魔蛇雌伏

 

序、山の主

 

戦意を失ったツチグモなど、眼中になし。

そう思っていたヤトであったのだが。

今、途方に暮れていた。

普段から強い意志力で全てを動かしてきたヤトとしては。少なくとも、クロヘビ集落が滅ぼされて以降、初の経験であったかも知れない。

どう反応して良いかよく分からないヤトの前で、土下座しているそのもの達は、声を張り上げた。

「凄まじい武勇! あなた様こそ、山神様とお見受けいたします!」

「いや、私はだな……」

「どうか我らをお救いください!」

ヤトの後ろには、先ほど寝穴をつぶされた腹いせも兼ねて、当然山の覇権争いもあって、叩き殺した大猪が転がっている。既に息は無い。

正当な戦いの末での勝ちだ。ヤトには、この肉を食べる権利がある。勿論ヤトが負けていたら、猪はヤトを喰らう権利を得ていた。それだけだ。

一瞥だけしたのは、血抜きをしたいからだが。

土下座しているツチグモの者達を放置しておくわけにもいかないだろう。

そういえば、砦から脱出する直前も、ヤトを慕うそぶりを見せた蝦夷の兵士達を相手に自分でもよく分からない行動を取ってしまった。

或いは、こうやってすがられることが、苦手なのかも知れない。

いずれにしても、固まっていても意味が無い。せっかくの肉を食べないのは、闘争の果てに倒した相手に対する失礼に当たる。この猪は、ヤトと対立することとはなったが、この山を支配していた長だったのだ。是非食べて、自分の力としたい。

予備のツルギをふるって、血を落とす。

「分かった。 とにかく、今はこの猪を食べる手伝いをして欲しい」

「? 山神、様……?」

「血抜きくらいは出来るだろう。 木に吊るせ」

分かっていない様子なので、ヤトは苛立ちを感じたが。

猪を木に吊させている間に、何となく理解できてきた。

この者達。

山の中で暮らしてはいるが、おそらく生粋の山の民では無い。猪のばらし方も分からない様子なのだ。

この辺りに住む猪としては桁外れの大物だが、それにしてもお粗末な対応だと思ってはいた。

つまりこの者達、ヤマトからはじき出された、はぐれ者達、という事なのだろう。

見ると粗末な格好をしていて、ツチグモのような自然と共にある者達が有するたくましさが無い。

他に生きる場所が無くて、山の中に逃れてきた事が、丸わかりだ。農耕民の戦士と同じような脆弱さを感じ取れる。

放っておいて寝直そうかと思ったが。それも無理だ。

先ほどまで気持ちよく寝ていた横穴は、戦いの余波で完全に潰れてしまった。丁度良い斜面にある、すてきな穴だったのに。

全ての始まりは、半刻ほど前。

ヤマトの中枢部を山の上から、いろいろな角度から観察して確認を続けていたヤトは、眠る場所を確保すべく、また山の生物の分布状況を知るべく、歩き回っていた。

適当な斜面を見つけたので、穴を掘った。

ヤトは穴の中で寝ることを基本としている。ひんやりとして気持ちよいと思って、しばらく休んでいたのだが。

不意に響き立った悲鳴と同時に、穴が崩れてきたのである。

何事かと穴を飛び出してみれば、貧弱なツチグモどもを追い回す、とても大きな猪がいた。

体をふるって土を落としたヤトを見て、さらなる悲鳴を上げるツチグモども。

そして、雄叫びを上げて、此方に突進してくる猪。

それを、ヤトは挑戦と取った。山に最強は二体いらないという、単純極まりない意思表示と、判断した。

かってだったら、弓の間合いでは無い戦いで、勝ち目は無かったかも知れない。

しかし、今は違う。

全力で突進してきた猪に対し、ヤトは木の幹を蹴って跳躍し、背中に跨がる。そして暴れるより先に、首筋の急所に、ツルギを突き立てた。

血管を切られた猪が、横転して暴れるより先に飛び退く。

それでも反転して突進してきた猪だが。ヤトがすれ違いざまに左足をはね飛ばすと、岩に激突して、動かなくなった。

手傷は負わずに勝てたことで、ヤトは自身の強さが増していることを実感できたのだが。

しかし、その直後に、このような面倒な事になってしまったのである。

どうにか猪を木につるし終えるはぐれ者達。

ヤトは指導しながら、猪の首の血管を切り裂いた。血が噴き出すのを見て、小さな悲鳴を上げる脆弱な者ども。

血を受ける土器があるとよいのだが、この様子ではそれも望めまい。

「火を熾しますか」

「まだ早い」

血が抜けきってから、本当はしばらく。出来れば一日ほどおいてから肉を食べるとうまくなる。

一番良いのは、土に埋めて、丸一日くらい放っておくことだ。

こうすると肉が良い感じに熟する。今の時期だと、一日と少しくらいで丁度良くなるだろう。

だが、此奴らは。

全員がやせ細っていて、目ばかりぎらぎらしている。

いっそのこと、全員殺して、財産も奪い去るか。

しかしながら、ヤトが持ち込んでいる荷車は、二台とも一杯だ。前後につなげて持ってきているのだが、これ以上積むことも出来ないだろう。何よりこんな連中が、まともな武器を持っているとも思えない。

「お前達は、ヤマトから逃れてきたのか」

「租税が払えなくて……」

「租税?」

聞き慣れない言葉だが。

そういえば、弥生が言っていたことを思い出す。ヤマトにしても蝦夷にしても、確か税という制度がある。

何でも出来た作物の幾らかを、偉い人間に差し出すというものであるらしい。

「よくは分からんが、田畑で作ったものの幾らかを収めるものなのではないのか」

「おお……やはり山神様じゃ」

「意味が分からん」

「田畑によって、収めなければならない量が決まっているのです。 彼らは元から西から連れてこられた民でして、不慣れな農作業では、出来る作物も知れていて。 結局、租税を納めることも出来ず、逃げてきたのです」

一人、物わかりが良いのがいた。

見たところ、身なりも若干しっかりしている。長身の女で、ヤトより少し年上くらいだろうか。

最初、土下座している連中に混ざっていたとは思えない。

後から姿を見せたか。

「ヒメミコ様。 山神様にございます」

「山神様? 貴方は、おそらくはツチグモの神子ではありませんか?」

「ようやく話が分かる奴が現れたか」

会話が全く成立しないので、困っていたところだ。

ヒメミコと呼ばれた女は、髪を非常に短く切っていて、胸が無ければ男かと思った。顔立ちは女らしい部分もあるのだが、ヤトのいた常陸では、髪を女が切ることはあり得ない。非常に透き通った白い衣服を着ていて、素材が分からない。

そういえば、しばらく着ているこの服も、素材についてはよく分からなかった。

猪を見て、ヒメミコという女は、驚いたようだが。他に比べると、反応も随分と薄く、淡白だ。

「貴方が倒したのですか」

「そうだ。 これで私がこの山の主だ。 文句はなかろうな」

「……ツチグモの戦士は凶猛だとは聞いていましたが。 分かりました。 いずれにしても、我々には自分の身を守る武力もありません」

血が抜けたので、猪を下ろす。

貧弱な連中は、必死になって猪を運び始めていた。アオヘビの戦士だったら、二人で充分だろうと、七人も八人も群がっている様子を見て、ヤトはげんなりした。

山の奥の方。

清流があり、その近くに、洞窟があった。

中々に広い洞窟だ。其処で、ヒメミコとやらは、弱者どもと暮らしている様子だ。蝙蝠が飛び交っている事からも、かなり大きな洞窟である。ただし、入り口が若干上向きなのはよろしくない。

これでは中で生活するとき、雨を気にしなくてはならないだろう。

やはり谷に住むのが一番だが。

この辺りでは、都合が良さそうな谷は見当たらなかった。

「此方へどうぞ、山神様」

なにやら差し出される。

岩の上に置かれたそれは、柔らかい毛皮を重ねたものだ。上に座れというのだろう。

卑屈な笑みを浮かべる弱者どもにうんざりしたが、ヒメミコが奥へ行くように、彼らに促した。

猪が、洞窟の奥へ運ばれていく。

流石に猪を解体することくらいは出来るだろう。

どうせ一人では食べきれなかったのだし、この山を支配しているのはヤトだ。肉自体は、自分の分だけが得られれば良い。

出されたものを石の上に置き、座った。

随分と柔らかい。寝るときに使う敷物のようだ。これは意外にも、快適かも知れない。座っていて尻が痛くないのはなかなかだ。

「貴方は、東から来たツチグモの方とお見受けしますが」

「アオヘビ集落のミコ、ヤトだ。 既に集落は全滅したが」

「そうですか。 私はかつて、アキツの西の果てにあるクマソと呼ばれる地で、媛巫女と呼ばれていた者の末裔です。 名は鵯(ヒヨ)ともうします。 大和朝廷に服属したクマソの文化は既に失われ、私のような生き残りはもはやごく少数ですが。 私はクマソの教えを守るために、山の中をさまよい、この年まで逃げ延びてきました」

「ふむ、私と状況は似ているな。 あの弱々しい者どもはお前の集落の戦士か」

首を横に振った鵯は、説明をしてくれる。

大和朝廷はさほど苛烈な支配者では無いが、やはり屈服したばかりのツチグモや、征服された者達は、それなりに扱いが厳しくなると言う。

もとより生活力が低かったり、弱かった者は、生きていけなくなる場合がままある。

そういった場合は、田畑を捨て、山に逃げ込むしか無い。

「朝廷からは、各地の民を束ねる長と呼ばれる人間が派遣されていますが、中には横暴に振る舞う長もいます。 朝廷の中枢があるこの近辺では、特に横暴な長が多いようで、苦しめられた民が離散することも多く。 私は山の中をさまよう内に、離散した民を助けていました。 そうしたら、いつの間にかこれほどの人数になっていて」

「なるほど。 それで山も知らぬ愚かな者どもが、束になっていたという事か」

そもそも、一番まともそうなこの鵯でさえ、戦いが出来るとは思えないのだ。

このような連中では、どれだけ集めても、使い物にはならない。そうヤトは思いかけたが。

しかし、蝦夷の兵士達が、自信を付けたら相応に戦えた事を思い出す。

使いようによっては、役に立つかも知れない。

ヤトの目的は、ヤマトに対する復讐だ。

最終的な目的線はあるが、おそらくそれを達成するには、手足が必要となるだろう。カラスたちや梟たちだけでは、なしえない。勿論、袖に仕込んでいる蝮たちでも、足りない。

自身を狂信的に慕う人間。

命を捨てることを惜しまず、恐怖にも屈せず、膨大なヤマトの軍勢に向けて戦う事を拒まない。

そんな人間が、いくらでも必要だ。

此奴らは、今は脆弱だが。鍛えれば、或いは。

それに、さほど強くも無いだろう鵯が、これだけの人数を集めることが出来たのだ。もっと増やすことは、難しくないだろう。

「長になっていただけるのなら、彼らも助かりましょう。 ヤト様、私からもお願いいたします」

「お前は私に従うか」

「私では、そもそも山の中の荒事に対応できていませんでした。 貴方のような武勇の持ち主がいれば、どれだけ心強いことか。 それに媛巫女の役割は、そもそも皆を導く事では無く、神託を得ることです」

