な作業をこなしつつ、勝利に導いていく。

それだけが、ツクヨミの役目である。

実際、戦場では多くの兵士が死んでいくのだ。それを楽しく思うのは、不謹慎だとも、ツクヨミは思っていた。

無論そんな事は口に出さないし、顔にも見せない。

下の者達には、得体が知れない存在として、ツクヨミを怖れさせておくのが一番だからだ。

同僚達にも、それは同じ。

ツクヨミは飽くまでこの国の影。影から、この国を支える者として、生きる覚悟は決めている。

場に、動き。

影の者達が、狼煙を上げてきた。かなり切羽詰まっている。

崖の上、山の民らしき者達、多数。

何か作業をしている。

「作業を止めさせろ」

「ただちに」

雷のような音が轟いたのは、直後のこと。

どうやら、崖にあった岩の一つを、連中が棒を使って外したらしい。それは、致命的な結果を、招いた。

連鎖的に、無数の岩が、崖を転がり落ちる。

包囲をしていた兵士達が、わっと崩れた。

だが、ツクヨミも、そんなときのために、準備はさせていたのだ。

「捕縛用の麻痺毒矢、斉射」

兵士達が、一斉に矢を番え、放つ。

その内数本が、夜刀の体をかすめ、傷つけるのが見えた。それで、充分。

落石が、陣形を滅茶苦茶に乱す。

兵士達が悲鳴を上げた。彼らの位置からは、崖の上が見えないのだから、無理も無いことである。

「天狗のつぶてだ!」

「山神の怒りを買ったんだ!」

兵士達は放っておく。

タケルが混乱を収めてくれるはずだ。実際、派手な岩の音に関わらず、被害はそれほど出ていない。

夜刀はこの機にと、さっと逃げようとするが。

今回浴びせてやった毒は、前回のものとは根本的に違う。

大きな熊などを捕らえるための毒だ。しかも麻痺と言っても、ほとんど仮死状態にまで追い込むものである。

夜刀が包囲を抜ける。

犬たちが激しく吼えて、後を追う。

白鷹が空を旋回して、奴の居場所を此方に告げていたが。此処で、この戦いにおける最大の被害が生じた。

森の中から、ひょうと音を立てて飛んだ矢が、白鷹の左翼を打ち抜いたのである。

鋭い悲鳴を上げた白鷹が、それでも墜落せず、必死に降りていく。側にいた、白鷹の飼い主が、哀れな悲鳴を上げた。

「白鷹! おのれ蛮人っ!」

「流石。 ただではやられませんね」

追撃の手を緩めないよう、ツクヨミは指示。

白鷹を保護すべく、その場を駆けだした渡来人は放っておく。

専門家に任せる方が良いだろう。夜刀の耳目を封じたあの鷹には、大いに使い道がある。今後も役に立ってもらわなければならない。

夜刀が逃げた方角を調べ、犬たちの様子を見ながら、包囲網を再構築させる。

夜刀の動きはかなり速い。

犬たちが、なかなか追いつけないほどだ。

だが、それだけ激しく運動すれば。早く毒が体に回ることも意味している。放っておけば、すぐに動けなくもなる。

犬の悲鳴が、此処まで届いた。

なんと枝から飛び降りざまに、一頭を斬り伏せたらしい。飛び退いた犬たちを尻目に、また木に登る夜刀。

「まるで化け物ですね……」

「いや、自滅するだけですよ。 間もなく、毒が体に回るでしょう。 念のため、もう少し毒を入れておきますか」

夜刀がいる風上に、兵士達を数名廻す。

そしてたき火に、眠りを誘発する毒を混ぜて、焚かせた。

 

ヤトは、まずいと思った。

体中に毒が回り始めている。事前に準備しておいた、落石の罠で包囲網は抜けられたのだが。

今度の毒は、おそらく前回浴びた麻痺毒とは、まるで次元が違うものだ。

瀕死、下手をすると死まで追い込まれるとみて良いだろう。敵は既に引き離しはじめているが、どんどん状況は悪くなっていく。

体の動きが、効かなくなり始めていた。

その上、さっき浴びた煙に、また別種の毒が混じっていたようなのだ。おそらくは、眠りを誘発するものだろう。

偏執的。

いや、徹底的と言うべきか。

勝つためには、手段を選ばない。いや、戦いだからこそ、あらゆる手を尽くして勝ちに行く。

そんな姿勢が、相手からは垣間見える。

正々堂々と戦いに来るタケルとは、まるで別種の相手だ。こんな戦い方があるのかと、必死にがたつく意識を立て直しながら、ヤトは感心さえさせられた。

手足の感覚がなくなってくる。

地面に叩き付けられた事に気付いた。転んだのだ。立ち上がる事には、どうにか成功したが。視界が、狭まってきていた。

これは。

意識が、もう保たない。

敵の気配は、周囲には無い。

犬共は引き離したし、あの大きな鷹も撃ち落とした。

後は、どうにかして、隠れるしか無いが。しかし、下手な隠れ方をしても、絶対に犬に発見される。

如何にこの辺りが庭同然と言っても、ヤト自身が這い回った地域には限りがある。つまり、犬の特性から考えて。

また、地面に叩き付けられていた。

思考が、動いてくれない。

あまりにも力が入らなくて、幼児の頃に戻ったかのようだ。まずい。せっかく稼いだ時間と距離が、これでは零にされる。

遠くから、犬の鳴き声が聞こえてきた。

もう其処まで来たのか。

必死に足を叱咤して、走る。既に周囲の光景は、半分程度しか見えていない。あとはちかちかキラキラして、自分が見ているものとは、とても思えなかった。

もう一つ、敵をたたく罠は用意してある。

さっきの罠が綺麗に填まったのは、僥倖だった。元々、何をしているのか、集落の者達は理解さえしていなかったに違いない。

言われたままに、言われた岩を掘り返して、崖の下に落とす。

その時間を決めておいたから、出来た事だ。それに、木々を傷つけないように、落とす岩には念入りな注意を払っていた。

敵はそれに気付いたらしく、被害を最小限に抑えてきたが。今まで戦って見て、相手の技量を考えると、当然のことだろう。

別に悔しくは無い。

もう一つの罠でも、敵を大きく削る以上の効果はもたらせないだろう。

体の中が、冷たい。

力がそれだけ抜けてきている、という事だ。

敵の追撃は凄まじく、特にあの犬は、時間さえ掛ければ必ず追いついてくる。視界がぐらついている今、どこまで戦えるか。

本能的に鬼をふるって、矢を叩き落とす。

既に、手持ちのツルギは全て尽きた。敵のを奪っている暇も無い。

今、手にしている鬼が最後だ。

追いつかれた。

それについて、悲壮感は無い。ぐらつく思考の中で、今、良い案を思いついたからだ。おあつらえ向きに、体が丁度良い状態になりつつある。

大柄な男が、此方に近づいてくるのが分かった。

体中の入れ墨が、実に強そうだ。

手にしているのは、タケルのものと同じくらい大きい弓。今も、ヤトの心臓に、狙いを定めている。

他には、追いついてきている奴はいないか。

此奴はおそらく、ヤトの退路を予想して、あらかじめ配置されていた奴だろう。ならば、此奴に手間取ることは、他の雑魚どもが寄って来る事を意味する。おそらく狼煙も既にたいている筈だ。

