神に到る蛇と人の戦い

 

序、紀伊の罠

 

それ見た事か。

最初に事態を知ったとき、タケルはそう内心で吐き捨てていた。貴重な鉄鉱山であるくろがね山が襲撃を受けた。しかも輸送部隊で多くの死者を出し、出来たばかりの鉄を、かなり河に沈められてしまったというのだ。

山を守っていた将軍は、タケルが若い頃から一緒にいた男で、指揮能力も判断力も優れている。充分に、少人数の奇襲くらいなら、防ぎ抜ける力を持った男なのだが。しかし、あのヤトは、あっさりその上を行った。

今、朝廷では、被害よりも、被害を受けたことを問題視しているという。

やはりタケルをくろがね山の守備にと言う声も上がっている様子だ。

今、タケルは紀伊を動く事が出来ない。

かといって、くろがね山を放置することも無理だ。武王からも、書状が来た。対応するように、という単純な内容であったが。

そして、ツクヨミからも。

どの面下げて手紙など出してきたと思い、そのまま引き裂いてやろうかと思ったタケルであったが。

しかし、ぐっと怒りを飲み込み、書状を読む。

ツクヨミは、こう言っていた。

タケル将軍が、くろがね山に行くことは無いかと思われます。その代わり、タムラノマロ将軍に二千の兵を預け、くろがね山の守備を任せるべきでは無いでしょうか。現在、くろがね山に張り付いている尾津将軍は、遊撃として、大和全域の守備に廻すべきかと思います。

だいたい、同意だ。

紀伊から兵を千ほど割き、タムラノマロが率いている五百はそのまま尾津に渡す。そして、元の守備兵千と合流させて、守備を固めさせる。

紀伊の守備は、元々三千で充分だった。

二千に減ると多少は面倒だが、それは近隣の伊勢や和泉から守備兵を割けば良い。どちらも状況は安定していて、兵の数だけなら、此方に回しても問題は無い。兵の配分は、使者を出して決めさせるが。伊勢が八百、和泉が四百という所だろう。追加の兵を少し入れて、紀伊の安定に力を注ぎたいからだ。伊勢や和泉では、削った分の兵を、いずれ埋め合わせれば問題ない。

不愉快だが、ツクヨミの奴は、戦略眼に関しては信頼出来る。

手紙を床にたたきつけると、すぐに使者を手配。

感情に基づいて愚かな判断をするほど、タケルは無能では無い。部下の一人が、不安そうに聞いて来た。

「よろしいのですか、タケル将軍」

「私が紀伊を離れたら敵の思うつぼだ。 紀伊はまだ安定しておらず、賊は地下に潜っただけ。 すぐにまた、賊が跋扈する魔境になるぞ」

「しかし、鉄は朝廷の生命線なのでは」

「鉄は重要な戦略上の物資だが、必ずしも絶対に要とするものではないのだ。 最悪の場合、青銅でもいい。 鉄の武器は確かに強いが、装備率が高いことは必ずしも勝負に直結しない」

青銅でも、人は殺せる。

事実、蝦夷は青銅中心の装備で、果敢な抵抗を続けているのだ。

むしろタケルが危惧しているのは、稲作だ。

今は人間の数が増えるだけで済んでいる。だがその内、米が無ければ、人が飢えるようになる。

そんなとき、米が取れない年でも訪れたら、どうなるのか。

稲作を駄目にする方法は、思いつかない。おそらくヤトにも考えつかないだろう。渡来人の話によると、蝗というバッタの一種が稲作の天敵であるらしいのだが。このアキツにいる蝗は、それほど危険な種類では無いそうだ。

大陸の蝗は、考えられないほどの数になって、稲を食い荒らすことがあるとか。想像できない事だ。そのような恐るべき虫がいるとは、タケルにも流石に思えなかったが。渡来人達が口を揃えて蝗は恐ろしいと言っているので、事実なのだろう。

ただ、流石にヤトにも、そのような事をさせられるはずが無い。奴は人間離れして来ているが、それでも神になったわけではないのだから。

今の時点では、そちらは気にしなくても良い。

勿論、このままやられっぱなしでいるつもりは無かった。タケルにも、裏を掻かれたことに対する怒りがある。

「兵士達の中から、私に体格が似ている者を見繕え」

「分かりました。 直ちに」

その兵士を影武者として、くろがね山へ出す。

そうすることで、ヤトとその一味を引っ張り出す。そして、一網打尽に叩き潰す。ツクヨミは未だにあれを捕らえようとしている様子だが、関係無い。必ずや殺す。

表向きには、タケルが紀伊を出たように見せかけるのだ。

すぐに軍は動き出した。

一千の兵が、タケルの影武者を守って、紀伊を出る。遠目には分からないように、影武者は兜を目深に被り、鎧も着込むことで、体格が分からないように工夫した。

軍勢の中にいると、簡単には分からないものである。それに、影武者とはいえ、護衛には気を抜かないよう指示をしてある。兵士達には乱れもないし、影武者の指揮だからと言って、無様を晒すことは無いだろう。

それに、実際指揮を執っているのは、タケルが鍛えてきた指揮官達だ。

タケルが紀伊を出たことを喧伝させると、早速地下に潜っていた賊達が動き出した。タケル自身は前線に出るわけにはいかないが、連日どこの村に賊が出た、という話が飛び込んでくる。

駐屯軍に対応させるが、その過程で影ながら動かざるを得なくなる。この状況、やはり大物も出てくるからだ。

千里と並んで、紀伊では三本の指に入っていた賊の首魁が、姿を見せたのは。タケルが紀伊を「出て」から三日目のこと。

早速伊勢との境近くで、兵を集めているという事だった。

タケルが指揮官達を集める。

表だって、タケル自身が出られないのが、面倒くさいが。それでも、敵の兵力はまだ五十を超えていない。

叩き潰すのは、簡単だ。

「兵を五百も出せば充分か」

「はい、問題ありません」

「すぐに叩き潰して参ります」

「伊勢にも、使者を出しておけ。 逃亡してきた賊を一匹残らず駆除せよ、とな」

ヤトはつれなかったが、馬鹿な魚が早速網に掛かった。

その日のうちに、賊は壊滅。

首領は逃げ延びることも叶わず、タケルの部下達に、首を預けることとなった。戦慄した賊達を、タケルの鍛えた直衛軍が、叩き潰して廻る。

紀伊の治安は多少乱れたが。

その程度で、タケルの鍛えた軍は、動じない。

 

手をかざして、ヤトは此方に来る軍勢を見つめる。軍の動きを見る限り、タケルの鍛えた精鋭に間違いない。

しかし、どうも引っかかる。

木の上から見ていると、どうにも何というか。おかしいのである。

覇気のようなものが感じられない。

タケル自身がいるかどうか、確認しておきたいのだが。体の中で疼く本能は、罠だと告げてきている。

である以上、十中八九は罠なのだが。それでも、しっかり確認したいのは、ヤトの中に人間の要素があるからだろう。

人間としての要素は、道具として使いこなせば、それはそれで便利だ。

だから、感情から、人間としての要素は追い出しておきたい。あくまで道具にしておくことで、より使いこなせるからだ。

敵の前衛をやり過ごす。

かなりの使い手が混じっているから、少し距離を取った方が良さそうだ。木の枝を移動して、敵と距離を取りつつ、手をかざして相手の様子を確認。

敵の兵力は千前後。森の中に引きずり込めば良い戦いが出来るだろうが、一か八かの勝負になる。

あまり好ましい賭では無い。

前衛が抜けた後、本隊が来る。じっと見ていると、見覚えのある顔が幾つか。タケルが率いている部隊で、指揮を執っていた者達だ。いずれも優れた指揮官で、戦う時には手を焼かされるだろう。

気付く。

どうもそれらしいのが、いた。

体格はほぼタケルと同じだが。顔をカブトで隠しているから、どうもよく分からない。体の方も、ヨロイで厳しく武装していて、筋肉の付き方とかが、此処からでは判断できない。

小首をかしげたのは、どうにも違和感を覚えるからだ。

まず最初におかしいと思ったのは、周囲が分厚くタケルを守っていることだ。まるで、ひな鳥でもまもるように。

タケルが、ヤマトにとって至宝である事は、ヤトにも分かる。故に分厚く護衛している、というのには、少々様子が妙だ。タケルは優れた武勇の持ち主であり、ヤトでも接近戦では容易に勝てない。それほどの相手が、どうしてあのような、小心なまでの守りの中に身を置く。

枝を移動しながら、相手を追う。

勿論周囲に最大限の注意を払っているが、タケルに意識の大半が行く。行けば、それだけ観察も鋭くなっていく。

一刻ほど観察して、何となく分かってきた。

あれは、偽物だ。

動きが、以前見た本人とちがう。大半の人間は、相手を見かけで判断しているようだが、ヤトは違う。相手の動きや、臭い、それに戦闘能力などで見ている。

タケルの実力は相当なもので、ヤトと正面から渡り合える数少ない人間だ。しかし、あの馬上で揺られている大柄な男は、違う。

戦闘慣れもしていない。単に腕力が強いだけの男に過ぎない。おそらく戦士の中から、似ているものを見繕ったのだろう。

殺されても惜しくない囮とするためか。

いや、違う。

おそらく、タケルが紀伊から出たと、錯覚させるためだ。

距離を取る。なるほど、これは罠だ。気付いた瞬間に、はっきりした。タケル本人は、おそらく紀伊にいる。もしくは、あの部隊の中にはいない。これはほぼ確定である。

そして、少し前から、もう一つの事に気付いていた。

例の、影のような連中が、周囲に現れ始めている。ヤトが見に来ると予想していたのだろう。

だがヤトは、連中に尻尾を掴ませない。

とっくの昔に、包囲網は抜けた後だ。

今回は、ヤトを捕縛しに来るのが目に見えていたし、何より既に抑えている山だから出来た。

前のように、未知の土地で囲まれたら、そうは行かなかっただろう。

無心に森の中を走る。

さて、此処からどう手を打つか。

紀伊に粉を掛けるのは、止めた方が良いだろう。タケルが隠れ潜み、どこで何をするつもりなのか、見極めなければならない。

ヤトを仕留める気なのか。

それとも、紀伊の足固めをするつもりか。

二つほど山を走り抜けると、紀伊との境に。確保している小さな洞穴の側で、口笛を吹き鳴らす。

出てきた千里が、ヤトを見て驚いた。

「何だ、どうして此処にいる」

「どういう意味か。 私がどこにいると、お前に告げたか」

「いや、そうじゃあない。 タケルがこの近辺まで来たと言うから、そちらを見に行っていると思ったのだが」

「あれはタケルでは無い。 今、見てきた」

近くの石に腰を下ろすと、首筋の辺りを仰ぐ。

唖然とした千里が聞き返してくる。

「何だって!?」

「偽物だ。 本物はまだ紀伊だろう」

「なんてこった……!」

頭を抱える千里。

ヤトはそれを冷然と見つめながら、小さくあくびをした。もう呼吸の乱れは収まった。しかし、汗は掻いた。少し走り回ると暑い季節になってきた証拠である。

千里は部下達に言って、地図を準備させている。ヤトが来た場合、状況の説明をする。それは明確に口にしてはいないものの、決まり事として定着している。

「と、とにかくだ。 紀伊では、大物が立ち上がるつもりらしい」

「大物?」

「かって、紀伊を牛耳っていたのは、俺と、渡来人の海賊の長と、最後の一人。 俺は紀伊を離れたし、渡来人の海賊は、タケルにやられて全滅だ。 最後の一人が、狼(ロウ)って呼ばれている奴なんだが、ずっとタケルに抵抗して紀伊を逃げ回っていてな」

