長い長い夜の先に
序、黒いもの
立て続けの破滅が八回起きた。これほどのハイペースで破滅が起きるのは初めてだ。虚無の世界から、多くの者が上がったのである。
あの賊。
更正不可能と思えた賊を救えた事が、大きかったのだろう。
それを見て、色々思うところがあったらしい者達が、次々と満足し、上がって行った。多くは古株だった。
だから、復旧も少し大変だった。
長老は皆を指揮して、破滅の度に復旧を行い。
そしてその度に新人と引見した。
最後に出会った新人は。
ちょっと変わった奴だった。
不思議そうに、周囲を見ている。
そして、座り込んだままだ。
手をさしのべると、小首をかしげて。手を採ると、困ったように眉をひそめた。
何だ。
ちょっと、今までにない反応だ。
見た感じは丁度年頃、十代後半くらいの女の子だろうか。学校の制服とかいうのを着ている。
だが中身はなんだかさっぱり分からない。
立たせると、困惑した様子で、その場で転びそうになる。
慌てて引っ張って立たせ。
困り果てながら聞く。
「どうしたのですか貴方は。 足に障害があったのですか?」
「……立った事がありませんでした」
「ふむ……」
「そもそも、栄養液の外に出たことも……」
なるほど。
何かしらの実験施設か何かで。
栄養液の中で生き、死んで行った存在か。
だとしたら、この妙な反応にも納得がいく。いずれにしても、まずは歩くところから、だろうか。
順番に、教えていく。
歩き方を教える事は、実は初めてではない。
足が不自由で、歩いてみたかったという心残りの持ち主が、来た事がある。その時は、歩き方を教えると。短時間で此処を上がって行った。
だが、今回はちょっと違うかも知れない。
歩いて見て、どうだと聞く。
筋は悪くない。
一切歩いたことがない割りには、そこそこ歩ける方だ。訓練すれば、走る事もすぐに出来るだろう。
だが、歩いて見て。
感動していたり。
満足している様子が無いのである。
見た感じ、造作は整っているが。
それはここに来るものは、基本的に元と姿が変わるのが普通なので。
前はどうだったのかは分からない。
また、歩きながら話すと。
文学にはそれなりに堪能だったようだった。
「ありがとうございます、長老。 もう、良いですよ」
「……」
「心に整理をつけたいです。 しばらくは、一人にして貰って良いですか?」
「はい。 ゆっくり心の整理をつけてください」
返事を受けると、新人はまだ多少危なっかしい足取りで、自宅に戻っていった。
さて、あれは何者だ。
少し話してみたところ、少なくとも21世紀前後の地球出身者ではあるまい。恐らくは、全く違う。
そもそも根幹技術からして、栄養液に浸かったままの人生があり得ないし。
それに文学を古典と称していた。
21世紀にあったような文学を、である。
そうなってくると、かなり未来……。
それも、あまり地球から離れていない場所で生き、そして死んで行った者だという事だろう。
蜥蜴頭の男が来る。
新人は比較的問題が少ない者ばかりなので、一旦確認をして貰ったのだ。
さっきの一番新しい者についての話をすると。
蜥蜴頭の男は、ふむと鼻を鳴らすのだった。
「何だか妙な話ですなあ」
「何がです」
「拘束された人生、というのなら恐らく相当に未練も残っているはずで、ここに来るのも納得出来るんですよ。 ですが、恐らく外にはでられないとは言え、ずっと愛情を受けて育ったわけでしょう。 本を読むなどの自由もあった」
確かにそれもそうだ。
この蜥蜴頭の男が、生前どれだけ過酷な人生を送ったかは分かっている。とはいっても、だからといってこの男の生前の罪は許されるレベルではなかったが。
いずれにしても、蜥蜴頭の男は言うのだ。
苦労の臭いがすると。
「多分ですが、相当手強いですぜその新人。 しっかり今のうちから、情報収集はしておいた方がよろしいかと思います」
「……分かりました。 貴方の勘は当たりますからね」
「長老は俺の勘を完璧に生かしてくれますから、勘を口に出来るんでさ。 後……俺、そろそろ上がるかも知れないです」
おっと。
それはまた、急な話だ。
少し恥ずかしそうに言う。
未練が晴れそうなのだと。
「近いうちに、長老に正式に報告できると思います。 本当は長老が上がるのを見届けたかったんですがね」
「いえ。 上がれるなら、上がりなさい」
「……そうしやす」
話を終えると、自宅にそれぞれ戻る。
そして、考えている内に。
騒動が起きた。
例の新人が、木の実を取ろうと、四苦八苦しているのだが。どうも手を伸ばして採るという発想がないらしい。
苦悩している側に行って、アドバイスをする。
自分で取ってやることはしない。
なぜなら。
これは本来、本能で出来る事。
それが出来ないというのは。
余程の事だからだ。
以前、幼い内に手を失った者や、そもそも手を持たずに生まれてきた者が来た事がある。それでも、此処の木の実を取ることは出来た。
ということは。蜥蜴頭の男が、手強いというのも何となく分かる気がする。いや、実感のレベルまで到達したと言うべきか。
アドバイスをすると。
四苦八苦しながらも手を動かして、ようやく木の実を取ることが出来る。
嬉しそうにする新人。
だがそこからがまた一苦労。
どう食べるかさえもよく分からない様子だ。
此処で食べさせてやってはいけない。
どういう風に食べるかを、説明し。
そして教え込んでやる。
順番に教えていくと。
やがて、出来た。
一苦労とはこのことだ。
だが、別に怒るつもりはない。
周囲にはしらけた目で見ている者もいたけれど。人間なんぞ、多かれ少なかれ出来る事と出来ない事がある。
何でも完璧に出来る人間などいない。
もしいたら、それは人間ではない。
それに、今更問題児を気にする事もない。
ただでさえ、他に七人も新人が来ている。
其奴らは今の時点では特に問題を起こしてはいないが、それもこれからどうなるか分からない。
何万年もこの虚無の土地で過ごしているのだ。
今更、何もできない新人が来た位で、驚くことはない。
それに、にこにこと笑顔を浮かべているこの新人。とても柔らかい笑顔をしていて、邪を感じない。
話していて不愉快でもない。
ただ、基本的な生物としての動作を知らない。
それだけだ。
その時点で、もういらないこの世界に必要ないとわめき出す存在もいるかもしれない。弱肉強食という言葉を曲解し、自分を強者だと勘違いしている者は、そう喚く可能性が高いだろう。
だがそんなものこそこの世にはいらない。
人間は、出来ないのが当たり前だ。
万年単位で人間を見て来ている長老が断言する。
少なくとも弱肉強食などと言うルールを本気で動かせば、人類は滅ぶだけ。自分は強者だと錯覚している者も死ぬ。
ただそれだけの事である。
食事を無事に終えた新人に、話を聞く。
どうにも要領を得ない。
知識はとても豊富だが。本当に栄養液の入った培養槽から出たことが無いのだとしか思えない。
やることといったら本を読むことだけ。
それでは、確かにものを食べるという行為でさえ。
多大な苦労を伴うのは必須か。
幸いにも。
この土地では本能もなければ代謝もない。欲求もない。
この者を痛めつけようと思っても、誰も暴力を振るうことは出来ないし。
誰かが奪おうと思っても、それは成し遂げることが出来ない。
此処は虚無の土地。
だから、多少は目を離しても大丈夫。そして最低でも必要な食事については、今教えたから問題ない。
木の方に行くと、一人が突っ立っていた。
ああ、なるほど。
木を独占して、此処を好き勝手しようと考えたのか。
笑顔のまま、どきなさいと一言。
それだけで完全に青ざめて、すっ飛んだ。
転んで震えているその者に、静かに告げる。
この木は皆のもので、占有することは許されないし出来ない。暴力を他人に振るう事は出来ないし、他人が此処の木の実を取ることを邪魔することも許されない。
最初行儀良くしていたこの者。
どうやら、あの新人を部下に加えて、勢力を拡大しようとでも考えていたのだろうが。
残念ながらそうはいかない。
厳しく幾つか叩き込むと。
すぐに大人しくなった。
ただでさえ、此処では悪しき欲求や本能が消える。
放置しておいてもすぐに大人しくはなっただろうが。
それでも、しっかり初めのうちに教育はしておいた方が良いだろう。
教育を済ませると。
他の新しく来た者達とも順番に面談をして行く。
ある程度、動きを見て判断はしていたのだが。
それでも、実際に話してみないと分からない事も多いし。
事実、やはり悪徳を隠している輩も二名他にいた。
だが元々此処は、曰く付き、問題ありの輩が来る場所だ。地獄、なのである。必ずしも悪人が来るわけではない。善人が来る事もある。以前は、生徒達のために命を張った教師の鑑が来た事もあった。
しかしながら、いずれにしても生に未練があった事は確実で。
それ故に、此処で解消していかなければならない。
悪党も多く来る。
実の所、悪党の大半は、人生そのものを後悔している事が多い。
悪党をやっている輩は。
