冬虫夏草
序、違和感
いつからだっただろう。
いつの間にか、俺の中に何かいるような気がし始めていた。
それは明確な異物。
何か良く分からない、他の物で。
ただ、俺を乗っ取ろうとしているようには思えなかった。
何となく、である。
俺はまだ学生だが。
だからこその、思春期特有の妄想かとも思ったけれど。
それにしては、時々あまりにもリアルな、違和感を覚えてしまうのである。
「平野、メシどこに行く?」
「ああ、適当に決めて良いよ」
「それが一番困るんだよなあ」
「じゃあサルゼで」
兎に角安く、その割りにはある程度の味を確保しているイタ飯系ファミレスを指定。まあ、何処にでもあるチェーンだ。
案の定、すぐ近くで見つかった。
一緒に歩いている数人は、クラスメイト達。断じて友人では無い。
どいつもこいつも俺同様のバカばかり。
大学に行くのはこの中の半分いるかどうか。
今は親の懐事情から、高校を出ても大学に行かず、すぐに仕事をするケースも珍しくない。
事実うちの学校は進学校でも何でもないし。
親も、大学に行きたいかどうかは、敢えて聞かないようだった。
ファミレスに入ると、適当に席を取って、ああでもないこうでもないとどうでも良い話をする。
その内に、注文していた安いドリアが来たので。
適当に食べる。
学生の小遣いでも手が届く値段なのが有り難い。
味もそんなに悪くない。
「コスパだけは最強だよな、此処」
「味だって悪くないじゃんかよ」
「味の割りに安いって意味だよ」
「そういうな。 実際悪くないんだから」
リーダー格がたしなめて。
それで皆が納得したのだろう。
俺はしばらく無言でドリアを喰っていたが。
その内。
やはり、俺の中にいる何かが、自分の存在をアピールしてくる。
此奴は何者だ。
多分、意識はあると思うのだけれど。
寄生虫の類では無いはずだ。
昔何かで読んだけれど。
人間に寄生するギョウ虫とかの中には、何メートルにもなる奴がいる。あんなのが腸の中に潜んでいたらぞっとしない。
多分そういうのではないと思うのだけれど。
何かがずっと俺の中にいる。
それを感じてしまうのだ。
適当に時間を潰しながら、解散まで待つ。
このグループは好きじゃ無い。
リーダーである奴が、音楽を始めようとか言って集めたメンバー。最初はそういう動機だったけれど。
結局どうでも良かったのだろう。
今では音楽のおの字も口にしない。
リーダーも適当にくだらない話を続けるだけで。
もし音楽なんて口にしたら、それこそ空気を読んでいない扱いされるだろう。
学校で空気を読んでいない奴だと思われたら。
その時点で詰みだ。
グループから外されるどころじゃない。
コミュ障なのが悪い。
そういう理由で、積極的なイジメのターゲットになる事だって多い。
女子のコミュニティは更に過酷らしい。
つまり、俺のような凡人は。
基本的に周囲にあわせるスキルだけを要求される。
専門技能なんて、カスの役にも立たない。
それは兄貴が社会人になって、専門の資格を取ったにも関わらず、「コミュニケーション能力が低い」とかいう理由で散々追い込まれ、パワハラに耐えきれずに首をくくり。そして裁判所側が、会社の全面勝訴を出したことから、思い知らされていた。
俺の中には、何かがいる。
だが、それが何かは分からないし。
周囲にも打ち解けられない。
此奴らは、イジメのネタを探している。
弄ると称して、他人を自分の下に置く好機を虎視眈々と常に狙っているのだ。
だから、相談に乗るフリをして弱みを聞き出したりする。
勿論弱みを聞き出したら。
それを最大限利用して徹底的にいびり倒す。
それが人間だ。
他の奴にはとても打ち明けられない。
「ちょっと遅くなってきたな。 もう切り上げようぜ」
「まだ余裕だろ」
「最近コージの野郎が巡回してるらしいんだよ。 見つかると面倒だろ」
「ちっ、しゃーねーな。 平野、後で家に帰った後モンハーンやろうぜ。 ボスに勝てないから手を貸してくれよ」
「分かった。 部屋はいつものパスで」
「頼むぜ」
モンハーンというのは、モンスターハーントという人気ゲームだ。
モンスターを殺すいわゆる狩りゲーだが、容赦ない高難易度で知られていて、故に子供を中心にチートが横行。更に集団プレイができるが、上手い人間は徹底的に上手いため、寄生プレイヤーも多数いる、いわゆる低モラルプレイヤーが多いゲームとして知られている。俺も実際に、とんでもないプレイヤーと何度か遭遇した事がある。
俺はそこそこにゲームは出来る方なので。こいつに帰宅後まで束縛される、と言うわけだ。
学校で一緒に遊ぶんじゃなかった。そう何度思わされたことか。
だが、拒否すれば、当然後で何が起きるか分からない。具体的な暴力が振るわれるよりも。集団でのイジメに発展すれば、命に関わるのだ。
そう、命に関わる。
今の時代、虐められる方が悪いという常識を共有している人間が多い。大人でさえそうである。
実際に死に至らしめられても。
彼奴はずれていたとか。
協調性がなかったとか。
そういった意味不明の理屈で、虐めた側を擁護して。
人生を奪われた人間を、更に死体蹴りしたあげく。
虐めて死に追いやった人間が無罪放免になるケースも珍しくも無いのだ。
つまり殺人が容認されているわけで。
此方としては、それに怯えながら。
集団に迎合していかなければならない。
昔はオタクがそのイジメのターゲットだった。
ゲームや漫画が好きだと言う事は、文字通りその場で殺されてもおかしくない社会だった。
だが、今では、先ほど集団のリーダーがゲームを提案してきたように。
ある程度、それに関しては緩和されてきている。
その代わり、「空気を読む」事が異常なハイレベルで要求される。
これが出来ない人間は。
家に引きこもるしかない。
若くして家に引きこもってしまう人間は根性が無いからか。
違う。
こういう社会で、殺されるのが嫌だからだ。
とにかく、解散して。
家に向かう。
その間も、自分の中にいる何かが、蠢いているのが分かる。
周囲には打ち明けられなかったが、一度病院で聞いてみたこともある。それも、念のためにかなり遠くの大学病院で、だ。
そうしたら散々だった。
事前に予約を入れてこない上に、紹介状を持って来ないのは極めて非礼だとか。
いきなり医者に罵倒され。
挙げ句の果てに、碌な診察もしてくれないまま、金だけ取られて追い払われたのである。
勿論きちんと話を聞いてくれる医者の方が多いのは知っている。実際、普通の病気で普通の病院に行くと、きちんと対応してくれる。
だが、コレはいくら何でも酷すぎると思った。
以降この問題は。
医者にも相談できずにいる。
家に到着。
あくびをしながら、携帯が鳴るのを確認。
SNSに着信。
これも、速攻で返信しないと、それだけで虐めのトリガーになる。だから、誰もが必死だ。
案の定、モンハーンの催促だ。
このゲーム、プレイに二三十分は掛かる。
勿論着替えや風呂はその後にしなければならないだろう。
その上、彼奴が一回のプレイで満足するとは限らない。
彼奴の気が済むまでプレイにつきあわなければならないだろう。
家族は、いない。
正確には、二人とも深夜まで残業しているので帰ってこない。
だから、夜遅くまでゲームをするなとか、怒鳴られる事がないのだけは救いか。
黙々とゲームをやる。
なお、兄が死んだ後、俺以外に子供は出来なかった。姉もいない。
今は一人っ子が当たり前。そんな世界で、兄が昔はいただけでも、俺は周囲と違っていたのかもしれない。
家はとても静かだ。
やっと彼奴が満足して退室してくれたのは、やはり二時間も経過してから。既に夜半を回っていた。
それにしても酷いプレイスキルだ。
殆どボスには攻撃せず、自分の好きなこと。アイテム集めやら何やらをしていて。他のプレイヤーに批判されると速攻でキックして部屋を追い出す有様。
俺は黙々と、此奴の地雷プレイにつきあわされ。
結局最終的には、多人数用に強化されているボス敵に、殆ど一人で立ち向かわなければならなかった。
その分時間も当然掛かって。
この有様である。
風呂に入って、宿題を終えて。
ようやく眠りについたのは、午前一時半。
なお、両親は。
まだ帰ってこない。
翌朝。
起きたのは、六時半。
ちなみに両親は、俺が寝た後帰ってきて。そのまま、俺が起きる前に家を出たらしい。それしか分からない。
朝飯については、雑に用意されていた。
コンビニ弁当である。
だけれども、自炊しろとか言い出さないだけマシか。
ゲームのキャラじゃあるまいし。
高校生で自炊が出来れば、それは超上等。
部活が義務化されている学校に行っていると、更に悲惨だ。
特に運動部や、文化系運動部と呼ばれる吹奏楽部に行っていると、勿論朝一番から学校に引きずり出され。
真夜中まで部活に拘束される。
こんな時間に起きれるだけマシ。
周囲はこぞってそう言うだろう。
