森と荒野

 

序、流動する影

 

久方ぶりに、自分の相手が出来る数少ない猛者共の住まう地に、足を踏み入れた。高揚に武者震いする。

分身を倒される事八回。

今では、ここに入るときだけ、命の危険があると言っても良い。

そんな楽園こそ、この国である。

国境をあっさり越えた諜報員レオンハルトは、老いを気にしなくても良くなった体で。黒く拡がる森を見下ろした。

辺境の蛮族共の盟主、アーランド。

近年国力を付け、最強と言われる戦士達をフレキシブルに運用し。六万からなるスピア連邦の戦力を全滅させた怪物国家。

既に大陸北部の東半分を制圧しているスピアにとって、潜在的に将来最後に残る凶悪な敵になりかねない場所である。

音もなく、森の中に降りる。

大量に放ってある諜報用ホムンクルス共からの連絡が来ない。

アーランドの手練れに片っ端から潰されているとしても、現在の状況くらいは把握しておかなければならないだろう。

闇の中を、歩く。

森は豊かだ。虫も多く、鳥もいて。それらを食べる捕食者もいる。植物も良く繁茂していて、丁寧に管理されている。

地面は腐葉土。

柔らかく、栄養も蓄え、保水力も高い。

国境近くにも大きな森が幾つかあるが、アーランド王都に近づくと、更に森は増える。森はアーランドで着実に増やされ管理されている。

大陸北部にも森はあるけれど。

大陸南部とは密度が違う。

同じ辺境でも、西のアールズ王国などでは、相当に森の密度が濃いとも聞いている。蛮族は森を大事にし、共に生きようとしているわけだ。

愚かしい。

レオンハルトは知っている。

一なる五人が、現在進めている計画を。

それが全て軌道に乗ってしまえば、もはやこの世界は緑どころではなくなる。レオンハルトはその新しい世界で生きる術も既に手にしているが。それ以外の存在は、微生物に到るまで、全てが滅びるだろう。

その行為の正義とか、悪とかはそれこそレオンハルトにはどうでも良い。

燕尾服の襟を直す。

今の時点では誰にも捕捉されていないが。

アーランドの国家軍事力級に発見されると面倒だ。出来るだけ急いで、夜闇に乗じて動く方が良いだろう。

もっとも、今のレオンハルトは。

死さえ怖くないのだが。

森を抜ける。

街道を通り抜ける。その時も、速度は落とさない。

残像さえ作らない。

速度をそのままに、直線移動を重視する。

魔術による探査網が彼方此方にあるけれど。

それらも、レオンハルトの前には無力だった。

世界最強の名を恣にした諜報員は。

年齢を気にする必要がなくなってから。その技量の上昇には、もはや歯止めが掛からない。

アーランド戦士以上の頑強な肉体に。

圧倒的な経験が加わったとき。

其処に存在するのは、悪魔でさえ歯牙にも掛けない、怪物の中の怪物なのだ。

再び、森の中に。

其処でようやく、足を止めた。

まずは、送り込んだ諜報用ホムンクルス共がどういう状態かを確認しておかなければならない。

生きて戻ってくるのが極めて稀少で。

情報を得ても、ろくでもない断片ばかり。

一なる五人が苛立つのもよく分かる。

現在攻略中の国が、抵抗が激しいとは言っても。物量作戦で押し潰すことそのものには、何の問題もない。

レオンハルトが此方に派遣されたのは。

万一の危険を、少しでも減らすためなのだ。

記憶している幾つかのホムンクルスの拠点を確認。流石に全てを潰されてはいないだろう。

少し前に大規模な裏切りがあったけれど、それでも判明していない地点は多数あるはずだ。

その中の一つ。

数年前の会戦が行われる前に、レオンハルトが作った拠点へと、急ぐ。

 

深い森の中に、それはある。

元々零ポイントと呼ばれた高汚染地域の、その深奥。

森も歪み、拉げ。様々な、あり得ない生物が闊歩する中に、その拠点は構築してある。拠点と言っても、ただの穴だが。

中に入り込んでみると、気配が複数あった。

一つは、ホムンクルスだ。

「レオンハルト様」

もそもそと這い出してきたのは、妙齢の女。

見覚えがある。

一なる五人の一人に、女のホムンクルスを作るのが好きな奴がいる。作る目的は正直レオンハルトの趣味では無いが、別にそれはどうでもいい。その中の「出来損ない」を、諜報要員として、使い捨てにアーランドへ送り込んでいるという事実だけが、レオンハルトにとって意味のある情報である。

これはその一人。

出来損ないながら、諜報員としては才覚があり。何度か、レオンハルトが指導したことがある奴である。

見かけは、中肉中背の女。幸が薄そうな外見で、長い黒髪は艶よりも不気味さを感じさせる。

声も微妙に低く、嗜虐心を誘う姿をしていた。

まあ、人間からどう見えるかなど、レオンハルトにはどうでも良い。それをどう生かすかしか、興味が無い。

完全に人間を止めた頃から、性欲もなくなったのも、関係しているだろうか。

「ヴァイスハイトだな」

「はい。 お久しゅうございます」

「著しく状況が悪いようだな」

「少し前の大規模裏切りが響きました。 アーランド領内にいた同胞は、半数以上が狩られたものと思われます。 敗残兵をまとめるのがやっとで、脱出どころか身動きさえままなりません」

裏切り、か。

ホムンクルスの中には、使い捨てにされることを疎み、裏切るものがで始めている。今回のように、連隊規模の一部隊が丸ごと、というのは例がないが。それでも、諜報用に送り込んだ個体が、そのまま敵に寝返った例は、幾つか報告されていた。

要暗殺対象の一人であるロロナの周囲にも、そういうのがいるらしい。

「得た情報を寄越せ」

「はい、此方になります」

周囲には、どうにか逃げ延びてきた、負傷したホムンクルスが数名。

どうでもいい。

「ふむ……」

まとめられた資料に、急いで目を通していく。

その全てを、すぐに記憶してしまう。

人外のスペックが与えられているからこそ、出来る事だ。アーランド戦士の領地に潜り込んで諜報をするには、これでも足りないくらいである。

「なるほど。 どうやらアーランドが、なにやら新しいプロジェクトを開始したことには間違いが無さそうだな」

「中心となっているのは、どうやら十三歳の女のようです。 錬金術師をしているようですが」

「報告書を見る限り、魔術の素質もなく、戦闘力も低い。 錬金術師としてのみの才覚に特化しているのか」

「わかりません。 ただ、周辺を調査に向かったホムンクルスや洗脳モンスターは、ほぼ生還していません」

つまり、それだけの手練れが周囲にいると言う事だ。

なるほど。

どうやら、その子供を殺す事が、アーランドの計画を挫く近道だろう。それだけをレオンハルトが把握しただけで充分。

此奴らは、必要なだけの仕事をした。

「良くやったな、お前達」

「これより、どうす……」

すとんと。

あまりに軽い音を立てて、ヴァイスハイトの首が落ちた。

そのまま、周囲にいるホムンクルス達の首を、レオンハルトは瞬きする前に切りおとしていた。

指を鳴らす。

死体が、燃え上がる。

そして、後には何も残らない。

報告書さえ、レオンハルトの手の中で、塵になっていった。

このような者どもは、所詮使い捨て。人間だろうがホムンクルスだろうが洗脳モンスターだろうが関係無い。

必要なだけ使い。

不要なら処理する。

それだけのことだ。

死体の処理も終わったし、もう此処には用が無い。

トトリとか言うターゲットを殺すのは、また別の機会だ。アーランドが此方の諜報組織に対して攻勢に出ている今、これ以上兵力の逐次投入をするのも無駄だろう。トトリとやらも、簡単に殺せるとは思えない。

一端戦力の供給を中止して。

それからだ。

レオンハルトは、アジトを後にする。

そして、その日のうちには。

国境を越えて。スピア連邦領に入っていた。

 

報告を受けたエスティが急行したときには、其処にはもはや何も残っていなかった。焼けた臭いが少しある。

後、魔力の痕跡。

あまりにも鮮やかに、証拠を消した跡だ。

舌打ちすると、部下達を周囲に展開して、辺りを探らせる。

今、アーランドの内部にいる、スピアの諜報ホムンクルスは、徹底的に狩り出しを行っている。

この間投降してきた敵から得た情報を最大限に使い、今まで情報網を寸断するので精一杯だった敵を、根こそぎ消しに掛かっているのだ。その過程で、かなり古くからも使われていたらしい敵のアジトも、こうやって摘発していたのだ。

また、一部はスピア領内に入り、リス族の救出作業を隠密下で進めている。

スピア領内では、動く者は皆殺しと言わんばかりのジェノサイド政策が行われているらしく、帰還した部隊からは耳を疑うような話が幾つも上がって来ていた。

これを見ても、それは本当だとしか思えない。

部下から情報を得て。

そして、皆殺しにした。

この鮮やかすぎるやり口、恐らくはレオンハルトだ。交戦した相手だから、実力のほどはよく分かる。

奴がやりたい放題に動いたら、危険だろう。

どれだけの損害が出るかわからない。

「エスティ様!」

部下の声に、顔を上げる。

此処からはもう何も出ないだろうと思っていたのだけれど。外に出ると、意外な成果があった。

腐葉土に隠れていたのだ。生存者が。

頭を抱えて震え上がっているのは。まだ子供の姿をしたホムンクルス。どういう意匠なのか、耳が犬というか猫というか、そういうのに見える。

見るからにとろそうで、青ざめて震え上がっているけれど。

あのレオンハルトが見逃したのだ。

それだけの高いハイドスキルを持っている、という事である。

腰を落として、視線を合わせる。完全にすくみ上がっているホムンクルスに、制御装置が埋め込まれているのを、エスティは見抜いた。

「少し痛むわよ」

素早く手が動き。

首筋に入れられていたそれを、引き抜く。

頸動脈を傷つけなかったのは、あまりにも早く、正確だからだ。ぶちりと音がして、血が噴き出すけれど。

同行していた魔術師が、回復術で傷を塞いだ。

ひっと小さな悲鳴を上げるそれに、布をかぶせてやる。

「ロロナの所に連れて行きなさい。 身体検査をした後、聴取」

「わかりました」

「……」

偶然、生き延びられたとは思えない。

ひょっとすると。

エスティは、頭を振る。それは憶測に過ぎないし。だといっても、修羅の道にいることに違いは無いのだ。

エスティ自身が、わずかに残った痕跡を追ってみるが。レオンハルトはやはり、国境を越えたあと。

国境に、痕跡が、見せつけるように残されていた。

さて、どうしたものか。

一度戻って、善後策の協議が必要だろう。

一気にきな臭くなってきたこの状況。

下手をすると、数年来の大会戦が、また近いうちに起きるかもしれなかった。

 

1、緑の息吹

 

