炎蛇飛翔

 

序、砦陥落

 

抵抗は散発的だった。

ヤトが見ている前で、砦の攻略戦訓練を受けた蝦夷の兵士達が、乗り込んでいく。アオヘビの戦士達にも、やり方を覚えるように指示。我先に乗り込んでいった兵士達が、わずかな抵抗を排除し、砦を制圧して行った。

最初は敵も抵抗したのだが。ヤトが現れると、兵士達は露骨に怯え、逃げていった。中には、悲鳴を上げて、見苦しく逃げ惑う者や。武器を捨てて、逃げ散った兵士達さえもいた。

此処まで効果があるとは、嬉しい誤算である。

砦の制圧が終わるのと、敵が見張り台も放棄して、村まで引くのは殆ど同じ。どうやら、戦っても勝てないと判断したのだろう。兵を温存するために、敵は敢えて抵抗を放棄したようだった。

砦に入ってみて、驚かされる。

構造物が極めて緻密だ。

見張りのために塔が作られているのだが、木組みなどを一つとっても、アオヘビの者達が考えつかないような技術を用いられている。

単なる木の壁を見ても、それは同じだ。

木を切り出して、壁にしているのでは無い。

厚さが違う木を場所によって使い分けているし、木同士を組み合わせるにも、複雑な機構を用いている様子だ。

蝦夷の兵士達が、喚声を挙げている。

勝った、勝ったと、彼らは無邪気に喜んでいた。

士気に関わるから、それに文句を言うつもりは無い。こんな砦なんて、タケルが攻め寄せてくれば、あっという間に落とされてしまうだろうに。兵士達はろくに勝ったことも無いらしいから、今は喜ばせておく方が良いだろう。

砦は、ほぼ無傷で奪うことが出来た。

荒猪を走らせて、備品などを確認させる。制圧した砦は、すぐに必要になるはずだ。焼き払うなど論外。

今の時点では、使うことを考えなければならない。

「神子殿。 備品は此方に蓄えられていた。 かなり持ち出されたようだが、それでも相当量がある」

「どれ」

言われるままに足を運ぶ。

半分地面に埋まるような建物があり、その中に物資が蓄積されていた。ツルギに槍、それに弓矢。

大きな弓を見つけたので、引いてみる。

かなりの手応え。

これなら、いつも使っている弓よりも、更に矢を遠くまで飛ばすことが出来そうだ。アオヘビの戦士達を呼び、武器を分配させる。

奪い合うことも無い。

充分すぎるほど、武器はある。

食糧もあった。

殆どが米や作物ばかりで、はじめて見るものも多かった。どうやって食べるかは分からないが、一部はアオヘビ集落に移しておいた方が良いだろう。

個人的に嬉しいのは、大量の油が備蓄されたままだった事だ。

これは使える。

特に、これから敵の集落を攻める事を考えれば、なおさらだ。

側で、蝦夷の兵士達の司令官が、もみ手をしていた。それがもみ手というのだと、弥生に教わった。

こびを売るための、とても分かり易い動作だそうだ。

「神子殿、大勝利にございます。 このまま、敵の村にまで攻撃を」

「……そう、だな」

砦の中には、油の備蓄がある。

前は散々火攻めされたが、今度はお返しだ。徹底的に敵の集落を火攻めにしてやるとしようか。

砦には、百名ほどの留守居を残し、後は全員で敵集落へと進む。

途中、見張り台は全て焼き払わせた。

油は腐るほどあるのだ。

しかも、今は雪が彼方此方に残っている。延焼するおそれもない。

敵集落が、見えてくる。

梟が、ヤトの手元に降りてきた。あまり良い報告では無い。

「止まれ!」

指示を出して、進軍を止めさせる。

敵は弓を構えて、待ち構えているという。近づいたところを、数に物を言わせて、一斉に討ち取るつもりなのだろう。

なるほど、それならば。ヤトを見ずとも戦えるというわけだ。

「どうしたのです、進軍しましょう」

「待ち伏せだ」

ヤトはしばし思案した後、指を鳴らした。

そして、砦で捕縛した、敵側の犬を連れてくるように指示。十頭ほどの犬が、砦で捕縛されていた。

犬の背中に、油を入れた土器をくくりつける。

火矢を準備させる。流石に、犬を大事にする戦士達は、青ざめる。犬は、集落全体の大事な財産として扱われる。狩で重要な役割を果たすのだから、当然だ。

これはツチグモ全体に共通する特色だと、オロチの老人に聞いたことがある。

反面、農耕を主体とする連中は、犬をあまり大事にしないそうだ。場合によっては、飼い犬を食べてしまうのだとか。

「ミコ! 犬をどうするつもりだ!」

「犬は余っている。 だから有効活用する」

「まて! 犬はすぐに飼い慣らせる! 飼い慣らせば、そんな風に使うよりも、ずっと役に立つだろう!」

泡を吹くようにしてまくし立てるカルノを一瞥。

シシも同じように、不満を抱えているようだ。

だが、他に有効な手が無い。

「ならば、お前達が油を抱えて突入するか」

「……っ!」

戦士達が、青ざめている。

ヤトは大きく嘆息した。この様子では、後々の士気に影響してくることだろう。作戦は考え直した方が良い。

「分かった。 他の手を取ろう」

「……そうしてくれ。 流石にそのようなことをされては、反吐が出る」

「お前達、此方に来い」

蝦夷の兵士達を呼ぶ。

犠牲が出るが、仕方が無い。

「これより、敵に火攻めを行う。 数人ずつひとかたまりになり、火を付けた油壺を敵の集落に放り込んでは、すぐに戻ってこい」

「分かりました、神子どのっ!」

不満を抱えはじめているアオヘビの戦士達と違い、こっちはもはやヤトをカミのように崇めている。

それでいい。

しかし、おかしな話だ。

人間を内心嫌っていることを、ヤトは気づきはじめていた。どの人間も、皆殺しにしてやりたいと、心の中で黒い蛇が鎌首をもたげる。狂気の中、それでも冷静に人間を見ているヤトは、思うのだ。

片方には。何故か、故郷の集落と近しかった人間達には。ヤトは、怖れられはじめている。

故郷の集落と遠く、敵に近い存在である蝦夷には、逆に崇拝されはじめている。

人間はよく分からない。

ヤトも、人間だったはずなのに。

油壺に縄をくくりつけさせる。出来たものから、火を入れて。少人数で前に出しては、敵に放り込ませた。

瞬く間に、敵の集落の柵が、彼方此方燃えはじめる。

敵を燃やすのが主目的では無い。

明かりで、敵を照らすのが目的だ。

「見えた敵を、片端から射すくめろ」

アオヘビの戦士達が、弓を引き絞る。

敵は滅茶苦茶に矢を放ってくるが、木々が邪魔をして、殆ど当たることは無い。というよりも、ヤトでさえ知っている。

明るい方から、暗い方は見えない。

ヤト自身も弓を引き絞り、柵の際に姿を見せた敵を、片っ端から打ち抜く。次々に敵が倒れていくのが、此方からも見えた。

夜明けまでに、敵をどれだけ削り取れるかが勝負だ。

蝦夷の兵士達も、技量はおとるが、弓をさかんに射かける。敵の反撃が、徐々に弱くなっていく。

「火攻めを強化」

投げ込む油壺の数を、倍増させる。

壺も、砦にたくさんあった。火を付けて、振り回して、敵の集落に放り込むことで、瞬く間に延焼させる事が出来る。

柵が燃え落ち始める。

見張りのための塔や、侵入を防ぐための柵が、どんどん失われていった。

だが、敵がいないと言うわけでは無いだろう。

下手に近づくと、思わぬ反撃を受ける可能性が高い。

夜明けと同時に、ヤトは味方を一端引かせる。

砦まで戻ると、ヤトは司令官が使っていたらしい部屋を確認。何か仕掛けがしてある様子は無い。

ころんと転がったが。

穴の中では無いからか。どうも、寝苦しくて、すぐに起きてしまった。

此処は止めておこう。

しかし、出来れば敵に近い場所に、自分の居場所を作っておきたい。しばし思案した末に、ヤトは砦の中。幾つかある、半分埋まった建物の一角に、横穴を掘らせた。そして、その中に入ると、横になった。

これは心地が良い。

ひんやりしていて、しかも真新しい土の香りが何とも言えない。

多くの場合、崖の中にある横穴にツチグモたちは住む。

だが、自分たちで穴を掘って、其処に住むのもありかも知れないと、ヤトは快適を感じながら思った。

味方も、交代で休ませる。

次に攻撃するのは、夕方からだ。毎日、敵を徹底的に責め立てて、集落から追い払ってしまう。

タケルが来るまでに、できる限り、敵を潰す。

その戦略に、変わりは無かった。

 

1、猛攻と専守

 

チカラヲは、損害に顔を青くしていた。

砦を奪われることは想定済み。

だが、夜襲での味方の損害が、予想以上に大きい。敵は火攻めで、此方の数を的確に削りに来ている。

指揮官も、何名か倒された。

暗いところから明るいところを見れば、よく見える。

反対は不可能だ。

その程度の事は、当然チカラヲも知っていたが。的確に利用されると、流石に苛立ちを感じてしまう。

既に味方の士気は、どん底にまで低下していた。

これ以上下がると、逃亡兵が出始めるだろう。タケルが来るまで、後数日。それまで、どうしてでも、民と田畑を守らなければならない。敵を怖れている兵士達に、無理はさせられない。

自身が、矢面に立つしか無い。

昼間の内に、被害箇所を見て廻る。

ツチグモと蝦夷の兵士どもは、砦で今頃高いびきだろう。しかし、此方は寝る暇も無い。守勢になった場合の悲しさだ。

数は此方の方が上回っているのに。

砦から戻った兵士達の恐怖は、村の駐屯部隊にも、既に伝染している。アオヘビの神子が怪しい術を使うとか、巨大な蛇を操るとか、ありもしない噂も、既に流れている。農民達も、敵を怖れ始めている様子だ。

実際、この村でも、殺人事件は起きた。アオヘビの神子の異常な残虐性は、村の農民達も目にしているのだ。

箝口令を敷いている暇も無い。

この村だけは守りきると、チカラヲは決めているが。

このままだと、押し切られる可能性も高そうだった。

指揮官達を集める。

連日の戦いで、皆疲労の色が濃い。交代で休ませてはいるのだが、兵士達の疲弊を考えると、そうも言ってはいられない。

「何か良案は」

「タケル将軍の到着を待つしかありません。 敵の数は此方よりだいぶ少ない。 攻撃に出てくるのは、せいぜい五百程度でしょう。 守りきるのは、難しくないはずです」

「分かっている。 だが、著しく味方の被害が大きいのも事実だ」

昨晩の襲撃でも、四十人以上が倒された。

闇夜や森での戦いでは、やはりツチグモの戦闘力は相当なものがある。弓矢も、確実に兵士を射貫いてくる。

特にアオヘビの神子の射撃術は凄まじい。

チカラヲも何度か目にしたが、あればかりは本当に何かしら変な術でも使っているのでは無いかと、勘ぐってしまう。

親父の方を見る。

昨晩、親父は敵の攻撃で負傷した。鎧の上から、矢で射貫かれたのだ。幸い鏃は引き抜いたし、毒も塗られていなかったが。親父は既に、戦士としては上がりを迎えている年齢だ。無理はさせられない。

