その虚無の土地で

 

プロローグ、其所には何も無い

 

其所は静かで乾いている場所だ。

点々と人影が見えて、そして家も同じ数だけある。集落と言って良いだろう。その集落の真ん中には木が一つ。その木には、たくさんの実がなっている。実は集落の住民が口にすればたちどころに栄養になるが。

此処には調理するための道具も無ければ。

ノウハウも存在していない。

木をじっと見上げているのは、喪服のように黒い服を着た女の子。髪の毛も真っ黒で、目も真っ黒。肌は青白くもなく健康でもない。見かけは精々十代前半。細くて肉付きも悪い。黒い服もよく見るとぼろぼろで、下も素足。口を引き結んだその女の子は、雰囲気は厳しいが。見た目とあらゆる全てが違った。

「長老」

「何か起きましたか」

長老と呼ばれたのは女の子のほう。

声を掛けたのは、しわがれた声の老翁だ。中華風の服を着ていて、腰も曲がっている。だけれども、ここに住んでいるものは、病気で苦しむ事はない。事故が起きることもない。何が起きても死ぬ事さえない。

「どうやら、そろそろわしはおいとまさせていただく様子です」

「それは何よりです。 貴方は私についで此処にいる存在です。 色々と助けて貰いました」

「いいえ。 これでようやく罪を償うことが出来たのでしょうかね……」

「時が来た、と言う事はそういう事です。 司馬炎」

老人は苦笑いすると、頭を下げる。

司馬炎。

中華王朝、西晋の事実上の開祖。そして中華文明を事実上崩壊させ、たった十年と少しの平和と引き替えに、地獄の三百年を作り出した元凶の一人。英雄英傑の血涙を土足で踏みにじった、中華史における暗黒点の結実。

彼を超える暗君は幾らでもいる。だが、事実上の文明崩壊を引き起こした元凶は、間違いなく彼。

故に司馬炎はここに来た。

なお死んだときの姿では無い。

ここに来るとき、そのものは姿を変えるのだ。

「貴方は此処に1000年以上もいましたが、ようやくつとめが終わった気分はどうですか」

「……色々とようやく気持ちが晴れました。 ここに来たときは、朕に何の責任があろうと貴方に噛みついてばかりでしたが。 今では自分が皇帝の器などではなかったことや、自分の為したことの重さを静かに受け止められています」

「……」

「それでは、明日には恐らく迎えが来ることでしょう。 次の者も、お願いいたします」

粗末な石造りの家に戻っていく司馬炎を見送ると。

女の子は、再び木を見上げる。豊かに実った多数の果実。緑の美しい葉。拡がる枝。

この荒野の中で、この木だけが美しい。

ここに来るのは、何も同じ世界の者では無い。

罪人だからといって、必ずここに来るわけでもない。

そして、この集落の定員は決まっている。誰かが来て、誰かが抜ける。他がどうなっているのかは分からない。

だけれども、此処の定員が決まっているのは確かなのだ。

空は真っ赤。

浮かんでいる日は禍々しいまでの光。

そして、周囲にいる者達は。必ずしも人間の顔をしている訳では無い。色々な星から、此処には罪人が集まってくる。地球文明の者が一番多いけれども。そうでないものも少なくは無い。違う宇宙から来る者さえもいる。

言葉は通じる。

此処で暮らしやすいように。この虚無の荒野を作り上げた存在が。せめてもの慈悲をくれたという所か。

良くは分からない。

だけれども、此処が「納得するため」の時間を作るための空間と言う事だけは分かっている。

今でも此処が何かはよく分かっていない。

分かっているのは、此処には納得していない罪人が来ると言う事。自分の人生に、納得がいかなかった者が落とされるのである。

勿論女の子もそうだ。

何しろ、星を滅ぼしたのだから。

文明を滅ぼした司馬炎よりも、長い間此処にいるのも当たり前と言えるだろう。

日が沈む前に、皆に通知する。

司馬炎が行くと。

おおと声が上がり、拍手が起きる。司馬炎は元皇帝の傲慢さも既に消え失せ、頭を下げると。素直に好意を受け取った。

そして、これからだ。

人の交代が起きるとき。

この粗末な荒野の集落には問題が必ず起きる。

新参が持ち込むのでは無い。

どんな災害が起きるかは分からないのだ。

その災害自体は極めて理不尽で、集落そのものが消し飛ぶことだって今まで珍しくもなかった。

そして此処の住民は死なない。

欲求もない。

食糧は動くために得る。排泄さえ必要ない。荒野に危険な獣がいる訳でもない。

ただの虚無の中にある、小さな小さな荒野の集落は。

何度も破壊に晒され。

或いは災厄に晒され。

その度に、木を中心に立て直してきた。それがこの場所。女の子にも、此処がなんという場所なのかは、正確には分からない。分かっているのは、何かの神が作った罪人の行く所で。

地獄よりはましだけれども。

「旅立つ」には罪が重すぎる者が来る場所。

そして、納得するまでの時間を過ごす場所。

何かが起きるかは分からないから、皆は警戒する。だけれども、毎回立て直してきたのである。

今更、壊れること自体は、どうとも思わない。

陽が沈み、朝になる。

司馬炎の家を女の子が覗きに行くと。既にその姿はなかった。

そして姿が消えたと言う事は。

来ると言う事だ。

地鳴りが聞こえはじめる。

さあ、今度はどんな風に此処が壊されるのだろう。

むしろ楽しみにさえなってきている。何をされようと死なない体だ。此処から離れても、いつの間にか戻って来てしまう。

きっとこの世界は、どこまで拡がっているように見えて、本当はとても狭いのだと思う。家から出てこない者さえいる。既に皆、慣れているのだ。

ここにきたものは、いずれ迎えが来て旅立つ。その期間は様々。

司馬炎のように千年掛かった者もいる。数年で旅立つ者もいる。

中には、ほんのわずかな期間で去って行った者もいた。

此処は地獄のような特別な世界。

それだけは、間違いの無い処ではあった。

 

呆然と立ち尽くしているのは、ひょろりと背の高い男だ。

口ひげを豊富に蓄えていて、そして中年を少し過ぎたくらいだろうか。

しかし、口ひげに気付いて愕然とする。

そもそも彼の暮らしていた時代は、口ひげを蓄えるかは任意で。彼自身は口ひげなど蓄えていなかったからだ。

身繕いをする時間すらなく。

そして死んだ筈。

その時には、見苦しく無精髭だらけになっていただろう。

分かっていた。自分が如何に罪深いかは。

失策に失策を重ねた。

信じるべきを信じず。信じてはいけないものを信じてしまった。

誰もがやりたくない仕事に就いた。

悪徳の限りに汚染された故国を救うため。たまたま、故国の軍を破滅させた愚かしすぎる侵攻作戦に反対していた高位の議員が男しか残っておらず。男にしか、邪悪の権化に吸い取られ尽くした国の長に収まりたがるものがいなかった。

正義感の限りを尽くし。

故国を支配していたルールの通り、やれることをやろうとした。

だが、出来なかった。

能力も人材も足りなかった。

そして、そもそももはや国の寿命が尽きていた。

信頼すべき存在に、全ての軍事権限を与えれば。今思えば、どうにかなった可能性もあったかも知れない。

だが、それも今では虚しい話だ。

顔がおかしいのだ。体はどうだ。

着ているのは、何だろう。

死んだときはスーツの筈だった。それも、オーダーメイドの高級スーツ。人類は銀河規模の文明に出てからも、スーツとネクタイを、公の場では正装としていた。一時期それを覆す反動的な専制国家が出たが。スーツとネクタイは男の先祖達が復権させた。

だが、それは正しかったのだろうか。

ぼんやりと、衣服がとてもスーツとは言えない、ボロ布だという事に気付いて、男は嘆息する。

そもそも周囲は荒れ果てた土地。

しかも水害があったのか、周囲は泥まみれ。本来なら、歩くのも危ない有様だ。

目の前には、傾いている木。

集落があったようだが。

可哀想に、全滅だ。

全てが土砂に押し流されてしまっていて。そして、どうしようもない。何だか、圧倒的な軍勢で押し潰された故国のようだなと思ってしまう。もっと早くに男があの、自己保身の天才、国にとっての最悪の為政者を何かしらの方法で追い出せていれば。故国は守られたのだろうか。

無理だ。

首を横に振る。

彼奴は怪物そのものだった。何しろあの。敵国の若き天才皇帝でさえ、彼奴の命を、男が知っている内は奪うことが出来なかったのだから。

ふと、気付くと。

傾いていた木が、勝手に直っていく。

何が起きている。

やがて、泥の中で傾いでいた木が、しっかり垂直に立つ。汚れが溶けるように流れ落ちていって。

そして、みずみずしい果実が、其所には実り始めた。

多分死に際の幻だろう。何が起きてもおかしくない。

最後の最後に、保身をしようと必死になった軍人達に撃ち殺されたのは確定だ。とはいっても、あの軍人達も、長くは生きられなかっただろう。あの金髪の苛烈な若き皇帝はああいう輩は絶対に許さない筈だ。

幻なら、何が起きてもいい。

だが、どうもおかしな事に、感覚があるようなのだ。

ひょっとしたら、宗教などに残る地獄だろうか。

そうかも知れない。

地獄に落ちるだけの事はしたのだから。

「ふう」

後ろから、声がする。

見ると、泥を押しのけて、女の子が出てきた。こんな苛烈な水害から、生き延びたのか。男は錯乱していた時はともかく、今は少しずつ心が落ち着いている。だから、すぐに泥をかき分け駆け寄った。

「大丈夫かね、君」

「平気ですよ。 これでも慣れていますからね」

「そうか。 ともかく、怪我がないか調べないと」

「此処では怪我などと言うものは存在しないのです」

黒い髪の、喪服のような服を着た女の子は。

確かに粗末な格好をしているが、肌どころか、服にも怪我一つしていない。素足だが、それでもだ。

そういえば、こういった水害の場で、男が怪我一つしていないのも妙な話だ。

こういった場所では、泥の中に埋まった尖った岩や刃物が、何よりの凶器になると聞いている。

男も星間文明の政治家だったのだ。

相応の教育は受けている。

軍人がどういう環境で活動するかは聞いているし。勿論前線を視察に行ったことだってある。

次々、泥の中から色々な人が姿を見せる。

中には、とても人間とは思えない存在もいた。

いずれもが怪我一つしておらず。

姿もまちまちだった。

「君達は一体……」

「貴方が新入りですね」

「新入り……?」

「此処がどういう場所かは私達にもよく分かっていないのです。 一つはっきりしているのは、此処は地獄のような場所だと言う事。 とはいっても、地獄では無いのかも知れないのですが」

