犬を傍らに
序、寡黙で実直
虚無の世界を訪れたのは、長身の青年だった。ただ、中身はまだ子供だろうと長老は思った。
少し違うか。
恐らくは、まだ体は子供だが、大人として扱われる年頃の子供。
世界や文明によっては。
まだ発育中の子供が、大人として扱われる事もある。そんな微妙の年頃な子供だったのだろうと思った。
青年は優しい微笑みを浮かべていて。
絵を描きたいと言う。
そして、画材が何一つ無い事を悟ると、寂しげに微笑むのだった。
ぼんやりしている様子の青年。
長老は腕組みして、その後ろ姿を見る。蜥蜴顔の男が、小首をかしげていた。
「どうにも妙な奴が来ましたね。 あれ、本当に何か心残りがあったんでしょうかね」
「今まで此処に納得出来ていて訪れた亡者がいましたか?」
「いいや、覚えがないっす」
「でしょうね」
家の中で、青年は棒を使って絵を描いているようだが。とても牧歌的な絵ばかりだ。手慣れている様子からして、絵の技量は低くないと見た。
風を使う何かの道具か。
多分労力を省略するためのものだろう。
犬。
地球人が飼い慣らしている動物。
そして、どこまでも広々とした野原。
それが、土に棒で書いている絵でも分かる。
技量は低くないらしい。まだもう少し見極めがいるが。
声を掛けて、絵を褒めると。
青年は、寂しげに微笑むのだった。コンクールに出して、評価されたかったなあと。
そうしなかったのかと聞くが。
首を横に振られる。
「僕の生きた時代では、もう僕の年になると大人扱いでした。 絵を描きたいとか、コンクールに出したいとか農村で口にしていたら、それだけで半端物扱いで、あらゆる陰口をたたかれるのが当たり前でした」
青年は、親も祖父も亡くし。
犬と一緒に暮らしていたという。
いつも小銭を稼ぐような暮らしをしていて。それで絵を描くことだけが生き甲斐だった様子だ。
文明のレベルについて確認するが、人類が宇宙にでる遙か前の話である。
そうか、そんな時代だったら。
そもそも絵画用の顔料ですら相応の値が張っただろう。貧しい民には手に入れづらかっただろう。
そう指摘すると。やはり青年は、静かに微笑むのだった。
「コンクールに絵を出せなかったことが心残りなのですか?」
「……」
寂しげにわらう青年。
違うと言う事か。
いや、恐らくはそういう直球の話では無いのだろう。
青年の物腰の柔らかさに、他の亡者達も興味を持ったらしい。それぞれの家で、絵を描いて貰う。
青年は非常に巧みに、言われた通りに絵を描いてみせる。
認識を更に改める。技量は長老の目から見てもかなり高いと判断した。
芸術にあまり生前は興味は無かった。
興味を持ったのはこの虚無の土地でだ。
生前一切触れる事がなかったから。逆に、興味を持ったのかも知れない。
ともかく、破滅の度に台無しになると分かっていても。
青年は黙々と絵を描く。
中には裸婦画を求める者もいたが。
青年は嫌そうな顔一つせず、それに応じるのだった。とはいっても、性欲も何も消滅しているこの世界で、裸婦画に芸術以外の意味はなかったのだが。
やがて、青年は口数少なく。
集落の外にでては、黙々と絵を描くようになった。
話をせがまれる。
住んでいたのはどんな場所か。
どんな風に生きていたのか。
それに答えると。
こんな風だろうかと、地面に絵を描いてくる。全く違うので、静かに指摘していくと。指摘の度に上達していく。
やがて見た事も無い宇宙用の軍艦も描けるようになったので。
蜥蜴顔の男は驚いていた。
「素晴らしい想像力ですな。 俺だったら、絵描きとして結構良い値で雇っただろうに……生まれた場所が悪かったんだろうなあ。 海賊の俺にさえ、いや宝には目利きがある俺だからこそ、雇ったと思いますよ」
「貴方はどう思います?」
「? いえ、絵は上手いし、頭も悪くないと思いますが」
「……そうではなくて、あの青年の心残りですよ」
小首をかしげる蜥蜴頭の男。
しばらく考えてから言う。
「あれは中身はどう考えても背が伸びきってない、無理矢理大人に混ぜられた頃のガキでさ。 そうなると農村では一人前扱い。 家があれば良い方で、下手をすれば農奴扱いだったでしょうな。 そうなると……女?」
「ほう」
「俺が死んだ後の世界では、自由恋愛なんてものが流行ったらしいですがね。 俺の生きた時代や、その前は、親が結婚相手を決めるのが当たり前でしてね。 ましてや彼奴の描いている絵……あれは西洋圏、欧州の片田舎でさ」
国名を出してくる。
確か、前に地図を地面に書いた歴史教師がいたが。その授業に出てきた名前だ。覚えている。
「そういう田舎だと、農奴になると結婚なんて一生できない、それどころか奴隷として使い潰されるのも当たり前でしたからねえ。 俺の所にも、そういうクソ田舎から出てきた奴が、結構いたもんですよ。 農奴として使い潰されるくらいなら、悪党としてまだ好き勝手にいきたいってね。 そういう連中は地獄を見て育ってるから、限りなく残虐だったし、手下としては有能でしたな。 女に見境がなくなる傾向も、女なんか縁がなかったから、でしょう」
「……他に思い当たる可能性は?」
「そうですねえ、やっぱり自由とか? まあ境遇を聞く限り、奴隷も同然の貧乏生活で、絵何て趣味が受け入れられる状態になかったでしょうしね」
なるほど。同一文化圏の人間の言葉は参考になる。
しかしながら解せない。
あの青年、絵を散々書いていながら、満たされているようには見えないのである。
なお、賊が元々どういう連中だったかは、長老も実の所良く知っている。
生前から、上手く使えそうな賊は軍に取り込んだりしていたからである。主に捨て駒として、だが。
事実それで新兵器の試験運用と、実験データを取ることが出来た。
勿論今では。忌むべき記憶である。
今、話を聞いていたのは。
そういった人間としての、賊になる前の者達。
その情報に詳しい者の、生の声を聞きたかったからだ。
腕組みする長老に、蜥蜴頭の男は続ける。
「俺が話してみましょうか?」
「話は勿論聞いてみてください。 ただ、少しどうも気に掛かることがありましてね」
「?」
「情報を今は集めましょう。 話を幾つかしてみます」
頷くと、手分けして情報を集めに掛かる。
新入りに対しては、いつもこうやって情報を集め。
自分で上がりを迎えられそうなら、それを手伝う。
無理そうなら、手をさしのべる。
そうして、既にかなりの数に上がりを迎えて貰った。
勿論此処に二度来た奴はいない。
だが同じ世界の別の時代から来た奴はいるし。
微妙に話がずれている事もある。
此処は。この虚無の世界は、ありとあらゆる人間の世界、特に地球人と関わりが深い世界につながっていて。
此処には誰でも来る。
心残りがあれば。
それが悪党だろうが善人だろうが。
あの儚げな青年は、多分善人の方だろうと長老は見ているが。こんな所に来たということは、余程無念だったのか。
それとも、心残りがずっと引っ掛かっているのか。
いずれにしても不幸な話だ。
此処の外がどうなっているのかは、相変わらず分からない。何しろ、どれだけ災害が起きてもびくともしないのだ。空間相転移や、ブラックホールが発生した事さえある。文字通り何もかも無くなっても再生する。それが此処なのだ。
空間としての強度は、どれほどのものになるのかさっぱり分からない。
ともかく、上がりを迎えれば此処から出ることが出来る。
それしか分からない。
でた後どうなるかが分かれば、もう少し力強く、責任感を持って上がりに向け皆を説得できるのだが。
それも中々上手く行かないのが現状だ。
蜥蜴頭の男が話し終えた後。
長老がもう少し立ち入った話を聞いてみる。
しかし、いずれにしても決定打になるような話は聞けない。
ごくありふれた生を送り。
そして若くして命を散らした。
そういうのが実は一番厄介で。
命を散らした時に、若さ故の情熱が、そのまま心残りになったりしている事が多いのだが。
この青年、明らかに何かを隠している。
此処では、欲望も欲求も代謝すらもない。
だから皆口は滑らかになるのに。
少し前に、此処を上がった孤児院院長を思い出した。
彼奴も非常に口が堅くて大変だったけれども。
此奴も、別の意味で厄介だなと判断。
いずれにしても、臭いで分かる。勿論実際に臭気がしているわけではなく、勘に近いものだけれども。
此奴が自力で此処から上がる事は不可能だろう。
或いは、自分の心残りが何だったのかさえ、分かっていないのかも知れない。
その可能性があるとすれば。
かなり厄介だ。
まだ自我が固まりきっていない状況で、此処に来てしまった場合。
話を聞きながら、その心残りを指摘して、すっきりさせてやる必要があるのである。
それを思うと色々大変だなと感じるが。
一番大変なのは、こんな所に来てしまった青年の方だ。
長老は自業自得だが。
此処には善人も来るのだから。
青年と話す。
「自画像を描いて貰えますか?」
「今の姿ですか?」
「いえ、生前の」
「……それだけは、勘弁していただけますか」
ふむ。
ひょっとして、それが突破口になるかも知れない。
生きている間は感情的になって話せない事もあるかも知れないが。
此処ではそんな事もない。
丁寧に、ゆっくりと、相手の心の深奥に踏み込んでいく。
それは邪悪な行為ではない。
相手を知っていくことで。
相手をこの地獄から、脱出させるためには、必要な行為なのである。
「自分が嫌いだったのですか?」
「……」
「私も、生前は自分というか……世界そのものを凄まじいまでに憎んでいました。 此処は心残りがあるまま死んだ者が来る地獄のような場所。 実際に外には出ていないので何だか分かることはないのですが……少なくとも貴方のような者が、長居して良い場所ではありません。 一刻も早く此処を上がるためにも、出来るだけ心を開いてくれると助かります」
「ごめんなさい。 少し、時間をください」
拒否されるが。