ジーノ君に手伝って貰って、アーランド東の森に、何度も足を運ぶ。どれだけ材料があっても足りないくらいだ。

少し前から、護衛をしてくれているナスターシャさんは、基本蓮っ葉っぽいしゃべり方をする人だけれど。

護衛の時は殆ど無駄なことをしない。

採集をしているトトリの側で、じっと周囲を警戒してくれていた。

そんなに強いモンスターはでないけれど。

それでも、時々狼や、もう少し強いモンスターにも襲われる。

少し南に遠出したときは、鋏飛び虫にも襲われた。アードラとも、何度か交戦することになった。

メルお姉ちゃんが側を離れたから、やっぱり不安なところもあるけれど。

ジーノ君に敵の攻撃を受け止めて貰って。

ナスターシャさんが、魔術の雷で焼き払って。

取りこぼしを、トトリのクラフトやフラムで爆砕するという流れで、基本的には上手く処理できている。

クラフトの扱いは、とても上手くなってきた。

今後は、色々と改良に手を染めてみたいものだ。レシピには、何十種類と載せられているのだから。

薬草や野草を、片っ端から荷車に積んでいく。

やがて、荷車に、一杯に積み込んだので、今日は戻る事にする。荷車を引っ張ると、かなり重い。

採取を許されている地域だというのが有り難いけれど。

生態系を破壊してしまっては意味がない。取りすぎると、きっとクーデリアさんに怒られるだろう。

街道に出ると、もうさほどの脅威は感じない。

でも、今日だけで二回。モンスターに襲われた。

その内一回は、黒ぷにによる襲撃。ジーノ君は食べられそうになるし、トトリも触手で振り回されて地面に叩き付けられて。

ナスターシャさんの雷撃が間に合わなかったら、かなり危なかったかもしれない。

最後はクラフトでとどめを刺したけれど。

トトリもジーノ君も、ぼろぼろだった。

「トトリ、大丈夫か?」

「私は何とか。 ジーノ君は?」

「平気平気。 この程度で音を上げてたら、雷鳴のじいちゃんに拳骨もらっちまうよ」

そういうジーノ君だけれど。

この二週間で、かなりひどい怪我を三回している。その度に、近くのキャンプスペースにいる常駐要員の魔術師に直して貰っているのだけれど。ちょっと心配だ。

今回の黒ぷに撃破の件で、ポイントがたまるはずだから、多分これでジーノ君もランク2である。

アーランドの入り口に到着。

ぼろぼろのトトリとジーノ君。怪我一つないナスターシャさん。

とても対極的な光景だ。

アトリエにつくと、二人ともコンテナへの素材納入を手伝ってくれる。これからトトリは徹夜で調合。

栄養剤の調合は予想よりずっと難しくて、既にジェームズさんに頼まれてから三週間が経過している今も、半分くらいしか出来ていない。

試行錯誤の末に何とかコツは掴んだけれど、素材をかなり無駄にした事もある。

これから一週間でどうにか終わらせるつもりだけれど。

六樽分の栄養剤が揃った頃には、くたくたになっていそうだ。

ジーノ君は、作業が終わると、さっさと行ってしまう。

ナスターシャさんは、どうしてだろう。

いつもふらりと現れて、手伝ってくれるのだけれど。格好は常に同じだし、何処で休んでいるのかもよく分からない。

ただ、冒険者として中堅のランクを持っているのだから、かなりの経験を積んでいるわけだし、それだけ信用もされているという事だ。

トトリとしても、頼っていきたかった。

ソファに座って、しばらくぼんやりする。

ナスターシャさんが、お茶を淹れてくれた。ダイニングの位置は教えてあるし、四回も採取に同行して貰った仲だ。

時々、トトリが作ったお料理を食べて貰って、お茶にすることもあった。

ただ、神出鬼没で、いつもふらりといなくなってしまう。

「ほら、ミルクも入れたわよ」

「ありがとうございます。 んー、あったかーい」

「零さないようにね」

「はい。 あ、そうだ」

隣の雑貨屋さんで買ってきたジャムを出す。この近くにある森で採取できた、森いちごから作ったものだ。

森いちごは甘みが少ないのだけれど、どうやらベリーを入れているらしくて、刺激的な甘さに仕上がっている。

これをお茶に入れると、凄く美味しいのだ。

テーブルを囲んで、今度はトトリがお茶を淹れる。ナスターシャさんはおしゃべりには応じてくれるけれど、あまり笑顔は浮かべない。というよりも、心から笑っているようには、見えなかった。

「ナスターシャさんは、もう冒険者長いんですか?」

「いいえ。 まだ三年ほど」

「へえー。 それでもうそのランクですか」

「ふふ、貴方ももうランク2で、この仕事が終わったらまたランクが上がるんじゃないのかな」

そう言われると、嬉しいけれど。

それはどうなのだろう。

トトリが錬金術師で、お仕事を任せて貰えるというのは嬉しいし。何より、緑化作業が実際に軌道に乗ったら、もっと嬉しい。

でも、まだトトリは力不足だ。

過分な評価を貰ってしまうのは恥ずかしいし、何より真面目に頑張っている人達に申し訳ないと思ってしまう。

今は、とにかく実直にお仕事をして。

みんなの手助けになる力を付けて。

そして、お母さんを探したいのだ。

「そろそろ行く」

「また、採集の時はお願いします」

「それよりも、徹夜もほどほどにね。 若い内は良いけれど、それが癖になると、年取ってから悲惨よ」

「う……わかりました」

釘を刺されたので、少し反省。

その後は、調合に入った。

ロロナ先生が残してくれたレシピを、基本的には忠実にたどっていく。やっていてわかるのは、ロロナ先生のスキルの高さだ。

フイに、とんでもなく高度な技法が入り込んでくる事が多いのである。

この栄養剤も、散々改良を重ねているらしく。

トトリも、苦労しながら、調合をしていた。

中和剤をコンテナから取り出してきて。綺麗に洗った釜に入れる。其処に、魔法の草や他の植物類から煮込んだ煮汁、それに腐葉土などから取り出したエキスを、順番に投入していく。

時々、一部を釜からあげて、炉に。

炉に入れて、気体にした中和剤で、炙るというか、何というか。

まだ、トトリでは理解し切れていない行程が、幾つかある。

今必死に勉強をしているのだけれど。

ロロナ先生は、何というか、一足飛びに理解して行ってしまうらしい。レシピを見ていると、頭を抱えてしまうことが、しょっちゅうだ。

そういえば、思い出す。

ロロナ先生に教わっていたとき。先生は、擬音でこうするというのを示すほかに。もう一つ、癖があった。

思考がスキップするのだ。

文字通り、1を理解すると次に10を理解している、という感じなのだ。だから、トトリは、時々困惑した。

着いていくことはどうにか出来た。

それは、ロロナ先生の言葉の中に、ヒントがあったから。そのヒントをたぐって、必死に着いていったのだ。

今は、それができない事もある。

だからロロナ先生のアトリエの壁の本棚にびっしり入っている参考書を開いては、内容を何度も頭に入れていた。

参考資料には、付箋がたくさん入っているのだけれど。

時々細かい文字で注釈がある。

前にロロナ先生の字を見た事があるけれど、違う。

誰かが、ロロナ先生の女房役として、助けていた、という事なのだろう。一体誰なのだろうか。

温度調整をきっちり。

時間もきっかり。

それで、やっと中間生成物が上手く行く。

最初はもう、十回に二回も上手く行かなかったけれど。散々練習して、どうにか出来るようになってきた。

徹夜になってしまったけれど、最後の調合。

緑色の濃い液体ができあがる。

これで、樽一つ分の栄養剤だ。後、樽二つ分。

残りは六日。

素材は、どうにか昨日の調合で足りる分だけ集めて来た。目を擦りながら外に出ると、当然のようにお日様が顔を出していた。

井戸に行って、顔を洗う。

此処の井戸のお水は、とても冷たい。アランヤ村の井戸水よりも、更に冷えているかもしれない。

何度か顔を洗うけれど。

心臓がばくばく言っているのが分かる。

ひょっとすると、無理をしすぎたかも知れない。

出来た樽を、台車を使ってコンテナに降ろす。何度か目の前がくらっと来たけれど、耐え抜く。

此処でひっくり返したら、何もかもが台無しだからだ。

樽をコンテナにしまった後、ベッドに。

戸締まりはしたと思うけれど、不安だ。ベッドに潜り込むと、頭ががんがんして、すぐには寝付けなかった。

呻きながら、布団を被って、しばらくすると。

夕方になっていた。

起き出す。

体中が酷く痛む。でも、これで、後樽二つ分。そして、残りは一週間もない。

トトリに期待してくれた人達の事は裏切れない。顔を叩くと、次の調合に入る。どうにか、理屈は理解できてきた調合を、一つずつこなしていく。

不意に思い出したのは。

あの荒野で会った、自称科学者、マークさんの言葉。

この国では、機械の仕組みも知らないのに使用して。結果だけを享受している。あの人は、そんな風に怒っていた。

トトリは、手を止めて、少し考えてしまう。

結果だけを享受、か。

ロロナ先生が残してくれたレシピを見て、あまりにも高度すぎて理解できなくても。結果だけを享受して、調合を進めてきた。

確かに、トトリも。

あのマークさんに、軽蔑されるようなことを、しているのかもしれない。

そもそも、錬金術とは何だろう。

それさえも、トトリにはよく分からなかった。

きっとロロナ先生には、明確な結論がある筈だ。ロロナ先生はいつもにこにこしていたけれど、レシピを見るとわかる。

凄まじい勢いで理論を組み立てて、情け容赦ない仕組みを作り。独創的極まりない思考で、調合をこなしていた。

正に天才。

凡才のトトリとは違う。

悩み始めると、効率が一気に落ちる。

後時間が殆ど残されていないというのに。頭を抱えて、その場に座り込んだトトリは。釜が煮立つ音が、何処か遠くに聞こえていた。

 

