繁栄の三角
序、最大の繁栄
かって、最も繁栄した恐竜は何だったのか。
その問いに対しては、一つの答えがある。北米大陸で大繁殖し、空前の繁栄を謳歌した恐竜が存在したからだ。
トリケラトプス。
いわゆる三角竜。
草食の恐竜としては中型サイズではあるが、鋭い三つの角で武装した、高い戦闘能力を誇る生きた戦車である。
彼らは群れで身を守り。
当時と言わず歴史上最強クラスの陸上肉食性捕食者であったティランノサウルスの襲撃から、互いを助け合っていた。
高い戦闘力と、バランスが取れた体。
それらが彼らを、圧倒的な繁栄へと導き。
そしてわずかな間ではあったとは言え。
なんと、6500万年前の環境激変からも。種の命脈を保ったのである。
今日も姉は帰ってこない。
陽菜乃姉は元々社交的だったけれど。高校を出たころから、よく分からない事件に巻き込まれて。
私も、かなり危ない目に何度も会っている。
小さくあくびをすると、メールを送るけれど。メールアドレスが存在しないと、すぐに帰ってきてしまう。
たまに姉から来るメールは、常にアドレスが違っていて。
それでいながら、姉からのものだと分かるのだった。
そろそろ、私も高校を卒業するころ。
姉のように訳が分からない環境に、身を置くことになるのだろうか。それは正直、ぞっとしない。
何となくは、分かっているのだ。
今の姉は、命のやりとりが普通に行われる世界に生きていると。
ひょっとして、もう死んでいるかも知れない。
ずっとメールが来ないときは。そう、不安に感じてしまう。実際、血だらけになって姉が帰ってきたことも、何度かあったのだ。
自分のでは無くて、返り血だと言っていたが。
今日も結局、メールは来なかった。
机に向かう。
受験勉強だ。昔に比べて、格段に頭が良くなっているのが分かる。そういえば姉も、おかしくなる前は、確かそんな事をいっていたような気がする。小さくあくびをしながらも、手を動かす。
勉強はどれだけやっても、損はしない。
それは分かっているから。
面倒だと思いながらも、手を動かす。
裁判官になりたいと、漠然と考えている。
しかし司法試験は、受かるまでに最低でも大体5000時間ほどは費やさなければならないという話もある。人によってはその倍以上掛かる場合もあるそうだ。
一年で取るのは無理だから。
もし取り組むなら、大学時代、更に大学院時代をずっとそれに向けて調整しなければならないだろう。しんどい話だけれど。
弁護士や裁判官になってしまえば、後はしめたものだ。
その気になれば、仕事なんていくらでも手に入る。
学閥だの何だのがあるから、簡単には売れっ子裁判官にはなれないだろうけれど。
不意に、携帯が鳴った。
姉かなと思って飛びついて見てみるけれど。違った。
スパムか何かだろうか。
内容が支離滅裂で、よく分からない。文字化けしているのかと思って、文字コードを切り替えてみる。
幾つかかえて見たところで。
ようやく、意味があるらしい文章が浮かび上がってきた。
英語だ。かなり難しいけれど。此方は司法試験を念頭に置いて勉強しているのだ。理解はできなくもない。
ざっと目を通した感触では。
随分と気色の悪い文章だった。
マザーグースの詩か何かだろうか。非常に抽象的な文句が並んでいて、パッと見た感じでは自分宛の手紙かどうかさえ分からない。
「真理ー」
下から、名前を呼ばれた。
そういえば、もう夕食の時間だ。
思い出して、下へ降りる。
姉が帰ってこなくなっても、生活そのものは変わっていない。両親は、仕送りが続いているからか、あまり気にはしていない様子だ。
三年上の陽菜乃は、とっくに大学に行っている年だし。
たしか、一応形式だけだけれど、そこそこの大学には所属しているはず。かなりの仕送りがあるので、自分の生活も、両親の格好も、前より明らかに良くなっている。だから、誰も気にしないのだろう。
ただ、流石に父は、時々心配もしているようだった。
何となく分かるのだろう。
姉が、ろくでもない世界に足を踏み込んで、抜ける気も無いと言うことくらいは。
三人で食事にするのが、習慣になってしまった。
いずれ私も、この中からは抜ける。
結婚して子供が出来たら、実家に戻るかも知れないけれど。いずれ司法試験を念頭に、大学に入ったら何処かにアパートを借りるつもりだ。
皮肉なことに、姉からの膨大な仕送りが、それを可能にしている。
あまり給料が良いとは言えない両親でも。今は国家公務員の上級クラスの給金を得ている可能性が高い姉から、かなりの仕送りが来ているから。自分は大学を気にしなくても良いと言われているし。
遠くで一人暮らしするのも、大丈夫だと太鼓判を押されていた。
ひょっとすると、私が把握している以上の仕送りが、両親の所にあるのかも知れなかったけれど。
それは詮索していない。
「受験勉強は順調?」
「大丈夫。 大学は確実に受かる」
「そう」
主体として狙っているのは早稲田だけれど。
滑り止めで受ける幾つかの大学についても、一応しっかり勉強はしている。司法試験を想定しているから、当然法学に行くつもりだ。
入ってしまえば、後は簡単。
五千時間を、七年で。正確には大学院卒業までくらいで、どうにか捻出すれば良い。
年辺りにすれば千時間を切る。
更に、今の時点で七百時間ほどは勉強しているので、実際の割り当ては更に少なくなる。そして色々調べて見る限り、自分の理解力は、司法試験を受ける人間の平均を超えているようなので。
実際には、余裕を持って受ける事が出来るだろう。
食事を済ませると、勉強に戻る。
深夜まで、黙々と勉強を続けた。
大学には、あまり苦労せずに受かった。
一応本命の早稲田だ。
低血圧の自分でも、いつのまにかそれは改善していたし。それにうすうすは分かっている。姉と同じ。
一時期から、急激に能力が伸びたのだ。
だから、家に引きこもることも多くなっている。正直な話、分かっているのだ。過酷な世界で生きていけるほど、自分は強くない。
スカウトされたら、覚悟も決めなければならないと。
遊んでいる余裕は無い。
ガイダンスを受けたあと、すぐに帰宅。
寄り道なんてしない。途中の路を効率よく使って、司法試験の勉強を続ける。司法試験を受けると決めた時期が遅い人間は、それこそ司法試験のことだけに一年二年を全て費やさなければならなくなるという話さえある。
単位を全て取得して、早稲田を出ながら。司法試験をしっかり合格するのは、難易度がかなり高い。
しかしそれさえこなせば。
後は何処でも喰っていける。
帰宅路を急ぎながら。路を歩きつつも、司法試験の参考書に目を通す。六法全書は既に手垢まみれになるほど読み込んだけれど。まだまだその程度ではとても足りない。徹底的に、今のうちに下地をつくらないといけない。
司法試験に失敗すると悲惨だ。
何しろ数千時間を費やして、なおも駄目と言うことになると。それだけ人生を浪費してしまうのだ。
数千時間のロスは、人生にとってあまりにも大きい。
学生時代なんて、人生の中で最後に遊べる時期なのだ。
それを潰して報われなかったら。
性格が、どれだけ歪んでも、おかしくは無いのである。
事実、司法試験に落ちてしまったような人間は、相当に性格が歪むという話も聞いたことがある。
司法試験に受かっても、苛烈極まりない勉強で性格に悪い影響が出ることが多いと言うのに。
それで報われなかったら、どれほどの絶望に打ちのめされることだろう。想像するだけで、悲しい。
私は考え事をしながら歩いていても、つんのめらない。
他人にもぶつからない。
どうしてだろう。ある程度集中していても、周りが見えているのだ。文字通りの意味で、である。
気がつくと、またメールが来ていた。
コードを変換すると。また不可思議なポエムが、文面の中で踊っている。これは一体、何なのだろう。
前のデータと比べてみる。
二つあわせても、規則性は見つからない。
そうなると、何かの暗号か。
姉が何かしらのメッセージを送ってきているという可能性もある。あれだけ稼いでいるのだ。
姉も、今の私と同じか、それ以上の頭になっているとみて良い。
そうなると、どうなのだろう。
やはり、危機で動けなくなっているとか。だろうか。
姉のことは、それほど好きだったわけでも無い。世間一般の、姉妹関係だったと思う。ただ、それでも、心配はする。
司法試験の勉強は、とにかく時間が必要とされるけれど。
その合間を縫って。
私は、メールの解析をはじめていた。
1、フェンス
長い冬の時代の夢を見る。
何もかもが滅びていく時代。
空は曇り果て。
絶望の吹雪が、世界をずっと覆い尽くしている。
体が大きいことが徒になって、身を充分に守る事が出来ない。餌が手に入らないのである。
それまではどこにでも、いくらでもあった餌が。
何処を探しても、存在しない。
体が大きいとき、こういう場合には徒になる。
仲間が次々に倒れていく。かろうじて洞窟を見つけて、其処で寒さを凌いでも。餌が無ければ、待つのは餓死だけ。
積み重なる同胞の死体。
それらを小さな生き物たちが貪って。むしろ繁栄を謳歌しているのを見ると、悲しくてならなかった。
食事さえあれば。
こんな奴らに、負ける事は無いのに。
世界最強の座は、いつの間にか自分たちに移っていた。
最大最強の捕食者が、姿を消したからだ。
群れになっても襲いかかってくる彼奴らがいなければ、どれだけ平穏になるだろうと、思っていたのに。
実際にいなくなってみれば、それより恐ろしい自然という怪物が、猛威を振るっているのだった。
絶望に蹲り。
身を寄せ合う仲間達は。
もう、だれも生きていない。
腐臭の中、身じろぎする。
完全に終わった世界の中でも。小さな生き物たちだけは元気に、その生命を謳歌していた。
強いという事が、却って滅びに対抗できない原因になる。
そんな馬鹿な事が、あってたまるか。
この世界の大半を覆い尽くすほどにまでいたのだ。同胞達は、文字通り陸上の最繁栄生物だった。
それが、食事が無くなったというだけで。
ずっと冬が続いていると言うだけで。
こんなにも、あっという間に滅びてしまうと言うものなのか。
