藪より躍り出る蛇

 

序、月夜の戦い

 

ヤトは敵の気配に気付いていた。

新しい山を下見に来た直後である。不意に、数十の気配が浮かび上がったのだ。今までとは、包囲の規模が違う。

今のところ、ヤトの気配は察知できていないようなのだが。

しかし、この数は問題だ。

しかも、夜だというのに、この数での包囲である。どうやらヤマトは、ヤトがもくろんでいることに、うすうす気づきはじめたのか。いや、まさか気付くはずが無い。そうなると、ヤト自身が目標と言うことになる。

梟たちが鳴いている。

敵は既に、山全体に散っている。

目を閉じて、気配を探る。

梟の声も聞いて、敵の位置を把握していくが。しかし、十数にも達する部隊が同時に動き回っていることを理解したので、全てを把握することは断念した。

自分の支配下に置いている森であれば、敵と戦って負ける事はまずあり得ない。今回は最低でも五十人以上いるが、それでもその気になれば、一人も生きて山から出さない事も、やりようによっては可能だ。

しかし、この山は違う。

まだ入ったばかりで、殆どどうなっているか理解していない。此処で襲われるのは、著しくまずい。

敵は包囲網を狭めてきている。

ヤトは音を立てずに、夜の山を走る。敵にはまだ気付かれていないが、技量は遠くから気配を察するだけでも、かなり高い。

至近を通り過ぎて、気付かれないほど甘い相手でも無いだろう。

もしも一カ所でも接敵したら、無傷で逃げ切る自信は無い。

人間とは隔絶した力を得ている自信があるヤトだが。

それでも、多数の訓練を受けた人間と戦って、勝てる保証は無いのだ。

それにしても、どうしてこの山に入った事を、敵が察知できたのか。ヤトは基本的に誰も信用していない。これからどこへ行くというような話はしない。裏切り者がいても、全く問題ないのは、ヤトの行動を誰にも教えていないからだ。

かといって、そもそもヤトの正体さえ掴んでいないような連中が、どうやって先回りをして、此処までの包囲網を敷いた。

敵の動きを冷静に分析しながら、山の中を走る。

月が出たので、足を止めた。

敵は自分の居場所を隠すつもりが無いらしく、威圧的に迫ってきている。足音を聞く限り、かなり手強い。

ヤトが足を止める。

下に崖。

なるほど、これは包囲の穴を抜けたのでは無い。

追い込まれていたという事か。

首を軽く動かして、矢を避ける。更に振り返りざまに、矢を手で掴んで、握り折った。態勢を低くして、走る。走りながら、手を鬼に掛ける。

一人目。

袈裟に斬り伏せる。

二人目、首を飛ばす。

剣を抜こうとしていた三人目の顔面を蹴り砕くと、そのまま跳躍し、幹を蹴って枝に上がる。首の骨が折れた感触があったが、確かめている余裕は無い。

そのまま、枝の上を飛び渡る。

鋭い笛の音。

一斉に、数十人が此方に迫っているのが分かった。だが、それは想定通り。大きく枝を蹴って跳ぶと。

ヤトは、闇に身を隠した。

否。

そのまま飛び降りて、崖の中腹を何度か蹴り、勢いを殺したのである。崖の途中の石を掴んで身を支えながら、ゆっくり底へと降りていく。今のはかなり危ない賭だったが、それでもやってみる価値はあった。

上の方で、気配が動き回っている。

枝を大きく蹴って揺らしておいたから、その辺りに潜んでいるはずだと思っているのだろう。

崖を可能な限り急いで降りる。

手には強いしびれが残っていたが、この程度は何でも無い。もっとも、本来のヤトの身体能力であったら、肩が抜けていただろうが。

崖の途中に大岩があったので、その下に隠れる。

岩自体がかなり不安定なので、あまり長居はしたくない。幸い、夜明けまではまだまだ時間がある。

「いたか!?」

「見つかりません!」

「木の上を重点的に探せ!」

敵が走り回りながら、喋っているのが分かる。

だが、これは嘘の情報の可能性もある。わざわざ敵に分かるように、今していることを話しているとは思えない。

勿論そんな間抜けの場合は、ヤトの敵では無い。

大岩の下を離れて、崖の下へ急ぐ。

後ヤトの体にして四つ分という高さまで来た。下は川が流れているが、水は浅く、落ちていたら粉々に砕かれていただろう。

無言で手を離したのは、矢が飛んできたからだ。

数本の矢が、体をかすめる。

その際、何カ所か皮膚を切り裂かれた。

岩を蹴って勢いを殺しながら、川に飛び込む。

やはり上での話し声は嘘だったか。

幸い、ヤトは水に関して、相当にここしばらくの訓練で習熟した。泳いで川下へ行くことは造作も無い。

だが、夜の河は冷たく、体力を容赦なく奪っていく。

それだけではない。

上から、無数の石が降り注いでくる。どうあってもヤトを殺すつもりか。上等。それくらいでなければ、殺しがいが無い。

二度息継ぎのために顔を水面に出したが、敵はついてきている。

手を払ったのは、矢を落とすためだ。遠矢とは言え、刺さると面白くない。そのまままた潜り、下流へ。

体力を見る間に奪われていくのが分かった。

おそらく、矢に毒が塗られていたとみて良いだろう。しかもこの毒、しびれを誘発するものだ。

無言でヤトは、水に逆らわないように、泳ぐ。

息継ぎで顔を上げた瞬間。

強い殺気が飛んでくる。

至近に飛び込む人間。水中で、星明かりを挟んで、ヤトはそいつと対峙した。既に手は鬼に掛けている。だが水中で、どれだけツルギが役に立つか。

相手は大人の男だが、かなり小柄だ。

しかし引き締まった筋肉が、その生い立ちと実力を語っている。しかも、水の中で、ヤトに追いついてきている。

にわか仕込みの水泳では、無理。

判断したヤトは浅瀬に出ると、跳躍して、河原に躍り出た。

敵の殆どは引きはがした。

此奴は。どうやってヤトに追いついてきた。

敵戦士が、河から上がってくる。月明かりに照らされたその顔は、まさに異形だった。左目はなく、鼻もそぎ落とされている。口の中にも、殆ど歯が残っていない。相当に激しい戦いをくぐり抜けてきた、という事を、凄まじい負傷が示している。

走りながら、ヤトは何度か身震いして、水のしずくを落とした。

まだ、自分の庭に等しい山まで、少し距離がある。

相手はぴったりついてきていた。笛を口に当てようとしたので、蹴り挙げた石を投げつける。

ひょうと風の音を鳴らしながら、男が避ける。

「中々に鋭いつぶてだ」

「……」

「貴様が、この近辺で蠢動している大蛇だな。 来てもらうぞ。 有無は言わさぬ」

「そうかそうか。 私を捕らえられるつもりか」

ヤトはおそらく笑っていただろう。

これだけの作戦で、ヤトを追い詰めに来た奴らだ。ヤトを過小評価してはいないだろうと思っていたのだが。

どうやら当てが外れたらしい。

残像を残し、河原を走る。男が目を見張ったときには、ヤトは既に至近。

振り下ろす鬼が、水しぶきを散らしながら、相手の袈裟に潜り込む。

だが、斬った手応えは無い。

男もまた、残像を残して、一撃を避けていた。

下がりながら、ツルギを振り上げてくる。鬼よりもだいぶ短いツルギだが、鋭さは負けていない。ヤトは跳躍して一撃をかわすと、回転して空中で男を見下ろしながら、一撃を放つ。首を刎ねるつもりだったが、これも男は態勢を低くしてかわした。

ヤトが着地。

男が振り返る。

しゃがんだ態勢から伸び上がりつつ振り上げたヤトの鬼を、男がツルギを横にして防ぐ。膠着は一瞬。金属音を立て、互いに弾きあう。

速度を上げていく。

横殴りにヤトの振るった鬼が、男の装束を浅く裂く。

男は河原を大きく飛び退くと、ツルギを此方に向けたまま、すり足で下がる。なるほど、時間を稼ぐつもりか。

だが、ヤトは男に時間など稼がせない。

最短距離をまっすぐ詰めると、男のツルギを横殴りに払う。相手の守りを力尽くで突破するためだ。

開いている左手を伸ばし、男の胸につく。

そして、踏み込みと同時に、衝撃を叩き込んだ。

男が、身長の二倍半ほど吹っ飛ぶ。

だが、着地の際に、ちゃんと受け身を取っていた。そのまま躍りかかるヤトの一撃を、二度までいなす。

「驚いた。 人間の領域を越えているな」

「私は生憎人間では無い」

「山神と言われるだけのことはある。 しびれの毒も、廻る様子が無い。 此処は引かぬと危ないな」

いきなり男が、何かを投げつけてきた。

服の袖で払うと、大きな音が立つ。原理は分からないが、とにかく派手に破裂した。

驚いた瞬間、男は河に飛び込んでいた。水の中では、相手の動きの方が早い。斬りかかってきたのだったら、返り討ちにしてやったのだが。相手の判断力に舌打ち。これは逃げられた。

鬼についた水を拭うと、鞘に収める。

一人だけ追いついてきたところから言っても、あの数十人の中で、最強の使い手だったとみて良いだろう。

体の状態を確認。

骨は折れていないし、内臓も無事だ。

筋肉も痛めている場所は無い。問題は毒を受けている事だが、それもどうにか耐え抜ける。普通の人間だったら動けなくなっている所だろうが、もうヤトはそういった意味でも、人間とは言いがたい。

呼吸を少し整えた。男は既に、泳ぎ去った後だった。

走る。

かって知ったる自分の山までは、後少し。

どうやら、包囲は突破した様子だった。

 

山の中で集合した、ツクヨミ麾下の影のもの達は、被害と、情報を確認していた。

三人が、瞬く間に殺された。

敵が逃げた経路も分かっている。

枝を大きく蹴って跳躍した後、滑り込むようにして崖に。そして崖を伝って河に逃れた。幾つかの状況から、それは確実だ。

水に濡れた黒猿が上がってくる。

蛟は黒猿が敵を仕留めたかと思ったのだが。黒猿は、跪いて言った。

「申し訳ありません。 逃がしました」

「そなたほどの手練れがか」

「水中では某の方が上でありましたが。 陸上での斬り合いとなると、勝ち目はなく」

ただし、敵の顔は確認してきたという。

やはり女。

美しい黒髪を蓄えてはいるが、顔には火傷の跡がある。左頬から左目を覆うようにして、赤黒い火傷の跡がある様相は壮絶だったという。

死体の様子を見せる。

いずれもが一瞬で殺されていた。

どの影のものも、手練れだ。暗殺と諜報の達人であり、闇に紛れて動く事を生業としている。

それがこうも、一瞬で。

相手の身体能力の高さは分かっていたのに。どうして、このようなことになった。

「どう思う、皆の者」

「これは仮説ですが」

挙手したものがいる。青鬼と呼ばれる、大柄な影の者だ。見かけと裏腹に頭脳派であり、蛟は参謀代わりに、側に置いている事が多かった。

他のもの達の、青鬼の頭脳は認めている。

「戦場などで、人間は普段を遙かに超える力を出すことがございます。 この切り口、とても尋常な人間に作り出せるものではありません。 ほぼ間違いなく、体の制御が効かなくなっているのでしょう」

