積んで崩せ
序、積む作業はいつもどこでも
脳天気に歩いていると、今日は天気がとてもいい。
私は、今日もるんるんとスキップ混じりに歩いていた。周囲には似たような事をしている人は誰もいないけれど。
いいのだ。
とにかく笑っていよう。
何が起きても楽しくしていよう。
そう決めたのだから。
リニアで出勤する。
今の時代はすっかりリニアが主流になった。兎に角速い。それで、通勤圏が一気に拡がった。
それこそ東京から大阪まででも行ける。
しかも座っていけるのだから快適である。
駅から降りても、笑顔のままるんるんと会社に出向く。
周囲がぎょっとした様子で此方を見ることもあるが、別に気にする事もない。
出勤。
カードを入り口のセキュリティにかざして、中に入る。
内部では、全自動掃除マシンが、人間を避けて動き回っていた。
「おはよー。 今日も元気だねー」
マシンに挨拶するが。
勿論返事などは無い。
別に期待していないからそれでいい。
るんるんしながら自席に着く。
仕事の準備を始めるが。そのうちに、周囲の席も埋まり始める。みんな暗い顔をしているが、私だけは笑顔だ。
朝礼の類は流石に今はどの会社もない。
昔はどんな会社でも朝礼とか言う無駄なものをやって、精神論を周知していたそうだけれども。
まあ流石に無駄だと誰もが気付いたのだろう。
ちっとも世界は良くなっていないが。
少なくとも、精神論を垂れ流すことだけは辞めた。
誰もが無駄だと知っていたし。
もうそんな事をしている時間もないからだ。
作業を開始。
いつも私は笑顔を浮かべているからか。
周囲から気味悪がられていたが。
別にどうでも良い。
PCを立ち上げると、作業を開始する。
私がやっているのは、ある地域のエネルギーコントロールである。
現在地球から、宇宙ステーションに対してエネルギーコントロールを行っているのだけれど。
私のいる会社では。
宇宙ステーションの一つに対して、管理を完全に任されている。
ちなみに人は住んでいない。
宇宙ステーションでやる事は、エネルギーの生産。物資の生産である。
最高効率の光発電で電気をかき集め。
それによって、宇宙ステーション内にて牧畜、農業、あらゆる資源を生産する。
生産したものは軌道エレベーターでガンガン地上に送る。
それで、今は皆が豊かに暮らせている。
人類の人口爆発は今は昔の話だが。
同時にライフラインも既に死んでいる。
こうしないと、資源の確保は出来ない状態だ。
というわけで、今は宇宙からガンガン地上に資源を送っている。
宇宙にはわざわざ人は行かない。
色々昔にあったからだ。
今はディストピアだ。
そういう人もいるらしいけれど。
だからこそ私は笑顔を常に作り続ける。
そうしないと、周囲にも笑顔を分けられないからだ。
「ふーむ……」
腕ぐむ。
S13地区にて資源が不足している。
今の時代は、労働者は仕事がガチガチに分けられている。酷い話だが、昔に色々あって。もう地球には戦争をする余力も、奪いあいをする土地もない。金だって、殆ど流通していない。
仕事は義務として行われ。
経済は既に止まった。
完全に物資は配給制。
それは私だって例外じゃない。
だから、自分が仕事で手を抜くと、誰かが資源がなくて困る。そして何処かでいつも資源が不足している。
そういうものだ。
資源を行き渡らせるように、システムを動かす。
監視用のシステムも動いているが、これで不正をする事が出来ないように、基本的に自分と利害関係がある地区の管理は出来ないようになっている。
仕事をしている人がそもそもあまりいない時代だ。
仕事はあまりにも多くの人を殺しすぎた。
だから、私は。
周囲から、仕事に行っていることが分かっているのに。
楽しそうにしているから。
おかしくなっていると見られているのであろうか。
「はいぽちー」
資源の配分実施。
これで多分、宇宙ステーションから物資が配給される筈だ。配給用に使われる輸送車は、ゲリラ程度の装備では破壊出来ない。そもそも武器というものを今は殆どの人間がもっていないし、大体警備用のロボットには手も足も出ない。
こんな時代でも悪さをしようとする人はいるらしいが。
そんな連中は、そもそも労働が出来なくなる。
それはとても怖い事らしい。
まあ、今は。
自由なんて無い時代と言う事だ。
作業を終える。
作業の監視ソフトは常に動いているが、私は基本的にミスが少ない。ヒューマンエラーは誰でもする。
だから基本的に監視ソフトも、露骨なミスでなければ怒る事はあまりないし。
ミスをしたってすぐに通報されることもない。
まずいのは、自分の利益になるように意図的に仕事をすること。
昔はこれがあまりにも多かった。
それで、その辺りはみんなAIが管理するようになった。
色々ありすぎたからか、AIはあまり優しくない。
人間に対して管理はしないが暖かみもない。
優しい励ましの言葉を掛けてくれることだってないし。
もしも犯罪を意図的にやっていると判断したら即座に殺される。
コレについては誰であろうと関係無い。
AIの設計者は今では奇人扱いされているが。
それはそうだろう。
こんなAI、人間にとっては不都合でしかない。
だが地球にとって人間が不都合の塊になってしまった今としては。
こういうAIがいなければ、人間は己を維持できないだろうとも私は思う。
だから笑顔のまま仕事をする。
テンションも出来るだけ高く。
私に出来るのはそれだけ。
だから出来る範囲で動く。
それも私の意思。
仕事が終わる。
仕事の時間も限られている。
昔は、残業をすれば偉いとか。
残業をしなければ回らないとか。
そんな仕組みがあったとか。
たくさんたくさん人を殺した仕組みだ。
これのせいで、何万人も働き盛りの人が毎年電車に飛び込み。或いは体を壊して死んで行った。
それを経営者は何とも思わなかった。
この程度で死にやがって。
そうとしか思わなかったし。
相手の年齢によっては、そろそろ給料を上げなければならないから、死んでくれて助かったとまで思った。
意図的に死ぬように追い詰めていた事もザラにあった。
私は、そんな仕事をさせられていないだけでも幸せだと思うのだが。
人間は一度欲が膨らむと際限がなくなるらしく。
結局どれだけ仕事を減らしても不満は大きいらしい。
今一緒に働いている中には、最悪の時代を経験した人もいるけれど。
みんな年齢よりずっと年老いているように見えるし。
体を必ず何処か致命的に壊している。
ガンでさえ克服されつつある今でも。
そんな風に壊れてしまった人達を。
救う術はない。
仕事終わりを宣言して、PCをシャットダウンする。自分が出来る今日の仕事は終わったし、残業は明確に禁止されている。
人手が足りない場合は人が回される。
本来は当たり前の事が。
人間には出来なかった。
だから人間以外がするようになった。
そんな世界だ、此処は。
人間の尊厳を守れと、一時期声も上がったらしいけれど。
滅茶苦茶になった世界では、そんな声もか細く響くばかりで。
容赦なく管理体制は進められていって。
結局企業も政府も何もかもがなくなった。
労働者は守られているが。
それだけだ。
何もかもが足りない。
全部人間のせい。
人間がそれに気付いたときには。
何もかもが、あまりにも遅すぎたのかも知れない。いずれにしても人間は駄目な生き物で確定である。
だからこそ、私は笑う。
私一人でも、この世界で笑顔を浮かべていられるように。
会社を出る。
雨が降り始めたが。傘を差す。
傘も意図的に可愛いふりふりつきのにしている。
昔の労働者は、男女関係無く、無機質で場合によっては使い捨ての傘を使っていたらしいのだけれども。
しかしながら現在も、それは大して変わらない。
私がふりふりのついた傘を差しているのを見ると、ぼんやり歩いている通行人が、足を止めて見たりする。
当然あこがれの視線では無い。
今のご時世。
仕事帰りに笑みを浮かべながら、派手なふりふりの傘を差しているような輩は、狂人にしか見えないのかも知れない。
別にどうでも良い。
周囲がどう思おうが。
私は知らない。
知った事じゃあない。
やがて駅に着いたので、傘をしまう。
折りたたみのだけれど、近年は技術が進んでいて、撥水も完璧。折りたたみでも強度も変わらない。
昔はそこら中に壊れた傘が捨てられていたらしいが。
それらは金属部品を使っているケースも多く。
かなり危ない代物だったらしい。
そんなものを辺りに捨てるなんて、モラルも崩壊していたのだろう。
というか、周囲に気を配る余裕も無かったのかも知れない。
傘をしまうと、るんるんとリニアに乗る。