外の吹雪が、少しだけ弱くなった気がする。
最後の力を振り絞って、外に。
分厚く積もった雪をかき分けて、餌を探す。場合によっては、涸れた木をそのまま囓る。
子供を作るどころでは無い。
作ったところで、卵をみなちいさな生き物たちにやられてしまう。世界は、自分たちを、排除しようとしている。
嗚呼。
どうしてこうも、我らを狙い撃ちするのか。
強い事は、罪だとでもいうのか。
空に向かって、吼える。
ほんのわずかな吹雪の隙間は。天の怒りを示すように、また激しくなり始めていた。洞窟へ戻る。死体の山の中に座り込む。
腹は減ったまま。
ほんのわずかだけ囓った木の皮は、消化できるのだろうか。
世界の事を。
恨んだ。
随分前から、鮮明に夢を見るようになっている。
姉も、姿を消す前には、似たような夢を見ていたと言っていた。それに伴って、低血圧も改善の兆しを見せていた。
前は低血圧がとにかく酷くて、朝の調子を保のに苦労していたけれど。
今ではむしろ、寝るのに苦労している。
頭が冴えて冴えて眠れないのである。
一度徹夜を連続でやってみたのだけれど。三連続で徹夜しても平気だったので、怖くて眠ることにしたほどだ。
姉も、同じような状態になっていた記憶がある。
家を出る直前は特に酷くて、一週間くらい寝ずに過ごしていた様子さえあった。
メールが来る。
田奈さんだ。
姉の友人で、感じが良い優しい人である。どうも姉の事情を知っているらしいのだけれど。詳しく聞こうと思った事は無い。
彼女はどういうわけか、此方の状況をいつも聞いてくる。
危ない目にはあっていないか。
不審者は周囲にいないか。
いつも、平穏無事だと応えるけれど。そうすると、ようやく本題に入るのだった。幾ら友人の妹に対しているからと言っても、心配しすぎだと思う。
昔は、そう思っていた。
姉が豪快に送ってくる仕送り。
それに血まみれで帰ってきたりする事。
考えて見れば、姉が相当に危ない橋を渡っているのは確実で。更に言えば、同じ橋を渡っているだろう田奈さんが。私を心配するのは、無理もない事なのかも知れない。ああ見えて、ヤクザか何かより、余程苛烈な修羅場を生きているのだとすれば、納得も出来るからだ。
メールに返信すると、何処かの喫茶に行かないかと誘われる。
今日は無理なので、三日後と返信して。勉強に戻った。
丁度試験勉強が佳境なのだ。
法学部の試験に臨んでいるから、司法試験と被る部分もある。むしろ法学関係は、簡単なくらいである。
問題はそのほかの学部の勉学。
必要ないといってみればそうかもしれないけれど。
やっておかないと、後に響く。
今のうちに司法試験の下地をしっかり作ってしまいたいのが本音なので。いっそのこと、大学に形だけしか行かないという手もあるかも知れないけれど。
そうすると、数年間、親のすねをかじり続ける事になる。
それに、大学院に行くとなると、その方がむしろ難しいかも知れない。司法試験を受けるには、大学院を出ることが必須条件になっているのだ。
司法試験を受ける人間は、場合によっては電話線も抜き、手紙なども一切見ずに過ごすそうである。勿論これは昔の話。
今だったら携帯を解約して、ネット回線も抜いて、という感じだろうか。
たとえば、一日十時間勉強したとして、一年に出来る勉強は3650時間。
5000時間で受かる場合はいい。一年と少しで受かるだろう。
倍掛かる場合は、これを三年過ごさなければならないのだから、正直な話、他にする事は全て排除してしまいたいほどだろう。
私の場合は、知能が中学のころに比べて、格段に上がっている自負があるから、七年間で年辺り1000時間ずつ確保できれば、確実に受かる自信はある。5000時間を超えたら、一度模擬試験を受けてみようとさえ考えている。
大学に出ると、講義を受ける。
メモを取りながら、その間も並行して司法試験の勉強を継続。
あまり考えなくても良いような講義の場合は。単位を取ることだけを念頭に動く。できるだけ効率よく単位を取得して、大学を出つつ。
なおかつ、司法試験を受けるかが、重要だが。
勉強だけで、人生が廻っている。
同じ大学の学生でも、人生を謳歌している連中はいる。私はルックスが相応らしいので、何だかやばげなサークルに声を掛けられたこともあった。私は、一切を拒否。司法試験合格のために、高校時代から備えてきたのだ。こんな所で、くだらない誘惑にくっするわけにはいかない。
数日が過ぎて。
田奈さんとの待ち合わせの場所へ行く。
待ち合わせの場所に行く間も、待っている間も、司法試験の勉強を続ける。私は一体、何のために生きているのだろうと、時々馬鹿馬鹿しくもなるけれど。
姉の仕送りで裕福になっている両親は、私への投資を惜しまない。
だから、生活水準自体は、悪くなかった。
結局実家で暮らすことにしたのも、生活水準の低下が予想されたからである。生活水準を下げると、勉強時間の確保も難しくなる。
田奈さんが来る。
ショートボブにしている彼女は、とても優しそうで、見ているだけで目の保養になる。ぶっちゃけた話、生半可なアイドルでは及ばないくらい容姿が整っているのだ。側で歩いていると、明らかに注目を集めるほどである。
「おはよう。 元気にしていた?」
「ええ、どうにか」
一緒に、喫茶店に入る。
注文するのはパフェ。
しかも、強烈に甘い奴だ。
司法試験の影響で、脳が糖分を欲して仕方が無い。どれだけ糖分を取っても、足りないくらいなのである。
この程度のパフェは、すぐに食べ尽くしてしまう。
一方で田奈さんは、コーヒーをブラックで口に入れている。
見かけの砂糖菓子みたいな雰囲気と、ギャップが凄い。
だがそれがまた、可愛らしいのだが。
「司法試験の勉強は順調?」
「ええ。 このまま行けば、二年時には目標時間に達します。 目指すは史上最年少の、最高裁ですよ」
「そう」
儚げにほほえむ田奈さん。
私は知っている。
この人は相当に頭が良い。昔は兎も角、今は私よりずっと良いはずだ。司法試験も、まれに二千時間くらいの勉強で受かる怪物がいるらしいのだけれど。この人は、多分それを可能にするのでは無いかと感じる。
天才では無いけれど。
頭の回転が、とにかく速いのだ。
以前、一瞬の判断で、車に轢かれそうになった子供を見事に救出するのを見た事がある。状況を先読みして動いて、完璧なまでに立ち回った。
運転手は平謝りしていたけれど。
田奈さんは柔らかく諭すと、解放していた。運転手は本当に感謝していた様子で、きっと以降よそ見運転は減るだろう。
知識量も凄い。
司法試験を受けている私が、色々話を振っても、普通についてくる。時事問題にも詳しいし、生半可な専門家より上の筈だ。
仕事は何をしているのだろう。
姉と似たようなことをしているはずだけれど。
具体的な内容については、聞けない。
あまり、良い事だとは思えないからだ。
ある意味、インテリヤクザとでも言うべき存在なのかも知れない。その言葉とは、ギャップがあまりにも凄まじいけれど。田奈さんが修羅場をくぐりまくっているのは、何となく肌で感じるのだ。
パフェを食べ終えると、次を注文。
ストレスが溜まっていると聞かれたので、頷く。
「軽くスパーリングでもして見る?」
「ええと……」
「ストレス発散には、運動が一番だよ」
そう言うと、田奈さんはなにやら葉っぱを取り出して、口に含んだ。
時々見る光景だ。
シダの葉を、彼女は口にすることが多い。それがどういう嗜好なのかはよく分からないけれど。
何より常人離れしたスペックの持ち主だ。
何かしらの自己暗示とか、変な癖か。いずれにしても、それを馬鹿にする気にはならなかった。
連れられて、ジムへ。
ジャージに着替えると、田奈さんは手慣れた様子で、ボクシンググローブを付けた。私も同じようにする。
「無理に力を入れると、拳を痛めるからね」
「詳しいですね」
「ジムには、良く来るの」
姉と一緒に、だろうか。
可能性はある。
四角いリングに上がると、軽く動き方などについて教わる。相手の死角に回り込むようにしながら、拳を叩き込む。
拳の動かし方についても、手取り足取り教えて貰った。
その後、軽くスパーリングする。
田奈さんは華奢なのに。
周囲のサンドバックを叩いていた人達が、思わずそちらを見るほど、動きが洗練されていた。
ド素人の私でも分かるくらいである。
拳を綺麗に誘導し、こちらが怪我をしないように気さえ使いながら、立ち回ってくれている。
何より、拳を入れたときの反応が、滅茶苦茶柔らかい。
文字通り羽か何かを叩いているかのように、手応えが無い。
これは田奈さんに力が無いのでは、ない。
完全に受け流されているのだ。
コツが掴めてきたので、スパーリングを継続。自分でも思ったより、かなり体力があるらしい。
しばらくスパーリングを続けたが。
攻撃は全て「当てさせて貰った」。当てようと思っても、多分田奈さんには一発だって当たりはしないだろう。
リングから降りる。
田奈さんに、ボクシングジムの人らしいごっついおっさんが声を掛けていた。最近は女子ボクシングがダイエットの一環で人気があるらしい。経験者か、トレーナーをして見ないかとか、色々言われていたが。
田奈さんは柔らかくほほえむだけで。明言はしなかった。
休憩室に入ると、軽くジュースを口にする。
その間も、頭の中では、司法試験の復習をしていた。六法全書の丸暗記は基本。そのほかにも、判例を山ほど覚えなければならない。
司法試験は地獄だ。
泥沼の中を這い回って、その中にある宝石を拾い出すような作業。汗を拭いながら、運動して頭をクリアにすると、その事実に気付いてしまう。
「一刻も早く、司法試験は突破したいです」
「陽菜乃さんも、応援しているよ」
「本当、ですか」
「ええ」
少し休んだ後、今度は水泳。
田奈さんの水着姿は、なんというか。競泳用のものであるから、あまり色気的なものは感じられなかった。
ルックスが良くても、体の方は控えめだ。
この辺り、姉とは正反対なのだと思う。
水泳は全身運動である。