ならば、時間は掛けられない。

放たれた矢を、わずかに立ち位置をずらしてよけ、不意に前に出る。冷静に矢をつがえる男の至近にまで出たヤトが、体ごとひねり上げるようにして、鬼を振るい上げる。顎から頭を割ってやろうと思ったのだが、顔を浅く切るに留まる。

跳躍した勢いのまま、斬り付ける。

一瞬で間を詰められたことに、男は驚愕したようだが。冷静な対応は流石だ。場数の踏み方が違うのだと、一目で分かる。

男が弓を投げ捨て、腰のツルギを抜く。

一合、二合、切り結ぶ。

ヤトの消耗に、男は気付いているはずだ。だが、それでも、果敢に攻めてくるのは。つまり、攻めれば崩せると考えているからか。

舐められたものだ。

手を誤ったな。ヤトは呟くと、一息にツルギを振り抜く。

腹を割いた。

多量の血がぶちまけられるが、筋肉が分厚くて、内臓にまでは到らなかった。跳ねるようにして横っ飛びし、男が振り下ろしたツルギを避ける。距離が開くが、それも一瞬。また間を詰めたヤトが、ツルギを振るう。下ろす。

「シャアッ!」

男は、おそらく悟ったのだろう。死期を。

ヤトを侮ったことを。

だから、叫びを上げて、必死の反撃に出てくる。ヤトはその全てを見切るが、しかし体が重い。

何度かは、鬼で受け止めながら、それでも確実に、敵の傷を増やしていく。

踏み込むが、下がられる。

横に廻った相手が、斬り付けてくる。受け止めるが、さっきより随分重い。

違う。

消耗が、それだけ早いのだ。

気迫を込めて、一撃。袈裟に振り下ろす。

何かを断ち斬った手応え。

気がつくと、相手の左腕が、肘の少し先から落ちていた。血が噴き出す手を押さえながら、相手は何か言っているが、聞き取れない。おそらくは、違う言葉だ。ただ、意図は伝わった。

ヤトは無造作に相手の首を叩き落とすと、身を翻す。

さっきよりも、更に体が重くなっていた。

気がつくと、目の前に河が広がっていた。位置関係を、即座に割り出す。もう少し行くと、洞窟がある。

かなり深い洞窟で、ヤトが見つけた。しかも崖の少し上にあって、見つかりづらい。

どうやら本能的に。逃げ切るために、必要な場所へ、足を運んでいたらしい。途中からは、完全に意図しての行動では無かった。こういうとき、生存本能が表に出てくるのだとしたら。

それは、何だか面白い事実だ。

河を渡ろうとして、思い切り顔面から水に落ちる。水を髪から滴らせながら、己を罵る。それで山神か。奴らが天狗と怖れるか。

追撃してきている犬共を根こそぎにし、兵士共を殺し尽くし、そしてヤマトを焼き尽くすまでは死ねぬ。

森から人間共を全て追い出し、支配を完全なものにするまでは、終われぬ。

自分を励ましながら、歩く。

河を渡りきる。

もう、跳躍して、崖を乗り越えるなどと言うことは無理だ。人間の弱者がやるように、岩場を、少しずつ、確実に上がっていくしか無い。敵の追撃は、確実に背中に迫っている。これ以上は、もたついていられない。

呼吸を整えて、崖を上がる。

何度も、岩を踏み外した。

手が滑って、体ごと、下の河に叩き付けられた。

それでも、ヤトは体を動かす。

いつのまにか、呼吸さえ困難になってきていた。目がかすんで、もう良く前が見えない。だが、もう少し行けば闇がある。そう思うと、元気も出る。

岩に触れると、苔の香りが、充満する。

地面に近いと、腐葉土の臭いが、癒やしてくれる。

ヤトは、森に生きる者。

人間とは、違う。

私は、人間などとは、違う。

そう言い聞かせ、進む。奴らは森を喰らうだけの化け物。私はおなじ化け物でも、森と共に生きる化け物だ。

洞窟に、足を踏み入れた。

ちいちいと蝙蝠が鳴いている。手を閃かせたのは、一匹捕らえたからだ。悪いが、血肉にさせてもらうぞ。そう言うと、口にそのまま運んで、貪る。普通の人間だったら腹をこわすだろうが、ヤトは平気だ。

数匹を喰らうと、奥へ。

静かな闇の中へ、足を運ぼうとして。

其処で、ヤトは倒れた。

もう、体が動かない。立ち上がろうとして、それもなしえなかった。

此処までか。

いや、此処で終わるものか。

必死に体を起こして、岩を背中に。呼吸を整える。どうやら、追撃の人間共に、追いつかれたらしかった。

人間が、見える。

あの、弱々しい奴だ。

「どうやら、私の勝ちのようですね。 夜刀の神」

「……ツクヨミ、と言った、な」

「ええ。 私がツクヨミです。 捕らえよ」

男が、左右に命令するのが分かった。此方に来るのは、おそらく相当な手練れだろう。だが。

ヤトは無言で、自分を掴んだ男の腕を掴み返すと。そのまま、肉を握りつぶした。

ぎゃっと悲鳴を上げて、男が飛び退く。もう一人が、慌てて槍を此方に向けるが、鼻で笑う。

やれるものなら、やってみろ。

怯えて飛び回る蝙蝠達の下で、腕の肉を潰してやった男は、転げ回っている。痛い痛いと、無様な悲鳴を上げながら。

「さすがは夜刀の神。 其処まで痛めつけても、なおもそれだけの剛力を発揮しますか」

「私は、何人、今日、殺した」

「百二十六人。 更に、このときのために取り寄せた、貴重な犬を五頭。 一騎当千という言葉がありますが、まさに貴方はそれですね」

「……そうか」

たった、その程度か。

ヤトの意識は、その時点で途切れた。

 