一端、火を止めて。

ベッドに潜り込んだことまでは覚えている。

後樽二つ分の調合が、まるまる残っているのに。

一日を、完全に無駄にしてしまった。

朝だ。

顔を洗って、気分を変えようとするけれど。どうしても、根付いてしまった疑念は、払えなかった。

焦りが、体を何度も突き飛ばすのがわかる。

このままじゃまずい。

その時、不意にアトリエのドアがノックされた。

入ってきたのは、ミミちゃんである。

驚いた。

「邪魔するわよ」

「あれ、どうしたの」

「どうしたのって。 アーランドに来たから、貴方がいるっているアトリエを訪ねただけよ」

むしろミミちゃんの方が驚いているように見える。

少したくましくなったかもしれない。彼女も、散々修羅場をくぐってきているのだろう。

見せつけられたのは、冒険者の免許。

「貴方もランク2になったんでしょう。 私もよ」

「うん……」

「ちょっと、どうして驚かないのよ! ……さっきからどうしたのよ、その顔」

「顔?」

ミミちゃんがいうには、何だかこの世の終わりみたいな表情をしている、という事。全然自覚はなかったけれど。

不浄に行って鏡を見てみて、納得できた。

こんな顔で、外をフラフラしていたのか。

無理矢理、ベッドに横にされる。休めと言われて、抵抗できず、そのままになった。ミミちゃんはベッドの横に座ると。矛を抱えたまま、此方を見ずに話しかけてくる。

「そんなんじゃ張り合いがないわ」

「ごめんね。 ちょっと、悩むことがあって」

「それならゆっくり眠って、食事をして。 それでだいたいは解決するわ。 結論が出ないことは、後回しにするのも良いわよ」

「……うん」

時間がないけれど。

正直、今の状態で調合をしても、失敗するだけだ。

言われるまましばし眠る。

夕方、目を覚ますと。

ミミちゃんは、ベッドの横で。可愛い寝息を立てながら、自分も座り込んだまま、寝てしまっていた。

毛布を掛けてあげると、調合に戻る。

ばっちり眠ったことで、気力はしっかり戻った。

悩むのは後だ。

今、トトリに出来る事を、今はする必要がある。

それに六樽を片付けた後は、まだ四樽が残っている。その内二樽は、これとは違う、複雑な調合を経た栄養剤なのだ。

まだ残っている中間生成液を確認。

何が必要かをリスト化する。

計算を素早く済ませた。

かろうじて、間に合う。

ペーターお兄ちゃんも、仕事で馬車をやっているのだ。あまり待って貰う事は出来ないだろう。

調合、開始。

しばらくすると、ミミちゃんが起きてきた。

「何か、手伝うことはあるかしら」

「薪がコンテナにあるの。 取ってきてくれる? 3って書いた棚に」

「わかったわ」

コンテナに降りていくミミちゃんは放置。

調合を続ける。

様々な薬草からエキスを絞り出し。魔力が足りないトトリは、中和剤の量とにらめっこしながら、それを順番に混ぜ合わせていく。

腐葉土も、変に扱うと、せっかくの栄養が死んでしまう。

火加減は、非常に大事。

煮すぎると、全部が台無しになってしまうのだ。

「取ってきたわ」

「裏庭においてくれる?」

「此処ね」

「うん、有り難う」

しばし、調合を続ける。

ミミちゃんは、薪を崩してくれていたけれど。これはきっと彼女なりに、先を読んでの行動なのだろう。

調合が、一段落。

外に出ると、炉の加減を見ながら、薪を入れる。ミミちゃんは見ていたけれど。流石にこれは任せられない。

かなり緻密な火加減が要求されるのだ。

炉についている温度計を見ながら、薪を更に調整。

火ばさみを使って、薪を少し取り出した。額の汗を拭う。ミミちゃんにはその間、お湯を沸かして貰った。

錬金釜に、幾つかの中間生成液を投入。

中和剤を使って、混ぜ合わせる。

顔をぬれタオルで拭く。

集中しての作業が続く。

スポイトを使って、中間生成液を釜に垂らす。汗が落ちてしまっては台無しなので、非常に緊張する瞬間だ。

何度か、息を止めているのに気付く。

深呼吸して、作業を続行。

明け方の少し前に、どうにか一セットが出来た。

全身が泥のように疲れているけれど。これで残りは一樽。

残りの日数も殆ど無いけれど。

希望が、どうにか見えてきた。

樽に栄養剤を移すと、掃除を開始。少しでも埃が舞うとまずい作業も少なくないのである。

ソファで果てていたミミちゃんにも手伝って貰う。

フラスコ類は全て蒸留したお水で、綺麗に磨いて。

床はぬらしたタオルで掃除。

更に壁にある機材を動かす。羽が幾つか着いているもので、地下の魔法陣に蓄えた魔力で動く。

アトリエ内に風を起こすことで、埃を一気に追い出す機能を持っている。

最近、ロロナ先生が導入したものらしい。

使って見ると、非常に便利なので。トトリのアトリエにも欲しいと、少し前から考えていた。

埃を全部追い出して。

掃除が終わった頃には、お日様がぽかぽかと、周囲を照らしていた。

げっそりしているミミちゃん。

「もう大丈夫だよ。 手伝ってくれて有り難う」

「あんた、いつもこんな事してるの?」

「忙しいときはこのくらいは普通かな。 でも、お外でモンスターと戦うのに比べたら、死ぬ危険だって少ないし、何でもないよ」

「……」

ミミちゃんは黙って、しばしトトリを見ていた。

次の作業に掛かる。

井戸水で顔を洗うと、火を熾して蒸留水を作る。

地下に入って、中和剤の在庫を確認。大丈夫。まだまだ、栄養剤を作るには、充分な量がある。

呼吸を整えると、まずは中間生成液から作り始める。

最後の一樽だ。

此処で失敗したら、残りの時間的にも厳しい。

レシピをもう一度確認しながら、中間生成液を作っていく。ミミちゃんは、どうしてか帰らなかった。

「いいんだよ? 大変でしょ」

「前にも言ったけれど。 国からも特別扱いされる錬金術師だって言うのなら、その働きを見届けさせて貰うわ。 前は貴方が直接働く姿は見られなかったけれど。 今回は、見届けるわよ」

「そっかあ」

じゃあ、手伝って貰おう。

お湯の沸かし方を説明。

雑作業は、ミミちゃんにもできる筈。ただ、作業をして貰うと、ミミちゃんは思っての他不器用だ。

これはひょっとすると。

あの優れた技は、血がにじむような努力の末に、ようやく身につけたものなのか。

可能性は低く無さそうだ。

そうなると、トトリとしても、より親近感が湧く。

トトリだって、あんまり出来る方じゃないからだ。ロロナ先生の業績を見ていると、その凄まじさに、いつも頭がくらくらする。

レシピ一つを見ても、才覚の違いがわかる。

多分今日も徹夜になると、ミミちゃんに告げる。流石に青ざめる彼女だけれど。嫌だとか、帰って良いかとか、そう言うことは言わなかった。

強情っぱりで意地っ張り。

でも、それが可愛いと、トトリは思う。

 

どうにか、樽に栄養剤を移す。

六樽全てをチェック。

どれも品質には問題なし。レシピにある確認方法を全て試すけれど。いずれもが。その確認でクリアしなければならない項目を、超えていた。

良かった。

胸をなで下ろしてしまう。

かなりの素材を無駄にしたし。

採取のために、たっぷり時間も掛かったのだ。

ミミちゃんはというと、出来たと言うと、その場で横倒しに倒れそうになったので。抱き留めて、ベッドに運んでいく。

ミミちゃんを寝かすと、トトリはソファに。

横になると、もうその場で、すぐに意識が墜ちてしまった。

目が覚めると、朝。

目標日、当日だ。

ミミちゃんはまだ眠りこけているので。トトリで、コンテナから樽を引っ張り出す。重いけれど、これでもトトリは戦士階級の娘だ。えいしょ、えいしょといいながら、樽を抱えて、荷車に乗せた。

一つ、二つ。

四つ目を乗せた頃に、ミミちゃんが起きてくる。

「あれ−? ……何、してるの」

「ミミちゃん、徹夜のお手伝い有り難う。 後は私がやっておくね」

「……」

寝ぼけている彼女は、何度かこくこく頷いて、寝室に戻ったけれど。

あまり時間を掛けず、血相を変えて戻ってきた。

その時には、トトリはもう、荷車に樽を積み終えていた。

「ちょっと、子供扱いするんじゃないわよ!」

「でも、疲れてるでしょ? 無理はさせられないよ」

「無理じゃない! じ、時間はどれくらい残ってるの?」

「後、これを現場に運んでいけば終わりだよ。 護衛はジーノ君とナスターシャさんにでもやってもらうから、大丈夫。 流石にアトリエには残しておけないから、ミミちゃんも、取ってる宿か何かに戻ってくれる?」

荷車を引いて、外に。

ミミちゃんがでたところで、アトリエに鍵を掛けた。

「私も行くわ」

「え? 悪いよ」

「良いから。 今からだと、時間がぎりぎりになるわね。 ジーノって子を私が呼んでくるから、もう一人は貴方で呼んでくるのよ」

「うん」

ジーノ君の特徴と、居場所を教えると、ミミちゃんはすっ飛んでいく。

トトリはと言うと、まずは馬車の所に。

ペーターお兄ちゃんは、既に待っていた。お馬の手入れをしているけれど。これは、時間的にギリギリだったかもしれない。

手伝って貰って、荷車の中身を、馬車の後ろに移す。

「その様子だと、作業は終わったようだな」

「うん。 ペーターお兄ちゃん、この間の所まで乗せてくれる?」

「良いだろう。 目の下に隈ができているが、馬車の中で寝ておけよ。 客が心配するからな」

「あ、ほんと? ほんとだ……」

手鏡で見ると、髪の毛も乱れている。

ナスターシャさんは、呼ばなくても、いつものようにふらりと現れる。ペーターお兄ちゃんと視線が合うと、一瞬だけにやりとしたように見えたけれど。ひょっとすると二人とも、知り合いだろうか。

ミミちゃんが来る。

ジーノ君も連れていた。

護衛が三人もつくほどのことは無いと思うけれど。帰り道も、採集が必要だから、これで良いかもしれない。

しかも、レシピを見る限り、かなり危ないところにしか、素材がないのだ。

馬車に、四人で乗り込む。

他にも乗り合いとして利用するらしい、労働者階級の人が何人か乗ってきて。日時計が時間を告げると、馬車はでた。

ミミちゃんと馬車に乗った経験は、あまりない。

ジーノ君はと言うと、また古傷が増えていた。トトリが調合を必死にやっている間に、若手向けの仕事をしていたのだろう。

「そっか、お前もランク2なんだな」

「そうよ」

「何だ、そうなると実力的にはお互いたいしたことないな! これから頑張って行こうぜ!」

スパンと、相手が気にしていることに、躊躇なく踏み込むジーノ君。

見る間にミミちゃんの機嫌が悪くなる。

ナスターシャさんは、それをにやにや見ていたけれど、一切介入しない。

「何だよ、本当のことだろ?」

「……」

「ジーノ君、それくらいに……」

「だってよ、実際に格上のモンスターと戦って見てよく分かったぜ。 俺なんか、まだまだザコも良い所で、この国には強い奴がそれこそいっくらでもいるってな。 ランク2ってのは経験が少ないってことをよく示してるし、逆に言えば俺もそいつもガキなんだし、これから伸びるって事じゃねーか」