三十分ほど泳ぎ回った後、ようやくジムを出ることにした。久しぶりに本格的な運動をしたのに。
別に筋肉は、文句を言う様子も無い。
私の中の筋肉は、どれだけ力を蓄えているのだろう。
幾つか、話をしながら帰る。
帰り道で、例の変なメールの事をいう。田奈さんはほほえむだけで、明確に意見をくれることはなかった。
スポーツをしてストレスを発散したからか。
多少は、勉強の効率も上がった。
ほぼ貫徹して勉強。翌日の試験は、満点を取った自信がある。
そのまま帰ってきてから、ショートケーキをぱくつきながら、司法試験の勉強に移る。黙々と勉強していると。
いつのまにか、ホールケーキが綺麗に一個消えていた。
ショートケーキが無くなった後は、飴を使う。
親が補充してくれるのだ。
飴を黙々と口に入れながら、司法試験の勉強。
勉強勉強勉強。
気がつくと、次の日になっていた。
風呂に入って、大学に出て。講義をこなして、眠って。そしてまた勉強に取りかかる。幾らこなしても、きりがない。
司法試験の勉強中、精神的な体調を崩してしまう人もいるらしいけれど。
無理もないなと、やっていて思うのだ。
ジムに出る。
黙々と、サンドバックを叩いていると。
スポーツドリンクを差し出された。
田奈さんだった。
「あ、すみません」
「また来たんだね」
「はい。 体を動かすと、頭もはっきりするみたいで」
スパーリングにつきあって貰う。
相変わらずどれだけうち込んでも、まるで手応えが無い。羽の塊でも叩いているかのようだ。
だが、動くのは楽しいし。
田奈さんに誘導されながら、確実に上達しているのも実感できる。体を動かすもののばあい、こなした数がものをいう。
水泳はいいやと割り切る。
一時間半ほど、スパーリングとサンドバック叩きを教えて貰った。
サンドバックについては、叩き方も、見せてもらう。
この細いからだから、どうしてこんな破壊力がと。見ていて驚かされる。下手をするとこの人、頭一つ分大きい男子と、真正面から互角以上にやりあえるんじゃないのか。しかも、軽く見積もって、だ。
礼を言って、帰宅。
その後は、家で猛然と勉強。明らかに効率が上がっているのが分かる。
この様子だと。
五千時間の勉強時間を。
かなり、短縮できるかも知れない。
勉強時間が三千時間を超えたころ。
過去問の司法試験に取り組んでみた。
結果は、突破、である。
かなり余裕を持って突破することが出来た。これならば、或いは。
既に大学二年。
もう四年以上の時間はある。このまま勉強を続ければ、司法試験の合格は、難しくは無いはずだ。
しかし、そうなると欲が出てくる。
調べて見ると、色々と分かっても来る。たとえば判例は、かなり弁護士や裁判官の考え方が関わってくる。
法をどう解釈するか。
その解釈を、如何にして普通の人に伝えるか。
それが重要なのだ。
専門職にしか出来ない仕事だけれど。
その一方で、こう考えることも出来る筈だ。
自由に、法を自分の手で動かせる。
つまり、社会を好き勝手に出来る。
この仕事をする人間には、高い倫理観念が求められると良く言うけれど。それは当然だと思う。
法を悪用しようと思えば、いくらでも出来る仕事なのだ。
ましてや、である。
この苛烈な勉強で、性格が歪む者も珍しくない。
なるまでのハードルが、人格も肉体を徹底的に痛めつけてしまう。それでは、法を扱う者が。サイコパスになってしまう。
ましてや法解釈がどんどん難しくなっているこのご時世だ。
悩みが募る。
その度に、ジムへ行く。
そうして、ふと気付いたことがある。
田奈さんが、老けていないように思うのである。
二十歳を超えて、少し経つ。
田奈さんは私より少し年上だったはず。だけれども。正直な話、高校生のような若々しさ、みずみずしさをそのまま保っているのだ。
ジムでスパーリングの相手をして貰う。
以前よりは、手応えを感じるようになってきた。
拳をラッシュしながら、聞いてみる。
「田奈さん、ものすごく若いですよね」
「そうかな」
「ええ。 何というか、私なんて、OLに間違われることだってあるのに」
強烈な右フックを叩き込む。
今のは自信があったのだけれど。あっさり受け流されてしまった。やはり何というか、格が違う。
最近は、専用のシューズまでかって、ジムでスパーリングをしている。
サンドバックも、自宅に置こうかと思っているほどだ。
ラッシュ。ラッシュ。連打を叩き込むが、どれも軽々と捌かれる。もうジムに来るようになってから、大分経つけれど。
未だに田奈さんには、一発も当てられていない。
時々鏡を見ると、分かるのだ。
老けてきていると。
大人の色気を得たと、好意的に考えるのも良いかもしれないけれど。
分かっているのだ。これは苛烈な司法試験の勉強で、体が悲鳴を上げているのだと。そして人間は老けると、もう元には戻らない。
久しぶりに、喫茶に誘われたので、ついていく。
山のようにケーキを頼んでしまう。
最近は、司法試験の疲れよりも。ストレスで食べる事が多かった。そして食べても食べても太らない。
それだけ頭を使っているからである。
「また、変なメールは来た?」
「はい、時々」
たまに、例の変なメールは来る。
頻度は三ヶ月に一度くらいだろうか。今までのメールもとってあるし、時々解析しているのだけれど。
どうにもよく分からない。
田奈さんにも見せてみたけれど。
首を横に振られるばかりだった。
或いは知っていても、答えを教えるわけにはいかないものなのかもしれない。
ケーキを丸ごと一つ平らげた後。
不意に、田奈さんが切り出した。
「司法試験を受かった後、真理ちゃんはどうするの?」
「まあ、裁判官を狙いますけれど」
「一つ、此方で仕事が用意できるけれど、やってみない?」
「……ええと」
嫌な予感がする。
田奈さんは、随分良くしてくれたけれど。それは、司法試験の目処が立つまで、見守っていたと言うことにならないだろうか。
事実今の状態なら。
はっきり言って、大学院を出たころなら、余裕で試験を受かる。
後は現状維持だけすればいいし。何より、知能は高校のころより更に向上している事が実感できるのだ。
これはうぬぼれではない。
単なる客観的な事実である。
ただし、その分体への負担も実感できている。
これ以上のストレスは、体を壊すことも、理解できていた。
「田奈さんは、今まで私が、陽菜乃姉の妹だって理由だけで良くしてくれていたんですか?」
「どうしてそう思うの?」
「田奈さんにメリットがあまりにも無いように思えます」
疑うようであまり気分が良くないのだけれど。
この人は滅茶苦茶に忙しいはずだ。
しかも、世間一般の理由では無い方向で、である。
スパーリングしていて分かるのだけれど。
はっきりいって、この人の動き、プロボクサーが裸足で逃げ出すほどだ。向上すればするほど分かってくる。
一度プロボクサーの試合を見た事があるけれど。
こう感じてしまったほどである。
遅い。
しかも、そう感じたのは、男子のフライ級チャンプの試合。断言できるが、今の田奈さんは、グローブ無しの男子フライ級チャンプに、余裕を持って勝てる。もっと階級が上の相手にだって、同じだろう。
そんな事は、普通は不可能だ。
スパーリングをするようになってから、ボクシングの研究をして見た。
ボクシングは非常にストイックさが求められるスポーツで、体重管理も筋肉の調整も、極めて丁寧に結果を出していかなければならない。
その上でセンスと努力が求められる。
本職は、そういった極めて地道な戦いの末の勝負をしている。
それを平然と上回っているのである。
一体どういう生活をしていれば、そんな事になるのか。田奈さんは、或いは。プロボクサーなど屁でも無い次元の相手と、日夜実戦を繰り広げているのでは無いのだろうかと、最近は考えていた。
幾ら田奈さんが私より頭が良いと言っても、それくらいしないと、プロボクサー裸足の戦闘力なんて得られるはずが無いからだ。
そして田奈さんが時々漏らす言葉からも分かるのだけれど。
陽菜乃姉は、田奈さんよりも数段強いと見て良い。
一体何をしたら、そんな人外のレベルに到達できるのか。
やはり、普段から実戦を経験していて。
似たような立場の人間をいつも求めている。そうとしか、思えなかった。
「前から疑問に思っていたんです。 田奈さんのその異常な実力、一体何処で養ったんですか?」
「うーん、そろそろ気付かれると思ってはいたかなあ」
「……」
「真理ちゃんが思っているとおり、私は普段実戦を豊富に経験しているの。 この日本で、だけではないんだよ」
やはり、そうか。
ジムで田奈さんに出くわすのは、月に一度ほどだろうか。たまにかなりの長期間、姿を見せないことがある。
そして、その度に、技量が上がっているのが感じられるのだ。
しかし、その技量は殆ど、表に見せていないとも。
つまり全然本気を出していないにもかかわらず、プロボクサーが恐れ入るほど動けている、という事だ。
「一体、何をしているんですか。 民間軍事会社、かなにかですか」
「其処まで大げさなものじゃないかな。 私達には、こういう能力が備わっているのは、感じていた?」
田奈さんが、こちらを見る。
同時に、石にでもなったように。私は、身動きが出来なくなった。
ほんのわずかな時間。
だけれど。田奈さんが拳を繰り出せば、無防備な私の首を殴り折る事くらいは、簡単だったはずだ。
冷や汗が、背中をびっしりと覆うのが分かった。
「か、金縛り!?」
「厳密には少し違うけれど。 真理ちゃんにも、こういう力があるの。 そしてこういう力がある人が、今何派かに別れていて、政府も巻き込んで争いが起きていてね」
田奈さんは、政府の要人が仕事を持ってくるランクの実力者にまで、近年は成長しているという。
笑い飛ばせない。
この人の戦闘力。
何より、今見せた力。
何というか、正体が知れないのだ。
そして、今の言葉で。この人の目的が分かった。
「本当だったら、真理ちゃんには、私と対立している組織の人が、既にスカウトに来ている筈。 それも、かなり強引に」
「い、今まで田奈さんが、それを排除していた、ということですか」
