とらんすみっしょん

 

序、悪夢開始

 

私の家は研究室だ。

正確に言うと、大学を飛び級して日本に戻ってきてから、国に研究室を貰った。其処に住んでいるのだ。

マサチューセッツ工科大学を出て、世界的な生体科学者の権威として知られる私の研究で、国には大きな利益が出ている。

特に活性ホルモンの開発は、人の若々しい体を維持するために非常に重要だと言う事がわかり。内臓も体も衰えないまま加齢する事が、今では可能になっている。勿論、子供もとても作りやすい。

他にも色々な研究があるのだけれど。

身近には結構便利な研究材料があるので。今では、日本から離れることが出来ない状況だ。

あくびをしながら、脳波で指示を出す。

いつも頭に被っている二昔前のUFO見たいな帽子で、自動でロボットアームが動くのだ。

ロボットアーム装置は研究所の彼方此方にあり。私がいつも背負うバックパックからも伸びる。

それによってトーストを焼き。

ついでに目玉焼きも作らせて。

私自身はスマホを弄って、情報を確認。

国内外の情報を調べて、論文などにも目を通していく。ちなみに自慢だが、八カ国語を操れるので、大概の論文は読める。

ロボットアームがトーストを焼いてくれたので、動かして喰わせる。

その間も、私は端末を操作して、ニュースを確認していると。

どたどたと階段を下りてくる音。

ちなみに二階は、弟の正時の居住スペースだ。ちなみに馬鹿な親に私もろともいわゆるDQNネームをつけられて、仕方が無いので私が改名の方法を教えてやった。私も勿論そうした。

現状、親とは断絶状態だが。

まああっても金を無心されるだけなので、どうでもいい。

眼鏡を拭いたロボットアームが、私の顔にかける。

ちなみに帽子には洗髪機能もついているので、私のくせっけはいつもシャンプーで良い匂いである。

問題は基本このロボットアーム操作帽子を脱がないことだが。

そもそも手を使うのが色々面倒くさいので、基本的に創造的な行動以外では、私は自分の体を使わない。

まあ、流石に外を歩くときくらいは、足を使うけれど。

「姉貴!」

「なんだ、騒々しい」

居間に飛び込んでくるバカ弟。

ちなみにうちでは私しか頭が良い人間は出なかった。両親は娘と息子にDQNネームをつけてアクセサリ感覚にするような猿の一種だし、弟は全国平均でも並程度。スポーツは運動音痴でまるでダメ。まあ、その辺りは結構どうでもいい。

弟は血相を変えて。パジャマをはだけさせているけれど。

其処から見えているのは、明らかに膨らんでいる胸。

ああ、効果があったのか。

さすがは私が作った薬だ。

昨晩、此奴のメシに混ぜておいたのである。

「何だよこれ! 今度は何したんだよ!」

「どれ、身体検査だ」

「ひいっ!」

逃げようとする弟だけれど。

思考に反応するロボットアームは弟を逃がさない。勿論素の身体能力では勝てないけれど、私のロボットアームはライオンを容易く捕獲するのだ。

まずは無理矢理身長体重を量る。

そしてX線検査装置にぶち込んで、身体構造をチェック。

身長は十四センチ。体重は七キロ落ちている。元々男子の平均身長近かった弟は、女子の平均並みの背丈にまで縮んでいた。

骨格を確認して分かったが。

薬はしっかり効いている。

涙目になってぶるぶる震えて肩を押さえている弟に。私はロボットアームでがしゃんがしゃんと移動しながら。

天井近くから、見下ろした。

「うーむ、成功だな。 お前は今日から女の子だ」

「は、はあっ!?」

「私の研究の一つだよ。 今まで性転換には大変な手間が掛かったが、それも今日でおしまいだ。 今日から人類は、性に縛られず、実に自由に性を謳歌することが出来る」

弟の顔には。

姉貴がまた狂ってると書いてあった。

良い。

その恐怖に彩られた顔。

会話が通じない人肉を好む猛獣を目の前にした、非力で粗末な棒しか持っていないザコ新米兵士の顔。

私はそれで、ご飯を五杯はいけてしまう。

「女ものの制服は用意してあるぞ」

「いつの間にっ!」

「そりゃあ、私の個人資産は五百八十億超えてるからな。 それくらい用意するのは簡単だ」

弟はもう泣きそうになっていた。てか泣いていた。

ちなみにジャガイモみたいな私と違って、元々此奴は容姿に恵まれていて。それで女にしても、かなり見られる容姿だ。

髪を伸ばしたら、普通に街でアイドルか何かのスカウトが掛かるかもしれない。

オツム以外の全てが恵まれなかった私と違って。此奴はルックスという点で非常に得をしている。

ぶっちゃけ、世界にはルックスが優れているだけで相手を全肯定するような輩も多いので。此奴には、色々内心で思うこともあるけれど。

それを私の研究意欲は、軽く凌ぐのだ。

「学校には話を通してあるから、行ってこい」

「いやだ!」

「あ、そう。 じゃあメシ抜きね」

弟に家事スキルはない。ちなみに私にもないので、このロボットアームを開発したのである。

私が留学してから家に戻ると。

弟はクズ両親と一緒に、ゴミ屋敷で生活していた。

アホ二人から此奴を引き取って、育ててやったのは私だ。ちなみに、私が喰わせてやるまで、家では毎日缶詰を食っていたらしい。レトルト食品ですらなく、である。

だから此奴は私には逆らえない。

泣く泣く食事の席に着く弟。

私はカチューシャを、ロボットアームで頭につけてやる。

勿論、普通のカチューシャじゃない。

性別がいきなり転換した事による影響が、どのように出るのか。その全てを詳細に記録する装置である。

ちなみに、だが。

私も弟もこの国にとってのVIP。弟の場合は、私にとってのアキレス腱、という意味でだが。

だから影から護衛がつく。

弟がとぼとぼと「女装」して外に出て行くと。

警備会社から連絡が来る。

「本当に弟さんが女性になったのですか!?」

「そうだが、何か」

「い、いえ。 何でもありません」

警備会社の奴も、私を怖れている様子だけれど、別にどうでも良い。

さて、ここからが本番だ。

研究室に入ると、幾つかのロボットアームに、自動で研究をさせる。これはマクロを組んで、総当たりで作業をさせ、結果を出すだけのものだ。それだけの作業なら、ロボットアームにマクロを組み込むだけで出来る。

更に奥の部屋。

モニタ室に入ると。何カ所かにある監視カメラをハッキング。

複数のモニタに出す。

別のモニタには、弟のパーソナルデータを表示。

精神の動きやら体調の悪化やら。

勿論飲んでも死ぬような薬にはしていないけれど、万が一の事もある。貴重な実験材料がなくなるのは、私としても困る。

私は横目でモニタを確認しながら。

携帯を使って、今まで収集しておいた性転換者のプロフィールと、その後の展開について調べて見る。

性転換といっても、色々だ。

様々なデータがあり。

嗜好や病気など、性転換に到った経緯も人それぞれ。

ここ数年で、性転換についてはぐっと増えたが、これは技術の進歩と先進国の法整備の影響が大きい。

もし、私がこの技術を管制させれば。

世の中の酔狂な金持ちどもは、じゃんじゃんお金を出して、退廃的な快楽を楽しみ。

一方で、切実な理由があって性転換しなければ行けない人間達も、随分と救われる事だろう。

どっちにしても。

私には、たっぷりお金が入る。

金が入ると、研究が更に出来る。高級な機材もいれられるし、この研究所だって大きく出来るだろう。

弟が、登校していく様子が見える。

ヒラヒラのスカートを履いているせいか。とにかく周囲を気にしているようだ。結局下着はトランクスにしたくせに。

ロボットアームを使って、ポテチを取ると。

適当に頬張りながら。

私は作業を続けた。

さて、どうなるか。

ちなみに薬の効果は切れない。そのままだと、弟は一生女のままだ。

一応、私が作ったワクチンを使えば元には戻るが。

勿論そんな事を、弟に教えてやるつもりはない。

彼奴の苦しみは、私の楽しみ。

ポテチが進んで仕方が無い。

 

1、ひとがたのあくま

 