やはりこれが何かしらの問題につながっているとみた。
蜥蜴頭の話も総合すると。
やはり、元々奴隷同然の環境にいて。
それを改善するために、何か苦労した、という可能性は高そうだ。
そしてそうだとしたら。
分かる。
自分も戦闘限定の奴隷同然の存在として作り上げられた。
創造者は一切手を汚さず。
殺し合いを代行させるための生きた肉。
自我が芽生えてからは、創造者に対する激しい怒りを覚えたものだけれども。
青年も酷使される立場だったのならば。
その気持ちは痛いほどに分かる。
青年だけにかまっている暇は無い。
他の者達とも話をして、少しずつ情報を更新していく。上がれそうな者がいるならば、積極的に声を掛けていく。
長年居座っていたものが、ここのところ少しずつ上がっていて。
比較的上がるサイクルが短くなっている。
その度に災厄が起きるが。
これに関しては、もうどんな災厄が起きるかが、楽しみになっている程で。恐怖など何一つない。
一人、話しかけてきた者がいる。
比較的最近此処に来た、学生だった。
世界史について勉強していたという。
生前の年齢も近いと言う事で、話を聞いてみたいというのである。
頷く。
「ただ、気をつけてください。 相手は大きな心の傷を抱えている可能性が低くありません。 貴方と同じように」
「分かっています」
「ならば、気を付けて話をしていらっしゃい」
「ありがとうございます」
元学生は。
生前は、激しい虐めを受けて、首をくくってここに来た。
皮膚の疾患を持っていたらしく。
それが故に、苛烈な虐めを受けていたらしい。
病気に対する無理解は、差別と虐待、迫害を容易に産む。あの青年は、自画像を描くことを拒んだ。
ひょっとして、それが理由なのかも知れない。
だが、話をさせてみて。
すぐにその可能性は消えた。
戻って来た元学生は、がっくりと項垂れていた。
「想像以上に酷い内容で、聞いていられませんでした」
「どういうことですか」
「いえ、もう少し彼の周辺環境がマシだと思っていたんです。 だけれども、領主制の農村の実情を、あまりにも甘く見ていました」
「……」
歴史の勉強なんて。
上澄みしか教えない。
そう元学生はぼやくと、自宅に戻っていった。
一体何を聞かされたのか。
少し興味があったので、自宅に押しかけて、話を聞いてみる。
そうすると、なるほどと納得出来た。
どんな生活をしていたのか、聞かせてくれといった所。
色々聞かせて貰ったという。
不衛生な食事、何より水。
中世暗黒時代と呼ばれる頃よりはマシだと思っていたのが、完全に誤りだったと思い知らされたという。
しかも、青年は生きている間、まだ周囲よりマシだったと自分で思っていたらしいのだが。
学生の基準では。それこそ吐くような内容ばかりだったそうだ。
「人がばたばた死んで行く時代でした。 それは分かってはいたのですが、それも当然だとしか思えません。 不衛生で、人間の命が兎に角安い。 一体人間を何だと思っているのか……」
「ごめんなさい。 私も生前は……」
「あ、いえ。 そういう意味では」
「いいのです。 それよりも、具体的な内容を聞かせてください」
内容について聞いていく。
確かに不衛生かも知れない。
生前は強靭な肉体を有していたが、それはそう作られたからで。そうでない人間は脆い事は理解していた。
不衛生についてはあまり生前考えた事はなかったが。
今は色々な人間の話を聞いたからか、ある程度概念は理解出来ている。
衛生観念は時代によってまったく基準が違ってくる。
学生が生きた時代の衛生観念と。
青年が生きた時代の衛生観念は。
まるで別物だった、と言う事だ。
なお学生は、まだ宇宙進出をロクに果たせていない時代の出身者。
それでさえ、絶句するような衛生観念だったと言う事は。それほど時間が掛からないうちに、衛生観念というものは、ぐっと変わったと言うことだ。
調べて見ると、そこまで年月は離れていないのである。
まあ、地球人類が最も進歩を続けていた時代だった、と言う事なのだろう。
青年を改めて見る。
熱心に、色々なものを書いている。
人に話を聞いては、それを絵に再現し。そして喜ばれていた。こんな絵を描いてくれと頼まれれば、喜んで書いていた。
だが、笑顔は常に寂しげだ。
それだけだった。
1、本当は何をしたかったのだろう
おじいさんが死んで。
犬と一緒の生活を始めた。
犬は年老いていて。
重い荷物を引かせるのが可哀想でならなかった。
犬は人より早く年を取る。
ましてや、大型の犬は寿命が短い。
そして、周囲からの迫害。
必死に働いても、絵のコンクールなんて考えるのも難しい中。必死に時間を削って、独学で絵の勉強をした。
絵の具を一種類買うだけでも、血を吐くようなお金を払わなければならなかったし。
絵筆を買いたいと流れの商人に頼むと、それこそ一月分の稼ぎをむしり取られることだってあった。
いつも苦しい中働いて。
教会が独占している著名な画家の絵を見たいとずっと願っていた。
でも、絵を見るためにはお金を取られる。
そのお金が、絵の具やら絵筆やらとは、また比較にならないもので。当時から、本当に神様はいるのか、疑問に思っていた。
自分の姿は好きじゃ無かった。
栄養が少なかったのだ。
後の時代の人達の生活を聞いて。
みんな背丈が凄く高かったのだと知って驚いた。
ろくなものを食べずにそだったから。
「大人」と無理矢理定義される年になっても、背は伸びず。力も弱くて、老犬に力仕事を頼まなければならなかった。
必死に牛乳や他のものの配達をして。
周囲の好奇と侮蔑の視線に晒されながら。
おじいさんが残してくれた小さなボロ小屋で。
犬と一緒に体温と少ない食糧を分け合ってくらした。
負け犬。
周囲は露骨にそう言った。
もういい年の大人なんだ。
それでそんな生活をしているのはお前が負け犬だからだ。絵なんかに金を使って、ありもしない夢を見て。
バカみたいに真面目に働いて。
そうやって笑う者達は、盗みを平気でしたし。
立場が弱い自分に、その罪をなすりつけようとする事さえあった。
それが当たり前だと知っていたから、悲しいとは思わなかった。
幸い、その手の輩が、罪を押しつけるのに成功することはなかったけれども。
逆恨みはされた。
村での生活はどんどん厳しくなり。
ついにクリスマスの夜。
吹雪の中で、行き倒れる事になった。
死の間際。
吹雪が一瞬止んで。
忍び込んだ教会で、美しい著名画家の絵を見て。涙が流れるかと思った。
嬉しいからか。
答えは違う。
冷たくなっていく、最後まで一緒にいてくれた愛犬。
自分のような「負け犬」に、最後まで忠義を尽くしてくれた。
分かっていたのだ。
実情が何一つ伝えられず。
美談にされるか。
或いは黙殺される。
そのどちらかだと。
そして、それは恐らく事実だろうと。愛犬と死んで離ればなれになり。地獄に落とされてから、理解した。
色々な者の話を聞いてみると。
自分が生きた時代の実情を、誰も理解していなかった。
絵は好きだった。
だが。それ以上に。
ぼんやりと、真っ赤な空を見上げる。
何も無い世界を見やる。
絵を描いて。
そう言われることは嬉しかった。だけれども、生前にそう言われたかった。
ただ、絵を描くことは好きだから。
言われた通りに絵を描いて。
喜んで貰えれば、ほんの少しだけ心が温かくなった。
此処では感情も殆ど表に出てこないらしいのだけれども。完全に0になるわけではないらしい。
だから、長老と言われるものも。
自分の真意には気付いていない様子だった。
それに、この姿は皮肉だとしか思えない。
神なんて生前から大嫌いだったけれども。
今は更に嫌いだ。
栄養が足りていれば、こんなに背が伸びるものなのか。そう思うと、手を見て苛立ちが募る。
だけれども、その苛立ちは長くは続かない。
それもまた、神の采配の不平等さを悟らせるし。色々と、怒りを自分に植え付ける。すぐに消えてしまうか、或いは長くは心の中に留まらないけれども。
もう、自分にとっては。
何もかもが、信用できなかった。
この世界を上がれ。
長老はそういう。
だけれども、外に出ればまたあの不平等極まりない地獄が待っているのだろう。せめて、愛犬と一緒だったら。
その愛犬もいない今。
寂しげに微笑みながら。
求められるままに絵を描く。
それだけで、今は良いとさえ思えていた。
絵を描いていると喜ばれる。
知らない異界の絵ばかりを描かされるけれど。幼い頃から、貧しい小屋の中で死ぬか死なないかの生活を続けてきたから。
絵を喜ばれるだけでも嬉しい。
気晴らしになる。
だから、そのために外に出ることも多かったし。
むしろ死んだ今の方が。
欲求が無く、代謝も無い分。生活は楽だし。何より、気分が楽であるとさえ感じるほどだった。
海賊だったという、蜥蜴頭の男に話を聞く。
長老に心酔しているらしい蜥蜴頭の男には、色々と話をされた。
長老のために働きたいと言っているこの人は。元は相当におっかない人だったようなのだけれども。
暴力が一切合切意味を成さない此処では、それもない。
話を聞いていると、俺が生きていたら雇いたかっただの、こういう絵を描いてくれだの。嬉しい事ばかりである。
だけれども、その後に言うのだ。
「お前、何が不満だったんだ」
全て、とは返せない。
だから寂しく微笑む。
だって、此処を離れてしまったら。また貧しい中ゴミのようにうち捨てられて。そして故郷では無視され。世界では美談にして話をばらまかれるに決まっている。
それは嫌だ。
灰色の人生だったとは思わない。
ほしかったものなんて決まっている。
だけれども、それを口にするわけには行かないのである。
「おう、良い絵だった。 金貨とかくれてやれないのはすまねえな……」
「いえ、好きでやっている事です」
「そうか、無欲だなお前……」
「……はい」
無欲か。
分かっていて言っていそうだ。