「そうか。 何にしても、従うのであればそれで良い」

洞窟の奥では、わいわいと猪を囲んでいた。

ヤトが姿を見せると、どいつもこいつも卑屈な笑顔を見せて、猪から距離を取る。全く解体されていないので、ヤトはげんなりした。

奥の方には、痩せ細った子供もいる。

母親らしい女と手をつないでいる子供は、どれも栄養が足りていないのが丸わかりだ。碌な栄養を取っていない。

もしもアオヘビだったら、ハハが怒鳴られるところだ。

子供を育てることに、ハハは誇りを持つ。

まず、荷車を持ち込む。

解体に必要な道具類は、其処に積んである。さっき寝ていた洞窟の近くに、荷車はそのまま置かれていた。

来る途中で確認したが、近辺の山には鹿も多いから、食い物には本来困らないはずなのだ。木の実も豊富にあり、その多くは食べられる種類。椎の実だって、秋には豊富に取れるだろう。

「猪の捌き方を教えるから、全員見ているように」

これは骨が折れると、ヤトは思った。

まずは石で作った刃物を取り出す。鉄製のものを使っても良いが、手入れが面倒な上に貴重なので、黒曜石のものをまず使う。

最初に猪の皮を剥ぐ。

はぎ方については色々とコツがあるのだが、それを説明していく。こういうのはハハの仕事でも、ましてやミコの仕事でも無いのだが。

皮を剥ぎながら、猪の死体を廻すようにして動かす。綺麗に皮を剥ぎ終えた後は、関節にそって、足をまず切りおとす。

その後は腹を割いて、ハラワタを取り出す。

胃袋と腸は河に持っていって、中身を全部捨て、そして洗う。後は順番に体を分解していく。

骨を一つずつ外しながら、肉を削いでいくのは、久しぶりにやる作業だ。

ヤトはミコだから、ある時期から一切やらなくなった。しかし、体が作業を覚えているものだ。

勿論アオヘビの戦士なら、皆がこの三分の一の時間で、解体を終えられるだろう。

肉を骨から切り取って、並べていく。

この辺りで、ようやく火が必要になる。

洞窟の入り口近くで火を焚き、肉を炙らせる。食べる分はそのまま焼くし、そうでない分は煙にいぶす。燻製にすれば長持ちする。

「まずは子供達だ。 その後に戦士達」

「ヤト様。 彼らは戦士ではありません」

「……そうか。 ならばこれから、戦士として鍛えてやる」

次にハハとなるべき女達。

ヤトは、獲物を仕留めた者が食べる権利を有する胸肉を取る。そのまま木の枝に突き刺し、焼きはじめた。

脂がのっている良い肉だ。生で食べても良いのだが、今は焼いておいた方が良いだろう。ようやく子供達が食べ始めるのを見て、洞窟の中に活気が出てきた。

「どうして此奴らは、こうも卑屈なのか」

「朝廷の支配が苛烈と言うことは無いのですが、どちらかと言えば彼らは民の中でもあまり立場が強くないのです。 ずっと弱いまま生きてきたのですから、自身の身の立て方も、生き方さえも。 よく分かっていません」

「それでよく生きてこられたな」

棒に刺した肉を渡す。

此奴は、多少は頭が良い。これからこき使うためにも、力をつけさせなければならない。

肉を食べ終えると、ヤトはこれでこの山の支配者になったと、頭を切り換えた。

これから、山の管理をしていかなければならない。

森もだ。

一番良いのは、人間を全て排除してしまうことなのだが。

今、ヤトは、一番大事な故郷の森にいるわけではない。この森は、ヤトにとって、攻略のための拠点。

どれだけ森を傷つけるか。

それに、ヤマトを攻撃するための人員を確保するか。

いずれもが、とても重要になってくるだろう。

小さな骨の塊を吐き捨てながら、ヤトは思う。いずれにしても、手足となる連中が手に入ったのは、僥倖と思うべきだと。

「まずは弓の使い方だな」

誰に言うでもなく、ヤトは呟いていた。

 

1、無人の森

 

住んでいるにも関わらず、近辺の森を何も知らない。

ヤトは最初、何をするにも頭を抱えなければならなかった。新しく集落を立ち上げたは良いが、戦士になる筈の男達が、この近辺のことを、何も知らないと言うのだから。

仕方が無いので、ヤトはまず、周囲を見て廻る。

近辺には多くの山々があり、水も豊富だ。

また、木々もかなり多い。

梟もカラスも充分な寝床を確保できている。何羽かと話はしたが、いずれも環境に不満は無い様子だ。

カラスも梟も、かなり環境の変化には五月蠅い。

特に梟は、非常に様々な条件を生活に必要とする。現在飼っているのは十七羽だが、この辺りの山全域を使わなければ生活は無理だろう。もう少し広い範囲に散らして、ヤマトへの監視役として用いるつもりだが。

水は非常に澄んでいる。

ヤトが住んでいた辺りに比べて、山がより深いからだろう。清流のせせらぎがとても美しくて、耳を澄ますととても良い気分になる。

こんな所を汚さなければならないのは口惜しいことだが。

しかし、ヤマトへの復讐を成し遂げるためには、優先順位がある。勿論此処を焼き払うような真似は出来ない。

木々はどうか。

苔むした大型の木が、多数見て取れる。

鉄については。

此処より少し南に、大規模な生産地があると言う。其処から奪うのも手か。出雲という場所かと思ったのだが、違うそうだ。

一通りみて回った後、洞窟に戻る。

この洞窟は、集落のハハと戦士達の繁殖場に使いたい。

自分自身は、別に穴を掘って、其処で住みたいところだ。

鵯が待っていた。

「どうでしたか、この近辺は」

「悪くない場所だ。 こんな良い場所に、ツチグモがいなかった事が信じられん」

「いた、そうですよ。 全員が捕らえられて、ヤマトに連行され。 今では帰農しているようです。 ナガスネヒコと呼ばれる強力なツチグモの長であったそうですが、抵抗が激しかったので、見逃すことは出来なかったのでしょう」

