ダウトライフ

 

序、車が何処までも

 

せっかく車を買ったのに。

これでは何の意味もない。

私は高速道路に乗ってから、それを思い知らされていた。

可愛い軽自動車は、パステルブルー。親が貸してくれていた中古ではなくて、こつこつお給金を貯めて買った車なのだ。

だから愛着もある。

免許を取るのが、とても大変だったという事もあるだろう。車には名前を付けて、とてもかわいがっていた。

しかし、車は所詮車。

家の近くを乗り回す分には、小回りが利いて良い感じ。

しかし、高速道路に乗ってちょっと遠出をしてみれば、現実を思い知らされる。まるで動きもしない大渋滞に巻き込まれて、うんざり。運転中には、音楽もラジオも流さない性格だから、ただ無言で、前が動くのを待つしかない。

苛立ちばかりが募ってくる。

ソフトキャンディを取り出して噛む。

しばらく無言で噛んでいると、ようやく渋滞が動き出した。この様子だと、事故でもあったのかも知れない。

いっそのこと、近くの料金所で降りるのも手か。一般道を行くと時間はそれなりに掛かるけれど、此方にはカーナビもある。その気になれば、家に辿り着くことは出来る筈だ。幸い今日は土曜日なので、多少遅くなっても、会社に出られなくなる畏れはない。いくら何でも、隣の県から戻るのに、翌日になっても無理と言う事はないだろう。

だらだら運転に苛立ちが募って、時々口の中で悪態をつく。

ふと気付く。

いつの間にか、前にいる車が変わっている。

さっきまでは、極めて悪趣味な大型のアメ車だったのだけれど。今は、同じような軽自動車になっていた。

車の銘柄なんかよく分からないから、何だか知らないけれど。ちょっと黒っぽい、独特の色だ。

ナンバーを見る限り、埼玉から来ているらしいのだけれど。そうなると、首都高の向こうに住んでいるのか。

今いる此処は東名高速。しかも厚木インターの少し先。

面倒くさいから、この辺りで降りてしまうか。住んでいるのは東京の端っこだし、神奈川を抜けることくらいは、それほど時間も掛からないだろう。

インターまでだらだら行くと。

前の車が、降りるのが見えた。彼奴も、どうやら同じ事を考えたらしい。ただ、東京を抜けて埼玉まで行くとなると、骨だろう。或いは、中古車なのだろうか。

ウィンカーを出して、高速とは名ばかりの、鈍足道路から降りる。こんな速度で動かすくせに、金だけは取るのだから腹立たしい。

カーナビを起動して、自宅までの経路を出す。

四時間半と出た。

まあ、このくらいなら許容範囲だ。高速を使わない設定にしているから、まあこんな所だろう。

家に着く頃は夜半だが、どうせカレシもいないし、近所は治安も悪くない。

後は事故にさえ気をつければ、むしろ夜中の路だ。スムーズに行く事が出来るはず。

しかし、その考えも甘かった。

国道に出た途端、またしても渋滞に巻き込まれたのである。そしていつの間にか、前にいる車も変わっていた。

可愛い軽自動車から。

チンピラが乗ってそうな、威圧的な4WDに。

今回もか。私の前では、こういう現象が、たびたび起こる。何かしらの判断をミスしたとき、不意に違和感が混ざり込んでくるのだ。

だいたいの場合は利用する事の方が多いし、むしろ慣れっこなのだけれど。

今回は渋滞に巻き込まれていると言うこともあって、苛立ちを加速してならなかった。

だらだら国道を行く。

東京に入ったのが、夜半過ぎ。

其処でもまだ渋滞は続いていたけれど。流石に神様も嫌がらせに飽きたのか、家の近くの道路にまで出ると、渋滞も終わった。

空が白みはじめている。

ちょっとした用事で出かけたはずだったのに。貴重な土曜日が、全部終わってしまった。何だか悲しいけれど、判断を色々ミスした自分の責任だ。高速道路は、結局どうなったのだろう。

家の駐車スペースに、車を滑り込ませる。

どっと眠気が着た。目を擦りながら、車を出る。東京には珍しい一軒家だけれど、親から受け継いだものだから、別に偉くも何ともない。

家の中に入ると、PCを立ち上げて、渋滞の様子を見る。

舌打ちしたのは、とっくに解消していたから。判断をミスしなければ、三時間は早く家に着いていたかも知れない。

そう思うと、何かに苛立ちをぶつけたくなるけれど。そんな事をしても、むなしくなるだけだから止めた。

カップラーメンを食べると、シャワーを浴びて、寝ることにする。

日曜日も台無しになってしまったのは、今更に気付いた。これでは、出かけるどころではないだろう。

それどころか、夜の睡眠時間を確保できるかさえ怪しい。

一応十時くらいを目処に目覚ましを掛けておくが、起きられるかどうか。疲れが溜まっているときは、無意識に目覚ましを止めてしまう事も多いのだ。

スマホを充電器につなぐと、ベッドに倒れ込む。

そうなると、意識は数分も保たなかった。

 

案の定。

起きてみると、既に夕方。

目覚まし時計は、無意識に止めてしまっていた。頭を振って、寝台から起き出す。日曜日も、綺麗に潰れてしまった。

一応社会人をしているから、明日からは仕事だ。

台所に立つと、あくびをかみ殺しながら、食事の準備を始める。夜中には眠るとして、食事をしておかないと、体へのダメージが大きいからだ。

ふとゴミ箱を見る。

また、違和感があった。内容がわからなかったけれど。小松菜をきざんでいる内に、理解する。

食べたカップラーメンの銘柄が変わっている。

確か朝食べたのは、最も安い小型のパックタイプだったのに。今ゴミ箱に放り込まれているのは。

何処ぞのお店の味を再現したと歌っている、豚骨味の豪華なタイプだ。

ため息が漏れる。

昔から、よくあることなのだ。

子供の頃は、おかしいと親に訴えかけたこともあったけれど。話半分にしか聞いて貰えなかった。他の大人にも話したけれど、相手にされなかった。友人の中には話を聞いてくれる人もいたけれど。

だいたいは、内心で笑っているだけだった。

更に、決定的な事件も起きた。

だから、いつしか言わなくなった。

嘘つきと言われるのは、本当に口惜しかったからだ。嘘などついていないのに。小学校の頃は、ずっと嘘つき呼ばわりされて、イジメのターゲットにもなった。テストではそこそこ良い点も取っていたけれど、カンニングをしたのではないかと、教師にまで言われた。他の生徒達も、皆カンニング女と、私を呼んだ。

中学になってからは、周りに異変を隠す知恵がついたから、嘘つきという噂は流れなくなったけれど。ただし、噂が流れなくなっただけ。私の事は、周りはいつも悪く言っていたようだ。

そのせいか、何時からだろう。

周りの人間を、誰も信用しない癖が身についていた。

手早く味噌汁を造り、出来合いの肉料理と一緒に食べる。

ささやかな夕食だけれど。

料理だけはそこそこに出来るのが自慢だ。もっとも今のご時世、結婚相談所に登録しても、なかなか相手には巡り会えないが。

溜まった作業を片付けていると、もう夜中に。

休日が丸ごと潰れてしまった事を神に恨みながら、寝台に潜り込む。もう、何も出来ることは、なかった。

 

1、嘘つきOL

 

新人の内から聞かされていたことなのだけれど。

あの人は、嘘つきだと言う。

あの人というのは、具体的にはこの商社でベテランのOLをしている間和子さん。私の四歳上で、すでにOLとしてはベテランに属する人だ。仕事は良く出来るし、見かけはそこそこ綺麗。背丈は中肉中背で、相応にまともな人なのだけれど。

影では、嘘つき女だという噂が絶えなかった。

私自身は何とも思っていないのだけれど。

時々、変なことを言うらしいのだ。

あくまで時々、だが。

それに、見かけも悪くないのに、男女交際の噂も殆ど流れてこないという。中規模の商社だから、女性社員はそこそこにいて、その中でもかなりの綺麗系。男子社員からはもてるはずなのに、浮いた噂は一切ない。

その辺りも、嘘つきという噂を、加速しているようだった。

コピー取りとお茶くみしか殆ど仕事がない私と違って、間先輩はバリバリに男子社員と混ざって仕事をしているやり手だ。それならなおさらに、男子社員からは受けが良いと思うのだけれど。

お茶をもっていくと、間先輩はキーボードをカタカタ叩き続けていた。

殆どブラインドタッチで、凄い速度で打ち込みをこなしている。この会社では癖が多い独自ツールを使っているのだけれど。それも見越した上で、作業を進めているのだからもの凄い。

「どうぞ、お茶です」

「置いといて」

「はい」

相変わらず無愛想だ。仕事さえこなせば良い。そういった態度も、間先輩の悪評を加速しているのだろうか。

確かにこの人は綺麗なのに。

笑っているところを、殆ど見た事はない。

そういえば、間先輩は殆ど残業をしない。作業をきちんと片付けて、定時で帰っていくのだ。作業効率が非常に高いのは側から見ていてわかる。その上、ミスも極めて少ないのである。

