魂色の芸術

 

序、美術部の驚愕

 

少子化が進む現在、部活動もまた縮小を続けている。どこの学校でも同じ事である。

更に、現在では学校というシステム自体の弱体化も著しく、部活動は萎縮気味になりつつあると、久原佐久子は聞いたことがあった。

だが、この妙な熱気は何だろう。

入部希望用紙を持って訪れた美術部は、妙に活気があった。皆熱心に、それぞれの創作活動に打ち込んでいる。絵を描いているばかりでは無く、粘土を弄っている者や、前衛芸術っぽいものを組み立てている者もいた。

一番奥でイーゼルに向かっているのは、ちんまい女子の先輩である。汚れを気にしてか、ジャージを着て作業をしている。この学校の紫色のジャージには、横に学年を示す線が入っており、それで二年生だと判断できた。

上から声が降ってくる。佐久子より頭一つ高い所から、声を掛けられたからだ。

「おや? この時期に入部希望?」

「あ、はいっ!」

それも当然だ。今日、転校してきたのだから。

声を掛けてきたのは、ひょろんと長い女子である。どうやら一年らしい。髪を伸ばしているが、その割には雰囲気がとても粗野だった。

奥の方では、ものすごく太って眼鏡を掛けた暑苦しい男子の先輩が、腕組みしてイーゼルとにらめっこしている。あの人が部長かなと佐久子は思ったのだが、どうも違うらしい。

ひょろんと長い同級生が、奥の、ちんまい先輩に声を掛けた。

「ユッカ部長、入部希望者ですよー」

「……」

「あっと、駄目だ。 入ってる。 ああなるとしばらく戻ってこないから、アタシが話を聞くよ」

入っているとは、何だろう。

美術室の後ろの方は空いたスペースになっていて、二人分の席を並べる空間があった。棚の上に並んだ石膏像達に見下ろされながら、話をする。

「へえ、久って文字が名前に二つ入ってくるんだ」

「はい」

「いいよ、ため口で。 同級生なんだから」

粗野な雰囲気だが、悪い人では無さそうだ。

幾つか質問され、順番に応えていく。出身地は福岡。親の事情で転校してきた。美術は昔から好きで、水彩画が得意。

重厚な油絵よりも、水彩画の方が好きだと自覚したのは、中学に入って少しした頃だ。名だけの美術部で、佐久子はただ一人だけ、毎日絵を描いたり粘土をこねたり、木像を削ったりしていた。学校側も部活動運営にはやる気を見せず、予算が出ない代わり全くの放任状態だった。他は全員幽霊部員で、顔を見たことさえ無かった。名前も、卒業するまで知らなかった。

高校に入ってからは、すったもんだが続いて、美術どころか学業どころでさえなかった。どうにか二ヶ月ほどでけりがつき、こっちに来ることが出来たが。佐久子は今、二ヶ月分の学力も遅れてしまっている状態だ。ここからの挽回が大変である。

それにしてもと、美術部を見回す。

中学時代は、佐久子は先輩が残した道具類や資材を使って、様々な芸術を試した。美術室自体があまり使われておらず、掃除もいつも佐久子がやっている有様だった。

コンクールなんかの応募方法も、自分で覚えた。

だから美術部はこぎれいとしていたのだが、ここは人が多いからか、随分と雑然とした雰囲気があった。

「賞を取ったことは?」

「小さなコンクールで、奨励賞と優秀賞を一回ずつ。 コンクールの名前は……」

「え? 小さなコンクールじゃないじゃん。 結構有力なコンクールだよ、それ」

逆に驚かれて、はじめてそうなのだと知った。応募者の数が少ないから、たいしたコンクールでは無いと思っていたのだが。

一人でやっていると、知識が偏っていけない。

「アタシは栗原南恵。 ナミって言われてる」

「よろしく、ナミさん」

「だから、呼び捨てで良いってば」

「あー! 描けたー!」

いきなり、教室中に絶叫が轟いた。

思わず強ばる佐久子の周囲が、騒がしくなる。

「おー、ユッカ、出来たか!」

「どれどれ、うわー」

「今回も凄いねー」

ちんまい部長の周囲に、わらわらと部員達が集まっていく。嬉しそうに照れている部長。背中を南恵に押されて、一緒に絵を見に行く。

立ち上がった部長は、なんだか子供みたいで、小さくてとてもかわいらしい人だった。ショートカットにしている髪が、子供っぽさを更に助長してしまっている。こんな人なら、さぞや絵は可愛いのだろうと思って、イーゼルをのぞき込んで。

そして、固まった。

其処にあったのは、床にぶちまけられた内蔵とでもいうのか、とにかくグロテスクで抽象的で、一目見ただけで子供が泣きそうな絵だった。油絵の重厚な雰囲気が、更に迫力を増している。

真っ青になって固まる佐久子に、部長が小首をかしげた。

「おやー? キミは見ない子だね。 リンリン、誰、この子」

「ボクは知らないよー。 ナミくんが対応してた」

「ああ、入部希望者です」

太った先輩が汗を拭き拭き言う。テレビなんかで醜悪なイメージとして誇張されている、オタクそのものの姿だ。だが、ちらりと太った先輩が書いていた絵を覗くと、とても清潔感がある美しい風景画が描き込まれていた。

「く、久原佐久子です。 よ、よろしくお願いします」

「部長の湯川蓮です。 ユッカ先輩って呼んでね!」

側で見ると、どちらかと言えば小柄な佐久子よりも、更に小さい。南恵と比べると、頭一つ半違っている。

にこにこ満面の笑みを浮かべている先輩が手をさしのべてきたので、握手する。

「好きな絵は?」

「私の、ですか」

「そうだよ」

「私は、ミケランジェロが好きです」

そっかあと先輩が宣う。

そして、まるで汚れを知らない天使みたいな笑みを浮かべながら、とんでもない事を言った。

多分、その時先輩が言ったことを、一生佐久子は忘れることが出来ないだろう。

「私は、ゴヤの我が子を喰らうサトゥルヌスが好き。 いつかあんな絵を描くことが夢なんだ」

目の前が真っ暗になるのを感じた。

我が子を喰らうサトゥルヌス。世界で最も恐ろしい絵の一つとも言われている、ローマ神話における一場面を描いた絵画だ。

狂気に満ちた作品で、はじめてそれを目撃したとき、佐久子は思わず呻いたのを覚えている。この毒気も無く悪意も無さそうな、小柄なかわいらしい先輩のどこに、あのおぞましい絵を好む要素があるのか。

強烈なインパクトがある言葉だった。

冷や汗が、背中で滝を作っているのが分かった。

「それじゃ、これからよろしくね。 ええとあだ名はどうしよう」

「佐久子で良いですよ」

「じゃあサクコちゃん。 一緒にこれから頑張ろう」

握手をシェイクされる。

真っ白になった頭では、笑顔を浮かべる以上のことは、一切出来なかった。

 

1、新しい学校

 

前に暮らしていた一軒家と違い、アパートだからやはり部屋も狭い。それに母がいないから、どうしても空間の清潔感が足りない雰囲気である。ただ、母にいて欲しいとはもう思わないが。

父はまだ寝ている。

夜勤から帰ったばかりだから仕方が無い。それに、起きていてもあまり意味は無いだろう。手早く調理を済ませる。趣味である美術と違い、料理は実践で覚えた確かなものだ。

目玉焼きをつくって、ついでにベーコンも焼く。野菜を刻んで手早くサラダにして、シザードレッシングで食べる。

アパート暮らしとはいえ、さほど生活自体は苦しくない。父の稼ぎは悪くないし、何よりしばらくお金には困らないからだ。

食事を済ませると、制服に着替える。

新しい学校の制服は、若干以前のものより地味だ。紺色を主体としたブレザーで、スカートも少し長めである。背が平均よりも若干低い佐久子からすると、余計背を低く見せるから嫌だった。

嫌なことばかりでは無い。

どうしても孤独になりがちだった向こうに比べると、此方では随分良くして貰っている。都会では人の心が冷たいというようなことを言うが、田舎でもそれは大差ない。むしろ閉鎖的な所が強い部分もあり、一度はじき出されると取り返しがつかないことになりやすい。

神奈川では比較的都会になるここは、佐久子にとっては新天地だった。

「お父さん、行ってくるよ」

声は掛けるが、返事は無い。

戸締まりをして出る。朝捨てるゴミ袋を手にしたまま、おんぼろの洗濯機を横目に、一階に。

もう少し落ち着いたら、マンションに引っ越したいと父は言っていた。

個人的には、早めに独立したいと思っている。大学に行くのは学力的に問題ないし、この近辺には手頃なアパートも幾らかある。引っ越すこと自体は、いくらでも出来る。それに大学も多いので、多分引っ越さなくても通えるだろう。父はまだ介護が必要な年ではないし、そんなことを言い出したらむしろ怒り出しそうだ。個人的には怒って欲しいくらいなのだが、今はちょっと負担を掛けたくない。

近所の人たちに挨拶しながらすれ違う。

前々から特徴が無い顔だと言われていたから、今回も顔を覚えて貰うのは苦労するだろうなと感じてはいた。ただ、それでも気分は悪くない。

鞄に入れている美術の道具一式が、心地よい重さになっている。

以前は只一人だけの美術部だったが、今回は美術が好きな同級生も先輩もいる。よほどのことが無ければ、多分つまはじきにされることも無いと思う。先生は放任主義らしいが、無秩序が良い意味で活力となっているので、以前のやる気が無い学校とは違うはずだ。

都会の学校は、電車を使って通学することも珍しくないとは聞いていたが、運良く佐久子は徒歩で行ける範囲で決まった。といっても、十五分ほど歩かなければならないが。

朝練をしている運動部を見かける。野球部だろうか。丸刈りにして気合いを入れた体育会系の男子達が、大声を出しながら一列になって走っている。以前の学校では、見られなかった光景だ。

グラウンドはほぼ野球部が占拠しているようだが、他の部活も練習はしているようだ。テニスコートもある。確かここは女子のテニス部が結構強いはずで、そういえば入学時に同級生から入らないかと勧誘された。

美術部に入るからと、やんわりと断ったが。

上履きに履き替えて、三階に。一年の教室と、美術室は三階にある。美術部を軽く覗いたが、誰もいない。朝から作業をしている訳では無さそうだ。

教室に出る。

動物を飼っているわけでも無い、静かな教室だ。学力は低くも高くも無く、荒れてもいないし穏やかでも無い、今時珍しいほどの普通の学校であるそうだ。

教室一番乗りだったので、自席に着いたあと、教科書をチェック。忘れているものは無し。

美術の道具類もチェック。

ユッカ先輩に言われたが、美術部は基本的に放任主義。やりたい芸術を好き勝手にやって良いそうである。

元々この学校は美術にさほど力を入れていないとか。だが、その割には美術部は強豪として周辺で知られており、それはこの放任主義が、良い方向に作用しているのでは無いかという噂だ。

