遠きシダの森

 

序、森の王

 

今日も、森を行く。

圧倒的な体格。絶対的な防御能力。少なくとも、自分を害することが出来る者は。そう多くはない。

だから、ゆっくり、確実に進んでいく。

縄張りを見回った後は、食事だ。

たくさん生えているシダ植物を貪る。食べるのは、植物だけ。肉など食べなくても、大きくなることが出来る。

たくさん生えている足。

頑強な装甲。

奇襲を受けても、ほぼ危険はない。ただ、攻撃に対しては、激烈に反撃することで、侮られないようにしていた。

満腹するまでシダ植物を食べると、住処に戻る。

別に急ぐ必要もない。明確な天敵などいない。

此処は、楽園なのだ。

私、アースロプレウラにとっては。

 

篠崎田奈は、ベッドから飛び起きた。

夢はとても気持ちが良いのに。目が覚めてしまうと、全身に悪寒が走る。夢の内容は、いつも同じ。

自分が巨大なヤスデになって、シダが生い茂る森で、我が物顔に闊歩することだ。其処では、王様のように振る舞っているのに。

今此処にいる田奈は、貧弱で臆病な子供に過ぎなかった。

中学二年になっても引っ込み思案は治らず、虫が出るときゃあきゃあ騒いで逃げ回ることしか出来ない。

男子となんて、怖くて話せない。

自分にも、自信は一切持てずにいた。

ピンクのパジャマは汗ぐっしょり。悪夢で汗だらけになったのではない。起きてから、恐怖で真っ青になった後に掻いた汗だ。

生唾を飲み込む。

あんな恐ろしいヤスデ、見た事もない。

最近ネットで見たアースロプレウラという、三億年も前のヤスデが、アレによく似ていたかも知れない。

体長が三メートルにもなると聞いて、失神しそうになった。

あんな恐ろしい生き物が目の前に現れたら、腰を抜かして身動きできなくなってしまうだろう。

涙が止まらない。

怖くて怖くて、ベッドの上でしばらく身を震わせていた。

どうして、あんな夢ばかり見るのだろう。ヤスデなんて怖くて仕方が無いのに。嫌いなのではない。

虫はみんな、怖いのだ。

足が一杯ある。

人間とは体の構造が違っている。

ヤスデは厳密には虫ではないけれど。足はもっと一杯あるし、もっと怖い。考えるだけで、涙が止まらなくなる。

幼い頃は特に病弱だった上に、虫のことは見るのも恐怖だった。触られたら泣き出してしまったし、死骸なんて見ようものならその場で回れ右だった。不思議と、嫌ではなかったのに。

とにかく、怖くて仕方が無かったのだ。

「タナー! 起きて来なさい!」

朝食が出来たのだろう。親が呼んでいる。

父は新聞記者。

母は非営利団体事務員。

いずれにしても、まともな環境で出会った二人ではないだろう。父は新聞記者と言えば聞こえは良いが、実際には三流ゴシップ紙で、宇宙人がどうの何処の湖に恐竜がどうのと大まじめに書いている雑誌だ。いつも汚い格好でガムを噛んでいる印象しかない。母だって、多分ろくでもない団体の所属者なのだろう。どういう場所で働いているかは、物心ついてからは何となくわかってきた。

周囲の人達は、不思議がる。

どうしてこんなろくでなしから、田奈のようなおとなしい子が産まれたのか。

幼い頃はそう言われると悲しかった。

子供は親を憎めるようには出来ていないからだ。

しかし中学にもなってくると、親が異常だという事は、嫌でもわかってくる。どうしてこの親達の影響を受けなかったのか。

田奈には、よく分からなかった。

それに、父は最近、田奈をいやらしい目で見るようにもなってきていた。

噂なのだけれど。

父と田奈は、血がつながっていないという。だからといって、育ての親が、娘にそんな感情を抱くなんて、どういうことなのだろう。

若い頃は相応に綺麗だったらしいけれど、すっかりパーマをかけたおばさんファッションになった母が、それでも朝食を用意してくれていた。

やる気の欠片もない料理だが。

実のところ、休日などは、田奈が自分で料理を作っている。母は料理を何十年も作っているはずなのに、全然美味しくない。これは、進歩しようという気が無いからだろう。田奈は真面目にレシピを見て、黙々と料理を作る。最近はクッキーを焼いていくと、級友達が喜んでくれるようになっていた。

「さっさと喰いな」

「はい」

母が田奈に暴力を振るうことは珍しくない。

具体的には、小学校の上級生くらいから、頻度が上がってきた。父が田奈のことを、いやらしい目で見るようになり始めた頃と、丁度タイミングが一致していると、愚かにも最近やっと気付いた。

逆らえば暴力を振るわれる。

母は多分、普段から悪い意味での修羅場に慣れっこなのだろう。拳骨はとても痛くて、逆らう事なんて思いも寄らなかった。

「あんたさ、金持ちの男とか、引っかけないの?」

出汁が全く効いていない上、生煮えの味噌汁を口に入れていると、母がそんな事をいう。さっきの夢以上に、おぞましい。

実の娘を風俗に売り飛ばして稼がせる親がいるとは聞いていた。

最近では風俗まがいな写真雑誌専門のチャイドルに子供をして、恥じることさえない親もいるとか。

自分に、そんな悪夢が降りかかるなんて。

今はまだ中学生だから良いけれど。

高校にはこの様子では行けるかわからないし。行った所で、風俗に放り込まれたりしたら、どうなるかわからない。

怖い。

ただ、ひたすらに悲しい。

「見かけは良いんだし、その辺の繁華街歩いてたら、男くらい釣れるだろ。 もうかったら、うちにも金を入れるんだよ」

真っ青になって固まる田奈に、母は鼻を鳴らす。

汚物でも見るように。

「なんでこんなよわっちいのが生まれたんだろうね。 あたしが中二の頃にはもう男からむしることを覚えてたのにね」

さっさと学校にいきな。

そう言われて、居場所のない所から、田奈は追い出された。

 

学校では、田奈は多少ほっと出来る。

何故か田奈は昔からもてる。特定の彼氏が出来た事はないのだけれど、男子も女子も、田奈をどうしてか庇ってくれる事が多いのだ。それには感謝はしているのだけれど。理由はよく分からない。

仲が良い友達も何人かいる。

ただ、家のことを話せる相手がいないのは、今も昔も、同じだった。

親は当然田奈に小遣いなんて殆どくれない。他の子らが、グッズ集めをしていたりしているのを見ると、羨ましくてならないけれど。他の子をうらやんでまで、欲しいと思ったグッズはない。