「不思議な名前だな」

苦笑いする鵯。

この辺りでは、男性の名前の最後に彦とつけるのは普通のことだそうだ。一方で、女性には名前が無い場合もあると言う。

元々、ヤマトでは男性の地位の方が高い。それも、遙かに。

戦士が、人間との戦いを行う上で重要だからで、場合によっては女性は動物扱いされる事もあるとか。

ただし、地方によってそれも違うのだとか。

「ぞっとしない話だな。 お前がヤマトに降伏しなかったのも、それが理由か」

「ツチグモの女がどう扱われるか、貴方は知らない方が良いでしょう」

「いや、だいたいは知っているさ」

ヤマトの連中は、生命を産み出すハハをないがしろにするくず共だとは知っていたが。それほどだとは考えていなかった。

もっとも、旧クロヘビの女達は、そこまで酷い扱いを受けていなかったように見て取れた。

場所によって、違うというのだろう。

山菜や野草の取り方を、女子供に教えておく。

毒草の見分け方も。

男達には、まず弓の引き方。それに、作り方も教えなければならない。荷車二つに積んできた物資だが。

無駄遣いすれば、すぐに無くなってしまうだろう。

特に、鉄の武具は、今の時点では入手手段がない。

人数が増えてきたら、何かしらの方法で、大量に手に入れなければならないだろう。面倒な話だ。

まずは弓の使い方から、順番に教えていく。

弓を放つ際の姿勢。

獲物を狙うときの、相手の見方。

放つのでは無い。当ててから、指を矢から離す。その概念は最近理解できるようになったから、まだ教えない。

まずは、矢をまっすぐ飛ばすところからだ。

それと一緒に、体も鍛える必要がある。

ヤトは連日、山にいる獣の数を見ながら、動物を狩った。兎や鹿を中心に。狐も時々仕留める。

どの動物も、まずは捌き方からだ。

四頭、五頭と仕留めていく内に、少しずつ、捌くことが出来るようになってきた。

戦士達だけでは無い。

ハハとなる女達や、子供達にも出来るようになってもらう。戦士は今の時点で、十名しかいない。

いずれ規模を十倍にする必要がある。

そして、ヤトは、以前の戦略と、今回の戦略を、変えるつもりでいた。ヤマトの兵力が圧倒的なことは、身にしみて分かっている。

それならば、一カ所に固執するのは、危険だ。

つまり、もっと広い範囲に広がるようにして、敵と戦っていく。

だが、今の時点では、まだ構想の段階だ。

人間をまず増やすこと。

それも、そいつらを、ヤトの手足として動かすことが。戦略上の、大前提となってくる。

一番覚えが早いのは鵯だ。

動物の捌き方も、野草の見分け方も、すぐに出来るようになった。今までも基礎知識はあって、人里の近くにいたから、生きてこられた、のだという。

つまり貝塚などを漁るしか無かったという事か。

ただ、腕力はあまり強くない。弓を引かせても、いい働きは出来そうに無かった。

一通り今日の作業を済ませた。

此奴らを率いてあの強大なヤマトの軍勢と戦わなければならないのは気が重いが。多少の数なら、今でもどうにかなるだろう。

問題はタケルが出てきてからだ。

「明日からは、もう少し足を伸ばしてみる」

「分かりました。 ヤマトの村や町がどこにあるかは、先に教えておきます」

「鉢合わせしたら殺すだけだ。 これだけ山が深ければ、いなくなったところで探しようが無い。 それに、装備も手に入る」

ヤマトの兵士を一人殺せば、ツルギか槍、それに弓と矢が手に入る。

それも青銅製か、運が良ければ鉄製もだ。

上手に森の中で立ち回れば、ヤト一人で十人以上は同時に相手できる。森の中でなら、今ならあのタケルとも、互角にやり合える自信もある。

「誰か、ついていきましょうか」

「不要。 今の時点では、一人の方が動きやすい」

流石に士気を下げたくないから、足手まといだとは口にしなかった。

ヤトはそのまま、森の中を走る。

音を出来るだけ立てない。遠くで、狼の遠吠えが聞こえたので、威嚇のための鋭い声を出しておく。

狼が距離を取るのが分かった。

それでいい。

狼は、森の守護者。

争う気は無い。

貪欲に森を食い荒らす熊や猪、人間とは違う。勿論、野生化した犬である野犬とは、根本的に違う生物だ。

狼の領土は尊重していくつもりだが。

人間が森や山に増えれば、獲物の奪い合いになる事は、容易に予想できる。今後は、対応についても、考えて行かなければならないだろう。

非常に巨大な集落が多いヤマト中枢だが。

山の中を走り回っていると、さほど大きくない集落も、時々見かける。

山の一部を切り取るようにして作物を作っている。巡回している兵士も、決して少なくない。

げらげらと下品な笑い声が聞こえた。

身を伏せる。

太った兵士が二人、歩いてきている。どんな大きな猪を仕留めたとか、勝手な事をほざきあっていた。

動きを見るだけで分かる。

あれは、平和になれきった、ゴミのような肉の塊だ。とてもではないが、野生の猪など仕留められる戦士では無い。

「俺もタケル将軍について、前線に出たいなあ」

「ツチグモ狩り、面白そうだもんな」

「女を捕まえたら、好きにして良いんだろ? 奴隷が増えれば良い生活が出来るし、アッチの方もはかどるしな」

「子供は多い方がいいしなあ」

げたげたと好き勝手にほざきながら、森の中に入ってきた。

ひょっとして、巡回しているつもりか。

隠れている位置をずらす。

警戒どころか、森など全く危険が無いかのように、兵士二人は笑いながら話している。今其処に、狼よりも危険なヤトが控えているというのにだ。

それにしても、これがヤマト中枢にいる兵士か。

森の中にずかずか入ってきた二人を観察する。

装備は以前、アオヘビの近辺で戦った連中とほぼ同じだ。腰にはツルギ。弓矢を背負い。そして、槍も手にしていた。

しかし、槍を使い込んでいるようには思えない。

面倒くさそうに槍を持って歩いている。殆ど杖として使っているような状況だ。

「見回りなんて、めんどうくせえなあ」

「仕事だよ仕事。 こんなちんけな村でも、朝廷の財源なんだからよぉ」

「こんな村、誰も襲うはずがねえっての」

「この辺りの熊は、人を食うほどでかくもねえもんな」

けたけた笑いながら、二人が近づいてくる。

村から、充分な距離を取った瞬間。

ヤトは、背後から、二本の矢を放った。速射。殆ど間を置かず、男達の首を、後ろから貫く。

声も出せない。

前のめりに飛び出すようにして、二人は地面に投げ出された。

左の男は即死。

右のはもう少し長持ちしたが、どのみち助からなかった。すぐに装備を剥ぎ取る。なんとこんなクズでも、鉄の武具を帯びていた。

ヤマト中枢には、それなりの鉄がある、という事だ。

死体はそのまま引きずっていく。

河が集まって、相応に深くなっている場所があるので、其処に放り込んだ。傷口には、蝮の噛み傷も付けておいた。

これで偽装は充分。

この辺りの河は流れが緩やかだから、死体は一端沈む。浮かんでくる頃には、死体の傷口は、蝮の噛み傷と見分けがつかなくなっているという寸法だ。この程度は初歩の初歩。タケルがいても、ヤトの仕業だとは分からないだろう。

荷車を持ってくると、剥ぎ取った装備を運ぶ。

鉄の鏃があるのは嬉しい。今までは、手持ちの分を研ぎながら、だましだまし使っていたのだ。

今後は敵を殺すだけでは無く、備蓄を奪う方向でも、物資を蓄えていきたい。殺していけば、意外に早く足がつく可能性も低くは無い。

あのような無能な戦士どもでは、おそらく物資を私物化するようなこともしているはずで、それを利用すれば。此方の存在にヤマトが気付いたときには、相当な物資を、手元に蓄えられているはずだ。

穴に戻ると、鵯を呼ぶ。

今二人殺してきたというと、鵯はさっと青ざめた。

「そんなに手際よく……」

「どうした。 私の話を、信じていなかったのか」

「いいえ、信じてはいました。 しかし、実感はありませんでしたから。 死体は、どうしたのですか」

「河に沈めてきた。 見つかるまでは、時間が掛かるだろう」

まだ戦士達には言わないで欲しいと、鵯は言う。

連中は、虐げられた者達だ。

敵の兵士を見るだけで怯える。

だから、兵士を殺した。場合によっては、兵士が押し寄せてくると知ったら、震え上がって、逃げ散ってしまうだろうと。

情けない話だが、それは事実なのだろう。

しばらく、統率が取れるようになるまでは、敵と戦うどころでは無い。じっくり時間を掛けて、心を抑えていくしか無い。

アオヘビ集落の戦士達の多くが、結局はヤトから逃げた。

ヤトも今はそれを知っている。

戦いの後、死体を調べたのだが。妙にアオヘビの戦士が少なかったのだ。要するに、ヤマトに降伏して、武器を捨てたのである。

追い詰められたからとはいえ、戦意が無くなっていたのも事実だろう。

ヤトが怖れられていたことは、分かっている。

恐怖だけでは駄目だったのかも知れない。

少なくとも、味方に対しては、恐怖以外の接し方も、考えなければならないと、ヤトは学習していた。

手に入れてきた装備を吟味。

ツルギは予備がいくらでも欲しいと思っていた。余った分に関しても貴重だ。鉄の鏃に打ち直せるからだ。今の時点では必要ないが、念のため確認はしておきたい。鍛冶が出来る奴がいないかと呼びかけたが。流石にいないだろうと、最初ヤトは思っていた。

しかし、手が上がる。

気弱そうな、歯が欠けている男だった。

「鍛冶が出来るのか」

「昔、鍛冶場にいました。 鉄を作るのはやらせて貰えませんでしたが、出来たものを磨いたり叩いたりするのは出来ます」

「これを、鏃に打ち直せるか」

「出来ます。 ただし、炉がいります。 打ち直すための、石の台も」

作れるかと聞いたが。

首を横に振られた。

流石に、其処までは話はうまくないか。いずれにしても、ここに住む人間を、もっと増やしていかないと行けない。

鵯に、人間を増やせないかと聞いてみる。

出来るかも知れないと、鵯は言う。

「西の方の斜面に、数人が住んでいると聞いています。 後、幾つかの街では、横暴な長に耐えかねて、民が脱走しはじめていると聞いています。 夜に見張りを立てておけば、彼らを味方に引き込めるかと」

「よし、出来るか」

「分かりました。 早速、西の斜面にいる数人に、話を付けに行きます。 見張りについては、交代でやっていくしかないでしょう」

頷くと、鵯に任せる。

ヤト自身は敵から奪った物資を、一つずつ確認する。

槍にしてもツルギにしても、もう少し動けるようになったら、渡してやるような形で良いだろう。

アオヘビの戦士ほど鍛え抜かれた者達なら、即座に渡しても良かったのだが。

此奴らは、猪にも追いかけ回されて、なすすべ無く蹴散らされるような弱者だ。槍など振るうのは、十年早い。

一通り作業が済むと、ヤトは穴を離れる。

まだ、周囲をしっかり見回っていない。

どこにどんな木があるのか。状態はどうか。木の実は収穫が期待出来そうか。それらを確認しておかなければならなかった。

 

2、蠢動する蟒蛇

 

ヤトが新しい集落を作ってから七日ほど。

今の時点で、人員は数人しか増えていない。鵯による説得で、西側の斜面に住んでいた数人が移り住んできたのだ。

何故別に住んでいたかというと、ただ何となくというのだから、頭を抱えたくなる。具体的な戦略など何一つ無かったというのだ。また、そいつらが住んでいた場所を確認もしたが、何ら備えが無いただの穴だった。ヤマトの兵士が来たら、一発で見つかってしまうだろう。

単に、ヤマト側も。放置していたか、興味も無かったのだろうと、ヤトは判断した。それだけ無害だったのだ。

とりあえず、まずは穴を隠して、生活の痕跡を消した。

今住んでいる穴も、入り口を偽装するか、周囲に備えを作っておきたい。

次は、脱走する民が出そうだという街だ。

夜中に近づこうかと話をすると、鵯はやんわりと笑みを浮かべた。

「昼間でも、おそらくは大丈夫です。 備えさえあれば、街に入ることも平気でしょう」

「どういうことか」

「山間の村などは、見張りも巡回していますし、備えもあります。 この辺りには、ツチグモがまだいるという噂があるからです」

「いないではないか」

「実際、もっと南の方にはいるそうです」

なるほど、それは接触する価値がある。

ただ、街の方では、備えが無いと言うのは、どういうことなのか。話を進めろと言うと、鵯は頷く。

「街の方では、兵士の数も多く、ツチグモは明かりを怖れて近づかないという事もあるのです」

「それで、昼間は何も警戒さえしていないと」

「はい。 それに山で暮らしている民は、一目でそうだと分かりますから」

「なるほどな」

ならば、連中に近い格好さえしていけば、平気というわけだ。

格好の繕い方を聞く。

鵯は、当然のように、知っていた。

此奴はひょっとして。

一度ヤマトに降伏して、それからまた抜け出しでもしたのか。或いは此奴が言うクマソというツチグモは、蝦夷のように農耕民族だったのか。

確か、ヤマトに反抗する者達は、まとめてツチグモと呼ばれていたはず。

それを考えると、あり得ない話では無い。

正直な話、この弥生が持ち込んだ服は、まだ着こなし方がよく分かっていなかったのだ。いろいろ聞く限り、これは蝦夷のものというよりも、農耕民が平均的に作り上げていったミコのための服であるそうだ。

この場合のミコは、ツチグモのものではない。蝦夷の側のミコ。つまり、神子ではなく、巫女の方であるらしい。

よく分からなかった材質も、判明した。

絹と言うらしい。

植物性の素材では無く、なんと虫の糸を編んだものだそうだ。かなりの貴重品であるのだとか。

蝦夷もヤマト同様、明らかに嗜好品であるだろう絹などをたくさん持つだけ、力があるという事か。

「それにしても、ツチグモが明かりを怖れるとは、どういうことか」

「まだ生き残っているわずかなツチグモは、もはや戦う意欲も力も無い、弱々しい者達ばかりです。 彼らは降伏していないのでは無く、ヤマトから逃げ回っているだけの存在ですから。 彼らにとって、明かりはヤマトの象徴にも等しいのでしょう」

「実際に接触したのか」

「はい。 此処にいる民の一部は、彼らからの脱落者です」

ヤトはげんなりした。

猪の捌き方さえ忘れてしまったようなツチグモが、実在するとは。ヤトが視線を向けると、山神様と言いながら、連中は卑屈な視線を向けてくる。この卑屈な視線は、おそらく恐怖から培われたものなのだろう。

ヤマトに対する、恐怖から。

なるほど、恐怖を戦略として用いるのは、ヤトの専売特許というわけでは無いのか。

ヤマトはおそらく、従う民には甘い餌を与え、逆らう者には粛正を加えるという、二重の手を用いたのだろう。

従った場合にも脱落者が出ているが、それは人間という不完全でいい加減な生物の作った仕組みが故だろうか。

色々と考えさせられる。

ヤマトそのものには復讐を続けるつもりであるが。

使えそうなものは、貪欲に取り込まないと勝てない。

相手の知識も得ていかなければ、裏を掻くことも難しいだろう。

「ヤマトの村なり町なりに潜り込むことが出来る自信はあるか」

「格好さえしっかりしていれば、まず捕まらないと思います。 後は体臭ですね」

「まだ臭うか」

「ヤマトの民に比べれば」

梟やカラスが嫌がらない程度には臭いを抑えているつもりだったのだが。なるほど、それは水浴びの回数を増やさなければならないだろう。ヤマトの連中は、そういえば湯を浴びるという話を聞いた。火傷しない程度に温めた湯で、体をこすることで、垢を落とすのだとか。

そういった行為まで真似しなければならないのは癪だが。

しかし、連中の懐に潜り込むためには、ある程度は真似をしなければならない。

それにしても、鵯が、此奴らの長に収まっていた理由がよく分かった。

此処まで闘争心をそぎ取られ、弱体化してしまっていては。

まともな意思と知識を持っていると言うだけで、長に収まるのに充分な素質が満たされてしまうのだろう。

他にも幾つか話をした後、狩に出る。

弓矢の練習をさせる必要があるからだ。この辺りには鹿も兎も豊富に住んでいるから、獲物には困らない。

ヤト自身は、カラスや梟を放っているから、どれくらいの獣をどれくらい狩って良いか分かっている。

兎や野犬のように、放置して増やしすぎると、危険な獣も多い。

野犬は直接害になるし、兎はあまりにも繁殖力が強すぎる。どちらも、森を荒らす原因となる。

狩のやり方の説明をする。

質問は殆ど飛んでこない。

はい、山神様としか言わない。

かといって、理解しているかというと、そうでもない。実際に狩に入ると、想定外の動きをする者が目だった。

複数人数で狩をする場合は、連携が重要になる。

だが、その連携が、まるで機能しないのだ。

相手を追い込む役や、矢を放つもの。それに仕留めた場合にも、声を上げる者が、それぞればらばらに動いている。

咳払いをして、一度狩を中断。

昼を丸ごと使って、鹿どころか、兎を一羽しか仕留められなかった時点で、問題外だ。しかもその兎は、見かねたヤトが、飛び出してきたところを速射して射貫いたのである。これは根本的に鍛えなければならないだろう。