2、薄明の世界

 

捕らえた夜刀を、どうにか板の上に載せて、運んできた。そして檻車の中に入れる。この檻は、虎でも破れないと、渡来人の墨付きだ。ようやくそれで、安心することが出来た。というのも、無意識でも夜刀は動く。完全に気絶したのを見計らって縛ろうとしたのだが、それで肉を掴み潰された兵士が三人も出たのだ。

板の上に縛り付け、更に檻に入れるという、厳重極まりない状況。

タケルは、ようやく捕らえた猛獣を見て、大きく嘆息した。

一匹の猛獣を倒すために、どれだけの被害が出たことか。この猛獣は人間の形をして、知恵を備えてはいたが。だからといって、この犠牲は大きすぎる。

ツクヨミの策は見事だった。

実際、夜刀の体力を徹底的に絞り尽くし、毒で身動きを封じ、そして退路も完全に潰した。

そして今は、板に縛り付けた上で檻にまで入れることに成功したのだ。

「まずは駐屯地まで運びましょう。 それから、少しずつ会話をして、利害の到着点を探します」

「好きにせい。 ただし、無理だと判断した場合は、私が即座に殺す」

「ご随意に」

ツクヨミは、余程夜刀を説得する自信があるのだろう。

利害関係で、あの化け物をどうにか出来るとは、タケルには思えない。まさか、この国の森と山を全部くれてやるとか言うつもりではあるまいか。

残念ながら、まだこの国の耕作地は著しく足りない。

多くの人口を安定して養えなければ大陸の侵攻に耐えられないし、当然のことながら、自立も難しくなる。

ツクヨミが語った、国家戦略については、タケルも頷ける部分が確かにあるのだが。あまりにも、絵空事が過ぎるように思えてならないのだ。

兵士達は、夜刀を見て、完全に怯えきってしまっている。

それはそうだ。

普通の人間だったら、掠っただけでも昏倒するような、強烈な麻痺毒をもらってもなお無双の暴れぶりを見せたのだ。今日だけで百人以上の兵士達が、この怪物の矢に倒れた。大陸から連れて来た武人も、その中には含まれていた。通常、人間では勝ち得ない戦闘犬さえ、五頭も倒された。

タケルが鍛えた精鋭達だ。自分たちの実力がどれほどかは、正確に理解している。

実際問題、渡来人達さえ、大陸の精鋭部隊と充分以上に渡り合えるとまで評価しているほどの力があるのに。

この怪物の前では、どうにもならない部分も多かった。

発作的に、殺したくなる。

だが、此処はツクヨミの顔を立てなければならない。事実、ツクヨミはその知力を総動員して、夜刀を捕らえることに成功したのだから。

一つ気になることはあるが、それは今はいい。

「総員撤退! 周囲からの奇襲には警戒を緩めるな!」

兵士達を展開させる。

周囲は山深く、どこから敵が現れるか分からない。夜刀の配下は数百に達していることがほぼ確実で、奪回に向けて動いてくる可能性もある。

ツクヨミはその可能性は低いだろうと言った。

夜刀は恐怖で周囲を支配している可能性が高いからだという。夜刀が捕らえられれば、部下達は四散してしまうというのだ。

本当に、そうだろうか。

タケルは虐待された子供を見た事があるが、親の暴力から救っても、決して嬉しそうにはしない事も多いのだ。

恐怖による支配は、心を壊す。

今のところタケルは、夜刀の配下には接したことが無いが。本当に、ツクヨミが言うように、支配は「死」で消えるのだろうか。そうは思えない。

ツクヨミは知恵者だ。今回の一件で、タケルもある程度、その手腕は見直した。しかし、人間の心は、複雑怪奇。

如何にツクヨミでも、簡単に分析できるものではない。

部隊が動き出す。

洞窟から夜刀を引っ張り出すのにも、時間が掛かった。ましてや近辺には、千を軽く超える兵士達が集結しているのだ。

倒された兵士達の埋葬もしなければならない。

山に跋扈する邪悪な天狗を退治するためといっても、兵士達の気は重いだろう。武勲をたてても、得られるものもない。ましてや、その天狗が実在で、しかも化け物の名に恥じない戦闘力を見せつけたのだから。

紀伊に戻ったら、兵士達をねぎらってやらなければならないだろう。

タケルは吊ったままの腕を一瞥だけすると、撤退する兵士達を見つめる。酒がいいか肉がいいか。

だが、すぐに思考を翻す。

嫌な予感が、消えないからだ。

すぐに予感は、現実のものとなった。激しい揺れが、辺りを襲いはじめたのである。地震か。

違う。

「山崩れだ! 逃げよ!」

悲鳴を上げた兵士達が、叫ぶ。

天狗の祟りだと。

山神の怒りだと、頭を抱えて嘆くものまでいた。

そんな事はあり得ないのに。今は、とにかく逃げるしか無い。この凄まじい揺れ、どれほどの規模の山崩れだというのか。

すぐに、それが見えてきた。

真っ黒に濁った土砂が、河を覆いながら迫ってくる。この辺りの河には、くろがね山から流れ込んだ毒のある水が入り込んでいて、魚もいない。おぞましいまでの黒さで、土砂が迫ってくる。