生前は欲を持つことさえ許されないのと同じ状況だった。領主の娘の気を引こうとしているとか言う噂が流れたときは、心臓が止まるかと思った。
絵なんかに現を抜かして。
それは絶対に、領主の娘の気を引くためだと。
領主が我が儘な娘を猫かわいがりしていることは知っていた。
だけれども、絶対に領主の所になんか婿入りは出来ないし。した所で、いびり殺される事も分かりきっていた。
ただでさえ、領主には、貧しい生活の中、更に税金をむしり取られていく印象しかない。
とはいっても、領主達がいなければ、村は他の国の軍隊とかに踏みにじられていたのだろうし。
何も文句さえいえなかった。
自分が生きた頃には、戦争は一段落していたけれども。
戦争が起きれば何がどうなるかなんて、お爺さんに散々聞かされている。
下手をすれば、徴兵されて、戦場に送り込まれたかも知れない。
そうすれば待っているのは地獄以上の地獄。
相手を殺さなければ殺され。
生き延びても手足を失い。
わずかなお金だけをちょろっとだけ貰って、村に追い返され。帰ってみれば、家も何もかも奪い取られて、行く場所さえなくなっている。
待っているのは餓死か。
それとも、追い出された末に賊になるか。
どちらかしかないのだ。
おじいさんはたまたま何とか勲章だとかを貰ったから、ボロ屋だけは守れたらしいけれど。
それ以上でも以下でもなく。
尊敬なんて、される事も無く。
そればかりか、「勲章を貰って威張っている」とか、ずっと周囲の者達に言われ続けていた。
そもそも家だって、最後には追い出された。
ずっと周囲の者達は、家を狙っていたのだ。畑にしてしまうつもりだったらしい。
勿論自分が死ぬことも望んでいたのだろう。
だから、あの後。
教会で凍死した後。
彼奴らは、きっと大喜びしたに違いない。
蜥蜴顔の男は、戻っていく。
横になると、犬の名前を呟いた。
忠実な老犬。
ずっと力仕事をさせた可哀想な犬。
負け犬の犬と呼ばれて、石を投げられた事だってあったし。そもそも稼ぎがひもじくて、ろくな肉も食べさせてあげられなかった。
それでも自分を恨んでいる様子も無く。
最後まで寄り添ってくれた。
或いは、兄弟のように思っていてくれたのかも知れない。
そんなささやかな幸せさえ。
周囲は徹底的に奪っていった。
泣くに泣けない。
そこまで感情が沸騰しないからだ。
怒りで叫べない。
同じく、感情が沸騰しないからだ。
此処は生きていた頃に比べれば。文字通り天国に等しい場所だけれども。
怒りのままむしろ暴れてしまいたいと思う。それだけが、此処に対して唯一の不満となって心に燻っている。
心残りは口にはできないし。
もう愛犬に会えないことも、悲しい。
その哀しみさえも、此処では溶けるように消えてしまう。
何だか、虚しいなと、横になりながら思っていた。
眠りさえ必要ない世界で。
ぼんやりと動き回り、求められるままに絵を描く。自身も荒野で絵を描く。理想化した故郷の絵だ。
おじいさんと愛犬も描くが。
どっちも美化しているかも知れない。
女は実の所、興味が無い。
だから裸婦画を書いてと言われても、ただ指摘通りに描くだけのことだ。
元々貞操観念も何も無かった時代だ。
女の裸を見る機会なんていくらでもあったし。
どうやら自分は後の時代で言う「瞬間記憶能力」というものに近いものを持っていたようで。
見た事があるものについては。ある程度その場で再現して描く事が出来た。
画家になれたはずだ。
周囲はそう口を揃えたが。
それはあんたたちの時代ならそうだろうと言い返すのを、必死に堪えることしかできなかった。
極限まで貧しく、日々の生活もやっとで。血が出るような思いでやっと画材や絵筆を揃えていた者に、画家への路などあるか。
どうせ最後にコンクールに、なけなしの金を払って送ったあの絵だって。
廃棄されたに決まっている。
画家というのは。基本的にお金持ちがなるか。或いはお金持ちに囲い込まれた者がなると聞いている。
もしあの腐った村を出ることが出来たのなら。
それも可能性があったのだろうか。
多分そんなものは無かっただろう。
あの年まで生きられた。
それだけで、多分人生の運を使い切ってしまっていたのだろうから。
黙々と、言われた未来の世界の絵を描く。
未来の世界では、星の海に船が飛んで。其所で人が暮らしているという。
暮らしの様子を聞いて。
それを絵にすると、そうだそうだとみんな喜んでくれた。
言われた通りの事を絵にする。
これは才能であるらしい。
生前に知りたかった。
いや、周囲はそれに気付いていたから、「領主の娘の気を引こうとしているに違いない」とか邪推したのだろうか。
無言で、木の枝を使って、乾いた土地に絵を描いていく。
長老は覇王と呼ばれる凄い人だったらしく。
考えられない数の船を従えて、宇宙を渡っていたらしい。
その様子を想像しながら描く。
悪い事をたくさんしたと長老は悲しんでいるようだけれども。
大丈夫。
自分の周りにも、悪い人しかいなかった。
良い人だと自分を評価してくれているけれど。
自分だって、生活に精一杯だっただけ。
もしも、悪い事をする余力があるのだったら。
していたかも知れない。
そういう時代に生きたのが不運だったという声もあるけれど。一人に話を聞いた。まともに保護を受けられず死んで行く子供も、未来にもいると。
欲望のままバカが子供を作った結果。
捨てられる子供も存在していると。
そんな話を聞く限り。
災害が定期的に起きて、何もかも消し飛んでしまうけれど。迫害されず、痛めつけられもしない此処は。
むしろ天国に思えてしまうのである。
どうせ、此処の外に出て。間違ってまた人間にでもなれば。散々迫害された結果、また殺される。
前は凍死だったけれども。
それも凍死したのでは無く、凍死させられ。それを負け犬がのたれ死んだと笑われたのだ。
今度はもっと直接的に殺され。
そしてその死を、散々馬鹿にされるかも知れない。
人間というのはそういう生物だと割切っているから。世界を蹂躙した事を悔やんでいる長老の事は、別に嫌いでは無いし。
その行動を、酷いとも思わなかった。
聖職者でさえ、美しい絵を見るのに金を取り。
そしてそんな悪しき行いを、全知全能の筈の神様が罰することさえしない。
ミサでは色々偉そうなことを言っておきながら。
懺悔しに来たものの情報を周囲に垂れ流して。
脅迫したり。
金を奪い取ったりする。
それが教会の人間だった。そして多分だけれども、自分の村以外でも、みんな似たようなものだっただろう。
船をたくさんたくさん描く。
星の海を渡る船。
船の形は聞いた。たくさん種類があるけれど。それぞれの種類ごとに、信じられないほどの数がいたという。
どんな風に並べたかも聞いている。
だから、それを元に、絵を黙々と描いている。
いつのまにか、長老が側に立っていた。
「懐かしい。 私の機動艦隊がそこにいるようだ」
「ありがとうございます。 似ていますか」
「ええ。 規模はとても足りないですが」
「もっともっと多いのですね」
そうか、もっと凄く多いのか。
村で過ごしたから、やっぱり星の世界の基準はよく分からない。一つ一つの船については、とても良く描けていると、褒めて貰えた。説明したとおりに細部まで描けているのは素晴らしいと、絶賛してくれた。
寂しく微笑むと。
長老は、すっと目を細める。
「なるほど、少しずつ分かってきました」
「……」
「この状態で喜ぶと言う事は、貴方は……今のこの世界が心地よいんですね」
「そうかも知れません」
別に嘘をつく必要もないだろう。
だから、そう答える。
だが長老は、首を横に振る。
「今は心地が良いかも知れません。 しかし此処は地獄か、極めてそれに近い場所なのです。 その事を理解して、此処を上がる事を考えるのです」
「僕には、此処が地獄だとは思えません。 僕は絵を描くことが出来て、寒い思いもおなかが減ることもありません。 イーゼルや絵筆、画材がほしいとは思いますけれど……でも、棒さえあれば、絵は描けます」
「素晴らしい絵である事は事実です。 しかし、此処で描いても何も残らないのですよ」
「貴方たちの心に、今残っている。 それだけで充分です。 生きていた頃の絵なんて、誰の心にも、その瞬間にさえ残りませんでした」
どうしてだろう。
口が滑る。
そろそろ黙るべきかと思ったが。
長老は掴んだ、と判断したのか。
ぐいぐい来る。
「此処を上がった者がどうなるかは分かりません。 しかし、此処には、心残りがある者が来るのです。 ……分かってきましたが、あなた生前の事が、殆ど全て心残りになっていますね」
「どうしてそう思うのですか?」
「この世界には感情も欲求も、代謝さえもありません。 人間にとっては、それは普通地獄と呼ぶものとなるのです」
「理解出来ません。 僕は生まれた時から掘っ立て小屋で過ごして、ずっと貧しいまま、灰色の生活をしていました。 血が出るようなお金で絵筆や絵の具を少しだけ手に入れれば、周囲からあらぬ勘ぐりをされて、徹底的に迫害されました」
弱い者を、血眼になって探し。
そして見つけた弱い者を、死ぬまで棒で殴り。
それを自慢にさえする。
見て来た人間の本性だ
そんな連中がいる世界には、もう戻りたく等無い。
愛犬にも気の毒なことをさせたと思っている。
自分なんかが側にいなければ。
もっと良いものを食べられただろうに。もっと周囲から、優しくされただろうに。配達で、重いものを引きずらなくても良かっただろうに。
「僕は、此処が地獄だとは思いません」
「……これは、時間が掛かりそうですね」
「長老、何万年も此処にいると言う話でしたね」
「はい。 私は宇宙一罪深いものでしたから」
なら、その記憶を更新したい。
そう呟くと、長老は、元々愛想がない顔で。眉に皺を寄せた。
黒服を着た女の子だが。
嫌に迫力があった。
「貴方の意図は分かりますが、罪を犯したかったなどというものではありません。 此処には、多くの罪人の犠牲者がいるのです」