「とにかく、敵の挑発には乗らないことだなあ」

「やはり、それしかありませんか」

会議を解散。

チカラヲは自室で、腕を組んで唸るほか無かった。

タケルが率いてくる軍勢は、最低でも三千、多ければ五千程度はいる筈だ。此処にいる兵士達と合流すれば、一地方軍ほどにまでふくれあがる。

一気に敵を踏みつぶすことも難しくは無いだろう。

何より、彼らは敵を怖れていないのが大きい。臆病風に吹かれてしまった此処の兵士達とは、根本的に状態が違う。

昼間の内に、補修は済ませる。

人的被害ばかりはどうにも出来ない。噂によると、常陸全域でツチグモの動きが活性化しているという。

アオヘビだけでは無い。

おそらくは、何かしらの手段で、朝廷の軍勢がアオヘビに手を焼いていることが、伝わっているのだろう。

これ以上常陸の敵を勢いづかせると、色々とまずい。

しかし、攻勢に出るのは無理だ。とにかく、今は忸怩たる気持ちを抱えたまま、守勢を続けるしか無かった。

タケルからの返事は、既に来ている。

もう武蔵での掃討戦は終わり、兵力のまとめも終わっているそうだ。三日後には、此処に到着するという。

兵力は分からないが、それはタケルが到着してからである。

流石に状況は伝わっているはずで、五百とか千とか、そういう数、という事はないだろう。

一気に敵を押し返すことができるはずだ。

悶々としている内に、夕暮れが到来。そして、夜が来た。

兵士達が騒ぎはじめる。

敵の襲撃があったのは間違いない。

チカラヲが外に出ると。既に、其処は修羅場と化していた。油壺が次々と投げつけられて来ており、柵の彼方此方が炎上している。

兵士達が消火に追われているが、火に照らされた兵士は一方的に射すくめられていた。兵士達が、恐怖の声を上げながら、必死に走り回る中。呆然と、チカラヲは敵の襲撃を見つめるしか無かった。

敵がいるらしい方向に、勿論反撃もさせている。

だが、何しろ森の中だ。

これといった効果は無い。勿論少しは倒せてはいるだろうが。明かりに照らされた此方の兵士と、闇の中から此方を見ている敵では、条件が違いすぎる。

腹に痛み。

矢が、鎧に突き刺さっていた。

思わず膝を折るが、たいした傷では無い。物陰に移ると、矢を引き抜いた。兵士達が大慌てで走り回っていて、此方を見る暇も無いのが助かった。

もしもチカラヲが撃たれたとか誰かが叫びでもしたら、兵士達は潰走していた可能性が高い。

手当を済ませる。

狙撃を受けにくい場所に移るわけにも行かない。兵士達は、この瞬間も、命を賭けて戦っているのだ。

恐怖を押し殺す。

チカラヲが前線に出ると、敵の様子が少しずつ見えてきた。

綺麗な波状攻撃を仕掛けてきている。こんな動き、訓練もヤマトにおとる蝦夷の軍勢では、とうてい出来ないだろう。

それだけあのアオヘビの神子が、敵を統率しているという事だ。

「此方も火矢を敵に撃ち込め! 好き勝手をさせるな!」

「分かりました!」

とにかく、挑発には乗らない。

守勢に徹する。

何しろ、乾燥した冬の森だ。火を放てば、それなりに燃える。雪が残っているから延焼はしないにしても、だ。

敵がわずかに攻撃の手を緩める。

その間に、チカラヲは、部下達に態勢を整え直させた。そして、組織的に敵へ矢を射かけさせる。

味方も次々打ち倒されるが。

しかし、敵の進撃速度を、明らかに鈍らせることには、どうにか成功した。

夜明け近くになって、敵は引いた。

もう少し。あと少しで、タケルの援軍が到着する。チカラヲは、自室に戻って、鎧を脱いで気付いた。

相当な出血があった。

すぐに医師を呼び、手当てさせる。おそらく恐怖と興奮で、痛みが麻痺していたのだろう。手当をさせながらも、チカラヲは医師に言う。

「この怪我のことは、内密にせよ」

「分かりましたが、今晩も戦うつもりですか」

「そうせざるを得まい」

「おやめになった方がよろしいでしょう」

医師と言っても、出来ることは少ない。傷口を洗ったり、薬草を調合したりする程度である。だから、毒や汚物を塗った矢が、戦場では猛威を振るう。

これに関しては、大陸から来た技術も大差は無いと、チカラヲは聞いている。

「幸い今回矢に毒は塗られていなかったようですが、傷口の状態は見かけよりもだいぶ悪うございます。 傷を受けてから、動き回り続けたのが原因でしょう。 数日は栄養を取り、ゆっくりお休みください。 さもなければ、死ぬ事になりましょう」

「……そうか。 分かった」

「お大事に為されませ」

負傷した兵は多い。

医師はそそくさと、自身の仕事に戻っていった。

チカラヲは指揮官達を集める。

負傷している指揮官もいる。チカラヲだけが、休むわけにはいかない。

「損害の状況は」

「芳しくありませんな」

指揮官の一人が上げた数字を聞いて、チカラヲは唸る。

五十人以上が、昨晩だけで倒されていた。

このままだと、彼我の数はそう遠くない未来に逆転する。敵の数は、それに対して殆ど減っていない。

途中、敵の攻勢を食い止めるまでに、それだけ多くの被害が出ていた、という事だ。

タケルが予定通りに到着してくれれば良いのだが。

「すまないが、私は此処で指揮を執る事とする」

「怪我の様子を見る限り、その方がよろしいでしょう」

指揮官達は、同意してくれた。

後は、兵士達の士気を、どうやって保つか、だ。

会議を切り上げると、しばらく無心に眠った。

何度も目が覚めたのは、酷い痛みを感じたからだ。傷は治りかけが一番酷く痛む。昔から知っていたはずなのに。

三度目の目覚めを過ぎると。

既に、夕刻になっていた。

敵襲。叫ぶ声が聞こえた。

やはり、今日も来たか。

チカラヲは、力なく、病床で戦えない事を恨んだ。

 

蝦夷の兵士達が自信を付け、射撃の腕がかなり上がって来ているのが、ヤトにも分かった。暗闇の中射撃を繰り返す兵士達の少し後ろで、ヤトも弓を引き絞る。一瞬だけ、明かりに照らされた敵を、射貫く。

両手を挙げるようにして、地面に投げ出された敵が、倒れて動かなくなった。

矢をかなり使った。

砦にある備蓄を費やしているが、それでもこのままでは、そう遠くない未来に無くなるだろう。

敵は追い込んでやったが。

味方も、決して有利なわけでは無い。

此処が勝負時だろう。

梟が戻ってきた。敵の配置を、かなり把握できた。一部に大きな隙ができはじめている。其処を突けば、この集落は落とせる。

「このまま、攻撃を続行。 カルノ、シシと一緒についてこい。 精鋭を百名ほど募れ」

「分かった」

「乗り込むのか」

「そうだ」

短い言葉で会話を続けながら、ヤトは闇の中を進む。

既に柵が燃え落ちていて、敵の防備が完全に崩れている箇所がある。すぐ側の茂みに伏せると、ヤトは蝦夷の兵士に、出来るだけヤマトのようになまりを入れ叫ばせる。

「アオヘビの神子が、巨大な蛇を呼び出したぞ!」

「大暴れしている! 助けてくれ−!」

敵が混乱するのは、ほんの一瞬だろう。

それでいい。

混乱をついて、ヤトは敵の集落に躍り込んだ。

たいまつに照らされて、敵が見える。ヤトを見て叫ぼうとした奴を、速射して撃ち殺した。

乗り込んできた後続の兵士達が、戦いはじめる。ヤトはゆっくり歩きながら矢を番え、放つ。敵の集落の様子は、さんざん梟に偵察させて、頭に叩き込んでいる。どこに家があるか、備えがあるか、知り尽くしていた。

「其処へ火を」

「はい!」

蝦夷の兵士達をこき使って、火を放つ。

ヤトはその間も、敵兵に矢を放ち続ける。指揮官らしいのを見つけたので、射貫いた。敵が露骨に動揺する。

だが、敵もやられっぱなしでは無い。

元々、数は敵の方がずっと多いのだ。人数を揃えて、反撃に出てくる。乱戦が始まった。若干蝦夷の兵士達が不利だが、アオヘビの戦士達が大暴れして、互角以上の戦いに持ち込んでいる。

「アオヘビのミコ、ヤトは此処にいるぞ!」

叫びながら、ヤトはツルギを抜いた。

鬼。

貴様の、出番だ。

心中で呟きながら、敵の中に躍り込む。体を旋回させ、敵の腕を、足を、見る間に切りおとした。

体を捻って半回転しつつ、首筋を切り割る。

大量の鮮血が噴き出す。

熱い血潮が掛かる。

心地よい。

薄ら笑いを浮かべながら、ヤトは更に斬る。敵兵が悲鳴を上げて、下がる。このまま押せば、一気に。

梟のツキヨが、上で旋回して、警戒の声を上げたのは、その時だった。

敵、接近。

数え切れない。凄い数。

ヤトは、舌打ちした。どうやら、ついに来るべきときが、来てしまったらしかった。

「総員撤退! 引け引け!」

「神子様!?」

「敵に援軍が来た! 此処にいたら押し潰される! 森の中に戻れ!」

叫びながらも、ヤトはツルギをふるって、飛びかかってきた敵兵の首を叩き落とす。切れ味が落ちてきている。そろそろ、オロチの所に持っていかないと駄目か。

下がりながら、矢を放つ。敵の集落を抜けて、森の中に逃げ込みながら、ありったけの油壺を叩き込ませた。

敵は追撃してこない。

ある程度、集落は燃やしてやった。森の中で、逃れてきた味方を援護し続ける。マムシが少し深入りしすぎて、遅れていた。マムシに斬りかかろうとした敵兵の目を、速射して貫く。

どうにか森に逃げ込んできたマムシだが。

背中に、大きな傷を受けていた。

「逃げ遅れた者は」

「生きている者は、皆逃れました!」

「よし。 そのまま、砦まで戻る」

これ以上の攻撃は無意味だ。

ヤトとしても口惜しいが、今晩の戦いで、敵をかなり削ること自体には成功している。これ以上の戦果を望んでも、怪我をするだけ。それならば、引くことに異存は無い。返り血を手の甲で拭いながら、気付く。

「そういえば、弥生はどうした」

「私なら、此処にいます」

闇の中から浮かび上がるようにして、弥生が姿を見せる。

今までどこに行っていたのか。

最近は戦いになると、必ず姿を見せる。弓は引けなくてもものを運んだり、必ず自分に出来る事はしていた。

今日は姿を見せなかったのだが。一体何をしていたのだろう。

先に負傷者を行かせ、後方からの反撃を警戒しながら歩く。先に戻れと言ったのだが、弥生は首を横に振った。

「夜刀様。 今日は、お話ししたいことが」

「何だ」

「夜刀様は、神子です。 その上、現実的なものの考え方をなさいます。 だから、こう考えておいででしょう。 神など存在しないと」

目を細めたのは、余計な事を言われると困るからだ。

周囲には、いつの間にか。

誰もいなくなっていた。

「貴方が考えているような神は、確かにいません。 しかし、それとは違う意味で、神とよべる存在は、実在しています」

「意味が分からない。 どういうことか」

「簡単に言うと、人の心は、目に見えない形でつながっています。 貴方は、其処へ闇と負を撒きすぎた。 こうなることは、随分前から分かっていました。 貴方を核に、間もなく本物の祟り神が、この世に姿を見せるでしょう」