兵士達が悲鳴を上げながら散る。

タケルは冷静にそれが、一種の氾濫だと悟ったが、まずは逃げる方向を示すしかなかった。

どっと、流れが河を覆う。

製鉄の毒を一身に浴びた河が、土砂によって洗い流されていく。

凄まじい異臭がするのは、何故だろう。川の底に沈んでいた毒が、流されているからだろうか。

振り返る。

夜刀を入れていた檻車はない。

ツクヨミが何か叫んでいるが、土砂に分断されて、そちらまではいけない。兵士達も、逃げ遅れると土砂に飲まれる。だから全員が、必死に逃げ惑っていた。

どっと、泥水を浴びる。

馬を全力で駆けさせているが、それでも足りない。タケルは髪を振り乱しながら、必死に駆けた。

崖が見えてきた。

「あの上に上がれ! 助かるぞ!」

馬術の限りを尽くして、崖の上に。兵士達も、それに倣って、崖を這い上がった。崖の上に逃れたタケルは、振り返る。

そして驚かされた。

思ったほど、土砂の規模はたいした事が無い。河は泥に濁っているが、それ以上でも以下でも無い。

兵士達も、土砂に飲まれた者は、もがいているが、助かっている。

本当の水害であれば、こんな程度では済まないだろう。

あまりにも強烈だった初撃と、それに音が、兵士達を怖れさせた。そして、タケルさえも飲まれた。

まさか、これは。

夜刀が準備していたのか。

大陸では、嚢砂の計とか言うはずだ。実際に、戦闘で使われた記録もあるらしい。ならば、敵が使って来ても、おかしくは無い。

森を痛めるのではと思ったが、くろがね山からの毒に汚染された川を洗い流したとすれば。

奴の行動原理にもあっている。

そして最悪なのは。

不慣れな山の中で、兵士達が、散り散りになっているという事だ。

「すぐに集結せよ! 被害の報告だ!」

「無事なものは狼煙を上げよ! 怪我をしているものを助けよ! とにかく、孤立するな!」

声を掛け合って、少しずつ集まる。

ばらばらになってしまった時の訓練も、してある。数刻もした頃には、兵士達はタケルの周囲に、殆どが集まってきていた。

被害は出たが、初撃の土砂に飲まれたり、川に流されたりした十数名ほど。思っていたほどの損害では無い。

けが人も相応にいたが、どうにか助かる傷の者が多かった。

タケルは戦慄する。

夜刀は、森の中で生きているだけではない。森を、自在に操れるようになりはじめているのか。

包囲を抜けた時の、崖崩れもそうだった。

あれは超自然の現象では無い。何をすれば何が起きるかと言うことを理解した上での、論理的な戦術だ。

「ツクヨミは!」

「現在、捜索中です!」

「くそっ!」

おそらく、檻車を確保しようとして、はぐれたのだろう。

タケルは見た。土砂が、檻車を直撃する様子を。あの様子だと、あるとしても下流だろうし、何より夜刀が無事でいるとは思えない。意識が無い状態で、あの土砂に流されたのだ。

もし、あれで生きているとしたら。

最悪なのは、兵士達が土砂に飲まれる夜刀を見ていることだ。兵士達は、もう怖れて、夜刀が現れても戦おうとしないだろう。

死んでいる。

そうに決まっている。

言い聞かせる。恐怖からでは無い。困惑からだ。

タケルも、夜刀が森そのものだと思えるようになり始めていた。そんなはずはあり得ないのに。

如何に超絶的な存在だと言っても、奴は人間だ。

人間なのだ。

ツクヨミが見つかったのは、夕刻近くだった。

奴は放心しきっていて、タケルを見ると取り乱した。そして、顔をくしゃくしゃにした。作戦を失敗したことが、よほどに衝撃だったのだろう。

「しゃんとせい!」

「タケル、将軍」

「奴は川に流された。 あれでは無事でいられないだろう。 山の者達を取り込むそなたの策自体にも、問題は無い。 戦場で想定外の事態が起きるのは、日常茶飯事だ。 心を強く持て」

「……」

うなだれた様子のツクヨミを立たせると、すぐに撤退に取りかかる。

二百近い兵士を失ったが、夜刀の無力化には成功した。死を確認は出来ていないが、その存在は葬った。その筈だ。

もし生きていたとしても、無事でいられるはずが無い。

無事だったとしたら。

奴は既に、人間と呼ぶには相応しくない存在だ。

 

集結した部隊を、平野に展開。

タケルは、損害を報告させた。

最終的な損害は、二百六。最後の嚢砂の計による損害よりも、助からなかった負傷者の方が多かった。

また、川下も確認させる。あまり遠くまでは兵を出せなかったが、とりあえず近場だけでいい。というのも、あの氾濫の規模では、下流では打撃を受けることも無いだろうからだ。今はとりあえずの確認だけをしておきたかった。

幾つかの、川沿いの村で打撃を受けていた。ただし、それらの川では、少し前から原因不明の病が流行っていたとかで、河からは離れる傾向が強かったという。勿論、夜刀の姿を見た村人はいなかった。

部隊の再編成を済ませると、粛々と帰還の途につく。

動員した兵力は千五百を越えたが、損害が一割に達した時点で、褒められる戦いでは無かった。

特にツクヨミの消沈ぶりは、気の毒なほどである。

慰めようとは思わない。

ツクヨミは、夜刀を捕縛するのに成功したのだ。今まで、誰もなしえなかったことだった。

それを達成したのである。どうして責める事があろうか。

消耗した以上の成果が上がったかというと疑念は残る。だが、敵を沈黙させたのも、また事実。

馬を寄せる。

とぼとぼと、黒毛の馬に跨がって歩を進めているツクヨミは、どんよりとした目でタケルを見上げた。

「タケル将軍……大言を放ちながら、申し訳ございません」

「お前は出来るだけのことをした。 夜刀を捕縛して、連れてくることが出来なかったのは残念だが。 捕縛するところまではいったし、逃げられる事も無かった。 戦略は成功させたでは無いか」

「しかし……」

「今は、予定通り、影の者達を手配し、山に散っている者どもの情報網を掌握する事に尽力せよ。 万が一もないだろうが、もしも夜刀が生きていたら、その時はその時だ」

というよりも、だ。

もしも奴が生きていたら、もはや人間ではどうにも出来ない可能性が高い。

正真正銘の化け物である。

タケルも、肉を握りつぶされた兵士達の傷を見たが。あれは、タケルでも出来ない。人間の握力を完全に越えている。

もしもその気になったら、奴は人間を素手で引き裂ける筈だ。

完全に人間の域を超えてしまっている。

だからこそに、高確率で殺せた今回は、戦果があったのだと。タケルは自分に言い聞かせていた。

「もしも、だ。 夜刀が生きていたとして。 あの毒から復帰するまで、どれほど掛かると思うか」

「あり得ない話です! そもそも、致死量の毒を受けていながら、あれほどの距離を逃げ、無意識でも反撃してきたような輩です! 時間を掛けて利害関係を調整して、どうにか手なづける筈だったのですが……」

「話をそらすな。 聡明なお前らしくも無い」

「……もしもあの状態から回復するとしたら、ですか。 相手が本物の天狗、いや山神であったとしても、数ヶ月。 最低でも、一月以上は、身動きが取れないでしょう」

それならば、充分だ。

紀伊の地固めは終わっている。都周辺の土地を徹底的に地固めして、朝廷の力を盤石にしておくべきだろう。

それがなってから、東北に出向けばいい。

まずは伊賀だ。

伊賀は紀伊に比べて人口も少ない。土地の起伏は紀伊以上だが、それでも安定させるのに、さほど時間は掛からないだろう。

安定したところで、駐屯する兵士達の比重を変える。

紀伊に戻った後、タケルは温泉に入った。風呂では無く温泉にしたのは、傷を早く癒やしたいからである。山間に、傷に良く効くという温泉があるのだ。出向いたタケルを出迎えたのは、黄色く濁った不思議な湯。臭いも酷かったが。地元では、猿も入るほど有名な湯だという。