リニアの駅は、基本的にガチガチに壁が作られていて。
リニアが到着するまでは、ドアも開かない。
昔は駅には壁はなく。
電車が来る時に、飛び込んでしまう人がたくさんいたそうだ。
更には壁を作っても、覚悟を決めてしまった人は飛び込む事がざらにあったらしい。
リニアは凄まじい高速が出る事もあり。
障壁はばっちり作られている。
だから来る時もとても静かだし。
昔通行人を悩ませたという踏切も存在しない。
リニアに乗る。
やはり人は少ない。
動く時も殆ど揺れない。
静かに進み始めて。
静かに目的地までつく。
誰も何も喋らない。
疲れ果てている様子の人達が目立つ。だから私は、今日も笑顔を浮かべたまま、電車に乗る。
昔だったらおかしくなっている人が絡んできたかも知れない。
痴漢とかにあったかも知れない。
だが今は、電車の中にも監視システムが存在しており。
痴漢はしようがないし、したら即座に取り押さえられてしまう。
昔は痴漢えん罪が猛威を振るったらしいが。
今はそもそも、痴漢も、えん罪を仕立てることも出来ない。
なおえん罪を仕立てようとした場合。
罪はかなり重いものとなる。
笑みを保ったまま、家の最寄りで降りる。
だいぶ距離が離れているからか、雨は降っていなかった。
るんるんと帰る。
リニアは早い。
だから、会社と家とはかなり距離があるのに、あっと言う間だ。
家に着くと、指紋と静脈、更に目の認証を行って。それでドアがあく。
家の中は、綺麗に片付いていた。
すっと、私の顔から笑顔が消える。
無表情になる。
ソファにごろりとなると。
ぼんやりとした。
手元にあるリモコンを操作して、空調などを操作。
私が住んでいるのは一戸建てだけれども。
基本的に今はみんな住んでいるのは一戸建てだ。
というのも、今は人が少なすぎるし。
マンションの類は、以前の大きな災厄でみんな壊されてしまった。
AIが立てた復旧プランで、皆が同じような家に済む事になり。
私もそれは同じだ。
私はまだ幼児だったけれど。
両親はどっちも災厄で死んでしまったので。
幼い頃からこの家で一人で住んでいる。
昔はでくの坊の親代わりロボットもいたけれど。
今は別の家にいる。
でくの坊だというのが分かっていても。
それでも悲しかったが。
もう親が必要ないと判断すると。
AIは容赦なく、親を私から取りあげた。
次に介護ロボットが来るのは、私が老人になった頃だろう。まだしばらくは先だし。仕事も過酷じゃない。
私の世代は、体を壊している事は殆ど無い。
まあ当分。
健康ではいられる筈だった。
ネット検索して、動画を見る。
テレビなんてもう滅びた。
災厄の際に全部吹き飛んだ。
動画文化が隆盛になっていた事もあって。
復興を誰も必要としなかった。
だから、端末で見るのは動画だ。
誰かが作った、誰かのための動画。
自分のためかも知れない。
検索して、誰でも今は簡単に作れる動画を見る。
なお、誰かを特定出来る動画はすぐにネットを巡回しているAIが消してしまう事もあって。
ほぼ見かける事はない。
実際に犯罪になってしまうので。
わざわざやる奴もいないのだろう。
ぼんやり適当に動画を見た後、身繕いをして寝る。
シャワーなんて贅沢なものはない。
浴槽にためた湯は五日くらいは使う。
水を流して入れ替えるのはAI判断。
人間には殆ど判断権は与えられていない。
AIがこの世界を再建する時に。
真っ先に排除したのが、無駄が多すぎる人間による統治システムだった。其所から派生して、管理関連も人間から取りあげられた。
そうしないと皆死ぬ。
それが分かっているから。
誰もそれには反発しなかった。
誰もが今は、働かされていると考えて、死んだ顔をしている。
だから笑顔をいつも浮かべている私は、異常に見えるのかも知れない。まあ真相は分からないけれども。
どうでもいい。
小さくあくびをする。
外では見せない姿だ。
そろそろ寝るか。
そう決めると、夕食を取る。
レシートが出た。体の何処が悪いとか、そういうのが記載されているレシートである。
健康そのもの。
そうか。
合成食品だらけの夕食を食べると、私はベッドに入る。
リモコン一つで、睡眠に最適の環境が作られる。
後は寝るだけだ。
明日も笑顔で外を歩こう。
私はそう決めて。
そして実行した。
1、笑顔のない世界
街を歩く。
るんるんと歩く。
今日は休日だ。
昔、残業が200時間、300時間と誰もがやっていた頃には。
休日なんて、何ヶ月も貰えない人もいたそうだ。
そんな環境では、誰もが体を壊すのが当たり前。
私はそんな環境で、生きていられたか怪しい。いや、私はそんな環境でも、笑顔を浮かべていただろうか。
手元にあるクレジットは、基本的にAIが管理している。
不要なものは買わせて貰えない。
個人の使える範囲内のお金は思った以上に少ない。
それはそうだ。
宇宙から投下される資源がなければ。
飢えて暮らしていけない人だってたくさんいる世界である。
クレジットをちょっとだけ扱えるだけでも。
まだ温情なのだろう。
るんるんと歩いて店に入ると。
店員がぎょっとした様子で私を見た。上機嫌な様子を見るだけで、珍しいというか、おかしいというか。
そもそも上機嫌な人間を見るのが、久々なのかも知れない。
その可能性は低くないだろう。
今日は携帯端末を確認しに来た。
とはいっても、手元にある携帯端末は基本的にAIが勝手に新型を新調する。私が許されているのは、ガワ。
それに搭載するアプリである。
ガワについては、事前にこういう店で確認をしておく。
アプリもである。
それによって手持ちのクレジットは減るが。
思ったよりは減らない。
昔は無料のアプリが大量に配布されていたらしいけれど。
その代わり怪しい業者の広告がネットに山と溢れていたらしい。
まあそうだろうな。
そう思うと、こうやってガチガチに管理されている方がまだ健全に思える。
そう思う私は。
それでも笑顔を浮かべていた。
タッチパネルで確認。
家で確認することも出来るのだが。
こう言う店があるのは、労働の確保と。運動不足の解消のため。
難しい説明などが必要な場合は、AIが対応する。
人間の労働者はぶっちゃけ置物でいい。
笑顔でるんるんとガワを選ぶ。とにかく可愛いのがいいので、花柄の奴を選んだ。
そういえば、この可愛いも基準が時代によってだいぶ違うんだっけ。
私には、どうでもいい。
アプリも選ぶ。
ゲーム系のアプリも良いけれど、私は笑顔になれるものがいい。
其所で、気分をアッパーにする音楽のアプリを選んだ。
笑顔を保つのはそれほど簡単じゃない。
私はいつも笑顔を保とうと思っているが。
それはそれで。
結構大変なのだ。
街で笑顔の人を見かけないように。
店を出る。
休日に外を歩き回るのは、昔は大変だった。
災厄の際に、世界中に放射性物質がまき散らされて。いつも放射性物質の動向に気を付けなければならなかった。
今ではすっかりそれも収まったが。
AIが淡々と作業をし続けて。
人間が暮らせるようになっただけである。
家まで戻り。
それで、すっと笑顔が消える。
流石に自分のプライベートスペースでは、笑顔は保てない。
私は背もあまり高くないが。
それはまあ、笑顔とは関係無い。
家の中で、さっき購入したガワやアプリを確認しておく。
内容は悪くない。
ガワに関しては、次の更改の時に自動的に変化する。
アプリはダウンロードが既に始まっている。今日中にダウンロードは終わるだろう。
結構大きめのアプリだったので。
この端末だと、幾つか余分なものを消さなければいけないかも知れない。
とはいっても、消したところで購入履歴はオンラインに保存されているので。
いつでも戻す事は可能だ。
休日か。
そんな休日でも、外で笑顔をばらまく私は。
周囲からは、怪人としか思われていないのかも知れない。
どうでも良いことだが。
私は私が笑顔でいたいから笑顔を作っているだけ。
それをおかしいとか変とか言われても(直接言われた事はないが)。怖がられても。
それこそどうでも良いことだった。
アプリのダウンロードを待っても仕方が無い。
動画でも見て時間を潰す。
ベルが鳴る。
確認しろと、AIからの合図だ。
別に威圧的な合図では無い。
ベルの音もそれほど大きくは無い。ただし、確実に割り込んでくるので、色々迷惑でもある。
起きだすと、仕事のスケジュールだ。
見た感じ、当面は今の仕事が続く。
今の時代、適正にあわせて仕事がAIによって割り振られる。私は適正があると考えられているのだろう。
まあそれは別にかまわない。
仕事を淡々とやるだけだ。
移動経路も変わらない。