だいたいの場合、酒に逃げているのと同じ。
何をやっても罪悪感の欠片もないような悪党もいるにはいるが。
そういうのは、ここに来ない。少なくとも、今まで来た事はない。
まあ人間という存在を考えてみるに。
常時酩酊していて。
それが普通な方が、むしろ楽なのだろう。
自分を普通と称し。
自分より低い存在を設定して見下し、何をしても良いと思い込み。
そして実際に暴力を振るっておきながら、自分は正しいと吹聴する。
狂気の沙汰だが。
それこそが人間だ。
更に言えば、それで本当に正しいと思っている輩はここに来たことは無い。
まあ要するに。
そんな輩は、外道働きをする悪党以下、という事である。
悪徳を隠していた者をしっかり訓戒し。
そして、恐怖を叩き込んでおく。
飴と鞭を使い分ける。
長老のやり方だ。
そして、全員を把握してから、自宅に戻る。
とりあえず、一息ついたか。
立て続けの「上がり」が起きたばかりだ。しばらくは、問題が起きることもあまり無いだろう。
蜥蜴頭の男が、もうすぐ上がるかも知れないと言っていたが。
それも何日後、という話ではあるまい。
あくびをして、少し横になって休む。
睡眠すら娯楽であるこの世界では。
眠る事は、単に暇つぶしである。
ただ、仕返しをしようと思ったのだろうか。
一人、家を伺っていたので。
目を覚ますと背後に回り込み。
地面に押さえつけて制圧。
悲鳴を上げてもがくそれは、さっき木を独占しようとしていたものだった。
「おや、懲りていなかったんですね」
「くそっ、離しやが……」
以降、汚い言葉を言おうとしたのだろうが。
出来なかった。
鼻で笑う。
相手は大柄な中年男性の体格。
此方は喪服のような黒服を着た女の子の姿だが。
元の戦闘力が違いすぎる。
制圧しようと思えばこの通りだ。体の動かし方を、完璧に知り尽くしているからである。
しばらく押さえ込む。
痛みを与えず、動きを完全に封じる方法など完璧に知り尽くしている。
人体に対する知識は完璧と言って良い。
動きを封じられた愚か者は。
しばしもがいていたが。やがて観念して、動かなくなった。
「こ、殺すのか」
「説明はしましたね」
「……死ねない」
「そういう事です。 殺す事は出来ないし、死ぬ事も出来ない。 そしてこの虚無の土地で、小さな利権をとって何の意味がありますか? くだらない事をしていないで、大人しく自分が上がる事をまず考えなさい」
離してやる。
しばし怯えきった様子で此方を見ていたが。
やがて愚か者は自宅に逃げ込んでいった。
もう一眠りするか。
伸びをして、あくびをする。
話をしていて分かったが。
どうやらあの愚か者。
小さな島で、島の絶対支配者を気取っていたクズらしい。
島では何でもやりたい放題。
勿論それには犯罪も含まれていた。
際限なく肥大化した自我は。
最後の最後で、島に警察が踏み込み。全てを奪われたことを逆恨みした。
だから死刑になった後、ここに来た。
そういう事らしかった。
ため息をつくと、しばらく眠る事にする。
今の件、蜥蜴頭の男が見ていた。当面、あの愚か者には、強烈な当たりが入るだろう。放置しておいて大丈夫だ。
長老自身は横になってしばし眠る事にする。
今度こそ。
ゆっくりと、娯楽としての睡眠を楽しむ事が出来そうだった。
1、水底の夢
おなかが空いたので、本能に従って起きだし、木に向かう。
長老が果実を手にとると。同じように、新人が四苦八苦しながら、果実を手に取っていた。
恨めしそうな視線を感じると思ったが。
むしろ恐怖の視線だと分かった。
一瞥するとあの愚か者だ。
よほど蜥蜴頭の男にしばき倒されたのだろう。勿論具体的な暴力は振るえないが、アレは元々小さな島の哀れなボスなど比較にならない本物の大悪党だ。クズに対する対応方法など知り尽くしている。
まあ今後、悪さをすることはあるまい。
そういう意味では、安心して良さそうだ。
軽く新人と話す。
不思議な事だらけだと新人は柔らかい笑みを作って言うのだ。
「歩いていると、ふわふわして、それでいて重くて、面白くて仕方が無いです」
「歩くだけで」
「はい」
「……」
いったい、どんな人生を送ってきたのか。
培養液の中だった、と聞いているが。
病気だったとしても。そうなる前は外を歩いていたりしたのではないのか。そうではないのだろうか。
文字通り、本当の意味で培養液の中にいたのだとすると。
それはひょっとして。
生まれてから、死ぬまで、だったのか。
だとすると、かなり特殊なケースになると思う。
一瞬、人間を生体ユニットとして活用するような兵器を考えたが。
だとすると、むしろおかしい。
それにしては、性格が平和すぎるのである。
幾つか話を聞くが。
いずれも要領を得ない。
確かに蜥蜴頭の男が言うように。
見た目よりもずっと手強い相手だろうなと、何度か認識を改めたが。その認識は、アップデートされる一方だった。
この者は。
人間としての生を一切知らない。
しかも、知識として知らないのでは無い。
本能として。
生物として知らないのだ。
だから、未練が何なのかさえ分からない。
恐らく、本人も、今思っている未練と。実際のものとで、隔たりがある筈だ。それに気付くまで、どれだけ時間が掛かることか。
他の者とも話さなければならないので、一度会話を切り上げる。
礼儀は正しいし。
此方を尊重する事も知っている。
性根は優しいようだが。
残念ながら、人間社会では性根が優しいと言う事は、周囲から滅茶苦茶にされることを意味している。
外道悪党の方がもてるし。
善人はバカだと認識する。
それが平均的な人間である。
故に、人間を一切知らずに生き死んだだろうあの新人は。
ある意味幸せだったのかも知れない。
それもまた難儀な話でもある。
此処を上がらせた者達は。
人間として、また転生したのかも知れないのだから。
何人かと話し。
情報を丁寧に整理していく。
愚か者に関しても、しっかり面談をする。
自分は正しい。
悪くない。
そればかり口にするので、何回か叱責しなければならず。
その度に怯えきってある種の虫のように縮こまるので。
此方としても、被害者意識を持った外道の面倒くささを思い知らされるばかりだった。だから此処に来たのだろうが。
一通り話を終えた後。
数を減らした有識者達と話す。
この間の一斉「上がり」には、何人かの有識者も含まれていた。
故に、知識が得られる量も減っている。
まあ減っている知識は、長老が提供すれば良い。
覚えた事は、忘れない程度の頭は持っているのだから。
軽く話していくと。
一人がいう。
「他にも指摘があるでしょうが、一番手強いのが最後に来た者でしょうな。 人間としての理屈が通じないことが、今後どんどん枷になっていくかと思います」
「同意です。 後回しにするのが良いでしょう」
「……」
腕組みする。
少し前、盗みしか知らない者が来た事がある。
その者は、盗みというものが精神の基幹にあり。まずは其所を崩す所から始めなければならなかった。
それに比べると楽かと思ったのだが。
最初から何も無いとなると。
より厄介かも知れない。
頷くと、他にも意見を募る。
意外な話だが。
愚か者の元島長については、多分すぐ終わるだろうという意見が出ていた。
「バカはそうだと自覚すればすぐに終わります。 まずはバカと自覚させれば、即座に未練も晴れるでしょう。 見た感じ、アレは此処の長になれないのは理不尽だと今でも思っているようです」
「そうですか。 では、一つ灸を据えておきましょう」
「まだ木の独占を狙おうとしているようですから、お早めに」
「……」
会議を切り上げる。
蜥蜴頭の男は、ずっと隣で黙って参加していたが。
会議を解散して皆が家に戻っていくと、短く聞いてくる。
「俺が徹底的にやってきますか?」
「いえ、貴方は自分の事を。 私が片付けます」
「……いいんですかい」
「貴方はもうすぐ上がれるんでしょう? 此処には随分長い間いたのです。 そろそろ、此処を上がる準備をなさい」
頭を掻くと。
蜥蜴頭の男は、嬉しそうに自宅に戻っていった。
そういう配慮をして貰ったことが、嬉しかったらしい。勿論、長老による配慮が嬉しかったのだろう。
長老自身は、愚か者の家に向かう。
長老が来た事に気付くと。
愚か者は、ひいっと悲鳴を上げた。
繰り言をほざく愚か者に座るように、静かな声で言う。
相手は一も二もなく従った。
向かい合って座ると、少しずつ相手の心に潜り込み、丁寧に如何に相手が愚かかを諭して行く。
怖れきった相手は、悲鳴を上げながら、その言葉を聞いていたが。
容赦するつもりはない。
此奴は生前本物の外道で。
今も性根が腐りきっている。
今までも、木を独占しようとしたアホは何人かいた。
暴力を他人に振るえないし。
そもそも本能が薄れてしまうので、それは出来ないのだが。
それでも、此処の根幹であり。
誰もが食べる必要がある食糧に手を出す事、ましてや独占することは絶対に許されない。それを理解していながら、平然とやろうとしたこの者には。