「それだと、寿命が縮みそうだが」

「いえ、それは楽観的に過ぎるかと思います」

事実、今までも、相手は此方に対して隙を見せていないのだ。

頭の線がキレているとしても。それに適応してしまっているのだとすれば。それは、とんでもない怪物の誕生を意味している。

今回の包囲作戦は、そもそも綿密に準備されたものだった。

敵が行動範囲を広げている状況を観察し、この山に入り込んでくる事は確実と結論したのはツクヨミだった。

ツクヨミは命令してきた。

必ず、山神を捕らえるように、と。

そのため、全員が武器にも矢にも麻痺を引き起こす毒を塗って出陣した。

だが、その結果がこれだ。

相手は想像以上の怪物だった、などというのは、言い訳にもならない。実際タケルは、相手を必ず殺すようにと、ツクヨミに指示していたらしいのだから。

ツクヨミは言ったのだ。

この国には、多くの人材がいると。

例え使い道が無さそうでも、品行が方正でなくとも。力があれば、使う必要がある。使いこなしていかなければならない。

そうしなければ、やがてこの国は。大陸の軍に飲み込まれてしまう。

それは分かる。だが、今回の件で、はっきりした。

相手は、生きて捕らえられるような存在では無い。

次は、確実に殺す事を目標として、戦わなければならないだろう。

「一度引く。 これ以上此方の手の内を見せるのはまずいし、勢力圏に入った山神を仕留めるのはもっと難しいと見て良いだろう」

全員が頷く。

今回は相手の顔を確認できただけでも上出来だ。それに、実力のほども理解できた。相手は、包囲網から逃れた。

それはつまり、包囲されればまずいという事を意味してもいる。

人間離れした身体能力を見せつけてきた。

しかしそれは、人間離れしてはいても、現実に乖離したものではない事も分かった。

殺せる。

倒せる。

ヤマトの敵として、排除すべき相手だと、理解できた。

全員が、戦場から引き揚げはじめる。

まだ山神の素性は分からない。似顔絵について、タケルに示せば、或いは疑惑がある夜刀なる人物であると断言するかも知れないが。それは別に、影の者の仕事が楽になる事を意味しない。

夜明けには、屋敷に戻った。

部下達も、おいおい休ませる。蛟自身は報告書を造り、オオキミとツクヨミに提出しなければならない。

机を前に、墨を擦らなければならないのは、多少面倒だが。こればかりは、仕方が無い。上に立つ人間の責任だ。

軽く仮眠を終えた頃、ツクヨミに呼ばれる。

ヤマトの頭脳と呼ばれる若き官吏は、既に報告書に目を通していた。

「精鋭である影の者を、三人瞬く間に斬り伏せたか」

「は。 我らの力至らず、逃しました」

「よい。 相手が万能では無い事がこれでよく分かった。 しっかり戦略を錬って挑めば、倒せぬ相手では無い」

似顔絵についても、提出済みである。

取り立てて美人では無い。むしろ顔の火傷が、恐怖さえ覚えさせる。それほど酷い火傷では無いのだが、どうしてか強く印象に残るのだ。

それも、山神という存在に、自身を見せるために活用しているのだろう。怪我さえ利用するのだから、たいした強かさだ。

顔の傷を気にして心を病むような普通の人間だったなら、どれだけ対応が楽だっただろう。

この女は、化け物。

今では、そう断言できる。

それなのに。ツクヨミは、とんでも無い事を言い出す。

「だが、やはり私は、そのものを飼い慣らしたい」

「ツクヨミ様!?」

「タケル将軍は、軍の事だけを考えていれば良いと、私は思っている。 この国の裏側から、統一を支えるのは、私の仕事だ。 そして山神は能力的にも、実に得がたい部下になる筈だ」

無理だ。

叫びたくなったが、こらえる。

決して臆病風に吹かれたのでは無い。相手は知恵を得た大熊のようなものだ。力は完全に人間を越え、知恵でも並の人間を上回っている。

包囲網を抜けたときの判断力の高さに、応用の利いた行動。

黒猿に戦闘の経緯も聞いているが、とてもではないが素人のものではない。歴戦に次ぐ歴戦で、鍛えに鍛え抜かれた動きだったという。

人間の知恵を得た猛獣。

そんな相手を、捕らえるなど。

ましてや飼い慣らすなど、不可能に決まっている。

震える声を押し殺して、どうにか取り繕う。ツクヨミは、此方を冷然と見ていた。細い目が、感情を此方に悟らせない。

「恐れながら。 山神の実力は、想像以上のものがございます。 生かして捕らえるのは、断念した方が良いかと」

「自信が無いか」

「自信のあるなしではありません。 不可能かと」

「ふむ……」

思い直してくれるだろうか。

否。ツクヨミは、そのように物わかりが良い若造では無い。若くして、この国の知的労働を任されているほどの官だ。

それに、オオキミ武王は、とてもではないが、ころりと騙されるような存在では無い。この若者に力があるからこそ、大役を任せている。

故に、ツクヨミは大きな誇りを持っている。

誇りは、柔軟な思考を阻害する。特に、地位が下のものからの提言など、受け入れることは難しいだろう。

絶望が蛟の心を締め上げる。

「現状で無理ならば、捕らえる方法を考えよ」

「ツクヨミ様!」

「くどいぞ。 私の考えは変わらぬ。 ただし、命を捨てよとも言わぬ。 山神をどうにかして、捕らえるのだ。 策が必要なら、私が錬る。 お前達は、情報を集め、山神を捕らえる術を探れ」

平伏すると、その場を離れる。

蛟は暗澹たる気持ちとなった。此方が何かしらの戦略を練るとして、相手がそれに乗ってくれるか分からない。

戦略が破綻しているのなら、どう戦術を工夫しても無駄だろう。

影のもの達は、ようやく組織が固まり、しっかりした動きが出来るようにまでなってきた。

もしあの山神を捕らえるとしたら。

せっかく組織化した影のもの達の、多くが無為に死ぬ事になるだろう。おそらく、ツクヨミは今頃、武王を説得しに掛かっているはずだ。

そして武王は、ツクヨミの意見を聞き入れるだろう。ツクヨミは頭がとにかく切れる。元々狷介で周囲から受け入れられなかったツクヨミを、拾ったのは武王だ。それに感謝したツクヨミは、武王に絶対の忠誠を誓っている。

唯一認めてくれた存在だから、である。

そしてそれを、武王は高く評価している。絶対に裏切らない事を確信して、全幅の期待を寄せている。

大変麗しい主従関係だが。

それは、蛟達にとっては、地獄の到来を意味するものに他ならない。

蛟は屋敷に戻ると、嘆息した。

案の定、武王から。翌日には、ツクヨミの指示通り、可能な限り山神を捕らえるようにと言う命令が来た。

もはや引く場所は無い。

これから蛟達は、知恵を持った猛獣と、素手で戦う覚悟を決めなければならなかった。

 

1、大蛇の穴

 

ヤトはかって知ったる山に入ると、ようやく一息ついた。

麻痺毒を仕込まれた傷が痛む。

ヤトも人間離れしているとは言え、生物だ。毒は通じる。ただし、効きが普通の人間よりだいぶ遅れる。それだけだ。

潜むに相応しい穴を見つけたので、ようやくその中で腰を下ろした。

こういった穴には、肉や食糧を、ある程度あらかじめ蓄えてある。土から掘り出した燻製を囓りながら、ヤトは冷静に分析を進めていた。

体への負担が来るのは、これからだ。

動ける内に、やっておくべき事が幾つもある。

まずは喰う。

そして、飲む。

この穴は近くに河があるから、排泄にも困らない。しばらくは無心で、食べ続けた。肉が終わってしまったので、外に出て、食べられる葉や木の実を片端から口に入れる。周囲に警戒は欠かさない。

ただし今は余裕が無い。

周囲で下手な動きをされたら、その場で斬ってしまうだろう。

穴の中に戻ると、横になって、まるまる。

最近気付いたのだが、ヤトは丸まった方がよく眠ることが出来るのだ。普通の人間は大の字の方が良く眠れるようだと知ったのは、最近のことである。

無心に眠りを貪る。

目が覚めると、やはりかなり体力の消耗が酷かった。

月明かりの下、河まで降りて、体を洗う。ついでに排泄も済ませる。ひんやりとした水が、筋肉を引き締めるようだ。

顔を洗うと、随分すっきりしたが。

体の中に、鉛でも仕込まれているかのようだ。それだけ強力な毒が塗りたくられていた、という事だ。

再び穴に戻る。

周囲に人間がいる気配はない。カラスたちも、何もいないと告げてきている。

穴の中で、今度は背中を壁に預けて眠る。

ここからが本番だ。

何かあった時には、すぐに対応できるようにしなければならない。そのためには、いっそのこと立って寝た方が良い位なのだ。

目が覚める。

しびれが、体中に来ている。

呼吸が荒くなっているのが分かった。今襲われると、かなり面倒な事になる。目を閉じて、精神を集中。

周囲に置いてある木の実や、葉を口に入れた。

体を活性化させることで、少しでも早く毒を追い出す。

しかし、そうすることで、毒も体の中で暴れ回る。一番苦しいのは虫下しなのだが、それに比べればまだマシだと自分に言い聞かせ、耐える。

目をつぶって休むが。

やはり、体の不調は収まらない。胃の内容物が何度も逆流しそうになるが、耐えた。胃の中にあるものを、栄養にしなければ、耐え抜けない。

咳き込んだのは、思わず戻しそうになったから。

気迫で飲み込み直すと、ヤトは額の汗を拭った。正直な話苦しいが、だから何だ。生きていれば苦しい思いもする。

また、一眠り。

そして起きては水を飲み、体を洗って、排泄をした。

体の栄養に変え、排泄したら。その栄養分、食物を口に入れる。まだ動きが鈍いのは自覚しているが、木の実くらいなら食べる事は難しくない。常に体の中に栄養があるようにしておく。そうすることで、回復を促進する。