佐久子は当然、今回も水彩画だ。

あくまで趣味とは言え、好きなものを好きなようにやって良いと言われたら、当然これにする。油絵の方が重厚な作品を作れるが、水彩にも味のある良い作品が存在している。絵の具類もパレットも問題なし。絵筆もまだ新調しなくても行けるだろう。

道具類は、今後後ろにある自分のロッカーに突っ込んでおくことにすれば良い。まさか、こんな使い古した道具、誰も盗みはしないだろう。

同級生が来始める。隣の席にも。

「久原さん、おはよーう」

「おはようございます」

「あー、そのリボン可愛い。 でも、ちょっと派手すぎると、生活指導に目をつけられるよ?」

佐久子は髪の毛に癖があるので、セミロングの髪をリボンでまとめている。いわゆるサイドテールである。これがいつも一苦労で、いっそ髪をショートにしようかと悩んでいた時期もあった。

今ではこのリボンがお気に入りのこともあり、セミロングで通すようにしているが。

苦笑いしたのは、こういう話を振ってきたのだが男子だからだ。なよっとした女の子っぽい男子で、顔立ちも妙に整っている。市原純一郎といういかにも男っぽい名前なのに、内実は違いすぎる。

なんだか、暑苦しい体育会系の男子達に、嫌な意味で目をつけられそうな雰囲気の子だ。

「そう、なら気をつけます」

「うんうん。 あ、そうだ。 佐久子さん、もう美術部に入ったの?」

「昨日入りました」

「じゃあ、あの変わり者の部長にはもう会った?」

なんだか調子が狂う。男子と話しているとは思えないからだ。

まあ、それはそれで構わない。むしろ、性欲丸出しの同級生男子とは、いつも話しづらいと思っていた。

「ユッカ部長ですか」

「そうそう、その人。 なんだか可愛いのに、すっごく怖い絵ばっかり描くって噂の」

やはり、噂にもなっているのか。

ユッカ部長は見たところ、綺麗では無いが周囲に愛されるタイプの容姿の持ち主だ。良い意味で子供っぽくて小さいから、親しみやすいのだろう。

だからこそに、あの絵とのギャップも凄まじい。

幾つか作品を見せて貰ったのだが、とにかくとんでもなく絵の技量については高い。油絵中心と言うことで水彩画の佐久子とは違う部分もあるが、それを差し引いても格が違う相手がいる事を思い知らされる絵だった。才能と言うよりも、好きで好きで仕方が無くて、徹底的に研鑽して上手くなった絵に見えた。

だからこそに、そのグロテスクで凶暴な画風には、心が凍る思いをさせられる。

あんなかわいらしくて無邪気そうな人が、どうしてあんな恐ろしい絵を描くのか。何よりどうして我が子を喰らうサトゥルヌスという、世界でも最も狂気と恐怖に満ちた絵を愛好しているのか。

「でも、とてもいい人ですよ」

「らしいね。 なんだか、不思議。 絵を描くときは獣みたいになるっていうし、芸術家ってみんなそうなのかな」

苦笑した。

他の女子なども話しかけてくると、純一郎は席を外してくれた。気を利かせてくれたのだろう。

女子には女子のコミュニティがある。案の定というべきか、中途半端な純一郎は、男子からも女子からも、ある程度の距離を置かれているようだった。

ホームルームが始まると、後はあっという間だ。

二ヶ月間すったもんだしていたこともあり、勉強はかなり遅れている。これ以上遅れると留年する可能性さえある。

底辺高校しか入れなかった可能性さえあったのだ。それを考えると、今の状況は恵まれているとも言える。だから、頑張らなければならない。勿論、美術を続けていくためにも、それは必要だ。

授業にこれほど熱心に取り組んだのは、いつぶりからだろう。

同級生からは真面目だと言われたが、苦笑いしか出ない。二ヶ月間、ほぼ何もしていないというのだから当然である。ここで諦めてしまえば、同じ学年をもう一度やることになる。

留年した生徒がどれだけ孤独を味わうか、佐久子は何度か見たことがあるから知っている。まだ孤独で友人もいない佐久子には、ぞっとしない事だった。

ようやく昼休みが来たときには、へとへとだった。

当然弁当は自分で作ってくるのだが、昼休みはコミュニティ作りよりも、画材を探したかった。

部長の絵が凄かったと言うよりも、周囲のレベルが高いのに驚いたからである。今までもコンクールで入賞したことはあったから、ある程度の技量はあるつもりだった。

だが、ここの美術部は、正直次元が違っている。

下手っぴな人もいるにいるが、今の佐久子の技量では届かない部分も多い。中学生と高校生の差と言ってしまえばそれまでなのだが、それでも皆についていくためには、力をもう少し貪欲に求めないとまずいと感じるのである。

勉強と、それは同じくらい大事なことだった。

屋上に出る。

風が少し強いので、弁当を食べやすいように影に移る。カップルがいちゃついているようなことも無く、幸い静かだったので、安心した。

勿論弁当は自分で作ってきている。といっても揚げ物は流石に朝からやるのは危ないので、昨晩の残りを中心に、冷凍食品で一品二品、という所だ。母親につくって貰っている子は、やはり弁当の彩りが違うので、たまに見ていて羨ましくはなる。

中学の時から、一人で食事をするのは好きだった。

持ってきたおやつのチョコを先に食べる。というのも、頭がかなり疲弊していたから、そうしないと動かないからだ。

チョコを食べて糖分とカフェインを脳に入れてから、おもむろに弁当を広げる。空を流れていく雲が美しい。

福岡の雲とは、微妙に風情が違って良い。もっとも、どこでも同じような雲が見られる日なんて、滅多に無いだろうが。

手早く弁当を食べる。多少お上品では無いから、一人になったという理由もある。

全部おなかに突っ込むと、後はぼんやりと屋上から周囲をみて回った。

この学校はそこそこの規模で、昔の言葉で言えばマンモス校とかいうらしい。生徒数は千名を超えていて、近隣でも有名な学校だ。

この規模だとどうしてもどうしようも無い不良生徒が数名は出るようなのだが、最近はむしろそういう生徒は学校に来なくて引きこもってしまうらしいので、喝上げや強姦未遂が横行したような過去に比べると、治安はだいぶ改善しているのだとか。

校庭は、昼休みも運動部で一杯。

他にも幾つか棟があるが、どれも寂れている。都市伝説の舞台になりそうな場所も、点在していた。

ぼんやりと、フェンスから向こうを見る。

絵の題材を探すときに、やる癖だ。心を空っぽにすることで、むしろ良く周囲が見えてくる。

気に入ったものが見つかると、それを瞬間的に記憶して、スケッチ。

その後は、ラフから書き起こして、彩色していく。

それが、佐久子のやり方だ。

だが、これの欠点は時間を使うことだ。数日辺りをふらついても、良い題材が見つかるとは限らない。

チャイムが鳴って、現実に引き戻される。

結局、その日は特にこれといったものが見つからなかった。

 

放課後、美術部に出る。

改めて部員を紹介された。ユッカ部長が、順番に紹介をしてくれる。

「彼は副部長の木二島倫二君。 油絵が得意だけど、水彩も出来るよ。 リンリン先輩って呼んであげてね」

「よろしく。 後、出来れば美術部以外でそのあだ名は止めて」

凄く太ってもじゃもじゃの髪の毛、しかも眼鏡と、マスコミで諸悪の根源のように滑稽なプロパガンダを繰り広げているいわゆるオタク層そのものの姿をしている先輩である。女子の中には、握手をいやがる人も出るかも知れない。

しかし絵の方は見せて貰ったが本物だ。技量は高く、芸術性もある。

話を聞くと、美大志望だという。将来はイラストレーターを目指していると言うから、かなり本気なのだろう。

それに対して、非常に見目麗しい、いわゆるイケメンの男子先輩もいる。

「彼は久住院豊成君。 ええと、得意は何だっけ。 ナンパ?」

「ははは、ユッカ君、ひどいなあ」

声までイケメンの久住院先輩は、多分毎日念入りに手入れしていそうな髪の毛を、かっこつけて掻き上げた。

背も高いし非の打ちようが無い美形だが、しかし絵の方は今ひとつのようだ。やる気が無いと言う以上に、才能が欠片も無いのが見て取れる。良くしたもので、勉強の方もさっぱりらしい。

ただし、女子には異常にもてるのだとか。ついでに言うと、家は資産家らしい。所詮世の中はツラと金か。父が時々ぼやいていたことを思い出す。

他にも何名か先輩がいる。この学校では、三年は部活に顔を出してはいけないらしく、ここにいる一年と二年で部員は全てだそうだ。

全員を紹介して貰った後、今度は佐久子の絵を見せる。

周りのレベルが高いので、ちょっと恥ずかしかった。

見せた絵は、花瓶を描いた水彩だ。百合を生けてある、上品な青みが掛かった花瓶は、絵の中央で大きな存在感を見せている。

自慢の絵というわけでは無いが、一応これで賞を取った。だが、周囲に展示されている絵に比べると、やっぱり心許ない。

「わー。 綺麗にまとまってるね」

「技術力は高い」

ぼそりと呟いたのは、石膏像を専門に造っている寡黙な先輩安城光子だ。女子なのだが、いつも眠そうな目をしていて、とても背が高い。なんだか神秘的な雰囲気があるが、実際には単に不眠症なのだとか。それを知らない同性の後輩には妙にもてるそうである。ただし、男は怖がって寄ってこないらしい。

「そういえば、どうしてユッカ先輩が部長なんですか? あまり皆さんをまとめているようには見えないんですが」

「はっきり言うねえ、キミ」

「あ、すみません」

「この美術部は実力主義だ。 一番強い奴が頂点に立つ」

安城先輩が、さらりと怖いことを言う。

まあ、確かにあの画力は圧倒的だ。その部長だが、しばらく前から、水彩画の前で腕組みして考え込んでいた。ちっちゃいので、深刻に考え込んでいるように見えても、何処かかわいらしい。

「ユッカちゃん、何か気に入らないの?」

「駄目だよ木二島君。 入ってる」

「あ、本当だ」

南恵に袖を引かれる。

「ユッカ部長ってさ、時々ああいう風に超集中モードに入るの。 その間はたとえ突き飛ばされても反応無し。 みんな、それを入るって言ってる」

「なんだか凄いですね」

「あの集中力は誰にもまねできないね、正直。 テストなんかでも、結構成績は良いらしいよ。 ただものすごく燃費が悪いらしいけど」

なんだか、分かるような気がする。

ユッカ部長が動き出した。腕組みをほどくと、髪の毛を掻き回しはじめる。今までの愛らしい部長では無くて、表情からして妙に沈んでいるように見えた。別の人のように思えてくる。