相応の仕置きが必要だ。
徹底的にしばき倒して。
精神を洗浄。
真っ白になるまで言葉により制圧すると。
完全に白目を剥いている愚か者を残して、その場を後にする。
後は、時間が勝手に解決してくれるだろう。
問題は、こんな雑魚じゃない。
全く正体が掴めない新人の方だ。
最初の記憶は、薄ぼんやりとしていて。何かもよく分からなかった。
話しかけてきた相手は、自分をお父さんと呼ぶように言った。
お父さんと呼ぶと喜んだ。
それだけだった。
自分は水の中。
相手は水の外。
それだけは分かった。
そして、自分は水からでると死ぬとも言われた。
それは生きているのだろうか。
よく分からなかったけれど。
周りには、同じように水の中でしか生きられない存在がたくさんいるようだったので。そういうものなのだろうと、納得はした。
やがてお父さんは。
自分に入れ込み始めた。
愛情を注ぎ始めた。
心の奥底では分かっていた。
この人が、お父さんでは無い、と言う事は。
息子と呼ばれる存在がほしいのだろう、と言う事は。
色々な本を読めるようにしてくれた。
水の外の世界で広げて。
字を認識出来るように。
色々な本を読んだ。
其所には色々な事が書いてあったけれど。水の中で膝を抱えて浮かんでいるしかない自分には、何もかもが夢物語だった。
何が何だか分からない。
それが素直な印象だ。
知識は増えたけれど。
それこそ、浮かんでいる水のように。
まるで現実感がなかった。
空虚な知識だった。
親子という関係性も知ったけれど。
それは自分とお父さんのそれとは違うだろうなと、内心では思っていた。その考えは、間違っていなかったはずだ。
どれくらい、虚しい親子ごっこが続いただろう。
外に出して欲しいと願った。
お父さんは、最初躊躇した。
何を考えているかも、分からないようだった。
外に出ても平気な気がする。
そう、心にもないことをいった。
困惑しながらも。
お父さんは、外に出してくれた。
そして、自分は。
溶けて死んだ。
その筈だ。
記憶がそこから途切れてしまっている。
だから、死んだのだろう。
そして今いる此処は何なのだろう。
長老と呼ばれる女の子はいっていた。
納得出来ずに死んだ者が来る世界だと。此処をでるためには、生きていた間に納得出来なかったことに、決着をつけなければならないと。
自分は、何が納得出来なかったのだろう。
話を疑うつもりはない。
こんな不思議な世界である。
どんな事が起きても驚くことはない。
いずれにしても、あの長老という人物、信頼出来る。
いじわるをしようとした人から助けてくれたし。
この世界が何の生産性もなく。
早くで無ければならないと言う事を諭してもくれた。
理屈としてそれは分かる。
だから、早く出なければならないと言う事については、賛成だった。
しかし、どうしていいか分からない。
空っぽなのだ。
自分は、ただ浮かんでいただけ。
自分が何かさえも分からない。
そもそも、記憶だって曖昧なのだ。記憶の何処かに、お父さんと呼ぶ者がいて。そして気付いたら培養槽に浮かんでいて。それで。
頭を抑える。
少しいたい。
自分にとって分からないものは、どうしようもない。本当に自分は、培養槽の中にいたのか。
記憶は確かにあるのだけれども。
どうも曖昧で。
分からないのである。
ため息をつく。
汚れることもないので、横になる。
しばらくぼんやりしていると、長老が外で話をしているのが見えた。半身を起こして、話を聞く。
この動作だけでも。
随分苦労した。
何しろ、体を動かした記憶がないのだから。
長老は、何人かと輪を作って話をしているようだけれども。とても難しい会話をしているのが分かった。
理解出来ない単語も飛び交っている。
専門家会議とか有識者会議とか言っていたか。
それをやっているのだろう。
なら、邪魔をしては駄目だ。
長老に言われている。
まず、自分を思い出せと。
自分の記憶がはっきりしていないのなら、自分が何だったのかを考えろと。
そうすることにする。
どうしても、此処にいるのは曖昧なのだ。
そもそも、どんな本を読んでいた。
ゲーテだったか。
自分の名前は。
駄目だ、思い出せない。死んだときの衝撃が、色々大きすぎたのかも知れない。
大体、本当に自分は人間の形をしていたのか。
形をしていたのなら、あの水の中で、動けたのではないのだろうか。
いや、それもどうにも曖昧だ。
死んだときに溶けてしまった事が。
それだけ衝撃的だったから、なのだろうか。
分からない。
頭をかきむしる。
そして、もう一度、頭をかきむしりながら、呟いていた。
分からない、と。
ふと気付くと、長老が家の外に立っていた。
言われるまま、家の外に出る。
歩く、という行為そのものが新鮮だ。
だから、ただ黙々と並んで歩く。
生きていた時は、性別は男だった気がする。だから、生前の姿のままここに来たかったけれど。
でもそうすると、裸だったのだろうか。
今は服が体の一部となっている。
そもそも、長老も生前は姿が全く違ったという。
お互い、生きていた時の姿で歩きたかった。
そう思うばかりだった。
「思い出せましたか」
「全然です。 水に浮かぶ泡のようで」
「ふむ、実際にそうだった可能性は?」
「え……」
まさか。
でも、ここに来るのは人間の筈だ。
それを指摘すると、長老は静かな目で此方を見る。言葉通りでは無くて、意図を汲めと言いたいのだろうか。
だが、少し違った。
「貴方は人間としての生を送ったのでは無く、人間として作られただけ、という可能性があるのかも知れません」
「人間として、作られた」
「はい。 此処にも、たまに人間からはずれた存在が来る事があります。 例えば私もその一人です」
「長老も」
頷く長老。
そして呪われた話をしてくれる。
生物兵器として生を受け。
愛し合った女性と。子供は殺され。
宇宙を放浪し。
愛を曲解し。
殺戮の限りを尽くしながら、星々を渡り歩いた生前の事を。
思わず口を押さえる。
命は、とにかく脆いものだった。
自分が知っている限り、ちょっとしたことで、命は壊れてしまうものにすぎなかった。
それを、無茶苦茶に壊して回っていたなんて。
長老は罪人だと言っていたけれど。
それはそういう意味だったのか。
悲しくて、涙が零れてきた。
すぐに収まってしまうけれど。
哀しみというものは、やはり心に残る。生前は、こんな風に哀しみが残ったことがあっただろうか。
分からない。
「色々な宇宙から、非人道的な処置をされた者が此処には来ました。 中には、兵器に乗せるためだけに作り出され。 手足を切り取られて、戦闘機に乗せられたケースもありました」
「そんな酷い事を、どうして考えられるんですか」
「それが人間だからです」
「ああっ……!」
嘆きの声が漏れる。
頭を何度も振る。
誰に祈れば良い。
いつの間にか、荒野に出ていた。こんなに歩いたのは、恐らく初めての経験だ。だが、そのまま荒野を歩いていると。またすぐに集落に戻ってきてしまった。
あのいじわるな人は。
家に閉じこもったままだ。
ブルブル震えているという。
長老が、さぞや脅かしたに違いない。
何となく分かる。
でも、脅かさなくても大丈夫だった気もする。
長老は、何か焦っているのだろうか。
「一つずつで良い。 少しずつ思い出していってください」
「……はい」
「思い出したら、どんな些細な事でも良い。 周囲に話してください」
「はい」
怖い、と感じた。
外に出たいと思っていた気がするのに。
今長老に聞かされた話は。
怖くて悲しくて。
とても、人とは関わり合いになりたいとは思えなかった。
愛という言葉を曲解し、破壊の限りを尽くし、そして何万年も此処にいるという長老。
そもそも人間かどうかすら怪しく。
その存在が、此処にいて良いのかさえも分からない自分。
何より命の一つも無いこの大地。
住んでいるのは亡者達と。
その亡者を維持するための木だけだ。
確かに、此処は出なければいけないのかも知れない。
だが、生きているときも。
出て、どうなった。
ぞくりと背筋に恐怖が走る。
鈍痛の記憶。
体が壊れて行く破滅の記憶。
それが、ありありと、何処かで思い出される。
どうにもならない。
自分で望んだことなのに。
家に戻ると、吐きそうになったが。木の実はどうやら胃袋で消化されている訳でもないらしく。
吐き戻す事さえなかった。
そもそもこの虚無の世界、胃袋が機能しているのかさえ分からない。
はっきりしているのは、長老の言葉は事実だが。
外の世界は怖いと言う事だ。
さっき聞かされた悪夢のような世界の話。
だけれども、長老は。
此処よりはマシなはずだとも言う。
だけれども、本当にそうか。
此処を出たら、虫とか鼠とかにならないだろうか。
輪廻転生の類はあるのだろうか。
此処を上がったら。
無という可能性はないのだろうか。
怖い。
膝を抱えて、しばらくじっとしたまま、声を殺して泣いた。涙は流れない。ただひたすら、哀しみを溢れさせた。だけれども、その哀しみも溶けて消えてしまう。なんとも悲しい。