逆鱗に触れたな。
そう感じたけれど。長老も、此処の人。
激怒、とまではいけないらしい。
ただ静かに。
小さな怒りと哀しみが混じった目で、自分を見るのだった。
「此処には善人も悪人も来ます。 貴方は社会というものの犠牲者です。 ならば、貴方は此処をでれば、ましな場所にいきたいと願う権利があります。 そして世界はたくさんある……。 きっと、そういった世界に行けるはずですよ」
「神様なんて」
「私を殺したのは本物の神ですよ。 貴方が信仰していたものと同一ではないでしょうが」
「ならば、あの村も焼き払ってほしかった」
ぼそりと、本音が出た。
長老は、静かにじっと此方を見ていた。
気まずい沈黙が続いたが。
やがて長老は言う。
声は、驚くほど静かだった。
「今、其所に描かれている艦隊の、何千倍もの規模の艦隊を率いて、私は星の海を蹂躙しました。 貴方が想像も出来ない程の数の星々を踏みにじって来ました。 私の手には、神以外では破壊する事も出来ない究極の武器がありました。 だから、神が現れたのです」
「僕の手にそれがあったら……」
「貴方はそのようなものを持つべきではありません」
「……」
そうなのか。
よく分からないけれども。
この長老ほどの人が言うならば、そうなのだろう。
「一つ、絵を描き加えて貰えますか。 特徴を言いますから」
「はい。 船ですか」
「そうです。 私を直接撃ち倒し、神を呼び出した、世界の矢となった船です」
長老の率いた船は、信じられないほどの数だったという。
それを倒したのか。
どんな船なのだろう。
言われた通りに描いていく。長老は、その船を、自分の艦隊と並べて描いて欲しいと言ったので、そうする。
長老は、静かに。寂しそうに言った。
「私が狂わなければ、一緒にこの船と世界の悪と戦う路もあったのかも知れません。 血だけを、無駄に流すことになりました」
「この船もまた、不思議な姿ですね」
「私を倒したきっかけになった、最高の船ですよ。 この船の奮戦がなければ、神が顕現することもなかったでしょう」
「……そうですか」
長老の事は尊敬している。
だが、一つ分かった。
長老はずっと。生きている間、自分が狂っている事を何処かで自覚して。そして誰かに止めて欲しかったのだ。
懐かしそうに、自分を倒したという船を見つめる長老を見て。
それを理解出来た。
2、ほのくらい世界の果て
災害が起きた。
誰かが上がったらしい。
何が起きたのかは分からないけれど、ともかく集落は全て粉々になってしまった。一から作り直しである。
実は、描いた絵が全て駄目になってしまったことは、それほど悲しいとは思わない。
何を描いたか、全部覚えている。
だから、新入りであると言う女の子に挨拶してから(中身は女の子ではないようだけれども)。
黙々と、乞われるならば前と同じ絵を描いて周り。
自身は、荒野に出向くと、また星の世界の絵を描き始めた。
長老が描いて欲しいと頼んだ、自分を討つきっかけになった、神と一緒に戦った船というものも描き揃える。
長老が乗っていた最強の破壊兵器というのは、まるで悪魔のような姿をしていたけれども。
破壊兵器なのだから、それは当たり前なのだろう。
無数の船を従えた、悪魔。
それは、教会で聞かされた。神父が信じてもいない終末の話のようにも思える。蝗の悪魔が、地獄の大穴から出てくる光景。
実際、たくさんいる星を渡る船というのは。
その蝗と同じくらいか、それ以上にいるのかも知れない。
数がいないにしても、その巨大さは、この狭い虚無の世界よりも、一つ一つが上かも知れないという話だったし。
間近で見たら、圧巻だっただろう。
生前の長老は。
これを従えて、どういう気分だったのだろう。
言葉だけでは、どうしても信用はできない。
今の長老は、この破壊の艦隊を従えていたことを、悲しんでいる。それについては確かなようだ。
だが分かるのはそれだけ。
黙々と色々と想像しながらかき続ける。
この艦隊は。
星の海を行きながら、その先にある全てを、破壊し尽くしていたという。
だけれども、長老は神と戦った船と、一緒に行く姿を描いて欲しいと願っていた。
ならば、今の長老は。
きっとそんな事をしたくないと思っているのだろう。
それなら。
絵を描き進める。
恐ろしいバケモノの絵だ。
教会で聞かされた、恐ろしい悪魔達の絵。長老の艦隊の後ろには、その悪魔達から守らんとする、か弱き人達。
弱き人。
そう、生前の自分のような。
悪魔達は、とにかく想像力を全力で働かせて。
偉そうにふんぞり返って歩いていた領主や取り巻き達が、見た瞬間土下座して命乞いをするような姿へと描いていく。
ただ、それに快感はない。
心が、そこまで動かないのだ。
長老が来た。
目を細める。
「これは……我等の艦隊と星の船が、一体何と戦っているのです」
「悪魔です」
「これが貴方たちの信仰における悪魔ですか?」
「分かりません。 僕は本も触った事がありませんし、教会で悪魔の恐ろしい姿を聞かされただけです。 どんな風な姿をしているのかは……だから想像で描いてみました」
長老は小首をかしげた後、集落に戻っていく。
そして、何人か呼んできた。
皆、古参の亡者達だ。
意見を聞かせるようにと長老が言うと。一人が言った。
「これはまるで外宇宙の神だな」
「そとうちゅう?」
「君の時代から、かなり経ってから作り出された神話に出てくる神々だよ。 海の生き物をモデルにした神々でね。 一神教に対する反発の念も籠もっている存在だ」
「……」
教会で聞かされる話は、嘘ばかりだと感じていた。
神が愛を注いでいるのなら、どうして世界には不公平ばかりが満ちている。
知っている。
誰よりも優しかったおじいさんが、とても辛い人生を送り続けたことを。
金を持っているだけの領主が、如何に残忍であったかを。それでありながら、天罰など一度も受けなかったことを。
更に言えば恐らくは、自分が教会でのたれ死んだ後。
教会は自分の死を都合良く脚色して利用する事はあっても。
内心ではゴミが教会に入り込んで死んだとか思って、死体をぞんざいに始末しただろう事も。
神を信じているかと言えば答えはノーだ。
多分貧しい者の中には、誰も救ってくれなどしない神に対して。誰が見ても腐敗しきっている教会に対して。
怒りさえ覚えている者もいたはずだ。
新しい神が作り出され。
それが恐ろしい姿だったというのは。
意外に納得出来る話ではある。
話を聞いてみる。
「そのそとうちゅうの神々というのは、異教の神々のように恐ろしいのですか?」
「いや、あれはあくまで人間に害を為すだけの存在で、ごくまれに人間に友好的なものがいる……くらいの設定だったはずだ」
「僕には分かりません。 僕が信じていた神様も、一度も貧しい人を救ったりはしませんでした。 同じなのではありませんか」
「君の時代の人間が、そんな事を口にするとは。 ニーチェがでるのは少し先の話だったはずだが……」
驚かれる。
話によると、もう少し時代が降ると。
一神教による腐敗と汚職が問題視されるようになっていって。
まずは反一神教の思想が出始めるのだという。
個人的に言わせて貰えれば。
そんなものが出てくる前に、とっくに貧しい人達は、神様に愛想なんか尽かしていたと思う。
忠実に真面目に信仰しても。
その信仰で得られる利益は、みんな教会が吸い上げていく。
教会の神父が偉そうなことを言いながら。
良いものを食べ。
お金を弄び。
女を呼んで好き勝手している事なんて。
それこそ、誰だって知っていた。
だからよりみんな弱い者をもとめていた。自分やおじいさんは、それが故に徹底的に迫害されたのだということだって分かっている。
神がいたとしても。
それならば、むしろこれは悪魔と言うよりも。
だが、長老を最後に止めてくれたというのは、神様だったという。
「長老。 貴方を止めた神様というのは、弱き者に手をさしのべてくれたのですか?」
「いいえ。 私があまりにも度が過ぎた事をするまでは、ずっと黙っていました」
「そうですか……」
「神とは実在してもそういうものなのでしょう」
ならば。
長老が戦うべきはなんなのだろう。
神は違う。
そして、きっと何処の世界にいても。神は弱い者がのたれ死ぬ事なんて、何とも思わないのだろう。
本当に何もかも壊される、という段階まで来て。
やっと動いてくれる。
そういう腰が重い存在に違いない。
一旦棒で、長老達と戦おうとしていた存在を消す。
もったいないと声が上がった。
「良く恐ろしさが描けていたと思うのに、どうしたのかね」
「僕は悪魔を描いたつもりでした。 でも、話を聞いている限り、これは神様だとしか思えないのです」
「……」
「僕はともかく、飼っていた犬くらいには幸せな人生を送らせてあげてほしかった」
少しずつ。
本音が漏れてくる。
そう。
人生に満足なんて、出来る筈が無かった。
だから、少しずつ。
この場で、言葉が漏れてくる。
「神様がいたのなら、どうして弱い者を助けてくれないんですか。 世界が壊れるのを防いだかもしれませんけれど、少しでも弱い者を助ける努力をしてくれれば。 それとも弱い者など神様にはどうでもいいんですか」
「君、それは……」
「長老がいた世界には神様が実在していたそうです。 僕のいた世界にも、本当はいたかも知れませんが、これではっきりしました。 神様は人間なんてみていません。 人間が苦しむのをむしろ楽しんでいると思います。 そうでなければ、お金儲けにしか興味が無い教会の人間や、この世の悪そのものの領主やその一家がどうして天罰を下されなかったのか分かりません」
生きていたなら。
激高して、泣き叫んでいたかも知れない。
でも此処は虚無の世界だ。
ずっと心は静かだった。
誰もが困り果てている中。
長老が、静かに言うのだった。