仕事が同じなのだから当然だろう。
リニアなども、そういった仕事を作るために動いている要素が強い。
そもそもリモートで出来る仕事だ。
地球上は滅茶苦茶になったが。
生き残った数少ない人が暮らしていけるだけの土地は確保出来ている。
それだけが救いである。
窓から、外を見る。
灰色になった大地。
あの辺りは、前は山があったらしい。
核が直撃して、山ごと融解してしまい。放射性物質で手酷く汚染されたのを、どうにかAI制御のロボットが作業して、人に害が無いようにしたのだ。
本来だったら、この家なんて住める場所ではなかったのだろうけれども。
それでも住めているのは。
AIのおかげだ。
この世界には色々思うところもある。
親を取りあげられたことは今でも頭に来るし。
家に一人でずっといることも。
だが、どうやら調べた所によると、人間は災厄の直後くらいから、生殖に全く興味がなくなったらしい。
これについてはよく分からないのだが。
災厄の際に放射線で大きな影響を受けたとか。
地球が人間を終わらせる判断をしたのでは無いかとか。
そういう結論が出ているそうだ。
クローンの類で新しい人間を作る試みも悉く失敗しているらしく。
誰も結婚もしないし。
結婚していても、子供が出来る事もない。
私は最後の世代になるかも知れない。
そう言われていた。
だからこそ、笑顔だ。
ひょっとしたら、何か変わるかも知れないのだから。
とはいっても、現在の状況ではそれも望み薄か。
家で笑うことはない。
だからこそ、外では笑う。
一度外に出て。
上機嫌になって、外を歩く。
雨が降るという予想だったから。傘を持ち出していたが。
天気予報は殆ど完璧だ。
予測通りの時間に降りだした。
この辺りはAI様々である、のかも知れない。
昔は放射性物質が含有される雨がたくさん降り注いだ時期もあったのだが。今は、それもない。
雨の中を、るんるんと歩く。
私と同世代らしい人間を見た。相手は男だが、こっちには何の興味もないようで、そのまますれ違う。
災厄の後に生まれた子供はいない。
あの男も、災厄の前に産まれて。
親を失った口だろうか。
いずれにしても、私も相手に興味を覚えなかった。そのまま、雨の中で笑顔を保ち、そして歩く。
スキップは辞めておく。
滑ったりすると危ないからだ。
だが、雨の中は楽しい。
私服で過ごす休日は、こうやって雨の中を歩くのが、実は一番充実しているような気がする。
雨は好きだ。
私は雨の中を歩くのが好きだ。
それについては、今後も変わらないだろう。
ただし、笑顔は作らなければならない。
外では反射的に笑顔を作るようにしているが。
自分でそれは決めたことだ。
笑顔は。
誰も浮かべていない。
だから私が浮かべる。
それだけである。
車が急に止まった。
振り返ると、AI制御の無骨な円筒形ロボットが数体出て来て、何処かに向かって行った。
展開したのが此処と言う事は。近くで何かがあったのだろう。
別の円筒形ロボットが来て、警告される。
「すぐに家に戻ってください、サロンさん」
「事件?」
「プライバシーに関わるのでお答えできません」
「……分かった」
要するに事件と言う事だ。
私はそのまま帰る。楽しい時間を中断されたけれど、それでも笑顔を保つ。
あの円筒形ロボットの制圧能力は圧倒的だ。
災厄前の主力戦車より強いと聞いている。
人間がどうにか出来る相手じゃない。
ふと、振り返ると。
何か燃えていた。
あれが原因かも知れない。
ひょっとすると焼身自殺かな。
だとしても、私には関係のない事だ。
この世界を、暗い世界。ディストピアだと批判して。自殺する人は珍しく無いらしい。それが唯一の抗議だと信じての行動だそうだ。
だけれども、子供が一切新しく産まれてこないこの世界で。
積極的に命を断つのは、私にはあまり良い事のようには思えない。
今は子供が生まれないかも知れないけれど。
生き延びている人達が頑張れば、或いは何か変化が生まれるかも知れない。
私は少なくとも出来る事はする。
笑顔を周囲に向けるし。
仕事だってする。
それだけだ。
家に着く。
自殺についての情報は表示されない。プライバシーに関わる問題だからというのが要因らしい。
ただ、近場で火事があった事は分かった。
あの鎮圧用ロボットが出ていたと言う事は。
どうせろくでもない事件だったのだろう。
家の中では笑顔が消える。
家の中でくらいは、静かにしていたい。
小さくあくびをすると。
私は、未来が全く見えないこの世界で。
今後どうしようかなと、漠然と思った。
やはり笑顔は届けたい。
それに変わりは無い。
だけれど、あの仕事はどうだろう。
私がする事で、きちんと貧困地区に足りない物資は届いている。
それは大変良い事だとも思うのだけれども。
それが本当に人を救っているのだろうか。
私はいつも楽しそうに外では振る舞う。
そうすることで、少しでも笑顔と楽しさを周囲に届けたい。
だけれども。
本当に届いているだろうか。
無理矢理にでも笑わせてやったほうがいいのではないのだろうか。
そんな気もする。
しかし、無理矢理に笑わせるというのは。
どうすればいいのか。
昔あったコメディは、災厄で殆ど失われてしまった。
今はやり方もよく分かっていない。
笑わせる。
これは結構大変な作業だ。
笑われるは難しく無い。
相手より劣っているところを見せてやれば良い。それで人間は簡単に相手を笑う。そして虐待する。
だが今はそんな風に笑うと、即座にAI制御のロボットが飛んできて、どっかに連れて行かれる。
そして多くはもう帰って来ない。
殺される事はないと聞いている。
その代わり、引っ越しや他にも色々な処置を受けるそうだ。
人間は自分で笑わなければならない。
それには笑われるのでは駄目だ。
私が笑わせなければいけないわけか。
かといって、やり口が乱暴だと、それはそれで問題になる。相手に暴行を加えたら即逮捕されるのが今の時代だ。
休日の終わりが近付いてきた。
時間を確認して、夕食をオーダー。
すぐに夕食が出てくる。
この辺りの手間が少ないのも、AIさまさまではあるのだが。
しかしながら出てくる食べ物が即座に合成だと分かるのも、少しばかりは問題にしてほしい。
あまり美味しくもない。
親も取りあげられ。
料理も美味しくない。
自宅では笑顔なんか浮かばないが。
その最大要因だ。
食事を改善すれば笑えるか。
いや、無理だろう。
今も、色々な人が自作の動画を上げたりしているし。それには人を笑わそうとしているものもある。
だけれども、それらを見てもさっぱり面白くない。
私がおかしいのか。
だが、街で見かける人間も、誰も笑っていない。
つまり、それは何か問題があると言う事ではないのか。
ぼんやりしながら、ゴロゴロする。
しばらく考え込んでいたが、やがて思いついた事があるので調べて見る。
人を笑わせる方法。
検索では、あまり出てこない。
というか、意図的に幾つかの具体的な情報は消された痕跡がある。
何かあったのかもしれない。
私は今日はここまでだなと嘆息すると。
一旦端末を置いて、休む事にする。
さて、明日はどうするか。
外にて笑顔をばらまく事はいつもと同じ。
楽しそうに振る舞う事もいつもと同じ。
会社に楽しそうに出勤することも。
嬉しそうに仕事をすることも。
全ていつもと同じようにやっていく。
だけれども、いつもと同じだけではだめだ。
今までのやり方には、何か問題があるのでは無いかと思う。
実際問題、この世界から笑顔は一つ残らず失われたままだ。
私は笑顔を周囲に取り戻して貰いたいのか。
いや、それはどうなのだろう。
私自身は笑顔を浮かべている。
周囲にも笑顔があった方が良い。それくらいの理由だ。
私に出来る事はやった方が良い。
私に出来ない事は諦めた方が良い。
それくらいの分別だってついている。ただ、私に出来る事は、もっと多いのでは無いかとも思うのだ。
残念ながらAIは、人間の関与しない管理存在だ。
何かを答えてくれることもないし。
全体の最大幸福のために動くための存在でもある。
私は違う。
まずは自分。
それから他人だ。
もう他人のことはどうでもいいと思う時もあるけれども。
それでも、出来る事はしたいのだ。
ぼんやりとしている内に、いつの間にか眠ってしまう。
寝ているときも、ろくな夢を見ない。
私は笑顔を外では必ず浮かべ続けるけれど。
夢の中では気持ちが悪いとダイレクトに言われる事もあるし。
陰口をたたかれることもある。
何よりも、石を投げられることもあった。
笑顔を浮かべると、気持ち悪いと言うのか。
それは、一体どういう心理なのだろう。