実際に入ってみると、確かに体の芯から温まる。

じっくりとくつろぎながら、タケルはこれからの戦略について、再度整理した。

紀伊は、あと一週間も固めれば充分だろう。

部下の指揮官を何名か、置いていく。代わりに有望な紀伊出身の兵士を、何名か指揮官候補として連れて行く。

同じ事を伊賀でもするつもりだ。

問題は、夜刀が生きていた場合だ。あの状態で生きている事は考えにくいが。もしも生きていたら、どうするべきか。

しばらく、温泉の中で、沈思黙考する。

タケルにとって、あの化け物は、既に宿敵となりつつある。だがおそらく、もう戦う機会は無いだろう。

伊賀の治安安定を終えたら、タケルは東北に向かう可能性が高い。

本当は四国や九州にも足を運びたいのだが、武王がそれを許さないだろう。東北では、事実敵との戦いが膠着に陥っているのだ。

あまり知られていないが、東北は土地が豊かで、米の産出量が多い。あの地域を制圧できれば、朝廷は更に大きな力を得ることになる。

逆に言えば、もしも此処で前線を食い破れなければ、どうなるか。

大陸の戦力は圧倒的だ。人口も数百万と、このアキツを遙かに凌ぐ。しかも大陸はいわゆる漢だけではない。更に広大だという。

アキツを守るためには。

まだまだ人間の数と技術、それに力が必要だ。

蹂躙された島国は、いくらでもあるという。そういった国では、民が奴隷にされ、物資は奪われ、我が物顔に振る舞う大国の人間になすすべが無いと言う。

そのような状況、認めるわけにはいかない。

温泉を上がると、タケルは案内されるまま、小さな舎に入った。

温泉を管理している者によると、此処は温泉の熱がしみ出しているとかで、確かに床が暖かい。

寝転んでみると、非常に心地が良かった。

置いた管理者は、猿のような小柄な老人だが、人が良さそうな笑みを浮かべる。

「タケル将軍の腕も、すぐによくなりますよ」

「そうありたいものだ」

兵士達も何名か、横になって眠っている。タケルも横になると、目を閉じた。

今は、不安なことは忘れてしまおう。

力を取り戻しておく。

この世では、最悪のことほど起きるものだ。最悪に最悪を重ねた事態を想定しても、まだ足りない事も少なくない。

だから、今は力を蓄える。

考えて見れば、ずっと戦い続けてきたのだから。

タケルは幼い頃、どこで生まれたかも分からない環境で、流浪しながら生きていた。畿内に落ち着いた頃も、朝廷の力はまだまだ弱く、とてもではないが覇権と呼べるものは存在しなかった。

当時の西のタケルがクマソを討ち取り、スサノオと呼ばれた北のタケルがオロチを征服した。そして、いよいよナガスネヒコとの戦いだというときに。タケルは、成人した。

混乱の中で生きてきたタケルは、どれだけそれが地獄に等しいか、よく知っている。父は早く戦場で死に、母は生きるために、乱暴なだけの男に再嫁した。よくあることだが、その男は母の連れ子であるタケルを、愛することはしなかった。別の男の子など、邪魔なだけだったのだろう。

幼い妹を守るために、タケルは必死に働いた。

外を走り回って、田の畦にいる蛙やバッタ、それに茂みにいる蛇など、口に入れられるものは何でも食べた。

そして、気がついた時には、父より背も伸び、力も強くなっていた。

母に暴力を振るう父を殴り倒した時。力関係は逆転した。妹が操を狙われることも、その日以来無くなった。

初陣は十五のとき。

ナガスネヒコの配下である豪族と戦って、タケルは初陣で四つの首を上げて、大いに報償された。

とんとん拍子で出世していき、母と妹を養うに充分な屋敷を手に入れた頃。

ナガスネヒコと、朝廷の本格的な激突が始まった。

目を覚ます。

ナガスネヒコはもう死んだのだ。

おそらく、朝廷にとって最大の敵であった存在。武勇優れ、人格もまた優れていた。タケルは戦場ばかりにいて、母の死を看取れず、妹の婚姻に出る事も出来なかった。今では、妹とは、殆ど顔もあわせない。妹もタケルを恨んでいるだろう。家に殆どいなかった長。妹の孫が、この間生まれたと聞いたが。

顔を見せて貰えるとは、思えなかった。

横になっていると、暖かい床のためか、すぐに眠くなる。起きては肉を食べ、そして眠って。

タケルは業が深いなと思いつつも。

次の戦いに備えて、力を取り戻す作業に、専念し続けた。

 

3、蛇神起きゆ

 

目が覚める。

どうやら拘束されたらしいことは分かっていた。ゆっくり呼吸をする。口の中が苦い。泥と、血の味だ。

ぺっと吐き捨てるが、それがすぐ口の側に当たった。

ゆっくり、視界が広がっていく。周囲の状況が、明らかになって行く。

何が起きたのかも、何となく分かりはじめた。

準備していたものが、どうやらヤトを押し流したらしい。あの鉄を作る山から出ていた毒を、根こそぎにしようと、集落のものどもに命じて、川の上流をせき止めさせていた。その石の一つを抜かせたのだ。

仮死状態になれば、むしろ好都合。

自然に土砂に流され、埋まっても長時間生き抜ける可能性が高い。もっとも、どちらにしても、可能性は極小。

あの時、ヤトは。

既に自分が負ける寸前であり、命を極小の可能性に賭けてしまっていたことになる。それを悔やんでも、今更仕方が無かった。

自分がどうなっているのか、まずは確かめなければならない。

縄で板にくくりつけられているようだ。そういえば、おぼろげな記憶の中で、何か握りつぶしたように思える。

あれは多分、兵士の腕だ。自分を触った時点で、反撃して握り千切ったのだろう。

それで、縛るのは諦めたのか。

確かにヤトは、最近無意識のまま、行動できるようになっている。蚊に刺されそうになっても、無意識で握りつぶしているからか、朝起きると掌が蚊の死体だらけ、ということもある。