ならば会社からみて至れり尽くせりのように思えるのだけれど。

何故か、それについては評判が悪い。

残業をせず帰るというのが、会社に貢献していないと取られているようだった。なんだかよく分からない話だが。

結局の所、間先輩はよく分からない所で、損をしているように思える。

チャイムが鳴る。昼休みを告げるものだ。

職場のライトが消され、めいめいが仕事に出て行く。間先輩は腕組みしてなにやら考えているようだったけれど。

しばらくして席を立つと、ロッカーに向かった。

お弁当を作ってもってきているのだ。

私はお弁当なんて作る体力も気力もないので、基本はコンビニで何か出来合いを買ってきている。

カレシもいないのに、お弁当なんて。

そんな陰口も、あるようだった。

何だかわからないけれど。間先輩は誰からもいろいろな悪意を積極的に集めているように思える。

本人の性格もあって、それが発散されることはないのだろう。

そういえば、飲み会にも殆ど出てこないとか聞いている。確かに、飲み会で間先輩を見かけたことがない。

いわゆる下戸なのだろうか。

何にしても、もう少し人となりを知りたいと、いつも思わされるのだった。

ただ、間先輩は自席で食事をしているので、話しかけようにも難しい。せめて食堂で食べてくれれば、話も出来るのだけれど。

ふと、気付く。

間先輩の湯飲みが、変わっているように思えたのだ。

あれ。

いつもお茶くみしている時に見ているのは、あれではなかったような気がする。しかし、確かにあれは間先輩の湯飲みだとも思えるのだ。

何だろう、この感覚は。

先輩の一人に誘われたので、一緒に食堂に行く。

何だかもやもやが晴れない。

女子社員が集まると、だいたいは悪口大会になる。間先輩は基本食堂に現れないこともあって、ターゲットになるのはいつも彼女だった。

今日も何かの悪口が聞かれる。苦笑いしながら話を聞いていると、だいたいパターンは決まっている。

昨日も残業しなかった。

今日も無愛想で、挨拶の声が小さかった。

そんな内容ばかりだ。

しかし、此処で庇おうとでもしたら、それは悪手。今度は自分までもが、はじき出されてしまう。

女子のコミュニティは極めて偏屈で、小学生の頃からあまり性質が変わらない。大人になっても、子供を産んでも、同じだ。

側で見てきた私としては、よく知っている。

一度周りの規律を乱すようなことをすれば、それで最後。ほぼ許されることはなく、永久につまはじきされる。

そう言う意味で、精神構造が男子とは違う点で幼稚なのだ。

わいわいと食事をしながら悪口大会を続けていた女子達が、ぴたりと黙る。食堂に、間先輩が現れたからだ。

珍しい。

滅多にないことだ。彼女は弁当箱を洗いに来たらしい。シンクへ向かい、此方を一瞥もしなかった。

ただ、何となく雰囲気でわかった。

あれは此方がいつも食堂で何をしているか、知っている。

身が竦む思いだった。

シンクで弁当箱を洗い終えると、間先輩はさっさと食堂を後にする。彼女はずっとへの字に口を結んだままで、にこりともしなかった。

 

夕方。

間先輩が、課長に書類を提出しているのが見えた。定時の少し前である。

課長は何か文句を言おうとしているようだったけれど。書類の出来に文句を見いだせなかったようで、黙り込むばかりだった。

課長は不満そうだが、間先輩は仕事をきちんとしている。

しかも、自分の作業だけするのではない。ちゃんと周囲を見て、仕事が遅れている人間の作業をある程度肩代わりまでしているのだ。

文句を言われない術を心得ているとしか思えない。

私はお茶くみとコピーくらいしかまだ仕事がないので、そもそも残業をしようがない。それでも三十分ほどは残らなければならないのは。周りに合わせる必要があるから。悪しき習慣だとは思うのだけれど。この国の会社では、無意味な残業が喜ばれる。会社に貢献していると思われるからだ。

そういえば、海外の会社では、残業は無能の証とみられるとか。

或いは間先輩は、海外向きの人材なのかも知れない。

挨拶もそこそこに、さっさと引き上げていく間先輩。他の女子社員が不満そうに見たが。彼女の仕事の一部も、今日は間先輩が肩代わりしていたのだ。あまり文句を言うこともできないだろう。

頼まれたコピー取りを進めておく。

五百枚の用紙を、両面で半分にする。古いコピー機だから、詰まりやすい。このコピー機の扱い方はわかってきたが、それでも日の仕事の半分は、紙詰まりの除去かも知れない。しかも動いているという理由で、業者を呼ばないのだ。料金をけちっている事で、作業効率を落としている。そんな矛盾を、誰も此処では指摘しなかった。

ようやく除去が終わって、コピーも完了。

書類を揃えて課長に出すと、丁度三十分を過ぎていた。特に用事もないようなので、自分もさっさと上がる事にする。

見ると、他の社員も、ちらほら上がり始めているようだった。

この会社はさほど拘束時間が長い方では無い。それなのに残業を強要する悪習が確かに存在している。

でも、つまはじきにされるのが怖くて、何も言えない。

残業をする社員は良い社員。

こんな不文律がある以上、何も言えない人は多いのだ。私を含めて。

ロッカーで着替えていると、案の定周囲から、悪評が聞こえてくる。間先輩に対するものばかりだった。

「あの子、また残業しないで帰ったわよ」

「ちょっと仕事が出来るからって、調子に乗ってるわよね。 だからカレシが出来ないんじゃないの」

「あの性格じゃねえ」

自分たちを棚に上げて、好き勝手に噂を流す先輩社員達。

時々話を振られるので、笑顔を作らなければならないのが大変だ。小学生の頃、コミュニティから外される恐怖を身をもって味わった私は、こういうときには、受け身の対応しか取れない。

着替えを終える。

幸いにも、飲み会というような話は出なかった。飲み会では、よりストレスが溜まる。新人の内はなおさらだ。

先輩の顔色もうかがわなければならないし、アルハラにも耐える必要がある。めいめいかってに帰って行く中、私も帰ることにした。

最寄り駅まで、歩いて六分。

帰りの途中には繁華街があって、此処の治安が決して良くない。最近は日本語ではない怒鳴り声が轟くこともあるし、事実正体がよく分からない相手による暴行事件も起きていた。

飲み屋の類もこの辺りにあるのだけれど。

いわゆるぼったくり店もあるし、意外に選択肢は少ない。数店の中から選ぶしかないし、気分転換にお店に入ると、会社の人間とばったりと言う事もある。

意外に何にも出来ないのが、こういう場所の特徴なのだ。

さっさと駅から電車に乗る。二十分ほど揺られると、家の近くにまでつくけれど。この途中も治安が悪くて、痴漢が出る事もしょっちゅうだ。

この駅から歩いて更に十分。

ようやく家に着くと、既に陽は落ちていた。

ただ、通勤時間はさほど掛からないし、交通の利便自体はいい。ベッドタウンとかで暮らしている人達は、二時間掛けて会社に来ている人もいるはずだから。そう言う人の事を考えると、心が痛む。

会社の方も、そう言う人の事を考えて、残業なんかしなくても言い仕組みを作れば良いのにとは思うのだけれど。

そう言うことを言える仕組みは、この国の会社にはないのだ。会社だけではなくて、社会にもだけれど。

家に着くと、カレシからのメールが来ていた。

二年前につきあい始めたカレシだけれど、遠距離と言うこともあって、最近はかなり疎遠になってきている。

このままだと、別れるのも近いかも知れない。

ただ最近はあんまり興味も無くなってきたし、これは自然な流れかも知れない。地元の友達に話を聞く限り、遠距離を免罪符に浮気もしているようだから、何かあったら切ろうとは思っていた。

メールの内容は、何だかよく分からない抽象的な文章だ。

返事をするのも面倒くさいと思っていたけれど。一応此奴を通じて、地元の友達に悪評が広まると困る。

そもそも世間体のためにつきあっているような男だ。

当たり障りがないメールを返信すると、後は夕食の準備。適当な出来合いを冷蔵庫から出して温めて、ご飯と一緒に食べていると。

不意に、何気なしに付けていたテレビに、妙なニュースが映り込んだ。

ニュース自体は、特に不思議なものではない。

何とか大会とかで、なにやら妙ちくりんな踊りをしている映像だ。その中に、間先輩が、観衆として映り込んでいる。

撮影したのは、今日ではないだろう。

私服の先輩もはじめて見た。

しかし、何だか変な感じなのだ。この映像、結構最近に取ったはずなのだけれど。先輩が、ショートに髪を切りそろえている。

確か今。

先輩は、肩先まで伸ばしているはず。

こんな短時間で、此処まで髪が伸びるはずがない。

一瞬ウィッグかと思ったけれど。その割りには、違和感がないのだ。確かに女性でも若くしてウィッグを使う例はある。ただしそれは特殊なおしゃれであったり、他にも事情がある場合が多い。

どちらかというと、間先輩はおしゃれではない。綺麗系なのだけれど、あまり身を飾るのに頓着しないタイプだ。だから化粧に時間を掛けている他の女子社員から敵視もされる。元々綺麗だからだ。

小首を捻っている内に、映像は流れてしまった。

先輩が何をしていたのかはよく分からないけれど。違和感だけが、其処に残っていた。

 

そういえば。

他にも考えて見れば、おかしな事は幾つもあった。

たとえば先輩が持ってくる湯飲みだけれど。これが頻繁に変わる。しょっちゅうといっても良いほどだ。

しかし何故なのだろう。

以前とは違うと思うのに。どういうわけか、それが間先輩のものだとわかるのだ。名前も書いていないのに。

服装も、そうだ。

ウチの会社では、女子社員は上着以外は自由な服を着て良いことになっている。かなり頻繁に格好を変えてくる先輩なのだけれど。

どうしてか、それにも違和感を覚えない。

それがまた、別の違和感を作っていくのだ。

会社の同僚ははっきりいって話にもならない。多分あの人達は、間先輩をどう陥れるか、しか考えていないだろう。

だから格好にも注意を払っていないし、ましてや違和感なんて覚えない。

人は興味が無い事は、覚えられないのだから。

ふと気になったので、社員旅行のアルバムを引っ張り出してくる。そうして見ると、案の定だった。

退屈そうにしている先輩の服が。

同じ社員旅行の中でも、何度も変わっているのだ。他の女子社員は、全く変わっていない。

しかも、それを誰もおかしいと感じていないのである。

最初着ているのは、英語の何だかよく分からない文章がプリントされている変なシャツ。次に着ているのは、青緑色の、おしゃれなブラウス。ワンピースに、フリルがついているスカート。

いずれも、とうてい同じではない服ばかりだ。

女子の観察力は鋭いから、普通だったら気付く。いくらなんでも、これだけおかしな事になっていれば、だ。

それなのに。

私も含めて、その場の誰もが、おかしいと思っていないのだ。

一体これは、何なのだろう。

ひょっとして、だけれど。

先輩が嘘つき呼ばわりされて嫌われるのは、この異様な現象が造り出す、違和感が原因ではないのだろうか。

いや、それにしても、おかしな点が多い。

そもそもこんな事、あり得るのだろうか。

不意に携帯が鳴った。

メールが来ている。

誰だろうと思ったら、地元の友達だ。案の定、カレシが浮気している現場を見たというものだ。

既に三回、同様の報告が来ている。

浮気現場の写真まで、今回は送られてきていた。

丁度良い頃合いだろう。

カレシに、浮気現場の写真を付けて、別れる旨のメールを送る。そして、着信は拒否した。

重荷も外れて、思考もクリアになった。

ベッドでも散々乱暴にされて良い思いでもないし、新しい男を作りたいとも思っていた時期だったのだ。

私はコミュニティから外されることは怖いし、周囲から目立たないように生きてはいるけれど。

これくらいの悪知恵は、働く。

あくびをすると、今日はもう休むことにした。

先輩の周りで何が起きているかは興味があるけれど。

一応、これでも社会人。

明日、朝起きることは。仕事の後で考える、最優先事項なのだ。

 