はっきり言って、そんな事を口にする奴の方が余程気持ちが悪いと思うのだけれども。自分を正義と錯覚している人間に、そんな発想はないのだろう。
目が覚める。
何だか、いつも通りろくでもない夢だった。
夢は滅多に見ないのだが。
見ると迫害される夢ばかりを見る。
それはとても良くないように思える。
何かの抑圧を感じているのだろうか。
それとも何か別の理由だろうか。
別の理由があったとして、それを私はどうにか出来るのだろうか。
着替えながら、私は思う。
笑顔とは、気持ち悪いものなのだろうか。
或いは、皆が笑顔を浮かべないのは。
笑顔が気持ち悪いからなのか。
かといって、私は笑顔を浮かべたい。
楽しく振る舞いたい。
それについては。
全く代わりは無かった。
2、ノースマイル
るんるんと街を行く。
今日も仕事だ。
職場の側の街を、ひたすらにるんるんと進む。
笑顔を浮かべて。
少なくとも楽しいように振る舞う。
私はいつも必ず楽しい訳では無いが。
笑顔は浮かべるし。
天気が良い日はスキップもする。
それが一番良いからである。
私は笑う。
嗤うのではなく笑う。
周囲は誰もそれに答えない。周囲は完全に灰色だ。だからこそ、笑う。誰も答えないとしてもだ。
歩いている内に、会社に着く。
幾つかの手続きをした後職場に入る。作業を開始する。周囲は、私の方を見ようともしない。
笑顔を浮かべている事が。
周囲から完全に浮いている。
仕事そのものは別に嫌いじゃない。
楽しいとも思わないが。
だが、笑顔は浮かべている。
あくまで自主的にだ。
そういえば、聞いた事がある。昔、笑顔が絶えない職場ですとかいううたい文句で人を集める悪徳企業が多かったらしい。
今いる場所は、悪徳企業では無い。
仕事はきっちり時間に終わる。
福利厚生だってしっかりしている。
何よりやっている仕事だって世のため人のためになる事だ。責任は重いが、悪意だって介在しようがない。
それなのに、誰も笑顔を浮かべないというのは。
ひょっとするとだが。
笑顔が絶えない職場というのは。
管理職の連中の笑顔が絶えない、と言う事なのだろうか。
奴隷を使い潰して。
それで笑っていた。
だから笑顔が絶えない。
労働に対して恐怖を感じる高年層の人間は多いと聞いているし見てもいる。だけれども、それはそれ。
今の仕事が良いのなら。笑っても良いと思うのだが。
それとも強制されてやっている仕事だから笑うのは嫌なのだろうか。
私にはよく分からない。
たんと、小気味よくエンターキーを押す。
うんうんと大げさに頷く。
資源がまた、きっちり必要な場所に投下された。これできちんと現場には届く筈である。
私が喜んでいると。
周囲がやはり奇異の視線を向けているのが分かる。
私は笑顔を保つ。
そして、作業を続けていく。
今日の作業はもう少しで終わり。
もう一箇所、資源を投下するが。
これは予定。
宇宙ステーションでも資源を作り切れている訳では無い。先約を先に入れておくのである。
勿論先約くらい、AIががっちり入れておけば良いだけの話だが。
これはあくまで仕事。
AIはきちんとこういった仕事が行われているか監視をしている。
これが監視社会だと批判する人も多いようだし。
事実その通りでもあるのだが。
現在の地球の惨状を見る限り。
人間にそんな事を言う資格が無いというのも、また事実だった。
私は笑顔のまま、管理社会を受け入れる。
AIは寄り添わない。
ただじっと人間を監視するだけである。
抵抗する事も出来ない。
もう人間にはそんな力が残っていないからである。
だからみんな顔が死んでいるのか。
いや、そんな事はないだろう。
皮肉な話だが。
災厄が起きる前に、人類がしていた労働の方が、余程非人道的だったのだ。それこそあらゆる全てを根こそぎに吸い尽くして、絞りきったら捨てる。
そんな事をやっていたのである。
それから解放されたのは、皮肉にもAIによる支配によってだった。
そしてAIは人間に対して注文をつけてくる事も無い。
仕事は割り振るが。
それだけである。
仕事をきちんとしているかは確認するが。
それ以上の事はしない。
今のAIの方が、はっきりいって災厄前の人間の支配者よりも遙かに有能なのでは無いかとさえ私は思う。
だけれども、周りは不幸だ不幸だと嘆いている。
今、生きているだけでも。
幸せだと思うのだけれど。
その辺りは、よく分からない。
今日の作業終わり。
AIがささっと作業内容をチェック。ケアレスミスはあったようだが、大した内容ではない。
さっとAIが修正を掛けて、ミス項目が表示されるが。
それだけである。
私に対してペナルティの類は無い。
いずれも人間がする範囲内のミスで。
悪意が介在していないと判断したからだろう。
別にそれはそれでかまわない。
実際私に、見ず知らずの人に対する悪意なんて無いんだから。AIはちゃんと仕事をしていると言える。
災厄前の会社にいた。
体育会系の社長のイエスマン営業や。
社長を如何にヨイショするかしか考えていない無能幹部よりも。
よほど良い上司に私には思える。
AIによる支配は圧政だとかぼやく声も聞こえるが。
そういった悪口にもAIは一切無頓着だ。
それだけで、人間の圧制者より100倍マシなのだけれど。
周囲は何でこんなに死んだ顔を作っているのだろう。
私は笑顔のまま退勤する。
他の社員達も、皆無言で。
青ざめたまま退勤していく。
外に出ると、雨が降り始めていた。
私は折りたたみの傘を差して。
そのまま、帰路につく。
流石に雨道だ。
るんるんとスキップしながら行く訳にもいくまい。笑顔は保ったまま、そのまま歩く。今日は寄り道をしないで帰ろう。
そう決めたので、駅に一直線。
どうせリニアで最寄り駅まで結構遠いのだ。
寄り道をするなら、家の近所が一番良い。
リニアは相変わらずガラガラ。
人間自体が少ないのだから、当然だろう。
座って帰り道を行く。
携帯端末を開くと。
現在の資源枯渇状況と。
人類の数が表示された。
人類は5000万人ちょっと程度。真っ赤になっている地域は、人間が存在していない場所だ。
ユーラシアのかなりの地域がコレに当たる。
それは核を撃ち合ったのだ。こうなる。
資源については、かなりの枯渇だが。
宇宙ステーションでの資源投下が彼方此方に行われて、イエローゾーンまでで落ち着いている場所が多い。
イエローゾーンは人に行き渡らない状態の場所。
そして私はグリーンゾーンに住んでいる。
グリーンゾーンは近隣にあるAI制御の工場で、物資が作られている場所である。
要するに私が資源を投下している地域は。
AIがまだ工場さえ作れていないか。
汚染の処置に手一杯で。
資源は宇宙から投下するしかない場所、という事になる。
いずれにしても、私は運が良いのだろう。
最寄り駅に近付くと、携帯端末が知らせてくれる。
私は笑顔を保ったまま降りる。
周囲にいる数人が、露骨に私を避けた。
恐怖が顔に浮かんでいる。
笑顔がそんなに怖いのだろうか。
私は背も低いし、筋骨だってたくましいほうではない。
怖がられないように、笑顔だって工夫しているつもりだ。
それでも笑顔が怖いのか。
他人に対する暴行は絶対厳禁。
それはこの世界の大原則。
人間が5000万を切り。
今後増える見込みが一切無い世界だ。
私が一番若い世代なのだ。
今後はどんどん減っていく。
AIが何かしら手を打っているらしいが。それもどこまで本当だか分からない。子供を作らないし。作ろうとしても作れない。
そんな世界なのだ。
人間が減るのは当然で。私が笑顔でいるのが、異常なのかも知れないが。
それでも私は笑顔を作る。
雨がかなり激しくなっている。
今日は辺り一帯でずっと雨か。傘を差すと、笑顔のまま歩く。雨音がかなり激しいが、危険警報などは出ていない。
一応地上の放射性物質が舞い上がり、雨と共に他の地域に降り注ぐ事態だけは避けられているらしい。
それは大変に有り難い事ではある。
私が幼い頃は。
雨が降ると警報がブーブー鳴って大変だったし。
家に駆け込むと、風呂に放り込まれてずっとシャワーだったのだから。
家に戻る。
私しかいない一軒家。
電気をつけると、自室に直行。
ぼんやりと携帯端末を使って、本を読む。
紙媒体の本はもう殆ど残っていない。この世界に、である。
携帯端末には、かろうじてデータをサルベージ出来た本が幾らでも入っているが。
それでも相当な本が失われたらしい。
データそのものが、だ。
私が見ているのは愚にもつかない恋愛ものだ。
だが、そもそも人間が異性にも同性にも性的興味を抱かなくなった今。
AIが流している恋愛ものは、ただの茶番となり果てている。