ぶちぶちと、ミミちゃんの堪忍袋が音を立てているのが聞こえる気がする。

トトリも結構ぼそりと相手の急所を言葉で貫いてしまうことがあるようなのだけれど。ジーノ君は更に容赦がないので、見ていて冷や冷やさせられる。

ミミちゃんは見ていてわかってきたのだけれど。

感情の安全弁がとても緩い子だ。

今も、ジーノ君が正論を述べていて、なおかつ悪気がないことは、ミミちゃんも理解できているのだけれど。

それと頭が来る来ないは別の問題なのだろう。

途中の村で、人が乗り降りする。

その間に、トトリは地図を広げて、帰りによる採集地点を、皆と確認していた。

「じゃあ、例の荒野から、東に行くんだな」

「うん。 だから高確率で、むしと戦う事になると思う」

「飛行するモンスターは、この間グリフォンとやりあったし、結構楽しそうだな。 なあ、お前は飛ぶ奴とやり合ったことはあるのか?」

「いいえ、別に」

ミミちゃんは額に青筋を造りながら、ジーノ君の発言を聞き流している。

トトリはその間に。

荷車に積んできた、爆弾の在庫について、考えていた。

 

2、連戦

 

現場について、樽が六つも積まれた重い荷車を運んでいく。

ちなみに樽は、いずれもがロロナ先生のアトリエのコンテナにあったものだ。中は丁寧に洗ってある。

自由に使って良いとゼッテルで張り紙がされていて。

ロロナ先生は、或いは樽にお薬を入れて使う事があると、予想していたのかもしれない。まあ、あの人なら、何をしても不思議では無いだろう。

現場近くは、道が一筋。

その左右には、耕された地面が拡がっていた。

大きな姿の悪魔が、何人か集まっている。見ると、手首に刃を当てて、血を流しているでは無いか。

足下には魔法陣が展開している。

何かしらの作業をしているのだろうけれど。流れ落ちる血を見ていると、何というか、とても痛々しかった。

「ああ、初めて見るんだっけ?」

「えっと、はい」

ナスターシャさんが、説明してくれる。

悪魔族は、そもそも汚染と生きている種族。汚染を消し去るために生を受けて、汚染とともに死んでいくのだという。

そのために性別すら必要ない。

魔術を使って子孫を造り出し。

育つ内に、性別もなくなってしまう。

永く生きられる存在は希で、ああやって大きく育った悪魔族は強くたくましいのも。それは過酷な環境で生きてきた証だそうだ。

そして戦いよりも、ああやって地面に残っている汚染を除去することを誇りとしていて。

汚染の排除のためには、命を失うことも惜しまないのだとか。

膨大な血が流れ落ちた後を、小柄な悪魔達が耕しながら、なにやら呟いている。詠唱の一種かと思ったけれど、それにしては魔力を感じない。

きっと彼らの信仰なのだろうと、トトリは思った。

ジーノ君も彼らの過酷な生活については初めて知ったようで、いつものような毒舌は吐かない。

ミミちゃんも、じっと悪魔達が行っている儀式を見つめていた。

「詳しい、ですね」

「これでも冒険者になってから、彼方此方の緑化作業地域で色々に護衛をして来たからねえ。 悪魔族の知り合いも出来たけれど、次に会ったときに生きているかどうかわからないのはつらいのよ結構」

命も、惜しまない。

彼らの苛烈な生き方は。戦闘に生きるアーランド戦士階級と、なんら変わる事がない。

理解し合うことが出来た今は、だからこそ互いに敬意を払うべきなのだろう。

ジェームズさんが見えた。

今までの貯蔵していた栄養剤で、一角が既に緑化を開始している。小川から引いてきた水路から、豊富に水を与えられた地域は。栄養剤を加えられたこともあって、既に青々と色々な草が生えていた。

「うわー、雑草だらけだな!」

ジーノ君が素直に言う。

逆に言うと、今までは雑草さえ生えないような状況だった、という事だ。

文字通り、悪魔族の血と涙の結果。

それに、ジェームズさんをはじめとするアーランド人の英知が集まって。やっと、この一角だけでも。

緑が戻ってきた、という事だ。

それでも、予定の緑化地域に比べると、ほんの一角。これから、あの雑草ごと地面を耕し直して、土地の力を付けて。

少しずつ、成長が早い植物を植えていき。

最終的には、森にして行く。

森になったら、土地の保水力は抜群に上がり。周囲に豊かな実りと、静かな環境が提供される。

気が長い作業だけれど。

年単位で、取り組んでいかなければならないことなのだし、当然だろう。

そして森が出来れば、その側に管理することも目的の一つとした、村も作る事が出来る。

それだけ多くの人が、暮らせるようになるのだ。

「ジェームズさん!」

「おう、来たか」

ジェームズさんが来る。

相変わらずの隻腕だけれど。全身のたくましさは、まるで衰えている様子が無い。さっそく、栄養剤を見てもらう。

だめ出しをされたら、手の打ちようが無い。

緊張の一瞬だ。

樽を開けたジェームズさんが、順番に見ていく、

臭いを嗅いだり、手を突っ込んだり。

しばらく、何も言わず、確認を続けていた。

「ど、どうでしょうか」

「……」

難しい顔をしていたジェームズさんだけれど。

不意に、部下や同僚の人達を呼び集める。集まってきた中には、悪魔族の、この間会ったアンドロマリウスさんもいた。

しばらく、難しい話をしていた。

時々トトリの方を見るので、びくりとする。

緊張が、高まっていく。

戻ってきたジェームズさんは。笑顔さえ浮かべなかったが、認めてくれた。

「とりあえず合格だ。 これだったら、すぐにでも使えるだろう」

「あ、ありがとうございます!」

腰が抜けそうになる。

頭を下げるトトリだけれど。

既に気付いてはいる。ジェームズさんとアンドロマリウスさんの話し合いは、決して穏当な内容ではなかったはずだ。

「この栄養剤、先代錬金術師のものとよく似ているが」

「はい、先生のレシピを見て作りました」

「なら、作って欲しいものがある」

背筋を、ひやりと嫌な予感が流れ落ちた。

後、四樽の予定だったけれど。それを大幅に増やして欲しいと言うのである。

スケジュール表を出すと、書き加えられる。

今回と同じ栄養剤を、もう六樽。

更に、かなり難しい栄養剤が、更に二樽。

今までに用意する予定だった栄養剤四樽はそのまま。

つまり、十樽準備する所が。十八樽に増える、ということである。

流石に、くらっと行きかける。

今回だって、かなりギリギリだったのに。しかも、難しい栄養剤というのは、注文を聞いていくと相当に厳しい代物だ。

長く長く地面に留まって。栄養となりつづけるもの。

キューブ状の栄養剤のさらなる発展型。

多分ロロナ先生が、最後の方に作った究極の栄養剤。使う材料に関しても、相当に厳しいものばかり。

多分、今のトトリでは、採取がむりなものもある。

「それについては、俺の方からクー坊に申請しておく」

「クー、坊!?」

多分クーデリアさんの事なのだろうけれど。

こういう超ベテランになると、流石にこんな発言も出てくる、という事だ。

ジェームズさんによると、クーデリアさんが駆け出しだった頃。ロロナ先生と一緒に緑化作業の手伝いに来ていて、色々と助かっていたという。

だからジェームズさんも、様々な技を持っている達人を紹介して。

次に来る度に、クーデリアさんがめきめき腕を上げているのを見るのが、とても楽しみだったそうだ。

まるで孫の成長を喜ぶお爺さんのよう。

それを聞くと、目を輝かせるのがジーノ君だ。

「お、俺にもいろんな達人を紹介してくれよ、じいちゃん!」

「いいぞー。 その代わり、覚えた技を見せるんだぞ」

「わかってるわかってる!」

幼児みたいに目を輝かせて、メモを取り始めるジーノ君。

ミミちゃんは呆れたように見ていたけれど。肘を小突いた。

「いいの、ミミちゃんは」

「何がよ」

「ジーノ君、どんどん強くなるよ」

「問題ないわ。 今話に出た達人には、基礎を教えてもらった事があるの。 全員に同じ事を言われたわよ、実戦を積んで壁にぶつかったら、また来いってね」

そうだったのか。

それで、あの時。

冒険者になるとき。ミミちゃんは、完全な素人と一緒にされることを、あんなに嫌がったのか。

でも、あの時クーデリアさんがしっかり怒ってくれなければ。

ミミちゃんはひょっとして、今頃無謀な相手に戦いを挑んで、死んでしまっていたかもしれない。

此処は修羅の世界だ。

誰も、可愛い女の子だろうが、子供だろうが、手加減なんてしてくれない。

ましてや冒険者免許を取得した以上、ミミちゃんは大人として扱われるのだ。手加減されないことを抗議だってできないだろう。

とりあえず、予定通り東に。

荒野で採取をする必要があるからだ。

「帰り道、結構大変だと思うから、覚悟はしておいてね」

「いいえ、むしろ望む所よ。 今は少しでも、実戦を積んでおきたいから」

ミミちゃんは不敵に笑う。

少なくとも。今は、気負ってはいないようだった。

 