逆に言うと、実際に戦いになる前に、この惨状が理解できて良かった。

此奴らはまず狩で、組織戦を学ばないとならない。

幸いにも、鹿も兎も、肉はまだ備蓄がある。狩が如何にまずい結果に終わっても、しばらくは大丈夫だ。

最悪の場合、この程度の人数なら、ヤトがちょっと鹿でも狩ってくれば、充分に胃袋を満たす事が出来る。

戦士でも無いミコのヤトが狩をしなければならないというのも、末期的な話だが。

これだけ弱体化しているのなら、もはや仕方が無い事なのだろう。

「全員集まれ」

「はい、山神様」

この場にいる戦士候補の男は七人。

背が高いのも低いのもいるが、どれも雁首を並べているだけだ。

ヤトを尊敬しているのなら、言うことを聞いてもらう。

「これから、狩を繰り返して、組織的に動く事を学んでもらう。 それに、根本的な意味での度胸をつけてもらう」

全員を見回した後、言う。

狩は怖いかと

全員が頷いた。

弓矢を持つのも怖いという者もいる。中には、矢の音が怖いという者もいた。

ヤマトに追われたとき、矢の音が恐ろしかったという。恐怖が心に刻み込まれてしまっていて、聞くだけで体が竦むのだそうだ。

どうりで腰が引けている訳だ。

此奴らには、弓の使い方は教えた。構えは出来るようになったし、引けるようにもなってきた。

元々ヤトはどうしても体格的におとる。

非常識なほどに筋力は強いが、それでも腕力で筋骨たくましい大男には勝てないだろうと、自分でも思っている。

要は使い方なのだ。

だが、精神が、その使い方という理論を邪魔している。

恐怖を使い、かって為すべき事を為したヤトとしては興味深い。

そうまで、恐怖は体に制約を与えるのか。恐怖を使いこなしたはずなのに、間近で成果を見ると、意外な一面が見られて面白かった。

ヤト自身は、怒りと憎悪に縛られている。

だからこそ、恐怖が同じように作用するという事は。知ってはいたが、実例を見ることが出来て、有意義だ。

かってヤトは、恐怖をばらまくことで、森を守った。

今度は恐怖を取り去らないと、森を守れない。

これは難題だ。

おそらく、度胸をつけるという行為は、恐怖を取り去らないと駄目だろう。どうすれば、恐怖を奪える。

此奴らを使えないと切り捨てるのは時期尚早だ。

せっかく忠実に従う者どもが得られたのだ。どうにかして、改善して使いこなしたい。

 

ヤトは根気強く、狩のやり方を教えていった。

元々ツチグモだったという男達もいるのだが。彼らがツチグモだったのはそれこそ物心がつく前、という話であり。狩に関しては、素人も同然だった。

誰にも頼ることが出来ない。

幸いながら、食事についてはさほど困らない。

ここら辺の山は野草が豊富で、食べられる茸も相当数がある。だからこそ、潤沢に獣がいるのである。

狼の群れは、既にヤトの縄張りを理解しているようで、絶対に踏み行ってこない。

それならば、此方も相手に敬意を払う。相手の縄張りを、踏み越えないように、注意していけば良かった。

集落の人間達は、狼を大神と呼んで怖れていたが。

彼らが言うカミなど存在しないことを、ヤトは知っている。実際、ヤトが恐怖をばらまくことで降臨させた邪悪なる祟り神は、心の中に巣くった闇と邪悪が産み出したものだったのだ。

気分転換しようとヤトは思い、仕留めた鹿の処理を集落の軟弱もの達に任せると、河に出た。

魚を捕ろうと思ったのだ。

釣りという手もあるが、ヤトは素潜りの方が好きだ。

アオヘビの方には、素潜りが出来るほど深い沢はさほど無かったが、この近辺はかなり多い。

ただし、ミコになってからは、特に他人に肌を晒すことは厳禁という不文律があった。故に、素裸になって潜ることはあまり出来なかった。水浴びをして体を洗うことはあったのだが、ミコが使う場所が決められていた。

この近辺でも、それは決めて使っている。

ミコに関する掟が、案外合理的だったことを、当時からヤトは理解していた。ヤトは弱みを見せない方が良いし、できれば人間だと思わせない方が良い。素肌を見せないのも、男と交わらないのも、それが理由だ。

ヤトが使うと決めている沢に出ると、裸になって潜る。

魚はかなり泳いでいて、水面から差し込んでくる陽光に鱗が照らされ、幻想的な光を放っていた。

時々、手頃な大きさの魚が目の前をよぎる。

ひょいと掴み取ると、水面まで上がって、放り投げた。岸に作った水たまりに、魚を入れておくのだ。

そうすることで、傷む速度を遅らせる。

どうしてかは分からないが、タケルのような屈強な大男ほどでは無いにしても、ヤトの筋力は相当に増している。魚を放り投げるのも、まるで苦にならない。

十匹ほど取ったところで、水から上がり、髪の水を絞って、服を着直す。

その間も、周囲に気は配っている。

まだ抑えが効かない子供などは、覗きに来る事があるからだ。ミコになった時も、気をつけるように何度も言われた。

捕らえた魚を紐でくくると、集落の方へ戻る。

水に入ったことで、頭も冷えた。狩で役立たなかった男達を、どうやって使い物にするか。別の方向から考えて行けば良い。

集落にまで到着。さっそく、めざとく男達が気付く。

「山神様、魚をおとりなされたか!」

「ああ。 分けて喰え」

「ありがたい事じゃ!」

「みんな、山神様が魚をお恵みくださったぞ! すぐに焼いて食べるとしようぞ!」

獣を捌くよりも、魚を解体する方が、ずっと早い。ヤトは教えることも無い。手際よく魚をばらしていく様子を、そばで髪を乾かしながら見ているだけで良かった。髪が乾いた頃に、編み直す。

その頃には、魚が焼き上がっていた。

此奴らは、水の中の方が、よい動きが出来るかも知れないと、その時気付く。魚の焼き加減も悪くなく、正直なところアオヘビ集落で食べていた鮒の姿焼きよりも、ずっと美味しかった。

翌日から、実際に河に潜る様子を観察してみる。

男達は、潜りの方は出来た。

魚を棒でつついて気絶させ、それを掴んで上がってくる。

棒の使い方は非常に手慣れている。槍を持たせるとへっぴり腰なのに、魚をつく棒を持つとまるで別人だ。

水中で此奴らに囲まれたら、ヤトでも苦戦するかも知れない。ヤマトの水準的な兵士など、ひとたまりも無いだろう。

子供達にも、潜りを教えるように指示。

河は危険だが。早い内から接し方を教えておけば、むしろ危険を減らすことが出来る。

それ以上に、やはり気付かされることが多い。

一人が上がって来たので、聞いてみる。

「お前達、水練はどうやって学んだ」

「山神様と違って、俺たちは敵から逃げるには、土の中に潜るわけにはいかねえから……」

何を言っていると思ったが。

そういえば、思い当たる節がある。

此奴らは、埋まった所を地力で脱出したヤトを見て、山神だ山神だと騒ぎ出したのだった。

それに、ヤトが土の中を好むことも知っている。

わざわざ洞窟の中に横穴を掘って、其処で寝泊まりしている位なのである。ヤトは土の中を自由に移動できるとでも思っているのだろう。

別にそんな事を考えようが、事実を誤認識していようが、今はどうでもいい。

「つまり、お前達は、逃げるために水練を身につけたのか」

「そうだあ。 俺の村も川沿いにあって、いつも魚を捕るために潜ってたから」

「おらのもだ」

「おめえもか」

男共が、ぎゃあぎゃあと言い合っている。

放って置いて、一度ヤトは戻ることにした。これは意外に、使えるかも知れない。水中で自由に動けるのであれば、敵よりもそれだけ優位に立てる。

更に言えば、この近辺の山には、大きめの河が多い。

河は文字通りの路となって、彼方此方を結んでいる。勿論歩いて移動する方が早いに決まっているが、水中を移動することで、敵の意表を突くこともできる。

なるほど、これは面白い。

「子供達にも、お前達の水練の技を、叩き込め」

「こんな技で良いんですか?」

「いいからやれ」

「分かりました、山神様!」

おそらく、男達も、自分たちが何も出来ないことに忸怩たるものを感じていたのだろう。狩で無様ばかりさらし、ヤトが射貫いた鹿や猪で食いつなぎ。そしてヤトに守られることでどうにか命をつなぐ。

そんな状態が続いて、苦しく思ったということか。

守られて楽に生きることを望む人間もいるだろうが、此奴らは違ったのだろう。いずれにしても、それならば、多少は煽りがいがある。

水練を大喜びしてはじめる男達。

子供達にも、水練を張り切って叩き込みはじめた。

ヤト自身も観察する。

水中での筋肉の使い方にコツがある様子だ。一人で泳いでいるときに、再現するべく工夫してみる。

すぐには上手く行かない。

だが、何となく、コツは掴めてきた。

水中で自由に動き回れるようになれば。特にこの近辺では、非常に高い機動力を得ることが出来るだろう。

これは、意外な活路が見いだせるかも知れない。

 

夜。

ヤトは寝苦しくなって、集落を出た。

掘っておいた穴が崩れてしまったというのもある。別の穴を掘らせようかと思ったのだが、それにも時間が掛かる。

中に入って休むのに適当な穴には、かなりこだわりがある。

他人にはなかなか任せられないし、自分で作るにも手間が掛かるものなのだ。

川にまで出た。

流石に水浴びをする気分にはなれないが、川面をぼんやり見つめていると、気付く。大きな青大将が、此方を見ている。

舌をちろちろと出している青大将と、視線を合わせた。

ヤトの方が上位の力を持っていることに、すぐに相手は気付いた。ただし、ヤトが殺気を放っていないこと、何より弓矢を持っていないことから、逃げるそぶりはまだ見せていない。

蛇との意思疎通は難しい。

蛇には簡単な知性しか無く、複雑な事を伝えられないのだ。袖に隠し持っている蝮たちにも、喰らえとか、噛めとか、襲えとか、簡単な命令しか出せない。ただ、好悪は伝えることが出来るし、殺気も理解させられる。

虫よりは単純な意思を伝えやすいが、あくまで比較的、な話に過ぎない。

相手との利害関係が無い場合、攻撃を避けるのは当然のこと。

ぼんやり見ていると、青大将はヤトと領地がかち合うのがいやなのか、水面を滑るように泳いで下流へと去って行った。

蛇の泳ぎは大変に速やかで、ほれぼれするほどだった。

水に逆らっていないのだ。

動きよりも、水に逆らわないことの方が、重要なのかも知れない。

なるほど、さすがは獣。

人間であるヤトよりも、本能的に物事を知っている。

良い事に気付かせてもらった。ヤトは頷くと、早速翌日から、試してみるとする。理解は出来ても、即座に真似が出来るはずも無いが。しかし、水の流れに逆らわないという事が、泳ぎを一気に達者にさせるのは、事実だった。