強いていうならば、シダ植物が好き。

シダ植物をかたどったマスコットやグッズがあれば欲しいと思うけれど。そんなものは、探しても見つからなかった。

携帯さえ、最低限の機能しかついていないものしか渡されていない。

これは田奈を心配しての事ではなくて。

単に親が金を掛けたがっていない事が、明白だった。

父にしても仕事先で浮気三昧なのだ。

母も自分の化粧品に金を回して、田奈にはお金なんて渡す筈がない。だが、そんな親のことを誰かに言っても。事態が悪くなる未来しか、思い浮かばなかった。

授業が終わって、移動教室から戻ってくると。

机の中に、ラブレターが入っていた。

困り果てて、眉を八の字にしていると。友達の一人である朝比奈良美が、ひょいと手紙を取り上げる。

裕福な家の子らしい良美は、猫のグッズが大好きらしく、いつも何かしらを身につけていた。

「お、またラブレター?」

「やめてよ、良美。 もらっても、困るだけだよ」

「相変わらずだねー」

「もう、返して」

捨てるのではなくて、丁寧にお断りの返事を書くのだ。

そうする方が、相手に失礼では無くて済む。ただ、今時そんな事をする人は、殆どいないとも聞いている。

最近はメールアドレスなどにラブレターを送る例の方が多いようだけれど。

田奈の場合は、そもそもメールアドレスを持っていないので、そうも行かないのだ。

おかしな話で、普通だったら貧乏だとか言われるのがオチだろうに。田奈の場合は清貧とか言われて、男子に好かれているらしい。

本当に、よく分からない話だった。

ラブレターを開いてみる。

高校生からもらった事さえあるけれど。誰だろうと関係無い。おつきあいなど、する余裕は無いからだ。

だが、中身を見ると、少し予想とは違っていた。

「え……」

中には、アースロプレウラと書かれている。

その名前を、何故知っているのだろう。いや、ネットでも名前が広がっているくらい有名な生物だ。知っている人も、いてもおかしくはない。

でも、どうして田奈への手紙に、そんな事が書かれている。

しかも、手紙の文面はそれだけなのだ。

「アース、何?」

「……」

手紙をくしゃりと握りつぶしてしまう。

あんな恐ろしい生き物の名を、どうして書いてくるのだろう。毎晩夢に見て、酷い目に遭っているのに。

それだけじゃない。

想像するだけで、泣き出すほど、怖いのに。

「ちょっと、田奈! 大丈夫?」

周りの女子も、真っ青になっている田奈に気付いたらしく、寄って来る。

平気と、言えなかった。

良美が、変な手紙をもらったらしいと、周囲に説明してくれた。気が遠くなりそうで、何も喋ることが出来ない。

怖い。

周囲の光景が歪むような気分の中。

田奈は、気分が悪くなって、机に突っ伏していた。

午後の授業は、休む。

保健室を貸してもらって、其処のベッドで眠ることにした。小学校の頃はもっと体が弱くて、保健室の常連だったのだけれど。

今は、其処まで保健室に入り浸っている訳では無い。ただ、両親は、小学校の頃から、良い顔をしなかった。

金を出してやっているのに。

良い成績でもとって、男でも引っかけてこい。

それが母の台詞。

父はそもそも、田奈を小学校の高学年の頃からは、獲物でも見るような目でしか見ていない。

怖くて、部屋に鍵を掛けている。

そうしないと、本当に入ってこられかねないからだ。幸い、父は家にいることが少ないけれど。

家に二人っきりでいる時なんて、生きた心地がしない。

保健室の先生は、黒髪の美しい女性で、眼鏡がとても似合う。いわゆる和風美人という奴だ。

既に結婚はしているらしく、手には指輪。

ただ、まだ子供がいるという話は聞いていない。

「微熱があるなあ。 少し休んでいなさい」

温度計を見ると、保健室の先生は。

さらりと。

あまりにも、普通のことのように言った。

「というとでも思ったか。 アースロプレウラは、どうしてこのような所に来たのかな」

背筋が凍るかと思った。

微熱どころじゃない。

まさか。この人が、あのラブレターを出してきたのだろうか。

震え上がる田奈を見て、鼻を鳴らす保健室の先生。彼女は綺麗だからこそ、悪魔的な笑みを浮かべると、とても恐ろしい。

「私じゃないさ」

「……い、いや……!」

「私じゃないと言っている。 そもそもお前みたいな弱っちいのが、どうしてイジメにも遭わず、学校で孤立もしていないと思っている」

雷に打たれたかと思った。

それは、ずっと疑問に思っていた。

これは漫画の世界の事ではないのだ。庇護意欲を誘う人間なんて、現実ではちやほやされることはない。

異性には好かれるかも知れないが、少なくとも同性には嫌われる。

しかも、田奈の場合。コミュニケーションが上手なわけでもないのだ。女子のコミュニティの恐ろしさは、田奈だってよく知っている。

女子校は、よくある漫画みたいな、優しい空間じゃない。

あれは地獄絵図。

魔境だ。

実情を何度か見た事がある田奈は、絶対に女子校なんて行きたいとは思わない。

共学でも、女子のコミュニティの恐ろしさは変わらない。

確かに、其処から田奈がはじき出されないのは、不思議だとは思っていたのだ。

「学校に、近代側の勢力が入り込んできていてな。 お前の取り合いが、恐らくは始まる」

何を言っているのか、よく理解できない。

しかし、先を見越したのか。保健室の先生は、今は理解しなくても良いと言うのだった。

はっきり分かったことがある。

田奈は非日常に、既に足を踏み入れてしまった。

そして戻る事は出来ない。

ケダモノ同然の父親と、悪い意味での屑な母親。元々家庭は地獄も同然だったのだけれど。

それでも、日常がどれだけ貴重だったのか。

今更に、田奈は思い知らされていた。

「わ、私を、どうする……つもり、なんですか」

「お前には、一時期森の王者だった存在が眠っている。 その実力は圧倒的だ。 時代の覇者となった存在が覚醒すると、能力でも展開できる力でも、他を圧倒する場合が多い」

「そ、そんな」

「まずは覚醒してもらう」

先生が取り出したのは、何かの薬剤。

保健室に何人か入ってきた。その中には、見覚えがある人間も、いた。

良美もいる。

「た、助けて……」

「なーに、苦しいのは一瞬よ」

他ならぬ良美が。にやにやしながら、そんな事をいう。

元々、どうして友達なのか、よく分からない子だったけれど。こういう態度を見せられると、絶望を覚えてしまう。

左右から押さえつけられる。

悲鳴を上げようとしたが、口を押さえられた。涙が零れてくる。

「うーん、いいわねえ。 その表情、嗜虐心をそそるわ」

もがくが、元々力も弱い田奈だ。どうにもならない。

そして、口に薬を押し込まれて。

無理やり飲まされるまでは、そう時間は掛からなかった。

周りは誰もそれを咎めない。

友人だと思っていた人達でさえ。

「これで、覚醒する。 後どうするかは、貴方次第よ」

保健室の先生は。蠱惑的な笑みを浮かべて、そう田奈にささやきかけた。おなかの中で、何かがくるくると廻っている気がする。

意識が、途切れて。

最後に覚えていたのは。結局自分は、何のために生まれて、生きてきたのだろうという、思いだった。

 

1、眠り姫争奪戦

 

ある公立高校に潜入しろ。

その指示を受けたとき、面倒くさいとは思ったけれど。しかし、眠り姫の争奪と聞くと、心も躍る。

無花果久能は、嬉々として学校に入り込む。

周りは、誰も不審者である筈の久能には、気付かない。制服など着ていない。身長だって、中学生には高すぎる。着込んでいるのは、動きやすくするためのジャージだ。

眠り姫の名前は、篠崎田奈。

写真を見る限り、久能好みの大変可愛らしい女子だ。というよりも、何というか、小動物っぽい。

この子の中に。かって最大のヤスデとして森を闊歩した、アースロプレウラが眠っているらしいと聞くと、それはそれで面白い。

かって、神々と呼ばれる存在が、世界にはいた。

その正体は。

いにしえの時代、地球に存在した、世界の覇者達を体と心に宿した者達。

恐竜もその一つ。

現在では、この古代生物能力者は、かっての神々ほどの力はないけれど。社会に紛れて、普通の人間では出来ない仕事を、それぞれのやり方でこなしている。政府とつるんでいる者も、そうで無い者もいる。

派閥は主に二つに分かれる。

一つは近代型。

大体現在から二億年くらい前までに生息した、古代生物たちを宿した者達。久能は此方に所属している。

もう一つは古代型。

二億年以上前に生息した、古代生物たちの化身だ。

今回ターゲットの中にいるのは、三億年ほど前にいた超巨大ヤスデ、アースロプレウラ。鎧のような装甲で身を纏った、三メートルを超える巨大ヤスデだ。天敵も特におらず、草食の強みを生かして、森を我が物顔に闊歩していたのだろう。

確かに派閥は別れているが、実際には抗争しているわけではない。多少の小競り合いはあるが、普通の人間達が中東やらでやらかしているような、血で血を洗う殺し合いとは無縁だ。

ただ、仲間は少しでも増やしておきたいのである。

携帯が鳴る。

周囲は誰も久能を見ない。

古代生物を体に宿している者達は、特殊な力を使えることが多い。久能も今、それを使っている。

周囲は、久能と、触っているものを、認識できない。

音もしかり。

「おう、陽菜乃っちか。 今、潜入したとこじゃけん。 あー、問題ない問題ない、ターゲット確認したら、一旦かけ直すわ」

電話を切ると、嘆息。

最近、頭角を伸ばしてきた新人からの電話だ。中身が何しろあのティランノサウルスという事もあって、皆も注目している。

能力が覚醒したのはついこの間だが、非常に強力で、これ以上もないほどに戦闘向きだ。さすがはティランノサウルスというところか。

ただし、性格はごく平和的で、荒事もこのまない。ただ、いざとなったときの判断力も決断力も備わりつつあるようで、リーダーが是非今後は副官にと考えているようだった。この間、敵対派閥である古代型のリーダーであるエンドセラスが、一気に近代型の主要メンバーを引き抜いていった。その影響もあるのだろう。

エンドセラスは発展途上国のテロ組織と噛んでいるという噂もあり、幾つかの国を実効支配しているとさえ言われる。本気でこの世の覇権を狙っているとさえ言われている、筋金入りの恐ろしい相手だ。本人も相当な武闘派らしく、対抗している近代型のグループは、いつもその動向に一喜一憂していた。

今回も潜入任務のプロである久能を出すべきだと主張したのは、陽菜乃だった。

公立の学校と言うこともあって、男子も女子もいる。

比較的新しい学校だから、廊下も綺麗だけれど。ただ、やはり近年の学校らしく、生徒数はさほど多くないようだ。

それに、これは。

たくさんいる。

おそらく、古代型達だ。一人や二人ではない。しかも、相当な大物も、控えているとみた。

命がけの任務、などというものは存在しない。

少なくとも現在、古代生物能力者達は、小競り合いをする程度だ。たまにもう少し大きな事件も起きるけれど、全面戦争なんて話は聞いたことがない。

ただ、古代型のリーダーエンドセラスがおっそろしい女で、世界規模の陰謀にかかわっているという話は知っていても。

それでも、久能は今まで仕事をしてきて、其処まで危ない目にはあっていなかった。

目標のクラスに到着。

うつむいている気弱そうな女子が、ターゲットの篠崎だ。抜群に可愛い子だが、両親が揃って屑である事は既に把握している。片方は三流紙の新聞記者で、何度か犯罪歴がある。もう片方は、ある宗教団体の「非営利団体事務員」。こっちも筋金入りの屑である。

しかしながら、篠崎を見ていても、そういった屑の子だとは思えない。

むしろ、早く独立させてやりたいと思ってしまう。

何かしらの庇護意識を刺激させるオーラでも、全身から出しているのかも知れない。いや、まて。

これはひょっとして。

既に、能力を使用している、という事なのだろうか。

「見つけたわ、陽菜乃っち。 モデルかアイドルかってくらい、べらぼうに可愛い子やのう。 よだれもんや。 周りに能力者が一人。 学校内に、更に二人。 ああ、めっさ厳重じゃ」

これは、さっさと出る方が良いだろう。

あまり大げさな事件は起きていないと言っても、此処は相当な場所だ。それだけ、古代型の能力者が、篠崎田奈に期待している、という事だろう。

篠崎は。

見てみると、意志薄弱そうな子だ。

何というか、自分の意思が脆くて、周りが怖くて仕方が無い様子だ。それはとても弱々しくて、押すだけで折れそう。

普段だったら、しゃきっとせいとか、怒号を張り上げたくなる女なのに。

どうしてか、怒りが湧いてこない。

小首をかしげながら、写真を一枚。勿論、周りの誰も気付かない。ただ、攻撃行動に入ると、この気配を消す力は消えてしまうので、案外使い所が難しい。それに、意図しない誰かに触ってしまっても、それは同じ。

だからいつの間にか、人混みで相手を避けて歩くスキルばかりが発達してしまった。

勿論トラップの類を避けられる能力でもないから、監視カメラにも写り込んでしまう。使えそうで、使えない能力なのである。

一旦学校を出る。

そして、出たところで、能力を解除。

嘆息しながら、携帯を開いた。

「で、どーすんの? あの様子だと、篠崎ちゃん、古代型にガチガチにマークされとるし、味方に引き込むのは難しいでえ。 あー、そーかそーか。 わーったわ」

一度、撤退するように指示があった。

まあ、考えて見れば。一人相手の派閥が増えたくらいで、どうと言うことは無い。それほど激しい争いが行われている訳でもないのだ。

それに古き時代には。

派閥なんてなくて、能力者はそれぞれ結託して、世界を動かしていたとも言われている。あまり気にする事はないだろう。

無言でポケットに手を突っ込んで、さっさと引き上げる。

今日はここまでだ。

どうせこれは、望み薄だろう。早めにひっ捕まえておけば、少しは状況が変わったかも知れないけれど。

未成年を相手に、無茶も出来ない。

小さくあくびをすると、自宅へ戻ることにする。どのみち、仕事でもないのだ。それぞれが相互助力で成り立っている関係。

かっての神々は。

今では、そこまで緩い存在に落ちていた。

 

翌日。

何名かの増援を出すと、朝から陽菜乃の電話を受けた。

また学校へ行くのかとうんざりしたけれど。久能は、指示を聞いて、驚く。

「あの子を拉致れ!? 本気かいな」

電話の向こうで、陽菜乃は言う。

状況から確認するに、おそらく篠崎は、まだ覚醒していないか、その途中だ。そして、基本的に古代型も近代型も、覚醒後でなければ仲間扱いしない。

このままでは、放って置いても、相手は古代型になる。

それならば、一か八か。せめて、能力者がどういう存在かを、此方が教えておけば。判断する事を、篠崎に任せられるかも知れない。

「しっかしなあ。 あのおっかないおばさんが激怒するんやないか? あれが本気でキレたら、全面戦争になるんじゃないか」

その心配は無用と、即答される。

陽菜乃はどうやら、あの恐ろしい古代型の首領、エンドセラスと直接話までして来たらしいのだ。

とんでもない行動力に、舌を巻かされる。

それによると、古代型の一部派閥が、篠崎を私物化しようとしている傾向があると言う。つまり、エンドセラスに不満を持つ一派の行動、という事なのだろう。

エンドセラスは体長十メートルにもなった、四億年前の海における覇者。

古代型のリーダーとして、申し分のない実力を持つ、圧倒的な海の怪物だった存在である。

その言う事であれば、或いは。

チャイムが鳴る。

来たのは、なんと陽菜乃自身と。それに知らない奴が二人。ガムを噛んでいる生意気そうな男の子と、分別がついていそうなお爺さん。

動きやすいスパッツをはいた陽菜乃は、この間近代型の会合で顔を見たときより、更に背が伸びたか。

百七十センチ近い長身の女で、高校生らしい初々しい若さに満ちている。髪はポニーテールにまとめていて、充分に顔立ちは整っているが。高校生らしい若さよりも、目には戦闘をくぐり抜けた者が持つ闇が宿りはじめていた。