何をおかしな事を。

そう男は思ったが。しかしながら、このような水害で生き埋めになって平然としている女の子だ。

それに、廻りの連中は、仮装か何かをしているとも思えない。

こんな状況で、仮装など出来る余裕があるか。

何かの特殊な宗教だろうかとも思ったが、作り物とはとても思えない。蜥蜴のような頭をしていたり。或いはもはやどう形容して良いのか分からない顔をしている者もいた。

「長老、何から始めましょうか」

「まずは集落から泥を取り除きましょう。 水害は……一番面倒なパターンですね」

「地割れや土砂崩れだと、引っ張り出すだけで済みますからね……」

「そういうことです。 貴方にも手伝って貰いたいのですが、よろしいでしょうか」

男はしばし黙り込んだ後、頷く。

いずれにしても、もう此処が何処でも良い。目の前に困っている者がいるならば。一国の指導者だった存在として、手をさしのべなければならない。

国は腐っていた。

どうしようもない状態にまで墜ちていた。

だけれども、それでもどうにかしようとした。

それが男の矜恃だった。

分かっている。そんな器では無かったと言う事は。だが、だからこそ、今から此処で。困っている者達のためにどうにかしたい。

見ると、この長老と呼ばれた、栄養状態もあまり良く無さそうな女の子が、男衆に崇められている様子だ。指示も悪くない。

誰かが板を探してくると、それを使って泥をどかし始める。男も板を受け取ると、泥をどかすのを無言で手伝い始めた。

女の子に名前を聞かれたので、名乗る。

小首をかしげた後、何処の出身かとも聞かれたので、名乗る。

いずれも、知らないようだった。

「今まで来た事がない国からの到来者ですね。 まあ今まで同じ世界から来たものの方が少ないのだけれど」

「そうなのかね」

「ええ。 此処には色々な世界から人が来ます。 色々な文明段階から。 貴方は宇宙規模まで拡がった文明から来たのですね」

「……」

思ったよりも、よほど知的な相手らしい。

男は相づちを打ちながら、泥を避けて行く。どうしてか疲れは殆どたまらない。こんな肉体労働、するのは学生時代のボランティア以来だろうか。

正義感が強いと当時から言われてはいた。

議員になるためのあらゆる努力をした。

国がこのままでは駄目になると思った。自分に出来る事をしたいと思った。だから政治家の道を選んだ。

政治が腐敗していることは分かりきっていた。

何度も絶望した。

そして、最後には、絶望から立ち直れなくなってしまった。

泥をのけている内に、どうやら此処は死ぬ間際の夢では無い、と判断する。

感触もしっかりあるし。

夢特有のふわふわした感じがないからだ。

時々、女の子が木から実をもいできて、渡してくれる。

排泄欲や睡眠欲はない。多分性欲もないだろう。そして食欲すらもない。

だが、木の実を食べると力が湧く。

オレンジのような、みずみずしい果肉が詰まった木の実だが。最低限の味さえしなかった。

しかし、これが力を維持するためには必要なのだろう。

はっきりいって美味しいものでもないが、それでも食べなければならないと、体が勝手に突き動かされる。

此処では食欲の形すら違うのかも知れない。

食事が終わると、ぴたりと衝動も収まる。

よく分からない話だった。

果実は全て食べる事が出来るので、ゴミも出ない。

「長老、此方の掃除終わりました」

「お疲れ様です。 家の様子はどうですか」

「駄目ですね、全部流されています」

「やむを得ません。 材料集めからですね」

少し躊躇った後、男は聞いてみる。

「私は政治家をしていた。 少しは指導などが出来るかもしれないが」

「此処には政治家をしていた人はたくさん来ます。 以前は皇帝だった人も何人か来ています」

「そうか……。 君のような子供を働かせるのは忍びないと思ってな。 指導者の重圧は知っているつもりだ」

「私は子供ではありませんよ。 貴方も自分の姿が変わっていることは気付いていませんか?」

確かに、それもそうだ。

男は、前はこんな姿をしていなかった。

苦笑すると、女の子の様に見える何かに、従う事にする。

責任感が、自分を動かしたが。

正直な話、もう政治家として、どうしようもない状況に関わるのは、まっぴらだった。それでも、この惨状を見ると、心はどうしても動いた。

 

1、村は何度でも蘇る

 

水害によって完全に押し流された村から、まずは汚泥を処理。そして、無言で協力しながら、意思やら材木やらを集めてくる。見渡す限りの荒野にも見えるのだけれども、水害と一緒に色々と流れてくるようだ。

何も生き物はいない。

水さえない。

水害が収まると、水は乾いた大地に吸われるようにして、なくなってしまった。そもそも、喉の渇きを覚えないのだ。人間は二日も水を飲まなければ死ぬはずなのに。男は動けなくなる事も無かった。

灰色というか茶色というか。

何一つない不可思議な土地だ。

地獄かも知れない、地獄かどうか分からない土地。

指導者らしい「長老」はそう言っていたが。

これは確かに、そう表現するしかないのも頷ける。そんな中、緑の木だけは青々としていて。

自分こそが此処の主だと見せつけるかのように、立ち尽くしているのだった。

長老の指導は的確だ。

まず基礎となる石材を積む。力は皆それぞれだったけれど、原始的な木材や石材を使い、てこところの原理で石を動かして行って基礎にする。

けっして衛生的な環境では無く。

本来だったらまずは衛生を確保することを考えなければならない状況だが。

見た感じ、病気になる様子は無い。

一月以上も、地道な作業を続けてそうなのだ。

やはり此処に、死は存在しないのだろう。

男が生きた時代は、死が何処にでもあった。

男が止められなかった愚かな侵攻作戦では2000万人も死んだ。その直前の戦いでも、150万人も死んだ。

百年以上も、そんな規模の殺し合いが続いていて。

100億人以上もいた人間も。最盛期の人類に比べれば、あまりにも少なすぎる数だった。

いつ誰が死んでもおかしくない。

死んだ事が分かっているならまだマシで。MIAになる者も多く。その場合は更に悲惨だった。

宇宙空間での戦闘が主体だったが、その一方で地上戦も頻繁に行われ。重装甲服を着た人間が、炭素クリスタル製のトマホークと呼ばれる斧で殺し合うような肉弾戦も普通に存在していた。

誰でもいつでも死ぬ世界。

此処と、どちらがマシなのだろう。

また、ひげ面になっていた男だが。その髭も伸びる様子が無い。服に付着した汚れもすぐに落ちた。

「此方の家の柱を立てます。 手伝ってください」

「分かった。 其方だな」

基礎が組み上がった家の柱を作る。

木材も水害で流れてきているので、それを用いる。

数人がかりで柱を起こし。

そしてしっかり固定する。

素手でやる作業では無いが。傷がつかないし、ついた所ですぐに消えてしまうので。もう気にはならなかった。

皆寡黙だ。

余計な事は一切喋らない。

柱を立てた後は、壁、屋根と石材、木材を組み合わせながら作っていく。見ていてほれぼれするほど、皆慣れていた。

男のように慣れていない者もいたが。

そういう者には、長老が的確な指示をくれた。

長老は表情にかわいげがないので、或いは男と同じように、まったく違う姿をしていたのかも知れない。性別が違った可能性だってある。

ざっと見た所、この集落には数十人ほどしかいない。

性欲が一切合切無くなっていることや。他の欲求もおかしくなっているから、だろう。

年頃の男女に見える者もいるのだけれども。

夫婦や恋人の姿は見えない。

長老を筆頭に子供もいるが。

そもそもそれが本当に子供なのかさえ、分からないのが実情だった。

家が少しずつ出来ていく。

どれもこれも、粗末な一部屋しかない家だ。だが、そもそもパーソナルスペースとしての家だけしか必要ない。

食事は果実だけで充分。

水周りもいらない。

フロも必要ないだろう。代謝が起きていない事が、男にも分かるのだ。体を洗う必要もない。

生前は生活習慣が存在していたのだが。

しかしながら、この様子では。

そもそも風呂に入らなくても、体が異臭を放つことはあるまい。風呂に入ろうという気持ちさえ起こらない。

家を何処に建てるかで、揉めることさえない。

恐らく野心の類も存在しなくなっているのだなと、男は思った。リーダーシップを取ろうと最初には考えたけれど、それは使命感から。長老がてきぱきと指示をしているのを見ると、とても今はそれに倣おうとは思わない。

人間にはどうしようもない野心というものがあって。

人によってはそれが身を焦がすほどに燃え上がるのだが。

此処では、それは無く。

故に争いも起きないのだろう。

だが、それが良い事なのかは正直よく分からない。此処が地獄かそうか良く分からない場所、という言葉にも。

男は同意できるのだ。

そもそも、あの真っ赤な空。夕焼けというよりも、更におぞましい赤。

色々な星の空を見て来た男も、こんな赤い大気を持つ星は見たことが無い。そもそも小さいとは言え村を丸ごと飲み込む水害に襲われて、平然としている人間達を見て。此処が普通ではないことはもはや確定だ。

男の家も作る。

他の皆は、黙々と作っていく。

誰かがぼやいた。

「シバエンの旦那が住んでいた場所か。 ずっと此処と長老の家だけは変わらなかったんだけれどな」

「シバエンという人が前に住んでいたのか」

「ああ」

応えてくれたのは、蜥蜴顔の男だ。

この男も、昔は違う姿だったのだろうか。石を積み上げながら、応えてくれる。

「何でもセイシンとかいう国の皇帝だったらしいな。 俺が来た時にはもういて、ずっと温厚な爺さんだったが……時々苦しそうに悩んでいたよ」

「セイシン……シバエン……」

ふと気付く。

そうだ、中華王朝の西晋。司馬炎といえば、其所の初代皇帝だ。

三国時代を終わらせた西晋。だが、八王の乱という歴史上でも類を見ないほど凄惨な一族同士での内輪もめを開始して、十一年程度で瓦解してしまった。後は五胡十六国時代という地獄の戦乱が到来し、悪夢の時代は三百年も続いた。