今までは潜って魚を捕ることくらいしか出来なかったが。

水の流れを読むという技が、少しずつ身につき始める。

また、生き生きと男共は、水練を子供達に仕込んでいた。こうすることで、自信を取り戻させることも出来るだろう。

しばらくは、狩はヤトだけですることにした。

男共には、水練を通じて、魚を捕らせる。

その過程で、鵯と相談しながら、集落の人間を増やしていく事とする。彼方此方の山を見回っていくと、人間の痕跡がある場合がある。

ヤマトの人間は大変に多い。

人間があまりにも多い場合、どうしてもはじき出されてしまう事がある。勿論、ただ凶暴なだけではじき出されることもある様子だ。何度目かに顔を合わせた相手はその手合いで、身の程も知らずいきなりヤトを犯そうと襲いかかってきたので、その場で首を刎ね飛ばした。

まあ、山からゴミを処理できただけで良かったとするべきだろう。

少しずつ、集落が形になっていく。

二月が過ぎた頃には。

集落の人数は十一人増え、生活は更に安定の兆しを見せ始めていた。

 

戦士候補と、ハハとなるべき女の数を数えると、合計で二十七。

子供達が六。

集落としては、ごく小規模である。

名前についても、一人ずつ全て覚えた。アオヘビ集落の人間も、全員を覚えていたのだ。それくらいはたやすい。

地図を見ていると、鵯が来る。

この女は、なんだかんだで強かだ。ヤトが山神などでは無い事を知った上で、利用するつもりでいる。

一方で、身を一歩引いて、ヤトの部下である事に甘んじてもいる。

それくらいで、ヤトには丁度良い。

何でもかんでも言うことを聞く道具だけでは、正直な話問題も多い。ヤトは自分が最強だなどとは思っていない。タケルと戦って見て、それが痛感できた。どうにか痛み分けには持ち込むことが出来たし、戦略は達成できたが。もっとヤトが強ければ、別の選択肢もあっただろう。

それを忘れないためにも。

周りが阿呆だけではまずいのだ。

「地図を見ていましたか、夜刀様」

「ああ。 この辺りの山はだいたい把握した。 後は鉄の武器類を、安定して手に入れたい所だが」

「やはり、朝廷と戦うつもりなのですね」

「この戦力では不可能だが、準備をしておくつもりだ」

ヤトの構想では、まだ戦端を開くのは早い。

だが、戦うための準備は、速やかに済ませておいた方が良い。いずれにしても、ヤマトの中枢をいずれ劫火に包むつもりでいるのだ。

そのためには、いくらでも力がいる。

「幾つか分かってきたことがある。 海沿いの地域以外では、森がかなり多いな」

「ええ。 隠れ潜むには、絶好の地形でしょう」

「そうだな。 しかし、ヤマトの集落から離れすぎると、鉄の道具や、他のものも、手に入りづらくなる」

以前の話になるが、オロチの者どもに鉄を作らせてみて、よく分かった。

あれほど森を痛めるものはない。

出来れば、ヤト自身の手で、森を痛めつけるのは避けたい。やるならば荒野や、動物のいない谷などを使って行いたいところだ。

鉄の作り方については、ヤトも把握している。

具体的な技術については盗むことは出来なかったが。鉄を作るための条件や、何が必要かなどは、頭に叩き込んである。

ヤトが今、考えている事は。

実行にまだ移せないが。そろそろ、形にしたい。

「そこで、だ。 このアキツの島の全域に、私の手足を広げたい」

「どういうことでしょうか。 私には分かりません」

「つまり、森や山に住むツチグモたちに、私の影響力を伸ばすと言うことだ。 平野をヤマトが抑えているというのなら、森と山を、全て私が制圧する」

そして、その中枢を。

ヤマトの中枢の、すぐ側に置くのだ。

こうすることで、相手の動きに対して即応できる。問題は、離れた山などに、どうやって敵の動きを伝えるか、だが。

それについては、狼煙という手もある。

今の時点では、まだ実行できていないことだ。其処までは考えずとも良いだろう。

ただし、種は既にまいてある。

蝦夷の連中の中には、ヤトが影響力を確保している。

弥生が生き延びていれば、今頃良い感じで、狂気を心の中に発芽させているだろう。道具として申し分の無い存在になっているはずだ。

こうすることで、ヤマトに対抗する。

人間の数が違いすぎるというのなら、相手の腹の中に住んでしまえば良いのだ。動物の中にも、そうやって生を確保している存在がいる。

魚などを捌くと、時々細長い虫が姿を見せるが。

ヤトも、ヤマト。いや、アキツの島そのものにたいして、同じようなことをする。

そうすることで、内側から、乗っ取るのだ。

「そのような真似をして、一体何をしたいのです」

「復讐だ」

「!」

「あの巨大な集落を、いずれ劫火に包む。 それだけではない。 連中が気付いたときには、何をするにも私の影がつきまとっているようにする。 身動きできず、何をするにも、手足を動かすことが自分の意思では出来ない。 そのような事に、相手が気付かぬ内に、押し込んでいく」

やがて、ヤマトそのものを乗っ取る。

乗っ取った後は自壊させるなり新しくヤトの集落を作り上げるなり、好きなように処理すれば良い。

絶対的多数の相手と戦うために。

ヤトが考えた戦略こそが、これだった。

鵯が青ざめているのが分かった。

此奴も、クマソとやらの末裔だ。復讐について、考えたことが無いとは思えない。

しばらく地図を見ながら、反応を待つ。

鵯は黙り込んでいたが。やがて、ヤトと視線が合うと、話し始めた。

「何となく、貴方のことが理解できました」

「私は私以外の何者でも無い」

「そう言う意味ではありません。 貴方の中の煮えたぎる憎悪と、それと反する氷のような冷静さが、どうも一致しませんでした。 貴方は明確な戦略を持って、復讐しようとしている。 それで、今までの行動が理解できました」

それだけのことを理解できているのなら。

ならば、ヤトが更にその先に、本当に考えている事に、気がつくかも知れない。

だが、その時は殺さざるを得ないだろう。

「一つ聞く。 お前は、復讐したいのか」

「私は……」

たっぷり空白を置いてから、鵯は言う。

復讐したいと。

ただし、ヤマトに対して復讐したいようには見えない。此奴は一体、何が目的で、こんな漂うような生き方をしている。

それを見極めるまでは、ヤトとしても、油断は出来ない。

もっとも、油断しなかったとしても、本心を明かすつもりなどはないが。

「私は、復讐したいのは……。 こんな生き方をしなくてはならなくなった、過去に対して、です」

思わぬ応え。

だが、それはそれで面白い。

そうかと、ヤトは言うと。地図をしまった。

具体的にどう過去に復讐するかはどうでもいい。ヤトにとって利害関係で問題が生じることも無い。

それに、鵯が本気である事も、よく分かった。

復讐の意味は、後で知れば良い。

此奴は使えると、ヤトは判断した。

「人を殺したことは」

「一度だけ」

「ほう?」

「山道を逃げているとき、鬼のような形相の男にのしかかられて。 気がつくと、喉を切って殺していました。 無我夢中で、どのように殺したかも覚えていません」

それはさぞや怖かっただろう。

ヤトはあまり実感が無いし、そのようなことが起こらない環境にいたのだが。やはり、男と近接戦をするのは今でも怖い。

それを乗り越えたのだから、鵯が気丈なのも無理はなかろう。

休むように言うと、ヤトは一度外に出る。

此処からは、緻密な戦略を練り上げていく必要がある。まずは、人間を増やしていく事だと、ヤトは決めていた。

 

3、蠕動

 

黒野村に視察に来た将軍タムラノマロは、惨状に唸った。

死体が、河から上がったというのだが。

首筋に、明らかに異常な噛み傷がついているのである。

殺されたのは兵士である。それも二人。

最初獣に襲われたのかとタムラノマロは思ったのだが、どうも違うらしいと、膨らんだ水死体を見聞しているうちに思えてきた。

異臭が凄まじい死体は、もはや元の人相が分からないほどにふくれあがっている。分かっているのは、この男達が、少し前に行方不明になった兵士達だと言うことだ。

兵士の中では比較的地位が高く、小規模部隊を任されていたもの達だったのだが。民からの評判は最悪で、悪い噂しか聞かなかった。

ただし、朝廷の兵士として訓練は受けていた者達である。

剣技や武芸に関して、おとったところがあるとは聞いていない。どうも二人でいるところを襲撃されたようなのだが。

「ツチグモの仕業でしょうか」

「いや、そうとは限らぬ」

既にタムラノマロは老齢に掛かっている。

タケルの称号をもらう事はついになかったが、髭は既に白く、髪も黒い部分の方が少ない。

武術についても、若い頃とは比較にならぬほど衰えた。

しかし、その代わり、老獪さと経験を身につけ。直接戦わないのであれば、相応の活躍を、今でも出来る。

鼻を押さえている兵士達と違い、タムラノマロは死体を丁寧に見聞する。

どうも首の傷が致命打になっている。

青く変色しているのは、蛇の毒によるものか。

しかしだ、それにしては傷口が大きすぎるのである。

野犬や何かに襲われた場合は、死体がずたずたになる。川に落ちることもまず無いだろう。

この死体はおかしい。

何というか、手慣れた悪意を感じるのだ。

「蛇に噛まれたように見えぬか」

「こんな大きな蛇が?」

「まさか……」

兵士達が青ざめる。

勿論、そんな蛇はいない。アキツの島には、少なくとも存在していないだろう。

渡来人の話をタムラノマロも聞いたことがある。それによると、海の向こうには、人間どころか牛を飲むような蛇までいるというが。

少なくとも、アキツで蟒蛇と呼ばれる蛇は、青大将。

青大将は大きくなっても、子供を絞め殺すことさえ出来ない。猛獣と言うには非力すぎる。

むしろ危険なのは、蝮。それに怒らせた赤楝蛇だが。

どちらも、このような大きさの傷を付けることは不可能だ。

死体が水に浸かると、傷が大きくなることはある。魚に食い荒らされるのだから、当然だ。

だが、妙な違和感が、拭いきれない。

一度、見物している村人達を下げさせる。

そして、死体の事を木片に書き付けると、朝廷に送るように兵士に指示。もしもこれを見て、誰かが問題視するようなら。聴取に応じる必要があるだろう。

ぐずぐずに崩れてしまった死体を焼き、その後に埋葬させる。

焼いている間も凄まじい腐臭が辺りを汚染していた。これは水でも浴びなければ、外を歩くのもはばかられる。

兵士達はずっと青い顔をしていて、中には吐き戻す者もいた。

前線に出ている兵士は、当然そのほぼ全員が実戦経験者だ。しかし、朝廷の中枢になると。特に若い兵士の中には、実戦を知らない者も多々いる。

朝廷がまだ此処まで強くなかった昔の事を、タムラノマロはよく知っている。

その時代は、彼方此方で戦乱が起きていた。

森は全てが未知の領域と言って良く、平野だけを抑えている朝廷は、どうしても限界を感じていた。

ツチグモを抑えることで、勢力を拡大する。

人間を増やし、不安要素を取り除く。

そうして、ようやく朝廷は、アキツでの覇権を確保できたのだ。

この近辺にも、かってはナガスネヒコという強力なツチグモがいて、朝廷の攻撃を何度も退けた。

タムラノマロも、ナガスネヒコと何度か戦った。その頃は将軍などでは無く、一兵卒だった。

とにかくナガスネヒコは背が高い男で、弓も非常に巧みで。多くの兵士が、奴の矢に打ち抜かれた。

オオキミの直衛軍がどうにかナガスネヒコを討ち取った日のことは、昨日のことのように覚えている。

無理も無い。

タムラノマロの兄も弟も、戦いで死んだのだから。

あの頃の鍛え抜かれた兵士達と、この近辺で育った新兵とは、比べものにもならない。鉄の武器を装備しているとは言っても、所詮は武器頼み。少し大型の熊に襲われたら、対処できないだろう。