表情も笑顔を作っているが、その裏には確実な戦士としての強さがある。

「はい、幸田君、初めてのおじさんの挨拶して」

「まだワシは24じゃけん」

「おじさん、よろしく」

にやりと、性格が悪そうな笑みを浮かべる子供。陽菜乃自身は、最近めきめきとたくましくなってきている。前から何というか、大器の片鱗はあったのだけれど。今は健康的な美貌がそれに合わさって、ベテランであるユタラプトルが副官にと望むだけのカリスマを見せるようになっていた。

お爺さんは、正体が分からない。

最近入った奴だろうか。

軽く挨拶をした後、作戦会議に入る。

学校の図は、昨日のうちに入手しておいた。あまり難しい図ではないから、覚えるのも容易だ。

だが、陽菜乃はいらないという。

「仕掛けるとしたら、外で」

「わかったけどな、大丈夫なんか? 警察沙汰になると、色々面倒やで」

「まだ覚醒していないなら、一瞬で気絶させる。 その後は、久能さんの能力を使って、姿を消す」

それに、だ。

あの家庭環境なら、娘が帰ってこなくても、気にもしないだろう。

可愛いい娘なのに。

親がどうしてあんななのだろう。久能としては、気の毒でならない。久能はこれでも男だから、可愛い女の子は好きだし、優しくしてあげたいとも思うのだ。こんな能力が眠っている時点で、未来は真っ暗なのだけれど。それでも、少しはましに生きさせてあげたい。

問題は、覚醒が始まっている場合。

「中途な覚醒でも、身体能力はぐっと上昇するものなの。 ましてや、この子の場合は、時代を代表した森の王者の一角よ」

「あんたの場合もそうだったっけか」

「ええ」

噂によると、陽菜乃は経験が浅い現在でさえ、仲間内の中では最強の武闘派。単純な戦闘能力だったら、誰よりも上だとか。

まあ、中身がティランノサウルスだとすれば、それも当然だろう。

アースロプレウラは既に調べを付けているけれど。

確かあれは、分厚い装甲で森を闊歩した、三メートルに達する巨大なヤスデ。明確な天敵は存在しないだろうほどに、強力な戦闘力を有する生物だったはず。そうなると、何かしらの守りの能力を、身につけるかも知れない。

いずれにしても、完全覚醒されたら、生半可な能力者ではどうにもならないだろう。

エンドセラスに反発する古代型の連中が、派閥に取り込みたがるわけである。

「問題は他にもあるよ」

「護衛がいる場合だよな」

「ええ」

そこでと、陽菜乃が周辺地図を広げる。

襲撃を仕掛けやすい場所を割り出すためだ。

問題は、久能と似たタイプの能力を持つ相手が、他にいる場合。エンドセラスの主要派閥による攻撃を警戒していれば、確実に篠崎の周囲に貼り付けているだろう。

ただ、この能力は、決して燃費が良くない。

久能の場合は、維持しても三時間程度。

他の奴も、ベテランでも精々その倍が良い所だろう。

「それにしてもだなあ」

「危ない橋を渡ってる?」

「そうや。 こんな危ない橋を渡って、しくじったらコトやで」

「しくじらなくても、いずれ大変なことになる」

陽菜乃は、さっさと出かける準備を始める。

此奴も戦闘力がぐんぐん上がっているようだし、気配を消すことくらいは容易か。それにしても、何か起きるというのか。

「エンドセラスは、権力を得ることを狙ってる。 元々この国の権力は、能力者を古くから利用してきているけれど、それでも限定的だった。 彼女は、おそらくこの国を、乗っ取ることを狙ってる」

「それなら、なんでアースロプレウラを放置するんや」

「それがわからない。 幾つか仮説は立てているけど、どの手を打ってくるか、まだ見えてこないんだよね」

だから、動けるときに動く。

そう陽菜乃は言うのだ。

何だか気が進まない。

久能にしてみても、仕事をしていないというわけではないのだ。しかしながら、能力者同士の小競り合いが今後苛烈になって行くと、いずれは命の危険が生じることもあるだろう。

そういったときには、備えておきたい。

久能は以前、何度か、一瞬で日常が崩壊する恐怖を見ている。

だから、陽菜乃が言う事を、笑い飛ばせない。

「で、その子と爺さんはどうするんや」

「幸田君はいざというときの保険。 原島さんは荒事になった時の盾」

「爺さんを盾にするんか」

「この人はベテラン中のベテランで、多分私より強いよ」

笑おうとして失敗する。

でも、こんな爺さん、いただろうか。原島という名前にも、聞き覚えがない。

とにかく、全員で出る。

久能は今の時点では、能力を展開しない。まずは何日か篠崎の登校と下校に張り付いて、状況を確認しなければならないが。それにしても、能力を展開し続けるのは、消耗が大きいのだ。

陽菜乃は周りを見てから、ひょいと民家の屋根に上がる。

顎が外れそうになった。

ちなみにスパッツをはいてきているので、嬉しい光景は見られなかった。

そのまま、ぴょんぴょんと跳んで行ってしまう。連絡は、携帯を使って行うという事なのだろう。

「ねーねー、おじさん」

「お兄さんやボケ。 で、なんや」

「この篠崎って人、見つけたよ」

言い返そうとして、子供が指さす先を見ると。

いきなりいた。

数人の生徒と一緒に、登校している。どういうことか。今はまだ、登校するには早いはずだが。

調べてはいるが、篠崎は確か、部活動の類はしていないはず。

そうなると。

周りを囲んでいるのは、ほぼ間違いなく。古代型の連中で、反エンドセラスのグループだろう。

これは、まずい。

登校下校の最中に狙うという手が使えなくなった。

にやにやと此方を見ている子供。

爺さんは、いつの間にか、いなくなっていた。

 

2、崩壊していく日常

 

田奈が家に帰ると、露骨に母親の態度が変わっていた。此方に対して、怯えるような目を見せている。

「お、おかえり。 学校は、どうだった?」

「うん……」

「疲れてるだろ? 風呂湧かしておいたよ。 あと、ご飯も作っておいた」

思わず、えっと聞き返しそうになった。

このぐうたらで、金のことしか考えていないような母親が。田奈を使って稼ぐことを、本気でもくろんでいるような屑母が。

どういう風の吹き回しだろうか。

あの薬を飲まされてから、何だか少しだけ、周りが怖くなくなっている。薬を飲まされたときは、この世の終わりが来たように、怖かったのに。

とにかく、お風呂に入らせてもらう。

食事も、いつもよりはましなものが出た。食事中、必死にこびを売ろうとしている母が、ずっと目を左右に泳がせていたのは、どうしてか滑稽だった。

部屋に入る。

ベットに突っ伏して、ぼんやりと今日のことを思い出した。

朝、いきなり良美が数人の女の子と一緒に、迎えに来た。何となく、わかった。保健室に来ていた人が混じっていたからだ。

それで、囲まれるようにして学校に。

良美はいつもと変わらないように見えたけれど。

しかし、違う。

何となく、わかるのだ。良美はそれこそ、大事なブランドのバッグでも守るかのように、田奈と接していた。

あれは、友達に対する接し方ではない。

母のそれに近い。

金づるだから、母はあれでも、相応に田奈を大事にしていたようだ。良美は、どうして田奈を大事にしているのだろう。ベッドで、ぎゅっと身を縮める。今日もまたあの怖い夢を見るのかと思うと、眠くならないで欲しいとさえ思う。

今時、田奈の部屋にはパソコンさえない。

携帯でさえ、老人が持つような最低限の機能しかないものが渡されているのだから、当然だろう。

いきなり、チャイムが鳴った。

母がいるから大丈夫だろうと思っていたら、外から声がする。

「たなー!」

良美だ。

起き出して、玄関まで出ると。宅配業者みたいな人が何人か来ていた。母を一瞥すると、良美は言う。

「田奈って、まだパソコンもないんでしょ? 今から設置するよ。 部屋いい?」

「え……? ど、どうして」

「そんなの、連絡取りやすくするために決まってるでしょ。 ああ、回線工事も、こっちでやっておくから」

母は黙り込んだまま。

良美に逆らうことが出来ない様子だ。

あの非営利団体事務員とは名ばかりで、ろくでもない仕事ばかりしているだろう母を、これだけ黙らせるなんて。

一体何が周りに起きているのだろう。

あれよあれよといううちに、デスクにパソコンが設置される。ノートではなくて、デスクトップのしっかりした奴だ。

業者が帰った後、良美が色々と教えてくれる。

「電気代とかは気にしなくて良いからねー」

「え、でもうちって、貧乏……」

「なわけないでしょ? あの婆、あんたに金を掛けてないだけだから。 殆どの金を自分の食い物やアクセサリやらに使ってるだけ。 場合によってはネグレクトかもね。 まあ、もう中学のあんたを相手に、ネグレクトもないか」

けらけらと笑うと、良美が一通りのことを教えてくれた。

ログインパスワードもセット。

メモ紙は、手放さないようにと言われた。

「後、携帯も買い換えようか」

「そ、そんなお金、どこから出ているの?」

「わたし達のグループはね、政府からのお仕事も請け負ってるの。 保健室の先生なんて、時々この国に潜り込んでくるイスラムの過激派を処理したりしてる本物の殺し屋だよ」

ぞくりと、背中に悪寒が走る。

何となく、良美が所属しているグループがやばいことはわかっていたけれど。ひょっとして自分は、本当に危険な橋の上を、気付かずに歩いていたのではあるまいか。

「よ、良美も?」

「わたしはどっちかっていうと、荒事じゃなくてサイバー関係かな。 ちなみに私の中にいるのはね、筆石って存在だけど」

聞いたこともない。

丁度良いと言って、良美が検索エンジンを使って、見せてくれた。

古き時代に存在した、小さな生命体。

あまり強そうには見えなかったけれど。繁栄した種の一つであったらしい。保健室の先生はと言うと、ダンクルオステウスという魚の力を宿しているそうだ。これも見せてもらったが、とんでも無く恐ろしいお魚で、悲鳴を上げそうになった。

「保健室の先生が、リーダーなの?」

「リーダーは校長だけど、実働部隊を仕切ってるのは保健室の先生かな。 あの人、怖いから逆らっちゃ駄目だよ」

「うん……」

そんな事をいわれても。

既に、みんな怖い。だけれど、以前と違って、しみこむような恐怖感がないのも事実なのだ。

どうしてか、怖いと客観的に判断できる、そんな感じなのである。

一通り作業が終わると、良美は帰って行った。

パソコンを少し触ってみる。学校の授業で、ざっとやり方は教わっているけれど。あまり慣れていないから、随分ミスもしたけれど。

どうしてだろう。

すぐに、やり方が体にしみこんでくる。

どう動かせば、何が出来るのか。

触っていると、見る間に理解していくのだ。真綿が水を吸い込むようにと言う言葉があると言うけれど。

田奈は、目に見えた形で、しかも自分が。その当事者になるとは、思ってもみなかった。

良美がするようにと言っていたことを、一通り試してみる。

メールソフトの起動。

早速良美から連絡が来ていた。朝起きたら、一報を寄越せとか書いてある。悲しいけれど、逆らうのはあまり良くないような気がする。

検索エンジンも使って見る。

いろいろなものがわかった。でも、今はあまり、使う事が無さそうだ。

作業を一通り済ませたところで、ログオフ。

パソコンが落ちると、どうしてこんなに安心するのだろう。

ベッドに潜り込んで、寝る。

やっぱりあのヤスデの夢を見るのだろうかと思うと、憂鬱極まりなかったけれど。それでも、眠らないと、心身がもちそうになかった。

疲れが溜まっているからか、体は正直で。

目をつぶると、すぐに眠りに落ちてしまうのだった。

 