「そいつが、ヤマトに反撃を開始すると」

そうらしいと、千里は言った。

千里の配下は、紀伊にまだ少数残っている。そのような情報が今届いているという事は、実際にはもう狼とやらは立ち上がった可能性が高い。しかし、ヤトから言わせると、勝ち目の無い戦いだ。

下手をすると、もう死んでいる可能性もある。

そうなると無駄死にだ。

無駄死には大いに結構。人間がそれだけ減るのだし、そもそも味方でも無い。だが、今は戦略的に活用する事を考えたい。

「無駄かも知れないが、止めさせろ。 死ぬだけだぞ」

「タケルが紀伊にいるからか?」

「そうだ。 そう言う奴が、動き出すのを待っていたのだろう。 今から行っても間に合わないかもしれないが……」

その場合は、生き残りを一人でも多く連れてくるように。

そう言い残すと、ヤトはその場を離れる。

あまり長居すると、あの影の者達にかぎつけられる畏れがある。ヤトの配下達の中枢は、移動し続けるヤト本人であると、連中にはまだ悟らせてはならない。

夕方までに、鉄を作る山へ移動。

既に千名ほどの兵士達は、山に入り、警備を開始していた。以前見た時よりも、更に隙がなくなっている。

完成したらしい鉄が出てきた。

鉄を運ぶ牛たちが、分厚い守りに先導されて、路を行く。

ヤトが射かけられる範囲には、牛は入ってこない。これ以上近づくと、敵に確実に発見されるだろう。

昼間だというのに、路の左右には篝火がある。

それが、より接近を阻む要因となっていた。それどころか、要所要所に、見張りのための塔が作られている。

神経質なまでに固められた路。これでは、同数の戦士で攻めても、敵を叩き潰すことは出来ないだろう。

敵を引きずり出す広域戦略が、瓦解した事をヤトは悟った。

タケルがいなくても、この山に隙は無い。

タケルがいるから、紀伊には不安要素が無い。それだけ、ヤマトには底力があるという事だ。

夜まで待ってから、その場を離れる。

敵の手数は、ヤトの予想よりも遙かに多い。ならば、更に別の戦略を造り、敵を掻き回すだけのこと。

まだまだ、此方が負けたわけでは無い。

 

1、混戦の果ての再会

 

また、偵察のための兵士が山に入ってきたという。

暮らしていた集落の者達に尋問し、すぐに戻っていったと言うが、ここのところかなり頻度が増えている。

ヤトがこの近辺にいると気付いているとは思えないのだが。

平伏している集落の者達を一瞥すると、持ってきた野ウサギを置いていく。少し増えすぎたので、数を調節したのだ。

一通り、異変があった山は見終えた。

そのまま、まっすぐ鵯がいる山へ向かう。鵯は少しずつ東に移動して、今は紀伊の境近くの山にいた。

ヤマトの中枢からはかなり離れたが、今は戦略的にこの辺りが重要だ。そして、柔軟に拠点を移せるのが、ヤトの強み。

紀伊での戦況は、案の定良くない。

やはり狼とやらは挙兵してすぐに討ち取られてしまい、その配下も散り散りと言うことだ。紀伊にタケルがいると見て間違いない。タケルが離れたという噂を聞いて、紀伊で暴れはじめた賊は、殆どが瞬く間に処理されてしまったという。

情けない連中だが。

それでも、数として見なければならないのが、ヤトの悲しい立場だ。

すぐに千里の部下を放って、使えそうな奴は拾わせる。

ひょっとすると、紀伊はもう駄目かも知れない。タケルがこれ以上滞在すると、地固めが終わって、ヤトがつけ込む隙は無くなる。

そうなると、戦略を根元から変えなければならなくなる。

戦士の補充も、難しくなるだろう。

河を途中で、二つ越えた。

魚が豊富にいるが、捕らえている暇は無い。それに、ヤトの姿を、陽光の下に晒すのもまた、好ましくは無かった。

河を駆け抜けると、山に。

この、若干陽光が弱まった、森の中の光。それが、ヤトを安心させる。森の無い光は、ヤトにはまぶしすぎる。

坂を駆け上がる。

その時、出来るだけ土を痛めないようにする。枯れ葉を蹴散らさず、勿論青葉も踏まない。山の全てが、ヤトの宝だ。

鵯が見えたので、敢えて死角から近づく。

奴は料理をしていた。この間、ヤトが持ち込んだ猪の肉を煮込んでいるらしい。野草と一緒に煮込むことで臭みを消し、食べやすくする工夫だ。

千里の配下だった男達もあわせて、集落の者達がうまいうまいと土器を囲んでいる。

ヤトが姿を見せると、喧噪が消えた。

「食事中だったか。 邪魔をしたな」

「山神様、お声をかけてくだされば! さ、ささやかな貢ぎ物になりますが、どうぞお先にお召し上がりください!」

「気にするな。 腹は膨れている。 鵯、話がある」

鵯を促して、少し離れたところにいく。

この山は地形が入り組んでいて、少し離れるだけで、向こうが見えなくなる。隠れるには絶好の場所だ。

内緒話もしやすい。

「どうしたのですか、こんなに急いで」

「近く、紀伊から大人数が来る。 把握する準備をしておけ」

「またですか……」

「タケルの罠に掛かって、殲滅された賊共の生き残りだ。 今回はお前が好きな子供も大勢いる。 食い物も用意しておけ」

千里が手を回して調べたところによると、紀伊を脱出できそうなのは五十名ほど。これを加えれば、増え続けている配下は三百を超える。

このうち十人ほどが子供だというのだが、これには訳がある。

狼という男が、戦いを始める前に、子供を近くの山に隠したそうなのだ。戦いに負けた後、千里と接触した狼の部下が、それを告げて息絶えた。千里の手配で、子供達を此方へ引き取ることになった。

「十と言うことは、四も生き残れば上等だろう。 六以上は殺すなよ」

「また、人の子を、数で判断するなんて」

「いいから、指定通り育てろ。 それと、食い物が足りない山については、早めに申告させろ。 私が届けておく」

言い残すと、その場を離れる。

鵯は相変わらずぶれない。ヤトにこびを売ることも無い。普通の人間の視点を知っておくためにも、此奴は有用だ。

夕方までには、紀伊の境に行っておきたい。

タケルの兵隊が山狩りをしているというし、もしもそれに遭遇したら、数を削っておく。紀伊の賊が蠢動している状況だから、多少殺しても責任をなすりつけることが可能だ。配下に加えられる人間も、それだけ増やせる。

使える手駒は、増やしたい。

今の時点で、ヤトが道具として有用とみている人間は、そう多くない。カラスたちや梟たち、それに服に潜ませている蝮たちの方が、余程に使える。この間鳶は卵から孵ったが、まだまだ飛ぶことも出来ない。実戦投入は当分先だ。

紀伊の境の山に、到着。

千里達は全員が出払っている。これは、逃げてきている者達を、出迎えたり、或いは鵯の所に送り届けているのだろう。

近くで、一番高い木に登り、枝に上がった。

其処から、周囲の状況を観察。

いた。

見つからないようにしているつもりか、藪の中に千里と部下達が伏せている。紀伊のほうから逃げてきている連中。そして、ヤマトの兵。ヤマトの兵は、横に広く広がって、相手を見逃さないよう工夫している様子だ。

この状況で、どう逃げてくるのか。

夜まで、誰も来なかった。

しかし夜になると、数人ずつ来る。しかも、河を泳いで、兵士達の目を誤魔化している様子だ。

なるほど、今の時期なら。それも可能か。

だが、全員が来られるかどうかは分からない。ヤトはその場で、敵の動きを観察しながら状況を見ていた。その内、数人ずつ、ひとかたまりになって、紀伊の境を越える。先に打ち合わせをしていたのだろう。千里の部下達が、泳いできた連中を引き取り、無言で此方に来ていた。

紀伊の境を越えた人数が十人を上回った頃、状況が変わる。

タケルの配下達が、たいまつを持ったまま動き始めたのだ。夜闇の中、ぐるぐると動くたいまつが、嫌でも目に入る。

梟を飛ばして確認する。

どうやら、たいまつを持っていない兵が、かなりの数来ている様子だ。

千里自身が河に入ると、下流に泳いで行く。

今日はもう無理と判断したのだろう。或いは、此処とは違う地点から、境を越えさせるつもりかも知れない。

新入りは、鵯に任せる。

言うことを聞きにくい奴は、適当に叩き殺して見せしめにすれば良い。簡単な話だ。ヤトは枝の上で、干し肉をかじる。

夜半過ぎになると、流石につかれたのか、タケルの部下達が動きを止めた。どうやら交代しているらしい。

場所を少し移動する。

紀伊に入って、其処から観察しやすい位置を探るのだ。紀伊に、これから縄張りを広げておきたいというのもある。見える範囲の地形は把握したから、それをこれから確かなものとするのだ。

一番敵の疲れが溜まるのが、明け方近く。

やはりその時間を狙ったのか。数人が、河を渡って、此方に来た。これで予定されている人数の、三分の一か。

河を渡って来たのは、子供数人と、大人が一人だけ。

大人と言っても老人だ。

最後に河から上がって来たのは、千里である。子供を励ましながら来たらしく、屈強な千里も疲れ果てていた。

声を低くしてはいるが、会話が聞こえてくる。

「もう少しだ、頑張れ」

「本当に、そのお方が、保護をしてくださるのですか」

「ああ。 今は俺たちで争っている場合じゃ無いからな」

個人的な印象だが。タケルの配下にくだれば、殺される事は無いように思える。少なくとも子供は、だが。

あの子供達は、どうしてこうも必死に逃げたのか。

たとえば、離散した農民が見捨てた子供、というような存在や。もしくはヤトの配下の者達が交わって出来た子供、ならば。保護する意味は大いにある。将来的には、道具としても有効活用できる。

分からない。

まあ、それでも。ヤトとしてみれば、今は戦力が少しでも欲しいのだ。

悪い意味での懸念は無い。こういっては何だが、現時点での子供に何が出来る。特に、森で育たず、農耕民として暮らした子供は、無力だ。未来の子供には価値があるが、今の子供達による何かしらの悪影響は、怖れていない。

泣き出す子供を、しかりつけるかと思いきや。

意外にも、千里は優しく諭していた。あの男には、このような側面があったのか。そういえば、部下をこれ以上殺さないでくれと、ヤトに土下座した。あれは恐怖からではない。本気の行動だった、という事なのだろう。

千里が、部下達と一緒に、こちら側に来る。

ヤトに気付かず、下を通り抜けていった。かなり計画的に、狼の部下や、こちらに来たいと思っている連中を統率しているらしい。これは、放って置いても、大丈夫だろう。ヤトは小さくあくびをすると、場所をまた変える。

周辺の地形を徹底的に把握しておくことで、何か起きたとき、対処しやすくするため。今のところ、影の者どもは来ていないが。来た時には、全力での戦いが必要になる。互角以上に戦うためには、地形の把握が必要不可欠だ。

さらさらと、河の音がする。

少し、川の側に出過ぎたか。

位置を工夫。外から丸見えになるようでは、潜んでいる意味が無い。タケルの部下共は、朝方まで、活発に動き回っていた。あれだけ精力的に動いているとなると、捕らえられるものも出てくるだろう。