顔を洗って、口をゆすぐ。

気を抜くと戻しそうになる。こらえる。額の汗は、拭っても拭ってもわき出してくる。この様子だと、まだしばらくは苦しいか。

二日が、過ぎた。

まだ毒は抜けない。だが、徐々に弱まりはじめていた。

眠っては起きて、起きては食べる。

だが体が重くなっている形跡は無い。それだけ毒が体に打撃を与えているという事だ。体の損傷を、栄養が回復しているのである。

目を開けたのは、気付いたからだ。

何かが。近づいてきている。

穴から出る。

まだ体は力が入らないが、戦う事くらいは難しくない。見ると、人間大程度の猪だ。此方をじっと見ている。

ヤトは薄笑いを浮かべた。

同時に、猪がきびすを返して逃げ出す。冷静な判断力の持ち主だが。しかし、出会った相手が悪かった。

矢を放つ。

猪の急所を、貫いた。

だが、いつもよりも狙いが甘くなった。普通だったら即死させてやったのだが。しばらく悲鳴を上げてもがいていた猪は、その場でくるくると廻って倒れる。

この山の、猪の数は。

採っても大丈夫だ。ほくそ笑むと、ヤトは猪を吊して血抜きをしようとしたが、どうも上手く力が入らない。

いつもの何倍も苦労して猪を木に吊すと、首を斬る。

大量の血が流れ出てきたので、それを土器に貯めた。穴に土器を隠しておいてよかったと、こういうときに思う。

木に背中を預けて、血抜きが終わるのを待つ。

ずっと鬼を握りしめていたのは、何故だろう。

毒にやられて熱が出たのか、どうも周囲がぼやけて見える。気配も上手く感じ取れない。

カラスが舞い降りてきた。心配してくれているのか。ヤトは側に降りてきた何羽かのカラスの頭を撫でてやると、目を閉じた。

呼吸が、中々整わない。

汗が出続ける。

もう少しで回復する。そう自分に言い聞かせながら、ヤトは耐えた。

なんだかんだで、体が覚えているものだ。

血抜きが終わる頃に、意識がはっきりしてくる。普段よりもだいぶ遅いが、それでも猪の解体をはじめる。

一通り内臓を抜き取って、手足を体から切り離して。

体を分解している内に、夜が来た。

血だらけの手を何度か洗いに行く。肉が傷むから、あまりもたついてもいられない。分解した猪を、火に掛けて。燻製にしながら、美味しい部分を口に入れる。新鮮な肉は、体にそのまま溶け込んでくるかのようだ。

これなら、そろそろ毒も抜けるだろう。

腹一杯食べて、残りの肉と内臓類の処置を終えて。

大きめの葉に包んで、穴の奥に隠す作業が終わる頃には、夜半を廻っていた。

ある程度の肉はカラスと梟たちに与えたが、それでもかなりの量がある。残った分は備蓄物資にするとして、あまりはこの山にいるもの達に与えるとしよう。

何度か意識が落ちる。

ゆっくり眠るという習慣が、最近はない。それが徒になっているようにも、ヤトには思えた。

 

目が覚めると、だいぶましに動けるようになっていた。

だがまだ毒が抜けきった訳では無いらしい。少し体が重い。相手はよほど強烈な麻痺毒を刃に仕込んでいたのだろう。

傷を受けた箇所を確認する。

傷自体は、ほぼ直っているが。ただし傷口の近辺は、肌の色が少し青くなっている。毒の影響だろう。

そろそろ良いだろうと思い、辺りを見て廻る。

この近辺の山は、既にヤトが抑えた。異常があれば一目で分かる。集落の人間達もいた。山神様と平伏する弱者どもに、ヤトは肉を分け与えておく。そして自身は、別の山に移った。

もしも敵に知恵があるなら。

ヤトが一カ所に留まるのは好ましくない。

ヤトがよく知る山であっても、包囲網をしかれて。しかも大人数で仕掛けられれば、危ない事に変わりは無いのだ。

ましてやこの間の戦いで、ヤトは顔を見られた。

もしもタケル辺りに情報が流れたら、面倒な事になる。あの時顔を見た小柄な男を、殺しておかなかったことが悔やまれる。しかしながら、ヤトは最善を尽くした。これ以上の結果は出せなかっただろう。

更に強くならなければならない。

現状に満足していては駄目だ。

水練の技量をもっと上げておかないと、いけない場面も出てきている。

となりの山に移った後は、ヤトは木の実を大量に取り込んで、穴に籠もった。此処で、完全に体調を回復させる。

その後、鵯に状況を確認。

千里がどれだけ紀伊で人員を確保したかも、把握しておかなければならない。

目を閉じて、休む。

起きては食事にし、また眠った。

力が体にみなぎってくるのが、実感できる。

余裕が少しずつ出てきた。

この間戦った小柄な男の動きを思い出す。あれは全てあの男が考え出したものではないだろう。

何人もが練り上げていったもののはずだ。

それならば、ヤトもあの動きを取り込めば、更に強くなれる。

水練に関しては、慣れがものをいう筈で、まだ数をこなさないとならないだろう。強くなる余地は、いくらでもある。

覚えてしまえば、用済みだが。

まだ覚えなければならない事がある以上。あの小柄な男は、捕らえておきたい。

翌日には、穴から出て、移動。

今、鵯がどこにいるかは分かっている。

これからしばらくの、集落の人間の動きは、全て頭に叩き込んでいるからだ。黙々と山を歩く。

影のもの達は、仕掛けてこない。

この様子では、おそらくヤトに毒が効かなかったと思っているのだろう。実際にはかなり痛手だったのだが、戦略を練り直していることは間違いない。

今度は数を増やし、装備も整え直して、仕掛けてくるだろう。

それならそれで構わない。

交戦を経験したあの小柄な男も、連れてくるはずだ。捕らえるか、もう一度動きを見て、力の足しにしてくれる。

丸一日歩き続けて、鵯がいる集落に。

以前確保した砦だ。特に身重な女達を此処に集めて、手厚く出産までの保護をさせている。鵯には産婆の経験もあるらしく、作業には無駄が無いと話を聞いていた。

鵯はヤトの不調に気付いたらしい。

「怪我をなさいましたか」

「毒を受けた。 もう治りかけだが」

「……」

本当に人間か、とでも言いたいのだろう。

別にどうでも良い。顎をしゃくって、ここしばらくの状況について確認させる。

紀伊から流入している人間は、更に増える一方。更に、浮浪者や逃散農民も、確実に取り込んでいるという。

既にヤトの配下は、二百を超えていた。

これなら、想定より早く、三百を超えるだろう。満足して頷くヤトに、しかし不安要素が浴びせられる。

「ただ、おかしな事が」

「何だ、言ってみよ」

「何名かが、おかしな動きをしています。 指示には従って山を移動しているのですが、どうも他のもの達から、変だと声が上がっているのです」

「具体的には」

妙に山での生活に慣れた様子だったり。或いは生活のための知識を持っているようだったり。

先に山で暮らしていたもの達が、後から来た連中に、色々教えていかなければままならない。

だから、山になれたもの達と、慣れていない者を、最初は組ませる。

だが、異様に慣れが早い者が、何名かいたというのだ。

才能とか、頭が良いというのとは、少し違う気がすると、鵯は言った。

ぴんと来た。

「それはおそらく、ヤマトのものだな」

「此方の動きを探るために、潜り込んできていると?」

「そう言うことだ」

鵯は二百人全てを把握している。

おかしいと考えているものについても、どこに今いるか、名前は。全てをしっかり覚えていた。

まずは、身中に巣くった虫を潰しておく必要があるだろう。

丁度今、体に大きな負担が掛かっている所だ。肩慣らしに丁度良い。

紀伊の方から流れ込んできているもの達とは、定期的に手合わせをしている。ヤトの実力を疑う者がまだいるからだ。

そう言う連中はぐうの音も出ないほど叩き潰して、言うことを聞かせているのだが。

ある意味、それで言うことを聞くようになる単純な輩よりも、闇に伏せて此方をうかがうような輩の方が、厄介だ。

鵯の前から、姿を消す。

今、どこに誰がいるかは把握している。其処へ、全力で急ぐ。ヤトの支配権は流動的なものであって、この近辺の山全てを覆っていると同時に、一カ所を大軍で攻められた場合防ぎづらい。

勿論、大軍同士がぶつかるような戦いをする気は無いが。

ヤトの手足のように道具共を動かすためには、内部に言うことを聞かない奴がいると困るのだ。

夜闇を駆ける。

目指すは、二つ先の山だ。

この山では、十一人が暮らしている。かなり多いのだが、これには理由がある。丁度山に逃げてくる者が多いので、それを捕まえるためだ。丁度側にある集落の長が腐敗官吏というそうなのだが、税を取りすぎたり、横暴な振る舞いを繰り返して、民に逃げられているそうだ。

だが、それが逆に落とし穴になっている。

数刻ほど、駆けた。

夜明けの少し前に、目的地に到着。

あらかじめ見つけておいた、小川の側の横穴に入る。

だが、ヤトは気に入らない。

湿気が強すぎるのだ。それに、横穴という割には、少し斜めの角度が強い。これでは縦穴だ。

縦穴は大嫌いだ。

寝るのは横穴に限る。

そういえば、鵯はこういうのをなんと言っていたか。確か、こだわりだ。ヤトには、寝るのは横穴にすべしと言うこだわりがある訳だ。

しばらくそれでも無理に転がっていたが、やはり眠れない。

諦めて、河原に出ると、石の上に転がった。

上に広がる星空と、何より満月が美しい。蚊が飛んできたので、そちらを見もせず手を動かし、捕殺。

これくらいの芸当は、体から毒が抜けきっていなくても出来る。

何度か殺している内に、蚊は寄ってこなくなった。

「つまらん……」

よい横穴で寝たい。

それだけの事が、移動し続けていると、なかなか実現できない。しかも、体のだるさはまだ消えない。

気がつくと眠っていて、そして目が覚めた。

河の向こうで、朝日が昇りつつあるのが見える。黄金に染まる河を見て、ヤトは目を細めた。

時刻としては、丁度良い。

寝ている間も、無意識に手を動かしていたので、蚊には刺されていない。

火を熾すと、その辺りの沢ガニや魚を適当に捕らえて、焼いて食べた。この辺りは浅瀬が多く、魚も簡単に捕れる。

わざわざ裸になって潜らなくても、充分なほどだ。

適当に腹を膨らませた後。

ヤトは、満を持して、山に入る。獰猛な殺気が、周囲の動物たちを圧しているのが分かった。

木々が避けるかのようである。

目の前を、悲鳴を上げながら熊が逃げていった。

残念だが、人間はこのヤトの殺気を感じ取れない。

しばらく満足に体を動かせなかった鬱憤を、晴らすには丁度良い。

身を沈めると。

ヤトは全力で走り出した。

一気に森を抜ける。

そして跳躍した。

目に入るのは、一人の男。生活していた様子のその男は、ヤトを見てぎょっとした様子で固まる。だがそれも一瞬で、明確な意思を持って、逃げようとした。しかしヤトの方が早い。

その場で組み伏せ、目を覗き込むと。

全力で狂気を叩き込んだ。

その場で埃を払って立ち上がる。男は完全に泡を吹いていた。痙攣しているのは、本当に体が深刻な打撃を受けているからだ。

舌なめずりすると、ヤトは驚いている周囲の弱者共に言う。

「この男を、鵯の所に連れて行け」

「山神様! 久能が何をしたのですか!」

「この男は、朝廷の草だ」

一瞬の対応で、それを確信できた。此奴はヤトを見ると、笑みを浮かべるでも無く、平伏するでも無く、逃れようとした。事実、ヤトがもう少し遅ければ、逃げられていたはずだ。