「うーん、技量は問題ないんだけど、魂が感じられない」

「わ、来たね。 魂無い宣言」

「ね、佐久子ちゃん。 技術的には問題ないよ。 でも、別のを欲しいって思わない?」

なんだかぞくりとした。

というのも、先輩がこっちを見る目には、何ら感情がこもっていないように思えたからだ。

先輩の方を叩いたのは、安城先輩である。

「ユッカ、後輩が怖がってる」

「! ああ、ごめん。 ちょっと絵のことになるとね」

いつもの表情に、先輩が戻る。

手を叩いて、安城先輩が皆を作業に戻した。先輩もイーゼルに戻った。どうやら教室の一番前は、部長の特等席らしい。其処に座るのが許されるのは、部長だけなのだそうだ。見て分かったが、実際に部を取り仕切っているのは安城先輩か。ただ、カリスマとしての部長がいるのと、実務担当の黒幕がいるというのは、運営方針としてはありなのかも知れない。実際安城先輩はナチュラルに怖いので、周囲の人たちも言うことを聞く様子だ。

しかし、魂が感じられないって言うのは、どういうことなのだろう。

安城先輩が、ぼそぼそと、眠そうな目でフォローらしいものを入れてくれた。

「気にするな。 あの子、美術部員じゃ無くて、芸術家だから」

「……え?」

「趣味でやってる奴とは、根本的に考え方が違うって事。 聞いた話によると、海外留学の話もあるんだってさ。 絵の出来も他の奴とは次元が違うけど、そうなるまでは色々大変だったからね」

「……」

よく分からない。

だが、何となく分かったこともある。多分ユッカ部長は、今まで佐久子が接してきた、趣味で芸術をやっていた人たちとは違うと言うことなのだろう。

その日は、悶々として過ごすことになった。

課題も与えられた。だが、水彩画のモチーフが見つからないこともあり、即座には描けなかった。

 

2、美術館での出来事

 

早朝から、美術室を使っても良いという許可が出た。

元々、凄い絵をさんざん見て創作意欲は沸き立っている。父も一時期に比べると、目を離すと危険と言うほどの状態ではない。勿論、家庭の複雑な話は、まだ誰にもしていなかった。

早朝の美術部はひんやりとしていて、棚に無数におかれている首だけのギリシャ彫刻が、じっと此方を見ているような錯覚に襲われる。だが、実はこの感覚は、むしろ中学時代から慣れ親しんだものだ。

芸術は、孤独なものだと佐久子は思っている。

つまり、芸術に関する信念は、佐久子も持っていると言うことだ。

しかし、そうなると分からない。部長の実力が凄いことは認めるが、どうしてあのようなことを言ったのだろう。

入部から既に一月。

既に暑くなり始めている。最初の課題は、近所の公園の風景画を提出した。部長は苦笑いして受け取ってくれた。言ったのは、最初と同じだった。

技術面は合格。

つまり、他が致命的に足りていないと言うことだ。

持ってきた、色彩に関してのハンドブックに目を通す。色彩のセンスをもう少し磨いておきたいと思ったからだ。

他の人は、どんな風に言われているんだろうと、思う。

イケメンの久住院先輩は、問題外と言われているらしい。もう少し技術を磨かないと駄目だよと、激しい口調では無いが、ちまちまと部長が説教しているのを一度見た。苦笑いしている久住院先輩は、見かけだけは美しかった。

同級生達に聞いたのだが、美術部発足当初は、久住院先輩を目当てに部に入ろうとする女子が結構いたそうだ。最もその全員が安城先輩に追い返されて、部からすごすごと逃げたのだそうだが。

こういう強豪部は羨ましい話である。弱小部だと、そんなのでも取り込んで、部活動の維持を考えなければならないだろうに。

一応、部の運営をしていた事もある佐久子は、その辺りの苦労が何となく理解できる。

しばらく座って考え込んでいたが、どうも駄目だ。そろそろ次の絵を描かなければならないのだが、先輩が言う魂というのがどうにも分からない。

技術力については、中学時代よりも更に向上してきている自信はある。二ヶ月間の空白をどうにか乗り切った今、自分に脂がのってきていることが何となく分かるからだ。絵の方も、以前より手応えがある。

しかし、魂とは何だろう。

チャイムが鳴った。考え込んでいる内に、貴重な時間が終わってしまって、若干げんなりする。

教室に出向いて、着席。生徒は半数ほど来ていたが、まだ全員は揃っていない。このクラスでは、不登校者やサボり魔もいないので、基本的に風邪を引いた者が出ない限りは、全員が揃う。

ここ一月で完全に勉強の遅れは取り戻しはしたが、かなりしんどかった。毎日睡眠は四時間半程度しか取れなかったし、それもかなり眠りが浅かった。

悩み事が多いと、機嫌も悪くなる。

最近は丸くなってきたと周囲に言われるが、最初のニ週間ほどはかなりおっかなかったと、近所の席の女子には良く指摘される。そう言われるたびに、佐久子は恐縮するしか無かった。

あだ名は中学でもサクだったが、ここでもそれが定着しつつある。案の定、話しかけてきた女子も、そう呼ぶようになっていた。

「サク、おはよう。 今日は元気良さそうだね」

「おかげさまで」

「んー、でもまた何か悩んでる? 男の子の事?」

集まってきた女子が、きゃっきゃっと黄色い声を上げている。苦笑いしながらも、正直な話勘弁してくれと思う。

佐久子は両親の問題を間近に見ているので、あまり恋愛に興味が持てない。まだ幼い弟とは引き離されてしまったし、はっきりいってうんざりだ。両親が若い頃熱愛の末に結婚したという話も聞いているので、余計に、である。

「美術のこと。 どうも先輩が言ってることが分からなくて」

「ああ、あのユッカさん」

「聞いてるよ、キモイ絵ばっか描いてるんでしょ? この間見たら、凄い可愛くてびっくりしたよ。 なんだかさー、気味悪いよね」

「……」

女子が集まると、途端に悪口大会に発展することがあるので、佐久子はそれも煩わしかった。

ホームルームが始まってくれたので、女子は散ってくれる。思わず内心ではほっと胸をなで下ろしていた。

それからは、以前よりゆっくり感じられる速度で、授業が始まった。

二ヶ月分の遅れはもう取り戻したので、マイペースに受けられるところがありがたい。だが、心の中のもやもやは、以前よりむしろ大きくなったようにさえ思える。

芸術に籠もる魂というのは、何のことなのだろう。

ネットなどでも調べてみると、確かにそう言うような話は聞かれる。魂が籠もった演奏だとか、絵だとか。

だが、それをどうすれば再現できるのか。どうもよく分からないのだ。

授業はあっという間に終わって、放課後が来る。美術部に出向くと、もう何人か生徒が来ていた。

咳払いしたのは南恵である。

「あんたさ、今朝ひょっとして部長の陰口大会してなかった?」

「え?」

「気をつけなよ。 田舎じゃどうだったか知らないけど、こっちだと女子のネットワークって広くて強力なんだよ。 部長はああいう人だけど、安城先輩は厳しいからね」

「うん。 参加はしてなかったけど、気をつけるね」

イーゼルにキャンバスを掛けて、作業開始。

今回も風景画を描いているのだが、部長はどうも気に入らないようだ。厳しいことを言ったりはしないのだが、技術は良いのだけれどと口を濁す。

そう言われると、何をとも思うのだが。しかし、魂なんて抽象的なことを言われても、どうしても分からないものは分からないのである。

部長が来た。

ちょっと緊張してしまう。

「おはよー。 ごめん、ホームルーム遅れてて」

「ユッカ部長のクラス、今大変なんでしたっけ」

「そうそう。 同級生が傷害罪で捕まってさ」

近辺でも札付きの悪だったらしいのだが、この間喝上げをした生徒に更に数人がかりで殴る蹴るの暴行を加えた所を、警察に逮捕されたらしい。

此奴の場合、たちが悪いことに学校では悪さをせずに、わざわざ電車で繁華街に出かけて、そこで獲物を物色していたらしいのである。だが、悪行にも、ついに限界が来た、というわけだ。

今は喝上げでも逮捕される時代である。まあ、少年院送りは確定だろう。

「それで、どうなりそうなんですか」

「担任が多分替わるかな。 中島センセ、やる気が無かったからしょうが無いかも」

「そうなると、やはり別高から」

「そだね。 まあ、それについては話してても仕方ないよ。 作業開始開始」

ぱんぱんとユッカ部長が小さな手を打ち付けると、皆が作業を開始する。

集中力は人それぞれだが、皆が美術にそれぞれに取り組んでいるのが分かって、この時だけは楽しい。

安城先輩は、そろそろ胸像が出来そうだ。時々歴史の教科書をひもといて、それを見ながら掘り進めている。髭の深いおじさんであるが、誰かはよく分からなかった。

ちらりと、部長がやっている作業を見る。

背筋に寒気が走った。

巨大な怪物、多分ドラゴンが、逃げ惑う人々に炎を吹きかけている。ドラゴンの足下には押さえ込まれた幼児の亡骸があり、ドラゴンの歯の間には引きちぎられた人体が血を滴らせながら挟まっていた。

ファンタジーとしては、ドラゴンは有名な題材だが。ここまで強烈な絵面になってくると、しかも油絵の重厚な雰囲気でこれをやられてしまうと、恐ろしい。

先輩はというと、既に入っているようだ。

ちょっと覗きに行く。参考になるかと思ったからだ。

先輩の近くに見に行くと、ぶつぶつ何かを呟いているのが分かった。先輩は、めまぐるしく表情を変えて、小声で何か言いながら、一心不乱にキャンバスに絵筆をぶつけている。一筆ごとに凄まじい気迫がこもっていて、鬼気迫るというのは多分これのことだろう。

「何? 誰?」

吃驚するくらい、低い声色だった。先輩が喋ったのだと気づいて、背筋が伸びてしまう。

「あ、はい。 参考になるかなと思って」

「……」

先輩が、こっちを見る。

ぞっとしたのは、表情がいつもとまるで違うことにだ。瞳孔は開きっぱなしで、いつものニコニコした優しそうな先輩はどこにもいない。

なんだか、獲物を狩ろうとしている、野生の獣のようだった。

「ごめんね、後にしてくれる」

「は、はいっ! 失礼しました!」

慌てて自席に戻る。

隣で墨画をやっていた南恵が、同情するかのように声を掛けてくる。

「気にしない方が良いよ。 部長の境地には、そう簡単にはたどり着けないって」

「でも、悔しいし。 何かヒントだけでも貰えないかなって」

「うーん、私も魂籠もってないって話は良くされるから、アドバイスは出来ないよ。 ごめんね」

安城先輩ににらまれたので、二人して口を塞ぐ。

そのまま、水彩画に戻る。

技術に関しては、それなりの自信がある。だが、ああいう気迫を込めて一筆一筆描くというのは、どういうことなのだろう。

部長の絵からは、それこそ血に飢えた人食いドラゴンが、今すぐにでも飛び出してきそうな迫力がある。それも、ドラゴンはどちらかと言えばオーソドックスなデザインなのに、体を覆う赤黒い鱗の一枚一枚まで質感たっぷりに書き込まれていて、迫力だけの絵では無い。緻密な計算にも基づいていることが、よく分かる。