「貴方の世界に神が仮に存在していたとしても、その神は貴方が言うとおり、弱者には興味が無かったでしょう。 同時に、強者にも興味が無かったでしょうね」
「長老!」
「それは、この時代の人間にそんな話をする事は……」
「聞いていたでしょう。 彼は、幼くして、それに既に気付いていましたよ。 今更隠し立てして何の意味がありましょう」
長老は、呼んできた者達に、悪魔の説明をさせる。
困り果てながらも。
呼ばれてきた者達は、悪魔について、色々と教えてくれた。
巨大なハエのような悪魔。
カエルとたくさんの顔がついて蜘蛛のような足が生えている悪魔。
首がたくさんあって長く伸びている悪魔。
翼がたくさんある悪魔。
動物がぐちゃぐちゃにくっついているような悪魔。
練習用に、聞かされたとおりに描いていく。どれもこれもが、再現度が高いと褒めて貰った。
「これがルシファーで。 一神教における悪魔の親分だ。 神の言う事を聞かずに戦いを挑み、地獄の最深部に落とされたという話がある」
「神様と戦う存在がいたんですか」
「……そうか、教会ではそんな話もしないのか」
「はい。 悪魔の恐ろしさは告げられましたが、悪魔が具体的にどんなことをしたのかは、説明されませんでした。 本だって、教会にしかありませんでした」
皆、本当に悲しそうにする。
自分にはそれが当たり前で。
今の話を聞いていると、とても新鮮だ。
むしろ悪魔の話については、すっと頭に入ってくるくらいである。
自分が悪魔になりたいくらいだ。
だが、それを見越したのか、長老が言う。
「悪魔になりたいなどと思ってはいけませんよ」
「何でも見抜かれてしまうのですね」
「一神教における悪魔と言うのは、私が仕入れた情報を総合すると、所詮神の掌の上で、人間の堕落を誘うだけの存在です。 古い時代の宗教だと、神に対抗できる存在がいたのですが、一神教などの後期の宗教では、基本的に神は絶対者なのです。 実物の神がどうかはまた別の話ですが」
「……長老、貴方は何と本当は戦いたかったのですか?」
ずばり聞く。
絵を見回しながら、告げる。
「僕は、長老が、神を呼び出した船と一緒に。 長老が本当に戦いたかった存在と戦う絵を描きたいと思います。 神でも悪魔でもないとしたら……それは何なのでしょう」
「……それは、私にも分かりません」
「長老にも、分からない事があるんですね」
「分かっているのは、私が生前抱いていたのは、怒りと憎悪だという事です。 全てを焼き尽くす怒りと憎悪が、何もかもを焼き払っていった。 それが私の生前の行いの全てなのです。 もしも、今からやり直して、何か別の存在と戦えるのだとしても……何と戦って良いのかは、分かりません」
そうか。
それでは、一度絵は止めるしかない。
長老の艦隊と、光の船。そして守るべき弱き民を残して、一度絵は消す。
皆に戻って貰う。
長老にも。
自分は残って、描いていた悪魔達の事を思い出す。
悪魔なんて、神にとって都合が良い存在でしか無い。
その言葉は、耳に強く残った。
確かに長老が、そんなものになってはいけないと言う訳だ。
神を憎むあまり。
神の掌の上で好き勝手に踊らされるのは、絶対にいやだ。神様に対する決定的な不信感が宿った今は、なおさらである。
もしも、生きていた土地で伝承が残ったとして。
天使でも迎えに来た事にでもされているのだろうか。
冗談じゃない。
天使なんて、追い返してやる。
無惨に死んだ事を後の世に遺してやる。
お金を独占して。
貧しい者達を相争わせて。
自分達の地位だけ確保していた、醜い者達の生活だけを残してやる。
暗い情念が浮かび上がってくる。
だけれども、それもまた違う気がした。それに、暗い情念が浮かび上がっても、また消えてしまう。
どうしても、悩みは長続きしない。
大きく深呼吸すると。
長老の偉大な艦隊と。光の船を見た。
所詮、ものだ。
どんなに偉大な姿をしていても。禍々しい姿をしていても。
ものは嬉しそうにはしない。
でも、そもそも乗っている長老達が、目に見えないほど小さくなってしまうと言う事だから。
長老を描く訳にもいかない。
どうすれば、長老達を、少しは良く描けるのだろう。
勿論長老に心酔しているわけではない。
心残りを見つけて。それを排除するためだ。
それには、このままでは駄目だ。
絵に何か、徹底的な何かを加えなければならない。
自分には絵だけしか、出来る事がなかった。
そして、誰もそれを助けてくれず。
迫害を受けながら、絵を描き続けることしか出来ず。周囲には、何もかも否定され続けていた。
そんな狂った人生が終わっても、なおも自分は縛り続けられている。
この鎖を、どうにかしたい。
いつの間にか、足が木に向いていた。
食事の時間だ。
食事を終えると、寝ることなく、絵に戻る。夜が来るが、夜だろうが朝だろうが、危険など無い。
ぼんやりと絵を、ずっと見つめる。
それが、二月以上続いた。
皆の話を聞いて回って、最後に絵描きの青年の家を覗く。長老はふむと鼻を鳴らした。ずっと荒野にいるという話は聞いていたが、今日も、らしい。人間だったら、倒れてしまっただろう。
だけれども、今のあの青年は。
むしろ、おのれの心の内と向き合うべく。
己にあった唯一の財産であった絵を使い。
戦っているのだ。
一見すると何もしていないようにも見えるだろうが、それはあくまで人間の浅ましさである。
それにしても、実際に見てみると、違うものだなと感じる。
今まで歴史学者に話を聞く分だと。
あの青年が生きていた時代、地域では。一神教への信仰が絶対だった、という話であったが。
青年は、神に恨みさえ抱いていた。
それは、一神教に対する疑念が、既に大きく膨らんでいたからで。
後にアンチ一神教の思想が流行り出すのも、当然であったのだろう。
金は大事なのだろう。
経済の概念は分かっている。
クローン化した戦士達を使い潰す事で動いていた長老の軍団だが。他の形態の組織についても、存在は生前から理解していたし。死んでからも学び直した。
だが、経済を優先し。
本来は心を弱者を救うためのセーフティネットであるはずの一神教が、そのように振る舞っていて。
不信感が末端までいっていた……。
しかもあの青年は、生前少年だったことを思うと、色々と看過できないのかも知れない。
新人が来た。文学にかなり興味があるようなので、話を聞いてみる。どうやら該当する話があるらしい。
別の国の人間が。
あの青年が元になった伝承を使って描いたらしい娯楽用の小説。
悲劇として描写されているそれの内容を。
耳に入れておく。
耳に入れるだけ。
その小説のことは、絶対に青年に話さないように釘は刺しておく。長老がしっかり釘を刺したので、新人は絶対に喋らないだろう。
それにしても、その内容を聞いて。
なんと人間は愚かなと、呟いてしまう。
勿論生前の自分も愚かだった。
今では滅ぼそうなどとも思わない。
だが、生前、生そのものが苦しみであり、大いなる愛にて救済しなければならないと思い込んでいたことを。今更ながら、思い出してしまう。
それは間違った考えではあった。
しかしながら、こうも自分達の失政ででた犠牲者を美化し。
悲劇という娯楽に仕立て上げ。
そして現地では無かったことにして。その文学を基にした像を椅子にしてぞんざいにあつかったり。挙げ句に撤去して訳が分からない「芸術」を置いたりと。
本当に反吐が出ると言う言葉しか出ない。
ため息をつくと、青年の様子を見に行く。
青年は、一つずつ。
長老の軍団の兵器類を、また模写していた。
長老が来ると、儚げに青年は微笑む。
「丁度良いところに来てくれました、長老」
「また書き直すつもりですか」
「ええ。 これらの船の、武器を教えてください」
「武器……」
正確には全体が武器だ。
武器のキャリアとなっていただけの船も少なくは無い。
それを告げると。
青年は困り果てたように、眉根を下げた。
「全てが武器、ですか」
「悪魔を滅ぼすための武器を描こうというのですか?」
「いえ。 もう武器がない、貧しい誰かのために、食べ物や文化を運ぶ船を描きたいなと思いました」
「武器がない……」
それはまた。
盲点だった。
そもそも生前は、生体兵器だったという事もある。船と言えば戦うものであって。どうやって武装を載せる事が第一だった。
武装を完全に外した形態など、考えた事もない。
そんな船があるのか。
船の構造は完全に把握している。
ただ武器を外しただけでは、何も残らない船も多い。何よりも、武器が搭載されていない船など、考える事すら出来ない。
困り果てている長老に気付いたか。
青年は、寂しげに微笑む。
「長老を此処まで悩ませるほどの事なんですね。 人は、星の海に出ても、ずっと戦い続けなければならないのですね」
「……以前来たものに、そんな戦いの歴史を悲しい業だと説明している歴史教師が存在していました。 既に上がったそのものは、宇宙に上がってまで戦い続けている人の歴史を、断固として否定していました」
「長老はどう思われましたか」
「斬新だなとは思いましたが。 現実にどうするかは思い浮かびませんでした。 それに……」
言葉を切ってから、現実を告げる。
ただ人々に、富を届けても。職を届けても。現実問題として、解決はしない。
怠惰を覚えた人間は。
その場で堕落するだけだ。
領主達の醜態は、貧しい民でさえ見ていただろう。
あれは金がありあまっていて、堕落していたからああなったのだ。
届けるべきは、生活のための物資。それ以上に自活のための技術と知識。
そして、貧富の格差が広がらず。それでいながら、競争して社会をよりよくしていける仕組みなのだ。
そう説明すると。
青年は、ならばそれにはこの船をどうすれば良いのかと聞いてくる。
なるほど、分かってきた。
青年の戦いが。
そして、それは長老の戦いにも直結している。
ただの絵描きだからこそ出来る発想。
その想像力だからこそ、生み出せた思想。