戦い慣れしている証拠。

離散農民などでは無い。

「そんな、久能が……!」

「私の言葉を疑うか」

「いえ、とんでもありません! 前から久能はおかしいと思っていました!」

平伏する弱者共。

満足すると、ヤトは次の獲物を処理に取りかかる。殺すのは、全てを吐かせてからだ。ヤトを誰が狙っているのか、どうして麻痺毒などを使ったのか、聞き出す必要がある。

殺すのは、それからで良い。

 

2、すれ違い

 

タケルは二百の兵を連れ、小さな集落を急襲した。山間にある村の一つで、今までは特に問題を起こしていなかった場所なのだが。

内偵の結果、此処が千里が率いる賊の根拠である事が分かったのである。

村を包囲した兵士達は、水も漏らさぬ布陣で、一気呵成に攻め立てる。村は抵抗もせず、すぐに制圧された。

「これは、一体何事なのです」

弱々しい老人が、怯えきった目を向けながら、タケルに懇願する。

この村の長だ。

ただし、実質的な権限は、何一つ持っていない。

「無体にございます。 我々は税も納めてきましたし、朝廷に刃向かうようなことは何一つしておりません。 英雄であるタケル将軍に、どうして逆らいましょう」

「そうさな、そなたはそうだろう。 だが……」

兵士達が、何人かの男を引っ立ててくる。

いずれもが、見るからに、カタギでは無かった。

「手配にあった千里の部下だな。 引っ立てよ」

「そんな、どうして」

「この村の民の多くが、千里と通じていたのだ。 お前には何一つ知らせぬまま、此処で悪事の数々を進めていた。 善良で無能なお前が、村長でいる。 それが丁度良かったと言うことだ」

老村長は、はらはらと涙をこぼし、泣き始めた。

タケルは馬上から、冷然と村長を見やる。

立場的に、この老人を、村長のままにはしておけない。

引っ立てられていく男は、十人やそこらではきかない。紀伊にいない千里の勢力にとって、此処は中枢部とも言える場所だったのだ。

「老骨に悪いが、来てもらおう」

「お好きなようになされませ」

「案ずるな。 そなたは村長としての責務を果たせはしなかったが、無能である事そのものを私は憎んでいない。 むしろ民からの評判自体はさほど悪くなかったこと、紀伊の状況で朝廷に尽くしたことを私は評価している」

村長には向いていなくても、させる仕事はいくらでもある。

タケルは兵の半数を駐屯として残すと、紀伊の中枢にしようと考えている府に戻る。砦を改装した場所で、多少の防壁を取り払い、開けた雰囲気にしている。軍事拠点としての力は落ちたが、その分政務はやりやすくなった。

タケルの軍勢が睨みを利かせてから、一気に紀伊の改革は進んでいる。

軍は訓練されて強くなり、文官は勤務に精を出している。好き勝手をしていた幾つかの村は静かになり、賊はもう姿を見せない。

海賊も、もう紀伊の海にはいなかった。

だが、それは水面下に潜っただけだと、タケルは考えている。

事実、賊が平和な村に邪悪な拠点を作っていたのだ。今後もしばらくは駐屯し、睨みを利かさなければならない。

何名か、有望な若者を昇進させ、配下の部隊長として鍛えている。

彼らがもう少し力を付けてきたら。

紀伊を任せて、東の遠征に参加したい。いや、他にも、このように朝廷の威光が及んでいない場所はあるはずだ。そういった場所を、一つずつ静かにして行きたい。まだしばらくは、此処で粛正と戦いを続けなければならない。

全ては、朝廷のため。

大和朝廷を日本国として立脚させるための、地固めだ。

手紙が来ていたので、開く。

ツクヨミからだった。

最初は挨拶から始まる丁寧な手紙だ。前から気に入らない相手だが、ツクヨミはタケルに対して、対応をいつも考え抜いている。それについては、好感が持てる。

だが、今回は。

一瞬にして、感情が沸騰させられた。

見る間にタケルは、自分の血が煮立っていくのを感じた。あの若造。思わず叫んでいたほどである。

周囲の部下達が、驚いてタケルを見る。

タケルは手紙を床にたたきつけると、踏みにじっていた。あまりにも感情が激して、よく考えられない。

手紙には、こうあったのだ。

都近辺で蠢動している山神を、捕らえる算段がつきました。捕らえた後は調教し、我が国のために役立つ騎獣として見せましょう。どのような獣でも、躾けることは可能です。異国では、巨大な象さえ、戦の道具としていると聞きます。象にもおとる猛獣ならば、更に容易く躾けられるでしょう。

躾けた後は、タケル将軍の手足としても、活用させられると思います。

「あの若造は、何も分かっておらん! 才に溺れた唐変木めが!」

「落ち着いてください、タケル将軍!」

「これが落ち着いていられるか!」

手紙には、山神の顔も描かれていた。

顔に火傷があるが、間違いない。

奴だ。

夜刀。東国、常陸にて、山一つを呪いに包んだ邪悪なる獣の如きツチグモの神子。あの状況からどう生還したのかは理解できないが。しかし、生きていたのだ。そして今、都の近辺で、暗躍している。

奴の戦闘力と狡猾さは、極めて危険な水準にある。

下手をすると、武王が危ないかも知れない。

しばらくタケルは口を極めて罵っていたが、現在此処から動く事が出来ない事に変わりは無い。

紀伊はまだ賊の残党がいるし、兵の再編成も途上だ。

駐屯軍の訓練をしっかり済ませた後、文官達の仕事ぶりを監督し、民が安寧になるのをみとどけなければまずい。

タケルという存在の名を、地に落とす事につながりかねない。

タケルは、即座に墨と紙を用意させた。貴重品だが、此処は使わざるを得ない。荒々しく、紙に書き殴っていく。

そいつは間違いなく夜刀だ。お前が考えているよりも、遙かに危険な獣だ。余計な事を考えず、即座に殺せ。とにかく機会があったら、必ず殺すのだ。そうしなければ、お前が殺される事になる。

続いて、タムラノマロにも書状を出す。

しかし、紙が無いと言われたので、木片を使う。

まだ朝廷にも、紙はさほど多くない。こんな僻地になれば、なおさらだ。常陸に駐屯していた頃にも紙には難儀したが、此処でもそれは同じ。紙を生産するよりも、消費する方が早い。

タムラノマロには、相手の危険性を知らせる内容をしたためた。

まずは、守勢に徹すること。

そして、タケルが主力を援軍として送るから、その後に敵をじわじわ圧殺するよう、戦略を練る。

この二つが重要だと、何度も書いた。

タムラノマロは優れた将だ。老練でもある。おそらく、この手紙を見れば、どれだけ危険な事態かは、即座に理解できるだろう。

書状を使者達に持たせて、出立させる。

だが、それでもタケルは収まらなかった。こういうときは、気分転換が一番だ。

紀伊にも温泉はある。

既に完全に制圧している地域の一角。水は非常に濁っているが、温度が適切で、入っていると体がとろけるように気持ちが良い。

政務を急いで片付けると、温泉に。

ゆっくり温泉に浸かりながら、今後の対応について考える。武王にも、これから書状を出さなければならないだろう。

ツクヨミが、タケルの手紙で止まるかどうか分からない。

彼奴は忠義の臣だが、同時に自分の頭脳を過信している所がある。しかも、武王はツクヨミを信頼している。

一か八かになるだろう。タケルの意見とツクヨミの意見が対立した場合、武王はどちらを選択するか。

今の時点では、何とも判断が出来なかった。

風呂を出た後は、呼んである側室を何人か、かわりばんこに抱いた。

今は、とにかく頭を空っぽにしたい。

その後、色々と良い考えが浮かぶか、試してみたかった。不安要素が大きすぎる。紀伊から動けないこの状態で、都のすぐ側に夜刀がいると確実になってしまったのだ。下手をすると、今この時も。

奴は、オオキミ武王の命を狙っている可能性がある。

武王の跡継ぎは立派な人物だが、まだ若い。もし今武王が急死したら、朝廷に与える影響は計り知れない。

ツクヨミは代わりがいる。

だが、武王に今死なれるとまずいのだ。

無心に眠りを貪り、起きてからはまず、食いつくようにして政務を片付ける。

その後は、馬を出して、村々を見て廻った。

表向きは、平穏になりつつある村が多い。働いている領民の様子を見ると、タケルも目を細める。

こういった民を守るためにも。

必ず、夜刀は仕留めなければならない。本当は、あの時確実に殺さなければならなかったのだ。

タケルの落ち度でもあった。

屋敷に戻ると、ツクヨミから返答があった。

ご心配なされず。既に敵は追い詰めました。

駄目だ。分かっていない。

タケルは天を仰ぐと、武王に出す書状を、したためた。

 

タムラノマロは、山近くの村を巡回しながら、それぞれの守りを入念に確認していた。どこが脆いか、攻撃を受けたら、どう対処すれば良いか。それぞれの確認を済ませていくと、あっという間に一日が終わってしまう。

タケルが廻してくれた兵五百も、各地を分散して巡回を続けている。

今の時点で、タケルが警告している危険な存在と、遭遇したという報告は無い。だが、あれほどタケルが慌てる相手だ。

思うに、あの残虐な殺し方を見て、もっと警戒すべきだったのかも知れない。

今では、五百の兵では少なすぎると感じている。

部隊長達が戻ってきた。

異常なしという点呼が続くのだが。最後の一人が、妙なことを言う。

紀伊近くの村を、五十の兵で巡回していた男だ。

「最近、近くの山にツチグモが住み着いたという報告がありました」

「何……」

「数は数名で、悪さをする様子も無いと言うことなので、特に何もしてはおりませぬが」

それは、確かに妙だ。

そして、思い当たる節が幾つもある。

近年、ツチグモは勢力を削り取られる一方だ。まだ跋扈している地域もあるにはあるが、それも減りつつある。

それなのに、この都の近くで。

堂々と蠢動しているツチグモがいるというのか。目立つ動きをすれば、朝廷から討伐の軍が出るかも知れないのに。

しかも、同様の報告が、幾つもの村から上がっているという。

これは何かあるのかも知れない。

こうなってしまうと、ツチグモと接触できるヒロカネを失ってしまったのがとても痛い。もっと慎重に、ヒロカネを動かすべきだった。

翌日、報告があった村に、タムラノマロは自らが出向く。

嫌な予感がしている。

そしてそれは、適中した。

山にいたツチグモが、また忽然と消えたというのだ。

村のもの達は、殆ど気にしていないが。タムラノマロは、何か得体が知れないものが、蠢いているような感触を覚えていた。

 