ゆっくり、顔を動かす。

体は半分水に浸かっている。顔が浸かっていないだけでもマシか。

毒は。

まだ抜けていない。力も、あまり出ない。

ヤトはまだ、川の中に半ば水没しているといっていい。息が出来るだけで、このままではあまり状況が良いとは言えない。まずは、板から抜け出ないとならないだろう。

無言のまま、板に力を入れていく。

あまり力は出ないが、それでもどうにかなる。わずかに隙間が空いてきたので、零距離から肘を動かして、直接打撃を叩き込む。一度、二度、三度。ガツンという音が、少しずつ大きくなった。

ひびが入ったのが分かった。

もう一度。

呼吸を整えながら、更に一撃。

かなり頑丈な板だ。ヤトを捕らえるために、ツクヨミというあの男、相当な準備をしていたと言うことだ。

それでも、この板なら、割れる。

もう一度、二度。罅が徐々に拡大していくが。おなかの皮が罅に挟まってちょっと痛い。ひりひりするのだが、我慢する。

更に、一撃。

板が、割れた。同時に縄が緩むので、体をもぞもぞと動かして、少しずつ戒めから抜け出す。

縄は縦横に体を拘束していたが、板が割れたことで、それも全て緩んだ。抜け出すのは、難しくない。

そう思ったのだが、どうやら簡単にはいかないらしい。もぞもぞと動いていくと、顔がジャリに当たった。河原にいるらしいのだが、とにかく周囲が見えない。しかも板がかなり堅いので、顔をジャリに押しつけながら、もぞもぞするしかない。

しばらく悪戦苦闘し、顔をジャリだらけにしながらも、どうにか抜け出た。肩が抜けてしまえば、後は楽だが。服がズルズルになってしまったので、ちょっと何というか、面倒くさい。

まずは立ち上がろうとしたが。

体の中にある麻痺毒が、そうはさせてくれない。しばらくはゆっくり動くしか無さそうだ。

此処は。

見覚えがある。かなりの下流だ。

位置も即座に特定。見上げた先に、縄張りにしている山の一つがある。体がどうなっているか、少しずつ確認。

指は全部無事。

体中傷だらけだが、持って行かれている部品は無い。左手の中指と小指の爪が剥げ掛かっていたので、その場でむしって取ってしまう。痛いけれど、取れかけを付けておく方がもっと体に良くない。

顔を河に映す。

泥まみれだ。服も。

よろよろと歩きながら、まずは森の中に。

ふと顔を上げると、人間と目があった。どうやら兵士では無いらしい。無言で通り過ぎようとするが、相手は声を掛けてきた。

「あんた、そんな怪我。 いったいなにがあったんだ」

ヤトと同じくらいの年に見える女だが、子供を産んでいるようには見えない。ミコでも無いのに子供を産んでいない女とは。まだ若いのに、もったいないことだ。

ヤトが無視して通り過ぎようとすると、ついてきて声を掛けてくる。面倒な奴だ。首でもへし折ってやるか。

「無理するな! 怪我、見せてみろ、手当てしてやる」

「不要。 自分で見る」

「そんなふらふらで何言ってる! この間、天狗様が起こした氾濫に巻き込まれたのか、そうなんだな?」

自分がその天狗だと言ったら、此奴はどんな顔をするのだろう。

しかし、天狗の噂は、こんな所まで広がっているのか。山神だと言っているのだが、多分此奴らには、天狗の方が通りが良いのだろう。

腕を引っ張られる。

振り払おうと思ったが、思ったより力が出ない。そのまま、ずるずる引きずられていく。

「何をする」

「いいから」

川岸の小さな小屋に引っ張り込まれた。敵意は無いにしても、随分と強引な奴がいたものだ。さっき板を抜けるのに力尽きたからか、肉をちぎってやる力も出ない。

どうやら、一人で暮らしているらしい。

田畑もあるようだが、ごく小さい。見た目それほど容姿がおとっているようには見えないが、どうして一人暮らしなのか。

まずは体を洗いたいのだが、寝てろと言われて、そのまま外に女は行ってしまった。迷惑極まりない。

布と土器があった。中には水を入れていたので、勝手に体を拭かせてもらう。問題は衣服だ。

絹製の服はもうずたずたで、着られたものではないが、裸でいるのも面倒だ。服を着直して、うんざりする。体を拭かない方が良かったかも知れない。

外に出て行こうかとも思ったが、先に傷を確認しておく。

奴が敵の可能性もある。だが、それは低いだろう。そうだったら、出会い頭にずぶりと来るはずだ。油断させておいて、ずぶりという可能性もある。

嘆息しながら、状態を少しずつ確認。

女が戻ってきた。野草を山ほど抱えている。

「飯にする。 ほら、寝た寝た」

「何だか分からないが、どうして私に世話をする」

「困った時にはお互い様だ。 ましてあんたはけが人じゃ無いか」

「人、ね」

ため息が漏れたが、今は少しでも力を蓄えたい。

それに、此奴が一人でいる理由が何となく分かった。この性格が問題なのではあるまいか。いや、いくら何でもそれは無いかと思い直す。そのような事で、子供を産まない女がいるとはおもえない。

ヤトのようにミコだったり、或いは子供を産まない事情があるのなら兎も角。ツチグモの生活環境では、考えられない事だ。

まあ、ヤトには、あまり農耕民の事は分からない。

しばらく横になっている。地べたに耳をつけていれば、周囲の音も把握できる。人間が来れば、分かる。

タケルと戦った地点から、かなり離れている場所にまで流されていた。

気絶していたのは、様々な情報から総合して、おそらく一日から一日半。であれば、まだ追撃の兵は来ない。記憶の隅に、ツクヨミの声が残っている。100人以上は最低でも斬った。

その上、あの土砂である。

敵には追撃する余裕など、残されていないはずだ。

寝ていると、暖かい食い物を出してきた。汁物で、肉が殆ど入っていない。塩気も、あまり無かった。

「まずいだろ。 だけど、薬草がたんとはいっとる。 きっと体にいいぞ」

無言でヤトは口に掻き込んだ。今は、どんなものでも、腹に入れておきたかった。

 

寝ころんでいるうちに気付いたが。

女はどうやら、男と暮らしていた形跡がある。しかし、今は男もいないようだった。

確かこの間鵯に聞いたのだが。農耕民の中では、子供を産めない女を、石女と呼ぶのだそうだ。そして、最悪の差別をされる。

ツチグモでは、子が産めない女は、育てること専門に廻る。

そうすることで、むしろ多くの子を育て上げることが出来るようにもなる。実際、子供をたくさん産む女が、育てるのが上手いかというと、そうでもないのだ。そうやってたくさん子を育てたハハは尊敬される。子供を自分で産まなかったとしても、だ。