やはり、夢を見る。

森を我が物顔で闊歩する夢。食べるのはシダ植物。たくさんたくさん生えていて、食べても食べても生えてくる。

空気がとても濃い。

だから、過ごしやすかった。

頑強な装甲を揺らしながら、縄張りを見て廻る。複眼に映り込む光景は、それこそ楽園。

脅かすものは誰もいない。

無意味に蹂躙する意味もない。

ただ縄張りを見て廻り、シダ植物を適当に食べて、体を維持していけばいい。

縄張りの監視が終わると、寝床に戻る。

これだけの繰り返しだけれど。とても充実した毎日だった。

そう、だった、のだ。

何となく、わかってきている。

この時代は、間もなく終わる。無敵の世界は、もう間もなく、幕を閉じると言う事を。

同胞が減ってきている。

それだけではない。何となく、息苦しくなってきている。時々、食べると体がおかしくなるシダ植物も、生えるようになってきていた。

世界から、排除されつつある。それを、自分は。敏感に感じ取っていた。

しかし、それでも悔いはない。

この世界を。この時代を。生きたことに、変わりはないのだから。

 

目が覚める。

以前ほど、怖くなかった。どうしてだろう。色々言われて、自分の中にあれがいると、何となくわかってきていても。

それが、直接的な恐怖には、結びつかなくなっている。

あの薬の影響だろうか。

わからないけれど。

ただ、以前のように、夢を思い出しただけで泣き出すというようなことは、なくなっていた。

目覚ましが、遅れてなり出す。

自分で起きたらしい。以前は、絶対にあり得ない事だったのだけれど。

パソコンを付けて、良美にメールを出すと、起き出す。慌てて母が起き出してきた。

「あ、朝ご飯は、作るよ、だから」

「どうしたの、そんなに慌てて」

「いいから、いいから!」

血相を変えている母親。

どうしてなのだろう。よく分からないけれど、作ってくれるというのなら、任せるのが一番だろう。

部屋に戻ると、使い慣れないパソコンを少しずつ触っていく。

そういえば。

一番偉くて怖い人というのも聞いた。エンドセラス、だったか。

検索して調べて見ると。とてつもなく怖い生物が出てきた。体長十メートルで、しかも海の支配者だった存在。

見るからに怖くて、パニックホラーで人間を襲ってむしゃむしゃ食べそうな雰囲気だ。こんな怖い生物が、この世界に実在していたのか。

こんな力を持っているのは、どんな人なのだろう。

震えが来た。

以前のように涙までは出てこないけれど、素直に怖いと思う。そして、あらゆる状況証拠が。

もう、田奈はこの世界にかかわっていて。

帰る事は出来ない、という事だ。

朝食が出来たらしく、母親が呼んでいる。

食べていると、母親がしきりにこびを売ってきた。何か食べたいものはあるかとか、服を買ってやろうかとか。

それもまた悲しい。

この人は。何があったか知らないけれど。これほどの非日常に娘が追い込まれて。なおかつ、多分自分が恫喝されなければ。

娘に、良くしようと、一度も思わなかったのかと。

 

朝、良美が迎えに来た。

取り巻きらしい数人と一緒に、だ。中には、一度も話した事さえないクラスメイトも混じっている。

彼らも、仲間なのだろうか。

おそるおそる聞いてみるが、良美は鼻で笑う。

「これは人間の盾」

「……!」

「操ってるのが私の仲間。 あんまり能力持ってる人っていなくてね。 まあ、死んでも代わりはいくらでもいるから」

さらりと良美が言うので、心底から悲しくなる。

自分が巻き込まれている世界は、本当に恐ろしい場所なのだと、わかってしまうから。

携帯を渡される。

今まで使っていた、最低限の機能しかないものとは、完全に別物だ。

「ただ、これトレース機能がついていて、閲覧履歴とかは全部筒抜けだから、気をつけてね。 えっちなアイドルのサイトとか見たら、全部他に知られちゃうから」

「そんなの、見ません……」

「大丈夫ー?たなー。 純情もほどほどにしないと、婚期遅れるよ」

抗議するような視線を向けるけれど。良美は気にもしていないようだった。

ふと、光が目に入る。

一瞬だけ視線をそらすと。何かが、視界の影に入ったような気がした。何だろう。

それにしても、これでは学校へ、軟禁されに行くようなものだ。

「あ、そうそう。 わかってると思うけど。 あんたが周りに良くされてたのは、みんなうちらの派閥の仕組んだことだから」

良美が、にこにこと笑みを浮かべたままいう。

どんどん、踏み込んで欲しくないところに、土足で言葉をぶちまけてくる。

「ラブレター時々来てたのもそう。 貴方みたいな脆いの、夢見せてあげないと壊れちゃうからね。 ちなみに返事はうちらのグループで見て笑ってた。 あんな見え見えのに、真面目に返事なんかしちゃって、どんだけアホなんだってね」

友達なんて。

一瞬で、崩れるとはわかっていた。でも。

「他は気付いていなかったみたいだけど、あの決定打になったラブレターも私が書かせたんだよ。 そこのに」

良美が後ろ手で指したのは、側を歩いている、目に光がない男。

むっつりと黙り込んでいて、生きているかさえもわからない。

「あんたの覚醒状況が見たかったんだよねえ。 結局あんたを半覚醒させた事で、ご褒美もらっちゃった。 あのパソコンはお裾分け。 早く覚醒して、ゴミクズ共を一緒にいたぶろうね。 あんたも覚醒したら、今度は私達の側に回れる。 場合によっては、人間なんて殺し放題だよ」

嗚呼。

嘆きが漏れる。

その場で、泣きたくなる。

学校に着くと、いきなり別の場所に連れて行かれる。

それどころか。

教室のクラスメイト達は、それを見て、何も思わないようだった。やはり、自分がいる場所が、もう平常ではないことを、思い知らされる。

悲しくて、怖くて。

それでも、以前のように、涙が出ることは無かった。

連れて行かれた先は、体育館。

いきなり脱ぐように言われた。

「身体計測よ」

保健の先生が言う。口調は、この間より柔らかいけれど、雰囲気は相変わらず怖いままだ。

絶望しか、もう感じない。逆らっても、どうにかなるとは思えなかった。幸い、他に生徒はいない。

脱ぐと、体重から身長まで、徹底的に調べ上げられる。

「いい加減な食生活なのに、よくこれだけ綺麗になるわね。 遺伝が当てにならないことは知っているけれど、大したものだわ」

田奈の体をなで回しながら、保健の先生が言う。

怖いと言うよりも、悲しくて。声も出せなかった。

ようやく服を着せてもらったのは、一時間も後。下着姿のままそれだけの時間いたと思うと、あまりにも酷いとしか言いようが無い。

その後は、体力測定。

握力を量ってみて、驚いた。

「88キロ!?」

しかも左手で、である。

だが、保健室の先生は、驚く様子も無かった。

「まだ覚醒状態が不十分じゃないようね。 貴方は一時期天敵もいないような存在だったのだから、能力は極めて強力だろうし、覚醒によって上がる身体能力は桁外れの筈よ」

「で、でも前は、20キロ代で」

「私の見立てだと、最低でも300は越えるでしょうね」

そんな。

それではまるで、ゴリラか何かではないか。

垂直跳びをやらされて、愕然とした。

バスケットボールをすれば、ダンクが出来るくらい跳んでいる。バレーなら、ブロックも余裕だ。

100メートルを走らされる。

特にフォームを知っている訳でもないのに、11秒が出た。確か女子のオリンピックアスリートでも、この程度の筈。

つまり、オリンピック選手並みの力が、体からあふれかえっている、という事だ。

頭がくらくらする。

これはその内、意識的に力加減をしないと、ドアノブを引きちぎったり、ドアを割り砕いたりしてしまう可能性も高い。

元々運動は得意な方では無かったのに。

「しかも貴方の場合、多分特殊能力主体の可能性が高いから、きっと戦闘での実力は、この身体能力なんておまけにもならない程度の筈よ」

「……っ」

「どうしたの? もう貴方を害することが出来る人間なんて滅多にいない。 成長すれば銃火器を浴びても平気なようになるのよ。 嬉しくないのかしら」

「せ、先生は」

しばらく、言うべき言葉を探したけれど。

見つからない。

「まあ覚悟はおいおい決めていけばいいわ。 ただ、覚えておきなさい。 力を使って暴れるのは、楽しいわよ」

 

それから、視聴覚室に移動。

ビデオを見せられた。

どうやら政府の組織が、撮影したものらしい。先生が戦っている。相手は怖そうな銃を装備したテロリスト。しかもたくさん。それに対して先生は素手。しかも、白衣である。

場所は海の上。船上。

きっと、日本に海上から不法入国しようとしたテロリスト達を、先生が迎撃した、という状況なのだろう。

乱射される銃弾を左右にステップしてかわしながら、距離を零に。

先生が指先で軽く弾くだけで。テロリストの頭が、もげる。飛び散る。

一人。

二人。

三人目が死ぬと、テロリスト達は悟ったようだ。

自分達が、とんでもない怪物を相手にしていると。

喚きながら、テロリストが、手榴弾を投げた。味方ごと殺す気だ。

だが先生が軽く空へ蹴り挙げると、中空で花火になって爆発する。あまりにも早すぎて、ぶれて見えるほどだ。

漫画なんかで、残像を作って動くキャラクターが出てくるけれど。

ノンフィクションで、それを実行してしまうなんて。

とおりすぎながら、手榴弾を投げたテロリストの首を引きちぎる先生。脊髄ごと引き抜かれた首を放り捨てながら、次の敵を無造作に殺す。

血の海の中、先生は残っているテロリスト達を、容赦なく殺していく。一人も余さず殺し尽くすと、手を振って血を落とした。

そこからが、さらなる凄惨さを帯びていた。

片足をあげる先生。

踏み下ろす。

船の構造体に、致命的な打撃が入るのが、映像でもはっきりわかった。船が真ん中からへし折れて、砕け沈みはじめる。

其処で映像が終わった。

証拠の隠滅まで果たしたからだろう。日本に入り込んで好き勝手をしようとしたテロリスト達は、己の目的を果たすどころか、誰にも知られぬまま、蟹さんやお魚さんのご飯になったのだ。