それも加味して、五十名、という所なわけだ。

近くに適当な横穴を確保したいところだが。この辺りは山なのに土の質が悪く、寝るにはどうも不適当だ。

木から下りると、辺りを探り廻る。

そうすると、それを見つけた。力尽きて、倒れている子供だ。此処まで逃げては来たが、限界を迎えたらしい。

顔を叩いてみるが、まだ生きている。

抱えて、そのままその場を離れた。酷く軽いが、これはおそらく、農耕民がやり方も知らないのに、山で暮らそうとしたためだ。手足も細い。

「おっとう?」

「違う」

子供が意識を取り戻したらしい。

ぼんやりとしていたが。ヤトが飛ぶように走っているのに気付いて、慌てた様子で離れようとした。

だが。しっかり足を掴んでいるので、落ちることは無い。

「うわっ! だ、誰だっ!」

「山神」

岩を蹴り、跳躍して、着地。

丁度、たき火を囲んでいた千里達の至近に降りる。度肝を抜かれた様子の千里に、もがいている子供を渡した。

「あ、あんた、どこから沸いてくるんだ!」

「山神だからな。 それよりも、これを。 山で死にかけているのを、拾ってきた」

「拾ってきたってなあ……」

怯えきっている子供。

千里の部下達はどれも強面だし、無理も無いだろう。ヤトは手をはたいて埃を落とすと、辺りを見回した。

子供はというと、あまりの高速移動で腰が抜けたらしく、地面にへたり込んで、震えている。

ましてや、顔に大きな火傷の跡があるヤトと、強面の大人達に囲まれているのだ。怖くない筈が無い。

「で、首尾は」

「その子を含めて、今の時点で十八人を確保したよ。 その子は途中で見失ってな。 これから探しに行く所だったが、俺たちじゃあ見つけられたかどうか。 助けてくれて感謝する」

「たまたまだ」

この辺りの山は駄目だなと、ヤトは適当に返事しながら思った。

何しろ、寝るのに適した斜面が無いのだ。穴を掘るにしても、湿度の関係からして、横穴は難しいし。何よりも、横穴を適当に掘ることが出来たとしても、中に入って快適には眠れない。

他に見失った奴はいるかと聞いたが、千里は首を横に振った。

「俺も賊の端くれだからな。 こう言ったことじゃあ、軍に負けはしねえよ」

「明日以降はどうするつもりだ」

「明日は十三人。 残りは二日おいて十九人を、此方に引っ張ってくる。 二日おくのは、監視が厳しくなるのが分かっているのと、敵兵の疲労を待つためだ」

「まあいい。 好きにしろ。 実績さえ出せば、私はかまわん」

その場を離れる。

残像を残して消えたから、更に子供を驚かせたかも知れない。

木の枝を伝って、闇を走る。

二つ離れた山に、寝るのに丁度良い穴があるのだ。湿気と言い、深さと言い、最適な横穴である。

配下の管理は、他者に任せてしまって問題ない。

少なくとも、まだ鵯が音を上げていないのは事実。ただし、三百を超えた頃には、鵯にも配下を持たせて、記憶の補助をさせようとは考えていた。

ならば、それもそろそろ実行に移すときか。

横穴を見つけた。

中に動物が入り込んでいるような事も無い。梟を周囲に散らして、警戒させる。何もいない。人間も、遠ざけてある。

中に入ると、まるまって、眠りに入る。

そういえば、ほぼ丸二日起きていた。疲れが溜まっていたからだろう。すぐに眠ることが出来た。

しかし、もはやぐっすりと眠ることは、出来ないのかも知れない。

少ししたら目が覚めて、また眠る。

それを繰り返しながら、夜明けを迎えた。

 

一眠りしてから、紀伊の境へ出向く。

相変わらずタケルの配下達は、必死の山狩りをしている。ただし、その人数はあまり多くない。

或いは、賊の狩り出しに、主力は出向いているのかも知れない。

これは、ヤトの所に合流する者を捕らえようとしているのではなく。よそへ逃げだそうとしている賊を押さえるための戦力かも知れなかった。

それならば、どうも動きが鈍くて、千里が好き勝手出来ているのも納得がいく。大勢がいることを示す事が主目的であるならば、ざるになってくるのも必然だ。

千里が数人を連れて戻ってきた。

その数人も、部下に任せて、即座に北へ向かわせる。鵯の所に一度行かせて、食事を刺せた後、別の山に散らせるのだ。

千里が嘆息した。

流石に疲れ果てている様子だ。

「次は三刻後だったな」

「頭、いつまでこんなこと、続けるんですか」

「タケルの野郎を討ち取るまでだ」

「……」

部下達が、不安そうにしている。

タケルに勝てるとは思えないから、だろうか。それとも、降伏して、安泰な生活を得たい、のだろうか。

タケルのことだ。降伏すれば、特に凶悪だった連中を覗けば、許すことだろう。帰農させて、以降は普通の農民として扱うに違いない。

事実、抵抗を続けていたツチグモに対しても、そういう態度を取った。奴は、そういう意味で、極めて平等な存在だ。

千里の部下達が、どれだけ凶悪な賊だったかは分からないが。

ヤトに比べれば、どれもこれも、たいした事は無いに違いない。ヤトに反旗を翻す事が、ときに魅力的に思えるのだろう。

もっとも、その傾向が見えたら、即座に殺すだけだが。

「何か不満があるのか?」

「いや、頭にはねえよ。 ただな、タケルの野郎を、本当に倒せるのかと思うとよ」

「それに、山神に対する不満か?」

「……あの女、ますます化け物じみてきやがった。 今もその辺で、話を聞いてるんじゃないかと思うと、怖くてよ」

意外に勘が鋭いでは無いか。

姿を見せてやろうかと思ったが、止めておく。木の枝の上で、話だけ聞いておくのも、それはそれで楽しい。

「今のうちに、飯を食っておけ。 腹が減ってると、いざというときに動けなくなるぞ」

「ああ、分かってるよ」

たき火を熾すと、土器を掛ける。

昨日の残りらしい煮汁を温めて、そのまま食べ始める千里と部下共。ヤトは木の枝の上で横になると、目を閉じて、話をそのまま聞くことにした。

部下達は愚痴を言い終えた後、状況の確認に入る。

タケルは相変わらず、紀伊で姿を見せないという。実際に動いているのは二千ほどの軍勢で、残りの千二百は黙々と訓練を続けているのだそうだ。

今まで手が入らなかったような、小さな村や、従順な街まで、調査の手が伸びているという。

タケルもいよいよ本気になっているとみて良いだろう。

紀伊から賊を根こそぎにして、地固めを終えるつもりと言うことだ。今までは千里の部下達が水面下で蠢動をしていたが、今後はそれも出来なくなる。

拠点も人員も根こそぎにされれば、情報の伝達どころではなくなるからだ。

食事を終えると、千里は部下達を促して立ち上がる。

次の数人を迎えに行くのだろう。

ただし、足取りが軽いようには見えなかった。

足取りが軽かろうが重かろうが、ヤトにはどうでも良い。道具として、機能さえしていれば、文句は無い。

それこそ、ヤトに対する殺意を抱いていようが、軽蔑していようが、関係無い。ただ道具として動けば、それ以上は望まない。

「ほら、行くぞ」

「分かってるよ、頭」

がさがさと、千里達が、茂みの奥へと消えていく。

ヤトは枝から下りると、連中の痕跡を綺麗に消しておいた。そろそろ、影の者達が、姿を見せてもおかしくない。

ヤト自身が、紀伊の境に出向いたのは何故だろう。

援護のためか。

或いは、千里達の動きを、監視しておきたいからか。

とにかく気まぐれから、その場を動いた。どうして動いたのかは、自分でもよく分からなかった。

川の側に出る。

見回りをしているタケルの部下を発見。

数人が一組になって、死角が無いように動いている。しかもそれぞれが、危険を知らすための笛を手にしていた。

中々に手慣れた様子だ。奇襲は難しい。

それに、奇襲する意味も無い。今の時点で、此奴らを殺しても、部下を増やす作業が手間取るだけだ。

カラスが鳴く。何羽かが、連続して警告の声を上げる。

どうやら、千里が右往左往している様子だ。何か問題が起きたとみて良いだろう。今の時点では、広域に展開しているカラスたちも、影の者達の接近を察知していない。それに、まだカラスたちの事に、影の者達は気付いている気配が無い。

森の中を行く。

一度も地上には降りない。

木の枝を飛び渡り、目的地に。途中、何度かタケルの部下共を飛び越したが、一度も気付かれなかった。音一つ立てていないからである。

接近していく内に、状況が見えてきた。

千里が、数人の人間を守りながら、藪の中に伏せている。守っているのは、子供が半分、残りは老人という所だ。

老人はいらない、などとは思わない。

豊富な知恵を持っている事も多いし、道具としてはむしろ有用だ。

周囲を確認して、なるほどと相づちをうつ。意図したものではないのだろう。しかし、タケルの部下がおよそ六十、展開している。その中に、網に捕らえられた小魚のようにして、千里と数人が閉じ込められてしまっているのだ。

夜まで音を立てずに黙っていれば、脱出の好機もあるだろう。

だが、それも難しい。

老人も子供も、体力的に無理がある。紀伊の端から逃げてきたとすると、この辺りで既に弱り果てているはずだ。

「ひもじいよう……」

「我慢せい」

子供が、身を縮めて言う。

老人が、切なそうに背中を撫でていた。

或いは祖父と孫かもしれない。

周囲の厳重な守りを考えると、力尽くで突破するのは難しい。やるとしたら、ヤトが別の場所で暴れる事だが。しかしこの辺りの山は、地形をよく知らない。危険が大きすぎる。それに兵士だけではなく、影の者達まで来たら、確実に詰むとみて良い。

ヤトがカラスたちを使って、行く手を指示するという手もある。

だがそれでは目立ちすぎる。たちまちに見つかってしまうだろう。

見捨てるというのが、一番危険が少ないが。

しかし、此処で助けておけば、道具としての有効性が増す。しばらく悩んだが、ヤトは決めた。

音を立てず、千里達の後ろに降りる。

「手こずっている様子だな」

「お、おいッ! どこから出てきた!」

千里も驚いていたが、子供や老人達が、一番慌てていた。

口を押さえさせる。大声を出したら、即座に周囲にいる敵がすっ飛んでくるだろう。しーっと、口に指を当てて、大げさなくらいに示すと。

ヤトは、声を殺した。

「これから私が活路を作る。 一刻経ったら、まっすぐ北に逃げろ」

「貴方は!?」

「この方が、山神だ。 今見ての通り、化け物だよ。 天狗だか何だかには違いないだろうな」

「天狗様でありましたか」

老人に拝まれて、ヤトはげんなりした。

今はそれどころでは無い。千里に顎をしゃくる。千里は少し悩んだ末に、応えてきた。

「分かった。 それ以外に、方法は無さそうだな。 最初は俺が囮になるつもりだったんだが」

「それでは意味が無い。 良いか、一刻待て。 その間に、これを喰っておけ」

服の裾から、干し肉を出す。

昨日仕留めた野ウサギを燻製にしたものだ。いざというときのために持ち歩いている肉なのだが、まあこの場合は仕方が無い。

弱っている者からだと、念を押して喰わせる。

燻製にしただけではなく、この肉は軟らかくするべく、色々工夫をしてあるものだ。肉の段階で何度も叩いておき、煙でいぶした後も、時々揉み込むことで柔らかくなるようにしてある。