西晋が中華を統一出来たのは、他の国が国力を使い果たしたからというに過ぎず。

司馬炎は祖父や叔父、父はともかくとして。無能な男だった。見かけだけは相応に立派だったようだが、天下統一を為してからは政務に興味を無くし、佞臣の横行を招いた。そして八王の乱という歴史でも類を見ない地獄絵図の到来を招いた。

その話を軽くすると。

蜥蜴頭の男は、頷く。

「そうそう、そんな事を言っていたな。 実際にはシバエンが、後から来た別の奴に聞かされたらしいが」

「西晋というのは後の時代から名付けられた国号で、当時は晋と名乗っていたはずだが……よく司馬炎が受け入れたものだ」

「受け入れるのに数十年掛かったとか言っていたよ」

「……」

そうか。

司馬炎はお世辞にも有能な君主では無かった。

五胡十六国時代は、暗君暴君が列を成してバーゲンセールが行われるほどの地獄が続いた。それらの君主に比べれば、まだましとも言えたが。そんな状態が来る土壌を作ったという意味では、諸悪の根元とも言える。

もっとも、男も。

司馬炎を悪く言えるような有能な指導者ではなかった。

家が出来た。

此処で最後だ。

皆、家はまちまち。石を積んでしっかりした屋根をつけているものから。

柱から藁のようなものを吊して、いわゆる竪穴式住居のようなものを作っているものまで。

それぞれの好みに応じて、長老がある程度指示を出してくれるらしい。

そして、その指示通りに組み立てれば、家になる。

長老は何でも知っている。

蜥蜴男は、そんな風に言った。

そうなると、あの幼い女の子に見える長老は、余程長い事ここにいるのだろう。どれくらい、いるのだろうか。

無言で、完全に水害から回復した村を見やる。

誰もが不満を持っている様子が無い。

此処に、あの故国を滅ぼした金髪の若き皇帝……いや、故国が完全に滅ぼされる所は男は見なかったが、あの状況なら確実に滅んだだろう。ともかく、あの政戦両面の天才。金髪の皇帝が来たら、どう反応するのだろう。覇気がないとか、腐った世界だとか、吐き捨てるのだろうか。

燃え上がるような野心と才覚に満ちあふれていたあの若者は、あの後どうなったのだろう。

故国は確実に滅びた。

男が、信頼すべき宇宙最強の一角である用兵家を信頼出来なかったからだ。

邪悪なる民主主義の寄生虫をもっと早く排除できなかったからだ。

故国は命数を使い果たした。

だから滅びたのは確実である。

今いるこの集落は、どうなのだろう。

昔いた国に比べると、とても小さい。億どころか、数十人しか住んでいない場所なのだから。

幸福度はどうだろう。

幸福は存在しない。

だが、同時に不幸も存在しない。

灰色だ。

自宅から出たまま、じっと空を見上げる。

あの空。

地獄のような戦いが続いた、自分がいた世界のようだ。やり直すことが出来たら。そう思うと、少し胸が痛んだ。

 

村が元に戻ると、長老が皆を呼び集めた。

喪服のような黒い服を着て。黒い髪に黒い瞳。黒づくしの女の子は。愛嬌がある訳ではないが。

言動は丁寧で、皆の事を良く把握していた。

「復興作業、お疲れ様でした。 それでは皆さん、戻ってください」

スピーチも長引かないか。

ちょっとだけ男は、自分が信頼出来なかった用兵家を思い出した。彼も、五秒スピーチなどと言われていたっけ。

男もスピーチで民衆を扇動することはしなかった。

恐らく、近年に類を見ない悪例を、近くで見ていたからだろう。

だが、男が求心力を持っていなかったのも事実。

情けない話だが。

家に戻ろうとすると、呼び止められる。

長老だった。

「此処の話と、貴方について話を詳しくしましょう」

「此処の一員として、か」

「そういう事です。 なお長老と呼ばれていますが、別に敬語で接する必要はありませんよ」

「……分かった」

男は促されるまま、歩く。

村から出てどこに行く、と思ったのだが。荒野を歩いていると。それほど時間を掛けずに、村に戻ってきてしまった。

驚愕するが。長老は、静かに笑った。

「此処はとても狭い世界なのです。 まずはそれについて、説明をする必要がありましたから」

「……確かに、とても狭い世界のようだ」

まずは自己紹介をお互いにする。

長老の名前は、どうも聞き覚えがない。歴史的偉人では無さそうだし、そもそも同じ文明圏の存在とは思えない。

しかし、色々な世界から、色々な時代から人が来ると聞いている。

司馬炎がいたという。

それが男の知る本物の西晋の司馬炎だとすると、あまりにも時代が違いすぎる。やはり此処は、時代とか世界を超越した場所なのだろう。

順番に話をする。

やはり長老は故国のことを説明しても知らない。ただ天の河銀河については知っていた。

「私の知る天の河銀河の状況とは、かなり違っている様子ですが。 私も天の河銀河には生前足を運んだことがあります」

「情けない事に、私の世界の人類は、反動的な専制君主の登場による停滞や、何度も起きた破滅的な戦乱によって、天の河銀河を支配する事さえ出来ていなかった。 宇宙に出られたのも奇蹟のようなものだ」

「天の河銀河ですらない場所から来た人も此処にはいますし、貴方の知らない天の河銀河から来た人もいます。 もっと酷い状態におかれた天の河銀河の話も聞いています」

「そうか……人はやはり宇宙に出るべきでは無かったのかも知れないな」

他にも話をする。

いずれにしても、過去の地球にいた人間がここに来ていたのなら。

知り合いが来る可能性もある。

盟友と呼べる政治家が一人だけいたが。

彼奴は無事でいるだろうか。

それは、こう言う場所の感覚からすれば、誰もがいずれは死ぬ。彼奴だって、いずれは死んだだろう。

心配しているのは、混乱を乗り切れたかどうか、だ。

「私は、為政者としては失格だった。 末期には、私の秘書ですら、私を避けているほどに錯乱してしまっていた」

「誰もがここに来る前はそうです。 そうやって、多くの苦悩を抱えた者が、ここに来るのですから」

「……」

「貴方の話は分かりました。 基本的に、此処では先に話した通り。 誰かが旅立つと、交代で誰かが来ます。 それはいつなのか分からない。 誰かが納得したときに、その交代が起こります。 そして交代が起きるとき、世界は一度押し流されてしまうのです」

酷い話だと男は思ったが。

長老は慣れてしまっているのだろう。

というか、あれだけの手慣れた復旧。

慣れていないと、とても出来はしないか。

物資についても、破滅的な破壊が起きる度に、ある程度支給されるという。そもそも物資がなくても困らないので、それぞれが適当に使い。この粗末な集落を構築するそうなのだが。

ただ、そんな物資も使い方が分からなければどうしようもない。

長老の話によると。長老が来たばかりの頃は、もっと酷い家で、皆雑魚寝をしていたという。

確かに危険な獣がいるわけでもない。パーソナルスペースが必要になる訳でもない。水周りさえ必要ないのだ。

それもまた、ありなのだろう。

しかしながら、ある程度文明的な生活をしたいという欲求も確かにある。

さて、どうしたものか。

長老は咳払いした。

「いずれにしても、貴方に必要なのは時間と思索です。 此処を去った後どうなるのかは分かりませんが、一つだけはっきりしているのは、此処に根っからの更正不能な存在は来ないということです」

「私は……」

「貴方は更正可能と言う事なのでしょう。 そもそも此処が何かしらの意思やらが働いて出来ているかさえ疑問であると私は思っています。 殆ど機械的な処理で、ここに来ているのではないのかと」

時間が必要だ。

そう言われる。

分かっている。男の犯してしまったミス。それが今、胸を締め付けている。勿論どうしようもない状態だった事は分かるが。それでも、故国を最終的に滅ぼしてしまったのは男自身だ。

他に誰か国を立て直せたか。

出来なかった。

直前まで、国をどうにかしようと、50年の惰眠を貪っていた筈だった者が奮闘していたが。

その者も倒れてしまった。

そして倒れてしまった以上。男がやらなければならなかった。それなのに、どうしようもなかった。

長老に言われて、自宅に戻る。

心を整理しろ。

そういう事も言われた。

確かにその通りだろう。

他の者も、そうしているのだろうか。此処では、政治などしなくていい。リーダーシップなど取らなくてもいい。

ただ一人。

自分の失敗について。分析し。

そして、納得出来ればいいのだ。

 