2、嘘の対価

 

ぼんやりしていると、後輩社員の柊三冬が声を掛けてきた。茶汲みを任せている新人だ。この会社では、茶汲みなどと言う悪しき風習が、未だに残っている。この新人は、あんまり動きが速くないし、仕事が出来る方でも無いけれど。お茶くみ程度は失敗しないので、いつも好きに任せている。それに此奴は、他の社員は気付いているかどうかはわからないけれど、結構にしたたかだ。

作業を進めていく。

失敗すると、今日も例の現象が起きる。

これはかなりの頻度で、だ。

たとえば、表計算ソフトなどのファイルで、ちょっとした打ち間違えや、数式のミスをすると、気がつくと湯飲みが変わっている。着ている服が違っている事さえある。時には、前に座っている社員の顔も違っている。

この現象の正体は、私には分からない。

ただ、はっきりしているのは。冷静に頭を働かせているときは、それがミスだとすぐに判別できる、という事だ。

茶を新しく、柊が持ってきた。

「先輩、お茶淹れましたー」

「んー」

「湯飲み、変えました?」

「……いいや、別に」

ブラインドタッチで、打ち込みを進める。

隣で、笑顔のまま。柊が続ける。

此奴は糸目で、笑顔はいつも作ったような造形だ。いわゆるアルカイックスマイルである。

男子社員達には、その辺りが人気らしい。

「何だか先輩の湯飲みって、頻繁に変わっているような気がするんですー」

「そんな事はないけれど?」

「お洋服も、着替えているんですか? 時々変わっているような気がします」

手を止めて、視線を柊に移す。

驚いた。

まさか、気付いている奴が、他にいたのか。

だが、何かしらのかまを掛けているのかも知れない。それに、正直に話して、周囲が信じてくれたことなど、今まで一度もなかった。

以前などは、彼氏にしていた男でさえも、信用はしてくれなかった。そればかりか鼻で笑い飛ばす有様だった。

「さあな。 とりあえず、茶ありがとう。 作業に戻ってくれ」

「はーい」

何を考えているか、良く分からない奴だ。

同僚共も、あの女の事は、量りかねている節がある。とはいっても、断片的に会話を拾っているだけなので、何とも言えないが。

作業を進めていると、今の件の影響か、またコマンドを打ち間違えた。数分の作業がパアになった。

一旦表計算ソフトを保存せずに落として、立ち上げ直す。

また打ちこみ直しだ。

気がつくと、湯飲みがまた変わっている。

私なりに、この現象のルールは、何となくわかっている。私の人生に影響が大きいことほど、失敗すると周囲が大きく変わってくる。逆にそれだけミスに気付きやすい。小さなミスが重なって致命的なミスにつながる事が多いので、最初の段階でリカバリが効く。これが、私が。

此処で、大きなミスをしない理由だ。

何が原因かはよく分からない。

一度は何処かの寺に行って見てもらったのだけれど、頓珍漢なことを言われたので、その場で廻れ右した。

水子だねとか言われても困る。これでも水子を作った事は一度もない。

午前中の、自分の作業終了。

周囲を見回して、作業が滞っている奴に声を掛ける。こうすることで、私は最低限の居場所を確保している。

この国では、コミュニケーションだけが会社で重視されるけれど。

仕事がそれなりに出来れば、最低限の居場所だけは確保される。おかしな話で、優秀な人なんて、この国には居場所がないのだ。もちろん、お茶くみなんて置いているこの会社も、それは同じ。

私は優秀ではないけれど。

擬似的にミスをしない状況を作っている。ミスをすれば気付くのだから、当然だろう。

それで、どうにかおまんまを食べる事が出来ているわけだけれど。

これが良いことなのかどうかは。正直わからなかった。

湯飲みの位置を直しておく。

また湯飲みが変わっていた。このままだと、落として割りかねなかった。だから、だ。しばらく無心に作業をして、他の社員の作業も片付けてしまう。有り難う、助かったわー。そんな感情のこもらない声。どうでもいい。

柊が手間取っていたので、コピー機の所に。

様子を見ると、どうやら紙詰まり。それもかなりの重度な奴だ。

サポートへの連絡方法を教えた後、一緒に紙詰まりを取る。このコピー機、そろそろ限界だ。サポートを呼ぶと高くつくと文句を言う課長には、コピー機が壊れたら仕事にならないと言って黙らせる。

同じ事を書いた紙を増やす。

それだけの事をする機械が動かなくなっただけで、会社が半身不随になるというのもおかしな話なのだけれど。

ふと気がつくと、ハンカチが変わっていた。

課長が不快そうに此方を見ている。もう少し言い方があった、という事なのだろう。面倒くさいので、どうでもいい。

なんでそんなところまで、こびを売らなければならないのか。

「先輩、有り難うございます。 どうもサポートの連絡先って、よく分からなくて」

「本当なら、定期点検も頼むべきだけどね」

「そうなんでしょうねー」

ウチの会社は、正直言って相応に儲かっている。それくらいの金を出す余力はあるはずだ。

経営者陣の給金を削れば、一般社員に廻す金だってもっと増やせるはず。

それなのに、あらゆる所の風通しが悪いから、こういうことになる。

デスクに戻ると、作業再開。

昼休みのチャイムが鳴ったが、きりが良いところまで進める。こうやって作業を進めておくと、最終的に良い結果につながりやすい。私はこうすることで、リストラを免れてきている。

昼食に入れたのは、結局十分ほど後。

昼休みにだいぶ食い込んだけれど、まあこんなものだろう。

さっさと作ってきた弁当を食べる。

冷凍食品ばかりだから、美味しくもまずくもない。満足一つしない昼食が終わった頃、昼休みも終わって、チャイムが鳴った。

さて、午後の仕事だ。

午後分の作業を、さっさと片付けてしまう。

定時になる頃には、作業は終わっていた。明日分の作業も、ある程度前倒しで行っておく。

課長に書類を提出して、其処でおしまい。

課長はなにやら文句を言おうとしたようだけれど。何も文句を言えなかったようで、むっつりと不機嫌になって黙り込んでいた。

定時。

タイムカードを押して、さっさと会社を出る。サービス残業なんて、誰がするか。何がサービス残業か。違法残業だろうに。

会社を出ると、近くの喫茶に。

ケーキを頼んだ後、持ち歩いている小型のPCを取り出す。駅に行く前に、幾つか確認して起きたい。ニュースサイトを幾つか見た後、来たケーキを食べる。デスクトップがいつの間にか構成変更されていたので、嗚呼失敗したなと思ったけれど、後の祭り。案の定食べたケーキは、非常にまずかった。

二度とこの喫茶には来ないと決めて、席を立つ。

駅から電車に乗って、自宅へ向かう。後は、明日の準備をした後、色々と作業をしておいた方が良いだろう。

幾つかの作業を頭の中でまとめていると、妙に好意的な声が降ってきた。

「せーんぱい」

「……なんだおまえ」

「何だとは酷いですよう」

そこにいたのは柊だ。

口元をニコニコにして、座っている私をみくだしている。正直苛立ちを覚えたけれど、此奴に此処で怒っても仕方が無い。

そういえば、此奴の方が最寄り駅が遠いと聞いたことがある。途中で、私が降りるまで、此奴につきまとわれるのか。

憂鬱だ。

ひょっとしてさっきのデスクトップ更新は、これを告げていたのか。

「先輩、また服が替わってません?」

「気のせいではないのかな」

「いやー、そんな事ないですよー。 私これでも、結構人は見てるんですから。 先輩にはいつもお世話になっていますから、なおさらですー」

「そうかそうか」

鬱陶しいしゃべり方だが、どうも作っているわけではないらしい。

此奴なりに、嫌われない方法を、色々模索してきているのだろう。

だとすればほほえましいけれど。

正直、それを褒める意味が、私には見いだせなかった。今の世の中、苦労は誰もがしている。

子供を温室栽培しようとでもしているアホ親以外なら、だいたいはそうだ。

苦労しているからと言って同情しないのも酷いかも知れないけれど。いちいち同情していたら、身が持たない。

しばらく、他愛ない話をする。

「先輩って、おしゃれさんなんですか?」

「ろくに化粧もしてない私が、しゃれっ気があるとでも思うか?」

「いいえー。 でも、服はさっきと違うし、湯飲みも何度も変わっているし。 それとも、何か不思議な事でも起きてるんですかねえ。 その時、不思議な事が起こった、なんて」

「私は何でも悪の組織のせいにするバイク乗りか」

実際問題、此奴が私の事に気付いているとしても。

どうにも出来ないのが実情だ。

だって何が起きているか、自分でもわかっていないのだから。

ほどなく、最寄り駅に到着。

柊に送られて、電車を降りた。相変わらずの糸目で笑っているが、彼奴は正直、何を考えているか、よく分からない。

少なくとも。

私を笑うことでささやかな自尊心を満たしている、周囲のクズ共に比べると、だいぶ扱いにくい印象だった。

家に戻る。

フライパンが変わっている。何かミスしたかも知れない。

しかし、24時間監視要員を置いている会社でもない。覚えておいて、明日の朝にでもリカバーすれば良い。

フライパンが変わっている程度だと、大したミスではないと自分でもわかる。だから、それで充分だ。

どのみち、会社には他の誰よりも早く出ているのだから。

 

3、私の通ってきた嘘

 

