散らされた箱庭
序、諸島
ホープ号の性能試験は、順調に進んでいた。
海原で速度を確認しながら、予定通りの航路を進んでいく。海竜の縄張りと目される海域には既に入り込んでいるけれど。今の時点で、海竜が姿を見せる様子は無い。或いはゆっくり巡回していて、たまたま出くわしていないのかもしれないが。
たまに岩礁などをチェックするが、マーキングの類も無い。
陸上の動物だと、縄張りを示すために、木などに跡をつける事が多い。
これらの行動によって、無駄な争いを避けるのだけれど。
考えてみれば、桁外れの巨体を誇る邪竜に、そのような意思は必要ないのかもしれなかった。
甲板で、周囲をゆっくり見回すトトリ。
歩いてきたのは、メルお姉ちゃんだ。
お酒にはさっぱりなお姉ちゃんも、船に対しては強い様子で、全く船酔いしている雰囲気は無い。
というよりも、この船。
驚くほど揺れが小さくて、船酔いしている人は誰もいなかった。
「飲む?」
「うん。 ありがとう」
差し出された、温かいスープの入ったカップ。
この船にはキッチンもある。
今、料理をしてくれているのは、リオネラさん。作る料理はとても温かくて、美味しい。そして、最近分かってきたのだけれど。
あの人は、トトリの同類だ。
今までは凄く優しそうな人だと思っていたし。とても素敵な奥さんだなと感じていたのだけれど。
多分、凄まじい闇を内包していて。地獄に等しい人生を歩んできたはずだ。
何となくに、それが分かる。
トトリ自身が、そうなったから、かも知れない。
「次の島、かなり縄張りの奥の方なんだって?」
「うん。 もしも海竜が来たら、戦闘は避けられないと思う」
「その場合は逃げるんだっけ」
「仕方が無いよ。 準備が整っていないんだから」
トトリとしても、邪竜めは一刻も早く殺したいのだけれど。今回連れてきている戦力では、とても無理だ。
敵のサイズは、小さな島ほどもある。
国家軍事力級の戦士二人と、それにロロナ先生が来て、ようやく勝負が出来る土台が整う状況だ。
小舟が戻ってくる。
周囲の巡回に出てくれていたのだ。
乗っているのは、悪魔族の戦士二人。今は二人とも、充分に使いこなせるようになっている。
船に接舷して来たので、生きている縄を組み合わせた小型の巻き上げ機で引き揚げる。
小舟を収容しながら、悪魔族の戦士に聞く。どちらも、トトリのことを信頼してくれていて。とても有り難い。
ちなみにトトリやミミちゃんも、操船の練習はした。ミミちゃんはコツを掴んだのか、既にかなり上手になっている。トトリも一通りの操船は出来る状況だ。
「巡回の結果ですが、今の時点でフラウシュトライトは確認できておりません」
「では、予定通り進みます。 甲板での監視は続けてください」
「了解!」
敬礼を受けて、トトリはメルお姉ちゃんと一緒に、甲板から船内に。
環境に出ると、難しい顔をして、船長が腕組みしていた。
今回で、出港は六回目。
毎回目的となる島が違う。
島に着くと、無人の場合もあるけれど。フラウシュトライトに船を壊された人が、集まって村を作っている例もあって。
そうで無い場合もあった。
ただ孤立している村も。
そういった村々を回って、現状を確認。
資源や物資を廻して、島から出たいという人を引き取り、アランヤでアーランドの役人に引き渡す。
そうしたことを繰り返している内に、既に一月。
アーランドの方でも、準備は進めてくれているはずで。間もなく、海竜を殺せるはずなのだけれど。
まだ、ゴーサインは、出ていなかった。
「船長、どうですか、調子は」
「おっかなびっくり奴の縄張りを進んでいたんだがな……どうにも風がきな臭い」
船長は既に六十歳。
ベテラン中のベテランで。アーランドでは数少ない軍艦の船長として、ずっと務めてくれていた人だ。
今も畑が違うはずのホープ号をしっかり使いこなして、乗りこなしてくれている。
決戦の秋も、船長はこの人に頼もうと、トトリは思っていたけれど。その辺りは、国が決める事でもある。
ランク8になったトトリでも、それを認めてくれるかは、分からない。
「海竜が、此方に気付いている、という事ですか」
「可能性は低くない。 幸い、この船は恐ろしく足が速いからな。 滅多な事では捕まることはないだろうが、気を付けてくれ」
「はい。 いざというときには、常に備えます」
岩礁が見えてきた。
艦橋からは、外の様子が見える。これは、アーランドにある、遺跡から発掘した装置を応用したものだ。
流石に周回全部とはいかなけれど。
それでも、周辺をかなりクリアに確認できる。この装置は、マークさんが持ち込んでくれたので。管理はマークさんに一任している状況だ。
目的の島が見えてくる。
静かすぎる。
岩礁が続いているので、少しばかり速度を落とす。慎重に進みながら、目的の島の近くまで到達。
この辺りは、潮の満ち引きで、かなり状態が変わる。
潮が満ち始めると、大きな渦も出来るので、危険だ。
上陸メンバーを募って、島へ。
浅瀬を踏んで、潮だまりを見下ろす。中には新鮮な魚がかなり泳いでいる。アランヤ近海では見られない品種も多かった。
昔は、この辺りも、漁師達の縄張りで。
海に配慮しながら、適切な漁を続けていたのに。フラウシュトライトのせいで、全てが台無しだ。
上空から、偵察を続けていた悪魔族の戦士が、手を振って来る。
何かみつけたらしい。
すぐに降りてきた悪魔族の大柄な戦士。ガンドルシュさんと殆ど背丈も変わらない巨漢は、不安げな声を上げた。
「集落があるが、人気がない」
「何かしらのトラブルが起きた可能性もありますね」
「私が見てくるわ。 後続の部隊は、奇襲を警戒しながら進んでくれるかしら」
「私も同行します」
ミミちゃんが挙手。
そうすると、今回の任務に就いてきているホムンクルスの106さんが、それにあわせた。
彼女は二桁ナンバーに近いし、実力も高い。
今回ついてきてくれている十六名の戦闘タイプホムンクルスのリーダーをしているだけあり、戦闘力は申し分ない。
ちょっとまだ頼りないミミちゃんの補助としては、充分だろう。
ちなみに武器は双剣である。
ちょっとミミちゃんは不満そうだったけれど。二人は、すぐに消える。陣をくみ直すと、上空にいる悪魔族の戦士達にも、奇襲を警戒して貰う。
攻撃魔術が飛んできて、撃墜された場合。
頑強な悪魔族でも、ダメージはバカにならないのだ。
起伏が激しい地形だ。近くの磯だまりは、敵が潜むには非常に適している。その上、潮が満ちてくると面倒極まりない。
海竜が現れでもしたら、もっと厄介なことになるだろう。
急ぎながらも、確実に行かなければならない。
浅瀬を抜けて、少し高い所に出る。砂浜はなく、周囲全体が岩礁になっている島だ。岩礁を抜けると、多分水深は急激に深くなっている。
岩山の頭だけが、海から顔を出している。
そんな雰囲気である。
ミミちゃんが戻ってきた。口をつぐんでいる。
106さんが何か言おうとしたけれど。ミミちゃんは、咳払いして、自分が言うとアピール。
面倒くさそうに、106さんは眉をひそめた。
106さんは、ホムンクルスにしては感情が豊かで、見たところ自尊心も強い。精一杯背伸びしているミミちゃんを面倒がるタイプだろう。
ホムンクルス達の小隊長を任されていることで、自尊心も強くなってきているとみて良い。
それなのに、人間にはどんな相手でも基本的に従わなければならず。明らかに経歴でも戦歴でも、何より実力でも劣る人間にも、従ってきた。
ミミちゃんもその一人。
だから、少しずつ、苛立ち始めているのだ。
「村の様子は?」
「結論から言うと、全滅よ。 恐らくは伝染病か何かだわ」
「生存者の可能性は」
「ないわ」
即答するミミちゃん。
少し悩んだ末、トトリは警戒を一段階下げて、先に悪魔族に村に向かって貰う。これは空を飛べる彼らの快速を生かすためである。
トトリは後から、それに続く。
先に向かって貰った悪魔族には、調査をして貰って。
トトリ達は、成果を確認する形だ。
少し急ぐ。
ミミちゃんの様子からして、余程ろくでもないものを見たのだろう。村の方には、既に悪魔族が降り立っているはず。
小高い丘に出る。
周囲はモンスターの群れだ。
あまり好戦的な種族はいない。大型の虫はいるけれど、この数の戦士を見て、流石に仕掛ける気にはならないのだろう。
近寄ってくることはないから、此方からも仕掛けない。
村が見えた。
燃えているような様子は無いし、かなり原形もとどめている。
手をかざして見ていると、恐らくは滅びたのは一年ほど前だろうか。集落の有様から考えて、それが妥当なはず。
小走りで、村に。
そして、村に入ってみて、気付く。
なるほど、ミミちゃんが、口をつぐむはずだ。
やせ細ったミイラが、点々としている。モンスターに食い荒らされなかったのは、おそらく村の入り口に張られている結界が生きているから、だろう。
畑の後はすっかりと草ぼうぼう。
地図を見る限り、此処にアーランド戦士の村があった形跡は無い。恐らくは、フラウシュトライトに撃沈された船の乗員が作ったものだ。だから、二十名ほどの規模の、小さなもの。
彼らはおそらく、辺境国家の民。
だから、モンスターに対応する能力も持っていたし、しかし。
残念ながら、この新しい土地で暮らすには、病気に対する抵抗能力を持っていなかった。過酷な生活に慣れた民でも、時にはそう言うことがある。
しかし、問題はそこでは無い。
明らかに、死骸を食い荒らした跡がある。モンスターがやったのではない。
人間同士で。
食い合ったのだ。
恐らくは、理由は食糧の不足。多分病に倒れたのが、戦闘要員だったのだろう。あの森を見る限り、一人で食糧が取れる場所に行けるとは思えない。村の近くは断崖で、釣りをするには無理がありすぎる。
森の中に入れば、モンスターが多数。
数人の戦士で周囲を固めなければ、とてもではないけれど、突破は出来なかったのだろう。
村を此処に作ったのが、最悪の結果を生んだ。
倒れた戦士達。それだけで、全てが破滅に向かってしまった。
畑の様子を見ても、全員分の食糧を供給できたとは思えない規模。やがて、伝染病の絶望と。
悪夢のような食糧不足が。
狂気を、産んでいった。
子供の骨には、噛んだ跡が残されている。抵抗力がない子供は、疫病に耐えられなかった。だから死んだ後、食べたのだ。
病はその間も容赦なく生き残りを襲っていき。
村の中央に出ると。
倒れたまま骨になっている死体が、幾つか散らばっていた。