老人にも食べやすい。

もっとも、毒を受けた場合、最後に食べるためにとっておいたものなのだが。

どうして、ほぼ躊躇なく出してしまったのか。ヤト自身も、藪の中で腕組みしながら、考え込んでしまった。

「今回は、感謝しなければならないな」

「そう思うなら、働いてもらうぞ。 今以上にな」

「分かってるよ」

千里に言い残すと、ヤトはまた、音もなくその場を離れた。

陽動をするにしても、周囲をしっかり確認しておかなければ意味が無い。ヤトにとっての強みは、森を知り尽くしているという事だ。周囲をしっかり見て廻らなければ、森は手を貸してくれない。

無心で、しばらく周囲を見て廻る。

ほどなく、策が決まった。

敵の部隊は、把握できただけで十三。このうち一つを処分し、もう一つを叩きながら、東に逃げる。

当然敵は追撃を仕掛けてくる。この際、もう一つの部隊を消す事で、千里達の退路を作る。

上手く行くとは限らないし、危険も大きいが。

やるとなったらやる。

これくらいの危険を越えられずに、このアキツの森を、全て掌握などできるものか。

カラスたちは、既に周囲に散らせた。

作戦を開始する。

木の枝の上で、ヤトは弓を大きく引き絞った。速射の態勢に入る。狙うは、数個の部隊をまとめているらしい長だ。

まずは一番偉い奴を仕留める事で、敵の動きを攪乱する。

充分に引き絞った矢を。

張力と反発から、解き放つ。

風を切り裂きながら飛んだ矢が、かなり大きな音を立てた。敵の頭に、矢が半ばほどまで潜り込んでいる。

更に二矢。

一本は、振り返り掛けた一人の眉間を貫いた。

だが、もう一人は、耳を吹き飛ばされただけで、生き延びる。珍しい失敗だ。更に一矢を放ち、剣を抜こうとした一人の喉を打ち抜く。

この時。

耳を飛ばした一人が、笛を高々と吹き鳴らした。

作戦を、下方修正する。

わっと、敵が同時に動き始めたのが分かった。速射して目につく相手を打ち抜きながら、跳び下がる。

枝を渡って走りながら、二度速射。三人を打ち抜く。一人は外した。この状況、ヤトでも百発百中とはいかない。

その上、矢には限りがある。敵が鬼のような形相になり、ヤトを追ってくるのを見届けると、そのまま森の闇に、身を躍らせた。

「討ち取れ!」

怒号。飛来する矢。

どれも当たるには遠い。一本を素早く引き抜くと、そのまま反転し、空中で打ち返す。着地ならぬ着枝した時には、口の中に矢を撃ち込まれた敵兵が、横転していた。枝を蹴って、後方に跳びながら、更に一矢。

怒号を発した兵士の左目を直撃。後頭部まで矢が抜けた手応え。即死だ。

だが、足下の枝に、矢が突き刺さる。

態勢を崩したヤトは、木の幹を蹴ってジグザグに地面に降りながら、着地。盛大に枯れ葉をまき散らしながら、森の中を走る。

後ろからは、六十を超える敵が追ってきている。

振り返りながら、腰にぶら下げている普通のツルギを振るう。そして、飛来した矢を、斬り折った。

森の中で、私に追いつけると思っているのか。

ヤトはせせら笑いながら、枯れ葉に埋もれている石を蹴って飛び上がり、一気に斜面を上がった。敵はひとかたまりにならず、散って迫ってくる。思うつぼだ。崖から駆け下りながら、真っ先に目についた一人の顎を蹴り砕き、更にもう一人の首を飛ばした。敵が怯む横を駆け抜けながら、今度は崖下に身を躍らせる。

背中から、数本の矢が迫る気配。

途中枝を掴んで勢いを殺し、二度地面を蹴って、じぐざぐに軌道をずらす。

着地。

かなり足に負担が掛かるが、そのまま走り出す。敵が上から、矢を連続で放ってくるが、全て避けるか、切りおとしてやった。

「その程度か! 遠矢でこの私を倒せると思うか!」

「おのれ、物の怪がっ!」

更に多くの敵が集まってくる気配。

雑多な敵。恐るるには足りない。

しかし、ヤトの余裕が凍り付いた。轟音と共に、飛来した矢を、どうにか横っ飛びに避ける。

転がって立ち上がって、見た。

崖の上にいる、その男を。

タケル。

やはり、紀伊を出てはいなかったか。

タケルはもの凄い大弓を手にしていて、まさに第二の矢をつがえようとしていた。この位置では、かなり不利だ。

しかも矢は、石に突き刺さっていた。なるほど、ヤトが命の危険を感じるほどの相手は、まだいる。

「夜刀! いや、夜刀の神よ!」

タケルが吼える。

その場で身を翻すのは面白くない。ヤトは無言で、宿敵を見上げた。

「常陸で貴様を逃したは間違いであったな! 今度は必ずや、調伏してくれるぞ」

「タケルか。 ヤマトを代表する武人。 だが私にとっては、森を汚し喰らうものどもの首魁に過ぎぬ。 いずれその首を私の手に握り、ヤマト全域を呪いに包んでやろう!」

タケルが、矢を放った。

時間が止まったかと、思えるほどに、その一撃は鋭かった。

その時、ヤトも、鬼を抜き放っていた。

雷が、落ちたような音がした。

ヤトが、タケルの矢を切り払い、真っ二つにしたのだ。だが、ヤトも、腕に相当な衝撃を受けていた。

切り払った矢が、地面に落ちるのと同時に。

ヤトは身を翻して、敵から距離を取る。一斉に、敵兵士が、矢を放ちはじめた。遠矢とは言え、数が数だ。切り払いながら下がり、河を飛び越えて、森に逃げ込む。至近。タケルが放った三本目の矢が、顔のすぐ側の木に直撃。衝撃波で、ぶわりと髪が舞い上がったほどである。

木にも、大きな亀裂が、縦に走っていた。

敵が本気で追撃を開始したのが分かる。だが、森の中に逃げ込んだ上、かなりの距離を稼いである。

簡単には、距離を詰められはしない。

走りながら、現状の戦力を再確認。

武器を隠してある地点まで、三刻ほど走らなければならない。矢をかなり使ってしまったのが痛い。だが、それでもまだまだ行ける。

森の中を走っていると、敵が崖を降りてきている気配があった。

当初の目的は達成できたが。

予想よりも遙かに大きな獲物が掛かったことで、戦いは想像以上に危険なものとなりつつあった。

そして、何となく理解できる。

どうして影の者達が、来ていなかったか。

タケル自身が、ヤトの行動を読んでいたのだろう。だから、自身がここに来ていた。良くは分からないが、影の者達とタケルは、何かしらの確執があるのかも知れない。もしそうだとすれば、利用できる可能性がある。

足音が迫ってくる。

タケルを直接相手にしなければ、部下共を相手にするのは難しくはない。ただし、それも囲まれると面倒だ。

既に紀伊を抜けているはずだが、敵が追撃を緩める気配はないし、むしろ何処かに誘導されている雰囲気さえ感じる。

ヤトは舌打ちすると、カラスたちの声に耳を澄ませる。

今の時点では、敵影は無いと言うが。

しかし、このまま行くと、面倒な事になる可能性が高い。そう、ヤトは判断した。

どのみち、この辺りの山は、既に知り尽くしている。

不意に逃走経路を変える。北へまっすぐ向かっていたのを、東へ切り替える。自分が知る山から少し外れるが、まだ縄張りの中だ。むしろ非常に深い森で、ヤトとしては戦いやすい場所である。

此処で、敵をきりきり舞させる。

タケルが相手でも同じだ。此処での戦いなら、遅れなど取らない。

緑の臭いが濃い森に入り込む。ヤトは無言で、敵の追撃を待つ。敵はさっきまで、足音を盛大にたてながら追ってきていたのだが。不意に、静かになった。追撃を諦めたのだろうか。

いや、そんなはずはない。

タケルは必殺の気合いを持って、追ってきていた。

目を閉じて、周囲に気を配る。

集中していくと、辺りの様子がよく分かる。こういった深林ではなおさらだ。木々の声が聞こえるほどに、意識が澄む。

まさか、タケルほどの男が。ヤトを安易に見失う筈があるまい。

何を企んでいる。

仕掛けてこない。数刻、ヤトは動かずにいたが。敵は、追ってくる気配が無くなった。包囲されている様子も無い。

何をもくろんでいる。

それとも、何か大きな問題でも発生したのか。

呼吸を整える。

そういえば、肉も何も残していなかった。

ヤトもまだまだ甘いなと、自嘲した。

 

夜になってから、ヤトは以前作ったねぐらの一つに移動。中に蓄えてある干し肉を掘り出して、口に含んだ。

熟成された肉汁を噛んで味わいながら、状況を分析する。

タケルの兵は、どうして追撃を止めたのか。あの様子では、確実にタケルは、ヤトだけを仕留めようとしていた筈だ。

それ以上に重要な案件でも生じたのか。

追撃路を逆にたどってみる。敵兵の姿はない。紀伊にまで、引き上げたのだろうか。勿論、その過程で、最大の注意は払う。包囲に落ちたり、敵の逆撃を喰らってしまっては、意味がない。

思うにヤトも、タケルの敵手としての腕は認めている事になる。

戦いでは何度も裏を掻き、逆に掻かれもした。

全体的に、タケルの方がまだ上だろうとも思う。

梟たちが、警告の声。周囲に敵の気配。

見つけた。

どうやら、ヤトが戻ってくることを想定して、兵を伏せていたらしい。それも百や二百ではない。

無言で、後退を開始。敵は丁度、ヤトが接敵したら挟み込むようにして、広域に展開していた。

実際問題、もし考え為しに仕掛けていたら、即座に包囲されていただろう。

なるほど、下手に追うくらいなら。此方が戻ってくることを読んで、待ち伏せした方が、労力が少ないか。

流石だ。

理解は出来ても、面倒くさい事この上ない。タケルを討ち取るにしても、この分厚い敵兵の壁の向こうだろう。

そして敵兵の熟練度からいっても、安易に突破を許すとは思えない。

タケル自身に肉薄できたとしても、即時に討ち取るのは無理だろう。夜の森という、ヤトにとって極めて優位な状況が揃っているにも関わらず、手出しが出来ない。これほど悔しい事があろうか。

一度、後退する。

此処は根比べだ。タケルも人間、必ず疲労するし、隙が出来るはず。或いは、危険を承知で、ヤトをつり出すために単独で出てくるかも知れない。

其処を狙う。

敵の軍から距離を取ると、ヤトはねぐらの一つに引きこもって、眠ることにした。長期戦になるのがわかりきっている現状、無理をする事は無い。この近辺には、山が幾つもある。どれだけ効率よく探しても、この穴を直撃することは出来ないし、近づけばカラスか梟が警告してくる。

勿論、そのまま寝こけるのは危険すぎる。

横穴の壁に背中を預けて、気配が接近してきたら、いつでも対応できるようにする。目を閉じれば、むしろ意識はすっきり絞り込まれる。足音が近づいてきたりすれば、即座に分かる。