まだ体は万全では無いが、既にヤトは存分に動けるようになっている。だから、である。集落に紛れたヤマトの草を洗い出しつつ、次の行動に入ったのだ。

敵は既に、此方の動きを読み始めているとみて良い。

それならば、主体となる戦略から、敵の目をそらす必要がある。五人ほど、敵の草を捕縛した後、ヤトはいきなり、紀伊の国境に姿を見せた。

山深いが、所々にはげ山がある。其処では、多くの人間が働いているのが見えた。よく茂った緑と、土が露出した山が、非常に異質な光景を造り出している。

はげ山の周囲には、土塁があり、防御施設も散見された。

あの辺りが、ヤトも知る、ヤマトの製鉄拠点。

以前、オロチの老人が造った炉が、多数見える。膨大な煙が出ているが、それは土塁に遮られ、谷に流れ込んでいる様子だ。

あの谷は、とても人が暮らせる場所では無いだろう。

はげ山になっているのは、木々を切り倒しているだけでは無い。あれだけの煙を、周囲にばらまいているからだ。

此処にいても、異臭がするほどだ。

やはり人間は許しがたい。

これほど森を殺すとは。人間は森を喰らう生物だとは知ってはいる。だが、それでも、やはり堪忍ならぬ。

少し離れる。

そして、千里達がいる山へ。此処は紀伊の国境を抜けて逃げてくるもの達を、確保しやすい場所だ。

此方からは相手をよく見え、向こうからは見えにくいという絶好の砦である。其処に幾つか監視小屋を造り、更には紀伊と人間を行き来もさせていた。

ヤトは口笛を何度か吹く。

自分が来た時の合図として、教えてある吹き方だ。ばらばらと、監視小屋から人間共が出てくる。

驚いた様子で出迎える千里。

既に、紀伊での苦戦については、報告を受けていた。

だが、もう一度報告をさせる。

悔しそうに千里は顔を歪めた。

「紀伊で飼っていた部下達が、根こそぎにやられた。 今、再編成を急いでいるが、タケルは想像以上に出来る。 今後部下を増やすのは難しくなる」

「それについては、今の時点では現状維持でかまわん」

「……どういうことだ」

「敵の鉄を奪う」

一気に、その場に緊張が走るのが分かった。

ヤトが見るところ、あの影のようなもの達は、此方の動きを読んだ上で先手を打ってきた。

それならば、相手が予想もしない所に打撃を与えて、攪乱するのが良いだろう。

どのみち、いずれ鉄は奪うつもりだったのだ。

「おい、あんた正気か!」

千里の部下、確か勝とかいう男が言う。

此奴も、既にヤトの事は認めている。逆らうつもりで、異論を口にしているわけでは無いのだろう。

鉄の生産拠点の幾つかは、既に判明しているのだが。

いずれもが、並の砦を凌ぐ防備で固められており、中にいる兵の数も千を超えている。賊程度の戦力で、攻撃できる相手では無い。

ならば、鉄を運ぶ人間を襲撃するのが一般的だが。

それも、極めて難しいという。

「鉄の輸送は、ものすげえ軍勢が守りにつくんだ。 とてもじゃねえが、隙なんかありゃしねえよ」

「その様子だと、襲撃を何度かもくろんだな」

「当然だ。 俺も紀伊を制圧した後は、朝廷に喧嘩を売るつもりだったからな」

千里が、声を敢えて低くして言うと、部下達が首をすくめる。

つまり、失敗したか、断念したか。

話を聞かせろとヤトが言うと、千里は説明しはじめた。

紀伊では、千里は三本の指に入る賊の長だった。タケルが来るまでは、紀伊の覇権を巡って、血で血を洗う戦いを続けていたという。

勿論その過程で、鉄を多く手に入れたいとも願った。

敵にしていた一派は渡来人系の勢力で、進んだ技術に物を言わせて、好き勝手に紀伊を蹂躙していたからだ。

千里は、朝廷が嫌いだが。

しかし、このアキツの島は好きだ。

渡来人も朝廷も、よそから来て故郷を好き勝手にしているという意味で、許せない相手だった。

戦うためには、武器が必要。

鉄を狙うのは、必然の流れだっただろう。

五十名ほどの部下と共に、朝廷の領土に踏み込んだ千里は。

其処で、絶望を見た。

逃げ帰ることが出来たのは、三分の一以下。

此処での打撃が、紀伊における千里の勢力を、一時的に後退させ。そして、渡来人系の海賊が、好き勝手に紀伊を牛耳る切っ掛けともなったのだった。

「一体何を見た」

「精鋭だよ。 おそらくタケルの野郎が鍛えた部隊だろうな。 動きが、紀伊にいる軟弱な守備兵とはまるで違った」

なるほど、それは分かる。

タケルが率いていた部隊は、相当に強かった。それが千近く守りを固めていると、賊如きでは手も足も出ないだろう。

此方は二百人。

戦えるのは、精々六十人程度。

まともにやりあったら、確実に勝てない。

ただし、それはまともにやり合った場合、だ。

「この中に、その戦いで生き残った者は?」

「……」

数人が手を上げる。

今回、狙うのは。此奴らが失敗した砦だ。勿論、千余の兵がまともに待ち構えている砦に、攻撃を仕掛けて、成果が上がるはずが無い。

ヤトが乗り込んでいっても、袋だたきにされて死ぬだけ。

ましてや他の奴が乗り込んだところで、何ら意味は無い。というよりも、近づけないだろう。

近づこうとしただけで、矢襖だ。

しかし、ヤトの考えは、少し違う。

「今回の目的は、敵の鉄を奪うことだが。 何もそれは、鉄を此方のものにするという事を意味してはいない」

「何だと。 どういうことだ」

「鉄を敵にも使わせないようにする。 それだけだ」

全員を散らせて、まずは詳細な地図を作らせる。勿論カラスや梟も総動員。少し前に入手した鳶の卵は、今大事に育てている最中である。これについては、まだ結果は出せそうにない。

今までは、なんだかんだで、敵に裏を掻かれることが多かった。

今度はヤトが裏を掻く。

おそらくは、ヤマトはそろそろ、ヤトの正体について勘付きはじめただろう。ならば、此処で戦略を一気に切り替えることにより、相手の先を行く。

敵の鉄生産地を叩き潰せば、ヤマトに少なからぬ打撃を与えることが可能となる。

そうなれば。

一気に、ヤトの勢力を、ふくれあがらせることも、可能だ。

数日掛けて、敵の守りを調べ上げる。

土塁が、山を囲んでいる。

煙を逃がすためだけの工夫では無いと、すぐに分かった。中で働いている連中を、逃がさないようにするためのものでもある。

「彼処で働いているのは?」

「給金目当ての命知らず達だ。 彼処で働くと、税も免除されるが。 絶対に体をおかしくするって評判だな」

「それはそうだろう」

ヤトは何処かおかしくなって、くすりと笑った。

それを見て、ぞっとしたらしく、千里は引きつった笑みで返す。ヤトが笑うと、とてつもなく怖いらしい。

まあそれはどうでもいい。

地図を少しずつ作り上げていく。

巡回している兵士達を見ると、煙を直接浴びない経路を知っている様子だ。そうでなければ、働いている連中同様、体を痛めてしまうだろう。

煙が通る経路を見分けるのは、簡単。

その辺りは、木も生えていない。というよりも、ヤトには、分かる。土が死んでいるのだ。

わずかな鉄を作っただけでも、森への打撃は深刻だと、すぐに分かったのに。

こんな膨大な鉄を作れば、周囲がどうなるか。山が丸ごと死に、周囲の森まで焼き払われる。

ぶっ潰すのに、躊躇はいらない。

夜になっても、警備は減らない。

篝火をたいて視界を確保しながら、兵士達は巡回している。確かにこれは、仕掛ける隙が無い。

そして、待っていたものが出た。

山から出てきたのは、牛に引かせた車だ。しかも一両や二両では無い。

それが、ヤマトの中枢の方へ進み始める。

軍勢が護衛しているのが見えた。ざっと三百はいるだろうか。街の中にまで入られたら終わりだ。

だが、今回は、叩く気は無い。

移動する経路を確認しておきたい。千里達を促して、軍勢が進む後を付ける。

「何だ、見張るだけか」

「何もかも、いきなり上手く行くと思っているのか?」

千里が黙り込む。

ヤトにしても、何もかも最初から出来るわけではない。鬼を使いこなせるようになるまで、随分練習を必要とした。

弓矢だって、今の腕前までに到達するのに、随分掛かった。

集団戦も同じ事。

敵の護衛は、かなり広く展開している。

此方も、仕掛ける隙が無い。

路もよく整備されていて、向こうからは周囲が丸見えだ。あまり近づくことは出来そうにない。

その上、路の周囲には、砦が幾つもある。

これはおそらく、相当に戦闘経験が高い人物が、運搬経路を調整したのだろう。

地図を作らせながら、ヤトは腕組みした。

奇襲を仕掛ける隙が見当たらない。

出てきた敵をたたくのならと考えていたのだが、もし攻撃を仕掛ければ、冷静に反撃をしてくるだろう。

それも、周囲の砦から、増援のお出ましだ。

見ていると、牛はかなり訓練されている。牛は基本的に臆病な動物であり、興奮すると見境が無くなる事ももう理解しているが。それでも、あれだけしっかり訓練されていると、多少のことでは驚かないだろう。

「どうだ、何とかなりそうか、山神様よ」

千里が皮肉混じりに言った。

ヤトは考え中だと言い、じっと地図をにらむ。

もしも仕掛けるとするならば。

第一に、兵力を揃える。これに関しては、現時点では無理だ。他の手を考える必要がある。

第二に、敵の内部に潜り込む。

これは、千里の部下達を使えば、或いは。

働かされている人数は、遠くから見る限り、かなりの数だ。あの中に入り込めば、内部から引っかき回すこともできるが。

しかし、山の様子を見る限り、それも難しい。

守備に当たっている戦力は、精鋭が千以上。しかも何かあれば、周囲から増援が来るのが確実だ。

それに隙が無い守備からも考えて、防御を担当しているのは、相当に出来る指揮官だ。タケルほどでは無いにしても、簡単に崩せはしないだろう。

そうなると、第三の手だ。

仕掛けるとなると、それしか方法が無い。問題は、場所になる。

「山の周りに展開している部下を引き上げさせろ。 千里、お前は紀伊の方の部下を、こっちに可能な限り連れてこい」

「何だ、力攻めか」

「いや、違う。 まず紀伊は、タケルがいる限りは駄目だろう。 このまま部下を置いていても、ほぼ間違いなく削られるだけだ。 生きている奴は、此方に連れてこい」

「分かった。 確かに、これ以上部下に無理はさせられん」

次に山だがと言いながら、ヤトは顎をしゃくる。

巡回している兵士達の隙のなさ、守りの堅さは、ヤトから見ても舌を巻くほどだ。力攻めするなら、それこそ数千の戦士が必要になる。

そんな数の戦士はいないし、いたとしても攻めれば相当数の犠牲が出ることは確実。

ならば、敵が出てきたところを叩く以外に、選択肢は無い。

「だけどよ、運搬経路にも、隙は無いんだろ?」

「一見するとそうだが、隙は作ることが可能だ」

ただし、何度も通用する手では無い。

しかしながら、一度でも成功させれば。ヤマトに、衝撃と、大きな打撃を与えることが可能だ。

そうすれば、一気に多数の部下を、集落に加えることが出来る。

そもそもヤマトは、ヤトが何を考えているかつかみはじめているとしても、いろいろな山に分散させている集落の全容を掴んでいないはず。というよりも、掴みようが無い。ヤトはこの時のために、自分の存在を曖昧で、雲を掴むようなものとして、意図的に調整してきたのだ。