昔から僕は気弱だった。

両親が子育てに全く興味を見せず。家は典型的なゴミ屋敷。食物は缶詰。良く生きていられた物だと思う。

立場が悪い事は学校でもすぐにばれていて。

更に体格も恵まれず、いわゆる女顔だったこともあって、随分と虐められた。

転機になったのは、姉が迎えに来てから。

叔父夫婦に引き取られた姉は幼い頃から変人だったけれど。

帰ってきたときには、更にターボが掛かっていた。

飛び級を重ねてアメリカの凄い学校を出て。いろんな発明をして資産を作った姉が、何だか複数の触手が生えた装置を背負って、家に来たのだ。

触手はロボットアームだとか言う装置らしかったけれど。

とにかく、僕をかっさらうと。

姉は弁護士に色々な手続きをさせて。

そして、研究所に連れて行った。

研究所の一角は家になっていて。学校もその時に転校させられた。中学に入ったばかりの事だけれど。

元々イジメを受けていた学校に良い思いではなかったし。

教師にも問題がある人間が多い学校だったから、移ること自体には、何ら未練はなかった。

ただ、僕の意思は何処にあるのだろうとは思ったし。

色々と、腑に落ちないこともあった。

研究所に移ってからは、姉が用意してくれる温かいご飯と。お風呂に毎日入れる環境。清潔な衣服と寝所。それに虐められることがない学校。今までと比べると、天国みたいな生活が出来るようになって。

姉には、感謝している。

一方で。姉は。

僕を人体実験のモルモットとしても、考えているようだった。

今まで、恐ろしい薬を散々飲まされた。

姉は生体科学の専門家で。その道では、世界でもトップクラス。

戦争がなくなって、世界が平和になって、宇宙進出も本格的に始まった今。生体研究は昔よりも遙かに盛んになりつつあるのだけれど。

そんな中でも、世界的に知られる天才。

それが姉だ。

だから姉が作る薬は、毒にはならなかったけれど。僕を毎回、酷い目にあわせるのだった。

たとえば、最初に飲まされた薬は。

僕がいきなり身長二メートルになった。

筋肉もムキムキに。

これはこれで良いかもと思ったのだけれど。実際にマッチョになってみると、体を上手に動かせないし、頭を壁とか天井にぶつけるしで、碌な事にならなかった。

元に戻して貰ったときは、本当にほっとしたものだ。

それだけじゃない。

姉は悪魔だと理解するまで、そう時間は掛からなかった。両親はゴキブリだけれど、姉は悪魔。

その厳然たる事実は。

いつも僕を虐げている。

そして今日はとびきりだ。

今までも、背中から触手が生える薬とか、肌が緑色になる薬とか、いろんな言葉を理解できるようになる薬とか、変な物ばかり飲まされてきたけれど。

今日のに到っては、性別転換。

朝起きるといきなり女の子になっていた。

もう、何がなにやら分からない。

姉はあまりにも未来に生きすぎている。人間にはあまりにも早すぎるし、僕にとっては悪夢の権化。

高校生になった今も、逆らえる気はしないし。

そもそも、自分の中で逆らうという選択肢が、存在していない。

正直な所、僕の頭は精々平均程度。姉みたいな特別製とは、根本的に出来が違ってしまっている。

将来だってあまり開けているとは思えない。

姉の話だと、ルックスは優れているらしいけれど。

両親もそれは同じだったことを考えると、ルックスが優れているからと言って、素敵な未来があるとはおもえないのだ。

学校に行けと言われて。

女装までさせられて。

家を出てみれば。いつもの黒服の人が、僕が行く様子を無言で見ていた。

姉はとにかく本格的にお金持ちだし、その研究も世界的に利用価値が高いとかで、SPの人は常に僕に張り付いている。悪い事を考える人が世の中には絶対いて、僕がその手に落ちると大変なことになるから、らしい。

いつも監視されて。

僕の意思を無視して、恐ろしい実験の材料にされて。

今日も泣く泣く、学校に行く。

ゴミ屋敷から救い出されてみれば、次に辿り着いたのは悪魔の城だった。

僕が人間的な生活が出来るのは、一体いつなのだろう。

就職しても、まともな会社なんて入れるとは思えない。どうせ底辺のクズ会社が関の山だろう。

一生こき使われて。

結婚後は家族を支えるために、自分の全てを犠牲にして。

その先には何があるのか。

そもそも、結婚だって出来るか分からないし。

今の時点では、する意味だって見いだせなかった。

ため息をつきながら、歩く。

ローファーもかなり足のサイズが変わっているのに。姉はその全てのサイズを用意してくれていた。

昔は、慣れない靴では、靴擦れという現象が起きたらしいけれど。

今は色々な対策グッズが普及して、それも無くなっている。

それにしても、マッチョになった時とは逆の意味で動きづらい。筋肉が凄く衰えているのが分かるし。

何より、不自然に軽いし。

重いところがいつもと違うし。

ため息ばかり零れる。

車道に出た。

歩道が狭くて、かなり危ないところだ。姉が研究所をわざわざ田舎に作ったから、こういう所も通らなければならない。

前に住んでいたのは、東京のど真ん中だったから。

学校に最初に行ったときは、随分と色々面食らうことが多かった。

幸い、この学校の人達は、前と違って気がいい人ばかり。

とはいっても、姉に逆らったら何されるか分からないから、気を遣ってくれているのかもしれない。

姉はこの街では、最高権力者の一人。

何しろ、街の年間予算を凌ぐ資産を一人で持っていて、気分次第で何でも出来るからだ。姉が国に働きかければ施設だって建つし、電車の駅だって各停から快速が止まるようにもなる。