夢を見る。

嘘つきと罵られる夢。

大事な友達だと思っていた相手に、自分の事を話したら。翌日には、クラス中に広まっていて、イジメのターゲットになった。

友達だと思っていた奴も、一緒になって虐める側に廻っていた。

子供が純粋なんてのは、大嘘だ。

違う場所もあるけれど。悪知恵は大人以上に働くし、倫理が固まっていないから、ゲスな行動も良く取る。

そいつは最初から、私からイジメのための材料を引き出すために、近づいてきていたのだと、何となくその時理解できていた。

私は喧嘩も強くなかったし、運動神経も良くなかったから。イジメに対して、対抗するすべが無かった。

しかも教師が、私が嘘をついたのがイジメの原因だと、親に報告したのが決定打になった。

嘘などついていないのに。

彼奴は嘘つきだから、何をしても良いと言う不文律が出来たのだ。

それから、私が誰も信用しなくなるまで、時間は掛からなかった。何もかもが私が悪いということにされて。

親さえも、私の言う事を、一切聞かなくなったからだ。やってもいないカンニングさえ疑われた。

幸い暴力的なイジメは行われなくなったけれど。学校に居場所はなくなった。それからかも知れない。

大過なく過ごすように、立ち回るようになったのは。

学校のテストもそれなりに点数を取った。

頭に来たので、テストの時はわざと他の生徒から席を離した。教師には、好きなように監視しろともいった。

それで高得点を取ったのだ。だが、それでも、周りは文句を言った。しかし教師もカンニングの証拠は発見できず、空気が悪くなる一方だった。

周りで起こる不可解な事を利用すれば、それくらいは出来た。そしてその時の経験が、今につながっている。

良きにせよ悪きにせよ。

周りを全部敵にするとしても。

私は生きる術を身につけていた。

もしもあのままだったら、私はとっくに命を落としていたかも知れない。手首くらいは、何度も切っていただろう。

精神は今でも不安定なまま。

他の女子と上手くコミュニケーションも取れないし、コミュニティに入り込む術だって持っていない。

だが生きている。

楽しい事なんて、何にもないけれど。

目が覚めた。

今日は土曜日だ。もう少し寝ていても良いけれど。

せっかくだから、休日を有効活用しよう。ベッドから這い出すと、歯を磨いて、顔を洗う。

遊びに行く友達など、いない。

たまに誘ってくる相手はいるけれど、だいたいは合コンだ。それも私を釣りの餌として用意したいから、誘うのが大半。

そんなところに出かけていくのは、面倒極まりない。

だから、一人でドライブに出る。

家を出ると、かなり激しく雨が降っていた。これはむしろ好都合だ。視界は悪くなるけれど、ドライブはむしろやりやすくなる。

邪魔者がいなくなるし、何より雨の中は風情があっていいからだ。

愛用の軽に乗り込むと、エンジンを吹かして。

せっかくの休みを楽しむべく、車庫を出る。

今日は、遠くに行くのは止めて、近場を廻ろう。近くの大型量販店でもしけこむのも、良いかもしれない。

ふと気付くと、腕時計が変わっていた。

舌打ち。

腕時計が変わるとなると、相当だ。何かしら、良くない事に巻き込まれるとみて良いだろう。

ドライブのコースを変える。

近場の公園辺りに行って、雨の中でゆっくり過ごすとする。それが良さそうだ。

しばらく、無言で車を走らせる。

エンジン音だけに満たされた空間。

やはり車はかなり少なくて、道路は非常に快適だ。速度を上げることはしない。雨の中は視界が悪いし、事故りたくないからだ。こればかりは、何を備えていても、どうしようもない。

こんな雨の日でも、道路に飛び出してくる馬鹿はいる。そんな馬鹿でも、ひけば犯罪になってしまうのだ。

川が氾濫しそうになっているのが見えた。

これは、雨がますます激しくなってくるとみて良い。家に戻るべきだろうか。実際、川の側の道路を通るのは、ぞっとしない。

気付くと、前を進んでいる軽自動車が、さっきと違っている。

嘆息する。

今から家に直帰するのは悪手と言う事だろう。それならば、このまま行く他になさそうだ。

川の側を離れて、町中に。

都心だから、いろいろな店がある。大半は、この大雨の中でも、店を開いている様子だ。適当な量販店を見つけたので、滑り込む。

中にレストランくらいはあるだろう。

車を出て、傘を差す。

文字通り、滝のような雨だ。軽く携帯で調べて見るけれど、雨は当分止みそうにもない。これは家で静かにしていた方が、良かったかも知れない。

量販店の中は閑散としていて、人は殆どいない。

これでは、商売にならないだろう。

店員があくびをしているのを見かけた。咳払いしながら通り過ぎると、あわてて居住まいを直す。

気持ちはわかるが、もう少ししっかりしてほしい。

最上階にあるレストラン街も閑散としていたけれど、一応お店はやっていた。営業時間内である事を確認すると、パスタでも食べようと思って、イタリアンに入る。適当にパスタを頼むと、やっぱりこういう所だからか。こじんまりとした盛りつけの、見かけは美味しそうなのが出てきた。

食べるが、やっぱりちょっと物足りない。味は立派なのかも知れないが。

何が失敗だったのか。

紅茶を頼んだ後、しばらくぼんやりする。紅茶をちびちびやりながら携帯を見ていると、大雨洪水注意報が、更に範囲を拡大していた。

これは災害が起きるかも知れない。

さいわい、住んでいるアパートは小高い場所にあって、多少の事では浸水しない。築二十年だが、リフォームもしたばかりだ。

帰るか。

そう思って、量販店を出る。

その瞬間後悔した。

既に滝のような雨になっている。これでは、傘など何の役にも立たない。

大きく嘆息すると、しばらく量販店で時間を潰すことにする。幸い本屋があるので、ある程度時間はつぶせるだろう。

手持ちの傘が変わっているのに気付く。

ビニール傘から、紅い傘に。

大きくため息をつくと、私は雨の中に出た。

帰れというのだろう。無理をしてでも。

ならば、出るしか無い。

 

ワイパーを最速で動かしていても、まるで足りない。

視界が最悪。

帰り道は、制限速度を大幅に下回って、行くしか無かった。時間は掛かるが、これでは何が起きても不思議では無い。ブレーキの効きも悪い。

家を出なければ良かったと、何度も思ってしまったけれど。今更、後の祭りだ。道路には、車も殆どいなかった。

無言で、帰り道を最短ルートで行く。

家にようやくついて、部屋に転がり込む。わずかな距離しか歩いていないのに、全身ずぶ濡れだ。

これは正直、最悪だったかも知れない。

服を脱いで乾かしていると、携帯が鳴る。メールが来ていた。

故郷の家族からだ。

出来れば口も聞きたくない相手なのだけれど。年を取ってから、不意に寂しくなったのか、たまにメールを送ってくる。

勝手な話だ。

人を嘘つき呼ばわりして、散々追い詰めたくせに。吐き気がする。

メールを見ると、苛立ちが更に募るようなことが書かれていた。

嘘を会社でもついていないか。ついていたら、止めるように。

携帯を思わず床にたたきつけそうになったが、我慢。此奴らが少しでも信じてくれさえすれば。どれだけ救われたかわからないのに。

肉親でさえ、信用するに値しない。

その真実を早めに教えてくれた、反面教師としての存在だけには感謝しているが。アドバイスをするつもりで、良くもこんな逆鱗に触れるような事ばかり、送って寄越すものだ。発作的に着信拒否しようかと思ったが、我慢。

この場合は、メールを無視した方が、寂しがっている相手には打撃になるだろう。

このまま私は、親にも小学生時代の周りの連中にも、一生嘘つき呼ばわりされるのだろうか。

嘘なんか言った覚えはないのに。

シャワー浴びて、体を温める。

窓から外を見ると、凄まじい豪雨は止む気配もない。これは、帰りが遅れていたら、きっと立ち往生ではすまなかっただろう。

ベッドに横になると、ふて寝することにした。また休みが、丸ごと潰れた。ここのところ、こればかりだ。

一体私の周囲で起きている現象がなんだかは知らない。

だが、いずれにしろ、はっきりしている事がある。

もう、この世に希望は無い。

このままだらだら生きている事に、何の意味があるのだろう。給金も、決して高いとは言えない。他の役立たずの分も仕事をしているにもかかわらず、だ。

かといって、この世に何処か、居場所があるのだろうか。

そうとは思えない。

たとえば、適当な男を引っかけて、さっさと専業主婦になるとする。それ自体は別にいい。ただ私は子供が致命的に嫌いだ。小学生の時に、散々私を追い詰めたのは、子供だからだ。今になっても、それは変わらない。自分で子供を産んで、それを愛せるかどうか、正直わからない。

ましてや、馬鹿親が、子供にこう仕込むかも知れない。

お前のお母さんは、昔酷い嘘つきでな。

そして子供にまで嘘つきと呼ばれるようにでもなれば、私は間違いなくビルから身投げするだろう。はっきりいって、あの親なら、それくらいはやりかねない。子供に嘘つきと罵られながら生きるなんて、はっきりいってぞっとしない。

今の時代、結婚相手に理解を求めるなんて不可能だ。互いに好き勝手を言い合うし、支え合う存在など見た事もない。

フェミニスト雑誌の噴飯ものの内容を見てもそう思う。夫でさえ、信用できないのは、今の時代、普遍的な真実である。

何が愛か。

そんな幻想、もうこの世からは死に果てた。創作の中にしか愛がないことくらいは、周りを見ていてもよく分かる。

子供だってそれは同じ。

一体子供を作ることが、何の希望になるというのか。

結婚などに、希望は見いだせない。

かといって、他の仕事をしていて、私に何か居場所があるだろうか。

事務として、受け入れてくれる職場はあるだろう。

だが女子社員は、年を取れば取るほど、評価が下がるという現実がある。腰掛け位にしか、周囲は見ていないからだ。

今後このままいても、生活は年々苦しくなるだけだ。

かといって、私に事務以外のスキルがあるだろうか。特殊な資格なんてもっていない。持っていたところで、「実務経験」がなければ、面接の段階で何処も相手にしてくれないのは、周知の事実。

若ければともかく、私はもう四捨五入すれば三十だ。

資格幻想が崩壊してから随分経つ。

私だって、何をしても無駄な閉塞感が世の中を覆っていることくらいは、十二分に理解していた。

ため息をつく。

死ぬなら、どんな方法が良いだろう。

出来れば一瞬で死ねる方が良いのだけれど。

手首を切って、洗面器に張った湯につけるか。あれはかなり死ぬまで時間が掛かるだろうし、痛い。

首をくくるか。

失敗すればアッパラパーだ。

まあ、失敗する可能性は低い。こんな日に、一人暮らしの私の所を訪れる奴なんて、いないだろう。

薬か何かを飲むか。

これも、即効性の致死性毒物なんて、そうそうはない。

やはりそうなると、二十階建て以上のビルから飛び降りるのが無難か。

何が原因で、こうなったのだろう。

正直だったことか。

子供の頃、真面目で。周りで起きている事を正直に言ったら。永遠に嘘つき呼ばわり。つまり幼い頃に、何も周囲に真実を語らず、誰も信用しなければ良かったのだろうか。

そうか。

私はもう、小学生の時には。

何もかもを間違えていたのか。

人間などを信用するという、最大の間違いを犯してしまっていたのか。

ならば、この無様な有様も、納得がいく。

乾いた笑いが漏れてくる。

ふて寝をしながら、私は思う。こんな世の中なんて、私もろとも滅びてしまえと。

 