また、この状況でも、ヤトは前提となっている戦略は忘れていない。

まずは部下を増やすことが大事なのだ。

千里が多少まともなら、この好機を逃さず、一気に部下を紀伊に逃げ込ませているだろう。タケルの目は、今ヤトにだけ向いているのだから。

しばらく、寝たり起きたりを繰り返す。

朝日が出たが、それでもしばらくは無理に休んだ。

今は、力を蓄えなければならない。

穴に差し込んでくる光が少し鬱陶しい。ヤトは、光よりも闇が好きだ。何より、落ち着くことが出来る。

この横穴は、できる限り光が入ってこないように、入り口を調整してあるのだが。

それでも、入ってくる光はなくすことが出来ない。

身じろぎする。

だが、そのまま。無理矢理に、また少し眠った。

 

2、英雄と蛇、激突

 

タケルは馬上で、部下達の報告を聞いていた。

短い戦いの間に、十三人が殺された。

周囲にいる四百五十の兵士達は、不安そうに顔を見合わせている。敵が人間だとは、思えないのだろう。

既にタケルも、相手が人間だとは思っていない。あれは知恵を得た猛獣だ。考え方にしても、既に朝廷とは相容れない所に踏み込んでしまっている。どうにかして、此処で殺しておかなければならない。

思うに、あのヤトという存在は。山の奥でただ静かに暮らしていたのなら、平穏なツチグモの長として、生きることが出来たのだろう。奴が住んでいた山はとても緑が豊かになり、獣たちが丁寧に管理され、結果として実りが多くなったかも知れない。

だが、朝廷に対して牙を剥いたことで、元々潜んでいた巨大な闇の本性が、浮き彫りになってしまった。

それをむき出しにさせたのは、タケルの責任でもある。

今では、朝廷にとって最大の災厄になりかねない存在となり果ててしまったヤトを、此処でどうにか仕留めなければならなかった。

「増援はどうなっている」

「紀伊の境に展開している兵士達の内、五百ほどが此方に向かっております」

「うむ……」

あわせれば千。

ヤト一人を打ち倒すには、過剰すぎる戦力だが。しかし、奴がこの近辺の山の何処かにいる、という事を考えると。少なすぎるかも知れない。

何しろ、探し出すところから、やらなければならないのだ。

ただし、さほど悲観はしていない。

ヤトはおそらく、今何処かに潜んで、力を蓄えているはずだ。そして、此方の隙をうかがっている筈。

逆に言えば。

引っ張り出すことは、不可能ではない。

常陸での戦いの末期、奴がどうも動物を使っているらしいと言うことは、影の一人から聞いていた。

今回もおそらく、同じ事をまだやっているはずだ。

対応速度の異様さからして、ほぼ間違いない。だが、それならば逆に、裏を掻く事も出来るだろう。

「三交代で休憩を取れ。 河原まで降りて、其処で休むように」

「分かりました」

タケルは崖の上で、数人がかりで張った剛弓を手にしたまま、敵の出方を見る。

今の時点では、反撃はしてこない。

奴にしてはあまりにも消極的だ。何かしら、別の戦略的な狙いがあるのかも知れない。そうだとすると、乗せられているのは、タケルなのだろうか。

もしも狙いがあるとすれば。

少し、思考を進めてみる。

紀伊の方は万全だ。しっかり部下達が、各地に目を光らせている。タケル自身が紀伊の境まで出向いていることは元々知らせていないし、主要な賊はあらかた潰した。一番大きな賊を潰して以降、これと言った乱は起きていない。

ならば、大和や伊賀で、何かをしようとしているのか。

兵士達が、おいおい集まってくる。

敵を本格的に捜索する前に、河原で休ませる。此処からは長丁場になる。更に、くろがね山に布陣しているタムラノマロにも、既に使者は送り済みだ。向こうでも、最大級の警戒を、既にしているはず。

後はタケルが、この圧倒的な戦力で、ヤトを押し潰せば終わり。

だが何か引っかかる。

見落としがあるのでは無いか。もしもそうだとすれば。奴を闇雲に追うことは、無意味かも知れない。

タケル自身も、河原に降りると、休憩を取った。

目を閉じて、無言のまま、考え続ける。

敵のもくろみは、まだ見えない。

休憩終了と、声が上がる。タケルは頷くと、愛馬に跨がった。奴が逃れた方向へ、五十名ずつ、兵士を進発させる。

奴の技量は相当に高いが、それでも手もなく五十名が全滅、という事態にはまずならない。

というよりも、偵察に出している兵士は、皆タケルが鍛えた者達だ。倍の敵に襲われても、支えきることが出来るだろう。

この辺りの地図を広げさせる。

かなりいい加減ではあるが、相応に地形は分かる。山一つごとに、五十名ほどの兵士を出し、しらみつぶしに探させる。タケル自身は一部隊と共に、前進。もしもヤトが仕掛けてきた場合、他の部隊を一斉に反転させ、袋包みにして仕留めるのだ。

木漏れ日が美しい山の中に入る。

辺りから、鳥の声が聞こえる。だが、うららかな緑を堪能している時間はない。どこにヤトが潜んでいるか、知れたものでは無いからだ。

定時の報告が、狼煙によって為される。

今の時点では、全部隊が、無事。

敵と交戦している部隊は、存在しない。

 

穴の中で腕組みしていたヤトは、カラスの鳴き声に気付いて、身を起こした。

どうやら敵の方から、追撃を仕掛けてきたらしい。数は五十ほど。山に入った後、探索を続けている。

たった五十。

しかも、後続がいる様子は無い。

木に上がると、手をかざして、周囲を見る。

他にも幾つかの山に、敵の尖兵が来ている様子だ。先に山に潜ませている集落のものどもは、交戦を避けて静かにしているだろう。

五十ずつに区切った部隊を多数投入しての、しらみつぶし。

タケルは、どうしている。

カラスたちを、散らせる。タケルをまず発見するのが先だ。敵から身を隠すことは、難しくない。

一刻ほど、木の上で隠れる。

何度か下を敵兵が通り過ぎたが、ヤトには気付かなかった。ヤトは文字通り木と森と一つになっていて、生半可な使い手では、居場所を察知できない。勿論、音など、たてる筈もない。

カラスたちが鳴いている。

どうやら、タケルを見つけた様子だ。

しかし、すぐには動けない。カラスたちによると、かなりの人数が、激しく動き回っている。

以前戦ったとき、タケルはどうやらヤトが動物たちと意思疎通できる事に、気づき掛けていた節がある。

もしも今回もそれを前提としているとなると。

何かしらの罠を仕掛けていると見て良いだろう。可能性が高い、ではない。ほぼ確実に罠がある。

どうやって罠を食い破るか。

罠の中枢にいるタケルを、仕留めるか。

それだけが、ヤトにとっての重要事項だ。勿論タケルを殺した後生還しなければならないから、無茶も出来ない。

今、タケルが展開している陣形は、巨大な移動する罠とでもいうべきものだ。しかもこの罠は多数の触手を持っていて、周囲を常に探りながら動いている。内部にヤトが入り込んでいることも、想定済みの陣形。

手強い相手だが。

タケルが直接出てきている以上、腑抜けられていても興ざめである。

無言のまま、位置を調整。

タケルとの距離を、少しずつ縮めていく。

至近まで来ると、どうしてカラスたちが混乱しているのか、よく分かった。タケルのすぐ側では、直衛らしい精鋭が、何個かの部隊に分かれて、忙しく動き回っているのだ。これでは、カラスたちも動きを把握できない。如何に頭が良い鳥だと言っても、所詮はカラスなのだ。

更に言うと、この直衛は相当な腕利きばかりである。

下手に動くと、確実に察知される。タケル自身の実力もあって、安易には近づくことが出来ない。

何かしらの隙を作らなければ、肉薄することさえ叶わないとみて良いだろう。

ましてや狙撃して、離脱するなど。

タケルが足を止めたのが分かった。他の部隊も、ぴたりと動きを止める。殆ど間を置かず、がつんともの凄い音。

ヤトから少し離れた木に、先ほど岩に突き刺さった剛の矢が。凶暴な破壊力を発揮して、抉り込まれていた。

また、敵が動き出す。

なるほど、何となく分かった。

この辺りの山については、全て把握している。森の木々についても、だ。

そしてタケルも、おそらくはある程度把握しているとみて良いだろう。つまり、狙撃に適当な地点を敵も割り出せる。

足を止めたのは、狙撃可能地点を絞り込める箇所に来たから。

狙撃をするヤトが潜み得る場所に、攻撃可能だから。

タケルも、ヤトが至近まで来ていると、既に把握していると見て良い。慎重に位置をずらしながら、ヤトは舌を巻いた。

これは、下手をすると。

気配を敵に察知させていなくても、打ち抜かれる。

ついでに言えば、あの威力の矢だ。

打ち抜かれたら、即死。

更に言えば、タケルが嘘を言うとは思えない。奴は今回、必殺の気合いを纏って戦場に来ている。

気配を一瞬でも乱すことは、すなわち死につながる。

相手にしているのは、タケルだけではない。

奴ほどではないにしても、相当な使い手が、千名以上なのだ。如何に困難な闘いなのか、これだけでも明らか。

だがこれはヤトにとっても大きな好機。

ここでタケルを仕留めてしまえば。ヤマトに対して、それだけ大きな打撃を与えることが出来るのだ。

しばらくヤマトの兵と戦って来たが。タケルがヤマト筆頭の将である事は確実。此処で奴さえ倒せば。

ヤトの本能は、告げてきている。

此処は引くべきだと。事実、引くという選択肢もある。ヤトはまだ若いのに対して、既にタケルは肉体の全盛期を過ぎている。

ヤトのもくろみは、一朝一夕でなしえる事では無い。

引いて、好機を待つべし。

その囁きは、ずっと耳の奥で鳴っている。それでも、ヤトは今の時点では、場に踏ん張り続けている。

何故だろう。

意地か。

いや、違う。森を喰らう人間共の、最大の武力を仕留める好機だからか。それさえも、違う気がする。

無言のまま、矢をつがえる。

焦っているように、自分でも思えた。

不意に、事態が動く。

カラスたちが警告してきている。

今まで散っていたタケルの兵士達が、この山に殺到しつつあると。

罠が、閉じられたのだ。

 

敵を屠るために、この山をタケルが選んだ理由は幾つかある。

一つは、タケルを倒すために、敵が潜みながら移動している場合を想定すると。最終的に、此処でかち合う事だ。

深い森に覆われた山だが、他に違う特徴として、複雑極まりない起伏が上げられる。その上曲がりくねった木々が多数生えており、身を隠すにはもってこいだ。地形的にも、タケルを倒すには此処しかない。