最後には、此処で殺し合って。
生き残った人間も、力尽きてしまった。
目を閉じて。トトリは周囲に指示。
「屍を葬ってください。 その後、形見になりそうな品を集めて、村を焼きます」
「分かりました。 直ちに」
「ダステルさん、船に戻って、消毒の準備。 船に戻りついたら、全員まずリオネラさんの診察を受けてください」
「了解だ」
非常に大きな目をもつ悪魔族の戦士が、先に飛び立って、船に戻っていった。
手際よく、地獄と化した村の跡地を処理していくトトリ。
おそらくリーダーだったらしく。
そして、最初に病に倒れたらしい男の家に入ると。まだ無事な日記が残されていた。中を見ると、まだ読める。
これは貴重な資料だ。
彼らの故郷が分かるかもしれないし。
それに、上手く行けば。
フラウシュトライトの弱点が、分かるかもしれない。
村を焼き払い。
遺体の埋葬と、遺品の持ち出しを終えて。船を出す。
船の入り口で消毒して、手足を綺麗にして。リオネラさんから、念入りに魔術での診察を受ける。
更に、トトリ自身が調合した、免疫力を高めるための薬品を、上陸メンバーに配布。全員に飲んで貰う。
船が出航した頃には。
トトリは、持ち帰った日記を、解析する作業に入る事が出来ていた。
艦橋の一角で、トトリは日記を開く。
勿論、この日記にも、念入りな消毒は施してある。流石に銭湯を内部に作るほどの余裕は無かったけれど。
それでも、湯は用意できるので。他のメンバーにはぬれタオルで体を拭うくらいはして貰っている。
何しろパワーパックが熱をかなり放出するのだ。
熱そのもので、水を簡単にお湯に替えることが出来るのは、便利である。
マークさんが来た。
日記の内容に、興味があるようだ。
「何だか、色々と凄惨だったようだね」
「こればかりは、仕方がありません。 元々全滅していることを想定していて、遺族に遺品が帰らないケースの方が多いですから」
それでも、島々を巡って、既に三十人ほどの救出に成功している。
元から島に住んでいた人達の中にも、島を出たいという人々がいた。こういった人々も、やはりフラウシュトライトの脅威に怯えているようだった。
もう、フラウシュトライトは、ドラゴンとはみるべきではないのかもしれない。
魔物はモンスターの枠組みを超えた存在だが。その魔物からも、逸脱しているのかもしれない。
そうなると、何なのだろう。
遺跡の奥底にいると噂される、太古の邪神か。
それとも。
日記を開く。
マークさんも見ている中。トトリは、ページをめくって、順番に見ていった。
どうやら、これの持ち主は、船長だったらしい。五十人ほどの船員を乗せた船を操って、海に出て。どうやらこの海域を迂回して、東の大陸に近い島へ、交易に向かう予定だったようなのだ。
東の大陸に向かう途中には、幾つかの列島があり。
そこそこの規模の国家と、豊かな特産品があるらしい。
勿論、この船も、フラウシュトライトの危険性は承知していた。しかし、帆船で航海する場合。
どうしても、陸地沿いにいかなければならない。
羅針盤や六分儀と言った道具で、今の位置を測ることは出来るけれど。それにしても、リスクが大きすぎるからだ。
海はそれくらいに広い。
人間が強くなっている昨今でも、危険性には何ら変わりが無いほどに。
だから、フラウシュトライトの縄張りを避けようと進んで。しかし、引っかかってしまった。
戦闘の経緯については、あまり詳しくは記されていない。
嵐に巻き込まれて、船が破壊されて。
遠くで勝ち誇る雄叫びを聞いた、というくらいしか無かった。
嘆息して、日記を閉じる。
ここから先は、おそらく生き残り達と村を造り。それが壊滅していく記録だ。見るのが、気が進まない。
それでも、見るしか無い。
日記を開き直して、先の記述を見ていく。
その途中。
ある、興味深い記述があった。
マークさんも驚いている。
「これは、ひょっとしたら。 検証してみると、かなりこれからの戦いが、有利になるかも知れないねえ」
「戻ったら、クーデリアさんに相談しましょう」
「それがよさそうだ」
いずれにしても、だ。
今回の航海で、調べるべき島は全て回った。
島によってはベヒモスが我が物顔で闊歩していたり、強力なモンスターが巣を作っている場所もあった。
グリフォン種が多数集まって、営巣地を作っている場所さえあった。
それらについても記載しておいたけれど。アーランドは把握していたのだろうか。よく分からない。
フラウシュトライトの到来によって、全てが狂ってこうなったとしたら、許せない。
マークさんが咳払い。
「トトリ君。 今、都合良く、物事を結びつけて考えなかったかい?」
「え? そんな事は、無いですよ」
「君は聡明な子だが。 そう言う子でも、時々思考の袋小路に墜ちる事がある。 私はアーランド王都の近くにあるオルトガラクセンに潜って、昔の記録を調べてきた。 昔の時代は、科学者がたくさんいたようなのだがね。 彼らも時に、愚かしい思考に足首を掴まれて、偉大な研究を棒に振る事があるようだったのだ」
褒めてくれているのだろうか。
マークさんは、いつもの様子とは違って、随分と口調も厳しい。
「フラウシュトライトに全てを結びつけるのは危険だよ。 奴については、まだ分からない事も多い。 くれぐれも、しっかり調べてから、何もかもを考えるようにするべきだと、僕は思うね」
「有り難うございます。 肝に銘じますね」
「……そうしてくれたまえ」
席を立つマークさん。
おそらく、日記を確認した以上、もう興味も無いのだろう。情報だけ手に入れれば、後は知らず、と言うわけだ。
冷酷かもしれないけれど。
実際問題、この日記は、もはや遺族以外には価値が無い。情報は既に把握したし、クーデリアさんには伝える。
それでおしまいだ。
プライベートに関係することも、結構書いてある。
村が壊滅していく過程は、赤裸々で。地獄絵図で。きっと、誰も見ない方が幸せな代物だろう。
日記を閉じると、トトリは立ち上がる。
マークさんはああ言うけれど。やはり、トトリには難しい。
荒れ狂う心の闇は。
制御出来るとは、とても思えなかった。
1、前哨戦
トトリが港に戻ると。
忙しい中、クーデリアさんが来ていた。それだけじゃあない。隣で手を振っているのは、ロロナ先生だ。
砂漠の砦の施療院で別れて以来である。
思わず、トトリも手を振り返す。
船が接舷し、タラップから皆が降りていく中。トトリは小走りで、ロロナ先生の元へ。
「良かった、元気そうだね」
「前線は大丈夫なんですか?」
「勿論日帰りよ」
そうか、そうだろうな。
ロロナ先生も、かなり強い。力をフルに発揮すれば、此処から最前線まで、一日以内に戻れるのだろう。
そう思ったのだけれど、首を横に振られた。
「アランヤとアーランド王都、つないだよ」
「へっ!?」
「かなり制限があるけれど、アーランド王都にある私のアトリエと、此処にあるトトリちゃんのアトリエ、つながったから。 これからは、一日で行き来できるよ」
流石というか、何というか。
コンテナをつなげている空間の時も、驚かされたけれど。この人の錬金術は、もう何というか、すごい。
奇蹟を体現するような内容だ。
確か、そんな事をすると聞いていたような気もするけれど。実現されてしまうと、改めて吃驚してしまう。
船の方は、クーデリアさんに任せる。
レポートも書いておいたので、その場で渡してしまう。
いずれにしても、まだ海竜の討伐には出向けない。まずは、その軌跡を、目にしておきたかった。
アトリエに戻る。
お姉ちゃんが、ロロナ先生を歓待していたのだろう。お皿を片付けている。
挨拶もそこそこに、アトリエに。
コンテナへの扉に、ダイヤルがつけられていた。
「これは、なんですか?」
「コンテナに行くなら、こう。 アーランド王都に行くなら、こう」
説明を受ける。
ダイヤルを赤にすると、コンテナ。青にすると、アーランド王都というわけだ。そして、青にしてから、ダイヤルが勝手に回り出す。
「これで、今調整中。 で、さっきも言ったけれど、一日に二回だけしか使っちゃだめだからね」
「何か危ない事でも起きるんですか?」
「うん。 下手すると、アトリエが吹っ飛んじゃう」
それは、危ない。
しかも、今日は一回使っているから、これで使うのは最後だと、釘を刺されてしまった。
「二回使うと、つかえるようになるまで、ダイヤルが真っ赤になるからね。 その間は、触っても弾かれるようになってるよ」
「凄い仕組みですね」
「悪魔族が得意な、空間転送の技術を使ってるの。 動力源は土地に蓄えられた魔力なんだけれど、この空間転送を実現するための仕組みに供給される魔力を蓄えておくことがどうしても出来なくて。 だから、一日二回だけ」
「色々、面倒ですね」
「でも、これでアーランド王都とアランヤは、つながったから。 いつでも使って良いからね」
笑顔で言うロロナ先生。
でも、ロロナ先生がこういうという事は。おそらく、彼方此方に何個も作れるような設備では無い、ということなのだろう。
クーデリアさんが来る。
「説明は終わったかしら?」
「うん。 じゃあ、一旦アーランド王都に戻ろうか」
「そうね。 ああそう、トトリ。 貴方も来なさい」
そういえば、まだランク8の研修が終わっていなかったのだ。
トトリは苦笑いすると、ダイヤルが既に空間転送可能な位置に来ていることを確認して、ドアを開けた。
光が満ちることもなく。
周囲が闇になっている事も無い。
ドアを開けると、其処はロロナ先生のアトリエ。でも、ドアを抜けて振り返ると、其処は真っ暗だった。
ぞっとする。
真っ暗な中から、ロロナ先生とクーデリアさんが出てくる。
ちむちゃん達も、慌てた様子でついてきた。
「一方通行だからね、分かっていると思うけれど。 無理に戻ろうとしたら、多分体千切れちゃうよ」
「は、はいっ!」
「あんたが作るもの、相変わらず肝心なところが不便ねえ」
「うーん、流石に師匠みたいに完璧なのは作れないよ」
クーデリアさんは、滅多に見られない笑顔を、ロロナ先生に向けている。
仲が良いという噂は聞いていたけれど。本当なんだなと、こういうときによく分かる。普段のおっかない様子が、嘘のようだ。
後で、王宮に来るようにと言われて。トトリは頷く。
そして、気付く。
どうやら空間転送を使うと。コンテナに入ることも、出来なくなるようだった。
アランヤの皆には、多分クーデリアさんが言づてしてくれているはずだけれど。コンテナにアクセス出来ない以上、錬金術の作業も出来ない。