臆病は、決して悪いことでは無い。

だが、恐怖を制御できず、敵に後れを取るようでは駄目だ。

恐怖で判断力を鈍らせるのも、好ましい事では無い。

タムラノマロは村に戻ると、まずは兵士達に体を洗わせた。自分自身も湯を浴びて、臭いを落とす。

朝廷近辺では、将軍には屋敷が与えられる。この村はタムラノマロの直轄では無いが、別の将軍が屋敷を持っていて、風呂や住居空間を貸してくれた。その将軍はタムラノマロの後輩に当たる人物なので、快く貸してくれたという事情もあった。

気分を入れ替えた後、評定を開くことにした。

屋敷には、幾つか大きな部屋がある。その一つに兵士達を集めると、さっきの死体についての所感を述べさせる。殆どの兵士達が、おぞましいとか、気持ち悪いとか、主体性が無い事ばかりを言った。

いい加減苛立ちはじめた頃に。

一人の若者が、挙手した。

精悍な顔立ちの青年である。タムラノマロが目を掛けている兵士で、剣の腕も優れていたが、それ以上に頭が良く回る。

「武器や鎧を奪うために、凶賊が殺したのではないでしょうか」

「タノ、どうしてそう思う」

「あの傷ですが、あまりにも不自然でした。 蛇が噛んだとは思えませんし、何より襲われた兵士がどうして無抵抗のままでいたのか。 私が見たところ、弓矢で撃ち殺され、その傷を偽装したのでは無いかと思えます」

「面白い意見だ」

はたとタムラノマロが膝を打つ。

他の兵士達はぴんと来ないようで、顔を見合わせていた。タノに、話を続けさせる。他の兵士達にも、有意義なことなのだ。

「しかし、朝廷の兵士を襲うツチグモがいると思うか。 特にこの近辺では、徹底的な掃討が行われ、残るのは逃げ隠れるばかりの弱きもの達だが」

「弱兵でも、優れた指揮官がいれば、力を発揮します。 それに、東国では、未だに激しい戦いが続けられております。 もしもそちらから、凶猛なツチグモが流れてきたのだとしたら」

それは考え得る事だ。

いずれにしても、近辺の捜索はした方が良いだろう。

「ヒロカネ」

「はい」

ずっと黙っていた男が、応えて立ち上がる。

タムラノマロの子飼いの一人、ヒロカネ。兵士ではあるが、成人近くまでツチグモだった男だ。この近辺のツチグモと、交流がある珍しい人物である。

「お前は近辺に異常が無かったか、調べて廻れ。 どんな小さな事でも、分かったらすぐに知らせよ」

「はい。 直ちに」

ヒロカネは名前と裏腹に、武芸に優れている分けでも無ければ、体格が魁偉なわけでもない。しかしながら、ツチグモの生活を続けているもの達と渡りを付けられるという意味で、大変貴重な人材だ。

他の兵士達からは気味悪がられているが、タムラノマロは敢えて厚遇している。

いざというときに便利だから。

そして今が、そのいざというときである可能性が高いのだ。

「評定はこれにて解散とする。 皆は訓練に戻れ。 夜からは酒も飲んで良いこととする」

兵士達を下がらせると、タムラノマロは考え込む。

今の朝廷中央は、戦乱から遠ざかった影響で、平和になりすぎている。

特に、広大な平野に建設が予定されている「都」、「京」の近辺からは、外敵と呼べる存在が一掃されてしまった。

それ自体は大変に結構なことなのだが。

もしも、其処に歴戦で鍛え抜かれた、生きた戦闘兵器のような奴が紛れ込んだら。

懸念事項は、それだけではない。

たとえば、戦争で兵士は心を病むことが多い。

戦闘技能を持つ兵士が、手柄を立てて京に住む事になったとする。その兵士が、何かの切っ掛けで、狂気をばらまくようになったら。

平和になれた守備隊の兵士などでは、とてもではないが対応など出来ないだろう。

嫌な予感が膨らんでいく。

 

翌日、ヒロカネが、近所の山々を廻ってきた。

まだ少数いるというツチグモから話を聞いて廻ったのだが、特におかしな事はおきていないという。

そうかと、一安心したが。

だが、ヒロカネは、気になる事を言った。

「ただ、六人ほどで暮らしていた集団が、姿を消しています」

「よそへ移ったのでは無いのか」

「ほぼ間違いなくそうでしょう。 ただ、ツチグモは基本的に、定住を主体とする民でして」

ツチグモ同士の諍いがあるとは思えない。

かといって、ヤマトの役人に、追い出されたとも思えないというのだ。

腐敗役人は確かにいる。

だが、この近辺では、まだツチグモは畏怖を持って接せられる存在だ。山にまで入って、ツチグモをどうこうしようという役人はいない。というよりも、平和になれた腐敗役人では、そんな度胸は無い。

山に入れば、文明などはまだまだ力を持たない。

暗闇。

静寂。

いずれもが、人間を拒む存在。

その中に暮らしているツチグモは、ヤマトの民にとっては、別の世界の住人なのだ。人間だと思っていない者も多い。

実際には違うが、それを今言うことに何ら意味は無い。

「食糧が足りないとか、凶暴な熊が出たとか、そういう可能性は」

「今の時期、熊が凶暴化することはまずありませんし、北の地ならともかく、この辺りで熊が凶暴化したところでその災厄は知れています。 如何に弱っているとは言え、ツチグモの戦士が数人で、十分に対処できるでしょう。 かといって、食糧が足りないとは思えません」

そう言われれば、妙だ。

いずれにしても、一日や二日で調査を切り上げるのは、それはそれでせっかちである。

もっと調査を続けるようにと、タムラノマロはヒロカネに指示。ヒロカネは頷くと、山へ消えた。

館で働いている女が、茶を出してくる。

口に入れると、とても苦い。

仕事をしていないと思われているのだろうか。タムラノマロは自室に戻ると、知り合いであるタケルに手紙を書こうかと思った。

しかし、考え直す。

タムラノマロが知るタケルは、去年東国で強力で邪悪なツチグモと交戦し、多くの死者を出したことで、兵の再編成を行っている最中だ。

あのタケルを苦戦させるほどのツチグモなど存在するとは思えないのだが、相手には蝦夷の援軍も加わっていた上、邪悪な妖術を使うほどの存在だったという。しかも、殺したら蛇の神と化して、森全体を呪いで覆い尽くしたのだとか。

タケルは少なくとも、そう広言している。

信じていない者は多かった。タムラノマロもその一人だ。

だが、今更タケルが、神を信じるとは思えない。何かしらの理由で、そのような発言をしているのだろう事は、想像がつく。

いずれにしても、タケルは多忙の身。

ただ、いざというときに備えて、書状は準備しておいた方が良いだろう。

半日ほど考えた後、貴重な紙に墨で記す。

そして、手を叩いて、女官を呼んだ。

先ほど、苦い茶を淹れてくれた女だ。

「何用にございましょう」

「この手紙を預かっておいて欲しい。 しばらく儂はこの近辺で仕事をするが、命の危険があるやもしれん。 もしも儂が命を落とすか、もしくは行方知れずとなったら、タケル将軍へ届けて欲しい」

「分かりました。 お預かりいたします」

女は一瞬だけ此方の顔を見た。

そして、すぐに書を受け取って、その場を離れる。

腕組みして考え込んだタムラノマロは、もう一つ予防線を張っておくことにした。

いずれにしても、あの殺人を行ったのは、この近辺にいる人間。ただし、村にいる民や、兵士では無いだろう。

一体何者が潜んでいるのか。

危険があるのならば、排除しなければならない。

ヒロカネが消えたのは、その翌日のこと。

三日待っても、ヒロカネは戻ってこなかった。

 

ヤトの足下には、どうやら元ツチグモだったらしい、ヤマトの兵士が転がっている。頭は泣き別れになって、斜面の下に落ちた。

今、カラスたちに探させているところだ。

ここ数日、辺りを調べ廻っていることが分かったので、消した。

それだけだ。

調べ廻っている割に、妙に無計画な所があり、気配を消す技も知らなかった。ヤトとしては木の陰に身を伏せ、通り過ぎようとしたところを一刀両断。首を刎ねた。それだけで、片がついた。

カラスによる追跡にも気付いていなかったし、戦闘面では完全に素人に等しい。

肩慣らしにさえならなかった。

首をカラスが見つけたので、拾いに行く。

髪の結い方から見て、ヤマトの人間だ。首をぶら下げて、集落に持っていく。弱者共は、ヤトがぶら下げている生首を見て、小さな悲鳴を上げた。

「此奴を知っている者は?」

「な、何がおきたんですか」

「探り廻っていたから消した。 それで、此奴を誰かしらないか」

「お、おらが知っていますだ」

挙手したのは、最近集落に加えた男。

この近辺で、少人数の生活を続けていた。とはいっても、獣を捕る技も持たず、木の実などを食べていた様子だが。

痩せた男はこわごわ血が滴る生首を見ると、頷く。

「ヒロカネですだ」

「何者か」

「この辺りを守っている、タムラノマロ将軍の部下で、ツチグモの皆と時々話しに来る変わり者でした。 悪い奴では無かったんですが」

「阿呆。 だからこそに危険だと、どうして気付かない。 お前達がおかしな事をしていないか、見張っていたのだ」

小さな悲鳴を上げて、男がすくみ上がる。

嘆息すると、ヤトは少し考え込んだ。

ヤマト側の対応が早い。

ひょっとすると、この間殺した馬鹿二人の偽装に、気付いた奴がいるのか。そうなると、殺したのは早計だったかも知れない。

此奴が、明らかな捜索をしていたのは間違いない所だ。好きな女を捜していたとか、取引をする相手を探していたとか、そういう理由では無いだろう。勿論山菜採りなどとは違った。

証拠に、兵士としては完全武装していた。

しばらく考えた後に、ヤトは決める。

死体は、処分してしまった方が良いだろう。

死体の所に戻ると、装備を取り外す。服についても、剥がしてしまった。その後、死体を切り刻んで、細かくする。カラスたちを呼ぶと、内臓などは全て食べさせた。肉を骨からそぎ落として、投げ与える。

此奴らには、いざというときのために、人肉の味を覚えさせた方が良いだろう。

まだ紅い骨がその場に残る。

頭蓋骨を割って脳みそもカラスに与える。数十羽いると言っても、人間を丸ごと食うのは、流石に大変だ。

だから食い残した残りは、燃やして土に埋める。

骨は焼いた後砕いて、同じようにして埋めた。

持っていた鉄のツルギは、正直鬼に比べると大変ななまくらだったが、鏃くらいには打ち直せるだろう。

一日がかりの作業になったが、敵の動きが速いと言っても、斥候が一人消えたくらいで、いきなり軍勢を動員してくることもあるまい。ましてや五十やそこらだったら、今のヤトなら撃退は出来る。