「私だけじゃ無いよ。 同じ組織の人達や、それに政府が雇っているエージェントも、だね」
ぞっとする。
要するに私は。
親鳥が卵を守るかのように、守られていた、という事か。
「司法試験が一段落した今、そろそろ好機だと思うんだ。 陽菜乃さんと同じ仕事を、してみないかな」
予想通り。
いや、最悪の予想を極める言葉を、田奈さんが言った。
2、進まぬ展望
皆を守れ。
そう考えると、自然に群れが動く。
作り上げるは、角を使ったフェンス。円陣を組んで、外側に自慢の角を差し向ける。内側には年老いた個体や子供達。
フェンスが完成すれば、例えティランノサウルスでも、手出しが出来ない。
死者を出すのは。
いつも、不意を突かれたときや。移動しているとき。
大きさで言っても。
パワーで言っても。
この防御陣形を突破出来る肉食獣は、存在しない。
雷竜と連携することもある。同じ敵がいる者同士、身を守り合うという心理が働くのかも知れない。
そうして。
我々は。
三角竜トリケラトプスは繁栄を謳歌して。そしてこの大地を覆い尽くすほどに、増えていったのだ。
今では、その名前は古いものともされる事がある。
昔、三角竜は、あまりにも多くの種が存在するとされたからだ。しかし今では、一つの種の成長段階としてまとめ上げられている。
それだけ、三角竜が。
あまりにも、大地を席巻するほどに、広がりすぎたのだ。
だからこそに、思う。
どうしてああなってしまったのかと。
大地を覆い尽くした我らの仲間が。外敵でも無い存在に、どうしてこうも容易く、滅ぼされてしまったのか。
隕石による打撃。
大津波に飲み込まれて。
何よりその後に来た、長い長い冬の時代によって。
大半の仲間が死んだ。
だが、それによって打撃を受けたのは、小さな生き物たちも同じだったのだ。むしろ、死んだ数は、小さな生き物たちの方が、遙かに多かったはずなのに。どうして、我らが滅ぶことになったのか。
感じ取ることが出来る。
世界に対する、怨念を。
我らは、強くあった。
だからこそ、世界の覇者になる事も出来たのだ。
それなのに、強いという理由で、世界から排除されたのは、どうしてなのか。弱さが理由では無く、強さが原因で滅ぶなど。あってはならないことだと、思えてならなかった。
目が覚める。
強い怨念が、全身を縛るのを感じた。
何となくから、徐々にはっきり分かるようになってきている。
起き出すと、PCを起動。
そして、調べて見た。すぐに結果は出た。あまりにも有名な恐竜だから、である。
昔それは、トリケラトプスと呼ばれていた。今では、複数の成長段階が一つにまとめられる説が強くなっても来ている。トロサウルスと呼ばれる種族にトリケラトプスが取り込まれるという話も出たが。実体は、トリケラトプスの方に、トロサウルスが取り込まれる可能性が高いようだ。
頭を振って、雑念を追い払う。
恐竜に何て興味が無かった。
6500万年前に滅び去った、古き種族。その圧倒的な大きさと強さから、今でも高い人気を誇り。そして、地上に存在した生物では、間違いなく最強を誇った生物達。誰でも知っているティランノサウルスをはじめとする彼らは。今でも、多くの人間を魅了してやまない。
しかし、である。
このような強い怨念を秘めていて。そして絶望とともに滅びていったことを、誰が感じ取ることが出来ただろうか。
PCを落とすと、司法試験の勉強。
田奈さんは言っていた。
陽菜乃姉と同じ仕事をして欲しいと。
それは、危険なはずだ。
だが、私を見守ってきたのは、投資のためでもある筈。もしも私が連れない返事をすれば、多分田奈さんだって動く。
そうなれば、おそらく。
今まで此方には関心を向けなかった、対立派閥が、必ず声を掛けてくるはずだ。
ぞっとする。
私はいつの間にか、修羅が相食む地獄へ、足を踏み入れていたのか。単にその中で、周りを守られて。
地獄の存在に、気付いていなかった、というだけなのか。
いや、多分それは違う。
今、この日本は例外的に平和だけれど。
世界では、戦乱の方が普通だ。大国でさえ、戦争を普遍的に行っているのが、現在なのである。
発展途上国へ行けば、政情不安からゲリラが活動していない国を探す方が、むしろ難しい。
世界はいつも、血煙に覆われている。
その中で平和を謳歌している先進国。特にこの国は。世界的に良く想われていないとさえ、言える。
田奈さんから、メールが来ていた。
喫茶で会おうというのである。
おそらく、断るという選択肢は無い。
私の目的は、司法試験に受かること。そのために、随分昔から、努力を続けてきた。高校時代から司法試験に向けて努力をするエリートはいると聞いているけれど。それは大体が、親に言われて調整しているのだ。自発的に、なおかつ意識的にやってきた私は、変わり種になる筈。
法を動かす。正確には調整する立場の人間が。
田奈さんの仲間になると言う事は。いや、多分状況から考えて、田奈さんは陽菜乃姉か、別の人の配下とみるべきだろう。とにかく、その派閥に加わると言う事は。彼らの組織に、大きな意味がある筈。
つまり逆説的に言えば。
敵も放って置いてはくれない、ということだ。
田奈さんと調整しないことは、単純に自殺行為につながる。それがこの世界の、現実なのである。
日程を調整。
そして私は、大学に出た。
講義でルーズリーフに要点を書き写しながら、私は思うのだ。
そもそもこの世界で、自立している人間なんていない。
いや、人間だけでは、ない筈だ。
時々夢に見るトリケラトプス。彼らも、群れを成して捕食者から身を守り、戦って生き抜いてきた種族。
近年ではティランノサウルスは戦闘力を持たず、腐肉漁りだけをしていたなどという学説も一部にはあるようだけれど。
実際には、彼らのあらゆる研究を進める限り、高い戦闘力を持つ捕食者だったことは、疑いが無いようだ。
そんな怪物が闊歩する世界で、生き抜いてきたトリケラトプスは。必然に、群れでの連携防御を身につけていたのである。
私も。
きっと、それを求められる。
講義を受け終えると、家に。
すぐに司法試験の勉強をはじめて。そして、翌日に、田奈さんと会うことにも決めた。
小さくあくびをしたのは、疲れが溜まっているからか。
いや、違う。
愕然とする。こんな状況でも、私は余裕がある。いつ、対立組織とやらにスナイプされたり、襲撃されても不思議では無いというのに。田奈さんの組織は盤石ではない筈。だって、盤石だったら、そんなに激しく戦闘経験など積む機会がない筈だ。田奈さんが下っ端だとは、とても思えない。
そんな立場の人間が、豊富すぎるほどに実戦を経験しているのである。
状況は、想像より遙かに悪いとみて良いはずだ。
私は、小娘のままだったら、幸せだったのだろうか。
こういうことを、即座に判断できるようになって。そして、組織でも求められるようになると。
恐らくは、もっと深い闇に踏み込んでいくことになる。
両親はそれを喜ぶのだろうか。
陽菜乃姉だって。
私は一体、どうなるのだろう。
このまま進んでいくと、遠からぬうちに、あまりにも普通から逸脱した化け物になってしまうような気がしてならなかった。
田奈さんは、今回別の人を連れてきていた。
かなり年下に見える女性だけれど。実際には年上だという。
名前を聞くと、彼女はにこりと、幼さが露骨に残る笑みを浮かべた。私達より年上だというのに、である。
「アースロプレウラって知ってる?」
「はあ、確か石炭紀に存在した超大型のヤスデでしたっけ」
「田奈ちゃん、要するにまだその名前は教えていないのね」
「そう言うことです」
話が見えない。
その上で、田奈さんが言う。
自分の中には。かって石炭紀の森で覇者として君臨した、アースロプレウラがいるというのだ。
笑い飛ばせない。
私だって、自分の中に、どうやらトリケラトプスがいるらしいと、感じ始めていたからである。
あの憎悪。怨念。
とてもでは無いが、自発的に産み出したとは考えにくい。
永遠に続くかと思われる地獄の冬。
闇の時代の中を生きながら。絶滅していく同胞を見る無念。とてもではないが、実感しないと得られないはずだ。
「うちはね、その能力で互いを呼んでるの。 私はユタラプトル。 田奈ちゃんは、アースロプレウラ。 ちなみに陽菜乃ちゃんは、ティランノサウルスね」
「時代が一致しませんね」
「必ずしも、同じ時代の生物が共闘してるわけじゃないから。 ただ、白亜紀の生物が互助組合みたいのを最初に作って、最近新しくどんどん生まれている能力者を取り込んでいるのは確かかな」
荒唐無稽と書いて額縁に入れたような話なのに。
それなのに、どうしてか。私は、それがあり得ることだと思ってしまう。
喫茶で、コーヒーを頼む三人。
私も流石に、今日はケーキを頼もうとは思わなかった。
ただ、コーヒーにはクリームと砂糖をたっぷり入れたけれど。流石にブラックでは飲もうと思わない。
「田奈ちゃん、いやアースロプレウラがもう能力の一端は見せたと思うけれど。 真理ちゃんは、何かそれらしいものは身につけた?」
「いえ、全く」
「そうなると、まだ特殊能力覚醒には到っていないのか。 司法試験って話を聞く限り、知能と体力は著しく向上しているみたいだけれど」
「いいえ、おそらくもう能力には覚醒していると思います」
不意に、田奈さんがそう言った。
そんな事をいわれても。
私は変な力なんて持ち合わせていない。
司法試験だって、自分の努力で、合格圏内に入ったのだ。早稲田に受かったのだって、同じ事である。
「変なメールについて、あれからどうなっているの?」
「はあ、定期的に来ていますけれど」
「調べて見たのだけれど。 どこからもそのメール、送られていないの」
は。何を言っているのか。
しかし、である。
田奈さんが言った方法で、メールのソースコードを調べて見ると。確かにメールサーバがブランクとなっている。
背筋を悪寒が昇りあげた。
確かにメールサーバを偽装するようなやり方はある。スパムメールなどでは、日常的に使われている手法だ。
だが、調べて見て、ソースを解析した上で。