だから町長は姉に頭が上がらない。

街の人達が僕に良くしてくれるのも。悪魔に飼われている可哀想な無力少年だから、ではないだろう。

クラスメイトが通学路にちらほら見え始める。

いずれも、僕だと分かっていない様子だ。制服が同じだから、誰だろうという感じで見ている。

この小さな町だ。

学校の規模も、そんなに大きくは無いし。

生徒は殆どが顔なじみ。

イジメとかがあったら、本当に地獄になっていたのだろうけれど。

僕にとって、今の時点では悪くない場所だ。

後は、少しでも僕の意思が生活に反映されれば良いのだけれど。本当に、あらゆる意味で姉には勝てない。

どんな理不尽でも、涙と一緒に飲み込むしか無いのは、つらい。

「あれ、ショージ?」

後ろからの声に振り向く。

クラスメイトの市川城子さんだ。

時々話をする、ごく普通の女子。背は高い方。悔しいけれど、正直今の僕よりもかなり。

「やっぱり。 あんた、今度は女にされたの?」

「う、うん」

「あの悪魔……!」

城子さんは、姉に対して唯一怒ってくれる人だ。他はみんな怖がって絶対に姉には逆らえないのだけれど。

それが故に、少しだけ頼もしい。

「なんで女子の制服で来てるのよ」

「姉貴が用意してくれて」

「はあ?」

「全部のサイズを準備していたんだって」

唖然とする城子さん。

まあ、無理もない。姉はこういうときは、意味が分からないほどある資産を惜しまずに投入する。

「とにかく、何か困ったときは私に言いなさい」

「うん……」

頼もしい。

ただ。

それでもどうにもならないと、すぐに思い知らされることになるとは、この時点で何となく分かっていた。

学校に到着。

先生が、すぐに教室に来る。

多分姉が知らせていたのだろう。完全に女になっている僕を見て、先生は一声だけ呻いた。

「さ、崎口! お前……」

「ごめんなさい、先生。 迷惑かけます」

「い、いや、お前ほどじゃない。 何というか、大変だな」

心底から同情する目で見られた。

先生は既に五十を超えているベテランで、前の学校にいたモンスターティーチャー寸前のろくでなしとは違う、良い先生だ。

授業はちょっと分かりづらいけれど、生徒のことを本気で考えてくれている。

昔いた学校には、そんな先生はいなかったから。とても嬉しい。

もっとも。

今は僕の姉が、ある意味で筋金入りのモンスターペアレンツなので。戦々恐々なのだろうけれど。

「何かあったら、すぐに言うようにな」

「はい、助かります」

「あんた、性別変わっても、性格変わらないわね」

「……うん」

昔から気弱な僕は。

結局どうなっても、気弱なままらしい。

多分逆らうという事が、出来ないまま成長してしまったからだろう。

昔は名前も違った。

いわゆるDQNネームだった。

親が酒を飲みながら、適当に考えた名前らしい。本当にひどい呼び方をする名前で、正直思い出したくも無い。

普通の名前を姉につけてもらった事は感謝している。

こう理不尽なことばっかりしなければ、もっと感謝できるのだけれど。

クラスメイトが、段々埋まってくる。

僕の席を見ている視線が多い。

最初は僕が誰か分からなかったクラスメイトも多かったようだけれど。

多分、僕の席に知らない人が座っている。

それだけで、大体事情を察したのだろう。

最初の授業が終わると。

隣の席に座っている、大河原くんが声を掛けてきた。

彼は身長190を越える巨漢で、空手部の全国大会に出たほどの猛者だ。いつも若干制服を着崩していて見かけは怖いけれど。話してみると、ごく穏やかな性格である。

「お前、ショージか」

「うん。 大河原くん、迷惑かけるけど。 姉貴が飽きたら元に戻れると思うから、それまでは我慢して」

「何だ、声まで完全に女だな。 何だ、あれだ。 アニメ声ってやつだな」

「そんなに高くなってるかな」

目を伏せる僕を見て、どうしてか大河原君が視線をそらす。

咳払いする城子さん。

「それよりも、あの悪魔が、あんたで何を企んでるかが問題ね」

「多分データが欲しいだけだと思うよ。 いつもそうだから」

「データねえ」

頭につけているカチューシャが怪しい。

姉は何も言わなかったけれど。

こんな女子がつけるような飾り、わざわざ準備していたのだ。制服とかと違って、身につけることが許される範囲のアクセサリ。

それにしても、だ。

視線の集まり方が、今までと違う。

胸や尻の辺りに、集中しているのが露骨なくらいに分かる。

そういえば胸はかなり派手に膨らんでいたけれど。

前々から、派手な容姿の母が荒れた生活を平然としている所を見てきた僕は、あまり女子の容姿に興味が持てずにいる。

だから、こういう視線が集まるのは、不思議でならなかった。

「今日は水を減らしなさいよ」

「どうして?」

「トイレ、一人でこなせるの」

うっと、思わず声を飲み込んでしまった。

朝起きて、自分の体を確認して、絶叫したときのことを思い出す。体の構造が、普段とは完全に違っているのだ。

多分ちょっとしたことで、すぐに漏らしたりしてしまうはず。

そうなったら最悪だ。

ただでさえ、後ろ向きな考えが加速されていく中。

不安要素ばかりが、積み重なっていく。

 

嫌な予感は、すぐに現実になった。昼少し前、急にトイレに行きたくなったのだ。城子さんに言われて、水は飲まないようにしていたのに。

クラスメイトの大半は、気の毒そうに見ているばかりだったけれど。

城子さんは、多分様子を見て、すぐに察したのだろう。

休み時間が始まると、袖を引いた。

「職員用の共用トイレを貸してもらいましょうか」

「え、でも……」

「あんた、女子トイレに入る気? そんなテンパってる状況で?」

「ひ……」

ぞくりと、背中に悪寒が走る。

周囲の女子達からの拒絶の視線を感じた。

そりゃあそうだ。

今はたまたま女の子になっているけれど。僕の本来の性別を考えれば。当然の話だろう。女子にとって、トイレがどれくらいデリケートな場所なのかは、僕も良く分かっているつもりだ。

ちなみに、五時限目は体育。

着替えなければならないのだけれど。

男子と一緒は当然ダメ。

女子達にも拒否されて。

多分、何処かの個室で着替えることになるだろう。見かけは女子になっていて。頭の中身だけ男子のままというのが、こうもつらいことだなんて。

そういえば、性同一性障害という病気があって。

そう言う人達は、随分苦しい思いをしていると言う話だけれど。

僕もそれを身をもって今、味わっているというわけだ。

姉は一体僕を苦しめて、何がしたいのか。

ああ、そうだ。

苦しめたいだけだ。

とほほと、頭を抱えてしまう。姉は、僕を確かに引き取ってくれたけれど。僕が苦しんでいるのを見ると、心底嬉しそうに笑みを浮かべる。

正真正銘のドSだ。

両親のようなゲスでは無いけれど。

多分方向性が違うだけで、人格破綻者という点で、姉と両親はあまり変わりが無いのだろうと思う。

「ほら、行くわよ」

「……俺も行くか」

何故か大河原君がついてくる。一瞥だけすると、城子さんが僕を促した。

四階建ての校舎だけれど。

今は半分ほどが閉鎖されている。昔は千人以上の生徒がいた時期もあったそうなのだけれど。今は落ち着いて、二階はまるまる職員用のフロアだ。

職員室に堂々と入ると、城子さんが、担任の先生に事情を話す。

他の先生達も、僕を一瞥。

話を聞いてはいるのだろう。

僕に何かあったら、市長どころか国から何をされるか分からない状況なのだ。彼らが気を遣うのも、無理はない。

「良いだろう。 特別措置だぞ」

「良かった。 汚さないように気を付けます」

ぺこりと頭を下げる城子さんを見て、僕は悪いなと思ってしまう。彼女が何か問題を起こしたわけでは無いのに。

僕の姉は、こういう所でも間接的に迷惑を掛けている。

もっとも、それ以上に世界に対する功績が大きすぎるし。影響力もあまりにも巨大だから、誰も文句を言えないのだけれど。

最初見た時の恐怖は忘れられない。

無数の触手に体を支えさせて、遙か上から見下ろしてくる白衣の女性。

人間だとは、思えなかった。

肉親の僕でさえそうだ。

他の人から見れば、姉はもう、悪魔以外の何者でもないだろう。

「こっちよ」

なれた様子で、城子さんが二階の奧に。L字になっている校舎の奧にある外来者用トイレは、見るのも初めてだけれど。

案内されて入ってみると。

普通の洋式トイレだった。

勿論ウォッシュレットがついたとても綺麗なトイレだけれど。ごくありふれていて、却って拍子抜けだ。

「外にいるから、分からない事があったらノックしなさいよ」

「うん……」

「俺は誰か来ないか見張っている」

「あんた、何しに来たのよ」

大河原君が、距離を取るのを見て。

城子さんが呆れたように嘆息した。

 

2、大きくなり続ける問題

 

トイレはどうにかこなせた。

本当に大変で。洋式トイレを汚さないように出来ただけでも奇蹟だったかもしれない。漏れそうになるタイミングとか、もう少し覚えておかないと、大失敗につながりそうだ。怖くて仕方が無い。

ちなみに現物を見た感想は、とくにない。

というのも。

家では両親が、僕を置物同然にして、裸で絡み合ったりしていたから。幼い頃から見せつけられていたし。

両親は元々僕に興味が無いようだったから、多分どうでも良かったのだろう。

別に異性のそれを見るのは始めてでもないし。

それで動揺することも無かった。

ただ、本来のものに比べて扱いづらいというか、感触が違うのも事実なので。出来るだけ早く元に戻りたい。

トイレを出ると。

城子さんが、顎をしゃくる。

「ほら、さっさと戻るわよ。 昼を食べる時間もなくなるわ」

「うん。 今日はお弁当?」

「そうよ。 あんたは」

「僕もだよ」

悔しいけれど。僕には家事のスキルが無い。

家では両親が汚し放題で、完全にゴミ屋敷だったし。

ちなみに二人とも無職。

親の遺産が相当にあったので、別に働かなくても食べて行けていたらしい。もっとも、姉が今は財産を完全に管理しているらしく。二人とも悲惨な状況になっているらしいけれど。

今、僕の家で最高権力の持ち主は姉だ。

その牙城は、崩せそうにも無い。

見張りをしてくると言っていた大河原くんだけれど、側にはいない。何処へ行ったのだろうと思ったら、廊下の向こうで数人の男子と話していた。

ああ、なるほど。

興味を持ったクラスメイトが、つけてきていて。

それに気付いていたのか。

喧嘩にはなっていないようだけれど。大河原君はじっと見つめるだけで、相当な威圧感がある。

あの人達も、相当に怖い思いをしているだろう。

側を通り過ぎると。

すまなそうに視線をそらされる。

彼らから離れると、城子さんが言う。

「あんたの胸、それ年頃の男子には目の毒よ。 ブラくらいしなかったの?」

「ごめん、女性用の下着だけは勘弁して。 今でもつらいのに、本当に死にたくなる」

「気持ちは分かるけれど。 あの悪魔が、一日だけであんたを解放してくれると思う?」

「思わない」

満足するまで、僕はこのままだろうという予感がある。というか、ほぼ間違いなくそうなるはずだ。

教室に戻ると、城子さんは他の女子生徒と一緒にお弁当に出かけていく。

僕は時々一緒に食べる男子を何人か見たけれど。

彼らは気まずそうに視線をそらす。

大河原君が戻ってきて。僕の向かいに座った。

「早めにメシを済ませろ。 着替えはもっと大変なんじゃ無いのか」

「うん。 ごめんね、気を遣わせて」

「良いんだよ。 それくらい」

ちなみに大河原くんは、大きなおにぎりを何個も持ってきていた。それをむしゃむしゃと食べ始めるのを見て。

僕もお弁当を口にするけれど。

気付く。

いつもより、食べられない。

体が小さくなったのだから、当然だろう。

でも、僕は食べ物を残したくない。

両親と暮らしていたとき、レトルトさえ滅多に食べる事が出来なかった。親に与えられたのは、缶切りと缶詰だけ。それも通販で買ってきた、産地さえよく分からないとにかくひどい品質の缶詰ばかりだった。