部長が、不意にぐったりした。

同時に、安城先輩が、チョコレートを持っていく。たくさん入っている、百円ちょっとのお徳用の奴だ。

「ほら、ユッカ」

「んー」

入っていた部長は、ああいう風に力尽きる。絵が完成するまでは、入るのと、力尽きるのを、部長は繰り返す。

話によると、部長は絵を描き上げるたびに、キロ単位で痩せるらしい。まあ、あの気迫である。それもあり得る話なのかも知れない。

「あんな風に、全力で打ち込めば魂って籠もるのかな」

「どうだろ。 魂が籠もってるって言われたことがあるの見たの、安城先輩と木二島先輩だけだけど」

「木二島先輩も?」

ポスターカラーを使って非常に美しい絵を描いている木二島先輩は、いつもかわいらしい中学生くらいの女の子を描いている。いわゆるアニメ絵では無くて、写実的で、だが女子から見ても愛らしい。

雰囲気が柔らかいのだ。実際にはなかなかいなさそうな清楚な女の子ばかりを描いている。

噂によると、一時期木二島先輩が描く女の子を、久住院先輩が描いたと勘違いした女子がいたとか。まあ、見かけから判断すればそうなるだろう。

見かけが、実際と如何に乖離しているか、良い例だとも言える。

当然のことながら、女子からは木二島先輩は大変に評価が悪い。だが、ユッカ部長は、木二島先輩の絵に、魂が籠もっていると評したのか。

木二島先輩の絵をちょっと覗いてみる。

まだ梅雨だが、先輩は砂浜に立つ白ワンピースの可愛い女の子を、満面の笑みで描いていた。女の子は麦わら帽子を風に飛ばされないように押さえていて、手には赤い小さな腕時計をしている。

足下の波はとても細かく描写され、ヤドカリまでもがいるのが分かる。遠くには、海の家もあるようだ。

「なんだい? ボクの絵に何か用?」

「ええと、絵じゃ無くて、その絵にどう魂を込めているか聞きたくて」

「それは違う。 ボクが魂を込めてるんじゃ無くて、ボクの絵には最初から魂が入ってるんだ」

鼻息荒く木二島先輩が言う。

困った話である。それでは参考にならない。

かといって、ユッカ部長は机に突っ伏して絶賛死亡中だし、安城先輩は怖くて話が聞けそうな雰囲気では無い。多分今大詰めなのだろう。鬼のような形相で、誰かも分からない、歴史上の偉人らしいおじさんの髭をちまちま削っているところだった。

美術部は、六時に終了と決まっている。一時間半ほどきっちりやった後、皆で片付けて、終了となる。

ミーティングもすることがあるが、だいたいユッカ部長は見ているだけで、進めるのは安城先輩だ。皆がそれで納得しているのが面白い。

今日はミーティングも特になかったので、そのまま解散となる。ユッカ部長はまだふらふらしていて、安城先輩に支えられながら出て行った。

「あの二人、幼なじみらしくて、家も隣なんだって」

「へえ。 ツーカーの仲なんだ」

「昔からでこぼこコンビって言われてたらしいんだけど」

南恵によると、あるときその関係が崩れたのだという。

きっかけは、ユッカ先輩に常識離れした絵の実力があると分かったときだ。何でもずっと下積み的な努力を続けてきて、それが開花したらしい。それまで、安城先輩が基本的にユッカ先輩を守るようにしていたのに、一気に脚光を浴びる側が変わった。

それで、二人は一時期ぎくしゃくしたそうだ。

しかし、今では何とも良い感じのコンビに納まっている。きっと、いろいろな苦難を乗り越えた結果、友情は厚くなったというわけだ。

羨ましいと、佐久子は思った。

友達は、いるにはいる。だが、同じ道を行く友達はいない。ずっといなかった。

だから、理解者である人が同じ美術をやっていると言うことは、とても幸せなのだろうと、佐久子は思う。

不意に、南恵が話を変える。

「ねえ、なんだかんだで、ユッカ部長の言うことって正しいと思う。 美術部でずば抜けてるのって、ユッカ部長に安城先輩、それに木二島先輩だもん」

「でも、技術面の問題ってのは、バカにならないよ」

「そりゃあそうでしょ。 美術高でも、そうやって技術を教えて、才能を伸ばしてるって聞いたし。 でも、ユッカ部長が言うところの魂ってのが分かれば、やっぱりなんというか、見てぐっと来る物が得られるんじゃ無いのかな」

確かに、そうかも知れない。だが、それをどうすれば良いのか、分からないのだった。

怖いけど、聞いてみるしか無いか。

そう、決めた。

 

やはり提出した水彩に、あまりユッカ部長は良い顔をしなかった。

腕組みしてじっとキャンパスを見つめているが、それはどう見ても評価している表情では無い。

「技術はまた上がってるけど……。 このままじゃあ、評価できないなあ」

「あの、ユッカ部長」

「ん?」

「魂って、どうやったら籠もるんですか?」

安城先輩が眉を跳ね上げるのが分かった。ちょっと吃驚したが、ここで引くわけにはいかない。

「美術館かな」

「名作を直接見てこいと?」

「うん。 それが一番説得力があると思うから。 近所だと、N美術館かな。 みっちゃん、チケットあったっけ」

「ある」

無言で、安城先輩が机の引き出しからチケットを出してきた。ちょっと割高だが、勉強になると思えば安いか。

顧問の先生は基本的に何もしないそうなのだが、時々こうやって美術関連のチケットとかを仕入れてくれるという。

「はい、あげる」

「ありがとうございます」

「彼氏とかと一緒に行っちゃ駄目だよ。 お勉強のために行くんだから」

「ええと、まだ彼氏はいません」

笑顔のままとんでもない事を言うユッカ部長に、そのまま笑顔で返す。しばらくは作る気も無いと心の中で付け加えたが、或いは安城先輩辺りは、それを読み取っていたかも知れない。

チケットを受け取る。

土日は若干安くなっているようだ。チケットを持っていくと一割引になるそうなので、ある程度高いチケットとは言え、お得とは思える。

美術館がある場所も、二駅先だ。これならば、休日に丁度良い勉強が出来るだろう。

「ありがとうございます」

びしっと頭を下げると、サイドテールにしている髪が垂れた。

「うーん、佐久子ちゃんがもう二歳若かったら、ボクが描いてあげるのに」

そんなことを、木二島先輩が言った。苦笑いするしか無かった。

美術部が終わると、チケットを持って帰宅。家は電気もついていない。今日はシフトからしているはずなのだが、あの事件が起こってから、父はすっかり無気力になった。会社では問題を起こしていないようだが、しかし無理も無い話である。

「ただいま」

返事は無し。

服はまとめて洗濯機に放り込まれていた。すぐに洗濯のスイッチを押して、家事も片付けてしまう。

父は奥の部屋で、ぼんやりとテレビを見ていた。といっても、テレビの前に座っている、というのが正しいかも知れない。多分テレビの内容についても、全く応えられないだろう。抜け殻になってしまっていると言っても良い。

「晩ご飯、リクエストはある?」

「食べてきた」

「そう……」

父の心は、壊れ掛かっている。

電気もつけていなかったので、つけた。この件に関して、父は何一つ悪くない。悪いのは、母だ。

布団を敷いて、自身の部屋に籠もる。

母の写真は全部廃棄した。もう、弟を略奪したゲスだとしか思っていない。

ベットに転がると、顔を叩いて、美術のことに頭を切り換える。家のことを考えていても、胃を痛めるだけだ。

今度の土曜に、美術館に行く。一人で。

パソコンを立ち上げ、ネットを使って、検索してみる。そこそこに大きな美術館だ。展示されている芸術は、正統派の西洋絵画が多い。模写もかなり置いてあるようだ。

その中に、ゴヤの絵が幾つかあった。

我が子を喰らうサトゥルヌスは無い。ただし、模写は置いているようだ。それについては、ネットで予習を兼ねて調べてみる。

すぐに出てきた。有名な絵だからだ。

何度見ても、凄まじい絵である。

髪を振り乱した裸の大男が、子供の死骸に頭からかぶりついている。鮮血がこびりついた子供の死体には、片腕が既に亡い。大男の目には、凄まじいまでの妄念と狂気が映り込んでいた。

情報によると、この絵は後世修正が加えられているという。内容を見て呻いた。子供を喰らうという凶行を犯していたこの巨人、股間が勃起していたのだという。

ついでなので、下調べだ。題材についても調べてみる。

ローマ神話の、主神ユピテルの父サトゥルヌス。ギリシャ神話ではクロノスと呼ばれる存在が、このおぞましい絵の主人公だ。

ローマ神話と共通する部分が非常に多いギリシャ神話は祖父ウラヌスから孫のゼウスまでの、骨肉の争いの神話である。天空神ウラヌスを追いやったクロノスは、あるとき信託を受ける。ギリシャ神話では、この予言は、神々にとっても大きな意味を持っていた。この流れは名前こそ違えどローマ神話でも変わりない。

その内容は、自身が子に取って代わられるというものであったそうだ。

クロノスは、サトゥルヌスは恐怖した。父を追いやったように、自分が今度は追いやられる番だと気づいたからだ。

だから、自分の子供を、片っ端から食べてしまった。

ギリシャ神話でもローマ神話でも、その後この恐怖の惨劇から逃れた子が、兄弟姉妹を父の腹の中から救い出す。それを行ったのがギリシャ神話ではゼウスでありローマ神話でのユピテルだ。やがてユピテルはサトゥルヌスを打ち倒し、神話での主権を手に入れる。

だが。ゴヤが描いたこの絵では。

おぞましいまでのリアリズムが追求され、神話的な神の吸収などでは無く、子供を丸かじりする父親という狂気の怪物が真正面から描かれているのだ。子殺しという最悪のタブーを、狂気から行う文字通りの化け物。倫理を踏みにじり、邪悪を極限まで追求したような、その凄まじい絵。

人々が恐怖したのも無理は無い。

ふと、ユッカ部長の、絵を描いているときの顔が浮かんだ。

凄い形相だった。

普段はとても可愛い人なのに、あの凄まじいギャップである。クラスでも距離を取られているという話だが、さもありなん。あの集中力と、絵を描いているときの様子を見たら、イメージが180度反転する。

それにしても、こんな恐ろしい絵を描いたゴヤというのは、どんな人だったのだろう。

続けて調べてみる。こっちに関しては、学校で借りた参考資料も見てみた。

ゴヤは18世紀から19世紀に掛けて生きた画家で、宮廷画家だったと言うから、超エリートである。

だが、どうも作品を見ていくと、妙なことに気づく。

たとえば、宮廷画家として召し抱えられた後、スペインの王室を描いた絵。

一見すると写実的でリアルな絵に見えてくるのだが、細部におかしな部分が散見される。登場人物達の陰険そうな顔と言い、それにひねくれきった雰囲気がどうもおかしい。それに面白いことも分かった。この絵に、ゴヤは自身を描いているというのだ。

普通、要求された王室の絵に、自分の姿を紛れ込ませたりするだろうか。或いはそれも当時は普通だったのかも知れないが、おかしな点はそれだけでは無い。

また、ゴヤは病気で聴力を失ったのだという。そしてその後、ナポレオンによって祖国を蹂躙される。

ナポレオンと言えば英雄のイメージしか無かったので、ちょっと衝撃的だったのだが。フランス軍とスペインの民衆は凄まじい激突を繰り返し、どちらにも甚大な被害が出たという。