幸い俺の学校は部活がないけれど。
これが現実だ。
更に、どうせ就職しても、地獄みたいな労働時間に、雀の涙の賃金だと言う事は、両親を見ても明らか。
それも、今と同じように。
求められるのは、周囲の空気を読む力だけ。
エリート層でさえ、そうらしいのだ。
それが今は、最下層の会社にまで浸透してきている。
何の未来もないと言うが。
違う。
俺たちの世代には。
「現在」すらもないのが事実だ。
起きだす。
学校に出ると、周囲がグループごとに別れて、何か話をしていた。
リーダー格が、不快そうに俺を呼びつける。
「テメー、下手なんだよ」
「ああ、すまない」
「すまないじゃねーだろ。 四十分も掛かりやがって」
誰のせいだよ。
反論したくなる。
そもそも此奴は一切何もせず、自分では倒せなかったボスを倒して貰った。それでこの台詞である。
此奴は特に金持ちというわけではない。
モラルがないだけ。
それがこの現在では、「格好良い」とされる。
実際此奴はカツアゲさえしないが、暴力も振るう。此奴のせいで不登校になった人間が何人もいる。
それなのに、此奴は一切ペナルティを受けていない。
「弱い方が悪い」という理屈が浸透しているからだ。
「あのクソモンス、本当にむかつくぜ。 誰だよ考えた奴」
「立ち回りさえ工夫すればどうにかなる。 武器も動きやすい片手剣にして、弱点を狙っていくと良い」
「お前がいうんじゃねーよ、下手くそ」
喚く。
これ以上は止めておくか。
自分が正しいと思っているタイプの人間の見本である此奴には、アドバイスなど何の意味もない。
そしてこの手の奴は。
上役に媚を売るのも上手い。
それだけで出世が確約されている。
なお、モンハーンでは三回死ぬとゲーム中におけるクエスト(こなすことで報酬が貰える)が失敗。一回死ぬごとにクエストの報酬が減るのだけれど。
俺は昨日、一回も死んでいない。
今好きかって喚いていた此奴が、ボスと戦ってもいないにも関わらず、雑魚敵に絡まれて二回死んだりしていたが。
普通それもあり得ない。
大体の敵を、寄生することで乗り切ってきたのだろう。
しかも、此奴が遊んでいるエリアにボスが乱入して。此奴を助けるために余計にプレイ時間が延びたのだ。
それで相手を下手という。
何だか、呆れてしまうが。
これが現実だと思うので、もう感覚が麻痺していた。
いずれにしても、ホームルームだ。
教師が来て。今日も灰色の一日が始まる。
そして、俺の中には。
まだ何かが。
うごめき続けている。
授業は淡々としていて。
それ以上に教師の疲弊が酷いのが見て取れる。
まだ若い教師だけれど。
熱意なんてとっくの昔に消え果てているのが、遠目から見てもよくよく理解出来た。
話には聞いている。
この学校はこれでもマシな方だ。
部活がある学校になると、いわゆるブラック企業並みの労働で、しかも残業代も出ないと言う。
この学校でも、部活がないにも関わらず。
相当に厳しい労働条件で。
色々頭が古い校長や教頭が我が物顔に取り仕切り。
深夜まで仕事をしているそうである。
しかも、部活をするべきではないかとかPTAが言い出しているそうで。
それを考えると、胃に穴が開きそうになっていても不思議では無い。
今は、地獄だ。
俺にとっても。
誰にとっても。
グループのボスをしている彼奴を見る。
彼奴は、好き勝手している。
ブラック企業で、上役に気に入られて、出世も出来るかも知れない。
だが、其処までだ。
気に入られるという事は、おぞましいまでの残業を強いられることも意味している。
まあ、好きにしていればいい。
社会に出れば。
誰もが地獄に叩き落とされるが現実なのだから。
数学Uの授業が黙々と垂れ流される中。
俺はやはり。
中で蠢いている何かが、気になって仕方が無かった。
1、発芽
夜遅くまでフラフラ遊び回ったあげく。
またモンハーンをやるという話になる。
ちなみに俺以外の奴がその話を振られないのは。
俺以上のプレイスキルがないからだ。
実際問題、他の奴はプレイしていてクエストを失敗したらしく。
その時は、必死に下手くそと罵られている奴が、わびを入れさせられていた。
ちなみに、それでも、此奴よりは遙かに上手いのだが。
モンハーンはゲームバランスが非常に過酷で。
下手なプレイヤーが集まっても、強力な敵には絶対勝てないようになっている。そういうバランスなのだ。
上手いプレイヤーはプロハンと呼ばれて、桁外れのスキルを誇るが。
海外ではその辺りに目をつけられていて。
海外のプレイヤーは、クリア出来ない場合は日本人に頼めとか言う話をしているそうである。
ただ、正直な話。
海外のプレイヤーは、プレイスキルは兎も角、きちんとボスと戦おうとはする。
此奴みたいなプレイヤーは、むかし存在していた極めてタチが悪い低年齢層プレイヤーを揶揄して「ユータ」という言葉があるが。
そのユータそのものだ。
「時に何か良い装備出来たか?」
「いいや、現状ので精一杯だな」
「ちっ、そうだよなあ」
ちなみに、装備類の譲渡は出来ないが。
それが出来ていたら、容赦なく此奴は略奪に走っていただろう。
国民的アニメで、そういう行動に出る暴君キャラが存在しているが。
そのキャラクターは、映画版ではまだ侠気がある所を見せるシーンもある。
だが、此奴の場合。
ただ暴君なだけだ。
それに、此奴のプレイにつきあわされるせいで、より上位のアイテムを出す敵と殆ど戦えない。
本当に、一度でも一緒に遊ぶんじゃなかったと、後悔している。
なお、少し前に。
ネットのSNSで、地雷プレイヤーの晒しが行われていたが。
此奴も堂々それに入っていた。
まあ当然だろう。
俺以外のプレイヤーに似たようなことをしていれば、そうなるのは当たり前だ。
それでいながら、罵声や悪態をついて、「相手が悪い」とか「下手くそ」とか言っているのは容易に想像がつく。
学校なら、反論すれば徹底的に痛めつけて、場合によっては不登校に追い込んでしまうだろうが。
ネットでは暴力は振るえない。
当然こうなるのは自明の理だ。
「それで進路相談とか、どうするんだ」
「適当に就職」
「俺も」
今まで話に加わっていなかった他の奴も、適当に話し始める。
まあ、今の時代は。
大学に行く余裕が無い人間の方が大半だ。
若者の車離れとか言う話があるが。
当たり前である。
そんなもの、乗っている暇も無いし。
維持する金だって、そもそも購入に充てる金もない。
「なんか金持ちのブスと結婚して、それで一生楽に暮らすとか、できねーのかな」
「出来たら苦労しねーよ。 そもそもそんな金持ちの場合、大体親が事実上婚約者を決めているらしいぜ」
「そうだろうなー。 いいな、人生イージーモードでよ」
多分この場にいる此奴以外の皆が、心の中で思っただろう。
お前もイージーモードだよ、と。
それでいながら、逆らう事は許されない。
「協調性」を失った瞬間。
この国では人権が消滅するのだから。
いや、この国だけではないだろう。
今、坂道を転がり落ちるように何もかもがおかしくなっているのは、この国だけではないと聞いている。
反吐が出る。
また、体の中の何かが蠢いているのを感じて、舌打ちしそうになるが、我慢。
リーダー格が、やっと腰を上げた。
「何か気がのらねーし、解散すっか」
「そうしよう」
「じゃあな」
珍しい。
今日はモンハーンをやろうとは言い出さなかった。
そうか、それは有り難い。
だが、家に着いた後、SNSで通知してくるかも知れない。
一秒だって気が休まる暇も無い。
いっそのこと、もうモンハーンを止めようかと思っているのだが。
それも、此奴が飽きるまでは。
何とかしなければならないだろう。
電車に乗って、家に向かう。
途中まで、グループの一人と一緒。
そいつと軽く話す。
「お前も大変だな。 俺も一歩間違えると虐められる所だったから、正直な話何も言えないけれどよ」
「ああ。 だがこればかりはもう仕方が無い」
「彼奴、本当に進歩しねーのな。 聞いたか。 チュートリアルの敵に返り討ちにされたらしいぜ」
「そうか」
ちなみに本音では喋っていない。
此奴がゲロる可能性があるからだ。
適当に応じるだけ。
ちなみに、向こうもそれを承知済みだろう。
何もかもが、嘘に塗り固められた世界。
しばらく前から、この世界は。
こうだと聞いている。
奇人変人に溢れていて。
しかも彼らが一切差別されない。
そんな世界は存在しない。
あるとすれば、二次元だけだ。
電車を降りて、家に向かう。
さて、今日も適当な時間で休むか。
そう思った、次の瞬間だった。
体の中で。
ずっと蠢いていた何かが、決定的に、今までと違う動きをした。
気がつくと、ベッドで転がっていた。
しかもパンツ1丁の半裸で。
記憶が一切無い。
どうやら制服を脱ぎ散らかして、その場で転がったらしいが。
だからなんだというのだろう。
ただ、気になるのは。
それまでの記憶が一切ないと言う事。