ロロナ先生のアトリエの一角は本棚になっていて、それを読んで時間を潰そうかとも思ったけれど。
いっそのこと、さっさと研修を済ませてしまう方が良いだろう。
所在なさげにしているちむちゃん達。
多分、これから真夜中まで戻ってこられない。おなかをすかせてしまうと、少しばかり可哀想だ。
だから、まずはサンライズ食堂に行って、パイを買ってくる。
出来合いだけれど、コンテナにアクセス出来ない以上、パイを錬金術で作る事も出来ないし。
何より、実のところ。
トトリは、錬金術で料理を作るのが、あまり得意では無かった。
サンライズ食堂の若主人は、今日も若々しくて格好いい。
トトリも周囲の人達に聞いているけれど、若い女性達にそこそこもてるそうだ。戦士としては平均より少し上くらいということもあって。もてるのは、労働者階級の女性ばかりだと言う話だけれど。
別に本人が良いのなら、それで問題は無いだろう。
パイが幾つかあったので、買っていく。
若主人であるイクセルさんは、笑顔でずばりと当ててきた。
「あのちびどもの食事か?」
「はい。 実はコンテナが使えなくなってしまって」
「何だ、ロロナの奴、相変わらず肝心なところが抜けてるな」
「でも、凄い人です」
この人、噂によると、ロロナ先生の幼なじみらしいのだけれど。多分だからこそ、知っているのだろう。
パイを包んで貰って、アトリエに。
食べる分を四人のちむちゃん達に説明した後、すぐに王宮に向かう。
クーデリアさんは準備を整えて、待っていてくれた。
さあ、これからだ。
すぐに研修室に案内される。講師として来るのは、いずれ劣らぬこの国の重鎮ばかりである。
ランク8となると、ハイランカーとしても中堅。
実のところ、これ以上ランクを上げる冒険者は、あまりいないだろうと言われている。現状でランク8、9の冒険者は合計して100名ほどいるらしいのだけれど。この100名は、文字通りアーランドの柱石。
トトリも、その柱石の一人として、これからは扱われるのだ。
そして、単純な重鎮というのでは無い。
講義の内容も、国の法や制度などについて、非常に面倒なものが多くなった。授業を受けていて、かなり眠くもなる。
でも、頑張らないと、いけないだろう。
何しろ、此処からは。
背負うものが、違ってくるのだから。
丸一日講義が続いて、へとへと。しかし、其処からアトリエに戻ると、時間がしっかり経過したからか、コンテナにアクセスできるようになっていた。
中からパイを出して、ちむちゃん達に配る。
お店のも美味しいけれど。ロロナ先生直伝で、お姉ちゃんが作ったパイが、ちむちゃん達には一番合うようだった。
ロロナ自身は、今日の復習を軽くすると、すぐにベッドに。
朝起きると、パイの手配だけして、すぐに王宮に。この講義、出来るだけ早めに仕上げた方が良い。
そんな予感がする。
何しろ今は、アーランドは総力戦態勢。講義に出てくれる講師の人達だって、いつまで時間を取れるか分からない。
ハイランカーはみんな前線から引っ張りだこの状況なのだ。
それは、トトリだって同じ。
途中で、言われたのだけれど。
あの船の司令官は、トトリにする予定らしい。
アーランド最新鋭最強の戦闘艦の司令官だ。それがランク8の重みであり。トトリが背負うものの大きさである。
順番に、講義を受けていって。
一週間で、一応全てが完成。
これで、名実共にランク8。
そして、名実共に。あの船は、トトリが司令官として、動かす事になる。
受付に呼ばれる。
昨日はいなかったクーデリアさんは、今日は来ている。前線での敵の動きが激しくて、すぐに戻らなければならないらしいのだけれど。
今日については、それでもここに来る大きな用事があると言う事。
それが、トトリに関するものだということだ。
「幾つかの書類を書いて貰うわ」
「はい、すぐに」
手渡されたのは、最上質のゼッテル。これは、国の公文書で使うような代物。いや、これそのものが、公文書だ。
内容に目を通す。
まず、機密について。
ホープ号の機密を漏らした場合、最悪死罪もあり得ると書いてある。まあ、当然の話だろう。
また、人員について。
トトリが指名して、任命して良いのだという。そのためのハンコも、手渡された。
確か大きな国になると、元帥府というようなものがあって、其処でハンコを押して人事を決めたりもするらしいのだけれど。
トトリには、その人事権が備わった、という事だ。
勿論、それはホープ号に限定したものに過ぎない。
ただ、ランクが9になると、それも更に拡大する。下手をすると、一軍を率いて、前線に出ることがあるかもしれない。
もしそうなると。トトリは、もっと視野を広げないと、多くの人を死に追いやることになるだろう。
「難しく考えない。 今まで現地調達していた人員が、国公認になるだけよ」
「でも、人の命もあずかるんですね」
「それは今までも同じでしょう?」
何を今更言っている。
クーデリアさんは厳しい目で、そう告げていた。
書類を受け取り。ハンコを受け取り。
アトリエに戻ると、どっと疲れが出た。
でも、これで。
あの邪竜に、引導を渡すことが出来る。国公認の指揮権が手に入ったのだ。奴を殺すのは、これから。公式の事業として、行えることなのだ。
くすり。
笑いが漏れる。
トトリの中の闇が、漏れ出している。
ふと気付くと、ちむちゃん達が隅っこに固まって、ふるえている。どうしたのだろう。何か、怖いものでもみたのだろうか。
分からない。
「ちむちゃん達。 これからアランヤに戻って、ご飯にしようね」
「ちむー……」
皆をまとめているちむちゃんが、頷く。
どうしてだろう。
やはり、トトリを見る目に。わずかではあるけれど。確実な恐怖が、宿り始めているように、思えた。
トトリは早速書類を作成して、ハンコを押す。
手続きのやり方については、既にクーデリアさんに聞いている。書類を申請して確認して貰って、許可が下りれば即座に命令は執行される。
何名かのクルーは、既に決まっている。
悪魔族の戦士達は、そのまま船員として残って貰う。指揮はガンドルシュさんにとってもらうつもりだ。ただこれは、一種の傭兵になる。悪魔族はアーランドに属しているわけではなくて、同盟者だからだ。
ホムンクルス達に関しては、書類に面倒はない。そのまま、指揮をトトリが執る事になる。
船長は、今のままで。
名前はバリベルトさん。
彼なら、船の操縦を任せてしまって問題ない。
後は、船員についてだけれど。
戦闘要員として。奴に挑む際には、どうしても国家軍事力級の使い手が、最低でも二人。出来れば三人はいる。
これについては、書類を出すときに、クーデリアさんに相談するつもりだ。
王宮に出向く。
朝一番に、ちむちゃん達は全員アランヤに戻した。お姉ちゃんに世話して貰うつもりだからである。
トトリ自身も、この手続きが終わったら、アランヤに戻るつもりだ。可能な限りの使い手を集めて、最大の戦力で決戦を行う準備を整えなければならないのだ。
だけれども。
王宮に出向くと、クーデリアさんは言う。
「しばらくは、事前任務よ」
「事前任務ですか?」
「まず、国家軍事力級の使い手が、前線を離れる準備が出来ていない。 今、その準備をしているから、しばし待ちなさい」
現在、予定されているのは、クーデリアさんとステルクさん。それにロロナ先生が、船に乗ってくれる予定だそうだ。
それだけの戦力がいれば、確かに心強い。トトリとしても、願ったりである。というよりも、予想した中でベストのメンバーだ。
確実に勝てるかは分からないけれど、勝てる可能性は高くなる。
しかし、トトリだって知っている。
今、前線は錯綜して、地獄絵図だ。この面子が前線を揃って離れてしまったら、敵に突破される可能性が出てくるだろう。
もしそうなったら、アーランドの各地が、蹂躙される。
スピアの軍勢の恐ろしさは、トトリだって良く知っている。あんな悪夢みたいな者達が、アーランド王都になだれ込んできたら、どうなるか。
戦士達は、果敢に応戦できるだろう。
労働者階級は、殺されるしかない。
そんなのは、認められない。
分かってはいるけれど。心の奥底で燃え上がるどす黒い火が、理性をたきつける。どうしても、納得を根本ではさせない。
「準備が出来たら連絡するから、それまでに貴方は、これをこなしなさい」
「これが……事前任務ですか」
「目を通して、すぐにアランヤに。 丁度良い憂さ晴らしになるでしょう」
頷いて、スクロールを受け取る。
アトリエに戻ると、蜜蝋を斬って、中身を確認。見ると、フラウシュトライトと軽く戦って、戦力を測ってこい、というものだった。
息を呑む。
確かに、殆ど情報がない今、ぶっつけ本番で巨大な邪竜と戦うのは、あまりにもリスクが高すぎる。
それに、トトリ自身。
実際に敵を見ておきたいのだ。
お母さんを、消息不明に。
いや、もう言うべきだろう。
お母さんを殺した、邪悪の権化を。
すぐに、アランヤに。コンテナが使えなくなるけれど、どうでも良い。できれば、今から海に出たい位だ。
港に出ると、待機してくれている人員が、トトリに気付いて、手を振って来る。
この船の関係メンバーは、既にいつでも動けるように備えてくれているらしい。悪魔族の戦士達や、ホムンクルス達は、船を整備して、ぴかぴかにしてくれていた。
船長が出てくる。
老齢ながらたくましく日焼けした船長は。
港の一角で、大きなバトルアックスを振るって、訓練をしていた。
海上戦を専門にする戦士は、大型の武器を振るう事が多いらしいのだけれど。この人も、それだ。
上半身をむき出しにして、分厚い筋肉を惜しむこともなく披露し。
禿頭には、汗が健康的に光っている。
口元の髭は既に灰色だけれど。
全身の動きが、この人が現役の戦士であることを、これ以上もなく示していた。筋肉が、戦士であることを、一目で分かるほど自己主張しているからだ。
この様子だと、まだまだトトリなんかよりも、ずっと強いはずだ。
「バリベルトさん」
「おう、トトリどのか」
「はい、此方の書類をお願いします」
「ふむ、辞令か。 良いだろう。 このホープ号、儂の最後の船になるだろう。 絶対に勝利の女神としてみせるさ」
ホムンクルス達と作業をしていた106さんにも、辞令を渡す。
頷くと、彼女はトトリに握手を求めた。
「我等ホムンクルスの同胞が、多く貴方に世話になっています。 貴方のためなら死んで良いと言う同胞もいると聞きます。 指揮を見る限り、貴方は同胞に無茶を強いる存在でも無い。 命、預けさせていただきます」