ナポレオンの下で当時ヨーロッパ最強だったフランス軍は、ゲリラ戦の泥沼に引きずり込まれ、やがてこれがナポレオンの失脚の一因となったそうだ。だが、スペイン側も相当な被害を受け、ゲリラ戦でヒステリーを起こしていたフランス軍によって、多くの民衆が虐殺されたという。

この時の様子を描いた絵もある。

躊躇無く民に銃を向ける兵士達と、恐怖に引きつる民衆の姿。

戦争の時代に生きていた人の描いた絵である。これを、反戦主義がどうのこうのというのは少しおかしい気がする。主義主張の前に、ゴヤはきっと自分が味わった戦禍と恐怖を絵にしたのでは無いかと思えてくる。

やがて、ゴヤは思想統制によって住みにくくなった祖国から逃れ、怨敵であるはずのフランスに亡命。

そこで一線を退き、しかし多くのおぞましい恐怖に満ちた絵を描いた。

一連の絵を黒い絵と呼称する。

そしてその中でも最も有名なものこそ、我が子を喰らうサトゥルヌスと言うわけだ。

幾つかの資料を見ていくが、大差ない情報しか出てこない。当時の情勢を思うと、巨人と呼ばれたゴヤが、どれだけ苦しい社会情勢の中で生きてきたのか、何となく見えてくる。反戦主義に走ったのも当然だろう。壮絶な戦争の中に直接身を置かれたのだから。戦争に怒りよりもむしろ恐怖を感じていた様子は、幾つかの絵から如実に伝わってくる。そしてこれらは空想から描かれた絵では無く、ゴヤが間近で見た現実から生じたものだ、という事が重要になってくるのは、佐久子でも分かる。

一旦パソコンを落とすと、ベットに転がった。

少しずつ、ゴヤという人が見えてきた。

だが、それでも所詮まとめられたごく一部の側面に過ぎないとも言える。明日、しっかり美術館でゴヤの絵を見てきて、その人となりを知ることが出来ると良いのだけれど。

そう、佐久子は思った。

 

父は朝から出かけた。シフトで仕事をしている父は、具体的に何をしているのか、昔はよく分からなかった。

幼い頃に何度か聞いてみたことがあるが、みんなのためになる仕事だ、としか応えてくれなかった。

最近、その具体的な内容を知った。

父は身寄りの無い死体などを処理する、専門の業者の人間だったのである。

孤独死した老人などは、死後かなり経ってから発見されることが多い。そんなとき、特に夏などは、現場は文字通りの地獄絵図と化している。

個人の邸宅ならまだいい。

だが、マンションやアパートでそういった事件が起こった場合、専門の業者が呼ばれる。

死体を処理した後、部屋中に沸いている虫を処理し、臭いを取って、中の状態を元に戻さなければならない。

勿論、当分は人が住めなくなる場合もある。

だが、特に安いアパートなどでは、そうもいかない。前に住んでいた人間など気にしない場合も多く、そういったときには、父のような人間が働かなければならない。

父は、最初は葬儀屋に勤めていたそうだ。

だが、会社が潰れたり統廃合されたりしている内に、この仕事に配属された。今では人の死を見ても、何とも思わなくなってきているという。心がすり切れるほど、無惨に変わり果てた人の末路を見続けてきた父。

それでも、人の最後を看取り、最後の尊厳を守る仕事だと思い、歯を食いしばって頑張ってきた。

そんな父に、母は最悪の形で報いた。

部屋を出ると、鍵を掛ける。父はシフトで仕事をしているが、「作業」が入った日には帰ってこられない事も多い。そもそもこの業界、仕事が入ったら呼び出されるというパターンの会社が多いらしく、父のようにシフトを組んで出来るだけその範囲内で仕事という所はまず無いのだという。

かって葬儀屋だった名残だそうだが。その分負担が小さいと、父は寂しく笑っていたものだ。

今日は休日。

外を歩いている人間は、基本的に皆私服だ。別に美人でも無い佐久子は、今の時点では殆どナンパに遭うことも無い。美術館に行くと言うこともあって、質素なワンピースにした。化粧もしていない。足下はサンダルだが、指先があまり出ないタイプだ。これは安全性を考慮してのことである。おしゃれよりも、実利を優先してしまう傾向がある自分に、時々嫌になる。

駅まで五分ほど歩いて、其処から電車に乗る。しばらく揺れて、二駅先に。

住んでいるベッドタウンよりは若干都会だが、まだ沿線には田畑が見える。神奈川は不思議な県だ。非常に発達していると思うと、端の方に行くと田畑がまだまだ十二分に健在な姿を見せている。

空中回廊のように歩道橋が走っている駅前を歩いて、バス停に。歩道橋は縦横無尽に走っていて確かに便利なのだが、若干道がわかりにくい。途中で何度か標識を確認しながら降りて、バスを確認して、乗る。ここから美術館は直通だ。帰りもその気になれば歩いて帰れる。

思えば、美術部なのだから。これくらい熱心に芸術に触れるべきなのかも知れない。

家のことは忘れて、チケットと、取り寄せたパンフレットを見る。

昨日のうちに確認したが、敷地面積から言っても、かなり立派な美術館だ。内部空間は広く取られていて、近代的な前衛芸術もかなり置いているらしい。

席に座って、パンフを見ているときが一番楽しい。休日だが、バスの利用者は少なく、結構良いところに座ることが出来た。だからこそに、乗っている時間は短く感じた。

バスの停止ボタンを押して、バス停で降りる。カードを使って、残高が少ないのを見てちょっとげんなり。帰りは歩いて行こうかと思った。

バス停から少し行くと、すぐに美術館だ。

美術館自体は、オレンジ色の煉瓦で作られた四角い建物で、ぱっと見美術館とはすぐには分からない。だが、休日の割には人が多いのと、入り口に飾られている訳が分からない前衛芸術で、何となくそういう建物なのだと分かる。

近づいてみると、建物の周囲には溝が掘られていて、水が流されている。水の中には魚も飼われているようだ。

植え込みにはいろいろな木が植えられていて、珍しいものもかなりある。よく見ると、なかなか工夫が凝らされている。多分、よく見て楽しい工夫を発見して欲しい、という意図があるのだろう。

中に入る。

これでも美術部だ。中学の頃からずっと、である。

芸術には興味がある。勿論、何時代の芸術しか認めないというような、偏屈な考え方もしていない。

だから、純粋にみて回るのが楽しかった。

カップルもかなりいたようだが、あまり興味は感じない。模写による名画の展示コーナーに足を運んで、ついにその絵を目の当たりにした。

ゴヤの、我が子を喰らうサトゥルヌス。

周囲に人が少ない。というよりも、あまりにもおぞましい絵だから、だろう。人を遠ざけてしまうというわけだ。

絵の周囲には柵があるが、多分それが無くても心配ないだろう。わざわざこれに触ろうという人はいないに違いない。

間近で見ると、模写とはいえ圧倒的な存在感だ。

立ち尽くして、見上げる。

我が子を食いちぎり、頭から丸かじりする狂った神々の権力者の姿が、絵の中に強烈に浮かび上がっている。目に浮かんだ狂気、体をくねらせながら、我が子を口に押し込む様子、いずれもがおぞましいまでの狂気に充ち満ちている。

勃起した股間は描写されていなかったが、その程度でこの絵の恐ろしさが和らぐ訳も無い。

まるで美術館の主のように、我が子を喰らうサトゥルヌスは、其処に鎮座していた。

その恐ろしさは、狂人を間近で見ているのと、何ら遜色が無かった。

他にもゴヤの絵が幾つか展示されているが、ゴッホの絵とは違って、此方にはあまり人が集まってきていない。

ふと、それが気になった。

すぐ隣に展示されているゴッホの絵(此方は本物が一点だけ混じっていた)も、よく見ると描いていた時の精神状態が露骨に現れている。調べたところに寄ると、ゴッホはアブサンでかなり脳をやられていたらしい。有名な耳を切り落とした事件以外にも、様々な奇行で知られていたそうだ。

だが、その割には、人々は集まってきている。

ゴッホの強烈な黄色の使い方など、まんま狂気じみているのに。どうして人を遠ざける狂気と、近づけるものとに別れてしまったのだろう。

少し考え込んだ後、美術館の中にある食堂に移動。

オレンジジュースを買って、適当に飲みながら、考えた。

それにしても、強烈なインパクトだった。

あの場から離れて、しばらくぼんやりしていても。脳の中に食い込んでくるかのように、サトゥルヌスの姿が浮かんでくる。

ネットなどで見たのとは、根本的に迫力が違う。

勿論模写だから、本物はもっと凄いのだろう事くらいは見当がつく。だが、それにしても、である。

あの絵の構図と、再現された狂気だけは、生半可なものではなかった。

ぼんやりしている内に、気づいてくる。

ユッカ部長のいう魂というのは、ああいう強烈な存在感を生んでいるものなのではないか。しかし、それはあくまで後付けの筈。

魂を込めて描いたから、彼処まで人を引きつけるものができたのだ。それは分かる。

だが、その込め方が、まだよく分からない。

模写とはいえ、あれを描いた人は、どんな風にしたのだろう。興味が、せり上がってくるようにわき上がってきていた。

 

食事を終えた後も、しばらくずっとサトゥルヌスを見上げていた。

不意に、声を掛けてくる奴がいた。ここは美術館だから静かにしないといけないのにと思い、若干不機嫌を感じて振り返る。

少し年上の、綺麗な女性だ。腰まで垂れている美しい黒髪が印象的である。

どうせこの辺りには人もいない。まあ、通行の邪魔にはならないだろう。

「この絵に興味があるの?」

「ええ。 部長がこの絵が大好きで、いずれ描いてみたいって言っていて。 それで、興味があって、見に来たんです」

「まあ。 面白い部長さんね」

「私より背が低くて、なんだか全体的にちっちゃくて、凄く可愛い人なんですよ。 でも、美術をするときは、人が変わっちゃって」

流石に邪魔になると思ったので、場所を変える。

この人は雰囲気から言って、美術の先輩だろう。美大の人なのか、或いはイラストレーターとかか。プロの画家だったらなお良いのだが。

行く途中に話すと、どうも美大の人らしい。出身校は違うが、佐久子が通っている美術部のことは知っていた。

「ああ、ひょっとして湯川さんの事?」

「部長を知っているんですか」

「そりゃあもう、ね。 コンクールで決勝を争った仲だもの」

美大の人間も出しているコンクールで、決勝をかっさらったのか。なるほど、ユッカ部長の実力は、なかなか以上に凄い。

さっきの食堂で、サンドイッチを頼む。二人でつまみながら、話をした。

自己紹介をしてくれる。女性は雨傘奈々子というらしい。綺麗な人だが、恋人はいないのだそうだ。

ユッカ部長を知っていると言うことで、魂を込めることについて聞いてみる。そうすると、奈々子さんは苦笑いした。

「そうか、あの子がそんなことをね」

「はい。 同級生や先輩はあまり参考にならなかったので。 芸術に魂を込めるのって、どういうことなんでしょうか」

悔しいが、今はそれが「ある」事ははっきり分かる。あの我が子を喰らうサトゥルヌスを間近で見た今、それが模写であっても、痛烈な狂気と恐怖以上に、何か込められたものは感じるのである。