泣くことも出来ない。
まて。
生前、そもそも。
泣いたことはあったか。
顔を上げる。
涙ににじむこともなく、木が見える。
そして、無慈悲にも。
おなかが空いたのか、勝手に体が動き出し。
木の実を食べるべく、歩き始めていた。
嫌だ、歩きたくない。
そう思っても、体が動く。
木の実を食べ始める。おいしくもない木の実を。それが終わると、黙々淡々と家に戻っていく。
嫌だ。嫌だ。何度も訴えるが、この本能だけは避けられないという。木の実も、各人ごとに食べられるものが違って。他人のものを奪うことも出来ないし。食べる事も出来ない。また幾らでも生えてくると言う。
此処は本当に地獄なんだ。
不意に、ぷつんと頭の中で理解がつながった。
それと同時に、今までにない恐怖が襲いかかってきた。
更にもう一つ、理解出来たことがある。
此処は地獄だが。
外はそれ以上の地獄だと言う事。
悲鳴を上げなかったのが、奇蹟に等しい。
必死に口を押さえて耐える。
だけれども、耐えて何の意味があるというのだろう。
必死の思いで外に出たら。
溶けて死んでしまった。
その時の記憶が。
フラッシュバックとなって。脳裏で、自分の心を焦がした。
2、難題
すっかり意気消沈した愚か者が上がった。自分が如何に愚かだったか気付けば、後は早かった。
有識者達が言ったとおりだ。
後は地獄に行くのか。
それとも次の世界でやり直すのか。
よく分からないが。
いずれにしても、最後は皆に頭を下げて。そして、自分の生前にやらかした愚行をひたすら悔いていた。
まあ別にそれはいい。
妥当な結末に落ち着いただけだ。
上がったあとの災害。そして、壊滅した集落の再興。新人の出迎え。
これらを終えた後。
例のまったく分からないものの家を訪れる。
復興作業には参加していたが。それ以降は、ずっと家で黙りだったからだ。
今日もである。
どうも何か怯えきっている様子で、膝を抱えて座り込んでいて。長老が出向くと、びくりと身を震わせたほどだった。
此奴には特に何もしていない。
此処から上がらなければならない、という話はしたが。
それだけだ。
或いは感受性が高すぎるのか。
此処を何かと勘違いしているのか。
その辺りかも知れない。
話をゆっくり聞いてみる。
そうすると、意外な事を言われた。
「長老、貴方は怖くないんですか?」
「何がです」
「此処の外は、もっと酷い地獄かも知れない。 此処が地獄である事は同意します。 それでも、此処の方がまだマシかも知れない。 それって、地獄に一点の希望も無いことを意味していませんか」
「……」
なるほど、そういう事か。
少しずつ、話を聞いて来て。
此奴の人物像はわかり始めてきている。
歩いたことも、ものを手を使ってロクに食べた事もない。
そんな状態の人間。
実験動物か何かでしかあり得ない。
長老も、兵士をクローンで増やしていたから分かるのだが。或いは、まだ未熟な技術によるクローン体だったのかも知れない。
そういった存在は文字通りの温室栽培されていて。
とてもではないが、外の苛烈な環境で生きていける生物ではない。
とはいっても、弱肉強食などといっても虚しい話だ。
いきなり熱湯風呂に入るのが体に良くないように。
少しずつ慣らしていけば良いのである。
そういえば。
古い価値観では、こう言う考えを、「男らしくない」だとか、そういう風に罵倒するのだったか。
地球人の考えはよく分からないが。
ただ、この者は想像力が豊かで。
それ故に首を自分で絞めてしまっていることは、よく分かった。ならば、何とかしてやるべきであろう。
「此処の外がどうなっているのかは分かりません。 此処に数万年いる私でもです」
ちなみに、どうやら神らしき存在がしびれを切らしたらしく、声を掛けて来たことがあることは黙っておく。
ややこしくなるだけだからだ。
長老の生前。
最後に長老を殺したのは神だが。
間違いなくこの地獄の神とは別の神。
この地獄の神は、遙かにずっと上位の神だろう。長老を殺した神が世界のルールを司る上位知性体か何かだとしたら。この地獄の神は、恐らく宇宙を体内に持つレベルの文字通り次元が違う存在の筈だ。
その辺りを説明しても、すぐにはぴんと来まい。
だから、丁寧に、ゆっくり話を進めていく。
「しかしながら、この地獄を管理している神が、決して邪悪な存在では無いことだけは保証します」
「どうして……!」
「もしも私が罪人を地獄で償わせるつもりだったら、こんな温い仕組みにはしませんよ」
ぞくりと来たのか。
分からないものは口をつぐむ。
咳払い。
怖がらせすぎても仕方が無いと判断したからである。
「此処には数多の可能性世界からたくさんの者が来ます。 その全てが未練を持っていて、人生に満足できずに果ててここに来ました。 その心残りが晴れたとき、自分に相応しい場所にいく。 そんなところです、此処は。 だからこそ、別に罪人でもない貴方は、更なる地獄に落ちることなどは無いでしょう。 此処の神は、少なくともルールに従って厳正に此処を回しているのですから」
「……長老は、怖くないんですか?」
「何度も言いますが、別に」
「……貴方は強いんですね」
まあ、生物兵器だったから。
強いと言えば強い。
ともかく、手をさしのべる。
この間上がった愚か者のようなどうしようもない輩にも、手はさしのべる。こういういわゆる哀れな子羊にだって手をさしのべる。
気に入ろうが気に入らないだろうが関係無い。
長老としての仕事を平等に果たす。
それが長老としての責務。
少しでもそれをして、多くの者を救う。
そうでなければ、そもそも贖罪にはならないのである。
こわごわと顔を上げる分からないもの。
やがて、手を出したので、掴んだ。
引っ張り、立ち上がらせる。
自分より小柄な相手が、苦も無く引っ張り上げたのを見て。分からないものは驚いたようだったが。
別にこのくらい、力の使い方を理解していれば児戯だ。
戦闘スキルの類は此処では役に立たないが。
体を動かせない訳では無いのだ。
「ほら、少し賢人達と話しましょう。 かなり数は減りましたが、相当な賢者達が此処には揃っていますよ」
「僕は……愚者です」
「だからこそ、賢人と話すのですよ」
「……」
そう。だからこそ賢人と話すのだ。
愚者だからこそ。
全てを知る者であっても、賢人との会話は有意義なのである。愚者であれば、なおさらであろう。
本物の愚者は、自分の感情で相手の言っている事を正しいかどうか決めつけ。
相手を愚者扱いする輩の事である。
自分を卑下するのはあまり感心できる態度では無いが。
それでも、そんな最底辺の輩よりまし。
最底辺の輩を、まともに仕上げる作業だって、たくさんやってきた。
見違えるように立派になった者達は、皆この世界を上がって行った。
この分からないものも、そうなれば良いだけのことだ。
話をしている賢者達に、わからないものを紹介する。
自らも座る。座るように、わからないものを促す。
賢者達は、何も求めない。
ただ英知を分け与えるだけだ。
軽く話す。
主に、どんな状況にいたのかを、細かい話などから分析しているようだった。
「記憶は曖昧だが、父親がいたと」
「……はい」
「周囲には多数の動物もいて、名前をつけて呼んでもいたと。 同じように、全てが培養槽に入れられていたと」
「そうです」
おそるおそる答える分からないもの。
賢者達は話をかわす。
「クローンとしてはかなり技術が未成熟だな。 急速育成、学習機能の類は持っていない様子だ」
「長老、貴方の所のクローンはどうしていました?」
「うちは乳幼児にして以降は教育係に任せていましたが」
「ふむ、育成については人力式か……」
ああでもないこうでもないと話している内に。
長老にも、更に細かい事情が分かってくる。
どうやら、この分からないものの周囲にいた動物は、今後絶滅していく可能性が高い生物である、ということ。
更には、空も何も見えない場所であるという事から。
地下施設か、或いは違法施設であるという事。
膨大な機械類があったという話で。
しかも、「父親」以外の人間を見かけなかったと言う事だから。
ひょっとするとだけれども。
「それは……滅びの世界なのではないのか」
「滅びの世界?」
「ええ。 あくまで仮説になるんですが、とっくにその世界では、その「父親」以外の人間は、それどころか大半の生物も、滅んでしまっているのでは無いのでしょうかね。 核戦争か何かで」
「……」
ふむ。
確かに、今までの状況証拠を考えるとありうる話だ。
この仮説を出したのは、生物学の権威だった人物で。未来から来た者に話を聞いて、日々知識をアップデートしている筋金入りの学者だ。人類の文明が安定した、生物学を幾らでもやれる未来にやりたいと常日頃から公言している筋金入りの生物学ジャンキーでもある。
そして学者だからこそ。
その言葉は冷酷で。
現実的でもある。