おそらくは、無駄を作らない仕組みが、此処には無い。その無駄に填まってしまった人間は、こうしてはじき出されてしまうのだろう。

哀れにも思えたが。

だが、侵略者に同情しても、仕方が無い。そう、ヤトは割り切った。

いずれにしても、あまり長居は出来ない。

敵も下流を探索するはずだ。数日以内には、追っ手も来るだろう。

女は既に寝こけている。ヤトを疑ってもいない様子で、正直な話頭が痛い。

いっそ、此奴を殺して、口を封じるか。

いや、止めておこう。

ヤトとしても、一応恩義や礼儀に対しては、報いようとは思う。しばらく観察したが、この女が物好きにも、ヤトを本気で助けていたことは、明らかだった。

体は、もうある程度動くようにはなっている。

まだ本調子では無いが、多少の事は大丈夫だろう。

無言で、寝床を抜け出す。

女は眠っていて気付かなかった。数食と、寝床の確保。地力で出来た事だが、それを提供してくれた礼くらいはしなければならない。

ヤトは山に入ると。

目があった兎に飛びつき、首をへし折った。

兎が逃げるより速く動く事くらいは、今の状態でも出来る。走り出されると追いつくのは難しいが、反応する前に飛びつけば、こんなものだ。

そうやって、四匹兎を締めると。

女の家に置いていった。

そういえば、名前を聞くことも無かった。だが、ヤトは忘れないようにしようと思った。まさか、農耕民にも、こんな奴がいたとは。価値観が根本的に違うと思っていたし、山を食い荒らすだけだと考えていたのだが。

森の中に入ると、土の臭いが、ヤトを落ち着かせてくれる。

深呼吸すると、真っ暗な空を見上げた。

ヤトは傷ついたが、生き延びた。

だが、これは良い機会かも知れない。此処から、戦略を、いよいよ稼働させる。人数は近々四百を超えると試算が出ている。

この人数を上手く使えば。

ヤトは。この島を、裏側から支配できるのだ。

いずれにしても、もうヤトは、表に姿を見せなくても良いかも知れない。限られた人間だけに、姿を見せて。それ以外の者には、天狗か何かと思わせておいた方が良いだろう。今後、山で移動しながら生活する人間は更に増やす。この人数が千を超え、二千を超え、万を越えた頃。

このアキツの島は、裏にもう一つの国を抱えることになるのだ。

ようやく、自分の縄張りの山に辿り着く。

確保しておいた横穴に入ると、干し肉を口に入れた。少しずつでも、回復していかなければならない。

毒が体から抜けきっていない今。

無理をする事は出来なかった。

翌日の朝になってから、鵯の所に向かう。今のヤトでは、辿り着くまで、三日はかかるだろう。

しかし、これだけはやっておかなければならない。

ツクヨミはおそらく、攻勢に出てくる。

それを事前に潰さなければならないのだ。

まだ足下はおぼつかないが。この辺りの山は、全て覚えている。路を行くことは、造作も無かった。

 

4、蛇神は死せず

 

月が美しい夜だ。

子供達を先に寝かせる。女達も、作業が終わった順に、休ませていた。男達も眠った後、鵯は肩を自分で叩きながら、作業に入る。

鵯は、たき火の前に座ると。夜刀から渡された絹の服を一度ばらし、それから縫い直していた。

無心に針を動かす。

糸を通していく。

鉄の針では無いが、既に使い慣れたものだ。これくらいの針作業は、難しいとは感じない。

むしろ、こういう作業は好きだ。

子供達に木綿で服を作ってやるのは、無上の喜び。他の女達にも、やり方は教えている。夜刀は子供を作れとしか、役目が無い女に言わない。しかし、娯楽や余裕が如何に重要かは、鵯が知っている。だから、女達には、縫い物や、子供に教える遊びを伝授していた。それらを学ぶ時、女達はとても嬉しそうにする。鵯には、無上の喜びだった。

千里とその部下達も、最初は鵯を侮る雰囲気があったが。美味しい料理について教えているうちに、考えを変えた様子だ。今では、鵯を侮る者はいない。生意気な新入りは、自分が率先して躾けてくれるほどだ。

針を動かし続ける。

完全にただの布きれになった服を、少しずつ形にして行く。夜刀の体の大きさは分かっている。時々調整しながら、針を動かして、形を固定する。

凄まじい戦いの果てに、夜刀が姿を消したことは知っていた。死んだのでは無いかと、千里は願望混じりの言葉を呟いていたが。どうにもそうとは思えなかった。

鵯が見たところ、既に夜刀は人では無い。

おそらく、生物的には人の部類に入るはずだ。だが、彼女は多分自分でも気付いていないだろう。

髪が全く伸びる気配が無い。

傷の治りが、異常に速い。

身体能力も、人間の領域を越えてしまっている。技量的に達人の域であろう存在達と、互角以上に渡り合えるのも、天性の勘以上に、そのあまりにもおかしな身体能力が原因だ。

鵯もこのアキツを渡って来たから、知っている。

ツチグモと言っても、身体能力が人間以上、という事は無い。確かに農耕民よりは平均してずっと高いが、それ以上でも以下でも無い。

今の夜刀は違う。

弓矢の精度にしても、非常におかしいところまで行ってしまっている。だから、弱き民達は、夜刀を本気で山神だと信じている。

或いは、本当に。

もし神という存在がいたとしたら。夜刀のように、何かしらの理由で、人を抜け出てしまった者なのかも知れない。

おそらく夜刀は死んでいないだろう。

千里には、そう返した。

千里もそう言われると、返す言葉がないようで、黙り込んだのだった。

夜刀にはまだ言っていないが、少し前に情報を掴んだ。タケルが伊賀に出向くらしい。伊賀は紀伊ほどではないにしても、相当な荒れた土地。地固めには、相応の時間が掛かるだろう。

紀伊はもう隙も無く、引っかき回すのは無理だと、千里も言っていた。

戦略的には、タケルは決して負けていないのだ。

戦術的に夜刀から打撃を受けても、実際にこのアキツは盤石を増すばかり。やがて、タケルが以前言っていたと夜刀から聞いたが。このアキツは、日本国と名前を変えて、大陸の手を借りずともたてる存在になるのだろう。