ゆえに、わざとだらだら移動しながら隙を作り、ヤトを誘い込んだ。

今やタケルは確信している。

此処が、ヤトとの、決戦の場となるのだと。

辺りの木々は見て廻った。既に狙撃可能な地点は、特定している。特定できなかった部分は、部下達に任せる。

タケルも森の中で生きてきた人間では無いのだ。森の中では、ヤトの方が上手なことくらい、理解している。

ならば、部下達と共に、差は補えば良い。

部隊が粛々と集結しつつある。

ヤトは引く可能性もある。

今の時点では、それを考えなくても良い。奴はまだ、確実にこの山にいる。そして、最大の好機を、測っている。

あの怪物的な神子は、更に腕を上げているとみて良い。

下手をすると、目の前にいても、気づけないかも知れない。それでも勝てるように、タケルは策を組んでいく。

「タケル将軍、準備が整いました」

「よし、行動開始」

叩き鳴らされる銅鑼。

驚いた動物たちが、わっと山から逃げ散っていくのが分かった。タケルは無言のまま、新しく矢をつがえる。

まずはこうして、ヤトの耳目を奪う。仮に動物以外から情報を仕入れているとしても、この有様では、まともな判断など出来はしない。

続いて、次の手だ。

長い槍を準備させた。これを使って、藪の中や、枝の上を、徹底的に突く。

隠れていても、これでは溜まらず出てくるほか無い。一度出てきてしまえば、後は袋だたきにしておしまいだ。

そして、山の外側から、徐々に内側に向けて、槍の矛先を向ける。

徹底的に突きまくって、敵をあぶり出す。

更に、たいまつを持たせた兵士達に、煙をたかせてもいる。こうすることで、敵が咳き込むのを狙う。

如何にヤトでも、煙の中では咳き込まずにいられまい。

どれほど巧妙に気配を消していても、咳き込んでしまえば、即座に居場所を特定できる。

これらの策は、出てくる前に、既に準備を終えていた。

ヤトが生きている可能性があると判断してから、ずっと戦う時のことを想定してきたのだ。

勿論奴を殺すためには、生半可な戦術では無理。

ここまで徹底しなければ、いぶり出すことさえ出来ないだろう。

木々を槍が叩いている。枝の上も、鋭く突き込まれた枝が襲う。鳥が悲鳴を上げながら、飛んで逃げていった。

藪の中に潜んでいた猪が飛び出してくるが、よってたかって兵士達が八つ裂きにしてしまう。

人間の強みは、集団戦にある。

これだけの数が揃ってしまえば、対処できる生物は存在しない。

噂に聞く象や獅子でも同じ事。ましてやどれだけ背伸びしても、ヤトは人間。タケルが必ず此処で、倒してみせる。

藪から、また猪が飛び出してきた。

兵士達が滅多差しにして、肉塊に変える。馬上でじっとその様子を見ていたタケルは、順調だなと思う反面。

妙に静かだなとも感じた。

まさか、ヤトはさっさとこの山を逃げ出したか。

いや、そのような事はおそらく無い。包囲から、圧縮へ切り替える機は完璧に読んだ。奴は必ずや、この山で立ち往生している。

「山の東側は、ほぼ終わりました」

「包囲を崩すな。 銅鑼を鳴らし続けろ」

いずれにしても、敵を心理的に潰すのに、銅鑼は最適だ。これが鳴り続けて、平静でいられる筈もない。

もしも、ヤトが逆転する好機があるとすれば。

それは、言うまでも無く、タケルを斃す事だ。しかし、ヤトの奴は、どうやってタケルに近づいてくる。

この不気味な沈黙は。

奴が這い寄ってくる前兆にしか思えない。

「周囲を固めろ」

「分かりました!」

タケルが鍛えた精鋭達だ。

生半可な相手には遅れを取らない。だが、タケル以上かも知れない使い手を相手にして、どこまで通じるかは分からない。

兵士達が、槍を使って、徹底的に山を探り廻る。

銅鑼が、山中を、音によって蹂躙する。

そろそろ、奴の忍耐も限界の筈だ。

タケルは臍を噛む思いを覚えた。どうして、何も変化が無い。或いは、既に敵の術中に落ちているのか。

そんなはずはないと思いたいが。しかし。

その時。

ふと、タケルは気付く。自分の影が、妙に大きくなっていることに。

反射的に飛び退くのと、矢を放つのは、同時。

そして、自分の体に、矢が突き刺さるのも。

「タケル将軍!」

地面に叩き付けられたタケルは、肩に深々突き刺さった矢を、無理矢理に引き抜く。

そして、木の上に引っ込み、するすると逃げていく、考えられないほど大きな蝮を見た。あんな大きな蝮、見た事も無い。実在の生物とは思えない。

それよりもだ。

「敵にも手傷を負わせた! 逃がすな!」

叫ぶ。

蛇はどうでもいい。

今、矢が交錯するようにして、飛んで。

タケルの肩に突き刺さると同時に、ヤトの腹にも突き刺さった。なるほど、静かに待っていたのは、あの大きな蛇を使うつもりだったからか。

おそらく、タケルにそのままでは当てる自信が無かったのだろう。

だから、蛇を使って気を引き、そして一撃必殺。だがタケルは、その矢を避けきった。逆にあの女は。

ヤトは、矢を受けた。

本当だったら、その時点で即死させられた。だが、矢は途中で、枝を一本砕いて、勢いを減じていた。

それだけが悔しい。流石にタケルも、一瞬で枝まで避けて打ち抜く判断は出来なかったのだ。若い頃では経験が足りなかった。今は集中力が足りない。どちらにしても、不可能だっただろう。

この人数に包囲された状況だ。どちらが有利になったかは、言うまでも無い。

毒の類は、矢には塗られていない。鏃も、抜けた。だが、かなり深く矢が突き刺さり、骨も傷つけた。

しばらくタケルは身動きが出来ない。

担架が運ばれてきたので、横になる。

この程度の負傷は慣れっこだ。もっと酷い負傷を受けたことも、何度となくある。

「まさか、将軍が負傷されるとは」

「ナガスネヒコと畿内の覇権を争っていた頃は、それくらいは日常茶飯であったさ。 ナガスネヒコの率いるツチグモ共は強くてな。 今の私に匹敵するような使い手も、少なくは無かった」

「それは、考えにくいです」

「事実だ」

懐かしい事だ。

今は、あの頃よりも、ずっとよい。

だが、朝廷が強くなりすぎたからか。やはり、空隙も目立つようになってしまった。タケルは担架の上で、喚声を聞く。

どうやら、ヤトを見つけたか、追いついたらしい。

後は追撃戦だ。

必ず、仕留めさせる。

 

3、炎の意思

 

矢は、服を貫いて、腹に突き刺さった。

即座に引き抜いた。鏃も中には残っていない。内臓が傷つけられるのも、避けた。内臓の周りを守っていた筋肉が止めたのだ。

だが、それでも激痛が走る。

敵にも発見された。

無数の敵が迫ってくる。

山全体に散っていた敵が、一斉に躍りかかってきたのだから、当然だ。

大量の矢が飛んでくる。枝の上を跳び、反撃。空中で矢を番え、放つ。敵兵の眉間を打ち抜き、着地と同時に更に速射。二人を打ち抜いた。

しかし、横転した味方に構わず、敵は次々迫ってくる。

後ろに飛び退きつつ、矢を放ち続けるが。しかし、このままだと、矢が切れるのは間近だ。

あの蝮。

タケルを襲ったのは、ずっと育てていた蝮だ。蝮に限らず、蛇の類は、豊富な餌を与え、常に暖かくして育てると、ぐっと大きくなる。勿論それ以外にも色々と条件があるのだが、ヤトが手塩に掛けて育ててきた蛇たちは、普通の蝮では考えられないほど大きくなった。袖から出すと、誰もが驚くほどに。

至近、矢が次々と刺さる。

枝を飛び移りながら戦うが、敵は何しろ数が多い。移動しつつ、立ち位置を工夫しているが、それでも後ろに回られる。

四方八方から飛んでくる矢に、ついに被弾し始めた。

最初に股をかすめ、次は二の腕。

舌打ちすると、ヤトは着地。着地しながら鬼を引き抜き、敵の群れに突進すると、見る間に五人を切り伏せた。

だが、鬼が大量の血を浴びて、一気に斬れなくなる。

跳躍し、さほど高くはない崖から下へ。

矢が追ってくる。一本が肩をかすめた。

そして二本目が、背中から脇腹に掛けて、浅く皮膚を抉っていった。

鮮血が噴き出す。

着地。敵が背後に多数。

矢を放ちながら、走る。すぐに矢がきれた。

飛来した矢を、空中で掴む。そして、撃ち返す。敵がどよめきの声を上げるが、すぐに怒りに変わった。

森を飛び出す。前に河。

飛び込むか。

振り返りざまに、矢を切りおとす。二本、三本。後ろに跳躍しながら、また森に飛び込む。今、河はまずいと判断した。

銅鑼が叩きならされ続けていて、カラスの声が聞こえない。

それに、絶えず鼓膜を刺激されて、酷く集中が乱される。

大きく、息を吐いたのは。

飛んできたつぶてが、背中を強か打ったからだ。つぶてを使う兵士がいたか。それも、こんな威力で。

踏みとどまると、ヤトは走る。

反撃は考えない方が良いだろう。タケルには手傷を負わせた。それも、しばらくは肩が使い物にならないほどの奴をだ。

それで今は充分と思う。

此方の手傷の方が深い。ただし、ヤマトにとってのタケルの重要性を考えると、この辺りで痛み分けだ。

しばらく走って、兵士共を引きはがす。

夜中になるまで追撃は続いた。確かこの辺りは、ヤマトの中枢の近くの筈だ。この辺りの山だったら、例え追撃が掛かっても逃げ切る自信はある。

これで、大丈夫だろう。

呼吸を整えながら、持ってきていた水を口にした。袖から干し肉を出してかじる。此処まで追い詰められるとは思わなかった。森の中で戦ってこれだ。敵の誘いに乗ってしまったことを反省しなければならない。

それに、タケルも殺せなかった。

殺しておきたかった。

歯ぎしりしたヤトは、行き場のない拳を、ゆっくり振り下ろした。森の大事な財産である木々に八つ当たりするわけにはいかない。

適当な横穴を探す。

幾つか掘ってあったのだが、全て潰れてしまっていた。最近気付いたのだが、ヤトは横穴が好きなのにも関わらず、掘るのが下手らしい。殺し合いや、生活のために必要な技術は既に修めているというのに。

どうして、趣味に関しては、こうも技量がおとるのか。

嘆いている暇も無い。

梟たちを飛ばし、周囲を警戒させる。

流石に夜になってからは、タケルの部下達も、銅鑼を鳴らすのは控えはじめていた。居場所を教えるようなものだからだろう。

危険が消えたからか。

酷く、体中が痛み始めていた。特に腹に受けた矢傷と、背中に当たったつぶてがかなり酷い。

手早く横穴を掘ると、全身の状態を確認。

背中は少し触ってみて、思わず顔をしかめていた。これは少し逸れていたら、脊椎を損傷していたかも知れない。危ないところだったのだ。それにしても走るヤトに、的確に当ててくるとは。

このつぶてを投げた奴は、何者だ。

服を脱いだ後、傷の手当てをはじめる。

とはいっても、薬草を塗り込むくらいしか出来ない。薬草の知識はあるが、それも短時間で傷が治るようなものなどは存在していない。

痛みについては、戦いの結果だ。

傷を付けた奴を恨むようなこともないし、憎んでもいない。ただ、タケルを殺せなかった事だけは惜しかった。

黙々と、手当を続けて。

そして、潰れてしまった横穴から回収しておいた、干し肉をかじる。

辺りの野草も、手当たり次第に口に入れる。

麻痺毒を体から抜いたときよりも、これは回復に時間が掛かるかも知れない。タケルとどちらが回復するのが早いか、勝負になるだろう。

傷の手当てが終わった所で、木に背中を預けて眠る。

タケルをせっかく負傷させたのだ。

これを生かさない手はない。

転んでもただでは起きてはならない。この戦果、最大限に活用しなければ、ヤトには勝ち目が無くなるだろう。

しばらく、無心に眠った。

時々、無意識に蚊や体に登ってくる虫を叩いていたようだが、どうでもいい。目が覚めてからは、さっと虫たちも散る。

ヤトが放っている、針のような殺気に気付いて逃げてしまうのだ。

まだ体は痛いが、動くには動ける。歩き出して、舌打ちした。背中の痛みが、予想以上に大きい。

これでは、普段よりもだいぶ力が落ちるだろう。

まず、出向くのは千里の所だ。

あの騒ぎの中、紀伊から部下を回収できたか、聞かなければならない。

 