一時間ほど、何をしていたか分からない、という事だ。
駅から家まで十分。
つまり五十分ほど、何をしていたか、まるで見当がつかない。
頭を抱えたくなるが。
何が起きた。
単なる若年性のボケか何かか。
体の中で何かが蠢いている状況には変わらない。
そして、あの時。
記憶が飛ぶ寸前。
体の中の何かが。
決定的に今までと違う動きをした。
それだけは覚えている。
しかしその後、何が起きて、どうしてこうなっている。
隣にレイプされた女が泣いているとか、そういう致命的な事態ではない。しかも制服を此処で脱いでいるという事は、半裸で外をうろついていたこともないだろう。
時間的にも五十分。
出来る事など、そう多くは無い。
兎に角パジャマに着替えると。
家の中を見て回る。
夕飯。冷凍食品を適当に温めて食べたらしい。それさえ記憶にない。準備と食べるのをあわせて二十分程度。
それで残り三十分。
ゲームには触れた形跡が無い。
そうなると、後は何だ。
嫌な予感はしていたが、それがついに爆発したことになる。どうせ医者に行っても、大学病院とかだとけんもほろろの扱いを受けて追い返されるだけだろう。そうなると、町医者とかで、紹介状でも書いてもらうしかないのか。
でも、どうすれば良いんだろう。
ネットで似たような症状がないか調べて見る。
勿論ネットでの医療情報を鵜呑みにするのは危険だ。
何しろ、いわゆる反ワクチン運動とか、病院は利権が絡んでいて嘘の診察をしているとか、そういう情報が飛び交っているからだ。
大学病院でまともに診察して貰えなかったことは不信感があるが。
それでも、ネットの情報を鵜呑みにするのはもっと危険だ。
調べて見るが、似たような妄想症状はあるらしいけれど。
それで記憶まで飛ぶケースはよく分からない。
少なくとも、まったく同じものは見つからなかった。
ため息をつく。
体の中で蠢いているアレは、一応普通の動きをしているけれど。
記憶が飛んだことは事実。
それは非常に恐ろしい事だ。
記憶が飛んでいたとき、何か犯罪を犯していたら。
ただでさえ、普通に生きていても詰んでいる現在。
完全に何もかもが終わる。
そんな状態で、俺がどうすれば良いのか何て、分からない。
かといって、両親共に、ブラック企業で生命力に至るまで生絞りされている状況なのである。
引きこもりに転落した場合。
俺を養う余裕なんてないだろう。
頭を抱える。
だが、どうにも出来ない。
ストレスが更にふくれあがっていくのを感じるけれど。
それもなんでかがよく分からない。
しばし考え込んだ後。
心療内科に予約を入れようかと思った。
翌日。
昼に隙を見て、ネットで検索した近場の心療内科に電話を入れる。話には聞いていたが。心療内科では、今非常に混雑していて。
予約を入れておかないと、門前払いされるケースがかなり多いそうである。
大学病院でも或いは、似たようなケースだったのかも知れない。
だが、心療内科の場合。
かなり深刻な状態になって、慌てて相談しに来る人間が多いはず。
それを門前払いするというのは。
かなり問題なのではないだろうか。
大学病院にしても同じ。
そもそも、普通の病気だと思ったら、町医者に行くはずで。
何かまずいと思ったから、大学病院に行くのだろうに。
医者を疑うつもりはないが。
医療のシステムそのものには問題がある。
或いは過負荷が掛かりすぎてしまっているのかも知れない。
そうなると、他の業種同様。
いわゆるブラック企業状態で。
色々と、手が回らないのかも知れない。
ただでさえ今の医師は過酷な業務だと聞いているし。
その辺りは、情状酌量の余地があるのかも知れない。
いずれにしても、とにかく予約を入れる。
土曜に予約を入れる事が出来た。
勿論心療内科なんて事は、周囲には言えない。どんなことを言われるか、知れたものではないからだ。
今でも「頭の病院」というと、それだけで差別につながる唾棄すべき風潮がある。
ましてや、こんなデリケートなぎすぎすした「空気を読む」事を強要される環境である。
そんな場所で。
真実など言えないだろう。
学校からもかなり離れた場所の心療内科を予約したのも。
それが故だ。
両親にもメールを打っておく。
父からは返事があった。
治療代については、タンスに入れておいてくれるそうだ。
ちなみに両親にも、心療内科だとは告げていない。
歯医者だと言ってある。
それで、多分大丈夫ではあるだろう。
教室に戻る。
グループのリーダー格が声を掛けてきた。
「おい、今夜なんだけれどよ」
「どうしたんだ」
「モンハーンで新しいイベントが始まるらしくてよ。 一緒にやろうぜ」
この一緒にやろうぜ、というのは。
文字通りの意味では無い。
自分の代わりにそのイベント。
つまり追加コンテンツの、しかもソロプレイ時よりも強化されている奴を倒せ、という意味だ。
断ることは勿論許されない。
「空気を読まない」事になるからだ。
「今夜はいい。 ただ、土曜日に歯医者の予定が入った」
「虫歯かよ」
「そんなところだ」
「分かった、土曜については覚えとく」
どうして此奴にそんな許可を取らなければならないのか。
不愉快極まりないけれど。
だがそれは、この息苦しい社会で生きていくのに、仕方が無い事だ。
虐めが事実上容認され。
殺されても被害者が「弱い方が悪い」と死体蹴りされ。
加害者が「相手が協調性がなかった」とフォローされる社会である。
こんな状態で身を守るためには。
この理不尽すぎる現状に。
妥協していくしかない。
何とか学校は終わったが。
その夜。
モンハーンの追加ボスとやらと交戦したが、えげつない強さだった。ちょっとばかりこれはまずいと思ったので、かなり本気で戦う。
彼奴は役にも立たないので、ボスがこなさそうなエリアで、採集をして待っていてくれと先にチャットを入れておいたら。尻尾は切っておけとか言われたので、ブチ切れそうになったが、我慢する。
これが、現在で。
常識があるとされる人間の言動。
分かっているから。
我慢するしかない。
そして此奴に「社会的常識がある」と言う事は。
周囲全員が認めている。
故に、自分もそれを認めなければならない。
反吐が出る同調圧力だが。
それでも耐えなければならないのが、厳しい所だ。
とにかく、前から時々一緒にプレイする上手いプレイヤーでも呼ぼうかと思ったが、此奴がいる時には、不快な思いをさせてしまう。
典型的なユータだし。
そのプレイヤーは非常に良識的な人なので。
出来れば関わらせたくないのである。
何とか、四苦八苦の末、初見での撃破に成功。
アイテムを使い果たした末の。
壮絶な消耗戦の果てだった。
前から苛烈なバランスだと思っていたが、それでもちょっとばかり今回はきつすぎる。彼奴が足を引っ張らなかったので勝てたけれど。それも偶然だ。何かミスしたら、その瞬間崩されていただろう。
「なんだよ、また随分時間掛かりやがって」
「本当に強い。 今までの敵の比じゃない」
「お前が下手なだけだろうが」
「そうかも知れないが、兎に角強い」
ブツブツ文句を言いながら、とにかく今日はこれで切り上げてくれた。
消耗しきった感がある。
幸いこのボスは一度倒せばそれで充分に素材などを落としてくれるので、此方としては有り難いが。
エンドコンテンツを調整失敗すると。
こういう明らかにおかしいボスになってしまう。
溜息が漏れる。
戦っていて楽しくなかった。
それだけしか、感想がない。
本当に面白いボス敵というのは、手強くても勝った後に達成感があるし。戦っていて楽しいと感じるものなのだが。
今のはストレスフルなだけだ。
とにかく、彼奴から解放されただけで随文楽になった。
ぼんやりしようと思った瞬間。
また、体の中で。
何かの違和感が。
動いた。
そして、気がつくと。
二時間ほど経過していた。
パジャマに着替えていて、そのまま。部屋から出た形跡も無い。眠っていたのかと思ったが、違うだろう。
モンハーンみたいな激しく頭を使うゲームをやった直後に、即座に落ちるのは難しい。ましてやストレスのせいで、少しずつ眠れなくなっているのだ。まだ俺は十代なのに、である。
大人が会社で、どれだけのストレスと闘っているかと考えると。
正直絶望と恐怖しかない。
それはドロップアウトする人が大量に出る訳である。
正直な話、関わり合いにもなりたくない。
だが、仕事をしなければ、生きていけないのも事実。
頭を抱えた後。
溜息が出た。
土曜日まで、まだかなり時間がある。
体の中で蠢いているものが何かは分からない。
妄想なのかも知れない。
いずれにしても。
もう、これは独力で解決するのは、無理だと判断するほか無かった。
2、蛹
ようやく土曜が来た。
吐き気がするほど大変だったが、どうにか乗り切って。そして土曜日を迎えたわけだけれども。
心療内科に行くと。
朝一なのに、かなりの人が来ていた。
なるほど。