川に行って汚れを落とすと、集落に戻る。

そして、告げた。

「少し早いが、前から決めていたことを実行に移す」

「山神様?」

「私は何も、一カ所に住む事だけがツチグモでは無いと考えている。 ましてやこの穴は、人数が入るには少し狭い。 其処で、お前達は分散して住め。 今までに、十人程度が暮らせる穴なら幾つも見つけている。 それらを使って、生活しろ」

アオヘビ集落が壊滅した要因の一つは、一カ所にまとまって住んでいたからだと、ヤトは考えている。

更に、アキツの森を結ぶのであれば、その全てに住んでいるツチグモたちと、情報のやりとりが出来るようにならなければならない。

ここ数日で、狼煙の使い方については教え込んだ。

既に使えることも分かっている。カラスは広域に散らしてあるし、梟も同じだ。そしてまだ考えている途中だが、鳶をそろそろ捕まえて、仕込んでみようと思っている。

カラスよりも飛翔力が高い鳶は、非常に高度な偵察を可能とするだろう。しかも考えられないほど目が良い。

熊や狼を仕込むことも考えたが、それはまだ先だ。

獣は、しょせん人間には勝てない。武力では、どうやっても無理だ。

それならば、獣が人間に勝っている部分を活用していく。

「私自身は、お前達の住むところを廻りながら、戦い方や、生活の仕方を教えていくこととする」

「ははーっ! これからも、お願いいたしますだ!」

「うむ。 それでは、移動する人員を、これから説明する」

この穴には、鵯を含めて、十人を残す。

南の斜面に、生活に適した穴がある。此処に、同じようにして、十人を移動。更に東の斜面にも、六人。残りを、北にある小さな洞窟へ住まわせる。

皆が移動するのを見届けると、鵯が咳払いした。

「残酷なことをなさいましたね」

「復讐をするつもりなら、手を血に染める覚悟くらいはせよ」

「そうではありません。 貴方は、無意味な殺しを楽しんだはずです」

冷ややかな目だ。

此奴は、ヤトを怖れていない。

否。

或いは、怖れるという事を。以前、男に乱暴されかけたときに、無くしてしまったのかも知れない。

だが、それで良い。

「楽しんだやも知れぬな」

「そのような非道は、きっと貴方の首を絞めます。 貴方の体にある火傷が消えないのも、それが故では無いのでしょうか」

「面白い事を言う。 火傷など、所詮はただの傷に過ぎぬ。 時間が経てば、いずれ直るだろうさ」

しかし、そういえば。

どういうわけか、ヤトの顔と足にある火傷は、消える様子が無い。

ただし、もしもそれが呪いだの何だのだったとしても、ヤトは気にしない。ヤトは呪いで、森一つを人が入れぬ土地にした存在だ。

今更、どれだけの呪いが身に降りかかろうと、怖れるものではない。

それに、ヤトに面と向かって文句を言う奴が側にいた方が面白い。此奴はおそらく、ヤトに対して危害を加えようとはせず、反対意見を言うはずだ。

それはそれでかまわない。

周囲に、賛同者ばかりだと、脳が鈍る。

自分の意見に反対する奴がいた方が、思考の幅も広がるというものだ。

「ときに、他のツチグモと、話は付けて廻っているか」

「……西の山にいる十名ほどの集団が、夜刀様と話をしたいと言っています」

「良いだろう、出向く。 お前は留守を守れ。 もっとも、守ると言っても、もしヤマトの兵が来たら戦おうと思うな」

斥候役に烏を飛ばしてある。夜には梟が巡回している。

ヤマトの兵士の格好は頭に叩き込んである。すぐに警戒の鳴き声を上げるように仕込んであるので、敵が気付くより早く逃げられるはずだ。

直接戦っても勝てないなら。

戦わずして勝つ方法を採る。

それがヤトの、新しいやり方だ。

すぐに言われたとおりの場所に出向く。

どうやら此処は、かってはそこそこ大きなツチグモの集落があった場所らしい。西側の山は、ヤマトの集落にも比較的近い。軍によって蹂躙されたのだろう。生き残りが戻ってきて、住んでいるという事か。

左腕が無い老人が姿を見せる。

髭が腹の辺りまで伸びていて、顔は皺だらけ。人が良さそうだが、細い目には、闇が宿っているのを見た。

「貴方が、山神様ですかな」

「ヤトだ。 そなたは」

「かって、ギュウキ集落と呼ばれていた此処の長、です。 既に住んでいるのは年寄りと子供ばかり。 もはや暮らしていけぬ状態でしてな」

見ると、老人が二人。

痩せた子供が五人。若い女が二人。

なるほど、これでは、集落としてはやっていけないだろう。

「戦士になれる男はいないのか」

「若者は皆、ヤマトに降伏して、兵士になってしまいましてな」

「そうか」

ツチグモが、自らヤマトに降伏して、走狗になるとは。

情けない話だとは思わない。

この集落の有様を見ていると、責める事はできないだろう。

しかし、だ。この集落そのものは使える。かってヤマトを退けたからだろうか。地形的には悪くないし、備えを置くことも出来るだろう。

此処は、ヤトが住み着くには、良いかも知れない。

使えそうな戦士を集めて、いざというときは戦いも出来る。多少のヤマト兵なら、撃退は難しくないはずだ。

「分かった。 私の所で面倒を見よう。 老人の知恵も必要だし、子供達も育てられる確率が上がる」

「有り難き事にございます」

「この集落を離れることに抵抗は無いか」

「老人だけはご勘弁を」

それもそうか。

頷くと、ヤトはすぐに鵯を此処に寄越すと明言。

周囲に誰かしらが伏せている様子は無い。

此処を抑えておけば、充分に役に立つ。

問題は、ヤマトに近すぎることだが。それに関しては、何かしらの手を考えておかなければならないだろう。

鵯による人員収集は順調だ。

今、近くに住んでいる人員を何名か此処に廻しても、すぐに釣りが来る。ヤトは周囲を見て廻り、丁度良い斜面を見つけた。

横穴を掘って寝るには素晴らしい条件だ。

土を触ってみるが、硬度も安定も申し分ない。

此処ならば、ヤトが住み着くのに最適だろう。

なお、斜面を使って、カラスや梟を育てることも出来る。此処こそ、ヤトの新しい拠点とする筆頭候補だ。

今まで使っていた洞窟に戻る。

既に引っ越しは進んでいて、十人ほどしか残っていなかった。

ヤマト側は、まだ動きを見せていない。

可能な限り迅速に、人員を集めていかなければならないだろう。

そしてヤトが粉を掛けた人間を、このアキツ中に広げる。

全ての山々と森が、ヤトの手に落ちたとき。

このアキツは。

ヤマトのものから、ヤトのものへとすり替わるのだ。

そして最後には、人間は森に入る事が叶わなくなる。森は全てがヤトのもの。いや、あのアオヘビの森のように。

祟り神と化した、夜刀の神の支配地になるのだ。

其処にはツチグモもいなければ、勿論ヤマトの人間もいない。全てが、不可侵の場所。

それが、鵯には言っていない、ヤトの目的。

これから為すべき事だった。

 

4、黒の影

 

京。

今の時点では、朝廷の中枢。大和地方に存在する、少し前から建造が開始された、アキツの中心だ。いずれ朝廷が号令を掛け、此処が日本国になった時には、その都となる。タケルは夜刀の神討伐から戻ってから、オオキミである武王に拝謁。そして、二年間の軍再編成と、その後の東北への出陣を承っていた。

東北では、現在三人のタケルが、蝦夷を相手に激しい戦いを続けている。

戦況は優位なのだが、冬には進軍出来ない事もある。何より、結局の所関東は未開の地であり、其処を抜けて兵を送り込むのは難しい。

京はアキツの中心地だが。

東国にある敵の本拠には、少し遠すぎるのだ。

「関東と九州にも、軍事拠点が必要だな」

京を愛馬に跨がって見て廻りながら、タケルはぼやく。

此処まで数日。

兵士達は遠征の疲れが抜けていない。現地で兵を徴募するには、まだまだ人口が足りないのが現実だ。

幸い、相模や武蔵などは、平原が極めて多く、開墾が進めば多大な人間を養えるようにはなる。

朝廷がきちんと機能して、この国の発展を導いていけば。

いずれ、大陸の技術に依存しなくても、このアキツは自律できるだろう。

京は大陸の都を元に作られている。

路はまっすぐ。

家々は碁盤目状。

迷う畏れは無い。そして、オオキミの宮殿は、一番大きな路の向こうにある。

兵士達が弛んでいる様子を見て、タケルは苦々しく思った。この近辺から西にかけては人間が多い。

ツチグモが既に掃討されて久しいからで、中には戦を知らないまま年老いる兵士までいるという。

東国から連れ帰った兵士は三千。

これを訓練し直した後、新しく兵を徴募して、六千の部隊を整える。

そして蝦夷の戦線に合流し、一気に敵を屠る。

敵の全軍は一万と少し。味方は現時点で前線に展開している兵力だけでも、二万を越えている。

タケルが六千を連れていけば、一気に敵の前線を瓦解させることも可能だろう。

京を出ると、のどかな田畑が広がっている。

河から引かれた水が、田畑を潤し。美しいまだ青い稲が、風にたなびいていた。

「今年の収穫は期待出来そうだな」

「民にも蓄えが出来ましょう」

「うむ……」

側近の言葉に、タケルは頷いた。

タケルは歴戦の将軍だが。

戦争は常に物事を解決できるとは思っていない。タケル自身は戦しか能が無いが、戦争を支えるのは、常に民だ。

京の郊外に出ると、調練場がある。

今、千ずつに再編成した部隊が、調練を繰り返していた。多くの兵を失いはしたが、それでも損傷率はさほど大きくも無く。現時点で、兵力の補填は難しくなかった。実際、兵の充足率が足りていない師は存在していない。

訓練の様子を見る限り、タケルが鍛えた精鋭だけのことはある。

指示を出せばその通りに動く。

隊列も乱さない。

弓矢の精度も悪くない。だが、タケルは、しばらく調練を見た後、腕組みして唸った。

やはり、まだ心の傷が癒えていないか。

一人で百人以上の敵を仕留めるような化け物を相手に、この兵士達は戦ったのだ。

今でも、巨大な蛇の出てくる悪夢を見る兵士がいるという。

あの森には、まだ邪悪な蛇の神がいると、兵士達は皆が信じている。

恐怖は、1年経った今でも。

兵士達の心を、むしばんでいた。

「あまり良くない状況だ」

「兵士達は、問題の無い動きをしているように見えますが」

「いや、このままでは、前線に連れて行けば大きな被害を出すことになるだろう。 兵士達は、動けはしているが、戦場に出るとかなり厳しいことになる」

実戦が必要か。

しかし、この辺りで、適当な敵などいるものだろうか。

紀伊の辺りまでいると、まだ反抗的なツチグモがいると聞いたことがある。その辺りに向かうべきかと、タケルは判断。

即日でオオキミに申請した。

オオキミは、夕刻いきなり姿を見せたタケルにも、文句を言わず会ってくれた。

武王と名を取るだけあり、昔は戦場に自ら出向くことも珍しくなかった人物である。今では、朝廷の基礎固めのため、自身はあくまで後背にいることを選んでいるが。タケルが若い頃には、この国最強の闘将の一人だった。事実、ナガスネヒコ討伐に成功したのも、武王がいたからという理由が大きい。ただし、武王自身はその戦で、ナガスネヒコの放った矢で負傷して、左腕の効きが少し悪くなっている。