「私達も、無敵ではないけれど。 戦闘タイプがその気になれば、この通りよ」

にこにこと、先生は田奈を覗き込んでいる。

どうだ。

楽しいだろう。

そう言っているのが、目に映り込んでいた。

「政府の仕事もするようになれば、気に入らない相手は八つ裂きにするくらいの権利も貰えるの。 貴方もいるでしょう?」

「そ、そんな人は」

「嘘は良くないわねえ。 お小遣いも禄にくれないで、そればかりか貴方を風俗に売り払う気満々で」

「や、やめてください」

その通りだ。

田奈の両親は屑だ。

性欲のはけ口にしようとしていた育ての父。風俗に売り飛ばして儲けようとしていた生みの母。

でも、田奈は。

それでも親だと思っているのだ。

親なのに、愛情をくれなかったから悲しいのだ。優しくしてくれれば良いと思っていたのだ。

殺してやりたいなんて。思った事はない。

両手で顔を覆う田奈を見て、嘆息する保健の先生。

「じゃあ、もっと能力を覚醒させましょう。 恐怖については耐性もついてきたみたいだしねえ」

「何を、するつもりなんですか」

「入ってきなさい、貴方たち」

視聴覚室に。

無表情な、男子が何人か入ってくる。しかも彼らは、下半身を露出していた。背筋が凍りそうになる。

「この子を好きなようにして良いわよ」

保健室の先生が指さしたのは、田奈だった。

思わず立ち上がる田奈。

後ずさるが、すぐに後ろは壁だ。

まるでゾンビ映画のように、よだれを垂れ流しながら、迫ってくる男子生徒達。しかも、その丸出しの下半身を、恥じる様子も無い。

これは、きっとあの、登校時に良美が連れてきている人達と同じだ。

操られている。

「荒療治でごめんねえ。 だけれど、純情に振る舞いすぎるのも、苛立ちを加速するものなのよ?」

「い、いやっ! いやあっ!」

「泣いても叫んでも誰も助けてくれないわよ。 こいつらに好き勝手にされたくなければ、どうすればいいかは、わかってるわね?」

先頭の、屈強な体つきをした男子が、つかみかかってくる。

悲鳴を上げながら、振り払うと。

いとも簡単に吹っ飛んだ男子は、もう一人を巻き込んで、壁にぶつかった。

ぐちゃりと。

とても嫌な音がした。

潰れてはいない。だけれど、骨が折れたのは確実のようだ。こんなに、力がついてきていたのか。

しかし、ゾンビ男子達は、無言のまま進んでくる。

必死に走って逃げようとするけれど。入り口には先生が立ちふさがった。あのテロリスト達を殺戮した身体能力を見ても、付け焼き刃の田奈がどうにか出来る相手ではない。

また、追い詰められて、つかみかかられる。

悲鳴を上げながら、押す。それだけで、教室の端から端まで飛んでいく男子。べきりとか、ぐしゃりとか、嫌な音。掴まれたところを払っただけで。相手の腕が、複雑骨折したのは感じ取れた。

そんな。酷い。

自分の振るった暴力のあまりの凄惨さ、もたらした結果に、田奈はそれだけで悲しくて泣きそうになる。

その有様を見ても、男子生徒達は怯まない。迫ってくる。

退路はないから、振り払うしかない。

すぐに、勝負とも言えない、悲惨な出来事は終わった。

男子達は全員白目を剥いている。

ただ押したり、振り払ったりしただけ。

へたり込んでいる田奈は。悲しくて、涙が零れるのを、止められなかった。嗚咽を零しながら涙を拭う田奈に、上から先生が、心底から嬉しそうな声を掛けてくる。本当にこの人は、暴力が好きなのだとわかった。

「楽しいでしょう? 力を振るうのは」

「楽しくなんて、ありません!」

「おかしいわね。 草食動物だから、かしら。 私なんて、こんな感じで与えられた生け贄を、八つ裂きにした後美味しく食べたんだけど。 性的な意味じゃなくてね」

人肉は、とても美味しいのよ。生だと特に。

先生が言っている。

だけどその言葉は、右から左へと流れていった。何が美味しいのか。全く聞き取ることが出来なかった。

ただはっきりしているのは。

この先生が、完全に、狂っているという事だ。

力に飲まれているのだろうか。或いは、体の中にいるという、古代の生き物の本能が強く出ているのだろうか。

この人は、かって海で最強を誇ったお魚の転生だとすると。

それは、あり得る話だった。

先生が指を鳴らすと、生徒達が入ってくる。そして、伸びている男子生徒達を、引きずり出していった。

だらしなく下半身を晒している男子達が連れて行かれると、保健室の先生は言う。

「草食だから人肉を食べたくないのだとすると、そうねえ。 アースロプレウラが好物だとしていた、シダが良いかしら」

「や、やめて」

「甘えるのもいい加減にしなさいよ」

いきなり胸ぐらを掴まれると、頬を張られた。

頭がしびれるかと思うほど、強烈なビンタだった。しかも一度や二度ではない。何度も、である。

悲鳴を上げることも出来ない。

床に投げつけられる。このままだと、殺されるかも知れない。

先生が手を叩く。

「適当に何人か山に行って、シダを取ってきて」

逃げなきゃ。

でも、体が竦んで、動いてくれない。

後ろから首筋を掴まれて、床に押しつけられる。先生は完全に、己の力と、暴力に酔っているようだった。

「すぐに餌をあげますからね。 目をいい加減に覚まさないと、八つ裂きよ?」

嗚呼。

嘆いても、助けに来てくれる人なんて、いる筈もない。

見ると、良美がドアの影から、此方を見ている。

その目が嗜虐に歪んでいるのを見て、田奈は絶望しか覚えなかった。

すぐに、大量のシダが教室に運び込まれてきた。

「食べなさい」

先生の声には、遠慮も呵責も無かった。

 

何度びんたされたかわからない。

本当だったら、首が千切れるほどの強烈な奴だったのに。田奈の首は、まだついている。それどころか。

気付いてみると、痛みも殆ど無かった。

引きずられるようにして、校長室に。校長先生は、品が良さそうなお爺さんだったのに。保健の先生の凶行を見ても、何とも思わないようだった。

床に投げ出される。

そのまま、頭を踏まれた。もがくが、離してくれない。

「駄目ですね、これ。 エンドセラスの所に引き取られる前に、処分しますか?」

「平塚君、君は相変わらず凶暴だねえ」

「貴方だけに言われたくありませんよ、パキディスクス・セッペンラデンシス」

「その名前を出すのは、此処でだけだよ。 能力が知られることにもなりかねないからね」

ばちりと、空気に火花が散った気がした。

保健の先生は、平塚という名前だったのか。ぼんやりとした頭で、それを感じる。だけれども、もう気力が尽き果てていた。

無理矢理に口に突っ込まれたシダの青臭さで、おかしくなりそうだ。

しかも、それで美味しそうと感じていた自分にも、強烈な歪みを覚えてしまっていた。違和感が本能まで狂わせて、立って歩くのも困難な有様である。

「いっそこれ、食べても良いですか? 処女の肉って、最高の珍味なんですけど」

「駄目だよ。 そんなに食べたいなら、政府の仕事をしたときにしなさい。 最近じゃ女の子を洗脳して、兵士に仕立てる過激派もいるんだろう?」

「まあそういうのに運良く遭遇したときは食べてますけど、日本には中々来ないんですよねえ。 それにやっぱり良いもの食べてるから、日本人の方が美味しいですし」

「とにかく駄目。 そいつは、私達の派閥が力を持つための切り札なんだから」

舌打ちが聞こえた。

この場で殺されるのは、避けたらしい。

良美が入ってきて、校長先生に何か耳打ちする。

無言で携帯を取り出すと、校長先生は、なにやら話し始めた。恐縮しているところから言って、上役だろう。

舌打ちした校長先生が、此方をにらむ。

「まずいな。 エンドセラスが、介入してきた」

「思ったよりも早かったですね」

「君がやり過ぎたのだ。 そいつに傷を付けるなと言っている。 このままだと、能力だけ覚醒したところで、持って行かれるぞ」

「……いっそ、事故を装って、此処で殺しましょうか」

ぎりぎりと、私を踏む力を強くしてくる保健の先生。

死を覚悟する。

その時、男の子の事も頭に浮かんでこない。好きな男の子も、出来なかった。初恋も、した事がなかったのだ。

勿論男性経験もない。

母親があんなだから、余計にその反発を、無意識にしていたから、なのだろう。

不意に、頭にかかる圧力が消えた。

大きな音。

顔を上げると、壁にめり込んでいる誰か。もがいている後ろ姿は、保健の先生だ。上半身から壁に突っ込んで、向こう側にまで抜けたらしい。人間だったら、トマトみたいに潰れていただろう。

「あら、頑丈。 装甲魚なダンクルオステウスなだけのことはあるね」

「誰だ!」

「見てられないので、飛び込みました。 いくら何でも、虐待が過ぎるんじゃないんですか?」

側に立っているのは。

スパッツにスポーツシャツという活動的なスタイルの、田奈より少し年上の女性。高校生くらいだろうか。田奈とは真逆の、健康的で、活発そうで。太陽みたいな雰囲気だ。ポニーテールに結んでいる髪が、より活動的な空気を作っている。おしゃれよりも、動きやすくするために髪を束ねているのがわかるからだ。

良美は。

校長室の入り口で、完全に伸びている。

威圧的な雰囲気のまま、校長が立ち上がる。

その表情は、既に朝礼などの時に見せていた、温厚な老人のものではない。凶暴な本性を、むき出しにしていた。

「古代型のアジトに強襲をかけてくるとは、全面戦争も辞さぬと言うのか、ティランノサウルス!」

「これ、あんたたちのボスに許可もらってるんですけど」

「何っ!」

「大事なホープに過激すぎる教育を施してるって教えてあげたら、すぐに正式な攻撃の依頼を出してきましたよ」

ぎりぎりと、歯を噛む校長。

腰を落としたお姉さんが、田奈に語りかけてくる。

「大丈夫、動ける?」

「体中、いたくて……」

「つらかったね。 でも、もう大丈夫だよ」

凄まじい雄叫びとともに、壁に突き刺さっていた平塚先生が、体を引っこ抜く。

頭から血を流しているけれど。コンクリの壁に突き刺さってその程度で済んでいるという事が。この人が正真正銘の化け物だと言う事を、証明していた。

「奇襲とは味な真似を! でも、私と校長先生を相手に、どうにかなると思っているのかしらあ、ティランノサウルス! あんたの噂は聞いているけど、覚醒したばかりで実戦経験もそれほどないはず! ベテランの戦闘タイプ二人を相手に、勝てるとでも思っているのかしら!?」

「勝てるわよ。 でも、この子を守らなきゃ行けないから、戦いは後ね。 久能さん!」

部屋に、何かが放り込まれる。

同時に、抱え上げられて、外に飛び出すのがわかった。閃光が、校長室で炸裂する。

「閃光手榴弾よ」

廊下の窓を開けると。

ティランノサウルスと呼ばれていた女の人は。四階から、躊躇なく飛び降りていた。

 

3、覚醒

 