このご時世だ。
精神の方にダメージを受けすぎて、体がおかしくなる人は珍しくもない、というわけだ。納得がいく。
こういう現状を見て、「心が弱いからだ」とか。「医者が言う事を信用するな」とかほざく人間が、どれだけ冷酷で残忍か。
言うまでも無いだろう。
だが、そういう事を言う人間が、社会の上層で好き勝手していることくらい。
俺のような子供でも知っている。
吐き気がするような有様だ。
そして、心療内科が、予約無しでは受診できないのもよく分かった。
この有様である。
とてもではないが、捌ききれないのだろう。
「平野さん、どうぞ」
喚び出されたので、診察に。
状況を説明する。
体の中で何かが蠢いているように感じる事。
最近、それが激しくなっていること。
そして、意識が飛ぶようになった事。
順番に説明を終えると。
医師は頷いていたが。
話を聞いてくる。
「何かの薬、風邪薬などを常用はしていますか?」
「いいえ」
「コーヒーや紅茶などを毎日大量に飲んだりは?」
「どちらも嫌いです」
軽く他にも幾つか質問をされる。
そして、医師は言う。
「高いストレスを受けて、ありもしないものが見えたり、感じたりすることはよくあることです。 その結果、負荷が上昇して、意識を失ったりすることも」
「この間は、三十分以上、そのまま活動していたようなんです」
「人間の記憶というのはいい加減で、ちょっとしたことでもすぐに齟齬が出ます。 とにかく、ストレス緩和のためのお薬を出しましょう。 飲んでみて、効果がないようだったら、また来てください」
仕方が無い。
これくらいしか出来ないか。
でも、これは本当に妄想なのだろうか。
今でも、その何かが蠢いているのを感じるのだけれど。
だが、相手は専門家だ。
よほどのイレギュラーでもない限り、俺のようなケースは散々見ている筈。多分アドバイスも的確なはずだ。
少なくとも、自称専門家や。
医者をディスる社会上層の人間。
或いはオカルト信奉者やら、ネットの情報やらよりは、遙かに信頼出来ると判断して良いだろう。
礼をして、帰路につく。
面倒くさいので、その間スマホの電源は落としていたが。
電源を入れるなり、SNSに連絡が入っていた。
舌打ち。
彼奴だ。
「病院終わったら、すぐに連絡しろ」
なんで此奴に休日まで拘束されなければならないのか。
でも、成人しても同じだろうし。
部活が酷い学校になると、部活によって死ぬまで絞られるという話も聞いている。
しかも見てしまった以上、既読としてカウントされるシステムだ。
返事をする。
「今診察中」
「時間掛かりすぎじゃねーの」
「時間が掛かる物だよ。 午前中が全部潰れるかもな」
「無能なだけだろ」
無能、か。
此奴が他人を無能というのを見ると、くすりと来てしまう。
此奴こそ、他人を暴力的に支配すること以外何もできない輩で。そしてこういう輩がのさばっているから、今のこの国、いやこの世界は駄目なのだろうに。
それが無能、か。
だが、世間的には此奴の方が「有能」とされるのは事実だ。
そしてそれが常識になってしまっているから。
この世界は終わろうとしているのだろう。
家にまっすぐ帰る。
ちなみに今日も両親は休日出勤。
二人とも金融系のIT業だから、こんなものだ。月400時間を越える労働をするケースもある。明らかに法規違反だが、金融系の場合、ほぼ労基は動かないらしい。まあ、余程の袖の下を握らせているのだろう。
二人ともゾンビみたいな顔色をしているが。
生きているだけまだマシか。
恐らく二人とも、五十まで生きられないのでは無いかと思っている。
兄や俺が生まれただけでも奇蹟に等しいのだろう。
しかも、兄が生まれたとき。
産休を取った母は、「空気を読んでいない」とかで散々絞られたと聞いている。
俺の時は、更に酷かったらしい。
こんな状態で、もう一人子供なんて出来る訳も無い。
しかも、給金は雀の涙。
中間搾取で散々絞り上げられているからである。
子供でも分かる。
金持ちだけいても、国なんて動かない。
この国は、戦争をしていたときと同じ過ちを、今国全土で犯しているのだ。それも、戦争末期と同じ状態になりつつある。
さて、そろそろ面倒だが、あのリーダー格に連絡をしてやらないといけないか。
昼過ぎに彼奴を連絡を返してやると、遅いとかキレだした。
「とっととモンハーン起動しろや。 欲しい装備があるんだよ」
「分かった」
自分で練習をする、という考えは此奴には最初から無い。
バランスがおかしい(これに関してだけは一理あるが)という理由で、他人に寄生して装備を作るのが当たり前、という思考が染みついてしまっているのだ。
後は、六時間ほども。
此奴の寄生につきあわされた。
翌朝。
不意に、体の中で、今までで一番激しく異物が動いた。
何だろう。
本当にCTでも受けた方が良いのではないのだろうか。
だが、心療内科は紹介状だとか書いてはくれなかった。
大学病院などの設備が整った所に行っても、門前払いされるのがオチだろう。
健康診断なんかは、それこそ親の承諾とかが必要なはずで。
どっちにしても、どうにもならない。
そういえば、米国ではそもそも医者には金持ちしか掛かれない、という話を聞いているが。
この国でも、少しずつそうなりつつあるのではなかろうか。
勿論普通の病院に関しては違うが。
何もかもが、狂っている。
そうとしか、言いようが無い。
とにかく、激しく異物が動くと言う事は。
記憶が飛ぶと言う事だ。
両親は土曜から帰ってきていない。勿論徹夜で仕事をしているのだろう。多分これは、今日は泊まり込みとみた。
職場でトラブルが起きたとは聞いていない。
どうせ常態化している残業につきあわされているのだろう。
両親とは、小学校に上がった頃から、殆ど話した事がないが。
死人みたいな顔色で。
会社のことを聞くと、完全に諦めきった顔で、色々と話をしてくれた。
そして、周囲もおかしくなっていると、嘆き悲しんでいた。
これだけ働かされて。
この給金。
しかも、この国だけの問題では無く。
過労死は、世界中に拡がっているという。
もう世界そのものが駄目なのだろう。
異物が大きくまた動く。
歩くのも辛いけれど。
まずチェーンを掛けて、そこにテープを貼る。
窓なんかにもテープを貼っておく。
スマホは電源を落とす。
意識がない間に、何かしたとして。
これらが予防線、後は推理の材料になる。
それと、ボイスレコーダーがあるので、それを仕掛けておいた。意識がない間、何を喋っているか、気になるからだ。
何とか準備を終えた後。
自分の部屋に戻って、部屋にテープを貼り。
そして、ベッドに倒れ伏して。
意識が飛んだ。
時間は、多分八時ちょっと前くらいか。
いわゆるニチアサが始まるまえくらいである。
昔はもっと前にニチアサは始まっていたのだけれど。
最近は時間がずれたのだ。
そして、気がつくと。
十時を回っていた。
確認する。
パジャマの前のボタンが飛んでいたくらいで、特に異常は無い。念入りに確認したが、部屋から出た様子も無かった。
そうなると、一体。
記憶が飛んでいる間、何が起きていたのだろう。
両親には相談どころか。
そもそも会うことさえ出来ない。
メールを飛ばしてもシカトされるだろう。
というか、職場で呼び出し音もバイブも禁止だとか聞いているから。
そもそも気付いてさえ貰えない筈だ。
溜息を零すと。
ボイスレコーダーを起動。
そういえば、溜息を零すのは失礼に当たるとかいう変なルールがあるらしい。職場では、それをやった瞬間人権がなくなるのだとか。
これも、今のうちに何とか押さえ込む癖をつけなければならないのだろうか。
昔のSFに出てきたディストピアよりも、今の社会は酷い状態になりつつあるが。
此処までになるのを。
何処の誰が予想できただろう。
ボイスレコーダーには。
意外にも、というか予想通りと言うべきか。
饒舌な自分の声が入っていた。
「何だ、ボイスレコーダーとは気が利いてるな。 前は大人しくしていてやったけれどな、せっかくだから色々喋ってやるよ」
これは、俺の声か。
意識が失っている間。
俺は自室に籠もって。
一人で喋っていたのか。
寒気がする。
もし外に出ていたら。
独り言を言いながら、歩き回っていた、という事になる。
そうなったら。
終わりだ。
学校では、格好の虐めの材料になる。
そして今の時代、虐めはされる方が悪い。そういう暗黙のルールが出来上がってしまっている。
少しの隙でも。
周囲に晒すわけにはいかないのだ。
「体の中に何かいるのは分かっていただろ。 それが俺だよ。 ハハハ、お前、鬱屈溜まってたもんな。 あの医者の言う事は正しかったんだよ」
それが何だってんだ。
どうすればいい。
ストレスの解消。
出来るわけが無いだろう。
今の時代、何でも「自己責任」にされる時代だ。
虐めにしてもそう。