千里は、部下達とたき火を囲んでいた。

丁度側には、子供を抱きかかえた鵯もいる。話の内容を、必要も無いのに木陰から聞いてしまうヤトは。一種の職業病かも知れない。

いずれにしても、無事だと言うことは、作戦は上手く行ったと見て良いだろう。

「それでは、全員を無事に此方に届けられたんですね」

「そうなるな。 遠くから見たが、タケルの軍と山神が戦っていやがったよ。 まだ生きているかはわからねえな」

「あまり滅多な事をいいなさいますな。 逃れてきた者達については、此方で行き先を手配します」

「頼むぜ。 それにしてもこれだけの人数を動かし続けて、良くも暗記できるもんだな」

千里が腰を上げようとした所で、固まる。

ヤトが闇の中から浮き上がるようにして、姿を見せたからだ。

鵯が目を細めたのが分かった。好意的な意味では無いだろう。

「手酷く怪我をしたようですね、夜刀様」

「この程度はものの数では無い。 私が山の中の戦いで、遅れを取るものか」

「……」

冷静に、鵯は判断した様子だ。

ヤトがかなり無理をしていると。実際には、できるだけ今の状態では、戦いたくはない。一方で千里は、ヤトの受けた傷に、気付いている様子が無い。

状況について、二人に確認。

今聞いた以上の情報は無い。鵯は子供を数人あやしていた。子供達はヤトを見ると、完全に身を竦ませてしまい、鵯にすがりついている。泣きそうになっている子供もいた。面倒だなと、ヤトは思った。

だからさっさと、話を切り上げることにする。

「千里。 タケルが負傷した」

「そうかい。 えっ!? 何だと!」

「私が射た。 あの様子だと、当分右腕は使い物にならぬだろう」

「本当かよ……!」

タケルの武勇は、文字通り絶倫。此奴らでは、束になっても叶わないだろう。或いは、千里自身も、タケルを見た事があるとすれば。

今のヤトの発言は、どういう意味を持つか、分かるはずだ。

「すぐに紀伊、いや畿内全域にこの情報を流せ。 できる限り遠くにまで拡散させろ」

「あんたの名は出すのか」

「いや、山に住む物の怪との戦いで負傷した、とでもしておけ」

「了解……」

千里が舌なめずりする。

実際、タケルが負傷した事に変わりは無い。兵士達はそれを漏らさないだろうが、紀伊に戻れば、絶対に噂になる。

それが拡散でもしたら。

タケルに対する絶対的な信仰は、崩れる。

千里が部下達を連れて姿を消すのを見届けると、ヤトは満足した。あと一つ、手を打っておきたい。

だが、その場から消える前に、鵯が咳払いした。

「それよりも、夜刀様」

「どうした」

「一体何をもくろんでいるのですか。 貴方なら、命がけでこの子達を救うような事はしないでしょうに」

「策のついでだ。 タケルめを討ち取る好機が訪れた。 だから、そのついでに、その子供らを救ってやった」

鵯が、静かな怒りを湛える。

ヤトは不可思議だと思ったが、その様子を見守った。此奴は、いつもヤトの前では機嫌が悪そうだが。今日のは少し性質が違うように思えた。

「それは、嘘です」

「どうしてそう思う」

「戦いの経緯については、私も聞いています。 敵軍にタケル将軍がいると、貴方は最初、気付いていなかったのでは?」

「だとして、お前が怒る理由が分からん」

嘘つきは、嫌いです。

そう、鵯は血を吐くような表情で言った。

しばし視線がぶつかり合う。必死の怒りを浮かべる鵯。それに対して、怒り狂った鼬を見る大熊に等しいヤト。

視線を最初にそらしたのは、ヤトだった。

「その通り。 確かに最初、タケルめが敵にいるとは私も思ってはいなかった。 そやつらを助けたのは、気まぐれからだ」

「今ので確信できました。 貴方は、人間です」

「……? なんでそうなる」

「貴方は、いずれ心をそうやって殻で覆ってしまった事を、後悔する事になるでしょう」

よく分からない。心を、殻で覆うか。

或いは、此奴自身が、そうだったのかも知れない。クマソの巫女だったのだとすれば、おそらくまともな感情を外に示すことは、許されていなかっただろう。

「分かってはいるだろうが、三人に一人は生かせ。 期待しているぞ」

「貴方たち。 このお姉さんがボロボロになるまで戦って、助けてくれたのよ。 お礼をいいなさい」

「な……」

子供達は、露骨にヤトを怖がっていたが。

しかし、もう一度鵯が促すと、一番年長の子が最初に。他の子達も続いて。頭をぺこりと下げたのだった。

「ありがとうございます、ヤトさま……」

なんと返して良いのか、よく分からない。

ただ、極めて面倒な感情をぶつけられたように、ヤトは思った。苛立ちに近い感情が浮かんで来たので、もういいと吐き捨てると、その場を後にする。

集中も乱れた。

だからだろうか、痛みがかなりきつくなってきた。

途中、河に出る。魚を数匹無心に捕まえると、焼いて頬張る。鮒ばかりだったが、良く脂がのっていた。この辺りの山に、人間の手があまり入っていない証拠だ。

魚を食べた後は、骨を降りてきたカラスたちに放ってやる。

無言で膝を抱えたヤトは、呟いていた。

「痛い……な」

弱みなど、誰にも見せるつもりはない。

痛いとしても、外には助けなど求めない。

 

数日間、ヤトは居場所を移しながら、体力の回復に専念した。傷には薬草を張り替え、栄養がつく肉を率先して口にした。

タケルの部下も、いつもよりかなり多い頻度で見かけたが、姿など見せない。

勿論、生活の痕跡など、残しては置かない。

タケルの部下達は、時々ヤトの部下とも接触していた。尋問はしていたが、無駄なことだ。ヤトは基本的に、千里や鵯にも、居場所はあかさない。ふらりと姿を見せては、指示をして去るだけだ。

末端の弱者が、知るはずも無い。

そればかりか、部下の中には、本気でヤトをカミだと信じている者もいる。話を聞いても要領を得ないようで、兵士達はうんざりしてその場を離れるようだった。独自の信仰を持っている、特殊な民、くらいにしか考えていないのだろう。

それでいい。

そういった、無害な者に見える連中が作り上げる情報の網。それが、ヤマトを根元から揺るがしていくのだ。

自分の戦略が機能していることを確認すると、ヤトは満足して、別の穴に身を潜める。今の時点では、余程悪戯をしない限り、タケルの部下は殺さない。その場にヤトがいると、教えるようなものだからだ。

勿論、万全では無いから、という理由もある。

背中の痛みが、まだ取れない。

タケルと戦って、四日目の事。タケル自身を、久々に目にすることとなった。布のようなもので、左腕を吊っている。馬上で指揮を執り続けているが、周囲はいつも以上に、分厚く兵士達が固めていた。

あれから更に多くの兵士を呼び寄せたらしい。

遠くから見る限り、直衛だけで千以上いる。周囲に散ってヤトを探している兵士は、同数以上いるとみて良いだろう。

「タケル将軍、おけがに障ります。 我々が探しますから、お休みください」

「愚かな事を申すな。 奴は必ず近辺にいる。 私が指揮を執らずして、誰が探すというのか」

これは。

好都合だ。

タケルはヤトに、思った以上に拘泥している。それだけ危険視している、という事だろう。

ちょっかいを出し続けることで、怪我の回復を遅らせることが可能だ。

かといって、今のヤトでは、真正面からあの敵に挑む余力はない。追いかけられて、逃げ切る自信も無かった。

タケルの側に、屈強そうな若者が跪く。

何となく、直感できた。つぶてを投げたのは、彼奴だろう。

「痕跡は見つかりません」

「遠くへは行っていないはずだ。 必ずや探し出せ」

「しかし……」

「つぶての手応えはあったのだろう? そなたのつぶての腕は、信用しておる。 必ず奴は、深手を受けている。 しかも、性格上、必ず私を仕留める機会を狙っている筈。 近くにいることは間違いない」

前半に関しては、その通りと、ヤトはうそぶく。

今は結果待ちだ。

千里による、タケル負傷の情報拡散。それが上手く行ってから、ヤトは改めて動こうと思っている。

今、タケルに仕掛けるのは、危険が大きすぎる。

その場を離れる。カラスを数羽監視に付けておいたから、問題は無いだろう。後は、タケルを襲撃させた蝮を、回収しておかなければならない。

ゆっくり移動しつつ、敵の動きを見る。

広域に網を広げているが、明らかにヤトを捕捉は出来ていない。しかし一度捕捉されてしまえば、かなり面倒な事になる。それこそ黄泉の底まで追う覚悟で迫ってくることだろう。

夜中に、蝮を見つけた。

ヤトに気付いて、すぐにすり寄ってきた蝮を、袖に入れる。

地力で餌を取れるようにはしてあるが、ヤトの側にいれば安定して、しかも栄養価が高い餌が得られると知っているのだ。その上ヤトの体温を常に受けているので、動きも活発になる。

ヤトもヤトで、蝮を様々に活用しているのだから、これは五分五分の関係である。どちらにも、利がある。だからこそ、蝮はヤトに尽くす。蛇はあまり知性が高くは無いが、それでもヤトの事は識別できる。

裏切る事も、ない。

蝮を回収したことで、一安心した。

ヤトは横穴を掘って、少し長めに眠る。敵に発見される可能性は下がっているし、少しくらいなら、大丈夫だ。

そう思うと、すぐに睡魔が襲ってきた。

今は、睡魔に逆らいたくない。ヤトは、そう思った。

 

4、走る二つの激震

 

結局、ヤトを捉えることは出来なかった。

一週間の追撃の後、敵を捕捉できなかったタケルは、不平満々のまま紀伊に戻ってきた。出迎えた部下の将軍達は、まだ腕を吊っているタケルを見て、心底安心した様子であった。

「タケル将軍、ご戦勝おめでとうございます」

「何を言うか。 あれが勝ちなものか」

互いに手の内は晒しきってはいないのだけが救いだ。

負傷し合って、それだけ。

タケルは夜刀を仕留めきれなかった。夜刀もタケルを殺せなかった。良くて痛み分け、という所だろう。

紀伊の情勢について報告せよと言うが。

しかし、その場で、驚くべき事を聞くことになった。

「実は、先ほど大変な情報が入ってきました。 紀伊に関わっている場合ではないかも知れません」

「何か起きたか」

「はい。 東北に展開していた、東のタケル将軍の軍勢が、大きな被害を出して後退した模様です。 西、南のタケル将軍は、勢力を盛り返した蝦夷の軍勢に大きな被害を与えたものの、体勢を立て直すために後退。 戦線が膠着しました」

「何……っ!」

思わず、タケルは立ち上がっていた。

東のタケルは、北のタケルと言われる自分とも面識がある。非常な長身で、タケルと呼ばれる四人の中では最年少。ナガスネヒコの戦いの後、オオキミ武王に抜擢された将軍である。