「話を聞く限り、クローンに対する技術は未熟だ。 培養槽の中でしか生きられないようなクローンしか作れず、その博士しかいない。 しかし一人で回すにはあまりにもその使節は大きすぎる。 どこかのシェルターを改良して作り上げた、人間が最後に作った不格好な方舟なのではありますまいか」
「不格好な方舟。 まるでノアの方舟のような?」
「そうですそうです。 まあノアのように一つがいだけしか動物を乗せなかったら、あっというまに生物は近親交配で絶滅しますがな」
からからと笑う生物学者。
苦笑しながらも、他の者の話を聞く。
多少専門とは違うが。
エンジニアだったものがいう。
勿論生前の経験を生かしての発言である。
「自分もその世界には妙なものを感じますね。 色々と動かそうとしているけれども、ちゃんと動けていないというか」
「確かにクローン関連の技術は極めてちぐはぐではありますが」
「生物でそんな末期的な実験をしている時点で、余程のマッドサイエンティストか、切羽詰まった状況だったのでしょう。 君、父親は君から見て、マッドサイエンティストだったと思うかね?」
「いえ……僕には優しい父でした」
身内に優しいことが、マッドサイエンティストではない事の証明にはならないのだけれども。
まあ、それは別に良い。
分からないものを死なせてしまった後。その父親はさぞや悲しんだことだろう。
ずっと腕組みして、会話に参加しなかったものが挙手。
技術畑の人間だ。
「培養槽でしか生を維持できないとなると、恐らくそれは余程未完成な状態の生物を、形だけ復元しているという状態だと思われます」
「詳しくお願い出来ますか」
「簡単に説明すると、人間の体内は海に近い……とはいっても海みたいに微生物だらけという事では無く、塩水だとかそういう成分面での話ですが、ともかく海に近い環境であるのは事実です。 恐らくそのクローンは、本来の受精卵から作っているのでは無くて、不格好に遺伝子情報を無理矢理組み合わせて形にし、血液に等しい培養液の中でどうにか形を維持できるだけの状態に持っていった……それもノウハウがない状態で独学から……というものなのではないのでしょうか」
具体的にはこうこうと、棒を使って図を書き始める。
今会話に加わっている者達には理解出来るが。
わからないものには、退屈かも知れないなと一瞬思ったが。
むしろ退屈というよりも、怯えている様子だった。
自分を解剖されているような気分なのかも知れない。
まあそれなら。
怯えるのも、道理とは言える。
「これは確かに危うい。 こんな状態では、培養槽の内部にいてもいつ死んでもおかしくないだろうな」
「……いずれにしても、この方の寿命は長くなかっただろうと断言はできます」
「そうか。 哀れな話だ」
「長老、それでどうします?」
長老は首を横に振る。
事実、わからないものは怯えきっている。
それにやっと気付いたか。
賢人達は口をつぐんだ。
さきに分からないものは帰らせる。謝る賢人達だが、長老はそれを制した。
「いや、いいのですよ。 あの者も、自分がいかなる存在なのか、理解出来たでしょうからね」
「長老は分かっていたのでは?」
「クローンの一種だろうと言う事は見当がついていました」
「まあ、それ以外にはあり得ませんからね」
さて。
自分が哀れで不完全な存在だったと知ったあの者を追わなければならない。
更に自分の殻に籠もられると厄介だ。
現在でもかなり殻に籠もられているのである。
これ以上それが浸透すると。
言葉が耳に届かなくなる。
家におっていくと。
やはり、分からないものは、頭を抱えて震えていた。
さっきよりも怯えているかも知れない。
咳払い。
此方を見もしない。
分かってはいるはずだ。
此処が地獄でも。この先には、決して地獄だけがまっているとは限らないと言う事は。
勿論確証はない。
だが、幾つか。
此処を旅だった結果。別の世界に影響を与えたらしい者の話が、この虚無の世界にも来ている。
それについて話すべきか。
少しだけ悩んだが。
相手の前に座り。顔を上げるように最初は優しく。
少し待ってから。
少し厳しく言った。
「顔を上げよ」
「……っ!」
「顔を上げてくれましたね。 それでいいのです」
「貴方は……」
星の海の覇王だと言う事はもう聞かせてある。
だから、それをもう一度思い起こさせれば良い。
咳払いすると。
順番に話をしていく。
「此処の世界は、地獄である。 それについては話した通りです。 しかし、此処の世界はもう一つ。 生前かなえられなかった未練を自覚する場所でもあります。 貴方は一体、何を心残りにここに来ましたか」
「い、いや……僕は聞きたくない……!」
「聞きなさい」
「ひっ!」
もう面倒だ。
今回は、ちょっと手荒にいくか。
とはいっても言葉を乱暴にとか、加虐とか、そういう話では無い。
少し乱暴に、閉じた心をこじ開ける。
そういう事だ。
此奴は、多分。自分一人に任せておくと、どんどん心を閉じていく。そして最終的には、取り返しがつかない深みにまで行ってしまうだろう。
それでは駄目だ。
この者は怖れている。
この先に更なる地獄がある事を。
だが、長老は知っている。
この者は、心残りを晴らすために此処には来た。
此処は地獄で、此処は去らなければならない。
だが、それはあくまで過程であって。
別に悪事を働いた訳でも無いこの者が。これ以上の地獄に落ちることはないはずだ。少なくとも、数万年此処で生きてきた限り。ここを管理している神は、公正だと断言できるのだから。
ゆっくり丁寧に。
一つずつ説明をして行く。
自分のルーツをさっき知らせた意味。
この者は、自分が不完成なクローンである事も自覚できていなかった。
だから培養槽を出られなかったことも。
そして、長老が神に殺された事も。
此処を更なる上位の神が支配していて。
全能ではないにしても。
不平等では無い事を告げる。
震えている相手に。言い聞かせる。
長老も父親になり得た身だ。最後まで、父親となる事はなかったけれども。
だから、父親になったつもりで言い聞かせる。
今の体は小娘だけれども。
たっぷり、二時間ほども時間を費やして。相手との会話を続けた頃だろうか。
口を開く分からないもの。
分からないものの意思を尊重し。
しばし待つ。
「僕は……」
「何ですか」
「我が儘を言って培養槽を出ました。 その結果、父を悲しませました。 これは地獄に落ちるのに、充分ではないのですか」
「その程度の罰であれば、もう受けているではありませんか」
また黙り込む分からないもの。
待つ。
幾らでも。
待つのは慣れている。
年単位で上がらないものが出る事だってあるこの場所なのだ。何も変化が基本的に起きない場所でもある。
だから、待つ事くらいは。
それこそ、何でも無いのである。
根気強く待つ内に。
分からないものは、ぼそり、ぼそりと話し始める。
「僕には文学しかありませんでした。 父はそんな僕に、優しく声を掛けてくれてはいました。 父は僕を息子だと思ってくれてはいたと思います。 でも、僕は何処かが薄ら寒かった」
「続けてください」
「……僕は、一体何のために生まれたのでしょう」
「生まれた事には、どんな存在にも意味はありません」
これは事実だ。
生物は生まれるべくして生まれるのであって。
其所に意味とかを求めるとおかしくなる。
知的生命体は生きる権利を持っているのであって。
義務を果たさないと権利は得られないとか。
見た目が気持ち悪いとか、見た目が違うとかで権利を奪って良いとか。
考え始めると、社会は壊れる。
人間という生物は元々知的生命体としては極めて未成熟で。
その愚かしい行動は、今も昔も変わっていない。
だからこそにだ。
生きて良いのである。
誰もが。
生前の長老は、誰もが大いなる愛の下死ぬべきだと考えていた。それが苦しみから解放することだと。
決定的な事件が故に、愛と言う思想を拗らせ。
多くの命を灰燼へと帰した。
それに比べれば。
何もなせなかっただけのこの者など。何の罪を背負っていると言えよう。ただ此処は、中継地点として通過するだけの場所だ。
それを蕩々と言い聞かせると。
やっと。
分からないものに、手応えが生じていた。
「長老は……」
「何ですか」
「後悔はしていないんですか」
「人生後悔しかありませんよ。 私は愚かしい思想の元、宇宙最大の罪を犯したのですから」
長老はだからまだ此処を上がれない。
分からないものは、そうなのかと呟くと。頷いて、静かに目を擦った。
「考えてみても、良いですか」
「貴方は内にこもってしまう傾向があるようです。 少しで良いから、外に向けて話しなさい。 ただ、考える事は良いことでしょう」
「……明日、長老の家を訪れます」
「良いでしょう。 そうしてください」
勿論時間はある。
分からないもののために、割く時間も用意できる。
問題は、蜥蜴頭の男がもうすぐ上がると公言していたこと。あの者は、右腕として大変活躍してくれたし。
今後も活躍に期待出来る。
いや、出来た。
もう彼奴が上がってしまうとなると。