弱い方が悪いというのは、それこそ「自己責任」論が無責任に使われているケースの見本みたいなものだし。
会社でも、風邪を引いたりすると。
それは風邪を引く方が悪い、ということになる。
置き引きなどにあったりしても。
隙があった方が悪い、となる。
あげく、何かか好きだと言えば、異常者扱いされるのがこの社会だ。
ゲームや漫画は、昔のように隠れ潜みながら楽しまなくても良くなっては来た。
だがそれでも、オタクは人間では無い、などと口にする輩はいるし。
差別はまだまだなくなっていない。
その差別に直面した場合。
やはり差別する側よりも、差別される側が悪いことにされる。
ましてや俺は。
彼奴に目をつけられているせいで。
好きなようにゲームも出来ない有様だ。
モンハーンは嫌いになりつつある。
なんで俺が、ユータプレイヤーの彼奴の奴隷みたいに手伝ってやりながら、しかも毎回下手だの何だの言われなければならないのか。
努力が完全に笑いものにされるようになってしばらく経つけれど。
彼奴が努力をしないのは目に見えている。
今後も絶対に努力なんてしないだろう。
それでいながら、俺はどれだけプレイスキルを磨いたところで、プレイが楽にならない。完全に勘違いしたゲーム製作サイドが、異常難易度の追加コンテンツを投入してくるからである。
難しいと面白いは違う。
そういう意味では、モンハーンは完全に調整を失敗している。
他にも、難しいが面白いゲームを俺は幾つか知っているが。
それらも、彼奴のせいでプレイなんて出来ないし。
もしもそれらを好きなんて言おう物なら。
速攻で虐めのターゲットになる。
「なあ、もう逃げちまうか?」
もう一人の俺が。
ボイスレコーダーの中で言う。
逃げる。
そうしたら、両親の負担が激増する。
そうなったら、ただでさえ頭がおかしくなるような労働に縛られている両親は、完全に崩壊するだろう。
家庭崩壊どころか。
人格崩壊で済めば良い方だ。
勿論社会からは見捨てられる。
今、社会保障される人間がまったく保障されず。
犯罪組織と懇ろにしている人間が、社会保障を好き勝手に食い荒らしているのは有名な話だが。
両親も同じ目に会うだろう。
今まで地獄のような労働で持ち崩した体を一切顧みられず。
社会保障の対象にされず。
犯罪組織と懇ろにしている連中が、社会保障を食い荒らしているのを横目に。もはや何の希望も無い現在を、生きていく。いや、生きていくのは難しいかも知れない。
俺は、少なくとも。
これ以上両親に迷惑は掛けられない。
「ひょっとして、引きこもりになる事でも考えてるか? ギャハハ、違う違う。 楽に死ねる方法を教えてやるよ」
「!」
「とはいっても、物理的な意味じゃないけどな。 そんな事をされたら、お前の中に住んでる俺も困るしな」
何だと。
どういう意味だ。
犯罪を手を染めるわけでもなく。
自殺するわけでもない。
「俺に、体を寄越せ」
ボイスレコーダーの中で。
そいつは、そう言った。
冷や汗が流れっぱなしだ。
ずっと声が反響している。
俺なのに、俺じゃない声。
頭の中で、響き続けている。
もう一人の俺は、俺の事を知り尽くしていた。
それはそうだろう。
俺の中に住んでいるのだから。
エロ本の隠し場所とか、エロ画像のフォルダとかも、全部知っている筈だ。そういう意味でも、自分の中にいる存在というのは、おぞましすぎると言って良い。
それだけじゃあない。
そもそも。
もう一人の俺は。俺の決定的な弱点を鷲づかみにしていた。
俺は、もう。
この世界に何も希望を持っていない。
別に不思議な事では無いだろう。
今の子供は多分、殆どがそうなはずだ。
1%にも満たない、いわゆる超勝ち組の子供達は違うだろうが。
そいつらはそいつらで、性根が歪みきった親の下で、同じく性根が腐りきった同級生達と、大人顔負けの暗闘をしているだろう。
どっちにしても地獄だ。
NOと言う事は許されない。
空気を読んでいないからだ。
周囲と協調性がないからだ。
それが今の時代。
いつの間にか、嫌なことに対して、NOと言う事が許されない社会が形成されてしまった。
それが現在なのである。
こればっかりは、国のせいでもないだろう。
モラルが徹底的に腐りきった結果だ。
モラルが腐りきったから、常識というものも腐りきって。
その結果、地獄になった。
それだけである。
だから、虐めをする奴には有利な時代とも言えるが。
そいつらにして見ても、どっちにしろ社会に出れば地獄に落ちるのは変わらない。
気に入られようが気に入られまいが。
結局悪夢のような労働で、体をすり減らして、壊して行く。
それ以外に路は無いのだから。
もう一人の俺には任せられない。
何を考えているかは分からないが。
どっちにしても、碌な事じゃあない。
異物が動いている。
まだ、体の中で、彼奴は自己主張をしている。
ほら、このままだと腐れて死んで行くだけだぞ。
お前はこのまま朽ち果てたいのか。
俺に体を寄越せ。
そうすれば、少しはマシにしてやるよ。
そう囁いているのが。
何となく分かるようになって来ていた。
多分コレは心の病気だ。
だけれども、だからといって、どうすれば良い。
どうにも出来ない。
心の病気だと言う事がばれでもしたら、その瞬間この社会からははじき出されてしまうのだ。
スマホに電源を入れると。
彼奴からまた連絡が来ていた。
「とっとと出ろやボケ!」
「昨日の検査で悪い結果が出たんだよ」
「何だそれ。 歯医者だろ」
「昔は歯の病気で死ぬ奴もいたんだ。 ちょっと俺のも面倒なケースらしい」
向こうはそれで納得するか。
しなかった。
「どっちにしてもたかが歯だろ。 昨日作った装備が気に入らないから、作り直したくてな。 とっとと手伝えよ」
「悪いけれど、痛くてそれどころじゃないんだ。 確実に3乙する」
「ふざけんなよテメー! 痛いくらい気合いでどうにかしろボケ!」
まずい。
これ以上相手の機嫌を損ねると。
虐めにつながる。
既に此奴は、虐めで再起不能の人間を出していて、それで何ら社会的な制裁を受けていない。
そういう奴だ。
俺に対しても、同じ事をするだろうし。
学校側も、それどころか社会そのものでも。
それを「正しい」と判断するだろう。
弱い方が悪い。
そういう醜悪な常識がまかり通っているこの世界だ。
正しいのは、此奴の方なのだから。
「3乙なんてして俺に迷惑掛けたらゆるさねーからな! グダグダいってねーで、さっさとモンハーン起動しろ!」
「……」
「代われ」
不意に、異物が動く。
そして、俺の意識を。
一瞬にして乗っ取っていた。
3、一線
気がつくと。
俺は廃工場にいて。
彼奴が血まみれで、泣きながら転がっていた。
手元には鉄パイプ。
そして俺は。
ぼんやりと、それを見ていた。
「お前の恥ずかしい裸の動画、もしも今日のこと言ったりしたら、ネット中に拡散してやるからな。 その汚いナニも、世界中の人間に見られる事になるから覚悟しろ」
「ごめんなさい……」
「モンハーンももう手伝ってやらん。 お前が下手なのを、俺が毎回手伝ってやっていたのに、巫山戯るなよクズ。 モンハーンやりたいなら腕を磨けよ。 毎回お前が自力で解決すれば良いだけの事を、解決できなかったからこうなってるんだろう。 ゲームバランスが悪いのは事実だがな、俺はお前のせいで、更に悪化したゲームバランスのモンハーンで四苦八苦していたんだよ」
「ごめんなさい、許してください」
ごっと、凄い音がした。
顎を蹴り挙げたのだ。
虐めを行う奴は、決して「必ずしも」腕力が強いわけではない。
強いケースもある。
勿論虐められている人間が、腕力が弱い場合もある。
此奴の場合は違った。
他人の弱みを握って。
好き勝手をする術に長けていた。
それだけだ。
何だか、俺は。
フワフワした気分で、それを見ていた。
此奴に対して暴力を振るったことは、まるで気に病んでいない。此奴は既に再起不能の人間を出した、本来なら社会で断罪されていなければならない人間だ。常識も法も機能していないから、此奴のようなモンスターをのさばらせ。
あげく社会の上層を。
此奴の同類で満たしてしまった。
更に、徹底的に痛めつけた後、襟首を掴んで引きずっていく。
そして、崖から突き落とした。
悲鳴を上げながら落ちていって、下でぐしゃりと音。
死なない程度の崖を選んでおいた。
しばらく、極限の苦痛を味あわせておく。
そして、崖を降りていった。
こんなに器用に崖を降りられるとは、自分でも思っていなかった。
筋力が明らかに普段より上がっている。
リミッターが外れているのかも知れない。
すぐ側に行くと。
だらしなく陰部を晒している彼奴は、情けない悲鳴を上げた。
折れている左足に石を落とし。その石を上から踏みつけながら言う。
「お前は自分で崖から落ちた」
「自分で崖から落ちました」
「もう一度繰り返せ」
「崖から自分で落ちました!」
違うだろう。
蹴りを叩き込む。