そして、それはずっと前から分かっていたのだという。

弥生が派遣されたのは。

この地に、本物の祟り神が現れるのを、見届けるため。ヤマトに対する防波堤として、機能するか確認するため、なのだとか。

「よく分からないが、それを私に告げてどうするつもりか」

「場合によっては、私が依り代になるつもりでした。 その目的で、派遣されてきていたのですから」

「……なるほど、そう言うことだったのか」

まだ、ヤトには分からない事が、多々ある。

しかし、弥生の目的については、それで合点がいった。遠く離れた蝦夷が、クマの集落の手引きくらいで、どうして此処に大量の増援を派遣したのか、どうも気に掛かっていたのだ。

防波堤として、ヤトが機能しうると、判断していた、というのが真相だったのか。

まだ納得いかない点は、多々あるが。

確認しておかなければならないことは、ある。

「それで、カミとやらが現れた場合、私はどうなる」

「おそらく……人々の手によって、貴方は殺されるでしょう。 聡明な貴方であれば、分かっている筈です。 もはや、貴方の味方は、この世界のどこにもいません。 ツチグモの戦士達でさえ、貴方を怖れはじめています。 以前、戦士達が貴方に恐ろしいカミがとりついたのでは無いかと言っていたのは聞いていたかと思います。 既に、あれは確信へと変わっています」

邪悪なる神の降臨を防ぐためには。

その依り代であるミコを殺すしか無い、というわけだ。

笑いが漏れてきた。

そして、どうしてだろう。

ヤトは、怒りよりも、おかしさを感じてしまっていた。何となく、弥生が言うことを、理解できはじめていたからだ。

実体のある邪悪なカミなど、存在しない。

今でも、ヤトはそれを断言できる。

だが、多くの人間の心に撒かれた、主体性が無い恐怖がカミだというのならば。ヤトは、あまりにもそれを撒きすぎた。

ヤト自身が、邪悪なカミと見なされ。そして、降臨を防ぐために殺されるとしても、おかしい事は無いだろう。

「次の戦いが、おそらく最後となります。 既に気付いておられるでしょうが、連れてこられている兵士達は、蝦夷の中でも役に立たないと判断された、使い捨ての者達です」

「で、あろうな」

指揮官からしてあれだ。

蝦夷もヤマトと変わらないという事は、何となく分かっていたが。多くの人間があつまると、その邪悪な性質がむき出しになると言うことなのだろう。

ヤトにしてみれば、何ら不思議では無い。

というよりも、合点がいくことばかりだ。

五百の兵は、邪神を生み出すための糧というわけだったのだ。

「それで、お前はどうする」

「荒猪達は、全てを見届けた後、蝦夷に戻る事になっています。 朝廷の一軍を無力化することが出来れば、それで作戦を達成できるのですから」

「やはり、荒猪は蝦夷の精鋭か」

「はい。 というよりも、彼と直属の数名だけは、蝦夷王族が抱えている、生え抜きの精鋭です。 貴方ほどの力はありませんが」

人払いは、そいつらがしているとみて良いのだろう。

ヤトがまるで動揺していないことを、弥生は気付いている筈だ。

真相が分かっていることなど、もはやどうでもいい。これからヤトがどう動こうと、事態は変わらない。

蝦夷が想定した通り。

此処に邪神と呼べるものが降臨して、ヤマトの一部隊を釘付けにする。戦略的に、それだけ有利になる。いや、不利を緩和できるとでも言うべきか。

別にそれは構わないが。

一つだけ、分からない事があった。

「お前はどうして私に、そのようなことを話した」

「何も知らないままに果てるのは、不公平だ、と思いましたから」

「ふん、そう言うことか」

それで会話は終わった。

なるほど、この弥生という女も。蝦夷からは、使い捨ての駒程度にしか思われていなかったという事だ。

そして本人は、それを自覚もしていた。

むしろ最初から、此処で死ぬつもりでいたのだろう。依り代になるつもりだったという言葉が、それを裏付けている。

いつの間にか、戦士達の後衛に追いついていた。

今ならはっきり分かる。既に彼らが、ヤトに対する畏敬を通り越して、恐怖だけを覚えていることが。

戦略として恐怖を使うことで、此処まで敵を撃退してきた。

だが、それはヤトが思わぬ形で、大きな副作用を呼んでいた、という事だ。別に何も感じる事は無い。

今更ながら、気付いたことがある。

ヤトは人間そのものが大嫌いだ。自分も当然、それには含んでいる。

森は大好きだから。

だからこそ、人間が嫌いなのかも知れない。結局ツチグモも、ヤマトと大して変わることが無い。

嫌と言うほどクマのミコが巡らせた、策謀の糸は見てきたでは無いか。

何も違わないのだ。森を喰らうヤマトの民と。人間は存在するだけで、森を汚し、喰らい続けると言うことでは無いか。

勿論、動物が純粋、などと言うことは無い。

カラスの群れの中でも序列争いはあるし、その過程ではじき出された弱い個体がイジメ殺される事はままある。

梟は群れを作らないが、狩の練習のために、鼠を嬲り殺す事くらいはする。

だが、それらと人間は決定的に違う。

おそらく、欲の大きさが、根本的に異なっているからだろう。人間の欲は際限なく拡大し、周囲の全てを喰らっていく。

そう言う点では、ヤトも同じか。

ヤトの中で蠢いている狂気は、獲物を求めて、どれだけでもふくれあがっていく事だろう。

歩きながら、一つ決めたことがある。

カルノを見つけたので、呼び止めた。

「カルノ。 一つ、指示をしておく」

「どうした。 何か作戦上重要なことか」

「このツルギを渡しておく」

ツルギ、鬼。

今日何人かを斬ったことで、既に使い物にならなくなっている。研ぎ直さなければ、殺しの道具としては機能しない。

他にもツルギはあるのだが。

既に、このツルギに、ヤトの意思は籠もっていると言える。だからこそに、他人に渡しておく。

「オロチの所に持っていき、研ぎ直させろ。 その後は、敗走する蝦夷と一緒に、北の地へ行け」

「どういうことだ、おい」

「もしも敗走した場合の話だ」

死ぬのは規定の事だったとしても。

ヤトは、ただで死ぬつもりは無い。それが、決めたことだ。

何より、タケルの動きが如何に速くても、いくら何でも今日中に何もかもが終わるようなことは無いだろう。

そう、信じたい所だった。

 

2、怒濤

 

ついに、村にタケルが軍勢を連れて着到した。

完全に生気を失っていた兵士達が、気力を取り戻すのが、チカラヲの目にも見て取れる。何しろ、数が圧倒的だ。

兵力は、前衛だけで千五百。

続々と到着する総兵力は、五千を超えているものと思われた。

常陸の国だけでは無い。

ツチグモをほぼ制圧した武蔵や相模からも兵力を動員している。ただし、流石に全てが精鋭とは行かない様子だ。駐屯軍から兵を選りすぐって連れてくる途中で、訓練もしていたのが、遅れた理由であるらしい。

ただし、途中でツチグモをかなりの数討伐したという事で、兵士達は実戦の中でもまれて、目つきも動きも違っていた。

タケルは馬上で周囲を見回していたが、平伏するチカラヲを見つけて、此方に来る。

「防衛、大義であった」

「鳥前砦を奪われてしまいました」

「何、取り戻すのは容易だ。 勝ちにおごった蝦夷の雑兵など、どれだけ集まろうとものの数では無い」

豪快に言い切ると、タケルは舎に案内するように言った。

移動しながらも、タケルは村の損害を、確認している様子である。

「随分此処もやられたな」

「タケル将軍の到着が少し遅れていたら、おそらく陥落していたかと思います」

「ふむ、やはりヤトというあの女、相当な戦上手よ」

馬から下りると、タケルは舎に入る。

元々タケルが鍛え上げた指揮官達が、其処で待っていた。其処に、今回連れて来た指揮官達も加わる。

チカラヲと同等か、それ以上の地位を持つ指揮官も、何名かいた。

「まずは状況の説明を」

最上座につくと、タケルが促す。

チカラヲが地図を広げて、説明を開始した。地図に関しては、ここしばらくの戦いで、相当に充実した。

「まず敵ですが、アオヘビ砦に百名ほど。 これは全てがツチグモの戦士です。 元々のアオヘビ集落の戦士に加え、幾つかの集落から、ささやかながら増援が出ている模様ですが、たいした数ではないようです」

「うむ。 蝦夷の兵は」

「鳥前砦に三百。 この辺りに、アオヘビ集落を守るようにして、百五十。 残りの五十なのですが、どうやら小さな谷を守っているようでして」

「何だ、その程度の数に苦戦していたか」

せせら笑ったのは、チカラヲと同格の将軍だ。タケルの指揮下で転戦してきた勇猛な将軍だが、敵を侮る癖がある。

そのため、タケルの目が届くところで、常に攻勢のときのみ使われていた。

この軽率な男も、タケルの指示は良く聞くのだ。

「兵士達は、ヤトを怖れきっているということだが」

「あの女は、明らかに恐怖で此方を圧倒する戦略を採っておりました。 数々の残虐行為に加え、自身が妖術でも使えるように振る舞っていて、兵士達はそれを目の当たりにしております。 心が折られてしまった兵士も、少なくありません」

「ふむ……」

具体的な残虐行為の例について話すと、タケルはむしろ哀れむように嘆息した。

おそらくは、理解しているのだろう。

ヤトが選んだ手段が、合理的なものなのだと。

「彼我の差を埋めるためとはいえ、むごい行いをさせたものよ。 まだ若いというのに、ヤトという女、ろくな死に方は出来まい」

「それについて、ですが」

不意にその場にわき上がるようにして、ヤゴが姿を見せたので。流石に、集まっていた指揮官達も驚いた。

ヤゴは取り繕う様子も無く、タケルに耳打ちする。

しばらく頷いていたタケルだが。悪い報告を受けているようには、チカラヲにも見えなかった。

「そうか。 どうやらヤトめ、己の邪法で首を絞めてしまったようだな」

「吉報でありますか」

「恐怖は敵の中でも伝染している。 どうやら、ヤトは味方にまで恐怖されはじめていて、心が離れている様子だ。 これは、攻めれば落ちる。 ただし、兵士達に恐怖が伝染すると面倒だ。 速攻で勝負を付ける」

タケルは立ち上がると、周囲に指示をした。

一日だけ休息して、後は全面攻撃に出ると。

 

ヤト自身が、その凄まじい数は確認した。

一体どれほどいるのか。

敵の軍勢は、集落を完全にはみ出している。集落の外まで、圧倒的な大軍勢が広がっていた。

そもそも、クロヘビの跡地に作られた敵の集落でさえ、森を覆うような広さであったのに。それでもまるで足りず、敵がはみ出しているという事からも、その凄まじい数が知れる。

どう少なく見積もっても、此方の十倍はいると判断して良いだろう。

流石に度肝を抜かれた様子のアオヘビの戦士達を促して、一度砦にまで戻る。これでは、真正面から戦っても、勝ち目などは無い。

しかも、相手にタケルがいる事はわかりきっている。

おそらく一日だけ休んで、後は速攻を掛けてくるだろう。前回とは、状況が根本的に違う。

戦いになれば、瞬時に押し潰されると見て間違いない。

森の中を急ぎながら、ヤトは思惑を巡らせる。

さあ、どうするか。

どうすれば、あの大軍を押し返せる。元々いた敵については、心をへし折ってやった自信もあるが。今度新たに現れた敵を、押し返せる自信は無い。心も折る事が出来るとは、とても思えない。