いよいよ長老も、上がる事を本気で考えなければならないだろう。
自宅に戻る。
正座して、少し思考を練る。横になるよりも、本気で考える時の体勢だ。だが、来客があった。
家に入ってきたのは、蜥蜴頭の男である。
顔を上げると、今は思索中だと告げる。
蜥蜴頭の男は、向かい合って座ると。
思索が終わるまで待ってくれた。
明日以降の思索が完了した時点で。
顔を上げる。
蜥蜴頭の男も、それを待って話し始めた。
この辺り、数千年をともにした存在である。
完全につうかあで通じる。
「どうやら、上がる時が来たようでさ」
「私はそれを感じませんが……」
「俺はどうやら、これからもっと重い地獄に落ちるようです。 多分それが原因かと思いやすね」
なるほど。確かにそれならば。
そして、地獄に落ちることも、受け入れていると言う事か。
「どうしてそのような事が?」
「聞こえやした、神の声が」
「……」
「正確には、俺が行く世界はかなり厳しい場所になるようです。 そこで精一杯生きるのが、俺の償いになるようでして」
少し、恥ずかしそうに言う蜥蜴頭の男。
いや、黒髭。エドワード・ティーチ。
地球にて最悪の海賊として名を知られ。
後に海賊のイメージを作り上げた最悪の大海賊。
後の時代にも、この黒髭をイメージしたピカレスクロマンの物語が多く作られたり。黒髭の再来を名乗る海賊が出現したりもした。
正真正銘の外道であり、シリアルキラーでもあった男。
ここに来てからも。
しばらくは苦労させられた。
心服してくれてからは。
右腕として、心強い者となったが。
「俺は貴方のアシストで、多くの者が此処を上がる手伝いをした事が認められたようですね。 それでも、この世界を上がってなおも、厳しい世界に転生することが確定したようですが」
「やむを得ません。 すぐに此処に戻って来てしまってはいけませんよ」
「……今まで、ありがとうございました。 俺みたいなのが真人間に戻れたのは、間違いなく貴方のおかげですよ、長老」
ぐっと、頭を下げられる。
それを、手を上げて受けると。
外に出て、集落の者達に送別会をすることを説明。
あの分からないものも呼んだ。
送別会は静かだが。
心のこもったものとなる。
最後に、黒髭は言った。
「貴方の配下に生まれたかったですよ」
「もしそうなっていたら、きっと私が滅びの方舟を起動したときに、貴方も死んでいたことでしょう」
「それでもかまいませんぜ。 生きていた時の俺は、ただの馬鹿野郎でクズ野郎以外の何者でも無かった。 俺自身がそれを良く理解していた。 此処でやっと俺は、人間になる事が出来た。 だから、それでもかまいませんでしたよ」
嗚呼。
此奴は、此処を上がるとなっても。
なおも危うい奴なんだな。
そう苦笑すると。
長老は右腕を見送る。
その夜、災厄が起き。
長老の右腕は荒野の世界を去った。
だが、もうそれも気にならない。
長老自身も。
この荒野を、上がらなければならない時が近付いているのだから。
3、崩れ始める荒野の世界
翌日、分からないものの来訪を受ける予定だったが。
まずは集落の再建をしなければならない。
それは説明した。
だが、妙なことが起きたのである。
新人が来ていないのだ。
「何処にもいないか!」
「見当たりません!」
「そうか……」
今まで、この集落にいる人間の数は一定だった。
だが、あの黒髭の代わりがいない。
そうなると、此処は終わろうとしているのか。
或いは、長老が最後で。
皆が上がって行くと言う事なのか。
長老自身が先に上がるという発想はない。全員を上がらせるつもりだ。
まてよ。
ひょっとしてだが。
こういった場所が無数にあるとして。
リーダーシップを取れる存在を基本的に入れて。
それが上がると同時に、この手の世界は一度終わらせる。そういう仕組みになっているのかも知れない。
いずれにしても、例外事項の可能性もある。
ともかく、皆を指揮して集落の復旧を進める。
皆が集落を復旧するまで一月。
右腕がいなくても。
この辺りは嫌と言うほどノウハウを蓄積しているので、別に問題は何一つ無い。
ただ、問題は今後だ。
人数が減っていくと、集落の復旧は難しくなっていく。
そして、良く出来ているというのか。
丁度、荒野に落ちている物資は。
家一つ分、減っているようだった。
苦笑しながら、そのまま生活を再開。
再開するほどの生活もないけれども。
ともかく、まず最初に。分からないものと話をする。
蜥蜴頭の男。つまり黒髭の事を聞かれたので、話す。そんな恐ろしい人がと、分からないものは震え上がっていた。
それはそうだろう。
培養液の中で、恐ろしい天敵など知らずに一生を過ごしたのだ。
どんな生物よりも危険で獰猛な邪悪の権化なんて、遭遇する機会もなかったのだろうから。
そして、今、自分の目の前に。
黒髭を遙かに凌ぐ邪悪の塊が存在している事も。
この分からないものには、理解出来ていないだろう。
ともかく、一日の予定が。
一月伸びてしまった。
考えは練ることが出来ただろうか。
期待しながら、話を聞く。
少しずつ、分からないものは。
話を進めて行く。
「僕は、何を心残りにしていたか、ずっと考えていました。 歩くこと、外に出る事、いずれも違うようです。 父と触れあう事。 それもどうやら違ったようです。 今も、何だかもやもやしている。 ひょっとして僕は、知りたいのかも知れません」
「知りたい。 世界について、ですか」
「はい。 僕はどんな世界で、どうして生み出されたのか……」
「それは……困りましたね」
今まで、限定的な情報しか分かっていない。
そもそもだからこそ分からないものなのだ。
どうも人類社会が破滅的状況に行っていること。
限定的で未熟ながらも、クローンが作られている事からも、最低でも22世紀以降であろう事。
大規模地下施設及び密閉施設で人間が一人。
これらの状況から、地球上だとは限らない事。
更に言えば、そんな技術力がありながら、そもそも大気に触れると死ぬようなクローンを作る技術しか持ち合わせていないこと。
それらを考えると。
恐らくは、仮説は絞られてくる。
賢者達が言ったとおり。
滅びの後の世界だ。
「恐らくですが……貴方がいたのは、地球か、或いは地球文化圏の何処かの惑星の地下でしょう。 そして貴方のいた世界では、人類の文明は苛烈な衰退に晒されていた。 これは確定事項だと思います」
「賢者達の言葉通りですね。 不格好な方舟……ですか」
「はい。 そしてここから先は更に辛くなりますが、いいですか?」
頷く分からないもの。
咳払いすると。
長老は、一つずつ話を進めて行った。
まず恐らくだが、分からないものがいた世界。生きている人間はごく少数か、分からないものの「父親」のみ。
世界は想定通り核か何かで滅び。
そして絶滅動物を、生き残った人間がかろうじて再生しようとしていた。
少ないデータから。
不格好な技術で。
分からないものも、その中の一人。
人間すらも、作り出さざるを得ない状態だったのだ。
だから息子と慈しみ。
親子ごっこを始めたのだろう。
しかし、不格好な技術による親子関係は。
脆くも破綻してしまった。
それが事実、と言う事だ。
「貴方のいた世界は終わりでしたでしょうね。 もしも先があるとしても、一度完全崩壊してからの、一からの再生になるでしょう」
「……」
「これで、心残りは晴れましたか?」
「もう一つ、あります」
そうか。
どうせこの後が怖いのだろう。
その予想は当たる。
やはり分からないものは、怖いとひたすら震えるのだった。
「この後、僕はどうなるんですか。 やっぱり地獄、いやもっと恐ろしい場所に……」
「貴方の世界にどんな神がいたかは分かりません。 残忍で非道で、人間どころかあらゆる生物をゴミ同然に思っている嫌な奴だったかも知れませんし、生きていた頃の私のような、破壊の権化かも知れません。 ですがこの世界に来たからには、もはやその世界と貴方は切り離されています」
そう。それが全てだ。
そもそもこの分からないものは。
空間相転移やブラックホールによる消失すら耐え抜くこの世界に来ているのだ。
この世界に干渉できるのは、恐らくはこの世界を作り上げた神だけ。
そんな存在は、恐らく神の中でも最上位に食い込んでくる者だろう。
生半可な神の干渉など、軽くはねのけてしまうに違いない。
怯えきった分からないものの頭に手を置く。
それは、優しい手では無い。
覇王としての手だ。
少し口調も変える。
「弱きものよ。 そなたは弱きものとして生を受けて、それ以外の生を送る術を持たなかった。 そもそも生をそなたが送ったかすらも怪しい。 実に虚しい生であったと思うやもしれぬが、ここに来ている以上それは無い。 余が保証しよう。 そなたは生き、そして自分の意思で死んだ。 それは他の生と何一つ変わるものではないし、馬鹿にされる謂われも無い」
生前は。
こんな風に喋っていたな。
今は姿格好にあわせて優しく喋っているが。