これだけではなく、かなり直接的な描写が入るポルノも今は必死に流通を図っているようだが。
それでも人間が一切合切子供を作らなくなった事には代わりは無い。
昔は。災厄の前は、ポルノは人権団体が目の敵にして攻撃を繰り返していたらしいが。
今では必死にポルノを配って、子供を作ろうと啓蒙活動しているのだから、色々滑稽である。
もっとも、効果は一切無いが。
人権団体が攻撃していたときも。
犯罪を誘発すると言うのがうたい文句であったらしいが。
実際にはそんな事は一切無かったようで。
どうやらポルノは人間に対して対した影響を及ぼさないらしい。
死ぬほど退屈な恋愛ものを見終わると。
私は小さくあくびをする。
家の中では笑顔を作ってはいないが。
それでも、外で周囲が怖がらないように、笑顔は工夫しているのだ。
鏡を見て、笑顔を作る練習をする。
感じが良い笑顔だ。
私は童顔で、社会人になっている今も。昔だったら中学生くらいに間違われていたかも知れない。
背丈もあまり高くないからだ。
声も見かけ相応。
笑顔だって、そんなに怖いだろうか。
この環境で、笑顔を浮かべているのが怖い。
そう周囲は考えているのだろうか。
でもそれは。本当か。
私は笑顔を色々作った後、大きくため息をつく。
何だか、凄く無駄な事をしているような気がしたからである。
だけれども、続ける。
色々笑顔を作る。
そういえば。
昔、あるゲームで。
笑顔が不気味だから解雇される事が多いキャラがいたと聞いた事がある。
私の笑顔は。周囲を不気味がらせていないだろうか。
アプリを起動して。
表情に問題が無いか確認させる。
別に問題は無い。
表情に出来れば修正すれば良い箇所があれば、具体的に教えてくれるアプリなのだが。特に指摘は無い。
満点の笑顔だ。
そう、満点。
不自然なくらい綺麗な笑顔と言う事である。
無言で黙り込む。
修正点がないという事が逆に問題なのか。指で笑顔をねじ曲げてみるけれど。
そうすると、笑顔の点数が下がる。
このアプリは、災厄前に人間が作ったものだ。
少し調べて見るが、評価点は高い。
それを考えると、相応に使われていて。
相応に評価されていたもの、という事になる。
だったらなんで、私は笑顔を怖れられる。やはりよく分からない。AIは基本的に人間とは会話しない。
ただ管理するだけだ。
人間同士で会話する事も推奨されていない。
これ以上人間がトラブルを起こすことは好まれないからだ。
SNSも殆ど動いていない。
禁止はされていないが。
誰もがトラブルを起こしたくないのだ。
会話をしている人は殆どいない。
それどころか、他人に言葉を掛けた瞬間、ブロックされるケースもあるようだ。トラブルを余程避けたいのだろう。
無言で、その様子を見ていると。
そろそろ寝る時間だった。
明日も笑顔を浮かべる。
それは分かっているが。
どうにもやはり腑に落ちない点が多い。
あくびをする。
そして、ベッドに潜り込んだ。
後は、電気やら空調やらが、私がもっともよく眠れる状態へと調整を勝手にしてくれる。それを放置でいい。
ぼんやりとベッドの中で、私は考え込む。
もしも周囲がみんな笑顔だったら。
もっとこの社会も素敵になるのではないのだろうか。
しかし、どうやって笑わせる。
その方法がどうしても思いつかない。
もう一つあくびをすると。
ふと気付く。
やはり、無理に笑顔を強制するのは良くないか。ただでさえAIによる管理が負担になっているようなのだ。
今の世界を散々批判している人も見かけるが。
そういう人をAIが粛正している様子も無い。
圧政が敷かれていた国だったら。
圧制者を糾弾なんかしたら、それこそ物理的に首が飛ばされていただろう。
今は違う。
それだけでも、随分と違っていると思うのだが。
いつの間にか眠っていた。
私が眠っていると、祭り囃子が聞こえる。
夢の中だ。
それが分かっていても。
もはや失われた祭り囃子は、とても楽しそうに聞こえた。
起きだした私は、どこかの山奥にいた。
裸足で山の中を歩けるわけがないだろう。
そう自分に突っ込みながら、明晰夢の中、祭り囃子が聞こえる山の中を歩く。黙々と歩いて行く。
やがて見えてきたのは。
タヌキやキツネが、二足で立ち上がり。
笛や太鼓で楽しく祭り囃子を奏でている様子だった。
私が混じっても、タヌキもキツネも何も文句を言わない。
それどころか、話しかけてくる。
殆ど聞き取れないけれど。
お客さん、楽しんで行きなさいとでも言われている気がした。
私は笑顔を作って返そうとするが。
どうしても出来ない。
あれ。
夢の中だからか。
私は必死に笑顔を作ろうとするが。どうしても、それは上手く行かなかった。
狐が言う。
本当に直立した狐だ。服を着ているわけでもない。だけれども、どうしてか擬人化された狐のように思えてしまう。
良いんだよ、無理に笑おうとしなくても。
笑おうとしているだけで尊い行為だと。
私はよく分からないと答えると。
周囲に振る舞われている酒を、ぐっと呷った。
酒か。
もうほとんど記録にしか残っていない麻薬の一種。実物は極めてレア。
快楽物質の一つ。
ぼんやりとしているうちに、周囲の光景が歪んでいき。
そして、何も分からなくなった。
目が覚める。
明晰夢の内容を、私はかなり精密に覚えている方だ。
山の中の祭り囃子。
一体何だったのかあれは。
ぼんやりとしているうちに、起きろと目覚まし時計が促してくる。分かっている。起きだすと、朝食を取る。
朝食は支給品を加工したものだ。
味が今一な点を除けば、栄養は充分な筈。
事実困ったことは一度もない。
話によると、この支給されている食物に問題があるという陰謀論があるらしいが。それも怪しい。
そもそもだ。
AIが人間を滅ぼそうと思うのなら。
そんな回りくどい事なんかしなくても一発だ。
今やAIの力は、人間なんか遙かに凌いでいる。
世界中にあるAIの端末が全て人間抹殺に動いたら、それこそ半時間もあれば人間を抹殺可能だろう。
ましてや人間を滅ぼす理由も無い。
人間がこれ以上増えないように、何て回りくどい事を。わざわざ食事に毒を盛ってまでする必要もない。
たわけた寝言だ。
そうとしか言えない。
私は黙々と朝食を食べ終えると。
着替えて、そして出勤。
雨は綺麗に上がっていた。天気予報も一応確認しておくが、雨が降る可能性は低い。一応鞄に折りたたみは入れておくが。
それだけだ。
笑顔を作る。
別に無理をしているつもりはない。
周囲も笑顔だったらいいな。
それくらいのつもりだ。
その筈だ。
だけれども、何も変わらない。
人間が今の100倍以上いた時も。一人の人間が出来る事は、とても限られていたと聞いている。
人間が激減した今も。
その出来る事は、とても限られている。
私の職場には二十人。
行き来する間にすれ違う人間の数は三十人といないだろう。
それだけ今の人間の数は少ないと言う事だ。
それだけ人間は減った。
そして誰もが管理社会だと不満を持っているのか。或いは別の理由か、みんな死んだような顔をしている。
一度誰かを問い詰めて見たい。
私の笑顔はそんなに気持ちが悪いのか。
或いは怖いのか。
昔は、笑顔が気持ち悪いと言う事は。それだけで、迫害の理由になったと言う。顔が気持ち悪いから解雇。
ゲームだけでは無く、実際の会社でもあったと聞いている。
此処で言う顔は、表情が、だ。
馬鹿馬鹿しい話だが。
こんな事をしていたのでは、AIに管理されるのも当然のような気もする。
それでも、なお皆不満。
そんなに人間に自立心があるなら。
こんな風に、世界はメタメタになっていないと思うのだが。
リニアの駅に到着。
途中すれ違った人間の中には、笑顔を浮かべている私を見て、露骨に恐怖の表情を浮かべて避ける者もいた。
何だよ。
私がお前を取って食うとでも思うのか。
そう聞きただしたいが。
それは出来ないのだ。
だから仕方が無い。
駅まで来た。
リニアに乗り込む。やはりガラガラである。私は空いている席に座ると、るんるんな笑顔を浮かべる。
座れる。現地まですぐ。
とても楽だ。
だから笑顔でも良いと思うのだが。
周囲はお通夜のような雰囲気だ。
ひょっとして、私がいなければ皆普通の表情なのかと思ったが。
それも違うと思う。
以前、街頭の様子の映像をぼんやり見ていたのだけれども。
その映像でも、皆死んだ顔をしていた。
つまり私が原因では無いと言う事だ。
私を怖れる事はあっても。
それはそれ。
私の笑顔が何かしらの恐怖を与えているとする。それはまあいい。
だがそれを抜きにしても、皆顔が死んでいるのは事実だ。