もしも仕掛けるとすれば。

今夜か。

しかし、あのタケルだ。それくらいのことは、把握していないとは、とても思えなかった。

砦に戻ったヤトは、思惑を錬る。

どうにかして、タケルを仕留めれば。

いや、無理だ。それくらいは、相手も想定していない筈が無い。最前線に当然タケルは出てくるだろうが、其処でタケルを仕留めても、敵が崩れるとは思えないのだ。タケルが死んでも、敵は倒せない。

それならば。

手としては、森ごと焼き払うというものもあるが。それだけは、ヤトが選択するわけにはいかない。

考え込んでいると、梟たちが集まってきた。

ヤトを心配しているのが分かる。

だからこそ、負け戦には、つきあわせられなかった。

もしも、手があるとすれば。

蝦夷の司令官を呼ぶ。もみ手をしながら来た司令官に、この辺りの地図を出させた。ヤトも、正直な話、ヤマトが常陸と呼んでいるこの辺りしか知らない。それ以外のアキツの島が、どうなっているのかは、分からない。

司令官が出してきた地図を見ると。アキツの島は、随分と広い。

ヤマトの勢力は、その大半に広がっている。

いつの間にか弥生もいたが、気にせず話を進めることとする。

「この辺りは?」

「ヤマトの中枢部ですな」

強力なツチグモは、もう殆ど残っていないという。

常陸にいるヤト達が、ツチグモとしては最後の強大な勢力の一つだと聞いて、頭を抱えたくなった。

以前は諏訪という場所に、もっと強力なツチグモがいたという。しかしながら、諏訪のツチグモはヤマトに服属する路を選んだ。今では、独自の勢力を保ちつつも、完全に頭は抑えられてしまっているのだとか。

しかしながら、だ。

未だに、ヤマトの勢力には属さず、影での行動を続けているツチグモは、少なくないのだとか。

「たとえば、この辺り」

司令官が指したのは、ヤマト中枢部のすぐ近く。

吉野と言うそうだ。

「山深く、農耕には適さない森が広がっています。 この辺りには、各地から逃れてきたツチグモの一族が、独自の網を張っている、と聞いています」

「ふむ……」

現在は、ヤマトの勢力が強大で、抵抗することは不可能だが。しかし、ヤマトの勢力が衰えたときには。

彼らは牙を剥くのは確実だと、司令官は太鼓判を押した。

話半分に聞いておく。

ただし、農耕に適さない土地が広がっている事。森が深く、隠れ住むにはもってこいだと言うことは事実なのだろう。

弥生が言っていたように、この辺りの土地には、ヤトの生み出す邪悪なカミが、永遠に残るかも知れない。

それが、ヤマトへの防波堤となりうる可能性もある。

だが、ヤトの目的は。

森を守り、生きること。

腕組みした。

弥生が言うとおりだとすれば。ヤトがいる事自体が、この森に対しての負になりかねない。

おそらく、ヤトがいない方が、最終的にこの森のためになるだろう。

それならば。

夜半過ぎ。

カルノが戻ってきた。

研ぎ直した鬼を手渡してくれる。何か言いたそうにしているカルノを一瞥すると、ヤトは今後の策についての最終案をまとめはじめた。

 

早朝。

ヤマトの大軍勢が動き始めた。

文字通り、森どころか、山をも覆い尽くすような数だ。

森の地形を利用して反撃を開始するが、何しろ数が多すぎる。倒しても倒しても、まるで臆すること無く、進んできて矢を放つ。

森から敵をたたき出せたのは、わずか一日に過ぎなかった。

策を練りようが無い。

とにかく、つけいる隙が、まるで見当たらないのだ。

さすがはタケルだ。とにかく変なことをしようとはせず、大勢を徹底的に活用して、攻めこんできている。

なすすべが無かった。

蝦夷の主力部隊が籠もっている砦は、瞬く間に包囲された。アオヘビの集落も、入り口を完全に塞がれる。

ヤト自身は、集落から既にハハ達を避難させ、主力を連れて砦に入っていた。此処の方が守りやすいと判断したからだ。

また、脱出口も既に確保はしてある。

あの後、徹夜で穴を掘らせて。砦の一部、斜面に出られるようにしたのだ。その辺りは傾斜が厳しいので、敵が包囲できない。ただし、大人数が脱出するのは、著しく難しいだろう。

いずれにしても、これは負け戦だ。

とても此処から敵を追い払う事は出来ない。

しかしながら、それでも。

ヤトは戦う。

幸い、矢の備蓄はいくらでもある。ヤトは一番高いところ、敵が見張り台と呼ぶところに立つと、敵に片っ端から矢を射込んだ。

矢を放つ度に、敵が倒れる。

だが、それでも敵は怖れない。矢を放ち、敵の目を射貫く。腕を打ち抜く。首を貫く。敵が倒れ、悶絶して横転する。

次から次へと、代わりが現れる。

蝦夷の兵士達は、ここしばらくの勝ち戦で自信を付けた。敵に対して矢を放ち続けるが。それも目だった効果は無い。

敵は数もそうだが、おそらく司令官であるタケルを信頼しきっている。だから、旺盛な反撃を受けても、まるで怯まなかった。

下級指揮官らしい相手を見つけた。

ヤトはギリギリまで弓を引くと、気迫を込めて矢を叩き込む。

兜の上に突き刺さった矢だが。どうやら、兜を貫通して、頭蓋骨を抜いたらしい。下級指揮官は白目を剥くと、倒れた。

わずかに敵の勢いが弱まり、周囲を見る余裕が出来た。

アオヘビ集落の方は。

駄目だ。既に煙が上がり始めている。入り口は充分に固めているのだが、それでも敵の侵入は防ぎきれないだろう。

あれだけの火矢を叩き込まれたら、中にいる戦士達がどうなっているかは、言うまでも無い。

敵が、油の入った壺を砦の前に運んできたのが見えた。

やはり火攻めか。

だが、火攻めの内容が、根本的に違っていた。

見た事も無い道具が、森の中を運び込まれてくる。木を組み合わせて作っているようだが。一体あれは何か。

その正体は、すぐに知れることとなった。

油の入った壺に、火が入れられる。

盛大に、壺から火柱が上がった。壺には既に縄がくくられていて、機械につながっている。

手をかざして見ていたヤトは、思わず愕然とした。

ぐるんと機械が一回転すると、壺がうなりを上げて、此方に飛んできたのである。

「投石機だ!」

蝦夷の誰かが叫ぶ。

ヤトが呆然としている間に、油の壺は炎を撒きながら此方に飛んできて、砦の中に着弾。

爆発するかのように、炎と熱い油をまき散らし、周囲にいた戦士達に致命傷を与えた。消火活動どころでは無い。

更にもう一個、飛んでくる。

今度は砦の中では無く、外壁に炸裂。

ヤトは無言で弓を引き、機械の周囲にいる兵士を射貫く。一人、二人。しかし、射貫く度に、別の兵士が代わりに機械を動かす。

きりがない。

タケルは。

探すが、姿は見えない。これほどの人間の海の中だ。探しようが無いと言うのも事実だろうか。

無言で、ひたすらに矢を放ち続ける。

「ミコ!」

視線を一瞬だけそらす。

頭から血を流した、カルノが立っていた。

「もう駄目だ! 集落が落ちた!」

「……そうか」

彼処にはシシもいたが、もう生きてはいないだろう。

それだけではない。

五百を越える敵が、風振りの谷に向かっているという。既に敵が来たら逃げるようにとは伝えてあるが、これで鉄の供給源も断たれたとみて良い。

まだ、昼にもなっていないのに。

既に、味方は総崩れの様相を見せ始めていた。

圧倒的なまでの、数による暴力。

更に、投石機がうなりを上げて、油壺が叩き込まれる。

砦の中に、また火柱が上がった。

ヤトは無言で、投石機の動きを観察。油の壺を、ぐるんと廻る回転の力を利用して、飛ばしてきていることは理解できた。

それならば。

敵が、また油の壺を、投石機につなぐ。

そして、紐を複数人数で引き始めた、その瞬間。

ヤトは、紐を引いている人間を、速射で三人、立て続けに打ち抜いた。

紐を引く力の均衡が崩れ、油の壺が傾き、その場に盛大に炎と殺戮をぶちまける。投石機とやらが炎上しはじめた。

蝦夷の兵士達が、喝采。

だが、即座に次の投石機が運ばれてくる。

「ミコ! もう駄目だ!」

「仮にそうだとしても、どうするというのか」

「それは……」

「どのみち我らに、アキツの島での居場所など無い。 ならば此処で戦い抜き、敵を可能な限り殺すまでだ」

ヤトは砦の中を一瞥。

目を細めた理由は、誰にも話さない。

カラスたちも、梟たちも、既に別の場所へと避難させてある。これは、巻き込まれないようにするためだ。

敵の戦士達が、アオヘビの集落になだれ込み。内部を完全に制圧したようだ。

更に、投石機が三機同時に姿を見せる。

ヤトを真似て、綱を引いている最中に矢を浴びせる兵士達も出始めていたが。それでも、目だった効果は無い。

次々に、砦に油の壺が叩き込まれる。

油の臭いが、ヤトの所まで届きはじめていた。砦の一部はもう燃えるに任せている状態で、消火どころでは無い。

「矢!」

矢筒が空になったので叫ぶ。

マムシが駆け寄って、矢を持ってきた。流石にまだ戦士になったばかりの此奴を巻き込むのは気の毒か。

おかしな話だが。

人間を内心で嫌い抜いているヤトでも。最初に一人前として名を付けてやったこの少年には、どうしてか情もわくのだった。

「ミコ、これを!」

「お前はけが人を連れて、脱出口から行け」

「そんな、おれはまだ戦える!」

「戦えるからだ。 蝦夷の戦士達には世話になった。 此処で皆殺しにするには忍びない」

実際には、少し違うのだが。

ヤトがそういうと、素直に感動したマムシは、声を上げて泣き始めた。良いから行けと言い捨てると、ヤトは新しい矢を、弓につがえた。

矢を放つ。

敵の下級指揮官を、また一人打ち抜いた。

今度は首をぐさりと刺し貫いた。棒立ちになった下級指揮官が、横倒しになる。ヤトのいる場所に、敵の矢が集中しはじめるが。此処は上、敵は下だ。しかも、明らかに敵の技量は高くない。

矢を放とうとする敵を、優先的に打ち抜く。

ヤトが薄笑いを浮かべているからか、敵の兵士達が逃げ腰になる。速射で、二人を立て続けに仕留めると。敵の兵士達が、わっと逃げるのが分かった。

他は。

凄まじい惨状だ。

蝦夷の兵士達は、既に半分も生き残っていないか。敵が容赦なく撃ち込んでくる油壺の火と熱に焼かれ、矢に貫かれ。辺り中に、屍が転がっている。

そんな中でも、必死に蝦夷の兵士達は、敵に反撃していたが。

蝦夷の司令官は、戦死していた。

どうやら敵の矢を同時に浴びたらしい。体中に矢を生やし、目を見開いて、薄笑いを浮かべたまま死んでいた。眼球に蠅が止まっていたので、追い払う。目を閉じさせてやったのは、気まぐれから来る感傷によるもの。

此奴は無能だったが、最後は戦士として、立派に死ねた。それなら、きっと。此奴が信じる神も、迎え入れてくれただろう。存在しているかどうかなど、それこそどうでも良かった。