「そして今、そなたは弱き者から脱却しようとしている。 そなたは何を望む。 蹂躙か、破壊か」
「そんなことは、望みません!」
「では何を望む。 支配か、それとも圧制か」
「……道を探したい」
分からないものは、俯いたまま言う。
その言葉は。
少しずつ、力を帯びていた。
「僕のいた世界は詰んでいたのかも知れない。 だったら、詰んでいない筋道を探し出したい」
「そうか。 それもまた道の一つ。 余が生前辿った覇の道では無い。 王の道だ」
「……」
「良いではないか。 覇道、王道、それは互いに交わらぬ道ではあるが、余はそのどちらもを今は尊重したいと思うておる。 そなたがそう考えるのであれば、王の道を行く事の背を押そう」
手を離す。
弾かれたように顔を上げた分からないもの。
だが、その時には既に。
長老は、普段の状態に切り替えていた。
「今、自分で口にした願いを、少し考えて自宅でまとめなさい。 それできっと、良い結果が出るはずです」
「……はい」
「覇王であった私は、自分で全ての道を切り開き、結果として視野狭窄を起こしてしまいました。 貴方は多くのスペシャリストに恵まれた。 きっと、違う道を模索する事が出来ると思います」
分からないものは、正座し直すと。
ぐっと頭を下げる。
きっと、何かが掴めた。
そう信じたい。
少し、長老自身もナーバスになっているのかも知れない。右腕を失ったばかりなのだ。そうでなければ、地なんて見せなかっただろう。
さて。
もしもこれからどんどん此処が過疎化していくとすると。
その先が大変だ。
それに、王道を目指すとしてどうするのか。
以前ここに来た革命に失敗したもの。
あのもののように、そもそも人間が致命的な失策を犯さないように工作をするのか。
それとも、何かしらの手段を、もっと古い時代から講じるのか。
どうも嫌な予感がする。
ひょっとしてだが。
あの分からないものの世界。
あんなタチが悪い状態に置かれていた事から考えて。
余程の邪神にでも魅入られているのではあるまいか。
ただ、それでも。
此処に来たということは。
そんな邪神の手を離れたという事でもある。
事実長老も。
自分を屠った神の存在は、一度も感じたことが無い。此処は恐らくだが、そういった神々ですら干渉できぬ土地なのだ。
いずれにしても、あの分からないものは。
此処からは、自分で思考を練っていく時だ。
情報を集め。
どうすればいいのか、自分で考えていく。
勿論相談を受けたのなら答える。
だが、過干渉はしない。
下手に干渉をしすぎると、自分で考えて此処を出たのでは無くなる。
何よりも、干渉によって、本来の考えが歪んでしまう。
元々どうしようもない考えを持っていたような輩だったのなら。例えば、以前ここに来た、盗むことしか法が無い世界から来たものだったり。そういう場合は荒療治も必要となってくる。
だが、あの分からないものは。
そうではないのだ。
言葉は通じる。
考える事だって出来る。
元が如何に脆弱だったとしても。
今は、此処で一人の人間だった者として存在している。
だから、同様に価値があり。
その思考には幾億の宝石と同等の存在意義がある。
ならば、それに任せる。
それでいいのだ。
自宅に戻る。
勘が働いた。蜥蜴頭の男の時とは違う。長老でもすぐに分かった。隠そうとして隠せるものではない、ということだろう。
すぐに腰を上げなおし。
上がると思われる者の所に行く。
古株の一人だ。
これで、この荒野の世界に、異変が起き始めているか否か、分かるだろう。
話をしてみると。
随分と時間は掛かったが。
未練は晴れたし。
やりたいこともはっきり決めたという。
良かったと、心の底から激励の言葉を掛けると。
送別会を行う。
そして、あの分からないものに対して。
最後のアドバイスを頼む事にした。
その夜。
災厄が集落を襲い。
やはり、新人は来ず。
また一人、集落から、人が減った。
誰しも、苦しい中で練り上げられた思考は、ずっと心を蝕む。長い時間を掛けて壊された心をくみ上げるのは、大変な時間が掛かる。
集落の修復が終了して。
また一つ減った家を見る。
家があった場所は更地。
せっかく色々とノウハウを積み重ねてきたのだけれども。
こればかりは仕方が無いか。
誰かが上がる度に、災厄に襲われる。
此処はそういう場所なのだ。
だから、覚悟は決めておくしかない。幸い亡者は何があっても死ぬ事も傷つくことすらもないので。
その辺りは、心配しなくても良いが。
この狭い世界である。
流されたとしても、すぐに見つけられるし。
そもそも多数の災害を見て来て。
集落の外に流されたり、埋まったりしたものが、そのまま見つからずに苦労した、と言う事は一度もなかった。
そういう事は起きないように、仕組みがくみ上げられているのだろう。
集落の復旧が終わったので、周囲を見て回る。
後は古株と。
まだ困惑しながら、此処を上がる方法を模索している者達。
多分、まだ此処から人がいなくなるのには、何年もかかるだろうとは思う。
前はスペシャリストに頼ることが出来たが。
それも出来なくなっていくだろう。
だが、此処がなくなるというのは。
それはそれで良い事だとも思う。
或いは長老が此処を上がるのにあわせて。
一度この小さな閉じた世界を。
完全に終わらせるつもりなのかも知れない。
もしもそうなのだとしたら。
それはそれで、此処の世界を作った神には、そういう采配があるのだろう。理由は分からないが。別にそれに対して、文句を言うつもりはない。
一通り皆の様子を見ていく。
分からないものは。
今は悩めるものとなっていた。
どうしたら良いのか。
全身全霊を費やして、必死に考えている。
必死に取り組んでいる。
心残りについても、整理を進めている様子だ。
此処は、関わるべきでも。
余計なお世話をするタイミングでもない。
ただ、苦しみ。結論を出そうとしている様子を、静かに見守ってやるだけでいい。それが長老としての責務だ。
静かに様子を見守る。
それが大人の責務である事もある。
実時間で千年以上も生き。ここに来て数万年が過ぎている長老である。
だから。数年しか生きられなかっただろう者に対しては。
大人としての視点から接しつつ。
同じ亡者として相談に乗り。間違っている場合は手をさしのべて引っ張ると、そういった行動を取らなければならない。
此処では、一番の長老であり。
もっとも経験と能力があるのだから。
ふと気付く。
久々に、わからないものが動いた。
相談かなと思ったが、どうやら当たりだ。
有識者の一人の所に行き、話を聞いている。長老としては出歯亀する理由も無い。己が思うとおりに行動を任せれば良い。
そもそも、歩くことさえ。木の実を取ることさえ不自由だったものが。
今は積極的に、自分の考えをまとめるために、他人に頼っているのだ。
邪魔をしてはいけない。
ただその行動を後押しし。
静かに見守ればいい。
自宅の中で、自身も正座して、思考を練り上げる。
犯した罪に相応しい罰は受けたのか。
償いは出来たのか。
これが、まだ自分の中では結論が出ていない。
多くの者を、此処から上がらせた。
善人もいたし、悪人もいた。
だが、その全てが、納得して此処を去って行った。
納得出来ない人生を送った者達だったからこそ。納得して、此処を出られたのはとても大きかった。
そして今。
自分が、それをしなければならない。
視野に入り始めた、自分が「上がる」時。
それを考えて、思索を練る。
やる事については、決まっている。
麻のように乱れた場所に出向き。
豪腕でまとめ上げ。
そして教化したい。
多くの賢者に学んだ。
色々な視点の考えを学んだ。
宇宙に唯一絶対の法など存在しないし、ましてや力がそうだなどと言う事は絶対に無い。最強最大の勢力を動かしていた覇王だからこそ断言できる。
宇宙の法は弱肉強食に非ず。
あの絵。
非業の死を遂げた少年が描いた絵は、心の中に染みついている。
あの少年、転生があったとして。
その先では、きっと絵描きとして大成しているだろう。
それくらいの度量は、此処を作った神にも残っている筈だ。
具体的な案については。
思考の中で、練り上げる。
ひたすら丁寧に。
押しつけであってはならない。
だが、暴悪を振るうものを押しとどめなければならない。
暴はどうしても必要だ。
だがその結実は、和でなければならない。
暴はあくまで手段にし。
最終的な戦略目標は、様々な思想を尊重しつつ、和の世界を作る事。
それ以外にはあり得ないのだ。
奇しくも。
あの船の名が。自分を撃ち倒す原因となったあの船の名が、そうであったように。偶然ではあったとしても。
分からないものが、賢者の所を離れる。
何を聞いたのか、確認に行くほど野暮では無い。静かに正座したまま、思索を続ける。
救った人数は十万に届かなかった。
恐らく殺した人数の、千億分の一にも届いていないだろう。
その救った者達が、もしも多くの業績を為したとして。
そして、それが償いになるだろうか。
また、別の地獄に落ち。
罪業を償ってから、新しい世界に旅立ち。