実体はあるが、その全容は意味不明。

だから、ヤマト側も、即時の対応は出来ないのだ。

ましてや今、ヤマトはヤトがどこにいるかを探り出すことに注力している。何をもくろんでいるか、理解できているとは思えない。

ならば、此処で連中の生命線である鉄を叩けば。

もちろん、それだけで、ヤマトは崩せない。

ヤマトを崩すには、もう一つの生命線。

米を崩さなければならないのだが。それについては、まだ考えがまとまらない。鉄をまずは叩く。

全ては、それからだ。

千里に説明して、まずは部下を集めさせる。

ヤト自身は数日間周囲を偵察し続け、敵の様子を徹底的に探る。仕掛けるべき箇所は、その過程で、四ヶ所に絞り込むことが出来た。

勝機は。

ヤトが見るところ、五分五分。

ここからが、本番だ。

 

3、山道の戦い

 

ヤトの後ろから、人間が近づいてくる。

振り返る。

誰かは、その前から分かっていた。千里と、その部下達だ。紀伊に散っていた部下を集めるのに、四日かかった。

しかしその結果、一気に五十名を追加した。

これで戦闘要員は百を超えた事になる。

「これで全てか」

「後は、どうしようもなく紀伊から動けないようなもの達だけだ」

「そうか」

紀伊に残した拠点を、完全に失うわけにはいかない。

だから千里と関係が薄いものや、知らず知らずのうちに部下をしていたような者は、紀伊に残してあるという。

それでいい。

ヤトとしても、いずれ紀伊は、タケルが離れた途端、徹底的に引っかき回してやりたいと考えている。

「それで、仕掛けるのは、どうする」

「見ろ」

後ろ手で指し示した。

膨大な藁。

地図を広げて、説明する。

「連中は鉄を、明日の夜に運び出す」

「何故分かる」

「動きを見ていれば一目瞭然だ」

ヤトも、ここしばらく、ずっと敵の様子を観察していたのでは無い。

敵の兵士がどう動くか。鉄を運ぶための牛が、どのように来ているか。見張りの様子は。鉄の生産具合は。

それら全てに、目を通している。

その結果、出した結論だ。

しかし、これだけの速度で鉄を生産しているとなると、実際に与える打撃はさほどのものではないだろう。

だが、一度。

鉄壁の守りをかいくぐって、壊滅的な打撃を輸送部隊に与える。それだけで、今回の目的は達成できるのだ。

準備を整えさせる。

敵の巡回経路や、どれだけの範囲に目が届くかは、調べ尽くしてある。

鉄を運ぶ経路の周囲に、どれだけの人数が潜めるかも。

何を持ち込めるかも。

千里が紀伊の部下をかき集めている間に、全て調べきっておいた。その上で、乾いた藁を集めるのには、苦労したが。

まあ、この程度は。毒が抜けるまでの、肩慣らしだと思えば、それほどの苦労も無い。

朝方までに準備を終える。

梟たちを集めて、ヤトが出来る準備についても、既に確認を終えた。

後は、敵が出てくるのを、待つだけだ。

 

鉄を作る山の周囲にある砦が、活気に包まれる。

間違いない。

出てくる。

山に伏せていたヤトは、側にいた千里に、合図を送らせた。

敵の輸送部隊が現れる。

護衛は二百ほど。少ないが、これは運ぶ鉄の量があまり多くないからだろう。牛は六頭。その全てが、鉄を満載した荷車を運んでいた。

兵士達は隙無く周囲を固め、しずしずと進んでいる。

それだけではない。偵察隊が前後にいて、攻撃を受けることを、常に警戒し続けていた。一見すると、全く仕掛ける隙が無い。

だが。

偵察隊が山を出てから、最初の砦を通りがかるまで。此処までの道のりに、仕掛けられる場所が二つある。

その内の二つ目で、仕掛ける。

「よし、準備させろ」

「分かった。 本当に大丈夫、なんだな」

「失敗したら、どのみち皆命運が尽きるわ」

「……そう、だな」

千里が、合図をした。

同時にヤトが飛び出す。前方にあった砦から戻ってきた敵偵察隊が狙いである。斜面を駆け下りながら、弓を構え、矢をつがえる。速射。一人目の側頭部を貫く。ガン、と凄い音がした。

敵が此方を見た瞬間、二人目の眉間。

更に三人目の喉を、立て続けに打ち抜く。

声を上げようとした四人目に飛びかかると、押し倒しながら引き抜いたツルギで首を刺し貫いた。

鬼では無い普通のツルギだ。以前鹵獲したものである。

「おのれ、物の怪ッ!」

残り二人が、剣を抜くが。

ヤトの敵では無い。

二人を斬り倒したときには、既に千里が動き始めている。死体は片付けなくてもよい。此奴らが、本隊に戻る前に、片を付けるだけだ。

そのままヤトは走る。

今度は山を駆け上がり、準備していたものの所に行く。

準備していたのは。

尻にたいまつをくくりつけ、縛り上げておいた、数頭の猪。

猪はヤトを見ると、悲鳴を上げた。

非常に心地よい悲鳴だが、今は楽しんでいる暇が無い。手早くたいまつに火を付けると、縄を切った。

猪が、一目散に逃げ去る。

逃げる方向は、ヤトのいないほう。

つまり。

敵輸送部隊のど真ん中だ。

同時に、敵輸送部隊の前後で、火が上がった。

敵の斥候が目を離した瞬間、千里の部下達が仕掛けたものだ。敵輸送部隊の前方は、どうしても隙が作れそうに無かった。

だから、ヤトが手づから敵を始末したのだ。

防御を固めようとする敵の陣列に、猪の群れが立て続けに突っ込む。大混乱に陥った敵を、ヤトは薄ら笑いを浮かべながら見下ろした。

口笛を吹く。

皆殺しにしろ。

そういう指示だ。

紀伊から来た荒くれ達が、混乱する敵に、一斉に襲いかかった。敵の援軍が来るまで、一刻は掛からないとみて良い。その間にするべき事は、二つ。

ヤトは怒濤のように襲いかかる荒くれ達とは別方向に走る。

そして猿のように、先に目をつけておいた大木に上がると、その枝の上に躍り上がった。混乱の中、良く敵は秩序を維持して、戦い続けている。ヤトは舌なめずりすると、鏃に布を巻き付け、油を垂らして、火を付けた。

ヤマトの連中がやっているやり方と、同じ火矢。

放つ先は、敵の物資でも、指揮官でも無い。

牛だ。

ひょう。風を切って矢が飛ぶ。牛の首筋に、火矢が突き刺さる。

訓練されている牛も、流石に悲鳴を上げた。混乱して、暴れ、見境なく走り始める。御者の役割をしている兵士が、吹っ飛ばされるのが見えた。

愉快痛快。更に一矢を放つ。

また、牛が悲鳴を上げた。今度は尻に矢が突き刺さったのだ。

荷物をばらまきながら、牛が滅茶苦茶に走り始める。牛が目指すのは、河だ。更に三頭目。

混乱する敵兵士。

この程度の距離なら、百発百中だ。

ヤトは舌なめずりすると、六頭目の牛の、背中を射貫く。

牛が逃げはじめる。どいつもこいつも、河へ向けて一直線。兵士達が止めようとするが、我を忘れた牛の力に叶うはずが無い。

吹っ飛ばされる兵士。

踏みにじられる兵士。

骨が折れ、砕ける音が、ヤトの所まで聞こえるようだった。

からからと、ヤトは笑った。これほど小気味の良いことがあろうか。だが、いつまでも、楽しんではいられない。

そろそろ、砦が気付くことだ。

口笛を吹き鳴らす。千里が気付いて、撤退の指示を出す。荒れ狂っていた紀伊のもの達は、千里に促されて、逃げ出す。

追おうとする敵の兵士。それに指揮官は。

ヤトが狙いを切り替え、的にした。

速射で、次々貫く。敵は数人が見る間に打ち抜かれたのを見て、閉口。固まって守りを固め、此方を追うことを断念した。

森の中に、紀伊のもの達が逃げ込んでくる。

ヤトはそれの支援を一人で成功させたことになる。

此方に向けて、矢を放とうとしている奴がいたので、速射して撃ち殺す。それを見て、紀伊の荒くれ達は呆然とした。

その場を離れながら、話をする。

ヤトにして見れば、得意分野に持ち込めれば、こんなものだ。射撃戦で敵の数を減らした後、奇襲で斬り伏せる。

元々殺す予定だった猪も効率よく処分出来たし、作戦はほぼ完璧に成功した。

引き上げながら、味方の損害を数えさせる。四人が死んだ。

それに対して、敵は二十人以上を失い、鉄を全て河に放り込まれたこととなる。完全勝利と言って良い。

だが、どうも千里は納得できないらしい。

「これで、上手く行ったのか。 俺たちは何が得られたんだ、山神様よ」

「ヤマトはこれで、兵力の配置を見直さざるを得なくなる。 河に放り込まれた鉄は、役に立たないゴミと化すからな」

実際には、しっかり磨き直せばどうにかなるだろう。

ただし、牛が逃げ込み溺死した河は流れが速く、深い。鉄を全て引き上げるのは、相当な労力を必要とする。

しばらくは、相当数の人間が、かかりっきりになる。

此処からは、予定通りに行う。

「千里、お前はこれから、紀伊の国境に、そ奴らと潜め」

「また彼処に戻るのか」

「タケルが此方にまず間違いなく戻ってくる」

おそらくは、紀伊から拠点を製鉄の山に移すだろう。そうせざるを得ないのだ。

完璧な守りを食い破られたのである。

対処は、ヤマトが誇る最高の司令官を配置するか、大量の兵士で固めるしか無い。今までも、相当数の兵士を配置していたのだ。

そうなると、タケルが出るほかには無くなる。

「その隙に、紀伊で勢力を広げろ。 ただし、暴れるのは控えろ」

「なんでだよ。 もしそうなら、引っかき回す好機だろ」

「今暴れても、鎮圧されるだけだ。 とにかく、今は部下を増やせ。 使えそうな奴は、どんどん此方に回せ。 他に何も出来なくても、弓が上手い奴、力が強い奴、そんな一芸持ちは大歓迎だ。 私が鍛え上げて、一人前の戦士にしてやる」

「了解……。 あんたはやっぱり神じゃなくて、邪悪な物の怪だな」

それでも別に構わない。

ただ、人前でそれをいうなと、釘は刺しておいた。

紀伊のもの達と分かれて、ヤトは一度河の方に出る。

大量の兵士達がうろついていたので、気配を消さなければならなかったが。病み上がりの体を鍛え直すには丁度良い。木の陰を縫うようにして、ヤトは進む。もう少し殺しておくのも良いだろう。混乱を加速させることが出来る。