メールサーバが見当たらないというのは、あまりにもおかしい。そもそも、どこからも送られてきていない、と言うことになるからだ。
「きっとそれが、能力に関係していると思うよ」
解析は任せると、田奈さんは言う。
このメールは、それほどに恐ろしいものだったのか。
後は、連絡先のアドレスを教えられて。解散となった。これから能力がはっきりしたら、仕事の手伝いもして貰うと、言われた。
かなり強引な勧誘というか。決定面接のようにも思えたけれど。
ただし、私としても、分かっているのだ。
この人達の庇護が無ければ。
多分もう、この世で生きていくことは、出来ないのだと。
吹雪の中。
ついに力尽きる。
もはや体が動かない。
餌も食べていないから、力が出ないのだ。
むしるようにして食べた枯れ木なんかでは、とても力が出ない。青々とした草で無ければ。
弱いから滅びたのでは無い。
私が最後の一体だと言う事は、わかりきっていた。
それでも、はっきり言う。
弱いから、私は負けたのでは無いのだ。
薄れゆく意識の中で、多くの仲間の無念が、流れ込んでくる。このような世界は間違っている。
せめて、この悲劇を、誰かに伝える。
いずれ繁栄する、別の種族に。
同じ轍を踏まぬように、この力と記憶。そして憎悪を、確実に継承しなければならないのだ。
気がつくと、渦の中にいた。
多くの絶滅生物がいた。
殺し合った相手もいる。だけれども、此処ではもう、敵では無かった。世界によって滅ぼされた、同志でしか無かった。
お前達で、最後だ。
そう、ティランノサウルスの意識に言われる。
そうか。同胞達は。三角竜の種族は。滅びてしまったのか。
だが、不思議だとは思わない。あの地獄の中で、生き延びること何て、出来る筈も無いからだ。
小型の一部は、鳥と呼ばれる種族へと変わって、生き残ったようだけれど。
それはそれだ。
探す。
この無念から、逃れるための種族を。
やがて、見つける。
不釣り合いなほどに発展して。世界を覆い尽くしていく怪物を。
二足歩行の、小さな生物。
ただし、脳に関してだけは、異常発達しているようだ。
あれがいい。
渦の中にある意識が、流れ込んでいく。
同じ過ちを繰り返させない。種族としての知識と能力、それに経験をつぎ込めば、力ある存在になるはずだ。
今度こそ。
今度こそ、あの理不尽な運命を覆す。
弱かったから滅びたのでは無い。
強かったのに、理不尽に滅びたのだ。そのような事、二度と繰り返させてなるものか。
目が覚める。
あのメールが、届いていた。
胸に詰まるような憎悪と怨念の記憶は、容赦なく体を痛めつけていた。司法試験の勉強で疲れ果てた体だけれど。
毎度見る夢のせいで、回復には遠い。
温泉にでも行くか。
甘い物でも食べるか。
どちらかを選ばないと、とてもではないが、大学まで行って講義を受ける余力は無かった。
ぼんやりとしながら、今まで来たメールを並べてみる。
これは一体、何なのだろう。
英語で、不気味なポエムが書かれている。
さながらマザーグースのようで。
なおかつ内容は意味不明だ。
今回来た詩は、焼け焦げたフライパンに乗せられたガチョウが、狂った男に焼き櫛で突き刺されながら、訳が分からないダンスを踊るという陰惨なもの。
思わず光景を想像して、口を押さえてしまった。
今まで来たメールも保存してあるから、内容を吟味してみる。
これが特殊能力だというのか。
何の役に立つのか。
事実を予言したものだとは思えない。
というのも、身近でメールが来たからと言って、おかしな事件は起きていないからである。
かといって、この異常なメールが、どこからも送信されていないのもまた、事実なのである。
何が此処には秘められているのだろうか。
色々暗号解読の資料も読んでみたけれど。参考になりそうなものはない。そうなると、文章そのものに、意味は無いのかもしれない。
分からない。
一体何が、このメールにはあるのだろう。
携帯自体も調べて見る。
今まで、二回携帯を換えているけれど。
不可思議なメールは、その全てに着信している。
携帯を換えて、アドレスを変更しても、ちゃんと届いているのだ。メールサーバを介して届かないというのは、おかしな話である。つまり携帯に、私自身の能力で、届けているという事か。
それならなおさら分からない。
どうして直接的に、メールが届かないのだろう。
何よりもおかしいのは、そもそもだ。
私にどうしてそんな能力が備わったのか、という事だ。
夢の内容が、もし本当だったとして。
強い怨念が、最も繁栄している種族に宿って。それで何になるというのだろう。種族の繁栄を促すのが目的なのか。
それとも、何か別の理由があるのだろうか。
これも分からない。
確かに人間社会は今、どうしようも無い方向へ進んでいる。それを是正させることが目的なのか。
恐竜は隕石が落ちたときには、既に種族として衰退に向かっていたと聞いたことがある。
6550万年前に起きたインド亜大陸での大噴火や、南半球で続いていた地球規模での環境異変のせいで、対応能力をなくしていたというのだ。
そこへ、隕石がとどめを刺した。
だとすれば。
一体どうして、今人間に。
まさか、また隕石が落ちるというのだろうか。
いや、それも考えづらい。
現在の天体観測技術によると、直径十キロクラスの隕石が地球に落ちる可能性は極めて小さい。
太陽系にある小惑星は殆どが軌道まで解析を完了しており、当面大型の小惑星が地球に落ちる可能性はないと言う事だ。
世界中にいる天文マニアが、新しい星を探す事を熱心に行っている今、政府などが地球に落ちる隕石を隠蔽するのもまた難しい。
だとすると、別の危機だろうか。
そもそも恐竜が滅びたのは、隕石よりも環境変化による弱体化が大きい。あまりにも強く、大きかった恐竜たちは。
破滅的な環境の変化に、対応しきれなかったのだ。
強かったが故に滅びてしまった。
そうなると、人間は。
人間は、どうなのだろう。
メールがまた来た。
こんな頻度で来るのは、初めてだ。内容を確認すると、また不気味極まりないポエムである。
これでも司法試験を志す身だ。
辞書など使わなくても、この程度の英文は、即座に読むことも出来る。内容を確認する限り。
先と大した差が無い、陰惨で破滅的な内容である。
ため息が出る。
田奈さんに連絡を入れると、アドバイスが無いか聞いてみた。田奈さんは忙しくなかったのか、相談に応じてくれた。
「能力が強まっているか、それとも能力に対応した何かが起きたのか。 注意深く周囲を観察した方がいいよ」
「やはり、そうなりますよねえ」
「後、周りの人はどう? 何か起きていない?」
一応確認するけれど。
両親は普通に仕事をしている。何か職場で事故が起きていると言うようなことも無い。
田奈さんとの電話が終わった後、少し調べて見るけれど。
その間に、両親とも帰宅していた。
つまり危険予知の類では無いということだ。しかも、二人とも、何かしら怪我をしているようなことも無い。
職場でトラブルも起きていないそうだ。
ならば一体、このメールは、何なのだろう。
分からないので、適当に勉強を済ませた後、寝ることにする。
能力の解析よりも。体調を適正に保って、司法試験に備える生活をすることの方が、自分には大事なのだ。
3、三角の突進
目が覚めると、違和感が非常に強くなっていた。
起きられない。
ベッドに縛り付けられているかと思ったほどだ。全身にぐっしょりと汗を掻いていて、とてもではないが、まともに動けそうにない。
風邪か。
分からないけれど、今日は外出できないだろう。寝返りを打ちながら、携帯を探す。見つけ出した携帯を使って、親にメールを送った。
親が部屋に来る。
「どうしたの、風邪?」
「分からないけれど、とにかく動けない……」
「ちょっとまっていなさい」
体温計をすぐに持ってくる親。
しばらくすると、結果が出た。ぼんやりしながら、それを聞く。熱が四十度近く出ているという。
なるほど、これは動けないはずだ。
促されて、医者に。
これは講義には出られないけれど。幸いにも、今日は大学の講義が無い日なので、大丈夫だ。
ただ、長引かせるわけにはいかない。
医者で診察を済ませると風邪では無いと言われた。インフルエンザでもないと言う。念のために検査入院して、色々診察したけれど。特に変なところは無いと言われた。一応解熱剤は投与されたけれど。
熱は下がっても、体の調子が悪いことに変わりは無い。
身動きできず、ぼんやりとしている内に、次の日が来てしまった。
ある程度は良くなったけれど。
それでも、体が重く感じる。
講義には出たけれど。いつも通り頭が働いてくれない。家に帰ると、そのままベッドに直行。
ぼんやりしていると、次の日が来てしまった。
何だろう、これは。
二日分の遅れは大きい。
司法試験の勉強を進めるけれど。効率があまりにも悪すぎて、まともに勉強が出来ている気がしない。
「真理、大丈夫?」
「……あまり大丈夫じゃ無い」
そうとしか、様子を見に来た親には応えられなかった。
解熱剤を飲むけれど、それだけでは体調も改善しない。そしてふと携帯を見ると、メールが数十通も届いていた。
ぞっとする。
本当に一体、これは何が起きているのだ。
体調が良くなったのは、翌日のこと。
どうにか体の調子も一段落して、随分と軽くなったように思える。様子を田奈さんがみにきてくれたので、部屋に入って貰った。
幾つかのスポーツ機具を、田奈さんが持ってきたので、言われるままに使う。
何かを測定しているようだけれど。
目的は、正直よく分からない。
「なるほど、ね」
「これ、一体何ですか?」
「大体分かったけれど、真理ちゃんの能力、自分の体に起きている変化について知らせているものだと思う」
「へ?」
グラフを見せられる。
今までの推定数値と比べて、格段に上がっているというのだ。
そんなものいつ測ったのだろうと思ったのだけれど。考えて見れば、ジムで何度も一緒に鍛えたのだ。
それくらい、測るタイミングは何時でもあったはずだ。
「能力が完全覚醒したのかも知れない。 その反動で体に負担が掛かって、熱が出たんじゃ無いのかな」