東の荒野に出ると、道さえなくなった。

周囲からは、殺気がひっきりなしに飛んでくる。トトリでさえわかるくらいだ。獲物が来たと、モンスターが判断しているとみて良い。

急いで、採集を済ませる必要があるだろう。

今回採集を狙うのは、幾つかの鉱物と、茸類。こういった荒野でも、たとえば石の下とか。地面のひび割れの中とか。

直接地面に触れていない所だと、茸が生えることは結構多い。

図鑑で確認したのだけれど、その中の何種類かは、栄養剤に最適だ。特にキューブ状の栄養剤を作る時。

凝固させるのに、非常に便利な素材になるのである。

岩を一つずつ、ひっくり返す。

地面を浅く掘ると、出てくるのは、青い砂。

鉱物として有用なブルーサンドだ。

これは色々な使い道がある。特にトトリが使いたいのは、濾過材としてだ。ゼッテルなどを加工して濾過する方法もあるのだけれど、保ちが悪い。

このブルーサンドは、細かく砕いて、溶かすとガラスの材料にもなるし。

細かく砕いて煮沸消毒する事で、非常に鋭利に汚れを落としてもくれる。ただしそのまま手を突っ込んだりしたら怪我をするので、洗うときには注意が必要だ。

採取採取。

スコップで、質が良さそうなところを取る。

岩の上に茸発見。

図鑑と見比べて、何度か諦める。毒なら毒で、使い道がある。食用茸ならそれはそれで良い。

でも、何にも使い道がない茸はある。

そういった茸でも、環境の内部では役に立っているのだから、トトリがああだこうだという必要もない。

勿論、無意味な採取は御法度だ。

乾いたサボテンの一種を発見。

どんな乾燥した地域でも生えるものだけれど、非常に痩せている。

毒がひどすぎて、多分成長できないのだろう。

少し株を分けて貰う。

これも、素材としては有用なのだ。

「ごめんね、ちくっとするよ」

ナイフで、少し株を切り取る。

採取した素材は、保存の術式が掛かっているゼッテルで包む。ちなみにこれはトトリが作ったものではない。

市販されているものだ。

噂によると、これを量産化したのもロロナ先生で。これによって、相当な物資の保存効率が実現できているとか。

凄いなあと思う。

早く自分でも作れるようになりたい。

トトリ以外の三人はそれぞれ視界をずらして、奇襲を防いでくれているけれど。

かなりの数のモンスターが、遠巻きに此方を見ている。

多分、何かあったら、すぐにでも仕掛けてくるはずだ。

この辺りは、危険が多いと言う事で、ランク1冒険者は入れない。それも納得だ。

「まだ?」

ナスターシャさんが声を掛けてくる。

もう少し、採取したいけれど。

顔を上げて見ると、どうやらこの辺りで打ち止めにした方が良さそうだった。

どっと此方に押し寄せ始めたモンスターが見えたからだ。

数が揃ったので、獲物を襲うことにしたらしい。

荷車の車止めを急いで外す。

「西へ!」

叫ぶと同時に、荷車を引っ張る。ジーノ君が押してくれた。みんな一緒に、西へ走るけれど。

主に鋏飛び虫を中心としたモンスターの群れは、威嚇の声を上げながら、見る間に此方に迫ってくる。

緑化地点まで行けば、護衛の戦力がいるから、どうにかなるけれど。

それまでに捕まったら。

助けが来た頃には、全員骨だ。

ナスターシャさんが、雷撃の術式を展開。

指先から放たれた紫電が、モンスターの先頭集団を焼く。流石に中位の冒険者。威力は結構凄くて、数体のむしが一瞬で爆ぜ割れた。

走りながら、後ろを見る。

追いついてくる。

トトリは慌てながらも、荷車に入っているクラフトを取り出す。

起爆ワードを口にすると、転がす。

二個、三個と転がっていったクラフトが、爆裂。

後ろで激しい爆発が起きて、思わずジーノ君が首をすくめた。

「すげえな!」

「巻き込まれると危ないよ!」

走る走る走る。

追ってくる。

数体を失いながらも、二十を超える数のモンスターが、怒濤のように追ってくる。みんな痩せているのが、遠目にもわかる。

おなかがすいているのだ。

それは必死にもなる。

追いついてきた。

ミミちゃんが跳躍し、唐竹に、飛びついてきた鋏飛び虫を矛で斬り下げる。ぎんと凄い音がして、鎧みたいな装甲が刃物を弾く。

弾かれたミミちゃんがバックステップする間に距離を詰めてきた鋏飛び虫が、口をがっと開ける。

今度は、切り上げるミミちゃん。

装甲に亀裂が入って、怯んだ鋏飛び虫が下がる。

その間に逃げる。

また、追いついてくる。

数頭の狼。

鋭い勢いで、横殴りに襲いかかってきた。

でも、出会い頭に、クラフトを投げつける。爆裂したクラフトに、一頭がもろに巻き込まれて、吹っ飛ぶ。

勿論即死だ。

今のクラフトには、ガラス片や釘を入れているから、破壊力も殺傷力も、最初に作った頃より段違いに上がっている。

死んだ仲間は餌に早変わり。

狼数頭が、死んだ仲間に群がって、尻尾を振っている。

それを蹴散らして、鋏飛び虫が、狼の死骸を空中にさらっていった。

まだ、迫ってくる。

ナスターシャさんが放つ稲妻の防衛網を抜けた鋏飛び虫が、数匹、立て続けに荷車に襲いかかってくる。

一体はジーノ君が、気迫のこもった上段からの切り込み。

鋏で受け止める虫。

一瞬の均衡。

もう一体は、ミミちゃんが、抉るような逆袈裟。

するりと抜けた鋏飛び虫が、真上からミミちゃんに襲いかかる。

一体が、抜けてくる。

かっと口を開けて、トトリに躍りかかってくる。

クラフトに、手が届かない。

とっさに、棒を手に。

散々こなしてきた型通りに、体が動いた。

鋏ががちんとかみあわされる下を抜けて、口を真下から突き上げる。更に、流すように二度、突きを。

手応えはないけれど。

一瞬動きが止まれば充分。

ナスターシャさんが、至近からの雷で焼き払う。

悲鳴を上げながら、びちびちとはねて、地面に落ちるむし。

ジーノ君とミミちゃんも、それぞれ相手を追い払っていた。

荷車を掴み、また走る。

傷ついた同胞に襲いかかる虫たちが見えた。

此処は修羅の世界だ。

装甲に穴が開いてしまえば。さっきまで一緒に飛んでいた仲間も、餌に早変わり。飛びついてきた狼を、無言のまま、棒で払いのける。

真上。

急降下してきた鋏飛び虫。

鋏が、鋭くトトリの左腕を切り裂く。

でも、今はいたいとか悲鳴を上げているとか、そんな暇は無い。

ミミちゃんの矛が、むしを弾いてくれる。その間に、荷車を引いて、できる限り走った。

どうにか、緑化地帯に逃げ込む。

追いすがってくる相手を迎撃している間に、ミミちゃんもジーノ君も、散々怪我をしていた。

流石にベテラン戦士に喧嘩を売る勇気は無いのだろう。

追撃を停止したモンスター達が、恨めしそうに此方を見ている。

荷車を確認。

集めた素材は無事だ。

ため息をつくと、ヒーリングサルブを取り出して、皆に配る。

鋏飛び虫の鋏には毒もあるけれど。

大した毒では無いので、水でも飲んでおしっこでもすれば流れる。

「大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。 しっかし硬え」

ジーノ君が、腰に帯びている剣を見て、苦笑い。何度か斬り付けていたけれど、ついに装甲は敗れなかった。

ミミちゃんも、美麗な矛を見て、じっと黙っている。

刃こぼれをしているのが、トトリから見ても確実だった。

砥石があるので、荷車から出しておく。

応急処置にはなるだろう。

手当を済ませると、街道に出て、そして北に。

出来るだけ急いでアトリエに戻りたい。その途中で、採集もしておきたい。

それで、気付く。

今一戦交えて、なおかつ怪我もして。走り回ったにもかかわらず。

トトリには、余裕が出来ていた。

 

キャンプスペースに到着したのは、真夜中。

遠くで、もの凄い雄叫びがしている。それがすぐに断末魔に変わった。ナスターシャさんが、教えてくれる。

「来る前に見たけれど、確かベヒモスの退治任務があったはずよ。 夜行性の奴だったし、多分今のがそうでしょうねえ」

「ベヒモスかあ。 やりあってみたいなあ」

ジーノ君が目を輝かせている。

一方で、ミミちゃんは眠そうだったので、話を早めに切り上げる。

肉や野草が売られていたので、購入。皆に分ける。

今回の仕事については、中間報酬が貰えることになっている。それに、リス族にお薬を納入した件での報酬がまだまだ手元にある。

少しくらいのお金なら、大丈夫だ。

肉をたき火で焼いて。

借りてきた鍋を使って、野草のスープを作る。お水は、近くの小川から汲んできて、煮沸したものだ。

勿論流石に、そのまま飲むような真似はしない。

病気よりも、寄生虫が怖いのだ。

肉が焼けてくると、良い香り。

軽くお塩を振って、そのまま口にする。一人で食べているときは、骨を鍋に入れて、出しを取ったりするのだけれど。

流石にみんなで食べているときは、それはやらない。

鍋も煮上がってきた。

小さな器も借りてきていたので、皆に分けて、食べる。

しばらく食べていると、流石におなかいっぱいになる。明日も早いと思うと、夜更かしはしない方が良いだろう。

ミミちゃんはさっさと天幕に潜り込んだ。

ナスターシャさんはベテラン達と話し合って、夜間の見回りに参加。冒険者としてのポイントが稼げるそうである。

ジーノ君も引き上げたので、トトリは鍋を片付ける。

骨を砕くと、地面に埋めて。

鍋は器と一緒に綺麗に洗って、レンタルのスペースに戻した。

ベテラン冒険者になると、自分用の食器類を持ち歩く人もいるらしいけれど。ただ、これは人それぞれだそうで。キャンプスペースで借りることを前提にしている人もいるそうだ。

片付けが終わったので、軽く型をこなす。

十二回ほど、型をこなすと、丁度気持ちよく疲れた。

傷ももう痛くない。

トトリは少しずつ強くなっていることが実感できて嬉しかった。ただ。あの鋏飛び虫を叩いたときの手応えのなさを感じると、まだまだ当面、敵とガチンコの勝負をする事なんて出来ないだろう。

体力がついてきたことを、今は喜んで。

他の戦闘に行かせるステータスも、伸ばしていけば良い。

天幕に潜り込むと、ミミちゃんはもう可愛い寝息を立てていた。トトリも隣の毛布に入ると、今日は眠ることにする。

そういえば。

今後は、危険な奥地で、キャンプを張らなければならなくなる。

そういうときは、交代で見張りを立てる必要もある。

そうなると、体力ももっともっと付けなければならないだろう。

先はまだ、長い。

目を閉じて、気がつくと朝。ミミちゃんはまだ眠っていた。

軽くキャンプスペースの周囲をジョギングした後、ストレッチをする。その後、棒の型をこなした。

今日は、此処から北上して。

その途中の森に入って、採取をする。

何種類かの木の実が欲しいのだ。

いずれもが食用には適していないけれど、肥料には最適。中でも、アブラミドリと呼ばれる木の実は、最高の肥料の材料だ。

全員が起きて来た後、今日の採取について説明。

アブラミドリについても話しておく。

形は楕円。

名前通り、青緑色をした木の実で、一つが一抱えもある。

皮はすべすべしているけれど非常に分厚く、刃物でないと剥くことは出来ない。普通果物は食べられることを前提としている事が多いのだけれど、これは違う。土地の栄養を吸い上げて作った実を地面に落として、周囲の土地を更に豊かにしているらしいのだ。