長老が生前率いていた、破壊と殺戮のためだけの艦隊を。
文化と自活を撒き。弱者を救うための救済の集団として書き換えようと、青年はしているのだ。
そうか。
ひょっとしたら、長老も。
こんな船団を率いる事が出来ていたら。宇宙に破壊をもたらすだけではなく。多くの者を救えていたのかも知れない。
だが、現実問題として。
即座にそれを為すのは不可能だ。
くつくつと笑う。
生前のような笑いが漏れる。
それを見て、青年は不可思議そうにしたが。その表情もすぐに消えた。此処が虚無の世界だから、と言うだけではないだろう。
絵描きらしい鋭い感性で。
長老の思考の変動を、見抜いたのかも知れない。
「私の悩みの一つが、解決しそうです。 ありがとうございます、絵描きの者よ」
「……それで、どんな風な船が良いでしょう」
「宇宙は決して安全な場所ではありません。 戦闘用の艦艇は、相変わらず必要だと思います」
「はい。 僕も、身を守るための手段は必要だとも感じます」
話が合う。
この青年も。生きている間は、周囲に迫害されたと聞いている。当然、それには暴力も伴っただろう。
無抵抗で暴力を受け続けることが、命に関わることも理解出来ている筈。
それならば、そう答えるのも道理だ。
「そうですね。 このような形状はどうでしょう」
棒を使って、絵を描いていく。
絵描きほど巧みでは無いが。
構造を描くことは、素で出来る。
伊達に、長い長い間、破壊と滅びの艦隊を率いていないのだ。科学奴隷から手に入れた技術力は、まず真っ先に自分が理解するようにも心がけていた。
「この船は、輸送をすると同時に、多数の知識を蓄えるストレージを内部に抱えてもいるのです。 輸送する物資の中には、水や食糧を主体として、様々な元素だけではなく、開発のための機材類や、更にはセットで組み立てられる基地も含んでいます」
「この外側に張り出している部分は何ですか」
「この船自体は戦う力を持ちません。 そして宇宙では、密集して戦う事が文字通り命取りになるのです。 周囲を護衛の艦隊が固めるとしても、この船が何かしらの脅威から身を守る必要があります。 宇宙で通じる盾……それを生じさせるための装置です」
それは、巨大な楕円形の球体から、シールド発生用の棘に見える装置が複数つくという。不思議な形態のものだ。
生前は、そもそも輸送艦という概念がなかったから。
こんな船を、作ろうとも思わなかった。
青年は黙々と絵を描いていき。
想像通りの図を、何回かリテイクするだけで仕上げてくる。
うむと頷くと。
青年は喜んだようだった。感情が薄い虚無の世界だから、本当に薄く、だけれども。
「この船で、貧しい人々を救うのですね」
「いや、この船だけでは無理でしょう。 この船は、あくまで貧しい人々を救うための土台に過ぎません。 教育を行う者達が必要になります」
地球で言うと、まだ宇宙進出していないレベルだと。
ただでさえ限られている資源を奪い合って。
無駄な殺し合いを延々と続け。
それが止んだ後も。
経済的なつぶし合いを、無意味に続けていたと聞いている。
そういったレベルの文明国家に対して啓蒙を促すには、相応の準備が必要になってくるだろう。
力でねじ伏せるのは悪手だ。それは生前、嫌になるほど思い知った事実だ。
むしろ、よりよいやり方を示すことで。
その方向に誘導していく方が良いだろう。
教導用の人員を育成する大型艦を作成する。教育機関がセットになっている、非常に大型の船だ。
これも楕円を基本とした形状に。
防御用の装備を付けて行くことになる。
いずれもが、周囲の船とは比較にならない巨大艦だ。特に輸送艦は、下手をすると惑星レベルの質量を輸送できるほどのサイズは必要になるだろう。
これらの非戦闘船団を中心部に配置。
戦闘用の艦艇を、周辺に配置しておく。
戦闘用の艦艇の内、乗組員を自爆させることを前提としたような兵器は、これをカットする。
戦時には、相手の装甲を貫くために、自爆を前提とした特攻艦まで作ったが。
そのようなものは。
この艦隊には不必要だ。
相手の装甲を貫通するにしても、他に方法があるだろう。少なくとも、精度を上げるために命を無駄に放り捨てる、等と言うことは避けなければならない。
一通り説明を終えると。
青年は、頷いて、絵を描き直すといった。
この規模の絵を描き直してしまうのはもったいない気がしたが。
青年は、無からここまで描き直したのである。
それに、上がりが出る度にこの絵は消えてしまうのだ。
青年にとっては、大した問題では無いのだろう。
黙々と青年が描き始める。
立体を完全に理解していて。宇宙空間でどう配置するべきかも、以前から説明したことを飲み込んで描けている。
大したものだと感心していると。
棒で細かい部分を描き進めながら、青年がいった。
「何となくわかります。 長老、誰かから僕の話を聞いたんじゃ無いんですか」
「それは絵描きの勘ですか?」
「はい。 長老が、少しいつもと違う雰囲気だったのでそう思いました」
「ふふ、かないませんね。 武なければ戦士たらず。 知もなければ存在する意味すらなしと断じていた昔の私であれば、目を剥いていたでしょう。 その通りです。 隠しても仕方が無い。 ……貴方にはとても辛い話です」
黙々と描き進める青年。
青年に、話をする。
やはり美談とされた青年の話。迫害の理由も、領主の娘と良い仲になっていたからという後付の理由がなされていた事。そして青年が生きた国では完全に無視され、他の国では悲劇として好まれて消費されていると言う事。
それだけで、充分に青年に伝わったようだった。
「僕の人生は、死んだ後も弄ばれたんですね」
「……」
「少しずつ、僕の心残りが分かってきた気がします。 長老、僕が、僕の物語を知った事は、誰にも言わないでください。 この絵を描き上げたときに。 きっと僕は、自分でそれに気付けると思います」
「期待していますよ」
長老は頷くと、その場を去る。
青年は。
弄ばれた人生を。自力で。この虚無の土地ではあっても。
乗り越えようとしている。
3、滅びから救いへ
青年が見て欲しいと、集落の者へ告げたので。
皆で荒野に様子を見に行く。
皆が声を上げたのは。
その絵の壮大さからだった。
荒野に、棒だけを使って描かれた絵だというのに。要するに色も何もない模様に過ぎないというのに。
なんという緻密かつ壮大な絵か。
「まだ下書きの段階なんですが、どうでしょう」
誰かが生唾を飲み込む。
長老は思わず、目を細めていた。
中央にある、巨大な球体の輸送艦と教導艦。これだけで、惑星系を数十は物資不足から救えるだろう。
それを守る数万に達する艦。
これに関しては、更に増やしていくのだろうが。近くにある艦ほど緻密に描かれており。陣形も途中で説明したとおり、理にかなうものへと変わっていた。
そして、輸送船を守るべく、守護神のごとく鎮座するのは。
神を呼び出し。
生前の長老を討ち果たす最後のきっかけとなった船。
生前は最後までわかり合えなかったが。
今であれば、その意思を汲んで戦いたくはないと考える者達の船。
この船がいるのであれば。
輸送艦も。
教導艦も。
いかなる邪悪な兵器からも守り通されることだろう。
更には、破壊と滅びしかもたらさなかった、生前の長老の居城。悪魔のような異様を誇るそれは。
艦隊の後ろから。全てを保護するようにして、付き従い。
更にはその周囲に、翼を広げるようにして艦隊が拡がっている。
壮大な絵だ。
宗教画の技法を取り入れているのだろうが。これほどの艦隊を見たら、誰もがその場に立ち尽くすだろう。
生前の自分だったらどうか。
きっと認めることは出来ず、ぶつかる事になるだろう。
だが負ける。
今は、それを理解している。
「これは素晴らしい。 見た事も無い宇宙艦隊を、此処まで緻密に描ききるとは……」
「本当に君は生前無名の少年だったのか。 なんという惜しい人材を無くした事よ」
「……」
気まずそうにしているのは新入りだ。
この青年の過去を知っているから、なのだろう。
生前は周囲から迫害され。
死後はその人生を悲劇という娯楽として消費されている。
あらゆる意味で、尊厳を陵辱された青年は。
今無言で。
自分の存在意義を、荒野にて示してくれた。
誰もが絶賛。
青年ははにかんで、ありがとうと答える。
まだ仕上げがあるので、これから取りかかるというと。皆邪魔をしてはいけないと判断。その場を去っていく。
長老だけが残る。
青年は、凄まじい集中に入り。
黙々と絵を仕上げ続けていく。
その緻密さ。
此処に絵の具がないこと。
この絵を、残せないこと。
そのどちらもが、残念でならない。
声を掛けることはあってはいけない。そう判断した長老は、その場を後にする。青年は、それに気付くことはなかった。
集落に戻った後、言われる。
数十年、此処にいた、古株の亡者だ。
「長老、あの絵は素晴らしい。 心を揺らされました」
「私もです。 私が生前率いていた艦隊があれだったらと、何度も思ってしまいます」
「滅びを撒く艦隊では無く、全てを尊重し生かす艦隊ですか。 確かに素晴らしい存在ですね」
「……ええ」
そう。
長老が生前やった事とは真逆。それを青年は、あの絵の中で表現しようとしている。長老だけではない。
偉そうに神の名を借りて、暴悪を貪っていた腐敗神父達や。
領民をゴミとしか思っていなかった領主一族にも。
絶対に無理だった事だ。
そもそも人間には今だ歴史上達成出来ていない事でもあるだろう。
それほどの事が、あの壮大な絵の中には描かれている。
未来から来た人間から、話は聞いたことがある。
ある程度の平穏が実現した世界もある。
だが、あれほどの規模の、平和維持艦隊は見た事がない。それも本来は破壊と殺戮しかできない艦隊が。
あのような活用をされる。
信じがたい事である。
頭を振る。
武力を振るう事しか考えていなかったから、ああいう柔軟な発想に至る事が出来なかった。