夢を見た。

周りで起きている事を、誰にもいわない夢。

何故かその私は知恵が働いた。周囲を信頼せず、起きている事を胸の中にだけしまって、活用するという夢だ。

そうなると、一応コミュニティには入る事が出来た。

だが、それは極めて窮屈だった。

周囲に何もかもあわせないと、即座につまはじきにされる。それが女子のコミュニティというものだ。

男子は気楽で良い。

同じようなコミュニティはあるが、それにしても女子ほど偏屈でも苛烈でも陰湿でもないからだ。

成績も良かった。

周りで起きる不可解な出来事を利用しているのだから、当然だ。周囲の連中からは、何を教えてこれを教えてといってくる。

適当に応じていると、頼りになるという扱いを受けて。イジメにも遭わず、大きなストレスも受けなかった。

中学も、高校も。同じように過ごして。

結果として、大過なく生きることが出来た。

ルックスがこれで劣っていたら、別の結果もあったのだろう。不快な事に、私は相応に目を引くルックスをしていた。

大人になってからは、高校の頃からの彼氏にプロポーズされて、早めに結婚。それからは二人の子供を育てて、何らおもしろみのない人生を送った。

夫を愛していたか。聞かれたら、ノーだ。

どうでもよい相手だったが、結婚を断る理由もなかった。このままズルズル生きていても仕方が無いし、相手が此方にベタ惚れだったのだから、それで良いだろうと思ったのだ。

ぼんやりと、結婚後の私を見ていて思う。

子供を産むと、休息に老けていくというのが、見てわかる。そのうちおしゃれもしなくなって、テレビだけを見る人生に変わっていく。

おもしろみのない人生、か。

夢だとわかっている。

今の灰色の人生と、どちらがマシなのだろう。

 

目が覚めると、何ら変わらない現実が待っている。

家族にさえ嘘つき呼ばわりされ。

会社にもどこにも居場所がなく。孤独の中で、嘘つきではないという真実を、誰にも訴えかけることが出来ない生き方。

いっそ、顔でも滅茶苦茶に傷つけてやろうか。

そう思って、洗面所に行くけれど。

不意にドアをノックする音がしたので、舌打ちしてそちらに。無視しても良いのだが、用件くらいは聞いておきたかった。

来たのは配達。

荷物を受け取る。見て思いだした。確か通販に頼んでいた本だ。あまり多くは売られていない本だったので、通販に頼んだのである。

段ボールを破いて、中身を取り出す。

女性向けの雑誌でもなければ、小説でもない。

確か気ままに旅を楽しむための、情報誌。ちょっとマイナーな雑誌社から出ている本だったので、本屋を漁るよりも、通販を使った方が早いと判断したのである。

旅か。

自然だけは、嘘をつかない自分と向き合ってくれる。

偏見つきで、嘘だなんだと言わない。

だから、好きだ。

雨が降りすぎるのは正直困るけれど。自然と向き合うことだけは、苦にはならない。まあ、今日は失敗だったけれど。

雨が降る事そのものは、嫌いではないのだ。

雑誌を開いて、良さそうな場所を見に行く。

どうせ死ぬのなら。

こういう自然の中で死んでいきたい。

嘘つき呼ばわりしかしない人間の中で、腐れ果てて消えていくのはまっぴらごめんだ。それならば、いっそのこと。

幾つかの候補地を絞り込む。

どうせなら、山深いところが良い。

富士の樹海も考えたが、彼処は名所になりすぎて、確か巡回している奴らがいる筈。そんなところに行っても、面倒があるだけだ。

荒海のある所も良いかもしれない。

気づかれないように死ねば、多分迷惑もかからない。どのみちくだらない人生だ。今自分の意思で終わらせるのも、ありだろう。

私がいなくなっても、誰も困らない。

それが真実だ。

候補地を、結局一つに絞り込む。

その作業が、何だかとても楽しかった。

人生が終わると思うと、うきうきもする。久しぶりに楽しい感覚を味わって、私は浮かれてさえいた。

行くなら、明日が良いだろう。

いや、善は急げという。

今すぐ行くか。

今はもう夜中だが、寝ている間に雨足は随分と弱くなった。しかも絞り込んだ候補地は奥多摩にある。それほど時間を掛けずに、車で辿り着く事も出来る。いっそ車ごと途中の気が向いた崖に飛び込むのもいい。

この車は、私がお給金で買ったのだ。

文句なんて、誰にも言わせない。

準備をする。

着替えなどいらない。生活用品も、何一ついらない。

これから死ぬのだから当然だ。

死ぬ前に、適当に風呂だけは入っておこう。まあ、死んだら誰もが等しく腐乱死体なのだから、別にどうでも良いのだけれど。これは気分の問題だ。

外に出ると、雨もだいぶ弱まっていた。

良いあんばいだ。

車に乗り込む。気付くと、周り中のものが、色々と切り替わっていた。

ハンドルカバーからクッションまで。何もかも、買った覚えもないものになっている。着込んでいる服でさえそうだ。

知ったことか。

今更器用に生きてどうなる。元々人生そのものが、大失敗の塊だったのだ。

本当のことを言っても、親にも友人にも信用されない学校。影のように生きなければ、全てが終わってしまった中学高校。どれだけ仕事をこなしても、評価などされもしない会社。

そればかりか、何もしていなくても、嘘つき呼ばわりされる。

良い事もあるのが人生などと言うが。

それなら一度で良い。

良い事を見せてみろ。

少なくとも私は、物心ついてからこの方、そんなものは見たことが無い。

吐き捨てると、私はサイドブレーキを下ろして、バック。駐車場を出ると、雨の中、一気にアクセルを踏み込んだ。

 

4、嘘の消失

 

先輩が会社に来ない。

月曜日、私が来て最初に異変に気付いた。普通だったら、朝礼に間に合うどころか。いつも真っ先に仕事を始めている先輩の姿がないのである。

おかしい。

しかも、周りがそれに気付いている形跡が無い。

課長に話をしてみると、怪訝そうな顔をされた。

「間? 誰かね、それは」

「冗談が過ぎますよ。 あの席に座っていた」

「何を言っているのかね。 あの席に座っていたのは、紅木君で、しかも先月寿退社したじゃないか」

笑おうとして、失敗する。

嘘をついているようには見えなかったからだ。何かの勘違いだったと思い、私は適当に誤魔化すと、席に戻る。

他の女子社員達が、明らかにいつもより作業効率を落としていて、苛立っているのが見えた。

当然だろう。

間先輩が、どれだけ作業を肩代わりしていたか。見ていた私は、よく知っている。口ばっかりで無能な女子社員達が四苦八苦している中、私は糸目で笑顔を作って、お茶を淹れて廻る。

コピーもいつもより多い。

間先輩が、作業をしてくれないから、だろう。

流石におかしいと思ったらしい社員もいるようだけれど。私は放っておく。どうせこれでは、誰も気付かないだろう。

「嘘だ」

呟く。

間先輩はあんな感じだったから、自分の価値に気付いていなかったけれど。

男子社員でさえ、間先輩に随分助けられていたのだ。嘘つき呼ばわりして、笑いものにして。

残業をしないという理由でつるし上げて。

陰口大会の餌食にして。

そうすることで、無能な自分たちの自尊心を満足させていた。くだらないスケープゴートにすることで、あほらしい社会の潤滑油を歯車に入れていたのだ。

どうしたのだろう。

掃除をするフリをして、間先輩のPCをちょっと触ってみる。起動しない。電源が抜かれているようだ。

そういえば、住んでいる最寄り駅は知っている。確か、マンションについても、わかる筈だ。

セキュリティなどゴミほどもない会社である。

コピーが終わった後、ちょっと調べて見ると、すぐにデータが出てきた。

間先輩のデータがあったところは、文字化けしていて、何があったのかわからなかったけれど。

だが、最寄り駅は知っているし、大まかな場所は文字化けしていない場所から類推することが出来た。

洗面には、間先輩が使っていた湯飲みもあった。

ただし、随分古いものに変わっている。他の社員の湯飲みは、一つ足りとて変わっていないから、これで間違いない。

その日は、結局大残業になった。

課長が不快そうに声を張り上げている。

「どうして今日に限って、こんなに仕事が遅いんだ!」

そりゃあそうだ。

間先輩がいないから。

そもそも、残業をすることは、会社への貢献になるのではなかったのか。私の無言の問いに、誰も答えない。

その次も、次も次も。

その週は、修羅場続きになった。

 

やっと土曜が来たので、割り出した間先輩の住所に出向いた。それにしても、ただ一人がいなくなるだけで、こうも職場がカオスになるとは思わなかった。クレームまで飛び出してくる始末だったのだ。

間先輩は明らかに有能だった。

ミスもしなかったし、何よりも他の人の足りない分も、率先して補っていた。

コミュニケーションだけで評価される日本型会社が、どれだけ脆弱かは、このことだけでもよく分かる。

先輩が住んでいるアパートはそれほど大きくはなかったけれど。

最近改装したばかりのようで、こぎれいだった。

先輩が住んでいるのは、三階。

そして、その部屋の前には。

きちんと表札がかかっていた。間和子と。

ただ、鍵はかかっていないし、中に人が住んでいる形跡も無い。中を覗いていると、管理人らしいおばあさんが来た。

「何だね、あんたは」

「誰も住んでいないように見えるのですけど、この表札は」

「知らんよ、そんなのは。 前に住んでいた人のを、取り忘れただけじゃあないのかね」

そう言われると、どうしようもない。

一礼して、アパートを出る。

これで糸が切れてしまったかと思うのは浅はかだ。実は間先輩のデータは、他にも色々調べてある。

彼方此方を当たってみよう。

先輩がいないと、色々困るのだ。

 