宇宙そのものを建設的に動かす事くらいはしないと、とてもではないが償いにはならないようにも思える。
ため息をつく。
まだ思考が定まらない。
いわゆる仏教における悟りの概念にまで到達するつもりはない。
あくまで人としての存在として。
出来ることをしたいのだ。
それ以上は、もう精神哲学の世界になる。その精神哲学で大失敗した身としては。
地に足をつけて。それでいながら、人間という存在の統率管理を、建設的かつ独善的にならぬように。
こなして行きたいと考えているのだ。
正座を崩す。
食事の時間だ。
食事を済ませる。
そういえば、この木。
少し背が低くなったか。
観察すると、なっている実も減っている。なるほど、此処にいる人間の数にあわせて、実もある、ということか。
何もかもがシステマティックだなと、関心。
苦笑していた。
これくらいシステムが厳格であれば。
悪さをしようとするものはいないし。
いたとしても、長続きしない。
人間を統率するには、やはり法治主義。しかも、人間が手を入れられないほど厳格な法によるものが好ましいか。
長老のいた世界のAIはまだまだだった。
ならば、絶対の法となる存在を作らなければならないが。
宗教や精神哲学は駄目だ。
それらは、人間がいずれ乗り越えなければならないものだ。
AIは人が手を入れる以上。
どうしても、バックドアの存在に常に気を付けなければならない。
色々と、大変な問題は多数あるが。
気付くと。
上がったあと、どうするかの具体的問題を、ずっと考えている事に気付く。
苦笑する。
自分ともあろうものが。
随分と前向きになったものだなと。
ずっと、己の犯した罪に押し潰されていた。
だから、他人を救うことに必死だった。
だが、今は何処か静かな余裕ができている。
右腕だった蜥蜴頭の男。大海賊黒髭が先に上がったのは、恐らくはこの長老の心理を見抜いたからか。
あの男。
ずっと年下で。ずっと率いている手下の数も少なくて。戦闘経験も、人生経験も及ばないくせに。
そんなところでは、此方を見透かしていたんだな。
別に怒りは沸かない。
ただ、ちょっとばかり、おかしかった。
顔を上げる。
此方に歩いて来る、分からないもの。
どうやら、時が来たなと。
長老は感じていた。
「やっと、心が晴れました」
「聞かせて貰えますか」
「はい」
自宅に移動。
向かい合って座り、話をする。
心が落ち着いてきているのは長老も同じだ。数万年もここにいて、やっと落ち着いてきたと言うべきなのだろう。
「僕は、生前はあの培養槽にいて、外に出れば溶けるほど脆弱な生物でした。 ですが、父はそんな僕を、実験生物として造りはしたものの、本物の愛情を注いでいたのだと思います。 思えば、僕を培養槽から出したのも、僕が無理を言ったから。 ひょっとして、神の奇跡が起きるかも知れないと、父も思っていたのかも知れないと思うと。 もう僕の境遇に対する恨みや憎しみは、静かに消えていました」
「生前の心残りは晴れたと言う事ですね」
「今は、とても穏やかな気分です。 僕の死は、僕が選んだもの。 父に責任はないし、父は出来る範囲内で最高の事をしていた。 悪趣味な運命があの世界を弄んでいたのかも知れませんし。 そもそも僕が生きた時代がいつなのかさえも分かりません。 ただし、21世紀よりは未来である事は確実です。 それならば、僕は……その未来を、建設的に変えたいです」
「貴方のように未来を変えたいと願った者はいました。 貴方はどう未来を変えたいと思いますか?」
静かに聞く。
ここからが、大事だ。
恐らくだが。
此処の神は、相応の手を尽くしてはくれる。
だからこの者が、世界を変える機会をくれると思う。
何かビジョンがあるのか。
ビジョンがあるのなら。
聞いておきたい。
「きっと、僕が思うに。 色々な人の話を聞く限り、人には万物の霊長という思想は、あまりにも傲慢すぎるものなのだと思います。 ましてや人の中に上下など存在しませんし、すると勘違いしているものは例外なく傲慢で残忍です。 まずは、人間という生物の勘違いを、取り除くところから始めたいと考えています」
「哲学でもするつもりですか?」
「いえ、まずは人間を支配するところから開始します」
ふむ。
それも手か。
21世紀の人間が滅ぶ未来。
多くの場合、それは核だ。
他の星から侵略者が来て滅ぶケースもあるが、それはごく希。人間が滅ぶ場合は、多くの場合権力者の暴走の結果、地球中を核兵器が焼き尽くす事、である。
そうやって滅び焼き払われた世界の生き残りも、他に来た事がある。
現実的な対処策は。
権力を一つにまとめ。
核を使っても意味がない世界を到来させることだろう。
分からないものの言葉は、一見すると危険にも思える。
だが、彼の世界は、核によって滅びた可能性が極めて高い。
人間がそんな程度の生物である以上。
一旦完全な支配体制を取って。そして、そこから導線を引き直し、宇宙進出を粛々と進めるのもありかも知れない。
それも、考えの一つだ。
王道よりは覇道に寄った気がするが。この者が、そう結論したのなら、それもあり。
それにこの者の世界が、愚かな人間達により、他の動物ごと核に焼き払われたのであれば。
そんな人間共に、文句を言う資格もあるまい。
青年は、上がるな。
それを感じ取る。
そして、静かに長老は満足した。
これから、どんどん上がって行く者は増える。恐らく最後に残るのは長老だろう。
その時が来るまでに。
まだ残っている迷いを。
全て断ち切っておかなければならない。
4、光の入り口
世界を変えるんだ。
強い意気込みとともに、新しい世界へと消えた青年。
あの青年の生きた世界には、運命を弄ぶ鳥の姿をした神がいるのだが。あの青年は、その支配をも脱却してみせるだろう。
凄まじい意思を感じた。
虚無の世界に送ったときには、本当に弱々しかったのに。
そして、その虚無の世界も。
順調に収縮を始めている。
長老。
あの者が、そろそろあの世界を、離れる時が来ているのだ。
似たような世界はたくさんある。
だが共通している事が一つ。
虚無の世界は、基本的に極めて罪深きものが核となっている。
様々な世界から引き受けた罪深き者達。
その者のために作られたのが、あの虚無の世界。
上位次元から見て。
地獄などに落とし、罪を償わせるなどと言う非建設的なことよりも。
罪を償おうという意欲があるならば。
積極的に罪を償わせ。
苦悩する亡者達を救わせ。
そして、己を更なる高みへと昇華させる。
そんな場所の方が良いではないか。
多数の宇宙が交わりあう世界の神である光そのものは、そう判断し。多数の世界の神々に同意を取り付けて、己の中に虚無の世界を作った。
多数の世界を束ねているのだから、その強度は当然絶大。
いかなる理論を用いても、破壊する事も殺す事もかなうことはない。
そして事実、この虚無の世界は多くの成果を上げている。
色々な虚無の世界で救われ。
世界を建設的に変えていく偉人と変わった者は多い。
その実績を見ているから。
多くの宇宙の神々も、文句を言うことは無かった。
例え、どんなに残忍な神であっても。
己の宇宙が廃墟になる事は、望まないからである。
さて、一つの、もっとも罪深き魂が、解放されようとしている。
その思想は覇王らしく巨大で。
今も悩み続けている。
だが、多数の思想がその魂には確実な影響を与えた。
建設的な影響をだ。
今も、自他共に厳しい思想である事に変化は無い。
上手くいかなければ、きっとまた、大きな災厄をもたらす存在になるだろう。
だが。
上手く行くと確信できる。
あれだけの、多くの罪人を。或いは悩める者を。それぞれ救ってきたのである。
自分だけ救われないという事は無いだろう。
そしてもしも失敗した場合は。
また虚無の世界にて、再教育をするだけである。
魂は変わらない。
人間は死んでも変わらないという話もある。
だが、それは違う。
バカはいつまで経ってもバカのまま。
努力など無駄。
そう嘲弄するは、所詮自分は馬鹿では無いと考えている馬鹿の寝言だ。
簡単に変わる事は無いにしても。
環境次第で大きな影響を受ける人間が。
変わらない筈が無い。
事実、長い長い年月を掛けながらも、あの者は。
星々を滅ぼし、愛と言う言葉で己を理論武装していた大帝は、変わった。
今、全ての総決算が来ようとしている。
あの大帝が虚無の世界を最初に上がれるのだろうか。
他にも、同じような規模の罪人が、虚無の世界に今いる。
それらの者達も、皆二癖も三癖もある者ばかりだ。
誰が最初に上がるのか。
そして上がったあとは、建設的に世界を動かせるのか。
楽しみでもある。
世界は決して人だけのものではない。
だから、これはあの世の一つの形に過ぎない。
しかしながら、地獄でただ拷問するよりは、余程建設的である。
光そのものは。
そう信じている。
(続)
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