金のことしか考えていなかったから、あの青年の才覚を発掘できなかった。
愚かしい者達は滅び去り。
自分達のさもしいプライドにしがみついて、存在を無視し。
その外側でもてはやされる様子を、しらけた目で見るという形で、復讐したつもりになっている。
いずれにしてもよく分かった。
弱肉強食という言葉を振り回す輩はただの阿呆だ。
そして生前の長老は阿呆だった。
分かってはいたが。
絵で分からされるとは思わなかった。
それから更に一月が経過。
絵が完成したと聞かされる。
集落の者全員が、青年の絵を見に行く。そして、其所に拡がっていた、緻密極まりない宇宙艦隊の図を見て、感動した。
長老も、これならばと、何度も頷いた。
これならば、破壊と破滅をまき散らす、悪夢の艦隊ではなく。
光と希望の艦隊になり得るだろう。
溜息が漏れた。
これは美しい。
色などついていなくても。線の集まりだけでも。素晴らしいと分かる芸術だ。
勿論、人間時代にこれを描くことは不可能だっただろう。
虚無の土地で、多数の有識者から知識を得て、更には才能を開花させて。
ようやく描くことが出来た大作だ。
だが、気付く。
青年は、満足そうにはしていない。
やはり絵は心残りではないのか。
そうなると、女か。
だが、どうも話している限り、そうでもないらしい。
原初的な欲求が心残りの場合、ここに来ることはまずない。今までにそういった例は見た事がないし。
何よりも此処では欲望や感情、代謝がなくなってしまう。
心残りにはなり得ない。
かといって、話を聞いている限り。
この青年には、家族は犬しかおらず。愛する女もいなかったようだ。そんな余裕も無かったのだろう。
ならば、何だ。
少し考え込んで、そしてはっとした。
青年は相変わらず寂しげに微笑んでいる。
その笑みを見て、ぴんと来たのだ。今までの情報を全てかき集めて、ようやく結論に到達できた。
そうか。
そういうことだったのか。
「長老?」
「よくこの絵を見ておくのですよ。 見納めになると思います」
「ええっ……それは残念ですなあ」
「そういわない。 これは、心に焼き付けておくべき芸術です」
蜥蜴頭の男にそう返すと。
長老は、一度引き上げる事にする。
あの絵のことは完璧に覚えた。再現は出来る。芸術は作り出すまでが難しいのであって、再現はある程度の技量があれば難しく無い。
木の枝を使っただけにしては、極めて高度な技術を使っているが。
絵の内容は完璧に覚えた。
再現は決して難しいものではないのだ。
家に戻ると。しばらく待ってから、青年の家にいく。
青年は、ぼんやりとしていた。
それはそうだろう。
やっとあの絵を描き上げたのだから。そして、あの絵を描き上げたことで、芸術家としての本懐を果たしたのだから。
だが、この青年の心残りは別にある。
長老が来た事に気付いた青年は、顔を上げていた。
「長老ですか。 どうなさいました」
「貴方の心残りが分かりました」
「……」
「人間として扱われたかった、ですね」
青年の寂しげな笑みが消え。
そして、無表情になった。
恐らく生きていたならば、激高していただろう。図星をついた。一時期の地球人風に言えば、地雷を踏み抜いたのだから。
「貴方の心残りが何なのか、ずっと考えていました。 そして途中から、絵では無いなと気付きました」
「どうして、そう思ったのですか」
「貴方にとって、絵は描けて当たり前のものだったからです。 貴方は絵が好きでしたが、明らかに貴方が生前絵に掛けていた投資は、生活費を逼迫させるものだった。 何故其処までしたのか。 コンクールが原因では無いでしょう。 勿論絵がそれだけ好きだったという事でも無かった」
「……」
青年は無表情だったが。
やがてうつむき、言う。
その通りだと。
後は話してほしいと促すと。青年は、観念したのか。静かに、自分の残していた思いを話し始めた。
「僕は……人間として扱ってほしかったんです」
「やはりそうでしたか……」
「後の時代の人達に話を聞きましたが、貧富の格差というそうですね。 僕の時代は、そもそもそれ以前の問題でした。 人権という概念もあったそうですね。 僕の時代には、そんなものはありませんでした。 領主がそう思えば白が黒にもなりました。 同じような貧乏人でも、気味が悪いと周囲に思われれば、もう殺される以外にはありませんでした」
そもそも誰も疑問に思わないのが不思議だと、青年はぼやく。
教会に飾られている名画。
どうして見る為だけに、貧乏人では絶体に無理なお金を取るのか。
特権階級だけの楽しみであって。
貧乏人など人間だと思っていなかったからという証拠では無いか。
周囲の人達はずっと青年を笑っていた。
貧乏人のくせに、偉そうに絵なんて描きやがって。
そう言いながら、暴力を交えた虐待も加えてきた。愛犬も勿論犠牲になったし、家を失ったのも結局その延長線だった。
雪の中で青年が凍え死んでも。
周りの者達は、嗤うことはあっても、悲しむ事はまったくなかっただろうと断言できる。そうとまで、青年は言い切った。
その通りなのだろう。
この青年が置かれていた状況を考えるに、その意見で正しいはずだ。
「僕はコンクールに出しましたが、それは人間になりたかったからです。 それまでは僕は人間でさえなかった。 領主の気分次第で簡単に殺される、ただの肉の塊でしかなかった。 僕の死でさえ、周囲の人間は美談に仕立てて、面白おかしく浪費した。 僕は、そんな周囲の人間とは違う、まっとうな人間になりたかったんです」
「……分かりました。 ならば言いましょう」
「説教はもうたくさんです」
「分かっています。 貴方の自己責任だとか、自業自得だとか、無責任で非道な自己責任論を展開するつもりはありません。 明らかに貴方の周囲が悪い。 貴方に悪い所などありませんよ」
青年は、そう言われると。
少しだけ、目を伏せて。
ありがとうございますと呟く。
その様子は、青年の元の姿である。
雪の中で凍死した、哀れな少年の、本音だったのだろうと。長老には、容易に想像できた。
「そして貴方はもう人間になっています」
「……こんな世界で、こんな亡者で、ですか」
「あの絵を見て、周囲は皆、貴方を認めました。 私の右腕……蜥蜴顔の男は、元は海賊で、残忍極まりない男でした。 しかし貴方の絵を見て、感動してこれは素晴らしいと絶賛していたでしょう。 貴方の絵は、多くの人の心を動かした。 生前は、貴方に対する偏見があったから周囲にそうさせなかった。 「貧乏農家の小せがれが偉そうに絵なんぞ描いている」という偏見からね。 此処では偏見はない。 だから貴方は、本当の意味で人間になる事が出来たのです」
俯く青年。
何度も目を擦る。
はあとため息をつき、そして天井を見つめた。
感情が薄れているこの世界でも。
それでも、膨大な感情が渦巻いている、と言う事だ。
青年はずっと苦しんでいたのだろう。
周囲から人間と思われていないと。
ある程度豊かになった社会でも、周囲とずれているという事は、致命的な事になる。特に子供や貧乏人は残虐で。更に自分より立場が弱い相手を見つめては、徹底的に虐待と暴虐を繰り返す。
それが人間という生物だ。
青年はそんな社会で生きてきた。
だからこそに。
今、此処で認められた。
それも自分がずっと好きで、共にあった絵を描くことで認められたのは、嬉しい事だったのだろう。
勿論、この世界で、最初から青年は人間として認められていた。
この虚無の世界では、力関係などと言うものは存在しない。
貧富の差も無い。
長老が音頭を取っているのは、相対的に見て最も高い能力と知識を持っているからで。それ以上でも以下でもない。
青年が過去に暮らしていた地球のように。
家柄だとか。
親から受け継いだ金だとか。
それらで全てが決まるような世界では、ここではないのだ。
だからこそ、青年は。
絵で認められたのだともいえるのだが。
そして、絵で認められるまでもなく。
格差と苛烈な差別と、周囲からの虐待が当たり前だった世界で。そう認識出来ていなかった。
自分は人間であるという事実に。
絵で認められるまで、青年は気付くことが出来なかったのである。
「満足、できましたか」
「少し、考えさせてください」
「……貴方は、もう少しで上がれると思います」
「僕の愛犬と、おじいさんと、あの世で会えるでしょうか」
それは分からない。
だけれども、一神教の神は酷薄だ。聖書という本の内容について確認したが、基本的に気に入らなければ大量殺戮を行い、異教の信徒は皆殺しだ。主な三つの一神教の全てがそうである。
多分青年は、一神教で定義する天国とやらになどはいけなかっただろう。
むしろ一神教の神は、笑いながら青年が虐待されている様子を見て楽しんでいたのではあるまいか。存在したらの話だが。
だが。
この虚無の世界は、実際の神の手が加わっている。
長老を殺したあの神よりも。
更に上位の神かも知れない。
恐らく空間相転移だろう現象が起きても、この世界はびくともしなかったのである。こんな世界が無数にある可能性もあるし。だとすれば、この世界を作った仕組みが人格を持っていたら。
長老を殺した神より上位の存在だろう。確実にである。
そしてそんな神だったら。
本物の、楽園と呼べる場所に、青年を案内してくれるかも知れない。
そう蕩々と説明すると。
青年は、静かに頷いていた。
「長老は何でもお見通しなんですね。 僕は腐りきった教会を見て育ちました。 だからそんな教会を放置している神様には愛想を尽かしていました。 そんな神様が作る天国なんて、どうせ自分勝手な代物だとも分かりきっていましたから、そこにお爺さんや愛犬がいっていなければ、僕としては嬉しいです」
「いずれにしても、此処を作った神は、一神教の神よりは平等でしょう。 私のような鬼畜にも、やりなおす機会をくれているのですから」