この理由が分からない。
ため息をつきたくなるが。
外では笑顔は崩さない。
皆青ざめて、死んだ顔をしているのだ。そんな社会で、どうして私だけでも、笑顔を作らないのか。
私のようにみんな笑えとまでは言わない。
だが、それでも。
誰かが笑っていないと。
この世界からは、本当に笑顔が失われてしまう気がする。
それはそれで問題だろう。
この世界は現在、AIに管理されているかも知れないが。
それでも、人間の圧制者よりはマシだ。
何故新しい世代の人間が誕生しないのかは分からない。それはそれで解決しなければならない問題だとは思う。
それはそれとして。
やはり笑顔がないのは、問題だ。
リニアが止まる。
降りて、会社に向かう。
途中にすれ違う人も、皆顔が死んでいる。
私の笑顔に気付けば恐怖に避けるし。
私の笑顔に気付かなくても、顔は死んだままだ。
こんな死人だらけの表情の街を歩いていて。
私は一体何をしているのだろう。
私が原因ではないのだとしたら、何が問題なのか。やはり、私が皆を笑わせなければならないのではないのか。
私の笑顔が関係無いとしたら。私自体が怖いのか。
自問自答を続けながらも。笑顔はそのまま。会社に到着しても。仕事が終わっても。笑顔は崩さない。
3、止まる笑顔
ぼんやりとしていると。今が休日だと言う事に気付く。
家の中で笑顔を作ろうか。
そう思ったけれど、やめておく。
無意味に思えるし。
何よりも、笑顔を外で作っても。何一つ見返りがないのだ。自分に笑顔を届けて何になる。
だいたい好きでやっていることだ。
笑顔を浮かべたくないときは、笑顔を浮かべなくていい。
それでいいと私は思うし。
今後もその考えの元、笑顔を浮かべ続けていきたい。
だから、家の中にいるときは。
別に笑顔を作らなくても良い。
鏡を見て調整するとき以外は。
別に笑顔でなくても良いだろう。
大きなあくびをすると、転がる。
今日は着替えもせず、そのままぼんやりしていたい。明日も休みだし、別に良いだろう。単なる連休だ。別に会社を首になった訳でも無い。
休みの日に家でゴロゴロしていても、別に責められない。
昔は会社の行事に無理矢理参加させられるケースもあったらしいが。
今はそんな事もない。
ぼんやり天井を眺めている。
そうすると、色々と思うところがあった。
会社に入ったとき。
笑顔で挨拶した。
その時ですら、周囲は恐怖の表情を浮かべていた。
別に笑顔に笑顔で返せとは言わない。
それ以降、いやその前も。
世界が災厄に見舞われた後。
私は笑顔というものを見た事がない気がする。
勿論自分の笑顔は見た事がある。
それは当たり前の話だ。
いつも鏡で調整しているし。
笑顔を浮かべるために努力はしているのだから。
だが、考えてみると。
災厄の前も。
みんなぴりぴりしていて。笑顔なんて、浮かべていた人はいたか。笑顔の絶えない職場ですというのは、昔は地獄の事を指していたのだ。
ましてや、世界が滅ぶような戦争が起きる直前。
誰もが恐怖に怯え。
震えていた。
笑顔なんて、私は。
そういえば、見た事があったか。
深呼吸する。
私は災厄の前に産まれて。
人間の中ではもっとも若い世代だ。
つまりいま生きている人間は、皆災厄の経験者だ。
私だって災厄のことを覚えているのだ。
私より年長の連中は、災厄を覚えていない筈が無い。
それを考えると。
災厄が、笑顔を奪ったのか。
いや、それもおかしい。
災厄の前から笑顔なんて見た事がなかったのだ。
それでは、災厄と笑顔は関係が無いという事になる。
小さくあくび。
軽く昼寝をする事にする。
昼寝をして、それからどうしよう。
食事はAIが用意する。
これは無駄を避ける為の処置である。
まあそれはそれで別にかまわないだろう。
味は良くないが。
食べた後、体調を崩したようなことは一度もないのだ。昔の自炊は栄養は偏るし、体をそれでこわす事も多かったと聞いている。
だったら、コレで別にいい。
ベッドに潜り込むと、これでもかと昼寝をしてやる。
ふてくされているのでは無い。
笑顔を誰も浮かべないことに対する不満は非常に大きい。
自分の努力が一切報われない不満だって大きい。
だが好きでやっている事だ。
致命的に頭に来る訳では無い。
この感情は。
どこから来るのだろう。
分からない。
ふと、また明晰夢を見る。
祭り囃子だ。
また私は混じってしまっている。
狐に酒を勧められて、ぐいっと煽る。いける口だな。そんな風に言われたのだろうが、夢だからはっきりとは分からない。
だけれども、酒を飲むことに対する忌避感はない。
酒なんて口にした事は一度もないのに。
一応物資としては存在はしているらしい。
災厄の前から生きている人の中には欲しがる人もいて。たまに補給されることはあるそうだ。
だがあくまでたまに。
そういう意味で。昔は祭だけでしかお酒が飲めなかったらしいが。
それと近い状態なのかも知れない。
酒をぐいぐいと呷る。
明晰夢だから関係無い。
本当だったらべろべろに酔ったり。
或いはろれつが回らなくなったりするらしいが。
夢の中だから関係無い。
どうした、何か嫌な事でもあったのか。
狐が聞いてくる。
私は答える。
誰も笑ってくれない、と。
狐はからからと笑う。狐なのに。どうしてか、笑っているのが分かるのだった。それもまた変な話だが。
笑いは古くは攻撃の意図を持つ表情だった。
だから動物も人間も、悪意を持ったときに笑う。
お前達が災厄と呼ぶ大戦で世界を滅茶苦茶にする前。
世界には悪意が充ち満ちていたのだろう。
要するに笑顔も満ちあふれていた。
そして笑顔のまま、人間達は致命的な殺し合いを開始した。
だから誰も笑顔を喜ばない。
狐はそう指摘する。
だが、どうにも私は納得出来ない。
笑顔には、攻撃以外の意図もあるのではあるまいか。
特に社会性を発達させた人間には。
だが。狐は更に笑った。
人間が。社会性を。発達させた。
人間が作り上げた社会など、いびつでいつもいつも穴だらけで。挙げ句の果てに世界を焼き尽くした代物では無いか。
結局富の分配比率に終始し。
それ以上の事は何もできなかった。それが人間の社会だ。その程度のものでしかない。動物と大差ない。
蟻の方がまだマシな社会を作っている。何しろさぼることが出来るのだから。
人間はそれすら許さなかった。
それでいながら社会に失業者を溢れさせ。救済しようともせず。挙げ句一人に仕事を押しつけて使い潰し続けた。
その結果がお前達が呼ぶ災厄では無いのか。
人間は結局の所最も無能な動物であり。
その笑顔もやはり攻撃を意図した物に過ぎない、ということだ。
そんなものに価値などあるか。
あるとは思えない。
言いたい放題の狐だが、私はどうしてもそれに反論できなかった。むっつりと黙り込む私に。狐は更に酒を勧めてくる。
考えすぎているのではないのか、と。
私は答える。
私は好きでやっていると。
ならば好きにすればいい。狐はそう答え。そして付け加えた。
だが他者に聞くようでは、まだ迷いがあると言う事だ。
それもかなり迷っていると言う事だ。
もしも迷いがないのであれば。石を投げられようがどうしようが、ずっと笑顔を保てる筈だ。
楽しげにしていられるはずだ。
お前はそれを出来ていない。
つまりお前は迷っていると言う事だ。
目が覚める。
言いたい放題いいやがってあの畜生。
思わずぼやく。
夢は所詮記憶の整理。
つまりあの狐は、単純に私の精神的な影。いわゆるシャドウという奴だろう。だが、ただのシャドウではなかった。
実際問題喋っていて正論だと感じたし。
私の反論よりも、相手の言葉の方が力があった。
正論は正しいから正論なのだ。
それを無視するようでは、災厄を引き起こした阿呆どもと同じになってしまうだろう。
呼吸を整えると。
私はもう眠気もないので、起きだす事にした。
笑顔は攻撃の合図だ。
だから怖れられている。
楽しそうにしているのも同様。
もしもあの夢の狐の言葉が正しいのだとすれば。
笑顔なんていらないのかも知れない。
私はごろごろしながら考える。
もう眠気は流石にない。
だから横になって転がったまま、ぼんやりと思惑を巡らせる。思索を進める。
笑顔は好きだから浮かべている。
だけれども周囲はそれを怖がる。
だったら、周囲にあわせなければならないのか。
だがそれでは、災厄前と同じだ。
周囲の顔色を窺いながら生き。
そして如何にご機嫌伺いが上手いかだけがその人間の価値を決定する。それで何か意味があるのか。
何の意味もなかった。
それは今の焼け野原になった世界が証明している。
私は着替えると、外に出る。
良く晴れている。