「分かりました。 お願いします」
ぐっと握手を交わす。
そして、ガンドルシュさんにも。
ガンドルシュさんは、再会してからというもの。時々トトリを不安そうに見るけれど。三人に集まって貰って話をすると。前と同じように、腹を割って話してくれた。
「これから、フラウシュトライトの戦力を測るべく、軽く仕掛けます」
「ふむ……」
バリベルトさんが腕組み。
ガンドルシュさんが、挙手した。
「本命の戦闘は、別に行うのか」
「はい。 今回は、まだ前線が安定していないので、戦力が揃いません。 本命の戦闘に備えて、敵の戦力だけを測ります」
「此処で無為に死ぬわけには行かない、と言うわけですね」
トトリが頷くと。
106さんは、提案を一つ。
「フラウシュトライトの防御力に関しては、恐らくは実物を見れば、ある程度は測ることが出来ると思います。 問題は攻撃力。 この船がどれだけ本気の攻めに耐え抜けるかが、戦いの焦点になるでしょう」
「その通りです。 バリベルトさん、どうですか」
「そうさな。 このホープ号、生半可な嵐などではびくともせぬと断言は出来るが、島ほどの巨体に体当たりされて、無事で済むとはいいきれんな。 つまり、体当たりを耐え抜くことは、最初から想定にはいれぬ」
何かしらの飛び道具を使ってくることは、想定した方が良い。
だから装甲には、大いに意味がある。
確かに、相手は高位というのも生やさしい邪竜だ。しかもその巨体は、この船の十倍近いという想定である。
体当たりされれば、一撃撃沈確定。
相手の力を測りに行くのも、命がけである。
ガンドルシュさんが、皆に顎をしゃくる。
「牽制を繰り返して、出来るだけ相手の頭に血を上らせながら、一撃離脱。 それしかないだろうな」
「どう思いますか?」
「賛成」
短くバリベルトさんが応じる。
恐らくは、それが最適解だろう。106さんは少し考えていたのだけれど、挙手する。
「小型艇がどれだけ敵を牽制できるか見たいのですが」
「……そうだな。 しかし、危険が伴うが」
「どのみち実戦では使う予定でしょう。 私が操船します」
106さんの言葉に、反対意見は出ない。
トトリはしばし考え込む。
もう少し、実際には力を見たいのだけれど。確かに、この船がどれだけ嵐に耐え抜けるかが、戦闘では鍵を握る。
フラウシュトライトを殺すには、もっとデータが欲しいのだけれど。
しかし、この船を失ってしまっては、本末転倒だ。
もとより、船そのものはキャリアとしての性能しか求められていない。人間の性能が兵器を上回る現状。
船として戦略的に必要なのは。
如何に頑強に、足場となり続けるかだけ。
船を見上げる。
いにしえの技術を集約し。
錬金術と魔術の限りを尽くして作り上げたこの船でも。
今の生物には届かない。
「分かりました。 それで行きましょう」
「よし、出航の準備を始める。 現地到着はおそらく四日ほど後。 前哨戦とはいえ、気を抜くな。 船が難破することも想定にいれて、準備をしてくれ」
皆を見回して、バリベルトさんが言うと。
周囲に、さざ波のように。
戦意が拡がっていった。
もとより、何時でも出られるように、準備はされていたのである。
すぐに船は出航。
メンバーは、今までこの船に乗ってくれていたほぼ全員。アランヤは常駐する人間が増えたことで、かなり港町も活気づいている。安全が確認された地域とは、交流も再開されていて。幾つかの小さな村は、アーランド王国への再帰属も認められていた。
勿論、海竜をまだ倒せていないことは事実。
小さな船が、幾つか行き来しているけれど。この安全も、いつ脅かされるか、分からない。
ドラゴンさえ屠るアーランド戦士でも、安全とは言い切れない海。
そのような魔境、どうにかしなければならない。
あまりにもバランスを逸脱した存在は、世界にとっても有害だ。
屠らなければならないのである。
そもそも、フラウシュトライトが縄張りにしている海域だって、今のまま安定しているとはとても思えない。
海上に出ると、まっすぐ東に。
今まで、幾つかの島を調べて回っていた状況とは違う。まっすぐ、敵のいる場所に乗り込むのだ。
乗員達は。
全員、気を張っているのが分かった。
二日目までは、甲板に出ることを、船長は止めなかったけれど。
三日目。
これより先、フラウシュトライトと遭遇する事が想定される状況になった時点で、対応が代わった。
伝声管から音が響く。
連絡の前触れだ。
「こちらバリベルト。 船長だ。 各自、船内に入るように。 一部の精鋭のみ、甲板に出ることを許可する」
「お、いよいよか」
トトリの側についていたメルお姉ちゃんが、舌なめずり。
甲板に出る要員が必要なのは、船を見て興味を抱いて寄ってくるモンスターが、少しだけだがいるからだ。
そういうモンスターを追い払うためにも、甲板に常駐するメンバーが必要になったのだが。
此処からは、何が起きるか分からない。
106さんが、甲板に出てくる。
小走りで此方に来ると、トトリの袖を引いた。
「トトリ様、すぐに中に。 貴方には武勇以外で活躍して貰います」
「はい。 後はお願いします」
「……」
ミミちゃんが何か言いたそうにするけれど。
今回、106さんはかなり重要なポジションにいる。ミミちゃんに命令を受けても、拒否しそうだ。
ガンドルシュさんが、大柄な悪魔族だけを連れて、甲板に。
厳重に、防御の術式を掛け始めた。
キッチンにも出向く。
これから、火を使わないように。戦闘時には、何が起きるか分からない。勿論延焼が起きにくい素材をキッチンのブロックには用いているけれど。それでも、相手のサイズを考えると、とても安心は出来ない。
艦橋にトトリが出向くと。
まだ、晴れ渡った空の下。海が、何処までも続いている。
難しい顔をして六分儀を見つめているバリベルトさん。
艦橋から、見える。
小型船に乗り込むと、船を追い越して進み出す106さん。哨戒任務を兼ねて、性能実験をするつもりなのだろう。
無茶をしなければ良いのだけれど。
半日は、それから何も起きない。
不意に、バリベルトさんが立ち上がると、面舵を指示。何も見えないけれど、何かあったのだろうか。
老船長は、何も言わない。
しばし、海の上で。
船は、さまようように、見えもしない航路を進み続ける。
「参考までに、聞いても良いですか?」
「何をしているかわからないって言うんだろう?」
「はい。 その通りです」
「これはな。 海の中に音を残しているんだよ」
敵をおびき寄せるために。
元々、水中では、かなり色々な音が行き交っているのだという。海竜も、水生生物である以上、その音を聞き分けることには長けているはずだ。
実際問題、いさななどの大型水中生物は、そうして餌を探したり、外敵を避けたり。場合によっては、敵を仕留めたりもしているという。
無言でしばらく敵を挑発し続ける船長。
その日は、何も現れない。
夜遅くになって、106さんが戻ってくる。
甲板に上がった時には。
敢えて、敵の縄張りの外に、退避していた。もっとも、それもトトリには、既に見分けられる状態では無くなっているが。
「今の時点では姿を見せませんね」
「翌日、同じように縄張りを荒らす」
「了解です」
更に距離を取り、以前探索した島の近くに。
波が低く、揺れがなく。
更に言えば、いざというとき、島に退避するのも容易な位置だ。船を停泊させるには、これでいい。
「一旦、休憩に入ってください。 三交代で」
手を叩いて、トトリが皆を休憩に廻す。
艦長の席で、毛布を被って、バリベルトさんも寝入り始める。これは、いざ戦闘になると、いつ寝られるか分からないから、だろう。
甲板にも見張りを出し。
更に、海中にも、魔術による網を張り巡らせる。
狙うのは、敵が出す音だ。
もっとも、精度がいい加減だから、いさななどの鳴き声もみんな拾ってしまう。敵が高速で潜行してきたら。発見が間に合わないかもしれない。
トトリは一通り船を見回ると、自室に入って、布団を被って眠る。
まだ、状況がどうなるか分からない。
いつ寝られるか分からないし。
体力がついてきたと言っても。徹夜の後で総力戦をすれば、保たないのは目に見えている。
しばし、眠っていると。
いつの間にか、朝に。
外に出て、甲板から海を見る。
荒れる気配は一切無い。本当に、この近くに、邪悪極まりない海竜が住み着いているのだろうか。
住み着いている。
だからこそ、此処までに注意しながら、進んでいるのだから。
メンバー全員が配置につくのを待って、再び船は出る。動力炉には、悪魔族の戦士数名が常に張り付いて、燃料を補給し続けているのも確認。
今まで、かなりこの動力炉を試験したけれど。
焼き付いたり、壊れたりする恐れはない。
とにかく頑丈に。
そうマークさんがこだわり抜いた動力炉だ。ちょっとやそっとでは、壊れたりはしない。戦闘が始まっても、耐え抜いてくれるはずだ。
艦橋に出る。
今日も、106さんが、小型艇で先行してくれている。
さて、どうするか。
そう思った、矢先の事である。
艦橋にいる悪魔族の一人が、顔を上げた。
「妙な気配が海中にある」
「大きいのか」
「大きいなんてもんじゃ無い。 此方には構う様子も無く、ゆっくりと西に向け進んでいる様子だ」
呻く。
すぐに、悪魔族に解析を頼む。
甲板から連絡。
ホムンクルス達の一人が、海上に妙な波を確認した、というのである。
いる。
しかも、すぐ近くに。
此方のことなど、気にもしてない。
瞬間的に殺意が沸騰しそうになったが、不意にバリベルトさんが咳払い。
「妙だな」
「どういうことですか?」
「今まで、奴は船を見境無く沈めていったはずだ。 実際、奴の縄張りに入って消息を絶った船はいくらでも存在している。 それなのに、明らかに散々挑発してやったこの船を、どうして奴は攻撃してこない」
とにかく、船を出す。
いつでも、加速できるように、動力炉にはマークさんが待機して貰う。トトリは甲板に出ることを許可して貰えなかったので、艦橋で状況を見守るしかない。
船が動き出しても、フラウシュトライトは動きを変えない。
散々挑発するように蛇行しているのに、である。
既に縄張りには入り込んでいるはずだ。
それなのに、何故悠々と動き回るばかりで。此方には、一切手出しをしようとはしないのか。
舐めきっているのか、或いは。
「発破を使って、引っ張り出しましょう」