だが、それがどうしても、何なのかよく分からない。

「それじゃあ、芸術って何だと思う?」

「え? 凄くマクロな定義のような……。 ええと、表現の技術、でしょうか」

「そうね。 でも、表現するものには、何か共通する事があると思うの」

「……ええと」

分からない。

髪を掻き上げると、奈々子さんは教えてくれる。

「それは、その人の心そのものよ」

 

3、表現すべき事

 

帰りのバスの中で、佐久子はずっと言われていたことについて考え続けていた。

芸術とは、心そのもの。

優れた技巧を用いて現すのは、内面世界である。

なるほど。

そうなると、芸術とは、魂の映し鏡というのも頷ける。確かにユッカ先輩が言うように、今まで手がけてきた佐久子の絵には、自分の心によるバイアスが掛かっていなかったのかもしれない。

しかし、何でもかんでもむき出しの心を表現すれば良いというわけでは無いだろう。

たとえば、下劣な欲望や願望を表現したって、人を感動させることは出来ない。なぜなら、そんなものはどこにでもあるからだ。盛りがついた中学生や高校生だったら、男子でも女子でも心の内に秘めている。

よほどの技量で表現されたものでもない限り、どこにでもあるものに感動する者はいないだろう。

だが、それを越えるものならどうか。

ここに転校してくる前の二ヶ月ほどで、佐久子は人の業を見た。

父の職業に以前から不満を持っていた母は、浮気をしていた。相手はホストで、父が稼いだ金をさんざんつぎ込み、弟はそのホストの子供であったらしい。

散財がばれた時、母はこう言った。

あなたは汚いし臭い。

私を愛してもくれなかった。

そんな馬鹿な話は無い。父と母は恋愛結婚だったはずだ。それに、父は信念を持って仕事をしていたはずで、それに関しての理解も母には何度となく求めていたはず。

それを汚い、臭いとは。

何度となく、激しい喧嘩が繰り広げられた。

問題は、父がある程度の資産を親から受け継いでいたこと。佐久子が聞いた話によると、億に近い金額であったそうだ。ホストがその金を目当てに母に近づき、背後には暴力団がいたこと、が、問題を更に大きくした。

早めに父のいとこが法律事務所に相談し、警察に介入させなかったら、佐久子は父と一緒に殺されていたかも知れない。

すったもんだの末、逮捕者こそでなかったが、佐久子はもう表を歩けなくなった。高校に入ったばかりだというのに、母がホスト狂いだとか噂を立てられ、露骨に変な奴も近寄ってくるようになった。

地獄だった。

父と母の離婚が成立するまで一月。慰謝料を取ることは出来なかった。

別れるときには、母はホストにもフられていたらしい。父の資産を奪えなかった時点で、中年の女などには何の興味も無かったのだろう。それはそうだ。ホストなんかそんな程度の連中である。連中がやっているのは一種の性風俗であり、愛情などあると勘違いする方がおかしい。

高校生になりたての佐久子でさえ知っている事なのに。どう母の心に潜り込んだのか知らないが、ホストの男は全てを壊していった。そして何の責任も取らなかった。まあ、当然の結果だ。水商売系の人間に夢なんか見て入れ込む方が悪いのだから。

母は精神を病んだまま実家に戻り、弟も連れて行かれた。だまされたのだとか言っていたが、知ったことでは無い。佐久子でさえ、同情できないと思った。協議離婚は成立したが、何もかもどうでも良くなったらしい父は半ば廃人になった。

家も引き払い、此方に引っ越してきて。

心に傷を受けたまま。佐久子は生きている。

その傷をさらけ出そうとは思わない。

だが。

ホストのクズ男を断罪しなかった社会にも。

佐久子を、あのカス女の娘だと言って蔑視した周囲の連中にも。

弟を、連れて行くことを許した法律にも。

何ら責任が無く、しっかり義務を果たし続けた父を負け犬とあざ笑う周囲の連中にも。

怒りは。

滾っていた。

不意に天啓がひらめく。

そうか。分かった。私が持っている最大の情念こそ、本当は胸の奥に秘め込んでいたこの怒りだ。

ゴヤは狂気と恐怖だった。それに、多分体制への反発もあっただろう。ユッカ先輩は、まだ分からないけど、何か獰猛な感情が心の奥にあって、それを表現している。佐久子は。佐久子はこの怒りを、思うままにキャンバスにぶつければ良い。だが、題材は何か良い物が無いか。

芸術には芸術だ。

無言で、佐久子は家に帰った後、パソコンを起動した。ネットをあさる。

何か良い題材は無いか。文学でも音楽でも良い。この鬱屈した怒りを、全てぶつけられるような、代弁できる作品が良い。

風景画は、今回は書く気にならない。或いは、爆発中の火山か何かだったら、描いてみても良いかも知れない。

水彩画に関する愛着はある。だが、何というかこの情念、たたきつけるには油絵が適しているような気もする。

だが、慎ましい生活を選んでいる父に迷惑は掛けたくない。

しばらく、無作為に検索をしていて、見つけた。

良い題材が、あった。

 

次の日の夕方には、題材が通販で届いていた。

東北地方に伝わる民話である。かなりマイナーな民話で、あまり知られていない。発生したのは意外に最近だとも、もっと古くから題材があったのだとも言われるが、詳しいことはよく分からないという。

単独で本が出ていることも無く、民話を集めた説話集の中に収録されていた。

石姫昔。

ざっと見たが、理想的だ。これが実話を元にした寓話なのかどうかは分からない。だがこの燃え上がるような負の情念、民話という物が持っている生の力に際限なく近いと言える。

佐久子だってもう高校生だ。

子供用に絵本にされている昔話が、当たり障り無く話を変えられている事くらいは、当然知っている。

本来の民話はエロティックでバイオレンスで残虐で、もっと単純に民衆が持つ欲求と破壊的な願望をストレートに秘めたものなのだ。

登校する。周囲の生徒達が、ぎょっとした様子で、佐久子を見た。

「あれ? 佐久子、どうしたの?」

「どうしたのって?」

「な、なんだか目が怖いよ。 形相が違ってるっていうか、その」

「ちょうど美術に題材にしたい作品を見つけたから。 ちょっと絵を描きたくて描きたくて、仕方が無いんだ。 あー、はやく放課後来ないかなあ。 早く絵に描きたいなあ」

くすくすと笑うと、男子も女子も、周囲から離れるのが分かった。

別に構わない。

人間は狂気を恐れる。それと同じように、様々な感情の発露に、拒否反応を示すことも多い。

もしも、それで人が離れるのだとしたら。

佐久子は、それでも別に構わないと思った。

授業を終えた後、美術部に早足で向かう。

周囲の生徒達が、佐久子を見てぎょっとするのが分かった。手にしているのは鞄。中に入っているのは、説話集。

美術室に入る。

他の人も、もう何人か来ていた。南恵が、小声で話しかけてくる。

「どうしたの? 佐久子が凄いおっかないって、泣いてる生徒もいたって」

「ああ、一つ分かったの」

「え?」

「魂、絵に込められるかも知れない」

美術の道具一式を取り出す。

筆を水に入れて柔らかくし、キャンバスをじっと見る。

これから、怒りをたたきつけるべき場所だ。にやりと笑ってしまった。そうだ、己の中にある感情を、ことごとく、余すこと無く、何もかも残さず、目の前の白を灰燼に帰す勢いで、たたきつけろ。

まずは下書きだ。

 

石姫昔。

むかしむかし、陸中の山奥に小さな神様が住んでおりました。

山に住む白蛇の化身である神様の名を、石姫様と言いました。

石姫様には多くの家臣がいましたが、皆父や母に仕えていた者達ばかりで、石姫様が心を開ける相手は一人もいませんでした。

退屈で孤独な毎日。ところがそれは、突然終わりを告げます。深手を負った武士の若者が、山奥に逃げ込んできたからです。麓で戦があったのか、若者の体には何本も矢が刺さっていました。

食べてしまおうかとも思った石姫様ですが、情がわいたのか、若者を手当てしました。ですが、若者はいっこうに良くなりませんでした。

敵国が雇った恐ろしい山伏により、呪いをその体に掛けられていたからです。

 

ぶつぶつと呟きながら、構図を決めていく。

同級生達が、佐久子を見てひそひそと話をしている。

そういえば、今日はユッカ部長はいない。

最初に、ユッカ部長に見て欲しい。

 

石姫様は、いつしか若者の事がとても大事に思えていました。だから人の姿になり、手当をしました。

しかし、若者はいっこうに良くなりません。呪術に詳しい他の山の神様に見せても、お手上げだと言われるばかりでした。

若者は、石姫様に感謝の言葉を述べました。

私のようなものをかくまってくれてすまない。

石姫様は返します。

貴方がいて、私の寂しさは紛れた。

しかし、さらなる破滅が訪れます。

若者に呪いを掛けた山伏が、武士達と一緒に、若者にとどめを刺しに来たのです。

 

山伏というガジェットについては、説話集によると陰陽師だったり、別の山の神であったりする事もあるらしい。若者を殺しに来た理由も様々で、伝わっている話によって異なっているようだ。

いずれにしてもはっきりしているのは、若者を守ろうとした石姫は戦に敗れた。そして若者は、力を封じられてしまった石姫の目の前で、恐ろしい敵によって殺されてしまった、という事だった。

舌なめずりをする。

山伏はよほど若者を憎んでいたのか、若者をその場で恐ろしい呪術によって翡翠の塊にし、打ち砕いて連れてきた部下達に分けてしまった。

これで若者の心も体も、永遠に一つになる事が無い。永久の年月、苦しみ続けるがいい。

そう、邪悪な敵対者は嗤うのだった。石姫は文字通り石に封じ込められてしまい、血涙を流してその有様を見守るしか無かった。

残虐な運命は、若者に静かな死さえも、許してはくれなかったのだ。

キャンバスに、鋭く鉛筆を走らせる。

これだ。

己の感情をぶつけるこの心。

これだけなら、誰にでも出来る。だが、誰よりも強い情念をぶつけ、それを技巧で形にすることで、芸術が出来る。

魂とは、下劣な情欲では無い。

己の心にある、最も強い何かではないのか。

下劣な欲望を、創作上でかなえることなど、誰にだって出来る。それは最も汚れた魂の示し方。

だが、闇であろうが、負であろうが。最も己の中にある強い感情を、技巧によって磨き上げ、示すことが出来るのなら。

それこそが、芸術と呼ぶべきものなのではあるまいか。

 