温かい食べ物を口に入れたときの感動は忘れられないし。

それ以降、食べ物を絶対に無駄にしないと決めた。

無理をしながらも、今日の僕には多すぎるお弁当を、口の中に入れる。何度もむせそうになるけれど。

無理矢理飲み込んだ。

おなかが破裂しそうだ。

青ざめている僕を見て、気の毒そうにした大河原君だけれど。

特に何も言わなかった。

何か言って、解決になるとは思えなかったからだろう。

彼はそう言う人だ。

 

姉が全サイズを用意していた体操着に着替える。ちなみに今時ブルマなんか使わない。ジャージだ。

ただ、ジャージなのは救い。

普段も休日にはジャージで過ごしているし。動きやすいからだ。

体育の時間開始。

プールとかだったら最悪だけれど。

今日は球技。

ちなみに、男子に混ぜられる。

それはそうだろう。

僕は元々、女子にそれほど好かれている方では無い。そもそも、体育の授業は見学にするべきだったかもしれないと、最初は思ったのだけれど。多分それでは、姉は満足しない。姉の思考回路はある程度分かるから。嫌でも体育の授業には、出ておいた方が良いだろう。

「ショージ、体はしっかり動かしておけよ」

「分かってるよ」

大河原君に言われて柔軟をするけれど。

女子の体、思ったほど柔らかくない。

多分普段から鍛えていないからだろう。

何より、筋力の衰えがひどい。

普段から力がある方でもない僕だけれど。此処まで力が落ちているとは、正直思わなかった。

バトミントンの授業なのだけれど。

とにかく、思うようにバトンが飛ばない。

パワーがあまりにも足りないのだ。

逆に大河原君はパワーがありすぎて、飛びすぎてしまうのだけれど。僕は逆に、相手コートまで届かない事もしばしば。

何より、体が重く感じる。

軽いはずなのに、思ったように動かない。

すぐにばてても来る。

女子はこんな状況で、よくスポーツなんて出来るなって思ったけれど。考えてみれば、最適化しているのだから当然だ。

休憩。

ぬれタオルを被って、大人しくする。

ぼんやりとしていると、また男子の視線が集まっているのが分かる。上気している僕の顔が、そんなに面白いのだろうか。

僕の中身が何か忘れていないか。

いや、それが出来る年頃じゃ無いから。先生も、男子と着替えるのは止めろと指示を出したのだろう。

分かってはいるけれど。

体が変わるだけで、こんなに対応が変わるのを思うと。

ルックスだけは優れていた両親が、あれだけ好き勝手をしていたのも、何となく分かってしまう。

僕の中にも、両親や姉と同じ血が流れている。

ああならない保証は無い。

「ちょっと、大丈夫?」

「城子さん?」

「保健室行く?」

みおろしている城子さん。

僕はしばらくぼんやりと城子さんを見上げていたけれど。首を横に振る。

多分、姉は僕がもっと動いて、性能を示すことを要求してくる。此処で休んでいると、もっと元に戻るまでの時間が延びる。

一刻も早く元に戻りたい。

例え軟弱でも、僕は僕だ。

元の体に戻して欲しい。

立ち上がると、また大河原君と組んで、バトミントンのコートに入る。相手の二人は、普通にバトミントンの経験者。

勝てる訳も無く、コテンパンにされる。

僕はどちらかというと運動音痴の方なので、普段から負けるのには慣れているけれど。それ以上に、一方的な展開だ。

疲れ果てて、終わると。

荒い息をついている僕に、やっぱり視線が集まっている。汗を拭っていると、大河原君が、タオルを差し出してきた。

「休むのは向こうにした方が良いぞ」

「どうして?」

「その、何だ。 目のやり場に困る」

「……そう」

目を伏せると、僕は体育館を出て行く。

やっぱり何というか。

こういうときに。人は見かけなのかなと思ってしまう。でも、僕は姉曰く見かけが良いらしい。でも、どうにもならなかった。

いっそ最初から、女の子として生まれていれば。

いや、そんなことになったら。

あの両親が、多分児童用の水着写真とかに売り飛ばしていたはずだ。僕もそういうので、子供がどんな風な目に会っているかは知っている。キッズアイドルと呼ばれる子達の痛々しい死んだような目は、僕にも分かるくらいだ。

体育館を出ると、物陰に座り込む。

早く元に戻りたい。

この後、着替えなければならない。

しかも、女子の制服にだ。

そう思うと、二重につらいけれど。それでも、まだ耐えなければ。永久に、この地獄は終わってくれないだろう。

地獄なのだろうか。

よく分からない。他の女子に視線が集まらないのはどうしてだろう。単に僕が物珍しいからだろうか。

だとすると、そのうちみんな飽きて、他の女子に目をやるはず。

そうなれば、此処まで苦しい思いはしなくて済むか。

僕にしては、珍しく後ろ向きでは無い考えだ。

でも、全く嬉しくない。

 

地獄のような一日が終わって。

やっと家に帰る。

研究所の途中は、ずっと黒服の人がいた。隠れているつもりらしいのだけれど。僕は妙に昔から勘が鋭くて、バレバレだ。というか、勘が鋭くなければ、正直両親に殺されていたかもしれない。

危ない場面は、何度かあったのだ。

家に着くと。

姉貴は、居間で何か食べていた。しかも、自分の手は一切使っていない。自身の手は、あくまで携帯端末を弄りながら、情報を得るためだけに。ロボットアームが器用に動いて、食べ物を姉貴の口に運んでいるのだ。

「ただいま……」

「んー、お帰り」

「早く元に戻してよ」

「鏡見てみろ」

意味が分からない。

黙り込んでいる僕の前に、ロボットアームが鏡を突きつけてくる。

あれ。

こんな美少女だったのか、僕。

朝準備するときは殆どロボットアームに無理矢理させられて、鏡なんか見ている暇が無かった。

自分に驚かされる。

うつむいていると、姉貴は何だかよく分からないものを飲み込んだ後、付け加えてくる。

「判断は間違ってないな。 さっさと実験を終わらせるには、確かにデータを集めることが重要だ」

「だったら……」

「まだだ」

ため息が零れる。

どうせ逆らっても勝てる訳が無い。

姉貴のロボットアームは、ライオンをその場で捕まえて解体できるとか言う話なのだ。グリズリーが突進してきても、姉貴には傷一つつけられないだろう。

それだけじゃない。

銃弾に反応して、姉貴を自動で守るとか言う話もある。

僕が暴力に訴えても、勝てる相手じゃ無い。

かといって、言葉を尽くしたって無理だ。この人の精神構造は、分かり易い反面完全に意味不明で。

何というか。

深淵から覗き込まれているというか。

深淵から覗いてきた何者かが、吃驚して逃げていくというか。

そういう感じなのだ。

「風呂入って今日はもう寝ろ。 汗も散々掻いたんだろ」

「えっ……」

「何だ、トイレ行ったんだろ。 風呂くらいなんだ」

「……っ」

姉貴は僕が苦しそうにすればするほど大喜びするし、これ以上は黙っているしか無い。不機嫌そうな僕の声を察した時点で、姉貴はもう満面の笑みに近いのだ。この人はもう、何というか。

悪魔だ。

自室に入ると、ぐったりして、ベッドに転がる。

明日からも、あの悪魔に好き勝手される。いつになったら元に戻れるか、分かったものじゃない。

男子の視線も嫌だし。

女子の奇異の視線だって。

結局の所、僕に逃げ道は無い。

 

2、崖っぷちに追い詰められて

 