今の時代、ネットでいろいろな情報が出回っている。

その中には、小学校時代の話などが、赤裸々に綴られたものもある。

どうやら、間先輩が小学校時代、同級生だったらしい人間のブログを見つけたので、中身を漁ってみる。

そうすると、案の定だった。

嘘つき女がいた。

そいつはカンニングもしていて、先生にいつも嘘つきだと言われていた。

彼奴を虐めるのがとても楽しかった。嘘をついているんだから、虐めてもいいよね。そんな風に、みんな考えていた。

彼奴がいたことを、今はとても感謝している。

何しろあの嘘つき女を皆で糾弾することで、クラスが団結していたのだから。

そんな内容の記事があったので、吐き気を覚えた。

そうかそうか。

あの先輩に対して、世間はそんな風に、最初から接していたのか。

何が先輩の周囲で起きていたかはわからない。湯飲みが変わったり服が替わったりする異常現象は、まともな出来事とは思えなかったからだ。

だが、それを誰にも話さなかった理由は、これだけでよく分かった。

周囲が、嘘つき呼ばわりしたからだ。

超常的な現象だったのは事実だけれど。周囲に一人でもそれを信じる者がいたら。こんな事には、ならなかっただろうに。

乾いた笑いが漏れる。

子供の頃、自分が同じように周囲から接されていたら、どんな風に歪んでいただろう。私もあまり性根がまっすぐとは言えないけれど。さぞやつらかっただろう事は、容易に想像できる。

漫画なんかでは、不思議な力は希望をくれるものだ。

しかし、現実では。

この様子では、間先輩は。

頭を振って、最悪の想像を追い払う。一週間が経っている。その上、周りが誰も間先輩の事を覚えていないこの状況。

警察に駆け込んでも、時間の無駄だ。

私がどうにかするしかない。

間先輩の事は、それほど好きだったわけではないけれど。

この状況を見てしまって、見て見ぬ振りは出来ないし。何より、先輩がいないと、仕事が滞って仕方が無いのだ。

 

電車に揺られて、無言のまま地図を見る。

今、移動しているのは、奥多摩にだ。

たまたまさっきのアパートで見つけた雑誌。それも非常にマニアックな雑誌で、奥多摩を特集している記事に、赤丸が付けられていた。

何を意図しているかは明白。

間先輩は、死ぬ気なのだろう。

無理もない。これだけ何の楽しみもない状態で、どれだけ努力しても評価の一つもされず、そればかりかコミュニケーションを理由に阻害され続ければ、嫌になるのも当然だろう。

その上周囲の人間は、誰一人として信用できるはずもないと来ている。

真面目に働く人間が、コミュニケーションを理由にゴミクズ扱いされる。

嫌な社会になったものである。

先輩も嫌だとは思ってはいただろうけれど、それでも真面目に頑張って、職場全体の作業効率を著しく上げていた。

それは、先輩がいなくなった今、職場がどうなっているかで、よくよくわかる。無能な社員数人分の働きは、確実にしていたのだ。

勿論私だって、間先輩にはとうてい及ばない程度の能力しかない。

早く帰ってきて欲しい。

もう、生存は絶望的だとしても、だ。

奥多摩駅で降りる。

目的地は、此処から少し離れた所。

奥多摩は、東京都内にありながら、水がそのまま飲める希有な土地だ。豊かな自然もまだ残っていて、東京の喧噪が嘘のように静かである。

此処を死に場所に選んだとき。

先輩は、どれほど絶望していたのだろう。

世の中の全てが、敵に見えていたのかも知れない。無理もない話だ。私だって、恐らくはそれに、荷担していた。

確か、先輩は車を持っていたはず。

乗り捨てられた車がないか。

或いは、車ごと谷に飛び込むようなことをしていた可能性もある。

それならば、地元の人に聞けば、どうにかなるかも知れない。いずれにしても、まずは地図に印がある地点に急ぐ。

歩いて二十分ほど。

鬱蒼と木々が茂った、いかにも秘境という雰囲気の土地に到着。

知る人ぞ知る観光スポット、という感触だ。ただし、周囲に観光客は、殆どいない。大雨が続いた後だし、何より見るものがない。やる気のない売店で、話を少し聞いてみるけれど。

間先輩らしき人を見た店員は、いなかった。

勿論、放置車も見つからない。

ここまできて、調査の糸が切れるか。

いずれにしても、先輩が実家に帰るはずがないだろう事は、今までの状況からも明らかである。

いるなら、此処の筈だ。

辺りを歩いて、調べて廻るけれど。

苔むしたベンチに、腐った先輩が座っているようなこともなく。あの不機嫌そうな顔で、キーボードを叩いているようなこともなかった。

もう、駄目なのだろうか。

整備された林道を歩いて、奥へ奥へと行く。

途中、良い雰囲気の湖があった。古めかしいスワンボートまで置いてある。辺りを歩き回って、何か痕跡が無いかと調べていくと。

ふと、気付く。

自殺者の知らせについて、だ。

看板が立てられている。

背筋が凍るかと思ったけれど。よく見ると、二年も前の自殺者だ。しかも男性。大きく胸をなで下ろす。先輩は、少なくとも変わり果てた姿になって、この辺りで見つかってはいないようだ。

汚いベンチに腰掛けて、少し休む。

「ああもう、間先輩」

ぼやきが漏れる。

「私は、少なくとも先輩の事を、必要としてますよ。 無能なうちの部署の人間達なんて、課長を筆頭に仕事なんて出来やしないんですから。 先輩がいるから、残業三十分だけで帰れるのに」

もう、こうなったら自棄だ。

どうせ他にも、殆ど観光客はいないのだから、恥ずかしがることもない。

ちょっと小高い丘に出る。

非常に美しい森を、そのまま見下ろすことが出来る。何となく、先輩がふてくされているなら、彼処だろうと私は思った。

「間せんぱーい!」

こだまが来そうな声で、呼びかけてみる。

「帰ってきてくださーい! 世の中には、まだ先輩を必要としてる馬鹿がいますー! 私もその一人ですー!」

怪訝そうに、年老いた夫婦が、私を見ていた。

笑顔を作ったまま、もう一度同じようにして、呼びかけてみる。

だが、やはり返事など、ある筈もなかった。

肩を落として、ため息をつく。

だが。

振り返ったとき。

思わず、私は、体が固まるのを感じていた。

何かがいる。それも、多分人間ではない。何か、とんでもないものに、にらみつけられている。

「大嘘つき」

ざわりと、空気が震えるのがわかった。

凄まじい怒りが、空気を揺らしている。息が出来ない。私が得意な作り笑いも、維持できなかった。

「私が必要? そりゃあ自分よりカーストが下だと思い込める存在が周囲にいれば、さぞや気分も楽だろうさ。 彼奴は嘘つきだといって、全ての精神的な負担を押しつけて、のうのうとしていれば良いんだからな」

いるはずなのに、何処にも見えない。

冷や汗が、流れているのがわかる。

「私は、人間を絶対に許さない。 今更戻れと言われても、ごめん被るね」

嗚呼。

この言葉で、何となくわかってしまった。

もう間先輩は、人では無いし、この世にもいない。その怒りは、私一人に、向けられている。

「お前は私を散々馬鹿にしていた連中と結託していた柊だな。 お前の事も、私は嫌いだった」

「そんな、だってそうしないと、コミュニティから」

「お前の事情はどうでもいい。 私の事を、ただの一度でも考えたか? この国の偏屈なコミュニティが、弱者を嬲る事で成立する事は私だってよく分かっている。 だが、弱者がどうして嬲られてやらなければならない! また嬲られるために戻るなんて、冗談じゃあない」

そうか。

先輩はもう。この世界にも、社会にも。

何一つ、希望を持っていないのか。

ふと気付くと。

其処には、影のように黒い何かを全身から揺らめかせる、間先輩がいた。綺麗な顔立ちだけれど。とても形容できない衣服を身につけている。和服だろうか。着流しだろうか。いずれにしても、まともな服じゃあない。

先輩の目には、憎悪があった。

いや、憎悪しかなかった。

間先輩が、手を向ける。

そして、呪いの言葉を吐くのだった。

「お前も、私の苦しみを、少しでも味わうが良い」

 

気がつくと、私は。

電車に乗っていた。

帰路の途中だという事はわかったけれど。それ以上は、何もわからなかった。何をしに電車に乗ったのか。

それに、今が何時なのかさえ。

最寄り駅についたので、降りる。

そして、時計を見て、目を剥いた。既に、夜の八時半を廻っている。慌てて携帯を確認すると、幸い土曜ではあったけれど。

土曜は、まるまる潰れてしまった。

そして、何だこの格好は。

これでも女子のコミュニティから弾かれないように、気を遣ってきた。色々と、ファッションを考えるようにしていた。

だがこの格好は。明らかに、社会的な不適合者が着るような。センスとは無縁の、実用性もない、有り体に言えばとてもださい服装。

小物類も、買った覚えがないものばかり。

そもそもだ。

私、柊三冬は、何をしていたのだろう。

それが全く思い出せない。この土曜日、何かしていたのだろうか。記憶が綺麗に、抜けてしまっている。

それだけではない。おかしな事は、まだまだあった。

家に戻ると、買った覚えがないものばかりだ。綺麗に片付いている所からいって、恐らくは空き巣に入られたわけではないのだろうけれど。

呼吸を整えて、状況を整理する。

一体何が起きた。

何がどうして、このような、全く理解が及ばない状況になっている。これは、どうして、こうなったのか。

落ち着け。自分に言い聞かせても、パニックは酷くなるばかり。

携帯が鳴ったので、跳び上がりそうになった。

慌てて携帯を開くと、彼氏からだ。はて、此奴は着信拒否にしたような気がするのだけれど。しかも、浮気を散々したから。

電話に出る。

「やっと出た。 来週、そっちに行くって話をしただろ? 打ち合わせをしようと思ってさ」

「あんたと話す事なんて何も無いけど」

「お、おいおい。 どうしたんだ、ご機嫌斜めだな」

「散々浮気をしておいて、その言いぐさは何? 確か絶縁状をメールで送ったよね。 さよなら。 二度と掛けてこないで」

電話を切ると、即時で着信拒否。

浮気の証拠となる写真も、ついでに添付して送りつけてやった。これでいい。しかし、何だろう。

此奴には、もう同じ事をしたような気がするのだ。事実私も、さっき話している時に、同じ事を口走っていた。

ベッドに転がると、天井を見上げる。

これは、明日はエステに行こうと思っていたけれど、止めた方が良いだろう。はっきり言って、それどころじゃない。

何が自分に起きたのか、確認するのが先だ。

 

5、そして大嘘つきへ

 