空に見える点のようなもの。
あれが宇宙ステーションだ。
天気が良い日には昼間に見える事もある。それだけ大きいのである。
AIは宇宙で作業を進め。
今ではデブリもあらかた片付けてしまっているという。
人間がいよいよまずいという状態になったら。
その時はその時。
遺伝子データを今保存しているらしいので。
技術を発展させ。
クローンから人間を再生するのかも知れない。
今ではAIは自分で技術を発達させることが出来るのだ。
だから今は躓いていてもそのうちクローンも作れるようになるだろう。災厄前も、クローンは作成の一歩手前まで行っていたらしいし。
今のAIの技術は災厄前の人類を超えている。
もう、実は実現できているのかも知れない。
外を歩きながら。
いっそ笑顔を止めて見るか、と思った。
そうすると、すっと笑顔が消える。
通りすがりの人間の反応は。
意外に冷や冷やしたが。
やはり、変わらない。
私を見て、明らかに怯えている。
そうか。
なら、笑顔は関係無いのだな。
今までの全てが、がらがらと崩れていく気がした。
同時に悟る。
何をしても人間が。周囲が私を怖がるなら。
それこそ私は、どんな表情を浮かべていても同じだろうと。
だが、一度笑顔を止めると。
どういうわけか、再び笑顔を作るのが、とても難しくなった。何故だろう。上手に笑えない。
呼吸を整えながら、何とか無理矢理笑顔を作る。
これだけで、どれだけの苦労を費やしたか。だが、ともかく笑うことは出来た。
笑うことは出来たのだが。
やはり、いびつだ。
簡単に笑顔は人から消える。
そして消えた笑顔は、簡単には戻らない。
この相関関係は不公平だ。
私は今まで散々苦労して笑顔を作ってきたのに。崩れるのは一瞬で。そして再構築はこんなに難しいのか。
好きでやっていた事だ。
笑顔を崩したことに関しては、別にどうでもいい。
その決断自体は、別に後悔はしていない。
だが、笑顔を作り直すのがこんなに難しいというのは、始めて知った。恐らく今まで私は。
笑顔を作るのをごく自然にやっていた。
それに関して努力をしていたつもりだった。事実努力は重ねていた。
だけれども、その努力は。
一度笑顔を止める事で、塵芥のように消え去ってしまったのだ。
そんな事があるのか。
ただ表情筋を動かしていただけ。
いや、もっと根本的なもの。
精神に関係するものだろうか。
私はなんのために。そんな風に考えていたのか。それが原因となって、笑顔が壊れてしまったのか。
何度か深呼吸をし。
家に戻る。
鏡を見て、笑顔を作る。
もの凄くいびつな笑顔だった。
今までは見かけ相応の、可愛らしい笑顔が浮かんでいたのに。
これこそが、獣が獲物に対して見せる。攻撃の合図としての笑顔ではないのだろうか。
そうだ、笑顔は本来こういうもので。
今まで無理に培ってきた笑顔こそが。
むしろ不自然なのではあるまいか。そう鏡を見ていると、私には感じられる。私はむしろ今まで、無意味に不自然に。笑顔なんて無駄なものを作っていたのではないのだろうか。
そういえば。
指で口の端を触って、笑顔を色々弄くってみる。
周囲の人間の表情。
死んだ顔。
色々と顔を弄って再現してみようと思ったが。
どうにも上手く行かない。
自分で無表情を作ると。
それはそれで何かが違う。
私の場合は表情筋が死んでいる感じになる。周囲の完全に精神が死んでいる顔とは少し違う。
あれは、一体何だ。
どうしてああなるのか。
それが分からない。
私はぼんやりと、表情筋が死んだ無の表情を見ていて。
気付く。
笑おうとして、出来ない。
笑顔をいつも作っているのに。
そうか、また笑顔から離れたからだ。
一度崩した。
二度、またしても崩した。
その結果、笑顔というものが私の中から根本的に壊れてしまった。そう考えるべきなのではあるまいか。
でも、それを惜しいとは思わない。
壊したのは自分だ。
これから笑顔を作る必要もないし。
周囲に届ける必要もない。
こんな世界だ。
笑顔を周囲に向けて。
楽しそうに振る舞ってみよう。
そう考えていたのを、周囲が全て拒絶した。多分笑顔だけではない何か他にも理由があるのだろうが。
ともかく私は拒絶された。
だったら私だって拒絶する権利がある。
それともなにか。
なじめない人間は異常者だから死ねとでもいうのか。それでは災厄前の学校に存在したらしい陰湿な人間関係と同じでは無いか。
私は災厄前はまだ学校に行く前の年だったし。
学校に行くくらいの年に災厄が始まってしまったから。
そもそもそういった陰湿な人間関係そのものを知らない。
私は鏡を見る。
陰惨な表情が其所にあった。
無理に顔を動かそうとしてもできない。
陰惨で、周囲に対して凄まじい怒りを込めた無表情。
それが今の。
私が新しく積み上げ始めている表情だ。
積み上げることによって顔がこんなに変わるというのは。今まで生きてきて、初めての発見だ。
むしろ私は、こんな事も知らなかったのだと思う。
やっぱり笑いは浮かんでこない。
何か箍が外れたらしく。
腹の奥から、凄まじい熱量がわき上がってくる。
これは恐らく。
怒りというものだ。
自分に対しての怒り。周囲に対しての怒り。何もかもに対する怒り。
別に周囲の人間を殺すつもりはない。
だが、今までのように笑顔を届けるつもりもないし。
楽しさも届けない。
私は新しく自分を積み上げる。
それが恐らく。
自分にとっての手向け。
恐らくさっき、今までの私は死んだ。それも二度。
だったら、今後は自分のためだけに生きるべきだろう。
小物とかを確認。
別にこれらは今までのままで良いか。ただでさえ資源が足りていないのである。別に捨てたりする必要などない。
私はこのままでいい。
ただし、それは持ち物や服などに関してだけ。
私の中身は。
相変わらず私のものだ。
笑顔をこわすと言うことが、これほど大きな意味を持つとは思っていなかった。私はもう、内心何もかも嫌になっていたのではあるまいか。
だからこそ、これほど強烈に怒りの感情がわき上がってきた。
そうでなければ、この怒りは説明がつかない。
ため息をつく。
外ではつかないため息を。
私は。煮えくりかえる腹をどうしようかと思ったが。こればっかりはどうにもならないだろう。
今ではAIがガチガチに監視していて、破壊活動や他人に対する暴力などは一切合切即時で取り押さえられてしまうし。
私自身も、そんな蛮行を働くつもりはない。
ただ、以降はどうするか。
この鬱屈した怒りを含んだ、静かな無表情。
これが私の新しい顔だ。
それに沿って、何もかもを動かして行きたい。
それが私の。
新しい結論だった。
仕事に出る。
笑顔は、家の外に出れば今までは簡単に作れていた。だけれども、もう笑顔なんて必要ない。
笑う必要もない。
そう判断したからか。心が何か何処かで致命的に壊れたからか。
笑顔は一切浮かばないし。
作るつもりもなかった。
無言で駅へ歩く。
今までのように楽しさを振りまくこともない。
ただ淡々と行く。
一応最小限の化粧はしているが。
それも最小限で充分。
今の時代、そもそも他人に見せるものなんて無いだろう。素っ裸で歩き回ったら流石にAI制御のロボットが飛んでくるが。
それでも精神の異常を疑われるだけで。
別に素っ裸を見ても誰も何とも思わない。
襲われる事も無いし。
誰かを襲いたくなるわけでもない。
今は、そういう時代だ。
ポルノを積極的に見るようにAIが促すほどの時代である。昔とは、あらゆる意味で全てが根本的に違ってしまっているのだ。
駅に到着。
すれ違った人間共は、やはり私を見ると怯えた表情を浮かべるのだった。
笑顔を作っていても怯え。
無表情でも怯えるか。
ぶっちゃけもはやどうでもいい。
人間という生物に対する興味が完全に失せたと言うべきだろうか。
そんなところだ。
リニアに乗る。
途中で、軽く携帯端末で情報をチェック。
マスコミとか言うものがなくなったから。
とにかく情報は簡素に、かつ正確になった。
自分が働く時間帯に雨は降らない。
だったら、折りたたみを使う必要もないか。
それだけしか携帯端末は見なかった。
以前は通勤時にゲームをやったり、或いは他にも色々情報を楽しそうに見ていたりしたのだけれども。
もうそんな事をする気にはなれない。
無表情のまま、長くもない時間リニアに乗り。
そして目的駅で降りた。
会社の最寄り駅だ。
そのまま会社に出向く。やはりすれ違う人間は、私を見て露骨に怯えて距離を取る。どうでもいい。
そのまま襲いかかって、鉄パイプで頭でもたたき割ってやるか。
そう思いたくなったかも知れないが。
別にそんな事すら思わない。