数日、ぼんやりと過ごす。たまに果実を食べに木の所に行くが。それは殆ど自動的に、機械的に行われた。

何もしていなくても、勝手に体が動き出して、美味くも無い木の実をむしって食べ出す。

此処が嫌になって、餓死するとか。

そういった事は多分起きないのだろう。

殆どからだが勝手に動くので、何回かは男も恐怖を感じたほどだったが。数回同じ事が起きる内に、そういうものだと思って納得した。

集落に住んでいる者についても覚え始めた。

名前さえ発音できない者もいたが。

何とか名前は理解出来る者もいた。

元は凄まじい武勇を誇る戦士もいたようだが。此処ではそもそも暴力が意味を成さないのである。

例えば、他人を殴り殺すとする。

しかし、死なないのだ。

あの水害で誰も死ななかったように。

また、ここに来る時点で、その武勇やら何やらは殆どが消失してしまうようで。更には野心や独占欲もなくなってしまうため。問題も起きないようだった。

今温厚に話している者も、実は故郷では血を散々浴びた上、横死したのかも知れない。

そう男は思ったが。

あながち間違ってもいないだろう。

資産を独占するために、悪巧みをする、という者も出るかも知れない。

だがそもそも野心がなくなってしまっている。

誰も、他人の資産に興味は示さない。

男もそうだった。

そもそも繁殖行動そのものが、性欲が消失した結果起こらないのだ。

此処では、あらゆる争いの種が、最初から摘まれてしまっているのである。

ある意味地獄と言うのも納得出来る。

木に出向いて、食事をする。後から、比較的人間に近い頭をした者が現れる。ただし、額に第三の目があるので、完全に人間と同じかと言われると、そうとも言えないが。

「おう、食事時か」

「うむ……」

見かけの年齢が近いからか。気があうのが早かった。

どうやらろくでもない人生を送ってきた男らしく。生きていた頃とあまり境遇は変わっていないらしい。

ドラッグのようなものを飲んでは罪悪感から逃れる人生をずっと続けていた様子で。多分人間で言えばアルコール中毒だったのだろう。

家族にはとっくに逃げられ。

そして、自分でも知らないうちに死んでいた。

だが、そんな状態に彼を追い込んだのは。社会の不備そのものだった。

それが許せない。

だけれども、家族に愛想を尽かされてしまった自分自身も許せない。

そう彼は言い。

まだ納得出来ていないから、此処にいる様子だ。

専門の精神科医がいれば少しはマシなのだろうがと思ったが。だが、男の時代にも、精神病院は存在していたし。

そもそも精神病院から出られない者もいた。

人間だろうが、他の知的生命体だろうが。

きっと精神が壊れると、簡単には治らないのだろう。

此処はそんな者が、来る場所。

男の中では、そういう解釈だった。

「聞いても良いか」

「応えられる範囲ではかまわぬ」

「そうか。 君は本当に死んだ理由を覚えていないのか」

じっと見つめ返される。

三つの目があるから、どうしても威圧を感じた。

「私は、死の瞬間は覚えていないが、どうして死んだかは覚えている。 君は……そうではないのか」

「思い出したくない」

「そうか。 ならば、時間を掛けるしかないのか……」

食事も、機械的だ。

食べるだけ食べると、それでもう食事という行為そのものがぴたりと止まる。もうここに住んでいる者は、生物では無いのかも知れない。

だからこそ。

聞ける。

「やはり君は、死んだ理由を覚えているな」

「……」

「私は政治家で、人の話を聞き、情報を正確に把握し、資産を的確に分配して、国を少しでも良くする仕事をしていた。 そして情けない事に政治家でありながら、末期はそれが出来なかった。 だから……少しでも話を聞きたい。 そして、政治家としての誇りを取り戻したい」

腐りきった故国で。

こんな事を真面目に考えるものは殆どいなかった。

だから話した事も殆ど無い。

馬鹿にされるか、笑われるか、二択だったからだ。

敵国に対する敵意を剥き出しにする者は多かったけれど。どうしてか、自国の政治をまともにしようとする者は一人も現れなかった。

心は閉ざされ。

やがて致命的な坂道を転がり落ちていったのだ。

「話しては、くれないか」

「……」

「勿論、気が向いたらでかまわない」

「……そうだな」

木の前から離れる。

そういえば、ここに来てから、どれくらいの時間が経つのだろう。復旧に一月は掛かったが、それくらいどれくらい経過したっけ。

あれから、一度も災害は起きていない。

ということは、男が知らないうちに、誰かが此処を去った、と言う事は起きていない。

そも、此処にいる者は既に全員を覚えた。

そのような事は、起きる筈が無かった。

家で、寝る。これも、完全に娯楽の類。寝るという行為が必要ない。その気になれば、ずっと起きている事も可能なはずだ。

ぼんやりと考える。

男が此処を脱することが出来るとき。

それは、墜ちてしまった誇りを取り戻せたときではないか、と思うのだ。

政治家としての力量には欠けていた。

そんな事は分かっている。

だが、一つ納得いかなかったことがある。

それは最後まで、信念を貫けなかったことだ。

多くのミスをした。

その中には、信念を貫けなかった結果、どんどん墜ちていって。その結果してしまったミスもある。

無能なら無能なりに。

最後まで信念を。

腐った国でも、まともな政治家であろうという信念を、貫くべきだったのだ。

勿論今も悩みはある。本当にそれが正しかったのか、分からない。もっと柔軟で、政治の勉強を自分でするべきだったのかも知れない。

大体世の中は不正だらけ。

真面目に生きれば生きるほど馬鹿を見る。

いや、それこそ悩みだ。

そんな風に考えていたから、致命的に道を誤ってしまったのだ。

ぐるぐると思考が回り続ける。

何とか、誇りを取り戻せるだろうか。それとも、やはり何か精神科の本職に頼るべきではないのだろうか。

だが、心を動かし人々をまとめるのが政治家だ。

精神科の医師ほどではないにしても。人に言葉を伝えることは、出来るのではあるまいか。

男は考える。

そして、三ツ目の相手が話をしてくれるのを待った。

 

2、想像を絶する過去

 

三ツ目の男と、何回目か木の所であった。どうも生活習慣が似ているらしく、此処で食事時に会うことがよくあった。

木の実は不足することが絶対になく。

この間検証してみたのだが、無くなっていた木の実が、目を離した瞬間に復活する。

どれだけの災害がこの小さな集落を襲っても、真っ先にこの木が復活するという事なので。

やはりこの世ならざる存在なのだろう。

三ツ目の男は、話そうとしてくれている。

だから、男は待つ。

政治家としての仕事は、もう此処では必要ない。あの幼い女の子に見える長老がしてくれるからだ。

というか、政治家としての力量については、見ていて分かったが彼方の方が遙かに上である。

もしも見かけがああでなかったら、故国にいて欲しいくらいだった。

多分、あの自己保身の天才である怪物に好き勝手はさせなかっただろうし。

その結果、幾つもの悲劇を防いでくれたはずだ。

まあ、過大な期待は禁物だ。

そもそも、男の判断が色々間違ったから、故国は寿命を縮めた。

長老が代わりになってくれたとしても。結果は変わらなかったかも知れない。

それに何より、本当に男の判断が正しいかは分からない。誰にもどうにも出来ない状態だったのかも知れない。

じっと、三つ目の男が此方を見る。

話をしてくれるのかと思ったが。やがて、妙な単語を口にした。

「ソーマというものを知っているか」

「いや、知らない。 何だねそれは」

「……其方では麻薬と言ったか。 それに相当するようなものだ」

「多幸性のある薬物と言う事か」

アルコールは広義では麻薬の一種に分類される。男の住んでいた世界の過去では。余程変わった文明や、隔離された僻地の文明でもない限り、酒は浸透していた。もっとも、始めて酒が持ち込まれた場合は本来の麻薬としての猛威を振るい。集落を一夜で滅ぼしてしまったケースも存在するが。

ともかく、話してくれる相手の言葉を遮るつもりは無い。

やっと話をしてくれたのだ。

「私が存在していた世界では、このソーマが特権階級の飲み物だった。 酒は……名前は違うが存在していたかも知れないが。 ともかく特権階級はこのソーマによって酔う事が多かった」

「……続けてくれ」

「ソーマは毒性が強くてな。 時に服用者を狂気に落とし入れる事が多かった。 今になって思えば、ただの幻覚作用を引き起こすための薬剤に過ぎなかったのだろう。 私のいた場所では、これを用いての祭祀が起こされていた」

なるほど、大体分かってきた。

男が住んでいた星間文明では、宗教はもはや死んでいた。一部カルトが生き残っていたが、それはあくまで狂信者の逃げ込む場所に過ぎなかった。だから、宗教についてはあまり詳しくない。

有名なカルトが一つ猛威を振るっていたが。

それは確か、報告書で読んだ限り最低最悪の合成麻薬で信者を洗脳していた筈で。

宗教に麻薬はつきものだという事がよく分かる。

三ツ目の男がいた時代は、恐らくは文明的に超古代だったのか、或いは宗教が生き残った文明だったのか。

いずれにしても、シャーマニズムで神降ろしに麻薬や興奮剤を用いた事は珍しくもなかったと歴史で習った事がある。

そういう事だったのだろう。

「ソーマを疑う事は許されなかった。 私はソーマを扱う家庭の出身者だった。 それはとても尊い事だとされた。 ソーマによる祭祀は執り行われ、使う者はどんどん窶れていくことが経験的にも分かっていた。 だが、それを疑う事は死を意味した。 私は多くの者を、ソーマによって死に追いやっていった。 それは家族も例外では無かったし、やがて特権階級になった私も例外では無かった」

三ツ目の男は俯く。

皆、私が殺したのだと。

男は息を呑まざるを得なかった。

三ツ目の男が嘘をついていたわけではない。

三ツ目の男の主観からすれば、この間話した事が事実だったのだ。

家族に愛想を尽かされた。

それは、家族をソーマで死なせてしまった事。

そしてソーマに溺れて死んだ。

恐らくは、自身にもソーマを使わなければならなかったのだろう。

何もかも、興奮性の薬物を用いて、祭祀を行う文化によってもたらされた犠牲だった、と言う事だ。

何か、聞き覚えがある。

ひょっとして、ソーマというのは。

古い文明……インド系の文明で古くに使われ、今も正体が良く分かっていない神々の飲み物ではないのか。

インド系の文明では、悪しきカースト制度が有名だが。

それ以前に、神降ろしのためソーマを用いていたはずだ。

だが、このソーマは製法などが一切合切失われたと聞いている。インドではバラモン教からヒンドゥー教に信仰が移行したはずだが。

元々あらゆる宗教をどんどん統合して複雑怪奇に変貌していくのが大規模な宗教……ギリシャ神話や北欧神話、ローマ神話や仏教、一神教などの特色。

ヒンドゥー教もその一つ。

だが、そんなヒンドゥー教でさえ。ソーマの使用はいつの間にか失われていったと言うことは。

三ツ目の男が俯いている。

ひょっとして、だ。

「古い時代の地球に……君はいたのか」

「貴方の文明は地球を祖としていたといったな。 その地球かは分からないが、後から来た者や、他の者の話を聞く限り、多分そうだ。 しかし、同じ世界の地球かどうかは分からない」