月曜から、職場は修羅場だった。

クレームがたくさん飛んでくる。書類を作っている無能な先輩社員が、何度も何度もミスをしたから、納入先がキレたのだ。課長は蒼白になって、電話先に何度も謝っている。でも、どうしてだろう。

不思議だとは思えない。

むしろ当然の結果のように、目の前の修羅場が思えていた。

理由はさっぱりわからないのだけれど。

数人の社員が、連れだって会議室へ。今までの比では無い頻度で、ミスが出ている。その結果、クレームが来ているのだ。

今までは、こんな事はなかったのに。

真っ青になってぼやいているのは、どうしてだろう。自業自得だとしか、思えないのだけれど。

私は重要な仕事にはかかわらせてもらっていないので、気楽だ。

というか、こんな所、さっさと止めるべきかも知れない。ふと気付くと、私の湯飲みがまた変わっている。

周囲を注意深く見ると、先輩社員の湯飲みの一つを、落としそうになっていた。

この不可解な現象についても、慣れはじめていた。最初はどうしても信じられなかったのだけれど。

何故だろう。

これを見るのは、初めてではないような気がするのだ。

お茶くみをする。

部署の人間は、皆真っ青になっていて、此方の挨拶に応えもしない。そんな中、一つだけ放置されているPCの存在が面白い。彼処に座っていた人は、何処へ行ってしまったのだろう。

データを見ても、壊れていて、何も判別できないのだ。

昼休み過ぎに、ようやく課長が戻ってきた。

そして、課長自身が、部長の所に行く。部長はでっぷり太ったカバのような風貌で、課長以上に無能で、ただがなり立てる声だけが大きい。会議室で、さぞやあのだみ声をふるって、課長を怒鳴るのだろう。意味もなく。

いい気味だとは思うけれど。

しかしこれで、今日も大残業は確定だ。

別の職場に行くか。

それもいい。コピーとお茶くみしか仕事がない上に、引っかけられそうな男もいない。それにこのままでは、おそらく部署自体が潰される。面倒事に巻き込まれる前に、さっさと離れるのが一番だ。

案の定大残業になったけれど。

疲れた体を引きずって、まだ開いている本屋に行く。辞表の書き方を調べるためだ。三ヶ月前に言わないといけないらしいのだけれど。この様子では、正直明日にでも職場を離れたい。

しかし、正社員ではあるから。もったいないとは思う。

此処を離れると、多分次はパートだろう。

良い男さえ引っかけられれば、気にしないでパートでも何でも出来るのだけれど。かといって今の時代、良い男なんてそうそうはいないか。

悩んだ末に、辞表の書き方を買っていく。

あの職場に、未来はない。

離れるのが、一番だという考えに、変わりはなかった。

しかし、だ。

辞表の書き方を開いた途端、使っているペンが、筆ペンに変わっていたのだ。これは、このまま進めると、非情に面倒な事になるという証左だろう。ため息をつく。まだ、今の職場にいる方が、マシだと言う事か。

悩んだ末に、辞表だけは書いておくことにする。

面倒事になったら、いつでも課長に突きつけてやれば良い。

もしも、それが叶わないときは。

いや、それはそれだ。その時に考えるしか無いだろう。

 

二日後に、大規模な人事異動の話が来た。

頻発していたミスの中に、大手の取引先を激怒させたものがあったのだ。社長の耳にまで入ってしまい、それが決め手になったそうだ。

部署は解体。

私は事務の部署へ異動。まだ事務の作業はやらせて貰えず、またしてもコピーとお茶くみだ。

しかもそこそこに大きな会社だから、事務の統括部署は結構規模がある。コピーする紙の量は尋常では無くて、コピー機の古さも相まって、忙しさは倍増した。ただ、前の部署の課長やらはみな左遷されたり降格されたりしたらしい。

それだけは、いい気味だと思った。

幸いにも、大残業はなくなった。前の部署の引き継ぎをした社員達は泡を食っていたが。彼らが、こんな話をしているのが、聞こえてきていた。

「明らかに手が足りない。 なんでこれで、何週間か前まで、仕事が回っていたんだ」

「三人か四人、人数が必要だな。 おれから申請しておく」

それを聞いても、不思議だとは思わなかった。

何故だろう。

あの部署には、新人も最近止めた人も、いなかったはずなのに。

大残業をしている引き継ぎチームの様子を横目に、お茶を淹れる。違和感。着ている服が、悪趣味なものに変わっている。ため息をつくと、周囲を吟味。茶の一つが、すごく濁っていた。

入れ直して、持っていく。

忙しく働いている事務の人達は、此方に構う暇もないようだった。

この部署でも、結局一番下っ端か。

「柊さん、コピーよろしく」

「はーい」

仕事を受け取りに行く。

五百枚を、両面コピー。それも三部。

これだけで一時間作業だ。幸いコピー機は二台あるけれど、どちらも紙が詰まりやすい。しかも長時間作業をする場合は、もう片方を開けるようにと、お達しも出ている。

まず最初に、交換用の紙を用意して、それからコピー開始。

これから一時間は、此奴に張り付き続けなければならない。憂鬱だけれど、仕方が無い。これが仕事だからだ。

どうにか終わった後、すぐに次のコピー依頼が来る。

大残業よりマシ。

そう自分に言い聞かせて、我慢我慢。最悪の場合は、辞表を出せば良い。

仕事が終わった後、他の部署は飲み会に行ったり、女子だけで合コンに出かけたりしている。

事務は違う。

みな黙々と表計算ソフトに立ち向かっている。

間違いはないか。

それを精査しているのだ。

少し前に、私がいた部署で、さんざんなことがあったから、上からお達しがあったのである。

そういえば。

事務も、少し前までは、これほど忙しくなかったと聞いている。これも、私の古巣がやらかした悪影響の余波というわけだ。

ようやく作業が終わった。

以前と同じ三十分残業だけれど、疲弊度が比では無い。帰る途中、遊んでいく余裕など無くなっていた。

まともな仕事が出来る日なんて、来るんだろうか。

げんなりしながら、家路に急ぐ。

光は、何一つ見えない。

 

翌日。

家を出ようとしたら、いきなりドアの銘柄が変わった。しがないアパートだというのに、露骨すぎるほどの変化だった。

家を出るなと言う事なのか。

ため息をつくと、すぐに会社に連絡する。体調を崩したので、今日は休ませていただきます、と。

極めて嫌な予感がする。

それは適中した。

昼少し前に、いきなり警察が家に来た。そして、とんでも無い事を聞かされる。

「駅の側に、ナイフを持った男が潜んでいましてね。 緊急逮捕したんですが、そいつの話によると、貴方を刺すつもりだったらしいんですよ」

「……!」

間違いない。

ふった彼氏だ。

そういえば、ベッドでも随分乱暴にされた印象がある。散々浮気を重ねていたくせに、いざ私が離れるとこれか。

「貴方が悪いとか叫び続けていて、話にならない状態です。 お会いになりますか?」

「いいえ、二度と私に近づけないようにしてください」

「はあ、交際していたという事ですが、よろしいので」

「構いません。 未練はもう欠片もありませんので」

ある程度話をした後、ドアを閉める。

なるほど、これはこれは。

何だか、助かってしまった。ただ、決定的にもなる。会社にも、この話は伝わるはずだ。

この国ではおかしな事に、犯罪にあった方が悪いというような風潮がある。私の立場は、決定的に悪くなるはずである。

ましてや、今回は痴情のもつれが原因だ。

出来るだけ良い条件で、会社を離れよう。丁度良い機会だったのだ。

 

結局、交渉の末に、退職金も付けさせることに成功した。これならば、文句もない。再就職についても、どうにか決まりそうだ。

結局の所、何だったのだろうという思いはある。

我ながらにしたたかに立ち回る事も出来た。しかし、だからといって、これから先の人生が、明るいとは言いがたいのも事実だ。

この国では、再就職する度に、スキルアップどころか、給料が下がる傾向がある。男子でさえそうなのだ。

女子は、更にその傾向が強い。

私もまだ二十三とはいえ、この就職難、次の仕事が見つかるかはわからない。

最大限の条件で会社を抜けたとは言え、あまり見通しが明るいとは言えないところがあった。

家に帰って、気付く。

模様替えでもしたような有様だ。

何か、ろくでもない事が起こることは、間違いない。

ふと気付いて顔を上げる。

其処には。

見覚えがない人が、浮かんでいた。

「今後お前は、どんどん落ちていくことになるだろう」

誰、とはきかない。

その怨念に満ちた顔には、どこか覚えがあるからだ。

名前も知っていたはずだ。どうしても、思い出せないけれど。ただ、その人を見ていても、悲しみしか湧かなかった。

「お前は強かに立ち回っているが、それもいずれは難しくなる。 周囲の人間は、既にお前を嘘つきとして認識しはじめている」

そうかも知れない。

実際、会社でも、陰口をたたいている事は知っていた。今回の件についても、人事は苦虫をかみつぶすような表情を浮かべていた。上手くやりやがって。そんな風に言っている奴も、いるらしかった。

「やがてお前は、何もかも信用されなくなる。 嘘つき。 それが、お前の呼び名に、変わっていくのだ」

気がつくと。

其処には、誰もいなかった。

誰かが見ていたような気がするけれど、気のせいだろうか。

ドアを激しくノックする音。

覗き窓から見ると。

血相を変えた、元彼氏だった。手には包丁を持っている。

「開けろ! 三冬! よくもサツに俺を売りやがったな! ブッ殺してやる、この嘘つき女っ!」

すぐに警察を呼ぶ。

元々此処は交番の側だし、騒いでいたのは周囲にも聞こえるほどだ。何より、ドアをぶち破りかねないと言うと、すぐに警官は来た。

獣のように吼えながら、引っ張られていく元彼氏。

嘆息すると、私は。

もうこの世には、何の希望も無いのかも知れないと、思い始めていた。

いずれにしても、このアパートは危なくてもう暮らしていられない。引っ越すしかないだろう。

せっかく退職金をせしめたのに。

引っ越し代は、結構高くつく。

これで、全てがパアかも知れなかった。

 