悲鳴を上げて、頭を庇うクズ。
理不尽だが。
これでいい。
もう常識そのものが腐り果ててしまっているこの世の中だ。この手の輩をのさばらせたのは。
周囲全員。
つまりこの世の中そのものなのだ。
ならば、なんで俺がそれに押し潰されなければならない。
「医者を呼んでやるよ。 もし警察とか医者に余計な事を言ってみろ。 さっきの動画を全世界にアップしてやる。 更に言えば、もし俺が有罪になっても、どうせ少年院だし、すぐに出てくる。 その場合はお前を確実に殺しに行くからな」
「分かりました! 俺は自分で崖から落ちました! 崖から落ちました!」
「それでいい」
崖から上がって、しばらく分かるように、其処から見下ろす。
痛い痛いと喚いているが。
しばらくは敢えて医者も呼ばない。
もっと苦しんで貰う必要があるからだ。
念のため、俺が蹴ったりした場所をウエットティッシュで拭いてから、崖から落ちたように土をぶっかける。
そして、じっくり苦しめてから。
119番に掛けた。
いつの間にか、主導権は俺に戻っていたけれど。
それは別にどうでも良い。
何だか、凄くすっとした。
そして、翌日から。
学校は凄く気持ちが良くなった。
彼奴がいなくなった。
それだけで、随分空気が違う。
ただ、教師は困惑しているようだった。
クラスを好き勝手に仕切っていたクズがいなくなって、雰囲気が変わったからだろう。ホームルームで、咳払いすると、無能教師は言う。
「昨日石塚君が、崖から落ちて大けがをしました。 全治一ヶ月という所です。 暗闇に放置されて余程怖い目にあったらしく、病院でも殆ど口をきけない状態です」
「それで、千羽鶴でも送るんですか?」
「小学生かよ」
失笑する声。
確かに千羽鶴なんて、何の役にも立たない。
海外に送ったところ、燃やすくらいしか役に立たないと酷評されたこともある。
気持ち云々以前に。
そんなものはただの自己満足だ。
「一ヶ月間学校には来られませんから、戻ってきたら手伝ってあげてください」
「彼奴、そもそも学業最底辺だったよな」
「一ヶ月遅れても、関係なくね?」
そんなひそひそ声が聞こえる。
皆、良く想っていなかったのだろう。
だが、あの手の輩が君臨するのが「常識」で。
文句を言うのが「空気が読めない行為」だから。
誰も文句を言わなかった。
それだけだ。
俺は頬杖をついたまま、ぼんやり話を聞いていた。空気は確かに良くなった。だが、それだけだ。
もう一人の俺がやった事に、何ら文句はない。
むしろ本来なら、俺がやるべき事だった。
出来なかっただろうが。
明らかにもう一人の俺は、俺より力が強かった。
そして今。
全身筋肉痛が酷い。
やっぱり体のリミッターを外していたのだろう。
それだけでも、これだけ力が出るのだから、大したものだ。
彼奴のグループの、俺同様に搾取されていた奴が、ほっとした顔をしている。
だが、多分楽なのは。
そう長く続かないはずだ。
世の中はそんなに「優しく」腐っていない。
どうせすぐに。
彼奴の代わりが現れる。
何しろ、ああいう手合いが正しいとされる世の中だ。
弱い方が悪いというのが「常識」になっている世界だ。
それに逆らう事そのものが、「空気が読めない」行為になっているのだ。
真面目に誰も何もしなくなる。
当たり前だろう。
あくびを一つする。
無為な授業を受ける。
スキルを身につけても、社会で何ら役に立たなくなった。両親がそうぼやいていたが。そういう意味では、学校なんてもはや何の意味もない場所なのかも知れない。実際問題、誰でも入れるようになった大学は、完全に価値を無くしたと聞いている。
また、何かが。
俺の体の中で蠢いた。
昨日のように、いきなり主導権を取られると困るが。
やはり心療内科で言われたように。
ストレスが原因なのだろう。
それに、昨日の様子からして。
いわゆる二重人格、と言う奴なのかも知れない。
だとしても。
別に嬉しくない。
子供の頃などには、ちょっと不思議な「属性」として、二重人格とかを喜ぶケースもあるようだけれど。
実際にそれが自分で起きると。
嬉しいとは思わない。
「平野、此処から此処まで訳してくれ」
「はい」
適当に授業に応じる。
一応、今日からは、例のグループはもう集まらないだろう。
時間が出来る。
それだけは嬉しい事だ。
一月ほど、悠々と時間を過ごして。
彼奴が戻ってきた。
だが、その間俺も、考えるところあって、体を徹底的に鍛えていた。
体重は七キロ増えたが。
それは全部筋肉。
しかも脂肪は減っている。
つまり、それだけ露骨に強くなった、という事だ。
見かけが一回り大きくなった。
そう周囲に言われている。
実際問題、高校くらいの時期は、とにかく伸びる。
真面目に鍛えれば、体はそれに答えてくれるものだ。
俺の場合は、体のポテンシャルを上げる事だけに集中したけれど。他の場合も、伸びる奴は同じように伸びるだろう。
授業の間、普段はふんぞり返っていた彼奴は。
異常に大人しくなっていた。
そして放課後。
グループを招集することもなく。
俺に怯えながら、そそくさと家に戻っていった。
俺と同じように。
彼奴のグループで、搾取されていた面々は、顔を見合わせる。
「どうしたんだ彼奴」
「暗闇に放置されて余程怖かったんだろ。 何カ所か骨も折れていたとか聞いたぜ」
「初耳」
「いずれにしても、凄く過ごしやすくなったな」
何だかな。
正直な話をするが。
もっと早く、もう一人の俺が出てきていれば。
彼奴に再起不能にされた何人かも。
そんな目に遭わずに済んだだろうに。
彼奴は社会に断罪されず。
好き勝手に過ごし。
弱者を思うままに蹂躙した。
その結果がこれだ。
逆に弱者に彼奴が回った。
その結果は、言う間でも無い。
狂ってしまっている常識が。
今度は彼奴に牙を剥く。
そして徹底的に食い尽くしていくだろう。心も体も尊厳も。何もかもを、滅ぼしていくことだろう。
だが、それに関しては同情しない。
完全に自業自得だからだ。
散々弱者を虐げてきたことの報いが降った。
それだけである。
なお、それから情報が流れてきたが。
彼奴は。
骨折などの回復に問題があり、一生まともに走る事も出来ないし。更に夜闇を極端に恐れるようになって、夜道を歩けなくなったそうだ。
彼奴が来る。
彼奴が来る。
ずっとそう呟いているらしい。
ざまあみろ。
そうとしか、俺には言えなかった。
だが、もう一人の俺に体を明け渡すわけにもいかない。
体を鍛えるのは続けようと思ってはいるが。
それで弱者を痛めつけては意味がない。
こういうのは、これっきりにしよう。
そう、俺は思っていた。
だが、すぐにそうもいかなくなる。
一ヶ月もすると。
彼奴がいなくなった事を良い事に。
別の奴が、クラスを仕切ろうとし始めたのである。
同じように性格が腐りきっていた奴で。
名は天宮。
石塚ほどではないけれど。
性根が腐ったゲス野郎だ。
それが常識的とされているこの世界がそもそも腐りきっているのだけれども。
どこかで見抜いたのか。
此奴。
俺が石塚を潰したのだと、何となく悟ったようだった。
「常識」に関しては石塚より劣っていたから、クラスで好き勝手は出来なかったのだろうが。
それ以外の嗅覚では、より優れていた部分もあった、という事か。
まず此奴が始めたのは、石塚に対する虐め。
まあ正直な所、石塚が虐められることについては、どうとも思わない。今まで此奴は何人も再起不能にしてきたのだ。
されて当然だろう。
だが、石塚が虐められることで。
俺が潰したのだと悟られると困る。
恐らく此奴も。
その言質を取るつもりだったのだろう。
仕方が無い。
先手を取ることにする。
だが、もう一人の俺が、反対した。
「もう少し様子を見ろ」
「どういうことだ」
「あの野郎、どうも臭う。 ひょっとすると、ストリートギャングやらとつるんでいるかも知れない」
「ストリートギャング?」
そんな単語初めて聞いた。
もう一人の俺は教えてくれる。
どうしてもう一人の俺なのに、知識を共有していないのかは不思議だが。
「ああ、今は半グレとかいうんだったか。 とにかく不良を通り越して、暴力団の下部組織まで行ってる連中だよ。 前はチーマーとかカラーギャングとかいうのが主流だったが、最近は凶悪化が進んでいるんだろ」
「どこでそんなの知ったんだよ」
「お前、最近睡眠時間長いだろう。 寝ている間の何時間か、俺が使っているんだよ」
思わず口をつぐむ。
とにかく、せっかちに動かないで、しっかり様子を見ろ。
そう言われたので、忠告に従う。
悔しいけれど。
石塚の独裁を終わらせたのはもう一人の俺だ。
それも極めてスマートなやり方で。
だから、ある程度忠実に話を聞いておいた方が良いだろう。
そう俺は判断した。
「それでどうする」
「石塚に対する暴行なんかをしている様子なら、それを動画に撮った方が良いだろうな」
「なるほど、それを拡散すると」