「……そうですね」
「安心して、もう少し。 上がるまでの事を覚え続けていてください。 あの絵の光景、私は一つ夢が出来ました。 ああやって、星間同盟の紛争を調停するための艦隊を作りだす。 それが私の夢になりました」
青年は頷く。
それが嘘では無いと、気付いてくれたのだろう。
長老も頷くと、青年の家を後にした。
あと一月、と言うところか。
心残りがあるとしても。自分の心にけりをつけるまで、あの青年の場合、それくらい掛かるだろう。
青年が生きていた時。
周囲に、絵以外で自己主張しないで。黙々と働くタイプだっただろう事は、今まで話していて分かった。
周囲の下郎共にとっては、それであったら死に追い込むまでもなかったのだろう。
だが、青年は。生きていた頃は少年だっただろうが。
絵の才能という、周囲の下郎どもにはないものを明らかに持っていた。
それが下郎共の嫉妬を買った。
殺してやろうという、悪意ある謀略を産み出した。
自分と同じか、それ以下。
そういう存在がいなければ、怖くて安心できない。
それは人間という生物が、ずっと抱き続けた宿痾だ。
地球人と厳密な意味では同じルーツに位置する存在に作り出された長老も、それは理解している。
実際問題、戦闘用奴隷というだけではなく。命じるままに命をも投げ出す滑稽な奴隷を、創造者達は求めていたらしいのだから。
だから反乱を起こした長老を、徹底的に弾圧し、皆殺しにしようとした。
ありもしない格差を作り出し。
それを絶対視し。
逆らう場合は殺す事も平然とやる。
それが、宇宙に撒かれた「知的生命体」の本質。
生前の長老は、それを哀しみ。生そのものを苦だと考えた。そして愛というものを間違えた。
本物の宇宙レベルの愛は。
そんな風にしか考える事が出来ない人間に。
あの青年のような、素晴らしいものを見せて、教化していくこと。
個人レベルの愛は、あのような虐待を受けた者を救うこと。
どちらにしても。
昔自分が抱いていた愛は、間違っていたのだ。
自宅に戻ると、長老は大きなため息をついた。自分の中でも、今回はとても大きな変化があった。
あの青年との出会いは大きかった。
今後、この世界を上がるためにも、重大なピースの一つとなるだろう。
長老は手を見る。
女の子の手。
生きていた頃の、屈強な男の手では無い。
子供も作れないのに、疑似家族を作り。そしてその疑似家族を失った手。
今だって、人間と言うよりも亡者の手だが。
己の個は失われていない。
否。
失ってはいけないのだ。
もう一度ため息をつく。
精緻なあの宇宙艦隊。
もしも罪を償い、許される日が来るのなら。その時は。あの艦隊を再現して、無数の紛争を解決するために動いていきたい。
そして出来る事ならば。
あのような人間の愚かしい本質に振り回される犠牲者を、少なくとも目の届く範囲内では絶対に出さない。
それがもし、此処を出る事が出来たら。
するべき事だ。
蜥蜴頭の男が来る。
感服したようで、何度も感動の言葉を述べていた。
「俺も生前は海賊船に乗って悪の限りを尽くした外道でしたけど、あんな凄い艦隊を目の前にしたら、その場で降参するしかねえですわ。 ずうっとでも見て入れられる。 本当に凄い」
「貴方だったら、あの青年を……もし生前会っていたら、どうしましたか?」
「そりゃあ、犬ごとひっさらって、自分の絵描きにしたでしょうね。 勿論俺は給料をきちんと払いますよ。 あいつが貰っていた給料なんて、比較にならない程の給料を、きちんとね。 あの絵、俺が集めた宝の数々と、勝るとも劣らない素晴らしいものでしたからな」
「貴方はそうやって筋を通すところもあったから、狂人呼ばわりされながらも、大海賊として名を馳せたのでしょうね」
居住まいを正すと、告げる。
青年は一月ほどでいなくなると。
この見立ては当たるはずだ。
青年は、人間として認められたかったのだと。それを聞いて、蜥蜴頭の男は、そうかと呟いた。
「自分の中で、今でも周囲に認められていなかったんですな」
「そうです。 やっと、今人間として見られていると、認識出来たようです。 後は心の整理がつけば上がれるでしょう」
「あの絵……本当に凄かったなあ。 この世界だと、災害で消し飛んでしまうのが、おしくてならねえ」
「何、全て覚えました。 何なら、私が描きますよ」
そう告げると、蜥蜴頭の男は、驚いたように長老を見て。
そして、少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
何でも見抜かれているなと。
長老はささやかに微笑んで返す。
これくらいで誰かのためになるなら。
喜んでやると。
「ただいっておきますが、私はあの絵を産み出すことは出来ませんでした。 既に絵があるから、それをコピーする事が出来るだけです」
「へえ、それは何となく分かります。 ある程度上手い奴は、他人の絵を真似ることが出来ますからな。 俺も伊達に絵を盗品として扱っていないです」
「ふふ、貴方の生前は、本当に度し難い。 私ほどではないとしても」
「……長老は、俺とは違うと思いますぜ。 少なくとも、俺よりはずっと偉大だ」
蜥蜴頭の男はそう言ってくれるが。
そんな風には思えない。
さて、あの絵はいずれにしてももう見納めだ。
もう一度見ておくとしよう。
記憶はした。
再現は出来る。
だが現物は、次の災害で消えてしまう。
だから、せめて。自分が未来にこうあろうという絵は。記憶に残しておきたかった。
4、本当の救い
天使が迎えに来るなど御免だ。
上がりを迎えた時。
姿は、痩せこけて、小柄な少年に戻っていた。ああ、あの虚無の世界を脱したのだなと少年は思い。
そして、愛犬と、お爺さんに会いたいなと思った。
光に包まれる。
声では無く、意思が直接伝わってくる。
「心残りを払拭したようですね。 貴方は人間として扱われたかったのですね」
「はい。 後は、静かにただ暮らしたいです」
「貴方は生前不幸な暮らしを続けました。 死後すらも貴方は浪費され続けています」
その通りだ。
美談のように自分の悲劇を仕立て。
それを楽しむ人々。
現地の人々は無視。
あまりにも醜い人々の営みに。あらゆる意味で愛想を尽かしている自分がいる事を、実感せざるを得ない。
「それならば、ずっと未来の世界……平和で、それぞれ個人が静かに、差別もされず、かといって個をしっかり保って暮らせる世界に行けるようにしましょう」
「そんな世界を人間が作れるんですか」
「幾つかある世界には、そのような場所もあります。 貴方は、其処へ行くだけの資格があるでしょう」
愛犬と、お爺さんは。
その話をすると、光は答える。
「どちらも既に、心残りを果たして、おのおの別の世界に旅立っています」
「そうですか……」
「いつまでも一緒にいたかった、ですか」
「はい」
それはならないと、光は言う。
愛犬は。
少年と、最後まで一緒にいたことで、心残りを果たした。
お爺さんは、少年を最後まで守り抜いたことで、心残りを果たした。
もう少年は一人で。
一人であるべきなのだ。
そう言われると。
確かにそうなのかも知れないとも思う。だが少しだけ、寂しかった。
「分かりました。 その……貴方は一神教の神様ではないんですね」
「貴方が神と呼ぶ存在には近いですが、貴方がいた世界で信仰されていた存在とは違っています」
「長老は神様に殺されたと聞きました。 貴方がその神様なのですか」
「いえ、貴方が長老と呼ぶもの……滅びの彗星と艦隊を率いて、宇宙を蹂躙した覇王を殺したのは、私の端末も端末……本当に遙か末端に位置する、小さく静かな存在に過ぎません」
そうか。そうだったのか。
もしも長老を殺したのがこの神だったら、罵倒を叩き付けてやりたかった。
一神教の神様だったのなら。
どうして教会の腐敗を放置しておくのか、問いただしてやりたかった。
でも、この神様はもっとずっとずっと大きくて。
いちいち末端にまで目を届かせることが出来ないのだろう。
人間が、自分の髪の毛の全て一本一本まで把握はできていないように。
長老もそんな事を言っていた。
今なら、素直にその話を受け入れる事が出来る。
神は大きな大きな力を持っているが。
全能でも万能でもないのだ。
長老に話をされたっけ。
持ち上げられない岩のパラドックスという奴。
もしも神が全能なら、自分が持ち上げられない岩を作れるのか。
岩を作れないなら全能では無い。
岩を持ち上げられないなら全能では無い。
どちらにしても全能というものは存在しないと言うことだ。
「長老も、とても苦しんでいました。 少しは宇宙をマシにはできないのですか」
「良く言われます。 ただ、私の管理している宇宙は、あまりにもたくさんあり、それぞれがとても広いのです。 あまりにも大きな問題を起こした場所には干渉する事もありますが、それ以外は基本的に手を回す余裕がありません。 死者の管理をする事が、精一杯なのです」
「……分かりました。 もう結構です」
「良き旅を」
頷く。
神は別に悪意あってこのような事をしている訳では無い、と言う事は分かった。だけれども。
長老があの艦隊を実際に作り出したとしても。
それで平穏は来るのだろうか。
神が全能にほど遠いと分かった以上。
例え地獄で禊ぎを終えたとしても。
幾らでもお代わりが地獄に来るのだと思う。
光の中を歩いて行く。
もう一度愛犬と一緒に、こうやって歩きたかった。雪の中でも、静かに一緒についてきてくれた愛犬と。
おじいさんと一緒に話をしたかった。
少年の絵を、唯一認めてくれた一人の大人だったお爺さんと。
だけれども、それも叶わぬ夢だ。
行く場所は楽園にもっとも近い場所の一つだという。
それで、今は満足しよう。
静かに、意識が溶け消えていく。
全ては光の中に散って行った。
(続)
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