弥生はどうしている。

必死にけが人の手当をして、辺りを走り回っているようだ。

気弱だと思ったが。こういった修羅場では、案外気丈か。それとも、ヤトについて走り回っていたから、心が鍛えられたのかも知れない。

いずれにしても、此奴にはまだ仕事がある。此処ではまだ死んでもらっては困る。

爆発音。

さっきまでヤトがいた見張り台に、油壺が直撃したようだった。殆ど一瞬で燃え落ちてしまう。

変なところで、運が良いものだ。

別の見張り台に上がると、其処から速射。数人を射倒すと、敵から恐怖と憎悪の声が上がった。

其処へ、避難させたはずのカラスが一羽、来た。

 

タケルは少し離れた山頂から戦況を見ていた。

既にアオヘビ集落は陥落。中にいた敵は排除。抵抗を止めた戦士は拘束させた。降伏するのなら、殺す必要は無い。

帰農さえすれば、後は他と同じ、朝廷の民だ。

連中が兵を割いていた谷も制圧した。内部には、鉄を加工するための設備らしきものがあったという。

おそらくは、西から逃れてきた、オロチの一族の一部が荷担していたのだろう。というのも、敵の抵抗は無く、既に無人化していたからだ。中に誰がいたのかは、推察するしか無い。

蝦夷にオロチの連中を逃がして、更に抵抗させるためだろう。ヤトという女、やはり戦略的に考える事が出来る。

そのまま、兵士達は、周囲の集落へ攻撃を開始。

クマの集落はまっさきに降伏を表明。他の集落の抵抗も、急速に鎮火しつつあると、タケルは報告を受けていた。

戦いは、勝ちだ。

しかしながら、ヤトと、一部の敵だけが。執拗に、凄まじい抵抗を続けている。

タケルが見ている前で、油壺を投擲し損ねた投石機が炎上した。紐を引いている最中に、兵士が射られたのだ。しかも、三人も立て続けに。

速射でこの精度である。馬鹿馬鹿しいほどだ。

「投石機、二台目を潰されました!」

「ヤトによるものだな……」

前線から、ヤトによる被害がひっきりなしに報告されている。

加速度的に弓矢の腕を上げているようだったが、はっきり言ってもはや人間業では無い。うんざりするほどの被害が出ていた。

他の敵は既に壊滅にまで追い込んでいるが。

このままでは、ヤトだけのために、百人以上が死ぬかも知れない。

勝ちは確定した。

だが、タケルにしてみれば、ヤトをどうにかして捕らえたい。

そして殺してしまわなければならなかった。

これほどのことが出来る女、子供を産ませればどれほどの力を持つ子が出来るかと、一瞬だけ思った事もあったが。

しかし、親から力以上に狂気を受け継ぐことはほぼ確実だろう。

そうなれば、必ず朝廷に対する脅威となる。

最悪なのは、ヤトを取り逃がすことだ。

ただでさえ、奴は地元の民にとって、既に恐怖の象徴と化している。此処で逃がしたり、死体を確認できなかったら。おそらく数百年は、周囲に禍根を残す事になるだろう。

奴は天賦の才の持ち主だが。

それは、憎悪と恐怖をまき散らすことにしか向けられなかった。

上手く制御できれば、圧倒的な破壊力を生み出す存在にもなったのだろうが。しかし、あの女はおそらく、人間社会というものから見れば、敵にしかならない。蝦夷がヤトに目をつけたのは、或いは正解だっただろう。

これほど、存在する地域に災厄をばらまく奴など、タケルには想像できない。

報告が上がってくる。

アオヘビの戦士達の中には、やはり率先して武器を捨てた者もいたという。

それだけ、ヤトは。

味方にさえ、怖れられはじめていた、という事だ。

一つ気になるのは、あれだけ頭が回るヤトが、どうして無謀な抵抗を続けているか、という事だが。

いずれにしても、もう退路は無い筈だ。

如何に蛇神といえど、頑丈な袋に閉じ込めてしまえば、もはや噛むことも締めることも出来ない。

袋に閉じ込めたのだから、時間を掛けて焼き殺していけば良い。

ふと、それに気付いたのは。

タケルが歴戦をくぐり抜けてきたからだろう。

反射的に愛用の太刀を引き抜き、切り払う。周囲からどよめきの声が上がった。両断された矢が、落ちている。

砦から此処まで、かなり距離があるのに。

正確に射撃してきたというのか。

青ざめたチカラヲが、悲鳴に近い声を上げた。怪我を押して、直衛として出てきているのだ。

「タケル将軍、もう少しお下がりください」

「不要。 今のは仮に当たっていても、致命傷とはならなかった」

「しかし」

「今のを見ても分かっただろう。 奴は確かに人間離れはしているが、人間を越えてはいない。 対処は可能だ」

しかも、もはや完全に孤立し、首根っこも押さえている。

砦に籠もる敵も、もう半数を切っているだろう。

そろそろ、突入させる頃合いか。

「もう少し投石機から、油壺を放り込ませろ。 その後、突入を開始する」

「おおっ!」

「常陸の国は、此処さえ押さえ込んでしまえば、全てが片付く!」

タケル自身は、そう思っていなくても。

少なくとも、ヤトを倒すまで、士気を保たなければならない。いずれにしても、最大勢力のクマは制圧したのだ。

もはや、この近辺の土地は、朝廷のものだ。

 

3、燃え落ちる砦

 

見張り台から、降りたのは。撃つ矢が無くなったからだ。

辺りには、いくらでも味方の死体が転がっている。使っていない矢も。敵が使った矢も。既に防壁は穴だらけ、隙間だらけ。矢がびゅんびゅんと飛び込んでくるが、気にしない。勿論、避けられるものは避ける。

矢筒を一杯にして、見張り台に上がろうとして。

また、見張り台が粉砕された。

燃え落ちる見張り台を見て、ヤトは嘆息。

そろそろだろう。

既に仕込みは整っている。

後は、最後の仕上げを、するときだ。

この森を、守る事が出来れば良い。カラスたちや梟たちが、静かに暮らせる場所に出来れば、それでいい。

最近気付いたが。

ツチグモの人間さえ、はっきりいって森には邪魔だ。

顔中煤だらけにして、弥生が走り回っている。額の汗を拭う暇も無い様子だ。

蝦夷の女は随分きれい好きだと思った。臭いも殆どしないし、何というか生物的では無いとさえ、最初感じた。

だが、話している内に、此奴も人間なのだと、理解できた。

だから、これから使わせてもらう。

監視役として来ていたならば、覚悟は出来ているだろう。監視する者は、逆に監視されてもいるのだ。

「弥生」

「夜刀様?」

腕を掴むと、弥生を引き寄せる。

そして、目と目を合わせると。

ヤトの心に潜む狂気を、全力で叩き込んだ。

目には感情が宿ることを、ヤトも知っている。こういう純真な手合いには、強烈な狂気を叩き込むことが、どういう結果を招くかも。

一瞬全身を弛緩させると、弥生の目から光が消えた。

心が粉々に壊れたのだ。

その場に崩れ落ちそうになる弥生を、無理矢理に立たせる。これでいい。弥生の心には、ヤトの狂気が滑り込んだ。

弥生が逃げ延びた先でも。猛威を発揮する今の行為の結果。

その狂気は鎌首をもたげ。森に害為すものを、焼き払い、食い尽くすのだ。

心が粉々になった弥生は、言葉を話すことも出来なくなった。だが、その心は、少しずつ直っていく。

直りながら、狂気により深く侵されていくのだ。

まだ無事な蝦夷の兵士を呼び集める。

「お前達、弥生を連れて先に行け」

「夜刀様! 私達は、貴方とどこまででも参ります!」

思わぬ答えが返ってきた。

簡素な鎧に矢を生やしているもの。顔中煤だらけにしているもの。全身血だらけになっているもの。

皆、もはやまともな格好をしていない。

その原因を作ったヤトから逃げたがっている者ばかりかと思ったのだが。これは、正直意外だ。

アオヘビ集落の者達さえ、大半がヤトから離れていったのに。

「案ずるな。 死ぬつもりは無い」

「しかし……」

「残念だが、あまり大人数では、此処からは行けないのだ。 お前達は、弥生を連れて蝦夷に逃れよ。 私は私で、別行動を取る」

兵士達は納得していない者もいたようだが。

此処は、どうしても説得しなければならない。

「私はヤマトに対する敵となる。 ヤマトをむしばむ、呪いの塊となる。 そのためには、弥生を蝦夷へ送り届けることが、重要なのだ」

「何故、でしょうか」

「今、弥生には、私の意思を注ぎ込んだからだ。 いずれ、弥生は周囲にも、私の意思を分けるようになる。 そうすれば、私が蝦夷に存在するも同じだ」

もっとも、今のヤトが抱える狂気をまともに浴びて、そのまま死んでしまうかも知れないが。

その時はその時。

それに、実際にヤトがしたいのは、ヤマトに抵抗することなどでは無い。もっと大きな、別の事だ。

しかしながら、この兵士達に、真相を告げる気にはなれなかった。

本当のことを言っても、理解できないだろうというのはあった。だが、ヤト自身にも、真実を告げなかった理由は、どうにも理解できなかった。

「行くが良い。 そうだ、これをくれてやろう。 大事にせよ」

腰には何本かツルギをぶら下げている。

鬼では無い予備のツルギを、くれてやる。兵士達は涙を流しながら、まるで宝物のように、それを受け取った。

これが、信仰か。

やはり、信仰は目をくらませる。ミコはその狂気を利用して、多くの荒くれ達を統率してきた。

今、ヤトがやったのも、先人達の積み重ねを利用したものだ。

しかし、どうしてだろう。去る兵士達を見ても、侮蔑を感じはしない。人間を嫌っていることを自覚しはじめているヤトだというのに。これは、どうしてなのだろう。

今は考えている暇が無い。

策は練ってあるとは言え、ギリギリなのだ。

兵士達が脱出口から去るのを見届けると、ヤトは最後の仕上げに取りかかる。

この地に、最大級の狂気と、恐怖をばらまくのだ。

既に準備は整っている。間もなく、ヤマトの兵士達が突入してくるだろう。その隙を使って、成し遂げる。

砦の抵抗は、もう沈黙している。

生き残った兵士は殆どいない。撃ち込まれた矢に射貫かれるか、それとも放り込まれた油壺に焼き尽くされるか。

いずれもが、故郷とは遠く離れた地で、満足して死んでいった。

アオヘビ集落の戦士も、かなりの数が死んでいる。

カルノは。

探して歩き回ると、いた。まだ生きている。

呼吸を整えながら、腹に刺さった矢を掴んでいた。柱にもたれかかるように座っているカルノの顔には、既に死相が濃かった。

「ミコ、か」

「楽にしてやろうか」

「不要。 今、俺は、クロヘビの森の中で、狩をしているんだよ。 ゆっくり、余韻を楽しませろ」

「そうか」

現実逃避ではなく、おそらくもう意識が混濁して、分からなくなっているのだろう。現実と、夢の境が、曖昧になっている。

カルノは、嬉しそうに鹿を見つけたと言った。

震える手を伸ばして、撃とうとしている。もう、腕は片方しかないのに。

仕留めた。

そう、カルノは言った。

もう見えていないだろう目には、歓喜が浮かんでいた。

ヤトはカルノの死にゆく様を横目に、準備しておいたものを出す。

油。

此処に備蓄されていた油の、残りだ。

引火はしていなかった。だが、これから引火させる。

そしてヤト自身は。

砦の中で、一番高い建物の上に、するすると上がった。予定通りの準備は、これで整ったことになる。

砦の中が、全て見渡せる。

まだ、敵は侵入してきていない。

カルノは、既に息絶えていた。満足そうな死に顔だった。

名前を知っている戦士も、殆どが死んだ。アオヘビ集落の方で守りについていた連中は、或いは生き延びたかも知れない。ヤトに不満があった連中は、さっさと武器を捨てただろう。この様子では、クマの集落も、とっくに敵にくだっていると見て良い。