山の方も、混乱しているようだ。

兵士達は相当数が走り回っていて、怒号が此処まで届く。

しかし、こんなときも、炉は止められない様子だ。まあ、以前オロチの者達の働きぶりを見ていた限りでは、一度火を入れてしまえば、鉄が出来るまでは仕事をせざるを得ないのだろう。

河が見える場所まで来る。

牛が四頭、川の中でひっくり返って死んでいた。水死したのだろう。足が水の上につきだしている様子は、何処か滑稽だった。牛は体が非常に重い。水死すると、ああなるのも、納得できる。

二頭は生きていて、兵士達が捕まえていた。荷車に積まれた鉄は、殆どが河の中に消えたようだ。

予定通りの戦果である。

周囲にいる兵士は、百人を超えている。それだけ、今回の出来事が、彼らにとって衝撃を与えたという事だ。

さて、ここからが仕上げとなる。

もう少し、敵の数を、削っておくとしよう。

カラスたちは、既に周囲に展開している。他の奴から離れた兵士がいれば、すぐに知らせてくる。

 

夜になった。

恐慌に陥った探索部隊は、まだたいまつを照らしたまま、必死に森の中を走り回っている。

既に動員されている戦力は、三百を超えているようだ。

山の方も、ほぼ寝ずの番が決定だろう。明々とたいまつを照らし、何があっても耐え抜けるようにしている。

砦の方からも、増援が来ている様子だ。

無理もない話である。ヤトの足下には、三人の敵兵が転がっている。死体から矢を引き抜き、ヤトは血だらけの鏃を敵の服で拭った。

夜に入るまでに十五人。

夜になってから、更にこの三人を含めて、七人を殺した。奪った武器は既に隠してあるし、矢は全て筒に入れてある。

この砦の司令官は、どうも防御に関する指揮では優れたものがあるようだが。一方で、自分が構築した完全な守りが崩されると、予想外に脆い。

もしも大兵力があったら。

この混乱に乗じて、山を落とせただろう。

惜しいが、それはならない。

「そちらはどうだ!」

「敵は発見できません!」

「くそっ! 一体どこに、何人潜んでいやがる!」

悲鳴じみた声が、彼方此方で聞こえる。

これでは、自分たちの苦境を、教えているようなものだ。戦闘の訓練は受けていても、他は完璧とは言いがたい。

或いは、完璧な仕組みの中で鈍ったか。

また、一つの組が、夜闇の中で他と外れた。ヤトは夜闇の中、蝉を狙う百足のように木々の間を這い回り、狙撃に絶好の地点を確保する。

敵の数は五人。

立て続けに矢を放ち、瞬く間に三人を仕留める。他の三人が死んだことに、残りの二人が気付いたときには。その背中には、ヤトが舞い降りていた。

首を二つ、流れるように刎ね飛ばす。

まともに戦えばどうかは分からないが。

闇夜で、しかも不意を打てば、こんなものだ。

武器を奪い取ると、死体をその辺りに転がしておく。これで、更に敵を混乱させる事が出来るだろう。

おそらくは、紀伊にいるタケルが、近いうちに来る。

それまでに五十は削り取っておきたい。

その場を離れるが。

すぐに、敵が叫び声を上げているのが分かった。死体が発見されるのが、想像以上に早い。

どうやら、ようやく対応能力を身につけてきたらしい。

では、此方も行動を変えるか。

事前に確認しておいた、絶好の狙撃地点がある。

狙うのは、敵の兵士では無い。

鉄を掘り出す山で働いている、ヤマトの民と呼ばれる連中だ。高い防壁に囲まれているとは言え、ヤトの腕ならば、ギリギリで届く場所が何個かある。

音もなく、山の中を移動。

今日の空模様は、殺戮後、血の雨となるでしょう。

呟きながら、ヤトは舌なめずりしたが。その足が、不意に止まった。

梟たちが、警告の声を上げている。

舌打ちしたのは、気付いたからだ。タケルが来るには早すぎる。多分これは、この間麻痺毒を矢に塗っていた連中の登場だ。

一瞬だけ悩む。

ここで戦って、この間の借りを返すか。

しかしそれにしては、少し此方の手数が不足している。向こうも対応策くらい練ってきているだろう。

下手をすると包囲されたあげく、完全武装の敵の中に飛び込まされ、袋だたきになりかねない。

仕方が無い。

此処は撤退だ。

目標ほどは殺せなかったが、敵を充分に混乱させる事が出来た。戦略上の目標は達成できたわけで、今ヤトが暴れていたのは、敵の傷を更に広げるため。これ以上、塩を塗り込まなくても、充分。

むしろそのために怪我をしては、本末転倒。

残念だが、此処まで。

ヤトは闇に紛れて、走る。梟たちが警告してきている敵の位置は、まだかなり遠い。逃げ切るだけなら、さほど難しくは無い。

夜闇を、走る。

そして、自分の庭に等しい山に、明け方前には逃げ込んだ。

敵はその間、距離を保ったままついては来ていたが。夜明けの光が空に満ち始めると同時に、追撃を停止した。

何か考えがあっての事かも知れない。

前回は負けた。

だが、今回はヤトの勝ちだ。

このまま、一気に勢力をふくれあがらせる。そして、紀伊に火種をばらまき、発火させ。ヤマトを足下から、堀崩すのだ。

 

ツクヨミが現場を訪れると、既に惨劇は終わっていた。護衛の武人達は一言も発しない。二人とも大陸から来た渡来人で、向こうの武術を収めた達人だ。後で、彼らにも役に立ってもらう。

道すがら、追いすがってきた影の者達から、話を聞いておく。

夜だけで、二十七人が殺されていた。

しかも、夜通し走り回った兵士達は、敵の影さえ見つけられなかったという。

間違いなく、奴だ。

まずは、鉄を生産しているくろがね山に足を運ぶ。

殺気だった兵士達は、文官風情が何をしに来たと、敵意むき出しの目で見ていたが。ツクヨミには痛くもかゆくも無い。

それに、敵意なら受け慣れている。

山に入った後、指揮をしている将軍に出迎えられる。この国の礼は、大陸式とは違う。下馬したツクヨミに軽く礼をすると、将軍は舎に案内してくれた。この男も、タケルに鍛えられた一人なのに。今回は、良いように手玉に取られてしまった。

流石に夜通しの戦いで疲れ果てているらしく、将軍の顔にはやつれも見える。

「このたびは、災難でありましたな」

「是非も無し。 更迭も覚悟している」

「いえ、貴方は今回以外、これといった落ち度もありません。 私から、武王陛下に取りなしておきましょう」

「それは有り難いが……」

相手から、露骨な警戒を感じる。

ツクヨミは、武断派の将軍から徹底的に嫌われている。タケル達もそうだし、こういった中堅、上級の将軍達でも、ツクヨミに好意的な人物などいないという話だ。それも当然だろう。

前線で命を張って武勲を重ねてきた者が、後方で物資の整備をしているだけで出世しているものに、好意的な目を向けるはずが無い。

ツクヨミは影の仕事もしているから、余計に反感も買いやすい。汚い手で出世した、下劣な輩だという声もあるようだ。

それらの批判を、ツクヨミは受け止めることにしている。

彼らの気持ちも、よく分かるからだ。

ツクヨミは渡来人である。

正確には、父親が渡来人だ。朝廷に召し抱えられたとき、ツクヨミの父は既に死病に掛かっていた。

父親は厳格な人物で、大陸ではそれなりに名の知れた武人だったのだが。政争で貶められ、この国まで逃げてきた。

死の間際、父はツクヨミに言ったものだ。

武人としての生き方だけが、人生では無いと。

父も若い頃は、武勲以外で出世したものを、憎んでいたという。軽蔑もしていたという。しかし、今は考えを変えているという。

ツクヨミの父が前線で武勇を発揮できたのは。

後方から、物資が送られてきたからだ。

背後を気にせず戦えたのは。

情報をしっかり入手できていたからだ。

戦う者だけが、戦場で偉いのでは無い。戦場で勝つことの裏には、多くの物事が関わっている。

中々理解はされない。

だが、それが真実なのだ。

武芸の才が無いツクヨミを、そう言って父は慰めた。お前は、武芸以外で立身できる。幸い、それを可能とする知恵を持つ。

だから、無理に武人を目指そうとするな。

この国を、裏から支える男になれ。

若い頃は、それでも随分と苦労した。武王に拾われるまでは、苦難ばかりが降りかかってきていた。

しかし、今では。ツクヨミは、この国を愛している。

偏見と闘う覚悟も出来ていた。

「それよりも、現場を見せていただきたく」

「此方だ」

将軍に案内された先には、惨劇と血臭が広がっていた。

数人の兵士だった肉塊が、転がされている。

すぐに、影の者達が調査を始めた。ツクヨミも腰をかがめ、殺されている兵士達を確認。数人は矢で射殺されているのだが。矢は、殺害後、抜き取られている。普通鏃を綺麗に抜くのは、かなりの技量を要するのだが。

しかも、どの死体も、急所を一撃だ。

ツルギで斬られた死体もある。

いずれも、抵抗する暇さえ与えられていない。背後や、死角から這い寄るように距離を詰め、一撃必殺。

完全に玄人の仕事である。

護衛の達人達には、どのような状況で攻撃が行われたのかを、分析させる。分析結果は、影の者達に渡し、ヤトと戦う際に参考にさせるのだ。

「他の死体を見せていただけますか」

「ああ、此方だ」

うんざりした様子で、将軍が案内してくれる。

どれもこれも、死体は殆ど完璧な奇襲によって殺されていた。本職の兵士が唸るほどの、理想的状況からの攻撃。

戦闘とは、切り結ぶ事ばかりでは無い。

相手の死角から近づいて、一撃必殺。

それが危険も少ない。

実際、戦場でそうして敵を倒すことは、恥ずかしい事だとは思われていない。戦場の外でそれをやったら、恥知らずとして罵られるが。

この国の独自の美意識は、渡来人達にはわかりにくいと、父から聞いたことがある。ツクヨミは、それを良く理解はしていたが。しかし、それでも、兵士達は驚いているようだった。

死体の幾つかからは、武器が奪われていた。特に矢は、根こそぎに持って行かれている。金目のものなど、見向きもしていない。実用的な武器だけを、敵は。

いや、「山神」ヤトは奪っていっている。

周囲を調査していた影の長である蛟が、側に来た。

「ツクヨミ様」

「首尾は?」

「ほぼ間違いありません。 ヤトによるものでありましょう」

「ふむ……」

やはり、そうか。

夜の森で、ヤトと戦うのは無謀。数百の兵が振り回され、その内三十人近くが殺された。影の者達でも、条件が整えば、同じ目に遭うだろう。

タケルが危険視することも分かる。

少し前に、タケルから激烈な文章の手紙が来た。

とにかく、ヤトに対する策が甘いというのである。捕らえようと思わず、確実に殺す事だけ考えよ、というのだ。

危惧はよく分かる。

しかしツクヨミにして見れば、これほどの猛獣を捕らえれば、どれだけ朝廷の力になるかという計算が先に働いてしまうのだ。

故に、タケルの怒りはもっともだと思いつつ。

その指示は聞けない。

武王に取りなしてもらう必要が、生じるかも知れない。

「最初に襲撃をかけてきた紀伊の賊については、分かったことがあるか」

「現在調査中ですが、残された死体を見聞したところ、少し前まで紀伊で活動していた男達ばかりでありました」

「ほう?」

「おそらくは、紀伊の賊は、何かしらの形で、ヤトと組織的に結びついているものと思われます。 今だ百名以上が無事である事は確実。 もしもヤトが紀伊の賊を完全に支配下に入れているとすると、相当に厄介なことになりましょう」