「いや、しばし待つべきだ」
トトリの言葉に、バリベルトさんが反論。見ると、ガンドルシュさんも、それに反対の意思を示す。
そうなると、トトリも無理強いは出来ない。
波が、大きくなりはじめる。
これは、姿を見せるか。
「衝撃に備えろ!」
船長が言うのと同時に。
今まで小揺るぎもしなかったこの船が、ぐらりと揺れる。凄まじい大波が、海をかき分けたのだ。
勿論転覆などしないけれど。
艦橋が、傾いて。
トトリは、驚いた。
船酔いさえしそうにないほど安定していた船なのに。
そして、海を割って、姿を見せる、超巨大な影。
それは、もはや。
生物だとは、とても思えない。
巨大すぎる黒。岩のよう。いや、岩そのもの。そのあまりに巨大な岩が、生命をもって、動いているのだ。
悠々と。堂々と。
その化け物は、海の上に上がってくると。長すぎる首を伸ばして、周囲をゆっくりと見回した。
勿論。ホープ号も見えているはずだ。奴が首を海上に出しただけで、膨大な海水が、海面に滝となる。
姿は、話に聞くとおり、ウミヘビ。
問題は、頭だけで、この船の艦橋より多分大きいという事だろう。
並外れているなどと言う次元では無い。
アーランド戦士でなければ。とても倒せるとは、思えないサイズだ。
幸い、がっしりした体型では無いウミヘビだけれど。あの様子だと、表皮の装甲も、尋常では無いはず。
「攻撃しましょう」
「待つんだ、トトリ殿」
「どうして! 何のためにここに来たと!」
「……おかしい。 戦うのは何時でも出来る。 様子を見よう」
ひんやりとした声。
トトリもそう言われると、押し黙るほか無い。流石に船長との関係を悪化させて、勝てると思うほど、頭が花畑では無い。
目が、合う。
明らかに此方を見ているフラウシュトライト。縄張りに入り込んだ異物に対して、特に興味も見せない。
そして奴は。
此方に背中を見せて、泳ぎ去って行く。
しばらく、その側を併走していた小型船だけれど。
挑発にも乗らない。
全く意に介さない様子で、巨大なウミヘビは、水平線の向こうに消えていった。
「目標ロスト」
唖然とした様子で、ホムンクルスの一人が言う。
トトリは気が抜けた思いだ。
どういうことだ。
此奴は邪悪の権化で。
あらゆるものを破壊し尽くす魔物ではないのか。どうして、このような、何も仕掛けてこないなんて。出来事が起きるのか。
杖を掴む手が、ぎりぎりと音を立てる。
巫山戯るな。
思わず、強い言葉が、口から出そうになる。何だあの有様は。縄張りに入った相手を噛み裂こうとも、襲おうともしない。
舐めきっているのか。それならば。
「明日、攻撃を仕掛けましょう」
「……そうさな。 今日は単に虫の居所が良かっただけかもしれん。 どのみち討伐はしなければならない相手だ」
バリベルトさんは、今頃になってそんな事を言う。
なんで、もっと早く、攻撃をしてくれなかったのか。でも、この人を船長にしたのは、トトリだ。
今更、文句は言えない。何しろ、トトリが決めて、頼んだことなのだから。
一旦、化け物の縄張りから出る。
106さんが戻ってきた。どうにも、腑に落ちないという顔をしていた。
「攻撃をしようと思えば、何時でも出来たはずなのに。 一体あの海竜は、何を考えていたのでしょう」
「……何とも言えないが。 ひょっとすると、予想していたのとは、随分違う存在なのかもしれんぞ」
「その可能性はあるかもしれんな」
ガンドルシュさんまで、そんな事を。
この人も、106さんと一緒で、この船を任せた人員だ。それなのに、どうして。
トトリは、目の前が見えなくなっているのか。
頭を振って、雑念を追い払う。
昨日と同じ位置に停泊。
明日は仕掛ける。
それでいい。それで良いんだ。
毛布を被って、何度も呟く。そんなはずはない。彼奴は凶暴で、獰猛で、残虐な。破壊の権化の筈だ。
今日見たのは、たまたま虫の居所が良かっただけ。
ふと気付くと、ミミちゃんが部屋の入り口にいた。どうしてだろう。トトリを哀れむように見下ろしていた。
何も言葉を交わさず、視線を外す。
気まずい。
そして、胃の中が、ひりひりするようだった。
2、姿を見せるもの
翌日。
昼近くなって、ようやく悪魔族がフラウシュトライトを捕捉。昨日と同じパターンで、間違いないという。
どうやら奴は、普段はかなり深くまで潜っているようだ。
だからといって、見逃すわけにはいかない。
発破の準備をする。
今回、ここに来たのは、駆除しなければならない敵の戦力を見極めるため。少なくとも、敵がやる気にならなければ、話にならないのだ。
「今日は、先制攻撃を仕掛けます。 良いですね」
「……分かっているさ」
ガンドルシュさんとバリベルトさんが顔を見合わせてから、仕方が無さそうに頷く。
何だろう。
トトリは何か、おかしな事でも言っただろうか。苛立ちが、腹の中で、ぐるぐると渦巻いているのが分かる。
106さんは、既に小型艇で出ている。
出るときに、細心の注意を払うようにとは言ってあるけれど。
彼女が言い出したことなのだ。
無理だけはしないようにとしか、トトリには言えない。
「うおクラフト発射口、1から10番まで解放!」
伝声管に、船長が声を張り上げる。
動力室にいるマークさんが、それに沿って、作業をしてくれる。
艦橋から見える、甲板の右前方にある構造がせり上がり、其処から発射される。
水中を進み、敵に食い込んで炸裂する発破。しかも悪霊を憑依させているため、敵を的確に追尾して、直撃するまで食らいつく。魚の形をしている、うおクラフトである。
十発のうおクラフトが、発射され。
斜め上方に飛んだそれが、海中に食い込む。そして、ほどなく。海中で、炸裂したらしく、水面に波紋が拡がる。
水中での衝撃波は、予想以上のダメージを敵に与える。
さて、どう出る。
「音源、急速接近!」
来たか。
バリベルトさんが冷静に指示。全速力で、舵を切りながら前進。
ほどなく。
海面に、山が出来る。
勿論比喩だ。
膨大な海水を跳ね上げながら、フラウシュトライトが、姿を見せたのである。そして、そいつの顔。昨日見えなかった地点が、トトリには見えた。
傷が、ある。
それも、顔を横切るように、一文字に。
嗚呼、そうか。
やはり間違いない。あれは、お母さんがつけた傷だ。そして此奴は。此奴は。
轟く。
それは、ただの雄叫びだったのに。船を震わせる。
この巨船を、である。
忘れていたかのように、襲いかかってくる巨大な波。なるほど、此奴は、帆船程度で勝てる相手では無い。
波に翻弄されながらも、体勢を立て直し。船長が伝声管に叫ぶ。
「取り舵! 敵を引きつけながら後退する!」
「上空に雨雲! 急激に拡がっていきます!」
「大砲、攻撃を開始してください!」
トトリが伝声管に叫ぶ。
船に設置されている生きている大砲が咆哮し、攻撃を加え始める。弾丸が敵に炸裂し始めるけれど。
まるでびくともしない。
炸裂しているし、鱗も吹き飛ばしているのが見える。
しかし、あまりにも分厚すぎて、そもそも肉にまで届いていないのだ。少なくともこの距離からは、そう見えた。
更に、雄叫びを上げながら、此方に突進してくる巨体。予想よりも、ずっと速い。まるで海を滑ってくるかのよう。小型艇が、波間に揉まれているのが見える。
冷や冷やする。
でも、必死にどうにか、体勢を立て直している様子だ。
船が下がりながら、うおクラフトを更に十発投擲。海中を進みながら、追ってくる巨体に、怨念が籠もった発破が炸裂。海面に水柱が上がる。
既に周囲は、嵐の如き有様。
巨大な波が辺りに荒れ狂い、そして周囲を滅茶苦茶に掻き回している。
前方に巨大な渦。
真正面から突入して、踏みにじる。この船だから出来る事だ。
「! 取り舵! すぐに面舵!」
「イエッサ!」
舵を任されているホムンクルスが、急いで動かすと同時に。
フラウシュトライトが。口に光を貯めていくのが見えた。凄まじい魔力が、集中していく。
光が、一瞬消えて。
そして、爆裂した。
海を引き裂く、一条の閃光。
それは、船のすぐ脇を通り過ぎて、遙か遠くまで、海面を吹き飛ばし、蒸発させていく。
一瞬遅れて、大爆発。
巨大な波が、船の甲板を根こそぎ洗う。
船長が、伝声管に叫んだ。
「被害報告!」
「全員無事です!」
「魔術防御、補強! まだ来るぞ! 装甲のダメージは!」
「今確認中!」
直撃していたら、即死だ。
この船も、一撃で沈められていただろう。
右へ左へ、船が細かく舵を取りながら、急ぐ。途中、何度か悪魔族の戦士が、雷撃や氷の魔術を飛ばしているけれど。何しろ相手が大きすぎる。船の艦橋よりも高い位置に頭を突き出して、追ってきているのだ。
爆裂する光。
しかし、煙を蹴散らしながら、敵が追ってくるのを見て。艦橋にも、恐怖の声が響く。
化け物だ。
何を今更。トトリは吐き捨てる。
わかりきっていた事では無いか。化け物だと言う事なんて。
だが。
不意に、奴が動きを止める。
船との距離が、見る間に開いていく。
それと同時に、海も冗談のように、荒れなくなる。空はいつの間にか、晴れになっていた。
唖然とする艦橋の皆。
トトリは、呆れて。でも、叫ばざるを得なかった。
「縄張りを抜けただけです! 早く被害報告をまとめてください!」
「小隊長が戻りません!」
悲鳴混じりの声。
見ると、455さん。確か、106さんと同じ部隊で、ずっと頑張って来たというホムンクルスだ。
こんなに感情を剥き出しにするホムンクルス、滅多に見ない。手酷く怪我をしても、殆ど顔色一つ変えないのに。
ホムンクルスにしては感情豊かな106さんの部隊にいるからだろう。同時に、彼女がどれだけ部下に慕われているかも、これだけでよく分かる。
「すぐに小型艇を!」
あの大嵐の中だ。確かに、何が起きてもおかしくない。
トトリも、甲板に出る。後ろで止める声が聞こえたけれど、無視。こればかりは、自分で動かなければならない。
ミミちゃんも来た。
四隻ある内の、小型艇はまだ三隻がある。一隻に乗り込むと、降ろして貰う。最後に106さんを見たのは、敵の縄張りの中だ。かなり危険だけれど、やるしかない。悪魔族の戦士が一人、飛び乗った。ガンドルシュさんだ。
「儂が探索の魔術を掛ける。 ミミ殿、操船を任せられるか」
「分かったわ!」
「トトリ殿は戻った方が良いのではないか」
「いいえ。 間近で状況を確認して、少しでも本番に生かします」
見ると。
甲板、それに装甲の一部が赤熱している。プラティーンに掛けた防御魔術が、敵の砲撃が掠っただけで、全部持って行かれたのだ。