毛布をかぶせられて。温かいココアをもらった。

やっと人心地がついた。ティランノサウルスと呼ばれていた女の人は、陽菜乃と名乗った。高校生らしい。

長身で大人っぽい体つきで、とても健康そうで。

田奈とは何もかも逆だ。

意思も強そうでしっかりしていそうで、とても羨ましい。他には不機嫌そうな長身の男の人と、男の子とおじいちゃん。ココアは男の子が入れてくれた。

陽菜乃さんは、誰かと電話で話しているようだった。ただ、あまり楽しそうにはしていない。

周りの人達も、緊張している様子が見て取れた。

「話ついたよ。 エンドセラスは、介入してこない」

「ほっか。 じゃあ、全面戦争だけは避けられるんやな」

「そうなるね。 ただ、あの学校にいた連中は、多分これから総力を挙げて奪回に来るだろうけど」

「そうやろうな。 一戦交えるのは避けられんやろな」

ため息をつく関西弁の男の人。久能さんと呼ばれている。

お爺さんは寡黙で、ずっと外を見ている。何かに備えているのだろうか。むしろいそいそと世話をしてくれるのは、男の子だった。

「陽菜乃さんがさつだから、何もしてあげなくてごめんね」

「こーらー! 何言ってるの、幸田君!」

「だって、本当じゃないですか」

「このマセガキが」

ぐりぐりと幸田君の頭を拳でやる陽菜乃さんだけれど。きちんと手加減はしているようで、むしろ雰囲気は温かい。

ただ、話を聞く限り。

これから、あまり平和的ではない出来事が起こることは、間違いが無さそうだ。

「貴方の中に、アースロプレウラがいるってのは、間違いが無さそうだね」

「わかりません。 でも、変なお薬を飲まされてから、体がとても強くなったのは、本当みたいです」

「体に異変はないの? 人を食べたいとか、草を食べたいとか」

首を横に振る。

シダを口に突っ込まれたときも、美味しいとか、食べたいとか、感じたけれど。まだ人の心が強くて、はき出してしまった。

陽菜乃さんが、また何処かに電話をはじめる。

しばらく難しい顔で話していたけれど。お爺さんが、咳払いしたので。電話を中断した。

「来ましたよ」

「おっと、意外に早かったね。 幸田君は、田奈ちゃんを守って。 久能さんは、私の支援をよろしく」

「おいおい、戦闘タイプ二人を相手に、どうにか出来るのか? あんたも戦闘タイプらしいけど、覚醒して時間もそれほど経ってないんだろ!?」

「これでも私は暴君竜だから。 まあ、それでも、二人をまともに相手にするのは、ちょっと厳しいかな」

田奈は震えている事しか出来ない。

それが、ただ悲しい。

おじいさんは、いつの間にかいなくなっていた。

陽菜乃さんは、久能さんと一緒に、部屋を出て行く。その時になって、やっと自分がアパートの一室にいるらしいと、気付いたのだった。

 

エンドセラスの支援がない事を知ったからだろう。

おそらく敵は、全戦力を一気に動員してきたようだ。学校にいた生徒全員が、ゾンビのように此方に向けて歩いて来るのがわかる。

「なあ、陽菜乃っち。 この戦いに、どういう意味があるんや」

「可愛い女の子を魔の手から守るってだけでは不満?」

「そうやなくて」

「エンドセラスとの関係は、今後どんどん混乱を増していくってわかる? 元々我々は古代型に比べて組織が小規模だし、何よりしっかりした構造もないの。 だからこそに、私みたいに、エンドセラスと直接コネがあって、近代型に属している人間を増やすことに、意味がある」

あの子も、そうしたい。

古代型との争いは、元々仲間内のもめ事のようなものだ。

今、各地で好き勝手をして、幾つかの国を制圧さえしているらしいエンドセラスだけれど。

抱えている能力者が何千人もいるわけではないことはわかっている。精々数十人の部下を、効率よく運用しているから、これだけ好き勝手に暴れられるのだ。

逆に言えば。

その組織力は、エンドセラスとの交渉次第では崩せる。

むしろ、人による迫害を避けるために。エンドセラスの行動戦略を方向転換させれば、それで事態は好転するはず。

それだけ説明すると。

久能は頭を抱えた。

「そんな難しい事考えとったんか。 人は見かけによらんわ」

「私もいつまでも脳筋じゃいられないからね」

これだけの異常行動をする人間がいるのに、警察は動こうとさえしない。つまり、この人間を操作する能力者は、この町そのものを把握している可能性が高い。

逆に言えば。

それさえ潰してしまえば、敵の戦力は半減できる。

「私が、あの白衣の先生と、校長先生を抑える。 久能さんは、このたくさんの人達を操っている能力者を沈黙させて」

「ああ、はいはい。 わかっとる」

「多分、能力者は学校にいる」

「なんや。 みんな見えるところにおるんやないのか」

陽菜乃が顎でしゃくった先には。

何カ所かにある監視カメラ。

今時、直接見なくても、その場に何があるかは把握できる。あれを全て壊してしまうと、それはそれで後片付けが面倒だ。

「相手側は多くても五人か六人。 一人は行動不能にしたから、多分連絡を取るにも齟齬をきたしているはず。 人間を操作する能力者の周囲に、護衛はいないはずだよ」

「わーったよ。 どうにかしてみる」

久能が消える。

得意の気配遮断を用いたのだ。

これでいい。

後は、押し寄せてくる人間を捌きながら。白衣の先生と、校長先生が仕掛けてくるのを待つ。

二人さえ潰してしまえば終わりとはいかないだろうが、それで実働戦力は奪い去ることが可能だ。

「原島さんは、最終防衛ラインの構築をお願い 私は辺りにいる敵を、手当たり次第に制圧します」

「承知、と。 本当に大丈夫なのですかな、暴君竜」

「平気。 というか、私としても頭に来てるから、思い切りたたきつぶせる相手がいるのは、今は嬉しい」

これでも、少し前までは、異常な能力などない、平穏に生きている女子高生だったのだ。

それが今では、妹共々、平常の世界からは、足を踏み外してしまっている。

ただ、それでも踏み外したくないものはある。

あんな可愛くて、善良な女の子を、欲望のままに蹂躙するような輩を、許すわけにはいかない。

もっと大きな視点でものもみているけれど。

行動の基幹はそれだ。

義憤とでも言うべきなのだろうか。いずれにしても、あの二人。白衣の女と、校長は。やってはいけない一線を踏み越えた。国に雇われてテロリスト対策をしているようなプロだろうが、関係無い。

全力でぶっ潰す。

ある意味人間を止めて、陽菜乃は自分が好戦的になったのを悟った。そして、どんどん力が増している自覚もある。

あの程度の相手には。

遅れなど、取らない。

 

外で、もの凄い音が響きはじめた。

戦いが始まったのだ。警察は何をしているのだろう。

いや、あれだけ好き勝手をしていた平塚先生なのだ。警察は、黙らせる方法くらい、身につけているのだろう。

ぎゅっと身を縮めて、田奈は嵐が過ぎ去るのを待つ。

外で何が行われているかはわからないし、知りたくもなかった。

「ねえ、篠崎お姉ちゃん」

顔を上げると、ドアの方を、男の子が見ていた。

表情は険しい。

戦いの様子が、思わしくないのかも知れない。

「最悪の場合は、僕は自分が逃げる事を選ぶからね」

「……」

それは、そうだろう。

話を聞く限り、田奈のために命を賭ける義理なんてない。よく分からない能力を持つ人の間での内輪もめなのだ。

田奈もそれに巻き込まれているけれど。

助けることに、きっと政治的以上の意図はない。

それくらいは、田奈にだってわかる。

あの明るい陽菜乃さんは、何も考えていないように一見見えたけれど、違う。あれは田奈とは何もかも真逆。

きっと本質は、相当な現実主義者だ。田奈を捨てれば助かるとなれば、容赦なくそうするだろう。

「私、どうすればいいんだろう」

「どのみち、もうこの世界からは出られないよ。 能力がしっかり表に出てきたら、きっと政府から声が掛かって。 政府が言うように、お仕事をしなければならなくなる。 僕みたいに守りの力が主体ならともかく、戦闘タイプだったら、人殺しだってさせられるだろうね」

この戦いだって。そもそも、それほどの大義があるものじゃないと、男の子は言う。

その表情は。

田奈なんかより、よっぽど大人びていた。

「単なるパワーゲームの話だよ。 最強の力を持っている人がいて、その人との折衝をどうやりくりしていくか。 そのために、陽菜乃ねーちゃんは命を張ってる。 彼処で操られている人達は、そんな事で命を落とすかも知れない」

男の子が、此方を見る。

非難するように。

「生きるために、全力を尽くしているんだよ。 それで、出来れば、自分以外の人も、できる限り助けたいって言ってる。 それなのに。 力がある田奈さんは、いつまでそうやって膝を抱えて泣いてるのさ」

ひときわ大きな音がした。

外での戦いは、更に苛烈さを増している。そんな事は、見るまでも無くわかった。

天井から、激しい音。

何かが落ちてきたのかも知れない。

思わず首をすくめる。

だが、平然としている幸田君。天井に向けて、手を伸ばしている。何かしらの力を使っているのかも知れない。

こんな小さな男の子なのに。

此処で何をするべきかを知っていて。そして、自分なりに戦っている。そして、何よりも。

最悪の場合は、田奈を捨てて逃げるという、強かな行動に出ることまでも、宣言している。

漫画なんかにある、誇り高き戦士ではない。

生きるために全力を尽くす、生臭い人間の姿が、其処にあった。

勿論それが褒められた行動なのかどうかは、田奈にはわからない。外で、或いは上で戦っている陽菜乃さんは、非難するかも知れない。

しかし、それでも。

だらだらと生きてきて。自分の無力を嘆くだけだった田奈とは、決定的に違っていた。

ふと、脳裏に浮かぶもの。

それは、自分と同じ以上の大きさの、巨大な怪物と相対する大きなヤスデ。皆の言うとおりであれば、アースロプレウラ。相対しているのは、何だろう。時代から考えると、巨大な陸上生両生類だろうか。それとも、既に爬虫類かも知れない。

体を起こして、相手に対して鋭い威嚇音を立てるアースロプレウラ。

とにかく、元々の体が大きい。それだけではなくて、体を覆っている装甲が、非常に分厚いのだ。

大きな口を開けて此方らを襲おうとしていた怪物は。しばらくのにらみ合いの末、身を翻して去って行った。

戦いに勝ったのである。

草食だと言う事だったのに。相手を威嚇して、追い払うだけの武力は有していた。体が大きいだけではない。

その体を利用して、相手を追い払う事が出来るのだ。

「ねえ、篠崎お姉ちゃん」

軽蔑したように、幸田が言う。

この子は精々小学生の頃から、こんな過酷な世界にいたのだ。中学生になっても、まだ怖くて震えている田奈を見たら。

それは、軽蔑するのが、当然なのかも知れない。

「戦わないの?」

戦う。

それでしか、身を守れないのなら。

そうするしか、ないのだろうか。

また大きな音がした。外では、パワーゲームから身を守るために、陽菜乃さんが戦っている。

お爺さんや、軽薄そうなお兄さんだって、命を張っているはずだ。

私は。

助けてもらったのに。震えているだけで、良いのだろうか。

顔を上げる。

涙を拭う。

このままでは、いけない。まだ膝は震えているけれど。

泣いてばかりでは、いられなかった。

 