手を止めず、絹の服を縫う。

夜刀が殺した汚職官吏から剥ぎ取った服だ。これに、以前から手元においていた絹の生地をあわせる。

白地に、朱を所々入れた、美しい服に、仕上がる予定だ。

夜刀には似合うだろう。

そういえば、夜刀の顔にある鮮烈な火傷跡は、どうして消えないのだろう。他の傷は、どれもすぐに治るのに。

何か、理由があるのかも知れない。

手を止めたのは、気付いたからだ。

目の前に、いつのまにか夜刀が立っていた。

「今、戻った」

「やはり生きていましたか。 手酷くやられましたね」

「だが奴らを百人以上斬った。 いや、二百を越えているかもしれないな」

土砂による押し流しに加え、傷を付けた兵士の死もあるだろう。そう、嬉しそうに夜刀は言った。

夜刀は鵯の前に腰を下ろす。

服はぼろぼろ。

そして、体中の傷は。恐ろしい事に、既に治り始めていた。夜刀は気付いていないようだが、これだけの傷を同時に受けて、土砂の中を流されたのだ。幸運など関係無く、まず普通は助からない。

助かる確率は、零だ。

その場で死ななくても、あの恐ろしい破傷風などに掛かってしまうだろう。

「戦いの際に、毒をたくさんもらってな。 まだ身動きがあまり出来ぬが。 それでも、此処まで来るくらいは問題が無い」

「今、お召し物を作っています」

「そうか。 あまり興味は無いが、もらっておこう。 この服は泥まみれになってしまってな。 洗ってももう駄目だろう。 早めに服を作ってくれ」

千里を呼んでおくようにと言うと、夜刀はたき火に捕まえたらしい兎をかざした。一旦炙ってから、本格的に火を通すのだ。

腰には大事だというツルギの「鬼」をぶら下げていたが。弓は見当たらない。

まさか、手づかみで、捕まえたのか。

「その兎は、どうしたのです」

「素手で捕まえた。 何、動く前に此方が動けば、造作も無い」

「理論上はそうでしょうが」

「お前も鍛えれば出来るようになる」

なるわけがない。

そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。夜刀はもう、既に常識という点でも、人間からは外れはじめていた。

ましてや今回、また死線をくぐったのだとすると。

更に強くなるかも知れない。

おそらくそれは、さらなる人間からの脱却を意味する。最悪の場合、このまま年を取らず、永遠に森の中をさまよう怪物となるかも知れなかった。

それは、本人にとって、幸せなことなのだろうか。

夜刀が人間の幸せなど、喜ぶとは思えない。

子供を作ることにも産むことにも興味が無いようだし、戦いで敵を殺す事が好きかと言われて、そうとは感じない。森のことは非常に愛しているようだが、それは決して人間的な感情では無い。

むしろ人間だったら、森を怖れるはずだ。

焼けた兎の腹を割くと、内臓だけを出して、その辺りの地面に埋める夜刀。

そして肉汁が零れる兎を、頭から囓りはじめた。骨ごとである。ばりばり、むしゃむしゃと、凄い音が鵯の所まで来る。

戦慄する。

この人は、その気になれば。

もう、人を頭から囓って、丸ごと平らげることが、出来るのでは無いのか。

まさに山神。

嘘は、真になろうとしている。

「小さな獣は、骨も柔らかい。 骨にも栄養があるし、食べると体にもいいぞ」

「遠慮しておきます」

「そうか。 しばらく私は近辺にいる。 服はどれくらいで出来そうだ」

「四日という所です。 日中は移動する人間の管理と、子供達の世話、それに女達に食事の作り方や縫い物を教えなければなりませんし、場合によっては男達に訓戒もしなければなりませんから」

頷くと、夜刀は棒をたき火にくべた。

今まで、兎を刺していた棒である。兎は、消化系の内臓を残して、綺麗に夜刀の腹に収まってしまった。

「お前は私の集落の第二の要だな。 後継者になりうる者を、何名か育てておけ。 子供のうちから、素質がありそうなのを見繕え」

「……まるで、動物を育てるかのようですね」

「人間も動物の一つだ。 適当に育って来たら、余暇を利用して子供も作れ。 お前の子孫は、さぞ有能になるはずだ」

「考えておきます」

そういえば。鵯に言い寄ってきた男は。今の時点ではいない。

集落の要という立場だから、そんな暇は無かったという事もある。だが、夜刀が言うように、負担が緩和できる人材が育って来たら。

鵯は、夜刀とは違う。

子供を産みたいと思うし、子育てにも興味はある。

否。

おそらくは、夜刀と同じになってはいけないと、感じているのだ。

復讐はしたいと、今でも思っている。時々からだが焼けそうな憎悪も感じる。だが、それ以上に。

人間でありたいとも願っているのだ。

或いは、夜刀を見てしまったからかも知れない。人間を越えつつある存在が、どのようなものか、知ってしまったから、だろうか。

「貴方は、どうなのです」

「多分私は、子を産めん」

「どうしてですか」

「数ヶ月ほど前から月のものがない。 勿論男とも寝ていない。 どうやら私の中で、子を産む機能が止まってしまっているようだな。 まああれがあっても体調を崩すだけだし、何ら問題は無いな。 性欲もまるで感じないのだが、不便が無いから別にかまわん」

体の芯を戦慄が走り抜ける。夜刀は笑っているが。鵯は、仮説が裏付けられたことを悟ってしまった。

違う。

それはおそらく。

人間を。夜刀が。とうの昔に、止めてしまって、いるということなのだ。

だが、言葉を飲み込む。この人は。きっとそれを告げても、理解することがないだろう。むしろ喜んでしまうかも知れない。それはとても悲しい事なのだと鵯は思うが、その嘆きは伝わらない。

夜刀は姿を消す。

直前まで、そこにいなかったかのように。

その間もずっと鵯は針を動かし続けていた。これが一段落したら、子供達の様子を見て、それから眠ろう。

やはり、既に夜刀は。

人間では、なくなってしまっていた。

作業を全て済ませてから、眠ることにする。

だが、疲れているにも関わらず、中々寝付けなかった。きっと、見てしまったからだろう。

人ならざるものの、深淵の闇を。

夜刀は深淵をあまりにも覗き見すぎた。

既に、夜刀は森そのものの代行意思になろうとさえしている。幸い、子供に懐かれると困惑したり、服を作って欲しいと言い出したり、人間らしい要素も残っているが。それはあくまで精神性の問題で、肉体は完全に人間を止めてしまっている。

自分も、或いは、そうなっていたのだろうか。

鵯の嘆きは、どこにも届かない。

今も、更に人間離れしようとしている山神が、すぐ近くで体を休めている。

まるで、大蛇が体を丸めて、腹に収めた獲物を消化しているかのように。

身震いすると、鵯は身を縮めた。

もはや、逃げ場はどこにも無かった。

 

(続)