根性が無い連中だと、ヤトは思う。

いずれにしても、全員無事では済まないのだ。積極的にくだったクマのミコを除く他の奴らには、制裁を加えてやる事もあるまい。

既に砦の彼方此方は焼け落ちていて、とても敵の侵入を防げる状態には無い。

策は、かなりの危険を伴うが。

どうせ死ぬのだ。それならば、派手にやって見るのも、悪くは無かった。

敵が突入してくるのが見えた。

さて、やるか。

ヤトはそう呟くと、火打ち石を手に取った。

 

敵の抵抗を、排除した。

報告が来たが、タケルの難しい顔は変わっていない。チカラヲは咳払いすると、進言する。

「敵の制圧を、信じられませんか」

「いや、事実抵抗は止んでいる。 だが、どうもな」

チカラヲが、自分が砦に行こうかと申し出たが、首を横に振るタケル。タケルは、そのまま進軍を開始。

全く油断していないタケルだ。鎧も分厚いし、瞬時に討ち取ることはまず無理だろう。アオヘビの神子が如何に化け物じみはじめているとしても、だ。

結局、戦は一日で終わった。

一部の敵集落は抵抗した。特にイノムシという海沿いの集落は、年老いた神子が先頭に立ち、凄まじい抵抗をした。他の幾つかの集落も、アオヘビに兵を割いていただろうに、恐れる事無く果敢に向かってきた。

だが、数の暴力と、進んだ武器の前には、どうしようもなかった。

先ほど首実検をしたが、真っ先に確認したのは、夜叉のような形相のまま息絶えている、イノムシの神子だった。顔の半分が損傷していて、肉と眼球がむき出しになっているが。別に遺体を損壊してはいないと言う。無数の矢を浴びて死ぬまで、驚くべき事に、このまま戦っていたというのだ。切りおとされても、表情と傷が産み出す迫力はまるで衰えていない。食いついてきそうな顔である。その凄まじい形相を見て、兵士達が青ざめているのが分かった。

凶猛なツチグモの神子らしく、最後まで徹底的に抵抗した。ヤマトにも、これほど勇敢な戦士はそうそうはいないだろうと、チカラヲは思った。敵ながら、尊敬すべき存在だった。

イノムシの制圧自体は、神子がこのような姿になっている事からも分かるとおり、すぐに行えたが。激烈な抵抗で、相応の被害は出たそうだ。

いずれにしても、全ての集落は制圧完了。

常陸に蝦夷が作ろうとしていた防波堤は、未完成のまま朽ち果てることとなった。その筈なのに。

タケルの表情が晴れないと同時に、チカラヲも不安をぬぐい去れなかった。

兵士が来た。

「ご注進!」

「如何したか」

「アオヘビの神子を発見しました! 砦の中にて、一番高い建物の屋根に上がり、此方を見ています!」

「すぐ向かう」

兵士達は、今日一日の戦いだけで、アオヘビの神子に恐怖を叩き込まれてしまったのか。それはそうだろう。あれだけ精密無比な射撃を浴びせられ続け、奴一人だけで百人以上の兵士が討ち取られたと見て良い。指揮官も数人倒されたし、投石機まで二機やられたのだ。本物の化け物。

それに、タケルが指示を出してもいた。

必ず、捕らえよ。もしくは、分かる形で死体を見つけろ、と。

「投降を呼びかけたか」

「は……しかし、無視されております」

「そうか」

タケルが坂に掛かる。馬を進める。

チカラヲもそれについて進みながら、周囲に最大限の警戒をした。怪我をしているとは言っても、いざというときには、タケルの盾になることくらいは出来る。

「お気をつけください」

「分かっている」

砦の外壁は既に崩れていた。兵士達が、周囲の残敵に備えて展開している。

嫌な臭いがした。

人間が焼ける臭い。それに、凄まじい量の血。

激戦が行われた場所で、いつも嗅ぐことになる、戦場の臭いだ。

元々、さほど大きな砦では無い。

すぐに、アオヘビの神子を発見することが出来た。兵士達が分厚く囲んでいる建物。確か、指揮官用の舎の屋根の上。

足場が良くない状況にも関わらず、アオヘビの神子は傲然と立ち尽くしていた。

手に、何か持っている。

弓矢では無い。

藁か、何かだろうか。それに、火打ち石。

もうそれしか武器が無いのか。

激戦の中で、死闘を繰り広げたからか。鬼神もかくやというアオヘビの神子も、流石に無傷とは行かなかったようだ。

原始的な装束の彼方此方に、傷が見て取れる。血がにじんでいる箇所もある様子だ。

それに、あれだけの数を殺したのだ。疲弊もさぞや凄まじかろう。顔は、若干青ざめているようにも見て取れた。

「降伏せよ、ヤト。 既に周辺のツチグモは制圧した。 蝦夷の援軍も壊滅した今、既に手は無いぞ」

「タケルか。 流石にあの遠矢では、射止められぬか。 降伏になど、応じるつもりはない。 どのみち殺すのであろう。 それならば、死に方は自分で選ぶ」

「何なら、この辺りの森を、全て貴様の領土としてやっても良いのだが」

「タケル将軍……!?」

チカラヲの声に、タケルは反応しない。

嘘をついているとは思えない。

だが、このように危険極まる猛獣に、領土など与えたら。絶対にそれを活用して、のど元に食らいつこうとしてくるはずだ。

勿論、考えがあっての事だろう。

「それはどのみち、私の死後に、名誉として与えられる土地であろう。 或いはカミとして祀るつもりか」

「それで満足せぬか、神子よ。 そなた達は、神の代理人たる立場である筈。 神その者となる事は、最大の名誉であろう」

「くだらぬ。 それに、勘違いをしているようだから、言っておく」

アオヘビの神子が、カン、と鋭い音を立てた。

それが火打ち石をする音だと気付いたときには。奴の手元に、炎が点っていた。持っていたのは、小型のたいまつか。

「森は元々、獣たちの領域。 ツチグモでさえ、其処に住むには邪魔だ。 私は、獣たちに受け入れられたが。 本来ツチグモたちは、獣たちから搾取していたという点で、お前達となんら代わりなど無い」

「面白い持論だが、それがどうした。 このアキツの島は、既に事実上我々の収める土地である。 獣も森も、全てヤマトの土地であり、民を養うためのものなのだ。 お前ほどの存在であれば、理解は難しくないはず。 今更そのような論を振りかざすことに、何の意味がある」

「いや、違うな。 この森は……」

たいまつを放り投げるアオヘビの神子。

凄まじい勢いで、舎が燃え上がった。高笑いをしながら、炎の中で、アオヘビの神子は吼え猛る。

「既に人が入ること許されぬ、神域と知れ! 私の憎悪が、この森を呪いの地と化す!」

高笑いが、チカラヲの所まで届く。

兵士達が、悲鳴を上げて下がる。

火の粉を浴びながらも、タケルは顔色一つ変えない。むしろ、何かの合点がいったように、アオヘビの神子を見ていた。

「私は侵略者を許さぬ! この森には、何者たりとて、入る事を認めぬ! 私はこの後、巨大な蛇となり、森の守護をするだろう! 私の姿を見た者は、一族郎党が滅び去ると知れ!」

高笑いの中、舎が崩れ、炎の中にアオヘビの神子が消える。

タケルは動かなかったが。

流石に顔色を変えたのは、次の瞬間だった。

巨大な炎が、舎を突き破るようにして、躍り出たのである。

それはさながら、巨大なる炎の蛇。

うねりながら、鎌首をもたげ、そして此方に対して威嚇の咆哮を上げた。兵士達は、もはや立っていることさえ出来ず、我先に逃げ出す。

「化け物だ!」

「邪悪な蛇神が降臨した! 逃げないと、食い殺されるぞ!」

「森から逃げ出せ! 急げ、急げーっ!」

指揮官達さえもが、森から悲鳴を上げ、こけつまろびつ逃げ出しているのだ。チカラヲは、悲鳴混じりの声を上げていた。

速く逃げましょう。

しかし、タケルは動かない。

見ると、そう言うことだったのかと、呟いていた。

タケルの愛馬も、動かない。上に跨がっている主君を完全に信頼しているからだ。もとより炎や敵に対して怖れない気性を鍛え抜かれている戦用の馬だ。むしろ、チカラヲよりも、馬の方が落ち着いているほどだった。

それでも、火の勢いが凄まじく、タケルも流石に砦から脱出する。チカラヲも、傷を抑えながら、それに続いた。

タケルが、ようやく指示を出したのは。

砦を出て、麓に展開している兵士達の中に出てから、だ。

「兵をまとめ、森から出よ。 捕らえたツチグモの者達も連行した後、村にまで退却する」

「し、しかし、あの化け物は」

「アオヘビの神子は、おそらく何かしらの呪法を使い、自らが神となったのだろう。 奴は宣言していた。 この森は私の領土だと。 これから巨大な蛇となり、この森の中を闊歩するそうだ。 奴を見た者は、一族に至るまで滅ぼし尽くすと、宣言していたよ」

違和感が大きくなる。

タケルが、このようなことをいうのは、何故だ。

神など存在しないと日頃から広言している人物である。チカラヲも、その影響を大きく受けている。

「急いで片付けを行い、撤退だ。 もたついていると、呪い殺されるぞ」

「て、撤退っ! 急げ急げーっ!」

指揮官達さえ。

そう、歴戦で鍛え上げられ、戦場を熟知している筈の、タケルの子飼いの指揮官達さえ、恐怖に震え上がっていた。

チカラヲだって、恐怖を押し殺すのに必死になっているのだ。

他の指揮官達だって、見ただろう。

砦の上で踊り狂う、巨大な蛇の姿は。

すぐに兵士達がまとめられ、撤退をはじめる。降伏したツチグモたちも、荒れ狂う炎の蛇は見たらしい。

森を出て、村に逃げ込む。

後ろから、じっと巨大な蛇の双眸ににらまれているようで、生きた心地がしなかった。恐ろしすぎて、振り返ることさえ出来ない。

もしも、戦場に入る前に食事をしていたら、漏らしていただろう。

それほどの恐怖に、わしづかみにされていた。

アオヘビの神子は、一体何をしたのだ。

本当に、恐怖の限りを尽くした化け物だった。あんなものは、人間では無い。人間であって良いはずが無い。

村にいた民も、蛇の姿は見たそうだ。恐怖に震え上がる彼らに、タケルは指示をした。

「これより、あの森は開墾を禁ずる。 ほこらを建て、ヤトという名の神を鎮める祭を執り行うようにせよ」

「ヤト、にございますか」

「夜刀と字を当てよ。 ……この辺りのツチグモは一掃した。 もはや、怖れるのは、神の怒りだけだ」

タケルも、流石に疲弊している様子だった。

森からの撤退が終わると、もはや戦いは終わったのだと、誰もが悟った。

朝廷の勝利だ。

だが。

本当に、勝ったのだろうか。チカラヲは、不安が全身を包んでいるのを、感じ取っていた。

どうしても不安が募ったので、夜。タケルの所に出向く。

タケル自身は、被害報告を聞いている所だった。死者は三百を少し超えたという。敵の数から考えると、想像を絶する被害だ。

だが、被害率は一割に達していないし、戦略上の課題は達成できた。

報告に来ていた兵が下がると、タケルは酒を飲み始めた。チカラヲが礼をすると、此方に来るよう、タケルは言った。

「恐ろしい相手だな」

「アオヘビの神子にございますか」

「うむ……」

何か言い方に違和感がある。

まだ傷に痛むので、酒は飲めないが。話を聞くことにする。

「普段、神などいないと広言するタケル将軍が、どうしてあのような」

「夜刀の目的が理解できたからだ」

「目的……?」

「一人きりで話しているのをみて、悟ったよ。 それに、今までの、クロヘビ集落の降伏した女達の話も合わせれば、理解はたやすかった」

ぐっとタケルが酒を飲み干す。

チカラヲは、やはり何かがあったのだと、その場で分かった。

「あの女、夜刀はな。 おそらく、人間そのものを、森から全部まとめて排除したかったのだろう」

「え……」

「恐怖を中心とした策は、あくまで戦術か。 いや、それは流石に穿ちすぎだな。 最初の執拗な復讐に関しては、本当だったのだろう。 だがな、おそらく本人も、気付いていったのだ。 本当に自分がしたい事は、森の中でただ生きることだと。 それには、人間が邪魔だったのだろう。 裏切り者を皆殺しにした頃には、おそらくはっきり自覚できていたはずだ」