体の感覚がおかしい。

お風呂に入って見て、最初に感じたのがそれだ。

とにかく体に力が入らないから、シャワーを取り落としそうになったり。頭を洗うときも、シャンプーの加減が分からなかったり。

四苦八苦しながら体を洗って。

風呂に入ると、やっぱり気が抜けて、漏れそうになった。

慌てて風呂を出る。

幾ら見慣れていると言っても、流石にまじまじと異性の全裸を見るのは恥ずかしい。こそこそとバスタオルで拭いて。パジャマを着込んで、気付く。

全然あわない。

胸の辺りは窮屈だし。

他はぶっかぶか。

手なんか、袖まで届かない。

思わず、小さな悲鳴が漏れたのは。姉がそれを予想していたらしくて。新しいピンクのパジャマが用意されていたことだった。

本当に、あの人の脳みそは。

余計な事にしか使われない。

胃に穴が空きそう。

お風呂から出て、自宅で。ベッドでぐったりしていると、携帯が鳴る。ちなみに、姉がくれたのは、いわゆるガラケーだ。

それも、軍とか使っている特注のものらしい。

電波妨害とか通信傍受とかをされないように色々なツールがいれられているとかで。クラスの皆も、珍しがっていた。

ちなみに何段階かの認証をしないと使えない。

僕はあたまが良い方じゃ無いから、使えるようになるまで、結構苦労した。

「あれ、誰ですか?」

「何だてめー。 ああ、あいつの女か」

背筋を恐怖が駆け上がる。

この声。

父だ。

すぐに電話を切る。すっかり油断していた。姉が完全にシャットアウトしてくれて、アクセスはなくなったのだけれど。

その分逆恨みしている父が、どうやってこの携帯の番号を探し出したのか。

階段を駆け下りて、居間に。

姉は丁度何かのゲームを四つ同時にロボットアームを使って行いながら、自分はというと本を読んでいた。

どういう脳みそをしているのかこの人は。しかもこれで、どのゲームもマスタークラスの腕前なのだから、頭に来る。

実際片手間に姉が遊んでいるゲームと対戦したことがあるのだけれど。

そこそこやり込んでいるゲームなのに。

まるで勝負にならなかった。

「姉貴!」

「何だ、血相変えて。 生理でも来たか」

「冗談はやめてくれよ! 親父から電話が来た!」

「! 寄越せ」

姉が小さな手で、即座に携帯を引ったくる。

普段使っていないくせに、いざというときは小柄な見かけよりずっと力が強いのだからおかしな事だ。

そういえば。

今の手。

今の状態の僕よりも、小さかった。

すぐにログを解析した後。姉は何処かに電話。すぐに対処しろと高圧的に言った、電話を切った。

その後、連絡が来る。

姉が極めて難しい顔をしていた。

「ど、どうしたの」

「面倒な事になった。 簡単に説明すると、あのクソ親を別の国が抱き込んだ。 お前に対して親権を要求するつもりらしい。 百億くらい裁判に突っ込んでもな」

「ええっ!」

「勿論それは方便だ。 当然、目的はお前を人質にして、私を揺さぶるつもりだ。 ちょっとばかりまずいな。 これから本気で対応するから、二階に行っていろ」

携帯を返される。

その時、誰が掛けて来ても絶対に電話に出るなと、姉に言われた。

姉はもの凄く真剣な顔をして、何処かに連絡を続けている。ゲームをどれも中途で切り上げている辺りからも、本気度が分かる。

姉にとって、ゲームは結構重要な娯楽で。

いつもかなり真面目に遊んでいるし、ゲームを語り出すと僕がどん引きするくらいに熱くなる。

それが、彼処まで。

よく分からないけれど。あの両親なら、何をしてもおかしくない。人を殺すくらいは、平気でやる二人だ。

電話が何回か鳴る。

でも、怖くて取れなかった。

 

翌朝。

一階に下りると。

姉が不機嫌そうな顔で、トーストを頬張っていた。

この様子だと、あまり進展は良くないのだろう。

「ど、どうしたの」

「お前、声が完全に女になって来てるな。 喉が慣れてきたんだろう」

「クラスでもアニメ声だっていわれたよ」

「そうじゃない。 まあいいか。 今日は休め。 二階でゆっくりしていろ。 どうせ外に出る気もしないだろう」

そう言われると、ちょっと苛つく。

僕の意思は。

貴方が全部好き勝手にしていいものじゃない。

確かに、外には出たくないけれど。

姉が言っている事が正しいことは分かるけれど。無言でその場に立ち尽くして、反発することしか、僕には出来なかった。

「二階に行っていろ。 これから、国のえらい人間が来る。 パジャマのまま、制服のお偉いにあうつもりか?」

「で、でも。 姉貴もいつものよれよれ白衣」

「私はいいんだよ。 国の方でも筋金入りの変わり者と認識しているからな。 だが、お前は……そうだな。 どっちにしても二階に行っていろ。 今の状態が知られると、色々と面倒だ」

少し強い口調で言われて。

僕は反論できずに、結局二階に引き下がるしか無かった。

部屋に戻ると、学校に掛けてみる。

先生が出た。

もう姉貴が話を通していて。今日は風邪だと言う事だった。

「まあ、あんな訳が分からん事があったばかりだからな。 体も壊すだろう。 今日はゆっくりして、明日来い」

「はい」

「元気が無いな。 無理もないか」

から笑いをすると、先生が電話を切る。

二度寝でもするか。

それとも、着替えるか。

タンスを漁って、取り出した服を着てみるけれど。パジャマと同じ。どれもが全くあわない。

どれもこれも大きすぎる。

結局パジャマに戻すけれど。

何だか肌も繊細になっているようで。男物の服を着た後、嫌な感触がしみついたようだった。

何だこれ。

ひょっとして、少しずつ頭が、女の子に変化しつつあるのか。

このまま行くと。

頭も、完全に女の子になって行って。

最終的には、元に戻った時。

また、地獄を味わうのだろうか。

頭を抱えてしまう。

外に、車が来た気配。一台や二台じゃない。

国のえらい人。政治家じゃ無くて、官僚って奴だ。僕が引き取られるときも、何人かと顔見せさせられた。

彼らも、姉には頭が上がらない。

個人資産だけで五百億を越えていて。政財界に多大な影響力を持つ姉の機嫌を損ねると、何が起きるか分からないからだ。

ボディーガード達と、官僚達が、わいわいと入ってくる。

ちなみに、彼らに対しても。

姉は横柄なまま。

あくびをした僕は。窓の外をヘリコプターが飛んでいることに気付いたけれど。遠くの空だ。

あまり関係は無い。

テレビをつけて、ぼんやりと見る。

ニュースが幾つかある。紛争は世界中で沈静化しつつあり、宇宙進出に向けて、各国が足並みを揃えている現状。

それでも、各国の間には、よく分からない溝があって。

僕はそれに巻き込まれている、という事なのだろうか。

トイレは二階にもある。

いざというときは、一階の研究スペースと此処は、完全に切り離して、独立した空間になる。

隔壁もあるとか。

多分、怖い事が起きたときのための対策なのだろう。

姉が何を考えているかはよく分からないけれど。

軍隊でもふみこんでくるのだろうか。

銃を持った軍隊を相手に、姉は立ち回るのか。

出来そうだ。

でも、僕にはどうにも出来ない。だから、二階を独立スペースにして、いざというときは。

これだけを見ると、姉が僕をとても大事に思っているようだけれど。

実際には。

僕は姉にとってとても大事なモルモット、というだけ。

それが分かっているから、僕はああそうだよなあ、としか考えられない。ぼんやりしていると、気付く。

生理反応も、この体は、かなり違っている。

特に性的欲求。

個人差はあるだろうけれど、男子よりだいぶ女子の方が少ないとか聞いていたけれど。確かに、そうらしい。

僕も体をもてあます年頃の男子だ。

普段は、相応に欲求処理をしていたのだけれど。

普段より、そうしたいという気持ちが湧いてこない。

もう、寝るしか無いかもしれない。

ゲームもする気にならないし。

僕はあくびすると、もう布団に潜り込んで、眠ることにした。

夜目が覚めてしまって、明日が大変になるカモ知れないけれど、それはもう、どうでもいい。

どのみち下には降りられない。

僕の力では。

何も、出来る事が無いのだ。

 