頑強なプラティーンだったから、良かったものの。
もしも直撃したら、本当に撃沈確定だろう。
船長の見立ては正しかった。体当たりなど受けたら、ひとたまりもなかっただろう。
見ると、海竜はしばらく此方を見ていたが。きびすを返して、戻っていく。律儀に縄張りを守っているというのか。
最悪、とことんまで追撃してくることも予想していたのに。そうはならなかった。
不愉快極まりない奴。
雨が降り始める。
まだまだ、奴の能力は、健在と言う事だ。上空にある雲にも、強い魔力を感じる。風も、相当に凄まじい。
隻腕でトトリを庇いながら。ガンドルシュさんが、探索の魔術を掛け始める。ミミちゃんは操縦桿にしがみつくようにして、必死に船を動かしていた。フラウシュトライトは、小型船には見向きもしない。
その事を、すぐに後悔させる。トトリは、そう決めていた。
この小型船は、とにかく浮きやすいことと頑強さに焦点を絞った構造である。装甲はプラティーンで作っているのだけれど。船体を二重構造にして、内部に空気を蓄えているのだ。
そしてこの小型艇は、転覆したりすると、そのおもりを捨てて、浮くことに特化する。そうすることで、乗組員の生存性を向上させるのだ。
だから、あの閃光で蒸発していなければ、無事なはず。
そう自分に言い聞かせて。まだ荒れ狂っている海の中。時々顔に掛かる水しぶきを拭いながら、辺りを見回す。
「渦よ!」
ミミちゃんが、船を左に。見ると今まで散々引っかき回された海が怒ったかのように、大きな渦が出来ている。
これだけ海を滅茶苦茶に出来る存在なのだ。
「放り出されたら死ぬわ! 捕まっていなさい!」
「待って、ミミちゃん!」
「どうしたの!?」
「彼処だ」
ガンドルシュさんが、窮屈そうに体を折り曲げたまま、顎をしゃくる。悪魔族の巨大な男性の顔の方には。
転覆した小型船と。
それにしがみついたまま、意識を失っている106さんが見えた。
渦のすぐ側だ。
一瞬の判断が、生死を分けるタイミング。ミミちゃんは。叫ぶ。
「トトリ、操船出来るわよね」
「任せて。 私も散々練習したんだから」
「良いわ。 行ってくる!」
残像を造りながら、ミミちゃんが飛ぶ。
そして、海面に着地すると同時に。水を蹴って、走り出した。
達人になると、海上を走るくらいは出来ると聞いていたけれど。実際にそれを出来るくらいまで、ミミちゃんは成長していたのか。
ここしばらく、本当に徹底的に、自分を鍛え上げていたのだろう。
目を細めて、ミミちゃんの勇姿を見送る。
ほどなく。
ミミちゃんは106さんの所に到達。転覆した船の上に引っ張り上げると、担ぐ。
そして、此処まで。
無事に戻ってきた。
「見事な戦士だ。 若き戦士は成長が早い。 羨ましい事だ」
この荒れた海の中、必死に操船するトトリを魔術でガードしながら。ガンドルシュさんは、成長したミミちゃんに、素直な賛辞を送っていた。
海の荒れは間もなく収まったけれど。
106さんが乗っていた小型艇は、一度渦に飲まれて。それからしばらくして、浮き上がってきた。
勿論、そのままだったら、106さんは助からなかっただろう。
小型艇を苦労しながら、ひっくり返して。曳航しながら、ホープ号へと戻る。106さんは意識朦朧としていたけれど。海水を飲んではいなかったし。体にひどい怪我もなかった。
ただ、頭を打ったかもしれない。戦闘タイプホムンクルスだから、ちょっと頭を打つくらいなら平気だけれど。それでも、万が一という事もある。出来るだけ早めに、船にいるリオネラさんに診せた方が良いだろう。
それにしても、歴戦のベテランホムンクルスが、このような目にあうほどの嵐。
小型艇を戦闘で攪乱に使うのは、無謀かもしれない。
荒れは収まったとはいえ、まだ波はかなり高い。
慎重に操船しながら戻る。
フラウシュトライトは、あれから姿を見せない。深海に潜ったまま、何をしているのやら。
全く見当がつかなかった。
ホープ号に到着。
赤熱していた装甲は、既に冷えている。しかし、一部の装甲が、少し歪んでいる様子だった。
戻った後、少しばかりメンテナンスをし直す必要があるだろう。
そして魔術による防御を、かけ直さなければならない。
前線の状況は、どうなっているのだろう。
寄港したら、即座に出港という可能性もある。あまりもたついている暇は無い。
タラップを使って、甲板に上がる。
既に待機していたリオネラさんが、すぐに診察を始めてくれた。回復魔術を掛け始めた所から見て、放置は出来ない状況だったのだろう。
トトリは平気だけれど、ミミちゃんも診察される。
弱めの回復魔術を掛けられていた。何処か、トトリが気付かないところで、怪我でもしていたのだろうか。
だとすると、トトリは。
余程に、頭に血が上っていたことになる。
艦橋へ。
船長はかなり長いレポートを書いていた。待ち時間を利用して、作業をしてくれていたのだろう。
「106を救出できたようだな」
「はい。 どうにか間に合いました」
「すぐに出る。 メンテナンスにしても、敵の分析にしても、する事はいくらでもあるからな」
トトリが頷くと。
軽やかに、ホープ号は動き始めた。
前哨戦で分かったのは。フラウシュトライトが、あまりにも不可解な行動を繰り返すこと。
そして、その高い戦闘力についてだ。
だが、この壁を乗り越えなければならない。
アーランド東の海上における制海権を奪回することもある。それ以上に、フラウシュトライトによる被害が、とても無視できるものでもなく、看過も出来ない事もあるのだ。
自分に言い聞かせているのは、何故だろう。
わかりきっていた事ばかりだ。
どうして、今更、トトリは自分に言い聞かせているのか。
考えてはいけない。
奴を殺すまでは。
そう、トトリはもう一度。
自分に、言い聞かせ直していた。
3、血しぶき乱舞
砦から見下ろすは、敵の海。
最前線で暴れに暴れているジオ陛下と、師匠が、相当数を削っているとは言え。その数はまだまだ四万五千を遙かに凌駕している。アーランドにおける最強と言って過言でないコンビが、四日近く暴れているのにもかかわらず、だ。
勿論ロロナも支援を続けている。
砲撃準備が整った。
生きている鎖達が、城壁の上に、ロロナを固定する。
敵の密集地帯に向けて、砲撃。
爆裂。
数百の敵が、瞬時に消し飛ぶのが見えた。逆に言うと、全力での砲撃でも、その程度しか仕留められない。
砲撃を行った瞬間。
敵が散開して、なおかつ防御の術式を展開。
炸裂の火力を、可能な限り押さえ込み。被害を減らしているのが、ロロナの場所からもよく見えるほどだ。
呆れるほど、良く動いていると言うよりも。
間違いない。
くーちゃんが言うとおり、この敵は。
優れた指揮により動いている集団では無い。
師匠が戻ってきた。
ロロナには目もくれず、一旦城壁の内側に降りていく。食事をして、回復をするためだ。代わりに、城壁から、ステルクさんが降りて、敵軍に向かう。
全く休ませないつもりなのだ。
ほぼ四日間ずっと戦い続けているジオ陛下は兎も角。三交代で戦い続けているくーちゃんとステルクさんと、師匠。
師匠はまだ温存気味だけれど。
それは、これからが本番だから、である。
ペースを上げるか。
ロロナは決めると、事前に調合しておいたメンタルウォーターを飲み下す。副作用である肉体へのダメージを抑えた、高品質品を、ちむちゃん達に増やして貰ったのだ。
再び、砲撃に入る。
肉体の負担は増えるけれど、どのみちこの状態では、前線から離れられない。敵の正体が割れている今。
可能な限り、削り取らなければならなかった。
敵陣に、砲撃が突き刺さる。
また百体以上の敵が消し飛ぶけれど。
指揮も何も関係無い。
平然と一群としての動きを維持し続ける敵は。やはりくーちゃんが言うとおり。一匹の獣として判断するべき存在で。
軍として判断するのは、間違いだった。
多分この群れを動かしているのは、巨大な一つの頭脳。
恐らくは相当安全な場所。かなり離れた地点に置かれているだろうそれが、途方もない数のこの群れを、動かし続けている。
一なる五人も考えたものだ。
ひどい扱いを続けて、裏切りやすくなっているホムンクルス達と違って、これなら確かに裏切る恐れもない。
或いは、動かしているのは、一なる五人当人かもしれない。
いずれにしても。
一つの頭脳が、巨大な獣として動かしている以上。するべき事は、決まり切っていた。
頭脳を、ひたすら消耗させるのである。
ジオ陛下とステルクさんが、ひたすらに攪乱戦を続けている。
ロロナはメンタルウォーターを飲み干す。
直衛についている、センをはじめとするホムンクルスの部隊が、不安そうに声を掛けてきた。
「そのようなハイペースで、大丈夫ですか?」
「平気。 これは殆ど負担が無い改良型だから」
「砲撃、来ます!」
反射的に、防御の術式を展開。
周囲の魔術師達も、同じようにする。勿論直衛の戦士達は、ロロナを庇ってくれた。
敵の群れから放たれた火球が、城壁を直撃。
激しく揺動させる。
ロロナを直接狙わずに、その真下の城壁を狙ってくる辺り、手慣れている。この集中火球による砲撃、受けると砦が揺動するくらいの衝撃が来る。以前も城下町を火の海にされたけれど。
侮れる威力では無い。
即座に反撃。
敵の密集地点を、砲撃で貫く。
ステルクさんとジオ陛下も、更に攻撃を苛烈にして、城壁へ敵の注意を向けさせない。とにかく、ひたすらに、敵を消耗させなければならないのだ。
メンタルウォーターを飲み干して、砲撃。
三刻の間に、十二回の砲撃を行って。敵をかなり削り取った。
だが、敵からの砲撃で、此方の城壁もかなりダメージが大きい。魔術師達が、魔術による防壁を、慌てて再構築している中。
ロロナは敵の動きを見て、唸る。
まるで消耗する様子が無い。
くーちゃんの判断が間違っているとは思えない。そうなると、余程に凄まじいスペックの頭脳を使っているのか。
いや、それは否だ。
事実、敵は一度に一つの種類の攻撃にしか、対応出来ていない。
頭脳のスペックはそれほどでもない良い証拠だ。
しかし、複数の頭脳を使い分けているにしては、個性らしきものが感じ取れない。余程巨大な頭脳を使っているのか。
もしそうだとすると。
くーちゃんが来た。交代の時間だ。
「戦闘開始から、そろそろ四日ね」
「砦のダメージも、厳しい状況だけど、大丈夫?」
「……私の見立てだと、そろそろなのだけれど」
「?」
くーちゃんが、ホムンクルスの一人に指示。