武勇は兎も角、戦闘に関する抜群の才覚を持ち、作戦指揮に関してはタケル以上とみて良いだろう。

「あの東のが、如何にして敗れた。 蝦夷の指揮官は、どれも凡庸だと聞いているぞ」

「それが、まだ委細は分かりませぬ。 ただ、アマツミカボシなる指揮官が敵に現れ、その奇策の前に大きな損害を受けたとしか……。 東のタケル将軍は無事なようですが、麾下の軍勢は再編成が必要だとかで、現在関東にまで下がっています」

「アマツミカボシ……」

聞いたことの無い名前だ。

もしも敵の指揮官だとすると、若手の将軍だろうか。そうだとすると、恐るべき相手とみて良い。

東のは、六千近い兵を率いていたはず。

その上兵士達は、歴戦で鍛えられた猛者揃い。生半可な奇策如きで、どうにか出来る存在では無い。

もしも破ったのだとすれば。

夜刀以上の脅威となると判断できる。

相当な戦の才覚の持ち主だ。もしも倒すのであれば、朝廷の総力を挙げなければならないだろう。

だが、タケルとしては、むしろ良い機会だと思う。

敵が攻勢に出ることは、戦力的に無理だ。東北戦線に張り付いている三人のタケルの内、一人の軍勢を潰しても、まだまだ此方が戦力でかなり上回っているのだから。それならば、戦線を固定して、地固めに移るべきかも知れない。

いずれしかるべきときが来たら、全戦力で押しつぶせば良い。まだこのアキツの島には、朝廷の威光が及ばない土地も珍しくは無いのだ。完全に地固めを終えたら、今の数倍の兵力を、東北に派遣することも可能になる。

だが、判断するのは武王だ。

勿論、書状で意見は伝える。しかし一刻も早い統一をと武王が考えれば、拙速が選ばれるかも知れない。

「近いうちに、私が東北に出向かなければならない、かも知れぬな」

「それについてなのですが」

「如何したか」

「実はタケル将軍が負傷したという噂が流れてきております。 それも、得体が知れない物の怪と戦い、調伏に失敗したと」

そちらについては、すぐに分かった。

夜刀の仕業だろう。中々に頭が働く奴だ。タケルの負傷を周囲に喧伝することで、混乱を拡大し、隙を作るつもりというわけか。

「負傷したのは事実だが、気に入らぬな」

「噂の拡散を止めますか」

「無用。 それよりも、私の生命に別状はなく、指揮を執るにも問題は無いと、情報を重ねて拡散しておけ」

それで充分だ。

紀伊の賊は、既にあらかたを叩き潰している。

今後は民の安寧を測り、紀伊の安定を見届けたら。別の地域の地固めをするべく、移動しようと思っていた所だ。

もしも動くとすれば、伊賀か。或いは、四国の何処かか。

調査によると、どちらもまだまだ朝廷の威光が充分では無いと聞く。或いは飛騨辺りも良いかも知れない。

近辺での地固めを重視するなら、伊賀だろう。

ただ、今はどう状況が動くか、全く分からない。

「紀伊については、どうなっている」

「賊の処理が終了したことで、静かになっています。 税についても、収められるようになりました」

「くれぐれも傲慢な真似はしないよう、文官達に釘を刺しておけ。 民があっての国なのだ。 税が納められない場合は、多少の目こぼしも考えよ。 ただし、侮られないように、引き締めるべき所は引き締めるのだ」

多くの兵を養うには、それだけしっかりした土台が必要になる。

アキツは大陸の国家に比べれば、田舎も良いところだ。人口も少ないし、技術だって稚拙。

大陸の国家から、軍が攻めこんできたとき。

戦えるようにするためには、地金を鍛えておかなければならない。それにはまだまだ、この国は未熟すぎる。

一通り報告を受けた後、医師の診察を受ける。

処置が早かった事もあって、傷の治りは順調だそうだ。薬草についても、よいものを使っていたから、問題は無い。

ただし、弓が引けるようになるには、後二月はいると、医師に言われた。

「二月、か」

「無理をすれば、それだけ治りが遅くなります」

「骨が鏃で抉られていたからか」

「それもありますが、タケル将軍は既に御年も召されています。 若者に比べれば、どうしても回復は遅くなります」

少し苛立ちを感じたが。

医師は事実を言っているだけだ。実際、タケルの嫡子は既に成人している。その点、夜刀はまだまだ若い。

奴の回復の方が、おそらく早いだろう。

矢で射った時、枝を一本途中で挟むのを、タケルは見た。もしもそのまま夜刀の体に矢が突き刺さっていたならば、致命傷だったはずだ。

若さ。

それに、森の中での戦いの習熟。

わずかばかりの運。

それらが重なって、今回の戦いでの結果を招いた。双方の実力が近ければ、タケルには不利な結果を招きやすい。

どのみち、医師にはたいした事は出来ない。薬草を選んだり、加持祈祷をしたり。その程度の事が、どれだけの回復の助けになろう。大陸の医師でも、あまりこの辺りは変わらないと聞いている。タケルはもう、己の年齢と相談しながら、傷を癒やしていくしかないのだ。

しばらくは女と寝るのも控えた方が良いだろう。

医師に言われずとも、それくらいのことは理解していた。

タケルが負傷した噂が流れた事で、幾つかはっきりしたことがある。おそらく夜刀は、紀伊の賊を既に配下に入れている。生き残りはわずかだろうが、それでもかって紀伊を好き勝手にしていた連中だ。影響力は侮れない。

もう一つ重要なことがある。

夜刀が今回、配下の者どもを、戦闘で使っていないと言うことだ。

戦っても勝ち目が無いから出さなかったという事はあるだろう。しかし、温存できると判断した、というのもあるのではないか。

もしそうならば。

奴の組織は。今、かなり巨大なものに、ふくれあがっているのではないのだろうか。

横になって、静かにしていると。来客があった。

ツクヨミである。

ツクヨミは、都の建設予定地から、昼夜を問わず飛ばしてきたらしかった。危険が大きい山中の路を、わずかな供と。

其処までしたのなら、会わざるを得ないだろう。

半身を起こして、ツクヨミに相対する。

床に来たツクヨミは、儀礼的には完璧な礼をして見せた。挨拶が終わると、タケルはさっそく切り出す。

「それで、何の用件か」

「現在、夜刀を捕らえる策を、進めており」

「そのような事は不可能だと、何度言えば分かる」

この国最強の将軍が、手傷を受けるほどの相手だ。一個人に対しては、最大限の動員をした上で、である。

策に関しても、後から見直して、隙があったか。

いや、無かったと、タケルにも断言できる。

ツクヨミは静かに怒るタケルに、静かに返した。

「お言葉でありますが。 タケル将軍は、知恵のある獣に、武力で挑まれました。 私は、知恵で勝負するつもりにございます」

「奴は知恵も回るぞ。 お前が勝てるかは保証できぬが」

「今、既に夜刀が作り上げた組織については、概要が把握できはじめております」

「何……」

タケルが声を漏らすと同時に。

ツクヨミが、畿内の地図を出してきた。影の者達の姿もある。ここしばらく話を聞かないと思ったら。

なにやら、くだらぬ策を巡らせていたか。

「夜刀は、おそらく部下達を、知らず知らずの上に支配する、という策に出ている様子です」

「ほう。 具体的な組織構築をせず、精神的な長として収まるか。 それで、山神と名乗っている訳なのか」

「さすがはタケル将軍」

タケルも、武力一辺倒でこの地位まで上り詰めたのでは無い。興味深い事象に関しては、心も動かされる。

正直苛立ちは覚えるが。

しかし、今はこの負傷を、少しでも活かす方向へ、話を進めて行きたい。それが、組織に属する者としての、タケルの本音だ。

「殆どの構成員は、浮浪者や、逃散農民でしょう。 しかも彼らは常に移動しながら、一カ所の山に留まることがありません。 中枢で制御している者がいると思われますが、何しろ既に組織の人間は数百に達しているとみられ、特定は極めて困難でしょう」

「紀伊の賊も、それに合流したか」

「ほぼ間違いなく。 この浮浪民達の間に紛れ、山々を移動しつつ、荒事になれば不意に集まる。 故に神出鬼没、というわけにございます」

「厄介な仕組みを考えおったな……」

唸らされた。

かって、大和朝廷の原型となった国でも、巫女による神託という形式で、国を治めていた。

これは大規模国家になるに従い、不適として採用されなくなっていった方式ではあるのだが。

しかし、小規模な組織を、得体が知れない、雲を掴むようなものとして動かすのであれば。

或いは、適しているのかも知れない。

あの女は、このようなところにまで、才覚を有していたか。

夜刀が人間を毛嫌いしていることを、タケルは何となく理解している。奴が心を開いているのは、おそらく山と、それに森だけ。生粋の、森で暮らしてきた蛮族。故に、思考が相容れない。

「それで、どのようにして捕らえる」

「夜刀の有する組織は、能動的に動く場合は、極めて強力な存在として機能します。 これが全国に広がった場合、手が付けられない事態を招くでしょう。 しかし、受動的に攻撃を受けた場合、何も出来ません。 特に長は、おそらく誰一人として、心を開く相手がいないでしょう」

「そうであろうな。 だが、夜刀の居場所を、どのようにして特定する」

実際、今までも。

ツクヨミは、夜刀を捕らえようとして、上手く行っていない。

それに、今の夜刀は、既にタケルに迫る武勇を持っている。弓矢の腕前や、身を隠す術に関しては、タケル以上だ。

どうやって、知恵を得た猛獣を仕留めるか。

ましてや捕らえるなど、生半可な事では、つとまらない。

「簡単なことです。 曖昧な中枢を、他と入れ替えてしまえばいい。 その入れ替える存在が、空っぽであっても、多くのものは気づきさえしないでしょう」

「……なるほど、信仰を中枢としているやり方を、逆利用するというわけだな」

「ご明察にございます。 そして夜刀本人に関しましても、既に対策を用意してございます」

運ばれてきたものを見て、タケルは目を見張った。

このようなものまで、準備していたのか。

おそらくは渡来人のつてを使ったのだろう。だが、ツクヨミは今回、本気であるとみて良い。

「ぶしつけながら、タケル将軍の今回の戦いも、作戦構築の要として利用させていただきました」

「それで、奴を捕縛するとすれば、いつまでに叶う」

「数日以内には」

「よし。 一度だけなら、協力してやる。 ただし、捕らえた奴を飼い慣らせず、逃がした場合。 何より、今回の作戦に失敗した場合は、二度と協力はせぬ。 それは、理解しておけ」

ツクヨミは、平伏した。

タケルは大きく嘆息する。これだけの準備を見せられては、頭ごなしに否定もできない。ツクヨミが退出するのを見届けると、タケルは鈴を鳴らした。念のために、準備を進めておく必要がある。

「墨と筆を」

書状にしたためる内容は、口述でやらせる。

書状の送り先は、タムラノマロ。

もしもツクヨミが失敗した場合。いや、捕らえるのに、成功した場合でも。一つ、確実にこなさなければならないことがある。

「すぐに、手紙を届けよ」

「ただちに」

部下が消えるのを見届けると、タケルは床に横になった。

さて、お手並み拝見と行こう。

目を閉じると、タケルは傷を癒やすことに、専念しようと思った。

 

(続)