石の殿様、嘘解説

 

石の殿様は、長崎県に伝わる民話で、戦国時代末期から江戸時代に掛けて広まりはじめたものだと言われています。

 

豪傑的存在が思いあがりから地獄に落ち、責め苦を受けながらやがて改心して、救国の英雄となっていく。一見すると、世にある改心談と似通っているように思えますが、近年この作品には、ある作為的な目的があったことが分かってきました。

この作品は複数の類例がありますが、主人公である与助(よすけ、与介など)には、ある一つの共通点がある事が知られています。

それが、異常な酒好き、という事です。

この件は何かの出来事を示唆しているのでは無いかと言われていましたが、近年その説を裏付ける証拠が発見されました。

近年、長崎のある旧家から、見つかった手紙がそれです。内容は佐賀藩の開祖となった鍋島直茂が、家臣達に当てたものです。

 

これは、驚くべき発見となって、民俗学会を揺るがしました。

その手紙は、いわゆるプロパガンダを指示するものだったのです。

 

佐賀藩は、非常にきな臭い背景を持つ藩でした。かって九州北部に覇を唱えた龍造寺氏が、沖田畷の戦い(1584年)で壊滅的な打撃を受け、主家の権威が失墜。家老であった鍋島家が、実権を掌握。やがて内部の乗っ取りを成功させ、九州の有力大名として幕末にまで続いていくこととなります。

この一連の騒ぎはいわゆる鍋島化け猫騒動と呼ばれる怪談の舞台にもなり、大きな歴史的な事件となって今でも長崎の歴史に大きな影を落としていますが。その主人公とも言える鍋島直茂も、クーデターの後処理に頭を悩ませていたことが知られています。

そこで彼が考え出したのが、プロパガンダによる民心の掌握でした。この手紙は、その一つであると推察されています。

更に、幾つかの傍証が発見されたことで、以下のような事情が浮かび上がってきたのです。

 

沖田畷の戦いで戦死した龍造寺隆信は、若い頃は名君でしたが、晩年は酒に溺れ、民を虐げ、家臣を惨殺した暴君へと変わり果ててしまいました。

この龍造寺隆信こそが、与助のモデルとなった人物です。

酒により狂気まで発していたと言われており、幼い人質を磔にするなどの奇行が目だったため、内外で怖れられている人物でありました。

通称、荒熊。

それは猛将として怖れられる呼ばれではなく。明らかに、ヒトの形をした災厄を称する言葉でありました。

そして、その後が重要なのですが。

性根を入れ替えて生まれ変わった与助というのは。恐らくは、龍造寺隆信の圧政を脱した、佐賀藩そのもののことでありましょう。

事実佐賀藩は鎖国政策の要所とも言える長崎の警備を任された重要な藩であり、幕末には巨大な軍事力を保持して、科学技術の発展も他より早かった事が知られています。

龍造寺の支配を脱して、鍋島に代わり、こんなに佐賀は良くなった。

それが、この物語にある、背景としての主張だったのでしょう。

 

龍造寺隆信は、決して暴君なだけの人物ではなかった事が知られています。

しかし、その晩年は、酒という鬼にとりつかれた、病んだ存在でした。

奸雄として知られる鍋島直茂ですが。主君の存命中は、そんな主君を良く支えていたことが知られています。

ひょっとすると、ですが。

この物語を見たとき、鍋島直茂は、主君が改心してくれていればと。涙にぬれたのかも知れませんね。