少し、思考を進める。

戦闘の現場を一通り見せてもらった後、製鉄を行う山に入る。

最低限の作業だけをしている状態であり、兵士達は殺気だって行き交っていた。ツクヨミも、当然敵意を帯びた視線を向けられている。

舎に案内される。

将軍が肉を進めてくれたので、部下達と分ける。

軽く茶をすすった後、将軍が切り出した。

「情けない話だが、この年まで、こうも無様な敗北は経験したことが無い。 全てにおいて敵に上を行かれ、尻尾さえ掴むことが出来なかった」

「いえ、将軍は充分な働きをなさいました。 実際この山は無事ではありませんか。 それに戦術的には敗退しましたが、戦略的にはさほどの傷は受けていません。 鉄の供給路が潰された訳でもありませんし、製鉄を行っている山は何も此処だけではありませんから」

「だがな。 同様の襲撃がまたあった場合、防ぎきれる自信は無いぞ」

「今回の失敗を生かし、次の成功につなげましょう。 むしろ混乱を最小限にした将軍の手腕に、私は感服しております。 武人とはかくも冷静になれるのかと、驚いた次第です」

褒めちぎっておく。

武人を長年している男は、基本的に己の武断に重を置くことが多い。つまり、感情は単純に出来ていることが少なくない。

この老将も、それについては同じだった。

相手の機嫌が良くなってきたところで、恩を売っておく。

「武王陛下には、私から取りなしておきます故。 私が困ったときには、是非将軍のお力をお貸しください」

「……」

多少露骨であっても。恩を売ったことを、相手に認識させておく。

それで充分だ。

さて、此処での作業は終わった。蛟と一緒に、山を出る。しかし、製鉄の煙は、本当に肺を焼くかのようだ。

「周囲にヤトの姿は?」

「影も形も。 遺留品さえ残しておりません」

「であろうな。 引き続き、警戒を続けよ。 奴はおそらく、近いうちに、また何かしらの行動を起こすだろうな」

奴は、理解しているはずだ。

この山への攻撃など、所詮は囮にしかならないと。そして、朝廷としては、口惜しいことに、その囮には対処せざるを得ないのである。

奴の狙いは、紀伊。

紀伊にいるタケル将軍を、この山に引っ張り込むことだ。そして、紀伊の混乱を加速させ、一気に手下を増やすつもりだろう。

敵の狙いは分かる。

だが、この山の防備は重要だ。朝廷の武力を支える鉄の、しかも都に一番近い生産地なのである。

将来有望な鉄の産地と言う事もある。此処が攻撃を受け、その上多くの鉄が失われたというのは、朝廷にとっても大問題なのだ。

だが、敵の手に乗るつもりは無い。

武王が育て、タケルが鍛えた将軍は、まだまだこの国に多く存在している。現在四人いるタケルの内、三人は東北に行ってしまっているが。この近辺にも、力がある将軍は存在しているのだ。

何人かを頭の中で見繕う。

そして、一度都へ戻ることとした。

ヤトが相当な広域戦略を理解していることは分かった。手札についても、少しずつ見えてきている。

だが、知恵比べで、まだ負ける気はしない。

奴は邪悪な神になりつつあるのかも知れないが。この地上で、もっとも知恵が優れた存在は、神では無い。

人だ。

神でさえ、人が造り出したもの。

自然現象や空想、それに幻などから産み出された神は、所詮人を凌ぐことが出来ない。神の皮を被った時点で、ヤトは負けているのだ。人間の社会というものの仕組みの中に、自分を置いてしまっている。

その人の中でも、知恵を生かして出世してきたツクヨミは、敵に遅れを取るつもりはない。

必ずや、ヤトの上を行き。

そして、捕らえるのだ。

ふと、馬上にて顔を上げたのは。視線を感じたからである。

遠くの山から、此方を見ている者がいたような気がした。或いは、気のせいでは無いかもしれない。

もしかしたら、ヤトか。

しかし、すぐに視線は消えた。敵が、此方を意識しているのなら、それはそれで面白い。これからが本番だと、すぐに思い知らせてやる。

ただ、それだけのことだった。

 

4、知恵比べの螺旋

 

紀伊から、軍勢が進発したと、ヤトは報告を受けた。

報告を受けたとき。丁度ヤトは、新しく支配下に置いた山で、熊を狩った所だった。熊も猪と大差は無い。北の地には大きなものもいるというが、この近辺の熊は、猪とさほど大きさも変わらない。

急所を一撃で射貫いて、おしまいだ。

吊した熊の皮を剥いで、解体しているところに、カラスたちが鳴いた。側では、やせこけた集落の子供達が、物欲しそうに膝を抱えて、肉の塊を見ていた。

「もう少しで出来る。 だから待っていろ」

この子供らは。

少し前に、鵯が連れてきた。逃散農民からも見捨てられ、河原で死にかけていたのを、拾ってきたのだそうだ。

目には光というか活力というか、その類のものが一切見えない。

だが、それは逆に言えば、仕込めばヤトの大変忠実な道具になる事も意味している。仕込むまで、随分時間は掛かるだろうが、それはそれで構わない。

さくさくと肉を切っている内に、後ろに気配。

千里だ。千里から、報告を受けながら、ヤトは熊の腹を割いた。ぼろりと、内臓が飛び出してくる。

血抜きは充分だったから、さほど血は出ない。

側にある土器の中にどさどさと内臓を入れながら、ヤトは子供らに指示。此奴らが着ている衣服も、少し前にヤトが狩った猪の毛皮だ。

「それで、その軍勢の中に、タケルの姿は?」

「いや、まだ確認はしていない。 兵は千人以上はいるとみて良いだろうな」

「紀伊の状況については」

「今、調査中だ」

鼻を鳴らす。

どうも妙だ。タケルが来るとしたら、もっと大胆に兵を動かすのでは無いのか。

何かきな臭い。

そういえば、だ。

少し前に、製鉄の山に来ていた奴のことを思い出す。

遠くから見ただけなのだが。なよっとしていて、とても戦いなど出来そうな奴には見えなかったのだが。

周囲に影の者どもを従えていた。

あれがあるいは、影の者どもの長かも知れない。

戦いが出来ないなら、知恵を巡らす。

分業としてはありふれているが、悪い判断では無い。

「もう少し調査を続けろ」

刃物を、分厚いものに持ち替える。

皮を剥ぎ終えている熊の関節から外す。軟骨に何度か刃を入れて、腕を、足を切りおとしていく。

ぎこぎこと音を立てて、顎の骨を外して、舌を切り取った。

河に内臓を運んでいった子供達に、今度は舌を渡して、洗ってくるように指示。

「お前も、喰っていくか?」

「熊を、喰えるのか」

「何だ、熊くらい、喰ったことも無いのか。 あまりうまいものではないが、精がつくし、力も出るぞ」

風を切って刃を振るい、血を落とす。

熊の首を切りおとすと、頭蓋骨を割って、脳みそを取り出した。脳みそはあまり美味しくないが、食べられるものは全て食べるのが礼儀だ。

肉を骨からそぎ落としていく。

爪は爪で、使える。

一つずつ外すと、子供達にくれてやる。穴を開けて、紐でつないで、首から掛ければ。とても小粋な飾り物のできあがりだ。

肉を一通り骨から切りおとすと、焼きはじめる。

たき火を囲んで、じっと見ていた子供達に、焼けた肉から順番に食わせる。最後にヤトと、千里で残りを手にした。

無心に、肉を頬張る。

「相変わらずの、野人だな……」

「森で暮らすなら、当然の技術だ。 私の元いた集落の男達は、もっと手際よく解体したぞ」

最近は、彼奴らにも負けない速度で解体できるようになってきたが。それでも、まだまだだとヤトは思っている。

熊肉はあまり美味しいものではないが、それでも焼きたてはとても腹に染み渡る。

焼いていると、肉汁が枝を伝って零れる。

香ばしい肉が、食欲を際限なく刺激するのだ。

子供達には、食えるだけ食わせる。後は、野草を入れて、煮込んだ汁物を作った。幾つかの野草で味を調え、熊肉で仕上げ。

この山は、これでヤトのものだ。

支配者だった熊は、ヤトの血肉となった。後はこの子供達と、他に数人の大人が、適切に管理すれば良い。

それも仮のもの。

いずれ、ヤトだけが、山を支配すればいいのだが、それは敢えて黙っておく。

道具は、使える内は、大事にする。

「腹一杯喰ったか、子供ら」

「はい、やまがみさま」

「そうか。 ならば、走り回って手足を鍛えよ。 つかれたら寝ろ。 そうして、一日も早く大人になれ」

子供達を住居にしている洞穴へ送り出すと、ヤトは後片付けに入る。

残った肉や内臓は煙でいぶして燻製に。

そして皮はなめして衣服の素材に。

骨は砕いて、草があまり生えていない辺りに埋める。そうすることで、絶え間なく、山は生きるのだ。

ヤトの作業を、無言で千里は見つめていた。

「あんた、そんな人間らしい表情も出来るんだな」

「何?」

「今のあんた、楽しそうだ。 俺を恐怖のどん底に叩き込んでくれた、物の怪の帝王の姿は、どこにもねえ」

「ふん、そうか。 紀伊の様子を調べてこい。 どうも引っかかる。 敵が罠を張っている可能性が高い」

了解と言い残すと、千里は消えた。

さて、後は鵯の所に置いてきた、集落に潜り込んだ草どもだが。

尋問は出来ているだろうか。まあ、出来ていないのなら、殺して肥料にでもするだけだが。

いずれにしても、ヤトに人間らしさ、など必要ない。

自分自身で、そう思う。

ヤトにとって必要なのは、全ての支配。この森を、山を。ヤトの愛するもの全てを、支配する。

その支配には、自身も含まれる。

更に自身を研ぎ澄まし、高め上げる事で。やがて、完全なる支配者となるのだ。

熊を完全に片付けてしまうと、鵯がいる山へ戻ることにする。

此方が手を打つことで、敵も返してきた。

それを吟味してから、次の行動に出る。

ヤマトの中枢に、今回は打撃を与えてやった。次は、さらなるくさびを叩き込んでやる。憎悪と怨恨、そして邪悪なる野心が。

ヤトを人外のものへと変えてくれる。

そして、その人外の力が。

全てを炎に包んでくれることだろう。

あらためて、自分に言い聞かせる。

邪神夜刀の神に。人間らしさなど。

必要ない。

 

(続)