「でも、何か変わった様子は別に無いですけれど」
「能力の中には、特殊なことが出来る場合と、そうでは無い場合があるの。 真理ちゃんの場合、単に力が強くなったり、頭が良くなったりしただけかも知れないよ」
「頭が、ですか」
全く実感は無い。
そもそも、今まで計画的に生きては来ているけれど。自分のスペックが天才的だとか思った事は無い。
常人よりは多少マシかも知れないけれど。
天才という奴は、それとは格が全く違うのだ。
実際に、大学では特化型の天才を時々見かける。そう言う人間は、思考回路が根本的に普通の人間とは違う。
ジムに誘われたので、一緒に出る。
スパーリングしてみた。
体がかなり軽く感じるけれど、あまり田奈さんとの差は分からない。一時間ほど動いてみたが、今まで同様、まるで当てられなかった。
しかし、である。
サンドバックを叩いてみると、露骨に違いが出た。
一撃で、サンドバックがかなり動く。
おおと、周囲から声が上がったほどだ。
「すげえぞあの女!」
周囲で、わいわいとはやし立てる人々。
もう一撃。本気で叩き込むと、サンドバックが激しく揺動した。慌てて飛び退かないと、帰ってきたサンドバックに吹っ飛ばされるところだった。
散々ジムに通って、田奈さんに教えられてコツは掴んでいるから、今更拳を痛めるようなことは無い。
田奈さんは腕組みして見ていたけれど。
別のジムに連れて行かれる。
かなり大きなサンドバックがあった。其処に向けて、タックルを浴びせて欲しいというのである。
タックルか。
やった事は無いけれど、面白そうだ。
やり方を、田奈さんに教わる。
力の込め方。
どうぶつかるか。
聞いてはみたけれど。実際に突入の姿勢を取ると、何というか、これ以上も無いほどにしっくりくる。
全力で体当たりを浴びせると。
普段使っているサンドバックより遙かに大きなそれが、ドカンと凄い音を立てて向こう側に吹っ飛ばされた。
慌てて田奈さんが、此方に引っ張る。
戻ってきたサンドバックは、振り子のように、激しく揺動を続けていた。
「こ、これ、私がやったんですか?」
「……本当にこれが、真理ちゃんの能力なのかな。 どうもメールによる身体変化の宣告と、あわないような気がする」
「田奈さん?」
「何か嫌な予感がする。 しばらくは気をつけてね」
田奈さんの表情は、今までに見たことが無いほど、真剣そのものだった。
それからは、意識的にパワーをセーブしなければならなかった。
気をつけないと、食事時に箸を折ってしまう。
ちょっと力んだところで、電車の中吊りを引きちぎってしまいそうになる。それだけじゃあない。
ドアを開けようとして、ノブを千切りそうにさえなった。
力が、今までとは確かに段違いに上がっている。
メールは、それからも何通も来た。
いずれも理解しがたい内容だ。中身を全て確認はするけれど、どれもこれも抽象的なポエムで、身体強化にはつながっているとは思えないのである。
本当に、何が起きているのだろう。
いずれにしても、入院するほど酷い体調悪化には、ここのところは見舞われていない。
司法試験の勉強についても、遅れを取り戻した。それどころか、更に順調になったほどだ。
そして、不意に、事態が動き始める。
変化はあまりにも急で、私も対応できなかった。
大学からの帰り。
いきなり、周囲を複数の男に囲まれたのである。
非常に筋肉質な男がリーダーらしい。他の連中も、黒スーツを着込んで、サングラスで人相を隠している。
「トリケラトプスだな」
「貴方は?」
「ギガントピテクス」
聞いたことがある。
それは確か、絶滅した最大級の霊長類だ。ゴリラより更に筋骨たくましく、身長は三メートルに達したという。
中国で目撃例があるUMA、野人の正体では無いかという噂もあるけれど。
いずれにしても、そんな風に名乗ると言う事は、田奈さんの身内か、敵。そしてこのいきなりな接触から見て、敵と見て良いだろう。
或いは田奈さんがいる組織の内部分裂とかかも知れないけれど。いずれにしても、この場からは逃れた方が良いはず。
のうのうとしているという選択肢は無い。
「何かするつもりなら、大声出すけれど?」
「無駄だ」
「!?」
そういえば。
周囲の音が聞こえない。
大学からの帰り道である。それほど人通りが少ない場所でもない筈なのに。どうしてだろう。
先ほどから、通行人の一人も見かけないのである。
迂闊だった。
おそらく、大学からの帰り道。ずっとこの大男につけられていて。
以前田奈さんが使ったような能力によって、隔離もされてしまったと見て良いだろう。もう、何が起きても不思議では無い。
「私を、どうするつもり?」
「連れて行く。 エンドセラス様がご執心だ」
「エンドセラス……」
確かそれは、直角貝の名前の筈。
四億年くらい前に海で栄えた、十メートルを超える事もあった巨大な生物。当時の海で、最強を誇った捕食者だ。
確かにそんな怪物なら、ギガントピテクスが仕えていても不思議では無いのだろうか。
左右をうかがう。
周りを囲んでいる数人は。正直な話、大した相手では無い。
田奈さんから比べれば、子供みたいな腕前だ。
私でも、充分にどうにかできる。
問題は正面に立っているギガントピテクス。体が大きいというのもあるのだけれど、それ以上に威圧感が凄まじい。
ジムでスパーリングとかしていると分かるのだ。
戦って勝てるかどうか。
多分此奴には、勝てない。
田奈さんでも勝てるかどうか。はち切れんばかりの筋肉は、文字通り生きた殺戮兵器と化している。
「抵抗しなければ、手荒なまねはしない」
「抵抗するに決まっているでしょう?」
「お前はティランノサウルスの妹だったな。 だから、きちんと備えもしてある。 逃がすと思っているのか」
気付く。
まだ他にいる。
周囲に、びりびりくるような圧迫感。
音が無い空間の外側に。
多分このギガントピテクスより更に格上の奴がいる。
背筋が凍り付くかと思った。
見られているだけで、全身が固まりそうだ。そのまま、口を押さえられ、ギガントピテクスに取り押さえられる。後ろ手に縛り上げられて。更に、足も縛られて、ぎゅうぎゅうに固められた。
「何するのよ!」
「お前達、はこべ」
「は。 ただちに」
タクシーが来る。
この様子だと、タクシーも連中の手先なのだろう。捕まったら最後だ。無事に帰られるとは、とても思えない。
ならば。
私を抱え上げようと、サングラスの男達が動いた瞬間。
私は、ため込んでいた力を、爆発させた。
何が起きたのか、私にもよく分からない。
気がつくと、手足の拘束は解けていた。無理矢理に引きちぎったらしい。それだけではない。
左右にいたサングラス達を吹っ飛ばして。
地面を爆砕して。
そして、駅にまで逃げ込んだのだ。
呼吸を必死に整える。
爆発事故だとかで、騒ぎになっているのが分かった。爆発事故か。乾いた笑いが漏れてくる。
自分が爆発事故を起こした犯人ですと名乗り出ることはとても出来ない。
それにしてもあの一瞬で、何が起きたのか。
自分とはとても思えない動きで包囲を突破。多分ギガントピテクスも、やつ以上の使い手も、周囲には潜んでいたはずなのに。
誰も突破を止められなかった。
私は、どうなったのか。
携帯にメールが来る。それで、やっと能力について分かった。今朝来たメールが、そして今の状況が、それを物語っていた。
監視者の数だ。
それも敵意を持って監視している者の数。
メールの内容も、大まかに監視者について、知らせている。
ただし、極めて抽象的だ。
今朝来たメールの内容を吟味すると、確かにギガントピテクスを思わせるものがあったのだ。
他にも幾つかあったけれど。
気になるのが、背びれという記述。
背びれとは、どういうことか。
「逃がさねえよ」
ふつりと、周囲の音が途切れる。
気がつくと、周囲は荒野のようになっていた。
頭に包帯を巻いたギガントピテクスが、此方に歩いて来る。もう一人は、パーカーを被った若い男。
見るからにチンピラという雰囲気だけれど。
何だ此奴は。
「ディメトロドン、距離を取れ。 此奴の身体能力は、お前を遙かに凌いでいる」
「新参のくせに、俺に命令かギガントピテクス」
「事実を指摘しただけだ」
「へいへい、分かっていますよ」
若造が飛び退く。
それだけで分かったけれど。此奴の身体能力も、生半可な人間のそれとは段違いだ。化け物の群れの中に、入り込んでしまったようだ。
生唾を飲み込む。
さっきのサングラス達はいないけれど。
ギガントピテクスは本気だ。
しかも、それだけじゃない。
白衣の女が、いつの間にか荒野の岩に座っていた。岩から降りて、着地したそいつは。ギガントピテクスよりも、更に凶暴な気配を放っていた。
「手を出すなよ、ダンクルオステウス」
「あんたが負けなければね」
せせら笑う白衣の女。
さてはさっき隠れていたのは此奴か。見た瞬間に分かるが、ギガントピテクスよりも更に格上の使い手だ。
この周囲の空間の様子から言って、逃げるのは無理。
多分、状況証拠から言って、この状態を作っているのは、あのパーカーだろう。彼奴さえどうにかできれば。
「もう少し下がってろ、ディメトロドン。 お前が潰されたら、捕獲も失敗する」
「うっせえ猿。 これ以上大きな口を利いたら承知しねえぞ」
「ディメトロドン」
「……っ! 分かってるよ。 今はテメーの方が立場が上だもんな」
パーカーと筋肉質の関係が何となく見えてきたけれど。
それにつけ込める隙が無い。
しかもギガントピテクスを下しても、さらに実力が上のダンクルオステウスが控えている。
ダンクルオステウスと言えば、エンドセラスの後の世代に、海を支配した最強の魚類だ。今でも多く化石が残っている、強面の見るからに恐ろしげな凶暴魚類である。あんなのの力を秘めているのなら、一体どれだけの実力なのか。想像だにできない。
「少し手荒に行くぞ。 先ほどは侮りすぎた。 完全に黙らせてから、連れて行く事にする」
「手加減はしてくれそうにもないね」
「むしろ先ほどは失礼したな。 全力で、戦士として向かわせて貰う」