誰かわからない人が、また姿を見せる。

その人は、新しく引っ越した先でも、また私に言うのだった。

「お前はもう大嘘つきと言われる事を、避けられない」

わかっている。

そんな事は。

再就職先でも、既に怪訝な現象は発生していた。そして、どうしても、意識的無意識的に、それに気付いてしまう。

周囲が小首をかしげている様子は、既に何度も見た。

まずい事はわかっているのに。

どうしても、まだ慣れないからか。その現象に、見て見ぬ振りが出来ない。以前この現象の主だった人は、どうやってやり過ごしていたのだろう。

はて。

以前主だった人。

それは、誰か。いや、それは、きっと。

この、浮かんでいる、幽霊だか神霊だかわからない人の事なのだろう。何となく、そう思えてくる。

「そうなると、貴方は先輩と言う事ですか?」

「ああ、そんな呼び方をしていたな、お前は」

「一体どうして、そのような姿になったのですか?」

「さあな。 私にもわからん。 山の中に踏み行って、気がついたらこうなっていた」

無計画な人なのか。

いや、違うな。おそらく死ぬつもりだったのだろう。しかし、死ぬのでは無くて、結果はこの通り。

死ぬ事さえ許されない存在になってしまった。

そして恨みの限りを、私にぶつけている。理由はわからないけれど。私はそんなに恨まれる事をしていたのだろうか。

「お供え物とかしたら、怒るの止めて貰えますー?」

「脳天気な奴だ。 それに私が怒らなくても、お前はもう社会的信用など、作る事は出来まい」

「そうですねー。 確かにその通りですけど」

元彼氏は実際逮捕されて、それっきり。当分刑務所から出てくることは無いだろう。短時間であれだけ大きな事件を起こしたのだ。

ただ問題は。

私の今の勤め先にも、あの事件はすぐ伝わること。

そして私が、嘘つき呼ばわりからは、避けられないという事だ。

頭を掻く。

これは、ひょっとして、詰んだか。

世の中の漫画なんかでは、不思議な力が喜ばれる傾向があるけれど。実際に手にしてみると、これほど面倒くさい事はない。

慣れてくれば、或いは使いこなせるのかもしれないけれど。

いや、まて。

優秀だったけど、これを使いこなせていない人がいたような気がする。あくまで気がするだけで、誰かまでは思い出せないのが苦痛だが。

「何か良いアイデアはありませんか?」

「脳天気な奴……」

「それだけが取り柄ですから」

「そうか、取り柄か」

呆れたように、怒っているらしい人は消えていった。あの人を追い込んだのは私なのだろうか。

いや、多分違う気がする。

目覚めさせてしまったのが、私なのではあるまいか。

その可能性は高そうだ。きっと、あの人が恨んでいたのは、不思議な力を手にしてしまった自分を、迫害し続けたこの世そのもの。

私などは、分別がつく年になってからこの変な能力を得たというのに、それでもこの有様だ。

幼い日にあんな力に見込まれた暁には、一体どうなることか。

はて。何故そんな事がわかる。やっぱり、あの怒っている人の事を、私は知っているのではあるまいか。

いずれにしても、会社にはもう居場所はないだろう。

ベッドに転がると、まだ梱包を解いてもいない荷物の山を横目に、ぼんやりとする。もはや、対応する手段は思い当たらない。

そうなると、死ぬしか無いか。

それとも、ニートにでもなるか。

両親はまだ健在だが、仕事が上手く行っていないからと言って転がり込んでも、今更歓迎はしてくれないだろう。

失業保険に頼るとしても、せいぜい数ヶ月。

考える時間は、そう長くはない。

これでも普通に学生生活をしてきたのだ。夏休みが如何に短いかは、身に染みて知っている。

その程度の日数考えても、私の良くもない頭で、何か思いつくとは思えない。

ため息が漏れた。

どうせ大してこの世に未練があるわけでもない。

かといって、死ぬのもあまり気が進まない。何か、都合が良い事故でも起きて、一瞬で死ねれば良いのだけれど。

そんな事を考えていると、目の前で、不意に蛍光灯の銘柄が変わる。

起き出してみると、部屋の内装が、だいぶ変化していた。つまり、何かまずいミスをした、という事だろう。それも、かなり大きな。

後ろ向きに考える事が、ミスだというのなら。

もうそれは、知ったことではない。

会社に連絡を入れて、一身上の都合で止めることを告げると。

さあ、これからどうするかと。

何も思い当たらない私は、楽天的にベッドの上で伸びをした。

 

貯金は、あっという間に尽きた。

周囲のものがめまぐるしく変わっていくのがわかる。失業保険もなくなってしまうと、後はもう、なすすべがなかった。

仕事をしても、駄目なのは目に見えている。

この訳が分からない能力に見込まれてしまった以上。どうしても、周囲とのずれが生じてしまうからだ。

大嘘つき。

そう言われることは、避けられない。少なくとも私には、それを避けるほど、器用なオツムがついていない。

大嘘つきと呼ばれても、生きていける器用な奴はいるだろう。でも私は、元々コミュニティから阻害されることを怖れていたし、そうなってしまった今としては、もはやなすすべがなかった。

今まで、何処の会社でも問題視されなかったコミュニケーション能力が。

何処に就職しても、最悪だと指摘された。今まで同性とも異性とも、コミュニケーションに苦労したことは一度もなかったのに。

アパートの家賃を払うことも出来なくなったので、家具を引き払う。

田舎に戻るしかない。

両親のすねをかじるのは気分が悪いけれど、それ以外に方法がない。生活保護を受けるのは癪に障るし、何よりやり方がよく分からない。

二十代前半の私が、簡単に生活保護を取れる物なのかも、よくわからなかった。

友人達も、掌を返していた。

中には、元彼が暴力事件を起こしたのは、私が原因ではないかと言う者まで出始めていた。

乾いた笑いしか出ない。

嘘つきは、どちらなのだろう。

今まで信じていると言っていたのに。

 

精神は、どんどん混濁していく。

気力は、根こそぎ絞り上げられていく。

だから油断して、ついつい注意をそらしてしまうと。ミスをする度、周囲のものが変わっていく事を、口にしてしまったり、示唆したりしてしまう。

自宅に帰ってから二ヶ月で。

私は、精神病院に入れられた。

 

6、モルモット

 

ある大学病院の精神科に。教授の一人が、ゼミの学生達をおおぜい引き連れて、出向いてきた。

精神医療は非常に難しい学問で、未だにこれといった解決法がない。薬では対処療法にしかならず、本当にどうしようもないレベルで発狂した存在は、救う方法が見当たらないのだ。

脳が壊れてしまっているから。

だからこそ、こういった病院では、精神病を患った者は、むしろ大事にされる。貴重なモルモットだからだ。

このモルモットを使って、世紀の発見を見いだせば、一躍ノーベル賞も夢ではない。

教授は、そう考えている人間だった。

昔と違って、精神科は白い壁と檻で構成されているような場所ではないけれど。それでも、患者は隔離されることが多い。

柊三冬というまだ若い患者は、一室に閉じ込められて、其処でいつも無言でいた。教授は部屋の中で身じろぎ一つしない美しい女を一瞥すると、学生達に声を殺して言う。

「あれが今、非常に研究意欲をそそられる対象だ」

「そそられてるのは性欲じゃないの?」

馬鹿にしたような声が、教授には聞こえない場所で飛び交っている。

大学病院での、教授の権限は驚異的だ。どこの国でも、大学病院では、賄賂や政治的策謀が飛び交い、患者の命など二の次にされやすい。

「あの女は、非常に面白いタイプの虚言癖でね。 自分がミスをする度に、周りの何かが変わるなどと言っている。 これだけならば大した事はないのだが、それを利用しているとかで、ミスを著しく減らしているのだ」

へえーと、学生達が好き勝手な声を上げる。

教授はいずれ論文にしたいと締めくくると、病室の前を後にした。

私は。

間和子は。

それを見下ろしながら、鼻を鳴らしていた。

「いいのか、彼処まで好き勝手に言わせておいて」

「別に構いません」

「そうかそうか」

私は、二十年。

此奴は半年。

大嘘つきのレッテルを貼られ、社会から阻害されることに耐えることが出来た年数だ。私はさっさとこのくだらない世界に見切りを付けたが、此奴はそう割り切れなかった。だから、壊れた。

時々凶暴性を発揮して、辺りを鬼のような顔で壊す。

両親もそうやって半殺しにしたから、今この精神病棟にいる。そして、大学教授達の、モルモットにされてしまった。

何だか気の毒な話だと、今では思う。

此奴の身勝手な理由で探されたときは、本当に頭に来た。だからせめて、同じ苦しみを味わうようにと仕向けてやった。

だが、此奴は。反省以前に耐えられなかった。

最初は飄々としていたけれど。ある一点で気付いてしまったのだろう。自分が社会の歯車だからこそ輝けていて。

それから外されれば。

ただのさび付いた円状のがらくたに過ぎなかったことを。

今更此奴から、能力を外してやろうとも思わない。というか、出来ない。

嘘つきは伝染するのだ。

ましてや、この嘘は。実際には、嘘ではないのだからなおさらだ。

完全に黙っていることが出来れば、それはそれで楽になれるだろう。

しかし、周囲で起きるずれを我慢できる人間は、そう多くはない。ミスを防ぐのに使えると思えば。どうしても使おうとする。

「先輩は、人間止めて、幸せですか?」

「ああ、そうだな。 煩わしいコミュニケーションに左右されずに済む」

「そっかあ。 じゃあ、私も」

しあわせに、なります。

それが、柊三冬の、最後の言葉だった。

壁に凄まじい勢いで頭を叩き付け、その場で骸骨を砕いてしまったのだ。すぐに異変に気付いた看護師が来るが、もはや遅い。

柊三冬の頭はぐちゃぐちゃに砕けて、脳みそもはみ出していた。

完全に体のリミッターが外れていたから、起きた悲劇だ。此奴はもう、自分の体をコントロールする必要がなかったし、その気も無かったのだろう。

頭を振ると、病院を後にする。

結局。

私は、またこれで孤独になった。

本当に、嘘とはなんだろう。私の周りで起きていたことは、何だったのだろう。主観に過ぎなかったのか。それならば、何故柊は私の周りで起きていたことに、気付いたのだろうか。

私は、嘘に包まれて生きていたのか。

私がミスをする度に周囲が変わっていたのは、何故なのだろう。

世界が、私を嘘と見なしていたからなのか。

私は嘘つき。

だから、最大の負債を抱え込んだ。

今後、柊のように、私に気付く存在は現れるだろうか。永久の孤独。どんな刑罰よりも、ある意味重いかも知れない。

嗚呼。

嘆きは、空に流れる。

私は、もはや。嘘つきという存在そのものに、なり果ててしまったようだった。

 

(終)