タケルの話を聞くと、オオキミは興味を持ったようである。

姿を見せぬよう、垂らしてある御簾の向こうから言う。

「そなたが言うのだ、余程の途方も無い敵であったのだろうな」

「同数の兵を率いていた場合、私でも勝てたかどうかは分かりません」

「そうかそうか。 それならば、植え付けられた恐怖の大きさもよう分かる。 紀伊への出陣、許す。 兵士達に、実戦で勘を取り戻させよ。 元々あの辺りは、海から来た訳が分からぬ連中も跋扈していると聞く。 まとめて処理せよ」

「は……」

渡来人の中には、海で無法を働く者もいる。

大陸の治安が壊滅してから久しい。アキツとは比べものにならない規模の国家が多数あるようだが、逆に言えば趨勢が決まっていないことを意味している。

だから、野心に燃えて、あらゆる手で立身を望む者も出てくる。その場合、より弱い者に、まず暴力が向けられる。

大陸の技術を使い、周辺の島々などで、暴虐を働く者は珍しくない。淡路島にも、以前は強力な賊が巣くったことがあった。これは、渡来人系の賊だった事が、討伐後に判明している。

帰りに、タケルは屋敷に寄る。

古くからの部下の一人である、タムラノマロから手紙が来ていた。不審死が起きたというものだが、内容はたいしたものではない。

ただ、傷口の様子を見て、嫌な予感がした。

このやり口は、まさか。

いや、そのようなはずが無い。奴はあの時、炎の中で死んだ。

東から逃れてきたツチグモの中に、似たような手を取る者がいるかもしれない。いずれにしても、注意は促した方が良いだろう。

そのような輩が京に入り込んだ場合。

惨禍は想像を絶する物になる。

指揮下の将軍を呼び集めると、一人に指示。

「五百の兵を新しく集めろ」

「は。 五百、ですか。 新規に集められた兵から、廻すことはすぐに出来ると思われますが」

「それでいい。 この間の東国の戦いで、無傷だった五百の部隊を、タムラノマロに廻せ」

将軍達が顔を見合わせる。

タケルは、順番に説明していく。

「治安がどうも緩んでいるように思えてならぬ。 此処で、無傷の精鋭を投入して、引き締め直す」

「まるで怪物でも山に潜んでいるかのようでありますな」

「その可能性がある」

将軍達は笑わなかった。

タケルが真面目な顔をしているからだろう。

実際問題、平和に浸かったもの達が、暴力の中で生きてきた存在に対抗できるだろうか。平和は非常に貴重なものだが、その一方で対応力を奪うのも事実。

五百の新しい兵は、訓練のために連れて行く。

将軍を誰か残そうかと思ったが、タムラノマロは年老いているとは言え歴戦の将軍だ。おそらく必要は無いだろう。

問題は、もし。もしもだが。

あのヤトが、此方に来ていた場合。

五百の兵を森の中に引きずり込んで、全滅させかねないという事だ。その場合は、大和が総力を挙げて、奴を殺すしか無いだろう。

そんな事はあり得ないが。

もしもあった時のために。タケルは手を打っておかなければならない立場だ。

首を振って、妄想を追い払う。

もしあの状態で生き延びていたとしたら。

しかし、気になる報告もある。ヤゴの部隊が不審な全滅をして、アオヘビ集落のあった森から捨てられていたというのだ。

最近になってタケルも知ったのだが、愕然とした。

ヤゴは手練れだった、

誰が調査中の奴を殺したのか。あり得ない筈なのに。どうしても、ヤトの事が脳裏にちらついてしまう。

その夜は、眠れなかった。

若い側室を閨に同衾させたのだが、抱く気にもなれなかった。

恐怖を感じていたのでは無い。

兵士達と、タケルは違う。ヤトの事を戦士としては認めているし、恐怖を戦術として用いていることも理解している。

だから、ヤトを邪神だとか怪物だとかとは考えていない。

故に怖くは無い。

むしろ、罪悪感を覚える。

奴に敬意など払わず、徹底的に叩き潰すべきだったのか。そう感じてしまうのだ。

しばらく悶々としている内に、朝が来てしまった。

戦慣れせぬ小僧でもあるまいし。タケルは早朝に目を開けると、庭に出て山を見上げた。妙にカラスがたくさん飛んでいる。

そういえば、あの女も。

動物を使いこなせている可能性があると、ヤゴが報告してきたか。

あり得る事だ。

影のもの達を、動かすべきだろうか。だがあれは、朝廷内部の権力闘争などを監視して、余計な野心などを抱いたものを消すためにいる。そうしないと、新興国であるアキツは、国家をしっかりと維持できないのだ。

影のもの達を使うのであれば、しっかりとした理由がいる。

奴がいるかも知れない、では駄目だ。

今回の事件を、歴戦のタムラノマロに見極めさせて。その後、もしもヤトがいるのであれば。

力を整える前に、殺す。

それだけだった。

即日、タケルは紀伊に発つこととした。

精鋭二千五百に、五百の新兵を加えた編成である。

タケルが率いる軍勢としては小規模だが、紀伊は元々朝廷の支配が強く及んでいない地域で、長も統治に苦労している。

賊の討伐をすると使者は既に出ている。紀伊の長は勿論いい顔をしないだろうが、タケルを歓迎はしなければならない。この国でも、最大の権力者の一人だからだ。

紀伊まで、軍を進めること三日。

途中に、幾つかあったツチグモの集落を通る。反抗的な集落は、紀伊に入るまで存在しなかったが。

幾つかの集落に関しては、通り過ぎる際に、尋問を行った。長に対して反抗的な態度を取っているという報告があったからだ。

しかしながら、どの集落も、たいした勢力は無く。

次に反抗的な態度を取った場合、集落を潰すとタケルが言うと。震え上がって、以降は絶対の忠誠を誓ったのだった。

紀伊に入ったのは、京を発ってから四日目。

後方とも、使者はやりとりさせている。今の時点で、ヤトらしき存在を確認したという報告は、入ってきていない。

 

オオキミ武王は、手を叩く。

すぐに姿を見せたのは、見るからに印象が薄い男達だった。

かってツチグモだったもの達の中から、戦闘力が高く、忠誠心があるものを、選抜して造り出した特殊部隊。

通称影の者。

現在、大和によるこの国の支配を地固めするため、暗躍している集団である。

「お呼びにございますか」

「うむ。 そなた達は、タケルの危惧についてどう思う」

「東国で、タケル将軍を苦しめたツチグモについてでございますか」

「そうじゃ」

影の長は、何度顔を見ても覚えられない、非常に印象が無い人物である。表情を消しすぎず、作りすぎず。平均的で、とにかく特徴らしきものがない。

その誰にも覚えられない顔を生かして、彼はあらゆる影働きを行ってきた。

「手強い相手にございましょう。 新設の一部隊が、或いは奴に潰された可能性があります故に」

「ヤゴという男であったな。 惜しいことをした」

「はい」

武王は、一度接した部下のことは忘れない。

忘れないことで、部下の忠誠心を刺激できることを、経験的に知っているからだ。先代のオオキミは、逆に部下を手駒としか思っていなかった。それを表に出していたから、部下達の信頼をなかなか得られなかったのだ。

故に、先代の時代は、勢力を寸土も拡大できなかった。

かって、ヤマト国と呼ばれていた時代。

それからずっと時を経て、大和となった朝廷は、今ようやく様々な技術を実用化し、大陸に頼らずとも立国できる可能性を得始めている。

一刻も早く国内を統一し、人口を増やし。鉄の武具を増やして、馬も。そして、戦術を磨き抜き、この国を独立国として守れるようにしなければならない。

先代はそれを知ってはいたが、部下を使うことしか覚えなかった。

武王は違う。

部下と共に歩むことで、此処まで国を発展させてきたのだ。

「そなたはどう見る。 夜刀なる者、正真正銘の怪物か」

「もしも生きているとしたら、いかなる闇を心に蓄えているか、見当もつきませぬ。 まさに人間が産んだ、邪悪なる化生にございましょう」

「なるほど。 それで、討伐は可能か」

「可能にございます」

影が地図を広げてくる。

御簾ごしに見えるように、極めて縮尺が大きなものだ。

現在、この近辺の状況を記したものである。ツチグモは紀伊、備前、それに美濃辺りまでいかないといない。

勿論そのようなことはないのだが、少なくとも朝廷に反抗的態度を取るツチグモに関してはそうだ。

畿内では、既に朝廷の圧倒的武力が、ツチグモの抵抗を削ぎきった観がある。紀伊までいくと抵抗している連中がいるが、それも龍に向かう蟷螂の斧に過ぎない。

ただ、二十数年でこの平和を完全なものとした武王も、時々危惧は感じるのだ。

兵士達の質は、確実に落ちている。

「どのようにして討伐する」

「もしも、夜刀と言う者が五百程度の兵を集めたとします。 その場合は、タケル将軍に対応を任せましょう。 一万も兵を出せば充分かと」

「ふむ」

「夜刀と言うものが、闇に潜んで我々に攻撃を行うというのであれば。 我々影の者が対処いたします。 どうしても東国から来た者、言葉遣いなどで違和感が出ます。 割り出すことは、難しくありません」

言い切る影だが。

どうも、不安が残る。

他の者に意見を聞くが、違う言葉は出なかった。

「陛下、何か不安が」

「ここしばらく平和が続きすぎた。 お前達は、研鑽を欠かしていまいな」

「一日たりとも」

「国内の不平豪族の暗殺ばかりで、腕は鈍っておるまいな」

そのような連中を暗殺しても、技術が上がるわけでも無い。

しばらく黙り込んでいたが、武王はやがて、彼らを下がらせた。

代わりに呼び出したのはツクヨミ。

重宝している、頭がとても切れる若者である。最近は娘の一人を婚約者として、一族として迎えようと考えていた。

話をした後、意見を求める。

どう思うと聞くと、ツクヨミは違う意見を述べた。

「仮に、夜刀と言う者がいるとしたら、私に引き渡しください」

「ほう」

「この国を闇から守護する、最強の存在として、調整して見せましょう」

ツクヨミは、陰陽師と呼ばれる組織を作ろうと、少し前から画策している。

呪術者集団のように見せて、実際はこの国の影を支配する組織。影からこの国の闇を排除し、安定を保つ集団だという。

今はまだ実現させていないが。

しかし、面白い。

やらせてみるのも一興か。

「分かった。 まだ事態は確定していないが。 もしも夜刀なる者が生きているとしたら、そなたがタケルと話し合い、処遇を決めよ」

「ははっ……」

一礼すると、ツクヨミは下がる。

やはり、複数の部下を抱えるに限る。特に頭脳活動は、多方向からさせるのが効率的だ。

そのためには、部下を使い捨てるのでは駄目だと、改めて武王は実感した。

さて、夜刀とやら。

本当にいるのか。それとも、虚像だけが歩いているのか。

どちらにしても、久方ぶりに血が騒ぐ相手だ。

「酒を持てい」

女官に命じると、武王は若い頃の合戦を思い出す。

今も、武王は。国を揺るがす戦いのときは。前線に出る覚悟を決めていた。

 

(続)