幼い頃。

両親は僕を殴った。

理由なんてどうでも良いようで。

泣いては殴り。喋れば殴り。

とにかく、隅っこで膝を抱えて静かにしていれば、二人は殴ってくる頻度が減る。それを、僕は学習した。

姉は早々に家を出た。

僕がまだ、物心つく前。

叔父の一家に世話になっていたらしい。

理由は後から聞いた。

不細工になって来たから、飼うのが嫌になったとか。

そこそこに見られる顔だったら、芸能界にでも売り飛ばして、稼がせたり。自分で楽しむ事も出来たのに。

そう、笑いながら父は言い。

母もそれ以上の下劣な言葉を、いつも言っていた。

姉が家を出たのも当然だろう。

僕だって、もう少し頭が良くて、行動力もあったら。こんな地獄みたいな家に、ずっと居続けなくてもよかっただろうに。

結局、姉が戻ってきて。

弁護士と一緒に家に乗り込んできて。

僕を助けてはくれたけれど。

僕は檻から檻に移されただけ。殴られることは無くなったけれど。それ以上に悲惨な、実験動物としての生活が、その先には待っていた。

目が覚める。

下は、静かになっていた。

布団から起き出す。寝汗を掻いていたけれど、またお風呂に行くと思うと、ちょっとげっそり。

階段を下りていくと。

難しい顔をした姉が、電話に何か喋っていた。

聞かない方が良いだろう。これでも姉は社会人で、この国でも最上層にいる人間だ。余計な事を聞くと、火の粉が降りかかる。

部屋を出ようとすると。

丁度姉が電話を切ったところだった。

「片付いたぞ」

「そうなの?」

「あのクソ両親にヤクザを介してある国の諜報員が取り入っていてな。 百億はふんだくれるとか言い含めていたらしい。 SATが突入して、クソ両親を拘束。 その場にいたスパイとヤクザは全員確保」

「そう……」

何だか、知らない国の話みたいだ。

特殊部隊が突入するようなことを、両親がしていたなんて。まあ、していても不思議では無いだろう。

ちなみにその国とは、まだ水面下で争いが起きているとかで。これから数日くらいは外に出ない方が良いらしい。

どれだけ危ない状況なのだろう。

不意に、目の前に突きつけられたのは、プリントだ。

「クラスメイトが来て、置いていったぞ。 えらく簡単な問題だな。 とっとと解いておけ」

「姉貴には簡単でも、僕には難しいんだよ」

「分からないなら説明してやろうか?」

「いい。 自分で解く」

プリントを受け取ると、二階に。

やっぱりずっと寝ていたからか、目が冴えてしまって、それから深夜まで眠れなかった。やる事も勉強くらいしか無い。

黙々と勉強をしていると。

僕は頭が悪いんだなあと、改めて思い知らされる。

この国でも、飛び級制度を活用している生徒はあまり多くないけれど。姉はその数少ない一人だ。

僕は高校二年生になって四苦八苦しているこの問題を。

姉は中学一年の頃には、余裕で解いていた。

今でも、難しくて分からないのに。

姉は確実に百点。ケアレスミス以外で、失点は無かったとかで、伝説にさえなっているのだとか。

全国模試の結果も何処かで見たけれど。

常識外れの点数だ。

それでいながら、学問以上の頭の良さも発揮しているのだから、姉はやはり特別製だったのだろう。

叔父夫婦が亡くなったときには、もう姉は海外にいたけれど。

二人とも、言っていた。

両親に姉が似なくて、本当に良かったと。

その点だけは、僕も同意だ。

別ベクトルで悪魔で無ければ、もっと良かったのに。

いきなり携帯が鳴ったので、跳び上がりそうになる。

こんな時間に。

電話に出たくないので、段ボールに突っ込んで、閉じて。上から重しを乗せて、完全に音をシャットアウト。

ほっとしたところに。

部屋の外から、ノックする音がした。

「ショージ。 自慰行為でもしてるかー?」

「してないよ!」

「じゃ、はいるぞ」

ロボットアームだけが動いて、ドアを開けて。

姉は背中の箱から四方八方に出ているロボットアームで、空中に体を安定させたまま。小さくあくびをした。

「一つ、言っておくことがある」

「何?」

「すぐには戻してはやれん」

はあ。

軽く聞き返して。そして。

すぐに、頭の中で、恐怖が沸騰した。

「えええっ!? どういうこと!」

「相手の手が早くてな。 学校で、お前が女になったという証言を得たらしい。 最大の駒であるクズ親を使えなくなったから、人権侵害をネットで主張して、お前をかっさらうつもりらしい」

「だったらすぐ戻してよ!」

「それがな、その薬、元からすぐには戻らないんだよ。 ワクチンはもう今朝のメシにまぜたけどな。 まあ、寝て起きれば、その内戻るだろうよ」

血の気が引く音がした。

僕は姉のオモチャにされて、殺される。

分かってはいたけれど。

その内というのが、いつなのか。さっぱりわからない。背筋が凍る。泣きそうになる。いや、涙が零れてきた。

どうしたんだろう。

いつもよりも更に、涙がコントロール出来ない。

そうか、こういうのも、男子とは違うのか。

「あー、代わりに何かプレゼントしてやる」

「いらないよ!」

「そういうな。 私も今回は「タイミングが」悪かったなあと思ってるんだよ」

「自分が悪かったとは微塵も思わないんだね」

思うわけ無いだろう。

即答する姉に、僕はやっぱり悪魔だと思った。とにかく涙を拭いながら、沸騰しそうになる怒りを、必死に押さえ込む。

姉の機嫌を損ねたら。

一生男に戻れない薬か何か飲まされる恐れも強いのだ。

「そういや、お前のデータさっき見たけれどな」

「何だよ」

「思考回路がかなり男子の時と変わってきているぞ。 順調に女になって来ているようで何よりだ。 これなら男に戻った後も、色々楽しめそうだな」

「帰れ!」

枕を投げつけると。

笑いながら、姉はドアを閉めた。

勿論当たるはずがない。

枕を拾うと。

しばらく止まらない涙を、枕に吸わせる。そうか、こんな風に、感情がコントロール出来なくなるものなのか。

何となく、何処かで冷静に。

僕は考えていた。

 

3、奈落の底

 

研究所の一階には、運動用のジムがある。

時々僕を其処で動かして、姉がデータを測定するための設備だけれど。使って良いとも言われているので、今日は使うことにした。

学校に出られなくなって、三日目。

まだごたごたは、完全には片付いていないらしい。

ネットのSNSは見ないようにと言われていたのだけれど。ニュースで、騒ぎが起きていることは知った。

何でも国の研究施設で、非人道的な実験が行われていて。

それに対する非難で、国の研究施設のアカウントが炎上しているのだとか。

勿論そんなのは、相手の手の一つだろう。

実際姉は何とも思っていないようだし。

そもそも大半の国民は、姉という化け物の存在を知らない。知る方法さえ、無いのだから。

しばらく走ってみて分かる。

体が軽いし、筋力が無い。

でも、何となく、動かし方は分かってきた。

走っていると、少し気分も落ち着く。

不快感は、かなり緩和してきた。

走り終えてから、汗を拭う。

段々、自分の裸にも慣れてきたし。

体の手入れのやり方も、少しずつ分かるようになって来た。姉に言わせると、脳の構造が変化しているらしいのだけれど。

体を動かし慣れてきたのも、それが理由だろうか。

居間に戻って、食事にする。

姉が携帯を弄っていたけれど。いきなり携帯をぶん投げたので、僕は思わず頭を抱えていた。

「ちっ。 もう終わりか」

「何、どうしたの」

「相手が万策尽きたらしくて、撤退始めたんだよ。 マスコミに圧力掛けてヤクザも資金源を圧迫して背後関係を洗って、手始めに連中のスパイを五十人ほど潰してやったら音を上げてな」

「……」

何だろう。

何か凄く怖い話を聞いてしまったような気もする。

姉によると、もうそろそろ安全が確保できるという。明日からは、学校に行く事が出来るそうだ。

行きたくないのだけれど。

でも、正直。

ろくに小学校に行く事が出来なかった僕にとって。更に言うと、学校ではイジメしか記憶に無い僕にとって。

いまの学校は、貴重な思い出の地。

こんな姿で無ければ、行っておきたい。

「ほれ」

ひょいと、ロボットアームにカチューシャをつけられる。嫌な予感がしたのだけれど。それは適中した。

姉は満面の笑みで。

僕に言うのだ。

「警備は倍にしたから、問題ない。 今から行けば、午後の授業には出られるだろう、行ってこい」

「えっ!?」

「ほら、学校に行きたいんだろ。 そろそろ元に戻れるはずだぞ」

それを言われると弱い。

姉としても、家に僕が籠もっていると、データを思ったように取れないはずだ。僕としても、皆を心配させたくないし。

出来る事なら、早く男に戻って、もっと元の生活に帰りたい。

準備をすると、外に。

黒服の人が、視界の隅に見えたけれど、無視する。

今更、気にしていても仕方が無い。僕にとっては、これからこの悪夢が終わって、トンネルの向こうに光が見えるかどうかが大事なのだから。

 