「……それは別にかまわない。 私の世界にも神話の産物としてソーマが存在していたが、同じものかもしれない」

「だとしたら、私以外にも多くの被害が出たのだろう」

ぼんやりと木を見上げる三ツ目の男。

そうだ。

確かインド神話の主神シヴァなどは額の第三の目から光線を放ち、愛の神カーマを焼き尽くしたという伝承が存在している。

と言う事は、この男は。

元々人間として生きていたときは、三ツ目などではなく。

シヴァ神信仰に関わるただの人間だったのか。

或いは額に何かしらの装飾なり化粧なりを施していただけに過ぎないのかも知れない。

「今では滑稽な事にしか思えないだろう。 しかし私の時代に選択肢は無かったのだ」

言葉も無い。

そうか、それは苦しみ続けただろう。

男だってそうだ。

そもそも、誰もが疑わなかった。

相手は専制主義国家。戦わなければならない。倒さなければならない。そう熱狂し続けていた。

だから足下も掬われたし。

無謀な侵攻作戦が立案され。そして戦力の大半を失うという失態によって、国が致命的なダメージを受けた。

民主共和制の正義、具体的にはその執行である敵との戦いを疑う事は許されなかった。

事実、疑う者は大きな迫害を受けた。

民主共和制はもっとも先進的な政治体制だと自負していたのに。

その根底に渦巻いていたのは、原始的な同調圧力。人類は銀河系の何割かに進出さえしてなお。

何も変わる事が出来ていなかったのだ。

「今、これ以上話すのは辛いだろう。 ……気が向いたら、また話してくれ」

「ああ、そうさせて貰う」

「……」

三ツ目の男を見送る。

吐き気がする。

文明の進捗度はどうあれ。三ツ目の男の話は、とてもではないが他人事などではなかった。

男の世界の過去。

地球では核戦争が発生し。その後の混乱の中で、宗教は何の役にも立たなかった。多くの別の宗教の人間を虐殺するだけで、何一つ文明の進展には寄与しなかった。結果一神教は滅びた。タブーにさえなった。他の宗教に至っては、何故か北欧神話だけが後に復権したが、それ以外はカルトを除くと復興しなかった。

宗教が駄目だと言うのは簡単だ。

そんな事はあの三ツ目の男だって分かっているだろう。

だが、人間は宗教から逃れられたか。

専制主義は絶対悪で、民主共和制は絶対正義。

その思想を疑う事は許されなかったが。

しかしそれは、一種の宗教ではなかったのだろうか。

男だって例外では無い。

勿論専制主義より民主共和制の方が優れているとは、今でも思っている。だが、事実負けたのだ。

歴史的に見てどうだったか。

そもそも、あの怪物。

古典的専制主義を宇宙規模で復活させ。

人類の支配に成功したバケモノを産んでしまったのは、そもそも民主共和制ではなかったのか。

自宅に戻ると、頭を抱える。

未成熟な文明の悲劇とは、言い切れない。

男はこれでもそこそこの大学を出て、相応の教育を身につけた。

だからこそ、安易な否定は出来ないのだ。

古い時代だろうが未来だろうが、人間は社会を作って暮らしていた。そうしないと、他の生物に対抗できないくらい脆弱だったからだ。

万物の霊長などと驕り高ぶり、社会そのものを何度もクラッシュさせながら再興を繰り返し。

そしてフラフラと何とか宇宙に出て。

宇宙に出ても、何度も破滅の歴史を繰り返しつつ、男の時代まで何とかやっていけていた。

気付くと。

長老が家の外にいた。気配で分かる。

というか、ドアに相当するものがない。入り口はパーソナルスペースを確保するために布で塞がれているが、下から素足が見える。

男は思わず飛び起きていた。

この悩み、おぞましいまでのものだと思ったからだ。

見られるのが気恥ずかしい。

そもそも、自分がどれだけ有能だったとでもいうのか。自分に誰か一人でも救えた者がいたか。

羞恥と後悔が、どっと襲いかかってくる。

きっとあの年頃の女の子だって、散々不幸にしてきたはずだ。

権力があったのに、止められなかった。

それだけで、地獄に落ちる資格は充分なのだ。

呼吸が荒くなる。

トラウマを刺激されているのだと分かったが。分かった所でどうしようも無かった。

「外に出てきてください。 少しばかり話があります」

「すまない、今は見苦しい姿を見せると思う」

「誰もが見苦しいですよ。 私など素足です」

「……」

しばらく躊躇ったが。

言われたまま、外に出る。

木の側で、長老は正座していた。

向かい合って正座する。

集落の他の住民は、それを黙って見ていた。きっと、いつもあることなのかも知れない。

「私が何故長老と呼ばれているかは分かりますか」

「いや、それは君が此処に一番長くいるから、だろう」

「そうです。 要するに私が最も罪深いから、と言う事です。 己の罪を絶対に許せないと考えているからでもあります」

そうか。それが故……なのか。

そもそも男自身がそうだが、生前の姿とまったく異なる。この幼い女の子に見える長老だって、本当に生前は女の子だったのか。

少しだけ話を聞いたが、星を滅ぼした、という。

だが、男だってある意味星どころではないものを滅ぼした。

それで此処にずっとずっと留まっていると言う事は。

どれだけ桁外れのものを滅ぼしたというのだろう。

「私の世界には、神が実在しました。 様々な行為の結果ですが、私はその神によって滅ぼされました」

「神が……」

「貴方の世界は違ったはずです。 司馬炎の世界と同じだったとしたら、神など存在しなかったでしょう。 或いは己の心の中や頭の中には存在したかも知れませんが」

「……その通りだ。 もしも神が存在していたのだったら、生まれ育った星を焼き尽くして資源を食い尽くし、それに飽き足らず宇宙規模で殺し合いを続けていた人間とか言うどうしようもない生物を、絶対に許しはしなかっただろう。 私の敵対国は北欧神話というものを信仰していたが、それでもその神々が何かをしたと言う話など聞いたことも無い」

頷く長老。

そして、静かに、ゆっくりと言う。

「神が実在しないことは、司馬炎も知っていました。 あの三ツ目の哀れな者も知っていた筈です。 ですが、それに向き合わなければならない……。 そして向き合えるほど、貴方の世界の人間達は強くなかった」

「……同意は出来る。 友人を作る思想の民主共和制を旗印に掲げていながら、結局絶対善と絶対悪を己の頭の中で設定して、それで自己完結している者が余りにも、余りにも多すぎた。 そんなもの、カルトと変わりはしないのに」

「貴方は其所まで理解出来る段階に来ているなら、幸いです。 神は存在しなかったことを認めるまで、貴方の世界にいた人間は、とてもとても長い時間を掛ける事がとても多かった。 最初から神などいないことを理解出来ている者は、そもそも此処には来ないでしょう」

そうか、そういうものなのか。

此処はそういう場所なのか。

俯いている男に。長老は、なおも言った。

「もう少し考えをまとめて、三ツ目の哀れなあの者と話してあげてください。 きっと、此処を去る手助けになる筈です」

無言で頷く。

長老はすっと立ち上がると、自宅に戻っていく。

子供とは思えない。

元は一体何者だったのか。

だが、はっきりしている事がある。長老と呼ばれるあの者は、本当に桁外れの災厄を引き起こし。

死んでから、やっとそれを自覚できたのだろう。

そして罪悪感と後悔から、此処にずっと留まっている。その秘めている闇は、男などとは比べものにならない筈だ。

言われた通り自宅で、ぼんやりとする。

少しずつ、ほんの少しずつだが。

頭が整理できてきた。

生きている間は、それさえ出来なかった。

精神をどんどん病んでいった。

そして、周囲の人間から、例外なく心配された。

今は違う。

多分この場所に住んでいる誰もがそうだが、精神を病む理由がないのだろう。精神の耐えられるキャパを超えたストレスが、何かしらの形で消えてしまっている。だから自分と向き合うことが出来る。

故に地獄であり。

地獄では無い。

良く言ったものだ。

更に言えば、何となく分かってくる。

男が生きていた世界には、此処はなかった。此処はきっと、何処か別の世界なのだろう。或いは、上位次元に存在するとか言う別の宇宙か。

それとも、空間の壁を隔てた先にあると言う他の宇宙か。

此処にすら、神が存在しているかは分からない。

ただ、長老が言う通り。

男が住んでいた世界には、神は存在しなかったのだろう。だからこそ、人間は宗教を捨て去ってなお。

疑似宗教を求め続けた。

三つに分かれた勢力の内。専制主義を奉じた勢力に至っては、残忍で好戦的だった北欧神話の神々をブラッシュアップして、絶対神とかに設定して再信仰まで開始した。

人間はクズだったのだ。

地球にいた頃も。宇宙に進出した後も。

大きな溜息が出る。

あの三ツ目の男は、きっと男と同じ世界の出身者。ずっとずっと過去の世界の存在だろう。

だったら、話を聞くことで。解き放てるかと思った。

あまりにも傲慢だったと思う。

所詮は三流の政治家に過ぎなかったのだ。話を聞くことは出来るかもしれないが。そもそも男の時代だって、宗教は厳然として存在していたのだから。それが実体を伴っていなかったしても。

どうすればいい。

それを考えるのが政治家の仕事では無いのか。

政治家のする事は、政にて国を治める事だ。

権力闘争をする事では無い。

政治屋ではなく、政治家であったという責任感を思い出せ。自分をやはり奮い立たせなければならない。

己は無能だった。

これはいい。

失策を犯した。

事実だ。

国を滅ぼした。

これも事実だ。受け止めなければならないことだ。

だがそれはそれとして。

政治家としての経験を積んだことは事実。そして、政治闘争では無く、政治を行おうと試みた。

政治屋として究極点にいた怪物とは別。政治家として、もはやどうしようも無いところまで凋落した国を立て直そうと苦労を続けた。

だったら、今度こそ。

一人で良いから救って見せろ。

国は救えなかった。

なら、政治家としての本分。国を政で治める最初の一歩。誰か一人を救うところからやって見せろ。

己に言い聞かせる。

勿論、それを体が聞いてくれるかは話が別だ。

ずっとずっと、孤独の中で苦しみ続けて来た。

疑心暗鬼の中、己を痛めつけ続けてきた。

それが男の人生だった。特に、誰もやりたがらない国家の最上層権力を渡されてからは、それが加速した。その加速した後の己の闇は、今でも深く深く心に根付いている。他人に接したことで、加速さえしている。

何度も大きなため息をつく。

すっかり壊れてしまった心は、今戻ろうとしている。

いや、恐らくは、だが。

愚かな、近視眼的な軍人達が来て。

自分の保身のために、男の前に現れたとき。心は、すっと正気に戻ったのかもしれない。最後の輝きが、今。心にまた平穏と、理性を取り戻してくれようとしている。

あの時、冷静になれた。

あの軍人達がどうなったかは分からないが、若き皇帝は絶対に許しはしなかっただろうと、冷静に分析だって出来る。

政治家としての能力が戻って来た証拠だ。利権を漁り、人間関係を調整する政治屋ではなく。政治家としての。

何度も心を練り上げて、練り直していく。

そして、顔を上げる。

一人でも救えなくて。

政治家と言えるか。そう、男は自分に言い聞かせていた。

 

3、誇り

 