凄く嫌そうな顔をされた。だけれど、渋々ながら、ホムンクルスが、城壁の内側の階段を下りていく。
あの様子だと、師匠を呼びに行ったのだろう。
寝起きの師匠の機嫌の悪さは尋常では無い。自分の可愛い子供のように接しているホムンクルス達でさえ、八つ当たりされることが多いらしい。勿論ロロナとの関係が悪くなかった頃も、師匠を起こすのは非常に難易度が高かった。
「あんたも、砲撃の準備」
「いいけど、大丈夫?」
「大丈夫。 獣が疲れ果ててきたときの傾向が見え始めたし、行けるわ」
くーちゃんがそう言うなら。
そして、ほどなく。
その時が来る。
眠そうな顔で、滅茶苦茶機嫌が悪い師匠が城壁の上にくるのと、ほぼ同時。
どんな攻撃にも冷静に対応し続けていた敵陣が。
不意に。
ぴたりと。停止したのである。
くーちゃんが、声を張り上げた。
「総員攻撃開始!」
喚声が上がる。
一斉に城壁を飛び降り、屈強なアーランド戦士達が、敵に躍りかかっていく。皆、城壁を飛び降りるくらい、何でもない身体能力の持ち主達。アーランドが誇る、ハイランカー達である。
苦笑した師匠が、自身も残像を作って消える。
くーちゃんがロロナに頷いて。
ロロナも、頷き返して、城壁を飛び降りる。
翼を広げ、ロロナを掴んだのは。護衛のホムンクルスの一人。リッケンである。勿論スピアから降伏して、ロロナの所に来たホムンクルスである。
空を飛ぶことが出来るが、普段はローブで姿を隠している。実際の姿は人型ではあるのだけれど。全身に無数の目と翼と口がある、非常な異形だ。両性具有の彼はその姿を恥じていて。他の人間と変わらぬ態度で平然と接したロロナに、崇拝に近い感情を抱いているようだ。
その崇拝は、狂信の域に入っていて。ちょっとばかり困る事もあるけれど。
今回は、彼の飛行能力が必要なのである。
上空。
普段だったら、狙い撃ちにされて蜂の巣にされるけれど。
動きが止まった敵陣は、面白いように味方に蹂躙されている。そして、味方が、くーちゃんの指揮で、敵を押し込んでいく。
ロロナは砲撃を準備。
今までで、最大級の奴をぶっ放すべく、詠唱を継続。
狙うは、敵が硬直を解いた瞬間。
反撃に出ようとしたその出鼻を、完膚無きまでに粉砕する。
敵陣が踏み砕かれ、押し込まれていく。今まで城壁を挟んで地味な戦いを続けて、鬱憤が溜まっていただろう戦士達の獰猛さは凄まじく、ランク関係無しにバーサーカーと化して、凄まじい血と臓物をばらまきながら荒れ狂っている。
敵は唖然とするばかりで。
棒立ちしている間に、次々切り裂かれ、砕かれ、吹き飛ばされてしまう。
今まで、無茶な動きを続けてきたツケが来たのだ。
くーちゃんが狙っていたのは、この瞬間。
どんな優秀な頭脳でも。
使い続ければ疲弊するし。やがては、動けなくなるのである。
それでも、流石に敵はひと味違う。
ついに、硬直を解除。
動き始めようとした、その瞬間。
周囲に、実に二十を超える魔法陣を展開。己の魔力を極限まで振り絞り。一つの砲台と化したロロナが。
全力で、砲撃をぶっ放していた。
ロロナの魔力は、今やアーランド随一。しかも、攻撃魔術に関しては、多分世界でも五指に入るという自負がある。
そのロロナが、神速自在帯も駆使して、一時間超相当の超長時間の詠唱で、練りに練り上げた砲撃である。
一瞬、周囲の光と音が消えて。
極太の殺意が、空気さえ弾き散らしながら。
虹色の竜となって、敵へと襲いかかる。
防壁を張ろうとするが、もう遅い。
味方戦士達が、必死に逃れていくのが見える。くーちゃんが少し前に、退避命令を出したのだ。逃げ遅れた子がいたけれど、ステルクさんが拾って、逃げ延びる。
着弾。
万単位の敵とは言え、即時で張った防壁。
貫通。
そして、炸裂した。
音が、消し飛ぶ。
あまりの反動に、凄い距離を空中で後退していた。
爆発の規模は凄まじく、山より巨大なキノコ雲が上がっている。これは、二千以上の敵を、確実に巻き込んだ。
呼吸を整えながら。
ロロナは、戦況を確認。リッケンが、翼を焦がしながら、ゆっくり高度を下げていく。城壁に着地。
砲撃を終えたら、敵の的になる可能性が上がる。
すぐに着地するようにと、事前に指示は出していた。それが功を奏した。
敵陣は、ずたずた。
体勢を立て直そうと、必死に下がっている。
今の一瞬で、皆による攻撃と、ロロナによる砲撃を合わせて、一万数千は消し飛んだ。流石に五万の敵とは言え、これで当面は立て直しに躍起になる事だろう。三割を失うと言うことは、その数倍が負傷すると言う事を意味している。つまり、殆ど無事な敵はいないのである。
立て直さなければ、そのまま全滅するだけ。
完勝だ。
ジオ陛下と、師匠。ステルクさんと、くーちゃんが、潰走する敵を追わず、戻ってくると。
城壁の上から、先に戻っていたアーランドの戦士達が、喚声を挙げた。
ロロナは素直に喜べない。
かといって、悲しむわけにも行かない。
戦いに負けるわけにはいかないけれど。今の戦いで、多くの命が失われたのだ。アーランドは守られた。アーランドを潰そうとする敵はたくさん死んだ。後方にいる労働者階級の人達の命は守られ。荒野に芽吹いた緑も、これで救われた。アーランド人だけではなく、ペンギン族もリス族も、この戦いの結果、胸をなで下ろしていただろう。
見境無く殺戮の限りを尽くすという意味で、どんな軍隊よりもタチが悪いスピアの戦力が、退けられたのだから。
多くの死を、伴いながらも。
そして、この戦いの結果、フラウシュトライトを仕留める時間が出来た。流石にまだ三万を越える敵を抑えるために、ジオ陛下と師匠は、此処に抑えに残る必要があるけれど。ステルクさんとくーちゃん、それにロロナ自身は、アランヤに向かえる。
ジオ陛下は、流石に疲れた様子だ。
自室に直行。多分一日か二日は眠り続けるだろう。
師匠は非常に不機嫌なまま。
ロロナを一瞥すると、すぐに自室に戻っていった。
敵は再編成で必死になる筈で、更に此方は意気上がっている。勿論、ホムンクルス達が偵察に出るので、敵に奇襲なんてさせない。
無理をして出てきても、返り討ちだ。
ジオ陛下と同じように疲れているステルクさんと、くーちゃんと、一緒に城壁の上で軽く打ち合わせをする。
「すぐにアランヤに向かおう」
「そうね。 向こうの戦況についても気になるわ。 少しでも、フラウシュトライトの情報が得られているといいのだけれど」
「今の君達の戦力は、二人がかりならジオ陛下に匹敵するほどだろう。 それに私も加わるのだが。 随分と心配しているのだな」
「相手は、あのギゼラさんを相打ちにまで追い込んだ怪物です」
ステルクさんも、そうロロナが言うと、口を引き結ぶ。
ギゼラさんは在野だった時期が長かったけれど。その戦闘力に関しては定評があった。今回は万が一にも不覚がないように万全に備えていくけれど。
それでも絶対は無い。
元々相手に有利な海上。更に言えば、敵には未知の要素が多すぎる。
一応、ロロナは海王のデータに目を通している。フラウシュトライトは海王をベースに開発されたという事で、そのある程度の力量は把握しているつもりだけれど。
トトリちゃんが開発した船でも、多分その火力の直撃を受ければ保たないはず。
流石に海上に放り出されたら、長期戦は無理だ。
少しだけ休んで疲れを取ると、すぐに砦を出る。
ロロナの周囲を固めているホムンクルス達はそのままついてくる。今回の作戦にも、参加してくれるそうだ。
ステルクさんは、ここしばらくの戦いで鍛えていたジーノ君を連れて行くそうである。
くーちゃんは誰も連れて行かない。
元々ハイランカーの冒険者は、今殆どが前線に出払っている。トトリちゃんの護衛を務めている一団くらいしか動かせない。
彼らも、今回の戦いには同道して貰うつもりだけれど。
合流は、アランヤだ。
船に乗せられるだけの手練れを乗せて。
戦いに挑む。
アーランド東海上の制海権を奪還し。東の大陸への道を作って。この戦いに関する決定打を得るために。
砦を出ると、皆で走る。
ロロナはステルクさんやくーちゃんほどの身体能力はないけれど。それでも生半可な冒険者よりは鍛えているつもりだ。
神速自在帯は使わない。
今は力を温存するためだ。
レオンハルトが仕掛けてくる可能性だってあるし、どんなアクシデントが起きるか分からない。
自分の脚で走る。街道を無心に行く。
馬車より速い程度のスピードは出せるけれど。
それでも、くーちゃんやステルクさんは、ずっと先。護衛のホムンクルス達は、一丸になって、ロロナの周囲を固めてくれている。彼らと歩調を合わせるためにも、これ以上の速度は出せない。
このスピードなら、アーランド王都まで三刻ほどだ。
「みんな、大丈夫? さっきの戦いでも、かなり消耗したでしょ?」
「ご冗談を。 先ほどの砲撃を見た以上、我等も力を振り絞るだけです」
リーダー格のセンが言うと。
皆が頷いた。
そうか。
ロロナに命を預けてくれるのなら。出来るだけ彼らの思いに答えたい。
アーランド王都が見えてきた。
くーちゃんやステルクさんは、既に準備を整えてくれているはず。アトリエから、一気にアランヤに移動する。
トトリちゃんも、できる限り、情報を集めてくれているはずだ。
この戦い。
負けられない。
この国総出で作った時間。
無駄になど、絶対に出来ないのだ。
多くの死を悲しむ自分と同時に。戦略的に物事を考える自分もいる。
ロロナは、心とは複雑だなと思うし。それが悪い事だとも思わない。人生はその最後まで、勉強と積み上げの連続なのだから。単調であれば、いずれ道を踏み外してしまうかもしれない。
4、渦巻く空の下
港に着いた頃。
意識朦朧としていた106さんが、はっきり目を覚ました。
やはりそれなりのダメージがあったようで。リオネラさんの話によると、頭の中で出血していたという。
いにしえの時代の人間だったら死んでいた所だけれど。アーランド戦士をベースにしているホムンクルスは、それくらい地力で直せる。回復はあくまで補助。ダメージを受けている今は、その補助によって、回復を促進するのである。勿論アーランド戦士の多くも、回復術の助けがあれば、容易なことだ。
医療室に寝かされている106さんの所に急ぐ。
他のメンバーは、降船。
船の修理とメンテナンスがあるからだ。ミミちゃんは最後までトトリにつきあって残ってくれたけれど。
本心から言えば、少し休んで欲しかった。
ただ、つきあってくれている以上、そう言う失礼なことは言えないけれど。