油断は、してくれそうにもないか。
しょうがない。
田奈さんに鍛えられたのだ。此方も、黙ってやられてやるつもりはない。
上着を捨てると、ステップを踏み始める。
向こうも此方がボクシングをやっていると、すぐに気付いたようだった。体勢を低くする。
足下を狙ってくるつもりか。
ステップを踏みながら、相手に近づく。
そしてある一点で、いきなり戦術を変えた。
突進。
全力での。
サンドバックを吹っ飛ばした、あれである。
三角竜も、こうしてティランノサウルスを撃退して、子供や年老いた個体を守ったのだ。
ただし、狙うのはギガントピテクスでは無い。
距離を取ってみていたパーカー男。
しかも。
私は空間を飛ぶかのように、四十メートル近い距離を、瞬時に制圧していた。パーカー男が目を見開く。ディメトロドンと言ったその男が、他二人に比べて身体能力が低いのは見るだけで分かっていたし。
何より、実際に能力を使う奴を見て、私も高速で学習を開始できていた。
肩口から、全力でタックルを浴びせかける。
避けるなんて、不可能だ。
血反吐を吐きながら、ディメトロドンが吹っ飛ぶ。
パーカー男は地面でバウンドして、何度も回転しながら、吹っ飛んでいった。水切りのように、地面で何度もバウンドする様子は、心配にさえなった。
「貴様……!」
ぞわりと、背中に浴びせられた殺気を感じ取って、全身が総毛立つ。
ダンクルオステウスとかいう、白衣の女に違いない。だが、狙い通り。世界が不意に歪んで、荒野は消え失せていた。
電車が来る。
私は飛び込む。
いつの間にかホームにいた白衣の女は、それをまるでホラー映画の幽霊みたいな目で見ていた。
ギガントピテクスは。
既に電車に乗っている。
あまり混む時間帯では無いから。私と、距離もそうない。筋肉男なのに、機転が利く。いや、それは偏見か。
近くで見ると、愛嬌も無い男だ。顎は四角いし、目つきもぎょろりとしている。筋肉そのものにも、理論的に鍛えた痕跡が見て取れた。
「此処で、やり合うつもり?」
「そうしても良いかと思ったが。 今のタックルを見る限り、俺一人では確実にお前を捉えることは出来ないな」
すばやく男はスマホを弄り、メールを送信する。
最寄り駅に、部下を集合させるつもりか。
私は、次の駅で飛び出す。ギガントピテクスは、悠々と電車を降りると、追ってくる。此方も身体能力が上がっているはずなのに、平然とついてくる様子は、流石に練り上げられた力を感じる。
「三角竜に、たかが猿人が勝てると思ってるの? 漫画の世界じゃないんだよ」
「元の生物が何かは、あまり関係が無い。 お前の所にいる猛者の中には、元は大した生物では無い奴も結構いる。 アースロプレウラなどが良い例だろう」
「田奈さんは……」
確かに体長三メートルとはいっても、所詮はヤスデだ。
当時のシダの森で、天敵がいなかっただろう存在だとしても。恐竜や大型ほ乳類に比べれば、確かに貧弱な存在である。
だが単純に田奈さんは強い。
どうしてだろう。
滅茶苦茶に走るわけにはいかないけれど。
この辺りは、まだ土地勘がある。
ギガントピテクスは一定距離をおいてついてくる。曲がり角などを使って攪乱しようとするけれど、それでも振り切れない。多分気配か何かを読んでいるのだろう。
格闘戦はリスクが大きすぎる。
交番に逃げ込んでも、此奴を取り押さえるのは無理だろう。
機動隊が五十人いても、蹴散らされる可能性が高い相手だ。それこそ武装した軍隊が、殺すつもりで掛からないと、制圧は無理。
殆ど特撮に出てくる怪人レベルの相手である。
国家権力なんて、役に立たない。
狭い路地に追い込まれた。
前に、人影。
白衣の女。
あり得ない速さだ。ダンクルオステウス。
目には凄まじい憎悪と殺気。
部下じゃ無くて、此奴にメールを送っていたのか。
「手間取らせてくれたな。 もう少し穏便に行こうと思ったのだが」
「……っ」
「おい、猿。 首の骨を折っても良いか? それくらいしないと、安心できないだろ」
「止めろ。 ボスは生かしたまま連れてこいと仰せだ」
白衣の女は聞こえていない様子で、手をポキポキ鳴らす。
舌なめずりしているのは、何故だろう。
「じゃあ腕一本な。 丁度久々に人肉が喰いたいと思っていた所だ」
「制圧のためにそれが必要なのか」
「ああ。 そうでもしないと、動きは止められまい」
周囲に、誰もいない。
袋小路に等しい場所。
その上、ダンクルオステウスもギガントピテクスも、付け焼き刃の私よりは身体能力も上の筈。
さっきの奇襲も、既に見られている。
詰んだ。でも、降参したって、無事に済むとは思えない。素早く左右を見る。だが、考える隙を与えてくれなかった。
滑らかに、水が流れるように。
懐に、ダンクルオステウスが飛び込んできた。
洗練され切った動きだ。どれだけの実戦を積み重ねれば、此処まで動けるようになるのだろう。
手が、伸ばされる。
反射的に悟る。掴まれたら、終わりだ。
飛び退こうとするけれど。後ろには、ギガントピテクスが、腰を落として、いかなる状況にも対応できるよう、身構えている。
ボクシングのステップをするように、ジグザグに後ろに下がる。
殆ど間を置かず、ダンクルオステウスも動く。ボクシングのステップと違って、流水のようなその動き。多分何かの武術だ。
「後二手」
ひょうと、拳が空を切る。
掴まれたら終わりというのが分かっているから、下がらざるを得ない。
しかし其処は、もうギガントピテクスの射程内。横に、逃れるしか無いけれど。
ブロック塀にぶつかる。
左右に、ギガントピテクスと、ダンクルオステウスが動く。
残忍に、ダンクルオステウスが笑みを浮かべた。
逃げる場所が、もう無い。
さっきのタックルと同じ要領で、空間を飛ぶ。包囲を抜けて、着地。しかし、その瞬間。真後ろに追いついていたダンクルオステウスが、背中に蹴りを叩き込んでいた。
吹っ飛ばされて、硬いコンクリートで受け身を取る。
無様に腰を打ったりはしなかったけれど。
確かに、二手で詰みだった。
呼吸を整えながら立ち上がろうとするけれど。
後ろに回ったダンクルオステウスが容赦なく蹴りを入れてくる。
地面に叩き付けられた私を。
二対の冷酷な目が見下ろしていた。
「さて、手間取らせてくれた礼だ。 腕を一本食いちぎってやろうな」
此奴は、その言葉を脅しで言っているのでは無い。
更に、脇腹に蹴りを叩き込まれる。
息が詰まる。
仰向けになったところを、腹を踏まれた。
情けない悲鳴が漏れた。勿論、誰も此方を見ようとはしない。明らかなリンチだというのに、である。
そういえば。
人通りの多い駅などでも、今は暴力が行われていても、誰も見向きもしないものだ。警察だって呼ばないことが多い。
関心がないと言うよりも。
誰も、関わり合いになりたがらないのである。
自分さえ安全ならば良い。
そう考えるのが、普通になっている。
だからこんな奴らが、好き勝手にのさばるのだ。
ダンクルオステウスの蹴りが、容赦なく腹を抉る。昨日食べたものを、全てはき出してしまいそうだ。
分かる。意図的に手加減している。
徹底的に痛めつけて、抗戦の意思を削ぐつもりだ。
さっきの空間転移は、何度も何度もできる事では無い。もしやるなら、必殺の好機を狙わないと。
だが、痛みで、頭が働かない。
無理矢理立たされる。
拳を、鳩尾に叩き込まれた。
もう悲鳴も出ない。
ブロック塀に叩き付けられて。白衣の女が、愉悦の表情を全く浮かべていないことに気付く。
それどころか、此奴は。
完全に獲物を見る捕食者の目をしていた。
獰猛かつ凶暴な。
獲物を食いちぎることだけを考えた身体構造をしていた、恐魚ダンクルオステウス。残っているのは、装甲と一体化した体の前半部分。その前半部分が尋常では無く頑強だったから、今でも化石化して発掘される。
料理の下ごしらえをするのと同じ感覚で。
此奴は、私を痛めつけているのだ。
不良共が、快楽のために弱者を嬲るのとは根本的に違う。
私が、遅かれ早かれ足を踏み入れた世界が、此処にあった。此奴は、筋金入りの、化け物だ。
ダンクルオステウスが、私を離す。
地面に尻餅をついた。
もう、抵抗する余力も無い。ぼんやりとダンクルオステウスを見上げる私。白衣の殺戮魔は、手を開いたり閉じたりしていた。
ああ、腕を本気で引きちぎるつもりだ。
ぼんやりと私がそう思った時。
真横から。何かがダンクルオステウスに、叩き付けられていた。
着地したのは、田奈さんだ。
普段着のまま。
表情も変わらない。だけれど、なんだろう。
近づきがたい雰囲気が、確実に其処にはあった。
今のとんでも無いドロップキック、本当にこの人が放ったのか。体格が一回り以上上のダンクルオステウスが、完全に吹っ飛んで、地面に叩き付けられていた。
ギガントピテクスが向き直る。
奇襲に気付いていなかった様子だ。
「アースロプレウラ……っ!」
「お久しぶりです、平塚先生。 もうエンドセラスさんに反旗を翻す覇気は無いんですか?」
「黙れ……!」
立ち上がったダンクルオステウス。
因縁の相手なのだろうか。
田奈さんの声には、怒りも憎悪も無い。淡々と、ただ敵意だけが込められている。それに対して平塚と呼ばれたダンクルオステウスは違う。おあずけを喰らったばかりか、餌を持って行かれてしまった犬のような顔をしていた。
「よく頑張ったね。 足止めを黙らせるのに、少し時間が掛かったの」
「ほう。 アーケオプテルスを倒したのか」
「ううん、後続部隊に任せたの。 さて、これで二対二だね」
田奈さんは、此方を見ない。
それだけのレベルの相手と言う事だ。私はそんなのを相手にして、逃げ回っていたのか。殺されずに済んでいたのか。
「真理ちゃん、ギガントピテクスさんの相手をお願い」
「も、もう立ち上がれません、けれど」
「お願い」
ぞくりと、背筋に寒気が走った。
田奈さんの言葉には、気遣いの欠片も無い。
相手が、それだけの次元の存在、という事を如実に示していた。
白衣の女。平塚と呼ばれたダンクルオステウスが、白衣を脱ぎ捨てた。タートルネックの黒セーターを来ているが、あれは。