権力はいつの時代も、人間の国家では腐敗と無縁にいられなかった。

国を政にて治める。

それが政治というものだ。

だが、いつの間にか、人々はどんどん勘違いしていく。政治とは、人間関係の調整であり。口が上手くて人当たりが良いものが出世していく。金を持っているものが、それをばらまく事で手下を増やしていく。

英明と呼ばれる政治家でも。年老いれば、やがて耳に甘い言葉ばかりを求めるようになっていく。

正論を口にしたら、嘲弄され、場合によっては殺されさえする。

それが人間という生物で。

権力とその腐った思想が結びついたとき、最大級の惨禍を引き起こすのは、多くの歴史的事実が証明してきた。

男の前にあの軍人達が姿を見せたとき。

軍人達のリーダーは、嬉しそうにしていたか。むしろ、恐怖で錯乱していたのではなかったか。

結局男を殺そうとしたのも、判断を間違ったから。

若き専制国家の皇帝のご機嫌を取ることで、命を拾えるかと思ったから。

たまに現れる英傑は、それら愚かな人間とは違う行動を取ることも出来る。自分にとって不快だろうが、有用な発言であれば受け入れる事が出来る。

だが、そんな人間も年老いる。

年老いれば衰えるのだ。

あらゆる試みを人間は繰り返して来た。そして、その全てが、男の時代まで上手く行かなかった。

未来に関してもそれは同じだろう。

あの偉大な若き皇帝だって、何百年も未来までの安定して平穏な、公平な国家など作れる訳がない。

歴史上何度か安定した国家を建設できた英明な政治家は存在したが。

それだって、末期は腐敗に満ちた。

国家は瓦解した。

数百年も人間の国家の面倒を見るのは不可能なのだ。千年に一度出るか出ないかの英傑でさえそう。

それほどに、人間は愚かなのである。

だからこそ、愚かなりに。

出来る事を一つでもしていきたい。

また、木の所で三ツ目の男と会った。軽く話をしたいというと、向こうは少しだけ躊躇った。

「其方も辛かろう」

「ああ。 だが思い出したのだ」

「何をだ」

「人の機嫌を取り。 相手が喜ぶ言葉を投げかけて。 自分の都合が良いように調整していく。 そんな輩は政治屋だ。 そんな輩が喜ばれる社会は腐りきっている。 私は、そんな社会を少しでも良くしようと政治家になった。 失策は多く犯したけれども、それでも最後まで政治家であったつもりだ」

言葉は通じているだろうか。

少し不安になったが、相手に意図は伝わった様子だ。

「この小さな小さな社会で、私は政治家としての経験を生かして、出来る事をしたいと思う。 それは改善だ。 残念ながら、このすぐに壊れて押し流されてしまう不思議な仕組みはどうにも出来ないだろう。 科学の知識を持っている訳でも無いし、技術の知識があるわけでもない。 だから、一人ずつの状態を、少しでも改善したい。 ……境遇が似ている相手なら、なおさらだ」

「私の話を聞くことが、そうだというのか」

「正確には、その話を理解して、対策を考えることがだ」

「……分かった。 私も、どうしようもない袋小路に入り込んでいた。 だから、話をしてみよう」

相手の家に招いて貰う。

小さな石造りの家で、とても手狭だった。だが、三ツ目の男はこれで満足しているようだった。

頭が少しずつ冴えてくる。

そして気付く。

ひょっとしてこの男、或いは成人では無くて、子供だったのではあるまいか。この精神性は少しおかしいが、それはこの場所が原因か。いや、或いは生まれ育った環境が原因ではないのか。

重い口を三ツ目の男が開く。

此処では労働も生活も必要ない。たまに維持のための果実を無理に食わされる。それ以外には何も無い。

だからこそ、己の虚無と向き合える。

「私は家族を死なせ、最終的には自分も死なせた。 私は、神の予言を聞く立場にいるものを管理し、そしてその予言を神聖とするためにソーマを口にしなければならなかった」

「……続けてくれ」

「私は知っていた。 私が生まれた場所が、どれほどの混沌にあったか。 誰もが好き勝手な神を奉じ、其所には何も無かった。 混沌を褒め称えるものもいるらしいが、あれは地獄以上の地獄だ。 人間はそもそも混沌で生きられるように出来ていない。 弱肉強食なんてのは大嘘だ。 適者生存こそが真理で、それには有能な者や強者だけが生き残る事は意味などしない。 だが、私が生きていた時代は混沌で、其所に秩序を作らなければならなかった」

口をつぐむ三ツ目の男。

それが如何に辛いことなのかは、男にはよく分かる。

何しろ、自分だって。

選択を誤り続ける過程で。

散々経験してきた事なのだから。

「やがて仕組みを持って来た者がいた。 それは多くの犠牲を払う仕組みだったが、それでも一応の秩序を作る事は出来た。 人々は無学で無知だった。 分かりやすい奇蹟が必要だった。 それこそ予言だった」

古い時代。

どこでもシャーマニズムや、それに近いものが信仰された。

巫女や神の代理人を名乗る者が預言を発し。

その通りに事を進めなければ災厄が起きるとした。

結果、秩序が生まれた。

原初の秩序は、決して亡くならず。

イケニエを求めるような原初の信仰が消え果てた後も、人々の心に根付いて、ずっと拘束し続けた。

一神教は男の世界では死んだ。

だが、宗教は死ななかったのだ。どれだけ殺そうとしても死ななかった。人間は結局の所、自分が見下せる相手がいて、都合良くすがれる相手がいなければ、どうにもならない無能生物だったからだ。

三ツ目の男の時代は、誰もが無学だった。

だから分かりやすい神の御技を見せるしかなかった。

それが例え、偽りのものであっても。

現実的に見て、教育が行き届かず、誰もが無学なところに民主共和制を持ち込んで、上手く行くだろうか。

その実例は、歴史上に無数に残っている。

人間の進歩は。

あまりにも遅すぎるのだ。

「全てを殺した私の後の時代の事は既に旅だった者から聞いた事がある。 私は、シヴァと呼ばれる神として祀り上げられたそうだ」

「……」

「何がシヴァか。 私はそんな名前では無い。 私は人間だった。 違う名前をちゃんと持っていた。 子供の首を刎ねて象のものとすり替えたりもしていないし、修行の邪魔をした相手を焼き殺しもしていない。 だが、実際の家族を……ソーマ漬けにして殺し、自らも……!」

ヒンズー教の三主神。創造神ブラフマー、破壊神シヴァ、維持神ヴィシュヌ。

実際には大まかにはそうだというだけで、それぞれの役割が被っているが。これは古代インドにて宗教が多数統合されていく中、多数の神格がこの三柱に統合され。そしてその中でも人気のあったシヴァとヴィシュヌが台頭していったからだと、歴史の授業で聞かされた事がある。

シヴァ本人は、話を聞く限り、紀元前の宗教家だったのだろう。

それも傀儡。

シヴァを傀儡に仕立て上げた連中は、最も悪い連中ではあったのだろうが。それでも、シヴァは妥協しなければならなかったのだ。

混沌を見たのだろう。

宗教が違えば、人間は簡単に相手を殺す。

どんな宗教でも、殺すな、奪うな、犯すなという基本的な決まりはある。希に例外はあるが、少なくとも同胞には絶対にこれをするなと言う決まりがある。

だが、違う宗教の相手には、むしろこれら三つの悪は推奨さえされる。

殺戮の限りを尽くす人々に秩序をもたらすためには。

誰かが人柱にならなければならなかった。

そしてシヴァだったものは家族を人柱にし巫女か何かの役割を果たすような存在に祀り上げ。

自分も犠牲にした。

それが神格化され。

破壊を司る雄々しい戦神シヴァとして、後世信仰されたという訳か。

なんと業が深い。

頭を振る。

感情は殆ど薄れてしまっているが。それでも素面の時に聞いていたら、涙が流れていたかも知れない。

シヴァだったものは家族を愛していたし。

きっと、まっとうな人生を送りたいとも思っていたはずだ。

だが、シヴァだったものが選んだ人生を男は止められなかっただろう。なぜなら、混沌を知っているからだ。

未来の世界でも、混沌が産み出す地獄は、色々な宗教が恐ろしげに語る地獄など、軽く凌駕していた。

きっとだが。

色々な宗教に出てくる地獄と言う概念は。

混沌の時代を生き延びた人が、それらを書き残したものが、宗教的に伝わったものではないのか。

そうとさえ、思えてくる。

君の死は無駄では無かった。そんな言葉は無意味だ。

出来る事をやったではないか。

その言葉も無意味だ。

大きく嘆息すると。男は告げた。

「時代こそ違えど、君は私の同類だな。 結局の所、己の全てを破滅させてしまった」

「……だから気があったのかも知れぬな」

「ああ。 民主共和制は、万能の思想でも何でも無い。 だが唯一優れているのは、凡人のためのもので、対等の友人を作るための思想だと言う事だ。 それが実現できていたかは話が別だが」

手をさしのべる。

男は、シヴァだったものを、認めたい。

その苦労は、自分が嫌になるほど知っているからである。

廻りにはクズばかり寄ってきた。

本当に頼りにしなければならない者は疑ってしまった。

ましてや薬物によって行われる神事に関わっていたのだとすれば。精神も晩年は蝕んでいただろう。

いや、そもそも。

永く生きられたかどうかすらも分からない。

意図を察したのか。

シヴァは手をとる。

最初はおそるおそる。

だが、しっかりと。

「私は貴方の努力が尊いものだったと認める。 秩序を少しでも作る事に成功したのであれば、それはきっとぐっと尊い事だった筈だ。 事実インドの文明は、0という偉大な発明をし、そして地球の人類史の中盤までは大いなる文化圏として栄えたではないか」

「……そうか。 私は、許されるのか」

「許されはしない。 だが、私は認めよう」

「そうか。 認められるのか」

すっと、静かになった。

そして、三ツ目の男の額にあった第三の目が。静かに閉じ。そして、溶けるように消えていった。

「まだ、私はシヴァとしての己を認められない。 私は家族を殺した外道で、自分自身を自業自得の破滅に追い込んだクズだ。 秩序のためだったとは言え、一番大事なものを投げ捨ててしまった存在だ」

「……私は、一番大事なものすら見失ってしまったよ」

「貴殿の名前はずっと覚えておこう。 認めてくれて有難う。 やっと、ずっと砕けていた心が、少しずつ集まり始めた気がする。 これだけでどうにかなるほど簡単な壊れ方をした心では無いが……きっとこれなら、後は自分でどうにか出来る筈だ」