「トトリ様。 幾つか話したいことが」
「どうしたの?」
「まずはこれを」
懐から106さんが取り出したのは、鱗の破片。元がとんでも無い大きさだと、一目で分かる。
言うまでも無い。フラウシュトライトのものだ。
「あの嵐の中で、良く……!」
「決死の覚悟でした。 でも、そのせいで、奴の火砲の余波を避けきれませんでしたが」
苦笑いする106さんは、やはり表情が豊かだ。
そして彼女は、大きな仕事を幾つも成し遂げてくれた。
あの嵐の中で、どれだけ小型艇が保つか実験。
敵の鱗の現物確保。
更には、攻撃が命中する様子も、至近で見ていたという。
「大砲は効いているようでした。 鱗を幾つか吹き飛ばして、その下の皮膚にもダメージを与えていました。 あの様子だと、うおクラフトも効いていたはずです。 あまりにも皮膚が分厚すぎて、遠目にはダメージが見えなかっただけだと思います」
「よく見てくれました。 助かります」
「勝つためです。 それに……」
106さんは、少し視線をそらして。黙り込んだ後、言う。
ホムンクルスにしては感情豊かなこの人は。
ある意味、挑戦的なことを言った。
「私は、価値ある何かになりたい」
「……」
「我々が、アーランドの、いや辺境地域の戦力的不利を補うために造り出された存在だと言う事はわかっています。 あくまで人間の下位存在である事も。 でも、私は考える事も出来るし、感情もある。 人間のために働くことは享受します。 ですけれど。 愚かな相手や。 劣った相手のために、部下達や。 それに私が命を捨てるのは、出来れば避けたいです。 子供を作れることだって、知っています。 でも、同じように、価値ある相手の子を産みたいです」
ぎゅっと、シーツを握る106さん。
そうか。
だから、価値ある人の所で働くためにも。自分が価値ある存在になりたい、というわけなのか。
トトリには、何も言えない。
この人を正式にクルーにしたのはトトリなのだ。
「貴方は立派な戦士です、106さん。 一緒に、戦ってください」
「光栄です。 いずれ、もっと価値ある存在になります」
握手を交わす。
そして、トトリは。
笑顔を作るのが、難しいと思った。
この人はすがすがしいほどに開けっぴろげな野心を持っているけれど。それに対してまっすぐだ。
それなのに、自分は。
自分は。
言葉は、無為に心中で、反響を続けていた。
ミミちゃんと一緒に、ホープ号を降りる。
すでにメンテは始まっていた。装甲を取り替える箇所はないようだけれど。魔術師達が儀式魔術で、防御を掛け直している。
彼らの顔には、不安が浮かんでいた。
一撃で、この強固な魔術防御を抜かれたのだ。
また掛け直しても、意味があるのだろうかと、考えているのだろう。
意味はある。
彼らに言おうかと思ったけれど。お父さんが、トトリの思いを、代弁してくれた。
「この装甲が、一瞬で抜かれたと思っているな。 違う。 この装甲があったから、一瞬でもこの船は持ちこたえた」
そうだ。
そして一瞬でも持ちこたえてくれれば。この船なら、逃れる事が出来ることも、よく分かった。
一瞬でも耐え抜ければ。
これから乗せるこの国屈指の達人達は、きっと活路を開いてくれる。
一瞬で良い。
トトリは、迷いが渦巻くのを感じる。この船に乗ってくれた人は、本気でトトリを支えてくれている。
バリベルト船長も。
ガンドルシュさんも。
106さんも。
ミミちゃんも、マークさんも、メルお姉ちゃんも、リオネラさんも。他の人達、全員も、である。
それなのに。トトリは後ろ暗い感情をどうしても抑えきれない。復讐の念が、己をどんどん堕落させているのも理解しているのに。どうしても、だ。
戦士として三流以下。
自責の言葉が、湧きだしてきて、胸を抉る。
情けないと思うのに。
どうしてもこの怒りだけは、抑えることが出来ないのだ。
砂浜に出て、遠くからホープ号を眺める。人も悪魔族もホムンクルス達も、しっかり活躍してくれている。
みんなこの船を最高の状態にして。
あのフラウシュトライトを討つために、全力を傾けてくれているのだ。
トトリには、相手を観察して、最高のタイミングでの攻撃を指示するくらいしかできないけれど。
あの船には乗る。
そして、勝たなければならない。
不意に、凄まじい嘔吐感がせり上がってきた。皆に見えない位置に移動すると、トトリは、胃の中のものを、全部戻した。
腹の中が、煮えるようだ。
敵を最初に殺したときだって、こんな風にはならなかった。
人型の命を奪ったときだってそうだ。
トトリは未熟で、甘い。分かっていたけれど。こう自分自身の感情と理性に板挟みになる事が、こうもつらいなんて。
前は、思いもしなかったし、相談も出来ない。ただ、ひたすらに。全身を焼かれる苦痛が、厳しかった。
口を拭って、吐瀉物を砂に埋める。
棒を振るって、しばらく気晴らし。型を順番にこなして、最後まで。
ふと、気付くと。
後ろに、ミミちゃんがいた。
手紙を差し出される。
鳩便だった。
「貴方によ」
「うん……ありがとう」
「……少し休みなさい」
ついと視線を背けると、ミミちゃんは行ってしまう。弱虫と言われている様な気がして、つらかった。
手紙を広げる。
アーランド軍が、最前線の砦にて、画期的勝利。一万五千近い敵を討ち取り、敵の前線を後退させたとある。
これは、敵の勢力図をかなり書き換えるはずだ。
それ以上に、この決定的勝利で、明らかに隙が出来る。つまり、下手をすると、今日中にロロナ先生がこっちに来るとみて良いだろう。
急ぐ必要がある。
口をもう一度拭うと、港に。
出航すれば、数日はゆっくり出来るのだ。ロロナ先生達が到着する前に、少しでも準備を整えなければならない。
必死の思いで、ロロナ先生達は、フラウシュトライトを討ち取るための時間を作ってくれたのだ。
画期的勝利と行っているけれど。それだって、どれだけの苦戦の上に勝ち取ったものか、しれたものではない。
港では、急ピッチにメンテナンスが進められていた。
マークさんが、甲板から怒鳴っている。下で応じているのは、お父さんとハゲルさんだ。
「ハゲさん、ちょっと来てくれないか! 動力炉を調整したい!」
「分かった、すぐ行く!」
「今になって、余計な手を入れるなよ!」
「分かっていますよ! 部品の一つの調子が悪いんでね! 場合によっては取り替えたいんですよ!」
急いでハゲルさんが、タラップを上がっていく。
トトリが行くと。お父さんが振り返る。
「どうした」
「前線でアーランドが勝利したって。 多分今日中に、決戦の人材が揃うと思う」
「いよいよか」
ばちんと、音を立てて。
お父さんが、胸の前で拳を合わせた。
お父さんだって、今まで色々と鬱屈していたのだろう。船が完成したときよりも、激しい感情を感じる。
「行ってこい。 絶対に勝ってこい」
「うん。 でも、メンテナンスは大丈夫?」
「これから突貫でやって、明日の朝までには何とかする。 どうせ、時間も殆ど無いんだろう?」
お父さんの読みは正確だ。
後は、トトリも、出来る事をしておく。
消耗した発破類の補充。
後は、医薬品も、出来るだけ積んでいった方が良いだろう。
パメラさんのお店によって、幾つかの効果が高い医薬品を買っておく。お金はまだまだある。
使えるときに、使っておくべきだ。
どうせ次の戦いは、生きるか死ぬか。死んだら、お金も何も無い。アーランドの誇る国家軍事力級戦士が二人とそれに近い実力を持つロロナ先生がいても、勝てるかどうか分からない相手。お金なんて、惜しんでいる場合じゃない。
医薬品を港に送り届けて、船に積み込む。
多分、空気を察してくれたのだろう。
リオネラさんが、回復を急いでくれていた。106さんも、これならば、決戦のタイミングには動けるはずだ。
小型艇四つの内、一つは予備に廻す。損傷しているからだ。
残りの三つを、支援として使う。
実際に荒れた海で乗りこなした106さんに意見を聞きながら、出来る部分の改修を加える。
舵を少し軽くした方が良いかもしれないと106さんが言うと。
お父さんは腕組みした。
「これがベストだと思ったが、少し重かったか」
「ええ。 少なくとも私には」
「……分かった。 私に出来るだけの事をしておく」
小型艇を裏返して、作業を始めるお父さん。
もう、此処は大丈夫だろう。
「トトリ!」
元気の良い声が、自分を呼んでいる。
見ると、ジーノ君だ。随分とたくましくなったように見える。背も少しのびたかもしれない。
それだけじゃない。
ペーターお兄ちゃんに、それにお姉ちゃん。ナスターシャさんもいる。
ステルクさんと、クーデリアさん。
何より、ロロナ先生。
ロロナ先生は、フードを被った人影を、十数名連れている。全員気配からして、ホムンクルスだろう。
ロロナ先生から、前に少しだけ聞いた。
スピアから逃げてきたホムンクルスの中で、ロロナ先生に恩義を感じている人達を、近衛にしていると。
きっとその近衛だ。
これだけのメンバーが揃ったのだ。絶対に勝てる。いや、勝たなければならない。二度と、これだけのメンバーを揃えて、フラウシュトライトに挑む機会はないだろう。
「見たところ、準備はまだ整っていないようね」
「はい。 でも、敵の情報は集めてきました」
「上等。 作戦会議を先にしておくわよ」
クーデリアさんが手を叩くと、ガンドルシュさんと、本調子では無い106さん、バリベルト船長も来る。
トトリは此処からは、見ているだけだと思ったのだけれど。
クーデリアさんは、最初に言う。
「今回の作戦指揮はトトリに一任するわ。 私とステルク、ロロナはアタッカーよ。 具体的な作戦指揮は、トトリ。 貴方がしなさい」
「えっ!? い、いいんですか」
「この船を作り上げたのも、作戦の司令官も貴方と言う事よ。 勿論無能な指揮を執る場合は、私が代わるけど」
これは、いきなりハードルが上がる。
そして、皆がトトリを見る目。
納得している、目だ。
息を思わず止めてしまうけれど。しかし、腹をくくるときだとみるべきだ。最高の機会が来た。
生かさなければ。
きっと、思いだって、遂げられはしない。
準備が整うのは、明日の朝。
それまでに、最大限の準備をする。
咳払いをすると、トトリは皆を見回し。
そして、フラウシュトライトがどのような生物か、説明するところから、始めたのだった。
(続)
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