「人間が邪魔……ですか」

そうだと、タケルは新しい酒を、杯についだ。

目はすでに酔いはじめている。

そうか、それでタケルは。森に入らないように、告げたのか。おそらくタケルは、夜刀を敵手として認めたのだ。それで、その意思を尊重した。

「この辺りには、奴の恐怖と狂気がばらまかれた。 兵士達にもだ。 訓練を根本的にしなおさなければ、使い物にならぬだろう」

「……! まさか」

「蝦夷はそれを見越して援軍を寄越したとみて良いだろうな。 此方の精鋭六千が使い物にならなくなるのなら、五百程度の損害など安いという訳よ」

いずれにしろ、あの森はもはや入る事が出来ぬ魔境だと、タケルは吐き捨てた。

開墾しろと言っても、民は怖れてしないだろう。

夜刀。いや、夜刀の神と呼ばれる邪神の名は、或いは史書にさえ載るかも知れない。それほどの圧倒的恐怖が、森では無い。その周辺に関わる人間の心に、ばらまかれたのだ。奴はそれを計算して実行した。

自分にとって、一番大事なものを、守るためにだ。

だから敬意を表し、タケルは引いたという訳か。それだけのことを成し遂げたものだ。武力に関係無く、正に怪物。

何となく、チカラヲには、タケルの意思が、理解できた。

タケルは最後の酒を杯につぐと、言う。

「奴は死んではおらぬ」

「あの炎の中で、ですか」

「それについては分からぬ。 だが、人々の中に植え付けられた、夜刀の神という恐怖の概念は、ずっと生き続けることとなる。 それはおそらく、小さな集落の指導者などと言うよりも、遙かに強大で邪悪な存在の残し方だ。 我々は、領土争いという点では勝ったが、根本的な意味では、奴に敗れたのかも知れぬな」

実際、あの女が死んだかどうか、確かめる術は無い。

何もかもを置き去りにして、森から逃げたからだ。やがて全てが朽ちて、森の中に飲まれていくだろう。

納得して、チカラヲは下がる。

翌日から、大規模な撤退が始まった。捕らえたツチグモの者達も、あの森は怖れていて、もはや周辺にはいたくないとさえ言っていた。故に、まだ開拓が進んでいない地域へ、振り分けることとする。

兵士達は一度大和近辺にまで戻し、訓練の再徹底が必要だと、タケルは言った。タケル自身も一度戻り、其処で新しく徴兵された部隊を編成し、訓練に当たるという。

東北の地で、蝦夷との戦いは、まだ続いているのだ。

兵力差は倍以上。圧倒的に此方が優位。敵が総力を常に展開して疲弊が酷いのに対し、此方には悠々とする余裕さえある。

武器も差がある。指揮官達の質でも、此方が上回っている。

だが、それでも、タケルの率いる六千が、そのまま合流していれば。一気に敵を蹂躙することが出来ただろう。

アキツの島の統一は、かなり遅れたとみて良い。

数ヶ月ほど傷を癒やした後、チカラヲもこの地を離れることとなった。蝦夷との戦闘が続いている前線にて、新しく編成された部隊の指揮を執る事となったのだ。既に冬は終わり、春が訪れていた。

それなのに。

まだ、恐怖がチカラヲの中で跳ね回っている。

この地を離れる事が出来ると知って、チカラヲはむしろ何処かで安心さえしていた。これ以上の恐怖など、正直考えられない。

早く、この恐怖の地から、離れたかった。

そういえば、あのヤゴはどうしたのだろう。

あの戦い以来、姿を見せていない。タケルに従って、そのまま大和へ去ったのか、或いは。

気付く。

見られている。

馬上で、周囲には護衛の兵士達もいる。熊が出ても、怖れるには至らない。それなのに、何だろう、この恐怖は。

気付く。見ているのはカラスだ。

かなりの数のカラスが、此方をじっと見ている。他の兵士達では無い。チカラヲだけを、だ。

ヤゴが言っていた。

あの女、夜刀は、動物を操ることが出来るかも知れないと。奴が使っていた動物を殺し尽くしたわけではあるまい。

ぞっとして、チカラヲは、急ぐように周囲に指示した。

早く、前線にまで行きたい。

手柄を立てたいからでは無い。この呪われた森を離れたいからだ。

神などいない。それは今でも思っている。

だが、あの女は。

少なくとも、もはや人間では無いように、チカラヲには思えていた。

 

4、蛇は死せず

 

全てが、上手く行ったわけでは無かった。

森の中を歩きながら、ヤトは顔を手の甲でこする。この火傷が、どうしても痛んで仕方が無い。

既に、この森は恐怖で満たされた。

人間はヤトしかいない。

森を歩いているツキノワグマさえ、ヤトを怖れて道を譲る。歴戦の戦士でさえ、一人で立ち向かうのは厳しい相手だったのだが。それでも、今はヤトの方が、力関係で上に立っていた。

冬が終わり、春が来た。

穴の中に蓄えておいた保存食を喰らって体を休めていたヤトは。ようやく、外を出歩けるようになった。

まだ水は、切るように冷たいが。

それでも、体を綺麗にしておいた方が良い。敵に発見される可能性が下がるし、カラスも梟も嫌がるからだ。

川に出ると、裸になって、体を洗った。

火傷が残っているのは、顔だけでは無い。

あの時。

事前に掘らせておいた穴に、逃げ込んだのだ。用意しておいた油が燃え上がる中、ヤトは穴の中を這って進み、事前に作らせた脱出口まで行った。

だが、簡単に、事が進んだわけでは無い。

途中、降ってきた角材に、足を挟まれた。

必死に逃れたときには、顔にも足にも大きな火傷が出来ていた。だが、あまり気にはしていない。

あの場を逃れたのだ。

この程度の傷、どうと言うことも無かった。

体を綺麗に洗い終えると、服を着直す。そういえばこれは、弥生が持ち込んだものであったか。

ヤトが元々着込んでいた服は、あの時に燃え落ちてしまった。

もう着られる状態では無かったから、集落に戻った後、服を探した。敵の死骸も味方の死骸も山積している中、使えそうな服を見つけるまで、随分時間が掛かった。

外では、おそらくヤトに対する恐怖が根付いているだろうが。

その恐怖の主が、半裸で服を探して這い回っていたのだと知れれば、それはそれで面白い事だ。

いずれにしても、ヤトの体も、限界が近かった。

自分の穴に潜り込むと、蓄えておいた燻製肉や、椎の実の粉をそのまま口に入れた。しばらくはひたすら食べて、そのまま眠った。

だが、どうしてか、極めて心地が良かった。

集落から。いや、森から。人間を一人残らず追い出すことに成功したから、かも知れない。

カラスや梟たちから、定時の連絡もさせる。

殺そうと考えているクマのミコについても、居場所は掴んでいた。居場所は、今の時点では掴んでいるだけでいい。

少しずつ体力が回復しはじめるのを待って、動く。

散らばっている腐敗した死体を集めては、貝塚に捨てた。これは臭いで、野犬が集まるのを避けるためだ。

貝塚に野犬が来たら、その場で撃ち殺して、持ち帰って食べる。飼い犬ではないし、殺す事は森のためにもなる。

食物を得るためにも、丁度良い。

一月ほどかけて、死体は全て片付けた。

その間、死体から使えそうな道具類は、全て集めておいた。弓矢は充分な備蓄があるし、鎧も手に入れることが出来た。ただし、鎧は極めて重い。ヤトが着て歩くのは、少し難しい。

荷車を幾つか手に入れたので、移動するときには、それに積んでいけば良いだろう。

孤独は感じていない。

蝮たちは大きくなっていて、既に充分になれさせた。ヤトの言うことは既に確実に聞くようになっている。

これは言葉を理解できるというのでは無く、ヤトが指示した通りに動く事が出来ると言うことだ。

その内、猪や熊も躾けたい所だが。

今は、このままで良い。傷は癒えきっていない。森についても、それは同じだ。

しばらく眠って、目を覚ます。

春になってから、随分と森は生命力を取り戻している。人間がヤトを除いていなくなった事に気付いた鹿が、最初に森に戻ってきた。野ねずみや小鳥も、それと同時期に戻ってきている。

ヤトは既にこの森の主。

しばらく森が再生するのを見守ってから、この土地を離れる。そう、既に決めていた。

 

春を過ぎて、初夏になる。

前と同じように、夜闇を抜けるようにして、人間どもの集落の側にまで来た。がちがちに守りを固めているのは、以前と同じ。気配を消すのは、以前と比較にならないほど上手くなったから、もう犬がいても怖くない。見つからない自信もある。

違うのは、どうやらヤトをかたどったらしい神の社がある事か。

形の無い神や自然物をそのまま崇めていたツチグモと違い、農耕の民は神の象徴である社を作り、其処に信仰を集めると言うことは、弥生に聞いていた。

社とやらは何だか小さな家のようで、中に入れられていたのはこぶし大の石だった。何だかよく分からないが、丁寧に掃除はされているし、大事にされているのは見て取れる。数日間観察したが、畏怖をもってヤマトの者達は接している。

これでいい。

ヤトは祟りを為す邪神として、怖れられている。

あの時の演出は、しっかりと意味を成したという事だ。わざとらしいほどだと自分では思っていたのだが、上手く行っていた。

人間共は、少なくとも数百年は、これで森には入ってこない。それ以降のことは、流石にヤトにもどうにも出来ないだろう。

ツチグモの集落があった場所も、見て廻る。

一番大きかったクマの集落は、人間がいなくなってから、急速に森に飲まれはじめていた。生活の跡はどんどん消えて無くなっている。貝塚に至っては伸び放題の雑草に覆われ、一時期は大量発生した蠅も、殆ど姿が無い。

住居になっていた穴には、狼が巣を作っていた。

ヤトを見ると、狼は控えめに威嚇してくる。ヤト自身も、彼らの生活を侵すつもりはないから、そのままクマの集落跡を後にした。

谷の方はというと、徹底的に破壊され尽くしていた。

オロチの者達は、おそらくは蝦夷にまで逃げ延びただろう。途中、追跡の部隊に捕まらなければ、の話だが。あの状況で、追撃隊が出せたとは思えない。鉄を手入れする道具類は持ち去ったようだが、生活の痕跡は完膚無きまでに破壊され尽くしていた。