頷くと、家を後にする。

何かをなせただろうか。

この小さな集落では、そもそも長老というもっと優れた統治者がいる。集落規模からいって、そもそも補佐もいらない。

皆が納得しているところに権力構造を複雑化させても、混乱を招くだけ。

だから男には、政治家としてはこれくらいの事しか出来ない。

そして、それで良いのだ。

後は、少しでも良い結果がもたらされれば。

それで、思い残すことは無い。

政治家であった。

その誇りをもし取り戻せるとしたら。他の者とも、少しでも話して。助けになれたら、だろうか。

翌日、三ツ目だったシヴァに食事時に出会う。

少しだけ、シヴァは雰囲気が柔らかくなっていた。

「気分が楽になったようで何よりだ」

「……まだ私は自分を許せた訳では無い。 それにしても無節操に信仰を混ぜ合わせた結果、どうしてあのような姿に私は解釈されてしまったのだろう」

「そういうものだ。 私の時代にも、世界を逆行させた最悪の専制君主をねじ曲げて、神格化して崇拝する者がいた。 奴の経歴をよその世界に流したら、きっと同じように神格化して自分の好きなように解釈して崇拝する者が出てくるだろう。 人間とはそういうものだと思って諦めるしかない」

「其方も少し考えが柔軟になったようだな。 政治家というのは、そうでなければつとまらぬのだろうか」

苦笑すると、その場を離れる。

他の者とも会話が増えた。

それぞれ、多くの問題を抱えている事が分かった。小さな集落だ。少しでも、出来る事はしたい。

ただ此処では、する事がない。

何も無い状態から、そこそこ優れた機械を作った過去の住人もいたらしい。

だがそれも、人が旅立ち新人が来る度に訪れる災厄で、全て押し流されてしまい、残っていない。

此処では新しくものを作る事が無駄なのだ。

此処でやるべきは、己の心残りを処理すること。納得する事。それは、男も良く理解した。

大体全員と、良い関係が築けるまで、一年ほど掛かった。

ただし、相手の機嫌を伺って良い関係を作ったのでは無い。

相手の話を聞き。

相手の問題を解決して、関係を改善していったのだ。

それだけは断じて言う。決して相手の機嫌を伺い続けて、自分に都合が良い関係構築だけをしたのではない。

政治屋になったつもりはない。

この集落での権力を欲しているわけでもない。

ただ、此処を良くしたい。

それだけが、目的だ。

出来なかった事を為す。

例えそれが、どれだけ小さな世界であろうとも。それが、男の願い。男には、出来なかった事。

今、それを少しずつでも出来てきている。

だから、少しずつ。

沈み、闇に墜ちていた心が。

戻り始めていた。

 

長老が家に来る。そして、話をされた。

「そろそろ、一人旅だとうとしています」

「そうなると、新しい者が」

「そうなります」

「……此処は地獄のようで地獄では無いとしても。 ここに来る者は絶えないのだろうか」

首を横に振られ。

そして、男は大きく嘆息した。

分かっている。絶えるはずがない。

此処にいる者は、皆何処かで見たような境遇のものばかりだ。規模の大小はあれど、それは同じである。

人生に納得出来た者は、一体どれだけいるのだろう。

はっきりいって、納得出来て死ねた者の方が少ないのではあるまいか。

そして人生を送れば、必ず他の者に何かしらの災厄をもたらす。

他にも此処と酷似した場所はあって。

たくさん閉鎖された集落はあって。

何をしても無駄なのだろう。

納得するまで幽閉される小さな檻。それは、なんというか。刑務所か何かに近いのだなと、男は思った。

唯一違うのは、刑務官がいないことだけれども。

それは此処の「法則」そのものが刑務官の代わりになっているのだろう。

実際問題、あらゆる人間としての本能がそぎ落とされた現在の状況は、檻に入れられているのと同じ。

とはいっても、だからこそ誰も。

誰も傷つけなくて済む。

少なくとも、物理的には。

「長老である私でさえ、外がどうなっているのかは分からないのです。 そして恐らくは此処と同じような場所がたくさんあるだろうという事しか分かりません」

「……それもそうなのだろう。 それで、誰が去るのだろう」

長老はシヴァの名を上げた。

そうか、と男は頷く。

やっと楽になれるのか。だとしたら、男は手を振ってやらなければならないだろう。そして、やっと。やっとだ。

男は、政治家として、一つ事を成せた。

何も生きている間は出来なかったのだ。死んでから事を成せたというのもおかしな話だが。

程なく、長老は家を出ていき。

そして、皆が家から出てくる。

シヴァに、別れの挨拶を告げる。決まって、次の日の最初に災害が起き。それが収まると、入れ替わりが起きていると言う。

だが、皆気にする様子は無い。

此処では誰かが物理的な被害を受けることもない。

攻撃衝動も抑制されてしまう。

長老によると、百年も何も話せなかった者もいる、という話である。

それくらい傷ついた者も、此処に流れてくると言う事だ。

祝いと祝福の言葉を長老から受けて、シヴァに後世された者は、静かに頷いていた。

もう額の目は存在せず。

そして、表情も静かだった。

最後に、男の所にシヴァが来る。

「ソーマは二度と飲みたくないが、「酒」は軽く飲んでおきたい所だ。 その願いがかなう事は無いが」

「此処は「健全」過ぎるからな」

「全くだ」

からからと笑いあう。

シヴァは、それから黙り込み。そして言う。

「すっと、これで此処を抜けられると言う事が分かったのだ。 恐らく、この世界の仕組みなのだと思う」

「全ては歯車の上か。 人間の意思が介在する余地はないのだな」

「いや、貴方のおかげで私は此処を去ることが出来る。 それは間違いの無い事実だ」

「……」

そうか。

やはり、男は為すべき事を成せたのか。

そして、ぽつりぽつりと、言われた。

「私はそもそも男でも女でも無かった」

「!」

「私の時代には両性具有という体質が神聖視される事があって、私はそれで要職に祀り上げられたのだ。 私を出したことで、家族全員が秩序の贄になった」

それは、つらかっただろう。

そして、家族を順番に贄にしていったのだとすれば。

苦しかっただろう。

「私は十まで生きられなかった。 此処にいる期間の方が、ずっとずっと長いくらいだ」

「それは災難だったな。 もしも、「次」があるのなら……その時はマシであることを祈るしかない」

「そうだな。 次はソーマも贄も必要がない世界が良い。 あんな混沌の中で、原初の秩序のために多くの犠牲をはらう世界はいやだ。 後の時代の者達から、世界は弱肉強食だとか聞かされて、本当に私は泣きたくなった。 泣くことさえ出来なかったがな。 お前は人間が如何に愚かで、本当の弱肉強食というものがどれだけ残忍で身勝手なものなのか知らないだけだと、何度も叫びたくなった。 出来なかったがな」

今は話を聞く。

シヴァはそれで納得したのだ。

だから、納得した話を聞く。

「私は人柱になったが、それでいい。 私の犠牲が、少しでも秩序になり、そして私の伝承が、多少なりと秩序を作ったのならもうそれでいい。 後は家族に謝りたいが、それだけはどうにもならない。 もしも別の場所に行った時には、家族に謝りたい」

「……そうするといい」

「ああ。 有難う。 おかげで私は旅立てる」

深々と頭を下げられる。

そして、別れた。

シヴァは、これで会うのが最後だ。

もう、この世界からはいなくなる。

いずれ男もいなくなる。

だが、まだ政治家として振る舞えたかどうかは、自信は無い。それでも、為す事は出来たのだと、自分に言い聞かせた。

そうでなければ。

納得した、シヴァに失礼だから。

男は何度もため息をついた。夜が更けていく。眠る必要がないのだから、そのままでいればいい。

ぼんやりとしている内に、不意に明るくなる。

どうやら、災厄とやらが来るらしい。

何が来るのだろう。

興味を覚える。

男が信じられなかった最高の。恐らく若き金髪の征服者をもしのぐ宇宙最高の用兵家は、廻りに皮肉屋ばかり集めていた。

皮肉屋に慕われる何かがあったのだろう。

そいつらだったら、どんな風に此処を称しただろう。

本物の地獄と呼んだだろうか。何人かは、こんな世界にいたら絶対に発狂するといいそうだ。そういうのが何人かいたのを思い出す。

男は、それも間違いないなと思い苦笑しながら、家を出る。

凄まじい光を放ちながら、何かが墜ちてくる。

ああ、なるほど。確かに災厄だ。

見覚えがある。

男の世界では、星間文明だけあって、質量兵器が使われることがあった。

核兵器は宇宙空間での使用以外禁止されていたが。

それでも強力な質量兵器として、隕石を活用する事はあり。その実際の兵器としての威力も、使用映像で見た事があった。人間の戦争で使って良い兵器ではないが。長い間戦争が続いて倫理が失われると、人間は容易く禁忌に手を出す。そういうものである事を、男は身に染みて知っていた。

これは前の水害どころでは無い。

目を細めて、音速の数十倍で襲い来る岩隗を見やる。勿論岩隗だとは一目では分からない。資料で見て知っていたから、分かるだけだ。

光がせまり。

そして全てが消し飛ばされていた。

前は、死んだときに、やっと誇りを取り戻すことが出来た。

今回も、此処での不可思議な死と再生の過程で、やっと少しだけ、光を見ることが出来た気がする。

勿論人生には納得出来なかった。

何一つなせなかったからだ。

誇りだって、一瞬だけ取り戻せただけで。本当にあのままでいたら、誇りを維持できたかはわからない。

しかし、今は。

恐らくは、男がいた世界の宇宙戦艦ですら崩壊させる凄まじい熱と光が直撃し。原子レベルで融解していく中で。

男は、満足して微笑み続けていた。

 

4、なすべきを為し

 