更に言えば、中に入っている種をまくのは、人間を想定してもいるらしい。

つまり、肥料として有用な実を作る事で。

種を、人間の手で拡散して欲しい、というわけなのだろう。

根付いた土地を豊かにもしてくれるので、植林する場合は必ず一本は植えられる木でもあるという。

なお、実は食べられたものではない。

「詳しいね」

「前に、一つ小さな実を持ち帰ったんです。 栄養剤の材料として、大活躍してくれました」

前に持ち帰ったのは、トトリが抱えられるくらいのサイズのものだったけれど。

今回持ち帰りたいのは、それを最低でも四つ。

楕円形をしている実だから、工夫しないと荷車の中で転がってしまう。

ただ、保ちは気にしなくてもいいので、保存用ゼッテルで包まなくて良いのは、嬉しい所だ。

キャンプスペースをでて、北上。

前に同じ事をしたときには、夕方近くになったのに。多分体力がついてきたからだろう。採取する辺りに到着したのは、昼少し過ぎだった。

森に分け入ると、腐葉土の臭いが強くなってくる。

ギャアギャアと鳴いているのは鳥だろう。

樹上に、蛇がいて、鳥の巣を狙っているらしい。

勿論、蛇にも鳥にも荷担は出来ない。

頑張ってと一言だけ声を掛けると、トトリは荷車を引いて、森の奥に分け入る。荷車はかなり重いけれど。

時々手伝って貰って、森の奥へ分け入った。

殺気。

みんな、もう気付いているようだ。

「木ってのはもう少し先か?」

「うん、でもその前に一戦ありそうだね」

「結構大きいよ」

ナスターシャさんが顎をしゃくるけれど。

トトリには、まだ何が潜んでいるのかは、判断できなかった。

いつ仕掛けてきてもおかしくない。

一端、ブッシュを抜ける。

周囲の視界を確保。でも、殺気は消えていない。定距離を保って、着いてきている。

ミミちゃんは殿軍になってくれている。

一番身が軽いミミちゃんなら、対応もしやすそうだけれど。しかし、一発大きいのを貰ってしまうと、多分後がなくなる。

あまり、良い状況とは言えない。

撤退も視野に入れるべきか。

でも、時間がない。

此処でしっかり素材を入手しておかないと、これからの作業に、明らかに支障をきたす。更に言うと、アブラミドリの実が一番簡単に取れるのが此処だ。此処以外では、もっと強いモンスターが待ち構えているだろう。

また、ブッシュに入る。

荷車を引いて、行く。敵はどうやら、此方が油断した一瞬を突くつもりのようだ。トトリは、荷車を確認。ちゃんと自衛用の爆弾がある事は確認しておく。

クラフトは火と熱をばらまくタイプの爆弾では無いのが、こういうときは救いだ。こんな所で爆弾を使ったら、場合によっては、森を燃やしかねない。もしそうなったら、死刑確定である。

アーランドで森を傷つける事は、最大の悪徳とされるのだ。

「……」

ナスターシャさんが、魔術で磁石を浮かせている。

最悪の場合、逃げる方向を見極めるためだろう。

まあ、この辺りはそれほど森も深くないし、走っていれば多分逃げられるはずだけれど。それでも、こういう所に放されているモンスターだって、何も対策をしていないとは思えない。

狼やドナーンが大半だと聞くけれど。

それでも、脅威にはなる。

見えてきた。

アブラミドリだ。

周囲が非常に青々としているのは、熟して墜ちた実から、栄養がたくさん供給されているからである。

あの実を、四つ、或いは五つは欲しい。

熟している奴は皮が破れている場合があって、触るとベタベタになってしまうので、それは流石に避けたいけれど。

木の周囲には、濃厚な臭いがする。

ミミちゃんが鼻をつまんだ。

「何よ、これ」

「いわゆる腐敗臭だね」

「……最悪ね」

だけれど。

多分、植物にとっては、良い香りの筈だ。

木を背にして、半円の陣形を作る。

トトリはすぐに木に上がると、ナイフを使って、一つずつ木の実を落とす。

たくさん実があるから、大丈夫だ。多分緑化作業のために取りに来ている人もいるはず。

ひょっとすると。

それを知っていて、未熟そうなのが来るのを、待ち構えていたのだろうか。

周囲を見回すけれど、やはり魔物の類はいない。

四つ目の木の実を落として、五つ目の木の実に手を伸ばした瞬間だった。

何が起きたか、瞬時には理解できなかった。

もしも、ナイフをとっさに木に突き立てなければ、そのまま引っ張られて、持って行かれていたかもしれない。

気がつくと、木から転落していた。

凄まじい力で、締め上げられる。これは、ひょっとして。不可視タイプのモンスターか。息をするだけ、締め付けてくる。蛇のようだけれど、違う。

茂みを、そのまま引っ張られそうになる。パワーが桁外れだ。

飛びついてきたジーノ君が、剣を突き立てる。

ぎゃっと声を上げて、トトリを締め上げていた何かが、引っ込んでいった。

その切り傷をめがけて、完璧なタイミングで、ナスターシャさんが雷撃を放つのが見えた。

「大丈夫!?」

激しく咳き込むトトリ。

何カ所かの骨が悲鳴を上げている。

見ると、半透明の巨体が、森の奥に消えていくのがわかった。何カ所かに、火傷の跡がある。

「あれはぷにぷにの一種ね。 危ないところだったわ」

ナスターシャさんが、脅かすように、もう一撃氷で作った矢を飛ばして、追撃。体に矢が突き刺さったぷにぷには、悲鳴を上げて森の奥に逃げていく。

ひょっとすると。

誰も気付かないうちにトトリはさらわれて、大きな口でぱくっとされていたのかもしれない。

背筋を恐怖が這い上がってくる。

とっさの行動がなければ、死んでいたのだ。

腰が抜けてしまっていて、中々立てない。

それ以上に、呼吸が苦しい。肋骨が、何本かやられているかも知れない。ジーノ君に手を借りて、何とか立つ。

深呼吸。

涙を何度も拭ったのは、痛いからでは無い。

苦しいからだ。

「ちょっと今のは新人の手には負えないわね。 退治の申請を出して置くわ」

平然と言うナスターシャさん。

これくらいの危地は、慣れっこなのだろう。

手際よく木の上に上がったジーノ君が、もう二つ木の実を取ってきてくれる。咳き込みながら、もういいよとジェスチャー。

木からするすると下りてきたジーノ君。

今日ばかりは、神妙な顔をしていた。

「ごめん。 もうちょっと早く気付くべきだった」

「ごほっげほっ! も、もう、い、いいよ、ごほっ!」

「早めに森を離れましょう」

多分、気付いているだろうけど。

一番危なかったのは、この中で一番小柄なミミちゃんだったのだろう。あの触手に捕まって、気付かないうちに本体の所まで運ばれていたらと思うと、寒気がする。ぷにぷには肉食の傾向が強いし、口の中は鋭い牙がたくさん。

とても、助かる可能性なんて、ない。

「まだ、修行が足りないな、俺たち」

ジーノ君が、悔しそうに言う。

森をでても、険しい顔は、晴れないままだった。

 

3、試練

 

アトリエに到着すると、流石にへとへとだった。

トトリだって弱いとは言えアーランド人だし、骨がちょっと折れたくらいなら大丈夫。だとしても、今回の強行軍はきつかった。

その上、戻ってからは、これからが本番なのだ。

渡されたスケジュールを確認。

まず、前回と同じ栄養剤が四樽。

これについてはどうにかなる。材料もあるし、何よりノウハウもついたからだ。

問題はその次だ。

キューブ状の、耐久栄養剤が二樽。

これについては、全くやった事が無いので、最初からになる。勿論、失敗も想定して、調合を進めなければならない。

コンテナに素材を格納すると。

すぐに、王宮に出向く。

ジーノ君とミミちゃんは、疲れきった様子で帰って行って。お茶の一つも出せないのが、悲しかった。

余裕綽々のナスターシャさんはというと、ふらりと消えて、そのまま。

このくらいの余裕があれば、出来る事が増えるだろうにと思うと、色々悲しいし悔しくもある。

王宮に着くと、透明ぷにぷにの事を報告。

クーデリアさんは腕組みして唸る。

「保護色持ちは今までも報告があったけれど、何しろぷにぷに族は色々な亜種がいて、把握し切れていない部分があるから。 とにかく、現場にベテランを派遣して、処理するわ」

「お願いします」

後、ジェームズさんに渡された手紙を出す。

クー坊とか言っていたことは黙っておこう。クーデリアさんはいつもは落ち着いているけれど、何となくわかるのだ。

激情家だと。

「なるほど、高品質素材の提供が必要と」

「お願いします」

「ん、わかったわ。 フィリー!」

隣にいる頼りなさそうな助手さんが、思わず背筋を伸ばして気をつけをする。クーデリアさんが、なにやら取って来いと言うと、すぐに動いた。

おかしな話だ。見たところ、トトリなんかよりずっとずっと強そうな人なのに。

小首をかしげているトトリに、クーデリアさんは嘆息した。

「あの子はね、戦士としては問題ないのだけれど、とにかく胆力がなくてね。 心臓が毛だらけだった姉があたしに預けたのよ。 徹底的に鍛えろってね」

「へ、へえ……」

「元々引きこもり気味だったみたいだし、頭痛の種だったらしいわ。 まあ、あの有様では納得だけれど」

チケットを持ってきたフィリーさんは半泣きだ。

その場で、クーデリアさんが説明してくれる。

このチケットは、一種の割引券だ。

隣にある雑貨屋さんの更にとなりに、不思議なものをうっている魔法のお店があるのだけれど。

其処で、比較的珍しい素材を扱っている。

ただしレアリティが高い素材も多いので、値段を意図的につり上げて対応しているのだという。

レシピを持ってこいと言われたので、飛んで帰る。

ロロナ先生のレシピを渡すと、懐かしいと、クーデリアさんは目を細めた。

「これね、ロロナと一緒に改良したのよね」

「ふえっ!?」

「ああ、言ってなかったかしらね。 あたしとロロナは竹馬の友よ。 あの子が錬金術師として大成する時に、一緒に色々冒険もしたし、様々な敵とも戦ったわ」

それは、不思議な縁だ。

胸も熱くなる。

今、採取可能な素材と、コンテナの在庫を言うと、何が足りないかクーデリアさんは即答。

チケットに書き込んでいく。

これはひょっとして。

クーデリアさんも、このレシピの執筆に関わっていたのか。

前に見た超記憶力を考えると、それなら納得も行く。すらすらと仕事が出来るわけである。

チケットを渡されて。

そして、栄養剤納入の、中間決済も渡された。金貨の袋が、かなりずっしりと重い。

ただ、リス族の時に比べると、かなり安い様子ではある。

「こんなに、ですか」

「そりゃあそうよ。 本来魔術師が何人か作業して生産してる栄養剤を、あんたが単独で納入したんだから。 ただ、錬金術は金が掛かる学問だから、絶対に無駄遣いしないようにしなさい。 ロロナだって、何度も資金が底をついて、泣きながら金策してたんだから」

それは、大変かもしれない。

ロロナ先生の話を聞きたいけれど、他のお客さんもいる。トトリは頭を下げると、アトリエに戻る。

一休みしてから、まずはレア素材の購入からだ。

まだ、トトリは技量も経験も足りない。

レシピのアレンジが出来る状況では無い。

だから今は、多少苦しくても数をこなして、力を付けていかなければならなかった。

 