「そういう事だ。 もしも学校でそれをなじってくるようなら、その瞬間に叩き潰して、学校中に動画のことをばらしてやれ」
なるほど。
そうなれば、攻守逆転。
更にネット中に拡散してやれば、背後にいる犯罪組織の下部集団だか何だかも、手を出しづらくなるだろう。
むしろ素人相手に下手を扱いたという事で、積極的に切り捨てに掛かるかも知れない。
どちらにしても、その方がスマートだ。
いずれにしても、犯罪が堂々と見逃され。
法も常識も機能していない現在だ。
それならば、此方も。
自衛をするしかない。
それだけだ。
4、発芽
トイレでの激しい暴行。
相手がもうまともに歩けない状態でもお構いなし。
俺は知っている。
抵抗できない弱者を痛めつけるときこそ。
人間は本当に、一番嬉しそうに笑うことを。
石塚がそうだったし。
此奴。
天宮もそうだ。
心底からの笑みをにっこにこに浮かべて。
トイレで蹲っている石塚に、激しい暴力を加えていた。
此奴は多分、石塚が転落するのを待っていたし。
なおかつ、石塚が気に入らなかったのだろう。
或いは、半グレだかの兄貴分達に、言われたのかも知れない。
てめえの学校ぐらい仕切って見せろ、と。
そして、それが「大義名分」となり。
嬉々としてこういった行為に出ている訳だ。
「ほら、吐けよ。 テメーを叩き潰したのは平野なんだろ? ゲロったら俺が復讐してやるって言ってるんだからよぉ!」
ぼぎりと、骨が折れる音。
これは肋骨がいったな。
悲鳴を上げてのたうち廻る石塚を、満面の笑みで天宮が更に蹴りつける。
「なんだ情けねえな。 何人も再起不能にしたって、嬉しそうに話してただろうが! 自分が再起不能になったら負け犬か? 今まで弱い者だけ虐めてたって言ってるようなものだな、カス!」
これに関しては全面的に同意だが。
個人的に問題なのは。
石塚が半殺しにされていることなどでは無い。
此奴から、天宮に俺の情報が漏れることだ。
仕掛けておいたカメラから、リアルタイムで暴行の様子は、動画サイトにアップデートしている。
早速というか何というか。
騒ぎになっているようだった。
視聴数も爆上がりしている。
なお、学校の名前と。
痛めつけている奴。
虐めている奴。
どっちの名前も書いている。
多分これから拡散と削除のいたちごっこになるだろう。
勿論此方でも、足がつかないように、ネットカフェで作った捨てアカウントを使って動画をアップしている。
かれこれ、三十分ほど経過しただろうか。
天宮の電話が鳴った。
「はい、何すか兄貴。 えっ……!?」
見る間に真っ青になる天宮。
この時点で俺は、既にその場を離れている。
どうせ安いカメラだ。
発見されてもどうでもいい。
何よりも、だ。
学校と名前が特定されているのが天宮にとっては極めてまずい。
右往左往している様子も、ばっちり動画には写されていて。
カメラは巧妙な位置に仕掛けてあるから、気付くことも出来ない様子だ。
「はい、はい! 分かりました! すぐにその場を離れます! すぐに其方に向かいますんで! はい!」
真っ青になったまま。
天宮はトイレを飛び出していった。
そのまま兄貴分達が鬼の形相で待っている事務所だか何だかに向かうのだろう。自業自得である。
泣いている石塚は放っておく。
だが、このタイミングで、録画は中止。
カメラは遠隔操作ができる。
後で適当に回収しておけばいいだろう。
トイレに入れば、回収は五秒で出来るように、事前に仕込んでおいたのだから。
学校側はまだ気付いていないらしい。
ただ、トイレで何かヤバイ事態が起きている事は分かっているらしく。
生徒達は、そのトイレに近寄らないようにしていた。
何食わぬ顔をして、入る俺。
止めようとした奴がいたけど。
気付かないフリをして、中に入り。
石塚を見下ろすと、鼻を鳴らして個室に。其処でカメラをさっさと回収して、用を足して外に出た。
何だろう。
ちょっとふわふわする感触だ。
クラスに戻る。
凄まじい暴力を加えられた石塚は、教室に戻ってきた後。何も言わずにじっとしていた。骨が折れているだろうに。
ちなみに周囲の反応は冷淡。
以前此奴が虐めていた生徒が。
骨が露骨に折れているにも関わらず、授業中に此奴に暴力を振るわれていたことがあった。
教師も生徒も見てみぬふり。
そんな状態なのが、今の学校だ。
ましてや。
虐めをしていた此奴が。
虐められる方に転落しても。
誰が庇おうというのだろうか。
「石塚、この数式を解け」
教師が無慈悲に言う。
真っ青なまま、ふらふらと石塚がホワイトボードに向かう。くすくすと誰かが笑っているのが聞こえた。
どっちもクズだな。
俺にはそうとしか思えなかった。
全員がクズだから。
こういう状況になる。
ただそれだけだ。
モラルハザードの恐ろしい所は、常識そのものが狂うことじゃあない。一度壊れたモラルは、周囲の人間もどんどん狂わせていく、という事だ。
天宮は、その後。
結局クラスに戻ってこず。
そればかりか、二度と学校に来なかった。
学校側は、それを問題にもせず。
いつの間にか、天宮の席は片付けられていた。
何かあったのだろうけれど。
それは知らない。
流石に学校側も、ネットで大炎上しながら拡散している例の動画を、問題視したのだろう。
あるタイミングから。
点呼で、天宮が呼ばれなくなった。
それで気付く。
ああ、自主退学させられたんだな、と。
問題は、天宮が復讐してくることだが。
そもそも俺が天宮を潰したという証拠がないし。
半グレの連中も動きづらいのだろう。
そして、半月ほどして。
天宮の死体が、近くのドブで浮かんだ。
正直な話。
ざまあみろとしか、言葉は無かった。
家に着く。
これで、また静かになる。
もう一人の俺が囁く。
「なあ俺。 もう少し俺に時間をくれよ」
「駄目だ」
「なんでだよ。 色々やりたいんだよ」
「兎に角駄目だ」
石塚や天宮を葬ってくれたことには感謝している。
だけれども、もう一人の俺は危険すぎる。
それに、だ。
いつの間にだろう。
何だかもう一人の俺は、俺に普通に話しかけてくるようになっていた。
正直、いつからかはさっぱりわからない。
だが、そうなっている以上。
俺はもう、立派に精神を病んでしまっている、という事で間違いなさそうだ。
「結局俺も、同じ穴の狢になっちまったな」
「ハ。 人間なんて生き物はどれもこれも同じだよ。 石器時代から一歩も進歩せず、どいつもこいつもただのカスだ。 自分から見て醜い相手は殺しても良いって本気で考えて、相手の人権から尊厳まで否定出来るのが人間なんだよ」
「流石に言いすぎだろ」
「いいや、言い過ぎじゃあないね。 俺は実際に見てきたからな」
何。
愕然とする俺に。
もう一人の俺は、けらけらと笑う。
「まさか気付いていなかったのか。 俺はお前の別人格なんかじゃねえよ」
「ちょ、ちょっと待て。 どういうことだ」
「人間の力が、リミッターを外せば倍増するってのな、あれ半分嘘なんだよ。 リミッター外すことが出来ないのは、やれば壊れるからだ。 筋肉痛程度で済んだ時点で、おかしいと思わなかったのか?」
「そ、それは」
自室のベッドで。
俺は完全に真っ青になっていた。
今、スマホで、例の暴行動画を見ているが。
再生数は伸び続ける一方だ。
動画サイト側が消しても。即座に他の誰かがアップする。
その繰り返し。
既に、合計再生数は、100万を超えている様子である。
天宮の家には、半分暴徒化した連中が押しかけ。
死体蹴りに余念がないらしい。
なお、石塚についても、クズだと言う事は既に知られているらしく。
此奴も現在進行形で、ネットで情報が拡散している様子だ。
何でも石塚のせいで精神病院に通うハメになった生徒が。
全てをSNSで暴露したらしい。
更に、多分俺のクラスメイトか何かが。
石塚が転落した経緯を暴露。
その結果。
石塚の家にも、同じように暴徒が押しかけているようだった。
まあ、どちらも自業自得。
知った事では無い。
ただ、問題は。
もう一人の俺が。
今、俺とは違うと。
そればかりか、多分人間でさえないと、独白したことだ。
「お前、何者だ」
「何者だとは失敬だな。 お前に呼ばれた者だよ」
「呼ばれた……」
「この世界は良い感じに腐りきっていやがるからな。 正直な話、鬱屈さえ抱えていれば誰でも良かったんだけどな。 俺にとっては、ちょうど波長が合っていた。 それだけのことだ」
頭を抱えるが。
もう一人の俺はけらけらと笑う。
「何だよ、あのクズ共に、好き勝手にされて、食い物にされ続けたかったのか? 少し前のニュースで見たが、高校時代の虐めの関係を二十年以上も続けて、その間ずっとカツアゲしていた、何てケースがあったらしいじゃねえか。 あんな風になりかねなかったんだぞ、お前も」
「そ、それは」