綺麗に消し飛んだものだな。

そう思って、男は周囲を見た。

木がにょきにょきと再生していく。皆も、消し飛んだ後は服も含めて綺麗に再生していく。

その過程は色々とグロテスクでさえあったけれど。しかしながら、本当に死ぬ事さえないのだなと思う。

皆が再生したところで、笑顔で長老が手を叩く。

男も、他と同じように、長老を見ていた。

「さあ、去った者に敬意を。 そして新しく来たものに歓迎を。 今回は綺麗に何もかも無くなってしまいましたね。 最初から、一つずつ作っていきましょう」

「おお」

てきぱきと、指示が出される。

男は言われた通りに、何人かと組んで出向く。

家を作るための石材が必要だ。

棒が彼方此方に墜ちているので、拾っていく。これも指示されたとおりである。

てこところの原理を用いて、岩を運んでいく。

岩を砕くのも、やり方がある。

此処では暴力は使えない。

皆に対して同じ事は出来ないが。命無き岩に対してなら、破壊という事が可能なのである。

なお破壊を行う事で相手を脅迫することも出来ない様子だ。

まあ此処の仕組みを考えれば、当然とも言えるか。

一つずつ、石材を運んでいく。汗水垂らす事になるのだろうが。何も疲れを覚えることはなかった。

淡々と原始的な作業にいそしむ。

新しく来たものは、男よりもかなり年上の、老人に見えた。

こんな所に自分が来る筈は無い。

もっと酷い地獄に落ちるべきだったんだと訴えていたが。長老が静かに諭す事で、やがて落ち着いて行った。

恐らく長老は、ああいう錯乱した者を落ち着かせる事になれているのだろう。それはそうか。

男とは、此処にいる年季が違うのだから。

石材が揃った所で、長老がまた指示を出してくれる。頷くと、順番にそれぞれの家を作っていく。

新しく来た老人は、しばらく呆けていたが。

それを咎める者はいない。

別に時間はいくらでもある。

家はあくまでパーソナルスペースとして作るものであって。自分だって、ここに来たときはあんな風だった者もいるのだろう。

比較的新参に当たる男は、此処ではまだまだひよっこ。

こんな破滅を何度も体験して、その度に一からこの原始的集落を作り直していれば、それは慣れるというものだ。

やがて、元々は真面目だったのだろうか。

老人が、手伝うと言いだし。

そして、頷いた長老が指示を出す。てこところを使って、原始的な方法で石材や木材を動かし、くみ上げていくのを見て、老人はため息をついた。

「原始時代か」

「文句を言わない。 私も星間文明から来たものだが、此処での生活についてはある程度諦めるしかない」

「星間文明。 どのくらいの規模だ」

「天の河銀河……と言っても分かるかは微妙だが、その何割かに拡がる人類社会の、三つに分かれた勢力の一つだ」

少し驚いたようで、老人は黙り込んでいたが。

やがて、言われた通りに作業を始める。

やはり一月ほど掛かって、村が復興される。

木だけは一瞬で直るのだから。

家も直してほしいと思うのだけれど。

それは此処を作った何者かが、決めた守り事なのだろう。

時々手を握ったり開いたり老人はしている。体が馴染んでいないのだろう。名前を聞いてみると、発音さえよく分からなかった。

天の河銀河は知っている様子だったから。

或いは別世界の、別の発展を遂げた人類文明の、未来の存在なのかも知れない。

なお男も名乗ったが。

変わった名前だな、と言われた。

この老人も、元の姿は違ったのだろう。一月の復旧作業の間に、老人は色々と不都合が多いと嘆いていた。

シヴァがそもそも元は子供だったように。

この老人も若者だったり、或いは性別さえ違ったのかも知れない。

実際男は、長老が元々は女の子ではない事を知っている。

というか、そもそも性別が違うどころではないくらい、違う存在だったのかも知れない。

老人とも話して、少しずつ聞いていく。

やはり、まったくルールが違う世界から来たらしい。

そして老人は、とても己の行った事を後悔していた。

もっと酷い地獄で、酷い苛めを受けるべきだと、何度も呟いていた。だから、男は静かに諭した。

「すぐに此処が如何に酷い場所かは分かる。 此処は牢獄と同じで、何も物理的に痛めつけるだけが苛めでは無い」

「しかし私は……」

「良いのだ。 今は静かに、此処で生活だけをするといい」

長老は見ているだけで介入しない。

男が、仕事をしているのだと理解し。それが納得につながるのだと、理解してくれているのだろう。

それはとても嬉しい事だ。

長老が、どれだけ深い罪を犯したのかは分からない。

此処にとてつもない時間いて。

他の者とは桁外れの長い時、収監されていることも分かっている。本人は最後の最後にやっと後悔し、納得出来ないと思ったのだろうか。

それとも、最初から最後まで後悔ばかりだったのだろうか。

ともかく、今は。

此処で出来る事を、もっとやっていく。

やっと、一人だけ救えたのだ。勿論全て男が救ったわけでは無い。だけれども、政治家として、ささやかな成果を残せたのだ。

民主共和制は、決して完全な政治制度では無い。

最も進んでいるという自負はあるけれども。本来人間は、未完成すぎる生き物で。誰かが人間としての進歩を模索するべきでは無かったのかと今では思う。

敵対していた、超反動保守的な専制国家。あの金髪の征服者が内側から滅ぼした帝政国家は。

民主共和制が自ら産み出してしまった、歴史の怪物だった。

あれがなければ、とも昔は思った事があったが。

今は認識が違う。

あんなものは関係無い。民主共和制の政体が続いていても、結局ありのままでは人類は駄目だっただろうというのが、今の男の結論だ。

だからこそに。

今は、出来る事を出来る範囲で行う。

新人である老人の話を一つずつ聞いていく。

老人は苦しんでいるのが分かっていた。だから、話を聞くのは、とても大事だと言う事も分かっていた。

此処では政を治める事はできない。

だがそもそも政を治めるというのは、全体を改善していくことを意味している。

それが出来ない国家は破綻する。

この小さな集落でも、大筋では同じ。

だからこそに。

男は、この小さな集落で、己の出来る範囲で。例え物理的に何一つ良くなることはないとしても。

少なくとも、精神的には良くなるように。

政治家として、働きたいのだ。

やがて、老人は根気強く話していくと。少しずつ話してくれるようになっていった。

全く違う政体。

全く違うあり方。

そんな中でも、老人は必死に「最善」を模索し。その結果、失敗してしまった。そして多くの者を死なせてしまった。

後悔だけの人生で。そして、生前はフラッシュバックにずっと襲われ続けていたという。眠る事さえロクに出来なかったそうだ。

それは辛かっただろう。

心底からの同情を告げると、老人は俯く。

これは受け入れなければならない罪で。自分は苦しみ続けなければならないのだと。

貴方は今、苦しみ続けていて。

それはずっと長く続く。

だから、何を具体的にして。

そして、その結果どうなったのか。

本当に何一つ得られるものはなく。罪人としてだけ、過ごすことになったのか。誰かを少しでも救えなかったのか。

少しずつ、そんな話をしていく。

やがて、老人は少しずつ立ち直っていき。

そうこうしているうちに、また別の者が「上がり」を迎えた。

また別の災厄が来る。

立て直す。

そして、男の番が来た。

 

長老が来る。

既に男は新参ではなくなっていた。七人が既に「上がり」を向かえ。皆、男に感謝して去って行った。

長老は静かに言う。

「納得は出来ましたか?」

「正直な所、実感は無い。 だけれども、生きているときに比べれば、私はずっと政治家をやれたと思う。 100億を超える人を導いていた生きていた時に比べて、こんな小さな集落で、本来の意味での政治をしている訳でも無いのに、だ」

「……そうですね。 確かに此処は小さな集落です。 しかし、決定的に違ったものがあるのではないでしょうか?」

「聞かせていただきたい」

男は長老を、既にただの女の子だとは思っていない。

当たり前の話である。

的確に新人に対して、基礎的な説明を済ませ。復旧の手腕もいつも見事だ。恐らくだけれども。

男がいたのよりも、もっとずっとずっと大きな星間国家の指導者だったのではあるまいか。

ただ、過去については話してくれない。

きっと、長老も相当に。いや、男以上に凄まじい生を送ってきたのだろう事は、疑いが無かった。

だから、敬意を払う。

それも最大限の、である。

「貴方は失敗に学びました」

「……出来れば生きている間に学びたかった」

「貴方の世界の出身者に聞いた事があります。 バカは死んでも直らない。 そういう言葉があるそうですね」

「あります」

今になって考えてみると酷い話だ。

それは要するに、自分がバカと見なした相手の全て。人権から命に至るまで、全てを否定して良いと言う傲慢極まりない言葉だ。

これを吐く輩は何様なのか。

そもそも死んだ事があるのか。

いずれにしても、今なら断言できる。そのような発言をする者こそ、この世から排除するべき存在だと。

「貴方はそれが違う事を証明した。 そして此処では、長い時間を掛けて、自分の失敗に対して納得していくのです。 納得が出来たのなら、貴方は此処を去る。 そして、その先がどうなるのかは、私にも分かりません」

「また新しい地獄に行くのだろうか」

「……」

長老が首を横に振る。

頷くと、ありがとうと、感謝の言葉を述べた。

長老が家を出る。

この家は、最初に来てから、まず建て。それから七回壊れた。その度に全て最初から作り直した。

男がいた国家は、信じられない距離を踏破した者達が、殆ど一から作り上げたものだったが。

こんな感じの苦労を、皆がこなしたのだろうか。

そう考えると、感慨が深い。

そして、偉大な開祖達だって。皆が有能だったわけでは無い。男のように無能な者だっていたはずだ。

無能だった。

それを今は受け入れている。

器では無かった。

それも理解出来ている。

だが、その範囲内で、やれることはやった。だからもう、これ以上は不要だ。満足している。

これが納得すると言う事か。もっと早く。生きている間に納得出来ていれば。きっと、宇宙最強の用兵家に軍事の全権を一任して。好きに動いてもらう事が出来た。そうなれば。或いは、好機はあったかも知れない。

疑うべきではない者を疑い。

信じるべきでは無いものを信じた。

失敗したのだと、今は全て認めることが出来ていた。

それから、皆と同じように送って貰い。そして、眠っている間に、何となくふわりと体が浮くような感触を覚えた。

きっとこれが、終わりだ。

そして新しい始まりでもある。

その先には何があるのだろう。無でもかまわない。何しろ、やらかしたことがやらかしたことなのだから。

納得した末の事だ。

後悔など、一つも無い。

気がつくと、光の中にいた。どうやら、これが新しい場所らしい。手を伸ばす。多分、何処かに生まれ変わったのだろう。

記憶が薄れていく。

だけれども、満足である。

今度は失敗しない。

その強い意思だけが。

男の中にあった。

 

(続)