何人かの側近を引き連れて、エンドセラスは既に到着していた。

指揮車両代わりにしているバンには、ロケットランチャーの直撃にも耐える装甲を施してある。中にはオペレーションルームが構築されており、部下達が戦況をひっきりなしに報告してきていた。

いつものことだ。

この国で修羅場に発展することは珍しいが。支配している国や、これから支配しようとしている国で、殺し合いになった事は何度もある。CIAが要マークしているほどの存在に、エンドセラスはなっているのだ。

発展途上国で、テロリストの集団との殺し合いをした経験も、何度もある。

敵の組織を皆殺しにしたことも。

所詮人間とはいえ、能力者が絶対の無敵を誇るわけではない。もし無敵だったら、いにしえの神々は、人間に対して絶対的な覇権を保持していただろう。神話でさえ、人間が神を殺す話など、枚挙に暇がないのだ。

部下も、戦いの中で、何度も死んでいった。

人間は、異質な存在を排除しようと思う生物なのだと。若い頃から、エンドセラスは思い知らされていた。

だからこそに、必要なのだ。最強の部下が。

だからこそに、願っているのだ。

能力者の全てを、いずれ麾下に組み入れる未来を。

古代型とか近代型とか、派閥がこの国ではある。よその国の能力者も、事情は殆ど同じだ。

この国の近代型。

ユタラプトルをリーダーとする連中は、知らない。どうして日本に、能力者が集中しているのか。

今後この世界に、どのような異変が訪れるのか。

「ティランノサウルスの能力値、更に上昇!」

「素晴らしい」

オペレーターの報告に、思わず呟く。

あの陽菜乃という娘、この国に生まれたのがもったいない、純粋な戦闘向けの人材だ。多分そのまま生きていたら、才能が開花することはなかっただろう。圧倒的なる実力。そして、才能が開花してからは。

戦う事を厭わない。

したたかなパワーゲームに身を投じることを、全く怖れていない。

今は、くだらない派閥争いに興じている能力者だけれども。

いずれエンドセラスが全てを支配したときには。あのティランノサウルスには、右腕になって欲しい所だ。

そして、アースロプレウラが覚醒したときには。

モニタの向こう側では、ゾンビ映画のように群がる、人形と化した群衆が。恐らくは、老人の能力者。今だ正体は分かっていないが、とにかくそいつが張った光の壁に阻まれて、唸り声を上げていた。

壁にぶつかるとはじき飛ばされてしまうのだが。

それでも気にしないようで、次々と群れは光の壁にぶつかっていく。

あれだけ強力な障壁だと、張っているだけで消耗は小さくないだろう。一人はアジトの中にいるとして。

もう一人は、群衆を操作している能力者を潰しに行っているか。

ティランノサウルスは、ダンクルオステウスと、反エンドセラス派閥の筆頭である石沼校長と、同時に戦っている。石沼はエンドセラスにも表向き正体を明かしていないが、パキディスクスであることは調べもついている。

海中で最も繁栄した一族の一つ、アンモナイト。その最大種だ。

ベテラン二人と同時に戦うのだ。

流石のティランノサウルスも、防戦一方。だが、全く焦っている様子は無い。

アースロプレウラが覚醒すると判断しているのか。

それとも。

どちらにしても、ダンクルオステウスも、石沼も、バキバキの近接戦闘型だ。ダンクルオステウスは単純に身体能力を高めて、全身の装甲を強化する力を持っている。石沼は身体能力を強化するだけではなく、機動を加速する力を有している。守りと、機動。

ティランノサウルスの回し蹴りを、ダンクルオステウスが受け止める。

吹っ飛ばされ、地面に叩き付けられるが、意に介さず立ち上がる。アスファルトの地面には、大きなクレーターが出来ているというのに、本人は平然としていた。

コンクリに突っ込んでも、かすり傷程度しかつかないのだ。ロケットランチャーの直撃に耐え、アサルトライフル程度では、斉射を浴びてもびくともしない。

テロリストの駆除に、駆り出される訳である。

マイクが、会話を拾っている。

「さすがは装甲魚」

「あんたもねえ。 能力無しで、よくもこれだけ戦える」

「私が能力を使ったら、死人が出るから」

「はん……」

ダンクルオステウスが、白衣を投げ捨てる。今の激突で、ぼろぼろになってしまっていたからだ。

白衣の下に来ていた、黒いタートルネックセーターが露わになる。

元々グラマラスなボディラインだけれど。多分中身は筋肉だ。

「校長、そろそろ本気を出してもらいませんか?」

「死人が出た場合、もみ消しが面倒な事は忘れていないかな。 海上でテロリストを駆除するのとは、訳が違うのだぞ、平塚くん」

「本気を出せって言っている」

ダンクルオステウスの声が低くなる。

これは、余程に頭に来ているらしい。ティランノサウルスは平然としていたが。石沼は、流石に憮然としたようだ。

「落ち着きたまえ。 あの光の壁さえ突破出来れば、覚醒前のアースロプレウラを奪取できる。 だがあまりにも騒動が広がると、政府が対策に乗り出してくるのだよ。 そうなれば、エンドセラスが要請に応じて出てくるかも知れん」

もう出てきている。

あの二人は、政府がこの件を掴んでいないとでも思っていたようだが、違う。そもそも石沼は内閣情報調査室に前々からマークされていて、有用なテロリストの駆除屋としてだけではなく、危険分子としても見られていた。

ダンクルオステウスに到っては、公安もマークの対象にしている。

それだけ危険な存在と見なされているのだ。

この町での騒動など。

アースロプレウラに粉をかけ始めた頃から、政府が目をつけている。エンドセラスがこれだけ早くで張ってきたのも。

資材やら人員やらを動員できたのも。

政府が協力しているからだ。

「腰抜けが」

「何だと。 いくら派閥重鎮の君とは言え、言葉には気をつけたまえ。 頭に血が上りすぎているのではないのか」

「黙れ。 これからあのティランノサウルスを殺す。 貴様はアシストをしろ」

「おい、平塚くん!」

相当に頭に来ているらしいダンクルオステウスが、構えを取る。

一種の象形拳だと、モニタの向こうから、エンドセラスは判断した。

元々、ダンクルオステウスは、海中で最強を誇った捕食者。その強さの秘密は、装甲化した全身の圧倒的な防御能力に加え、その噛む力にある。

噛む力だけなら、ティランノサウルスと同等か、それ以上という研究さえある。

十メートル近い全長もあって、一時期の海中では無敵を誇ったほどの存在なのだ。エンドセラスでさえ、正面からの戦いでは遅れを取っただろう、文字通り生ける重戦車なのである。いや、海棲生物だから、超弩級戦艦とでもいうべきか。

重い分動きは鈍かったが、そのパワーは原生生物でいえばホオジロザメなど比較にもならない。

ダンクルオステウスの右腕に、パワーが集まっていくのがわかる。

今まで余裕を持って攻撃を捌いていたティランノサウルスが、流石に顔色を変えた。あれの直撃を受けたら、如何にティランノサウルスといえども、ひとたまりもない。文字通り、木っ端みじんだ。

本気で殺すつもりに来ている。

「介入しますか」

「待て」

エンドセラスが戦場に出れば、一気に戦いを終わらせることも出来る。

六十年にわたって磨き抜いた技だ。元の生物の性能は兎も角、ひよっこの二人や三人、勝負にもならない。

だが此処は、敢えて沈黙を選ぶ。

アースロプレウラを覚醒させれば。それだけ、能力者全体のパイが大きくなる。いずれ傘下に収めたとき。

力がそれだけ強くなる。

エンドセラスの目的は、この世界の覇権。いずれ無知蒙昧な人間共から、この世界の支配権を取り返すこと。

神々の復権、とでもいうべきこと。

その時のために。使える駒は、今からいくらでも準備しておく必要があるのだ。

ダンクルオステウスが仕掛ける。

全力での打撃を叩き込むべく、躍りかかる。

ティランノサウルスは動かない。能力を使うつもりか。だが、渋々だが、石沼も仕掛ける。ティランノサウルスの斜め後ろに回り込むと、空中に躍り上がるを得ないように、下段から蹴りを叩き込んだ。

抉り込むような蹴りを、跳躍して避けるティランノサウルス。

もらった。そうダンクルオステウスが言うのが、聞こえるように思えた。

だが、その時。

文字通り、空中で直角に、ダンクルオステウスが動いた。望んでの動きには見えなかった。さながら、見えない何かに、はたき落とされたような動きだった。

さっきのクレーターに、また落ちる。そして、頭から、突き刺さる。

まるで漫画のような突き刺さり方だ。

オペレーターが、ぷっと噴き出す。

エンドセラスも、噴き出すのをこらえるのに苦労した。あれでダンクルオステウスは、ちょっぴり間抜けなところがある。

そういえば、幼児の頃から面倒を見ているが。

凶暴で残虐な反面、時々ものすごくコミカルな失敗をする奴なのだ。

しばらくもがいていたが。どうにか自力で上半身をコンクリのクレーターから引っ張り出す。

唖然として立ち上がるダンクルオステウス。

石沼は、苦虫でもかみつぶしたように、ダンクルオステウスを見ていた。

「またかね、平塚君」

「おのれ、何をした!」

「能力を使ったに決まってるでしょ? 正体は教えないけど」

平然としているティランノサウルスだが。消耗が激しくなっている。今の能力展開で、相当に疲弊したとみた。ただ、後ろに回っている石沼に対しても、警戒を解いていない。

そろそろ勝負がつく。

場合によっては、介入しなければならないだろう。

「スタッフは配置についているか」

「はい。 すぐにでも、トゥリモンストゥルムの潜伏地に踏み込めます」

「うむ……」

あの傀儡化した人間達を操作している能力者である。

古くに存在した、何とも正体が判別しがたい生物、トゥリモンストゥルム。ネッシーの正体とも言われたことがあるが、全長は十センチほどしかない。

この生物の力を宿した能力者は、数百人の人間を同時に操るという驚異的な力を持っているのだが。本人は極めて脆弱。

その名前や素性、外見は、エンドセラスをはじめとする少数しか知らない。非常な変わり者で、多分今回の作戦参加も、本人の気まぐれだろう。少なくとも、反エンドセラス派閥に属しているからではない。

後で此奴にはお仕置きをするだけでいい。

また、ダンクルオステウスが、右腕に力を集中させていく。

今度は中空からではなく、地面で仕掛けるつもりのようだ。実際、装甲には自信があるからだろう。

ティランノサウルスの能力は判別がつかないにしても。喰らってもびくともしないという自信があるのだ。

それに、歴戦を重ねているダンクルオステウスも、見抜いているはずだ。

今の能力を使って、ティランノサウルスが疲弊していることは。

如何に才があるといっても、所詮は覚醒してさほど時も経っていないひよっこなのである。どんな天才でも、いきなり何でも出来る事はないのだ。

警告音がした。

モニタの一つからだ。

オペレーターが言う。

「覚醒反応です!」

「ようやく来たか」

どうやら出る必要は無さそうだ。

足を組み直すと。エンドセラスは。新たな古代生物の能力者が、この世に産声を上げたことを祝福した。

 

4、覇王の掌

 