まず、骨を砕く。

これは別に珍しいものでなくても良い。事実、レシピには、工場で貰ってきて大丈夫だと書かれている。

骨を念入りに砕いて、乳鉢ですりつぶした後。

事前に用意しておいた中和剤を、釜に入れる。

中和剤は井戸水だけでは無い。

この間採集してきた茸類も、細かくして入れてある。釜でゆっくり温めて、丁度良くなったところに骨を加える。

更に此処に、何種類かの中間生成液を入れていく。

アブラミドリの実を、その間に処理した。ナイフを入れて皮を剥いだ後、中のひどい臭いがする果肉を剥がしていく。

トトリの親指ほどもある種が出てきたので、それは全て避けておく。

後で、何かに使えるかもしれないからだ。

皮は煮込んだ後、細かくきざんで、乾かす。

実の方は、細かくきざんだ後、じっくり煮込んで、栄養を全て煮出す。今、釜が二つあるけれど。

フルに活用すると、薪代がかなりかさんでしまう。

薪は近場で採集した方が良いかもしれないなと、トトリは思った。

しばらく煮込む作業だけれど。

火加減が大変に微妙で、時々目を通さないといけない。

気を抜くと、すぐに食事も飛ばしてしまうので。トトリは気を付けながら、作業を進めていた。

アトリエの戸を、誰かが叩く。

開けると、隣の武器屋の親父さんだった。禿頭で筋肉質なおじさんは、あまり機嫌が良く無さそうだった。

「何だかひでえ臭いがするな」

「すみません、土壌用の栄養剤を作っていて……」

「それ、つかいな」

ヒモのようなものをさされたので、引っ張ると。

不意に動き出した。

煙突の一部が、どうやら室内の空気を、上空に排出する仕組みになっているらしい。こんなのがあったのか。

埃を排出する仕掛けは知っていたけれど、これはもっと出力が大きいようだ。排出時に、空気そのものにも手を加えているようである。

「なんだ、ロロナお嬢ちゃんから聞いていなかったのか」

「す、すみません」

「この仕組み、俺が作ったんだよ。 少しは臭いがマシになるから、今後はつかいな」

「有り難うございます」

ぺこりと一礼。

親父さんが帰っていくのを見届けると、調合に戻る。

中和剤の方は仕込みが終わったので、樽に移して地下室に。

此処からだ。

栄養剤を圧縮して、長い年月を掛けてしみ出していくようにする仕組みを作っていかなければならない。

これが、難しいのだ。

幾つかレシピにあったのだけれど。

その中で、一番簡単な、トトリにもできそうなものを作る事にした。それでさえ難しいのだけれど、やるしかない。

内容的には、いわゆるゼラチンを応用する。

骨などから作る半透明のぷるぷるした食糧で、ゼリーなんかにもなる。これを利用して、栄養を固めて。

そして、ゆっくり、長年をかけて周囲に栄養が漏れていくようにするのだ。

問題は、そのままだとすぐゼラチンが溶けてしまうこと。

しかしガチガチにしすぎると、今度は栄養が溶け出さない。

レシピを見るけれど、配合が今までやった調合とは、桁外れに繊細だ。こんなに難しいのをほいほいこなしていたロロナ先生のものすごさが、トトリにはまぶしく見えてしまう。多分ロロナ先生は、自分では気付いていなかったのだろう。

天才だ。本物の。

トトリは、真似をするだけで精一杯。

真似だったら、ある程度技量が落ちていても、できる。

絵がある程度上手くなると、他の人の真似が出来るのと同じ事だ。

まず、ゼラチンを作る。

このゼラチンにしても、普通のものとはかなり違う。臭いもひどいし、何より失敗すると、鍋にがっちり張り付いてしまう。剥がすのが、本当に大変だ。

ロロナ先生は、レシピに書いている。

これは一年ほどの使用を想定した長期栄養剤で、それくらいの時間が経つと、木々に吸収されて消える。

植林の際。長期的な栄養を必要とする場合には、少し物足りないかもしれないけれど。スタートアップにはこれで充分だと。

つまり、ある程度植林が進んだ後、がっちりと地面に栄養を与えるのには、もっと他の奴を作らないといけない、ということだ。

でも、今のトトリにはとても無理。

出来る奴からやっていって、スキルを付けていくしかない。

まず、調合だ。

天秤とおもりを使って、非常に微細な量、材料を用意する。

ルーペを使って素材を見ると、純度が気になりはじめてもいた。もっと純度が高い素材なら、更に良いものが作れるだろうに。

今はとにかく、出来る事をする。

一つずつ、素材をはかって、混ぜ合わせる。

問題は、混ぜ合わせるときに、微細なロストが出る事。

これがかなり痛い。

どうにかして、ロストがでないように、混ぜたいけれど。

それも、どうしていいか、よく分からない。

失敗。

また失敗。

一瞬で凝固してしまったり、逆に全く凝固しない場合もある。

此処で重要なのは。

此方で必要とするタイミングで、凝固することなのだ。

それも、凝固の状態を確認すると、上手く行っていない例が多い。ちょっと触るだけで解けてしまったり、或いは石みたいにカチカチだったり。

実験を続ける傍ら、栄養になる部分はできあがる。

此方は、今まで作っていた栄養剤と、あまり変わりが無いから、それほど難しくも無い。

四樽分の栄養剤も、既に出来ていた。

だが、肝心の、高難易度栄養剤がどうしても上手く行かない。

顔を洗うと、一眠り。

中核部分さえ出来れば、後はちょっとなのだ。

ベッドでしばらく、悶々とする。

調合に使う素材には、チケットを使って割引して貰った高額のものもある。コンテナの中にちょっとだけ残っていた素材もあったけれど。それは多分、安易に使うべきでは無いだろうものだ。

幸い、稀少素材を使う調合は一回だけ。

ブロック分けされた調合を幾つかこなしていって、最後にできあがる部分でいれるのだけれど。

はたして、其処までたどり着けるのは、いつになる事か。

一週間はあっという間に消し飛んだ。

二週間目に突入しても、打つ手無し。

色々と試行錯誤している内に、もう一セット、六樽を納品しなければならず。その時には、更に難しい栄養剤を四樽も作らなければならないことを思って、愕然とする。

こんな事で。

トトリは、錬金術師として大成なんて出来るのか。

気分転換に、壁の資料を見ていく。

ロロナ先生は、昔の人が作り出したものを、アレンジして発展させるのが、とにかく上手なのだと、資料を見ていてわかったけれど。

それにしても、そのアレンジが、文字通りの改造。超発展とでも言うべきしろもので、とても常人が思いつくものではない。

劣等感ばかりつのる。

自分は本当に、天才の弟子をしているのだとわかってしまうから。

ついに、三週間目に突入。

そろそろ、出来ないと。次の馬車が来てしまう。

焦りばかりが、募る。

 

気分転換に外に出ることにしたのは、前回の反省が、ぎりぎりでトトリを踏みとどまらせた、からだろうか。

ジーノ君の様子を見に行く。

雷鳴の屋敷は聞いていたから、場所はすぐにわかった。入って見ようかと思ったのだけれど、訓練している人達の熱気が凄くて、門扉に隠れてこっそり様子を見るにとどめた。

驚いたことに、ミミちゃんも一緒にいた。

名前からして、雷鳴という武人。もの凄く怖そうな人を想像していたのだけれど。実情はかなり違った。

確かに筋骨はたくましいけれど、ごく穏やかそうなお爺さんで、トトリは驚かされた。表情も温和で、白くなってしまった髪もおひげも、人柄を示しているかのようだ。

訓練をしているのは、ジーノ君とミミちゃんだけではない。

他にも何人かの弟子がいて、剣を槍を振るっている。

その様子を見ながら、雷鳴は特に何もしない。

ただ、最後に。

自分で槍を取って、立ち上がった。

一人ずつ、立ち会っていく。

「俺から!」

気迫充分、ジーノ君が剣を手に取る。

雷鳴と向かい合って、躊躇なく斬りかかる。柔らかく槍を回転させて受け止める雷鳴は、殆ど態勢を変えていない。

休めの姿勢のままだ。

再び、槍を廻すと、冗談のようにジーノ君がはたき倒される。

「それまで」

笑顔のまま。

今の攻撃を見ていて、わかった。

ジーノ君は、攻撃に重みが足りていない。柔らかく雷鳴が受け止めたときも、威力が足りていれば、もう少し相手に違う動作をさせたはずだ。

ジーノ君も、それを理解したようで。

納得した様子で、下がっていった。

次に前に出たのは、雷鳴の弟子らしい人。既に二十歳は超えているようだけれど。あまり、腕は良くない様子だった。

それでも、トトリやジーノ君よりは、ずっと強そうだったけれど。

何度か斬りかかるが、軽くいなされて、石突きで突かれた。

「まだまだだな。 切り込む際の気合いが足りていない。 それと、もっと良く相手の動きを見るように」

「はいっ!」

下がる弟子の人。

ミミちゃんがでる。

槍をしごいて構えを取るミミちゃん。雷鳴は、休めの態勢のままだ。

突きかかるミミちゃん。

雷鳴に穂先が刺さる寸前。

ばんと凄い音がして、ミミちゃんの槍が吹っ飛ばされていた。ジーノ君の時と同じように、槍を旋回させて弾いたのだろう。

「ふむ、必殺の気合いに欠けるな」

「必殺の気合いですか」

「そうだ。 槍が突き刺さる寸前に躊躇しただろう」

あ、なるほど。

だから、わざと無防備のまま、攻撃を受けるように見せたのか。

ミミちゃんは思い当たる節があるようで、唇を噛む。

「おそらく、他の達人にも実戦を経験するようにと言われたな」

「はい……」

「それはな、相手の命を奪うことにためらいがあるからだ。 優しい心を持っていることは良いことだが、戦闘でそれは命取りになる。 腕をもっともっと磨くか、それとも心を戦闘時は凍らせて、一つの刃となるか。 どちらか、あう方を選ぶようにな」

「有り難うございます」

ばしっとミミちゃんが頭を下げる。普段の傲岸な物言いとは別人のような謙虚さだ。

こくこくと、トトリも頷いてしまう。

それで、実戦を経験するようにと、ミミちゃんは言われていたのか。

他の人達も指導が終わると、礼をして、訓練は終わり。

雷鳴の祖母らしい、穏やかそうな女性が、焼き菓子を持ってきた。

いつの間にか、後ろに気配。

隠れて除いていたのだけれど。雷鳴にはばればれだったようだ。立っていたのは、無論本人だ。

既に引退しているらしいのに。

いつの間にかトトリの後ろに回り込むくらいは、朝飯前という訳か。

「どうしたのかね」

「ごめんなさい、行き詰まっていて、友達の様子を見に来たら、その」

「それなら隠れていないで、堂々とみていけばいい」

「今度は、そうします。 すみません」

何度か頭を下げて、その場から退散する。

アトリエに戻ると、大分心が落ち着いているのがわかった。気分転換になったと言うよりも。噂に聞く雷鳴の指導を見て、何だか思うところがあったのだ。

まず、相手の技を受けてから。

それを破って、良くないところを指導する。

実戦では負けは死だ。

だからこそに、ああいう指導は、大きな意味があるのだろう。

トトリはじっと釜を見て、気持ちを切り替える。

こうなったら、色々と捨て身で試してみよう。まだ素材には余裕が多少はある。余裕が無いのは、時間なのだ。

その時間だって、この間納入した栄養剤の量を考えれば、まだ大丈夫の筈。

焦っていた事が、馬鹿馬鹿しくなってくる。

深呼吸すると、立ち上がる。

調合を再開。

今まで駄目だったやり方を、再び試すのでは無い。

少しずつ、アレンジを加えてみる。

緻密に計った素材が駄目なら、最初からロスする分も計算に入れてみる。火加減を考えて、どれくらいの水がお湯になって空に逃げるかも、計算に入れる。

調合をするときは、徹底的に釜を綺麗にする。

薪の状態の確認も、もっと緻密にやる。

しばらく、無言のまま、作業を続けて。

気がつくと、丸一日が過ぎていた。

目の前にあるのは、釜に入った透明な液体。

今までは、真っ黒だったのに。一瞬で反応が進んで、溶けるように色が消えたのだ。

レシピを確認。

ひょっとすると、出来たのか。

いや、まだだ。

これは、幾つかある、どうしても出来なかった行程の一つ。まだまだ、こなさなければならない行程は、幾つもある。

デリケートな液体を、フラスコに移していく。

まだまだ。

みんな、頑張っているのを見たばかりだ。トトリだって、負けてはいられない。

調合を続けて、少しでも早く腕を磨く。

目的は、まだ遠い。

目的に届くには。

社会的な地位を上げて。出来る事を増やしていかなければならないのだ。

 