何百年か後、復讐を誓い力を蓄えた石姫様は封印を破り、表に出ました。

そして、若者の変わり果ててしまった翡翠を集めるべく、動き出しました。

時に部下を遣わし、時には己が巨大な蟒蛇となって郷を襲い、若者の欠片を集めたのです。

しかし、多くの人間を殺しながら若者を集めていく内に、気づきます。

翡翠は磨かれてしまったり、散逸しまったりしていて、集めたところで元に戻らないと。

それに仮に集めることが出来たとしても。

若者の姿は、山伏に残虐に嬲り殺されて、無念の苦痛を浮かべるあのときのものなのだと。

そして気づきます。

石姫様は、若者の事を、こうも愛していたのだと。

嘆き悲しむ石姫様は、どうにかして若者を救えないかと思いました。

空を見上げると、其処には闇だけがありました。今宵は月も出ていません。

ああ、あそこなら。

もう人間に若者の事をむしばまれることも無い。心はばらばらになってしまったとしても、これ以上汚されることも無い。

多くの恨みを買った自分の所にいたら、若者はきっとまたばらばらにされてしまうだろう。

それならば。せめて、輝いていて欲しい。

石姫様は、涙を流しながら、若者が変じた翡翠の欠片を、空に送り出しました。

それからというもの、空には無数の星が輝いていると言うことです。

 

この説話には、原型となる話が複数存在しているという。その中には、西洋の昔話もあるのだとか。

そもそも、古代の民話でも、星については様々な解釈があったという。星をモチーフにするアマツミカボシという邪神が、日本神話でも最強の邪神の一柱として扱われているのは、この民話の周辺を調べていて佐久子も学んだ。

そういう意味もあって、この民話は成立時期がよく分からない、極めてマイナーな物として扱われているらしい。或いは江戸時代辺りに、物語として作られた物なのかも知れないという話も載せられていた。そうだとしても、原型となった複数の話があるのは、ほぼ間違いないだろうと言うことであったが。いずれにしても、民話としてまとまった時期は、一番早くても17世紀前後だろうという事である。

それらの背景も含め、ひたすらに鉛筆をキャンバスに走らせる。知識は作品に肉をつける。絵にしても小説にしてもそれは同じ事。豊かな世界を抱えたものほど、情報量は多くなる。

奥行きは広がる。

程なく、構図が出来た。

しばらく微修正を繰り返して、それで完成図にまで仕上げる。だいたい四時間ほど掛かった。

当然一番最後になってしまっていたので、自分で美術室を閉めて帰った。ユッカ部長さえ、残っていなかった。

作業途中のことは殆ど覚えていない。

だが、妙な達成感があったのは事実である。

帰り道、ずっとニコニコしていたかも知れない。同級生には会わなかったが、それは幸いだった。

家に帰ってからも、高揚して興奮して、すぐには眠れなかった。父はまだ帰宅していなかった。

パソコンで、ネットに繋ぎ、更に石姫昔について調べる。蛇の生態や、当時の民俗についても、徹底的に調べ上げた。石姫は蛇だ。蛇がどんな風に動くのか、どんな風に生きているのか。知りたい。

更に言えば、アルビノである白蛇は有名な存在だ。それについても、詳しく知識を得たかった。

翌日の朝は、父が夜中に帰ってきたのを確認し、朝食だけつくって早めに出た。

一刻も早く、絵に取りかかりたかった。

構図を確認して、もう一度微調整。すぐにチャイムが鳴ってしまった。

授業中は、ずっと絵のことばかり考えていた。恋する乙女になったかのようだ。相手は男では無くて、取り組んでいる絵だが。

それでも、予習は一応しておいたので、授業中に困ることは無かった。

気がつくと、昼食も取らずに、絵のことだけを考えていた。

「佐久子、どうしたの?」

隣の男子が話しかけてくる。

転校の初日に話しかけてきた、なよっとした市原だ。最近分かったのだが、案の定、周囲からもオカマだと思われているらしい。

本人は違うと言っているが、普通の男子よりも、接しやすいのは事実だ。

「恋人が出来たの。 んー、ちょっと違うか。 絵が今までは漠然と好きだったんだけど、本当に好きになったって感じかな」

「なんだか怖いよ?」

「今はしばらく熱病から冷めないと思うから、放っておいて?」

「そういうならそうするけど。 周り中どん引きしてるみたいだし、目が覚めたらフォローした方が良いよ」

適当に相づちを打つ。

周囲に併せるなんて、どれだけくだらないことだろうと思ってしまう。

別に佐久子は今、道義に反することをしているわけではないし、反社会的行動を取っているわけでも無い。

敢えて言うならコミュニケーションを放り投げているかも知れないが、それだけだ。それで誰かが損害を被るとでも言うのだろうか。

ただ、面倒な連中に、転校直前に絡まれたことを思い出す。

今後は武術か何か、少し学んでおいた方が良いかもしれない。そんなことを、漠然と佐久子は思った。

その日の夕方から、彩色に入った。

既に、飽きるほど構図とはにらめっこして、どこに何の絵を置くか、決めていた。だから、比較的、彩色自体は楽だった。

元々、水彩の技術そのものは、我流ではあったがそれなりに自信はあったのだ。

だから、意外に筆の滑りは悪くなかった。

 

ほぼ一週間が掛かった。

その間、この絵のことばかり考えていた気がする。

サイドテールに結わいていた髪が若干伸びすぎていたことにも、しばらく気づかなかった。

足りない資料に関しては、金に糸目をつけず取り寄せた。どうせ今まで、小遣いは殆ど遣うことも無かったのだ。父が振り込んでいてくれた金は、結構な額が貯まっていた。それを惜しむこと無くつぎ込んだ。

読書はさほど得意では無かったが。取り寄せた本は、その日のうちに全部読んでしまった。とにかく、脳が情報を欲していた。乾いた土が水を貪欲に吸い込むように、知識を片っ端から脳細胞が喰らうのが分かった。

その後の充足感も、今までに感じたことが無いものであった。

焼け付くような怒りをたたきつけたキャンバスにも、毎日嘘のように変化が出る。完成に近づいていると言うこともあるのだが、それ以上に得た資料によって、微調整を加え続けているのも大きかった。

彩色は、一切手抜きしなかった。まずいと思った箇所は、何度でも色を加え直した。構図はもう頭の中に完全に入っているので、何度でも書き直すことさえした。

三回連続で、食事を抜いたことさえあった。

数キロは痩せたかも知れない。

今まで、これほど脳細胞を酷使したことは無かっただろう。気がつくと、胃も焼けるように痛かった。

だが、それを考えてもなお。

絵ができあがった今、不思議な充足感があった。

なんだか分からないが、肩を揺すられていた。我に返ると、南恵が側で佐久子を見ていた。

「しっかりして!」

「え? ああ、ええと。 絵は?」

「よく分からないけれど、完成してるの?」

「……うん」

キャンバスを見て、だらしなく笑みをこぼしてしまう。

其処にある絵は、なんだか今まで描いてきたものとは、根本的に別物のように思えていた。

怒りは、静の中に込めた。

空を見上げる大蛇。その前身は、アルビノそのものの白である。アルビノは純白では無く、むしろピンクに近いことも勉強して知っている。だから、真っ白というわけでは無く、色には手心を加えた。

そして見上げた先の空は、血をぶちまけたような赤。

垢の中に浮かぶ、翡翠の色。それも無数に。

地面は荒廃しきっている。その周囲にある闇には、無数の視線が浮かび、所々点々としているのは髑髏だ。

石姫昔の最後の場面。

愛する若者をどうしても救えないと知った石姫が、空に送り出した時の図である。その後の石姫の運命も、その焼け付くような怒りも。全てキャンバスにたたきつけて、込めたつもりだ。

技術も、勿論最大限に駆使した。ユッカ部長も認めてくれていた技術だが、しかしこのたたきつけた感情に比べると、添え物でしか無い事がよく分かった。

これが、これこそが。

魂を込めると言うことか。

なんだか、全身が脱力しきっている。

肩を叩かれる。

振り向くと、満面の笑みを浮かべたユッカ部長だった。

「おめでとう。 魂が籠もってるね」

「部長……」

「あ、泣かないで。 みっちゃん、チョコレートある?」

「安物だけど」

ブロックのチョコを出してくれた。

渡された分を、幼児のようにがっつく。脳細胞が、糖分を欲しているのがよく分かった。頭が酸欠状態である。

力を使い切ったのだと、実感できていた。

「みんな、佐久子ちゃんの絵、出来たみたいだよ」

「どれどれ」

ユッカ部長が手を叩くと、皆がわらわらと集まってきた。

なんだか、それだけで満足だった。たとえ酷評されても良い。賞とか、評価とかに結びつかなくても良い。

今はただ、己の全てを込めて、やり遂げた。

それだけで、何もかもを得られたような感触さえあった。貰ったチョコを、いつの間にか食べ尽くしてしまっていた。

「安城先輩」

「ん?」

「もっと、チョコありませんか?」

「みっちゃん、もっと出してあげて。 佐久子ちゃんげっそりしてる」

鏡を見て、びっくりした。

目は落ちくぼんでいるし、充血していた。髪の毛も乱れている。目の下には、隈さえ出来ているでは無いか。

そうか、これが何かに打ち込むと言うことだったのか。

己の全てをたたきつけるのはどういうことか。この年になって、はじめて佐久子は知った気がした。

 

4、炎と芸術

 

美術館に足を運ぶ。

勿論まだまだ巨匠には及ばないだろうが、絵に魂を込めると言うことを、佐久子はようやく知ることが出来た。

だから、美術館に向かい、今までとは違う視点で絵を見たかった。

今まで好きだったミケランジェロの絵も、全然違うものに見える。勿論模写であっても、そこには強烈な光彩が瞬いているようにも思えた。

漠然と好きなだけだった絵だが。今は何というか、魂が洗われるような感動があった。

どうもある程度以上の作家は、多かれ少なかれ、同じような傾向があるらしい。

プラスの感情を込めた絵だけでは無い。巨匠だからこそ、どうしようも無い心の闇が込められた絵も、また多い。

ゴヤの絵も、その一つだ。

ぼんやりと、我が子を喰らうサトゥルヌスの絵を見上げる。模写とはいえ、この構図を考えたとき、ゴヤはどんな精神状態だったのだろう。

ゴヤの絵には、無言の権力批判が込められているような気がする。最初の方から、ずっとだ。

この化け物のような老神が、我が子供を喰らう狂気の図には、それが凝縮されているような気もした。

「あら?」

「お久しぶりです」

声に振り返ると、奈々子さんだった。

挨拶を交わした後、軽く雑談しようと思って、場所を移す。

「なんだか雰囲気が変わったね」

「おかげさまで」

石姫の絵は、コンクールに出した。大賞とは行かなかったが、優秀賞を取得することが出来た。

今までに無い大きなコンクールでの優秀賞である。しかも、一年での優秀賞は史上最年少と言うことで、新聞にも取り上げられた。

だが、新聞記者は、絵に狂気を感じるとか、暴力的な怒りに支配された絵だとか、当たり前のことしか書いていない。

当然だ。

思うままの怒りをたたきつけて、それを今まで蓄えた技術で繊細に仕上げたのだ。そういう評価が出てくるのは当たり前である。むしろ、もっと的外れな評価が出てくれば、面白かったのに。