アパートの扉を開けて、堂々と姿を見せるのは、篠崎田奈。

その表情は、ない。

顔に感情が、読み取れないのだ。

能力が覚醒したらしい。

嘆息すると、陽菜乃は堂々と携帯を取り出して、言った。

「撤退するよ。 久能さん」

「何や、こっちも取り込み中やで」

「いいから」

「逃がすと思ってるのかしら?」

相対している変態保険医が指を鳴らすと、わらわらと操作されている人間達が集まってくる。

怪我を皆しているのは、原島さんが展開していた防御フィールドを叩き続けていたからだろう。

あれは一種の攻勢防壁で、攻撃に対して打撃を反射する力を持っているのだ。

「いくら何でも、能力の使い方に美学がなさ過ぎるんじゃないですか?」

「それが何か? 普通の人間なんて、私にとっては食糧に過ぎないんだけど。 まあ、この国の人間は滅多に食べられないけれどね」

「それ、本気で言ってると判断して良いですね?」

鼻を鳴らすダンクルオステウス。

どうやら、本気でキレて良いようだった。

既に、陽菜乃だって、この世界の論理で動いている存在である。だが、此奴とは絶対に相容れない。

確かにもう人間とは違う存在になりかけているかもしれないけれど。

だからといって、人としての尊厳を捨てて良い筈がない。この女がやっているのは、愉悦からの殺戮。

それは、どんな生物でも、理由無しにはやらないことだ。

人間しか。

つまり、人間では無いと言う事を免罪符に、人間として最悪のことをしている。人外である事を言い訳に、非道に身を染めているのだ。

許せる事ではない。

「陽菜乃さん」

感情が読み取れない田奈が言う。

自分よりかなり背が低い彼女は。目にも表情にも感情をなくしても。心は失っていないようだった。

「私を連れて行ってくれますか」

「うん。 此奴らからは、保護してみせるよ」

「そう。 良かった」

できる限り、戦って見ます。

そう、田奈は言う。

さて問題はどんな能力を身につけたか、だが。

右手に力を集めていたダンクルオステウスが、前に歩み寄ってくる。顔立ちが整っているだけに、怒りの形相は凄まじい。

「さあ、それを渡してもらおうかしら。 それはエンドセラスの派閥とやりあうのに、重要な存在なのよ」

無言で、田奈が手を伸ばす。

同時に。

ダンクルオステウスと、校長が。

それだけではない。周囲にいる、操作されている人間全員が。地面に叩き付けられていた。

思わず、陽菜乃もガードしたほどである。

周囲が、みしみしと音を立てている。力加減できていないのだろう。ダンクルオステウスが立ち上がろうとして、失敗する。

ブロック塀が、上から押し潰されるのが見えた。車が拉げる。マンホールが潰れて、穴の底に落ちていく。

これは。

重力操作か。

それも、範囲制圧型。

まさか、これほど強力な能力を使うとは。流石に、一時期地上で覇者となっていただけの事はある。

成長すれば、どれほどの力を発揮するか、わからない。

「ぬ、ぐっ!」

「しばらく彼奴らを押さえつけていられる?」

「はい。 平気です」

「みんな、撤退! 此処から離れるよ!」

陽菜乃が、ひょいと田奈を抱え上げる。そして、残った力を使って、跳んだ。

この子はもう、普通の学校生活など出来ない。

能力者がたくさんいる世界で。人間とは違う存在として、生きていくしかない。陽菜乃だって、学校については、もう半ば諦めているのだ。

ならば、せめて。

理解している人間として、側にいてあげたかった。

ダンクルオステウスが、後ろで吼えているのがわかった。放っておく。あれはどうせ、後でエンドセラスにきつくお仕置きされるだろうから。

気がつくと、田奈は意識を失ってしまっていた。

あんな強力な能力を、覚醒直後にぶっ放したのだ。無理もない。

ほほえむと、陽菜乃は。合流してきた三人と一緒に、待たせていたバンに乗り込んで、その場を後にする。

運転している久能は、ずたぼろだった。

多分敵の位置は突き止めたけれど、直衛の戦力に阻まれて苦労していたのだろう。能力者はいなくても、操作している人間の中から屈強なのを選抜して直衛にしていたことは、容易に想像がつく。

「もういややで、こないなしんどいの」

「今後は、もっと厳しくなっていくよ。 予言じゃなくて、規定の未来ね」

「マジか」

久能が呻く。

今まで、能力者は。政府に命じられて荒事をこなす以外は、大した仲間割れもしない平和な時代が続いていたようだけれど。

今後、エンドセラスが覇権を握るべく動き出す事は確実。この間、近代型からごっそり人材を持っていったのはその一環だろう。

下手をすると、能力者と人間の、全面戦争になるかも知れない。

その時、生き残るには。

少しでも多くの、強力な力を持つ同胞が必要だ。

眠ってしまっている田奈には気の毒だけれど。元々彼女の周囲は、非常に悲惨な環境が構築されていたらしい。

助け出さなければ、どうなっていたことか。

こんなに可愛い子なのに。

怒りが、腹の底から、こみ上げてくる。

妹がこの子と年が近いから、かも知れない。

アジトに到着したのは、夕刻。他のメンバーも、何人か集まっていた。リーダーであるユタラプトルはあくびしていた。さっきまで眠っていたのかも知れない。

「それで、その子が例のアースロプレウラ?」

頷くと、陽菜乃は。

まず寝床が欲しいと、リーダーに頼んでいた。

 

エンドセラスが姿を見せると、ズタボロに傷ついていたダンクルオステウスと石沼は、慌てて居住まいを正していた。あの最後の重力攻撃はものすごかった。いや、正確には重力かはわからない。何かで押し潰したのは、見ていて確認できた。

此奴らがエンドセラスに対する反抗派閥だと言う事は周知の事実だが。それでも、表だって反逆は出来ない。

力が違いすぎるからだ。

今回のアースロプレウラの件にしても、此奴らなりのやり方で、反攻作戦の切り札として準備していたのだ。

結局横からかっさらわれてしまったが。

否。

そうするように、仕向けたのだ。

「こ、これはボス」

「全ては見ていた。 お前達が何をしていたかも知っている」

二人が青ざめる。

今頃、拠点である学校も、制圧済みだ。潜んでいた筆石も、既に押さえ込んでいることだろう。

何より、トゥリモンストゥルムはノンポリで、此奴らの思想に共鳴して行動しているわけではない。

あれは非常に面倒くさい奴で、エンドセラスでも制御が難しい。ただ、利害は判断できるので、今回は簡単に従うだろう。

後はもみ消しだが。

これだけの人数が、人事不肖になって、しかもこの破壊痕。

電柱は五本折れ、家の屋根も幾つか大穴が空いている。停電が起きているだろう。復旧費用が、いくらかかることか。

「ダンクルオステウス。 貴方、熱海に別荘持ってたわね」

「は、はあ、まあ」

「売り払いなさい。 中にあるものごとね」

真っ青になるダンクルオステウス。

此奴は享楽的で、別荘の中に稼ぎで得た金品をしまっていることは知っている。売り払えば、六十億くらいにはなるだろう。

生物名を使っても良かったのだが。石沼については、敢えて名前で呼ぶ。

「石沼。 貴方は校長を退職。 この間買ったゴッホのオリジナルがあったわね。 あれを提供しなさい」

「ど、どうしてそれを」

「この修理費を捻出するのに必要だからよ。 あわせて百億か。 まあ、足りるでしょうね」

連れて行けというと、屈強な部下達が、馬鹿二人を引きずっていった。石沼は完全に青ざめていて、多分近いうちに髪の毛が全部抜け落ちるだろう。

それにしても。

組織間のパワーゲームという事情をよく利用して、あのティランノサウルスが的確に動いた。

彼処までしっかり動いてくれると、エンドセラスとしては余計な事をする必要が、殆ど無かったくらいである。

あれは、欲しい。

いずれ、右腕にしたい。

長き時を生きている例外的な能力者であるエンドセラスは、既に発展途上国ばかりだが、七つの実権を握っている。これらの国は、能力者にとっての征服地。やがてこれを世界中に広げるためにも。

ティランノサウルスは、是非欲しい。

そのためには、更に経験を積ませる必要がある。政府に言って、荒事をもっと積極的にこなさせるべきだろう。

充分に熟したら。

ユタラプトルの組織ごと取り込む。

一通りの手配が終わると、エンドセラスは車に乗り込む。バンを出すように言うと、戦場のような有様だった場所から、車は殆ど音もなく発進していった。

この程度の事は、投資としては安い。

そればかりか、もしもティランノサウルスが、アースロプレウラを育て上げることが出来るならば。

ほくそ笑む。

野望の達成は、この手に近づきつつある。

 

目を開けると、其処は暖かいお布団の中。

お料理をしている音がする。部屋も暖かくて、何だか空気が家とは違った。自宅では、殆ど自由に出来るものも、事もなかったのだから。

誰かの後ろ姿が見える。

「頑張ったね」

いつの間にか、側に座っていたのは。あの陽菜乃さんだ。

無我夢中だった。

窓から外を見たら、陽菜乃さんが追い詰められているのが見えた。

このままだと、きっと彼奴らに。保健の先生や、校長先生に。オモチャにされて、殺される。

だから、せめて。

自分の手で、どうにかしたい。

そう思って、外に出ると。いつの間にか、自分がアースロプレウラだという自覚が芽生えていた。

後は簡単だった。

料理をしていたのは、何だか野性的なお姉さんだ。色黒で髪も短い。ただ雰囲気は硬くて、遊んでいるようには見えなかった。

しばらくは休んでいた方が良いと言われたので、言葉に甘えて布団に潜り込む。

でも、これからどうすれば良いのだろう。

家には危なくて帰れない。

学校にも、もう行くのは難しいだろう。

陽菜乃さんが、教えてくれる。

「あの能力、多分政府から声がかかるよ。 そうなると、政府の方で、学校は手配してくれるかも知れない」

でも、それは籠の鳥だ。

籠の鳥として、今後は生きていくしかない。それはわかっている。わかっているから、覚悟を決めて、戦ったのだ。

籠の鳥なりに、少しでも待遇を改善するために。

きっとこれから田奈は、もっともっと怖い目にあっていくだろう。

しかし、陽菜乃さんが、善意で助けてくれたのはわかった。だが、それが純粋な善意でないことも、今はわかっている。

幾つもの勢力がある中での、パワーゲームの一環としての救助。

このまま、甘えていても、すぐに居場所がなくなることは、目に見えていた。

ふと、テレビを見ると、ニュースが映っていた。

テロリストに占拠されていた何処かの空港が、突入部隊により開放されたのだという。一瞬だけ映ったのは、間違いなく保健の先生だ。

あの人が、きっとテロリストを皆殺しにしたのだろう。

暗澹たる気持ちになる。

あの人がテロリストを皆殺しにしなければ、人質が皆殺しにされていたのだ。

そして、いずれは自分も。

この能力を使って、似たような事をして行くことになる。

「シダ、ありますか」

「食べたいの? 用意するよ」

「はい……」

いっそのこと、身も心も、アースロプレウラになってしまえば、楽かも知れない。人では無くて、あの巨大なヤスデに。

シダが用意されて、口に入れてみる。

噛んでみると。

どうしてか、とても懐かしい味がした。

 

(終)