結論から言えば。

その悪夢は。

終わらなかった。

 

うんざりしきった僕が居間に入る。

これで、一月が経過した。

僕は女のまま。

学校では、完全に腫れ物扱い。女子に受け入れられて、黄色い声で男性アイドルグループの話とかをする事も無ければ。

男子に受け入れられて、元の通り静かに生活する事も出来ない。

城子さんと大河原君だけは普通に接してくれるけれど。

他の人は、相変わらず距離を取ったまま。

やっぱり、色々と問題がありすぎる。頭の中は男子で、体は女子という状況。男子からも女子からも、腫れ物になるのは当然だ。

男女が別れるタイプの授業では基本的に、どちらに入って良いかも分からない。

城子さんに誘われて、女子グループに入ると、白い目で見られるし。フォローしてくれるのは城子さんだけ。

大河原君は明らかに僕の体の方を女性として意識しているのが見え見えなので、僕としてもかなり気まずい。

結局の所。

如何に興味が薄くても、僕の性的嗜好までは変わっていない。このまま元に戻らないと、僕は適応も出来ないまま、非常に苦しい人生を送る事になるだろう。

自分でなってみて。

ようやく性同一性障害の苦しさというのが、僕にも理解できていた。

「姉貴」

「どうしたー?」

「早く戻して」

冷え切った僕の声に。

姉貴は、満面の笑みのまま、応える。

「いったろ、その内治るって」

「嘘だったんだね」

「嘘は言っていないさ」

まさか、本当に戻せないのか。

しかし、青ざめた僕を見て。姉貴は、心底嬉しそうに、けらけらと笑った。

「ワクチンはまだ飲ませていない。 それ以外は嘘をついていない」

「姉貴っ!」

「怒る声まで可愛くなってきたなあ。 元からお前、一部の男子に尻を狙われていたのを知ってたか?」

「ひ!?」

青ざめて、尻を隠す僕。

そういえば、思い当たる節がある。僕は元々女顔だったし、そう言う需要もあるのかもしれない。

「そうだなあ。 正直な所、もうデータは充分なんだけどな」

「……っ」

何のことか、分からないでも無い。

如何に性差があっても、欲求そのものはある。ましてや一月も経てば。

調べてやってみたりもした。勿論データは、全部姉に筒抜けだったのだろう。それも承知の上で、我慢が出来なかったのだから、しょうがない。

「いっそのこと、外で男を引っかけてきて」

「そんな事するくらいだったら、舌噛む!」

「舌を噛むか。 その程度じゃ死ねないし、後で喋るのが不自由になるだけだが、可愛い弟が不自由な思いをするのは私としても好ましくないな」

「嘘ばっかり……!」

段々、感情が制御出来なくなってきている。

この辺りは、脳みそが変わってきているからなのだろう。早く戻らないと、取り返しがつかない事になる。

「まあ、この辺りかな」

ひょいと放られたのは。

小さな薬瓶。

「ワクチンだ。 飲めば今晩寝て起きた頃には治るさ」

「本当だろうね」

「本当だ」

しばらく黙り込んでいた僕だけれど。そのまま薬を飲み干すと、すぐに机の上に置いて、自室に戻る。

今日は風呂に入るのも止めよう。

明日朝起きて、どうにもなっていなかったら。

その時は、何か考えた方が良いかもしれない。

布団に入って、目をつぶる。学校に行っている間、姉が作ったロボットアームが、勝手に部屋を掃除している。

しかも巧妙なことに、元の位置からものを一切動かしていない。部屋の構造を、完璧に三次元的に記憶しているらしいのだ。

部屋を弄られるのは嫌だけれど。

僕には家事のスキルが無い。

練習して身につけようとは思っているけれど。

今の時点では、姉にはこういう点でも、逆らうことが出来ない。

ぼんやりしていると、いつの間にか寝入ってしまう。

そして、気付く。

今度は。姉は、約束を守ったのだと。

 

シャワーを浴びる。

体中に違和感があるのは、女子になった時と同じ。でも、あの時と比べて、全く恥ずかしくない。これだけは嬉しい。

早朝の内に目が覚めて良かった。

体を綺麗にした後、男子の制服に身を包む。本当にこれで良かったのだと想うのだけれど。

幾つかの癖がついてしまったのは、困りものだ。

たとえば、身繕い。

女子の身繕いについて、色々と覚えたからか。今も随分と丁寧にやっている。元はかなりおざなりだったのだけれど。

今は肌の手入れまで、丁寧にやっていた。

服のサイズもしっかり合っている。

ようやく男に戻れた喜びはひとしおだけれど。

体がやっぱり硬い。

というか重い。

軽快に動けないのが、自分でも分かる。またしばらくは、調整が必要なのかもしれない。それでも、今は嬉しい。

今までみたいに、男子からも女子からも腫れ物にされずにすむのだから。

朝食にする。

姉は笑顔のまま、僕を見ていた。

「どうしたの?」

「別に?」

「もうあの薬は盛らないでよ」

「あの薬はな」

姉は相変わらず、自分の手を使わずに食事。僕はこれ以上言う事も無いし。姉が反省とかするわけがないことも知っているから。食事を終えると、家を出た。

学校へ向かう。

途中、大河原君が声を掛けてきた。

「ショージ、戻ったな」

「うん、ごめんね、今まで気を遣わせて」

「いいや、気にするな。 お前は別に悪くないのだからな」

「……そうだね」

本当に、そうだろうか。

いずれにしても、僕はさっさと独立しないといけないような気がする。あの悪魔みたいな両親と。それにリアル悪魔の姉に。今も全てを拘束されて、好き勝手にされているのは事実なのだ。

学校に着くと。

男子生徒達が、僕に気付く。

「ショージ、男子に戻れたんだな」

「うん、やっと戻ったよ」

「そっか。 大変だったな」

みんな少し残念そうな顔をしている。魂胆が分かるので、僕は正直、内心穏やかでは無かったけれど。

陰湿なイジメをして来た前の学校の人達とは違って、善良な事も分かっているので、それ以上は何も言わない。

僕も関係を壊したくは無いのだ。

女子も集まってくる。

色々聞かれたけれど。

僕が女子になっているとき、排斥してくれたことについては、全員が何も言わなかった。この辺りのコミュニティの陰湿さは、都会も田舎も同じか。

そういえば、城子さんがいない。

昨日まではいたのだけれど。

そういえば、通学路で声を掛けてこなかったのは始めてかもしれない。普段は、必ず僕に後ろから声を掛けてくるのに。

何かあったのだろうか。

心配にはなるけれど。今は心配しても仕方が無い。電話も使って良いと姉に言われているので、携帯も持ってきている。

先生が来たので、それぞれの席に皆が戻って。ホームルーム開始。

やっと僕は。

元の生活に戻る事が出来た。

この時は、確かにそう思っていた。

 

トイレに入ると、真っ先に僕は個室に。

何だろう。

異常な羞恥心がある。一度男子から女子になって。女子から男子に戻ったから、だろうか。

今までは平気だったのに。

隣で男子が用を足していると、落ち着かないのだ。

青ざめて僕が個室から出ると。

不思議そうに、他の男子が僕を見ていた。

「何だ、またなくなったのか?」

「違うよ」

予想はしていたじゃないか。

長い間女子の体になれていたから、男子に戻ったことで、色々とフィードバックが出ると。

ただ、まさかこれほど強烈に出るとは、思わなかった。

勿論漏らしそうになるのはデフォルト。

実際に用を足すと、強烈な違和感が脳に来る。女子に変わったときよりも、強烈かもしれない。

城子さんが遅れてクラスに来たというので、顔を見に行く。というか、クラスに戻るだけだけれど。

ちょっと様子がおかしい。

僕を見ると、一瞥だけして、視線をそらしてしまう。

何だろう。

あんなに親身になってくれた人だし。無事に元に戻れたことを喜んで欲しかったのだけれど。

もっとも、無事とは言いがたい。

体の状況は、まだかなり不完全だ。

「おい、大丈夫か?」

「あんまり……」

「前から言おうと思ってたんだが、男子の時もお前ひ弱だよな。 もっと肉つけろ、肉」

「うん、分かってる」

元々、僕は他の子供達と一緒に遊べる環境にいなかったし。

どうしても、基礎体力という点では、他の男子に著しく劣る。こればかりは、今更どうしようも無い。

もし、体力があったら。

女子に変わってしまったときも。

其処から戻った時も。

もう少し、マシになったのかもしれないと思うと。こういうままならない自分の体が、悔しくてならない。

悩んでいると、時間は容赦なく過ぎていく。

昼休みも大分前に終わって。終了間際。

僕は、違和感の正体に気付いた。

城子さんが何処で昼食を取るかは知っている。彼女はグループのメンバー達と食事に行く事もあるし、僕達と食事をすることもある社交的な性格だけれど。多分それで疲れるのだろう。