そうか、返り血を目立たないようにするためなのか。
本気になったという事だ。
「お前とやり合うのはこれで三回目だな。 もう奇襲は通用しないぞ」
「さっき奇襲を浴びたのに?」
「黙れ」
コンクリの地面が、砕けた。
踏み込みだけで、ダンクルオステウスが砕いたのだと、必死に飛び退きながら気付く。突き出された正拳が。多分トラックでも粉砕しそうなそれが。田奈さんの寸前で止まっていた。
勿論体勢から言って、田奈さんを殺そうと、一撃必殺の気合いで放たれたものの筈なのだけれど。
どうして、止まっているのか。
「正拳は全身の動きを使った大技。 もう私には通じません」
「がああっ!」
足を引っこ抜いたダンクルオステウス。
しかし、その体が、地面に叩き付けられる。田奈さんは一歩も動いていない。いや、違う。多分動けないのだ。
田奈さんが全力で能力を展開している。
一方的な戦いに見えるが、違う。ダンクルオステウスの動きを先読みして、複雑に能力を使っている。
ダンクルオステウスは、それに力尽くで対抗している。
そして、ギガントピテクスは、その能力の範囲外だ。
だから、私に頼むと言ったのか。
呼吸を整えながら、立ち上がる。
ギガントピテクスは携帯を取り出して、増援を呼ぼうとするが。怒りが一瞬だけ浮かぶのが見えた。
多分増援が、何らかの理由で、すぐには来られないと言うことだろう。
「まあいい。 お前を黙らせれば詰みだ。 今のダンクルオステウスに、アースロプレウラだけで勝つのは無理だ」
田奈さんの拘束を無理矢理解いたダンクルオステウスが、もはや野獣そのものの表情で、飛びかかる。
冷静に、私のものとは比べものにならない流麗なステップで下がった田奈さんの足下が。
ダンクルオステウスの振るった拳で、大きく抉られていた。
コンクリの地面を、一撃で抉る拳。
つかみに掛かってくるわけだ。
あんな腕力に捕らえられたら、助かるわけが無い。田奈さんだって、危ないはずだ。
しかも中国拳法か古武術か何か知らないが、ダンクルオステウスの動きは滅茶苦茶に洗練されている。
結果、訳が分からない次元で、駆け引きをしながら二人が舞う。
ようやく立ち上がった私は。
上着を捨てたギガントピテクスが、本気で戦うつもりになったのを見て、覚悟を決めた。
好機は一回。
余力が無い私が、この筋肉男に勝てるとすれば。
流石に大きな音が響いているからか、そろそろ警察も来る筈だ。田奈さんが私を連れて撤退する事も考えると、もう時間は無いかも知れない。
よく見ろ。
自分に言い聞かせる。
ギガントピテクスは平然としている。この様子だと、此奴は能力を潰す能力を持っているのかも知れない。
呼吸を整えると。
最後の一撃を、展開する力を練る。
これでも、スパーリングで鍛えているのだ。
最後の一撃だけなら、どうにかなる。
前に飛び出す。
ギガントピテクスが、構えを取る。
能力を展開。
ただし、使う相手は。
田奈さんに対して、必殺の一撃を放つべく、飛びかかろうとしていたダンクルオステウス。
完全に田奈さんに注力していた平塚ことダンクルオステウスは。
不意に真後ろから、空間転移タックルを受けて。
それでも、対応した。
「小娘があああっ!」
紙一重で交わすと、肘を打ち下ろしてくる。
地面に叩き付けられる、私。
だが、私は見る。
田奈さんが、完璧なタイミングで。ダンクルオステウスの腹に、最高の一撃を叩き込んでいる所を。
意識が薄れながら、私は。
勝ったと思った。
4、生き抜いた繁栄者
呼吸を整えながら、私は沈黙したダンクルオステウスを見下ろした。
気を失っている真理ちゃん。
随分と後輩に当たる子を、痛めつけてくれたものだと思う。自分自身が、昔は痛めつけられるばかりの人生を送っていたから。分かる。
それがどれだけ悲しいか。
どれだけ苦しいか。
残るのはギガントピテクスだけ。
最近、能力者殺しとして知られるようになったギガントピテクスは、エンドセラスの組織でかなり名を挙げはじめている。いずれエンドセラスの左腕に、という話さえあるようだ。
でも、今なら勝てる。
ギガントピテクスは、舌打ちした。
「今の瞬間で、ダンクルオステウスの力を削ぐためだけの行動に、命を賭けてくるとはな……。 それで生存を勝ち取ったのだから、大した判断力だ」
「組織内で一緒にいたわけでは無いですけれど。 これでも数年は、一緒に頑張って来ましたから」
「お前達が必死に保護するわけだ」
「それで、どうしますか。 戦うつもりなら、応じます」
私の重力制御が通用しないとしても、それは相手に直接使った場合。
私自身の動きを加速したり、パワーを増強するために体内で操作する事までは、防げない。
つまり単純なパワー勝負なら、私が勝つ。
「勝ち目が無い戦いはしない」
「では、お引き取りを」
「そうする」
ダンクルオステウスを軽々と抱え上げると、ギガントピテクスは飛び退いた。
本当は此処で致命打を浴びせるべきなのかも知れないけれど。私には、其処までする気にはなれなかった。
エンドセラスの組織との小競り合いが、それではすまなくなるからだ。
日本政府もこの争いを黙認しているけれど。
それは、エンドセラス側も、こちら側も。日本政府にとって有用な力を提供していて、なおかつ大きな被害を周囲に出していないからだ。
今までも、大規模な殺人事件に発展するような事例は起きていない。
もっともそれは、民間人相手の話。
ダンクルオステウスは日本に侵入しようとする過激派を何度となく処分しているし。
私だって、汚れ仕事は経験している。
中東などでは、エンドセラスの組織と、現場で鉢合わせることもある。一度などは、原理主義者の組織を潰しに行ったとき。エンドセラス本人と、現地で鉢合わせしたことさえあった。
殺し合いにはならなかったけれど。
敵が去ったことで、ようやく余裕が生まれた。
仲間に連絡を取る。
足止めをして貰っていた相手も、撤退したという。まだ若いけれど、相当な使い手だった。
目に強い闇を秘めていて、とてもではないが手加減できる相手では無かった。しかし、である。
真理ちゃんを救えたのは良かった。
この子は、司法を扱う身としても。
それにこの判断力からも。
いずれ、皆の大きな力になる。今、助けたことは、絶対に後悔しない。
目が覚めると、病院だった。
側にいるのは、田奈さんである。
お姉ちゃんじゃ無いのか。ふと、そう思ってしまった。
少し残念だったけれど。
でも、今とても忙しくて。それどころでは無いのだろうと、何となく理解できた。妹が重傷を負うくらい。日常茶飯事の世界にいるのだろうから。
「田奈さんがいるということは、勝った、んですね」
「ええ。 どうにか貴方のおかげで」
「良かった……」
意識が飛ぶ。
また気付いたときには、もう田奈さんはいなかった。
看護師に、異常な回復力だと驚嘆された。退院まで一週間。退院して、まず家について。はじめたのは司法試験の勉強だ。
今更何をとも思ったけれど。
でも、私には、これが最重要だ。
今の時点で、あの奇妙なメールはこない。ということは、私に対する監視は、薄れているとみていい。
それにしても、空間転移タックルと、メールはどういう関係があるのだろう。
それで、思い当たる。
観測者理論というやつがある。
世界は観測者が見ることで、あり方を決めるという理屈だ。量子力学の一理論であり、未だに正しいか間違っているかで議論が続いているという。
まさかとは思うけれど。
私の力は、その観測者に働きかけるものなのだろうか。
だとすれば、説明がつく。
私に対する観測を一部ずらすことで、空間転移を行い。
またある時は私に対する観測そのものをメールにすることで、危機感値を行う。
私は、外側にある能力を用いて、今回の危機を乗り切ったことになる。なんというか、途方も無い話だ。
そして、あのマザーグースを思わせるポエムからも。
私の能力が、精度が低い、いい加減なものだということはよく分かった。使いこなしていけば、きっと錬磨もされるのだろうけれど。
嘆息する。
私は法を扱う立場の人間になりたい。
でもきっと、そうなるには。
普通の司法試験志望者とは、比較にならない苦労がある筈だ。
勉強が一段落したころ。
携帯が鳴る。
姉からだった。直接電話を入れてくるのは、珍しい。
「久しぶりだね、真理」
「お姉ちゃん。 今、何処にいるの」
「カナダ」
それはまた、随分遠いところだ。
姉の話によると、米国政府の依頼で、カナダにいる原理主義者のあぶり出しをしていたのだとか。
警察や特殊部隊でも出来ない仕事をするには、能力者がうってつけというわけだ。
「ごめんね、危ないときに駆けつけられなくて」
「ほんとだよ……」
「次は、どうにかするから」
国際電話だからもう切るねというと、姉は本当に電話を切った。
メールが続いて送られてくる。
いつものポエムメールでは無い。
ちゃんとした、意思が感じられるものだ。
司法試験に受かったら、お祝いをしよう。
メールには、そう書かれていた。
ぼんやりと天井を見つめる。
私は。
司法試験に必ず受かって。
自分で何もかも主体的に出来るようになろう。
苦難にも、助けて貰うのでは無く。誰かを助けられるようになろう。
そう、決める。
今回だって、田奈さんが来なければ、あの白衣の化け物に、バラバラにされてしまった可能性が高い。
自分が弱いからだ。
独立し、何でも出来るようになるには。
まずは、自分が法を操る立場の人間になる事。
それだけじゃない。
能力者に対して、睨みを利かせられる立場だって欲しい。如何にあの恐ろしいダンクルオステウスだって、日本国そのものを相手にしてしまったら、勝ち目なんてないのだ。あの程度の強さだったら、機甲師団を相手に勝てる筈も無いのだから。
決意が胸の中で、しっかりした形を取るのを感じた私は。
司法試験へのモチベーションが上がるのを、自覚できた。
必ず受かろう。
そう、もう一度。
自分に言い聞かせた。
(終)
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