審査員が何を思ったかは分からないが、今後が楽しみな新人と書いてくれたのだけは嬉しかった。

一般的に勘違いされていることがある。

繊細な技術だけで芸術は成り立っているのでは無い。

むしろパワーが、芸術には大きな意味を持っている。パワーの無い芸術は、どうしても見る人間に感動を与えることは難しいのだ。

今回、佐久子はそれがよく分かった。

今後も佐久子は、胸の中に燃えさかるこの世の中全てに対する憎悪を、芸術に叩き込んでいくつもりだ。

それをいやがる人間もいるかも知れない。

芸術に対する冒涜だと声を荒げる者もいるかも知れない。

だが、佐久子は、そんな理屈がどれだけ積み上げられても到達できない、魂を込めるという行為を、未熟ながら果たせた。

今後はもっと強く激しく、芸術に魂を込めていくだけのことだった。

幾つか話をしていくと、くすくす奈々子さんは笑う。

「貴方、今は芸術家の卵の顔をしているわ」

「本当ですか?」

「ええ。 部長も認めてくれたんじゃ無いのかしら」

「はい。 凄く褒めてくれました。 嬉しかったです」

だが。

褒めて貰ったところで、どうしようも無い佐久子の家庭環境が変わるわけでは無い。

母はとうとう精神病院に入院したらしく、幼い弟は祖父母のところで寂しい生活をしているそうだ。ほぼ確実に、このままだとぐれるだろう。

佐久子が会いに行くことは、示談の関係で許されていない。

どうせ、父の遺産を目当てに、まだ後ろで暴力団が糸を引いているのは確実だった。しばらくは、近寄ってくる男には警戒しなければならないだろう。今回賞を取ったことで、それを足がかりにと近づいてくるゲスが必ずいるはずだ。

そんな連中が世の中に溢れていると思うと、憎悪で目の前が真っ赤に染まりそうである。

所詮人間なんて、おおかたそんな連中の集まりだ。

嬉しいという気持ちに、嘘偽りは無い。

だが、佐久子の中に点っているこの怒りは、生涯消えることが無いだろう。

「貴方がプロの画家になる事を、楽しみにしているわ」

「私も、奈々子さんがいつか画家になる事を祈っています」

挨拶を交わすと、美術館を出る。

今日は帰りに、画材類を買っていこうと思った。

 

休日だが、どうせやることも無いので、美術部に出る。

ユッカ部長がいた。

一心不乱に、キャンバスに筆を振るっている。油絵の強烈な臭いが、教室の後ろの方まで漂ってきていた。

ユッカ部長は、完全に入っている。あれは声を掛けても反応しないだろう。

おもむろに佐久子もイーゼルにキャンバスを立てかける。さて、次はどんな絵を描こう。

そういえば、気づく。

ユッカ部長が描く絵は、どちらかと言えば強烈な暴力性に満ちている。暴力と、その結果の容赦が無い破壊が、キャンバスに書き殴られている絵の全てだ。

雰囲気からして、怒りを込めているのかと思ったのだが、どうも違うと思い始めていた。一体ユッカ部長は、どんな事を芸術に込めているのだろう。

興味はわいたが、今はとにかく、自分の絵を少しでも上達させることだ。

この間は、借り物のモチーフによる絵だった。

勿論モチーフが良かったから、絵が元以上に栄えたという事が大きい。だから、今度は自分でゼロから考えたモチーフで、丁寧に怒りをぶつけきってみたい。

しばらく、あれこれと考える。

佐久子の怒りは、社会そのものへの怒りである。個人に対してぶつけるものではない。

母が憎い。母をおかしくしたホストが憎い。そんなクズどもを容認している社会がにくい。断罪しない法がにくい。あまつさえ、近年では水商売系の人間を持ち上げるような作品を描いている連中もいる。

そんな奴らは、万死に値する。

そう考えているのが、佐久子だ。怒りの連鎖であり、憎悪の円環である。

だから、その全てを憎むようにしないと、絵が成立しない。

理不尽な物事に対する怒りが、石姫の話には込められていた。だから佐久子には、丁度良かった。

全てに対する憎悪と拒絶を描くには、どうしたら良いだろう。

「あー、もー!」

いきなり前の方で、ユッカ部長が頭をかきむしった。

そのまま、ぐったりしてしまう。何度か見たことがある。入った状態から復帰するとき、ああなるのだ。時々だが。

そういう場合、安城先輩がチョコを与えて復活させるのだが、今は部室に部長と自分しかいない。

だから、無言でおやつに買ってきたチョコを出した。

「部長、食べますか」

「みっちゃーん、食べさせてー」

「安城先輩じゃないですよ。 佐久子です」

「誰でもいいー」

完全に溶けているユッカ部長は、白目までむきかけている。普段可愛いだけに、こういう風に溶けていてもなんだか面白い。

チョコを口に押し込む。

しばらくもぐもぐやっていたが、十分くらいかかって、ようやく正気に戻った。

「あれ? 佐久子ちゃん、どうしているの?」

「暇ですから、絵を描こうと思って」

「そっか。 えへへ、私もなんだ」

「よだれ、ついてますよ」

顔を拭いてあげる。

ユッカ部長は能力の偏りがとても大きい。勉強もかなり出来るらしいし、この体型で実は運動も悪くないそうだ。だが、こういう所は幼児同然だ。

逆に言えば、それが故に凄まじい技量で芸術を仕上げるのだとも言える。この人が普通になったら、描く絵もおもしろみが無くなるだろう。

描いていたキャンバスを見られる。まだ構図の段階だが、筆の赴くまま、線を適当に走らせていた。

「んー、ずっと良くなってるね。 元々技術はあったし、魂が籠もると最高だよ」

「でも、あまり良くない感情なんじゃないかなって、時々自分も思います」

「世の中に対する理不尽な怒りは、持って当然のものじゃないのかな」

ずばりと、指摘された。

誰にもそうだと具体的には言っていないのだが。やはりこの人は、芸術に関しては超人的だと言える。

「分かるんですか?」

「何となく。 でも、不幸に酔ってるんじゃ無くて、発散のために絵を描いてるわけでも無くて、自分の魂に昇華しているのがいいなあ」

笑顔のまま、ストレートに事実を指摘される。

やっぱりかなわないなあと思いながら、興味に負けて聞いてみた。

「ユッカ部長は、何を絵に込めてるんですか?」

「それは自分で洞察しないと駄目だよ」

「すみません。 でも、破壊衝動だろうなってのは見当がつくんですけれど、その出所がよく分からなくて」

かわいらしい容姿の部長だが、入っているときは、まるで別人。まあ、それはおそらく、佐久子も同じだ。

絵を描き上げてから、周囲のクラスメイトから、ほっとしたような表情で言われたものだ。

何かがとりついたみたいに、人が変わっていたと。

それはそれで構わない。

問題は、おそらく部長も、何かしらの強烈な鬱屈を抱えている、という事だろう。そして、それが芸術につながっている。あの破壊的な表現と、強烈に込められた魂に変じている。

理由を知ることが出来れば、更に佐久子の絵も、向上するかも知れない。

「ま、いずれおいおい話してあげるよ。 それにしても、次は何を描くの? 楽しみだなあ」

「部長みたいなレベルの人でも、私の絵なんかが楽しみですか?」

「それはそうだよ。 私には描けない絵だもん。 芸術が好きだって言うのは、佐久子ちゃんも同じでしょ? 私も芸術は大好きだよ」

にんまり笑みを浮かべるユッカ部長。

この人にはまだまだ、当分かなわないなと、佐久子は思った。

「やっぱりユッカ部長は、プロの絵描きになるんですか」

「うん、私それしか取り柄が無さそうだから」

「すごく楽しみです。 個展とかが開かれたら、絶対に見に行きます」

「やだなあ。 照れるよ」

ユッカ部長は、ちょっともじもじして、恥ずかしそうに頬を染めた。

 

帰宅する。

今日はシフトが合ったからか、父がいた。背中しか見えなかったが、父に出迎えて貰うのは、随分と久しぶりだ。

相変わらず、父は殆ど魂が抜けてしまっている。死臭がするのは、一仕事してきたからだと分かる。

良いにおいでは無い。

だが、父が死者と真面目に向き合ってきた証拠だ。それを馬鹿にする奴は、佐久子は一生許さない。

「お父さん、ただいま」

蚊が鳴くような声で、返事があった。それだけでも進歩だ。以前は、佐久子の存在さえも認識していなかったのだから。

急いではいけない。

焦っても駄目だ。

父が少しずつ回復するのを、ゆっくり待とう。そう、佐久子は決めている。

すぐに夕食にする。昨日のうちに買い込んでおいたので、材料は豊富だ。肉に下味をつけて炒め、野菜を切る。

シチューでも作ろうと思って、包丁を動かしていると、声が後ろからした。

「佐久子」

「どうしたの」

「賞をまた取ったんだな。 おめでとう」

手が止まる。

振り返る。父は、まだ魂が抜けたままだった。

父は、まだ元には戻れないだろう。一瞬だけ、今は元に戻ることが出来たのかも知れない。

だが、心に傷を受けていても。それでもまだ、佐久子を養うために、働いてくれている。

世間では、妻を寝取られた負け犬だとかあざ笑うかも知れない。そんな風潮が、広がっているかも知れない。

法に触れなければ何をやっても良いと考えている奴が増えている現在、父は間抜けなカモであり、心が壊れてしまったことを軟弱だと笑う奴もいるかも知れない。

だが、そんな風潮は知ったことでは無い。

社会全体がそう考えているのだとしたら、その全部が佐久子の敵だ。

父は、こんなになっても、佐久子を支えてくれている。そして、少しずつ戻ろうとしている。

誰もやりたがらない仕事にも、きちんと誇りを持っている。

世間の誰が認めなくても、佐久子は、父を立派だと思う。逆に言えば、そんな父を認めようとしない社会への怒りは、更に胸の奥でふくれあがるようだった。

「お父さん、今日はシチューにするね」

返事は無い。

死臭を消すように、良いにおいで家を満たそう。佐久子はそう思う。

そして、次の絵の題材も、ふとわき上がってきた。そうだ、こんなのが良い。

虚空に浮かぶ、無数の目。

あざけりを秘めた視線が向かう先には、壊れた人形。

だが、壊れていても人形は、糸に吊されることも無く、自分の力で立っている。ただ、何もかもを拒むかのように。

それは、誇りの形だ。

そして、誇りをも馬鹿にする、現在の社会への怒りでもある。

満面の笑みで、佐久子はシチューを仕上げる。多分今日のは、会心のできだ。

佐久子の絵は、今後もっと魂が籠もっていくだろう。孤独であるかも知れないが、ゴヤの絵を見ていて思うのだ。

理不尽な社会へ怒りを抱いて、何が悪いのだと。

父と一緒に、シチューを食べる。

殆ど父は残してしまったが、それでも構わない。

いずれ、父が戻ってくる日が来る。そう、佐久子は信じていた。

 

(終)