ただ興味が失せたので。
馬鹿にしてこようが。
此方に対して怯えようが。
はっきりいってどうでも良かった。
会社に出勤するまでに。二十人ほどとすれ違ったが。どいつもこいつも画一的な反応を示すばかりでつまらない。
恐怖にすくみ上がる奴。
逃げようとして転ぶ奴。
すっころんでその場で動けなくなる奴。
私はただ通っただけなので、AIは何もしてこない。
これが、もし私が意図的に突き飛ばしたりとか、傷つけていたら。秒で警備用のロボットに蹂躙されていただろうけれど。
私はそういう事はしていない。
街中にある監視カメラが、私に非が無いことをみて証明していたと謂うことなのだろう。
それこそどうでも良いことである。
会社でセキュリティを抜けて、席に着く。
自分のPCを立ち上げて、作業を開始。隣の席の奴が、私を見てぎょっとしたが。別にどうでもいい。
会話もほぼしないし。
いてもいなくても仕事には何の影響も無い。
基本的に仕事にはAIのサポートが入る。
そんなサポートは、人間の指導員などよりも遙かに有能だ。
黙々と宇宙ステーションで生産された資源の状況を確認し、資源が足りない地点へと投下する。
勿論リアルタイムで投下されるわけではないが。
数少ない人間の生きている地域に、いずれは投下される。
そういえば、どれくらいの実時間のラグがあるのだろう。
まあいいか。
ぶっちゃけた話をするが。ラグのせいで誰かが死のうが生きようが、もはや私にはどうでもいい。
私は今、公正に仕事をした。
資源が足りない場所に、足りない資源を適切に投下した。
それだけ。
そして、それだけで充分。
自分の感情、特に好き嫌いに基づいて仕事をするのが、人間的な仕事だというのだったら。
はっきりいって私は人間でなくて結構だ。
仕事が終わる。
AIに評価される。
非常に公正な仕事だという。
そうかそうか。
それは良かった。そう、心にもないことを呟く。そして、仕事が終わったので、さっさと切り上げる。
他の社員と喋る事はない。
今までもそうだったし。
これからはもっと喋る事はなくなるだろう。それはそうだ。私は笑顔と楽しさを、完全に壊してしまったし。
周囲はそうだろうがなかろうが。
全く対応を変化させない。
人間という生き物は、そもそも災厄によって人口を激減させる前も、既にあらゆる意味で壊れていたと聞く。
社会には人権を売り物にするクズ共がのさばり。
其奴らがありとあらゆる言いがかりをつけて、社会を混乱させ。
そんな連中が怖くて誰もが好きなことを言えなくなり。
場合によっては金品をむしり取られても、泣き寝入りをするしか無かった。
そんな社会が世界大戦で滅茶苦茶になり。
それまで社会の利益の大半を独占していた連中が、良いように消滅した今も。
人間は結局何も変わっていない。
私を怖れる具体的な理由も分からないが。
はっきりいって、もう人間に興味が完全に失せたので、それで何も感じなかった。
会社から駅に戻るが。
その途中の通行人は、もはや私を遠くで視認するだけで、別の道に避けるか、きびすを返して逃げ出していた。
追うつもりはない。
どうでもいいからだ。
駅に到着して、リニアに乗ると。
乗客が別の車両に移る。
どうでもいい。
どうせリニアはガラガラだ。一人で車両を占拠できるというのなら、それはそれで面白くもある。
携帯端末を出して情報をチェック。
大した情報はない。
私の仕事の結果もチェック。
きちんと物資は届いている。
それならば、別に何も不安になる事は無いし、問題も無いだろう。
最寄り駅で降りる。
電車に乗っていた連中が、私を見たが。私が視線を返すと、さっと目をそらした。青ざめている。
別にそれを見て嬉しいとも思わないが。
其所まで怖れる理由は何だと、聞いてみたくはある。
まあどうせロクな答えは返ってこないだろう。
滑稽な事だ。
私は笑うことさえ出来ないが。
ただ、そんな反応を示す人間共を。
ただ軽蔑だけした。
自宅へ戻る。
後は。もう何もする事は無い。
いっそのこと、人生を終わらせてしまおうか。そうとさえ思ったけれど。それもまた馬鹿馬鹿しい。
鞄とかを放り出すと、後は風呂に入って寝る事にする。
一度壊れた笑顔。もう一度壊れた笑顔。
そして再構築されたのは、強い鬱屈と怒りを込めた無表情。
今度壊したら何が出来るのだろう。
そう思うと、笑うことは出来なかったが。
なんだか、腹の中で、何かが渦巻くようだった。
4、四度目
AIに警告される。直接AIが警告してくるのは、滅多にないことだ。
「車が突っ込んできます。 すぐに退避を」
私は素直に道路脇に飛び込んで、暴走ミサイルと化した車から逃れた。何人か、刎ね飛ばされたようだった。
何だ。
受け身は取れたので、それほど体は痛くない。
立ち上がって、暴走車を見ると。
ガードレールに突っ込んだ車が止まり、既に救急車が集まり始めていた。
車に対して消火剤が掛けられているが。それも全てAI制御。
見ると、災厄前に動いていたような車だ。
AIの制御を受けつけず、それで暴走したのだろう。
車から引っ張り出されてきたのは、私と同年代の男だった。顔をグチャグチャに歪めて、何か吠え立てている。
だがどうでもいい。
ガソリンの爆発は防がれた。
怪我人も運ばれて行く。
道路に幾つか配置されているセーフティネットが、死者を出すのを防いだらしい。まあAI制御の街あるあるである。
さっさと行こうと思ったが。
AIに取り押さえられ、わめき散らしていた男と私の視線があう。
同時に男が、悲鳴を上げていた。
「ば、バケモノ……!」
「黙りなさい」
AI制御のロボットががつんと男に電気を流し。
それで男は静かになった。
男が救急車に詰め込まれ、運ばれて行く。
まあ今の時代は刑務所はないが。
自宅軟禁だろう。
あの様子だと精神を何らかの理由で病んだのだ。そしてAIの制御も受けつけなくなって、車を乗り回して。暴れ狂ったというわけだ。
まあ個人で鉄パイプとか振り回して暴れるよりかは効率的だ。
そんな事をしたら、即座に警備ロボットに取り押さえられる。
だったら、まだ警備ロボットが即応出来ない可能性がある古い車を使う方が正しいと言う訳か。
なるほど、あんなのでも考えてはいるのか。
そう思うと、少しおかしくなった。
さあ、会社にそのまま行こう。
ただ、一つ気になった事がある。
バケモノ。
どうして私はそう呼ばれた。
別にわたしは、他の人間と比べて姿が違っているわけでもないし。外観的に差異だってない。
AIに初出勤の時は化粧のアドバイスを受けたし。
それで昔作られたアプリを使って、化粧が濃すぎたり不自然では無いかも確認した。
顔の作りが悪いかというとそんなこともなかったようで。
昔作られたアプリによると、そこそこに顔の造作は良いそうだ。
だったら、何故バケモノ呼ばわりされた。
他が轢かれる中、避けたからか。
まあいい。
よく分からない。
出社。
自席に着くと、仕事をする。隣の席の奴が、私を見てやはりぎょっとして。少し距離を取ったが。
別にどうでも良い。
黙々と仕事をする。
仕事を終えるまで、一言も発しない。
そのまま仕事を終えて。
自宅に戻る。
そして、気付いた。
あれ。
無表情が、壊れたか。
多分さっきの車のショックでか。
今、鏡を見ている私は、あの鬱屈した怒りをため込んだ無表情じゃない。単純に、何も無い顔になっていた。
勿論目鼻口というパーツはあるが。
それだけ。
完全に横一文字の口。
感情が一切籠もらない顔。
要するに。
表情筋が死んだような顔だ。
まあいい。
周囲の連中の、死んだような顔よりは、まだこの方が表情がある。無という表情が、だ。周囲にはそれさえもない。
また何か、積み重ねてきたものが壊れてしまったのだろう。
だけれども、もう何か積み上げるのはやめだ。
そもそも馬鹿馬鹿しい話である。
勝手に周囲が此方をバケモノ扱いしているのは、よく分かった。
あの錯乱した奴は、素直に私の事を思った通りに言ったのだろう。要するに周囲からは私はバケモノに見えている。
別にそれならそれでかまわない。
勝手にバケモノでも何でも好きなように見ていればいい。
人間に興味を無くした私は。
もう人間に対して。
何かしようとは一切思っていなかった。
ただ、自分が生きるために、公正に仕事をするだけだ。
AIは何も言わない。
問題があるなら、AIが警告してくるだろう。
いずれにしても、はっきりしたのは。
私は更に、人間に興味を失ったと言うこと。
それだけだ。
(終)
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