たまに、一人で、裏庭の方に食べに行くのだ。

今日は、多分そうするだろうと思って、先回りする。

案の定。

城子さんは、其方に来た。

「ショージ」

「やっぱり」

「!」

「城子さん、男の子にされたんだね」

うつむいた城子さんが、見る間に青ざめていく。

分かっていたのだ。

出来るだけ喋らないようにしている様子。多分体の方は、あまり変わらない完成型の薬を、姉が作り上げたのだろう。

僕のデータを元にして。

それで、多分こう城子さんに持ちかけたのだ。

一日だけモニターになってくれたら、僕をすぐにでも男に戻すと。

正義感が強い城子さんの事だ。

引き受けてしまったのだろう。

悪魔の誘惑に落ちてしまった。

「無理して学校に来ない方が良いよ」

「ダメよ。 彼奴の出した条件は、私が一日、学校で普通に過ごすこと、だったんだからね。 今だって、こんな風に話していたら、約束を反故にされかねない」

「……ひどい」

姉が悪魔なのは知っていたけれど。

まさか、城子さんをこんな風に巻き込むなんて。

ごめんとしか、言葉が出なかった。

ちなみに、喋りさえしなければ、城子さんは普通に女子に見える。この辺りは、恐らくだけれど。

あまり変わらないといっても、流石に体型などには無理が出ているから。化粧して、誤魔化して出てきているのだろう。

「一日で戻らなかったら、どうするつもりなの」

「そうね。 流石に無理かな……色々無理」

青ざめている城子さん。

そうだろう。

僕だって、元から男子だったのに。女子から男子になったフィードバックが、こんなにひどいのだ。

男子から女子になった時は、本当にひどかったし。

ただ、僕より頑丈そうな城子さんだから、何とか耐えられているのだろう。

「悪いけど、今日は話しかけないで」

「うん。 ごめんね」

「悪いのはあの悪魔よ」

「……否定出来ない」

姉の実験は。

恐らく、僕というモニターを基礎にして。一般人を材料にして。完成したのだろう。多分この研究は、膨大なお金を産み出すし。

口止め料代わりに、城子さんには相当な金額が支払われるはずだ。

それにしても、だ。

人の尊厳を、こんな風に踏みにじって。

いつか姉には、罰が当たって欲しい。

因果応報というのはあってほしいと僕は願っている。

こんな風に人を苦しめてばかりの姉に、天罰が下って欲しい。僕は奈落の底から空を見上げる気分で。

そう、願っていた。

 

4、地獄から這い上がって

 

結局、本当に城子さんは、その日だけで女子に戻ったようだけれど。勘が良い同級生の何人かは、気付いていたようだった。

或いは、後から気付いたのかもしれない。

姉が、実用化したのだ。

完全性転換薬を。

しかも、僕や城子さんが本当に色々苦しんだデータを元に、できる限りフィードバックが少なくなるというおまけ付きで。

最初、この薬は、画期的な治療薬として開発された。

いわゆる性同一性障害の人達に対する、である。

その後、通常使用もあり得ない速度で認可された。恐らく、最初から国が準備していたのだろう。

膨大な利益が確約されているのだ。

それも、無理がない話だと、僕にだって分かる。

そして、街には明らかに、性別を面白半分に変えたと分かる人々が、溢れるようになった。

研究所に。

大学一年生になった僕は、まだいる。

まだ姉は悪魔だけれど。

唯一、良かったことがある。

姉の首に、鎖がつけられたのだ。

研究員として入ったのは、姉より四歳年上の、政府が派遣した監視役の女性。非常に厳しい雰囲気の人で。姉もこの人にだけは逆らえない。

多分生理的に無理なのだろう。

そして、この人は、厳しい表情でいつも姉の行動を見ている。

この事態は、城子さんが到来させた。

何人かの知り合いを通じて、如何にこの研究所で非人道的な実験が行われているか、訴えたのだ。

普段だったら、効果は無かったかもしれない。

でも、今回ばかりは違った。

隣国の関連したごたごたが起きたばかりで。

政府としても、核爆弾に等しい姉に首輪をつけないと危ないと判断したのだろう。今では、昔みたいに。姉にひどいオモチャにされる事態は、殆ど無くなっていた。

朝起きて、居間に入ると。

既に新聞を読んでいる研究者の望さん。寡黙な彼女は、姉が時間通りに起きてこない場合、実力行使する権利を貰っている。

ライオンさえ退けるという姉のロボットアームだけれど。

この人も同等以上のものを渡されていて。

時々、姉が泣きそうになって、部屋から引きずられていくのを見る事があった。

一度報いを受ければ良いと思ったけれど。

そうなってみると、気の毒に思えてくるのだから、何だか不思議である。

「おはよー」

「おはようございます」

姉が居間に入ってくる。

冷え切った望さんの声が出迎える。普段からこの人は、姉を針のむしろに座らせるつもりでいるようで。

こういうときも、容赦はしなかった。

「予定より十二分遅いですね」

「そういうなよ。 昨日ついゲームに夢中になってな」

「もう一回起床が遅れたら、また例の刑です」

「わ、分かってる。 分かってるから、な。 そう怖い顔をするな」

姉が此処まで萎縮していると、安心できるけれど。何だか悪魔が息をひそめているようで、不気味だ。

ちなみに望さんは料理がとても上手で。

朝のご飯は、明らかに姉のロボットアームが作っていた頃に比べて味が良くなっている。姉が露骨に大人しくなったことと。

僕がもう被害を受けなくなったこと。

それと、食事が美味しくなったことは、良い事だ。

 

研究所から外に出る。

ところで。

僕は結局の所、あまり幸せになっていない。大学に入ることは出来た。姉を抑えてくれる人は現れた。

ただし、僕は。

姉にあまりに色々体をいじくられた影響だろう。

今では、自分に性別が存在しなくなっている。正確には、現在は男性の体をしているのだけれど。

脳が男性でも女性でもないと、医者にはっきりいわれてしまった。

それだけじゃない。

二ヶ月に一度くらい、体の方の性別も変わる。

これも、姉の首輪に鎖がつけられるようになった要因だ。

普段は男物の服を着て出るけれど。

体が女になってしまった場合は、女服になって外に出る。自然と化粧をするようにもなった。

男との時にたまに化粧をしてしまうケースもあったけれど。

今では、自然にどう振る舞えば良いか、身につくようになった。

子供を作るのは止めた方が良いだろうと、医師には言われている。正確には、女性の時に性行為をするな、というのである。

妊娠した場合、どうなるか分からないと言うのが理由だ。

当然だろう。

僕が男に戻った場合、おなかに宿った子供はどうなるか、しれたものではない。

ただ、人生が完全に壊れたわけでも無い。

歩いていると、向こうから手を振って、近づいてくる城子さん。

高校を出てから、正式につきあい始めた。

勿論、彼女は僕の事情を知っている。

一度、姉の悪意による性転換という恐怖を共有した仲だ、というのも大きいのだろう。

彼女がいるだけ、ましと判断するべきなのかもしれない。

それ以外は、人生が不安だらけだけれど。

「大学の宿題、たまってない?」

「うん。 でも、どうにか出来そうだよ」

「あの悪魔に押しつけたら」

「ううん、自分でやる事にしたから」

真面目だねと言われたので。

そうなのかなと応える。

結局、僕は。

この呪われた人生を、歩んでいくしか無いのだと、もう知っていた。

姉はこの体質を直せるかもしれないけれど。

もう姉に頼ろうとは、考えていなかった。

今後は、どうにかこれでやっていこう。そう決めている。

出来るだけ早く独立もするつもりだ。

地獄から這い出た先は荒野だったけれど。

それでも、僕はもう、荒野を歩く覚悟は決めていた。

 

(終)