結局。

最終的に、どうにかレシピ通りの栄養剤ができあがったけれど。同時にトトリは倒れてしまって、三日間、殆ど寝てしまった。

ベッドから這い出したときは、自分がげっそりやせこけている事に気付いたくらいである。

苦笑いしてしまう。

サンライズ食堂に出向いて、まずはおかゆを頼む。

その後は、少しずつ、確実に失った分の栄養をおなかに入れていった。

いつもとは違う食べっぷりに、若店主も呆れていた。

「まだ喰うのか?」

「はい、これをもう一皿お願いします」

「あいよ」

食べ終えたお皿が片付けられる。

カレンダーを見て、日付を確認。ペーターお兄ちゃんが来るのは明日だ。どうにか、間に合った。

既に栄養剤は、樽に移してある。

キューブ状の栄養剤は、レシピの用件を全てクリアした。後はジェームズさんに確認して貰うだけ。

失敗しても、悔いはない。

やるだけのことはやったのだ。次にやるときは、必ず成功させる。それだけの事である。

幸い、トトリの立場は、まだ失敗が一度で全てを許されない、と言う状況ではない。信用はそれだけ失うだろうけれど、挽回は出来る。

挽回すれば良いのだ。

おなかいっぱいになった後、棒を振る。

頭がクリアになっているからか、随分といつもより切れが良くなった。勿論気のせいかもしれない。

数日間、調合に集中して、出来なかった分のトレーニングもすると、ほどよく体が疲れた。

後は、納品するだけ。

そう思うと。

あれだけ眠ったのに、また眠りたくなったから不思議だ。

この納品が終わったら、仕上げ。

もっと難しい栄養剤が待っている。

でも、どうにかなる気がする。

トトリは、不思議な自信がつき始めているのに、自分で驚いたけれど。とりあえず、まずはやってみよう。そうも思った。

 

4、次の一歩

 

栄養剤を納品する。

降ろした樽を、一つずつ確認していくジェームズさん。開口一番に言われたのは、手厳しい言葉だった。

「師匠に比べるとまだまだだな」

「はいっ! だから、もっと練習します」

「うむ。 品質的には合格だ。 まあ、お前さんの師匠はいわゆる天才だからな。 今は及ばなくても構わないさ」

ジェームズさんが、アンドロマリウスさんを呼ぶ。

トトリが側で見ているが、あまり気にしない。

アンドロマリウスさんの腕には、まだ生々しい傷がある。見上げる形になるから、その傷の痛々しさは、より目立っていた。

「これならば、すぐにでも木を植えられるか」

「やるなら成長が早いシロアシにするか」

「そうだな。 あの一角は、既にミミズも入って、かなり良い感じでこなれてきているし、其処からやろう」

見ていくかと、トトリは言われた。

頷く。

仕事の役に立つなら、どんなことでもしようと思うからだ。

まず、鎌を振るって、雑草を刈る。

この雑草にしても、重要な栄養になるのだ。

刈った雑草を焼いて、灰にすると、地面に撒く。そして、耕す。耕すさいに、小さな虫さんたちがたくさんいるのが見えた。

土が、急速に生き返ってきているのだ。

「元々な、地面って奴は、上の方だけが生きてるんだ。 どんなにしっかり根付いた森でも、深く掘っていくと、何も生き物がいない土が出てくる。 昔、色々あってな、生きている土が全部剥ぎ取られて、何もない土だけが露出して、しかも毒に汚染されて、世界はこうなった」

ジェームズさんが、丁寧に土を耕しながら、灰と混ぜ合わせる。

慈しむような手つき。

いや、きっと森が出来る事を、本当に好きなのだろう。

様子を見ながら、栄養剤を土に入れる。それもどばっと撒くのじゃなくて、少しずつ、状況を見ながら掛けている様子だ。

「この辺りは特に毒の汚染がひどい。 だが、悪魔達が、毒そのものは排除してくれたからな。 後は俺たちの英知で、また土を一から作っていく必要がある。 もう何回か雑草たちに頑張って貰った後に、木を植える。 その木を中心に、森を作っていく。 この一角はそうする。 あの辺りは、先に準備を終えていた。 彼処に木を植えて、状態を確認する」

隻腕だけれど、手際の良さがすごい。

何度も土を握って感触を確認したり。

時には鼻を近づけて、土を嗅いだりもしている。

これくらいの人になると、土の状態はそれで完全に把握できるのだろう。

「どんな、様子ですか」

「まだまだがきんちょだな。 だが、此処から森を支えられる土になって行く。 あんたの栄養剤も、その助けになる」

土を、子供扱いというのも、面白い。

でも、この人は、数々の森を育て上げてきた名人なのだ。その言葉には、文字通り千金の重みがある。

良かった。

トトリは、そう思う。

ジェームズさんが言っていた場所に、小さな苗が植えられる。

その側に、キューブ栄養剤。

何だか、感動的な光景だ。手際が良いと言うよりも。森が此処から始まるというのが、見ていてわかるからだ。

「後は、予定通り、もう六樽を納入すれば良いですね」

「ああ。 それ以降は、もう他の緑化作業をしている場所が一段落するはずだから、其方から栄養剤が回して貰える。 あと少しだ、頑張ってくれ」

「はいっ!」

少しずつ、錬金術師としての技量がついてきたことがわかる。

冒険者ランクが3になるまでは、まだ掛かりそうだけれど。

それでも、これは大きな一歩だ。

みんなの所に戻る。

ミミちゃんが、呆れた。

「何を満面の笑顔になってるの。 よっぽど褒めて貰ったわけ?」

「ううん、私の作ったお薬が、役に立ってるのがわかったから、嬉しいの」

「そう。 それは良かったわね」

促されて、その場を離れる。

さあ、ここからが本番だ。最後の六樽を仕上げたら、このプロジェクトも終わり。きっと、クーデリアさんから、新しい仕事が来る。

それが困難な仕事である事は、目に見えているけれど。

確実に力がついてきた事が実感できているトトリは。

決して、怖れてはいなかった。

 

ロロナが赴くと、ジェームズさんは丁度休憩にしている所だった。アンドロマリウスさんたちも、上手くやっているようだ。

「おう、来たな」

「どうですか、トトリちゃんは」

「努力する凡才だな」

手厳しい言葉だ。

ジェームズさんが言う所によると、作るお薬に、とにかく独創性がないという。その代わり、ロロナが作ったレシピを、一生懸命丁寧に再現してきているそうだ。

「何しろ、突飛な発想をする嬢ちゃんとは真逆だ。 今回のいけ好かないプロジェクトに抜擢されたのも、それが原因なんだろ?」

「うーん、そうですね」

「あまり厳しくはしてやるなよ。 あんな人材はそうそういない。 潰れちまったら元も子もないからな」

立ち上がったジェームズさんが、作業に戻る。

ロロナが見たところ、トトリちゃんの武器は理解力だ。物事に触れると、その核心までの道筋を最小限に、理解に到達することが出来る。

実のところ。

ロロナが書いたレシピは難解極まりない、らしい。

自覚はなかったのだけれど。くーちゃんに以前言われたことがある。これは多分、錬金術師が見ても音を上げると。

でも、作る際には、くーちゃんに手伝って貰った。

逆に言うと。

くーちゃんが書いても、なおもそれだけ難しい、という事でもあるのだろう。

それをトトリちゃんは理解して、きちんと仕上げてきている。

報告によると、何度も挫折して苦しんで、頭を抱えて嘆いてはいたそうだけれど。それでも、理解にこぎ着けたのだ。

やはり、才覚は本物と判断して良いだろう。

指揮車両に戻る。

鳩が来ていた。くーちゃんからのものだ。

ざっと手紙に目を通す。

あまり、好ましくない事態が来ている。

不安そうに、ホムンクルス34が眉をひそめた。

「どうなさいましたか」

「……ちょっとばかり、まずいかもしれない」

レオンハルトが、トトリちゃんの事を察知した可能性がある。

以前、ステルクさんに致命打を浴びせた超一流の暗殺者。今のくーちゃんなら決して遅れは取らない筈だけれども。

トトリちゃんが遭遇する事になったら、多分一瞬で殺される。

それだけは避けなければならない。

勿論、影から護衛している戦力も手練れ揃いだけれども。この緑化作業の次に、トトリちゃんにさせようとしている作業が、少しばかりまずいのだ。

護衛を増やすか、それとも。

腕組みをして悩む。

いずれにしても、これは大きな問題だ。早い内に、プロジェクトで審議に掛ける必要があるだろう。

スピア連邦の動きが活発化している。

近いうちに、大きな波乱があってもおかしくない。

彼らが本気になったら、ロロナがプロジェクトで動いていたときのように。アーランドを機能麻痺寸前にまで追い込むのも難しくは無いのだ。軍隊を動かすだけが、国の力ではないのである。

とにかく、今は敵の動きがわかった以上、先手を打つ必要がある。

前のように。

好き勝手には、させない。

「一度アーランド王都に戻るよ。 準備して」

「しかし、よろしいのですか」

「優先順位最高の問題だから」

「わかりました」

ホムンクルス達が、撤収準備を始める。

ロロナは素早く状況を整理しながら、思考を巡らせる。次のトトリちゃんにさせる仕事の時が最大の危険を孕む。

今、国内の敵諜報用ホムンクルスはあらかた排除できていると聞いている。しかしその優位も、レオンハルトが本気で前線に出てきたら、一瞬でひっくり返されかねない。

出来るだけ、対策は。

急がなければならなかった。

 

(続)