イノムシの集落は、例外的に形が残っていた。

海沿いの集落だと言う事もあるだろう。実のところ、中に入るのは死体を片付けたとき以来なのだが。海岸沿いの岸壁に作られた横穴はそのまま残っていて、生活の痕跡も殆ど手つかずのままだった。

戦いの痕跡も、消えていない。

彼方此方に焼け焦げた跡が点々としている。

あの気性が激しいイノムシのミコの事だ。さぞや凄まじい抵抗の末に死んだのだろう。前に死体を片付けたとき、首が無い死体を見つけた。全身がずたずたに切り裂かれていて、激しい戦いの跡が丸ごと残っていた。

此処は、放置しておいても、しばらくそのまま残るだろう。

海が急にせり上がって、全てを飲み込みでもしない限り。

他の集落は、殆ど戦いの痕跡も無い。

戦うにしても一瞬で制圧されたか、或いは降伏したか。いずれにしても、最初から、アオヘビが抜かれたら降伏すると決めていたのだろう集落がそれだけ多かった、ということだ。

一通り確認が出来た。

森の状態が元に戻ったら、去るとしよう。

ヤトは自分の穴に戻ろうとして、足を止めた。人間の気配がある。

向こうは此方に気付いていない。

この気配、覚えがある。

前に、ヤトをつけ回していた奴だ。面白い。どうやら、ヤトの死を確認するために、来たというのだろう。

気配を消しながら、近づく。

数はあまり多くない。数人程度か。

非常に小柄な老人が指揮をしている。砦の中を、調べて廻っている様子だ。全員を瞬時に制圧するのは、少し難しい。

それに、いっそのこと。

ヤトがいないと言うことを、連中が証明してしまえば、さらに動きやすくなるとみて良いだろう。

「やはりそれらしい死体は見当たりません」

「これだけ野深くなっていると、探す事は不可能では。 ましてや、凄まじい炎の中に消えたとなると、骨も残さず焼けた可能性も」

「無駄口を叩くな。 探せ」

指揮官らしい老人の声が、思ったより遙かに若い。

さては、老人のふりをしているだけか。

「半年が過ぎたとは言え、死体の様子があまりにもおかしかった。 殆どの死体や遺留物が貝塚に捨てられていたのを、お前達も見ただろう」

「しかし、どの集落跡にも、生活の痕跡がありませんでしたが」

「それがおかしいというのだ。 ツチグモの残党が生きているのなら、どこかしらで生活しているはず。 そうでないのなら、どうして死体を処理する必要がある。 この森には、何かがいるとみて良いだろう」

「いた、ではないのでしょうか……」

ヤトの住んでいる穴は、巧妙に偽装している。

森で暮らしている人間で無ければ、気付くことは不可能だ。だが、森のためにした事が、徒になったか。

いずれにしても、老人の部下達は、気乗りしていない様子だ。

中には、ヤトの事を、怖れている者もいるようである。

砦の跡地を、執拗に掘り返している連中を見ていると、いい加減苛立ちが募ってきた。元々、ヤトは気が長い方では無い。

弓に、矢をつがえる。

穴掘りに夢中になっている今。

背中はがら空きだ。

 

全員を撃ち殺すと、ヤトは袖に入れていた蝮たちに、傷口を噛ませた。

そして死体を、ヤマトの集落に放り出しておく。

弓で撃ち殺した痕跡は残していない。

以前は、ヤトより強かっただろう。

しかし、あれからも力を付け続けたヤトは、いつの間にか彼らよりも強くなっていた。今なら、以前よりマシに戦える気がするが、試すつもりは無い。

それからは、森に入ってくる人間もいなくなった。

また夏が終わり、秋が過ぎて、冬を越した後。

ヤトは、森を離れた。

これ以上森にいると、何かしら襤褸を出す可能性が出てくる。ヤトだって、いつも何時でも神経を張り詰めているわけではない。

完璧な存在などいない事は、よく理解していた。あのタケルでさえ、戦術指揮には何かしらの穴があったのだ。

ヤトだって、それは同じ。

タケルと戦っているとき、何度も細かい失敗はした。

森を離れてから、最初にすることは。まず、クマのミコを殺しに行くことだ。クマのミコの居場所は、カラスたちが今でもしっかり掴んでいる。導かれるままに、森の中を抜けるようにして、西へ。

西へ行くほど、人間の数が増えているのが分かった。

集落はどんどん規模が大きくなる。

クロヘビの跡地に作られていた集落など、まだ小さいのだと、それを見ていると、よく分かった。

特に海岸近くの平地は、全てが集落になっていると言っても過言では無い。どれだけの森がヤマト、いや農耕民族に喰われたのだろう。

ただ、山沿いには、かなり森が残っている。

ツチグモも、少数生き残っていた。今会ってもあまり意味が無いから、接触はしない。それに、どのツチグモからも、戦闘意欲が感じ取れない。

ヤマトに降伏することで、命脈を保った連中なのだろう。

いずれにしても、用が無い。

影から、いじけたツチグモの集落を幾つか観察したが、同じような結論しか出なかった。

そのまま、森を影のように進む。

大きな山も見た。山の裾には、広大な森が広がっていて、此処で過ごすのもありだろうとヤトは思ったが。

今の時点では、そのつもりは無い。

カラスが指し示しているのは、この少し先。

クマのミコは、随分と遠くまで逃げたものだ。

 

アオヘビの集落を出て、二十日ほどだろうか。

とうとう、目的の場所に着いた。

山間の小さな集落だ。山間ではあっても、水を引いて農耕を行っていることに代わりは無く、周囲の警備も厳重だった。

外から多数のカラスを放って確認するが、元クマの集落の人間が、多数集められているらしい。

というよりも。それを基本として、作られた比較的新しい集落のようだった。

ツチグモだった者達の割には、ヤマトが提供した新しい生活に、随分馴染んでいる。もっとも、これはあのクロヘビを裏切った女達と同じか。ただし、元ツチグモの人間だけで、集落が構成されているわけでは無い。

監視役として、多数の戦士がいる事も、ヤトは確認していた。

犬も見張りに多数いる。

だが、犬を手なずけるのは、さほど難しくも無い。訓練が浅い犬の場合、エサを与えると簡単になつく。

三日ほど、集落の周囲を確認して回る。

そして、警備の穴は、掴んだ。

夜に忍び込む。すっかり研ぎ澄まされたヤトの前では、平和ボケした警備の戦士など、子供も同然。

わざわざ殺して廻ることも無かった。

カラスたちにも、梟たちにも聞いている。目的の相手が、集落の奥にある比較的大きな家に住んでいることは。

其処まで辿り着く事は、難しくも無かった。

中を覗き込む。

明かりがついていた。家の一つ一つに、たき火がある事は、以前に学習して知っていたが、何とも贅沢なことだ。

思わず呻いた。

クマのミコは、寝込んだまま、身動き一つしていない。

周囲には、クマのミコと親しかった数人のハハ達が、これからどうしようかと、青い顔を揃えていた。

もう面倒くさくなったので、ヤトは家の入り口から、そのまま乗り込む。

まるで化け物でも見たように、ハハ達は目を見張った。

「お前は……! アオヘビの!」

「復讐のために、地獄から来た。 だが、これはどういうことだ」

「む、無体なことはしないでおくれ」

女の一人が、悲しそうに顔を伏せた。

そのまま、聞いてもいないのに、話し始める。

「元々ミコさまは、重い病気を患っていたのだ。 我々、ごく少数の人間しかしらぬことだったが」

「何……!」

それでか。

合点がいった。

おそらく、ヤマトとの戦端が開かれたのは、クマのミコの指図だろうとは思っていた。理由は幾つか推察していたが、それでもどうしても納得がいかない部分があったのだ。

クマのミコは、おそらく生きている内に、決着を付けたかったのだろう。

ヤマトに降伏するか、独立したまま生きていけるか、見極めたかった。

そのために、勝負を焦ったのだ。

化け物のようなこの女も、死には勝てなかった。

「この集落に来てから、体調を崩されてな。 それでも、皆の生活が安定するまではと、気力だけで生きておられたが」

「何名かのハハが子を産むのを見届けてから、亡くなられたのじゃ」

「……そうか」

何というか。殺す気も失せた。

というよりも、これ以上この女を、どうこうするつもりはなくなった。

「それより、どうして此処が」

「私は祟り神だ。 どこへでも、どこからでも現れる」

「ひ……!」

もとより、蝦夷から得られた衣服を着ている今のヤトを、彼女らがまともな存在として認識できる訳が無い。

その上、顔にある火傷は、すごみを増す手助けをしている。

水面に映して知ったのだが、火傷の形はそのまま蛇のようで、ヤトを現すかのようなのだ。偶然とは言え、痛みも無くなった今は、むしろ都合が良い跡だ。

「今日は、その死体に免じて許してやるが。 私の姿を見たことを、誰かに話したら、その時は一族もろとも滅ぼす。 覚悟しておくのだな」

闇に溶けるようにして、ヤトはその場を後にした。

結局の所、クマのミコは逃げ切ったのだ。もう死んだ者を、これ以上殺す事は出来ないし、何より。ヤトとしても、その死については、思うところもあった。

森の中に戻ると、ヤトは木に背中を預けて、嘆息する。

これで、目的がまた一つ消えてしまった。

だが、もう一つ、大きな目的が、まだ残っている。

それは、ヤマトそのものに対する、復讐だ。

 

眷属とも言えるカラスや梟たちを連れて、ヤトはそのまま更に西へ西へと進んだ。太陽と影を見ながら、方角を特定して、ただひたすら森の中を行く。

少しずつ、空気が暖かくなっていくのが分かる。

それに伴って、動物がわずかずつだが、小型化していくのも、見て取れた。特に熊はそれが顕著で、四十日も歩いた頃には、もはや人間を殺す能力はない大きさのものばかり見かけるようになっていた。

そろそろか、とヤトは判断。

実際問題、周囲は恐ろしく山深くなっていた。一方で、とてつもなく巨大な集落も、時々見かけるようになっていた。

おそらくこの辺りが、ヤマトの中枢部だろう。

非常に山深い場所がある一方で、桁外れに広い平野も広がっている。平野には多くの人間が住んでいて、これまた予想も出来なかったほどの大きな集落が存在していた。山の中には路が作られて、通行のためだけに木が切り倒されているようだ。

集落の造りも、まるで違っている。

直線の路が多数走っていて、家も随分違う。丸い家が多かったクロヘビ跡地の集落とは違い、何というか四角いのだ。

山の上から手をかざして見ていると、その違いが分かった。

これならば、あの常識外れの数を動員できるのも、納得だ。蝦夷の都がどれほどの規模かは分からないが、勝てる筈が無いとも思う。

そして、それが故に。

ヤトは含み笑いしていた。

この巨大な集落を、炎にいずれ包んでやる。

住んでいる人間を、根こそぎ皆殺しにしてやるのだ。

もはやヤトの心は、人間という領域を、完全に外れてしまっている。だが、それが故に。強烈な目的意識が燃え上がり、その力の源泉となっていた。

殺す。

殺し尽くす。

ヤトは宣言すると、まずは根城となるこの辺りの森を完全に掌握するべく、動き始めたのだった。

 

(続)