「あげく、そういった金はまず返ってきやしねえからな。 この国の司法は犯罪者の味方しかしねーし。 被害者が悪いって思考回路は、司法みたいな社会の最上層にまで根付いて来ているもんな。 俺好みの状況だぜ」
「お前……」
何だか。分かってきた気がする。
もう一人の俺は。
俺が呼んだと言うよりも。
この世界の心地よい腐臭に見せられて。
そして、自主的に来て。
相性が良い俺の体に潜り込んだ、という事なのだろう。
「ど、どうするつもりだ」
「前にも言っただろ。 この体は相性が良いし、壊れると困るんでな。 これからも守ってやるよ」
「……」
「何だ、守ってやるというと喜ぶのが人間じゃなかったか?」
そんな。
そういう奴もいるかも知れないけれど。
俺は。
頭を抱える俺に。
もう一人の俺は、けらけらやはり笑いながら言うのだ。
「ああ、そうそう。 名乗っていなかったっけな。 俺の名前は……」
聞き取れなかった。
多分、人間には聞き取ることがそもそも出来ないものなのだろう。
けらけら。
もう一度笑うと。
もう一人の俺は。
今後も仲良くやっていこうぜと、あからさまな確信犯でいうのだった。
もう一人の俺は。
俺に無理強いはしなかった。
だが、正直な話。
もう一人の俺が来て、致命的な事態が改善されたのは事実だ。
それについては、俺だって。
嫌と言うほど分かっている。
勿論、俺自身が解決していかなければならない問題なのだろうが。
それはそれだ。
クラスからは、ほどなく石塚も消えた。
どうやら完全に精神を壊したらしく。
学校どころではなくなったらしい。
あの動画が拡散した影響で。
過去の悪行が暴露され。
怖くてネットにもアクセス出来ない状態になったそうだ。
ちなみに久々にSNSを開いて見たら。
石塚は、ずっと同じメッセージを百通くらい俺に送っていた。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
完全に精神崩壊したとみて良いだろう。
まあ、正直な話。
どうでも良い、というのが素直な所だ。
いずれにしても、身を守らなければならない。
少なくとも、もう一人の俺の素性くらいは確かめないとならないだろう。だが、もう一人の俺は。俺がやっていることを、全て見ているのだ。
おかげさまで、生理現象の解消やらも、とにかくやりづらくなった。
幸いにもと言うべきか。
もう一人の俺は、俺が困る事は今の時点ではしていないようだが。
石塚や天宮を潰した手際の良さから言って。
何をしてもおかしくない。
どれだけダーティな手を用いても、不思議では無い。
それくらいの恐怖感を覚えている。
だからといって、もう一人の俺がいる便利さについては、もはや言うまでも無いことなので。
出て行けとも言えない。
悶々としている内に。
高校生活は幕を閉じ。
大学に行く余裕なんか無く。
適当に就職をする事になった。
勿論、今の時代。
正社員なんて、簡単になれるものでもない。
正社員で募集、といっておきながら。
実際には契約社員で、というケースも多い。
学校のモラルが崩壊しているわけじゃない。
社会全体のモラルが崩壊しているのだ。
会社が正直に、本当の事なんて話すわけもない。
結局、三十社ほど受けて。
どーでもいい仕事をしている、くだらない企業に受かったが。どうやらどう考えてもブラック企業らしく、鬱々としていた。
未来はない。
現在がない社会だ。
未来なんぞあるわけがない。
どっちにしても、今の時代、若者から老人まで、皆地獄絵図の中にいる。等しくそれは同じだ。
狂ってしまった社会で。
もはや為す術は。
少なくとも、個人でやれることは。
無いのかも知れない。
少なくとも、俺には何もやれそうにない。
だが、もう一人の俺がいれば。
或いは、少しはマシになるのかも知れない。
それもまた、事実なのだ。
あくびしか出ない卒業式を終える。卒業式は、誰も彼もがしらけきっている中、空虚な儀式を繰り返して、終わる。
昔は親がわんさか詰めかけたそうだが。
今は殆ど親がいない。
会社が、学校の卒業式程度に、休みなんかくれないのである。
熱が40℃あっても会社に出ろ。
親が死んでも会社に出ろ。
そう露骨にいう会社も増えているのだ。
それは子供の学校の卒業式なんかに、休みなんぞ出さないだろう。
元石塚の子分達は、今もつるんでいる。
卒業式の帰り道。
ぼそぼそと話ながら行く。
「石塚と天宮がいなくなって、静かになってせいせいしたな」
「本当に感謝しかないぜ。 天宮に至ってはこの世から消えてくれたしな」
「そういや、天宮がいた半グレだかって、壊滅したらしいぜ。 しのぎだか何だかがばれたらしくて、首根っこ掴んでたヤクザが激怒したとかで」
「何だそれ。 誰から聞いたんだよ」
親から。そいつは答えた。
そいつの親が警官だというのは、結構有名な話だ。
それにしても、しのぎがばれて親元から潰されるというのも、何というか。
待て。
そういえば。
天宮の兄貴分どもは、どうして俺に目をつけなかった。
天宮が俺に目をつけていたくらいだ。
俺の事は知っていたはずだ。
「なあ、その壊滅した時期って分かるか?」
「天宮が死んだ頃だってよ」
「……そっか」
まさか。
もう一人の俺は、にやつきながら話を見守っているようだ。
まさかとは思うが。
家に着く。
卒業証書だとかを放り捨てて。制服を投げ捨てると、パジャマに着替えて、ベッドに。
会社に行くのは数日先から。
今はぼんやりしていて良い。
俺は、もう一人の俺に話しかける。
「まさか、お前の仕業か?」
「よく分かったな」
「こ、殺したのか」
「天宮を殺したのはあの半グレどもだよ。 あの動画が流れた後、警察に連れて行かれた天宮が、余計な事を喋ったらしくてな。 警察から任意同行が終わって帰ってきた後に、連れていって工場でリンチして殺したらしい」
「なんで知っているんだよ」
そりゃあ当然と。もう一人の俺は言う。
勿論、俺が。
全員叩き潰して、吐かせたからだ。
背筋が凍りそうになる。
「お前の意識がない間にな。 奴らのたまり場に入り込んで、徹底的に叩き潰した後、警察を呼んだ。 連中覚醒剤取り扱っててな。 それを床にばらまいた上でだ。 で、連中の上部組織のヤクザが、覚醒剤を禁じ手にしていたんだよ」
「そ、そんなヤバイ橋渡ったのか」
「バカ。 あの半グレども、お前を拉致して殺そうって相談していたんだぞ」
弟分に舐めた真似をしてくれた奴を、生かしておく訳にはいかない。
そういう理由だそうだ。
それも背筋が凍りそうになるが。
此奴のやり口も、青ざめるレベルである。
「連中はもう一生目を覚まさないレベルで痛めつけてやったし、何より目を覚ましても、病院でベッドの廻りにヤクザがずらり、がオチだ。 俺としても、宿主が死んでは困るんでな」
「……」
「ああ、心配するな。 連中の金には手をつけていない。 手をつけたりしたら流石にヤクザの方が本気になるし、そうなるとお前の体じゃ対処が少しばかり難しくなるからなあ、ひひひ。 今の時代、人間の命なんて誰も価値を見いだしていないんだよ。 ヤクザどもも半グレを使い捨てて、それでおしまい。 そういうことだ」
分かってはいる。
だが、おぞましすぎる。
しかし、少し待て。
本当におぞましいのは、何なのだろう。
そもそもだ。
「お前、邪神か何かなのか」
「名前聞いて分からなかったか? お前達人間が忘却の過去に封印した存在と言えば、いにしえの神々に決まっているだろう。 俺はそんなに高位の神じゃないがな」
「つまり、悪魔って事か」
「キリスト教的に言えばそうなるな。 もっとも、今の人間の方が、よっぽど悪魔より邪悪だと思うがね」
けらけら。
また笑うもう一人の俺。
俺は、呆然としながら、膝を抱えた。
そうか、俺は今後ずっと。
この悪魔と一緒に過ごしていかなければならないのか。
何しろこの世界だ。
もはやモラルは地に落ち。
地獄というのも生ぬるい世界が到来している。
もう一人の俺のやり口はスマートだったが。
もっと邪悪なのは。
この世界で蔓延っている狂ったモラルと。
それに胡座を掻いている人間達ではないのだろうか。
反吐が出る。
「どうやら、お前が悪魔でも、共存していかなければならないみたいだな……」
「そういうことだ。 どうせお前みたいなクズは、社会に出ても奴隷以下の待遇で、死ぬまで使い潰されるのが関の山だ。 それが嫌なら、俺に体を時々貸せ。 俺は俺で、たまにお前の体を使って、現世の醜悪な空気を満喫するだけでかまいやしねえ」
「……そうだな。 好きにしろ」
「話が分かっているようで何より」
俺は、悪魔に体を貸した。
何だか、乗っ取られたような気もするが。
悪魔としても、この体を苗床にしなければ、現世にいられないとなると。
結局の所、共存なのかも知れない。
この世はもはや。
終焉に近づいている。
(終)
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